2017-02

8・31(火)「ベトナムの蓮」弦楽四重奏団

   王子ホール(東京・銀座) 7時

 西暦938年、中国から独立したベトナムは、1009年に李朝大越国を建国、1010年に首都をダイラに移し、タンロン(昇竜)と名づける。この首都の名が、1831年にハノイと変更された。したがって、今年はハノイ建都1000年にあたる。
 その「ハノイ建都1000年記念」と銘打って、日越文化交流事業の一環として開催されたのが、この「ホアン・セン(ベトナムの蓮)」弦楽四重奏団の演奏会だ。

 メンバーは、本名徹次が音楽監督・首席指揮者をつとめるベトナム国立交響楽団の女性美人首席奏者たち。
 ただし、オリジナル・メンバーのヴィオラ奏者チャン・ホアン・イェンは来日できなかったため、今回は日本の安藤裕子が「友情出演」でヴィオラを弾いた。彼女、すべてベトナムのレパートリーで、他の3人との練習時間もそれほど無かったろうし、しかも片手を胸の前に立てて「南無阿弥陀仏」をベトナム式発音で歌う個所もあるパフォーマンスを、よくまあこなしたものだと感心する。
 とにかくベトナムの民族衣装に身を包み、答礼の際には常に笑顔を客席に向けるこの美女カルテットの舞台は、それこそ花が開いたような美しく明るい雰囲気を漂わせるものだった。

 今夜のプログラムは前述のごとく、すべてベトナムの作品ばかり。なまじ泰西の名曲など無理に織り込むより、よほどお国のカラーを感じさせて、非常に好感が持てる。

 1曲目のンゴ・ホァン・クァン作曲「ヴァオ・チュア(入寺)」は、8月28日に奈良の東大寺大仏殿で行なわれた「ハノイ建都1000年・平城遷都1300年記念・日越文化交流演奏会」で初演された弦楽四重奏曲で、「東大寺に捧ぐ・光明皇后1250年御遠忌献呈曲」の辞が添えられている。
 演奏の最初と最後に、奏者4人が立ち上がり、客席を向いて片手を胸の前に立て、「南無阿弥陀仏」と合唱する曲がこれだ。「ナムアミダブツ」は、ベトナム語では「ナモアジダファット」になると解説書には書かれていたが、実際には「ナモアゼ・・・・」に近く聞こえ、また語尾もずっと柔らかく丸みを帯びた響きに聞こえた印象である。
 しかもその念仏は、きれいなハーモニーも伴っているので、まさに「妙なる天楽仙音」といった感。
 本体の四重奏曲自体は、ベトナムの民謡や踊りの音楽を素材にしたものだ。

 オーケストラ・ニッポニカの委嘱により書かれたヴ・ニャット・タンの「雨」は、音程をずらせたり、楽器を打楽器としても使ったり、いろいろ多彩な手法が織り込まれていて面白い(CDの英語訳タイトルではRainy Seasonとなっていた。雨の多い季節の夏に作曲されたという)。
 この他、「故郷の思い出」「懐かしい南国」「黒毛の馬の歌」「春の蓮曲」「タイ・グェン(西原)」といった作品が演奏されたが、いずれもベトナムの伝統的な民族音楽に素材を得た、懐かしく親しみやすい曲ばかりであった。

 第1部と第2部の前には、文化交流協会の筒井理事長や、グエン・フー・ビン駐日ベトナム大使、国立響音楽監督の本名徹次といった人々の挨拶があり、全部合わせるとかなり長いスピーチとなったが、演奏会の趣旨からすれば致し方なかろう。それでも終演は9時頃。滅多に聴けない曲に接することの出来る、貴重な演奏会だった。

 なおベトナム国立響は、この3年ほどをかけてマーラーの交響曲の連続演奏に取り組んでおり(私が一昨年に現地で聴いたのもその一つ「3番」だった)、この10月23日にはいよいよ「第8番 千人の交響曲」を演奏するそうである。また聴きに行って見たいが、スケジュールが合わず、困っているところ。

8・30(月)サントリー芸術財団のサマーフェスティバル
沼尻竜典指揮東京フィルのジョナサン・ハーヴェイ他

   サントリーホール  7時

 23日から開かれていたサントリーホールの「サマーフェスティバル2010 MUSIC TODAY 21」の最終夜、テーマ作曲家ジョナサン・ハーヴェイ(英、1939年生)の作品を中心にしたオーケストラ・コンサートを聴く。今回はスケジュールの都合で、聴けたのはこの日のみ。

 プログラムは、ハーヴェイの作品から「ボディ・マンダラ」と「80ブレス・フォー・トウキョウ」(サントリーホール委嘱作曲初演)、その間にワーグナーの「聖金曜日の音楽」と、スペインの作曲家エクトル・パラの「カルスト=クロマⅡ」という構成。

 「ボディ・マンダラ」(2006年)は、チベット仏教寺院で接した儀式にイメージを受けて書かれたものだそうだ。チベットの楽器ドゥンチェンを模したトロンボーンとホルンによる低音のうねって波打つ音型が強烈な印象を与え、ずっと耳について離れなくなるような効果をもたらすが、たしかにこれが全曲の重要なモティーフとなっていることは事実だろう。
 私は仏教徒では全然ないけれども、何か生の根源を意識させられるというか、体の奥底を刺激されるというか、非常に面白い作品だった。プログラムの幕開きとしては極めてパンチのある存在だったといえようか。

 その直後――2曲目に「パルジファル」の「聖金曜日の音楽」が響いて来るというのも味のある構成だ。仏教とキリスト教、仏陀へのワーグナーの関心、ハーヴェイのワーグナーへの愛(彼のオペラ「ワーグナーの夢」を未だ聴く機会を得ていないのが残念だ)など、ありとあらゆる矛盾と合致のコンセプトを感じさせる、この2曲の組み合わせである。
 しかも、音楽の流れの上でもこれは、1曲目との対比が実に形容しがたい面白さを生んでいた。あたかも4つの楽章からなる交響曲のようなイメージを持ったプログラム構成の中で、この「聖金曜日の音楽」は、きわめて見事な「第2楽章」としての性格を感じさせていたのであった。

 とすれば、動きのある曲想の「カルスト=クロマⅡ」は、さしずめ「スケルツォ」に相当しただろう。
 最後の「80ブレス・フォー・トウキョウ」は、アレグロではなく、深々としたアダージョのフィナーレだ。ただ、今夜の1曲目に比べると、作曲技法は別として、雰囲気としては些か味の薄さを感じさせたことは否めまい。もう一度聴く機会があれば、視点を変えて味わってみたい。

8・29(日)ひろしまオペラルネッサンス 「カルメル会修道女の対話」

  アステールプラザ大ホール(広島) 2時

 「ひろしまオペラルネッサンス」――全国の「地方オペラ」の中でも屈指の高い水準を持つと定評のあるオペラ・プロジェクトである。以前はよく観に来たものだが、ここ数年は何となく足が遠のいていた。
 だが、久しぶりに訪れて観た今年の上演――プーランクの「カルメル会修道女の対話」が、きわめて入念に創られた優秀な上演だったのはうれしい。わざわざ交通費と宿泊費を投じて観に来た甲斐があったというものである。

 気に入ったものの第一は、岩田達宗の演出だ。
 いずみホール(大阪)での「ランスへの旅」や、カレッジ・オペラハウスでの「火刑台上のジャンヌ・ダルク」その他、彼の演出に接する機会が最近とみに増えて来ているが、日本には数少ない真摯な、しかもアイディアにあふれた良い演出家だと思う。

