2017-02

10・31(日)飯守泰次郎指揮東京フィルハーモニー交響楽団
「午後のコンサート」~2人のシュトラウス

   東京オペラシティコンサートホール  2時

 私の母校である白金小学校(東京・港区)のクラス会が昨年開催された際、「次のクラス会は、クラシックのコンサートなるものを聴いて、そのあとお茶をするというのはどうか」などと、血迷った提案をしたヤツがいた。さればということで、仲間たちの好みや選曲・時間・場所・演奏者その他諸々の条件を斟酌勘案して私が選んだのが、この「2人のシュトラウス」と題した「午後のコンサート」。

 第1部にヨハン・シュトラウス2世中心の作品集(「こうもり」序曲、「皇帝円舞曲」「アンネン・ポルカ」「ピチカート・ポルカ」「雷鳴と稲妻」「美しく青きドナウ」)、第2部にリヒャルト・シュトラウスの「ティル・オイレンシュピーゲルの愉快ないたずら」と「サロメの7つのヴェールの踊り」、アンコールにヨハン・シュトラウス1世の「ラデツキー行進曲」というプログラムだから、まあ内容としては手頃だったのでは、と思う。
 みんなそれなりに愉しんでくれたようだったのは、世話役としては嬉しかった。こういうタイプのクラス会も、悪くなかろう。

 コンサートでは、飯守泰次郎が自ら「ナビゲーター」を務めたが、オハナシは少々長かったとはいえ、普段クラシックの演奏会に足が遠い人たちにとっては、曲の間にこういう解説があるというのはやはり便利だろう。
 だいいち、手元のプログラムで曲名を確認しようとしても、客席の照明が暗くて用を為さないからである(また繰り返すが、日本の演奏会はおしなべて場内が暗すぎ、年輩者や視力の弱い人には不親切である)。

 演奏そのものは、どうだったか? 
 端的に言えば、こういうコンサートの時には、オーケストラは著しく手を抜くものだ――ということ。

10・30(土)大友直人指揮東京交響楽団 
エルガー:「生命の光」日本初演

   東京芸術劇場  6時

 台風14号接近による土砂降りの天候にもかかわらず、聴衆は大勢詰めかけた。満席とは行かずとも結構な入りだったのは、この珍しい作品を聴き逃すまいという人たちも多かったからであろう。

 20年間続いてきた大友直人と東響の「東京芸術劇場シリーズ」も、これを含めあと2回で終る。「ゲロンティアスの夢」「使徒たち」「神の国」などの大作が取り上られてきた「エルガー・シリーズ」も、これが最終回ということか。劇場改修という要因もあるにせよ、固定ファンを抱えて入りの良かったシリーズだけに、寂しい。

 「生命の光」は、演奏時間およそ60分。39歳の作なので、まだ少し素朴な趣きもあるが、美しい。盲目の男がイエスの力により視覚を取り戻した奇蹟への慶びや感謝が謳われる第9曲や第10曲、あるいはイエスが祈りを捧げる第15曲あたりの叙情美は、まさにエルガーならではのもの。よくぞ初演してくれたという思いだ。

 声楽陣は小林沙羅(S)、永井和子(Ms)、クリストファー・ジレット(T)、クエンティン・ヘイズ(Br)、東響コーラス。どんな大作でも必ず暗譜で歌う東響コーラスの演奏水準の高さは、とりわけ素晴らしい。

 なおプログラムの前半には、ブルッフの「ヴァイオリン協奏曲第1番」が演奏された。このソリストはローラン・アルブレヒト・ブロイニンガー。中堅世代の人だが、不思議に老成した味がある。音程さえふらつかなければ、悪くないのだが。

 字幕は無し。費用がかかるから仕方がないとは思う。だがなにせ、日本初演モノである。手元のプログラムに載っている台本を参照しようにも、私のようなトシの人間には、字が薄く細かく、しかも暗いのでほとんど読めない。こういう曲の時には、客電をもう少し上げてもらえないものか。いつも思うことだが、日本の演奏会の客席の照明は、暗すぎる。
 

10・29(金)ニコラウス・アーノンクール指揮
ウィーン・コンツェントゥス・ムジクス ハイドン:「天地創造」

   サントリーホール  7時

 「ロ短調ミサ」ではそれほど表に出なかったアーノンクール独特の語法が、この標題音楽的な「天地創造」では余すところなく発揮される。もちろんこれは、テキストの内容からしても、予想されたこと。

 テキストの意味を含めた標題性に強くこだわる表現そのものは面白いが、テンポやデュナーミクがあそこまで誇張されて行くと、作品全体の滔々たる流れも音楽の一貫性も失われてしまう。冒頭の天地混沌の場面など、あの極度に遅いテンポによる描写には、私はとても共感できない。もう少し直裁にやってもらえないものか――と、いつも思う。

 しかし、いざ水平飛行(安定走行?)に入った時のアーノンクールの音楽の「持って行き方」やテンポとニュアンスの精妙な調整は、それはもう見事なものである。
 第1部最後の「天は神の栄光を語り」や、第2部最後の二重フーガへのそれぞれ盛り上げ方の巧さなども、その例だ。
 全曲最後の「四重唱付合唱」を壮大で熱狂的な盛り上がりに持って行かず、むしろ抑制して演奏し、「アーメン」を余韻豊かに結ぶのは、「ロ短調ミサ」の終曲におけると同様、アーノンクールの得意ワザだろう。

 アーノルト・シェーンベルク合唱団の明晰かつ安定した良さも、いつもながらのもの。
 ソロ陣はドロテア・レッシュマン(S)、ミヒャエル・シャーデ(T)、フローリアン・ベッシュ(Bs)。

 レッシュマンの表現力豊かな歌唱には惚れ惚れするほどだ。第3部でのイヴ役をあれほど人間味豊かに、感情をむき出しにするように激しい表情を込めて歌う人が他にいるだろうか。ある意味ではそれはアーノンクールの狙いと合致しているとも言えよう。しかし彼女はどんなにそれを強烈な表現で歌っても、作品の均衡を失わせるなどということはしないのである。

10・27(水)小菅優の
ベートーヴェン・ピアノ・ソナタ全曲演奏会シリーズ第1回

  紀尾井ホール  7時

 小菅優が、いよいよベートーヴェンのピアノ・ソナタ全曲ツィクルスを開始した。
 第1回の今日は「第1番」「第2番」「第3番」(つまり作品2の3曲)という選曲だが、今後は特に番号順に組んで行くわけではないとのこと。第2回は来年6月というから、かなり長いスパンのツィクルスになりそうである。この進行の中で、彼女自身もいっそうの成長を重ねて行くことになるのだろう。

 「第1番」は、始まってからしばらくは音色とリズムにやや明晰さを欠き、何かもどかしさを感じさせたが、これはこちらの聴いた席の位置(2階正面中央やや下手寄り1列目)の所為だったかもしれない。以前、誰のリサイタルの時だったか忘れたが、やはり2階正面最前列で聴いた時、ピアノが同じような響きに聞こえて戸惑ったことがある。
 しかし、第4楽章あたりからは目覚しく音色も爽やかに瑞々しくなりはじめたから、彼女の弾き方が変わって行ったのも事実だろう。
 特に表情豊かで素晴らしかったのは「第2番」であった。

 試みに休憩後の「第3番」は1階後方の席に移って聴いてみたが、こちらでは彼女のピアノも極めて闊達明快な表情に聞こえた。もちろんそれぞれの曲想の違いや、彼女のアプローチの違いもあるだろうが、それ以外にも、1階と2階とでピアノの響きにかなりの違いが出るという要素もあるのかもしれない。
 「第3番」の第2楽章(アダージョ)は極度に沈潜した表現で、最近の彼女は――サイトウ・キネン・フェスでのベートーヴェンの「第4協奏曲」といい――緩徐個所でよくこういう手法を採るようである。

 アンコールは、これまた沈潜したシューマンの「アラベスク」が弾かれたあと、ショパンの「練習曲作品10-1」、モーツァルトの「ソナタK.330(300h)」の第1楽章。
 この3曲が終る頃には、今日のテーマのはずだったベートーヴェンのソナタの印象は、どこかにケシ飛んでしまっていた。それだけ、3曲の演奏が良かったのだとも言えるのだが・・・・。しかしこういうアンコールの方法は、いかがなものか。

