2017-03

9・30(木)ヴィンシャーマンの「マタイ受難曲」

  すみだトリフォニーホール  6時30分

 日本語歌唱によるバッハの「マタイ受難曲」は、1975年6月に小澤征爾=新日本フィル=成城合唱団が演奏したのを収録し、FM東京の「新日本フィル・コンサート」という番組で全曲放送したことがある。

 その時にエヴァンゲリストを歌っていたのが鈴木寛一だった。今回も同役を歌うと発表されていたので、35年後の福音史家を楽しみにしていたのだが、惜しくも「病気」とかで降板。
 当初から出演メンバーに入っている櫻田亮が急遽代役を務めたが、彼はテノールのアリアの方は日本語で、エヴァンゲリスト役の方は「急のこととて」ドイツ語で歌った。止むを得ないこととはいえ、彼のドイツ語と、他の全員の日本語とが頻繁に交錯した結果、何ともチグハグ極まる演奏になってしまったのは否定できない。
 ただ、最も出番の多いエヴァンゲリストがドイツ語だったことは、ヴィンシャーマン御大にとっては、好都合だったろう。

 それにしても日本語の歌唱は、メイン・ソリストたちにとっては、かえって難しかったのではなかろうか。聴いている方でも、何か締まらない。
 ドイツ語のアクセントがピシリと決まって音楽にアクセントが付くはずの個所でも、日本語だとフワリと入る感じになるので、音楽のメリハリが薄くなる。

 イエスの多田羅迪夫、ソプラノの市原愛、アルトの福原寿美枝、バリトンの青山貴――この中で最も歌詞がよく聞き取れたのは多田羅で、高音に多少の不安定さがあったものの、迫力は充分だった。福原は声の威力は見事であり、全曲随一の泣かせ所である「第47番(39番)」のアリアなど絶品であったが、歌詞は何を歌っているのか終始解らずという感。専ら字幕が頼りだ。

 その点、日本語でこの曲を歌うことに伝統的に慣れているらしい成城合唱団は、言葉のリズムを実に上手く使って、ほとんど違和感がないほどに合唱を創り上げていたのは立派である。イエスが囚われたことを憤る激しい合唱、あるいは「バラバ!」と怒号する個所、そのほか多くの個所でパンチのあるリズムを使って歌唱を繰り広げていたのにも感心させられた。このように巧く歌えば、日本語訳で歌っても立派に成り立つのだという、これは絶好の見本ではなかろうか。
 ただし、合唱の中のソロ(脇役たち)は、アマチュアの発表会ではないのだから、もう少し何とかしなくてはいけない。
 児童合唱は成城学園初等学校合唱部。出番の際にだけ、オルガンの下に並んだ。

 臨時編成のオーケストラ――「マエストロの90歳を祝うスペシャル・オーケストラ」は、腕利きを集めての、なかなか良い演奏だった。前記の「第47番」でアルトとの掛け合いのヴァイオリン・ソロを見事に弾いたのは、大阪からコンマスとして参加している長原幸太。オーボエ(オーボエ・ダモーレなども含む)の古部賢一と森枝繭子のデュオも聴きものである。ヴィオラ・ダ・ガンバのソロには福沢宏、オルガンには小林道夫が参加していた。

 90歳のヘルムート・ヴィンシャーマン翁は、この日もおそろしく元気。全曲およそ3時間、すべて立ちっ放しで指揮。しかも終われば例のごとく腕を振り回したり手拍子を煽ったりして、わしは全く疲れてはおらんのだぞ、というさまを聴衆に誇示してみせる。まさに超人的だ。
 だが何よりも素晴しかったのは、その疲れ知らずの指揮と人柄とを以って、合唱やオーケストラに、この曲を演奏することの幸せを伝えたことではなかろうか。細かいことはともかく、この日の演奏には、すべての部分に温かいヒューマンな情感が満ち溢れていたのであった。

9・28(火)クリスチャン・ツィメルマン&ハーゲン弦楽四重奏団

  サントリーホール  7時

 ハーゲン四重奏団をサントリーホールで聴くのは、なんか久しぶりのような気がする。

 このような残響の豊かな大ホールで聴いても、この四重奏団のアグレッシヴで切り込むような、激しく凝縮する集中力は、薄められて聞こえることは些かもない。
 特にヤナーチェクの弦楽四重奏曲第1番「クロイツェル・ソナタ」は――こういう曲をやると、彼らは流石に凄い。3つの楽器が緊迫したフレーズを演奏しているところに、ヴェロニカ・ハーゲンのヴィオラが激しく割って入るくだりなど、まさにこの曲(1923年作曲)が、当時の表現主義のスタイルそのままに蘇るような感がある。

 この曲の前後には、ピアノのクリスチャン・ツィメルマンとの協演で、バツェヴィチの「ピアノ五重奏曲第1番」と、シューマンの「ピアノ五重奏曲変ホ長調」。
 特に後者では、ハーゲン四重奏団の押しの強さと、ツィメルマンの老練な包容力とが絶妙なバランスを形づくり、作品本来の素晴しさが余すところなく発揮されて、実に快い陶酔に浸らせてもらった。

 シューマンの最終の和音の個所で、ツィメルマンが後方で鍵盤から手を離したあと、まるで四重奏団を指揮するようなジェスチュアで、大きく腕を回した光景も面白い。
 それはもちろん、単なる感興の盛り上がりから生じた仕種に過ぎないのであって、なにもハーゲン四重奏団の演奏を指揮していたわけではない。
 しかし、この「五重奏曲」でシューマンがしばしば見せる「ためらい」のような感情を、演奏において主導したのは、やはりツィメルマンの方だったのではなかろうか。特に第1楽章では、それが印象づけられる。
 フィナーレでの追い込みにしても同様で、かりにハーゲン四重奏団側がリードしていたなら、彼らの日頃の音楽性からして、もっと凄まじいアッチェルランドで迫って行っただろう。だがこの日の演奏では、そこは思いのほか引き締められたテンポで進められたのだった。おとなの演奏(?)というべきか。

 それにしてもこのシューマンは、何というスケールの大きな、情感豊かな、素晴しい演奏だったことだろう!今年夏のザルツブルク音楽祭で聞き逃したこの顔合わせを、日本で聴けたのは幸いだった。

 ――あとで、「ザルツブルクではツィメルマンの体調不良のため、ハーゲン四重奏団のみの演奏会に変更になったのです」という非公開指定コメントを、Yさんからいただいた。そうでしたか! ありがとうございます。
 ということであれば、今回の演奏会は、まさに最高の贈り物だったわけで。

9・25(土)ベンジャミン・シュワルツ指揮東京交響楽団

  サントリーホール  6時

 このところつくづく感じるのだが、東京のオーケストラ、本当に上手くなったものだと思う。新日本フィル、東京都響、東京響。
 技術的にももちろんだが、アンサンブルの良さ、音色の美しさなどの点でも、いわゆる「いい音」になった。
 一頃は地方のオーケストラが肉薄して来て、距離が縮まったとまで感じられた時期もあったが、最近は東京勢がまた引き離し始めたような印象を受ける。

 今夜の東京交響楽団も、チャイコフスキーの「マンフレッド交響曲」で、特にそれを強く感じさせた。グレブ・ニキティンをコンマスとする弦楽器群のふくよかな厚み、荒絵理子のオーボエをはじめとする木管群の音色の良さ、あるいは金管群の安定したアンサンブルなど、――メリハリがやや薄いという傾向はあるにしても、豊麗な響きの美しさでは、実に驚嘆すべきものがある。

 客演指揮は、ベンジャミン・シュワルツという若手。現在サンフランシスコ響のレジデント・コンダクターを務めているそうだから、先日都響に客演したアウトウォーターの後任ということになる。オケをバランスよく鳴らす術に長けている人であることは確かであろう。
 だが、今回はやはり東京響の自律的な音づくりに与る面が大きかったのではなかろうか。

