2017-03

11・29(月)エリアフ・インバル指揮東京都交響楽団のブルックナー「6番」他

   東京文化会館大ホール  7時

 ブルックナーの「第6交響曲」は――第1楽章では第1主題が「アラビアのロレンス」や「野生のエルザ」のテーマにそっくりのフシだったり、終結部での転調が愉しかったり。初めて友人たちとレコードで第4楽章を聴いた際には、いよいよ最後のクライマックスと思って力を入れた瞬間にフワリと肩透かし(第371小節)され、皆で爆笑したものであった。
 そんなこんなで、私はこれは非常に好きな曲なのだが、惜しいことに、演奏会ではほとんど取り上げられない。先日のウィーン・フィル来日プログラムでも、折角予定されながら変更になってしまい、落胆したばかり。それゆえ今回の都響定期は干天の慈雨(?)みたいなものだ。

 第1楽章の、その最強奏による第1主題が非常に鋭く攻撃的に、鋭角的に轟きわたった瞬間に、インバルのコンセプトが明確に示されていただろう。リズムが明快で、響きが生々しく、全体に極めて骨太で剛直なスタイルのブルックナー。インバルのこれまでのブルックナーへのアプローチと軌を一にするものである。

 凡庸な演奏で聴くと甚だまとまりの無いような印象を与えるこの交響曲が、かようにがっしりとした構築を備えたものとして姿を現わしたのは、インバルのこの指揮によるところ大であろう。
 都響も歯切れがいいし、音も分厚く、底力のあるブルックナーを轟かせてくれた。
 この東京文化会館で聴くと、音は裸形に近いものとなり、余情にも不足するが、明日のサントリーホール公演ではまた異なった余韻が生れるだろう。

 なおプログラムの第1部には、四方恭子がソロを弾くモーツァルトの「ヴァイオリン協奏曲第3番」が演奏された。

 昨日から、椅子に掛けていると神経が圧迫されるのか、激痛に襲われる。コメントでいただいた「そのうちツケが来ますよ」という予言(?)は、やはり当ったらしい。とりあえずこの分では、明日のゲルギエフの記者会見と、カルミニョーラとヴェニス・バロックは、諦めざるを得ないか?
 

11・28(日)マルタ・アルゲリッチ・セレブレーションズ

   すみだトリフォニーホール  7時

 アルゲリッチが、ついに東京に帰って来た――という熱気で満たされたトリフォニーホール。客席の雰囲気も、何から何までアルゲリッチ一色、拍手に歓声にスタンディング・オヴェーション。
 彼女が2曲のピアノ協奏曲――ショパンの「第1番」とラヴェルの「ト長調」を弾き、クリスティアン・アルミンク指揮する新日本フィルが協演する。

 協奏曲の間に、アルミンクが獅子奮迅の身振りで新日本フィルを指揮して「ローマの謝肉祭」(ベルリオーズ)を演奏したが、客席はさっぱり盛り上がらない。オケには気の毒だが、オケにも責任がある。そもそも新日本フィルの演奏に、協奏曲を含めて何となく熱気が感じられないのだ。
 このオーケストラは、定期では在京ベスト3に入る出来を示すくせに、「お座敷」では何か気の抜けた演奏をすることがある――。

 それゆえアルゲリッチの、千変万化の音色と表情を持つ素晴らしいピアニズムが、どうもオーケストラとしっくり合わないような印象を生んでしまうのだ。ピアノはピアノ、オケはオケ、という感である。
 これは多分アルミンクとアルゲリッチとの呼吸の問題だろうが、更に言えば、若いアルミンクの経験不足のせいもあるだろう。1階席中央で聴いた限りでは、強奏個所のオーケストラの音量などにも、協奏曲としてはどうみても無茶なところがあるように感じられる。ラヴェルの協奏曲での大太鼓の音量など、その最たるものではなかろうか。

 それにもかかわらず、アルゲリッチの演奏の方は、オーケストラをさえ霞ませるほどの存在感だ。
 それは絢爛華麗というより、昔に比べればむしろ抑制された――沈潜へ向きつつあるような音色と表情を感じさせるが、その精妙さ、自然さ、優雅さは、いつもながら比類のないものであった。ショパンの第3楽章における隙の無い流れの美しさなど、思わず嘆声を洩らしたくなるほど素晴らしい。

 アンコールには、ラヴェルの協奏曲の第3楽章を演奏、そのあと、ついにソロでショパンの「マズルカ」の「第15番ハ長調作品24-2」を弾いてくれた。あたかもラヴェルか、シマノフスキかと思わせるような、噴水から散る水がきらきらと輝き戯れるようなイメージで、これぞまさにこの日最高の世界であった。

11・27(土)ユベール・スダーン指揮東京交響楽団のブルックナー「8番」

  サントリーホール  6時

 坐骨神経痛持ちの身でダブルヘッダーのコンサート通いはためにならぬ――とご忠告下さったTTさんには叱られそうなことを、またやってしまう。みなとみらいホールでの公演が終った後、クルマでサントリーホールへ移動(歩くのは無理だが、運転には支障はない)。
 秋の国内オケ「ブル8」4連発は、やはり聴いておきたい演奏会である。当初のスケジュールでは、今週はパリでティーレマンとウィーン・フィルのベートーヴェン・ツィクルスを聴いているはずだったのだが、体調危険と見て1週間前にドタキャンしたため、幸いに今日のコンサートを聴けるようになった、というわけだ。
 正直、サントリーホールに着いた頃には、痛みのせいで疲労困憊の状態。が、そこが音楽の素晴らしい力というべきか、スダーンと東響の圧倒的な「8番」を聴いている間だけは痛みを忘れ、元気を取り戻すことができる。

 前半にショパンの「ピアノ協奏曲第2番」が、ダン・タイ・ソンをソリストに迎えて演奏された。この人のピアノも、何か不思議な安堵と懐かしさを感じさせるようになった。これも時代の流れというものか。
 今回の演奏会タイトルが「ショパン生誕200年」となっているので、字ヅラの上ではまるで「ブル8」が付け足しみたいに見え、笑いを誘う。

 それにしても、今日のプログラムは、戦艦と巡洋艦が一緒に来たようなもの。「ブル8」の前にこんな量感のある曲を置いたプログラムは、珍しいだろう(誰だったか以前、似たことをやった人がいたような気がするが・・・・)。
 それでも、休憩20分を挟んで8時15分には終演となったのだから、2曲とも比較的テンポの速い演奏だったという証明だろう。

 「第8交響曲」は、今回はノーヴァク版(もちろん第2稿)での演奏だ。
 この定期に先立ち、スダーンと東響は川崎で、セッション・レコーディングを2日間にわたり行なっていた。そこでみっちり仕上げをしたためもあろう、東響の演奏は、冒頭から自信満々という雰囲気を漲らせており、持てる力を余すところなく発揮したような感があった。
 オーケストラのバランスも完璧で、破綻は皆無と言っていいほどである。

 スダーンの完璧主義はここでもいよいよ徹底していて、息も詰まるような緊迫感が全曲を覆う。彼の指揮は、長い旋律線をねっとりと絡み合わせるというタイプとは逆であり、むしろクールなほどに主題を組合わせ、積み上げ、たたみかけ、追い上げて行くといったスタイルだが、それがかように一点の隙なく行われると、ブルックナーの音楽が持つ構築的な要素が絶妙に浮かび上がって来る。