10・26(火)ニコラウス・アーノンクール指揮
ウィーン・コンツェントゥス・ムジクスの「ロ短調ミサ」

  サントリーホール  7時

 ニコラウス・アーノンクールと、彼が57年前に結成したウィーン・コンツェントゥス・ムジクス。そのコンビの4年ぶり3度目の、しかもこれが最後の来日になるとのこと。
 彼自身は未だ(?)81歳だから、また何かのはずみに来日が実現しないとも限るまいが、ともあれ今回はバッハ、ハイドン、モーツァルトの作品を携えての計6回の東京公演で、有終の美を飾る。
 今日は2日目、バッハの「ロ短調ミサ」の2回目の演奏。

 楽譜に関してはかなりの程度まで彼による校訂が加えられていると聞くし、また事実、きわめて新鮮に感じられる響きも随所に聴かれて興味深いものがある。だがその楽譜を見ることは叶わないので、とりあえずは感覚的に彼の演奏を受け止めよう。

 何よりもアーノンクールの、一分の隙もないバランスで構築された全曲の統一性と、その中にこめられた精緻なニュアンスが見事だ。
 「聖霊によりて処女マリアより肉体を受け」から「十字架につけられ」に続く部分を、あたかも受難曲における演奏のように、極度にテンポを落して凄味を出し、悲劇感を強調するところなど、アーノンクールならではの独壇場であろう。
 しかも「ニケーア信経(クレド)」の大詰め、「唯一の洗礼を認む」から「死者の甦りを待ち望む」にかけてのテンポの変化たるや、これまた息を呑まされるほどの絶妙さであった。「オザンナ」での強弱の変化の精妙さも、いかにもアーノンクールならではのものだろう。
 全曲の最後は、壮大な讃歌ではない。抑制された抒情の中にデクレッシェンドし、柔らかい余韻を残してゆっくりと結ばれて行ったのが印象的であった。

 私はふだん、彼のテンポやデュナーミクの誇張――たとえそれがテキストの内容に関連づけられるものであろうとも――にはあまり共感できないのだが、このように脱帽せずにはいられない瞬間も、しばしばある。
 しかし、かような細部の精妙さに感銘を受けるのみで、それがバッハの音楽自体への畏敬の念にまで直接結びつかない演奏に感じられてしまうところに、やはりアーノンクールという巨匠の指揮に心からは溶け込めない私の好みがあるのだろうと思う。
 この日の「ロ短調ミサ」の演奏には、全く長さを感じなかったし、多くの新鮮な感銘を得たのは確かであった。だが、これよりももっと心から感動した演奏に出会ったことがあるのも事実である。

 ウィーン・コンツェントゥス・ムジクスは、弦は6-6-4-2-2の編成。舞台上手側に木管を集め、下手側にトランペットとティンパニを配置していた。
 音色の美しさは素晴らしく、音楽の表情も実に雄弁だ。卓越した手腕の持主アーノンクールのもとでこのオーケストラが――楽員の世代は変化しようとも――つくり続けている偉業の演奏は、永遠に語り継がれることだろう。

 合唱は、おなじみアーノルト・シェーンベルク合唱団で、およそ50名の編成。女声が5分の3を占める。
 声楽ソリストはドロテア・レッシュマン、エリーザベト・フォン・マグヌス、ベルナルダ・フィンク、ミヒャエル・シャーデ、フローリアン・ベッシュという、これはほぼ「アーノンクール一家」と言ってもいい顔ぶれだろうが、つわもの揃いだ。
 今夜はどちらかと言えば、女声3人の方が冴えていたろう。ドロテア・レッシュマンは、先日ウィーンでアーノンクールの指揮する「7つの封印の書」を聴いた時にもあまりの表現の巧みさに肝を潰したくらいだが、今夜も良かった。

 休憩を挟み、9時25分演奏終了。10分以上にもおよぶ長い長いカーテンコール。演奏前も含め、アーノンクールへ向けられる拍手は、ホールを揺るがせるほど大きかった。

10・24(日)パスカル・ヴェロ指揮仙台フィルハーモニー管弦楽団
ドビュッシー:「ペレアスとメリザンド」

   仙台市青年文化センター・コンサートホール  3時

 パスカル・ヴェロが振る「ペレアスとメリザンド」は、10年ほど前に新星日本交響楽団との演奏を聴いて魅了されたことがある。今回は、彼の常任指揮者就任以降、急激に個性を確立し始めた仙台フィルとの演奏でもあり、期待して赴いた。
 結果は上々であった。仙台フィルがこのオペラをここまで好演する。嬉しい時代になったものである。

 完全な演奏会形式で、オーケストラは10型編成、ピットにおけるものとほぼ同じ配置で、舞台上に並ぶ。
 従って響きはすこぶるリアルであり、生々しい。ピットで演奏された時よりも、ドビュッシーの多彩な管弦楽法が直截に伝わって来るという利点がある。それは意外にスリリングで、面白いものだ。

 一方、その生々しさゆえに、いわゆる夢幻的な、そこはかとない雰囲気といったものより、むしろドビュッシーの作品が持つ近代音楽的要素の方が強く浮彫りにされる結果になったかもしれない。また、強奏個所でのオーケストラの音色にもう少し精妙さがあれば・・・・という印象をより強く与える結果を生んだかもしれない。

 だがそれでも今日のヴェロと仙台フィルの演奏には、このオペラの独特の香気を充分堪能させるだけの良さがあふれていたことは確かである。
 少なくとも私は、オペラの冒頭から、あのドビュッシー独特の音楽の香気を愉しんだ。あの「パルジファル」へのオマージュ(もしくはパロディ)みたいな場面転換の間奏曲の重々しい美しさも、波の描写など全くないにもかかわらず夜の海の雰囲気を感じさせる音楽の素晴らしさも――。
 とりわけ月光が射し込んで来る場面で、オーケストラがキラキラ光るような音色にぱっと変わる瞬間などは、さすがフランス人指揮者ならではのセンスの冴えと言うべきであろう。
 神谷未穂をコンサートミストレスとする仙台フィルの好演を讃えたい。

 歌手陣は、オーケストラの後方に特設された台の上で、譜面台を前にして歌った。ホールがあまり大きくないせいもあって、声を聴くには充分の音響である。しかもS列中央あたりで聴いた範囲では、各歌手の声とも、よく響いて聴きやすい。

 ペレアスはジル・ラゴンで、先日のアルミンク=新日本フィルの「ペレアス」に次ぐ出演だ。どちらかと言えばドラマティックな歌いぶりで、初々しい青年役というよりは気の強い男といった風のペレアス表現ではあったが、安心して聴けるタイプではある。彼だけは、舞台上での動作に少し演技めいたものを取り入れていた。
 メリザンドは浜田理恵で、彼女のこの役は一昨年の新国立劇場中劇場で若杉弘の最後の公演で聴いて以来2度目になる。清新さと女っぽさを兼ね備えた当り役、であろう。

 ゴローには河野克典、アルケルには長谷川顯、いずれも厳しさと重量感を効かせて聴き応え充分。ただ、アルケルがゴローの狂態をたしなめる一声「ゴロー!」は、やはり表情不足であった。METで聴いたロバート・ロイドの、絞り出すような悲痛な声は、やはり余人には真似できないもののようである。

 ジュヌヴィエーヴの寺谷千枝子はもちろん手堅く、イニョルドの安田麻佑子も少年らしさを上手く出していた。出番は少ないが、羊飼と医者に鈴木誠。
 合唱(裏コーラス)は仙台放送合唱団だが、こちらはもう少し丁寧にハーモニーを聞かせて欲しいところだ。

 ともあれ、聴きに行った甲斐のある演奏会であった。仙台フィル、これが第250回の定期公演である。6時5分終演。
 行楽シーズンの日曜日とあって「はやて」は満席で乗れず。仕方なく7時19分の「やまびこ」で帰京したが、これはあいにく各駅停車モノで、東京駅まで2時間17分もかかった。3分前の便に乗った同業者たちは、同じ「やまびこ」でも、2時間03分で着いたはずである。

10・23(土)クリスティアン・アルミンク指揮
新日本フィルハーモニー交響楽団

  すみだトリフォニーホール  6時

 ベートーヴェンの「ピアノ協奏曲第4番」に「交響曲第8番」、それらに先立つ第1曲目にヴォルフガング・リームの「変化2」という作品を入れたところが、アルミンクと新日本フィルの意欲的な姿勢を感じさせるだろう。

