2017-02

1・30(日)東京芸術劇場シアターオペラvol.5
井上道義指揮・演出 マスカーニ:「イリス」

   東京芸術劇場  3時

 女衒の名が「京都」、芸者買いの富豪の名が「大阪」、芸者イリスが吉原の回廊から投身するとそこは富士山麓・・・・というヘンなオペラだが、第3幕にいたるや突如として「生と死」を考える哲学的な内容に様変わりするのがミソ。
 だが音楽はすこぶる美しい。「カヴァレリア・ルスティカーナ」とは全く異なって、もっと叙情的で思索的なところがあり、最初と最後の「太陽讃歌」などはすこぶる壮大な趣きがある。

 このプロダクションは、東京芸術劇場・読売日本交響楽団および京都コンサートホール・京都市響の共同制作。2月20日には京都でも上演される。
 3年前にも東京芸術劇場で上演されていたはずだが、私が観るのは今回の再演が初めてだ。

 セミステージ形式としてはかなり手の混んだ舞台になっており、衣装(和装)も華麗なので、見映えがする。
 演技もそれなりに工夫が凝らされていて、登場人物すべてが「日本人役」ゆえに、両手を拡げて歌うといった妙にバタ臭い仕草も無く、自然な動作になっているところがいい。
 舞台には人形師や三味線・太鼓・笛など邦楽奏者も登場する趣向もある(これらはちょっと中途半端な扱いだったが)。いかにも井上道義好みのスペクタクル志向のプロダクションで、いっとき観客を愉しませる舞台である。

 その彼の指揮する演奏も壮大だ。一部を客席にまで拡げて配置したオーケストラを轟々と鳴らし、大きなエスプレッシーヴォで歌わせる。いつもながらの筋肉質系の引き締まった響きと才気に満ちた表情だが、その一方でどこかクールな、透き通るような感性をも漂わせているというのが井上の指揮の特徴だろう。
 それゆえ、以前彼が指揮したプッチーニにおけると同様、このマスカーニの音楽からも、叙情的に交錯する旋律線の美しさが浮彫りにされる。脂ぎった情熱の色ではなく、白色の光に照らされたダイナミズムとでもいった音楽になる。その辺がイタオペ・ファンの間では好みが分かれるところだろうが、私は井上のイタリア・オペラを、一つのスタイルとして支持したい。

 読売日本交響楽団も、武蔵野音楽大学の合唱も、非常な好演で聴き応えがあった。

 歌手陣もいい。
 イリス役の小川里美が容姿・歌唱ともに舞台映えする存在で、悲劇のヒロインにふさわしい。演技の面では、受身に生きる女なのか、あるいは逆境にじっと耐えるシンの強い女なのか、そのあたりをもう少し突っ込んで表現すればなお感動的になったろう。今回の演技では「昔ながらの日本人的な女の美しさ」を視覚的に表現することに重点が置かれていたようだったが、それはそれで成功している。

 強烈な声で演奏と舞台を引き締めていたのが、イリスの父親チェーコを歌ったハオ・ジョン(中国出身、二期会)。女衒の京都役を歌ったのは晴雅彦(関西二期会)で、今回は演技・歌唱ともに出色の出来である。
 その他、共演は、大阪にワン・カイ、芸者とディーアに市原愛、冥界のくず拾いに西垣俊朗ら。

 字幕も井上道義とクレジットされていた。やや言葉が多いようにも感じられたが、とりあえず解り易い。ただし、女衒を関西弁にしたのは、京都との共同制作だからか、井上の解釈ゆえかは知らないけれども、視覚的には些か煩わしい。
 それに、イリスが投身自殺する前の悲嘆の叫び声まで字幕に出す必要はなかろう。そういう字幕は、時たまある。以前にも東京フィルの「オペラ・コンチェルタンテ」の「ムツェンスク郡のマクベス夫人」だったかで、「キャーッ」という悲鳴までを字幕に出して、観客の音楽的な衝撃を吹き飛ばし、白けさせた例があったし、何かの来日オペラの字幕では「ワッハッハッハ」という笑い声までいちいち字幕に出して煩雑さを増したこともあった。過ぎたるは及ばざるが如し。
 5時45分終演。

1・29(土)シズオ・Z・クワハラ指揮日本フィルハーモニー交響楽団

   サントリーホール  2時

 シズオ・Z・クワハラは34歳。両親は日本人で、東京生まれだが、現在の国籍は米国だそうだ。バージニア響正指揮者を務めたことがあり、現在はジョージア州オーガスタ響の音楽監督に在任中の由。

 彼が今日指揮したプログラムは、ウィリアム・シューマンの「アメリカ祝典序曲」、スティーヴ・ライヒの「管楽器、弦楽器とキーボードのためのヴァリエーション」、ストラヴィンスキーの「春の祭典」。

 1曲目と3曲目では、実に凄まじく、痛快無類なほどにオーケストラを轟々と大音響で鳴らす。これは、この指揮者の、米国で育まれた感性なのだろうか? 
 一昔前の日本の批評なら、こういう指揮は「乱暴だ」とか「大きな音を出せばいいってもんじゃない」とか言うだろう。だが私はむしろ「大きな音を出さなければいいってもんじゃない」と言いたいところで、演奏に良い流れがあれば、大音響もそれに美点を添えるものになるのではないか、と思っている。

 ライヒの作品を、この2曲の間に挿入したのもよいアイディアであろう。滅多に聴けない作品だが、これが日常の定期公演の曲目として、しかもこういうプログラム構成で取り上げられれば、「現代音楽」に尻込みしている聴衆の「耳に触れる」好い機会になる。
 しかも非常に耳当りのいい曲だし、「同じことばかり延々とやっているんじゃないの」という不満は与えたとしても、それ以上に一種の不思議に快い時間の魅力を感じてもらえるのではないかと思う。