 第1楽章終結部や第2楽章のスケルツォでの演奏には、異様な気魄と昂揚が聴かれ、凄味さえ感じられた。
 特にスケルツォの後半、最後の追い込みにかかるフォルテ3つの個所での、ホルンとトロンボーンとコントラバステューバによる和音の量感がはっきりと響かせられた(ここはしばしば演奏が雑になる)ことは、ここの音楽が持つ魔性的な色合いを充分に描き出していたであろう。

 アダージョ楽章は、安息よりも緊張感に満たされている。第4楽章も、立ち止まることを許さぬ力に追い立てられるかのよう。
 だが、それらの演奏が全く慌しくならず、疎かにもならず、がっちりと組み立てられていたところに、最近のスダーンの強烈な制御力と、東響の充実振りが証明されているだろう。
 所謂「陶酔的」な演奏ではないが、迫力に呑まれるといったタイプの演奏であった。

 全曲最後の、終結和音にかぶらんばかりの早すぎるブラヴォーと拍手は、いかにも遺憾。ブルックナーの場合には、ホール内に響く残響が重要な要素なのに・・・・。 最近は改善されて来ていると思っていたのだが・・・・。 
 

11・27(土)パーヴォ・ヤルヴィ指揮ドイツ・カンマーフィルハーモニー管弦楽団

   横浜みなとみらいホール  2時

 ベートーヴェンの「運命」をメインに、「大フーガ」、それにシューマンものから何か1曲――とでもいうことか、「序曲、スケルツォとフィナーレ」が冒頭に加えられた。

 このシューマンが、爽やかで明快でヴィヴィッドな演奏で、すこぶる良い。来週のツィクルスがいよいよ楽しみになって来た。
 ベートーヴェンの「大フーガ」が、弦楽合奏版でありながら指揮者無しの演奏になるとは知らなかったが、少なくとも出だしは気魄充分、やるなと思わせた。ただ、そのわりに少々竜頭蛇尾になったきらいも無くはなし――。

 後半は「交響曲第5番 運命」。このホールでのベートーヴェン・ツィクルス以来、4年ぶりに彼らの演奏に出会うことになる。
 基本的には以前のスタイルと同じだが、しかし第2楽章は、いっそう細部に趣向が凝らされるようになった。内声部の旋律や音型の思いがけないクローズアップやテンポの微細な動きなど、パーヴォ独特のワザがピリリと効いた演奏で、面白いことこの上ない。
 たとえば第185小節から10小節間にわたるこの楽章の頂点部分で、189~190小節のクラリネットのパートを行進曲調リズムとして捉え、一段と強調して吹かせるあたり、少しあざとい手法だが、新鮮な趣きがある。
 以前、この人の指揮する「田園」第1楽章でもフルートのクローズアップに目からウロコの思いをしたことがあるけれど、なかなか洒落たセンスの持主ではある。

 アンコールは、ブラームスの「ハンガリー舞曲」第5番と第6番。これまたおそろしく捻りの利いた、面白い演奏だ。

11・26(金)ワレリー・ゲルギエフ指揮ロンドン交響楽団

   サントリーホール  7時

 今日が東京初日。プログラムは、シベリウスの「ヴァイオリン協奏曲」(ソロは諏訪内晶子)と、マーラーの交響曲第1番「巨人」。皇太子や小泉純一郎元首相らも聴きに来て、すこぶる賑やかな客席。

 腰の都合もあって、2階センター後方で聴く。
 このあたりの席で聴くと、音はややこもり気味の、よく言えば柔らかい響きになる。そのせいかどうか定かではないけれど、ゲルギエフが振ったロンドン響の音色は、以前聴いたプロコフィエフ・ツィクルスの時よりもずっとおとなしい安定した雰囲気のものに聞こえた。

 ただこれは、音が曖昧になっていたとか、演奏に活気が失われていたとかいう意味ではない。
 面白かったのは、弦の音色などに一種独特な柔らかい艶のようなものが感じられて、それはまるで90年代のマリインスキーのオーケストラがゲルギエフのもとで響かせていた音色に、実に良く似て来ている――という事実である。
 まあ、いずれにせよそれは、ゲルギエフがこのロンドン響を完全に手中に収めていることを意味するだろう。

 おとなしいとは言っても、「巨人」第1楽章コーダでオーケストラの響きがみるみるうちに山のように盛り上がって行く――単なる音響としてではなく、音楽の質量という意味も含めてだ――あたりは、ゲルギエフ得意の豊かな力感にほかならない。
 また、全楽章にわたって細かいアッチェルランドやリタルダンドなどのテンポの揺れ動きが実に自然に、見事に息づいている。これは、所謂マーラーの、気分の変化の激しい――躁鬱症的な「唐突でヒステリックなテンポの変化」という概念を払拭した演奏となっていたとも言えるだろう。こういう解釈も興味深かった。
 第3楽章中間部での最弱音の、ふくらみのある細やかさも良い。
 世の中では、「ゲルギエフのマーラー」は何となく色眼鏡で見られている傾向なしとしないが、私は結構面白いと思っている。

 前半のシベリウスの協奏曲では、ゲルギエフは第1楽章と第2楽章で最弱音を多用し、その矯めたエネルギーをフィナーレで一気に炸裂させるという手法を採った。
 しかしここでは何よりも、諏訪内晶子が聴かせた素晴らしいソロを讃えねばなるまい。
 冒頭、聞こえるか聞こえないかの最弱音で囁くオーケストラの弦楽器群に乗って始まった彼女の粘りのある濃厚な色合いと、強烈な自己主張とを示すソロの凄まじさから、まず息を呑まされる。第2楽章での濃密な歌、第3楽章でのゲルギエフの煽りに一歩も退かず骨太な音楽で渡り合う気魄など、最近の彼女のスケールの大きな演奏は、見事なものである。
 チャイコフスキー・コンクール優勝から今年でちょうど20年。いよいよ個性的なヴァイオリニストになって来た。

11・22(月)マリス・ヤンソンス指揮コンセルトヘボウ管弦楽団のマーラー「3番」

   サントリーホール  7時

 前日のオーディオ協会での延べ5時間に及ぶソロ講演で、坐骨神経痛がまた悪化、「ザ・コツシンケー・ツー・ミー」などと洒落ている余裕もなくなった。
 午前中にペイン・クリニックで神経根ブロック注射を受け、何とか激痛を和らげてもらい、夜のヤンソンスを聴きに行く。休憩なしの総計2時間座りっ放しでは腰への悪影響が避けられないのは承知だが、背筋を伸ばした座り方で辛うじて切り抜ける。後ろのお客さんへの迷惑もあり得るので、最後部のハイバックの椅子席に変えてもらえないかと事務所に頼んでみたが、「今日は満席で無理」との返事。
 とにかく全曲100分、音楽に没頭できたのは、曲がマーラーの第3交響曲だったこともあろう。以前、肘だかどこだかの筋肉痛に悩まされていた時、ショスタコーヴィチの後期の交響曲をこのホールで聴いていて、ヘトヘトになったことがある――。

 それにしても、ロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団、いつに変わらぬ良いオーケストラだ。
 今夜はトランペット、ホルン、ポストホルンの一部にぐらつきが何度か出てヒヤリとさせられたものの、全体としてはやはり卓越した実力を備えた老舗管弦楽団であることは言うを俟たない。これだけの壮麗さと量感とを持った「3番」を演奏できるオーケストラは、決して多くないであろう。