 今年はザルツブルクでのオペラ「ディオニュソス」をはじめ、リームの曲を聴く機会が常よりも多かったが、この人のオーケストレーションは本当に多彩で、退屈させられるところがない。
 この「変化2」は、2005年の作品だそうで、単一楽章形式の20分ほどかかる大編成。シベリウスやニールセンを思い出させるような楽想がチラリ姿を現わしたり、ボンゴが木魚をたたいているような雰囲気を醸し出したり、ニヤリとさせられることもある。結構愉しい曲である。
 こういう曲をやると、アルミンクも、新日本フィルも、上手い。

 2曲目には、ベートーヴェンの第4協奏曲。
 出演不能となったラドゥ・ルプーの代わりに、急遽欧州から「引返して来た」ペーター・レーゼルが登場、心温まる落ち着いたベートーヴェンを聴かせてくれた。
 指揮者との個性の違いがどのような結果を生み出すかも興味深かったが、そこはさすがにウィーン生れのアルミンク、引き締まった佇まいで気品のある演奏をつくり出していた。

 レーゼルは、アンコールでベートーヴェンの「ソナタ第18番」の「スケルツォ」を弾いた。ところがこれが、先日の紀尾井ホールでの「謹んだ」演奏(あの日はライヴ・レコーディングだった)とはガラリと異なり、何か茶目っ気を感じさせる自由な感興にあふれていた。面白いことだ。たった一度の演奏会を聴いただけですべてを判断するのがいかに危険かということの、これも好例である。ましてディスク批評においてをや。

 最後はベートーヴェンの「第8交響曲」。基本的には折り目正しいスタイルが採られていたものの、オーケストラは何となくガサガサして、音楽としても落ち着かない。アルミンクの意図は解るような気はするのだけれども、・・・・。

10・23(土)尾高忠明指揮日本フィルハーモニー交響楽団

  サントリーホール  2時

 客演指揮の尾高忠明が、ちょっとユニークなプログラムを、素晴しく指揮した。
 前半はオネゲルの交響詩「夏の牧歌」(滅多にナマで聴けない曲だ)とラヴェルの「マ・メール・ロワ」から5曲。美しい曲と優しい演奏で、特に後者の終曲「妖精の園」の美しさは絶品であった。

 この叙情的な牧歌的雰囲気が、プログラム後半に置かれたウォルトンのオラトリオ「ベルシャザールの饗宴」の激烈な曲想と完璧に対を為すことは言うまでもなかろう。
 これは、バリトン・ソロと大合唱を伴う壮大な作品だ。なかなか演奏される機会のない大規模な曲ではあるが、――偶然かち合う時にはかち合うというのがこの業界の不思議なところで、つい先月にも群馬交響楽団が英国の若手ベンジャミン・エリンの指揮でこの曲を取り上げている。ただし私は、それは聴いていない。

 しかし今日の演奏――コーラス(晋友会合唱団)もオーケストラも、ほとんど全曲にわたって絶叫と咆哮の連続ながら、少しも音の乱れを感じさせなかったことに、私は驚き、そしてうれしくなった。
 特に日本フィルが、ほとんど完璧といってもいいほどに均衡の取れた緻密な響きを出していたことは、ひところのこのオケの乱調を思えば、実に喜ばしい復興ぶりと言うべきであろう。
 かように、ラザレフの時とはまた別のタイプの「美しい音色」を日本フィルから引き出すことに成功したのは、まさに尾高の力量だ。そしてこのウォルトンでは、やはり尾高の、英国音楽に対する愛情と絶対の自信とが、明確に感じられたのである。

 バリトンのソロは三原剛。彼も良かった。

10・22(金)飯守泰次郎指揮読売日本交響楽団のワーグナー

   東京芸術劇場  7時

 前半にはモーツァルトの「プラハ交響曲」。
 弦10型編成ながら、いかにも飯守らしく分厚い響きの音楽である。冒頭のアダージョはまさに「ドン・ジョヴァンニ」序曲の序奏と一脈相通じる演奏で、それ自体には充分に説得力もあるのだが、何かこういう遅いテンポが保ちきれないというのか、読売日響も少々手探り的な印象を与える雰囲気で進む。アレグロの主部以降、全曲は量感たっぷりの演奏となった。

 プログラムの第2部は、ワーグナーの「ニーベルングの指環」からの抜粋で、「神々のワルハラ入城」「ワルキューレの騎行」「魔の炎の音楽」「森のささやき」「ジークフリートのラインへの旅」「ジークフリートの葬送行進曲」「ブリュンヒルデの自己犠牲(後半)」という組み合わせだ。弦の編成はもちろん通常の16型。ハープは6台。
 最後の曲以外は先日の上岡=ヴッパータール響のプログラムとほぼ同じ選曲だが、細目――演奏会用として何処をカットするか、何処を付け加えるかなど――には、当然ながら、かなりの違いがある。

 いずれにしても飯守のワーグナーは、テンポにせよエスプレッシーヴォにせよ、トラディショナルなスタイルを受け継いだ王道を行くもので、恣意的な演奏手法は採らない。それゆえ、ワーグナーの音楽が持つ凄まじさといったものは、上岡の指揮で聴くよりも、遥かに直裁に迫って来るだろう。
 飯守はふだんよりも大きな身振りで指揮して、「ワルキューレの騎行」や「葬送行進曲」での最強奏の個所など凄まじい爆発ぶりであったが、しかしオーケストラとの呼吸の方は、――どうも合っているとは言い難い。

 読売日響の馬力もなかなかのものだが、管楽器の演奏にも、演奏全体の表情にも、時に乱暴なところがある。

10・19(火)ラファウ・ブレハッチのショパン

  東京オペラシティコンサートホール  7時

 10月3日から9回にわたり行われている日本ツァー・リサイタル。7日目の今日も全ショパン・プロで、「バラード」の第1番と第2番をそれぞれ最初と最後に置き、その間に「作品34のワルツ」(3曲)、「スケルツォ第1番」、「作品26のポロネーズ」(2曲)、「作品41のマズルカ」(4曲)。このメイン・プログラムは8時半頃には終ってしまい、あとはアンコールというプログラム構成である。
 前半よりは後半(ポロネーズ以降)の方に、瑞々しさは感じられたであろう。

10・18(月)上岡敏之指揮ヴッパ-タール交響楽団のマーラー他

  サントリーホール  7時

 モーツァルトの「交響曲第28番」とマーラーの「交響曲第5番」を組み合わせた今回の日本ツァー最終公演。今日も「上岡ぶし」が炸裂した。
 こういう超個性的な、というか、アクの強い演奏は、真剣に聴けば聴くほどヘトヘトにさせられるタイプだが、聴き慣れた曲に何か新鮮なスリルを求めてみたいと思う時には、こたえられない面白さを感じることができる。

 モーツァルトでは、弦楽器群のふわふわと浮遊するような響きが不思議な効果を出していた。上岡は踊るような身振りで、イメージだけを与えるような指揮を繰り返す。既にリハーサルで完璧に仕上げられていることもあるだろうが、いかにオーケストラと以心伝心の関係を築いているかの証拠でもあろう。

 マーラーでは、例のごとく振幅の激しいテンポの動きや、思いがけないデュナーミクの強調などの連続である。
 第1楽章の、ティンパニが弱音で行進曲モティーフを反復して行く個所で、第319小節のティンパニが突然強音のトレモロに移る瞬間など、普通の演奏とはあまりに違うのでぎょっとさせられるが――スコアを見ればこの全音符のトレモロの頭にはアクセントがつけられていることが判るのであって、要するにそのアクセントをpの範囲で扱うか、それともさらに強くメゾ・フォルテもしくはフォルテの範囲にまで拡げるか、という解釈の違いに由るものと思えば、決して単に奇を衒った方法ではないと言えるだろう。

 第1楽章と第2楽章とは、しばしば有機的な関連を持たせて演奏されることが多いが、今回の上岡は、第1楽章の最後の弦のピチカートを、むしろ第2楽章の冒頭というイメージに変えて演奏した。これはスコアの指定とは完全に異なる手法ではあるけれど、音楽の流れの上では興味深い効果を創り出していたと思う。