 その「マンフレッド交響曲」は、たっぷりと「間」を採ったテンポで演奏され、それゆえ時に緊迫感を保てなくなる個所がないでもない。つまり、いつもより曲の長さを感じさせた、ということである。そして、あまりメリハリのない、なだらかな響きだったことも前述の通り。
 しかし、その優麗豊満なサウンドが幸いしたということもある。第4楽章で反復される少々滑稽なリズムなどがさほどしつこく浮き出ることもなく、むしろマッシヴな進軍というイメージになり、チャイコフスキー特有の押しの強さがよい面で発揮させられた、というのも事実であろう。

 プログラムの最初は、グリンカの「ルスランとリュドミラ」序曲で、これは正直、あまり面白味のない演奏。

 次に演奏されたメンデルスゾーンの「ヴァイオリン協奏曲」は、有名なあの曲ではなく、ソロと弦楽合奏の協奏による「ニ短調」のほう。やや古典的な美感を備える。
 客演ソリストは、台湾出身でエリーザベト国際コンにも優勝したフー・ナイユアン(胡乃元)。明晰ながら渋い音色、しなやかだが強靭な表情を持った、これは不思議に強烈な印象を与えるヴァイオリニストだ。

9・24(金)アレクサンドル・ドミトリエフ指揮東京都交響楽団

  サントリーホール  7時

 ドミトリエフも、75歳になった。
 昔は、勢いはいいけれども何か音楽に空虚さのようなものもあって、さっぱり面白くない人だったが、今はすっかり円熟して、生真面目な音楽づくりながら風格とスケール感が加わり、立派な演奏を聴かせてくれる指揮者となっている。
 今夜のロシア系プログラムなど、手の内に入っているレパートリーということもあるが、実に堂々たる指揮だ。それに今夜の東京都響が、完璧といっていいほど巧い演奏だったので――最近の都響はひときわ好調のようだ――ドミトリエフの良さがいっそう発揮されていたように思われる。

 プログラムは、ドミトリエフ得意のシチェドリンの作品――「お茶目なチャストゥーシカ」で幕を開ける。
 10分足らずの作品だが非常に大きな編成で、全曲ひたすらリズム感で押して行くといった曲想。弦楽器奏者たちが弓で譜面台を叩く手法まで取り入れられ、多彩な音色の作品に仕上げられている。深みはなく、聴き終わってクスリと笑いたくなるタイプの音楽だが、これを正面切って演奏したところが、いかにもドミトリエフらしい。

 続くハチャトゥリアンの、不思議なリズムと旋律感を持つ「ヴァイオリン協奏曲」をも、ドミトリエフはがっちりとまとめた。あの曲の独特の音色を、都響がすこぶる巧みに再現していた。

 いっそう面白かったのは、最後のショスタコーヴィチの「交響曲第1番」だ。
 このようにどっしりとした厚みのある、しかも生真面目で壮大なアプローチで取り組まれて演奏されると、若き気鋭の作曲家の才気や皮肉や、生意気さやお茶目ぶりを満載したこの交響曲が、何か成熟した大人のユーモアという雰囲気になって蘇って来る。都響の立派な演奏も含め、この「第1交響曲」をこれほど威容のある演奏スタイルで聴いたことはこれまでになかった。

 協奏曲のソロは、アルメニア出身のセルゲイ・ハチャトゥリアン。未だ25歳だが、以前聴いた時より更に成長目覚しい。これ見よがしの誇張もハッタリもないままに、惻々と心に迫る演奏をする。この曲が彼のトレードマークになってしまうのは、彼としては不本意かもしれないが、やはり同郷の音楽という独特の味が発揮されるのは事実だろう。

9・23(木)井上道義指揮オーケストラ・アンサンブル金沢の大阪公演

  ザ・シンフォニーホール(大阪)  3時

 オーケストラ・アンサンブル金沢(OEK)、定例の大阪公演。
 メンデルスゾーンの「弦楽のための交響曲第10番ロ短調」、ラヴェルの「ピアノ協奏曲ト長調」(ソロは菊池洋子)、武満徹の「3つの映画音楽」、モーツァルトの「交響曲第39番」というプログラム。弦楽合奏の2曲に、管・打楽器を含むオーケストラ曲2曲を組み合わせるという、なかなか巧い選曲である。

 OEK、演奏も相変わらず好調のようだ。井上道義が音楽監督に就任して3年半、今やオーケストラもすっかり彼の色に染められたようである。
 メンデルスゾーンが思いのほか翳りのある弦の音色で演奏されたのに対し、次のラヴェルの協奏曲でのオーケストラはまさに井上らしく、才気煥発といった表情で躍動。こちらは少々賑やか過ぎた向きもないではなかったが、プログラム前半におけるクライマックスを形成する意味では絶好だ。

 武満の「ホゼ・トーレス」「黒い雨」「他人の顔」の3作からの小品も、これまでにも何人かの指揮者で聴いて来たが、「他人の顔」の「ワルツ」がこんなにエロティックに、くねるように演奏されたのを聴いたのは初めて。
 ちょっとやり過ぎかな、とも思うが、井上の踊るような指揮姿を見ていると、何となくそれと音楽とが合致してしまうから不思議だ。

 その「やり過ぎ」もしくは「凝り過ぎ」は、続くモーツァルトの第1楽章でも感じられた。特に再現部の途中からコーダにかけては、演奏の緊迫感を薄れさせた感があったようにも思う。
 しかし、この曲の第4楽章の、展開部から再現部に入る個所では、スコアの指定にないデュナーミクの変化が絶妙な効果を生み、音色の変化と転調の表情を含めて実に見事な演奏になっていた。時間にしてほんの数秒間のことだが、此処での井上の「凝り」はまさに最高であり、OEKもよくあそこまで巧みに表現したものである。
 ただし欲を言えばこの楽章では、OEKの木管に、もう少し瑞々しいしなやかさが欲しいところ。
 
 コントラバスのマルガリータ・カルチェヴァの演奏が、弾いている表情も含めて映えた。武満作品でのピチカート、あるいはラヴェルのフィナーレ【14】以降での煽るような4分音符のリズムなど、すこぶるエキサイティングなものを感じさせる演奏だ。

 ソリストの菊池洋子が、ラヴェルを素晴しくブリリアントに弾く。
 「モーツァルト弾き」のイメージが濃い彼女が、こんな華麗な曲を弾くというのも何となく愉快だが、この演奏がまた、実に好かったのである。またソロ・アンコールでは、グリュンヘルトの「こうもりのパラフレーズ」(正規の邦題は何というのか?)を、さらに豪壮華麗に、派手に弾いてくれた。
 彼女の別の側面を垣間見たような気持で、感心したり、驚いたりしながら聴き入る。

 オーケストラのアンコールは、井上の愉快なトーク入りで2曲。彼のトークは、関西ではピタリと決まる。聴衆が陽気に反応するのが面白い。東京では、聴衆の性格からして、こうは行かない。
 ティンパニの菅原淳が叩き出すマーチのリズムを先導として、モーツァルトの「行進曲K.335-1(320a)」が景気よく響く。次いで出たのが、メンデルスゾーンの「ヴァイオリン協奏曲」のカデンツァまで取り入れた編曲の「六甲おろし」。阪神が中日に4-1でリードしていると井上が告げると客席からワッと拍手。威勢のいい演奏に満場が手拍子で盛り上がる。
 こういうところが、「関西のノリ」というのか。東京ではとても無理だ。OEKのメンバーも随分と「芝居」が上手くなった。それもやはり音楽監督の影響か。

 「こっちでは阪神をやったけど、まさか昨夜の名古屋公演では調子よくドラゴンズを盛り上げたんじゃないの?」とマエストロ井上に訊いたら、「そこまではやらないよ。未だ編曲版が出来てない」。