 今回も、素朴ながら紗幕などを生かした舞台装置(荒田良)を活用して、修道女たちそれぞれの心理の動きを極めて微細に描き出していた。ド・クロワッシー修道院長(藤井美雪)の取り乱した臨終に衝撃を受ける修道女たちや、深夜に棺に付き添う2人の若い修道女の対比――落ち着いたコンスタンス(柳清美)と怯えるブランシュ(河部真理)の表情――などが非常に細密な演技で描かれたのも良い。
 こういう綿密な演技が行なわれてこそ、隙のない舞台が構築されるのである。

 なお、この3人は、演技においても歌唱においても、出色の出来を示していた。
 それゆえ一方で、騎士フォルス(藤田卓也)だけが――彼は声は素晴しいのだが――何かにつけて手を前に差し伸べる例の類型的な身振りを見せていたことが興ざめ。惜しい。

 ラストシーンで修道女全員が断頭台の露と消える場面では、舞台前面に一列に並んだ彼女たちが一人ずつ、ギロチンの刃が落下する音が「響いたあとに」静かに歩いて舞台後方に去って行くという、一種象徴的な演出が採られている。
 これはこれで、最近の一つの演出スタイルではあろう。
 だが、刃の落下音と共に「一人ずつ倒れて行く」演出(最近多い)や、断頭台を象徴する壁の中に一人ずつ姿を消して行ったあとに落下音が轟く演出(ザンベロ演出=サイトウ・キネン・フェスティバルで見せた)などに比べると、こちらは美しく高貴ではあるものの、衝撃と悲劇的要素に欠ける点は争えまい。

 どれがいいかは、もちろん好みの問題だ。
 ただ今回の場合、この象徴的な演出スタイルと、第2幕までの修道女たちのリアルな表情の演出スタイルとの間には、些かアンバランス=不統一が感じられるのではないかという気もするのだけれど・・・・。
 かりに前半の演出スタイルと共通するラストシーンなら、やはりたとえばあのザンベロ演出の――修道女たちが毅然と祈りを捧げたり、死の恐怖に怯えたり、ためらったり、仲間に励まされながら順に断頭台に向かうという、それぞれの人間性をリアルに描き分けるスタイルの方なのではないかと思うのだが、如何に。

 佐藤正浩が指揮する広島交響楽団の演奏も、しっとりと整った音を響かせていて、良かった。かっちりと生真面目に纏まり過ぎて少々強面のプーランクになり、この作曲家特有のミステリアスなハーモニーも余情を欠いて響く感は拭えなかったが、オーケストラにしてみれば、ふだんならほとんど手がける機会もないであろうレパートリーをこのように好演したのは立派である。

 歌手たちも、前出の4人をはじめとして、見事に健闘していた。発声の面で疑問を感じさせる主役も一人二人いたのは事実だが、オーディションで選ばれたという今回の歌手陣は、フランス語の発音も含めて、実によくやっていたと思う。

 第1幕と第2幕のあとには、あまりに暗いストーリーに戸惑ったのか、パラパラの拍手しかなかった客席も、午後5時、全曲が終ったあとにはちゃんと盛り上がった。
 なじみのないオペラにしては客がよく入っていたと思うが、それでも1階席後方に空席が目立っていたのは残念だ。地元の音楽好きの知人によると、何人か誘ってみたものの「最後に全員が断頭台で処刑ですって? 遠慮します」ということもあったという話だが、事前のキャンペーンでそのあたりは対策を立てられなかったものか。

 今回のプロダクションならば、新国立劇場に持って来て上演しても充分評価に耐えうると思われる。

8・25(水)サイトウ・キネン・フェスティバル松本 「サロメ」

    まつもと市民芸術館  7時

 小澤征爾降板の代役として登場したイスラエルの若手指揮者、バレンシア州立管弦楽団音楽監督への就任も決まっている28歳のオメール・メイア・ヴェルバーがどんな指揮をするか。それが第一の興味だった。

 実によくオーケストラを鳴らす。大きな身振りの指揮で、ドラマティックに轟々と響かせる。R・シュトラウスの壮絶な管弦楽が、おそろしく切れ味のいい豪快さで、野蛮なほどの威圧感を以って鳴り響く。
 ヨーロッパの歌劇場ではこのくらいのオケの音量は普通だし、しかもこの曲のようにオケが主導権を握っているオペラでは、このくらいオケを語らせなければ、面白くならない。

 だから、いくら鳴らしてもいいのだけれど、問題なのは、終始同じような調子で鳴らしっぱなしなので、音楽の起伏感が乏しくなってしまったということである。
 たとえば、古井戸の底でヨハナーンの首が打ち落とされた瞬間の、チェロとコントラバスによるスフォルツァンドのフォルティシモなど、本来はもっと静寂を打ち破って衝撃的に、不気味に響かなくてはならないのに、それがちっとも「目立たなく」なってしまうのだ。
 これはウェルバーが、一瀉千里のテンポで曲全体を押しまくり、さほど「矯め」も利かせず、デュナーミクの対比もさほど際立たせず、ひたすら若さに任せて突進するといった指揮をするので、音楽の流れが単調になってしまっていることとも関連するだろう。

 まあ、若いうちは、変に納まりかえって老成したような指揮をするより、このくらい大暴れする音楽の方が面白い。
 それにしても、サイトウ・キネン・オーケストラの上手さには感心する。暴れまくる若い指揮者の音楽を巧みに受け止めて生かしつつ、しかも自分たちでアンサンブルをまとめて行く、という感。
 このオケの多様な実力を、改めて堪能させてもらった一夜であった。

 演出はフランチェスカ・ザンベロ、「再演演出」がクリスティアン・ラス。シカゴ・リリック・オペラのプロダクションのせいもあるのか、極めてオーソドックスなスタイルだ。
 特別な趣向としては、厳格な預言者のはずのヨハナーンが、サロメの誘惑に抗しきれないという様子が強調されていること、「7つのヴェールの踊り」が、サロメ(デボラ・ヴォイト)の他に6人の女性ダンサー(ヤエル・レヴィティン・サバンと東京シティ・バレエ団)によって踊られること、それに最終場面でサロメが首切り役人ナーマンに絞殺されること、くらいだろうか。
 総じてあまり緊迫感のある舞台とは感じられず、風格にも些か乏しい。このフェスティバルで上演されたプロダクションの中では、残念だがBクラスに属するといったところだろう。ただしそれは、ザンベロのというよりは再演出担当者の責任かもしれないが。

 すっかりスリムになって久しいデボラ・ヴォイトが、(遠目に見る限りでは)なかなか愛らしい感じの、少女っぽいサロメを演じた。「7つのヴェールの踊り」では、彼女も少しだが優雅に踊る。昔の「大きな」彼女だったら、絶対できない類の所作だろう。
 声質も今ではあまり吼えるタイプのものではなくなっているので、それがこの役柄にはむしろ合っている(ブリュンヒルデみたいに歌われたらぶち壊しだ)。

 ヨハナーンはアラン・ヘルド、脱俗的な預言者というよりは、まだ若く気の荒い青年というキャラクター表現で、これは演出にも即したものであろう。歌唱・演技とも、それに巧く統一されていた。
 ヘロデ王のキム・ベグリーと、王妃ヘロディアスのジェーン・ヘンシェルは、歌唱ではベテランの味は出していたものの、さほどあざとい演技ではなかったのは、演出のせいか。
 脇役も大部分は外国人勢。一部に山下浩司ら日本勢も交じる。

 ゲオルギー・ツィーピンの舞台装置は、あまり大掛かりなものではないが、照明(リック・フィッシャー)により刻々と色彩を変化させる「壁」は、あのマリインスキーの「指環」でも日本に披露された、彼得意のガラス・プラスチックによるものだろうか。簡素だが、雄弁な舞台美術だ。