 マリス・ヤンソンスは、今回も真摯に誠実に、ストレートな表現でこの長大な曲を指揮して行った。何のケレンも、あざとい誇張もない演奏構築で、それはそれでこの曲の素晴らしさを充分に表出させた指揮なのである。

 ただ私としては、2年前のコンセルトヘボウ管との来日で聴かせた「ドボ8」や「ラ・ヴァルス」で、ヤンソンスが著しく個性的な新境地を開拓しはじめたことが大変面白かっただけに、15日の演奏会同様、今回は些か拍子抜けした感もある。
 レパートリーの性格にも影響するだろうから、一概にどうこうとは言えない。
 しかし、バイエルン放送響を指揮する時よりも、こちらコンセルトヘボウ管の時の方が、ヤンソンスは思い切ったことが出来るようになって来ていたはずである。それを楽しみにしていたのだが――。

 それにまた、このオケの音色が妙に鋭くなっていたことも、少し気になった。
 かつてシャイーの首席指揮者時代にこのホールで演奏した同じ曲の、包み込むような豊麗さを持った響きと比較するのは意味がなかろう。だが、今日の演奏ではどういうわけか、金管も木管も、鋭角的な音が耳を劈く。
 もしかしたらヤンソンスは、その持病による体調のせいで、2年前に比べてオーケストラを微細な部分まで制御できなくなっている状態にあるのではないかしら――という危惧が、頭の中をよぎった。杞憂であってくれればいいと思う。
 今夜も彼はソロ・カーテンコールを受けた。この上なく愛されている指揮者なのである。

 アルトのソロは、アンナ・ラーソン。舞台下手寄り、木管奏者の左側に位置。2階席から見てさえ、ひときわ長身ぶりが目立つ。
 合唱は新国立劇場合唱団とTOKYOFM少年合唱団で、P席前方2列を占めた。その後方には一般聴衆が入るという珍しい形が採られた。後ろのお客さんたちは、合唱団員が起立している間は、舞台が全然見えなかったのではなかろうか。

 終演後、ホール出口の傘置き場の雑踏をすり抜けて歩いていると、ある初老の男が2、3人の女性を相手に「こういうオーケストラを聴いたら、日本のオーケストラのマーラーなんてとても聞けませんよ」と、物知り顔に話していた。「どれか日本のをお聴きになりました?」と女性客が訊ねると、彼は「いや、聞いてません」と平然と答えていたのである。
 こういう手合いには、本当に腹が立ってならない。ヤンソンスとコンセルトヘボウを讃えるという気持は同じだけれども。

※見舞いやアドヴァイスを数多く頂戴しました。御礼申し上げます。本当にありがとうございました。

11・20(土)内田光子とヴィヴィアン・ハーグナー

  東京オペラシティコンサートホール  3時

 2人の協演によるモーツァルトの「ソナタ ホ短調K304(300c)」に始まり、ついでハーグナーのソロによるバルトークの「無伴奏ヴァイオリン・ソナタSz117」からの「シャコンヌのテンポで」、およびバッハの「無伴奏ヴァイオリンのためのパルティータ第2番」からの「シャコンヌ」と続き、最後にブラームスのソナタ第1番「雨の歌」で終る――以上がメイン・プログラム。
 これらが休憩なしに約1時間15分を構成する。日本オーケストラ連盟青少年育成基金チャリティコンサートだから、ちょっと変則的なコンサート構成が採られたというわけだ。会場は超満員。

 ドイツの若手女性ヴィヴィアン・ハーグナーも、もちろん感性の鋭いヴァイオリニストだ。バルトークもバッハも、極めてスリムなイメージの若々しい演奏であり、きらきらとした音色の表情がこれらの曲から新鮮なイメージを引き出してくれる。

 だが、やはりこの日の主役は、内田光子であったろう。その演奏は、圧倒的な存在感だ。モーツァルトでは、彼女が完全に主導権を握っていた感がある。「ヴァイオリンのオブリガート付の鍵盤楽器のためのソナタ」というオリジナルのタイトルそのまま復活させているかのようなイメージだ。

 さらに印象的だったのは、ブラームスの冒頭の数小節におけるピアノの響きだ。特に2小節目から3小節目にかけ、オクターヴを二音まで下行したヴァイオリンが、再びホ――トと上って行く箇所で、それを支えるピアノの付点2分音符の和音群における、豊かでふくよかで壮大な拡がりは、内田ならではの雄弁さだろう。
 この時、ヴァイオリンとピアノとは、聴き手をハッとさせるほどの美しいハーモニーを形成していたのだった。卓越したピアニストでもあったブラームスが求めていたのは、この響きだったのだ――と感動させられる瞬間でもあった。
 この数小節を聴いただけでも、今日の演奏会を聴きに来てよかったと思ったほどである。

 腰と足の痛みのため、そのあと横浜へ行って6時から聴くつもりだった山田和樹と日本フィルの演奏会は、残念だが諦めた。今週は、月曜日の新国立劇場マチネー「アンドレア・シェニエ」も、治療のために欠席してしまった。痛みは、ハリと注射の治療でいっとき薄らいでも、長いコンサートを同じ姿勢で座ったまま聴き続けていると、たちまち復活してしまうのである。

11・19(金)チョン・ミョンフン指揮東京フィルのブルックナー「8番」

  サントリーホール  7時

 10日前からの坐骨神経痛がますます悪化し、歩行困難なほどの激痛を堪えながらの演奏会通い。長時間連続して座っていると、痛みが響いてしばらくは歩けなくなる。昨日の「ボリス」ほどではないにしても、「ブル8」も長いことでは屈指の交響曲だ・・・・。終演後、苦心惨憺して手摺を頼りに歩き、やっと廊下に出られた頃には、既に客席はガランとしていた。

 秋の在京オーケストラ「ブル8競演4連発」の、これは第2弾。ノーヴァク版(現行版)による演奏。
 チョン・ミョンフンは正面切って、いささかのケレンもなく、堂々たるアプローチでこの曲を指揮した。第4楽章ではコーダのクライマックスなど一部の個所でテンポを加速していたものの、基本的には全曲を遅めのイン・テンポで押し切っていた(プログラムには全曲演奏時間70分予定と記載されていたが、まさか!)。

 何か非常に厳めしい、よく言えば強面、悪く言えば無愛想といった雰囲気の音楽づくりだったが、東京フィルがかなり丁寧な演奏をしてくれたので、先日の高関=日本フィルとはまた違った味が聴けた。東京フィルのこの日の弦は基本18型編成。この数なら、もう少し壮麗に鳴ってもいいのではないかという気もするのだが。
 

11・18(木)METライブビューイング 
ムソルグスキー:「ボリス・ゴドゥノフ」  

   東劇(銀座)  5時半

 今シーズンの第2弾は、新演出で話題を呼んだプロダクション。10月23日上演のライヴ映像。

 もともとはペーター・シュタインが演出するはずだったのが、ヴィザ申請の際のドイツの米国大使館の対応の悪さに激怒、結局METデビューをも降りてしまったという話である。
 シュタインは、群集を「クレッシェンドを持つ流れ」としてダイナミックに動かすセンスでは天下一品――少なくとも以前はそうだった――の演出家である。今回もその醍醐味が見られるだろうと楽しみにしていたのだが、残念だ。
 代わりに演出を引き継いだのは、スティーヴン・ワズワースだ。多分、すべて彼なりのコンセプトで仕切り直したのだろう。群集の扱い方に関しては――映像で見る範囲では――ごくありふれた手法に留まっていた。

