2017-02

4・30(金)ラ・フォル・ジュルネ前夜祭

   東京国際フォーラム ホールA 7時

 音楽祭の本番では「フォンタナ」と名づけられる「ホールA」――国際フォーラム最大の5千人を収容するホールでの前夜祭コンサート。
 舞台に立った総合プロデューサーのルネ・マルタンは、「この音楽祭の本当のプロデューサーはショパン自身だと思っていただきたい」と述べたが、自分の作品が5千人のホールで演奏されるという企画をショパンが知ったら、肝を潰したろう。今夜の演奏会では、2階席はどうだったか判らないが、1階は最後方のみ席を少し余すだけで、ほぼ埋まっていたようである。

 最初の30分ほどは、先日遭難したポーランドのレフ・カチンスキ大統領(ラ・フォル・ジュルネ2010プロジェクトの名誉総裁でもあった)を追悼してのセレモニー。
 黙祷のあと、シンフォニア・ヴァルソヴィアが「葬送行進曲」を、小山実稚恵が「ノクターン嬰ハ短調・遺作」を演奏し、ポーランド駐日大使が日本語で感謝の挨拶を述べた。
 なお、この「葬送行進曲」はヘルツィンという作曲家が弦楽合奏に編曲したもので、ミノーレ部分は美しく荘厳だが、マジョーレ部分はソロをピチカートが伴奏するというセレナードみたいなつくりになっており、少々風格を欠く。

 そのあとが「前夜祭」本番だが、空気がかなり湿っぽくなっていたためか、ゼスポール・ポルスキが華麗に演奏するポーランドの民族音楽と舞踊でも、客席はなかなか盛り上がらない。それでもこの民族音楽合奏団の実力はすばらしく、15分ほどの演奏の最後にはついに拍手なりやまずの段階にまで会場の空気を暖めてしまった。
 演奏の良さもさることながら、ショパンという作曲家が如何にポーランドと深く結びついているか、その民族音楽が如何にショパンの作品に反映されているか――特にポロネーズやマズルカといった作品で――を、耳を通して実証させてくれるという点でも、このゼスポール・ポルスキの演奏は聴き逃せないのではないかと思う。

 このあとには、東京都響のメンバーが演奏するメンデルスゾーンの「弦楽八重奏曲」の抜粋と、シンフォニア・ヴァルソヴィアが演奏するショパンの「クラコヴィアク」が続いたはずだが、今夜はゼスポール・ポルスキを聴いただけで失礼した。
 ●●(氏名削除)が前夜祭本番の方のMC(司会)をつとめたが、台本ありのヤラセ的インタビューやトークではNHKのテレビ番組みたいで、愚にもつかない。客が自分の意思で盛大に拍手をしている最中に、わざわざ「どうぞ大きな拍手を」などと呼びかける(いるんだよねえ、そういうMC)など、最低である。
 

4・28(水)デュトワ&フィラデルフィアVSポゴレリッチの怪演

  サントリーホール  7時

 ベルリオーズの「ローマの謝肉祭」で始まったが、これは昨夜とは打って変わって、リズムや響きを引き締めた古典的なアプローチ。今回のプログラムの中で、ベルリオーズはこういう位置づけだったのか、とデュトワの解釈に納得が行く。
 弦の編成は昨夜と同じ16型なのに、オーケストラ全体が編成をやや縮小したような錯覚に陥る。このあたりが、オケの鳴らし方というものの面白いところ。

 しかし休憩後の、ラフマニノフの「交響的舞曲」とラヴェルの「ラ・ヴァルス」では、再び文字通りの豊麗絢爛な演奏が展開され、デュトワとフィラデルフィアの音色の雄弁さが余すところなく示された。
 音の美感に頼りすぎる云々という件を忘れたわけではないけれども、この最後の2曲での演奏を聴いていると、あれやこれや言わずとも、もうこれで十全のものではなかろうか、という気持にさえなってしまう。
 所用のため「ラ・ヴァルス」が終ったところで失礼したが、ドアを閉めた途端にホールの中からアンコールの「ダフニスとクロエ」の終曲が聞こえて来た。これもきっと豪壮華麗な演奏だったことだろう。

 当初の予定通り、2曲目にアルゲリッチがラヴェルのピアノ協奏曲で協演していれば、今回の来日公演はデュトワが自他共に許す得意の――フランスとロシアのレパートリーでまとめられたことになるのだが、彼女が「娘のお産のため帰国」したとかで、代わりにイーヴォ・ポゴレリッチがショパンの「2番」で協演することになった。
 これがそもそも、騒動の元。
 なにせ名にしおう「作品解体同然の奇抜な演奏」の大家ポゴレリッチだ。協奏曲ではどうするのか、実はそれにも興味があって今日も聴きに来たわけである。

 案の定、大変な演奏になった。デュトワは速めのイン・テンポで曲を開始したが、ポゴレリッチは我が道を往く感の、遅く、かつ崩したテンポで開始する。デュトワは、ピアノが入る個所だけはテンポを極端に落して、何とかポゴレリッチに合わせる。
 ショパンが好きだったという「左手のイン・テンポと右手のルバート」の理論を援用すれば、左手はオーケストラで、右手はピアノ・ソロに相当する――という屁理屈も成り立つだろうが、実際の協演では、そんな話は絵空事だ。

 それにポゴレリッチは、極端に言えばすべての音符をフォルテ3つで豪打するという演奏だから、彼が弾いている時には、オーケストラの音はどこかへケシ飛んでしまい、ピアノと合っているのかいないのか、そんなことも全く判らなくなってしまうのである。
 第2楽章中間部、弦の長いトレモロの上にピアノが激情的なカデンツァを弾く個所など、ポゴレリッチはもはや、おのれ以外は舞台にいないといった調子で、延々たるテンポで、怒号するような演奏を続けている(それ自体は凄まじい豪演といえよう)。トレモロが終り、音楽が白昼夢から醒めたようになる個所でも、彼はあれこれの音をゆっくりと弾き続けていて、いつまでたっても戻ろうとしない。デュトワとオーケストラは仕方なく、その間じっと待っている、という具合だ。

 演奏時間合計37分だったから、全体は度外れて遅いというほどでもなかろう。デュトワがテュッティでイン・テンポに戻していなければ、演奏時間はもっと延びていたかもしれない。

 それにしても、デュトワもオーケストラも、よく合わせたものである。
 しかし、楽員たちは一応ちゃんと演奏したものの、どうやら怒り心頭だったらしい。演奏が終っても、コンサートマスターと、あと2、3人を除いては、ソリストに対し誰一人として拍手をしない。ただじっと冷たく押し黙ったまま座っているばかり。
 指揮台にいたデュトワにポゴレリッチが「一緒に答礼を」というジェスチュアを見せたのに対し、デュトワが指揮台から降りようともせず、「どうぞあなただけ」と慇懃な身振りをした光景は、まさに珍妙であった。

 ポゴレリッチだけは、独り満足げな表情である。その後も泰然自若たる(緩慢な?)動作と足取りで、3回もカーテンコールを繰り返し、四方八方に会釈をしていた。
 コンマスだけは最後まで拍手を続けていたものの、弦の他の首席連中が彼を見て「もういい加減に引っ込もうぜ、合図をしろよ」という表情を見せていたのも可笑しかった。そこで客電が上って、どうやら一巻の終りと相成った。だが、そのあと休憩後にデュトワが指揮台に上った時、楽員たちはあたかも「ご苦労だった」と言わんばかりに、デュトワに大きな拍手を贈ったのであった!