 以下は蛇足だが、銀の盆に載せられたヨハナーンの首を、ヴォイトは何か軽々と片手で弄んでいたが、人間の生首は、本当はあんなに片手で持てるほど軽くはないんじゃないでしょうか? 持ったことがないから、わからないけれど。

 それからもう一つ、これは由々しきことなのだが、例年に比べ、客の入りが芳しくない。両サイドのバルコン席など、大きく空いていた。
 小澤征爾が指揮した時には、どんなにおなじみでないオペラでも、空席が目立つなどということは考えられなかっただろう。彼の健康が優れない今、フェスティバルの今後に不安な影を投げかける問題だ。

8.24(火)サイトウ・キネン・フェスティバル松本 ふれあいコンサートⅡ

  ザ・ハーモニーホール  7時

 シカゴの名手ラリー・コムズLarry Combsのクラリネットを中心にしての室内楽コンサート。

 前半にブラームスの「クラリネット五重奏曲」、旅先の高原(でもないが)の夜のコンサートで聴くブラームスの室内楽は、まさに絶品だ。
 コムズのクラリネットは終始出過ぎることなく、むしろ控えめ過ぎる音量と表情で、弦のクァルテットの中に溶け込む。弦の方は、常設の弦楽四重奏団ではなく、ヴァイオリンの島田真千子がフリー、同じく田中直子がセント・ルークス管のコンマス、ヴィオラの篠崎友美は新日本フィル首席、チェロの趙静は有名なソリスト――という顔ぶれだから、溶け合ったアンサンブルの妙味というよりむしろ、女武者たちのしとやかな手合わせという感。
 しかし、濃い陰翳もたたえた、素敵な演奏だった。

 後半には「作品38」の「ピアノ、クラリネット、チェロのための三重奏曲」――要するに「七重奏曲変ホ長調」の編曲版である――が、コムズ、趙、江口玲(ピアノ)により演奏された。曲想そのままに、江口のピアノが主導権を握る。クラリネットはここでもかなり控えめに吹かれ、趙もいつものスケールを抑えて協演していた。
 しっとりとした味を狙っての演奏だったのだろうが、些か隔靴掻痒の感もあり。
 多楽章の長い曲だし、しかもこちらはベートーヴェンだし、前半のブラームスとの対比の意味でも――たとえばもう少し3人それぞれのしたたかな個性のぶつかり合いという雰囲気を出すとかいった演奏の方が、私にとってはスリリングで面白い。

8・24(火)サイトウ・キネン・フェスティバル松本 子どものための音楽会
下野竜也指揮 小澤征爾音楽塾オーケストラ

  長野県松本文化会館  11時

 県内各小学校の児童を集めて約1時間、ベートーヴェンの「運命」を楽章ごとに説明しながら聴かせ、楽器の紹介を挿入してオーケストラへの興味をかき立てようというコンサート。

 小澤征爾音楽塾のオーケストラは若いメンバーばかりだが、さすがは下野、手を抜かずに綿密に演奏させる。両端楽章の提示部反復も几帳面に行なう。
 こういうところで演奏するなら、リピートはしない方がいいんじゃないの、と彼に言ったら、「彼ら(塾生)のためにも常にきちんと演奏しなければいけないと思います。子供にもちゃんとした形で体験してもらいたいし」と、彼らしい真面目なコメントが返って来た。その意気や善し。

 もっとも彼によると、「昨日も小澤先生が見えて、これ(子どものための音楽会)はサイトウ・キネンの中でも一番だいじな企画なんだから、ちゃんとやれよ、と全員にカツを入れた」とのこと。
 ちなみにマエストロ小澤は、昨夜の山田和樹の本番にも立会っていたが、腰痛により客席には座れないため、人目にはつかないカメラ室で姿勢を自由に崩しながら聴いていたはずだ、とあるスタッフから聞かされた。

 下野竜也は、今年のフェスティバルでは、この「子どものための音楽会」8ステージと、「青少年のためのオペラ~ヘンゼルとグレーテル」を2回、「管楽器マスタークラス」の一部を指揮するだけでなく、「サロメ」4回の副指揮者まで受け持っている。いかにも勉強熱心な彼らしいが、これだけ貢献しているなら、そろそろ・・・・。

(8月26日の主催者発表に拠れば、9月に小澤が振る予定だった4回のオーケストラ・コンサートのメイン・プログラムも、すべて下野竜也が指揮することになった由)

8・23(月)サイトウ・キネン・フェスティバル松本
山田和樹指揮 サイトウ・キネン・オーケストラ

 長野県松本文化会館  7時

 山田和樹がフェスティバル初登場。
 私も、彼の指揮を聴くのはこれが最初だ。若手俊英指揮者として噂の高い人だが、今までなかなかスケジュールが合わず、聴く機会を得なかったのである。今日は強豪サイトウ・キネン・オーケストラを相手に、ベートーヴェンの「ピアノ協奏曲第4番」(ソロは小菅優)と「交響曲第7番」を指揮。

 とかく勢いに乗ると奔馬のような演奏をすることの多い荒武者ぞろいのサイトウ・キネン・オーケストラが、今日は久しぶりに落ち着いたアンサンブルを聴かせていた。ステージからはやや遠い2階席で聴いた印象もあるかもしれないけれども、「7番」第2楽章や協奏曲での弦のしっとりした厚みのある響きは、このオケからは、そうたびたびは聞けなかった類のものである。
 その点から言えば、彼は極めて「まとめの上手い」指揮者であるということになるだろう。

 もっとも、超腕利き揃いのこのオケなら、一旦その気になれば指揮者無しでこういうアンサンブルを自ら作り上げるくらい、朝飯前ではなかろうかと思う――今日のコンサートマスターは協奏曲が矢部達哉、後者が豊嶋泰嗣だったし、しかも楽員には内外各オケの首席級がずらりと顔を揃えているのは周知の通りである。
 それゆえ、山田和樹がどんなベートーヴェンをやりたかったか――ということの方が重要だろう。

 端的にいうと、これは当節の若手指揮者が振るベートーヴェンとしては、すこぶるユニークなものだった。
 いわゆる流行のピリオド楽器的奏法を使わず、それぞれの音をいっぱいに延ばして歌わせ、ハーモニーを強調して、分厚い、しっとりとした響きを創る。
 たとえば「7番」の第2楽章など、あの主題の4分音符を膨らませて充分にテヌートさせ、二つの8分音符もやや長めに演奏させて、重厚な陰翳を描き出すというスタイルである。また第3楽章でも、スケルツォのテンポをやや遅めに採り、リズムも鋭角的なものにせず、むしろ音楽の滔々たる流れと起伏とを浮き彫りにする演奏としていた。

 こうした演奏スタイルゆえ、全体にはかなり粘り気のある、重厚壮大指向のベートーヴェンになっていたと言えよう。目を閉じて聴いていると、とてもこれが31歳の若手指揮者が振るベートーヴェンとは思えない。古き良き時代――とまでは行かないが、ほぼ1960年~70年代頃のベートーヴェンが突如として蘇ってきたような印象だ。
 この種のスタイルの演奏は私も大いに好きで、かりにドイツの長老指揮者が聴かせてくれるのなら「こういうのも久しぶりに好いものだ」と悦ぶことになるだろうが、しかしそれが現代日本の若手指揮者の手によって再現されるとなると、そこに一種の戸惑い、あるいは妙な照れのような感情が湧いて来てしまうのである。

 そうは言っても、いわば反時代的なこの音楽づくりを、山田和樹がだれか先生の真似でなく、自らの強い信念を以ってやっているのであれば、それはそれで興味深いことに違いない。現代の主流だとか流行とかを錦の御旗みたいに持ち上げるのは私も大嫌いだし、どんなスタイルを採ろうとも、本人の信条が明確であれば結構なことだと思っている。
 たった1回のコンサート、それもベートーヴェンの作品のみによるプロだけで判断するのは早計だが、すこぶる面白い個性が出現したことはたしかであろう。