 歌手陣の歌唱と演技が、卓越していた。
 人間的な弱みと苦悩を見事に押し出したルネ・パーペ(皇帝ボリス・ゴドゥノフ)、凄味のある告発者を演じたミハイル・ペトレンコ(僧ピーメン)とアンドレイ・ポポフ(聖愚者)を筆頭に、エカテリーナ・セメンチュク(マリーナ)、アレクサンドルス・アントネンコ(グリーゴリー/偽ディミートリー)、エフゲニー・ニキーチン(ランゴーニ)、ウラジーミル・オグノヴェンコ(ワルラーム)、ニコライ・ガシーエフ(ミサイル)、オレグ・バラショフ(シュイスキー公)ら、すべて水を得た魚のような舞台を展開する。
 特にピーメンと聖愚者の存在がこのように強烈に描かれると、ドラマにいっそうの深みが出るものだ。

 今回は所謂1872年版(作曲者による改訂版)を基本にして、第4幕冒頭に「聖ワシーリイ寺院の前の広場」を復活した上演だったが、第2幕「クレムリン宮殿のボリスの居間」の場面で、ボリス登場の個所から同幕大詰めまでの部分を1869年版(初稿)に差し替えて演奏するという珍しい手法が採られていたのには少々驚いた。
 これは、パーぺが「ロシア語がなかなか覚えられないので」次善の策として採用した方法だとかいう話である。
 ちなみにパーぺは、数年前にベルリン州立歌劇場で、バレンボイムの指揮、チェルニャコフの演出で、1869年版上演を歌ったことがある。あれは私も観たが、どこかの騒々しい街を舞台として「鬱」に陥った市長ボリスという変な読み替え演出だった――。

 しかし、この「初稿版」における音楽が凄まじい迫力に富んでいるのは、周知の通り。改訂版より直裁で要を得ており、私はむしろ好きである。
 特に今回の指揮はワレリー・ゲルギエフだから、全く隙のない演奏になっていたのも当然だろう。彼がMETの優秀なオーケストラを率いて繰り出す音楽は、特にこの初稿版では、より息詰まる迫力を生み出すのである。重厚な風格を感じさせる演奏であった。

 この日の「案内役」はパトリシア・ラセットだったが、ヴォイトやフレミングと違って著しく不慣れ。拙劣で、一部の歌手に失礼な態度さえ見られた。
 15分の休憩2回を含み、終映は9時45分。

11・17(水)フランツ・ウェルザー=メスト指揮クリーヴランド管弦楽団

    サントリーホール  7時

 ドビュッシーの「牧神の午後への前奏曲」、武満徹の「夢窓」、ブルックナーの「第7交響曲」というプログラム。アンコールは無し。

 言っちゃあなんだけれど、もし今回ウェルザー=メストがウィーン・フィル公演(9日)に引っ張り出されることなく、このクリーヴランド管の公演のみを指揮する当初のスケジュールが守られていたなら、おそらく彼は、オーケストラを均整の取れた美音に仕上げることの得意な指揮者だ――という評価が日本で定着することになったかもしれない(あくまで私の勝手な想像である)。

 それほど今夜のクリーヴランド管は、バランスの良い、昔ながらの美しい音を出す立派なオーケストラであることを誇示していたのであった。
 金管が最強奏で咆哮する際には猛々しい響きも聴かれたが、そういう時にさえも、均衡と滑らかさを失わない音色が保たれているのだ。ブルックナーの中間2楽章には、まさにその典型的な良さが聴かれたであろう――第2楽章のすべて、第3楽章のスケルツォの1回目の演奏といったような個所で。

 ただウェルザー=メストの指揮、それはいいのだが、いつもながら情感や陰翳や余韻に乏しいのが、私にはどうも不満だ。

 「牧神の午後への前奏曲」はオーケストラのふくよかな音色もあって、悪くはなかった、と思う。
 そこから武満徹の「夢窓」に続く選曲の流れもいいアイディアだと思うのだが――長い舞台転換さえなければもっと良かったのだが、致し方ない――、武満の音楽に特有の「逍遥」や「夢幻」といったものがこうあっさりと棚上げされてしまっては、作品自体がえらく単調な感じになってしまうのではないか? 
 これまで外国人指揮者が手がける武満作品には、日本人指揮者によるそれと異なった骨太な構築性も聴かれることが多く、それはそれで面白いと私は常々思っていたのだが、この「夢窓」のような曲想のものにおいては、少々事情も異なる。

 まあしかし、われらが世界に誇る大作曲家・武満徹の作品を、ウェルザー=メストとこの大オーケストラが日本公演で取り上げてくれたことについては、大いに感謝すべきだろう。
 その意味で私も、3回のカーテンコールにはずっと拍手を続けていた。

 休憩後の「ブル7」。均整を保った美音の中にも、何か一種の無表情さが感じられてならない。第2楽章第2主題など、先日のスクロヴァチェフスキと読売日響が聴かせた精神に食い入ってくる演奏(10月16日)に比べると、鳴っている音楽は、どうも陶酔とは無縁のものだ。

 ウェルザー=メストという人、これまでチューリヒ歌劇場の「ばらの騎士」(07年日本公演)、ザルツブルクでの「ルサルカ」(クリーヴランド管、08年8月20日)、ウィーンでの「指環」「タンホイザー」など数多く聴いて来たが、その音楽づくりの特徴は、レパートリーによってかなりムラがあるようだ。
 それにウィーンのオケ相手の演奏(国立歌劇場、演奏会でのフィルハーモニー)の場合だけ、何故あんなに荒っぽくなるのか。未だに理解できぬ。

 今夜のカーテンコールは、クリーヴランド管がなかなか舞台から引き上げないこともあって、5分以上にもわたる長さ。しかしそのあと、ウェルザー=メストには、ソロ・カーテンコールが1回、贈られた。1週間前のウィーン・フィルとの演奏会と違って、今日は良かったよ!という聴衆の反応だろう。彼も嬉しかったのでは?

11・15(月)マリス・ヤンソンス指揮ロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団

   東京文化会館大ホール  7時

 来日ツァーの初日は、都民劇場音楽サークルでの公演。
 ベートーヴェンの「レオノーレ」序曲第3番、ヤナーチェクの「タラス・ブーリバ」、チャイコフスキーの「交響曲第4番」に、アンコールとして「眠りの森の美女」からの「アダージョ」というプログラム。

 残響の少ないホールだけに、コンセルトヘボウ管の音色もやや乾いたものとなっていたが、それでも「第4交響曲」第2楽章などではこのオケならではの美しい、しっとりとした響きが満開した。
 ヤンソンスは今回のプログラムでは、意外なほどにストレートな表現で押した。このオケとの前回の来日公演におけるドヴォルジャークの「8番」やラヴェルの「ラ・ヴァルス」での微に入り細に亘った前衛的な解釈が嘘のように思えるほどである。
 その意味では今回は、至極まっとうな演奏に終始、私としては些か拍子抜けの気分ではあったが――。いや、あまり刺激ばかりを求めるのもよろしくなかろう。

11・14(日)内田光子とクリーヴランド管弦楽団のモーツァルト

   サントリーホール  7時

 今回のクリーヴランド管弦楽団は、内田光子の弾き振りによる演奏会4回と、音楽監督フランツ・ウェルザー=メストの指揮による演奏会2回という、珍しい形の来日公演となっている。今日は東京初日。