 こんな不思議な協奏曲の演奏は、滅多に聞けないだろう。
 かの有名なグレン・グールドとバーンスタインのブラームスの「協奏曲第1番」(1962年)では、バーンスタインはオーケストラだけの個所でもグールドに合わせたテンポを採っていた。それにグールドは、極端に遅いテンポではあったが、それを滅茶苦茶に動かしたりすることはしなかった。従って、遅いなりにも、まとまった演奏になっていた。ところが今回は、そういうタイプの演奏でもなかったのである。

 しかし、これこそがナマの面白さ、というものである。
 こういう出来事にめぐり合えることがあるから、コンサート通いは止められないのだ。
 ポゴレリッチをソリストに起用することを誰が発案したのかは知らないが、そのマネージャーは、愚か者でなければ、相当なシャレのわかる知恵者に違いない。

 ショパンにのめり込んでいる聴き手にとっては、ポゴレリッチの演奏は、著しく神経を逆なでするものになろう。彼はこのあと、「ラ・フォル・ジュルネ」(3日)やサントリーホールのリサイタル(5日)でも弾く。また腹を立てることになるかもしれないが、聴きに行きたいと思っている。

 

4・27(火)シャルル・デュトワ指揮フィラデルフィア管弦楽団

   サントリーホール  7時

 久しぶりに日本で聴く、華麗な所謂「フィラデルフィア・サウンド」。

 ストコフスキーの時代のそれは流石にナマでは聴いたことがないけれども、オーマンディの辛うじて後期の頃には、チラリと聴くことができた。あれはまさに光彩陸離といった表現がぴったりの音であったが、その後は音楽監督サヴァリッシュの指揮でも、ましてエッシェンバッハの指揮でも、あるいはその2人の前の音楽監督ムーティの指揮でさえも、あのサウンドを味わうことはできなかった。
 もちろんオーケストラというものは多彩な能力を持っているから、その間にも他の客演指揮者のもとではそのフィラデルフィア・サウンドなるものを発揮していたかもしれない。が、来日公演では久しぶりにデュトワのもとで――もちろんそれは「デュトワ色」のものではあるけれど――それが発揮されたということである。

 今回の来日では宮崎1回と東京2回の公演のみで、今日の東京初日はストラヴィンスキーの「火の鳥」全曲と「春の祭典」。
 豪壮で華麗、雄大で強烈な音響は、まさにアメリカのオーケストラでなければ出せないものだろう。PMFでもおなじみのダニエル・松川(ファゴット)をはじめ、弦にも東洋人の首席奏者が多いのに、なぜこんなに壮麗な音のオーケストラとなり得るのか、これはだれか知恵者に分析していただきたいような面白い問題である。

 「春の祭典」での、金管群の咆哮と弦楽器群の唸りは凄まじい。また「火の鳥」での最弱音においても実に艶やかな音色が満ち溢れていた。
 いわばオーケストラの音響美の極限の一例でもあるこの音響の洪水に身と心をゆだねるのは、それ自体スリリングで快いことではある。
 ただしそこには、これではあまりにも音の美感のみに頼りすぎた演奏ではないか、という一種の疑念のようなものが付いて回ることも事実なのだ。
 アンコールで演奏されたシベリウスの「悲しきワルツ」も、これほど「死神の陰鬱さ」を感じさせない、壮麗な演奏は珍しいかもしれない。もっとも、そこがデュトワのデュトワたるゆえんとも言えるのだが。
 

4・26(月)シルヴァン・カンブルラン指揮読売日本交響楽団
常任指揮者就任披露(定期)演奏会

  サントリーホール  7時

 聞けばカンブルランは、例の噴火のとばっちりでパリから飛行機に乗れず、マドリードまで車で移動し、南回りの便に乗り、テル・アヴィヴと香港で乗り継いで日本にやって来た由。しかもテル・アヴィヴではトランジットに14時間を要したが、ビザの関係で空港から出られず、折角手配されていたホテルにも入れぬまま空港で時を過ごしたとのこと。到着後もその件では愚痴一つ言わなかったというから、さすが立派なプロ根性である。

 今日の常任指揮者就任披露のコンサートでは、彼はベートーヴェンの「コリオラン」序曲、マーラーの「交響曲第10番」の「アダージョ」、シェーンベルクの交響詩「ペレアスとメリザンド」の3曲を指揮した。
 偶然にも最後は「死」に結びつくような作品ばかりで、就任披露としては暗めのプログラムであったけれども、演奏そのものは見事に充実しており、彼と読売日響の共同作業は輝かしいスタートを切った――と言って間違いなかろう。

 「コリオラン」では、第1主題をためらいがちなリズムで進めるなど、各所に細かいニュアンスを導入して、いわば思索的なコリオレイヌス像といったものを創り出したのは面白かった。読響も良い音を出すものだという印象である。
 マーラーでも同様、弦を中心に音色の良さが際立っていた。
 昨年横浜で演奏したラヴェルの作品での音の美しさには、読響がここまでやるかと驚かされるものがあったが、この分で行けば、それが復活するまでさほど時間を要さないだろう。

 後半の曲目、「ペレアスとメリザンド」はまさに圧巻と言うべき演奏で、特にミステリアスな暗い部分における音色の多彩さと雄弁さには、慄然とさせられるほどであった。
 以前この曲を、誰の指揮だったか忘れたがナマで聴いた際、おそろしく晦渋で無愛想な演奏のため辟易させられたことがあったが、それとはえらい違いだ。カンブルランは、シェーンベルクの作品からさえ、あたかもルーセルの音楽のような、フランス的な洗練さを引き出していたのである。
 テュッティのフォルティシモの個所では、金管群の響きに硬さと混濁感がなくはなかったが、それを除けば大いに満足できる演奏であった。
 
 聴衆と楽員の双方から贈られた熱烈な拍手は、カンブルランを喜ばせたであろう。聴衆に向かって「ベストを尽すことをお約束します」と彼は挨拶し、さらに大きな拍手を浴びた。次は5月1日の「春の祭典」である。

4・24(土)あらかわバイロイト ワーグナー:「ワルキューレ」

   東京・サンパール荒川大ホール 1時
 
 昨年の「パルジファル」(5月15日の項)に続く第2弾。当初予告されていた「トリスタンとイゾルデ」は変更されたわけだが、それはたいした問題ではない。

 とにかくこれは、ワーグナーの作品をひたすら愛する人たちが、自分たちの理想や解釈をそれにぶつけ、自分たちなりの方法で作品を上演してみたいという――その熱意だけで行なっているムーヴメントなのである。
 しかもその上演水準は、たとえ二期会や新国立劇場のそれには及ばぬとしても、すこぶる歯の強いものといえよう。参加しているのはいずれもプロの音楽家たちだから、内容もしっかりしている。手弁当同様の乏しい制作費にもかかわらず、よくぞここまでの水準に仕上げたものだと、感嘆せずにはいられない。

 指揮は昨年と同様、ドイツのベテラン、クリスティアン・ハンマーだ。
 どちらかといえば、直截な表現の指揮である――たとえばブリュンヒルデがジークリンデに「いつかこの剣を振るう英雄、その名はジークフリート」と告げる劇的な瞬間にさえ、彼は些かもテンポを調整しようとはしない。しかし、ハンマーはワーグナーに必要な情感はすべて備えており、たとえば「ヴォータンの告別」のさなか、弦楽器群がゆっくりとモティーフを奏するくだりで彼がオーケストラから引き出した悲劇的な感情の濃さは、卓越したものであった。

 オーケストラは昨年同様、TIAA(東京国際芸術協会)フィルハーモニー管弦楽団で、フリーの奏者を集めたもの。腕はいい。昨年より1プルト増やして10型にした弦の編成は、予想外に響きが豊かだ。管は、ソロの個所での木管には雑なところもあるが、テュッティで引き延ばす和音は、見事に均衡が保たれている。

 配役はトリプル・キャストで、今日は2日目。角田和弘(ジークムント)、山本真由美(ジークリンデ)、矢田部一弘(フンディング)、田辺とおる(ヴォータン)、蔵野蘭子(ブリュンヒルデ)、小畑朱実(フリッカ)他。
 この中では、角田と蔵野が歌唱も演技も安定して、群を抜いて映えた。
 この公演の中心人物である田辺は、この日はどうも声の調子が思わしくなかったようで、昨年のクリングゾル(別の日にはアムフォルタスも歌ったはず)でのようなドスの利いた声は聴けずに終った。が、公演監督・総責任者としての気苦労は並みのものではなかったであろう。「ヴォータンの告別」あたりでは、万感胸にこもり、感情を抑え切れなかったのかもしれない。