 いずれにせよ、今夜のコンサートで私がとりわけ感心したのは、そういうスタイルを採りながらも演奏を少しも鈍重に陥らせず、しかも作品を統一したバランスで構築してみせるという彼の手腕であった。つまり、突出した誇張や破綻といったものは皆無であり、交響曲全体が一貫した一つの流れにまとめられていたのである。
 これは、なかなか出来ることではない。山田和樹の音楽の魅力的な長所として、印象に刻み付けておこうと思う。

 もちろん、まだ若い――と感じられるところは多々ある。第1楽章の序奏の終りのところや、第3楽章のトリオの終りのところのように、来るべき爆発を予告しようとして物々しく構えて見せながら、実際には音楽がかんじんの「矯め」を全く生まず、逆に緊張感を失ってしまう、という欠点もたしかにあった。
 が、31歳でそのテクニックを備えている演奏家がいたら、むしろバケモノだろう。それは、ある程度の年輪を重ねてからでないと出来ない類のものである。

 山田の指揮スタイルは、協奏曲でソロを弾いた小菅優とは、ある面では全く異なったものかもしれない。ただ今夜の2人の協演で共通していたのは、ともに沈潜した美を求めるという点ではないかと思われる。
 小菅は、第1楽章冒頭のソロのところで、あたかも物思いに沈みつつゆっくりと何かを問いかけるような表情で演奏を始めた。山田とオーケストラも、ゆっくりとそれに応えて行った。第2楽章は、その沈潜が息詰まるような静寂にまで推し進められ、成功した例と言えたであろう。

8・15(日)フェスタサマーミューザ最終日 飯森範親指揮東京交響楽団

    ミューザ川崎シンフォニーホール 3時

東京・神奈川の9つのプロ・オーケストラと昭和音大と洗足学園音大のオーケストラの演奏会、それにジャズやオルガンのコンサートを加えた「フェスタサマーミューザKAWASAKI 2010」の最終日。
 ドビュッシーの「牧神の午後への前奏曲」、ラヴェルのピアノ協奏曲(ソロは横山幸雄)、ベルリオーズの「幻想交響曲」、同「ラコッツィ行進曲」(アンコール)というプログラム。

 演奏会が終って、客席から出口まで雑踏の中をゆっくり歩く間、周囲のお客さんたちが満足そうな感想を口々に交わしているのが聞こえるのはうれしい。
 洩れ聞いたところでは、今年はオープニングのスダーン指揮東響(7月25日)と現田茂夫指揮N響(同31日)、それに今日のフィナーレとが完売だった由。

8・13(金)タラフ・ドゥ・トランシルヴァニア

  神奈川県立音楽堂  7時

 トランシルヴァニアの民俗音楽を演奏する「タラフ・ドゥ・トランシルヴァニア」の演奏を聴きに行く。

 プログラムの解説によれば、これはルーマニア北西部のトランシルヴァニア地方クルージュのナホカ市を本拠にするグループで、「タラフ」とは5~6人編成の弦楽楽団を指すのだそうな。今回はヴァイオリン2、ヴィオラ2、コントラバス1という5人編成で来日していた。
 プログラムはルーマニア、ハンガリー、ジプシー(ロマ)などの音楽に、最後にモンティの「チャールダシュ」なども入れて構成されている。

 私はその方面の音楽に知識がないので、「ダンスのための音楽」とか「通夜で演奏される哀しい曲」とか「食卓についた時に演奏される曲」などというタイトルの曲も、そうなのかなと思って聴くだけだったが、たしかにそれらの中には、エネスコやバルトークの作品の中に垣間見られるリズムや節回しがあちこちに現われているのが解る。

 休憩1回を挟んで2時間、弦5人のみによる民俗音楽の演奏は少々単調に感じられなくもないが、もともとこれはコンサートホールできちんと座って聴くたぐいの音楽でもないのだろう。
 それにしても、彼らの柔らかい、しかも艶やかな弦の音色の、何と素晴しいこと。「木のホール」と呼ばれる神奈川県立音楽堂の、このアコースティックは絶対の強みだ。

8・8(日)ザルツブルク音楽祭
 R・シュトラウス「エレクトラ」 プレミエ

    ザルツブルク祝祭大劇場  8時

 ニコラウス・レーンホフ演出、ダニエレ・ガッティ指揮による新プロダクションの、今日がプレミエ。これは8月24日までの間に計6回上演される。
 配役はイレーネ・テオリン(エレクトラ)、エヴァ=マリア・ウェストブロック(クリソテミス)、ワルトラウト・マイヤー(クリテムネストラ)、ルネ・パーペ(オレスト)、ロバート・ガンビル(エギスト)という超強力な顔ぶれ。

 バイロイトで「パルジファル」を指揮しているダニエレ・ガッティが、ここザルツブルクにも現われて「エレクトラ」を指揮している。
 今回のプロダクションのための事前の練習時間がどのくらいあったのか知らない。とにかくウィーン・フィルの演奏がえらく雑で荒っぽく、歌手とのバランスも未調整の部分が多く聞かれたのが気になった。上演回数を重ねれば解決することではあろうが、ザルツブルクのような大音楽祭でのプレミエでこういう状態になるのは、いかにも拙かろう。

 たとえばこの作品の特徴の一つでもある、鋭いリズムが突然割り込む個所――オレストの付人が割って入る場面での最強奏や、母親クリテムネストラ殺害の直前の低弦の激しい波打ちなど、もう少し引き締まったリズムとアタックで演奏をしてくれないと、作品が生きない。

 それにまた――これは練習量とは関係ないかもしれないが――16型4管編成の、ただでさえ大きな音のするように書かれているオーケストラを、ガッティはあまりに野放図に、ガンガン鳴らし過ぎる。
 2階席で聴いたためもあろうが、金管と打楽器の怒号がことさら刺々しく耳につく。
 当然それは、歌手たちの声をしばしばかき消す。
 いくら何でも、もう少し上手い鳴らし方があるだろう。
 カーテンコールでガッティに飛んだ拍手とブラヴォーは大きかったが、ブーイングも少なからず飛んだ(今夜の演奏家の中でブーを飛ばされたのは彼だけである)。

 しかし、もちろん彼の指揮には美点も沢山ある。オレストが自ら身分を明かさぬままエレクトラに語りかけるくだりなど、これまで聴いたどの演奏よりもと情感のこもった美しさが感じられたし、エレクトラが弟オレストにこれまで抑えて来た感情を一気に吐露するところの「シュトラウス節」も、ガッティならではの見事なカンタービレの発露であった。これは付け加えておかなければなるまい。

 歌手の声は打ち消されることも多かったと言ったが、歌手によってはオーケストラの咆哮を超えて巧みに声を響かせ、存在感を打ち出した人もいる。女性陣では、マイヤーとウェストブロックがそうだった。
 マイヤーがこの不倫の王妃クリテムネストラを歌ったのは初めて聴いたが、この母親の役にあまり怪物的な不気味さを持たせず、しかも非常に表情細かく表現していたのが面白い。さすがはベテランの味である。

 ウェストブロックは清純な声も出せる人だから、予想以上に娘クリソテミスの役柄に合ったキャラクターと言えるだろう。
 題名役のテオリンはもともと声にキリリとしたパワーのある人ゆえ、母親を憎悪するエレクトラを非常に神経質なイメージで表現していたが、これはある程度まで成功していたであろう。咆哮するオケを潜り抜けて声を聞かせるテクニックは、これからだ。なお、弟オレストに語りかける――というより、ここでの解釈はモノローグだが――部分での最弱音があまり客席に伝わって来なかったのは不思議で、声の響かせ方の問題だろうか。