 それにしても、キーボード奏者たち、とりわけ同じモティーフを弾き続ける電子オルガン奏者には、お疲れさまを申し上げたい。

 私はあれを聴きながら、1970年の大阪万博の鉄鋼館で、テリー・ライリーの「イン・C」が日本初演された時のことを思い出していた。
 その時には、「ハ」音のみをかなりの速度で数十分間弾き続けるはずの日本人女性ピアニストが(予定外か想定内か知らないけれども)途中でダウン、ルーカス・フォスがそれを引き取って弾き続け、しばらくしてまた彼女が復帰して――という場面があった。また、同じモティーフがモワレ効果で延々と反復される可笑しさに、聴衆がこれ見よがしにゲラゲラ笑い出す一幕もあった。

 しかし、今日の奏者たちはビクともせずに弾き切っていた。聴衆(客席はほぼ埋まっていた!)も、もちろん笑い出すようなことはなかったのである・・・・。

 演奏に関しては  音楽の友3月号演奏会評

1・26(水)クリスティアン・アルミンク指揮新日本フィルハーモニー交響楽団

   サントリーホール  7時15分

 昭和音大のシンポが終ったのが6時少し過ぎ。6時15分にクルマで新百合ヶ丘を出たが、東名と首都高3号線とがいずれも流れよく、多分開演時間には間に合わないだろうと思っていたサントリーホールに、7時に着いてしまった。新日本フィルの定期の開演が常に7時15分だということも幸いした。

 今夜の定期のプログラムは、ラヴェル、プーランク、フランクというフランス(系)のレパートリー。アルミンク指揮の定期としては、現代ものが一つも入っていないのは珍しいかもしれぬ。

 ラヴェルの「高雅で感傷的なワルツ」は、結構雰囲気のある演奏だったものの、8つの部分が組曲のように切り離されて演奏されるのにはやはり抵抗感がある。
 ただ最後の「エピローグ」で、普通の演奏にはあまり例のない、不思議な暗さが音楽を覆っていたのが印象に残った。こういう解釈の演奏もありだな、という驚きと感嘆。これはアルミンクの卓越した感性のなせる解釈だろう。

 プーランクの「2台のピアノと管弦楽のための協奏曲」では、トルコ出身の双児姉妹ピアノ・デュオ、フェルハン&フェルザン・エンダーが演奏。見かけほどには色気のない演奏をするコンビだが、むしろアンコールで弾いたピアソラの「リベルタンゴ」での闊達さの方に魅力がある。

 後半は、フランクの「交響曲ニ短調」。
 仁王のようなフランクというか、豪壮な力感を備えた、筋肉質で厳しい造型を持った演奏になった。アルミンクでもこういう指揮をするのか、という意外感。
 これは、フランクの音楽のがっしりとした構築面に着目し、それを強調したアプローチと言えよう。しかし、音楽のつくりは明晰で、特に低音域を中心とする内声部の動きがはっきりと聴き取れる面白さもあり、快演であった。

 新日本フィルも好調な水準に在る。木管もいいが、弦楽器群の柔らかい量感と豊麗さと、表情の豊かさは特筆されるだろう。
 

1・26(水)シンポジウム「オペラ字幕のありかたを考える」

  昭和音楽大学 テアトロ・ジーリオ・ショウワ  3時

 「字幕」は、もはや「演出」の一部である――とは、今日オペラ愛好家たちの多くが一致して抱いている考え方だろう。
 字幕が舞台にふさわしく、解りやすく、要を得て出来ていればドラマに迫力が感じられるようになる。その逆であれば、観客は苛々して白けてしまう。
 今や歌劇場では、字幕は音楽と舞台に次いで重要な存在となっている。

 「昭和音楽大学舞台芸術センター オペラ研究所」が主宰するこのシンポジウムに興味をそそられ、新百合ヶ丘の昭和音大まで出かけてみた。1階席のほとんどが埋まるという、なかなかの盛況である。
 パネラーは戸田奈津子(映画字幕翻訳者)、増田恵子(オペラ字幕制作者、松本重孝(演出家)、広渡勲(昭和音大)、石田麻子(同、進行)の諸氏。

 「愛の妙薬」の一部を、三浦克次(Br)と成田瞳(S)が巨瀬励起のピアノ伴奏で歌い、これにいろいろなタイプの字幕――直訳体、読み替え文、流行語取り入れスタイル、漢字の多い文体、平仮名の多い文体など――を順番に当てはめ、その功罪と効果を探るという実験なども行われて、すこぶる面白かった。

 特に戸田奈津子さんが披露した「直訳文から映画字幕用文章への再構築」の一例では、その鮮やかな手際に舌を巻かされたが、同時に彼女が述べた「観客は、字幕そのものを読むのが目的で劇場に来るのではない。そこを履き違えてはならない」という自省の言葉にも強く印象づけられる。

 なお今日は、字幕ディレクターの稲葉和歌子氏と、字幕送出担当の相馬大祐氏とが、音楽に合わせて字幕を操作している様子を舞台後方で見せていた。あの寸分違わぬタイミングで字幕を送り出す恐るべき緊張の作業を見たら、あだやおろそかに字幕を見過ごすことはできなくなる。

1・24(月)ヨナタン・シュトックハンマー指揮東京都交響楽団

   東京文化会館大ホール  7時

 「日本管弦楽の名曲とその源流」の、18日のそれに続く第12回。
 演奏された曲は、西村朗のサクソフォン協奏曲「魂の内なる存在」および「幻影とマントラ」。「つけ合わせ」は、アンドレ・ジョリヴェの「ハープと室内管弦楽のための協奏曲」および「ピアノ協奏曲」。
 ソリストにはそれぞれ須川展也、吉野直子、永野英樹――随分いい顔ぶれを揃えたものである。

