2017-06

7・31(土)佐渡裕プロデュース バーンスタイン:「キャンディード」

    (兵庫県立芸術文化センター KOBELCO大ホール  2時)

 兵庫県立芸術文化センター開館5周年と、レナード・バーンスタイン没後20年とを記念し、同文化センター芸術監督の佐渡裕が満を持して制作した「キャンディード」。
 演出はロバート・カーセンで、2006年シャトレ座制作版による上演。この版は、1989年にバーンスタイン自身がロンドンで演奏会形式により上演したもの(市販映像あり)とは、曲順やセリフなどにかなりの相違がある。

   DSC00005_20100801092921.jpg
      ラス・ヴェガスのギャンブルの場面
      写真提供:兵庫県立芸術文化センター ©飯島隆

 今回の公演は、同文化センターで7月24日に幕を開け、8月1日までの間に7回行なわれた。東京ではオーチャードホールで、8月6日~8日に上演される。
 私は東京公演の時にはザルツブルクに行っている予定なので、今のうちに観ておきたいと思って西宮まで足を伸ばした次第。舞台機構設備が整っているこちらの劇場で観た方が有利、と踏んだためもあったのだが。

 結論から先に言うと、これは予想を遥かに超えた出来のプロダクションである。実に楽しい。ノリも良く流れも良く、演奏にも舞台にも所謂「隙間」のようなものがない。よくまとまっている。

 成功の理由として、第一に佐渡裕指揮の兵庫芸術文化センター管弦楽団の演奏を挙げるべきだろう。
 聴く前には、もう少し重い演奏になるのではないかと危惧もしていたのだが、これほど闊達でリズミカルで劇的で、胸のすくような演奏を聴かせてくれるとは、嬉しい驚きであった。佐渡特有のダイナミックで豪快な音楽づくりも、こういう作品にはぴったり合っているだろう。
 誰だったか、「キャンディード」の音楽は「ウェストサイド・ストーリー」を遥かに凌ぐ水準にある――と言った人がいるが、こういう演奏で聴けば、まさしくその意見に共感できるというものだ。恩師バーンスタインに捧げる佐渡の熱烈な想いが噴出するような演奏であった。

 ソロ歌手陣はすべて外来組で、歌も演技も本当に達者なのに感心させられる。
 特に、狂言回し役のヴォルテール(原作者)を演じたアレックス・ジェニングズの巧さ。彼はまた、楽観主義者の哲学者パングロスと、悲観主義者マーティンとをかけ持ちで演じたが、これも鮮やかな演じ分けだった。舞台上で自ら扮装を替える場面など、その洒落た手際にはニヤリとさせられる。
 この3役を同一の人物が受け持つという演出は、当を得ているだろう。このドラマがオプティミズムとペシミズムの間を揺れ動きつつ生きる人間を描いているがゆえに、その両側面を端的に象徴するという意味にもなる――丁度ワーグナーの「タンホイザー」でのエリーザベトとヴェーヌスを、女性の両側面を象徴するものとして同一の歌手が演じ分ける手法がよく使われるのと同じように。

 その過酷な運命に翻弄される主人公の一人が、青年キャンディードだ。ジェレミー・フィンチが歌い演じていた。もちろん安定した出来だが、あえて言えば周囲の達者なキャラクター連に圧され、やや常套的な存在に留まった感もある。
 その恋人の美女クネゴンデを演じたのは、マーニー・ブレッケンリッジ。演出に従い、時にマリリン・モンローばりの扮装で演技を展開、聴かせどころの「きらびやかに華やかに」も決めた。もう少し速いテンポでコロラトゥーラを利かせてくれれば(前出ロンドン演奏会上演でのジューン・アンダーソンのように)という気もしたが、しかし、あんな姿勢でよく歌えるものだとは思う。
 もう一人目立ったのは、オールド・レディ役のビヴァリー・クライン。これは「自称苦労人」の3枚目役で、主役を食う迫力で大暴れ。お見事でした。

 その他、脇役、端役に至るまで、いろいろな役を掛け持ちしながら歌い演じる人たち、みんな巧い。
 合唱は、ひょうごプロデュースオペラ合唱団で、これも健闘していた。

   DSC00006_20100801092929.jpg
      「きらびやかに華やかに」を歌うクネゴンデ(ブレッケンリッジ)
      写真提供:兵庫県立芸術文化センター ©飯島隆

 カーセンの演出は、マイケル・レヴィンによる洒落た舞台装置も含め、なかなか好い。
 舞台のプロセニアムは、1956年(初演時)頃のテレビ受信機を模して作られ、序曲や間奏曲の場面ではその中に当時の映画「ジャイアンツ」のタイトルや、見せかけのオプティミズムを謳歌していた時代のアメリカの豪奢な社会の光景が映像で流れる。
 これで物語の時代と場所の設定が予想されるというわけだが、しかし実際にその「ブラウン管」の中で展開して行くドラマは、現代までの普遍的な時代に拡げられている。石油成金としてシェルやテキサコの名が、あるいは往年の政治家たちがパンツ1枚で日光浴をしながら後継者たちを嘆く場面でサルコジやオバマの名が出るくだりなどは、もちろんバーンスタインの原作には無い、カーセンとイアン・バートンの改訂台本による現代風刺的な読み替えだ。

 いったん死んだはずの者が生き返って登場したり、場面が滅茶苦茶に飛んだりする不条理な物語の進行を巧みにまとめ上げるのは、終始ブラウン管の外に自身を置くヴォルテールの語りと、洒落た手法で転換される舞台装置である。
 振付(ロブ・アシュフォード)も、ダンサーの数はそう多くはないけれども、要を得たものであった。
 ただし、中にはギョッとさせられるシーンもあって――それはキャンディードやパングロスらの主人公たちが絞首刑に処せられる場面で、一歩誤ればただ事ではなくなるような手法が使われており、観客も愕然としてしまい、音楽が終ったにもかかわらず拍手も起こらない状態になったほどであった。

 オプティミズムを完膚なきまでに打ち砕かれながらも、ペシミズムに陥ることを拒否、真実はその二つの間のどこかにあるだろう――「ただ自分の畑を耕すのみ」と発想を転換するキャンディードたち。
 それはバーンスタインの音楽とヒュー・ウィーラーの台本で既に語りつくされているものだが、カーセンはそれをかなりストレートに再現していた。悲惨さや惨酷さがユーモアを以って描かれるその「コミック・オペレッタ」の精神も、比較的忠実に生かされていた。このような作品の場合、そういう演出が、何よりありがたい。

 休憩1回を含み、終演は5時10分。
 西宮北口から阪急電車に乗り、大阪でJRに乗り換え、次の目的地・大津に向かう。びわ湖畔のホテルに投宿。

7・30(金)飯守泰次郎指揮関西フィルの「トリスタン」第2幕

 ザ・シンフォニーホール 7時

 午後3時半のANAで鹿児島を発ち、4時45分大阪伊丹空港に着く。ホテルに寄って荷物を置いてから、ザ・シンフォニーホールに向かう。

 飯守泰次郎が指揮するワーグナーの「トリスタンとイゾルデ」第2幕(演奏会形式)は、以前から楽しみにしていたものだ。ロビーでは、東京からも駆けつけた何人もの「同業者」たちに出会う。「飯守のワーグナー」は、今や「追っかけ」を抱えているようである――かく言う自分もその一人だが。

 関西フィルハーモニー管弦楽団も、よく頑張っている。オーギュスタン・デュメイを新しく音楽監督に迎え、東京公演をも定期的に開催するなど、このところ積極的な攻勢に打って出て、かなり目立つ存在になっているのも事実だ。

 飯守の指揮でワーグナーの管弦楽曲集を演奏した時に、西濱秀樹事務局長がロビーで「関西フィル最初で最後のワーグナーですよ! もう二度と聴けませんよ!」と変なPRをしていたのは、たしか3、4年前のことではなかったかしらん。ところがどうして最後どころか、それ以降も飯守とのワーグナー・プロはしばしば行なわれるようになった。
 しかし、たしかにこういう大編成ものでは、多くのトラ(客員奏者)を必要とし、カネがかかって大変だろうと思う。今日も、60名前後の正規団員のほかに、バンダのホルン6本をはじめ、30名近くのトラを加えての演奏だった。

 したがって、アンサンブルそのものは、必ずしも完璧とはいいがたい。だがもともと飯守は、所謂縦の線を合わせるとかいう指揮で売る人ではない。それでも、飯守独特のヒューマンな滋味を湛えたワーグナーの世界は、はっきりと創られていた。それが何より重要だし、それだけで充分であろうとさえ思える。

 前半に演奏された「タンホイザー」序曲も――この半年ばかりの間にウィーンやベルリンで聴いたものも含めて、最も感情のこもった、機能的なものに陥らない演奏の一つであったという気がする。
 休憩後に始まった「トリスタン」第2幕も同様、最初のうちはオーケストラにややフォーカスが定まらぬ感がなくもなかったが、二重唱に入る頃からは音楽にうねりが加わって来た。そして、「マルケ王の嘆き」から、トリスタンとイゾルデが死の国への憧れを語るあたりの音楽の底知れぬ暗さも、見事に再現されていたのであった。