 ルネ・パーペのオレストは、意志の強さを感じさせて声も明晰そのもの。この役には最高だ。もっとも、彼が歌うところでは、オーケストラもそれほど吠えないのだが。

 王エギストのロバート・ギャンビルは、もともと冴えない役なので、カーテンコールでは少々分が悪い。
 なお、殺される場面で彼の声がオーケストラに消されて全く聞こえなかったのは、ドラマの性格上、甚だ具合が悪い――これも指揮者の責任だが、こんなバランスのままで本番に臨むとは、いったいリハーサルをちゃんとやったのか、やらなかったのか。
 やはりここはト書き通り、窓から顔を出して絶叫する演出にしておいた方がよかったであろう。

 その演出はレーンホフ、舞台装置はライモント・バウアー。
 冷たく威圧的なコンクリート形状の壁と鉄の形状の扉で構築した舞台は、どこかで見たようなデザインではあるが、悪くない。歌手の声の反響板としても効果的であったと思う。舞台は終始かなり暗め。出口なしの圧迫感を生み出していた。

 演出は、基本的にはオーソドックスで、これ見よがしの誇張や読み替えはほとんど行なっていない。が、一寸めずらしい趣向もあった。
 一つは、オレストの死の報せを聞いて狂笑し「灯を!」と叫ぶクリテムネストラの演技を、彼女でなく2人の侍女が行なっていたこと(こういうト書の版が実在するのなら、私の思い違いなのでお許しありたい)。
 但しここも、侍女たちの演技が若干曖昧なので、王妃の豹変や侍女たちの笑いの意味が観客には判りにくいかもしれない。

 もう一つはラストシーン。
 背景の壁が開き、血の飛び散ったタイルの部屋に王妃の死体が逆さ吊りにされているというグロテスクな光景が凄まじい。――それに衝撃を受けて気をとられ、そこでエレクトラが「エレクトラ・コンプレックス」を身振りで表現していたかどうかを、見逃してしまったが。
 またそのあと、無数のサソリのような怪物が這い出て来てオレストを威嚇するのは、ホフマンスタールのそれというよりは、ギリシャ悲劇の「悪霊に追われるオレステス」からイメージを採ったものかもしれない。これはなかなか不気味で気が利いている。
 強烈無比なこの音楽の迫力を視覚化するには、このくらいどぎつい光景も必要だろう。

 9時45分終演。これで今回のザルツ取材を終る。
 もう1日滞在すれば、ネジェ=セギャン(ネゼ=セガン)の指揮する「ドン・ジョヴァンニ」を聴けるのだが、残念だ。

8・8(日)ザルツブルク音楽祭 リームのオペラ「ディオニュソス」

   モーツァルトハウス  3時

 ヴォルフガング・リームの演奏会用コンチェルト的作品を聴いた2時間後に、今度は大編成オーケストラによる豪壮な音響の彼のオペラが聴ける。これがフェスティバルの魅力というものだろう。

 音楽は、いかにもドイツの現代作曲家(1952年生れ)のそれらしく、がっちりと理屈っぽく創られたものだが、一種スペクタクルな趣も幸いしてか、晦渋という印象は全く無い。部分的にPAを使い、たとえばスネア・ドラムの音を下手側や上手側に移動させたり、合唱を客席内にサラウンディングさせたりという具合に、なかなか派手な音響演出もやってくれる上演でもある。

 しかし何よりこの音楽を面白く聴かせてくれたのは、ベルリン・ドイツ交響楽団を率いたインゴ・メッツマッハーの要を得た手腕の指揮であろう。いわゆる「見通しのいい」音楽づくりであり、大音響すら少しも野放図にならず、適度に引き締められ、弱音との対比も綿密に構築されながら、起伏豊かに展開されて行く。
 正味2時間強の音楽が少しも弛緩せずに進められて行ったおかげで、「意外と面白い曲じゃないか」という感想を知人たちと述べ合うことが出来た次第であった。

 音楽はそのように魅力的でも、オペラのストーリーや思想は、些か難解だ。
 ピエール・アウディの演出とヨナタン・メーゼ(東京生まれとか)の舞台美術は、少しサイケデリックながらも変化に富んで面白く、登場人物がよじ登った岩山がそのままオールのついたボートのイメージに変わったり、奇怪な仮面が祭典の象徴になるとかいった具合で、観客の目と創造力を愉しませるには事欠かない。

 問題は、リーム自身の手による台本である。
 ニーチェのイメージや言葉をさまざまに組み合わせて構成したものというが、ニーチェをほとんど勉強したことのない私のごときナマケモノには、その意味も大雑把に、飛び飛びにしか解りにくい。

 ニーチェとディオニュソスとの関連といえば、すぐに「悲劇の誕生」における有名な「アポロ的なものとディオニュソス的なもの」という対比が頭に浮かぶけれども、このオペラは特にディオニュソス神そのものを主人公としたものではない。
 ただし、アポロ(頭に月桂冠を乗せている)はチラリと登場する。しかも彼は主人公「N」のライバルであり、かつ友人ともなる冗舌な「客 Gast」と複合する存在ともなっているので、このあたりに「アポロとディオニュソス」の対比の鍵があるのかもしれない。

 主人公「N」は、名前や容姿の雰囲気からすると大学教授ニーチェのイメージを感じさせるが、断定はしかねる。
 物語の進行の中には、「アリアドネ」ら女性たちからの誘惑に対して言葉が発せず、絞り出すような声しか出せなかった「N」が、その後「真実」や「愛」を求めて彷徨い続けるといった展開も含まれる。また大詰め近く、奇怪な仮面の下で繰り広げられる狂乱・法悦・陶酔の踊りは、いわゆるディオニュソスの祭典や、サテュロスの熱狂といったキーワードに関連づけられるのだろう(この個所での音楽は物凄い)。

 しかしまあ、何のかんのと言ったところで、ニーチェつまみ食いの不勉強者は、所詮ボロを出すばかりである。彼の著作をもっと真剣に読み直せば、もっとまともな日記が書けるだろうが、それはこの暑さが消えてからでないと無理だ。
 ともあれ、音楽が良い――と思えただけで、今回の収穫としては充分だろう。

 なお二、三付記すれば、プログラムには舞台装置家のデザイン・イメージとして、「MOUNT FUJI」とか、「ZEN GARDEN」「CHERRY BLOSSOMS」「JAPN-TOKYO-ZENTRNM」といったイラスト入りのメモが散見されるが、別に日本が舞台となっているわけではない。

 また面白いのは、中央に「NIETZCHE SAKE」と書かれた酒ビンから出た矢印の先に「DIONYSOS」という文字があり、そのページの上部には「TOTAL JAPAN」、横に「DRINK DIONYSOS-SAKE」と書き入れてあること。日本はともかくとしても、これは明らかに、ディオニュソス=バッカス(酒の神)を示すものだろう。前述の狂乱の祭典場面を見ながら、私はこのページのことを思い出していた。

 もう一つ蛇足。字幕はドイツ語と英語で出ていたが、この文字は「虫眼鏡で見なければ読めない」ような小さなもので、不親切極まる。大いに疲れたのは、音楽でもなく、物語や思想でもなく、演出でもなく、実にこの字幕によってだった。
 プログラムに台本が掲載されているからそれを読んでおけ、と言われても、そううまく行くものではない。もっとも以前にここで、字幕や台本なしに「ルプパ」が初演された時に比べれば、まだマシかもしれないが。