 LP時代に結構夢中になったジョリヴェの協奏曲を、久しぶりに、しかもナマで聴けたのはうれしい。あのレコードは、今では行方不明になってしまったが、ハープはラスキーヌ、ピアノはたしかアントルモン、指揮はジョリヴェ自身だったか?
 「ピアノ協奏曲」は最初から最後までドッシャンガッシャンやっている曲で、当時はまだ「赤道コンチェルト」という副題が残っていて、われわれもその題名と騒々しい曲想との関連を面白がっていたものだったが、――しかしこれは、たとえあのレコードにおけるパリ音楽院管弦楽団の洒落た味のようなものはなくても、やはりこうしてナマで聴く方が面白い。

 西村朗の2つの作品のうちでは、「幻影とマントラ」が、音響の多彩さの面で私は気に入っている。
 「サクソフォン協奏曲」の方は、須川展也の鮮やかな名技は別として、今の体調で聴くのは正直言って辛いものがある。この曲でのソロ楽器とオーケストラの鋭い叫びは、今の神経痛にとっては非常に苦しい。「神経に障る」という表現は、これまでは単なる言葉の綾かと思っていたが、文字通り肉体的な現象でもあることが初めて解った。

 終演は9時半近く。ホールを出てみれば、珍しく土砂降りの雨、少しミゾレも交じっていたか。足を引き摺りながら、びしょ濡れになって駐車場へ向かう。
 

1・22(土)読売日本交響楽団第500回定期演奏会 下野竜也指揮

  サントリーホール  6時

 「腰と脚に悪い」ダブルヘッダーを2か月ぶりに再開。各駐車場との距離(まだ脚が痛く、歩くのにも時間がかかる)も考慮してオーチャードホールを早めに飛び出したのだが、土曜日夕方とあって、15分足らずでホールに入れてしまった。これならアンコールを聴いてからでも良かったな、などと言うのは結果論。首都高3号線上りが渋滞でもしていたら、精神衛生上、悪い。

 記念すべき500回定期を、正指揮者の下野竜也が指揮する。
 リストの「ファウスト交響曲」が入っているこの定期は、以前から聴きたいと思っていたものだ(昨日の沼尻=京都市響のこれも、体調さえ良ければ当然聴きに行っていたところだ)。
 
 前半には、読売日響の委嘱作、池辺晋一郎の「多年生のプレリュード」が初演された。演奏時間約15分の、大編成の曲である。
 作曲者はプログラム・ノートの中で、「地を這うような、あるいは重く沈潜していくような頑迷な『現代音楽』でなく、明快なエネルギーが噴出し、多年生植物の上に更に広がる未来を感じさせるような音楽にしたいと思った」と書いている。いかにも氏らしい表現だ。
 曲は、晴れやかな序奏で始まり、次に勢いよく「本題」に入る。このあたりはTVの大河ドラマのテーマの手法にもそっくり。あれこれ考えずに、いっとき楽しめる曲であろう。その点で、後半の晦渋な「ファウスト交響曲」と一対を為す。

 そのお目当て、「ファウスト交響曲」は、下野と読売日響の総力を挙げた演奏となった。
 下野は、彼らしく、些かも手を緩めることなくがっちりと構築した。そのため、ただでさえ渋い大曲が、いっそう厳めしく聞こえる。第3楽章で、ファウストの「理想と高揚」を象徴する主題がメフィストフェレスにより完全に茶化された形になってしまう個所では、下野は激しいテンポを採って効果を上げるが、しかし基本的には、やはりシリアスなアプローチである。

 第1楽章でのファウストの苦悩は、今回の演奏ではいよいよ深刻に描かれており――「苦悩」というより「絶望」に近くなっていたか?――、しかし下野氏ご本人は楽屋で「ちょっとやり過ぎかとも思ったけど、でもあのようにやった」と確信を以って語っていた。その意気や好し。
 ともあれ、聴き応えのある熱演であった。
 男声合唱は新国立劇場合唱団、テノール・ソロは吉田浩之。

 終演後、下野竜也、江川紹子、西村朗、片山杜秀の各氏および読売日響の横田理事長(進行役)によるアフタートークが舞台で行われ、少なからぬ聴衆を集めた。
 「今日のオーケストラに何を求めるか」というのがテーマだったらしいが、もともとこのような大問題を4人が50分程度で論ずるのは至難の業だ。少なくとも、すぐさま本題に入った方がいい。「今日の日付を答えるのに暦の歴史から説き始める」ような構成では、尚更時間が足りなくなる。
 所謂「名曲」でない珍しいレパートリーや現代音楽を積極的に取り上げていることについて下野氏が述べた「僕はそれらを『今』のために演奏するよりも、『次代』のために演奏するのです」という言葉が強く印象に残った。

 進行役は締めの中で、オーケストラをやって行くには「こういう難しい問題」が存在することを聴衆に理解して欲しいというニュアンスの言葉を述べていた。が、私はむしろ、今日の状況の中で読売日響側がどう考えているのか、この日の下野氏や江川氏の意見をオーケストラがどのように受け取るのか、といったことの方を知りたいと思った――。

  ⇒モーストリー・クラシック4月号 オーケストラ新聞
 

1・22(土)ショパン・コンクール入賞者ガラ・コンサート

   オーチャードホール  2時

 昨年の「第16回ショパン国際コンクール」の入賞者ガラ・コンサート。
 ユリアンナ・アヴデーエワ(第1位、露)、ルーカス・ゲニューシャス(第2位、露/リトアニア)、インゴルフ・ヴンダー(第3位、墺)、ダニール・トリフォノフ(第3位、露)、フランソワ・デュモン(第5位、仏)が出演。
 第4位のエフゲニー・ポジャノフ(ブルガリア)は来ていなかった。なお今回は、第6位は空席だった由。

 各人各様、時にはお国柄も反映した演奏もあって、興味深い。
 聴いた私の印象が、コンクールでの順位とぴったり合致していたというのも珍しいケース。面白かった。

 プログラム冒頭に登場したトリフォノフ――彼だけはピアノにスタインウェイでなく、ファツィオリを使用したようだが――は、実にソフトで自然な「協奏曲第1番」を聴かせ、その代わりにアンコールで自作の華麗でラフマニノフ風の小品を披露するという作戦(?)に出た。
 2人目に登場して「即興曲第1番」「スケルツォ第2番」「黒鍵」(アンコール)を弾いたデュモンは、これはまたフランス風というのか、すこぶるエレガントで優しいが、少々メリハリに欠けるところが平板な印象を与えるとも言えようか。