 演技は、ワルキューレたちのうち2、3人が例のごとく手を伸ばす類型的な仕種を繰り返していたのを除けば、比較的ドラマトゥルギーを感じさせていた。特に蔵野蘭子の演技表現は細やかで、流石のものがある。
(ちなみに第3日には、大野徹也、羽山弘子、小鉄和広が最初の3役を演じたはずである)。

 演出は伊香修吾。シンプルな舞台構成だが、演劇舞台的なまとまりはある。第2幕大詰めでは、ヴォータン自ら手をくだして息子ジークムントを刺殺したり、フンディングが死なずにヴォータンの言葉に従いフリッカに事の経緯を告げるため立ち去ったりする設定など、いくつか捻った新解釈も見られたのが面白い。
 もっとも、ヴォータンが激怒してブリュンヒルデを追って一度退場したあと、再び現われてジークムントを抱いて慟哭するというのは、やはり順序が不自然なのではなかろうか。第1幕と第2幕で女の子を登場させ、ジークリンデの深層心理を投影させる手法は、クラウス・グートなども使っていたものだが、ここではどうも全体の流れの中で浮き上がっていたように見え、なくもがなの感。

 ともあれこの「あらかわバイロイト」、総じて昨年を凌駕する力作と評したい。5時50分終演。

 →併せて「テオリンの目ヂカラ」さんのコメントをお読み下さい。私のよりも詳しい分析です。

4・23(金)新国立劇場の新演出 ドニゼッティ:「愛の妙薬」

  新国立劇場  6時30分

 いつ頃からか知らないけれど、最近は新国立劇場でも、オペラの登場キャラクターの名に因んだ飲み物やらサンドウィッチ・セットを販売し、客を愉しませるようになっている。今回も「アディーナ・セット」とかいう軽食トレイのようなものが売られているのを見た。
 「愛の妙薬」に因んで、だれかの役柄の名のついたワインもあったようだ。ある上品な奥様がカウンターで「わたくしにはどの妙薬が効くかしら」と言いながら注文していた、という話を知人から聞いた。オペラ座での光景としては、いいものだ。だが、私はワインもシャンパンもウォツカも、味も香りも大好きなのにもかかわらず、体の方がそれらを一切受けつけない。従って、酒の話には、どうも興味がない。

 今度の「愛の妙薬 L'elisir d'amore」は、イタリア出身のチェーザレ・リエヴィ演出によるニュー・プロダクションだ。
 舞台美術はルイジ・ペレゴ、衣装担当はマリーナ・ルクサルド。シンプルだが、衣装を含めて非常にカラフルな舞台である。リアルな村の光景などは一切なく、「トリスタンとイゾルデ(トリスターノとイゾッタ)」の物語の「本」と、「Elisir」の字の形とをモティーフにした大道具・小道具が活用される。

 演技はイタリア・オペラものとしては比較的細密で、「お芝居」としても流れのいい舞台だろう。
 ただ、色男軍曹のベルコーレの部下の兵隊たちをコミカルなキャラにしたところや、インチキ薬売りのドゥルカマーラがプロペラ航空機の操縦士になって現われるところは――これら自体は面白いアイディアであることはたしかなのだが――そこだけ妙に浮き上がっているようにも感じられて、何か腑に落ちない。
 ラストシーンで、薬を売れるだけ売り捌いたドゥルカマーラが縄梯子につかまってブランブランしたままでいる場面など、いっそ梯子ごと空中に上って行くとか、第1幕で出た飛行機に飛び乗って逃げて行くとかすれば、最後のシャレがピリリと利いたのではないかと思うのだが如何。

 総じて、綺麗に仕上げられてはいるものの、沸騰する熱気のようなものがあまり感じられないというか、近年の新国立劇場としてはまあ平均的な水準の舞台――と言うところか。

 指揮は、これもイタリアのパオロ・オルミ。オーケストラ(東京フィル)の鳴らし方も巧い。「人知れぬ涙」の前奏のファゴットが如何にも哀愁たっぷりの雰囲気で演奏して見せたのは、秀逸だろう。ネモリーノとアディーナが愛を告白しあう瞬間のオーケストラの短いが雄弁な盛り上がりの演奏も、出色だった。

 ネモリーノはジョセフ・カレヤ。最初のうちは彼の独特のヴィブラートが気になったが、いわゆるヤサオトコでなく、大きな声(!)の、純朴で野暮ったい大男のネモリーノというのも面白い。
 アディーナのタチアナ・リスニックは容姿も声も細身だが、妙に図々しい女が最後に可憐な恋する女に変貌して行くあたりの表情は、なかなか良かった。
 ドゥルカマーラのブルーノ・デ・シモーネは、演技でも歌唱でも、さすがの芸達者。

 ベルコーレには与那城敬が出て健闘したが、前出の歌手たちの中で互角に渡り合って行くにはまだ経験不足は補えまい。格好良さではひけは取らない人のだから、早く他流試合を重ねてスターになって欲しいものである。
 良かったのは、いつものように新国立劇場の合唱団。特にこの1,2年というもの、充実は目を見張らされるものがある。

 終演は9時頃。イタリア・オペラは短くて楽だ――ワーグナーに比べると。

4・22(木)広上淳一指揮東京フィルハーモニー交響楽団

  東京オペラシティコンサートホール 7時

 広上淳一が、すこぶる個性的な指揮を聴かせてくれた。
 モーツァルトの交響曲第32番K.318、ショパンのピアノ協奏曲第1番(ソロは金子三勇士=みゆじ)、シューマンの交響曲第3番「ライン」というプログラム。

 特に「ライン」では、所謂ロマン的な叙情感や壮麗さとは対極の、鋭いデュナーミクとアクセントとリズムによるごつごつした構築の音楽をつくり、剛直で毅然としたシューマン像といったものが描き出されていた。
 第4楽章終結での和音群に、スコアのイメージよりも更に強いアクセントが与えられていたことは、ここの音楽に一種のデモーニッシュなもの――それはシューマンが陥っていた精神的な危機とも関連する――を感じさせるだろう。
 しかもその暗さから転じて直ちにフィナーレに入る個所は、ただ無頓着に移行するのではなく、何かためらいがちに足取りが軽くなり、次第に明るさを増して行くという演奏でもあった。ここにもまた、当時のシューマンの屈折した心理状態が暗示されているように聞こえたのである。

 東京フィルも、第1楽章冒頭ではやや混濁した音色が感じられなくもなかったが、第2楽章以降は響きも快く、広上と一体となって良い演奏を創り上げた。久しぶりに手ごたえ充分の「ライン」を聴いたような気がする。

 同様にモーツァルトの交響曲でも、客席に向かって強烈に押し出して来るような演奏が繰り広げられていた。
 ショパンの協奏曲でもその傾向がなくはなかったが、しかし第2楽章では見事な耽美的な音楽が聴かれた。このあたり、広上のロマンティシズムの感覚を余すところなく示した演奏といえよう。

4・21(水)マイケル・フランシス指揮
東京シティ・フィルハーモニック管弦楽団

   東京オペラシティコンサートホール 7時

 チェコのピルゼン国立歌劇場首席指揮者とプラハ国立歌劇場指揮者を兼任するイジー・シュトルンツの客演に興味を持っていたのだが、例の噴火騒ぎで来日不可能に。

 代わりに、ムターとの協演のために来ていた英国の若手指揮者マイケル・フランシスが急遽客演した。彼はロンドン響のコントラバス奏者として活動していた人だが、3年前にゲルギエフの代役として指揮したのをきっかけに頭角を現わし、このところ急激に活動の場を拡げ始めているとのことである。今回も、ムターが彼を引っ張って来たらしい。ライジング・スター指揮者に興味津々の私としては、聴かないわけには行かない。