 午後5時半過ぎに終演。このオペラは7月27日以降4回上演され、今日が楽日だった。

8・8(日)ザルツブルク音楽祭
 リッカルド・シャイー指揮ウィーン・フィル

    ザルツブルク祝祭大劇場  11時

 やっと晴れた。ザルツブルク特有の爽やかな空気が、漸く蘇る。

 前半に、今年のテーマ作曲家ともいうべきヴォルフガング・リームの作品――ヴァイオリン・ソロと管弦楽のための「歌の時 Gesungene Zeit」が、アンネ・ゾフィー・ムターをソリストに迎えて演奏される。22分ほどの長さの、緩やかで静謐な曲想を基本とした作品だ。

 冒頭5分以上の間、ムターが独りゆっくりと弾く部分が続き、やがていくつかの楽器が少しずつ参加して来る。あまり大きくない編成のオーケストラは、つかず離れずヴァイオリン・ソロを取り囲むが、ソロはそれらとの対話を繰り返しつつ、常に自らの美しい歌を掲げて進んで行く――とまあ、現代音楽風にいえばこういう感じの曲だ(この印象は、プログラムに掲載されているリーム自身のコメントとは多少食い違いがあるかもしれない)。
 オーケストラに対比するヴァイオリンのソロが極めて美しく、ムターの甘美な音色の、しかも集中力に富んだ演奏の魅力が存分に発揮される。

 後半は、ブルックナーの交響曲第4番「ロマンティック」。
 いかにもシャイーらしくバランスの良い演奏で、ホルンを殊更にクローズアップするなどということもなく、あくまで全体を一つの均衡の裡にまとめて行く。もっともホルン群は、何故か今日は各奏者とも調子が今一つ。したがってテュッティの中に溶け込んでいたのは幸いだった。
 音色はあまりきれいとはいえないものの、このホールでは、どこのオケも大体こんな音で響くものだ。
 それにしてもウィーン・フィルの、要所のクライマックスで総力を挙げた時の演奏の壮麗さは、流石に見事である。たとえば第3楽章のスケルツォの最後の個所、あるいは第4楽章大詰めの高揚部分。このあたりは、「やっぱり凄いネ」と感嘆させるに充分だ。こういう個所が二つ三つあれば、それだけで演奏会に対する印象が好くなるというもの。
 午後1時5分終演。
 

8・7(土)ザルツブルク音楽祭 モーツァルト・マチネー
マルク・ミンコフスキ指揮ザルツブルク・モーツァルテウム管弦楽団

         モーツァルテウム大ホール  11時

 このホールでこのオーケストラを聴いたことは何度もあるが――といっても十指に満たない回数ではあるが――今日の演奏は、その中でもベストの存在のような気がする。

 さすがミンコフスキ、オーケストラをがっちりと統率して、息もつかせぬ緊迫の演奏をつくり出した。
 主題やフレーズの一つ一つに精妙なニュアンスをあたえ、主題反復の際にも異なったデュナーミクやエスプレッシーヴォを導入する。そのため、音楽が実に多彩になる。それに、リズムのたたみかけの鮮やかさ、音楽のノリの良さたるや、胸のすくような勢いだ。

 オーケストラ曲は「皇帝ティトゥスの慈悲」序曲、「劇場支配人」序曲、交響曲「プラハ」だったが、特に「プラハ」では、コントラバスの女性奏者が実に楽しそうに全身でリズムに乗りながら弾いていたのが印象的だった。この曲での演奏は沸騰していて、見事のきわみ。聴くこちらも至福のひとときを堪能した次第である。

 これら3曲の間に加えられていたプログラムは、コンサート・アリア「あなたは今は忠実に」K.217と「心配しないで、愛する人よ」K.505、モテット「踊れ喜べ、汝幸いなる魂よ」の3曲だったが、それらを歌ったジュリア・レーズネワJulia Lezhnevaというロシア出身の若いソプラノが、また実に良かった!

 コロラトゥーラを正確に決めながら、低音域にも力強い明晰な膨らみを響かせるところなど、驚異的な見事さだ。未完成の要素はまだ多分にあるけれども、20歳(だそうである!)の若さでこれだけ歌えるのだから、このまま真っ直ぐに伸びていったら、素晴しい歌手になるだろう。
 第1部の最後にアンコールで「アレルヤ」をもう一度歌い、更にコンサートの最後にまた現われて、「フィガロの結婚」からのスザンナのアリア「早く来て、愛しい人」を歌ったが、後者はまさに美しくて清楚で、チャーミングだった。
 午後1時終演。

8・7(土)ザルツブルク音楽祭
 グルック:「オルフェオとエウリディーチェ」(新演出)

   ザルツブルク祝祭大劇場  8時

 規模からいえば大劇場向き作品ではないが、指揮するのが巨匠リッカルド・ムーティとあれば、彼の圧倒的な観客動員力で商策を優先するのも、音楽祭当局としては自明の理か。

 さすが大ムーティ、貫禄の指揮ぶりだ。ピットをやや高めに設置してオーケストラの存在感を強調し、雄弁に音楽を展開する。ウィーン・フィルも、昨夜とは別もののように――メンバーもかなり違っているらしい――引き締まった響きを出し、グルックの音楽の劇的な推進性と端正な造型を美しく表出して、聴き応えのある演奏をしてくれた。

 第1幕でエコー・パートを舞台裏で受け持っていた数人の弦楽奏者たちは、第2幕以降はピットの中に移って弾いていた。したがって、弦は結局最大14型くらいになっていたのではなかろうか。オルフェオと悪霊たちの応酬の音楽など、合唱(ウィーン国立歌劇場)の強力さも加わって、演奏には重厚な迫力もみなぎっていた。
 ただし今回の上演は「1762年ウィーン版」だから、激しい曲想のバレエ音楽はなく(もちろんあのフルートの旋律も出て来ない)、したがって全体としては抑制された音楽づくりになっている。

 ムーティ自身も、こういうレパートリーではノン・ヴィブラート奏法を取り入れるようになった。彼といえども、時代の流れには抗しえないらしい。
 ともあれ、休憩無しの全3幕、1時間40分、音楽の緊張が些かも失われることがなかったのは、さすがムーティの力量というべきだろう。

 ソロ歌手は3人。オルフェオにエリーザベト・クルマン、エウリディーチェにゲニア・キューマイアー、アモーレにクリスティアーネ・カルク。
 いずれも若手の清新な顔ぶれで、特にクルマンは容姿、歌唱力と声量、演技力も含めて存在感充分の歌手だ。

 演出はディーター・ドルン。予想していた通り、何とも低調きわまる。音楽を邪魔しないといえば聞こえはいいが、こう無策で単調な舞台では考えものであろう。
 序曲の途中で幕が開き、オルフェオとエウリディーチェの幸せを寿ぐ人々の輪の中で、突然エウリディーチェの姿がセリで奈落に消える。そして、そのまま第1幕の全員の悲嘆の合唱場面に続く――というテは、些か常套的ではあるものの、スタートとしてはまあまあだったかもしれない。

 しかし、第2幕でオルフェオが歌うアリオーゾ「何という澄み切った空」の個所で、「天国を浮遊する」人々が夢見るような表情をしながらいつまでも同じ調子で歩き続けていたり、第3幕大詰めの「愛の神が勝つように」の合唱とバレエのさなか、男女の諍いと仲直りが繰り返される光景が延々と続いたりするというのは、いかにも策がない。
 その喧嘩も、少しは変化をつけようという意味か、時に突然暴力的な行動(花束で女を打ち据えるとか、くだらない!)をとらせるが如き小細工も。――エクサン・プロヴァンス音楽祭の「アルセスト」でクリストフ・ロイがやっていたのと同じテだ。なさけない。

