2017-03

5・31(月)エサ=ペッカ・サロネン指揮フィルハーモニア管弦楽団

   サントリーホール  7時

 サロネン、指揮ぶりも音楽も、相変わらず若々しい。未だ52歳に1ヶ月足りないトシだから、当然ではあるが。今回はフィルハーモニア管を率い、その首席指揮者として来日。演奏終了後には聴衆から盛大なソロ・カーテンコールを受けていた。

 プログラムの最初は、ムソルグスキーの「禿山の一夜」の原典版。
 この曲の場合、どれを原典版と称するかは甚だ複雑な問題になるが、要するに今日演奏されたのは「禿山の聖ヨハネ祭の夜」という版である。
 苦笑させられるくらいガシャガシャとした雑然たる構成で、主題をどう展開させたいのか、曲をどう持って行ってどう終らせようとしているのか、皆目見当がつかない曲だ。一般に演奏されるリムスキー=コルサコフの編曲版が、いかに要領を得てまとまりが良いことか。それを再認識させるこの「原典版」である。

 しかし、そのあとに演奏されたバルトークの「中国の不思議な役人」(組曲版)と組み合わせて聴いてみると、ムソルグスキーのこの粗暴なエネルギーにあふれた音楽が、60年後に書かれたバルトークのこの作品における原始主義を見事に先取りしているように感じられるから面白い。
 おそらくサロネンも、それを浮彫りにする狙いでこのプログラミングを行なったのであろう。このアイディアは、素晴しい。
 この2曲における演奏は、極度に速いテンポの、アンサンブルの細部になどこだわらず、ひたすらエネルギー性を追求して驀進する猛烈なものであった。

 プログラム後半は、ベルリオーズの「幻想交響曲」。
 ここで初めて、サロネンらしい透徹した音色が姿を現わす。前半2曲の喧騒が遠い昔のことのように感じられる静寂と清澄さが、開始後しばらくは続く。速いテンポの個所では極度に速いが、第1楽章序奏および第3楽章のような遅い部分では極端に遅いテンポを採るのが、今のサロネンだ。
 だが「断頭台への行進」や「悪魔の祝日の夜の夢」などで、金管の荒々しいモティーフを突出させてデュナーミクの対比を強調させるサロネンの解釈は、この「幻想交響曲」がやはり超弩級の革命的作品であったことを思い出させるだろう。

 第2楽章でコルネットのパートを復活させ、トランペットに吹かせるのはそれほど珍しいことではないが、それを吹く奏者がその時だけ席を移動する、というのが面白かった。
 フィルハーモニア管は、引き締まって演奏すると流石に巧い。ただ一つ、鐘(舞台袖裏)は、いくらなんでも、もう少し丁寧に叩いてもらいたいものである。
 アンコールは、シベリウスの「悲しきワルツ」と、ワーグナーの「ローエングリン」第3幕前奏曲。

5・30(日)ユベール・スダーンと東響のシューベルト「ザ・グレイト」

  ミューザ川崎シンフォニーホール  2時

 東響の「川崎名曲全集」の一環。

 昨年から今年春にかけて行なわれたスダーンと東響の「シューベルト交響曲ツィクルス」は、私がこれまで聴いた東京交響楽団の演奏の中でも一、二を争う名演だと思っているのだが、あの中には「ザ・グレイト」が入っていなかった。ツィクルスに先立つ別の機会に演奏したから、という理由だったけれど、私はそれを聞き逃していたので、今回のコンサートには早くから目をつけていたのである。

 演奏は、予想を裏切らない出来であった。
 スダーンのアプローチは、他の7つの交響曲と全く軌を一にするもので、彼独特の剛直な響きと翳りのある音色のうちに、スコアの隅々にまで神経を行き届かせた精妙な音楽づくりである。シューベルトの音楽のロマン的な面を排し――「未完成」や「ザ・グレイト」においても――むしろ古典的な、毅然たる造型を求めたタイプの演奏といえよう。

 テンポには殊更な作為も誇張もないので、全体はイン・テンポの演奏という印象が強いが、音のつくりが綿密なので、単調になることは全くない。
 第2楽章の、あの有名なホルンと弦との秘めやかな対話など、スダーンはすべてをイン・テンポで押し通す。それは、いわゆる「彼岸的」な神秘からは程遠いイメージともいえるが、しかしイン・テンポの演奏が陥りがちな素っ気なさや、無造作な感じなどは、ここには一切無い。非常に自然な流れのテンポの、丁寧なつくりの音楽である。
 第3楽章のトリオ冒頭で、ホルンを含む管楽器のリズムに揺れるような強弱の起伏をつけたり、第4楽章第2主題の中での低音のチェロとコントラバスのリズミカルなピチカートを心持ちクレッシェンドさせたりという趣向も、自然な感興を呼ぶものだろう。

 なお弦は14-12-10-8-8という編成であり、コントラバスが1プルト増やされていたが、これも全体の響きに重心豊かな、剛毅な安定感がつくり出されていた理由の一つであろう。

 東響は、ホルンの重奏部分が常になく粗っぽかったこと(第1楽章冒頭や、第2楽章の前述の弦との対話個所での4分音符――ここは一番大切な美しいところだったのに!)を除けば、いつものスダーン色に染められた快演だった。特に、この曲では活躍の場が多いオーボエの荒絵理子のソロが映えていた。

 プログラムの前半では、同じシューベルトの第4交響曲「悲劇的」が演奏された。これは、ツィクルスでも聴いたものだ。もちろん今日は、演奏の内容から言っても、決して「付け足し」の役割ではなかったのである。

5・29(土)アントネッロ 「ラス・フォリアス!」

  東京文化会館小ホール  7時

 横浜から東海道線に乗り、東京駅で山手線に乗り換えて上野で降り、目の前の東京文化会館小ホールへ駆け込む。
 1日のトリプル・ヘッダーというのは、ザルツブルク音楽祭や「ラ・フォル・ジュルネ」でも経験済みだが、あれはあくまで同一または近接した会場でのこと。今日のように、川崎――横浜――上野などと、一つのコンサートごとに電車で30分以上も移動してのハシゴは、やはりヘビーだ。

 そんなわけで、前半だけ聴いて失礼してしまったが、しかしこの「アントネッロ」は、いつに変わらぬ魅力的な音楽を放射してくれる。この不思議な音響の世界は、一度聴いたら魔酒(麻薬?)のごとく、こちらの感覚をとりこにしてしまう。
 おなじみ濱田芳通(リコーダー、コルネット)、西山まりえ(バロック・ハープ、カスタネット)、石川かおり(ヴィオラ・ダ・ガンバ)のほか、今夜は彌勒忠と島田道生のテナー、矢野薫のチェンバロ、わだみつひろのパーカッションが加わっての「ラス・フォリアス!~17世紀スペインの音楽」というプログラム。
 「ザ・南蛮 大航海時代 海を渡る西洋音楽」というシリーズの第1回であった。

 聴き慣れたいつものアントネッロと今夜は少し違って、何かサウンドにまとまりが不足するような気もしないでもなかったが、おそらくそれはこちらの体力ゆえの錯覚だろう。

5・29(土)神奈川フィル創立40周年記念演奏会 マーラー「復活」

  神奈川県民ホール大ホール  3時

 川崎から東海道線で横浜へ向かい、みなとみらい線に乗り換え、元町中華街駅で下車。

 今日は神奈川フィルハーモニー管弦楽団の創立40周年記念――1970年にロリエ管弦楽団として発足、翌年神奈川フィルと改称された――の大イベントだ。常任の金聖響がマーラーの第2交響曲「復活」を指揮、神奈川フィル合唱団と、澤畑恵美(ソプラノ)、竹本節子(メゾ・ソプラノ)が協演。これは金聖響と神奈川フィルがこの4月から開始した「マーラー交響曲シリーズ」の一環でもある。
 第1回の「3番」はスケジュールが合わず聴き損なったため、この「2番」を注目していたところだ。

 節目の演奏会にふさわしく、総力を挙げての渾身の演奏が展開されたのは喜ばしい。指揮者とオーケストラの呼吸も合って来たのだろうが、神奈川フィルの音色も、演奏の雰囲気も、以前のそれらに比して随分明るくなったという印象である。
 とりわけ金管――トランペット・セクションには輝きが増したように感じられるし、ホルン・セクションも、打楽器陣も、すこぶる活気に富んだ演奏を披露してくれた。これで弦楽器群がもう少し力強く厚みを出して鳴ってくれれば文句ないのだけれども。

 演奏会終了後、ロビーでの「打ち上げ」で、ある人が「この湿気の凄さでは、弦は気の毒ですね」と言っていた。たしかに、海ぎわの山下公園を前にしたこのホールでは、ロビーにいてさえも湿度を感じてしまうほどである。
 それにまた、久しぶりに1階席真ん中でオーケストラを聴いてみて、ここはやはり音が相当拡散してしまい、フォーカスが定まらぬホールだということを改めて感じてしまった。もし今日の演奏をみなとみらいホールかミューザ川崎で聴いたなら、またかなり異なった印象を得たのではないかと思われるが・・・・。

5・29(土)スダーン&東響の「モーツァルト・マチネ」第1回

  ミューザ川崎シンフォニーホール  11時

 ザルツブルクの「MOZART MATINEEN」に倣って始められた、土曜日午前11時からのモーツァルト・プログラムによるコンサート。
 年4回のシリーズで、すべてユベール・スダーン(かつてザルツブルク・モーツァルテウム管弦楽団首席指揮者でもあった)が指揮する。
 ただしオーケストラの名称は、東京交響楽団でなく、「Tokyo Symphony モーツァルト・プレーヤーズ」だそうな。何だか解らないけれど、ややこしい話だ。