 トリスタンの竹田昌弘が、明るめの声で、若々しい騎士トリスタンを熱唱していた。イゾルデは畑田弘美だが、この人の声は、この役には少し軽く、柔らかすぎるのではなかろうか。何よりも歌詞とリズムにメリハリが欲しいところである。

 声がパワフルで立派だったのは、ブランゲーネの福原寿美枝だ。何か怖い家庭教師か女監みたいな厳めしいブランゲーネで、その役柄表現には些か疑問もあるものの、ワーグナーを歌うには本来このくらいの声の力が求められるだろう。
 それにもちろん、マルケ王の木川田澄――彼の底力あるバス、ベテランの味のある歌唱、圧倒的な存在感などは相変わらず健在である。この2人の強力さにより、あたかもオペラの名が「マルケとブランゲーネ」と化した感もあったが・・・・。

 他にメーロト役に松原友、短い出番だったがパンチを効かせた歌いぶりで、好かった。クルヴェナールの橘茂も、普通ならオケの最強奏に消えてしまうことの多いあの歌詞をはっきりと聞かせて、たった一声だけの歌だったが、これもご苦労様でした。

7・29(木)第31回霧島国際音楽祭 
下野竜也指揮キリシマ祝祭管弦楽団

   宝山ホール  7時
   
 11時25分羽田発のANAで鹿児島に入り、霧島国際音楽祭(音楽監督・堤剛)のオーケストラ・コンサートを聴く。国内屈指の大規模な音楽祭だが、何故かこれまで一度も訪れる機会がなかったものだ。

 今年は7月22日から8月8日まで、鹿児島市内や霧島のいろいろな会場でコンサートやマスタークラス(講習会)が開催されている。メイン会場は霧島の「みやまコンセール」(700余席の美しいホール)だが、鹿児島市民に音楽祭への関心を高めてもらう意味もあって、宝山ホール(県立文化センター)など鹿児島市内の会場をも活用している由。

 今夜のコンサートは、その宝山ホールでの開催だ。
 このホールの近くには、城山をバックにした西郷隆盛の巨大な銅像があり、またホール前の一角には、小松帯刀の銅像が立っている。なるほど鹿児島、という感。しかし建物の入り口には、口蹄疫防止のための消毒用マットなどが置かれていたりして、ただ事でない世情をも感じさせる。

 客席数1500余のホールは満席で、聴衆の雰囲気もすこぶる熱い。
 特に昨年に引き続き登場した下野竜也は、地元・鹿児島の出身ゆえに地元メディアからの注目度も非常に高く、それも大入りの基になったとの説もある。
 「今日は雨の中をよくおいでくださいました。去年は灰が降っていました。今年は雨です。来年はきっと雪でしょう」と、彼らしいプレ・トークもあって、これも聴衆を喜ばせたことだろう。

 キリシマ祝祭管弦楽団は、講師とアカデミー生の混合編成だが、弦にはコンマスの藤原浜雄を先頭に松原勝也、鈴木理恵子、四方恭子、山本友重、店村眞積、篠崎友美、鈴木学、吉田秀といった人たち、また管には広田智之、三界秀美、岡本正之、笠松長久、西條貴人、高橋敦ほかといった強力な「講師陣」が頭に並んでいて、壮観だ。
 8型編成だが、下野の纏め方が巧い上に、一騎当千のツワモノたちの音の響かせ方も巧いので、残響の少ないホールながらも音楽のエネルギー感は充分。

 プログラムは、ベートーヴェンの「フィデリオ」序曲と「第5交響曲」、その2曲の間にクシシュトフ・ヤブウォンスキをソリストに迎えたショパンの「ピアノ協奏曲第1番」。アンコールにはバッハのアリア(G線上のアリア)。
 「フィデリオ」序曲をこれほどまとまりの良い演奏で聴けたのは珍しい。「運命」では第2楽章の演奏が出色で、第3楽章ではヴィオラのパワーが目立ち、第4楽章では提示部がリピートされたあたりから音楽に豪壮さが加わった。
 演奏終了後の聴衆の沸き方は凄い。
 またショパンの協奏曲ではヤブウォンスキの右手の変幻自在のルバートがしゃれていて、久しぶりに滋味に富むショパンに出会ったという感。

 翌30日(金)午前中、大阪へ移動するまでの空いた時間を利用して、みやまコンセール(霧島国際音楽ホール)などで行なわれている講習会のうちから、チェロの堤剛のクラスを10分ばかり、それにピアノのヤブウォンスキのクラスを1時間ほど見学させてもらった。
 前者はホール内のリハーサル室で行なわれ、後者はホール近くの、普段は貸別荘として使われているコテージ――バッハという名がつけられたコテージだ――で行なわれる。特にショパンの作品を題材にしてのピアノ・レッスンは、ヤブウォンスキのショパンの音楽づくりを別の側面から示してもらったようなもので、たいへん面白かった。

 昼は「みやまコンセール」の中で、ボランティアの人たちが作るちらし鮨、焼肉、サラダなど、すこぶる豪華なバイキング・スタイルの食事が提供される。
 聞けばここでは、7つのグループに分かれたボランティアの女性たちが、交替で受講生や講師のために作ってくれるのだとか。実に温かい雰囲気である。
 どこの音楽祭でもボランティアの存在は大きいが、ここ霧島国際音楽祭での役割は、ひときわ異色のものと言っていいかもしれない。

 音楽祭開催に欠かせないのは何よりも地元の人たちの理解と共感と協力だ。ここはうまく行っているようである。今年、口蹄疫(霧島は宮崎県の都城に近い)事件などのため、音楽祭の開催についてもいろいろな意見があったというが、誰よりも開催を強く支持してくれたのは、地元の人たちであったという。
 また、霧島国際音楽祭に使われる各会場の間には結構距離もあり、それを結ぶ沿道には、ある地域ごとにたくさんの音楽祭の旗が立っているが、それらは小学校の生徒たちが手分けして立ててくれたものだという話も聞いた。
 鹿児島県知事も、鹿児島市長も、クラシック音楽が好きなのだとか。

7・28(水)トリノ・オペラ来日公演 プッチーニ:「ラ・ボエーム」

   東京文化会館大ホール  6時30分

 ジャナンドドレア・ノセダが音楽監督として率いるトリノ・オペラ(トリノ王立歌劇場)が携えて来たもう1本の作品――プッチーニの「ラ・ボエーム」の公演2日目。
 ミミにバルバラ・フリットリ、ロドルフォにマルセロ・アルバレスという顔ぶれで、今日は2人とも快調であった。

 このフリットリ、および「椿姫」でのナタリー・デセイは、ノセダにとっては、トリノ・オペラの来日を準備している段階から「絶対彼女たちの主役で」と考えていたプリマ・ドンナだったという。2年ほど前、ノセダにインタビューした際にも、彼は目を輝かせてそれを語っていたのだった。
 今回は、共演主役陣の調子の良さもあって、彼も満足だったであろう。終演後の楽屋では、「シンガーズはグッド、みんなグッド。but、マエストロはショウショウ(少々)」と、妙な日本語を連発してご機嫌であった。

 共演のガブリエーレ・ヴィヴィアーニ(画家マルチェッロ)、ナターレ・デ・カローリス(音楽家ショナール)、ニコラ・ウリヴィエーリ(哲学者コリーネ)ら、「仲間たち」がきわめてバランスよく周囲を固めていた。速いテンポの歌のやり取りの呼吸も、友情にあふれた演技も確実。このように脇役がしっかりしていると舞台も引き締まるものである。
 今回は森麻季がムゼッタを歌ったのが注目されたが、第2幕ではかなり癖の強い歌いぶりで、駄々をこねる演技などにも、何か力みかえった雰囲気があるのが気になった――要するに、もう少し「自然さ」があった方がいいのではないか、ということ。

 演出はジュゼッペ・パトローニ・グリッフィ、復元演出がヴィットリオ・ボレッリとクレジットされている。アルド・テルリッツィの衣装・美術を含め、ストレートで衒いが無く、派手ではないがしっとりと美しい雰囲気の舞台という印象だ。
 特に第4幕のラストシーン、悲しみにくれる仲間たちがモノクロ的な色合いの中にシルエットとなって佇む光景はすこぶる美しかった。この演出を一言で表現するなら、ボヘミアンたちの強く深い友情を描く上で極めて優れたものであった、ということになろうか。

7・27(火)チョ・ソンジン(第7回浜松国際コンクール優勝者)リサイタル

   ヤマハホール  7時

 昨年(第7回)の浜松国際ピアノコンクールに優勝した韓国のピアニスト、チョ・ソンジンのリサイタルを聴く。
 前半にシューマンの「アベッグ変奏曲」と「ユモレスク変ロ長調」、後半にショパンの「バラード第1番」「ノクターン作品48の1」「練習曲作品10」。

 中村紘子さんが審査委員長を勤めている浜松国際ピアノコンクールは、これまでにも優秀なピアニストを輩出して来た。優勝あるいは最高位にはガブリリュク、ブレハッチ、コプリン、ゴルラッチらがいたし、上原彩子も2位に入賞したことがある。