 この「5番」でのクライマックスは、予想通り第4楽章の、弦とハープのみによる「アダージェット」。テンポやエスプレッシーヴォ、デュナーミクなど、すべての面で文字通り「秘術を尽した」演奏に仕上げられていた。ただ、それにもかかわらず、第5楽章が単なるエピローグ的な雰囲気にならぬ演奏だったのは見事である。

10・17(日)マウリツィオ・ポリーニ・ピアノ・リサイタル

  サントリーホール  7時

 初日公演。
 前半にショパンの「24の前奏曲」、後半にドビュッシーの「練習曲」6曲(第7~12番)、ブーレーズの「ピアノ・ソナタ第2番」。アンコールにはドビュッシーの「沈める寺」と「西風の見たもの」、ショパンの「革命」と「バラード第1番」。とにかく、凄いとしか言いようのない演奏だ。

 思い起こす1974年の初来日の際、新宿の東京厚生年金会館大ホールで行なったリサイタル――私はそれを収録してFM東京の番組で放送(ちなみにその時の放送権料は30万円だった)したので、今なお生々しい記憶がある――のプログラムにも、このショパンの「24の前奏曲」が入っていた。
 あの頃のポリーニが特徴としていた鮮やかな切れ味に満ちた演奏スタイルは、今ではもうほとんど影を潜めているが、それに替わって加わって来ているのは、いっそう深みと壮大さを備えたスケール感と、変幻自在の音色と表情だ。前奏曲集のそれぞれの曲において刻々と変わる音色の素晴しさをはじめ、「第24番」を全曲の頂点と設定し、音楽の動きを次第にその一点に向けて集約させて行く呼吸の鮮やかさなど、昔のポリーニには聴けなかった味だろう。

 昔は、「上手いけれども今一つ感動が・・・・」と思わされたことも多いポリーニだったが、今はもう違う。
 ドビュッシーの「練習曲」とブーレーズのソナタとがこれほど違和感のない線上で結ばれるのだということを証明したのも、ポリーニならではのセンスであろう。

 それにしても、「沈める寺」で、最初の翳りの濃い音たちが、次第に薄紙を剥ぐように明るさを加え、ついに荘厳かつ壮大な鐘の響きにまで高まって行くあたりでの、あの転調と音色とが完璧に一致して変化して行く演奏の見事さ! これはもう、神業としか思えない。
 打ちのめされて席を立つしかない演奏会とは、こういうのを言うのだろう。物凄いピアニストだ、ポリーニは。

10・16(土)スタニスラフ・スクロヴァチェフスキ指揮読売日本交響楽団
ブルックナーの第7交響曲 他

   サントリーホール  7時

 ブルックナーの「第7交響曲」の第2楽章――こんな「いい演奏」に、私は今まで出会ったことがない。巨匠スタニスラフ・スクロヴァチェフスキ(87歳)と読売日響のコンビは、今夜のこの第2楽章の演奏一つだけでも、不滅の名を残すに値するだろう。

 プログラムの前半には、シューベルトの第7交響曲「未完成」が演奏された。
 弦12型編成が採られ、端正な趣きはあるものの、ややくぐもった音色の抑制された表情が2つの楽章を覆う。明らかにこれは後半のプログラムと対比づけられる演奏だろうが、スクロヴァチェフスキの解釈による「シューベルト→ブルックナー」の構図という意味でも、興味深い。

 ブルックナーの方の「第7番」では、当然ながら弦16型の量感が発揮される。
 第1楽章では、いわゆる壮麗さとは対極的な特徴が示され、【G】のホルンの細かい動きもリアルに吹かれるなど、ごつごつした骨格の演奏が展開された。

 これが第2楽章では一転して、端麗質朴な抒情美が、堰を切ってあふれ出る。
 ヴァイオリンが歌い続ける第2主題には、何と深い情感が満ちていたことだろう! ホルン群とワーグナー・テューバの響きも美しい。
 満員の聴衆、息を呑んでじっと聴き入るという雰囲気。

 ところが、その陶酔の余韻覚めやらぬまま開始された第3楽章の冒頭で、いきなりトランペットのソロが頼りない音を出すのは不可ない。一遍に興醒めさせられた感。人間だからミスは止むを得ないとはいえ、いやしくもプロなのだから、こういう時にこそきちんと決めてくれなくちゃ困る。しかもこの奏者は、ダ・カーポした時にも同じ音でふらついた。あたら空前の名演を、ひとりで足を引っ張った。痛恨の極みだ。

 今回はノーヴァク版が使用されていたが、第4楽章では、事実上ハース版で演奏したといってもいいほどに、テンポの変化はほとんど無し。スクロヴァチェフスキは「第8番」などではテンポをしばしば大きく動かしていたが、今回は終始イン・テンポを押し通していた。このテンポが、演奏に風格と落ち着きと壮大さを生んだゆえんだろう。

 全曲終了時には、暫しの息詰まる静寂。スクロヴァチェフスキが指揮棒を下ろした時、大拍手と、2階席後方からは近来稀なほどのたくさんの声のブラヴォーが炸裂した。各パートの奏者たちには、それぞれ実に「率直な量の」ブラヴォーが贈られた。今夜の聴衆は素晴しい。スクロヴァチェフスキには、ソロ・カーテンコール。

10・15(金)ネッロ・サンティ指揮NHK交響楽団のヴェルディ「アイーダ」

  NHKホール  6時

 演奏会形式上演で、オケは16型編成。合唱(二期会合唱団)は舞台奥、ソロ歌手陣は舞台フロントに並び、全員が暗譜で歌う。サンティ御大も暗譜で指揮。

 演奏会形式でオペラを聴くのは、なまじ妙な演出に煩わされることもなく、音楽そのものに没頭できるので、私は結構気に入っている(先日のキエフ・オペラの上演をあてこすっているわけではない)。
 改めて言うまでもなく、「アイーダ」は本当にすばらしい音楽である。特に第3幕と第4幕第1場は、ヴェルディの最高傑作群の中に入るだろう。

 サンティの指揮には、いつもながら、曰く言い難い独特の味がある。所謂凝縮した確然たる音楽づくりを求めるのではなく、特にオーケストラなどにはやや開放的で大様な響かせ方をさせる指揮ではあるが、オペラ全体が常に極めて見通しのいい構築に仕上げられるという良さがある。。
 特にこの「アイーダ」では、サンティは、スペクタクル性のある前半2幕よりも、むしろ主人公たちの感情が生々しくぶつかり合う第3幕以降で、オーケストラを劇的に轟かせる。それは納得の行く解釈だ。

 アドリアーナ・マルフィージ(アイーダ)も、セレーナ・パスクアリーニ(アムネリス)も、かなり癖の強い歌い方をする人たちだ。後者は馬力において勝り、特に1階席中央ではビリビリ耳を震わせるような声の迫力がある。一方前者の声はオケに消されがちだが、ある程度表情の細かいソット・ヴォーチェを持っているのは事実。

 サンドロ・パーク(ラダメス)は韓国の若手で、パワーのある声だ。高音のソット・ヴォーチェに修練を積めば更に向上すると思われる。もっとも、彼とパスクアリーニについては、しばしばオケとチグハグな歌い方をすることがあるのは気になったが・・・・。
 男声低音歌手3人――フラノ・ルーフィ(エジプト王)、グレゴル・ルジツキ(ラムフィス)、パオロ・ルメッツ(アモナズロ)は、いずれも手堅い。
 なお出番は少ないが、伝令を歌った松村英行と、巫女長を歌った大隅智佳子も――少し力みかえった雰囲気もあったけれど――いい歌手だ。

 NHKホールの1階中央あたりの席の寒いこと。第4幕に入ったら、冷風がモロに吹付けて来る。風邪を引いた感じだったので、日頃の流儀に反し、カーテンコールでの拍手は失礼して早々と退散。

10・14(木)ペーター・レーゼル・ピアノ・リサイタル
ベートーヴェン・ピアノ・ソナタ全曲演奏会第6回

  紀尾井ホール  7時

 2008年9月20日に始まった、4年がかり全8回にわたるベートーヴェンのピアノ・ソナタ全曲演奏会の、今夜は第6回になる。
 プログラムは、「第8番 悲愴」、「第18番 作品31-3」、「第27番 作品90」、「第28番 作品101」。アンコールは「バガテル」から2曲。