 第1回は、交響曲第1番、オーボエ協奏曲(ソロは首席オーボエの荒絵理子)、交響曲第36番「リンツ」というプログラム。休憩なし、1時間ちょっとの長さというのが、昼飯前(?)のコンサートとしては手頃である。
 演奏はいかにもスダーンらしく、アクセントの強いメリハリ豊かなモーツァルトだ。「リンツ」でのクライマックスへの追い込みなど、聴き応えがあった。8型の小編成。
 客席は、オーケストラの後方席と両側の席、および最上階全部をクローズしてのものだったが、客を入れたブロックはほぼ満杯で、1100人ほど入ったそうである。滑り出しとしては上々だろう。次回は7月24日の由。

5・27(木)下野竜也指揮NHK交響楽団 定期公演

  サントリーホール  7時

 ボッケリーニ~ベリオの「マドリードの夜の帰営ラッパ」、ベートーヴェンのピアノ協奏曲第3番(ソロはダヴィッド・フレイ)、バーバーの「弦楽のためのアダージョ」、ブリテンの「シンフォニア・ダ・レクィエム」という、日頃保守的なN響にしては比較的珍しいプログラミングだ。
 「保守的な好みの高齢者客層」が多いN響定期では、「ちょっと現代的な曲をやると客がガタッと減る」のだそうな。だが、音楽界の発展のためには、やはりこのように少しずつ手をつけて行かなくてはなるまい。今夜だって、客席の反応は――まあ、静かな雰囲気ではあったが――決して悪くなかった。

 若手の筆頭格ともいうべき下野竜也が、本当にいい指揮をしてくれた。
 彼のN響への客演はこれが3度目になるらしいが、以前の定期でのような鯱張った遠慮のカタマリみたいな雰囲気も今や霧消し、堂々とN響を振る。音の響きのつくり方、起伏のつくり方も、極めてニュアンスが細かく、こちらをハッとさせるほど表情に富んだ音楽を聴かせてくれる。

 しかもN響が、また実に巧い。ベートーヴェンでのデュナーミクの多彩な変化といい、バーバーでのミステリアスな柔らかい音色といい、ブリテンでの明晰さといい――。
 優秀なオーケストラが本気で取り組めば、このような演奏を可能にもするのだという見本だが、それが「若手指揮者を相手に」やった演奏だというところが、日頃のN響の演奏を知る私にはひどく面白いことに感じられたのであった。

 このベートーヴェンの協奏曲を弾いたピアニストは、ダヴィッド・フレイ。シンの強い繊細さとでもいうか、きらきら輝きながら沈潜して行く音の流れの美しさは、素晴しい魅力である。
 第1楽章などアレグロ・コン・ブリオの指定からは遠く、あたかもアレグレット・トランクイーロともいうべきテンポとデュナーミクとエスプレッシーヴォの演奏だったが、これに下野とN響が絶妙につけて行ったことは前述の通り。

 冒頭に演奏されたベリオは、面白い。1977年に来日したハイティンクとコンセルトヘボウ管がアンコールでこれを演奏した時のことを、今でも鮮明に覚えている。
 私はそれをFM放送のためにライヴ録音していたのだが、事前に何も情報がなかったので、この曲のクライマックスでの音量にはびっくりしたものだ。
 演奏会終了後、舞台に行って楽員の譜面を覗き込み、あのメロディを口笛で吹いていたら、ステマネらしいのがニコニコしながら「気に入ったか?」と話しかけて来たっけ。

 「マドリードの・・・・」の主題そのものはシンプルだが、ベリオのオーケストレーションは実に複雑多様で、どの声部を浮かび上がらせるかによって、曲の様相はガラリと変わってしまう。ハイティンクとコンセルトヘボウの演奏は、実に巧かった。その後何度かナマや録音で聴く機会があったが、たいていは雑然たる演奏になっていて、落胆させられたものである。
 その点、今夜の下野=N響の演奏は非常に良くまとまった部類に属するもので、下野のセンスはさすがと言いたいほどであった。これでなお、旋律的な要素がもう少し強く浮彫りにされていれば、より親しみやすい曲に感じられただろう。最後の部分など、弦楽器群の主題旋律をもう少し明確に聴かせてくれれば、多くのお客さんが帰りがけに鼻歌なり口笛なりで口ずさめたかもしれない(?)。

5・26(水)新国立劇場 R・シュトラウス:「影のない女」

  新国立劇場  6時

 故・若杉弘芸術監督の企画で、本来なら彼が指揮をする公演であった。R・シュトラウスこそ最も得意のレパートリーと自他共に許した人だ。振りたかったであろう。

 代わりに迎えられたエーリッヒ・ヴェヒターという人は、しかしなかなか面白い音楽をつくる指揮者だ。この数年来、デトモルト州立歌劇場の音楽監督に在任中とのことである。少しぶっきらぼうな指揮だが、モティーフの描き出し方は明快だし、骨太なタッチでドラマティックに豪快なダイナミズムを発揮する。

 ピットに入った東京交響楽団がよくこれに応えており――個々のソロには多少疑問もなくはないが――叙情的な個所では透徹した音色を創り上げる一方、カイコバートの動機などの不気味な個所では、轟くような低音をたたきつけた。
 この、R・シュトラウスのオペラとしては「エレクトラ」に匹敵する豪壮な曲想を、手際の良い均衡を以て再現したという意味で、ヴェヒターと東響は、実によくやったと思う。

 主役歌手陣の外国人勢は、極めてパワフルだ。皇帝のミヒャエル・バーバ、皇后のエミリー・マギー、乳母のジェーン・ヘンシェル、バラクのラルフ・ルーカス、バラクの妻のステファニー・フリーデ、いずれも劇的表現に秀でた歌唱と演技である。
 どちらかといえば女性陣が強い。声の峠は越したが相変わらず巧味のあるヘンシェルを軸に、マギーとフリーデがそれぞれ対峙して張り合った。

 最後の4重唱では声が拡散してしまい、オケに打ち消される傾向があったが、これは歌手たちが反響版のない、後方が広い舞台裏の空間になっている場所で歌わされていたためである。若杉弘が健在だったら、演出家に注文をつけて、絶対そのような位置では歌わせなかったであろうに――。

 その演出は、ドニ・クリエフ Denis Krief。
 みなさん絶賛しているようだが、私はどうもあまり賛同できない。観たところ彼の演出アイディアは、バラクの妻をヒロインとして浮彫りにした上で、夫バラク以外のすべての存在は単に彼女の欲求不満の感情から生み出された幻想に過ぎない――という設定で描くことにあるらしい。
 それ自体は非常に面白い発想ではあるが、実際の舞台はなかなかそのとおりには進まないようである。

 たとえば、バラクの家で起こるさまざまな怪奇現象――オリジナルでは、冥界の王カイコバートの意を体した乳母の魔力がそれを作り出すことになっているのだが、それをすべてバラクの妻の幻想と解釈させるのであれば、もっとそれを納得させるような演出が必要ではないか。第2幕の幕切れにおけるバラク家の瓦解の場面など、もしそれを単なる幻想として扱うなら、最後に独り大見得を切る乳母の役割は、ひどく曖昧になってしまう。

 しかも全曲大詰め、皇帝と皇后およびバラクとその妻がそれぞれ愛を取り戻す場面で、それまでバラバラだった壁が合体してバラクのマイホームとなり、その屋外で子供がジャンケンをして遊んでいる光景が出現するのは、なにか超自然的な心理物語がいっぺんにホームドラマと化してしまったような印象を与えるのだが、このホフマンスタールの台本は、そんな単純なお話なのであろうか?

 字幕も、少し解りにくい。簡略化するのはいいが、ドラマ全体を俯瞰するニュアンスで訳文を組み立ててくれないと、初めてこのオペラを観る人は、その言葉が物語全体の中でどのような意味を持っているのか、ピンと来ないのではないか。
 たとえば、ドラマの大転回のシーン、「飲めばバラクの妻の影を奪うことが出来、子供を生むことが出来る魔力を持つ黄金の水」を前に、他人の愛を奪うことを肯んじない皇后が最後に叫ぶ「私は――それを――望まない!」の一言だって、たしかにそれは正確な直訳ではあるが、前後の流れからすれば「私は――それを――飲みません!」としてくれた方が、彼女の決意の意味がストレートに理解しやすいだろう。

 結局、最後に残るのは、やはりこのオペラの音楽の「超越的な」素晴しさなのであった。R・シュトラウス万歳!と言いたくなるような音楽である。休憩2回を含み、終演は10時少し過ぎ。

5・25(火)METライブビューイング ロッシーニ:「アルミーダ」

   銀座 東劇  6時40分

 おなじみメトロポリタン・オペラの、リアルな雰囲気の映像配信――METライブビューイングの今シーズン最後のプログラムは、めったにナマで(もしくは動画で)観る機会のないロッシーニの「アルミーダ」だった。今年の新演出である。

 演出は、トニー賞も受賞している女性演出家メアリー・ジマーマンで、METの公式プログラムに拠れば、彼女のMETでの演出は「ルチア」「夢遊病の女」に続くこれが3つめなのだとか。
 特に奇を衒ったものではなく、台本にごく忠実に基づいた手法だが、実に明解で論理的である。人物関係が明晰に描き出されていて、舞台の構図もはっきりしており、演技が精密でニュアンス豊かに行なわれていることも、物語をすこぶる解りやすくしているゆえんだろう。「ライオン・キング」などの装置を手がけたリチャード・ハドソンの舞台装置が、シンプルながら明るくて美しい。
 こういうストレート系の、しかも緻密な舞台は、世界のオペラ演出における中道路線というべきもので、METの代表的な路線の一つともいえよう。