 3番目に「幻想ポロネーズ」を弾いたオーストリアのヴンダーは、まさに隙のない、均衡のとれた構築の安定感に満ちた演奏。真面目そのものといった感。
 だが彼の場合は、アンコールで弾いたヴォロドス編曲によるモーツァルトの「トルコ行進曲」の方が、余程面白い。

 4人目に第2位のゲニューシャスが登場すると、音色にもキラキラした華やかさが加わって来る。「ポロネーズ第5番」と、「練習曲」からの「作品10の2」「25の4」「木枯し」、および「ワルツ作品34-3」(アンコール)を演奏した彼は、いかにも少年っぽい(20歳!)風貌挙止ながら意気揚々たる雰囲気。粒立ちの良い響きとブリリアントな表情で勢いの良いショパンを聴かせた。興味をかき立てられるピアニストである。

 真打のような形で「協奏曲第1番」を弾いたアヴデーエワ(第1位)は、さすがにひときわ抜きん出た存在と言うべきか。
 表情も多彩で、テンポとデュナーミクにも自在で精妙な良さがある。第2楽章(ロマンツェ)は、その精妙さが如実に発揮された箇所であろう。テンポを極度に落して細部に工夫を凝らし、のめりこむように歌って行く。また第3楽章で曲が薄紙を剥ぐように明るさを増して行く個所に聴かせたニュアンスの細かさなども、すこぶる見事なものだった。
 協演したアントニ・ヴィット指揮するワルシャワ国立フィルがきわめて穏健温厚なサポートをしていたため、ソリストの自在さとの間に何となくギャップがあるようにも感じられたのだが、もしオケがもっと颯爽とした若々しい演奏で付けたとしたら、彼女ももっと振幅の大きい音楽をつくったのではないか、という気がしないでもない。

 この演奏が終った時点で、時間は既に5時を過ぎていた。次のサントリーホールの開演時間が迫っていたので、残念だったが彼女のアンコールは聴かずに失礼する。

1・18(火)ヨナタン・シュトックハンマー指揮東京都交響楽団

   サントリーホール  7時

 この指揮者は初めて聴いたけれど、なかなか良い。歯切れのいいリズム感で、明快な音楽を鮮やかに組み立てる。
 国籍や生年などは都響のプログラムにも彼のHPにも掲載されていないのでよく判らないのだが、見たところ若手なのだろう(?)。現代音楽を得意とする人だそうで、その方面でのキャリアは赫々たるものだ。
 今日の演奏会でも、その実力は遺憾なく発揮されていたと思われる。

 プログラムは、前半にプーランクの「牝鹿」とダルバヴィの「ヤナーチェクの作品による管弦楽変奏曲」、後半に権代敦彦の「ゼロ」と田中カレンの「アーバン・プレイヤー」。

 都響が行なっている「日本管弦楽の名曲とその源流」の一環だが、定期公演としては随分大胆な選曲だ。
 いや、定期だからこそ、時にこういう意欲的な路線を打ち出す責任があるというものだろう。潤沢な制作費を持ちながら定期でも名曲しか演奏しない何処やらの大放送交響楽団には、このオケの爪の垢でも煎じてお飲みいただきたいくらいである。

 「牝鹿」冒頭から、演奏には活気と熱気が漲る。
 シュトックハンマーの引き締まった指揮も良いが、都響の演奏が実に良い。刻まれるリズムにも弾力性があふれ、アンサンブルもしっとりしている。この曲では花形となるトランペットも快調。名曲ながら日本では滅多に演奏されないから、取り上げてくれたことは有難い。
 この2、3年来、都響は本当に安定したオケになった。これで音色にもう少し色彩が加われば文句ないのだが、日本のオケだから、ある程度の淡彩さもその個性として割り切らなくてはならないのだろう。

 フランスの現代作曲家ダルバヴィの曲は、2006年にサントリーホール委嘱作品として初演されていたもの。ヤナーチェクの「霧の中で」の1曲を原曲としている。
 静謐な音調の中に籠められた緊張感と、時にそれを破るミステリアスな衝撃との対比を、シュトックハンマーは巧みに描き出した。そして、特にこういう曲想の場合には、都響の溶け合ったアンサンブルがものを言う。
 今夜随一の快演と言っていい。

 権代の「ゼロ」(2006年完成)は、ストラヴィンスキーやメシアンの余韻も一瞬顔を覗かせる、鋭く緊迫した曲想を持つピアノ協奏曲だ。
 「ゼロ」とはあの「グラウンド・ゼロ」や「皆空」とも関連する意味とのことだそうだが、作曲者が書いたプログラム・ノートよりも、実際の音楽の方が遥かに(失礼!)直裁に心に迫って来る。大編成の管弦楽は雄弁多彩で、次第に「ゼロ」に収斂したあと再び拡大して行く流れも極めて起伏が大きく、強い印象を与える。
 曲の中ほどでオーケストラが沈黙し、ソロ(向井山朋子)の鮮やかなピアノと、オーケストラの中に在ってエコーのように響くピアノだけが残る個所が「ゼロ」か? そこはすこぶる凄味のある時間だ。そのあとで管弦楽が拡がって行くあたりも、この作曲家らしく、なかなか強烈である。
 ただし、題名の意味するところと、激烈な曲想とが、どうもあまり結びつかないのが不思議だ(むしろ正反対のイメージもある)。そういえば、先日サイトウ・キネン・フェスティバルで聴いた「デカセクシス」でもそうだったが・・・・。