 レーゼルの弾くベートーヴェンが与えてくれる感動については、もう何度も書いた。
 決して戦闘的に力感を誇示することなく、むしろ穏やかな口調でありながら、すべての音符を確固とした信念を以って語って行く、といった演奏だ。こういうスタイルが今なお健在である、ということが嬉しい。

 「第18番」の「メヌエット」(モデラート・エ・グラツィオーソ)のふくよかな歌も素晴しく、「第27番」第1楽章では深みのある左手の動きの上にレガート気味に流れる主題旋律の美しさは喩えようがないほどだ。ベートーヴェンという作曲家は、何と感動的なきれいな音楽を書く人だったか――ということを改めて認識させてくれるような演奏である。
 温かい気持に満たされて会場を出る、というのはこのようなリサイタルを言うのであろう。

10・13(水)新国立劇場 モーツァルト:「フィガロの結婚」

  新国立劇場  2時

 平日マチネーのオペラやコンサートは、このところ――内容にもよるらしいが――なかなかの人気のようである。昨日のオペラシティもいい入りだったし、今日も結構埋まっていた。

 新国立劇場の「フィガロの結婚」は、アンドレアス・ホモキ演出のプロダクション。2003年秋にトーマス・ノヴォラツスキーがオペラ芸術監督に就任した時の、最初の演し物だった。
 あの時は、指揮がウルフ・シルマー、歌手陣では中嶋彰子(スザンナ)小山由美(マルチェリーナ)ら日本勢も気を吐いていた。フランク・フィリップ=シュレスマンによる箱型の、道具といえば白いダンボール箱の山と箪笥だけの、白と黒の対比も鮮やかな舞台とともに、登場人物の生き生きとした演技が随分新鮮に感じられたものであった。その後、2005年に上演された際にも観た記憶がある。

 今回も、舞台としては、基本的にはそれらと同じだろう。
 演技や人物関係には、読み替えは全くない。結婚式の場面がないこと(音楽はもちろんある)と、第3幕と第4幕の間で伯爵がバルバリーナを手篭めにする(ように描かれる)ことくらいが、ちょっと変わっているところか。
 きちんと仕上げられているにもかかわらず、プレミエ時と比べ、何となく舞台に密度と活気が薄くなっているように感じられるのは、やはり再演を重ねて来たプロダクションの宿命かもしれない。

 今回の指揮はミヒャエル・ギュトラー、管弦楽は東京フィル。端正で几帳面で、さり気なく淡々と進む演奏である。そういう演奏であっても、モーツァルトのオペラの音楽は美しい魅力を少しも失わない。が、しかし――このオペラの音楽は、本来もっと生々しい人間のドラマを描いているはずではなかろうか? 

 歌手は、アルマヴィーヴァ伯爵をロレンツォ・レガッツォ、伯爵夫人をミルト・パパタナシュ、フィガロをアレクサンダー・ヴィノグラードフ、スザンナをエレナ・ゴルシュノヴァ、ケルビーノをミヒャエラ・ゼーリンガーと、主役陣を招聘外人勢が占めた。
 脇役陣は森山京子(マルチェリーナ)、佐藤泰弘(バルトロ)、大野光彦(バジリオ)、九嶋香奈枝(バルバリーナ)ほかの人々。
 特に傑出した存在感を示すというほどの人はいなかったが、全体に破綻なく纏まっている。パパタナシュは時々音程が不安定になるけれども、声質はきれいだし、美女だから、まあ善しとしましょうか。

 第4幕での男どもの服装は、どう見てもシャツにステテコという雰囲気である。衣装担当はメヒトヒルト・ザイペル。

10・12(火)上岡敏之指揮ヴッパータール交響楽団のワーグナー

  東京オペラシティコンサートホール  2時

 みなとみらいホール(17日)と同プロだと思いこんで出かけたら、今日は「ファウスト序曲」のないプログラムだった。
 前半に「ジークフリート牧歌」、後半に「指環」の抜粋(ワルハラ入城、ワルキューレの騎行、ヴォータンの告別と魔の炎の音楽、森のささやき、ラインへの旅、葬送行進曲)。

 予想より、いっそうユニークな演奏になった。楽器のバランスも聴き慣れたものと異なることがしばしばある。テンポも、普通より振幅が激しい。パウゼも極度に多く、それも異様に長いものがある。
 しかし、その中で上岡は、いかなる音も疎かにせず、微に入り細にわたって音を練り上げ組み立て、凝りに凝った独自の表現を構築する。
 彼のこういう演奏スタイルは、ヴッパータール交響楽団のシェフに就任(2004年秋)以来、いっそう強くなったのではなかろうか。それにしても、僅々数年のうちにオーケストラをここまで自在に動かせるに至ったというのは、驚異的なことではある。

 だが、この個性的な演奏と作品内容とが、肉離れを起こすことなく両立しているのは――もしくはその直前で踏みとどまっているのは――やはり上岡の傑出した音楽性ゆえであろう。
 正直なところ、そのユニークさには私個人としても些か辟易させられる部分もあるのだが、ここまで確信を以って押し通され、しかもそれが見事な説得力を示しているとなると、兜を脱がざるを得なくなる。

 たとえば、「森のささやき」冒頭の遅いテンポと極度の最弱音に戸惑ったとしても、結尾部での怒涛のような昂揚の中に、ワーグナーの円熟した華麗な管弦楽法が目も眩むほどの力で再現される演奏を聴いてしまえば、誰しもこの指揮者とオーケストラの卓越した音楽性に舌を巻かずにはいられないのではないか、とさえ思えるのだ。
 「葬送行進曲」での冒頭の長い(長過ぎる?)パウゼと、後半の凄絶な盛り上がりとの対比についても、同じことが言えるだろう。

 「ヴォータンの告別と魔の炎の音楽」で、上岡が「歌」のパートを浮き上がらせるようなバランスでオーケストラを響かせていたのが、実に興味深かった(これは先頃リリースされたCDでも同様だった)。
 この管弦楽のみの版では、ヴォータンの声のパートはトランペットやオーボエなどで代用されているが、それを囲む大管弦楽の響きは、むしろ柔らかく、しかも拡がりやスケール感を失うことなく波打っている。明らかにこれは、劇場のピットの中で演奏するスタイルを、コンサートに応用した手法である。
 フォルティシモを、そのイメージのみを生かしながらも柔らかく、しかも力感を失わずに演奏するのは、オペラにおいては不可欠のワザだ。このヴッパータール響がそれを易々と演奏会においてこなして見せるというのは、やはり上岡の強烈な指導力ゆえであろう。

 弦編成は16型。分厚い、たっぷりした響きを出す。ティンパニ奏者は1人のみだったが、「葬送行進曲」のクライマックスにおける「死の動機」では1人ですべてのパートを奏していたので、ティンパニの音に空白を生じてオケ全体が軽い響きになることから免れていた。

 アンコールでは、何とベートーヴェンの「英雄交響曲」の第2楽章「葬送行進曲」を、何とアダージョでなくアンダンテのテンポで演奏し始めた。この選曲もテンポも全く意表を衝いたアイディアで、度肝を抜かれた次第である(しかし再現されたミノーレの後半がアレグロに押し上げられたわけではない。普通の演奏と同様、事実上のアンダンテのテンポが継続されていた)。ユニークではあったが、しかし演奏そのものは、きわめて充実したものであった。
 とにかく上岡敏之は、大変な発想を持つ指揮者である。保守頑迷なオーケストラや聴き手には、とても付き合いきれぬ指揮者だろう。

10・10(日)沼尻竜典指揮の「トリスタンとイゾルデ」

  滋賀県立芸術劇場びわ湖ホール  2時

 びわ湖ホール主催のオペラ上演も、今や国内制作では屈指のオペラ・イベントとなった。関西方面だけでなく、東京あたりからもどっとファンが押しかける。
 故・若杉弘・前芸術監督時代の「V9」(ヴェルディ9作)も結構な話題だったが、現芸術監督・沼尻竜典によるシリーズもそれに劣らぬ――あるいはそれを上回る人気を集めている、と言っていいだろう。

