2017-09

10・30(火)相沢吏江子ピアノ・リサイタル

 東京オペラシティ リサイタルホール

 東京オペラシティのリサイタル・シリーズ「B→C(バッハからコンテンポラリーへ)」第95回として行なわれたもの。小さいホールだが、超満員。

 彼女の演奏を初めて聴いたのはほぼ20年前、カザルスホールでモーツァルトの協奏曲を弾いた時だった。あれはまだ彼女が10代前半の頃。大型新人の出現として、大変な話題を呼んだものである。今はニューヨークに居住の由。当然ながら雰囲気も音楽も、別人の趣になっている。今回、久しぶりに聴いて、うたた感ありといったところ。

 プログラムは、バッハの「前奏曲とフーガ」BWV.867、ヤナーチェクのソナタ「1905年10月1日」、モーツァルトのソナタK.330、ジョン・ハービソンの「ギャツビー・エチュード」、マクダウェルの「ゲーテによる6つの田園詩」より3曲、神本真理の「空間に戯れて・・・」(初演)、最後にグリーグのソナタ。
 実に流れのいい曲目構成で、連続して弾かれたバッハとヤナーチェクの作品がこれほど見事に対比されて繋がるのだということを発見できたのもうれしい。モーツァルトも隅々まで神経を行き届かせた演奏であり、それは聴き手が快く身を委ねられるタイプのものというより、変幻自在の緊張を生み出す音符とフレーズの一つ一つに真剣な対決を迫られる表現といったものに受けとれた。ただこの印象は、彼女の意図したところとは、あるいは違っているかもしれないが。
 とりわけ面白かったのは、東京オペラシティ文化財団委嘱作の「空間に戯れて・・・」である。足踏みや声を交えての、リズムとアルペジョの非調和的な組合せの妙。

 こうしたバッハからコンテンポラリーの作品にいたるまで、いずれもこのピアニストの多彩な面を窺わせるものだったが、最後にそれらをすべて呑み込んでしまっての大団円、という印象を与えたのは、グリーグのソナタでの、豪壮豊麗な演奏だった。
 前半では鋭角的な緊迫感、後半では大きなスケール感、というプログラム構成、つまり演奏の対比を生み出す構成もなかなかいい。
 この次は、大きな空間をもつホールで、たっぷりとした響きの彼女の演奏を聴いてみたいものだ。

10・27(土)アレクサンドル・ラザレフ指揮日本フィルハーモニー交響楽団

 サントリーホール

 リャードフの交響的絵画「ヨハネの黙示録から」と「挽歌」、グラズノフのヴァイオリン協奏曲(ソロは日本フィルのソロ・コンサートマスター扇谷泰朋)、プロコフィエフの「アレクサンドル・ネフスキー」。前回の演奏会に続きロシアもので固めた、しかし一癖も二癖もあるあるプログラムだ。オーケストラは本当によく鳴り、しかも色彩感を失わない。日本のオーケストラが音に原色的な色合いを・・・・。
 「音楽の友」新年号演奏会評
   原文は雑誌発売(12月18日)以降にアップロード予定

10・25(木)ネヴィル・マリナー指揮NHK交響楽団

 サントリーホール

 マリナーは、アカデミー時代は別として、指揮者になってからはよくいえば穏健、悪く言えば面白みのない人になってしまっていた。年齢を加えて円熟とともに、何か新しいものが加わってきたかと期待もしたが、実際はさほどでもないようである。それがマリナーの持味だというなら、それはそれでいいのだろうが。
 ブラームスの「第4交響曲」は、いかにも彼らしく均整の取れたつくりで、些かも聴き手の度胆を抜くような誇張や演出は採らない。強いて言えば、第1楽章や第3楽章で割り気味に強奏させるホルン、第1楽章や第2楽章で浮き上がらせるファゴット、第4楽章で叫ぶトランペットといったように、個々の楽器を際立たせ、音楽を強調することくらいが目立つ点だろう。
 ベートーヴェンのヴァイオリン協奏曲でも同様、フィナーレに大きな頂点を設定し、それまで抑制してきた音量的なエネルギーを一気に解放するという方法を採る。これはある意味で効果的ではある。
 協奏曲のソロは、若手のアラベラ・美歩・シュタインバッハーで、前半2楽章ではきわめて楚々とした叙情性に重点をおき、繊細な音色で歌い上げる。それがあまりに徹底しているので、ベートーヴェンをここまで嫋々たる音楽のままにしてよいのかと不安に陥ったほどだが、第3楽章ではマリナーと歩調を合わせたごとく決然たる表情となり、さらにカデンツァでは荒々しいほどのエネルギーを放出してみせた。アンコールで弾いたイザイの第2ソナタの一節も激しく、昔の人が言う「初めは処女のごとく、終りは脱兎のごとし」なる形容が頭をよぎるほどである。どちらかといえば、後半の方が成功しているといえるだろう。この格差はなかなか面白い。
音楽の友08年新年号演奏会評