 まあ、悪くなかったのは、トビアス・レッフラーの照明だろう。第2幕の地獄の場でうごめく群集をゾンビのように見せる光を当てて効果を出したのは面白かったし、そのあとの天国の場での、明るいブルーを基調とした光の配合も素晴しく美しかった。
 これは7月31日にプレミエされたもの。8月24日までの間に計7回上演される。

 朝から降っていた雨も、幸いに夕方までにはあがっていた。しかし相変わらず寒い。風邪を引きそうになる。明日はやっと晴れそうだが・・・・。

8.6(金)ザルツブルク音楽祭 ベルク:「ルル」(新演出)

   フェルゼンライトシューレ  7時

 今夏のザルツブルク音楽祭での上演オペラは次の7本。
 グルック:「オルフェオとエウリディーチェ」
 モーツァルト:「ドン・ジョヴァンニ」
 ベルク:「ルル」
 R・シュトラウス「エレクトラ」
 グノー:「ロメオとジュリエット」
 リーム:「ディオニュソス」
 ベッリーニ:「ノルマ」(演奏会形式)

 どれがどうというわけではないけれども、何か全体に生真面目で、地味な印象を与えるセレクションだ。このあたりが、インテンダントのユルゲン・フリムの感性の表れかもしれない。かつてのジェラール・モルティエ時代の、一癖ある刺激的なラインナップ――当時は渋いとか切符が売れないとか、随分悪口を言われたものだが――がいよいよ懐かしくなる。

 「ルル」は3幕版で、指揮はマルク・アルブレヒト、演出がヴェラ・ネミロヴァ。題名役をパトリシア・プティボンが歌うのが話題だ。今月1日にプレミエされ、計6回上演される。今夜が3回目。

 プティボン演じる「ルル」は、この2月にジュネーヴで、オリヴィエ・ピイの演出で観たばかり。あの時のヘア・ヌード舞台(?)と違い、今回は踊り子または夜会服の衣装が中心ということもあって、比較的穏健な、ストレートなルル表現と言えよう。

 しかし、演技の表情は今回の方がずっと微細になった。
 演出の違いはあるにしても、シェーン博士を脅迫する場面での演技や、淫売婦としての荒んだ演技などでは、ジュネーヴでのそれを遥かに超えて激しい感情を表出するようになっていた。
 おそらく、彼女自らがこの一連の上演体験を通じて、ルルという女の役柄表現における諸々の新しい解釈を会得して来ているのではなかろうか。

 ただその一方、声楽的な表現の面では、この役柄が現在のプティボンの声に合っているものかどうか、ジュネーヴで聴いた時と同様、断定しがたいものがある。
 しかも、3時間ほぼ出ずっぱりで絶叫するような役柄を、(8月4日に続き)中1日置いただけで歌うのは、彼女の声には些か負担なのではないか? よくわからないけれど。
 とはいっても、これだけ歌えるというのは、立派なことに違いないが――。

 歌手陣の中では他に、シェーン博士と切り裂きジャックの2役を、時に軽薄に、時に重厚に歌い演じたミヒャエル・フォレが存在感を示していた。
 博士の息子アルヴァを歌ったトマス・ピフカ、シゴルヒ老人役のフランツ・グルントヘーバー、画家と黒人の2役のパーヴォル・ブレスリク、侯爵のアンドレアス・コンラートらも手堅い。
 その一方、ゲシュヴィッツ伯爵令嬢のターニャ・アリアーネ・バウムガルトナーが思ったほど光らなかったのは、演出のせいなのかもしれない。この役、ドラマとしては大変重要なのにもかかわらず、実際の舞台では意外に目立ちにくいようだ。

 指揮のマルク・アルブレヒト。
 ジュネーヴの上演でも彼が指揮していたし、あの時にもやれやれと思ったほどだが、今回も全く同じで、味も素っ気もない機械的な音楽づくりである。3時間の長丁場をだらだらと単調平坦に指揮されては、たまったものではない。オーケストラはウィーン・フィルだったが、およそこのオケらしからぬ雑駁で干乾びた音を出していた。
 先日アン・デア・ウィーン劇場で聴いたダニエレ・ガッティの、驚くほどカンタービレの効いた豊麗な「ルル」を思い出すと、スタイルの違いはともかく、音楽の感興の面では天と地ほどの差がある。しかし、終演後の観客の拍手は不思議に大きい。

 ヴェラ・ネミロヴァの演出にも、些か共感しかねる。単に筋を追ったに過ぎないという印象で、起伏が少なく、したがって甚だ単調なのである。多くの夫や愛人を破滅させ死に追いやり、入牢・脱獄の末に貧窮の淫売婦となって殺される女ルルの生涯を描くドラマにしては、上昇―頂点―下降といった流れも感じられず、起承転結・因果応報といった論理性も見出せない。
 フェルゼンライトシューレの広大な舞台は流石に使いにくいと判断してか、巨大な画像や鏡や幕で舞台を縮め、凝縮した空間の効果を狙ったらしい。でも、舞台演出そのものが凝縮力を欠いていては何にもなるまい。

 ルルの逮捕と脱獄場面では映画を使用せず、世人が新聞を読み捨てにしながら歩く光景で代用する――まあたしかに、あとで主人公たちが経緯を説明しているのだから、映像はなくても矛盾はないだろう。

 第3幕前半の、好景気に浮かれるパリのサロンの場面は、客席の前半分の通路を縦横に使って展開させるが、何となくわざとらしい。私の席は通路側だったので、眼前1メートルの距離でルルと侯爵が罵り合うのを見る。大変な迫力だ(プティボンはやはりスリムな美女である!)。ルルを追う警官隊が私の袖をかすめて走り、手摺を乗り越えて舞台に殺到して行くのも、賑やかな騒ぎだ。

 しかしこの間、一所懸命演奏しているオーケストラの音楽に注意を払えるだけの余裕を持った観客は、果たして何人いたことやら。私もオケの演奏は聞いていたような、いなかったような。
 第3幕はベルクの作曲でなく、フリードリヒ・ツェルハが補訂した音楽ゆえ、あまり気にしなくていいから――という意図があったのなら(事実、面白くない音楽だが)、相当な皮肉であろう。
 なお幕切れでは、ルルは舞台上でジャックに殺される。ゲシュヴィッツ伯爵令嬢は殺されずに姿を消しており、彼女がルルに捧げる憧憬の歌は客席のどこからか聞こえてくるという新機軸。これは気の利いた発想だ。

 全体に出色の出来だったのは、ダニエル・リヒターの舞台美術。ルルを囲む男どもが舞台中央の小型ピラミッドみたいな物体の窓から出没するのは、この場面での「フィガロの結婚」や「ばらの騎士」のパロディ的な性格を生かして、面白いアイディアだ。さらに良かったのは、舞台背景全体を覆う巨大なカーテンの、ちょっと怪奇で幻想的な美しさ。これが単調な舞台を救っていた。

 11時終演。今日は1日中小雨が降ったり止んだりで、しかも非常に寒い。

8・4(水)ファビオ・ルイジ指揮PMFオーケストラの東京公演

   サントリーホール  7時

 先月25日のオペラ公演の方は、歌手をカバーしようとして精彩を欠いた、という知人の感想に同感だったが、こちらオーケストラ・コンサートでは、予想通り彼らの実力が存分に発揮されていた。

 特にブルックナーの「第7交響曲」での弦(コンサートマスター:デイヴィッド・チャン)の素晴しさは、この十数年来聴いてきたPMFオーケストラの中でも、屈指の出来ではないかと思う。
 冒頭のチェロとヴィオラによる第1主題の、瑞々しく艶のある響きと表情からしてハッとさせられるし、第2楽章での弦全体の豊麗な、しかもしっとりしたハーモニーと歌は、ブルックナーの音楽がもつ抒情的な側面を余すところなく描き出す。