 METお家芸のノーカット上演で、バレエから何から、省略なしに全部演奏しているのも良心的だ。
 第2幕の「アルミーダの魔法の森」の場面は、彼女のアリアが先に、バレエがクライマックスとして最後に置かれる版。このバレエの振付はグラシエラ・ダニエーレが担当したもので、テンポや転調、反復など音楽の変化のニュアンスを忠実に動きに反応させた、なかなかバランスの良いものであった。
 リッカルド・フリッツァの指揮はごく穏当なもので、それほど存在を意識させるほどのものでもないが、このバレエの部分での演奏は悪くない。

 ダマスカスの女王で魔法使のアルミーダは、METの看板ともいうべき存在のルネ・フレミングが歌った。相変わらず舞台姿には華がある。
 ただ、女王としては色気もあって美しいのだが、魔女として(の演技では)凄味が全然無いのはどうかな、という感。美しい舞台における優しい魔女でありたい――との狙いは、幕間でのご本人の話などからも窺えるけれど、しかしリナルドに裏切られ激怒して後を追う大詰めなどでは、やはりもっと「怒れる女王」としての魔性の迫力が欲しいように思う。ロッシーニ独特の歌唱法については、良く研究はしていたようである。

 十字軍の騎士として6人ものテノールを揃えるのは、大変だったろう。上手い人もいたし、そうでない人もいた。
 今回は一人が降板したため、英国の個性派テナーのバリー・バンクスが2役――十字軍の司令官リナルドを敵視して彼に決闘で斃される騎士ジェルナンドと、アルミーダの魔力の虜になったリナルドを救出する騎士カルロとの2役を歌い、手堅いところを聴かせた(したがってテノールは5人で済んだことになる)。
 主人公リナルドを歌ったのは、ローレンス・ブラウンリー。3年前にMETデビューしたアメリカの若手で、「セヴィリャの理髪師」のアルマヴィーヴァ伯爵が大当たりしたということだ。英雄リナルドという雰囲気ではないが、歌がきちんとしているのはいい。

 ノーカット上演で、2回の休憩もインタビューなどを入れてオリジナルどおりの時間で上映されるいつもの方法のため、終りは10時20分になった。
 このMETの映像配信、次は秋からのシーズンだ。私が特に楽しみにしているのは、新演出の「指環」「ボリス・ゴドゥノフ」「トーリドのイフィジェニー」などである。

5・23(日)
クリスティアン・アルミンク指揮新日本フィルハーモニー交響楽団
コンサート・オペラ形式「ペレアスとメリザンド」

   すみだトリフォニーホール  2時

 アルミンクと新日本フィルが展開している、セミ・ステージ形式の「コンサート・オペラ」シリーズ、今回はドビュッシーの「ペレアスとメリザンド」。藤村実穂子がメリザンドを歌うというのも話題だった。

 アルミンクが持つある種の自然で透明な音楽性――恣意的に歪めた構築も、あざとい情念の翳りもない音楽性からみて、このドビュッシーの「ペレアスとメリザンド」は、きっと成功を収めるであろうと予測していた。
 結果は、期待以上であった。これは、アルミンクと新日本フィルが展開して来たこれまでの「コンサート・オペラ」シリーズの中でも、最高の出来と言うべき演奏であろう。彼らが日本で演奏したオペラとしては、新国立劇場のピットに入って演奏した「フィレンツェの悲劇」と双璧の出来である。

 全曲に拡がる抑制された叙情味も素晴しかったが、稀に激しい感情が昂揚する場面――ゴローが妻メリザンドの密会を窓の外から息子に覗き見させる場面や、ペレアスとメリザンドがこれを最後と死の抱擁に身を投ずる場面などでの演奏の緊迫感も良い。アルミンクがこのような20世紀オペラで聴かせる劇的感覚は、いつもながら見事なものがある。
 そして、彼のもとで新日本フィルが創り出す、豊麗で馥郁とした響きが、今回の演奏を成功させていた何よりの要因であろう。
 オーケストラは、舞台上いっぱいに配置されていた。歌劇場と違って残響の多いコンサートホールでは、管弦楽の最弱音でさえ、たっぷりとした音色で鳴る。これが「ペレアス」の音楽を、その本来の性格にふさわしく、清澄透明で、しかも柔らかく官能的に再現してくれたゆえんである。

 他の歌手陣には、ペレアスにジル・ラゴン、その兄ゴローにモルテン・フランク・ラルセン、アルケル国王にクリストフ・フェル、ジュヌヴィエーヴにデルフィーヌ・エダン、イニョルドにアロイス・ミュールバッヒャー、医師に北川辰彦という顔ぶれ。
 いずれも安定して聴き応えのある歌唱だ。特に外国人勢はセミ・ステージとはいえ演技の表情も細密で、この「静的」なオペラにはこれだけで充分とまで言えるほどであった。

 唯一、これじゃ決まらないなと感じさせたのは、息子ゴローがメリザンドに暴行する狂態を見かねた父アルケル(フェル)が彼を制止する一言の迫力の無さで、――私はここでロバート・ロイドがMETでの上演の際に聞かせた「ゴロー!」という、絞り出すような悲痛な叫びが今でも忘れられないのだが、――まあ、それはそれ。

 ワグネリアン・メゾ・ソプラノとしてバイロイト他に君臨する藤村実穂子が、これほど見事なメリザンドを表現するとは、嬉しい驚きであった。今夜の歌手たちの中ではいちばん声量があり、またよく通る声なのだが、それを極めて叙情的にかつ明晰に駆使して、この役柄の謎めいた性格を描き出していたのである。
 無垢な妖精のような娘が、ペレアスとの恋を通じてみるみる「女」に変身して行き、第4幕第4場の愛の場面では情熱的な女性となる。そして、ペレアスの死のあとでは、再び物語冒頭と同じような、この世ならざる夢の中に生きる娘に戻ってしまう――そいういう過程を、歌唱と演技の両面でこれだけ巧く表現できたメリザンド歌手は、稀ではないかとさえ思われる。セミ・ステージという動きの少ない、抑制された空間の中での演技ゆえに、それが成功していたのであろう。

 今回の演出は、田尾下哲であった。オーケストラの前方と後方で登場人物が動き、若干の照明演出が効果的に使用される。
 最大の特徴は、背景の大きなスクリーンにモノクロの映像――森、林の中の湖、重苦しい城の中の一室などの光景を投影、霧や松明の火などの動画も組み合わせるといった、CGを最大限に活用した映像が多用されたことだ。
 この手法は、パリ・オペラ座の「トリスタンとイゾルデ」と共通している点もあるが、あれほどしつこくも、うるさくもない。あくまで作品の性格に応じた「静的で叙情的」なものだったのは正しい。中途半端な書割の舞台装置や小道具を使うよりは、私はこの映像利用の舞台を支持したい。

 もっとも、映画というものの視覚的効果は非常に強烈なものだから、動画の利用は、まかり間違うとあの「トリスタン」のように、音楽の印象を吹っ飛ばしてしまう危険性もある。
 今回で言えば、冒頭の神秘的な音楽が演奏されている際に、森や林の光景が移動して行く映像を目にすると、少し煩わしいなと感じないでもなかった。ただこれは、人により感じ方が違うだろう。メリザンドの長い髪が「塔の窓から流れ落ちる」場面には、そのイメージをかなり強く象徴した映像が現われ、これは強烈な効果を発揮した。

 大詰め、メリザンドの死の場面では、彼女だけが背景に独り佇み、男たち3人が舞台手前からそれを仰ぎ見るという構図で、これはすこぶる感動的なものであったが、ここで照明と背景の映像を一時完全に落してしまったのは解せず、一気に「裸の舞台」に戻されてしまったような印象を受けてしまった。
 また、彼女が息を引き取った後、巨大でリアルな(!)月の映像が「降りて来て、遠ざかる」のは、幻想的な物語が突然現代の宇宙科学と化したみたいで、どうも音楽のイメージとかけ離れたものになったようである。江川紹子さんが「かぐや姫みたいね」と笑っていたのは、言いえて妙かもしれぬ。
 
 ともあれ、すばらしい演奏会であった。休憩1回(第3幕後)を含め、5時30分頃終演。来年のこのコンサート・オペラは、「トリスタンとイゾルデ」である。

5・21(金)
コンスタンティン・トリンクス指揮東京フィルハーモニー交響楽団

  サントリーホール  7時

 その大野和士のアシスタントを勤めたこともあるコンスタンティン・トリンクス(ドイツ生れ、35歳)が、東京フィルに客演、モーツァルトの「フルートとハープのための協奏曲」(ソロは斉藤和志、田島緑)とマーラーの「第5交響曲」を指揮した。

 トリンクスは、2008年12月に新国立劇場の「ドン・ジョヴァンニ」で、やはり東京フィルを指揮したのを聴いたことがある。たしか歯切れのいいリズムの指揮で、ハーモニーの響かせ方もなかなか魅力的だったという記憶があるが、その彼がマーラーをどう扱うか、興味津々だった。

 果然、第1楽章でトランペットのソロに続いて全管弦楽がフォルティシモで爆発する個所から、オーケストラは明るく爽やかな、若々しいほど解放的な音色を示しはじめた。若手ながら、すでにはっきりと自分固有の「音」を持っている指揮者であることがわかる。
 この屈託ないトーンは全曲にわたり発揮され、贅肉を削ぎ落とした、スリムで健康的な音楽が展開された。それがマーラーの交響曲にふさわしいかどうかは異論もあるところだが、トリンクスがマーラーをそう解釈するなら、それはそれでよいだろう。

 ただ、それは良いとしても、彼の指揮には、テンポの遅い部分になると緊張が途切れ、演奏が弛緩してしまうという欠点が、一度ならず聞かれることがある。
 第1楽章第35小節からの葬送行進曲の個所などに、その特徴がすでに現われる。第2楽章でも第3楽章でも、テンポが沈潜する個所では、同じような傾向が聞かれた。「アダージェット」は予想外に「遅くない」テンポで開始されたけれども、終り近くmolto rit.と指定された個所(練習番号【3】)でテンポが落されるあたりから、やはり同じようになるのであった。
 ありていに言えば、長い曲だな――と感じさせてしまうということなのだ。

 それゆえ、音楽が一つの波のうねりのように起伏を繰り返して行く、という具合に行かないことが多いのである。この弛緩は、「フルートとハープのための協奏曲」の――やや遅いテンポが採られた第2楽章においてさえ、感じられたのであった。
 トリンクスの指揮を聴いていると、テンポを落す部分では非常に念入りに音楽をつくりはじめるような感じがするのだが、それが裏目に出てしまうのではなかろうか? 