10・20(土)飯森範親指揮東京交響楽団「ルプパ」

  サントリーホール

 ハンス・ヴェルナー・ヘンツェのオペラ「ルプパ~ヤツガシラと息子の愛の勝利」を、若干の映像も加えた簡素なセミ・ステージ形式(演出・飯塚励生)で日本初演。
 2003年にザルツブルク音楽祭で初演された時には、ディーター・ドルンのおとぎ話的な美しい舞台が印象的で、字幕がなかったにもかかわらず、物語の内容は解りやすかった。今回はそういう面では少々殺風景な感を免れないし、演技の点でもやや明快さに不足したといえようか。
 だが、経済的に苦しい民間の自主運営オーケストラが、こんなに大変な手間と費用のかかる現代舞台作品の日本初演を、たとえ年に一度でも敢行するというのは、実に見上げたものである。放送交響楽団として恵まれた状況にありながら名曲レパートリーにのみ安住し、大作の一つも紹介するわけではないN響あたりと比べて、その姿勢は賞賛されて然るべきだろう。

 「ウプパ」(「ル」は冠詞)は、ここではサトイモの「八頭」ではなく、鳥のヤツガシラ(戴勝)のこと。逃げたヤツガシラを父のために探し出す親孝行の息子を主人公にしたメルヘン・オペラである。
 全曲にわたり打楽器が多用され、すこぶる色彩的なオーケストレーションを備えており、ヘンツェの他のオペラに比較してすこぶる明るい、晴れやかなものになっている。欠点といえば、音楽の構成に、いわゆる「山場」というものがないことだろう。
 飯森範親と東京響は密度の濃い熱演を披露。ザルツブルク初演の際のマルクス・シュテンツの指揮よりも、よほど面白く感じられた。今回は鳥のさえずりや羽ばたきの音が客席を取り囲むように効果音として使われていたが、この音量は些か大き過ぎたか。
 歌手では、三男坊の孝行息子アル・カジムを歌ったラウリ・ヴァサールと、彼を援けるデーモン役のトーマス・マイケル・アレンが好演。他にファブリス・ディ・ファルコ(アジブ)、ジェローム・ヴァルニエ(カリブ)、森川栄子(バディアト)ら。
 字幕は、解りやすい文章だったが、オルガン横の左右の壁の高い位置では遠く、しかも小さくて、読むのにえらく苦労。
 「音楽の友」12月号演奏会評

10・19(金)ミハイル・プレトニョフ指揮東京フィルハーモニー交響楽団

  サントリーホール

 現代ロシア屈指のピアニストであるプレトニョフがロシア・ナショナル管弦楽団を創設し、指揮者として華々しく脚光を浴びた頃、モスクワの音楽ファンたちは、「何をしようとかまわないけれど、ピアノだけは止めないでいてくれ」と叫んだそうな。
 だが、その願いも虚しく、プレトニョフは最近ついに(当面は)指揮者一筋で行く、と宣言してしまった。最近リリースされたベートーヴェンの交響曲全集CD(グラモフォン)の、特に「英雄」と「田園」などでも、彼は自らの超ユニークな解釈をやりたい放題押し出している。あの味をいったん覚えてしまったら、もう指揮者はやめられない、と思うのも当然かもしれない。

 今日のメイン・プロ、チャイコフスキーの「第4交響曲」では、彼はさほど変わったことはやっていない。ただ、楽章間の休みを含めても総演奏時間が40分を割るという超快速テンポで、第1楽章など激情の嵐という趣になっているところが彼らしいというべきか。終楽章のコーダなど、テンポを煽ること、煽ること。
 オーケストラはなんとか追い付いてはいたが、音色はかなり粗く汚いところもあった。だが、終楽章でのこのようなテンポは、かつてムラヴィンスキーやスヴェトラーノフも採ったことがあるものだし、東京フィルも「日本で最も古い伝統を誇るオーケストラ」と豪語する以上、このくらいは平然とこなしてもらわないと困る。
 とはいえ、新国のオケ・ピットでは全然鳴らないこの東京フィルも、ステージでは本来の調子を出して、よく鳴る。前半はプロコフィエフの「第2ピアノ協奏曲」だったが、ここでもオケは豪快に轟きわたった。

 協奏曲でのソロは、残念ながらプレトニョフではなく、アレクサンドル・メルニコフ。しかし、この若者がすばらしい。明るい多彩な音色で伸びやかに爽快に弾きながら、がっちりとした構築を生み出している。