 トランペットの1番と、ワーグナー・テューバの一部が時々不安定になったのが惜しいが、しかし第2楽章の壮大な頂点の個所は、緊張の持続といい、全管弦楽のバランスといい、出色のものであった。
 この「7番」を聴いただけでも、今年のPMFでのルイジの指導は成功を収めたと断言していいのではなかろうか。この演奏を、あの美しい「芸術の森」の野外ステージで、緑の森と夕暮れの空が拡がる自然の光景の中で聴いて見たかったな、と思う。

 この曲に先立つ第1部では、リーズ・ドゥ・ラ・サールをソリストに迎え、ショパンの「ピアノ協奏曲第2番」が演奏された。
 オーケストラは翳りのある音色で協演、ドゥ・ラ・サールは澄んだ明晰な音楽を聴かせた。ただ、オケとピアノとの完全な一体化という点では、多少物足りない面がなくもない。むしろ彼女がアンコールにソロで弾いた「ノクターン嬰ハ短調=遺作」での、極度にテンポを落した凄味のある演奏の方に、この人らしい個性が発揮されていたであろう。

8・3(火)シネ響「サイモン・ラトルとベルリン・フィル」

   新宿 バルト9  6時

 「シネ響」という映画シリーズの一つを観る。

 近年は「METビューイング」など、オペラのライヴ映像を映画館などで上映するイベントが少しずつ増え始めているが、この「シネ響」はオーケストラ・コンサートのライヴ映像を公開上映する方法だ。「マエストロ6」と題されている。
 初弾はラトル指揮ベルリン・フィルの昨年12月31日の演奏会で、チャイコフスキーの「胡桃割人形」第2幕の音楽と、ラン・ランをソリストにしたラフマニノフの「ピアノ協奏曲第2番」。
 このあとには、アバド=ルツェルン、ムーティ=ベルリン・フィル、バレンボイム=ベルリン・フィル、マゼール=NYフィル、ドゥダメル=シモン・ボリバルと続くとのこと。

 こういうシステムが一つ出てくると、すぐに「それはインターネットで見られるでしょう」とか、「NHKのBSかクラシカ・ジャパンで見られるでしょう」(だから、必要ない)とかいう人がいるが、そう言ってしまってはミもフタもない。
 ネットを使っていない人も大勢いるわけだし、必ずしもTVでその映像が放送されるとは限らない。自分が接触しているメディアを、他の人みんなが知っているとは限らないのである。

 私の考えでは、クラシック音楽のメディアは多ければ多いほど良い。それが多いほど、一般のクラシックへの接触率は高くなる。
 それゆえ、自宅で見るメディアはもちろんあってよいが、映画館で見るのもあってよい。それに、鮮明な画像の大型スクリーンで見る演奏会風景にもそれなりの良さがある。しかも友人と映画館へ行って、ペットボトルとポップコーンを傍らにクラシックのコンサートを見て聴き、帰りに食事を愉しむ、なんて生活パターンも悪くはないだろう。
 オペラと違って演奏会の映像は飽きる、という人もいるが、それは趣味の違いの領域だ。

 そういう美点を認めた上で、ただ一つ私が我慢できなかったのは、上映される際の、異常に大きすぎる音量だ。ロックのコンサートや映像に慣れている人ならどうということはないかもしれないが、私のようにクラシックの演奏会での音量を基準にしている者にとっては、今日の再生音の大きさは、いくらなんでも耐えられない。ピアノの高音のトリルまでが何という刺激的な轟音になっていることか! 
 だが主催者の話によると、アンケート結果では、「心地よい」と答えた人も半分ほどいたそうである。
 やんぬるかな。そういう人の好みに合わせてあの大音量再生を続けるのなら、私はもう行くのを諦めるしかない。

 ところで、演奏内容。協奏曲では、ラン・ランのソロが素晴しい。「胡桃割り」は、CDで出た彼らの演奏は、バレエというより運動会みたいだが、映像の視覚効果を伴うと、また少し異なった感じになる。結構スリリングで楽しかった。
 映像は鮮明そのもので、カメラワークも悪くない。コンマスの樫本大進、ヴィオラの清水直子が盛んにアップで映されるのも、何か嬉しいような心持。

8・1(日)ペーター・コンヴィチュニーのオペラ演出ワークショップ

   (びわ湖ホール リハーサル室)

 昭和音大が主宰するペーター・コンヴィチュニーのオペラ演出ワークショップは、昨年春に続く2回目のもの。今年はびわ湖ホールで、昭和音大とびわ湖ホール、ドイツ文化センターの主催により開催。題材は「蝶々夫人」。
 
 タテマエは演出家志望者やオペラ歌手を対象とする演出セミナーだが、実際にはオペラ関係者にとっても大いに勉強になる内容だし、また私のようなオペラ演出に興味のある愛好者にとっても、オペラの演技とドラマトゥルギーがいかにして形成されて行くかを実地に体験できる意味で参考になる興味深いプロジェクトでもある。

 7月31日から8月6日までの連日、午前10時からと午後2時半からの各3時間ずつ、それに夜の部2時間半を追加しての凄まじい量のセミナーだ。
 コンヴィチュニー御大もタフだが、演出指導を逐一通訳する蔵原順子さんも大変なエネルギーだし、キャストを務める大勢の歌手(1役につき複数)や合唱団のメンバー、ピアニスト、指揮者、みんな体力勝負だろう。

 なにしろ、コン御大の指示が微に入り細にわたって徹底している。したがって、仕上げるまでに時間がかかる。
 前日8時間以上やりながら、まだ蝶々さんが登場する場面まで行かず、シャープレスとピンカートンが酒を飲みながら語り合う場面で時間切れになってしまったというから、推して知るべし。この分では、大詰まで行けるのかどうか。
 もっとも今日は、夕方のコマまでに、どうやら結婚式の前まで進んだ。夜のコマは都合で聴けなかったが、ともかく伯父ボンゾが乱入して来て「日米の人々の平和が瓦解」するところまでは行った、という話であった。

 コンヴィチュニーの演出指導は、どこやらの国の演出家の指示のような「そこで1歩前に出て、そこで膝まづいて右手を伸ばし」などという形式的なものではなく、徹底的に心理の動きに関連させた演技の指示である。
 シャープレスとピンカートンがグラスを交わす動作にはすべてに互いの皮肉、警告、反発の表情が込められているべきだとして、ボトルを注ぐ仕種や、注がれる仕種までの一つ一つに意味を持たせ、指示して行く。

 また、蝶々さんと共に登場する女性たちはただ漫然としているべきではない、なぜなら女性たちは友達の結婚相手には興味津々のはずだ、だからピンカートンを値踏みするように、互いにアイ・コンタクトを交わしたり、一つ一つの歌詞に反応して意味ありげに笑いあったりして、舞台に表情を持たせるべきだ、と説く。
 その基盤にあるのはあくまで音楽であり、プッチーニがここでこれだけ美しい音楽を挿入しているのにはそれだけの意味があるのであり、したがってそれに応じた演技が求められるのだ、とも語る。

 こういう指示の数々に、当初は漠然と佇んでいた女性合唱団員たちが見事に反応し、みるみるうちに生き生きした美しい表情の演技(キモノ姿だから余計サマになる)を繰り広げて行くようになるのを見ていると、オペラの歌手を演技面で生かすも殺すも、すべて演出家次第であると実感できるだろう。

 日本に本当のオペラ演出家を育てるためにも、このような「演出学校」は1日も早く確立されなければならない。その意味でも、このワークショップは計り知れない意義を持つはずなのだが――。

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