 ここまで書いたところで、2年前の「ドン・ジョヴァンニ」を聴いた際のメモを引っ張り出してみたら、「遅いテンポの個所に来ると例外なく緊迫感が薄れるという厄介な欠点がある」と自分で書き込んでいたのに気がついて、びっくりした。あの時も、そうだったか。

 ではあるけれど、今日の演奏では、マーラーの第5楽章にいたって突然、音楽の流れは極めて良くなったのである。弛緩もほとんど消え、かくてマーラーの「5番」は、その曲にふさわしい生気を取り戻したのだった。オーケストラとの呼吸が合えば、そのようにうまく行くのかもしれない。もっとも今日は、2日目の演奏だったのだが――。

 東京フィルは、昨年の「ジークフリート」以来大化けしたホルン・セクションが、鮮やかで小気味良い演奏をマーラーで聴かせてくれた。1番ホルンの音色も表情も見事だった。また、モーツァルトの協奏曲での馥郁たる響きも特筆されてよい。ここでのソリスト2人は、いずれも東京フィルのメンバーである。

5・20(木)大野和士指揮東京都交響楽団

  サントリーホール  7時

 その国立リヨン歌劇場の首席指揮者――大野和士は、ちょうど帰国中。東京都響の定期への客演である。
 プログラムは、シューマンとチャイコフスキーのそれぞれ「マンフレッド」に拠る名曲と、その間に細川俊夫の打楽器とオーケストラのための協奏曲「旅人(WANDERER)」を置いたもの。つまり「さすらい人」をコンセプトにしているわけで、巧妙なプログラミングだ。

 良い指揮者は、曲の最初のほんのわずかな数の音符だけで、その実力をただちに示すことができるもの。シューマンの「マンフレッド」序曲の、引きずるような冒頭の音型を聴いた瞬間に、この人は本当に優れた指揮者になって来たな、とうれしくなった。
 そのあとの、ひたすら暗い音色で疾走する悲愴感――緊張感も魅力。

 一方、チャイコフスキーの「マンフレッド交響曲」は――私は悪からず想っている曲なのだが――作品そのものの些かまとまりのない冗長さの故で、シューマンのそれほどには緊迫感を伴わない。しかし、中間2楽章でのリズムの軽快さは楽しいものだったし、フィナーレ(おかしな曲ではある)での殺到する同一モティーフの迫力も面白く、大野の音楽構築のバランスの良さを印象づけるには充分のものがあった。

 都響のほうだが、――その中間2楽章では弦楽器群にいいリズム感も聴けたことは事実だったが、シューマンも含めて、総じて少し雑なところがある。細部をピシリと決めてくれないと、画竜点睛を欠く。ただの練習不足という問題でもないような気がするのだけれども・・・・。

 細川俊夫の「旅人」は、ちょうど10年前にケルンで、ケルン放送響と高関健の指揮、今日のソリストと同じ中村功のソロで初演されたものという。演奏時間も25分以上と、かなり長い。ソロは主人公――この曲の場合は旅人――であり、オーケストラは自然または世界という、細川の協奏曲作品にほぼ共通したコンセプトが語られている。
 彼の作品における透明な響きの美しさにはこれまでに何度も感銘を受けたものだが、この曲でも打楽器群の名状しがたい神秘的な空間的拡がりに、心を打たれる。
 冒頭、ソロ奏者の腕の動きと最初の音の一撃とが一体化した、儀式的な雰囲気をもつ開始の手法には、彼はまさに東洋人の作曲家なのだな――と微笑を誘われた。全曲の最後には、ソリストは小さな楽器を手に客席後方に去り、それが醸し出す柔らかい響きが微かに消えて行く。

5・16(日)リヨン日記最終日 チャイコフスキー:「スペードの女王」
キリル・ペトレンコ指揮 ペーター・シュタイン演出

 国立リヨン歌劇場  4時

 最終日は、2008年プレミエのプロダクション「スペードの女王」。
 S列からE列と来て、今日はA列――最前列の下手側の席となった。幸いなことに、ここは今回、ヴァイオリンやコントラバスが並ぶ側になっている。オーケストラに至近距離のこの位置では、音は非常に明晰に、しかも柔らかく聞こえる。

 「スペードの女王」は、「オネーギン」に比べればずっとオーケストラが劇的に鳴り渡る個所の多い曲だが、ペトレンコはここでも叙情的な要素を浮き彫りにし、作品の美しさを印象づけた。
 老伯爵夫人の死の場面でも、リーザの運河投身自殺の場面でも、いずれもオーケストラは劇的に咆哮することはない。しかし、音楽がむくむくと盛り上がってクライマックスに達するような個所でのペトレンコの「もって行き方」の巧さは、相変わらずである。

 歌手陣は、「マゼッパ」や「オネーギン」に登場している顔ぶれとほぼ同じ人たちが歌い演じる。それぞれが、全く異なる性格の役柄を巧みに演じ分けるさまが興味深い。

 まず、主人公の士官ゲルマン役は、ミーシャ・ディジャク。「マゼッパ」でのアンドレイの時とは別人のように明確な個性を発揮、暗くておとなしい青年軍人が次第に狂気に陥って行くという設定を、なかなか上手く表現した。
 この役、最近はガルージンのような、冒頭から「一種不気味な」雰囲気を感じさせる強烈なキャラクターの歌手でばかり見続けて来たので、こういう「純粋な青年」のイメージのゲルマンというのは、一寸新鮮に思えて面白かった。

 彼を愛したために破滅して行く女性リーザには、オリガ・グリュコーワ。彼女も、「マゼッパ」のマリヤの時より溌溂として、しかも気品があって、素晴しく美しい。マリインスキー劇場はいい歌手を次から次へと生み出したものだ、と感じさせる優れたソプラノである。

 しかし、もう呆気に取られるくらい感心させられたのは、老伯爵夫人を歌い演じたマリアンナ・タラーソワだった。
 「マゼッパ」でも「オネーギン」でも老け役を演じた彼女だが、ここでは凝ったメイクを施し、「魔女のように不気味な」傲慢で恐ろしい老女となって君臨する。そのあざとい演技と歌唱の、いや巧いのなんの。杖を突き、よろめきつつ権勢を振るう姿といい、ゲルマンに威嚇されてショック死する場面のリアルな恐怖の演技といい、何ともド迫力としか言いようがない。とてもこれが、ふだんカルメンや、プレツィオシッラ(運命の力)や、ダリラを歌っている若手とは思えないほどだ。
 十数年前、日本でカルメンを歌った時のタラーソワに、今日あるを想像できたであろうか。この人の芸域の広さを、如実に思い知らされた次第であった。

 その他、大御所的存在のプチーリンが、トムスキー伯爵を貫禄と滋味で歌い演じる。一昨日オネーギンを歌った若いマルコフは、今日はエレツキー公爵として、ラストシーンでは冷然たる怒りを以てゲルマンと対決する。ともに巧い。
 いや、歌手たちはみんな、とにかく芝居が素晴しい。欧米のオペラ歌手の大半は、ここまで細密な演技を研究しているのだ。日本のオペラ歌手も、ただ両手を拡げればいいと思っている大多数の人たちは、少しは見習って欲しいものである。

 ペーター・シュタインの演出は、これもストレートで読み替えはないが、演技の精密さで充実感を生む。群衆を「形」として動かすのが巧いということは、その場の主役を引き立たせるのが巧いということにも通じるわけだが、この日の舞台でもそれが見られた。
 一例を挙げれば、ラストシーンの賭博場の場面で――ここはとかく雑然とした光景に作られがちだが――失恋の痛手に陥りつつゲルマンへの復讐心を秘めて飲むエレツキー公爵、思い詰めたようにむっつりとした顔で賭け事に来た(これも普通の演出と異なる)ゲルマン、この2人の友人に温かい気遣いを示すトムスキー伯爵――の3人の存在を目立つようにして、ドラマの進行に明確なフォーカスを与えていたこと、などである。

 この最終場面では、よく行なわれるような「伯爵夫人の亡霊の登場」は、台本のト書きどおり、無い。無くても、因果応報が解るドラマであろう。
 その代わり、拳銃で自殺したゲルマンを、トムスキー伯爵が抱きかかえるようにして、その死を悼む。そもそもこの物語の初めで、トムスキー伯爵が面白おかしく「必勝の3枚のカードの秘密」の話をしなければ、ゲルマンはここまで道を誤らずに済んだのではないか? その起承転結を理解させる演出であった。
 奇想天外な「読み替え」ばかりが能ではない。ストレートな手法でも、このように掘り下げれば、論理的なドラマを描き出すことができるのである。