 このチョ・ソンジンも、まだ16歳の少年ながら、素晴しい才能を持ったピアニストだ。
 演奏に少しも機械的なところがなく、音楽が自然に息づいているのがありありと聴き取れる。シューマンでは、まろやかでヒューマンな詩情の表現が実に魅力的だ。ショパンでは一転して、近年の世界的な主流である激しい起伏を持ったショパン演奏のスタイルになるが、すでに確固とした音楽が形づくられている。

 わずか16歳の子がここまで出来ていいのだろうか――と怖ろしくもなるが、幸いなことに、未完成の要素はあちこちに在った。たとえば、「バラード第1番」でのカンタービレ的要素と劇的要素とのバランス感、「ノクターン」での和声と旋律とのバランス感と音の透明感などは、未だこれからという段階だろう。
 つまり、そういう少年っぽさが未だ残っているので、大いに安心した次第なのである。この歳ですべてが出来上がってしまっているような演奏家だったら――よほどの神童なら別だが――むしろ先が危なかろう。

7・25(日)PMFのルイジ指揮 プッチーニの「ラ・ボエーム」

   札幌コンサートホールKitara  3時

 PMF(パシフィック・ミュージック・フェスティバル)の芸術監督に就任したファビオ・ルイジが、早くも得意のオペラの全曲上演(演奏会形式)をPMFのプログラムに取り入れた。
 PMFがオペラをやるのは実に14年ぶりのことで、レパートリーとしても新鮮なイメージを打ち出せたであろう。ルイジの個性を最大限に発揮する意味でも、それ自体は良い企画だと思われる。

 だが――企画は良くても、演奏内容については、大きな問題が残った。

 PMFアカデミー生のオーケストラの水準は、例年と同じように、プロ並みに高い。この公演ではMETオーケストラの練達のコンサート・マスターであるデイヴィッド・チャンがトップに座ってリードしていたこともあって、PMFのオケもなかなか上手くオペラをこなせるものだ――という印象を生んでいたのは、たしかである。

 問題は、歌手陣なのだ。
 今日の歌手たちは、いずれもオーディションで選ばれた日本の若手たちで、――なにしろ公式プログラムにも、当日配布のプログラムにも、歌手についてのプロフィールが全く載っていないものだから、どこでどういう勉強をしていた人なのか、どのくらいオペラにおける経験があるのか、何歳なのか、ということすら全く判らない状態なのだが――とにかく聴いた感じを率直に言えば、ミミを歌った千恵・リー・サダヤマという人だけがよく通る声で清楚な歌唱を聴かせていたものの、その他の人々は、まだ「本当のアカデミー生」の水準だ(ただし、赤ん坊にしては歯が非常に強い、という比喩はできよう)。
 特にロドルフォ役の青年は、2階正面で聴いていてさえも、オーケストラの強奏の際には声がほとんど聞こえなかったほどである。

 教育音楽祭の演奏会なのだから、これでもいいのだ、という考え方もあろう。若い歌手の卵がよく頑張っている(本当に一所懸命やっていた)のだから、静かに見守ってやればいいじゃないか、という考え方もあろう。いずれも一理ある。

 だが気になるのは、オーケストラと歌手の実力のギャップがあまりにも大きいということ。
 ふだん、声楽部門にほとんど力を入れていなかったPMFである。いきなりオペラをやるからと言ってオーディションを行なっても、そうそう水準の高い歌手が集まるというわけには行かなかったであろう。
 ただ、それは仕方ないとしても、20年にわたりレベルの高さを誇って来たPMFにおいて、これだけギャップのある演奏家たちを同じステージに乗せてオペラ・コンサートを行なうことはいかがなものか、という疑問は残る。
 PMFというブランドを信頼して世界から集まって来た優秀なオーケストラのメンバーが、折角参加してもこういう演奏会をやらされるのでは――と、やる気を失うなどということにならなければよいのだが。

 事実、前日の異なるキャストによる演奏会を聴いたある新聞記者が、前日は主役にプロ級の歌手が配置されていたのでルイジもオーケストラもすばらしい演奏をしていたが、今日は歌手をカバーしようとするためか、PMFオーケストラは明らかに散漫な演奏に陥っていた――と語っていた。としたら、これは由々しき問題ではないのか。

 PMFは、たしかに教育音楽祭ではあるけれども、ある一定の水準以上のアカデミー生を対象とし、その高い水準を以て興行音楽祭としての性格をも備えるという使命を持つだろう。今日の演奏は、その基本的立場に大きな問題を投げかけるものであった。

7・24(土)アルミンクと新日本フィルのブルックナー、シュトラウス他

   サントリーホール  2時

 ブラームスの「悲歌」、R・シュトラウスの「4つの最後の歌」、ブラームスの「ハイドンの主題による変奏曲」、ブルックナーの「テ・デウム」という、意欲的で新鮮な、しかも面白い組み合わせのプログラム。
 こういったプロをさり気なく編成できる新日本フィルは、日本のオーケストラ界にあっては稀有の存在だろう。

 私の好みでは、この4曲の中での最高の出来は、「4つの最後の歌」。
 アルミンク特有の清澄な音楽で、柔らかい弱音で統一されたオーケストラの響きには拡がりとふくよかさも備わり、R・シュトラウスの官能的な抒情がすっきりと描き出される。ソロはイルディコ・ライモンディ。よく通る、清々しい美しさをもった表情だ。なかなか良かった。

 「ハイドン・ヴァリエーション」もきれいな音だったが、何だか各変奏曲間の「間」がえらく長く思える演奏だった。
 「悲歌」と「テ・デウム」に入ったコーラスは栗友会合唱団。
 後者は当然先日のスダーン=東響の演奏との比較をせざるを得ないが、東響コーラスの3~4倍の人数をそろえた今日の合唱は、かえって明晰度に不足した感もある。演奏全体には緊迫感も流れの良さも充分にあったけれども、感銘度から言うと、やはり今日は「2番目」。

7・23(金)トリノ・オペラ来日公演初日 ヴェルディ:「椿姫」

   東京文化会館  6時30分

 何よりもまず、音楽監督ジャナンドレア・ノセダの指揮を称えたい。
 本当に彼は素晴しい指揮者になった。十数年前、マリインスキー劇場の首席客演指揮者になった無名の頃、あるいは10年前にMETへ「戦争と平和」でデビューした時、それらを含めてずっと彼の若い時期からの指揮を現場で聴き続けて来た者としては、感無量である。

 第1幕の前奏曲冒頭、弦のフレーズが明晰に隈取りされつつ、瑞々しい膨らみを以て起伏がつくられるあたりから、楽譜の隅々まで神経を行き届かせる彼の指揮の全貌が早くも予告されていたであろう。
 全曲やや遅めのテンポで、「間」をかなり大きく採りながらも緊迫感を些かも損なわず、しかも精緻なカンタービレをあふれさせながら進めて行くノセダの力量は、この聴き慣れた名作オペラの音楽を、更に新鮮な形で蘇らせるにふさわしいものであった。

 トリノ王立歌劇場のオーケストラも均整の取れた美しい響きで、あたかも泡立ちクリームのような柔らかさに富んでいる。極めて丁寧な演奏だったのも好ましい。ノセダが着任以来心血を注いでまとめ上げたというだけのことはある。

 演出はローラン・ペリ。登場人物たちの演技を、非常に微細なところにまで及ばせる。イタリア・オペラだからと言って、無意味に両手を拡げて歌うがごとき類型的な身振りは一切ない。すべて演劇的な必然性に沿った動きだ。ただし、女たちにやたらに奇声嬌声を上げさせるのは耳障り。特に第3幕でのダンサーのそれは顰蹙もの。

 主役歌手陣。アルフレード・ジェルモン役のマシュー・ポレンザーニは、METで歌っていた頃に比べると、随分貫禄を増したものだと思う。しかし、ヴィオレッタのナタリー・デセイ(表記は主催者のそれに従う)、ジョルジョ・ジェルモン役のローラン・ナウリという2人の千両役者の前では、多少影が薄くなるのも致し方なかろう。

 デセイの歌唱は、イタリア人ソプラノのそれとは趣きを異にするタイプだが、歌のあらゆる個所に精緻な心理表現を織り込んだもので、非常になまなましい迫力を感じさせる。しかも演技の巧みさ、表情の豊かさはさすがで、かつてのテレサ・ストラータスのヴィオレッタを連想させる。

 ローラン・ナウリ(デセイの夫君でもある)は、底力のある、しかも情感豊かな低音が素晴しい。
 この人のレパートリーの広さ、演技力の多様さはつとに知られるところだ。今日のジェルモンのような厳めしい気品のある父親像を見ていると、これが先年ザルツブルクの「ベンヴェヌート・チェッリーニ」で、髪振り乱して慌てふためく傑作な3枚目役――フィエラモスカを演じた人と、とても同一人物とは思えないほどだ。