 プログラムは、シュトルンツが指揮することになっていた「売られた花嫁」序曲と、チャイコフスキーの「ヴァイオリン協奏曲」(ソロは有希マヌエラ・ヤンケ)、それに「新世界交響曲」が、そのまま引き継がれていた。
 「彼、こういう曲も振れるの?」と冷やかし気味にシティ・フィル事務局の齋藤美奈子さんに訊いたら、「こういう曲を振れない指揮者なんていないでしょう」と切り返され、なるほど、たしかに、と妙に納得した次第。

 さて本番となり、何かおとなしそうな表情で静かに登場したフランシスだったが、いざ序曲を指揮し始めたら、何とこれが猛烈にエネルギッシュで、ダイナミックな演奏だったのには驚いた。これほど威勢のいいシティ・フィルを、私は最近聴いたことがない。
 協奏曲でも同様で、たたきつけるようなフォルティシモで煽って行く。しかしトランペットのリズムに細かいアクセントを施したり、第2楽章ではきわめて美しい弦の最弱音を引き出したりするところなどはなかなか見事で、神経を行き届かせる指揮にも秀でているようだ。
 「新世界交響曲」も速めのテンポで、前述の特徴をすべて集約した、どちらかというとワイルドな演奏だったといえようか。

 総じて言えば、基本的にかなり荒っぽい演奏ではあったが、それがフランシスの個性なのか、あるいは近頃のシティ・フィルのクセなのかは、俄には断定しがたい。
 彼は今週土曜日に東京響を指揮してムターとコンチェルトをやり、ベートーヴェンの「7番」をも指揮することになっているから、それと併せて判断する方がいいだろう(ただし私はその日「あらかわバイロイト」に行くことになっているので、彼の指揮は聴けない)。

 しかしいずれにせよ、少しくらい荒っぽくても、この勢いのよさは若手らしくて良い。ちょっと面白い指揮者だなという印象を私は得ている。
 

4・20(火)ユンディ・リのショパン・リサイタル

  サントリーホール 7時

 超満員の聴衆を集めての演奏会。客層の大半は女性である。ただ、いつかのキーシンの時よりは年齢層が高いようで、舞台への「お土産贈呈」の数も3、4人ほどに過ぎなかった。
 キーシンの時には、客席がフラッシュの嵐で、SPSの女性たちが駆けずり回って制止していたっけ。しかもロビーで高校生らしき女の子たちが「なんで今日はフラッシュ焚くと怒られるのよ!」と喚いていたのには肝を潰したものであった。それに比べると、今夜はすこぶる静かな雰囲気である。

 で、リ・ユンディ(李雲迪)。
 ショパン・プロで、「ノクターン」から「作品9の2」の2曲および「15の2」「27の2」「48の1」、次に「アンダンテ・スピアナートと華麗なる大ポロネーズ」、休憩後に「マズルカ」作品33の4曲、「葬送ソナタ」、最後に「英雄ポロネーズ」という構成。

 この同一プログラムを、今回の来日では22日間に11のホールで12回も繰り返し弾くというのだから、これはある意味では大変なことだろう。
 そういう状態の中にあって、各作品に対しての感覚の新鮮さを如何にして保つのか、私のような凡人には考えも及ばぬことだが、演奏者の心の中までは量り知ることはできない。

 だからと言って、強引にこじつけるつもりは毛頭ないけれども、ポロネーズやマズルカのいくつかと、ソナタの第1楽章などでは、彼の激しい感情が何か上滑りしてしまっているような感があった。そのため、音楽に一種の空虚さが生じているような印象が、私にはどうしても抜け切れなかったのである。
 売れっ子、自重すべし。

 その代わり、基本的にイン・テンポで弾かれた遅い部分――「ノクターン」の数々や「ソナタ」の第2楽章中間部と第3楽章などでは、彼の瑞々しい「歌」が充分に感じられたことはたしかだった。
 李雲迪、未だ27歳。

4・19(月)アンネ=ゾフィー・ムター・ヴァイオリン・リサイタル

   サントリーホール 7時

 ランバート・オーキス(ピアノ)とのデュオで、ブラームスのソナタ3曲。
 昨年秋に録音したCDと同じく、「第2番」「第1番」「第3番」の順序で演奏した。

 最近の彼女の特徴たる大きなヴィブラート、時に官能的なほどのポルタメントを伴うレガート、そこに併せ持つ強靭なリズム感、輝かしい音色、空間的拡がりを持つフォルティシモと艶かしい囁きのようなピアニシモとの対比などは、CDで聴くよりも、ナマのコンサートでの方が、はるかに強烈に発揮される。
 また、3曲ともに冒頭はやっと聞き取れるような、囁くような弱音で開始されるが、これもCDでの演奏よりずっと強調されていて、きわめて印象的だ。聴衆が息をつめて聴き入る頃、彼女の音量は次第に増大し、オーキスのよく鳴るピアノをさえ圧して、フィナーレでは支配的な力で響きわたる(まるで講談の名人の語り口を聴くがごとくである)。

 とにかく、これほどブリリアントで、あでやかで、叙情的なカンタービレにあふれ、しかもメリハリ豊かな、あざといほど濃厚な表情のブラームスは、他に多くその例を見ないだろう。彼女の人魚のようなスタイルの衣装の視覚的な美しさと、演奏の音色の美しさとが、イメージの上で完璧に合致して、見事な感覚美のブラームスとなって滔々と流れる。

 アンコールでは、ブラームスのハンガリー舞曲の第2番、同第1番、子守歌、ハンガリー舞曲第7番、最後にマスネの「タイースの瞑想曲」。舞曲でのラプソディックで奔放な迫力もさることながら、「瞑想曲」での甘美な陶酔に満ちた演奏もまた、ムターならではのものだ。
 

4・18(日)ルドルフ・ブッフビンダー・ピアノ・リサイタル

   東京オペラシティコンサートホール 2時

 ベートーヴェンのピアノ・ソナタを3曲――「第10番ト長調作品14-2」と「熱情ソナタ」「ハンマークラヴィーア・ソナタ」。

 分厚い和声をたっぷりと響かせ、どっしりとした構築感を通じてベートーヴェンの音楽に巨大な風格を蘇らせるところ、いかにも独墺系のベテラン・ピアニストならではの個性である。こういうタイプの演奏を聴ける機会がだんだん少なくなって来ている当節、不思議な懐かしさに浸りながら時を過ごさせてもらった。

 もっとも、そう感じている一方で、この重々しい威厳のベートーヴェンから脱出し、もっと血の気の多い、鋭利なベートーヴェンへ転進したくなるという気持が、聴いている間にさえふっと頭をもたげて来るというのは、われながらまことに怪しからぬこと(??)ではある。「ハンマークラヴィーア・ソナタ」のさなかなど、終始その二つの感情の間を揺れ動いていたのが正直なところだ。

 その「ハンマークラヴィーア」では、第1楽章の途中でガシャッという妙な音が聞こえたあと、第2楽章に入る前に調律師が登場するという珍しい事件が勃発した。
 だからといって、ブッフビンダーほどの人であれば、この中断が第2楽章以降の演奏に影響を及ぼすなどということは、あるはずはない。
 それゆえ、4つの楽章が精神的な有機的繋がりを持つこのソナタで、第1楽章のあとでCDを停めて他の仕事をやり、そのあと第2楽章からまた聴き始めるなんてことがあったとしたら、とても気分が乗らないよなあ――などと連想するのは、悪いシャレであろう。

 アンコールでは、最初に「悲愴ソナタ」の第3楽章が弾かれた。
 そして次に出て来たのが、ブッフビンダー得意の、グリュンフェルドの「ウィーンのソワレ(夜会)」という小品。「こうもり」のワルツ他を使ったこの曲でブッフビンダーが聴かせた演奏の幻惑的な色気は、まさに独特のものだ。かくて、終り良ければすべて善し、である。