 最初に指揮者なしで「ディヴェルティメント K.138」が演奏された。いい音だ。きれいな弦の音色だ。

 そのあとが内田の弾き振りのピアノ協奏曲で、「第23番」と「第24番」である。
 サントリーホールでの内田光子のモーツァルトの協奏曲といえば、今なお記憶に新しいのが、24年前のジェフリー・テイト指揮イギリス室内管との協演によるツィクルスだ。あの時はテイトの歯切れのいい剛直なリズム感による指揮に乗って、彼女のピアノも若々しかった。
 今はそのピアノにも、陰翳と深みと沈潜の美が加わった。テンポも一段と遅くなった。
 しかも彼女が指揮者として10型編成のクリーヴランド管から引き出すのは、レガートで抑制された、非常に柔らかく美しい、室内楽的な音楽なのである。我が道を往く感のある内田光子のモーツァルトだ。

 ホールは、文字通り満席。

11・14(日)NISSAY OPERA 2010
グルック:オペラ「オルフェオとエウリディーチェ」

   日生劇場  2時

 ウィーン版による上演。広上淳一指揮読売日本交響楽団、高島勲演出・ヘニング・フォン・ギールケ舞台美術、広崎うらん振付。宮本益光(オルフェオ)、津山恵(エウリディーチェ)、西山友里恵(アモーレ)に、C・ヴィレッジシンガーズの合唱。
 上演の出来は、ほぼ予想していた通り。

11・13(土)尾高忠明指揮札幌交響楽団のシベリウス

   札幌コンサートホール kitara  3時

 札響は北国のオーケストラだからシベリウスをやると上手い――などという俗説は私はあまり信用しないけれども、尾高忠明の指揮で「4つの伝説曲」を演奏するとなれば、シベリウス大ファンの私としては、ムード的にどうしても聴きたくなって来る。
 折しも土・日の札幌では「嵐」の公演があるとかで、札幌行の飛行機といい、JR快速エアポートといい、若い女の子たちで超満員。――札響を東京から聴きに行った人だって少しは居たろうと思いたいが・・・・。

 プログラムは「アンダンテ・フェスティーヴォ」「ヴァイオリン協奏曲」「4つの伝説曲」。いい選曲だ。
 冒頭の小品は、一部の指揮者が時たまやるような「アレグロ」にもならず、逆に「アダージョ」にもならず、まさにモデラートなアンダンテのテンポで演奏された。弦楽合奏はかなり強い弾き方で演奏され、硬質でごつごつした響きに聞こえたが、作品の性格を考えれば、こういうがっしりした表現が合っているだろう。

 「ヴァイオリン協奏曲」のソロはおなじみ竹澤恭子。9年前の尾高=札響の英国旅行で協演した時の快演を思い出す。この人の演奏も瑞々しさとともに強靭な造型を漲らせ、シベリウスの音楽の厳しさを表出して余すところが無い。

 「4つの伝説曲」は、ナマではなかなか聴けない曲だ。いい曲なのに、残念である。構築の上で些か弱いところがあるため、捉えどころの無い音楽だと思われがちなのだろうか。
 今日の尾高=札響の演奏も、作品全体をはっきりと隈取りした感のある構築ではあったが、しかしそうなるとなお、この曲の弱みが浮彫りにされるという皮肉な結果を生む(チャールズ・グローヴズが指揮したレコードのように、フワフワした演奏の方がむしろ雰囲気的に「いい意味で誤魔化せる」ことになるかもしれない)。

 それはともかく、尾高=札響、熱演であった。聴いた席の位置のせいか、オーケストラの細部までリアルに聞こえたため、特に「4つの伝説曲」では北欧のカレワラの霧の世界を思わせる神秘性は多少薄れた印象だったものの、音楽的には愉しめた。
 「レミンカイネンとサーリの乙女たち」後半でぐいぐいと昂揚していく音の緊迫感と迫力、「トゥオネラのレミンカイネン」での弦楽器群の不気味な胎動など、特筆すべき見事さであった。

 「トゥオネラの白鳥」の長いコール・アングレも悪くなかったが、そのこもりがちな音色がしばしば弦楽群の響きの中に埋没してしまい、黄泉の河の中に浮き沈みしつつ気弱に歌う白鳥とでもいったイメージになってしまったのは、少々違和感がある。もう少し「明確な姿」を現わして、嫋々と歌ってくれた方が悲劇感が出るのではないか?

 最後の「レミンカイネンの帰郷」は、「暗」から「明」への移行感が極めて難しい曲だろう。島崎藤村の「草枕」後段におけるような表現が演奏でも可能にならないかと想像するのだが、それも実際に行うは難し、であろう。
 しかし今日の演奏は丁寧だったし、最後まで造型を保ちつつ終結して行ったのは嬉しい。

 尾高のシベリウスはやはり卓越した水準にある。札響も弦を中心に、いい音を出していた。つい最近レコーディングしたいくつかの作品も聴いてみたが、これも実に素晴らしい出来だ(フォンテックから今月出る)。

11・12(金)高関健指揮日本フィルのブルックナー「8番」

  サントリーホール  7時

 高関健が日本フィルの定期に登場するのは久しぶりではないかという気もする。
 オーケストラをまとめる巧さでは定評のある彼が、最近登り坂にあるとはいえまだ粗さの残るこのオケを振ったらどうなるか、その辺の興味をも呼び起こす客演ではあった。

 結果としては、ブルックナーの音楽の壮大な緻密さを十全に出すには未だし、という感ではあったが、ラザレフ就任以来まだ2年足らずの時期にあるこのオケのこと、そう一朝一夕には行くまい。
 しかし、先月の尾高忠明の客演といい、今月の高関健といい(何だか札響みたいだ)緻密な音楽をつくってくれる指揮者を客演に招くという路線は好ましいのではないかと思われる。

 さて、高関の「ブル8」。
 彼は全曲を基本的にイン・テンポ――それもかなり遅めのテンポで――で押した。この考え方には、私も共感する。「ブルックナーの音楽を指揮する時には、テンポを途中であれこれ動かしてはいけません」と言ったのは、往年の巨匠カール・シューリヒトだったか。

 しかし、高関のこの「ブル8」は、むしろ彼の恩師カラヤンの強い影響を感じさせるのではないかと思う――それも1957年録音のベルリン・フィルとの旧盤での演奏を、である。
 特に第4楽章ではそれが顕著だ。指揮者によってはしばしば猛烈な加速が試みられるハース版【N】の個所やコーダなどで、高関はカラヤン同様、急がずにじっくりとイン・テンポで音楽を高揚させて行く。この手法も、私は好きだ。
 【N】など、ここをぶっ飛ばしたら、ブルックナーの高貴さ、雄大さ、デモーニッシュな迫力などが台無しになり、ただの狂乱状態になってしまうからである。とりわけハース版においては、そのあとの【O】の美しいフレーズにうまく続かなくなるだろう。

 ただ、このイン・テンポ路線で厄介なのは、オーケストラによほどの重量感と持続力がないと、いくつかあるクライマックスを「高く、次はさらに高く」構築して行くのが非常に難しいことにあるだろう。今日の演奏で惜しかった点といえば、そこにあるのではないか。
 コーダの最終個所では、高関の丁寧な音づくりと、日本フィルの文字通り全力を揮った演奏とで、各楽章の主題群が同時に響きつつ交錯する模様は、非常にバランスよく立派に表出されていた。が、そこでのブルックナーの音楽が持つアルプス的な威容といったものを再現する点では、やはり今一つ物足りないものがあった、と告白せざるを得ないのである。