 田中の「アーバン・プレイヤー(都会の祈り)」は、チェロ協奏曲(ソロは古川展生)だ。前者とは対照的な「癒し系」の音楽で、響きも終始柔らかく、快い。吉松隆のそれに似ている。特に、瞑想的な第2楽章は祈りにも通じて美しい。

 この邦人作品2曲における、シュトックハンマーと都響のメリハリ豊かな演奏は見事だった。もし凡庸な演奏だったら、あの「反復される音」が単調に聞こえかねないという要素もあったからである。
 聴衆の拍手は後者に対しての方が大きく、やっぱりそうか、という感があったが、私個人の好みからすれば、スリリングな「ゼロ」の方に魅力がある。

 プレトークでは、この2人の作曲家が火花を散らすような雰囲気が出て来て面白かった(ヘンな予定調和にならなかったのがいい)。
 しかしこの2曲、スタイルは正反対であるものの、結局は「祈り」の精神という一点で表裏一体、共通しているのではなかろうか。その意味では、2曲が一夜の演奏会で、しかも続けて演奏されたことは、興味深い結果を生んだように思われる。

(追記)このブログアップのあと、都響事務局から入った話によれば、この指揮者はアメリカ国籍とのこと。そうすると「ジョナサン・ストックハンマー」か? ドイツでの活躍が長いので、事務局ではドイツ語読みの表記にしたそうだが、ご本人も「それでいい」とか。


1・17(月)エレーヌ・グリモー・ピアノ・リサイタル

   サントリーホール  7時

 モーツァルトのソナタ第8番イ短調K.310、ベルクのソナタ、リストのソナタ、バルトークの「ルーマニア民族舞曲」――という、先日出たCD「レゾナンス」と同じ配列の選曲。

 ディスクに録音された演奏も鮮烈だったが、ナマで聴く演奏は更に強烈だ。
 モーツァルトの「イ短調ソナタ」など、冒頭から悲劇的な激情が爆発するといった感がある。一つ一つの音に強く鋭い意思力が籠められていて、それらが交錯しつつ嵐のような勢いで進んで行くのだから、聴く方も対決姿勢で臨まなければ蹴散らされてしまいそうな心境になる。

 しかし、この怖しいモーツァルトが、何と充実感を呼ぶことか。私はこういうモーツァルトに限りない魅力を感じる。
 そして、その後に続くベルクのソナタが、あたかもモーツァルトと同時代のそれのような――むしろモーツァルトのソナタがベルクと同時代の、と言ってもいいだろう――容貌を備えて甦って来る。
 こうした鋭角的なアプローチを以てこの2曲を組み合わせたグリモーの音楽観と選曲眼には、全く敬服せずにはいられない。

 休憩後のリストとバルトークの作品が、これまた何と、兄弟のようにぴったり結び合っていることか。これもCDにおけると同様、グリモーの類い稀な選曲眼の表れである。

 4曲全体が一つのソナタのような関連性を持たせながら構築されていたため、それが完結したあとに演奏されたアンコール曲からは、あたかも「激動の時代」を一篇の白昼夢のごとく見た後に我に還った時のような印象を与えられてしまった。そのアンコールとは、グルックの「精霊の踊り」と、ショパンの「3つの新練習曲」からの「第1番ヘ短調」。
 この2曲でのそこはかとない陰翳は、激動に充ちた本編への追憶――と解釈できるかもしれない。が、それは少々こじつけになるだろう。
 

1・14(金)渡邊一正指揮東京フィルハーモニー交響楽団

   サントリーホール  7時

 大野和士までが頚椎の故障でダウン。
 わが国のエース指揮者2人が、それぞれ腰椎と頚椎の障害で、一時的にせよ戦列を離れるという事態。これはやはり大変なことである。

 今日の定期は、東京フィルの指揮者陣の一角を占める渡邊一正が代役を務めた。彼の指揮を久しぶりで聴いてみたかったし、望月京の新作も聴いてみたかったので、こちらも腰痛・足痛を堪えながらホールへ向かう。

 望月京の新作は、東京フィルの100周年記念として委嘱されたもので、題名を「むすび」という。握り飯のことではない。さまざまなものがひとつに結び合うという意味である。
 20分弱の長さの大編成の作品で、雅楽のイメージも織り込まれ、本来はなかなかの多彩な曲と思われる。

 本来は――などと書いたのは、今日の演奏を聴く限りでは、オーケストラの鳴り方が些か平板で、特に前半、同じ雰囲気が延々と続き、単調な印象を与えられたからだ。
 さよう、本来は、作曲者がプログラム・ノートの中で「・・・・弦楽器の響きは、異なるシステムによって展開してゆき、さらに、ご祝儀舞である寿獅子の引用など、さまざまに生起する別次元の音楽層が同じ空間のなかで結ばれることによって・・・・」と書いているとおり、もっと色彩が多様に変化するはずの曲ではなかったのだろうか。

 たとえば木管群が舞のリズムで加わって来るところなど、あたかも地平線の彼方から踊りの集団が浮き出て、次第に近づいて来るようなイメージの演奏になっていたらどうだったか? 
 そして打楽器が多彩な音程を持った鼓として入って来る個所でも、弦を含めた管弦楽全体の響きはさらに明るく変化して行くはずではなかったのか? 
 私はたった1回しか聴いていないから、これらは、あくまで想像でしかない。
 だが、ただ几帳面にイン・テンポで音をなぞるような演奏でなく、もっと心からの共感を以って演奏されれば、さらにめくるめくような美しい作品として楽しめたのではあるまいか――と、非常にもどかしい思いで聴いていたことは事実である。