 それゆえこの2人が対決する場面――第2幕第1場は圧巻であった。いずれも演技が驚異的に細かいのである。
 ヴィオレッタに身を引くよう説得を重ねるジョルジョ・ジェルモンは、最初のうちは彼女に対し軽蔑の念を隠さず、彼女の話にも「何を甘えたことを」とせせら笑う表情さえ見せるのだが、次第に感情を動かされ始め、「頼むからわかって欲しいのだ」という焦りの気持を、顔の表情にも、帽子をいじりまわす両手の表情にもしばしば表わすようになる。そして別れ際のためらうような行動には、彼がもはや明らかに後悔の念に苛まれる状態に陥っていることが示される。

 この感情の揺れが伏線となって、そのあと彼が息子アルフレードに「プロヴァンスの海と陸」を歌って説得する場では、すでに自ら父親としての威厳も確信も保てず、説得というよりも哀願に近い態度に陥らざるを得なくなるのである。
 この一連の場面でのナウリの演技の素晴しさはたとえようもなく、かつてこれほど「悩める父親」を巧みに表現した歌手は稀ではないかとさえ思えたくらいだ。この場面を観ることができただけでも、今回の「椿姫」に来てよかったという気がしたのであった。

 そして、対するデセイのヴィオレッタも、「あなた方は祝福された関係ではないのだから」というジョルジョの一言を境に、打ちひしがれ、絶望に陥って行く過程を、この上なく巧みに表現していた――はっと顔色を変え「E ver!」と呟く彼女の表情の凄いこと!
 しかも、これらの心理描写すべては演技だけでなく、歌い方にも如実に反映されていたのである。デセイとナウリ夫妻の卓越した力量を、まざまざと見せられ、聴かされた思いであった。
 もちろん、この場面を、緊迫に富む遅めのテンポで、些かの隙間もなく描き出していたノセダの指揮をも賞賛しておかなければならない。

7・22(木)プラッソン指揮東京フィルのベルリオーズ

   東京オペラシティコンサートホール  7時

 読売日響がカンブルラン指揮によりフランスもので燃えれば、東京フィルもミシェル・プラッソンを迎えベルリオーズ・プロで気を吐く。
 「ファウストの劫罰」も、日によって波はあったけれども全体としては良かったと思うし、今日のコンサートでも、なかなかまとまりの良いところを聴かせていた。

 後半の「幻想交響曲」は、遅めのイン・テンポ(第1楽章提示部反復なしでも53分)で、強固かつ剛直に構築された音楽となった。それゆえ、ベルリオーズの一面たる狂気じみた情熱や革命的な曲想といった特徴は、彼の別の側面たる古典的な端正さの中に呑み込まれた感がある。
 特に第2楽章など、舞踏会のイメージから全く離れた悠然たるテンポとリズムと落ち着いた音色で、あの「恋人のイデー・フィクス」さえ、あたかも滔々たる河の流れに浮き沈みしつつ進み行くかのよう。
 しかし、音楽全体に一種の滋味が行き渡るようになった点、プラッソンも年輪とともに随分変わって来たものだと思う。東京フィルもスケールの大きな演奏を展開していた。

 前半の1曲目は序曲「ローマの謝肉祭」だったが、ここではダイナミックな音の炸裂をどうまとめたらいいか、やや手探り状態で演奏されていたような印象も。何となく雑然とした中に終ってしまったという感。

 しかし2曲目の歌曲集「夏の夜」では、抑制された抒情の陰翳が充分に出た。「入り江のほとり」の終結近くの木管にもう少し陶酔的な目眩めく雰囲気があればと思うが、まあ仕方なかろう。演奏そのものはすこぶる美しい。
 林美智子の代役として出演した加納悦子(メゾ・ソプラノ)も、深みのある歌唱を聴かせてくれた。「ヴィラネル」では、楽譜指定の「ドルチェ」を優先させたためか、スタッカートの伴奏音型を演奏するオーケストラのリズムとのバランスがあまり感じ取れなかったとはいえ、ゆっくりしたテンポの曲での哀愁と陶酔の表現は極めて優れたものであった。

 アンコールはビゼーの「アルルの女」からの「アダージェット」。弦がしっとりと響いて好い。マーラーの「アダージェット」の先駆的性格が、この演奏からも感じられる。

7・19(月)東京都響コンサートオペラ スメタナ:「売られた花嫁」

   サントリーホール  2時

 レオシュ・スワロフスキーの演出と指揮。
 セミ・ステージ形式の上演で、ソリストは民族衣装を着け、オーケストラ後方の山台上を中心に、舞台前方、時には1階客席通路まで動き回るが、演技そのものは必要最小限の範囲。

 ルドヴィト・ルドゥハ(青年イェニーク)、アドリアナ・コフートコヴァー(マジェンカ)の主役恋人コンビが良い味を出し、特に後者は第3幕のアリアで深い情緒を聴かせた。ヤーン・ガラ(結婚仲介人ケツァル)は、歌も風貌も演技もベテランの味だろう。
 オトカール・クライン(ヴァシェク)が比較的控え目な演技と歌を示していたのは、やはり昔の演出にしばしば見られたような「差別的表現」を排し、気の毒な青年を笑いものにしたくないという思いやりからだったのだろうか? いずれにせよ、ほっとした。

 歌手陣はチェコあるいはスロヴァキア系(ロシア系も1人)、男女ダンサー計4人は日本勢(ダンスは大変結構だったが、奇声は耳障り)。P席中央に配置された二期会合唱団は、村人たちを表すものとしてはやや生真面目だったが、音楽的にはきわめてしっかりしていたと思う。

 しかし、この日の演奏の本当の主役は、やはり指揮者とオーケストラだ。スワロフスキーの音楽づくりは飾り気なく率直で、しかも民族主義的な質朴さや色彩感を余すところなく発揮したものだが、それがスメタナの音楽の本来の魅力を如何に素晴らしく再現してくれていたことであろう。
 東京都交響楽団が、柔らかく温かい演奏で、これに見事に応えていた。オペラではあったが、歌付きのオーケストラ・コンサートといってもいいほどの演奏。

7・18(日)東京二期会 ベルリオーズ:「ファウストの劫罰」4日目

   東京文化会館大ホール  2時

 今日は最終日、Bキャストの2日目。
 マルグリートはAキャストの初日も歌った林正子で、他の主役3人はファウストに樋口達哉、メフィストフェレスに泉良平、ブランデルに北川辰彦。

 Aキャストの福井敬・小森輝彦コンビと比較して――比較する必要もないのだが――兄たり難く、弟たり難し、と言いたいところだが、やはり実際には福井と小森の、場数を踏んだ巧味と貫禄といったものが目立つ結果になったであろう。
 樋口の声は若々しくて良いが、このファウストのような役にはもう少し陰翳が欲しい。泉は悪役メイクが非常に合っているが、本当の迫力を出すには、この役の歌唱にもっと歯切れのいい凄味を備えなければなるまい。
 A組と同様、速いテンポの個所でのフランス語のリズムの切れの不足が目立つのは、やはりふだんのレパートリーとも関連する問題か。

 言葉の明晰さの不足という点では、林正子も同様だろう。彼女、高音域の力強さは素晴しいのだから、低音域(「トゥーレの王」でいえばハ音)をもっとよく響かせてくれるようになればと願う。

 演技の点では、林は結構細かい芝居を見せていた。が、ファウストは、どちらも類型的に過ぎる。
 ただし、メフィストフェレスについてはこんな話もある。「アーメン・コーラス」の場面で、初日の小森は「この歌は頭が痛くなるわい」とうんざりするという演技を見せていた。悪魔という立場からして、それは実に理に適った解釈といえよう。が、今日の泉は、そういう演技は全然していなかった。
 どっちが演出家の意図だったのか? ロビーで小森さん本人に訊いたら、「あれは僕独自の解釈でやった」とのこと。なるほど、と思ったり、感心したりした次第である。

 しかし、いずれにせよそのあたりは、第一に演出家が考えるべき領域だろう。大島早紀子が今後オペラ演出に進出するのであれば、ダンスの面だけでなく、各キャラクターの細かい心理表現の演技にも心を配るようになって欲しいところだ。

 ミシェル・プラッソン指揮の東京フィルは、気のせいか、初日に比べ、緊迫感を些か薄れさせているようだった。4日連続で、さすがに疲れたか? ゆっくりしたテンポの個所では、何故か生気に欠けるところもあった。が、「トゥーレの王」でのヴィオラ、「ロマンス」でのコール・アングレの各ソロは、今日もよかった。
 
 これで公演は千秋楽。あれこれ言ったけれども、力作であったことは事実。プロダクションごとに新しい試みを行なおうとする東京二期会の姿勢は、高く評価されてしかるべきだろう。
 

7・17(土)スダーン&東京響のシューベルト、ハイドン、フランク

  2時  東京オペラシティコンサートホール

 シューベルトの「アルフォンソとエストレッラ」序曲をナマで聴いたのは、私にとってはこれが初体験。シューベルトが直前に聴いたウェーバーのオペラの影響が大きい――とは楽屋でユベール・スダーンから教えられた話だが、たしかにそう言われればそう。
 しかし今日聴けたのは、紛れもなくスダーンと東響があの「シューベルト交響曲ツィクルス」でも展開していたシューベルト・スタイル――ピリオド楽器調の、強烈なアクセントとアタックを備えた、引き締まった音楽だった。