9・22(水)ヘルムート・ヴィンシャーマン指揮大阪フィル「ロ短調ミサ」

  ザ・シンフォニーホール(大阪)  7時

 1週間前には86歳のネヴィル・マリナーの元気な指揮ぶりに感嘆したばかりなのに、今度は90歳のヴィンシャーマンの、さらに矍鑠たる指揮に驚嘆する。
 バッハの「ミサ曲ロ短調」――第1部(「グローリア」まで)約60分、休憩を挟んで第2部約55分。背筋をピンと伸ばし、椅子も使わず立ったままで指揮。
 しかもカーテンコールでは、山台の階段を上がり合唱団員の中に混じって答礼したり、「まだ疲れておらんぞ」とばかりに駆け足のジェスチュアを見せたりと、あの年齢からは信じられないようなタフネスぶりだ。
 26歳の息子がいるくらいだから、推して知るべし。

 名匠が大阪フィルから紡ぎ出す音楽は、何の衒いもない自然な感興にあふれ、しかも温かい。
 「キリエ」が開始された瞬間、この快い、安息に満ちた音楽はどこから生まれ出て来るのだろうと感嘆しつつ、夢見るような心地に引き込まれてしまう。
 ヴィンシャーマンはカーテンコールのたびにバッハのスコアを高くかざして見せ、「すべてはここにある」と聴衆に告げていた。それは事実としても、やはり作品に対するヴィンシャーマンのその謙虚さと、確固たる意志に貫かれながらも己を主張し過ぎることのない指揮、経験と年輪から生まれる強い説得力などが、このような感動的な演奏を創り出すのであろう。

 大阪フィルは、囁くように歌う弦楽器群と、ブリリアントに高鳴る金管楽器群との交錯の裡に、見事な演奏を聴かせていた。
 このオーケストラがこんなに柔らかい音を出すのかと驚いたりしたのは、もちろんこちらの認識不足で、――考えてみるとこの大阪フィルを、時の音楽監督以外の指揮者による指揮で聴いたのは、実に三十数年ぶり(小澤征爾指揮の「春の祭典」をFM東京時代に収録に来た時)のことだったのである。

 合唱は、大阪フィルハーモニー合唱団。90人近くの大編成で、決して絶叫することなく、これもすべて柔らかいソット・ヴォーチェのイメージで歌う。オーケストラと同様、厳密なアンサンブルよりも「心」を重視した演奏だ。
 客席から見ると、団員たちが何か本当に音楽に共感し、全身で「乗って」歌っているという雰囲気に感じられる。「グローリア」でのリズミカルな3拍子のくだりなどで、合唱団員たちが開いて持つスコアが――あたかもカモメが羽を拡げて飛んでいるように一斉に上下に揺れる光景が何とも微笑ましい。しかもそれが、歌っている時だけでなく、オーケストラのみで演奏される個所においてさえ、団員たちがリズムに乗ってスウィングしつつ出番を待つかのように、スコアは上下にリズミカルに揺れ続けているのだった。

 そんな動作は素人臭い、という人もいるだろうが、演奏に没入して身体を動かすというのは、クラシックといえども、決して非難されるべきものではなかろう。この合唱団の表情、私は大いに愉しんだ。

 声楽ソリストは、市原愛(ソプラノ)、加納悦子(アルト)、櫻田亮(テノール)、河野克典(バリトン)。
 バッハという作曲家は女声ソロの方に深みのある感動的な音楽を与える癖がある――という例に従い、ここでも女声陣が気を吐いていた。

 ヴィンシャーマン、来週木曜には東京で「マタイ受難曲」の日本語上演を指揮する。どんな演奏になるのだろう。

9・19(日)ル・ジュルナル・ド・パリ 第8部

  東京オペラシティコンサートホール  8時

 1時間置いて始まった第8部は、ルイス・フェルナンド・ペレスのワンマン・リサイタルで、アルベニスの「イベリア」の続き――第2、第3、第4巻が全部演奏された。

 私はアルベニスの作品には普段からあまり興味がないのだが、今年1月にナントで聴いて以来ご贔屓になってしまったペレスの演奏となれば、話は別だ。
 彼の豪快な、しかも瑞々しい美しさを兼ね備えた演奏でこの曲集を聴くと、アルベニスが若い頃に影響を受けたリストの音楽のエコーさえ蘇って来るような感をも受ける。

 右手をくねらせるように、時には「抜き手を切る」ように波打たせながら、あるいは鍵盤の上に置いた両手をまるで横から覗き込むかのように上体を伏せながら演奏するペレス。彼のアルベニスは、恐るべきダイナミズムを備えた、雄弁そのものの音楽だった。

9・19(日)ル・ジュルナル・ド・パリ 第7部

  東京オペラシティコンサートホール  6時

 ルネ・マルタンのプロデュースによる「パリ印象主義時代の音楽日記」なる3日間のシリーズ。
 アルベニス――パリに住んだこともある――の作品を含めたフランスの作曲家のピアノおよび室内楽が演奏される。大勢のピアニストが出演。一つの演奏会が1時間の長さ。「ラ・フォル・ジュルネ」の増刊号ともいうべきか。今日は2日目。

 夏の夜(9月だが未だ夏同様に暑い)に聴くフランスのピアノ曲は、何故か私には昔からぴったり来る。学生時代のある夏、片瀬江ノ島の知人の家で、誰かが弾くドビュッシーの「アラベスク第2番」が静かな夜の庭にコロコロと響いているのを聴き、体の奥底が溶けるような陶酔を味わったのが、そのきっかけかもしれない。
 今夜も、児玉桃がラヴェルの「夜のガスパール」を弾き始めた時など、本当にうっとりするほど快い、幸せな気分に誘われたのであった。

 演奏も瑞々しかったが、ピアノの音色もホールによく響いて、豊麗そのものである(1階中央やや後方の席で聴いた)。
 紀尾井ホールでやればちょうどいいくらいの数の聴衆の入りだったので、いつもよりさらに残響豊かに聞こえたこともあるだろう。
 2人目に登場したフランスの美女クレール=マリ・ルゲは、ドビュッシーの「子供の領分」を弾いたが、これまた真珠の連鎖が切れ目なく続くような美しいピアノ。だが、全6曲を聴いているうちに、その美しい音色にもかかわらず、意外に単調な演奏という印象しか残らない。

 しかし、3人目のルイス・フェルナンド・ペレスが登場してアルベニスの「イベリア」第1巻を弾き出したとたん、ピアノは突然生気を取り戻し、雄弁に音楽を語り始めるのだった。強烈なアクセント、深みのあるフォルティシモ、緊迫性のある躍動感。聴衆からはたくさんのブラヴォーが飛んだ。

9・18(土)オッフェンバック:「ホフマン物語」

  愛知県芸術劇場  2時

 札幌から9時55分発のANAで名古屋へ飛ぶ。
 あつものに懲りてナマスを吹くの類いで、自分の席に座る前にシートベルトをはじめ椅子の近辺を隈なくチェック。困った世の中になったものだ。11時40分に名古屋中部国際空港着、きれいな空港だ。名鉄線で名古屋駅まで、特急でわずか28分。一つ手前の金山駅で降りた方が劇場のある地下鉄栄駅までは近道だったらしいが、何せ土地勘のない旅ガラスゆえ。

 今回の「ホフマン物語」は、「あいちトリエンナーレ2010」のプロデュースによるもの。2回公演の初日である。
 プロローグ&エピローグ付3幕版という構成で、シューダンス版やマイケル・ケイ版など、いろいろなエディションを折衷した版だという話は聞いていたが、なるほど第3幕でのダペルトゥットの「ダイヤモンドのアリア」が復活されていたり(これがなかなか良い!)、昔からおなじみの聴きどころもいくつか聴けたりして、こういう折衷版も悪くないな、と大いに愉しめた。
 全曲大詰めにはミューズと群集の大合唱で結ばれる版が採用されていたが、これは今日では当然であろう。