4・17(土)いずみホール開館20周年記念オペラ
 ロッシーニ:「ランスへの旅」

  いずみホール(大阪) 4時

 札幌の新千歳空港から大阪の伊丹空港への直行便は、もう朝と夕方に1便か2便しか飛んでいない。不便な世の中になったものだ。仕方がないので、JAL便を羽田で乗り継ぎ、大阪へ向かうことにした。

 ところが、羽田では早朝に雹が降ったとかで、私の乗る札幌―羽田JAL502便の機材到着が遅れ、したがってフライトも遅れ、結局羽田に着いたのは、乗るべき羽田発大阪行のJAL115便のフライトの、何とわずか10分前だった。係員に「次の便でいいから」と言ったのだが、「大丈夫ですからすぐ行って下さい」と受け付けてくれぬ。
 乗り継ぐ数人の客とともに、係員の誘導で空港内を走らされ、ヘトヘトになって、すでにフライト予定時刻を15分ほど過ぎながらドアを開けて待っている機に飛び込むと、満席の数百人の乗客たちが、みんな一様に押し黙ったまま、物凄い顔でこちらを睨みつけている。地獄である。

 あとで隣席の夫妻から聞いたのだが、フライトが遅れている理由についての機内アナウンスが全く無かったのだそうだ。せめて「札幌からの乗り継ぎ便のお客様をお待ちしているため云々」くらい言っておいてくれればいいと思うのだが、JALのサービスもチグハグである。

 今日のロッシーニの「ランスへの旅」は、2年前に「いずみホール・オペラ」として上演されたプロダクションの再演だ。
 岩田達宗の演出で、セミ・ステージ形式の字幕付原語上演。佐藤正浩指揮のザ・カレッジ・オペラハウス管弦楽団がステージ上に乗る。
 舞台後方の階段やオルガン席、バルコン席などを実に巧みに活用して歌手たちを縦横に動かし、まるでオペラの舞台装置が実際にあるかのような錯覚を抱かせるところが面白い。
 当節はいたるところでホール・オペラが大流行りだが、これだけシンプルな舞台で、しかも豪華で華麗な雰囲気を創り出したプロダクションは、そう多くはないであろう。それ一つとってもこのホールの意欲的な企画性が窺われるというものである。

 歌手陣には、さすがの貫禄を示した佐藤美枝子(コリンナ)を筆頭に、石橋栄美(コルテーゼ夫人)、尾崎比佐子(フォルヴィル伯爵夫人)、福原寿美枝(メリベーア侯爵夫人)、清水徹太郎(騎士ベルフィオーレ)、井原秀人(シドニー卿)、久保田真澄(ドン・プロフォンド)、牧野正人(ドン・アルヴァーロ)ら、東京・京都・大阪の腕利きが総動員されていた。

 演技には例のごとく類型的な仕種が多いし、歌唱にも多少のムラはあるけれども、全体に不思議な華やかさとノリの良さがあり、なるほど前回の上演で大評判を取っただけのことはある――と思わせた。
 佐藤正浩のテンポ運びも良いし、大阪音大のオペラのオーケストラとして名を馳せるザ・カレッジ・オペラハウス管もさすがに手馴れたものであった。「関西のノリ」も交じった、なかなか愉しい「いずみホール開館20周年記念オペラ」だった。
 7時15分終演。

4・16(金)ラドミル・エリシュカ指揮札幌交響楽団、またも快演

  札幌コンサートホールkitara 7時

 3月に発売されたスメタナの「わが祖国」全曲CDは、エリシュカと札響の名を永く残すであろう超名演だったが、今回の定期――ドヴォルジャークの序曲「謝肉祭」と「交響曲第5番ヘ長調」、およびその間にヤナーチェクの「シンフォニエッタ」を挟んだプログラム――もまた、このコンビの快調ぶりを物語る見事な演奏だった。札幌まで聴きに行った甲斐があったというものである。

 序曲「謝肉祭」の冒頭から、華やかな最強奏にもかかわらず、不思議な温かさと、懐かしさと、柔らかさに満ちた音楽がいっぱいに拡がる。
 凡庸な指揮者が陥りがちな、単なる騒々しい演奏とは全く違う。したがって作品は、祭の喧騒というよりは、一種の郷愁を湛えた田園詩といった性格を備えることになる。賑やかなこの曲を、これだけ美しく演奏した例も稀ではなかろうか。終り近くで主題の中に一閃するはずの、ホルンの猛々しい咆哮(オイレンブルク版スコア第422~3小節)も聞こえない。これにはオヤッと思ったが、版が違うのでなければ、エリシュカの解釈なのだろう(譜面には彼の書き込みが非常に多いとのことである)。
 といっても、この演奏がのんびりしているということではない。それどころか、コーダへ向けての追い込みの個所(同【S】以降)など、とりわけ凄まじい。あそこがあんなに緊迫感を以って演奏されたのを聴いたのは、セルのレコード以来、久しぶりだった。

 「シンフォニエッタ」では、金管のバンダはP席前方に並んでいた。この金管群のファンファーレはかなりガサガサしていて落ち着きがなかったが、オーケストラ本体の演奏が素晴しい。弦も管も均衡を保って、特に中間の3つの楽章における弦楽器群の明晰で透明な音色(いかにもヤナーチェクのそれ!)は印象的だった。
 欲を言えば、大詰めの個所で、ファンファーレを逆に包み込むように沸き立つはずの弦と管の和声的な厚みが、もっと強く響いてくれていれば――というところ。

 プログラム第2部で演奏された「第5交響曲」は、まさに特筆すべき快演。
 前の曲で怜悧に響いていた弦が、ここでは泡立ちクリームのごとく、豊かに柔らかく拡がりをもつ音色に一変する。木管も金管も、実に瑞々しく、均衡を以って響く。札響のこの多彩な表現力は驚くべきものである。

 しかも見事だったのは、この少々まとまりの悪い交響曲でエリシュカが示した、主題やモティーフの実に見通しの良い組み立ての手法であった。
 たとえば、第1楽章冒頭で提示されたモティーフが、全曲の最後のクライマックスで見事に解決される個所での、音のバランスの巧みな創り方である。トランペットとの錯綜を抑え、トロンボーンによるこのモティーフがはっきりと浮かび上ることで、この交響曲は鮮やかな起承転結を示すことになる。このような演奏に出会ったのは、私の体験では、かつてのスウィトナーとシュターツカペレ・ベルリンのレコード以来のことだった。

4・15(木)METライブビューイング トーマ:「ハムレット」

  東劇(銀座) 7時

 3月27日メトロポリタン・オペラ上演の映像配信。

 3月16日に現地METのグランド・サークル席からプレミエを観た時に比べ、さすがに至近距離のアップ映像で観る舞台は、演技の細かい表情が判って面白い。
 サイモン・キーンリイサイド(ハムレット)が非常に細かい「顔の演技」をしている様子など、あの巨大なMETでは、たとえどこの席からであろうと見えるわけはないのだから、この映像配信は貴重だろう。
 クローディアス王を演じるジェイムズ・モリスが威風堂々として、とても兄王暗殺犯人とは見えないこと、その代わり王妃ジェルトリュード(ガートルード)役のジェニファー・ラーモアがあくどい顔の演技で、むしろこちらの方が嫌らしい悪女みたいに見えること――などが、現場で観た時の印象とは違ったところだ。

 オフィーリア(オフェリア)役のマルリス・ペーターセンは、プレミエの日とは比べ物にならぬ見事な歌唱。
 私もあの時は「緊張していたのか」と書いたくらいだが、この映像の幕間インタビューでも、「12日までウィーンで歌って、翌日飛んで来てすぐリハーサル(2日間)をやり、本番に臨んだ」と語っていた。もともとデセイとのダブルキャストにより最終公演(4月9日)で歌うことになっていたとはいえ、急遽繰り上げての初日からの「ベタ出演」となったのだから、スケジュール調整も大変だったわけだろう。
 しかし今日の映像では、彼女の実力が並々ならぬものであることが証明されている。これからいっそう人気が出る人だろう。