 この毅然剛直たる構築の裡に瑞々しい躍動感を湛えた演奏は、次のハイドン交響曲第103番「太鼓連打」の、それにふさわしい曲想の中で、最高度に発揮される。こういうハイドンは素晴しい。ちなみに今回のティンパニの「連打」は、変ホ音のみの、漸強と漸弱をもった、あまり長くないトレモロだった。

 後半はフランクの「交響曲ニ短調」。がっちりした緻密な構築を持つ作品ゆえ、スダーンの本領はここでも発揮される。「仁王のようなフランク」といった厳めしい演奏だが、その緊迫感がなかなか好い。
 面白かったのは、その音色。管も弦もいっぱいに鳴らしながら、開放的でなく、むしろ、くぐもった陰翳の濃い音だ。
 こういうサウンドは、スダーンがザルツブルク・モーツァルテウム管弦楽団の首席指揮者だった時代によく創り出していたものではなかったかしらん。東響との演奏では、シューベルト・ツィクルスの最初の頃に聴かせていたことがある。
 指揮者とオーケストラの呼吸が合っている状況の中では、全曲にわたってそれが実現できるものらしい。

7・15(木)東京二期会 ベルリオーズ:「ファウストの劫罰」プレミエ

  7時  東京文化会館大ホール

 ベルリオーズの情熱の赴くまま、幻想的かつ非論理的に物語が構成された作品だ。もともとオペラとしては作られていないのだから、理屈っぽい演出など当て嵌めようとすれば、かえって訳の解らないものになる。それゆえ演出も、幻想的かつ非論理的に行われるケースが多い。
       DSC00001_20100717010835.jpg
       地獄落ちの場面 左:ファウスト 右:メフィストフェレス

 二期会がこの上演(公演監督・三林輝夫)にあたり、振付家として有名な大島早紀子を演出に起用したことは、狙いとしては的を射ているだろう。
 予想どおり、彼女はドラマ進行の中にダンスを縦横に取り入れた。「妖精の踊り」と「鬼火のメヌエット」のように本来バレエ音楽として書かれている場面はもちろん、「ハンガリー行進曲(ラコッツィ行進曲)」もダンスとして扱い、全曲いたるところで、転げ落ちたり、転げ上がったり(?)するダンスや、宙吊りで滑走する激しい動きのダンスを、徹底して展開させている。

 これは、ファウスト(福井敬)とマルグリート(林正子)の深層心理や、メフィストフェレス(小森輝彦)の操る怪奇でグロテスクな魔の世界を描き出すという意味でも成功していた。ファウストの求める救済の投影たる巨大な十字架の中にまで、ややグロテスクなダンス(苦悩する人間?)を織り込んだところなど、秀逸な発想だ。
 とはいえ、全曲大詰めの「天上にて」の静謐で神秘的な音楽の場面にも動きの速いダンスを持ち込んでいたのには、あまり共感はできないのだが・・・・。

 そのダンス的な動きは、合唱団の動きにまで応用されており、これもうまくまとめられていた。
 しかし、さすがの大島のパワーも、主人公歌手たちの演技を巧くコントロールするところにまでは、残念ながら及ばなかったようだ・・・・。それに、初日とはいえ、舞台には緊迫感や段取りの面での「隙間」が多く感じられたのが惜しい。
 それでも今回の演出は、3年半前の二期会公演「ダフネ」におけるよりも、彼女の得意技がより多く発揮された舞台ではなかろうか。この手法をさらに練り上げて、わが国のオペラの舞台に新風を吹き込み続けて欲しいものである。
 なお、ダンサーは白河直子をメインとする人たち。良かった。
          DSC00002_20100717010852.jpg
           最終場面「天上にて」

 指揮はミシェル・プラッソンで、管弦楽は東京フィル。
 プラッソンも少し年取ったかなと思えるくらい、昔の彼に比べると温厚な音楽づくりに感じられたが、これはピットを低く下げ過ぎて、オーケストラの音を飽和的に柔らかくしてしまったせいもあろう。
 つまり、どうもメリハリに欠けるのである。ベルリオーズの破天荒でダイナミックな、しかも非常に雄弁で色彩的なオーケストラの迫力を、ピットの底深く沈めてしまったのは、残念だ。
 わが国では未だに、オーケストラは歌の伴奏で、歌こそがオペラの主役である――という概念が抜け切っていないらしいが、歌手たちは充分力をつけて来ているのだから、もっとオペラにおけるオーケストラの魅力を浮彫りにする考え方が出て来てもいいのではないのか? 

 その代わり今夜の演奏は、ベルリオーズの音楽の温かい抒情的な美しさを余す所なく再現する点では、見事な成功を収めていた。
 私はこの曲が学生時代から大好きで、マルケヴィッチやミュンシュのレコード(演奏の傾向は正反対だが)を擦り切れるまで聴いて夢中になっていたものだが、今夜の演奏を聴きながら、本当に何ときれいなすばらしい曲なのだこれは――と改めて感じ入った。そう思わせてくれたのは、演奏が好かったことの証明でもある。
 最近のプラッソンの指揮には、いい味が出て来た。

 東京フィルも今日は好演。「マルグリートのロマンス」におけるコール・アングレと弦の雰囲気。そして、全曲最後の Un poco meno lento での、 波打つハープと弦を中心とするオーケストラの柔らかい響きと絶妙なバランス――。

 ただ一つ、腑に落ちない点は、今夜の歌手のフランス語と音楽のリズムとが何か一致せず、ズレズレの印象を生む個所もあって、これをプラッソンがどう指示していたのかしらん、ということだ。特に、ブランデル(佐藤泰弘)の「ねずみの歌」と、メフィストフェレスの「セレナード」といったリズミカルなテンポの個所で。

 歌手陣では、やはり福井敬の歌唱のエネルギー感が一頭地を抜いていただろう。ただ、それを認めつつも、この人の腕を無意味に拡げる類型的な演技にだけは、いつもながら文句をつけたいところである。「アーメン・コーラス」を聴きながら閉口するメフィストフェレスを揶揄するところなど、もう少し工夫できないものかと思う。歌がいいだけに、惜しまれる。

 4日連続の上演で、キャストは2グループ。林正子のみは3日歌う。18日の別キャストでの上演にも行ってみたいと思っている。

※写真:鍔山英次  東京二期会提供

7・14(水)カンブルラン指揮読売日本交響楽団のフランスもの

    サントリーホール  7時

 前半にフォーレの「ペレアスとメリザンド」組曲とメシアンの「鳥たちの目覚め」、後半にドビュッシーの「ピアノと管弦楽のための幻想曲」とデュティユーの「5つの変遷」というプログラム。メシアンとドビュッシーでのピアノ・ソロは児玉桃。

 シルヴァン・カンブルランが、純正(?)フランス・レパートリーを盛んに聴かせてくれているのは、大いにありがたい。
 ご本人はもちろん、いろいろな国のものをやりたいだろうし、それはそれで結構ではある。が、わが国のオーケストラ界では、フランス系作品のシリーズ(に近いもの)というのは、矢崎彦太郎と東京シティ・フィルがやってくれている以外、ほとんど聴く機会がないのである。そうしたレパートリーの嘆かわしいブランクを埋める意味においても、カンブルランと読売日響のこのプログラミングは、貴重といわなければなるまい。

 今夜の演奏で第一に挙げたいのは、やはりデュティユーの「5つの変遷」だ。この作品の、華麗で多彩な音色の変化――金管のみならず弦のピチカートにいたるまで――を鮮やかに再現してみせたカンブルランと読売日響の手腕には、感嘆させられた。この演奏の良さは、私の好みからいえば、先頃のシェーンベルクの「ペレアスとメリザンド」(4月26日)に伍すものではないかという気がする。

 そのデュティユーに次いでは、児玉桃がソロを弾いたメシアンの作品。彼女のこの曲における演奏は、ヨーロッパのピアニストのそれに比べると穏健なものであるが、それがむしろメシアンの音楽の鋭角的な押し付けがましさを和らげてくれるのに役立っていたように、私には感じられるのである。
 さて、私の好きでたまらないフォーレの「ペレアス」・・・・だがこれは、何故かごつごつした感じの演奏だった。全部が全部、好みどおりには行かない。

7・11(日)スダーン指揮東京響のブルックナー「9番」+「テ・デウム」

    サントリーホール  6時

 ブルックナーの「交響曲第9番」と、その未完に終った第4楽章に替わるものとして「テ・デウム」を併せて演奏するというコンサートは――それが作曲者の「遺言」ではあっても――実際にはなかなか聴けない。
 それもあって、この演奏会に間に合うよう、午前中に帰国した次第。