 指揮はアッシャー・フィッシュで、ピットには名古屋フィルが入っていた。この演奏はすこぶる良かった。第3幕冒頭の「舟歌」での響きなど、幻想的な趣きをよく出していて美しく、快い。フィッシュの流れの良い指揮が、音楽的に充分手ごたえのある上演を生んだ最大の要因であろう。

 内外混成部隊による歌手陣も、概して強力だ。
 主人公ホフマンを歌ったアルトゥーロ・チャコン=クルスの独特のヴィブラートの多い発声だけは私は苦手で、彼が歌い出すと辟易させられっぱなしであったが、それを補って余りある存在だったのは、底力のある声で悪役4人(リンドルフ、コッペリウス、ミラクル、ダペルトゥット)を凄味たっぷりに演じ歌ったカルロ・コロンバーラだった。彼のおかげで舞台がいかに引き締められたか、最大の功労者と言っていいだろう。

 ホフマンが愛した「3人の女たち」では、操り人形オランピアを幸田浩子が、歌姫アントニアを砂川涼子が、悪女ジュリエッタを中嶋彰子がそれぞれ好演していた。
 幸田は――操り人形的演技は少々中途半端だったものの――極めて素晴しいコロラトゥーラを披露して客席の喝采を独り占めにした。
 砂川も好演だったが、存在感という点では未だこれからだろう。
 フランス語の発音を含めての役者ぶりを発揮したのは、やはりジュリエッタを歌った中嶋彰子だ。出番がもう少し多く、かつこの幕の演出がもっと明解だったなら、舞台を席巻したであろう。この人は、悪女的な個性の強い役柄に合っているようである。

 もう1人、ニクラウス(男役)とミューズの2役を歌ったのが加賀ひとみ。声の響かせ方に少々ムラがあるが、声質はいいし、舞台姿も映えるから、今後が楽しみだ。
 他に脇役陣も概して安定していたが、発明家スパランツァーニ役の晴雅彦、アントニアの父親役クレスペルの松下雅人、その召使フランツ役の西垣俊朗といった人たちも強く印象に残った。

 演出は粟國淳で、これまた力作だ。横田あつみの極めて大掛かりな、この劇場の舞台機構による回転舞台を活用して、――第3幕の「ジュリエッタの場」でのやや解り難い人物構図と動きとを別にすれば――力感と重厚さと動きのある舞台を創ってくれた。
 中央の巨大な主舞台が、ジュリエッタを載せたまま舞台奥にスライド(ノイズが大きいが)して消えて行き、とりあえずホフマンの女性遍歴の終結を告げるあたりの光景は、なかなか洒落たものだろう。
 彼の演出では、ジュリエッタは毒薬を飲まず、笑って姿を消す。ホフマンも自殺したりはせず、ミューズの招きに応じて音楽家としての創作活動に戻る。ラストシーンは、独り光の中にピアノに向かうホフマンの姿だけが舞台に残り、彼を讃える群集の愛の合唱が陰歌でそれを包む。かようにヒューマンなコンセプトによる演出だが、それも良かった。

 これは、極めて力の入った、豪華な上演であった。5時半終演。

9・17(金)尾高忠明指揮札幌交響楽団のマーラー「3番」

   札幌コンサートホール kitara  7時

 羽田13時発のANAで札幌に向かったが、何気なく締めたシートベルトのバックルの中にガムが塗り込められていたという悪質な悪戯に遭遇。
 フライトの頃には、体温で温められたガムが流れ出し、「ベルト着用指定の腰の低い位置」の衣類にべったりと付着、やばい状況になった。カーテンを閉め切った配膳室で美女のアテンダントがそれこそ一所懸命、アイスバッグから携帯用シミ抜きセット、ガムテープ(これは効果あり)まで総動員して除去してくれたので、幽かなシミを残すだけでどうやら事なきを得たが、フライト90分のうちの75分はこれに掛かり切り。
 ANAでは「当方の不注意で」と盛んに詫び、クリーニング代を渡してくれたが、締めた時には当人でさえ気づかなかったくらいなのだから、清掃する機内整備員が気づくはずもなかろう。一種の盲点である。事故でなくても、何が起こるか分からないという一例。

 マーラーの大作「交響曲第3番」では、札響合唱団とHBC少年少女合唱団、メゾ・ソプラノの手嶋眞佐子が協演、札響も非常な力演となった。

 この曲、巨大な規模ながら、オーケストレーションは極めて室内楽的な精緻さを持っていることは周知の通り。それゆえ、管楽器のソロを受け渡す時など、非常に精密なアンサンブルが要求される。
 その点で今夜の札響の演奏は、些か手探り状態だったという印象は否めまい。特に重要な役目を持つホルン群(8本編成)に関しては、ソロの安定度とともに、このような大編成の作品を演奏する際に当然加わるエキストラ奏者とのバランスなどに問題があったのではないか。
 しかしその一方、トロンボーン群とトランペット群、ポストホルンのソロなどは、大いに気を吐いた。特にトランペットは、あれだけ壮烈に吹いてくれると、音楽に一種の熱気があふれて来る。

 尾高忠明の指揮するマーラーは、予想どおり刺激的な劇的誇張を一切排除し、音楽の均衡を優先させたタイプの演奏だ。
 大太鼓や低弦の最弱音をも重視し、作品の中にある叙情性を浮彫りにする。デュナーミクのコントラストは明確だが、それはあくまで念入りに制御されたもので、マーラーの音楽が持つ複雑怪奇な対立的要素をそれぞれ放縦に解き放つといった類いの解釈ではない。
 したがって聴き手は、スリリングな興奮よりも、なだらかに変化する感情の中に浸るということになる。それもマーラー受容の一つのタイプであるかもしれない。

 しかしたとえば、第4楽章最後のチェロとコントラバスによる長い長い静けさのあとに、突然第5楽章のリズミカルな声楽の世界が割って入り、それが次第に遠ざかって第6楽章の弦楽器による「安息の世界」へ――という流れの部分で、第5楽章が本来持つ「解放感」がさほど強調されていないので、第6楽章冒頭に「大団円」というイメージを感じるに至らない、ということもあった。――このあたり、札響と合唱団の責任もあるのだろうが、私はやはり、過度な熱狂を避け、決して取り乱すことのない演奏を創るこの指揮者の好みが顕われた結果ではなかったか、と思う。

 ともあれ、この曲の第6楽章最後の壮大な盛り上がりは――ゆっくりしたテンポが最後まで保たれる限り――いつ聴いても感動的な個所である。ここで尾高と札響が創り出した昂揚は、思わず腰を浮かせたくなるほど見事なものであった。かくして、終り善ければすべて好し。

9・15(水)ネヴィル・マリナー指揮NHK交響楽団 B定期

  サントリーホール  7時

 久しぶりにNHK-FMのN響生中継のゲストを担当。
 チューニングの最中に1階下手側ドアから客席に走り込んでナマを聴き、演奏が終って拍手が始まるや否や席を離れて舞台下手側の狭い放送ブース室に戻るという、結構慌しい作業だ。
 本番は、パーソナリティの山田美也子さんのリードに従って喋ればいい。
 放送の仕事は「古巣」だから愉しいし、特に生放送での緊張感は応えられない醍醐味だが、肝心の出来栄えに関しては、終ってから常に強烈な自己嫌悪に陥ることの連鎖。

 ネヴィル・マリナー、もう86歳だが元気なのは嬉しい。朝のゲネプロも夜の本番も、すべて立ちっ放しで指揮するというエネルギーである。
 この日はチャイコフスキーの幻想序曲「ハムレット」、サン=サーンスの「チェロ協奏曲第1番」、ブラームスの「第1交響曲」を取り上げたが、彼らしい端正な音楽づくりではあるものの、予想以上にダイナミックな力感を発揮、音楽の流れにも全く弛緩を感じさせない指揮であった。