10・18(木)ベルリン州立歌劇場来日公演「モーゼとアロン」

 東京文化会館

 先日の「トリスタン」でのバレンボイムとシュターツカペ・ベルリンの演奏は、ナマで聴いた中では、これまでのいかなる「トリスタン」をもしのぐ感銘深いものだと断言してもよいほどだが、この「モーゼとアロン」の演奏も、過去の二つの体験に次ぐものだった。

 「二つ」というのは、1996年にザルツブルク音楽祭でピエール・ブーレーズが指揮した時と、99年にこれもブーレーズがベルリンでシカゴ響を指揮した演奏会形式上演のこと。特に後者は、管弦楽のすべてのパートが聞こえるほどの明晰さと、厚みのある壮麗さという、相反する要素が両立した、驚嘆すべき演奏だった。それらに比較すると、バレンボイムとシュターツカペレ・ベルリンの演奏は、もっと翳りの濃い、苦悩が感じられるような音楽である。それはそれで、すばらしい。

 シュプレヒゲザングで全曲を押し通すモーゼを演じたのは、ジークフリート・フォーゲル。底力のある声で、これは立派なものだろう。
 それに対し、アロン役のトーマス・モーザーには、この高音域は少し苦しかったようだ。表現も叙情に傾いたような気もする。以前この役を得意としていたクリス・メリットの、あの細身で張りのある声の、知的で狡猾で詭弁家的なキャラクターがいかに貴重だったかを思い起す。とはいってもこのオペラでのアロンという人物には、私は昔からすこぶる共感と同情を覚えてしまうのだが。

 ペーター・ムスバッハの演出・美術は、博物館か劇場のホワイエを思わせる暗い空間でドラマを展開させるという、息苦しさをさえ感じさせる舞台である。火も、いばらの茂みも、モーゼの杖も、蛇も現われてこない。われわれは、モーゼが言う「神」と同様、それらを「想像」しなければならない。
 しかしその中で、モーゼを震撼させる「黄金の像」(オリジナルでは黄金の仔牛。この舞台では唯一「色」を持っている)と、モーゼが山から携えてきた「十戒」を印した石板(黒い上着に包まれている)の二つだけが、いずれも「偶像」にすぎないことを示して「形」に具象化されている。これは、実に理に叶った演出だ。

 登場人物たちは、男も女も、モーゼもアロンも、すべて黒色のスーツにサングラス、オールバックの髪型だ。要するにタモリみたいなのが、舞台一杯、クローンのごとくあふれるという具合である(カーテンコールの際、一人ずつ出てくる歌手がすべて同じ格好をしているのが、何とも面白い)。
 全員が同一の扮装で、個人の「顔」が見えないというのは、群集心理を描く点では絶好だ。が、彼らの心理状態が変化していく過程を示すという面ではやはり単調に過ぎ、些か物足りぬものを感じさせる。
 それに、モーゼとアロンが同一の姿をしているのも、この2人の主義の違いを考えれば、いかがなものか。しかし、2人は表裏一体、実は同一人物の異なる側面を表わすというねらいなら、それもまた皮肉な宗教観で面白い。二つの主義の葛藤を「永遠の課題」として残すなら、アロンが敗北するという第3幕(台本のみ)は、確かに不要になる。

 ダイナミックな群集の動きという点で思い出されるのは、1970年の大阪万博参加公演で、ベルリン・ドイツ・オペラが日本初演したルドルフ・ゼルナーの演出(当時のわれわれには破天荒で衝撃的なものに思えた)と、前述の96年ザルツブルクでのペーター・シュタイン演出の舞台。あの二つは、本当に凄かった。
 その他、動きはあまりないけれども群衆の表情の面白さでは、2003年シュトゥットガルト州立劇場でのヨッシ・ヴィーラーとセルジョ・モラビトによる演出。アロンが映してみせる映画に人々が興奮して我を失っていく、という風変わりな舞台だった。

10・15(月)ゲンナジー・ロジェストヴェンスキー指揮読売日本交響楽団

  サントリーホール

 7時からチャイコフスキーの「組曲第2番」(45分)が演奏され、そのあとにオペラ「イオランタ」(1時間40分、休憩なし)が演奏会形式で上演された。したがって終演は10時直前。
 コンサートとしてはいかにも長いが、しかし「イオランタ」の音楽の叙情美、いつに変わらぬ「ロジェヴェン節」の妙、読売日響の快調、歌手陣の健闘、字幕の解りやすさなどにより、疲れも吹き飛ぶ思いにさせられた。客席も「退屈の身じろぎ」の気配が全くなかったし、カーテンコールも大いに盛り上がっていたから、多くの人々が同じ思いだったのではなかろうか。