 ユベール・スダーンの指揮するブルックナーの交響曲は、これまでにいくつも聴いて来た。
 彼は、ブルックナーの交響曲に、物々しい巨大さを求めることをしない。むしろオーケストラの壮大な響きの中心に存在する核というものを見据えて、全体の均衡を重視した音楽をつくる人だ。音色は滑らかだが造型は厳しく、低音はたっぷり鳴りながらも引き締まって剛直さを失わない。そして、東京交響楽団はいつもそれに完璧に応えているのであった。

 私はこの曲の第3楽章の最後、ヴァイオリンが8分音符で上下しながら終結へ向かって歩みを進めて行く個所がたまらなく好きだ。
 そこでは、シューベルトのあの「未完成交響曲」の第2楽章終結部と同様に、彼岸への指向、現世への別れ、無限の浄化、といった性格を感じないではいられない。つまり、その先にはもう何もあり得ないという音楽としか思えないのである。
 しかし、もしそのあとに何かが付け加えられるのであれば、指揮者が第3楽章のエンディングをどんなニュアンスで演奏するか、ということに興味が湧いて来る。そこで一応世界を完結させるか、それとも気分的な意味でのドミナント的性格を暗示して曲を結ぶか、である。

 「9番」と「テ・デウム」の有機的な結合をはかるために、今夜は休憩なしで、合唱も交響曲の最初からP席に板付きになっていた。独唱者のみ「テ・デウム」の前に入場するが、その際の拍手は控えて欲しい、という事前告知もあった。が、それらはあくまで形の上でのこと。
 実際に演奏された第3楽章の終結におけるスダーンの指揮は、テンポや表情などから、やはり明らかに第4楽章の存在を予感させての演奏だったように、私には感じられた。それはまさに適切な手法であり、筋が通っているだろう。

 もっとも難を言えば、第3楽章が終り、そこで独唱者とオルガン奏者が入場し、ちょっと間が空き、しかもチューニングが行なわれることになると、この2つの作品を真に有機的に関連させるという点では、やはり無理が感じられたのではあるまいか。
 この編成で、アタッカもしくはそれに近い形で「テ・デウム」に突入するという方法は、たしかに至難のわざであろう。が、ベートーヴェンの「第9」でのような、何か上手い工夫があればよかったのにと思う。

 その「テ・デウム」では、東響コーラスが、冒頭から壮大な重量感にあふれた合唱を爆発させ、聴き手に息を呑ませた。このコーラスの優秀さは20年以上も前から定評があるが、今夜も実に素晴しかった。特にソプラノは見事で、全曲の最後では圧倒的な最高音を決め、壮絶な締め括りを聴かせたのであった。まずはこの東響コーラス(安藤常光指揮)を讃えたい。
 独唱陣は澤畑恵美、小川明子、高橋淳、久保和範といった人々だったが、高橋はいかに名手とはいえ、残念ながらこの宗教声楽曲においては明らかに異質なスタイルであったと思われる。

7・9(金)旅行日記第3日 エクサン・プロヴァンス音楽祭
大野&ルパージュのストラヴィンスキー:「狐」「夜鶯」

   エクサン・プロヴァンス大劇場  8時

 ロベール・ルパージュ演出の華麗な、洒落たセンスの「夜鶯」を観て、昨夜の不機嫌も一気に吹き飛んだ感。これで、楽しい印象を持って帰れるだろう。

       DSC00005.jpg
       中央:夜鶯(オリガ・ペレチャトコ)
       右下:皇帝の人形とその歌手(イリヤ・バニク)

 何はともあれ、リヨン・オペラのオーケストラを率いて乗り込んだ大野和士が、ストラヴィンスキー・プロを指揮、大きな拍手とブラヴォーを浴びていたことを第一に挙げなくてはならない。オーケストラは――舞台上に配置されていたにもかかわらず――幻想的で華麗な衣装や人形芝居や影絵のため、引き立て役にまわってしまったと言えなくもないが、カーテンコールでの指揮者への拍手が歌手たちへのそれに劣らず大きかったのは、本当にうれしい。

 特にプログラム前半の「狐」など、やや抑制されてはいたが引き締まった演奏であった。4人の男声カルテットを見事にまとめ上げていたのも、当然、大野和士の功績である。「夜鶯」では、オーケストラの前に合唱団が並んだため、オケの音がややくぐもった印象はあったが、オペラとしての音楽全体は見事に構築されていた。これも、大野の手腕の為すところである。
 たった一夜ではあったが、彼のヨーロッパでの活躍の現場を垣間見られたことは幸いであった。

 前半は、珍しい作品ばかり。
 「3つのクラリネット・ソロのための小品」を1曲ずつ狂言回しのように使って、「プリバウトキ」「猫の子守歌」「バルモントの2つの詩」「4つのロシア農民の歌」が演奏された。スヴェトラーナ・シロワとエレーナ・セメノーワら、リヨン・オペラの女声コーラスなどがロシアの民族衣装を着て歌う。これに5人の影絵師たちが手を使って中央のスクリーンに映し出す影絵の、何と巧いこと、美しいこと。
 続いて「狐」が演奏され、エドガラス・モントヴィダスらがとてつもなく表情豊かで見事な男声カルテットを聴かせたが、ここでの動物の影絵は、スクリーンの背後で繰り広げられるダンスによって作られる。これも素晴しく見事だ。

 そして後半には、この日のアントレである「夜鶯(ロッシニョル=ナイチンゲール)」が上演されたわけだが、これがまた、目を奪うばかりの鮮やかな東洋風衣装に満ち溢れたものであった。
 物語は――中国の皇帝(イリヤ・バニク)の宮廷に迎えられた夜鶯(オリガ・ペレチャトコ、好演)は、美しい歌を歌って彼の心を慰めていたが、皇帝が日本の皇帝から贈られた機械仕掛けの鶯の――技術的には完璧に鳴くが心のこもっていない美声(!)に興味を移したのを見て自尊心を傷つけられ、黙って去って行く。だが皇帝は間もなく重病になり、死神に取り付かれた。その時、またあの美しい夜鶯が飛んで来て温かい声で歌い、死神を追い払い、皇帝の命を救う――というもの。

 基本は、人形浄瑠璃のスタイルを取り入れた芝居である。皇帝や漁師、料理番の娘など何人かの歌手たちが、自ら扮装をして人形を操りながら歌うという器用なところを見せていた。

      DSC00006.jpg
       日本の皇帝から贈られた機械仕掛けの鶯(中央)に満悦の中国皇帝(右)

 しかもこれらの芝居は、オケ・ピットに当る部分に設置された巨大なプール(水槽)の中で行なわれるのである。プールの中を歌手が歌いながら、人形を乗せた舟を押したりして進む。やる方も大変だろう。黒子も水中からいろいろ操作をする。最前列の客は、一度か二度は、水をひっかけられたのではなかろうか。
 日本からの3人の使節(人形)は舟に乗ってやって来るが、舟を押しながら歌う実物3人がまるで山伏か山賊みたいなメイクと衣装を付けているのは可笑しかった。
 夜鶯は地上で歌うが、その象徴たる小さな鳥は、背後から黒子が操る黒い竿と糸で、空中を軽やかに舞う。

    DSC00007.jpg
    水中から現われる死神 プールの中から黒子が手足を操作している
    これはリハーサル中の写真。本番では背後にオーケストラが並ぶ

 45分があっという間に過ぎ去る実に楽しい舞台で、ロベール・ルパージュの演出の洗練された感覚を示すものだろう。もちろんバレエの振付や舞台装置、衣装デザイン担当など、何人ものスタッフの力が結集したものであることは疑うべくもない。

 翌日空港で会った知人から聞いた話だが、これは大野がモネ時代から構想をあたため、リヨン・オペラに移ってから一気に実現させた企画なのだそうである。そうだとすれば、大野のプロデューサーとしての力量が存分に発揮されたことになろう。日本で上演されたなら、観客を沸かせること間違いなしだ。
 このプロダクションには、カナダ・オペラ、リヨン・オペラ、ネーデルランド・オペラなどが共同制作として名を連ねていた。

※写真はエクサン・プロヴァンス音楽祭提供 Copyright Elisabeth Carecchio

7・8(木)旅行日記第2日 エクサン・プロヴァンス音楽祭
グルック:「アルセスト」(アルチェステ)

   アルシェヴェーシェ劇場  夜10時

 昨日今日と、連日雲一つない快晴。紺碧の空と爽やかな大気が快い。もっともそれは朝のうちだけで、日中は目も眩むような陽光、モワッとする猛暑。風の一つも吹いて欲しいものだが――。

 グルックのオペラ「アルチェステ」は、今回は所謂1776年パリ版による上演ゆえ、「アルセスト」(トはテに近い)と表記しておいた方が良いか。

 重病の国王アドメートの命は旦夕に迫っている。妻アルセストは、アポロンの神託に従い、自らの命を差し出して夫を救った。回復したアドメートはそれを知って激しく悲しみ、彼女の後を追って地獄へ向かう。しかし結局、2人は友人エルキュール(ヘラクレス)と神アポロンに救われ、めでたく地上に戻る。