 今回の「沼尻竜典オペラセレクション」は、ワーグナーの「トリスタンとイゾルデ」である。今年暮の新国立劇場制作による上演とは「偶然かち合った」ものという。
 国内制作の舞台上演としては滅多に手がけられたことのないこの大作を、いち早く、しかもトリスタン以外の役を日本人歌手のみによるキャストで上演したびわ湖ホールの意欲は、賞賛されてよい。

 演出はミヒャエル・ハイニケで、舞台装置(ラインハルト・ツィンマーマン)と衣装(ヨアヒム・ヘルツォーク)および小道具は、彼の本拠とするケムニッツ歌劇場の協力を得たもの。決して豪華なものではないが、それなりに丁寧に作られている。
 全場面の基本モティーフとなっているのはバイロイトのワーグナー家の「ヴァーンフリート荘」である。

 第1幕はその屋内――ソファとピアノまで置かれている居室の光景で始まるが、これが回り舞台で1回転すると、建物を背景とした船の甲板の舳先の場面に変わるあたり、良く出来ているだろう。
 第2幕は、夜のヴァーンフリート荘の窓にイゾルデとブランゲーネが佇む場面で開始される。その建物が消えると、緩やかな曲線を描く「開放された」空間の舞台で2人の愛の世界が展開される。セリを使って恋人たちの乗った部分が沈んだり、昇ったりするところが特徴か。

 第3幕は意外にもヴァーンフリート荘の書斎で始まり、トリスタンの長いモノローグはそこで歌われる。イゾルデの船の到着とともにそれが地下に沈み、第2幕後半と同じような構築の舞台に変わるが、終景の「愛の死」の場面では、背景の人物たちを載せた部分がゆっくりと沈んで行き、それに対しトリスタンとイゾルデだけを載せた舞台最前面のみが、次第に高く高く昇って行く、という構成だ。

 演技の方は、かなり細かいニュアンスを感じさせる部分と、やや象徴的な動作の部分とをミックスさせたような形だ。
 前者の例としては、第1幕第2場でクルヴェナールがブランゲーネを揶揄する個所で、甲板上のトリスタンと室内のイゾルデの表情を絡め、同時に4人それぞれの心理が巧みに描かれた光景が挙げられよう。このように、脇役の動きがそれぞれ相互に絡み合わされている手法は、スカラ座でのシェローの演出と似たところもあり、悪くない。
 ただ、第2幕でマルケ王が長い悲嘆の歌を続けているさなか、背景ではクルヴェナールとブランゲーネと、トリスタンまでも加わって盛んにメーロトを非難糾弾している光景は、「マルケ王の言うことを誰も(観客も含めて!)真剣に聴いてないじゃないか」ということにもなり、少々煩わしさも感じられるだろう。

 しかし第1幕で、愛の媚薬を飲む前後のトリスタンとイゾルデの表情――愛とメンツとが交錯する感情――は、ややメロドラマ風ではあるが、ちょっとユニークでリアルで、面白い。このリアルさは、第2幕以降では姿を潜め、2人の舞台上での動きもかなり象徴的なもの――互いに触れ合うことがほとんどない――に変わる。このあたりの不統一性という点においては、些か疑問も抑えきれなかった。

 全体としては、とりわけ新味を感じさせるという演出・装置ではなく、どちらかといえば地方劇場的な素朴さをもった舞台である。が、最近の風潮のようにやたら奇を衒うばかりが能ではない。これはこれで、一所懸命、真摯につくられたプロダクションと言えるであろう。

 歌手。トリスタンをジョン・チャールズ・ピアースが歌ったが、それほど本調子ではなかったのだろう。特に第2幕では声が不安定になりハラハラさせられたが、第1幕と第3幕ではさすがにしっかりと決めていた。

 今回の上演での嬉しい驚きは、ブランゲーネで定評のある小山由美がイゾルデに初挑戦し、しかも見事に成功させたことだ。
 メゾ・ソプラノとしての声域ゆえに、第2幕では、2重唱の最初の方の2度にわたる高いC音に無理が出たり、松明を消す直前の「Nacht」や「hell」を短めに留めたり――といってもスコアの指定に近い範囲ではあるが――したのは、これはまあ仕方のないところであろう。
 むしろそんなことよりも、楚々とした姿に見える彼女が演じた、少女らしさも残した清楚な女性という感じのイゾルデ、かつ毅然とした強い意志を感じさせる声の表情を持つイゾルデ、「ゲルマンの女傑」ではない爽やかな美しさを備えたイゾルデ――といった小山由美のイゾルデ表現に、私は大いに魅力を感じた次第であった。
 こんな役を歌って声に負担はかからないだろうか・・・・などと失礼なことは、とてもご本人の前では言えない。だが秘かに、くれぐれもご自愛を・・・・と祈りたい。

 マルケ王の松位浩が、重厚で力のある歌唱を聴かせた。この人の実力からいえば、当然の出来だろう。今回の演出によるマルケ王は、走ったり、忙しく動いたり、妙に軽い。普通のこの役のイメージとは、少々異なる。
 クルヴェナールの石野繁生も、素晴しく伸びと張りのある声で、見事な存在感だ。ただし、彼は後ろ姿の演技に、もう少し工夫を凝らして欲しいもの。
 歌唱と演技の両面で、予想以上の素晴しさを感じさせたのは、ブランゲーネの加納悦子だ。スズキにも似たしとやかさの献身ぶり。これほど優しく主人を想うブランゲーネ像も、そうは見られまいし、聴かれまい。

 そして、沼尻竜典の指揮と、大阪センチュリー交響楽団。実に良い演奏であった。
 沼尻らしい明瞭な音の響かせ方で、清冽な「トリスタンとイゾルデ」の演奏がつくられた。「前奏曲」冒頭だけはえらく念入りなテンポだったが、それ以降はことさらに凝らず粘らず、しかも推進性に富んだ演奏が展開して行った。
 オーケストラを鳴らしすぎではないかと言った人もいたが、このくらいオケが主導権を握らなければ、ワーグナーの音楽にならない。昂揚個所で歌が良く聞きとれないところがあったのは事実だが、これは歌手の立つ位置で改善すべき問題ではなかろうか。
 第2幕の夜の歌の場面や「愛の死」など、官能的な音楽の個所も、見事。

 「愛の2重唱」で、クレッシェンドする音楽が1小節だけ神秘的なpに変わる個所(ドーヴァー版スコア354頁2小節目)の指定をきちんと守ったことなど、神経が行き届いた指揮である(もっともオケはそれに完全には追いつかなかったようだが)。
 ただその一方、同627頁7小節目のオーボエには、クルヴェナールの忠誠の余韻を残すためにも、もっと哀感をこめたテンポとエスプレッシーヴォで演奏してもらいたかったところだ。細かい話だけれど。

 それと、第3幕前奏曲では音楽を抑制しすぎたか、やや緊迫感が薄れていたのが惜しい。第2幕にはカットがあり、これは基本的には賛成できないが、歌手の状況をあれこれ考えれば、結果としてはよかったであろう。

 30分の休憩2回を挟み、6時40分演奏終了。
 ともあれ、これは力作。先頃のR・シュトラウスの「ばらの騎士」「サロメ」に、舞台の出来では拮抗し、演奏の点ではそれらを上回る水準と言っていいだろう。
 次の土曜日(16日)午後には、第2回の上演がある。

10・9(土)キエフ・オペラ ヴェルディ:「アイーダ」

  オーチャードホール  6時半

 ウクライナ国立歌劇場(キエフ・オペラ)は、2006年の初来日以来、今回が早くも4度目の日本公演になる。
 「アイーダ」「カルメン」「トゥーランドット」「ボリス・ゴドゥノフ」の4作をたずさえ、今日を初日に、来月23日まで計35公演、各地を回る由。

 比較的安価なチケット代――といっても、もちろんそれなりの額にはなるが、ロイヤル・オペラやMETなどよりは遥かに安いから、日頃オペラを観たことのない人たちや地方の人たちには、やはり貴重な機会を提供するものとなるだろう。
 ただ、あまり同じような演目ばかりだと、飽きられるかもしれない。リピーター確保と、新規のファン開拓と、そのバランスを按配するのはなかなか難しいところではあるが。

 今日の「アイーダ」も、簡素ではあるが、丁寧に作られている。古代エジプトを想像させる舞台装置は、幕と簡単な大道具で描き出される。衣装もリアルなスタイルで、それなりにちゃんと体裁が整っている。
 凱旋の場面は軍隊の行進ではなく、ダンスを以って替えられるが、これは致し方ないところだろう。
 演出はディミトロ・フナチュークという人で、徹頭徹尾、所謂トラディショナルなスタイルを貫いている。演劇的な演技は皆無だが、オペラ的な雰囲気はある。