 特にブラームスでは、冒頭からしてたっぷりと低音を響かせ、重厚な風格をつくっていたのが印象的。第4楽章で有名な主題が出てからあと、ぐんぐんとテンポを上げてクライマックスにもって行く呼吸も見事なものがあった。3曲を通じて分厚く密度の濃い弦の響きが印象的だったが、これこそやはりN響の本領というものであろう。

 「チェロ協奏曲」でソロを弾いたアルバン・ゲルハルトは、ベルリン・フィルのアクセル・ゲルハルト(第2ヴァイオリン)の子息。いかにもドイツ人らしく、サン=サーンスの音楽といえども流麗に飾ることなく、一つ一つの音をかっちりと組み立てるタイプの演奏だったが、若々しく爽やかな音楽の表情がいい。

9・14(火)オーギュスタン・デュメイと関西フィルの東京公演

  サントリーホール  7時

 このところ攻勢に出ている関西フィルハーモニー管弦楽団、創立40周年を記念する第2回東京特別演奏会と銘打って、来年1月より音楽監督を務めることになっているオーギュスタン・デュメイ(現・首席客演指揮者)とともに登場。

 今回は第2部にジョセ・ヴァン・ダムを迎え、モーツァルト、ヴェルディ、ドリーブ、ロッシーニなどのオペラ・アリアが組まれるという、デュメイの指揮としてはやや意表を衝いたプログラムとなっていた。
 それらの曲では、オーケストラは思いのほか色彩的な響きを出していて、その点だけみればデュメイもなかなか味なことをやるなという印象だったが、声楽とのバランスを巧みに作ってオペラの響きを出すという面では、未だカラキシ素人さん的な指揮だ。
 特にヴァン・ダム(70歳)が往年のような強い声をすでに失い、ただ円熟の滋味あふれる性格表現で歌を聴かせるべき状況にあっては、オーケストラの鳴らし方にはよほど細かい神経を使わなくてはなるまい。

 だが、第1部で弾き振りしたモーツァルトの「ヴァイオリン協奏曲第5番」での嫋々たるデュメイ節こそは、この作品のギャラントな性格にぴったりな一面を持っていて、文句のつけようもない。
 また、第3部で指揮したベートーヴェンの「第8交響曲」では、スコアの至る所に指定されているスフォルツァンドの効果を十二分に生かし、極度にデュナーミクのコントラストの強い、鋭角的な音楽を創り出した。テンポも非常に速く、全曲は嵐のようなエネルギーで進んで行った。

 この2曲では、ヴァイオリニストとしてのデュメイと、指揮者としてのデュメイとの性格の違いがはっきりと浮き彫りにされていたように感じられ、すこぶる興味深かった。関西フィルも熱っぽい演奏を繰り広げ、「8番」の第2楽章など実にいい響きを出していたのも喜ばしい。
 デュメイのもとでこのオーケストラがどのような個性を発揮して行くのか見守りたいが、要するに彼が最も得意とするレパートリーをやってくれるのが一番いいだろう。
 トレーナーとしての手腕は、私には未だよく判らない。飯守泰次郎(常任指揮者)、藤岡幸夫(首席指揮者)とも、あまりトレーナー的なタイプの指揮者ではないから、そのへんがどうなるか?

9・13(月)「ショパン三夜」 第一夜「サロンの輝き」 イヴ・アンリ

  紀尾井ホール  7時

 フランスのピアニスト、イヴ・アンリが、スタインウェイとプレイエルのピアノを弾き分けた。
 スタインウェイで弾いたのは、モーツァルトの「ピアノ三重奏曲K.542」とショパンの「チェロとピアノのためのソナタ」。プレイエルで弾いたのはすべてショパンで、「夜想曲」から1曲、「練習曲」から3曲、「前奏曲」から3曲、「マズルカ」作品63の3曲、「ワルツ」から2曲、および「舟歌」「子守歌」。

 川田知子(ヴァイオリン)と遠藤真理(チェロ)が協演したトリオとソナタも実に艶麗典雅な演奏ではあったが、やはりこの日のコンサートでは、プレイエルでの音色と奏法に興味が集まる。
 1848年製というこの楽器が醸し出す清澄な音色は、フォルテピアノのそれにも近いが、また明らかにモダン・ピアノに近い特質をも感じさせるものだ。
 ショパンが当時こういう音で弾いていたのかという感慨とともに、これはやはり当時のサロンで演奏されるにふさわしい楽器であり、現代の大ホールで使用されるべき楽器ではない、という思いも起こって来る。しかし、紀尾井ホールというこの会場の雰囲気とアコースティックは、ぎりぎりのところでこの楽器の良さを再現することを可能にしていただろう。

 こういう楽器でこういう風に弾けばこういう曲に聞こえるのだ――と、改めて気づかされ、感嘆することしきり。
 モダン・ピアノによる豊麗なサウンドでは覆い隠されがちな内声部の精緻な動きが手に取るように伝わって来て、聴き慣れた作品が別の味わいを以って蘇り、1曲1曲が新鮮に聞こえて愉しい。

 第1部の最後に演奏された「子守歌」など、左手で一貫して繰り返されるモティーフと、右手に展開される軽やかなルバートの流れとの対比が、これほど明確に浮彫りにされ、曲の構築の面白さが聴き取れたことはかつてなかった。
 たしかに、左手は揺り篭の動き、右手は――という解説書の一文は昔から頭に入っている。だが、今日の演奏は、全く異なったイメージを呼び起こした。左手は、あたかもゆっくりと動き続けるゴンドラの櫂。右手は、舟べりに躍り輝き続けるさざ波のよう――演奏の間私は、この曲の方がよほど「舟歌」と呼ばれるにふさわしいのではないか、などと、夢か現の幻想に浸っていた。

9・12(日)エドウィン・アウトウォーター指揮東京都交響楽団

  サントリーホール  2時

 暑い午後、六本木1丁目方面からサントリーホールへ向かっていると、何とカラヤン広場の真ん中を、結婚式の衣装を着た花婿と花嫁が進んで来る。
 どこか式場に向かう途中なのかな、と眺めていたら、何とそれは、アントネッロのチェンバロ&ハープ奏者の西山まりえさんの結婚式だ、と駆け寄って来た関係者の知人から教えられた。
 何でまたこんな暑い時にこんな暑い場所で、と呆気に取られているところへ、いきなり花嫁の方から大声で何度もこちらの名を呼ばれて、ますます仰天。お祝いを言うために傍へ寄るのも照れ臭く、離れた場所から声をかけて手を振るのがやっと。
 何はともあれ、ご結婚おめでとうございます!