 たったこれだけの、実に簡単明瞭なストーリーだが、これが3時間にわたるオペラになる。音楽は、主役たちのソロと合唱(群集、国民、夫妻の子供たち)とで構成され、要所にバレエやパントマイムの音楽が組み合わされる。オーケストラは「トーリドのイフィジェニー」のような劇的な激しさはないけれども、すべての歌を包み込んでリードして行くスケールの大きさと雄弁さとを備え、有名な「グルックのオペラ改革」と呼ばれるにふさわしい高貴な性格を有している。

 こうした構成のオペラ、しかもグルック特有のスタティックな――動きがないという意味ではなく、巨大なギリシャ建築のように揺るぎのない風格にあふれているという意味である――音楽を舞台に具現させるというのは、なかなかに至難の業であろう。
 今回の演出家クリストフ・ロイは、アドメートとアルセステがオペラの中で2、3度口にする「私たちの子供たち」という歌詞に着目したのか、オペラの舞台を学校に設定した。
 したがって、病気の国王は校長先生、アルセストはその校長夫人、司祭は教頭――十字架と聖書を持って威張っているから神学の主任教師か――となり、国民たちは学校の生徒たちというわけだ。
   
DSC10004.jpg
     Copyright Pascal Victor/Artcomart


 しかしまあ、この舞台の、何という策の無さか。
 子供たち(イングリッシュ・ヴォイセズという合唱団の大人たちが演じている)が先生の病気を悲しみ、時にヒステリーを起こして暴力を振るう一方、先生の目を盗んで悪戯をし、喧嘩をし、叱られ、また殊勝な態度に戻るという、要するにその繰り返しが、第1幕と第2幕連続の合計1時間50分、延々と続くだけなのだ。何と単調で、平坦で、アイディアに乏しい、つまらない舞台であることか。これなら、いっそ目を閉じて、グルックの素晴しい音楽だけに浸っていた方が、どれだけ幸せかわからない。

 休憩30分ののち、第3幕がまた同じような光景で始まった時には、他に方法は何か無いのですかロイさん――と言いたい気持にもなったが、ここに少しイカレたエルキュール(旅行カバンに生徒たちへの土産を詰め込んだ変な軽い男だ)が登場して、少し気分が変わる。
 そして最後は校内の学芸会のパロディみたいになり、よくわからないけれども学校破壊ということになるらしいのだが、もうそのへんになると演出意図の斟酌などどうでもいいような気分に陥ってしまい、上演が終るや、早々に席を立ったという次第であった。こんな酷い舞台を見たのは久しぶりである。
 最後まで気持を保たせたのは、ひとえにグルックの音楽の良さと、アイヴォー・ボルトンが指揮するフライブルク・バロック管弦楽団の演奏の素晴しさゆえにほかならない。

 そのボルトンの指揮は、例によって鮮やかそのものだ。
 彼の指揮は、10年ほど前にザルツブルク音楽祭で「トーリドのイフィジェニー」を聴いてからファンになっているのだが、非常に切れ味が鋭く、しかも無機的にならずに、ドラマティックな起伏を巧く創る人である。今夜の指揮でも弦楽器に厚い響きを生み出させ、音楽の緊張感を絶やすことなく長丁場を進行させて行った。
 フライブルク・バロック管弦楽団の演奏も昨夜とは大分趣が異なり、極めて密度が濃い。それは、モーツァルトの非常に細かいニュアンスの交錯する音楽と違い、グルックのそれが大河の流れのような落ち着きに富んでいるせいもあるだろう。とにかくこの演奏を聴けただけで、今夜の惨憺たる舞台の埋め合わせとしては充分以上のものがある。

 歌手陣は、ほとんど全曲出ずっぱりでアルセストを歌ったヴェロニク・ジャンスが殊勲賞もの。声も爽やかだし、容姿も清楚である。アドメート役のヨーゼフ・カイザーもよく伸びる声と安定性で、立派なものだ。その他の歌手たちは、私には全く馴染みのない人ばかりだったが、さりとてそれほど光った存在もなかったようである。

 終演(演奏終了)は午前1時。外はまだ蒸し暑い。泊まっているアクアベッラというホテルが、劇場からわずか2、3分の距離にあるというのは、こういうオペラを見た後には非常にありがたく感じられるものだ。

7・7(水)旅行日記初日 エクサン・プロヴァンス音楽祭
モーツァルト:「ドン・ジョヴァンニ」

   アルシェヴェーシェ劇場  夜9時30分開演

 取材初日は、半野外のアルシェヴェーシェ劇場(大司教館劇場)におけるモーツァルトの「ドン・ジョヴァンニ」。遅い開演時間は野外劇場なるがゆえの照明効果などのためであると昨年教えられた。夜の9時半になっても、まだ空は明るいのである。

 演出はディミトリ・チェルニャコフ、指揮はルイ・ラングレ。この新制作プロダクションは、マドリードのレアル劇場、トロントのカナダ・オペラ・カンパニー、モスクワ・ボリショイ劇場との共同制作なる由。

 最近注目されている若手演出家チェルニャコフは、ボリショイ劇場が昨年日本に持って来た「エフゲニー・オネーギン」や、数年前のマリインスキー劇場での「皇帝に捧げし命」などではピリリと利いた面白いセンスを示していたが、その一方、ベルリンの「ボリス・ゴドゥノフ」などでは「やりたい放題」をやっていた人でもある。
 今回もあれこれやるだろうとは思っていたが、案の定。人物相関関係を大幅に読み替えて、非常に変わった「ドン・ジョヴァンニ」を創り上げた。

 開演前の幕に、登場人物の相関関係の説明が映写される。
 騎士長(アナートリ・コチェルガ)は家長、その娘ドンナ・アンナ(マルリス・ペーターセン)の「新しい」婚約者がドン・オッターヴィオ(コリン・バルツァー)。
 ツェルリーナ(ケルスティン・アヴェモ)は、何とドンナ・アンナの娘(ただし父親は謎)で、マゼット(ダヴィッド・ビジッチ)はその婚約者。
 ドンナ・エルヴィラ(クリスティーヌ・オポレス)は、ドンナ・アンナの従姉妹(!)で、ドン・ジョヴァンニ(ボー・スコウフス)の妻。レポレッロ(カイル・ケテルセン)は騎士長家住み込みの青年。 
――という、一部は奇抜な読み替え設定である。

 場面は一貫して、騎士長の邸宅の書斎兼居間のような部屋で展開する。
 序曲冒頭では、この一族全員が睦まじく食卓を囲んでいる光景が現われるが、ただちに幕が降り、それ以降は場面ごとに「その1日後」「1ヵ月半後」「2週間後」「3週間後」といった文字が、その都度降りた幕に投映されながらドラマが進む。

DSC10002.jpg
 中央:ツェルリーナ、右端:ドン・ジョヴァンニ
(写真提供 エクサン・プロヴァンス音楽祭)


 登場人物たちは、従って物語の冒頭から全員が知己関係にある。これをどう原作と辻褄を合わせるかが演出家のアイディア勝負だろう。チェルニャコフはそのへんは抜かりなく、よくもこういろいろなことを思いつくものだと感心させるほど、手を変え品を変えして説明して行く。

 この演出によれば、アンナがジョヴァンニへの復讐をオッターヴィオに頼むのは、不倫の相手だったジョヴァンニに裏切られた腹いせからである。また第1幕フィナーレでツェルリーナがジョヴァンニ非難の先鋒となるのも、一時は夢中になった相手ジョヴァンニが、仮面舞踏のさなかに母親アンナとキスをしていたのを目撃したからである。これらは、容易く辻褄が合うだろう。
 ジョヴァンニとエルヴィラとの「再会の場」は、彼女のアリアの間はお互いの皮肉な笑いを浮かべながらの冗談とイヤミの応酬として描かれるが、レチタティーヴォに入るやエルヴィラが堪忍袋の緒を切るといった具合。これも、なるほど、そうも解釈できるかな、という感だ。

 このジョヴァンニがまた、単なる豪放な女たらしという性格から程遠いのが面白い。
 「妻の従姉妹の父親」である老騎士長は、ジョヴァンニとのもみ合いの最中に、本箱に後頭部を打ちつけて不慮の死を遂げる。ジョヴァンニは、おのれの仕業に困惑の体。これが彼のトラウマとなる。彼はしばしば書斎に出入りする騎士長の幻影を見ては「鬱状態」に陥り、それを無理に笑ってはしゃぎ回ることで、紛らわそうとする。

 「墓場の場面」は、書斎でジョヴァンニがレポレッロを強要して騒ぎ立てる冗談として描かれる。このあたりからジョヴァンニはすでに重度の躁鬱症か、あるいは持病の心臓疾患(?)の悪化に悩まされているらしい。
 ラストシーン、「一族を招いてのパーティ」では、示し合わせた一族の作戦により「老騎士長の替え玉」を見せられ、威嚇されたジョヴァンニは衝撃に耐えられず倒れる。彼は、死にはしない。しかし、一族に見捨てられ、エルヴィラにも愛想をつかされ、孤独に取り残されるのであった――。