 日本フィルの演奏は、全体としては悪くはなかったものの、細かいところは相変わらずいろいろあった(一例としてティンパニはもう少し正確にたたいてもらいたい)し、最強奏での音色も芳しいとは言えなかった。在京オケ・ランクのAクラス常連となるためには、このあたりを早く整備することが肝要ではなかろうかと思う。

11・11(木)飯守泰次郎指揮東京シティ・フィルハーモニック管弦楽団

   東京オペラシティコンサートホール  7時

 飯守&シティ・フィルが展開中の「ベートーヴェン交響曲全曲シリーズ」――イーゴリ・マルケヴィッチによる校訂版使用――の、今夜は第3回。「第1番」と「第3番 英雄」が取り上げられた。
 それに先立ち、「レオノーレ」序曲第3番も(これはマルケヴィチ版ではない)。

 このシリーズ、注目はしていたのだが、漸く今回初めて聴くことができた。
 私は、マルケヴィチの校訂楽譜そのものを見ていない。それゆえ詳細を知る機会を得ないし、どこまでが「マルケヴィチ」で、どこからが「飯守」なのかも――如何なる演奏においても、指揮者自身の「解釈」は必ず混じって来るからである――確定的なことは解らない(註1)。

 だが、とりあえず今日の演奏を聴いて確認できたのは、スタッカートや錘点(楔)の区別が非常に明確であり、全曲が著しくリズム性に富み、尖ったメリハリのある演奏になっていることだ。
 随所に付された明快なアクセントは小気味よいほど強く、音楽をきわめて躍動的なものにしている。それを念頭に聴いているだけでも、興味津々、スリルを覚えるほどである。

 もっとも、その特徴にだけ関して言えば、新ペータース版やベーレンライター版などの楽譜が登場した時に、私たちはすでにそれらを体験済みだ。
 むしろ注目すべきは、それ以前の時期――1983年に他界したマルケヴィチが、いち早くそれらを含む問題点を考察したスコアを作っていた、ということであろう。

 スタッカート以外にも、おそらくもっと多くの興味深い問題が提起されていることだろう。
 第4楽章冒頭、第1主題がまずピチカートで登場したあと、木管が合いの手を入れながら繰り返される個所(第20~27小節)で、弦はピチカートでなく、アルコで演奏された。意外だったが、しかしこれは以前にも、誰かの指揮で聴いたような気がする(註2)。
 ただ、第1楽章最後の頂点でのトランペットは、主題を最後まで吹き切るという「伝統的な慣習」が相変わらず採られていたが、これは「マルケヴィチ」なのか、「飯守」なのか?(註1)

 飯守の情熱的な指揮のもと、シティ・フィルも見事な演奏をしていた。特にオーボエの1番奏者は素晴らしい。すこぶる聴き応えのある演奏であった。
 私個人の好みからすれば、前夜のプレートル&ウィーン・フィルによるトラディショナルな「英雄」よりも、今日のこの角張った「英雄」の方が興味深い。

 終演後、飯守泰次郎氏の叙勲(旭日小綬章)祝賀パーティが、ホールの2階ホワイエで行なわれた。

(註1)後日、有名な個人旅行エージェントの方から、出版譜をお借りすることができた。面白い校訂が山ほどある。「英雄」第1楽章最後の「トランペットの件」はマルケさんの校訂ではなく、飯守氏の考えであることが判明。

(註2)コメントを頂戴しました。ありがとうございます。

11・10(水)ジョルジュ・プレートル指揮ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団

   サントリーホール  7時

 あれこれ騒動に見舞われた今年のウィーン・フィル日本ツァーは、真打(?)ジョルジュ・プレートルの指揮で、ともかくも千秋楽。招聘元や裏方の苦労には同情を禁じえない。

 結局、今回登場の3人の指揮者のうちでは、プレートルが最も人気を得た存在となったであろう。今夜は、彼へのソロ・カーテンコールが2度も行なわれた。
 これまでそれほど日本におなじみの指揮者というわけではなかったのに、やはり「ニューイヤーコンサート」TV中継での知名度、高齢の指揮者に寄せられる日本独特の人気、ステージマナーの温かい雰囲気、もう今後はいつナマで聴けるか判らないという惜別の想い――などが綯交ぜになり、併せて演奏の良さが相まって、今夜の会場におけるような熱狂的な拍手とブラヴォーが生れたのであろう。

 サロネンが来られなかったのは確かに残念なことではあったが、思いがけない指揮者をウィーン・フィルとの組み合わせで聴けたのは、災い転じて福と為す――の一例だった。

 今日のプログラムは、シューベルトの「第2交響曲」とベートーヴェンの「英雄交響曲」。いずれも衒いの全くない、オーソドックスな演奏だ。

 ともあれ、今回の3人の指揮者のうちでは唯一、所謂「ウィーン・フィルの音」をオーケストラに発揮させたのがこのプレートルだったと言ってもいい。それだけ彼は、オーケストラを「その気にさせる」のが巧い指揮者ということになるし、オケの個性を存分に生かしつつ己の音楽をつくるタイプの指揮者ということにもなろう。
 ホルンを存分に活躍させながらも、低音はそれほど強調することなく、どちらかといえば軽くしなやかな響きをウィーン・フィルから引き出していたあたりに、フランス人指揮者の片鱗が感じられたと言えようか。

 アンコールは、ブラームスの「ハンガリー舞曲」第1番と、J・シュトラウスⅡの「トリッチ・トラッチ・ポルカ」。前者はなかなかに豪華な演奏。後者ではプレートルの愉しそうな表情が印象的であった。

11・9(火)フランツ・ウェルザー=メスト指揮ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団

   サントリーホール  7時

 同行来日中止となったサロネンの代役として、今日のみウェルザー=メストが指揮した。
 プレートルはまだ日本にいるが、明夜との連日ではやはりご老体にはこたえるということだろう。それにサロネンの穴埋めとしては、やはり有名指揮者2人くらいを揃えてみせないとファンが納得しないだろうということもあったか。

 ウェルザー=メストは既にウィーン国立歌劇場の音楽監督だし、フィルハーモニーとも気心知れた間柄のはず。1曲目の「トリスタンとイゾルデ」の「前奏曲と愛の死」など、流石に手馴れた雰囲気を感じさせた。
 但し手慣れてはいるが、相変わらず味も素っ気もない指揮だ。「愛の死」の絶頂個所など、実に淡白であっさりした陶酔である。まあ、ウィーンで聴いた「指環」ツィクルスでの演奏を思えば、予想できたことであるけれど。

 後半はブルックナーの「交響曲第9番」。こちらも淡彩ではあるものの、ウィーン・フィルの豪壮さがものを言って、極めて壮大な音の建築が出現した。第1楽章の終結部など、巨大な津波が恐るべき勢いで盛り上がって来るといったイメージさえ呼び起こす演奏である。

 ウィーン・フィルの音は、先日のネルソンスの指揮の時と同様、かなりラフで猛々しく、このオケがかつて備えていた艶麗な音色からは程遠い。ガリガリ弾かされていた所為もあるのだろう。アンコールはなく、8時45分には終演となった。