 4時に開演して、2回の休憩計50分と、場面転換の時間などを含み、終演は7時半頃。
 このオペラにしては短い上演時間だが、それは第2幕の牧歌劇の部分がカットされていたためもある。
 私はもともとカット反対主義だが、ここの部分は多少冗長で、しかもドラマの流れとは直接関係が無いので、まあ省略しても悪くないかな、とは思う。
 しかし考えてみると、この部分が演奏されないと、チャイコフスキーがこの幕冒頭などであからさまにモーツァルトをパロっている意味が正当に生かされず、ただイージーにパクっているように誤解される危険性を生じさせるのではないか、という心配が首を擡げて来ないでもない・・・・。

 外は未だ昼間のように明るいが、日曜日のためか、街なかは閑散としている。気温もだいぶ上がってきた。

5・15(土)リヨン日記第3日
 リムスキー=コルサコフ:「モーツァルトとサリエリ」
キリル・カラビッツ指揮(演奏会形式)

  国立リヨン歌劇場  8時半

 プログラムには、「プーシキン・フェスティバル」のロゴが小さく入っている。
チャイコフスキーの別項3つのオペラと、今夜のリムスキー=コルサコフのオペラ「モーツァルトとサリエリ」――まさしくプーシキンの文芸作品を原作としたものばかりだ。

 プーシキンの「モーツァルトとサリエリ」は、サリエリの「モーツァルト毒殺犯人説」を一挙に世界的に有名にしてしまった本家本元のような存在である。いくらサリエリの生前からウィーンでその不穏な噂が囁かれていたこととはいえ、後世にプーシキンがこの物語を書かなければ、かの映画「アマデウス」も生まれなかったであろう――とまで称されるほどだから、その意味では、サリエリを悪人にしてしまったプーシキンの責任は非常に大きいと言わなければなるまい。

 今夜のプログラムでは、それを基にしたリムスキー=コルサコフのオペラが後半に演奏会形式で置かれ、前半にモーツァルトの「交響曲第26番」と、チャイコフスキーの組曲第4番「モーツァルティアーナ」が置かれた。
 なかなか味のあるプログラミングではある。が、ここにはサリエリの作品は入っていない。やはり彼は気の毒な人だ。理由なく毒殺犯人に仕立てられ、作品は無視され――。もっとも、このプログラムにサリエリを含めたら、何か義理立て(?)のような感じになったかもしれないが。

 演奏会としての今夜は、ピットを上げた舞台にオーケストラが並ぶ。この劇場の管弦楽団に、客演指揮はキエフ生れの34歳の若手、ボーンマス響首席指揮者でもあるキリル・カラビッツ。
 なにしろこの劇場、残響が全くないので、音楽に潤いも余情もふくらみも感じられなくなってしまう。交響曲と組曲の演奏にはそれなりに瑞々しい表情も感じられ、カラビッツのセンスも極めて良いように思われたが――特にモーツァルトの速い楽章は佳かった――彼の本領はさほど発揮されなかっただろう。

 プーシキンの問題原作に基づいて作曲されたリムスキー=コルサコフのオペラの方は、もともと、あまり大した曲ではない。日本でも何度か上演されたことはあるが、私はこれを聴いて面白いと思ったことが一度もないのだ。今夜も同様だった。
 モーツァルト役を歌ったエドガラス・モントヴィダスは、昨夜のレンスキーに続いての活躍。やや抑え気味の歌いぶりだったが、悪くない。
 しかし、サリエリ役のミハイル・シェロミアンスキーがあまり上手な人でなく、ただ物々しさを強調するだけの歌唱だったので、それもいけなかった。要するに、この役のバス歌手が凄みと嫉妬と苦悩とを十全に表現してくれないと、このオペラは救われないのである。

 1曲目と2曲目での指揮者への拍手は気の毒なほど少なかったのに、オペラでの歌手への拍手は不思議なほど大きい。ブラヴォーが飛び、口笛が鳴り、拍手はいつものように手拍子に変る。みんな、オペラだけ聴きに来たのかしらん?

 以上3曲で、終演は10時20分。
 外はおそろしく寒く、冷える。オペラ座を一歩出ると、たちまち屋外ステージのロック・コンサートの轟音に閉口させられる。この騒々しさは、土曜日夜だからか? これに比べれば、NHKホール周辺の街なかライヴの音量など、可愛いものである。
 リヨン滞在もあと1日、チャイコフスキーの「スペードの女王」を残すのみ。

5・14(金)リヨン日記第2日
 チャイコフスキー:「エフゲニー・オネーギン」
キリル・ペトレンコ指揮、ペーター・シュタイン演出

  国立リヨン歌劇場  7時半

 国立リヨン歌劇場での「プーシキン原作・チャイコフスキー作曲・ペトレンコ指揮・シュタイン演出」のシリーズ、今日は「エフゲニー・オネーギン」。2007年のプロダクションだ。

 「オペラ」でなく「叙情的情景」と名づけられているこの作品――ペトレンコがここの劇場の管弦楽団とともに紡ぎ出す音楽は、すこぶる美しい(昨日は後方の「屋根」にかぶったS列という席だったが、今日は前から5列目のE席だったから、いっそうたっぷりした響きで聴けたこともあろう)。

 しかしこの指揮者は、本当に音楽の「もって行き方」が上手い人だなと感心させられる。実に自然に大きな劇的な起伏をつくるし、オーケストラから表情豊かな音楽を引き出すことにも長けているのだ。全曲大詰場面、千々に乱れるタチヤーナの心を描くように管弦楽は転調に次ぐ転調を重ねるが、ここでの刻々と虹色のように移り変わって行くオーケストラの響きには、息を呑まされた。ベテラン指揮者ならともかく、まだ38歳の若さでありながらこのような大技を駆使できるとは、驚くべきものである。

 歌手陣は、今夜も手堅い。
オネーギンにアレクセイ・マルコフ、詩人レンスキーにエドガラス・モントヴィダス、女地主ラーリナ夫人にマリアンナ・タラーソワ、その娘タチヤーナにオリガ・ミキイテンコ、その妹オリガにエレーナ・マキシモーワ、乳母フィリッピヴナにマルガリータ・ネクラソーワ、グレーミン公爵にミハイル・シェロミアンスキーといったように、主役陣には、レンスキー役以外、すべてロシア系歌手を並べている。
 そして彼らがすべて、ペトレンコの自然な流れの指揮に乗って、楽々と自然に歌っているという感じがするのだ。これなら音楽が生き生きと息づいていて、チャイコフスキーの音楽の美しさを余すところなく感じさせるのも当然だろう。

 題名役を歌ったマルコフは、サンクトペテルブルクの音楽院を出て間もない、マリインスキー劇場のアカデミーのソリストだというから、まだ経験はそれほど多く積んでいないと思われる。清新な感じのする歌手だ。
むしろ感心したのはウクライナ出身のミキイテンコで、「手紙の場」での声の良さとともに、最終場面で心乱れつつオネーギンのプロポーズを断固と拒否するあたりの歌唱と演技の巧さは出色の出来であった。
 リトアニア出身のモントヴィダス(レンスキー)も若いが、これもフレッシュな有望株である。一方、さすがの練達さを示していたのがタラーソワ(ラーリナ夫人)で、彼女もマリインスキーの若い世代の歌手なのだが、昨日に続いて老け役を見事に演じ、歌っていた。

 なお、昨日と同様に感心させられたのがこのリヨン・オペラの合唱団だ。華麗で動きの速いロシアの踊りを見事にこなしながら、同時に歌う。巧いものである。

 ペーター・シュタインの演出は、今回も基本的にト書きどおり。
 第3幕冒頭のポロネーズを、台本どおりに舞踏会場面として設定した演出は、最近ではむしろ珍しい方だろう。着飾った踊り手たちに能面のような無表情さを要求していたのは、あのポクロフスキーも新演出で試みていた「サンクトペテルブルク社交界の虚飾と冷酷さ」を表現するためとも思われる。
 そのあとで社交界の人々がオネーギンについて噂し、非難を囁く場面では、彼らは背後から取り囲むように、じわじわと彼に迫って来る。ちょっとした迫力である。オネーギンは「針のムシロ」という感だが、このあたりは十数年前にザルツブルクで観た「モーゼとアロン」の名舞台を思い出させる。群集を動かすのが巧いシュタインの得意の手法だろう。

 大幅な読み替えをせずに演技を掘り下げるのがシュタインの流儀だが、今夜の上演で何より面白かったのは、やはりクライマックスたるラストシーンである。
 ここでのタチヤーナの演技は、オネーギンへの昔の愛を思い出して動揺しつつも、グレーミン公爵夫人となっている現在の立場を守り、オネーギンの説得を断固として退けるというのが基本の形だが、シュタインはここで彼女から 「この期に及んで何を言うのですか」と怒りを交えながら鋭く、激しく、オネーギンに詰問(彼に指を突きつけさえする!)し、しかも動揺を抑えきれぬ、という解釈を引き出していた。
 この場面でタチヤーナが昂然かつ冷然たる演技と歌唱を繰り広げ、オネーギンを圧倒していたのは前述のとおりである。こういう演出と演技と指揮とでこの場面が描き出されると、このオペラの主人公はやはりオネーギンでなく、むしろタチヤーナであることが実証されるだろう。