 歌手陣では、テチヤナ・アニシモワ(エチオピア王女アイーダ)が、相変わらず伸びのある強大な声量で気を吐いた。あまり大きな声なので、テチヤナ・ピミノワ(エジプト王女アムネリス)およびオレグ・クリコ(エジプト将軍ラダメス)との3重唱(第1幕)などではバランスを崩してしまう傾向もあるが、「勝ちて帰れ」の大合唱や、第2幕最後の大アンサンブルで旋律的なリーダーシップを取る役割としては、充分な責任を果たしている。

 そのクリコだが、それぞれ声自体には力はあるものの、低音域に弱さがあるのが問題だ。ピミノワは少し声質が粗いものの、荒々しい性格はよく出ているだろう。
 その他、ワシーリ・コリバビュク(エジプト国王)、ボフダン・タラス(祭司長ラムフィス)、ヘンナージイ・ヴァシェンコ(エチオピラ国王アモナズロ)ら、いずれもそれなりに手堅い。

 指揮はヴォロディミール・コジュハル。この人は――以前の日本公演で「トゥーランドット」を聴いた時にはさほど気にならなかったが――如何なる場合にもイン・テンポを守って、決してそれを崩さないという不思議な指揮者である。滔々たる音楽の流れをかたちづくる点ではそれもよかろうが、主人公たちの微妙な心理を描き出す上では音楽が単調になってしまい、具合が悪い。オーケストラは、きわめて量感豊かだ。

10・9(土)ペーター・レーゼル ベートーヴェンのピアノ協奏曲

  紀尾井ホール  2時

 ドイツの名ピアニスト、ペーター・レーゼルが、ベートーヴェンのピアノ協奏曲ツィクルスの第1回を行なった。
 紀尾井ホールで毎年秋、4年がかりで展開している「ソナタ全曲ツィクルス」との関連企画である(第2回は来年秋になる)。

 今日は「第2番」「第3番」「第4番」の3曲。
 協演は紀尾井シンフォニエッタ東京、今回はコンサートマスターをスラヴァ・シェスティグラーゾフ(ケルン放送響コンマス)が客演で務めていた。指揮はシュテファン・ザンデルリンク。

 レーゼルの演奏については、以前に書いたことと同じだ。低音域を堅固な基盤にして、たっぷりとした厚みのある和音を積み上げ、ふかぶかとした響きで押して行く演奏だ。飾り気のない口調でありながら、強い説得力をもった語り口なのである。味わい豊かな演奏である。
 最近ではなかなか聴けなくなったタイプの、良き時代のドイツの伝統をといったものを感じさせるだろう。カデンツァなどで聴かせる、風格と温かさも絶品だ。

 紀尾井シンフォニエッタも、いつもとは些か異なる、非常に引き締まった響きを出した。このオーケストラがこのホールで演奏する時、コントラバスやティンパニなどの低音が唸って「音が回る」傾向がしばしばあるのだが、今日は歯切れ良かった。
 特に「第3番」が毅然たる風格を示して、圧巻だった。「第4番」のフィナーレは、少し粗くなったか。速いテンポで突き進む個所などではアンサンブルが荒っぽくなることもあるのだが、ベートーヴェンらしい強靭な意志を持つエネルギー性という点では、悪くない。

10・8(金)武満徹80歳バースデー・コンサート

   東京オペラシティコンサートホール  7時

 東京フィルに、オリヴァー・ナッセンの指揮、ソリストにはピアノのピーター・ゼルキンを招いての、「武満徹80歳バースデー・コンサート」。

 「不滅の武満、永遠なれ」というコンセプトによる、このホールならではの記念コンサートだ。
 5曲のプログラムのうち武満は2曲だけ――と、今年は少し趣向を変えたようだが、別に変えなくてもいいんじゃないかとも思う。正式には「東京オペラシティ コンサートホール:タケミツ メモリアル」と名乗るホールであるからには、尚更のこと。

 で、今日は最初にウェーベルンの「6つの管弦楽曲」(2管編成版)、2曲目にナッセンの「ヤンダー城への道」が演奏され、それから武満の「リヴァラン」と「アステリズム」があり、最後にドビュッシーの「聖セバスチャンの殉教」の交響的断章、という具合。
 タケミツへのオマージュとしてのウェーベルンとドビュッシーは大変結構だが、ナッセンのそれは、言っちゃあ悪いが、指揮者への出演謝礼みたいな感じもなくはない。

 ナッセンの指揮は、その山のような体躯にふさわしく骨太だ。武満作品にも、かなりダイナミックな表情が加わる。
 「アステリズム」のあの猛然たるクレッシェンドと怒号にしても、日本人指揮者だったらそこまではやるまいというくらい、これでもかと長い最強音を延々と、耳がおかしくなりそうになるほど続ける。
 かように外国人の指揮者が振ると、武満作品もまた違う顔付きを見せはじめるから、それが面白いのである。

 もっともこれは、日本人の指揮者が西欧のオケを振って演奏した時でも、そうなることがあるだろう。
 以前、小澤征爾がこの「アステリズム」を、カナダだかアメリカだかのオーケストラで指揮した時のことについて話してくれたことが、未だに強い記憶となって残っている――「パーカッションの○○なんかね、ウワァァーーーッって声出して絶叫しながら、グァァァァァ~ッて物凄い勢いで叩いてるんだよ。あいつらがやると、ホント面白いよ」。

10・6(水)マルク・ラフォレのショパン・リサイタル

  浜離宮朝日ホール  7時

 パリ生れの名ピアニスト、マルク・ラフォレを久しぶりに聴く。
 全ショパン・プログラムで、「スケルツォ第2番」「マズルカ作品24(4曲)」「葬送ソナタ」、休憩後に「ポロネーズ作品44」「ワルツ作品34-2」「ワルツ作品42」「夜想曲作品27-2」「スケルツォ第1番」。
 アンコールは「革命のエチュード」「夜想曲作品48-1」「子犬のワルツ」「ワルツ作品64-2」。

 いつに変わらぬキラキラした音色と洗練された表情。フォルテの個所では、かなりの戦闘的な激しさも聴かせる。小気味よいほどの勢いだ。

 だが通して聴いてみると、結局、目まぐるしいほどの勢いで疾走する演奏の連続であったという印象だけが残る。
 プログラム全体を一望すれば、急ー緩ー急ー緩と組み合わされた巧みな配列というイメージはあるのだが、実際には、ゆっくりした曲でも、中間部が猛烈に速いテンポで弾かれるというケースが多かった。そんなふうに、最初から最後まで走りっ放しでは、少々単調な感になるのは免れまい。

 それに気になるのは、この人はショパン特有の頻々たる転調と、そこから生れる色合いや陰翳の変化などをあまり重視していないように思われることだ。
 たとえば「ポロネーズ」の中間部の、同じ音型が延々と反復されつつ次第に転調して行く個所など、演奏に表情に変化が乏しいために、ただひたすら突進するだけの単調な音響と化してしまうのである。
 「作品48-1」も同様。ポーコ・ピウ・レントの後半部分やハ短調に復帰するくだりは、あまりに一気呵成に弾かれすぎ、刻々と移り変わるハーモニーの精妙さはどこかへ吹き飛んだ。従って、葬送行進曲的な悲愴感も、英雄的な佇まいも、失われてしまった。

 さらに問題なのは、「スケルツォ第1番」。
 あの中間部の、ポーランドのクリスマス民謡が無情な侵略者の一撃により打ち破られそうになりながら、なお想い出の夢に縋りつくように歌が続く個所――ここは全く身の毛のよだつような恐怖を覚えるところだが――で、ラフォレはその歌の部分を、想い出を自ら意図的に振り切り、打ち捨ててしまうかのように、次第にテンポを速めて行き、スケルツォ主題の復帰を準備する役割を持たせるものとして扱ってしまうのである。
 楽譜の上だけで考えれば、それはそれで一つの(それも見事な)音楽的な流れになることは事実だが・・・・。