 このオペラ、ずっと昔に、映画になったのを見たことがある。その時には、盲目の姫イオランタが視力を取り戻す場面で、カメラが遠くの山々の碧い稜線を追って行く光景と、そこの音楽の美しさにうたれたものだったが、さりとてそれ以降はさほど感銘を得る機会もなかった。今回初めてナマで聴いてみて、チャイコフスキー最晩年の管弦楽の色彩の驚くべき精妙さに、認識を新たにした次第である。
 それにしても、こういう曲を手がけた時のロジェストヴェンスキーの巧さは、名人芸といっていいかもしれない。
 題名役の佐藤美枝子は、最初のうち声がオーケストラに消されがちだったが、次第に持ち前の声の爽やかさを発揮した。彼女のロシア・オペラは、もっと聴く機会があっていいだろう。だが今日は男声陣に分があり、成田眞(イオランタの父レネ王)、経種廉彦(イオランタに求婚するヴォデモン)、成田博之(その友人ロベルト)がすばらしい歌を聴かせてくれた。

10・14(日)アレクサンドル・ラザレフ指揮日本フィル

  サントリーホール

 来年9月から日本フィルの首席指揮者になることが決まったアレクサンドル・ラザレフの「お披露目シリーズ」の一環。
 
 慌ただしく指揮台に飛び上がり、怒れるキングコングさながらに猛然たる身振りで彼が指揮を開始すると、「眠りの森の美女」の序奏がホールを揺るがせて轟きはじめる。
 が、この人の魅力は、ただ豪快な音を出すのではなく、絶妙なピアニシモをオーケストラから引き出すところにある。今日もショスタコーヴィチの「第5交響曲」第3楽章や、アンコールでの「馬あぶ」からの「ロマンス」でその片鱗を示していた。
 もう一つの魅力は、色彩感である。チャイコフスキーの「ピアノ協奏曲第3番」を、これほど多彩な音色を駆使して生き生きと聴かせた演奏には、滅多に出会ったことがない。今日は小山実稚恵が持ち前の強靭なピアニズムを生かして一歩も譲らず応酬、スリリングな演奏を聴かせてくれた。

 日本フィルは、これなら面白くなりそうだ。聞けばラザレフの練習は、おそろしく細かくて厳しいそうな。来週末の定期で彼が指揮する「アレクサンドル・ネフスキー」は期待できる。ただ、彼の来日が、年2回(1シーズン1回)にとどまるというのが気になる。シェフの個性を反映させるには、最低でも年3回、できれば年4回の来日が必要だろう。

10・13(土)上岡敏之指揮ヴッパータール響

 みなとみらいホール

 速いテンポなら63分、普通なら70分、かのチェリビダッケさえ82分のブルックナーの「第7交響曲」を、90分かけて演奏した上岡。
 この試みは、好みはともかくとして興味深いし、各所で作品についての新たな発見をもたらしてくれたことは確かだ。オーケストラは、今日は必ずしも絶好調ではなかったようだが、真摯な演奏を聴かせてくれた。ただ、それらを充分に評価した上での話だが、30分をかけた第1楽章などではその超遅テンポが緊迫感を失わせ、作品の構築性と形式感を見失わせたような気もする。

 この曲の前には、上岡の弾き振りで、モーツァルトの「ピアノ協奏曲第23番」が演奏された。「21番」の時と同様、彼は暇(?)さえあれば立ち上がって指揮に熱中する。あまりにピアノから遠く離れて動き回るので、椅子に戻るのが間に合わなくなるのではないかと、いつもハラハラさせられる・・・・。

 ブルックナーのあとにもアンコールとして、ワーグナーの「ローエングリン」第1幕前奏曲が演奏された。というわけで、午後2時に始まった演奏会の終演は、ほとんど5時近く。

10月12日(金) マリオ・ブルネロ(指揮、チェロ)&紀尾井シンフォニエッタ東京

 紀尾井ホール

 相性のいいコンビ、1年ぶり4度目の共演。オーケストラさえ、いつもより生き生きしているように感じられる。

 武満徹の「弦楽オーケストラのための3つの映画音楽」で始まったが、これはやや生硬な感があって、武満の音楽の流れるような趣に不足した。初日の1曲目としては、ブルネロはずいぶん難しい作品を選んだものだ。だが演奏にはメリハリがあり、各声部のラインがはっきり顕れ、日本人指揮者が手がける武満の作品とはまた違った明晰さが出ていたことはたしかである。
 2曲目は、ニーノ・ロータの「チェロ協奏曲第2番」。この曲がこれほど面白いと思えたのは初めてだ。カンタービレに富んでいて、洒落っ気もあり、盛り上がりもある。豊嶋泰嗣をリーダーとするオーケストラの自発性に富む演奏も見事で、特に管楽器群が冴えていた。ブルネロのソロが実に明朗で、張りと艶があり、時に甘美な、時に激しい表情を示すのがすばらしい。