 もう一つ、重要なこと。これも幕間インタビューで、指揮者のラングレが、
 「トーマは最初、ハムレットが幕切れで死なず、新王として即位するエンディングを書いたのですが、フランスではともかく、シェイクスピアの国たる英国での上演では観客が承知しないということが判り、英国人向けとして、ハムレットが最後に自害するという幕切れに変更したのです。今ここで上演しているのは、その英国用の版なのです」と説明していた。
 なるほど、そういうことだったのか――と、お粗末ながらも今になって知った次第である。たいへん勉強になった。
 ただ、今回のパトリス・コーリエとモーシュ・レイゼルによる演出では、ハムレットが「自害」するのではなく、ラエルト(レヤーティーズ)ともみ合い、はずみで相手を死なせてしまい、自らも深傷を負うという設定になっているのだから、いずれにせよ演出が読み替えになっていたのは事実だった――とは苦しい言い訳。

4・12(月)下野竜也指揮読売日本交響楽団
ドヴォルジャーク「交響曲第7番」他

  サントリーホール 7時

 下野のドヴォルジャーク交響曲シリーズは、これが第5輯となる由。
 あの「第4番」の情熱的な演奏(昨年2月10日)は今なお鮮やかに私の脳裡に刻みつけられているが、今回の「第7交響曲」も、なかなかの出来と言えよう。

 演奏開始前、彼にしては珍しく、おごそかな歩調と物々しい顔つきで舞台袖から登場、すでに交響曲の冒頭を予告するといった雰囲気。
 事実、モルト・マエストーゾといった調子で開始された第1楽章は、些かもってまわった組み立てのわりには求心力の希薄な演奏に感じられ、こういう下野はありがたくないな、とまで思ってしまったくらいだ。
 ところが、第2楽章後半あたりから音楽は見違えるほどに活気を帯び始め、あの「第4交響曲」の下野がぐんぐんと姿を現わして来た。

 特に後半の2つの楽章は、下野の本領発揮というところだろう。全曲大詰めにおける、彼特有の体当たり的な盛り上げも、壮大だった。
 私はこのコーダに関しては、1976年に故ズデニェク・コシュラーが札幌交響楽団を指揮した時の、大波のようにクレッシェンドを繰り返す劇的なエンディングがいまだに耳の奥底にこびりついているのだが、今夜の下野の指揮には、そのような「演出」は無い。
 しかし、音の空間的な拡がりは充分で、読売日響も総力を挙げた演奏であったろう。手応え充分のドヴォルジャークだ。

 演出は無い――とはいっても、実際には下野はスコアの細部のあらゆる個所に神経を行き届かせているようで、特にデュナーミクの変化の細かさは好ましい。
 ただ、第3楽章のスケルツォ主題に絡むヴァイオリンの対旋律――これは結構素敵なものなのだが――の中でのデクレッシェンドを強調し、その旋律を途中で薄れ行くような感じにしてしまったのは、些かやり過ぎではないかと思うのだが、如何に?

 プログラム前半には、アンドレアス・ヘフリガーをソリストに迎えてのブラームスの「ピアノ協奏曲第2番」。この人のピアノ、綺麗な音色ではあるのだが、長い全曲が同じような音色と表情で弾かれるのには疑問がある。むしろ読売日響のチェロのソロの方が映えていた。

4・10(土)ヘルベルト・ブロムシュテット指揮NHK交響楽団
マーラー「交響曲第9番」

   NHKホール 6時

 名誉指揮者ヘルベルト・ブロムシュテットが、マーラーの第9交響曲を指揮。

 さすがにこの人が振ると、N響も全力を出すようである。
 1階席の17列中央あたりで聴いた印象では、久しぶりに筋金入りの演奏を愉しめた気がした。
 特に第3楽章では松崎裕の率いるホルン・セクションが映え、また第4楽章ではたっぷりとした量感で拡がる厚みのある弦楽器群(コンマスは篠崎史紀)が威力を発揮していた。これでトランペットあたりがもう少し美しい音色で吹いてくれれば万全だったのだが――。

 ブロムシュテットはいつものように飾り気なくストレートに押す指揮だったが、第4楽章の後半から終結にかけての個所などでは、むしろこういう指揮の方が、マーラーの音楽の骨格を明確に浮彫りにするだろう。
 指揮者の中には、ここで殊更に沈潜してみせ、あるいは自己陶酔し、音楽をばらばらにしてしまう人もいるのだが、今日のブロムシュテットはそのあたりを流れ良く、かといって無味乾燥にもならず、明晰な終末を導き出していた。それは所謂「あたかも碧い空に遠く白い雲が消え行くかのように」というようなロマン的で彼岸的で神秘的な味わいには欠けるにしても、一つの納得の行く手法であり、充実感を生む手法であることは確かであった。

4・9(金)東京・春・音楽祭 ムーティ指揮「カルミナ・ブラーナ」

   東京文化会館大ホール

 今年の「東京・春・音楽祭」の大トリを飾るプログラムは、大御所リッカルド・ムーティさまが指揮する、オルフの「カルミナ・ブラーナ」。
 演奏は、東京春祭特別オーケストラと東京オペラシンガーズ、東京少年少女合唱隊、デジレ・ランカトーレ(S)、マックス・エマヌエル・ツェンチッチ(T)、リュドヴィク・テジエ(Br)という顔ぶれ。

 ソリストは粒が揃っているし、合唱もオーケストラを圧して轟き渡る音量を備えての力演である。
 堀正文をコンマスとする臨時編成のオーケストラももちろん腕はいい。だが――何となく色彩感に不足、まるでN響(!)みたいに真面目ではあるが面白味に欠けるという傾向が。
 つまり、ソロ、合唱、オケの3者に何か一種の硬さや慎重さが感じられ、自然な闊達さや沸き上がる興趣といったものに不足していたように感じられたのである。初日ゆえの緊張感か、あるいは練習不足か?
  
 第1部後半での凄まじい追い込み、第2部の「酒場の場面」のある個所での猛然たるアッチェルランドをはじめ、ムーティらしい迫力と洒落っ気が横溢した音楽は随所に聴かれ、演奏にはスリリングな雰囲気もあった。
 が、全体としては、今一つの――。こちらの期待が大きすぎたか?
 2日目の演奏(明日)を選んでおけばよかったかなと思っている。

 プログラムの前半には、モーツァルトの「ハフナー交響曲」が演奏された。

4・8(木)「怪人が紡ぐ《ある愛の歌》」
井上道義指揮新日本フィルハーモニー交響楽団 「青ひげ公の城」

   サントリーホール 7時15分

 バルトーク・プロで、「弦楽のためのディヴェルティメント」と、オペラ「青ひげ公の城」(演奏会形式上演)。

 「怪人」とは「青ひげ公」ではなく、井上道義のことだそうな。意味不明だが、解らなくもない。「ったく、だれがそんなタイトルを考えたンかねェ」とは先日神奈川県立音楽堂で会った時の彼の言葉だが、ふだんの彼の言動からすると、案外彼が自分で言い出したのではないかという気もする。

 それはともかく、怪人が指揮した「青ひげ公の城」は、実に見事な演奏だった。
 全体にテンポを遅めに採り、透き通った音色で分厚い管弦楽を明晰に響かせる。所謂ハンガリーの民族音楽的な土臭さとか、濃厚な色彩感とか、どろどろした雰囲気などはないけれど、その代わりにまるで日本画のそれのような透徹した、しかも剛直な筆致で描かれた美しい怪談か悲劇――といったイメージを連想させる。
 こうした白色系の光を放つ音色は、井上道義が近・現代音楽を指揮する時に特有な個性として、昔から聴き慣れてきたものでもあった(そして彼のこのような音楽を巧く具現できるオーケストラは、今でも新日本フィルがいちばんであるように思える)。