11・8(月)庄司紗矢香&ジャンルカ・カシオーリ

   サントリーホール  7時

 10月23日から行われていたツァーの、今日が最終日。ベートーヴェンの「ヴァイオリンとピアノのためのソナタ」から、「第2番」「第5番 春」「第9番 クロイツェル」、さらにアンコールとして「第8番」の第2楽章――というプログラムだ。
 「2番」と「9番」は、先ごろ出たCDと同じ曲目。最近は来日公演と同じ曲を直前にCDでリリースするのがとりわけ流行るらしい。12月のエレーヌ・グリモーもそうだし。

 2年ほど前だったか、庄司紗矢香のリサイタルでベートーヴェンの「7番」のソナタを聴いたが、その時にはむしろ抒情的な美しさが目立つ演奏という印象だった記憶がある。
 だが今は、彼女の演奏はがらりと変貌していた。
 3曲とも、あたかも求道者が対象を極めるように、主題の一つ一つ、フレーズや音符の一つ一つまで突き詰め、作品の内面に迫って行こうとするような、おそろしく厳しい姿勢を感じさせる。それは、聴き手を息詰まるような緊張の中に巻き込む演奏だ。

 最近の若手演奏家の中には、これと同じようなことを試みる人も多い。だが、庄司が彼(彼女)らと異なる点は、その演奏解釈が作品の性格との間に肉離れを起こしていないことにある。庄司紗矢香はこの若さながら、本当に凄い演奏家になったものだと思う。

 彼女のこの演奏に対し、カシオーリのピアノは常にある種の自由さを保ち続け、その緊張を和らげようとする役割を果たしていたかのようであった。このせめぎ合いが不思議な対決感のようなものを生み出していたように思われる。

 こういう演奏には些か疲れを覚えるけれど、聴き慣れたソナタが思いがけぬ容貌を以って現われて来るという、そのスリルに非常な快感を覚えることも確かである。作品からは、造型や端正さ、流麗さといった要素が剥ぎ取られる。いわば「脱・古典派」の性格をより強く帯びるとも言えよう。

11・7(日)METライブビューイング ワーグナー:「ラインの黄金」

   川崎109シネマズ  11時

 評判の良いMETのライヴ上演映像一般公開のシリーズ、今シーズンはこの演目で開始された。入場料3500円で、客もそこそこ入っている。
 この映画館は初めてだが、音響も悪くなく、音量も手頃に設定されていて聴き易い。但し配役一覧表も内容紹介の資料も配布されないのは、クラシック音楽ファンの心理を無視したもので、不親切である。

 20年以上にわたりMETの舞台を飾って来たオットー・シェンク演出のプロダクションに替わり、新制作されはじめたロベール・ルパージュ演出「ニーベルングの指環」――その第1弾がこれだ。
 まさにMETならではの非常に大掛かりな舞台で、巨大なセットが大きな角度で刻々と変化し、照明や吊り装置により登場人物の動きが視覚的にも異次元的な効果を生むのが面白い。セット・デザイナーのミシェル・ゴセラン、テクニカル・ディレクターのカール・フィリオンの力も与っているだろうが、何よりルパージュの美的感覚がものを言った舞台と言えよう。

 こういう舞台は、今日のような予算難の時代にあっては、他の歌劇場ではちょっと真似できないたぐいのものである。先シーズン、「トスカ」の渋い新演出に落胆したMETの観客も、今度の「指環」新演出版にはどうやら満足したのではなかろうか。

 若干皮肉な目で見れば、ルパージュの「指環」は、要するに舞台装置の華麗さと豪華さで特徴づけられるものであり、ドラマトゥルギーそのものに関してはむしろ平凡な域を出ていないか、もしくは欠如している、と言えるかも知れない。
 だがまあ、それはもう少し先を観てからにしよう。

 指揮は、前プロダクションと同様ジェイムズ・レヴァイン。「指環」といえば世界の歌劇場におけるステイタスだから、相変わらず人気のある音楽監督が自ら振るのは、まあ当然なのだろう。
 歌手では、ヴォータンのブリン・ターフェルが悪役顔で威容を誇示していた。だが最も存在感を示して気を吐いていたのは、アルベリヒのエリック・オーウェンズだった。ローゲのみ、独り盛んにブーイングを浴びていたのは気の毒。

11・6(土)
インゴ・メッツマッハー指揮新日本フィルハーモニー交響楽団の
マーラー:交響曲第6番「悲劇的」

   すみだトリフォニーホール  2時

 何とも激烈な、物凄い演奏であった。この曲が如何に音響的に狂気じみたものであるか、今日ほどそれを痛感させられたことはない。
 だがその狂気は、放縦とか乱雑とかによるものではなく、明らかにメッツマッハーの意図的な設計によって生れたものであることが感じられる。つまり、新日本フィルも巧かったということだ。

 総じてリズムは明晰で、きりりと歯切れがいいが、しかしすべて強烈だ。
 第2楽章(スケルツォ)などでは、怪獣的な迫力をも感じさせる。あたかも一糸乱れぬ恐怖の軍靴の響きの如くである。
 かつてヘンリー・A・リーが「この曲を聴くと世界が軍事色に包まれてゆくような印象にとらわれる」と書いていた(「異邦人マーラー」音楽之友社、渡辺裕訳)。「そんな聴き方があるものか」と当時は思ったものだが、このメッツマッハー指揮する演奏の第2楽章のさなか、突然その一文が頭の中をよぎったのであった。

 彼は次の第3楽章(アンダンテ・モデラート)にアタッカで入った。もしかしたらこの2つの楽章を「影と光」あるいは「暗黒と光明」「闘争と平安」といった意味で捉えたのかなとも思ったが――メッツマッハーの感覚の中にそうした観念的な解釈があったかどうか。
 少なくとも次の第4楽章の演奏を聴くと、そうとも考えにくいものがある。

 そのフィナーレは、鉄骨建築の如く強固で揺るぎない構築の演奏で、音響はまさに乾いた鋭い怒号絶叫の連続。2度のハンマーも「鈍く轟く音」ではなく、鋭角的な打撃音である。
 新日本フィルが最後までこの緊張と力感を保持したのにはつくづく感服するが、私の方は、正直言って、もう展開部の途中あたりから辟易してしまった。こう終始一貫して咆哮されてはたまらない。

 そもそもこの第4楽章は、こんな演奏でよかったのか? 
 この音楽は本来、もっと精妙で複雑な起伏があるべきではなかったか? たとえば絶望の淵から這い上がろうとしてはその都度抗し難い運命の暴力(ハンマー)に叩きのめされ、ついに再起不能に陥るという、精神の苦悩を象徴しているはずのものではなかろうか?
 かように音響的なエネルギーだけで押し切ろうとする演奏は、いかがなものかと思う。

 それにしても、メッツマッハーという指揮者は、かなりのクセモノである。

11・5(金)アンドリス・ネルソンス指揮ウィーン・フィル

  ミューザ川崎シンフォニーホール  7時

 名門ウィーン・フィルの日本公演に、久しぶりに若手指揮者が登場したのは大変喜ばしい。
 今年まだ32歳のアンドリス・ネルソンス(ラトヴィア生れ)。既にバーミンガム、バイロイト、ウィーンをはじめ、欧州では赫々たる成功を収めつつある人だが、日本には今回が初お目見えだ。
 今日は空席も多かったが、その実力を考えれば、彼の名のみでホールを満席にする日はそう遠くないだろう。現に今日は、彼へのソロ・カーテンコールもあった。早くも人気上昇中、祝着である。