 最後はベートーヴェンの「田園」。予想どおり、ブルネロの主張を細かに折り込んだ演奏で、非常にユニークなもの。第1楽章はゆったりと発進し、1拍目に心持ちアクセントをつけて進む。少し持って回った演奏ではあるが、何か手づくり風「田園」といった感じで、面白い。高揚個所での豊麗な響きは、このオーケストラが滅多に出したことのないものだ。第5楽章にクライマックスを設定し、そこではおもいきりオーケストラを歌わせるといった演奏である。ただ、彼のねらいは、特にクレッシェンドの個所で、さらに大きく豊麗に音楽を拡がらせたかったのではなかろうか。
 「音楽の友」12月号演奏会評
 

10・11(木)ベルリン州立歌劇場来日公演「トリスタンとイゾルデ」

  NHKホール

 ベルリン州立歌劇場の「トリスタン」には、2006年にプレミエされたシュテファン・バッハマン演出版もあるが、これはほとんどセミ・ステージ形式といってもいいほど視覚的効果が乏しく、面白くないものであった。したがって今回の来日に際し、以前のハリー・クプファー演出による優れたプロダクションが持ってこられたのは賢明なことだった。動きは少ないが、必要な演技はすべて有り、余計な煩雑な要素は一切ない。音楽に集中するには格好の舞台ということができよう。

 その音楽だが、バレンボイムの指揮するシュターツカペレ・ベルリンの演奏の、なんと美しく壮大で、雄弁なこと! 「トリスタン」の音楽の、奥深い闇の魔性の凄まじさを存分に再現してくれた。それにしても、つい先日新国立劇場で聴いたわが日本のオーケストラの、薄くか細いワーグナーとは、何とまあ、天と地ほどの開きがあることか。彼我の実力のあまりの差に、気が滅入る。
 グランドオペラ 2008 Spring (2008年4月18日発売)

10・10(水)上岡敏之指揮ヴッパータール交響楽団

 東京オペラシティコンサートホール

 上岡敏之が、2004年から音楽総監督をつとめるヴッパータール響を率いて凱旋公演。
 
 ドイツの地方都市のカラーの一つとも言えるような、いい意味での素朴さを残しているこのオーケストラにも、近年の上岡の音楽の特徴である精妙緻密な表情が、すでにはっきりと刻印されている。
 R・シュトラウスの「ドン・ファン」では、主人公の快活奔放な姿を描く個所での極度に速いテンポと、官能の部分での極度に遅いテンポとが大きな対比を形成して、この曲における二つの性格的要素が明確に強調されていた。それぞれの音色の対比も、上岡ならではの見事なものだった。彼は近年、ますますこのような面で巧味を発揮するようになってきている。

 モーツァルトの「ピアノ協奏曲第21番」とベートーヴェンの「交響曲第5番」では、一転して古典的な造型を重視、引き締まった響きを引き出した。前者は上岡自身の弾き振りで、ソロの合間ごとに立ち上がってはオーケストラに細かい指示を与え、念入りなデュナミークの変化を求めていた(それに比して、自らのソロの方はストレートなものだったようだが)。

10・8(月)新国立劇場 「タンホイザー」

  新国立劇場

 若杉弘・新芸術監督のもとでの新シーズン開幕公演。

 期待が大きく裏切られたのは、肝心の音楽面。第2幕大詰めのアンサンブルのうち、あのすばらしく感動的なピウ・モッソの部分をカットしてしまったことだ。この前後の個所でしばしば慣習的なカットが行なわれるのは事実だが、これだけ大幅で乱暴なカットは、最近の上演では希有なことである。作品を破壊する行為と非難されても仕方がない。たとえウィーンだかどこだかに前例があるにしても、われわれの歌劇場が真似すべきことではない。

 演出のハンス=ペーター・レーマンは、先日のワーグナー協会のゼミナールで、「使用版は折衷版のウィーン版」と宣言していた。が、そもそも何を以てウィーン版と称するかは微妙なところだ。
 ワーグナーは1861年のパリ初演に際し、それまでのいわゆる「ドレスデン版」に大幅な改訂を加えた。つまり、第1幕冒頭に「バッカナール」を加えたのをはじめ、「ヴェヌスブルクの場面」全体を大きく拡大したほか、各幕にいくつかの変更を施した。これがいわゆる「パリ版」である。
 ただし、そのパリ初演の際には、「序曲」がいったん完奏されたのち「バッカナール」が開始されるという方法が採られていた。現在の形のように「序曲」の途中から「バッカナール」に続く形で演奏されたのは、1875年ウィーン上演が最初だったのである。「ウィーン版」という呼称はこれに由来する。
 もっとも、一般的にはこれもパリ改訂の概念の中に含まれ、CDなどでの表記を含め「パリ版」と呼ばれるのが普通である。このあたりについて、新国立劇場の今回のプログラムには「ドレスデン版とパリ版を折衷した版=ウィーン版とも称される」という意味のことが付記されているが、これは観客に誤解を生じさせるだろう。