 これは、オーケストラのせいではなく、やはり指揮者の責任になるだろう。
 早い話、その他のプログラム――ショスタコーヴィチの「第6交響曲」と、プロコフィエフの「第5交響曲」でも、あまりにイン・テンポで、あまりに淡々と指揮されるので、私は些か呆気に取られた。音響こそ壮大だが、演奏に伸縮がなく、生きた躍動が全く感じられないのだ。
 プロコフィエフの後半では、その欠陥がどうしようもないほど露呈してしまった。第3楽章では、作曲者がそこにこめたはずのミステリアスな緊迫感も失われていた。さらに第4楽章の序奏に入った瞬間にも、何か新しいことが始まったというイメージが全然感じられない。ただ機械的に曲が流れて行くのみであった。
 したがって、すべてが単調極まりない演奏に終始してしまったのである。
 失礼な言い方で申し訳ないが、一体この人は、どういうつもりで指揮しているのだろうと思う。

 しかしこの2曲では、オーケストラの方は、それを補って、見事におのれの役割を果たしていた。あたかも、指揮者がだれであろうと自らの実力を発揮して見せよう、といわんばかりの演奏を繰り広げていた。
 コンサートマスターの荒井英治以下、今日はメンバーも「揃っていた」らしく、技術的にも破綻のない演奏を聴かせてくれた。厚みのある、ブリリアントで豪壮雄大な響きも魅力的だった。
 そこからあとをどうするかは、指揮者の領域に属するだろう。
 

1・13(木)METライブビューイング ヴェルティ「ドン・カルロ」

  東劇(東京・銀座) 6時

 昨年12月11日上演のライヴによる劇場上映用映像。
 ヤニク・ネゼ=セギャン(セガン)指揮、ニコラス・ハイトナー演出。
 主役陣は、ロベルト・アラーニャ(王子ドン・カルロ)、マリーナ・ポプラフスカヤ(王妃エリザベッタ)、フェルッチョ・フルラネット(フィリッポ2世)、サイモン・キーンリイサイド(侯爵ロドリーゴ)、アンナ・スミルノヴァ(エボリ公女)、エリック・ハルヴァルソン(大審問官)。

 歌唱面でも演技面でも、男声陣の方が圧倒的に強い。
 とりわけ老練フルラネットの風格は健在で、全盛期を過ぎた声を巧みな表現力でカバーしていた上、国王としての、あるいは父親としての苦悩を滋味あふれる演技で描き、堂々と舞台に君臨していた。一途な性格を示すキーンリイサイドとの火花を散らす応酬場面も見応えがある。
 アラーニャも、見事に調子を取り戻したようだ。めでたい。

 ハイトナーの演出はストレートだが、演技の表現は非常に微細で、人間の感情の機微を巧みに描き出す。今回のカメラワークがなかなか巧みで、これら微妙な人間関係を適切に捉えていたのもありがたかった。

 ネゼ=セギャンの指揮は、この録音で聴く範囲では、さほどグランドオペラ的な壮大なスタイルではなく、むしろじっくりとドラマを物語るといったタイプである。
 だが彼への観客の反応が変わって行くのが面白く――最初登場した時には、いかにも「馴染みの少ない指揮者」に対するそれらしく、拍手もそこそこのものだったが、幕ごとにその拍手が大きくなり、最後にはブラヴォーの声も大きく交じるものになった。ライジングスター指揮者の一角を成す優秀な若手がMETでも評判を高めているのは祝着である。

 休憩時間に挿入されるアーティスト・インタビューが、例によって面白い。
 それにしても外国のオペラ歌手は、みんなそれぞれの役柄の性格や掘り下げについて、実に雄弁に、要領を得て話す。これには感心させられる。
 進行役のデボラ・ヴォイトも、本当に上手くなった。
 終映は10時20分。

 ハイトナー演出のこの舞台、すこぶる見ものだったが、この夏にMETが日本公演に持って来るのはこれではなく、ジョン・デクスター演出の、華麗な旧プロダクションだ。とはいえ配役に関する限りは、日本公演の顔ぶれの方が、2倍も3倍も魅力的だろう。
 

1・12(水)アリス=紗良・オット・ピアノ・リサイタル

   東京オペラシティコンサートホール  7時

 今回のツァー・リサイタルは、9日から17日までの間に横浜・高崎・東京・名古屋・びわ湖・札幌・福岡を回る由。
 プログラムは同一で、前半はメンデルスゾーンの「厳格な変奏曲」、ベートーヴェンの「ワルトシュタイン・ソナタ」、後半はショパンの「作品34のワルツ」3曲、「作品64のワルツ」から第1番と第2番、「スケルツォ第2番」。

 「ワルトシュタイン」は最近のCDでも聴いたばかりだが、ナマの方がホールの残響の所為もあってか、余程流麗な演奏に感じられる。
 第1楽章の4小節目の高音部の音型が、よく言われるような「電光のような(激しい)閃き」ではなく、まるでエコーのように柔らかく優しく響くのはCDでの演奏とほぼ同じだが、そのあとの第9小節以降あるいは第23小節以降の16分音符の走句は、もっと軽やかに快速に、目まぐるしく流れて行く演奏に変わっていた。

 再現部に向かってクレッシェンドしつつ上昇を重ねる部分は、ベートーヴェンのピアノ・ソナタの中でも屈指の英雄的で闘争的な音楽だが、今日の演奏では、此処にも荒々しさなど更に無い。むしろ音楽が優しく盛り上がって行く感じを受ける。

 こういう優麗な「ワルトシュタイン」も、意外性があって興味深い。
 ただ、演奏を聴いていると、何となく作品の造型と彼女の情感とが、どこかで肉離れを起こしているように感じられてならないのだが、――それが彼女の今の芸風なのか、あるいはたまたま今日のコンディションによるものだったのかどうか、即断はし難い。

 一方、第2楽章では、曲想にふさわしい沈潜した深みが全く感じられなかったのが残念だ。
 ロンド楽章に入った瞬間、多くのピアニストは前のアダージョ楽章からゆっくりと移行するように、新しい陽光が立ち昇って来るような感じで主題を弾き始めるものだが、アリスは、もはや先立つアダージョの思い出にこだわることなく、すっとアレグレットの世界に入ってしまう。こういうところが、若い女性ならではの割り切り方なのか? 
 いずれにせよ、あまり共感はできないけれども、目新しい「ワルトシュタイン」だったことは事実だ。

 ショパンも、なかなかユニークな演奏である。特にワルツでは、先ごろ録音されたCDとは全く異なり、そこここに精妙な趣向を織り込んでいた。
 「34の1」の第25小節からの8小節間では、主題の旋律と同等に左手の3拍子のリズムを強く出し、音楽に思いがけない複雑な響きを与える。こういう演奏は「64の2」でも聞かれた。CDでの演奏では、ここまで極端なことはやっていない。
 もしかしたら彼女は、別の日にはまた違うスタイルで弾くのかしらん? 