 これまで彼の指揮に接した機会はオペラばかりだったので、今回は初めて彼の指揮姿をじっくりと眺めることができた。見れば見るほど、その動作すべてが、彼の同郷の先輩にして師でもあるマリス・ヤンソンスにそっくりである。あんなにも生き写しになるものか。まるで指揮台にマリス本人が居るようにさえ思えて、何となく愉快になった。

 プログラムの前半は、モーツァルトの「交響曲第33番(変ロ長調)」と、ハイドンの「交響曲第103番《太鼓連打》」。
 弦12型でじっくりと鳴らす。後者でのティンパニも、変ホ音のみを漸強・漸弱のトレモロで響かせるという、ごくオーソドックスな手法である。あたかもウィーン古典派に関してはウィーン・フィルにお任せするといったような雰囲気もあって、演奏もまっとう過ぎるくらいであった。
 しかし、2曲ともリズム感が明快でメリハリの極めて強い音づくりであったこと、あるいは前者の第4楽章の主題再現部に入るくだりで非常に劇的な盛り上げを聴かせたこと――などに若いネルソンスの意気と気魄が感じられたと言えようか。

 だがネルソンス、休憩後の「新世界交響曲」にいたるや、今度は俺の領分だと言わんばかりに、目まぐるしい動きの指揮でウィーン・フィルを制御する。テンポ、アゴーギク、デュナーミク、すべてに秘術を尽した個性的な解釈の指揮ぶりだ。
 第2楽章での思い入れたっぷりの情感、スケルツォでの嵐の如き突進、第4楽章再現部突入直後の個所での体当たり的な昂揚など、すこぶる見事なものであった。

 こういう念入りな演奏のつくりが、作品の性格との肉離れを全く起こしていないところにも、ネルソンスの才能が感じられるだろう。
 オーケストラとの呼吸は必ずしも合っているとも思えなかったが、この若さで天下の名門オケを引き摺り回す鼻息の荒さはたいしたものである。一方、この若者によく合わせてやっていたウィーン・フィルも、流石である。

 アンコールは、ブラームスの「ハンガリー舞曲」(ドヴォルジャーク編曲)の「第20番」と「第21番」をセットで。
 なるほど、この2曲は続けて演奏されると、ハンガリー舞曲「チャールダシュ」における形式「ラッシュー(遅)」と「シェベシュ(速)」に相当する形になるのだ――と改めて納得。

 当然ながらプログラム第2部では弦16型での演奏であったが、この編成なら通常は8人いるはずのコントラバスが今は7人にとどまっていた光景は、何とも寂しく悼ましかった。来日中に予想外の事故で逝ったコントラバス奏者の冥福を祈りたい。

11・3(水)キエフ・オペラ ムソルグスキー:「ボリス・ゴドゥノフ」

  オーチャードホール  3時

 ウクライナ国立歌劇場(キエフ・オペラ)が持って来た得意の「ボリス」は、何と、最近では珍しい存在となった「リムスキー=コルサコフ版」だった。

 この華麗極まる改訂編曲版をナマ上演で聴くのは、何年ぶりか。
 そもそもこのオペラを初めて聴いて夢中になり、隅から隅まで聴いて覚えこんでしまったのがイザイ・ドブロウェン指揮(主演はボリス・クリストフ)のリムスキー版演奏による古いLPだったから、私にとってこの版は懐かしい。
 ムソルグスキーのオリジナルとは似ても似つかぬ華美なオーケストレーションだが、これはこれでリムスキー=コルサコフの面目躍如、いかにも巧みであり、良く出来ている。第3幕のサンドミル城内の場など、よくもまあこれだけ派手にオケを鳴らしたものだと感心する。

 舞台装置と衣装はもちろん伝統的なスタイル。それほど豪華ではないが、丁寧に作ってある。
 タラス・シュトンダ(ボリス)、セルフィ・マヘラ(ピーメン)、ボフダン・タラス(ワルラーム)が重厚な声で堂々たる歌唱を示したのをはじめ、歌手陣はすべて優秀だ。ヴォロディミール・コジュハルの指揮(例のごとくイン・テンポだが)する安定した響きのオーケストラの演奏とともに、音楽的にはかなり満足できる出来であった。

 ただし、演出(ドミトロ・スモリチ)は極度に常套的で、演技などあって無きが如し。
 それに今回は、日本語字幕の質が非常に悪い。意味不明瞭な表現や誤訳が随所に見られ、読んでいて苛々させられた。

 リムスキー=コルサコフ版使用といっても、今回は「聖ワシーリイ寺院前の場」が第4幕第1場として挿入され、その代わりに第4幕の「クロームイの森の場面」がカットされるという方法が採られていた――もっともこれは、プログラムに掲載されていた筋書を読んで知ったことであり、私は親戚の通夜に出席するため第3幕まで観ただけで失礼してしまったので、自分でそれを確認したわけではない。

 もしその通りの上演だったとしたら、これはすこぶる変則的な幕構成だろう。前者(リムスキー版には無い)を復活させる上演は、他版使用の場合にはしばしばある。が、このオペラの一方の主役である群集の蜂起の場面である後者をカットするというのは、珍しい。
 招聘元に確認したら、このプロダクションはふだんウクライナで上演しているものと同じだとのこと。世界にはいろいろなやり方があるものだ。

11・2(火)インゴ・メッツマッハー指揮新日本フィルハーモニー交響楽団

   サントリーホール  7時15分

 現代音楽を得意とするメッツマッハー(夏にもザルツブルクで「ディオニュソス」の見事な指揮を聴いたばかり)が、ロマンティックなチャイコフスキーの「悲愴交響曲」をどんな風に振るのか――それだけでもこの演奏会への興味が湧く。彼は今夜が新日本フィルへの初登場だ。

 1曲目のブラームスの「悲劇的序曲」の冒頭、新日本フィルは常になく骨太で剛直な響きを出し始めた。なるほど、こういう剣豪的なアプローチなのか、と愉しくなる。しかしそのあと、妙にイン・テンポの単調な演奏となって行ったのは些か腑に落ちず、聴き慣れたこの曲がえらく長く感じられてしまった。

 ところが2曲目――カール・アマデウス・ハルトマン(1905~63)の「交響曲第6番」になると、メッツマッハーの指揮は俄然生気を取り戻す。鮮やかな整理構築ぶりである。ほとんど全曲にわたり打楽器陣が総出で活躍する、終始ドッタンバッタンやっているような曲だけれど、リズム感や盛り上がり方や色彩感など、実にうまくまとめた指揮である。この曲をこれほど面白く聴けたのは初めてであった。

 そして「悲愴」だが、メッツマッハーは第1楽章を実に生真面目に禁欲的に素っ気なく進めたかと思うと、フィナーレでは突然感情を激しく吐露するような、表情豊かな表現に変わる。この対比が不思議だ。
 しかし、おそろしく慌しいテンポで押し飛ばした第3楽章を含め、全曲の演奏がある一つの確固とした芯のようなもの――それを具体的に表現する言葉が今は見つからない――に貫かれているのは間違いない。
 彼の指揮、現代モノがやはり一番だと思うものの、ロマン派や古典派作品もナマ演奏であれこれ聞き比べてみたい気も起こる。

 新日本フィル、熱演したのは事実だが、最強奏部分では弦の音がやや汚れ気味だ。ガリガリ弾かされた所為か。特に「悲愴」第3楽章では猛速テンポをこなし切れず、およそこのオケとは思えぬような、乾き切った乱雑な音色。しかしこれは、指揮者にも責任があろう。

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