 現実には、今回は基本的に第1幕と第3幕がパリ版、第2幕は一部ドレスデン版で演奏されていた。前述のカットは、ウィーン上演の際にワーグナーが認めたものだということらしいが、いやしくも彼がそれを「喜びをもって」認めたとはとうてい信じがたく、今日のわれわれが倣うべきものではない。
 またこのアンサンブルの前半の部分では、タンホイザーのパートの裏で歌われる合唱のパートの一部は、今回も「慣習的に」省略されていた。これも賛成できない方法だが、バイロイトなどでも今なおしばしば行なわれる方法であることは事実だ。そして第2幕始めのタンホイザーとエリーザベトの二重唱におけるヴォルフラムの短いパートも「慣習的に」カットされていた。
 
 題名役はアルベルト・ボンネマに替わったが、何とも粗っぽく傍若無人な歌いぶりで、興を削ぐこと夥しい。タンホイザーの自暴自棄的な性格をよく表現しているだろう、などとこじつけて解釈することすら無理である。演技も雑で、まるでぶっつけ本番で舞台に登場したような様子さえ見られる。ヴォルフラム役のマーティン・ガントナーはこの役の雰囲気ではないが、歌唱の上では健闘していた。ヴェーヌス役はリンダ・ワトソン、声は少し硬いが安定している。ヘルマン役のハンス・チャマーも、まず無難だろう。光ったのはリカルダ・メルベートのエリーザベト。今回は毅然たる女性という性格を見事に出していた。
 
 指揮のフィリップ・オーギャンは、あのカットの問題さえなければ、辛うじて合格点をつけてもいいほどだったのだが・・・・。東京フィルの演奏は、まとまってはいたけれど、相変わらず音がか細い。特にワーグナーの音楽の場合には、もっとオーケストラに雄弁さが欲しいし、何より弱音、最弱音が豊かに響いてこなければ音楽が痩せてしまう。欧米の歌劇場では、オーケストラがもっと轟々と鳴る。よくわからないが、この劇場はオケ・ピットを少し下げすぎているのではないのか?

 レーマンの演出はあくまでストレートで中庸を得て、理屈も何もないタイプのもの。役柄について新たに何かを発見させてくれるというものでもない。奇抜な読み替え演出も煩わしいが、さりとてこのレーマンのようなスタイルも、これまであれこれこのオペラを観てきて、さらに何か新しいものを見いだそうというファンには、少々退屈である。
 オラフ・ツォンベックの舞台美術は、半透明な柱を多用してきらきらと輝く。立田雄士の照明が生きる。これらは、序曲のさなかにセリで上がってきて見せ場を作る。衣装もツォンベックで、吟遊詩人たちの服装はロシア、スペン、モンゴル、アフリカといった、いろいろな国のイメージを反映しているように見えないでもない。それはいいのだが、今回の衣装は、女性合唱をなぜか小柄な体躯に見せてしまった。
  東京新聞10月13日

10・7(日)第20回北九州国際音楽祭開幕ガラ・コンサート

  北九州市立響ホール

 マチネーだったので、日帰りで聴きに行く。
 この音楽祭も通算20回だという。継続は力なりというが、本当によく頑張っている。11月9日のラン・ラン&パリ管弦楽団演奏会まで、メイン公演12、教育プログラムとコミュニティ・コンサート計10、他に市民企画事業、協賛事業、演奏家との交遊会など、といった具合だから、地方都市の音楽祭としてはかなり大規模なものに属する。公演内容も、いわゆる「ありもの」の買い入れだけに止まるのではなく、オリジナル企画を多数入れているのは見上げたものである。

 今日の演奏会でも、篠崎史紀(N響コンマス)をリーダーに、双紙正哉(都響)、鈴木学(同)、太田雅音(大阪センチュリー)、田野倉雅秋(広響)、戸澤哲夫(シティ・フィル)、長原幸太(大阪フィル)、鈴木康浩(読響)、津村瑞(九響)、タラス・デムチシン(同)、岡本秀樹(同)、吉田秀(N響)ら各オケのコンマス・首席奏者・ソロ奏者(よくまあ、これだけ動員したものだ)を核にした特別編成オーケストラが活躍していた。南紫音が弾くヴィヴァルディとバッハのヴァイオリン協奏曲、豊嶋起久子と手嶋眞佐子が歌うオペラのアリア集、若林顕が弾くモーツァルトの「ピアノ協奏曲第23番」など、みんな良かった。