 シュタインが基本的に読み替えを行なわないのは前述のとおりだが、彼が唯一この上演で台本にない解釈を引き出したのは、ラストシーンにおいてだ。タチヤーナが姿を消した直後、グレーミン公爵が部屋の外を通りかかる。突き放されたオネーギンが絶望し取り乱して出て行こうとする時、グレーミンが彼の道をふさぎ、正面から対峙するという設定の中に幕が降りる――という手法で、余韻を残す。

 ヴェーゲンバウアーの舞台美術は、前日と同様、極めてシンプルだ。必ずしも抽象的なものではなく、各幕の物語に応じてそれなりに趣向が凝らされている。
 幕ごと2回の休憩に場面転換の時間(結構長い)を含め、終演は11時10分。

 このオペラハウスは、新しくて、いかにもフランスの建物らしく洒落たものだが、ややデザイン先行の傾向があり、薄暗いくせに妙にあちこち眩しくて眼が疲れるところがある。正面入口のアプローチは若者たちのデモンストレーションに絶好の場所となっているらしく、のべつダンスやアクロバットをやっている連中がいる。オペラの客は、出る時も入る時もその間をすり抜けて行くという状態だ。このあたりの若者の騒々しさは日本の比ではなく、深夜になれば奇声をあげて走り回り、ドリンクのコップや食べカスを散らかす。歌劇場前の広場は、何故かそういう品のないグループの溜り場になっているらしい。

5・13(木)リヨン日記第1日 チャイコフスキー:「マゼッパ」
キリル・ペトレンコ指揮、ペーター・シュタイン演出

  国立リヨン歌劇場  7時半

 前日リヨンに入る。薄晴れだが、予想外に大気は冷たく、日中でも12度前後といったところ。休業の店が多く、街は比較的閑散としている。気がついたら今日は「キリスト昇天祭Ascension」なる祭日だった。どういうわけかこの頃旅行先で、こういう祝日に時々ぶち当たる。

 7時半より国立リヨン歌劇場で、チャイコフスキーの「マゼッパ」を観る。キリル・ペトレンコの指揮、ペーター・シュタインの演出で、2006年プレミエのプロダクション。

 これは、ピョートル大帝に重用されながら叛いてスウェーデンと通じ、ロシア軍に攻められ破滅の道をたどった実在のコサック首長マゼッパを主人公にしたオペラ。70歳のマゼッパは若いマリヤと恋に落ち、彼女の父コチュベイ――かつては親友だったが、娘を奪われた復讐にマゼッパの叛心を大帝に密告した――を捕え、拷問の挙句、処刑する。マリヤは衝撃のため発狂、廃墟となった故郷の村で、子守唄を歌いつつ雪の中をさまよう。プーシキンの叙事詩を基にした、おそろしく陰惨な物語だ。

 マゼッパにニコライ・プチーリン、コチュベイにアナートリ・コチェルガ、マリヤにオリガ・グリャコーワ、彼女の母親リュボフにマリアンナ・タラーソワ――という主役陣はすべてロシア系歌手で、おそらく今日求められる理想的な配役の一例だろう。

 題名役のプチーリンはさらに巧味を増した。このシュタイン演出では、マゼッパは権力を振るいつつも、ある程度良心的な呵責の念を感じる男として描かれているが、その悔悟と悲しみの感情を、演技と歌唱の面で実に巧く表現していた。
 一方、コチェルガは相変わらず巨大な声量と体躯で、強固な意志を持つ大地主としての貫禄を示す。またグリャコーワの歌と演技は、先年のMETのプロダクションにおけるほど際立った出来ではなかったが、当たり役であることは疑いない。タラーソワが母親役を巧みに演じ、張りのある声で存在感を示していた。

 ほかに脇役では、マリヤを愛する青年アンドレイをミーシャ・ディジャクが受け持ち、演技は型通りで単調ながらも声の良さで拍手を集めた。マゼッパの腹心オルリクのアレクセイ・ティホミロフは、コチェルガに匹敵する偉大な体躯の持主で、彼を拷問する悪役を迫力満点に表現していた。
 この2人もロシア出身だ。
 指揮のキリル・ペトレンコを加えれば、さながらロシア・オペラの引越公演といった感がある。

 そのペトレンコとリヨン・オペラのオーケストラだが、これはもうチャイコフスキーの音楽の叙情を表出する点で、際立っている。とりわけ、フルートやオーボエが哀愁の旋律を奏でる個所などでは、この作曲家特有のロシア的情緒に惚れ惚れとさせられるほどだし、全曲大詰め、マリヤの悲しい子守唄を包む管弦楽の音色の美しさといったら、先年のゲルギエフとMETのオーケストラのそれよりも遥かに感動的だった。

 だが反面――これはオケの編成の小ささと、この劇場の残響の無さのためだろう――劇的な咆哮の部分では音楽が著しく「薄く」なる。ポルタヴァの戦を描く第3幕前奏曲では、ガシャガシャとした安っぽい響きになり、作品の音楽性まで疑わせる結果となってしまった。
 先年ゲルギエフとMETのオーケストラで聴いた時には、ここはまさに音楽が唸り、怒号し、ロシア軍とスウェーデン軍の交戦の模様が目の当り浮かんで来るほどの迫力があって、曲中に現われる「1812年」冒頭の祈りの歌と同じ旋律や、「ボリス・ゴドゥノフ」の戴冠式の場面に現われる「スラヴァ!」の旋律も一層美しく聞こえたくらいだったのだが――。

 とはいえ、総体的にペトレンコが創り出した劇的な流れと自然な昂揚感はやはり非凡なものと言ってよく、彼の才能が傑出したものであることを窺わせるに充分なものがある。 
 売れっ子のこの人、リヨンでは来年6月に「トリスタン」(ヴィーラー&モラビト新演出、トリスタンをゲイリー・レーマン、イゾルデをアン・ペーターセン)を指揮するそうである。

 演出はペーター・シュタイン。
 彼の演出は、台本やト書きに比較的忠実に従いつつ、それらを細密な演技によって掘り下げるという、「中庸を得た」タイプである。しかし論理的な舞台展開を創る上に、群集の動かし方が巧く、力関係の構図が極めて解りやすい。そこが私の好きなところだ。第1幕でのコサック兵とコチュベイ側の小作人や客人たちとの対立なども完璧に整理されていた。
 また全体に演技も細かく、前述のようにマゼッパの複雑な心理の動きを巧みに描いて、彼を必ずしも残忍な悪役とはいえない男という解釈に仕上げるのに成功していた。それらの大部分は、すでにト書きの中で指定または暗示されているものなのだが、シュタインはいっそう徹底して具体的に、解りやすく演出する。第1幕で、マリヤをめぐってコチュベイへの最後の脅迫に踏み切るまでには、彼は(ト書きにおけるよりも)はるかに長いあいだ悩み、かつ、ためらうのであった。
 舞台美術はフェルディナンド・ヴェーゲルバウアー、基本的に簡素なスタイル。

 幕ごとの休憩(2回)計1時間と場面転換のための時間少々を加え、終演は11時30分。この劇場の椅子は堅く、座り心地は甚だよろしくない――もちろんバイロイトほどではないけれども。

5・11(火)ユーリ・テミルカーノフ指揮読売日本交響楽団
ショスタコーヴィチ 交響曲第7番「レニングラード」

  サントリーホール  7時

 テミルカーノフのショスタコーヴィチ「7番」といえば、ずいぶん昔、サンクトペテルブルク・フィルとの来日公演で彼が指揮した時の怒涛のごとき凄演が、未だに耳の奥底にこびりついている。
 あのロシアのオーケストラならではの粘っこさ、執拗さ、弦の輝きと艶、管の威圧的な底力などと比較すると、如何に同じ指揮者のもとで読売日響が渾身の熱演を繰り広げても、どこかに日本のオケらしい淡白な味がついて回る。これはもう、国民性の為すところゆえ、致し方ない。

 だがそれはそれとして、今夜の読売日響、入魂の演奏だった。
 第1楽章冒頭の低弦の響きなど、「ロシアの弦」のそれを一瞬思い起こさせられたほどである。同楽章のクライマックスでの大音響も、馬力では日本一と言っていいこのオーケストラならではのものだし――大きな音を出せればいいと言っているのではないが、ショスタコーヴィチの交響曲ではこういう音響も必要であることは周知の通りである――第4楽章の最後の頂点で熱狂的な、かつ陶酔的な咆哮を延々と持続させるだけのパワーを発揮できたのも、読売日響ならではのものであろう。

 テミルカーノフの指揮は、日本のオケ相手のせいもあったのか、以前よりは淡々とした表情が少し増したようにも感じられる。テンポもやや遅くなり、最弱音にも沈潜した味がよりいっそう聴かれるようになった。例の小太鼓のリズムに乗った「戦争の主題」が反復されクレッシェンドを重ねる個所でも、最初のうちは何か緊迫感のない飄然とした表情の演奏で、主題がのんびりと踊るように近づいて来る――といった雰囲気だったのは不思議であった。

 だがこのあたりは、オーケストラとの呼吸が合って来れば解決されるべき問題であろう。これだけの大演奏、たった1回で終ってしまうのだから、もったいない。
 それにしても、最小限の身振りでかくも激烈な興奮をオーケストラから引き出すあたりが、テミルカーノフの円熟の実力を物語るだろう。演奏終了後の会場は沸きに沸き、彼もソロ・カーテンコールに呼び出されていた。
 今夜の定期公演は、これ1曲だったが、それで充分。8時25分には終った。