 本題。
 今日の都響を指揮した若手、エドウィン・アウトウォーター Edwin Outwater は、2006年まで5年間、サンフランシスコ響のレジデント・コンダクターを務めたことがある由。その時の定期でHKグルーバーの「フランケンシュタイン!!」を指揮して大成功を収めたというから、本来はこんなロシア系名曲プログラムよりも、現代音楽を振った方が冴えるタイプの人ではなかろうか。

 この指揮者は、明晰な響きをオーケストラから引き出し、明快なリズム感で割り切ったダイナミズムを創り出す。各声部の動きをはっきりと浮かび上がらせるテクニックにかけては、なかなかの才能を持った指揮者であると思われる。都響も見事な技術とアンサンブルと、胸のすくような力感で応え、轟々と鳴り渡る。
 とはいっても今日のような――グリンカの「ルスランとリュドミラ」序曲や、プロコフィエフの「ピアノ協奏曲第2番」(ソロ:サ・チェン)や、ムソルグスキー=ラヴェルの「展覧会の絵」といったレパートリーでは、そういう音楽づくりが必ずしも成功するとは限らない。せっかくのその鮮やかな演奏も、単に音響的な威力が強調されるだけで、それ以外に心の琴線に触れて来るものがほとんどない、という程度にとどまってしまうのだ。

 彼の指揮は概して直截なスタイルだが、「ルスランとリュドミラ」の再現部第2主題の個所のみ突如オケを弱音に落すという演出を加えることもあった。何が狙いでそこだけそうしたのか、前後の流れからすると理解しがたい。

 アンコールに演奏されたのは、ビゼーの「アルルの女」第2組曲からの「メヌエット」と「ファランドール」。前者でのフルート・ソロはふくらみがあって、朗々と清楚に響き、絶品だった。これは現在の都響の全能力を象徴するもの、と言っていいかもしれない。
 

9・11(土)アレクサンドル・ラザレフ指揮日本フィル
プロコフィエフ交響曲全曲演奏プロジェクト vol.5

  サントリーホール  4時

 プロコフィエフの「ピアノ協奏曲第3番」(ソロ:上原彩子)と「交響曲第5番」をメインに、導入としてチャイコフスキーの「白鳥の湖」から「情景」「ワルツ」「4羽の白鳥の踊り」「チャールダシュ」。

 かようにすべてダイナミズムに富んだ曲ばかりの時には、日本フィルも意気天を衝くばかりの快調な演奏を聴かせてくれる。
 「白鳥の湖」の「ワルツ」での豪壮に轟く大音響に、以前あったような音の濁りが無くなっているのはうれしい。「チャールダシュ」の弦に所謂ハンガリー風の艶やかな色合いが聴かれたのも、なかなか芸の細かいところだ。「4羽の白鳥の踊り」は、昨年アンコールでやった時には「おかしな白鳥の踊り」といった趣のヘンな演奏だったが、今回は至極まともなスタイル。

 続く協奏曲でも、ラザレフはシンフォニックに音を轟かせる。RC席最前列で聴いていると、さすがの上原のピアノも細部はオケに打ち消されがちになってしまう。聴く位置を誤ったか。それでもあの大音響に対抗出来たのは、近年目覚しく演奏にスケールを増した彼女ならではのものだろう。

 「第5交響曲」は、この曲のバーバリックな側面を極度に強調した演奏だ。
 ソ連に帰国したプロコフィエフが、決して保守主義に転向したのではなく、かつて西欧滞在時代に掲げていたラディカルな「鉄と鋼(はがね)」の精神を未だ失わず――と自ら主張しているような満々たる闘志を、私たちは聴き取る。
 こういう野生的なプロコフィエフ像を、ゲルギエフもかつてロッテルダム・フィルとの日本公演で聴かせたことがあった。今日も猛然たる演奏で、最初から最後まで鳴らしっぱなしという感もなくはなかったが、作曲者の一面を浮彫りにした表現という点では、納得の行くところも多い。

 たった一つ疑問を言えば、第3楽章までのあまりの豪快な――激怒と言ってもいいくらいの――咆哮と怒号のあとでは、第4楽章の軽快な主題を含む音楽がフィナーレとしての重みを失ってしまい、何かエピローグ的なイメージになってしまったことだろう。
 もっとも、全曲大詰めの追い込み個所――私はいつもここは「こけつまろびつゴールへ突進」という表現を思い浮かべずにはいられないのだが――での打楽器の大暴れは、締め括りにふさわしかったかもしれない。

 日本フィル、物凄いパワーだった。咆哮しながらも音には混濁もなく、第3楽章での弱音にもふくらみがあった。今回はすべて好し、というところ。特に1番オーボエと1番トランペットを讃えたい。

 アンコール曲は、プロコフィエフの「戦争と平和」の、不安な雰囲気を湛えたワルツ。アンドレイ・ボルコンスキー公爵が死の直前、夢か現かの狭間でナターシャと踊る場面の音楽だ。METで観たホロストフスキーとネトレプコによる鬼気迫る場面を思い出す。「第5交響曲」とは近い縁にあり、しかも対照的な神秘性を持つ曲である。ラザレフがこの曲をアンコールに選んだのは、実に見事な着眼点だ。彼の緻密な設計は驚くべきものである。

9・10(金)クリスティアン・アルミンク指揮新日本フィル
ヴェルディ:「レクイエム」

   すみだトリフォニーホール  7時15分

 新日本フィルは、今シーズン(~来年7月)の定期の指揮をアルミンク、ダニエル・ハーディング、インゴ・メッツマッハー、フランス・ブリュッヘンの4人だけで固めるというユニークな体制を採る。なんか面白そうだ。

 トリフォニーホール・シリーズの第1弾は、ヴェルディの「レクイエム」。
 初日のせいか、第1曲「レクイエムとキリエ」あたりではソリスト・コーラスを含めてやや集中力を欠いた、座りのよくない演奏という感じもしたが、「怒りの日」が進むにしたがって、演奏も次第に流れに乗って行った。
 全曲最後の「リベラ・メ」などは、アルミンクにしてこの激しさ――と驚くばかりの没我的な熱狂の演奏。終り良ければすべて好し。おそらく、2日目の演奏はさらに良くなっていたのでは?

 ソリスト4人は多少ムラがあったが、ソプラノにノルマ・ファンティーニを迎えたことは、この演奏を成功させた最大の要因ではなかろうか。なにしろこの人が歌っている時には、旋律線やリズム、劇的な表情など一切を含めたヴェルディ特有の音楽のラインがピタリと決まるのである。
 この彼女の輝きと美しさには及ばぬまでも、マリーナ・プルデンスカヤ(メゾ・ソプラノ)とラルフ・ルーカス(バリトン)も、もちろんよく歌っていた。しかし、ひとりスコット・マクアリスター(テノール)だけは、叙情的な遅いテンポの個所で音程が不安定になることがあったのが気になる。

 オーケストラも、まとまりが良い。新日本フィルの最近の好調ぶり――定期でリキが入っている時はだが――を物語るだろう。
 ただそれとは別に、「トゥーバ・ミルム」で2階席後方に置かれたバンダ(計4本のトランペット)は、1階後方の席で聴く限り、いかにも音量不足だ。それに、最後の審判のラッパを表わすものとしては、もう少し絶叫するような、ホールの空気を切り裂くような、鮮烈な表情が欲しいところである。

 コーラス(栗友会合唱団)も、前半のノリ不足を別とすれば、健闘して立派な出来を示していた。この団体も近年、好演が目立つ。アルミンクと新日本フィルとの協演では、つい先頃の「七つの封印を有する書」も素晴しかった。それに今回、全曲1時間40分ものあいだ立ちっ放しというのは、凄いものだ。昔は、長い間立っていると必ず倒れる女性が出たものだが、本当に今の女性たちは――。

9・8(水)サイトウ・キネン・フェスティバル松本
小澤征爾&下野竜也指揮サイトウ・キネン・オーケストラ

  長野県松本文化会館  7時

 小澤征爾がチャイコフスキーの「弦楽セレナード」第1楽章を、次いで下野竜也がメイン・プログラムの権代敦彦の「デカセクシス」(カーネギーホールとの共同委嘱作品・世界初演)およびブラームスの「交響曲第1番」を指揮した。

 冒頭、小澤征爾が挨拶のため舞台袖に姿を現わしただけで、満員の客席からは嵐のような拍手が巻き起こり、いつ果てるともなく続く。これが松本のファンというものだ。何のかんの言っても結局、彼の顔を現実に見れば、それで安心するのである。もっとも、それは私とて同様なのだが――。