 かような指揮で再現されたこの心理ドラマは、イヴァン・フィッシャーが指揮したような民族的な血腥い濃厚な演奏とも、あるいはブーレーズの指揮したような冷徹で心理分析的な演奏とも全く異なるタイプの、緻密精妙でありながらクールな表情を持ち、クールでありながら一種の凄味を感じさせるものになる。
 特にオペラの後半、第6の扉(涙の湖の部屋)と第7の扉(青ひげの記憶の中に生きる女たちの部屋)のくだりにおける暗鬱で不気味な美しさは、全曲中の白眉であった。

 演奏会形式ではあったが、青ひげ(コヴァーチ・イシュトヴァーン)とユーディト(コムロシ・イルディコ)は暗譜で、多少の演技をまじえながら舞台前方で歌う。
 井上自身のアイディアらしいが、若干の照明演出が加わる。物語の冒頭は暗黒で、P席に吟遊詩人(押切英希)が登場する。
 第1の扉以降、扉の場面ごとに正面オルガンに色の異なる照明が当てられるが、第3の扉(宝物の部屋)では光は拡がって輝きを増し、第5の扉(王国を眺望する部屋)では舞台全部が明るくなり、P席後方両側には金管のバンダも登場して壮麗な音響のクライマックスを築く。
 ユーディトが「過去の女」の仲間入りをする大詰め場面では、彼女はオーケストラの中に歩み入り、青ひげは冒頭場面と同様に舞台手前の大きな椅子に身を埋めてしまう(なんとなくブロードウェイ演出の「オペラ座の怪人」を連想させた)。舞台は再び暗黒となって終る。

 歌手の声が分厚いオーケストラにマスクされる傾向はもちろん無くはなかったが、危惧されたテュッティの個所(第5、第7の扉)では井上と新日本フィルの手際の良い響かせ方により、青ひげの声も比較的はっきりと浮き出していた。2人の歌手の表現力はさすがに堂に入ったもので、この演奏の成功の一翼を担うに充分な存在であった。

 新日本フィル。弦の澄んだ音色がひときわ見事。
 これはプログラム前半で演奏された「ディヴェルティメント」でも同様で、整理された鋭利な音の絡みが――多少無機的なところがないでもないが――割り切った痛快さを生む。
 「青ひげ公」での管楽器群も、完璧と言っていいほどの演奏を聴かせてくれた。この管の水準は、この2週間ほどの間に聴いた日本のオーケストラの中では(東京交響楽団とともに)ベストと言っていいであろう。
 3月定期でのハウシルトの指揮による重厚壮大なブルックナーの名演といい、このところの新日本フィルはきわめて良い状態にあるようだ。
 

4・5(月)小山由美&飯守泰次郎指揮東京シティ・フィル
(小山由美・サントリー音楽賞受賞記念コンサート)

   サントリーホール 7時

 3日連続で「パルジファル」の第1幕前奏曲を聴くことになろうとは、当初は予想もしていなかった。
 3種の演奏の中では、今日のがいちばん所謂「トラディショナルなワーグナー」っぽいスタイルだったが、これはまあ、飯守泰次郎の指揮だから当然だろう。陰翳の濃い、重々しいけれども空間に柔らかく拡がり行く響きを持った、適度の情感をも備えた演奏である。
 先日の「ブル8」と同様、3連発でありながらそれぞれ全く異なったスタイルの演奏に廻り合ったわけだ。これが、コンサート通いの醍醐味であろう。

 プログラムは、ワーグナーの「ワルキューレの騎行」で始まり、同じく「ワルキューレ」から第2幕の「フリッカのクレーム」(本当はそんなタイトルはないが、ここだけの仮の名称である)、R・シュトラウスの「カプリッチョ」から序曲と「月光の音楽」、ツェムリンスキーの「メーテルリンクの詩による6つの歌」、「パルジファル」から第1幕前奏曲および第2幕の「クンドリの誘惑場面」、アンコールはR・シュトラウスの「献呈」。

 今夜の主役は、サントリー音楽賞を受賞した小山由美だ。
 ドイツ後期ロマン派以降のオペラを歌って、彼女ほど毅然たる風格と、人間的な温かさに富む表現とを併せ持つメゾ・ソプラノは、わが国には他にいないだろう。
 「ワルキューレ」では、ヴォータンのパートを省略してのフリッカの独り歌いの形が採られたが、これにはやはり違和感を抑えきれぬ。クレームをつける相手が目の前にいて――それも舞台上演だったらなおさらのこと――彼女はいつもの迫力をもっと存分に発揮したはずである。

 クンドリの場面では、成田勝美がパルジファル役で協演、かなり激情的な表現で小山の歌を受けたが、ここでの彼女は妖艶な魔女というよりは、日本の慈母(?)とでもいった雰囲気。

 結局、私の主観では、ツェムリンスキーの歌曲集に彼女のヒューマンな表現力が最もよく顕われていたように思う。アンコールで歌った「献呈」は、オケとともにやや落ち着かぬ空気のままに終ってしまった。
 あえて率直に言わせてもらうなら、今夜の演奏会では、小山由美の日頃の力量と魅力は、その半分程度しか発揮されていなかったようだ。サントリー音楽賞受賞演奏会ということもあって、慎重に構えすぎたか?

 東京シティ・フィルも、今夜はお世辞にも良いとは言えない。特に一部の金管楽器の粗雑さには、聴いていて何度か下を向いてしまったほどだ。かつて飯守泰次郎とワーグナーのオペラ全曲をセミ・ステージ形式で次々と上演して行った頃の、あの昂揚したシティ・フィルは、どこに行ってしまったのか? 
 思えばこの3日間、ワーグナーを競演した3つのオーケストラは、程度の差こそあれ、いずれも管楽器群に問題を残していた。いまどき、ゆゆしきことだろう。

4・4(日)東京・春・音楽祭 ワーグナー:「パルジファル」

   東京文化会館大ホール 3時

 小澤征爾の指揮で高水準のオペラ上演を生み出した「東京のオペラの森」はひとまず昨年で終了したが、そのあとを受けて開始された「東京・春・音楽祭」――その目玉公演の一つがこれだ。
 舞台上演ではなく演奏会形式上演ではあるが、それは決してわるいものではない。なまじ妙な中途半端な迷演出で上演されたりすれば、気を散らされたりイライラさせられたりするのがオチだ。それより良質な演奏会形式の方が、よほど音楽そのものの魅力をたっぷりと味わうことができるというものである。

 今回のウルフ・シルマー指揮によるNHK交響楽団と、主役陣に国際的水準の高い歌手を招聘しての演奏会形式上演は、演奏内容から言って、そうしたねらいをほぼ完璧に達成した成功作と言えるのではなかろうか。

 シルマーの指揮は、かなり素っ気ないところもあり、神秘性とか魔性とかいった要素からは程遠い――第3幕の場面転換の音楽など、全然凄味がない――ものではあるけれど、比較的速めのテンポと明確な隈取りを持つ響きできびきびと作品全体を構築し、長大な演奏時間(30分の休憩2回を含め計5時間強)を手際よく仕切っていた(これを「間」の長い、遅いテンポでねっちりやられたらヘトヘトになるだろう)。

 その一方でシルマーは、ワーグナーがこの最後の作品で粋を凝らした精妙な音色や転調手法、各動機の簡潔にして要を得た交錯といった特徴を、ある程度までは忠実に再現していた。
 第2幕の花園の場や、第3幕中盤から終結にかけての演奏は、すこぶる美しいものであったと思う。第3幕最後で音楽が大波のように打ち寄せては返しながら終結和音に向かって浄化されて行くところなど、私はこの作品の美しさに改めて酔ったものだ。
 こうした美しさは、もちろん作品の中に本来備わっているものだが、もし煩雑な演出で上演されたとしたら聴き手の気を散らしてしまい、耳を素通りして行ってしまったのではなかろうか。