 実はこのショパンでも私は、CDで聴いた彼女のワルツ集の、自然で瑞々しい感興と、凝縮された均衡とを好ましく思いながら、今夜の演奏と比較していた――。
 ありていに言えば、今日の演奏全体には、彼女が自ら織り込んだ精妙さに足をすくわれているような傾向も感じられたのだ。それが一種のもどかしさをも生んでいたのである。
 あるいは彼女は、ある意味での転換期にさしかかっているのではないのか――と、何となく気にもなったのであった。

 アンコールは、ショパンの「ノクターン第20番嬰ハ短調」(遺作)とリストの「ラ・カンパネッラ」、最後にベートーヴェンの「エリーゼのために」。
 

1・11(火)オーケストラ・アンサンブル金沢東京公演
ニューイヤーコンサート2011

    紀尾井ホール  7時

 オーケストラ・アンサンブル金沢(OEK)は、「ニューイヤーコンサート」をツァーで開催している。6日に本拠の金沢で演奏したあと、富山、滋賀、岐阜、東京、大阪と廻る由。盛んなものだ。
 このあとには3月に定例の名古屋・東京・大阪での公演もある。地方オーケストラの中でも、これだけ「足の長い」オケは稀だろう。40人程度の編成という身軽さも強みなのかもしれない。

 今日は前半に、コンサートマスターのマイケル・ダウスがリーダーとなり、ピアソラの「ブエノスアイレスの四季」(デシャトニコフ編曲)および「オブリビオン」(アンコール)を演奏した。
 弦楽アンサンブルはもう少しリズムが軽くてもいいのではないかとも思わせたが、しかし嵐のような躍動には痛快なものがあった。なによりダウスのソロはスケールが大きい。鮮やかなものだ。

 後半は、音楽監督の井上道義がトークと指揮を受け持ち、J・シュトラウスの「こうもり」序曲を甚だ賑やかに演奏して幕を開け、以下バルトークの「ルーマニア民族舞曲」、リストの「メフィスト・ワルツ第1番」、J・シュトラウス兄弟の「ピチカート・ポルカ」、レハールの「パガニーニ」から「カプリッチョ」、レハールの「金と銀」と続き、アンコールとしてレハールの「メリー・ウィドウのワルツ」とブラームスの「ハンガリー舞曲第6番」を聴かせた。
 すべては井上の身振りそのままに、華やかで凝った音楽づくり。そのワイルドな音響は紀尾井ホールを狭く感じさせたほどだ。
 「メリー・ウィドウ」では再びダウスがソロを弾いたが、最前の「オブリビオン」といい、これといい、彼のトロリとした甘い風格(?)の演奏がお見事。

 それにしてもオーケストラ・アンサンブル金沢――国内のオケの中でもずば抜けて個性豊かな存在だ。しかも、その個性を巧みに広く国内にアピールすることにも長けているオケである。
 

1・10(月)成人の日コンサート2011

  サントリーホール  3時

 みずほフィナンシャルグループ主催の「成人の日コンサート第22回」なるものを聴きに行く。
 「成人」に化けて潜り込んだわけだが、そもそも坐骨神経痛で足を引き摺りながら歩いている新成人などあり得まい。この2、3日の激しい冷えで痛みが復活、12月初め頃のレベルに戻ってしまったとは冴えない話だ。この坐骨神経痛なる厄介な代物、1ヶ月で治る人もいれば、3ヶ月、半年、8ヶ月、あるいは2年ほどかかる人もいるそうな。此方は発症して2ヶ月だから、未だ「新参者」の部類か。

 本題のコンサートの方は――。
 最初に三浦一馬(バンドネオン、編曲)と大萩康司(ギター)により、ピアソラの「タンゴ組曲」が演奏された。
 こういう楽器の組み合わせでこの曲を聴いたのは初めてだが、実にサマになっており、あたかも最初からそのために作曲されたかのような印象を与えられるほど。

 替わって鼓童が登場し、「暁」「鬼剣舞」「三宅」「空Sora」を演奏。残響の豊かなサントリーホールであの太鼓群が炸裂すると、流石に物凄い。振動で天井からゴミが一つ二つ落ちて来る光景もおなじみのものだ。プログラム構成としても、前半は静と動の対比という意味で良く出来ている。

 後半には「青年貴族アルフレードの恋」という副題のついた、ヴェルディの「椿姫」抜粋(演奏会形式)。
 音楽の合間に実相寺昭雄のストーリー解説が読まれるというわけだが、この台本はかなり長い上に、ナレーターの茂山逸平があちこち歩き回りながら物々しく気取って語るので、音楽の流れが滞り、劇的な盛り上がりも阻害されること夥しい。悠々と「間」を取って勿体つけて喋るなどという芸は、もっとベテランになり、語り口に味が出るようになってからやった方がいい。

 演奏は、梅田俊明指揮の新日本フィルと栗友会合唱団。ヴィオレッタを中嶋彰子が華麗に歌い、父ジョルジョ・ジェルモンを直野資が落ち着きのある歌唱で聴かせた。アルフレード・ジェルモン役は若い田代万里生、歌唱はまだ修練が必要だ。
 