5・9(日)第15回宮崎国際音楽祭 最終日ガラ・コンサート

 メディキット県民文化センター(宮崎県立芸術劇場)アイザックスターンホール 4時

 4月24日に開幕(関連の教育プログラム等は11日より開始)した今年の宮崎国際音楽祭。
 7年間にわたった芸術監督の任期が今年で終るシャルル・デュトワは、フィラデルフィア管弦楽団を率いて出演したのみ。しかし、国内第一線の奏者たちを集めての室内楽やオーケストラ・コンサートは例年通り行なわれ、外国ゲストとしてジュリアン・ラクリン(ヴァイオリン)、ジュリアード弦楽四重奏団のメンバーらも参加していた。

 フィナーレのこの日は、総合プロデューサー徳永二男をリーダーとする「宮崎国際音楽祭室内楽合奏団」(デュトワ着任以降は音楽祭管弦楽団と言っていたが――)が中心。
 プログラムは、バッハの「2つのヴァイオリンのための協奏曲」(ソロはジュリアン・ラクリンとパヴェル・ヴェルニコフ)、モーツァルトの「リンツ交響曲」(指揮はラクリン)、同「フルートとハープのための協奏曲」(ソロは高木綾子と吉野直子)、ベートーヴェンの「ヴァイオリン協奏曲」(ソロと指揮がラクリン)という重量級。

 ラクリンは一所懸命に指揮をしていたが、どうもこの人は、シンフォニーを振るよりは、コンチェルトを弾き振りしている時の方が好い。
 弾き振りの時でも、彼がオーケストラの方を振り向いて指揮し始めると、途端にオケの演奏が硬直してしまい、音楽に生き生きした表情が失われるから困る。殊更にティンパニをクレッシェンドさせるのも、何か取って付けたような不自然な音楽になるのである。彼のソロもベートーヴェンでは不安定な個所が瞥見された。いっそオケの合奏はこの腕利きぞろいのメンバーに任せておいた方が良かったのに、と思えたくらいだ。

 そんなわけで、オーケストラの演奏が最も解放感に満ちて楽しかったのは、指揮者なしで演奏した「フルートとハープのための協奏曲」だった。気の合った仲間同士で演奏を創り上げて行くという雰囲気にあふれ、柔らかい響きがホールいっぱいに拡がり、第3楽章のある部分では、まさにあの「ミューズの神が舞い下りて微笑む」といったノリさえ感じられたのであった。わが国選り抜きの優れた奏者たちを集めたこのオーケストラの本領が発揮された一例でもあったが、――ただし、常にこの調子で行けるとは限らないのはもちろんであろう。

 指定管理者制度の導入や、日本に多い「15年も経ったからそろそろこのあたりで変えてみては」というあの愚劣な意見が首をもたげはじめている最近、この音楽祭の前途にもちょっと不安な雲が見えるとも言われる。
 10年や15年という期間は、芸術の世界においては、まだやっと基礎が築かれたに過ぎない時期ではないか。粒々たる努力を積み重ねて発展させて来た音楽祭を、ここで拙速に変質させてはならない。継続は力なり、である。

5・8(土)藤岡幸夫指揮関西フィルハーモニー管弦楽団 東京公演

  サントリーホール  2時

 今年が創立40周年。デュメイを音楽監督に迎える一方、東京公演を活発に行なうなど、めざましい攻勢に転じた関西フィル。
 今日は首席指揮者・藤岡幸夫との演奏で、シベリウスの「フィンランディア」と「交響曲第2番」、その間にチョウ・チン(趙静)をソリストにドヴォルジャークの「チェロ協奏曲」というプログラムだった。

 これまで東京で聴いたいくつかの演奏に比べ、今日は藤岡としては端正にまとめた傾向の音楽づくりではないかという気がするが、それでもシベリウスの2曲では、最近の彼特有の、非常にメリハリのある、ごつごつした骨格の音楽が轟々と響きわたっていた。
 所謂「のっぺりした演奏」にならないこのようなスタイルは、私は好きである。

 ただし、いくらアクセントのはっきりした演奏であっても、オーケストラの音色がもう少し美しくならないと困るだろう。残響の豊富なこのサントリーホールの2階席で、これほど弦の音がガリガリと鋭く聞こえたオーケストラは、ほかには――皆無とは言わないが――滅多にない。
 かといって、今日の演奏すべてがそうだったというわけでもないのである。ドヴォルジャークの協奏曲ではしっとりした味も出ていたし、アンコールで演奏した「過ぎし春」(グリーグ)では、その弦の音色が透き通るような美しさに転じていたのだった。
 大雑把に言えば、音楽があまりアジタートせず、かつ緩いテンポで進む時には、弦も余裕を以ってたっぷりと鳴ることが多いようである。

 ソリストの趙静の演奏は、いつ聴いてものびのびとしてスケールが大きい。ドヴォルジャークの叙情と温かさと懐かしさを大らかに歌い上げた快演であった。
 
 

5・7(金)中嶋彰子セレクション~アメリカン・ウェイ

  JTアートホール(東京・虎の門)  7時

 この室内楽専用ホールともいうべきJTアートホールで歌を聴くのは、私にとっては初めてのことだった。最後方の席で聴いたが、なかなか良い感じである。

 今日は「JTアートホール室内楽シリーズ」の定期公演で、ニルス・ムース(ピアノ)、松本健司(クラリネット)、クァルテット・エクセルシオが出演したが、中心はソプラノの中嶋彰子だ。
 プログラムは、ローレム、スコット・ジョプリン、アイヴズ、バーバー、ガーシュウィンの作品が集められ、たくさんの歌曲のほかに室内楽やピアノ・ソナタの抜粋も演奏されるという、すこぶる凝ったもの。
 アイヴズやバーバーの歌曲などは、まず滅多に聴けないものだけに、これは貴重な一夜でもあった。

 なんといっても、中嶋彰子の歌が素晴しい。
 これまで私が聴いた彼女の歌は、独墺系のモーツァルトやR・シュトラウスなどのオペラが中心だったし、先日いずみホールでのシェーンベルクと貴志康一の歌曲での劇的な表現にも舌を巻いた(後者には震撼させられた)ものだ。しかし、アメリカの近代歌曲にもこのような優れた感性を発揮する人とは驚きだった。これは、こちらの認識不足も甚だしかったと言わざるを得まい。
 ちょっと表現主義のエコーを感じさせる歌唱もあるかと思えば、アメリカのシリアスなスタイルの歌唱もある。あるいは最後の「サマー・タイム」で、アメリカのジャズ・シンガーのような発声をチラリと覗かせた(そう聞こえた)歌唱など、実に多彩そのものである。就中、アイヴズとバーバーの歌曲集は最大の聴きものと言ってよかった。

 せっかく顔を揃えたメンバーによる器楽のほうは、さっぱりスウィングもラグもしない面白くない演奏。それだけに、彼女の歌の良さがいっそう印象づけられたコンサートであった。
 

5・5(水)イーヴォ・ポゴレリッチ・ピアノ・リサイタル

  サントリーホール  2時

 第1部では、ショパンの「ノクターン作品62の2」(演奏時間は普通なら6分程度)を13分、「ピアノ・ソナタ第3番」(26分程度)を40分、リストの「メフィスト・ワルツ第1番」(11分程度)を25分かけて弾く。
 この第1部が終った時、時計はすでに3時半を過ぎていた。

 客席の照明をほぼ全部落し、舞台のみほんのり明るくした状態のままこのテンポで延々と1時間半続けざまに弾かれては、精神的な疲労感もいや増しに増すというものだ。
 アレグロやプレストの部分ではテンポも極端には引き延ばされないのだが、「ソナタ第3番」のラルゴ楽章や、「メフィスト・ワルツ」のアレグレットの部分などでは、それこそ音を一つずつゆっくりと弾いて行くといった調子の、極端に遅いテンポになる。
 たとえばソナタのラルゴ楽章――特にホ長調の中間部に入って以降の個所では、微かに波打つ8分音符6つずつの、それぞれ最初の音符のみ極度に強く響かせつつ、しかも全体を非常に遅く弾くという具合なので、もちろん音楽は聴き慣れたものとは全く違った様相になってしまう。

 印刷された譜面そのものに即して判断した場合、ポゴレリッチのこのような演奏が、全く根も葉もない捏造になっているのかといえば、必ずしもそうではなかろう。
 楽譜そのものからは、確かに彼のような解釈も引き出し得るのである。彼の演奏と譜面とを比較しながら綿密に検討してみると、ある音符やデュナーミクやテンポが無制限に強調されているところがあるにしても、楽譜から逸脱している部分は意外にそれほど多くない、ということが理解できる。
 ただしかし、それがショパンという作曲家が頭の中で響かせていた音楽――それは彼の伝記などで辿る他はないのだが――と同じであるかどうかは、大いに疑問であろう。そのあたりが、ポゴレリッチの演奏をどう受け止めるかの分岐点になるのではないか。

 如何に遅いテンポの最弱音で弾こうと、彼の演奏は、そこに弛緩というものを生じさせない。それは驚くべき点である。
 そして速いテンポの箇所での強靭な最強音では、和音さえも聴き慣れた響きから一変し、魔性と言ってもいいほどの音楽となって現われる。これまた常人離れした大わざであろう。

 もっとも、こういう演奏を、続けざまに聴く体力と精神力は、今の私にはとても無い。プログラムの第2部に組まれていたシベリウスの「悲しきワルツ」と、ラヴェルの「夜のガスパール」のような曲を、こういうホールの状態で、このタイプの解釈と演奏で、さらに1時間ものあいだ聴くのは、私にはすでに耐え難かった。
 