 とりわけすばらしかったのは、弦楽五重奏とピアノ、オルガンで演奏された、新ウィーン楽派3人(ウェーベルン、ベルク、シェーンベルク)の各編曲によるJ・シュトラウスのワルツ3曲。これはもう、聴いたことがないくらいの充実した熱っぽい演奏だった。舞台を圧するような大きなジェスチュアでリードする「マロ」こと篠崎、ニコニコと楽しそうに弾き続ける鈴木康浩らの舞台姿も、聴衆の気持を盛り上げたと思われる。スタッフが市内在住の個人からわざわざ調達して来たという旧式オルガン(桑生美千佳)の音色がまた、実に甘い味を添えた。
 演奏者の中で篠崎、双紙、手嶋、豊嶋、南といった人たちは、地元の北九州市の出身なのだそうな。こういうことも、地方都市音楽祭では、一つのポイントになるだろう。
 
 なお、この音楽祭についてもっと詳しく知りたい方のために、hpのアドレスを載せておきます。
    北九州国際音楽祭

10・6(土)フェルメール・クァルテット

  紀尾井ホール

 アメリカのフェルメール・クァルテットが、38年の歴史に幕を下ろす。70年代には今井信子もメンバーの一人だった名門弦楽四重奏団だ。

 その引退記念ツァーがベートーヴェンの弦楽四重奏曲全曲ツィクルス(6回)をもって、紀尾井ホールで行なわれた。この日は第5日。一つの時代が終りを告げる場面に立ち合うのは寂しく、何か荘厳な感動に迫られる。「第3番」「第10番《ハープ》」「第9番《ラズモフスキー第3番》」というプログラムに、このクァルテットを聴くのももうこれが最後なのだ、という感慨をこめて向き合う。

 フェルメール・クァルテットの音色は、昨日のパノハと全く異なるタイプの、洗練された明晰なものだが、それは少しも冷たくはない。四つの温かい光線が絡み合うような音の動きを集中して聴いていると、ベートーヴェンが各声部にあたえた熱い血潮のようなものが、実に鮮やかに浮かび上がってくるのを私は感じる。「ハープ」の大詰の箇所に、これほどの旋律美を聴きとったことは、私の経験では、かつてなかった。また「ラズモフスキー第3番」の冒頭を強烈なアタックで開始する方法は今日も採られたが、彼らの気魄を感じさせて、これもすこぶる印象的である。

 明日の最終回の公演は、残念ながら聴けない。このクァルテットに深い感謝を捧げよう。

10・5(金)パノハ弦楽四重奏団

  浜離宮朝日ホール

 昨日は風邪気味のため、スリランカ交響楽団を聞き逃した。何とか持ち直したので、今日はパノハ四重奏団の演奏会に行く。
 
 この四重奏団を聴くのは、実に久しぶりだ。1980年に師匠のスメタナ四重奏団との合同演奏で日本に初登場した時から、89年の第3回の来日あたりまでは毎回聴きに行っていたのだが、その後はどういうわけか機会がなく、従って今日はそれ以来ということになる。メンバーも、年齢相応の風貌になっていた。

 だが、彼らの昔に変わらぬ柔らかい音色は、本当に魅力的だ。音楽を心底から慈しむように、大切なものを優しく抱きしめるかのように、弦楽器を奏でてくれる。昔のチェコの演奏家たちはみんなこういう音色を持っていたものだ(チェコ・フィルだってそうだった)。忘れかけていた懐かしいアナログの音に再び出会ったような思いになる。最近のように、ピリオド楽器奏法だの何だの(それはそれで私は好きなのだが)戦闘的な音色に慣れてしまった耳には、パノハ四重奏団のそれはあまりに温かすぎて、最初のうちは戸惑いを覚えてしまうほどである。

 しかし、パノハ四重奏団のこのスタイルは、音楽として今日なお確固たる存在だ。現実にこれだけの聴衆を集め、これだけの拍手を享けているのである。何とすばらしいことかと思う。これでこそ、音楽の世界は多様になるのだ。今日のメイン・プログラムは、ハイドンの「皇帝」、シューベルトの「第10番変ホ長調」、ドヴォルジャークの「第10番変ホ長調」。シューベルトの第1楽章での主題の温かい歌わせ方など、あれを真似できるカルテットは、他にあるまい。ヒューマンな演奏を聴いていたら、風邪もいつのまにか抜けてしまっていた。

10・3(水)アジアオーケストラウィーク2007 昆明交響楽団

 東京オペラシティコンサートホール

 2002年に開始された、恒例の「アジアオーケストラウィーク」。
 これまで15ヶ国から延べ30団体が参加してきた。2003年にモンゴル国立フィルなる団体が来日した時には、朝青龍と旭鷲山が客席で聴いていたこともある(ただし、互いにかなり離れた席だったが)。