1・8(土)ワシーリー・ペトレンコ指揮NHK交響楽団

   NHKホール  6時

 「3ペトレンコ」の活躍が目覚しい。
 凄味のあるバスのミハイル・ペトレンコ、バイロイトでの「指環」の指揮とバイエルン州立歌劇場音楽総監督就任とが決まっているキリル・ペトレンコ、そしてロイヤル・リヴァプール・フィル首席指揮者のワシーリー・ペトレンコ。――血縁関係の有無については知らないけれど、とにかくこの数年来、あっちでもこっちでもペトレンコが名を轟かせている。
 3人のうち、ミハイルはわが国でももうお馴染みの存在だが、キリルは残念ながら今のところ未だ来日の予定を聞いていない。

 このワシーリーは、今回が初来日。私も彼の指揮をナマで聴くのは、これが初めてだ。
 N響との相性の善し悪しは別として、彼本人はなかなか良い指揮者と見受けた。
 特にチャイコフスキーの「マンフレッド交響曲」では、彼の特徴がはっきりと聴き取れたように思う。

 第1楽章前半はやや散漫な印象だったものの、劇的なコーダでは、ワシーリーはことさらオーケストラを咆哮させず、やや抑制した表情で、じっくりと悲劇の前兆を描き出すといった手法を採っていたのが興味深い。
 第2楽章にいたってオーケストラとの呼吸も合ってきたのか、リズムの妖精的な軽やかさは出色の出来だったし、エンディングもすこぶるウィットに富むつくりになっていた。そして第3楽章ではオーケストラは均衡を取り戻し、弦を中心にしっとりした響きも生まれ、適度の哀愁をたたえた演奏が聴かれた。

 さらにペトレンコの指揮でいっそう感心させられたのは、第4楽章である。延々と反復されるモティーフが裸形でクローズアップされると、得てしてこの曲は滑稽なものになりかねないのだが、彼はチャイコフスキー本来の管弦楽法を生かし、各モティーフごとに楽器のバランスを多彩に整えて、音楽を変化に富むものにしていた。
 どちらかといえば節度を保った音楽づくりが、この楽章を妙な騒々しさに陥ることから救っていたと言えるだろう。

 全曲の最後では、マンフレッドの救済を暗示した静かな終結の版が使用されていた。もちろん、この方がいい。 だが、エピソード風に挿入されるオルガンは、NHKホール特有の配置ゆえに、オーケストラと全く溶け合わないという欠点をまたしても露呈させていた。毎度のことながら、感興を殺ぐこと夥しい。

 プログラムの前半には、小菅優をソリストに迎えての、ベートーヴェンのピアノ協奏曲第1番が演奏された。
 小菅はきちんと演奏をつくっていて、若き作曲者の持つ野人的な個性よりも、むしろ古典的な側面の方を際立たせる、といったアプローチを試みていたように感じられる。
 ペトレンコの方も端整さを求めた指揮だったのかもしれないが、N響との呼吸が今一つだったのか、あるいは彼の個性ゆえなのか、何となく野暮ったい雰囲気を拭いきれぬ。

  ⇒モーストリー・クラシック4月号 公演Reviews

1・6(木)飯森範親指揮東京交響楽団

   サントリーホール  7時

 リストのピアノ協奏曲第1番とマーラーの交響曲第1番「巨人」を組み合わせたプログラム。「リスト生誕200年&マーラー没100年」と付記されているが、さほど大上段に振りかぶるほどの選曲でもなかろう。

 飯森=東響の「巨人」は、随分前に一度聴いたことがある。
 あの頃の飯森は、いかにも「若武者」の気魄を漲らせ、情熱をいっぱいに噴出させる筋肉質的な指揮で、怖いものなしの雰囲気だった。マーラーでは他にも「3番」や「5番」など、なかなか良い演奏だと思ったものである。
 だがそれからあと、「2番」や「7番」などでは、何か考え過ぎではないのかと訝られる解釈も出て来て、些か戸惑ったことも事実であった。

 近年は東響とのヤナーチェクのオペラや、山形響とのブルックナーなど、見事な指揮に感心させられる機会も多い。だがその一方で、ことマーラーに関するかぎり、彼の意図が今一つ読み取れなくなっていたというのが、正直なところだったのである。

 そこで今回の「巨人」。
 久しぶりなので期待していたのだが、――以前よりは「もって回った」ところのない、ストレートな演奏に戻ってはいたものの、さりとて何か強烈な個性を感じさせるものでもなく、少々落胆させられた。
 表現は悪いが、ルーティン的な演奏の枠を出ない、平凡な「巨人」だったと言わざるを得まい。

 だが、オーケストラの方も、あまり調子がよろしくない。金管の一部にはミスもいくつか聞かれたし、第1楽章【15】でのホルン群のバランスは異様に悪かったし、アンサンブル全体も何か一つ煌きに不足する。
 いわゆる御屠蘇気分の抜けない演奏と呼ばれる類のものであろう。
 しかも第1楽章で、トランペット奏者3人が舞台裏で吹き終わったあと、靴音を立てて入場して来たのは(2階のRB席でさえ聞こえた)、プロのオケとも思えぬ所業だ。

 第4楽章も後半になって、オーケストラは突然まとまりを見せはじめ、音楽もそれに応じて盛り上がって行った。最後は飯森も速めのテンポで轟然と引き締めて終結したが、時やや遅しという感も拭えない。
 このところ東響の演奏を聴いて気になるのは、音楽監督のスダーンが指揮する時と、そうでない時との間に、いろいろな面での落差が多々あるということである。これは、真剣に考慮されるべき問題ではなかろうかと思う。

 前半には、アリス=紗良・オットがソロを弾いたリストの協奏曲。
 予想通り、いわゆる猛烈型でないリスト――叙情的な美しさの特色の方を浮彫りにしたアプローチだ。第1楽章第2主題や「クァジ・アダージョ」の主題では、アリスはあたかもショパンを思わせるような叙情を聴かせてくれた。これは私にはすこぶる快いものであった。

    ⇒音楽の友3月号演奏会評

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