 この最後のジョヴァンニへの「天誅」を演出するリーダーが、オリジナルでは「能無し男」のドン・オッターヴィオだった――というのが一つの趣向。
 あの頼りない、優柔不断の男が、今や毅然として一同を仕切り、替え玉騎士長と打合せをしたり、大芝居の合図を送ったり、未練がましいエルヴィラを厳然と制止したりするのである。なかなか面白い性格設定だ。
 しかも一般の演出とは違って、オッターヴィオには救いが与えられており――それに先立つドンナ・アンナの「ひどい人ですって? いいえ、あなた」のアリアは、彼女との和解の場面となる。しかもそこは、ツェルリーナも恋人マゼットや母アンナと和解し、「未来の父親」オッターヴィオとも抱擁する場面としてもつくられているのであった。これで自信をつけた彼が、前述のように「リーダー」になるというわけだろう。
 このあたりが、チェルニャコフの新機軸というべきか。

 かように、かなり手の混んだ芝居ではある。
 笑うか、腹を立てるか。私は前者であった。もちろん強引なこじつけはあるが、よく丁寧に創ってあって、隙のない舞台になっているところは買えるであろう。
 ただし、舞台としての風格には乏しく、小細工が目につき過ぎるきらいがなくもない。そのへんが若い演出家の気負いというものだろう。多分チェルニャコフは、そう遠くない時期に、それを克服できる力を持っている人だろうと思う。

 演出のことばかりに文字を費やしたが、もちろん大切なのは、第一に音楽だ。
 ルイ・ラングレが指揮したのは、フライブルク・バロック管弦楽団だった。ピリオド楽器特有の音色が、今回はとりわけ鋭く、耳につく。針金のような弦楽器の響きを長時間聴いていると、些か疲れて来る。それに、アンサンブルがかなり雑に聞こえるのが、この種のオケの悪いところだろう。
 しかし、管楽器の音色には妙なるものもある。特にホルンの強烈な響きは、ドンナ・アンナがオッターヴィオに「あの夜の出来事」を誇張して語る場面での、息詰まるような緊張感を描き出して見事なものがあった。
 ラングレの指揮も、演出の都合でいくつかの場面ごとに演奏を停めなければならないという制約があったにしても、歯切れのいいリズムでたたみ込む面白さは充分にある。

 歌手は、こういう演出だと、まずは演技に重点が移ってしまうから、そこそこ安定して歌えていれば充分――という印象に、聴き手もなってしまうだろう。まあ、たしかに、アンナのペーターセンを除けば――この人、今注目の存在なのだが、なぜか今夜は音程もリズムも雑だった――みんなよく歌っていた。ボー・スコウフスは「躁鬱のジョヴァンニ」を歌って損な役回りだったと思うが、肝心な個所ではちゃんと締めていた。

 30分の休憩1回を挟み、終演は午前1時10分。
 客は急ぐでもなく、カーテンコールの終わりまで熱心に拍手をして、お喋りをしながらゆっくりと、のろのろと出口へ向かう。避暑地の音楽祭はかくありなん、という光景だが、このテンポにはとても付き合いきれない。

7・3(土)ブルーノ=レオナルド・ゲルバー
ベートーヴェン:ピアノ協奏曲全曲演奏会(第2回)

   すみだトリフォニーホール  6時

 第2回。「第2番変ロ長調」で開始し、休憩なしにすぐ続いて「第3番ハ短調」を演奏するという凄いエネルギー。休憩後が「第4番ト長調」だった。

 ゲルバーの演奏、昨日よりも更に気合充分、好調だ。
 何といっても圧巻は「第3番」であったろう。
 久しぶりに、いわゆる「英雄的な」ベートーヴェンに出会ったような気がする。毅然として雄大な気宇の演奏で、がっちりと組み立てた骨格の音楽に、得意の強靭なアクセントを随所に施して聴き手をびりびりと震撼させる。第1楽章のカデンツァなど、その豪壮な緊張感は、まさにゲルバーの真骨頂であろう。緩徐楽章での沈潜した深みも見事だ。
 重厚ではあるけれども、決して重ったるい演奏ではなく、むしろ音色は輝かしく、しかも明晰そのものである。こういう正面切った壮大なベートーヴェンの演奏スタイルを聴く機会が最近著しく減っているだけに、なにか久しぶりに昂揚するような気持を味わった次第であった。

 この「第3番」のあとでの「第4番」にはどのようなアプローチが為されるだろう、といっそう興味が湧いたが、これも同じ流れにある、ヒロイックなスタイルであった。ラルゴといってもいいほど抑制された深みのあるテンポで演奏された第2楽章を挟み、両端楽章のスケールは大きく、カデンツァでの滔々たる力も圧倒的だ。
 かようにブリリアントで、しかも重量感のあるベートーヴェンのピアノ協奏曲というのは、実に好いものである。

 大山平一郎が指揮する新日本フィルの演奏も、昨日とは格段の違い。
 「第3番」の冒頭まではそれほどの閃きは感じられなかったが、ゲルバーのソロが鮮烈な凄味を以て入ってきた瞬間から、すべてが一変したという様相。オケの音は俄然引き締まり、どっしりとした風格でソロと対峙する。
 大山の音がやっと蘇った――ということも言えようが、指揮者とオケの呼吸がやっと合って来たせいもあろうし、オケがやっと本気になったということなのかもしれぬ。
 もう一つ、作品の性格にも関係するだろう。ベートーヴェンの5曲のピアノ協奏曲の中で、唯一、古典的なイン・テンポを守り抜ける曲が、この「第3番」であるということも。

 というわけで、「第3番」での演奏はきわめて立派だったし、「第4番」フィナーレ最後の「決め」も力感と激しさにあふれて素晴しいものだった。
 ただし、ホルンだけは昨日と同様、どうしちゃったのかと思えるほど不可ない。1回や2回なら誰でもミスはあるものだが、2日間続けてこの状態では、新日本フィルともあろうものがなさけない限りだ。

 客の入りは2日間ともあまり良くなかったが、最後の「第4番」が終った後は、聴衆の多くがスタンディング・オヴェーション。

7・2(金)ブルーノ=レオナルド・ゲルバー
ベートーヴェン:ピアノ協奏曲全曲演奏会

   すみだトリフォニーホール  7時

 2日間にわたるベートーヴェンのピアノ協奏曲全曲演奏会。今日は第1回として、第1番ハ長調と、第5番変ホ長調「皇帝」。協演は大山平一郎指揮新日本フィル。

 ゲルバーの初来日は、もう42年も前になる。あの頃は、凄い人気だった。読売日響と協演して「皇帝」を弾いた。その時の指揮者はだれあろう、これも初来日のギュンター・ヴァントだった。だが彼のことは当時の日本ではほとんど知られていなかったので、話題はもっぱらゲルバーに集まっていた――。

 だからゲルバーも今年69歳になるはずだが、客席からは、――弾いている時はもちろんだが、歩いている時も――顔の色艶は昔と全く換わらないように見える。若々しい。
 あの強靭そのものといった打鍵も、昔ながらの迫力だ。特に「皇帝」では、ホールを震わせるような強烈なフォルティシモのアクセントが随所に織り込まれ、作品のリズム感をいっそう強調する。
 音楽を豪壮に展開させるという点では、ゲルバーの力は昔と少しも変わらないし、しかも年輪に応じた味のある語り口が増しているともいえるだろう。

 ただ、弱音の個所で、時たま不思議に乾いた表情が現われる(たとえば第1楽章第2主題)ことと、速い技巧的なパッセージにしばしば不安定な演奏が聞かれるようになってきたのが、私にはえらく気になるのだが。
 もっともこれは、指揮者およびオーケストラとの呼吸が合っているかどうかということにも、いくらか関係するかもしれない。

 というのは、総じて最近のゲルバーの演奏には、テンポとリズムを細かく揺らせ、時にルバートをも活用する自在さ――もしくは不安定な気紛れ――がいよいよ強く聞き取れるようになっているのだが、それが指揮者の几帳面なテンポと全く合わず、「ずれ」として目立ってしまうのである。
 大山平一郎の指揮は以前から非常に味があって私は好きだし、ベートーヴェンのピアノ協奏曲も園田高弘との毅然たる演奏の録音が残されているのを知っている。今夜もスコアの骨組をしっかりと掴む指揮をしていたのは理解できるし、それはそれでいいのだが、いかんせんソリストとは――精神的なものは別として――水と油なのか。

 それに新日本フィルの演奏も、今夜は「お座敷」だからか、あまり褒められたものではない。指揮者ともあまりイキが合っているとは思えないが、そのせいでもなかろう。特にホルンの頼りなさと、一部の木管の粗さ。先日某雑誌の「世界のオーケストラ・ベスト10」に新日本フィルを投票した私としては、些か中っ腹だ。
 それに弦の編成が12型というのも、「1番」ではともかく、「皇帝」ではスケール感不足ではなかろうか。ピリオド楽器スタイルなら別だが、こういうタイプの演奏の場合には。

«  | HOME |  »

Since
September 13, 2007

これまでの来訪者数

最近の記事

カテゴリー

全記事表示

全ての記事を表示する

RSSフィード

ブログ内検索

プロフィール

リンク

News   

雑誌 モーストリー・クラシック に連載中
「東条碩夫の音楽巡礼記」