 今年は3団体が来日。昨夜のKBS響(韓国)は聴けなかったが、今日の昆明(クンミン)響は結構楽しめた。中国南西地区では唯一のオーケストラだそうである。指揮は日本にもおなじみの李心草(リー・シンサオ)で、彼は中国国家響の首席指揮者だが、この昆明響の名誉楽団長もつとめている由。
 前半には「ヤオ族舞曲」(茅源と劉鉄山の作曲による)および交響詩「女将軍ムー」(デン・ツォンアン作・編曲)。いずれも中国情緒満載で、不思議な親近感を誘う。後半はドヴォルジャークの「第8交響曲」。14型編成のオーケストラは鳴りも見事、技術的水準も高く、なかなかの聴きものであった。筋金入りの強い音色と柔らかい音色とを、それぞれ自国作品と洋楽で弾き分けるのも興味深い。

10・2(火)ベルリン州立歌劇場来日公演「ドン・ジョヴァンニ」

  東京文化会館

 バレンボイムも最近は、レチタティーヴォの部分で「間」を自由に採る今風の手法をいよいよ多用するようになった。これは本来、楽曲のバランスを崩しかねない(アーノンクールやハーディングは時たまその陥穽に陥る)方法だが、オーケストラの基本テンポにことさら細工を施さないバレンボイムの音楽構築の中では、それほどの違和感は生じない。抑制気味の音量で進められる演奏も、第1幕フィナーレや、第2幕の「地獄落ちの場面」など、ここぞという劇的な瞬間では、さすがの高揚を示していた。ただ今日のシュターツカペレ・ベルリンは、絶好調時の演奏に比べると、少々荒い音だったが。

 歌手陣では、題名役のペーター・マッテイがいい。夏のザルツブルクでの「オネーギン」の時と同様、不良青年っぽい役柄を巧く演じ、歌う。千両役者的ドン・ファンではないが、それは演出意図に沿っているにすぎないだろう。ハンノ・ミュラー=ブラッハマンは若々しいレポレロを演じ、マッテイと表裏一体になった存在を表現していた。ツェルリーナのシルヴィア・シュヴァルツは若いけれど演技も歌もしっかりしていて、今後が期待できる。アンナ・サムイル(ドンナ・アンナ)はザルツブルクでタチヤーナを観たばかりだが、やはりまだこれからというところか。アンネッテ・ダッシュ(ドンナ・エルヴィーラ)の方が、ザルツブルクでのアルミーダの時と同じく、演技にも幅を持っている。

 トーマス・ラングホフの演出は2000年のプロダクションだが、きわめてストレートなものだ。登場人物全員をごく日常的な、市井の人間たちとして設定しているところに特徴があるだろう。ヘルベルト・カップルミュラーによる暗く簡素な美術とともに、日常的でありながらも解放感のない世界といった光景が続き、観る者をして何か鬱積した心理に陥らせるような舞台になっている。それはまるで、勅使河原宏監督の映画「砂の女」の世界にも似ている。
 地獄落ちの場面は、奥の台座(墓)の上に立つ石像との応酬を経て、ドン・ジョヴァンニは金縛りに逢ったように動けなくなり、周囲から吹き出す炎の中に、地下へ沈んで行く。ただし、最後の場面での残された6人の表情には、少々曖昧な、解せないものがあった。

 字幕は、あまりに大雑把で意訳に過ぎる。台本にある一寸気の利いた表現が全く無視されてしまっては、面白みを欠く。特に、法も社会道徳も階級も身分も無視して生きるドン・ジョヴァンニのモットーである「自由万歳 Viva la libertà 」を妙な誤訳(「楽しくやりましょう」だったか?)にしてしまっては、このオペラの本質を害なってしまう。

10・1(月)新国立劇場10周年記念 オペラ・バレエ ガラ公演

 新国立劇場

 午後2時から記念式典で、国歌演奏と、新国立劇場運営財団理事長、文部科学相(代読)、日本芸術文化振興会理事長らの式辞・祝辞などが続く。畑中良輔・初代オペラ芸術監督が原稿なしで述べた祝辞が最も心を打つものだった、と大方の感想が一致。
 本番には皇太子夫妻も列席。第1部が渡邊一正指揮と新国立劇場バレエ団によるチャイコフスキーの「弦楽セレナード」に基づくバレエで、第2部がフィリップ・オーギャン指揮、エレナ・ツィトコーワや大村博美らによるオペラの合唱やアリア集、というプログラムだ。オペラ芸術監督(若杉弘)がガラを振らず、国歌の指揮だけというのも奇異なことではある。「東京国立歌劇場」の10周年ガラというには、残念ながら音楽的な内容が淋しい。

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