5・4(火)ラ・フォル・ジュルネ  河村尚子リサイタル

   東京国際フォーラム G402=ミツキエヴィチ  8時30分~9時20分

 先ほどのコンサートから45分おいて、同じ会場で、同じピアノを今度は河村尚子がショパンの「幻想即興曲」を弾き出すと、まるで楽器が変わったのではないかと思えるほど、実に美しい音色になる。

 美しいというのは、艶やかとか、たおやかとかいう意味ではない。いかにも日本人ピアニストらしい節度と、温かい情感と、しっとりした味を備えた音楽になっている、ということである。
 とは言ってもこれは、あくまで欧米人演奏家たちのアクの強い攻撃的な表現と比べてのこと。やはりわれわれ日本人の感覚の中では、河村尚子の演奏は、柔らかい表情の中にも、非常に大きな起伏と、大きなスケール感と、劇的な激しさを持ったものとして存在するのである。演奏をわずか1、2曲聴いているうちにも、われわれは彼女の世界の中にどっぷりと浸かってしまうのだ。

 プログラムはショパンで、「幻想即興曲」に始まり、ノクターン作品27の2、バラード第3番、ノクターンの嬰ハ短調の遺作、ワルツ作品42、幻想曲――と続いた。
 明・暗と緩・急、起・伏が交互に入れ替わるように組み合わせた、実に巧いプログラム構成だなと感心させられる。
 「バラード第3番」における昂揚の激しさは見事だし、最後の「幻想曲」の後半でスケール感を増しつつ盛り上げて行く呼吸も素晴しい。この2曲は、特に印象的だった。

 

5・4(火)ラ・フォル・ジュルネ  ペヌティエ・リサイタル

   東京国際フォーラム G402=ミツキエヴィチ  7時~7時45分

 フランスの大ベテラン・ピアニスト、ジャン=クロード・ペヌティエをナマで聴くのは久しぶりだ。あの温かい、ヒューマンな味を湛えた演奏は健在である。今日はリストの作品を2つ、「詩的で宗教的な調べ」と、「バッハの《泣き、嘆き、憂い、おののき》による変奏曲」を演奏した。

 今にして思えばこのリスト・プログラムでなく、一昨日のフォーレとショパンを組み合わせたプログラムを聴いた方が良かったかなという気もするが、まあよい。
 100人くらいしか入らない小さな会場で、インティメートな雰囲気の中に彼を見ることができて、その滋味あふれる演奏が聴けた、というのはうれしいことだった。

5・3(月)ラ・フォル・ジュルネ 小山実稚恵リサイタル

 東京国際フォーラム ホールB7=ドラクロワ  午後8時~8時45分

 878席の会場はほぼ満員。最後列で聴いたが、ピアノの音色はかなり暗みを帯びて聞こえる。モノ・トーンといってもいいような音色だが、小山実稚恵の音は、本来はこんなものではないはず。おそらくこれは、この会場の音響と、楽器と、こちらの座った位置との相乗効果で生れたものだろうと思う。だが少なくともそれが、演奏の印象を左右してしまうことは事実なのである。

 最初の曲目――ノクターンの「作品48の1」など、昨日聴いたペレスのそれと比べると、いかにも自然体で率直で、テンポ運びにも殊更持って回ったところがなく、全く別の作品のようにさえ感じられる。
 どちらが好きかという設問には答えにくい。濃い味と、薄味と、どちらにその日の舌が慣れているかによって料理の好みが変わって来るようなものだから。
 今日はその他に、ワルツ6曲と、バラードの第1番と第4番が演奏された。

5・3(月)ラ・フォル・ジュルネ ポゴレリッチとシンフォニア・ヴァルソヴィヴィア    

  東京国際フォーラム ホールA=フォンタナ 2時半~4時3分

 イーヴォ・ポゴレリッチがショパンの「ピアノ協奏曲第2番」を、今日はゲオルギー・チチナゼ指揮するシンフォニア・ヴァルソヴィアとの協演で弾いた。

 彼の演奏は、基本的には先日と同じだったが、印象が大きく異なった点がある。
 一つは、今回は指揮者とオーケストラがポゴレリッチにピタリと付け(とりあえずそう聞こえた)、フィラデルフィア管との時のような殺気立った雰囲気(?)を感じさせなかったこと。そして、5千人収容の巨大なキャパのホールが、ポゴレリッチの強靭な打鍵をもさほど刺激的に感じさせなかったこと。

 極めて大雑把に言えば、今日こそは、「協奏曲でのポゴレリッチ」の本領が堪能できたというわけだ。ピアノが壊れるのではないかと思わせるような最強音から軽い羽毛のような最弱音まで、それらが瞬時に交替する魔術的な凄味は、筆舌に尽しがたい。変幻自在のテンポは聴き手を緊張させ、スリルを味わわせ、疲労に誘い込む。

 改めて痛感することだが、とにかくこれは、物凄いピアニストである。演奏時間は先日のより伸びて、ほぼ40分。ご丁寧にアンコールとして第2楽章(13分)を全部繰り返したが、その二つの演奏で細部のテンポや音の組み立て――弦のトレモロを背景にしたカデンツァ風のソロから主題に戻る個所など――が微妙に異なっていたのが面白かった。おそらく彼は、演奏のたびごとに、常に新しいアイディアを組み入れているのではなかろうか。

 プログラムは、この協奏曲の前にエルスネル(ショパンの師)の「交響曲ハ長調作品11」が取り上げられていた。2曲とも、ゲオルギー・チチナゼ指揮のシンフォニア・ヴァルソヴィアの美しくしっとりした演奏が印象的だった。

 ちなみに、この演奏会の最初のスケジュールは2時半~3時半。同じ会場で次から次へとコンサートが行なわれる「ラ・フォル・ジュルネ」のタイムテーブルで、30分も時間が延びたのであった。ひとごとながら気になる。

5・2(日)東京のラ・フォル・ジュルネ   ルイス・フェルナンド・ペレス・リサイタル 

   東京国際フォーラム ホールD7(フランコム)  3時15分~4時05分

 先日のナントで初めて聴いて以来、すっかり惚れこんでしまったスペイン出身のルイス・フェルナンド・ペレスの演奏。
 日本では未だ知られていないから、公式ガイドブックでの紹介でも小さなスペースしか与えられていない。だが彼は、近いうちにきっと、サントリーホールを満席にするだろう。

 この回のコンサートでは、バラード第1番、ワルツ作品70-3、ノクターンの作品27の2曲と48の2曲、ホ短調のワルツ、およびスケルツォ第3番が弾かれた。
 ホールのピアノとの相性のせいか、1曲目の前半は演奏にやや精彩を欠いたが、間もなくペレス特有の切り込みの鋭いピアニズムが全開して行った。その演奏には、恐るべき緊迫感――聴き手の全神経をおのれの音楽に集中させてしまう力が備わっている。「作品48の1」の中間部など、これだけ筋金入りの凄味を利かせた演奏は、そうは多くないだろう。――なおこの人は、「作品48のノクターン」を弾く際には、必ず「第2番」を先に弾く習慣があるらしい。ナントでもそうだった。

 初日は、このコンサートだけを聴く。たまたま少し風邪気味だったせいもある。
 ショップでペレスの「ノクターン第1集」のCD(MIRARE原盤、キングインターナショナル)を見つけ、購入して帰ったが、早速聴いてみると何とこのCD、録音が逆位相(!)という、常識では考えられない欠陥商品だった。クレームをつけなければならない。

 どなたかに伺いたいことが一つ。フランス人チェリストFranchomeを、なぜフランショームでなくフランコムと表記するのでしょうか。ものの本によると「昔はフランショームと表記したが、最近では学会でもフランコムと表記するようになっている」とあったが、その理由を教えていただければ幸いです。
 

5・1(土)シルヴァン・カンブルラン指揮読売日本交響楽団
常任指揮者就任披露特別演奏会

     サントリーホール  6時

 10年ほど前、夏のザルツブルク音楽祭で、カンブルランの指揮する「トロイ人たち」(全曲)や「ファウストの劫罰」を、2年続けて聴いたことがある。いずれもかなり大雑把な演奏で、この人の指揮はこんなものか、と思わせられた程度だった。
 だが、彼は昔の彼ならず。今やカンブルランは、音楽の響きに緻密な彫琢を施し、作品の細部に神経を行き届かせ、均衡を充分に保った演奏を創り出す指揮者である。

 26日に続く今夜の「披露演奏会その2」でも、彼は読売日響から精妙な音を引き出していた。
 プログラムは、バルトークの「二つの映像」、モーツァルトの「ジュピター交響曲」、ストラヴィンスキーの「春の祭典」と「サーカス・ポルカ」(アンコール曲)というプログラムであったが、最初の2曲にあふれる透明に純化された色彩感覚は、カンブルランがやはりフランスの指揮者なのだなという印象を強く残すだろう。特に「ジュピター」での、すっきりした清楚な音の構築は快い。

 「春の祭典」は、これもどちらかといえば均衡を重視した指揮だ。たとえばティンパニや特定の金管をことさら強調してダイナミックな効果を狙うという手法を採らないため、全体に思いのほか抑制された演奏という印象を与える向きもあるだろう。カーニバル的な華やかさを持つ「サーカス・ポルカ」でも、カンブルランは壮麗にオーケストラを響かせるものの、決して羽目をはずしたどんちゃん騒ぎに堕することはないのである。

 先日と今日との2つのプログラムで、カンブルランの指揮の大体の方向は示された、と言っていいかもしれない。読売日響も見事に応えていた。まずは好調な滑り出し、というところ。

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