 やっと拍手を静めた彼の「お詫びの挨拶」は、新聞に報道された9月5日のそれと内容は同じ。
 ステージを歩いたり、指揮をしたりする彼の動作そのものは以前に変わらず敏捷だが、やはりぎこちなさを感じさせる。指揮をしたのは7分間ほど、指揮台上の椅子に座ることもあったが、大部分は立ったまま精力的に振り終えた。
 だが、指揮をし終わって指揮台から降り、袖へ引き上げようとした途端、彼の姿勢がガクンと崩れかけたように見え、ぎょっとした客席の拍手が一瞬揺れる。カーテンコールは1回行なわれたが、オーケストラはそこで引き上げ、彼の体調を慮った聴衆もそこで拍手を止めた。

 「弦楽セレナード」での演奏は、分厚い音と強靭なエネルギー感を湛えた、まさに昔ながらの力感あふれるサイトウ・キネン・オーケストラのそれだった。
 もし彼が腰掛けたままの姿勢を保てるのであれば、かつてのクレンペラーやクナッパーツブッシュと同じように、指揮台上の椅子に座ってほとんど体を動かすことなく、オケをジロリと見渡しては時々軽く指示を送るだけの指揮をしてくれればいいのだ。練達の楽員たちは、彼のイメージだけを受け取って自ら演奏を創り上げることくらい、いとも容易いことだろう。そうすれば代わりの指揮者を立てる必要もなかったかもしれない。

 だが小澤征爾という人はもともと、常に自分で細かいところまで振らなければ気の済まない指揮者だ。
 その上、腰痛というやつは――私も経験があるが――立つも座るも掛けるも寝るも、その都度歯を食いしばって耐えなければならぬシロモノなのである。
 ともあれ今年は、仕方のないことだった。

 しかしその「代役」下野竜也は、今年のフェスティバルでは代役どころか、事実上の首席指揮者と言っていいほどの存在感を示していた。
 さすがに「青少年のためのオペラ」の指揮の方は降りたが、小澤の指揮する予定だった4回の演奏会のメイン・プログラムをすべて彼が受け持ち、誠実な指揮ぶりを発揮したのである。

 ブラームスの「交響曲第1番」は、第1楽章前半こそやや力み返った演奏のように聞こえ、響きが硬質で表情も希薄なように感じられたものの、楽章が進むに従い、音楽に瑞々しさが加わり、たっぷりと鳴る低音の上にしっかりした緻密な音の構築が聞かれはじめる。
 些かクソ真面目な指揮ではあったが、多分2日目(9日)の演奏では、もう少ししなやかさが聞かれるようになるのではないかと思う。弦を含めたこのオケの音色には、小澤が振る時よりも、ずっと柔らかさが感じられたのであった。
 ただ、ティンパニの豪打は、時に全管弦楽の均衡を破る傾向がなくもない。――下野はいつからこんなにティンパニを強烈に叩かせる指揮になったのだっけ? 昨年秋にチェコ・フィルを指揮した「英雄の生涯」のCDでも、ティンパニをやたら大暴れさせていたが・・・・。

 前半に世界初演されたのは、権代敦彦の「デカセクシス」。――作曲者の解説に拠れば、この世のすべての愛着を放棄し、有限の肉体を離れ、宇宙と融合し、無限に入る、そんな涅槃の境地を言うのだそうである。
 だが聴いた感じではそれとは逆に、全体に骨太で剛直な、非常な緊迫感に支配された音楽という印象を受ける。持続するC音のイメージが常にこちらの意識についてまわり、解脱→涅槃というよりも、終始不安に追い立てられるような心理の裡に、胸の鼓動が高まるような気分の裡に閉じ込められる。
 後半に一つの長いパウゼがあり、そこで音楽の雰囲気が一変するのかと思ったが、その後も相変わらず同じような進行が続いて行ったのは些か解せないところだ。幕切れはヴァイオリンのソリで――あたかもシェーンベルクの「期待」におけるように――音が虚空に消えるという仕組みだが、ここが実に素っ気なくバサリと消えたのは、作品の狙いなのか、あるいは演奏の所為なのか。
 演奏が終って休憩に入った時、後ろから歩いて来る中年女性たちが「なんだかヒッチコックみたいな音楽ね」と語り合っていた。――これは実に言い得て妙、である。

 終演後の楽屋で、マエストロ下野の指揮を賞賛して部屋を出た途端に、隣の部屋から出てきたマエストロ小澤に出くわしたので、「お大事に」と握手。「あれ、どうもどうも」と、いつものように元気も愛想もよかったが、「座らなきゃ」とすぐさま椅子に掛けてしまった。「立っているとどうにも痛くてさあ」と呟く。

 今年のフェスティバルも、最終日に近づいている。タクシーの運転手氏が「終ると寂しいですよねえ。でもSKFのおかげで、松本の名前も有名になって来たからありがたいですよ」と答える。

 翌9日朝に帰京。台風のため甲府近辺で倒木があったとかで、7時59分発の「スーパーあずさ6号」は運行の見込み立たず。駅のアナウンスが、東京方面へ行くなら長野へ回り、長野新幹線に乗れ、と勧めるので、みんなでブツクサ言いながらそれに従う。
 ところが、これが意外に早い。松本―長野間は各駅停車で80分ほどかかったが、接続した10時08分発の新幹線「あさま518」は、1日に1本しかない、途中大宮しか停まらない「最速」列車。東京には11時31分に着いた。結局、大騒ぎした割には、当初の帰京予定より53分遅れただけ。

9・5(日)アレクサンドル・ラザレフ指揮日本フィル 「新世界」他

   サントリーホール  2時

 ナマでは滅多に聴けないグラズノフのバレエ曲「ライモンダ」が演奏されるというので、それを目当てに出かけた。
 ガーンと始まる曲を指揮する時の例に漏れず、ラザレフは猛然と指揮台に飛び乗り、拍手も終らぬうちに猛然とオケの方を振り向き、怒れるキングコングさながらの勢いで演奏を開始する。豪快に鳴る日本フィルの音には色彩感も備わり、少し騒々しいけれども痛快無類だ。抜粋ではあったが、ほぼ40分近い量でこのバレエ曲を味わえたことは有難い。

 もっとも、演奏としては、プログラム後半に置かれた「新世界交響曲」の方が面白かったともいえよう。一言で言えば、デュナーミクの対比を入念に考え抜いた解釈である。

 第1楽章冒頭のヴィオラはほとんど聞こえないほどの弱音であり(2階席後方でドタバタと音がするので尚更聞こえなかった)、第2楽章のイングリッシュ・ホルンを支える弦楽器群も極度の最弱音で奏される。
 後者でのp3つとp2つの個所をスコアの指定どおりに区別して弾かせたり、第2ヴァイオリンの小さなアクセント(第30~31小節)を正確に強調するあたりの芸の細かさは、ラザレフが単に怒号するだけの指揮者でなく、演奏を微細に設計する指揮者であることを如実に証明しているだろう。
 この第2楽章での、ふくらみのある最弱音を保ちつつ揺れ動く弦楽器群の演奏は、絶品だった。昨年1月の同じコンビによるガタピシした「新世界」とは、雲泥の差だ。

 ただ管楽器――特に金管は、ダイナミックなパワーの面での音は良くなったが、前回同様に粗っぽいところも多々ある。たとえば第2楽章冒頭のコラールなど。
 こういう精妙な個所を常に美しく、夢幻的に響かせられるようになった時こそ、日本フィルの復調は完璧だ――とファンに確信されるようになるだろう。

 しかし、4本のホルンの咆哮は第4楽章を含めて壮烈だし、また第3楽章で木管群が民族舞踊的に奏する主題は、こんなに良いフシだったかと再認識させるような美しい躍動感にあふれていた。
 ラザレフも、日本フィルの復調に手応えを感じているがゆえに、このような変幻自在のテンポ調整(後半2楽章)やデュナーミクの変化を、思い切りよく指示出来たのではなかろうか?
 これは、全く退屈させられることのなかった演奏の「新世界交響曲」。