 これらは畢竟、ラフォレの解釈の問題だから、聴く側としては、好みの問題として云々する以外にはテはないのだろう。
 が、彼のそういう演奏は、ショパンの作品における私にとっての最も大切な部分を無視されたもののような気がして、どうも共感できないのである。

 「ワルツ作品34-2」の最後、翳りのある主題がもう一度ゆっくりと戻って来るところあたりでは、いい味を聴かせてくれた。他の曲でももっとテンポを引き締めれば、細かいニュアンスも出ると思われるのだが、如何なものか。

10・4(月)アジア オーケストラ ウィーク 光州交響楽団

  東京オペラシティコンサートホール  7時

 第2日は、韓国のオーケストラ。
 指揮は音楽監督・首席指揮者ク・ジャボム。低音域を強く響かせ、その上に厚みのある音を構築する。舞台姿はおとなしそうに見えるが、かなりアクの強い、自信満々の、表情の濃い指揮をする人である。

 最初に演奏したのはユン・イサンの「光州よ、永遠に」という20分ほどの作品。これには、事前に女性ナレーターによる曲の内容の説明が、サンプル演奏入りで付いた。
 要するに、1980年の所謂「光州事件」の悲劇を描写した曲とのこと。行進する民衆、先頭に立つ若者たち、弾圧する軍の暴力などを、いろいろな楽器群が表現する――という趣旨だ。ショスタコーヴィチの「1905年」の韓国版といったところだが、音楽はずっとくだけたものである。

 協奏曲は、メンデルスゾーンの「ホ短調」。韓国系ドイツ人のクララ・ユミ・カンがソロを弾く。今年の仙台国際コンクールやインディアナポリス国際コンクールで優勝をさらった女性。
 私は初めて聴いたのだが、ある音符で力をフワッと抜くような、何とも不思議な、嫋々たる演奏をするヴァイオリニストである。表情の濃い個性的な演奏であることは事実だけれども。

 最後はマーラーの「巨人」で、これもすこぶる情熱的な力演。トランペットとホルンは残念ながら絶不調だったようだが、弦楽器群のパワーはなかなかのもの。
 ク・ジャボムも、テンポやデュナーミクの扱いにかなり凝ったところを聴かせた。第4楽章第2主題の弦にドビュッシーを思わせるような洒落たふくらみを付けながら濃厚に歌わせたり、第1主題再現に向かうクレッシェンドの個所を極めて不気味に胎動させてみせたりと、アクは強いが面白い指揮者ではある。
 全曲最後の熱狂怒号の激しさは、やはり「お国ぶり」か。調和と均衡が染みついているわが国のオケには、とても真似できない類いのものだ。

 アンコールは、「雷鳴と電光」。何も「巨人」のあとにこんな轟音を繰り返さなくてもいいのに。西欧の作品でなく、韓国の美しい上質な管弦楽用小品でもやってくれればよかった。

10・3(日)アジア オーケストラ ウィーク トルコ国立大統領交響楽団

   東京オペラシティコンサートホール  2時

 昨日の演奏会に予定されていた中国の厦門フィルが「指揮者急病」と称してドタキャンしたため、今年の参加オーケストラは2団体となった。
 今日はトルコ国立大統領交響楽団(Presidential Symphony Orchestra)。アンカラに本拠を置く、1826年に創立されたオケだそうな。これが2度目の来日だとの、事情通の話。

 音楽監督・首席指揮者レンギム・ギョクメンの指揮で、プログラムは、フェリト・テュジュン作曲「チェシュメバシュ(泉)」組曲、ショパンの「ピアノ協奏曲第2番」、ショスタコーヴィチの「交響曲第5番」。またアンコールは、グリンカの「ルスランとリュドミラ」序曲およびアルキン作曲の「ケチェクチェ」なる小品。

 総じて言えば、猛烈な馬力と音量を持ったオーケストラだ。
 特に弦の威力は凄く、ショパンの第2楽章でのトレモロは緊迫感があり、ショスタコーヴィチの第3楽章でのヴァイオリンとヴィオラのトレモロは壮絶だ。後者の第2楽章冒頭でのチェロとコントラバスによるフォルティシモも、ホールを揺るがせんばかりの重低音である(第1楽章冒頭の低弦は抑制されていたが、これはスコア指定の「フォルテ」に従ったためで、その意味ではケジメはちゃんとしている)。

 その反面、金管と木管は、かなり荒々しく、乱暴だ。特に木管は、各パートの受け渡しの細かいニュアンスなど全く眼中に無いような演奏をしている。だが多分これは、指揮者のせいであろう。
 2階席で聴いた限りでは、大咆哮はかなり鋭角的で刺激的な響きに聞こえる。正直なところ、些かうるさい――と言っては失礼なので、耳にきつい、と言い直そう。
 ただしこのホールは、2階席ではうるさい音に聞こえても、1階席サイドの位置で聴くと柔らかいきれいな音に聞こえるという傾向がある。それゆえ断定は避けておきたい。

 なお、1曲目でのソプラノはギョルケム・エズギ・ユルドゥルム。ショパンでのソリストは、ヴァーダ・アーマンが来日できなかったので、清水和音が急遽代役に立った。
 客席はほぼ満席。このシリーズは固定ファンをつかんでいるようである。4時半終演。
 

10・2(土)新国立劇場「アラベッラ」プレミエ

   新国立劇場  2時

 新国立劇場の新シーズンが、R・シュトラウスの「アラベッラ」のニュー・プロダクションにより開幕した。
 前芸術監督・若杉弘が最も得意としたレパートリーの一つが、新演出版に模様替えされて開幕公演を飾る。ある部分、象徴的な意味合いを持つと言えるかもしれない。

 今回の演出・舞台美術・照明は、フィリップ・アルローだ。
 スカイ・ブルーが基調となり、特に第2幕では目の覚めるような色彩感が舞台にあふれる。私はこのブルーが大好きなので、それだけでこの舞台の光景に満足してしまった次第だが、――肝心の演技の方は、残念ながら一長一短。
 第2幕では、特に前半、主人公たちに音楽の変化に合致した芝居が見られ、アルローもなかなか芸の細かいことをやるなと思わせたが、その他の部分では、やはり常套的な手法の域を出ていないようである。

 第3幕など、マンドリカ(トーマス・ヨハネス・マイヤー)とマッテオ(オリヴァー・リンゲルハーン)の演技にも、些か甘いところがある。たとえば、事の真相を知って愕然とし、女たちへの態度を一変させるあたりの気持の変化がもっと明解に反映されていないと、ドラマの重要な転換が観客に印象づけられないのではないか。
 それに今回は、アラベッラの妹役ズデンカ(アグネーテ・ムンク・ラスムッセン)が弱く、存在感に欠けるのが致命的だ。これは歌手の責任でもあろうが、この役が弱いと、第3幕での騒動の意味合いが薄れてしまうのである。
 むしろ脇役のヴァルトナー伯爵(妻屋秀和)の方がよほど存在感を見せていたと言えるだろう。題名役(ミヒャエラ・カウネ)は、もう少し洒落た色気を出してくれるといいのだが・・・・バイロイトの「マイスタージンガー」の、あの色気のないエーファを歌った悪影響か?

 音楽的にも、そのカウネの高音に硬さがあるのが気になる。
 役柄ぴったりだったのは、やはりトーマス・ヨハネス・マイヤーだろう。熊と格闘するほど荒々しい性格を持った田舎の青年という雰囲気はよく出ていた。妻屋の力のあるバスもなかなか良い。

 指揮のウルフ・シルマーは、今年春の「パルジファル」の時と同様に割り切った指揮だが、所謂シュトラウスぶし――第1幕最後のアラベッラのモノローグ、第2幕最初のアラベッラとマンドリカの愛の語らいの場面、第3幕幕切れの愛の音楽など――では、オーケストラ(東京フィル)ともども、きわめて美しい味を聴かせた。
 この3つの個所では歌手たちもよく乗っていたし、R・シュトラウス独特の「泣かせどころ」を味わうにはまず充分であったろう。

 プロダクション全体としては、比較的まとまりが良い部類だと思うものの、これにもう一つ「何か」が加わればいいのだが――。きちんと造られてはいるのだが、何か一つ強い個性の放射、熱気の噴出といったものに不足する。新国立劇場のプロダクションには、なぜかそのような「とりすました」ような傾向が、しばしば感じられるのである。
 5時35分終演。

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