 歌手陣は舞台前方に並び、楽譜を見ながらの歌唱。適度の「演技的身振り」を入れているので、ドラマの雰囲気は最低限でも汲み取れる。みんな好演で、聴き応えがあった。
 グルネマンツを歌ったペーター・ローゼが、いつに変わらぬ雄大重厚な表現で圧倒的な存在感を示す。アムフォルタス役のフランツ・グルントヘーバーも――ちょっと年取ったなと思わされたが――巧味は抜群。クリングゾルは韓国出身のシム・インスンで、悪辣な魔人役という表現には不足していたが、力感ある歌唱だ。

 クンドリは、ミヒャエラ・シュスター。この人は以前にもオルトルートやフリッカなど「憎まれ役」を歌い演じていたのを観たことがあるが、なかなかの芝居巧者だと思っていた。今回も舞台でかなり細かい演技の表情を示していたのが印象に残る。歌唱にも個性を感じさせる注目株だ。だが、クンドリのごとき複雑怪奇な役柄を巧みに表現できるようになるのは、これからだろう。
 パルジファルのブルクハルト・フリッツは、まあ、手堅い出来、という感か。

 しかし総じてこれらの歌手があまり大芝居的な歌い方をしていなかったのは、もしかしたら指揮者シルマーの注文によるものか、そうでなければ彼の即物的(?)な指揮に合わせたのかもしれない。第2幕の初めのクンドリの悲鳴や笑い声を省略したのも、その一環のような気がする(第3幕での呻き声は、これはグルネマンツの歌詞と対応するものゆえ不可欠である)。

 陰歌による小鉄和広の底力のある低音によるティトゥレルをはじめ、脇役の騎士たちや花の乙女たちなどソロは、いずれも日本勢。これもみんな良かった。合唱団は東京オペラシンガーズで、特に活躍の多い男声合唱はすこぶる強力であり、これはもう世界的なレベルに達していると言ってもいいのではないか。

 最後に、N響。金管とティンパニに時たま粗さがあったが、とにかく本気になって演奏すればこういう厚いワーグナーを響かせる力を持っているのだ、ということ。
 8時10分終演。

4・3(土)上岡敏之が日本フィルに初客演指揮

   サントリーホール 7時(ではなく2時でした)

 「上岡ぶし」が、さらにいっそうの個性化へ驀進中。
 これだけ思い切った音楽づくりのできる指揮者は、日本人では他に例を見ない。
 なまじ同じようなテを使ったら、オーケストラから爪弾きされるのがオチだ。
 上岡の場合には、ドイツを本拠にして修羅場を踏んでいる自信がこのような指揮を可能にさせるとも言えよう。
 一つの音符さえゆるがせにせず、新たな感覚でスコアを読み解き、演奏を構築する。彼が客演する日本のオーケストラは――プライドのあまりに高いN響を除いて――すべてそれを新鮮に受け止め、それぞれの緻密で個性的な演奏を聴衆に伝えているのである。

 日本フィルでも、今回ついにそれが実現した。
 演奏されたのは、メンデルスゾーンの交響曲「宗教改革」、ワーグナーの「パルジファル」第1幕前奏曲と「トリスタンとイゾルデ」の「前奏曲と愛の死」の3曲だったが、これがあの日本フィルか――と驚嘆させられるような音色が随所にあふれていたのだ。
 たとえば「トリスタン」の第1幕への前奏曲。精妙でしっとりした響きの弦楽器群がうねり、高まって行くあたりの見事さは、かつてわが国のオーケストラから聞かれたことがあったろうかと思わせるほどだったのである。
 ここをはじめ、全体に弦楽器群にはめざましい成果が聴かれていた。

 だがそれとは逆に、日本フィルにとっての大きな課題が浮彫りになったのは、やはり管楽器群にあるだろう。ピアニッシモで吹き始める際の危なっかしさ、また最弱音で遅いテンポや長い音を保たせる時の不安定さは、このオーケストラに緻密な音づくりの練習が如何に緊急不可欠かということを如実に示していたのである。

 そうした演奏の不安定さが随所にあったものの、「上岡ぶし」はいたる所で猛威を振るった。「宗教改革」冒頭の低弦と管楽器のコラールから早くもそれが現われる。其処での大きく「間」を採った音楽の緊張感は、「パルジファル」前奏曲の前半や、「トリスタン」前奏曲冒頭などでも遺憾なく発揮されて行った。
 しかし、主部のテンポは、予想されたほどには遅くない。演奏時間は「宗教改革」が31分、「パルジファル」が15分、「トリスタン」が20分。これは確かに長いことは事実だが、「想像を絶するほど」でもなかったであろう。

 またワーグナーでは最弱音が効果的だったが、「トリスタン」前奏曲最後でのチェロとコントラバスのピアニッシモは極端なほどの弱音で演奏されたため、RC席のやや上に座っていた筆者には、ほとんど聞こえなかった。
 いくら名演でも、聞こえなくては何にもならないじゃァないですか――と、楽屋でマエストロ上岡に絶賛のついでに申し上げたら、彼は「あれ、そう?」と苦笑い。他の人の話によると、1階席ではそれなりにちゃんと聞こえていたのだそうである。

4・2(金)高関健指揮 紀尾井シンフォニエッタ東京

   紀尾井ホール 7時

 紀尾井ホール開館15周年記念演奏会――は即ち、このホールをフランチャイズとする室内オーケストラ「紀尾井シンフォニエッタ東京」の15周年記念演奏会でもある。
 今回は高関健を客演指揮に、ソリストに天羽明恵(S)と田部京子(p)を迎え、J・シュトラウスの「春の声」、モーツァルトのピアノ協奏曲第26番「戴冠式」、マーラーの「交響曲第4番」、アンコールに同じくマーラーの「ラインの伝説」が演奏された。

 「紀尾井シンフォニエッタ東京」も、今日は客員奏者を大幅に入れ、メンバー数を増やしての特別な演奏。
 オリジナルの大編成管弦楽で演奏したマーラーの「4番」は――たとえ弦12型に落したとはいえ――このホールには果たして如何なものかという心配もあったが、そこはさすがに練達の高関健、オーケストラを極めてバランス良く響かせてくれた。少なくとも1階中央あたりの席(13列)で聴く限り、ほとんど違和感のないサウンドに感じられた。

 デュナーミクやアクセントなど、高関らしくスコアに即した綿密な神経を行き届かせた演奏だったこともあり、大ホールで豊麗な音響により演奏された時よりもむしろ、室内楽的な精緻さを作品に感じさせるという好ましい結果さえ生む。
 このような音で聴くと、第2楽章(スケルツォ)などには何か怪奇な雰囲気が浮かび上がり、それはあの「第7交響曲」の第2楽章あるいは第3楽章の楽想の先駆でもある――ということまで再確認させてくれることになる。

 第4楽章で「天上の生活」の歌に割って入る「鈴入り主題」が、夢を破るかのように噛み付くような鋭さで演奏されたのも面白い。
 こうして聴くと、この「第4交響曲」は、やはり決して天国的でも明るくもなく、中期のマーラー特有の、暗く皮肉な、悪魔的な音楽の一つなのだということが改めて感じられるのである。全曲の最後が妙に沈み込んで消え入るように終るというのも、その証拠の一つだ。

 こう言ってしまうと、15周年の祝賀音楽会の曲目としては少々具合が悪かろう(?)。もっとも、そんなことをウダウダ考えながら聴いていたのは、どうせ私くらいなものだろうから・・・・。

 「春の声」もソプラノ・ソロ入りの版で演奏され、大編成のオケをバックに天羽明恵が華麗な歌唱。彼女はマーラー2曲への出演と併せ、今夜は大活躍だった。「戴冠式」は、田部京子が極めて叙情的に美しく弾いてくれた。
 オーケストラは、マーラーだけ念入りに練習を重ねたような――という感じがないでもない。
 私の席の位置からは、舞台下手側にいるコントラバス(4本)の低域が舞台全体に共鳴しているように聞こえたが、このホールでは時々こういうことが起きる。

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