(追記)「冒頭のヴィオラ」は「チェロのことではないか。もっとちゃんと勉強しろ」との非公開指定コメントを頂戴した。
 ありがとうございました。が、私の言っているのは、そのチェロを包む和音を構成するのに重要なヴィオラの下降音のことなのである。本来、チェロの4分音符の上に顔を出すヴィオラの8分音符(第1~2小節)が、この主題に何という膨らみを与えていることだろうか。
 ドヴォルジャークは、若い頃にはヴィオラ奏者でもあった。この「新世界」の中にも、ヴィオラがちょっとしたアクセントを与えている個所が少なくない。最もすばらしいのは、第1楽章再現部のオーボエ主題の下に動く、細かく刻まれた、事実上トレモロに近い8分音符(第287小節)。ただし、これがはっきりと聞こえる演奏は、滅多にない。CDでは、ロジンスキー指揮の古いモノーラル録音。ものは試し、聴いてみて下さい。

9・4(土)キリル・カラビッツ指揮東京交響楽団

   東京オペラシティコンサートホール  2時

 東京交響楽団の「ライジング・スター指揮者路線」は、成功しているようだ。
 今日登場したキリル・カラビッツも、なかなかの才能の持主である。ウクライナ生れで、34歳。すでにボーンマス響の首席指揮者をつとめている人だ。
 この5月にもリヨンで彼が指揮するリムスキー=コルサコフの「モーツァルトとサリエリ」(演奏会形式)などを聴いたが、あそこの歌劇場は演奏会にはアコースティックがドライ過ぎるので、音楽に潤いがなくなるきらいがあった。その点、今日は彼の良さを、ある程度まで堪能できたような気がする。

 1曲目の、ストラヴィンスキーの「弦楽のための協奏曲(バーゼル協奏曲)」の冒頭、リズミカルな主題を奏する弦の音色に、ロシアのパレフを連想させるような原色的な色彩感が溢れていた。これは、大変面白い。
 この曲のような新古典主義作風の中にさえロシアのエコーを織り込むという手法は、かのゲルギエフが言った「ストラヴィンスキーは、リムスキー=コルサコフの影響を受けたロシアの作曲家。私はそのイメージに基づいてストラヴィンスキーの作品を演奏するのだ」というコンセプトと、軌を一にするものといえよう。
 しかもカラビッツの指揮は、すこぶる緻密で、スコアの隅々まで神経を行き届かせるといったタイプのものでもあった。

 最後に演奏されたショスタコーヴィチの「第1交響曲」でも、この指揮者が端倪すべからざる才能の持主であることが如実に示されていたであろう。
 あのアイロニーに満ちた軽快な第1楽章の楽想を、予想に反してやや重く、あたかもいたずらっ子が周囲の様子を窺うような表情で始めたカラビッツは、次第に大きなクレッシェンドや最強奏を強調して音楽に起伏を持たせつつ、終楽章を頂点とした一つの大きな流れとして作品を構築して行く。なかなかに説得力のある解釈である。
 折々たたきつけられる歯切れのいいリズムも、若く才気あふれる作曲者の姿を浮かび上がらせる。大詰めのクライマックス、みるみるテンポを上げて終結へなだれ込む呼吸も素晴しい。

 東京交響楽団も実にドラスティックに反応した。若く有望な指揮者を招聘して、かくのごとく張りのある演奏を繰り広げる姿勢は、このオケの美点でもあろう。

 この2曲の間に、ポーランドの女性ピアニスト、シモーネ・ディナースタインをソリストに、バッハの「ピアノ協奏曲第1番」が演奏されたのだが――彼女のソロそのものは大変結構なものだったと思う。ただ、バッハの鍵盤協奏曲をモダン・ピアノで聴くと、当節、些か戸惑ってしまうのは事実。
 プログラムの流れの上で一つの狙いがあったであろうことは察するけれども――。
 

9・3(金)小山実稚恵 25周年記念演奏会 ブラームスの協奏曲

  サントリーホール  7時

 大野和士指揮の東京都交響楽団との協演で、ブラームスのピアノ協奏曲2曲。超重量のプログラム。

 チャイコフスキー国際コンクール入賞が1982年、ショパン国際コンクール入賞が1985年――。しかし、彼女自身がプログラムへの寄稿で「ショパンコンクール出場後に本格的な演奏活動を始めて」と書いている。そういう意味での「25周年」ということのようである。
 いずれにせよ、もうそんなに年月が経ってしまったのかと(自分のことを棚に上げて)感無量。

 昔も今も変わらず、フニャンフニャンという感じでお喋りになるかただが――これが実にいい雰囲気で、魅力的なのである――その柔らかいキャラから、どうしてあのように豪壮な、なにものをも巻き込んで押し流すような、ディオニュソス的なブラームスが生み出されるのか、不思議といえば不思議だ。

 今夜も、特に「第2番」は、沸き立つような激しい躍動とうねりを備えた、類のないほど劇的な演奏だった。これまでナマの演奏会でこの曲を聴いたのは十回以上にのぼるが、とりわけ第1楽章と第2楽章でこんなに胸がどきどきするような昂揚感に誘われたことは、かつて一度も無かった。ブラームス円熟期のこの大曲の、深さと拡がりと、情熱と静寂とを余すところなく示した演奏だった――と言っていいだろう。

 小山の体当たり的な演奏を、これまた見事に煽り、支えたのが、大野和士の指揮だった。
 協奏曲の「第1番」は予想外に抑制気味の音楽づくりだったが、休憩後の1曲目に演奏したオーケストラだけの「大学祝典序曲」にいたって、彼の凄まじさが火を噴いた。あれは、とても「大学祝典」とか、学生歌の接続曲とかいうイメージの演奏ではなかった。速めのテンポで嵐のように突き進むドラマティックな交響詩といった性格の表現だった。その音楽の勢いが、次の「第2協奏曲」に引き継がれていったのである。

9・2(木)クリスティアン・アルミンク指揮新日本フィル 抒情交響曲他

   サントリーホール  7時

 秋のシーズン開幕。
 新日本フィルのサントリーホール・シリーズは、音楽監督クリスティアン・アルミンクの指揮で、いかにもこのオケらしくパンチの効いたプロでスタート。

 冒頭にはブルックナーの30代後半の作品「4つの管弦楽曲」と題して小品集「行進曲と3つの管弦楽曲」が演奏された。
 出だしのホルンの響きに一瞬ブルックナーの顔が見えたような気がしたが、あとはほとんどシューマンかメンデルスゾーンかと思わせられるような曲想ばかり。可愛い曲だ。こういう曲を演奏会で取り上げる指揮者とオケは、わが国ではこのコンビぐらいなものであろう。貴重な機会であった。

 2曲目は、昨年から延び延びになっていた望月京の委嘱新作「ニグレド」。
 プレトークやプログラム・ノートでは作曲者自身が例のごとくいろいろ難しい言い回しで解説していたが、そんなプログラム(標題的内容)や経緯などよりも、曲自体の一種名状し難い神秘性を感じさせる響きそのものが――彼女の他の多くの作品におけると同様に――私にとっては最大の魅力の基である。特に今回の作品では、舞台外から混入して来る管やピアノの音――その中にはシューマンの曲からの引用もある――が更に複雑で面白い効果をもたらしている。

 そして休憩後には、ツェムリンスキーの「抒情交響曲」が、カリーネ・ババジャニアン(ソプラノ)とトーマス・モール(バリトン)をソリストに迎えて演奏された。
 アルミンクのツェムリンスキーといえば、かつて新国立劇場で二期会が上演した「フィレンツェの悲劇」での秀抜な指揮が思い出される。彼にとってこのあたりは最も得意なレパートリーであろう。今夜も新日本フィルを多彩に響かせ、その厚みのあるオーケストラの音と歌唱との均衡を巧みに保ちつつ(それでもソプラノの声を明瞭に浮き上がらせるのは難しかったようだが)、作品の悲劇的性格を描き出してくれた。新日本フィルも熱演である。

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