2017-03

3・30(火)エリアフ・インバル指揮東京都交響楽団 定期B
マーラー「交響曲第3番」

   サントリーホール 7時

 この2週ほど、インバルと都響は、ベートーヴェン、チャイコフスキー、ブルックナー、マーラーと、重量級プログラム続けざまに繰り出した。先週のブルックナーの「8番」から1週間もたたぬうちに、今日のマーラーの「第3交響曲」だ。凄いエネルギーである。

 比較をしても意味のないところだが、このコンビは、どうもやはりブルックナーよりマーラーにおける方が堂に入った演奏を聴かせる、というのが私の勝手な印象だ。
 インバルの音づくり――たとえば金管の扱い方など――も関係しているだろうけれど、神秘性とか清澄な静寂とかいったものより、むしろ生々しい人間の息づかいをより強く感じさせるインバルの指揮が、ブルックナーよりはマーラーに近いものがある――と言えるのかもしれない。

 今回の「3番」も、インバル=都響による一連のマーラーものの中では、上位に入る出来だろう。
 前半3楽章でのオーケストラにはもう少しまとまりが欲しい気もしたが、これは今日が初日だったせいか。金管群が粗っぽいのは、何とか改善されなければならない点だろう。ただし舞台裏のソロは、技術的には快調だった。

 演奏全体の雰囲気が高潮して来たのは第4楽章に入ってからで、弦楽器群を中心とした弱音の美しさが際立って来る。
 圧巻は第6楽章だ。インバル独特の熱っぽい表情が、初めは抑制されつつ歌われて行き、ついに沸き上がる感情を抑え切れなくなる。終り良ければすべて好し。これで今夜の演奏の印象は決まった。

 今夜のコンサートマスターは、事前には矢部達哉と発表されていたが、突然四方恭子に替わり、矢部はトップサイドに座っていた。メゾ・ソプラノのソロはイリス・フェルミリオン、女声合唱は晋友会合唱団、児童合唱がNHK児童合唱団。

 ここからは演奏以外の話だが、第5楽章直前に合唱団が起立する際、最前列の児童合唱の一人が居眠りをしていて起立が遅れたのは、子供だからと言って許されることではない。しかし、合唱が始まってから、その隣の子が貧血を起こしたのかどうか判らないけれどもしゃがみ込んでしまったのが気になった。演奏開始から約1時間15分もの間、身動きもせずに座ってじっと待っているのは――しかもその2人の子は椅子ではなく、通路の階段に座らされていた――やはり疲れるだろう。
 第3楽章が終ってインバルも一度退場し、改めてソロ歌手が入場する間、オケも合唱も板付きのままのかなり長いパウゼがあったのだから、児童合唱団はその間に入場させるというテもあったのではないか。第6楽章はすばらしい演奏ではあったものの、その子が大丈夫かどうか心配になって、かなり気が散ってしまったことは否めない。

 そのせいだかどうか知らないけれど、インバルがカーテンコールの際に合唱団に対してなかなか起立を促さず、オケだけを立たせて一緒に(2度も)答礼を繰り返していたのが、これも気になった。
 金管奏者たちへの合図を、角度からして自分たちへのものと思ったらしいP席の児童合唱団はつられて起立してしまったが、間違いと判ってまた座りこんだ。インバルがそれを見ていないはずはないと思うが、それでもまだ合唱団をそのままにして、オケとだけ答礼を繰り返していた。ちょっと異様な光景で、見ていて快いものではない。
 昔、フランスの粋人指揮者ジャン・マルティノンがN響に客演した際、まだ起立を促されないうちに木管奏者だかの一人が立ち上がってしまったのを見たマルティノンは、間髪を入れずに全員に起立の合図を送ったので、楽員たちが感動した、という話を、古い「フィルハーモニー」誌で読んだことがある。そういう心遣いは、インバルにはないものか。

 など、あれこれあったものの、総合的にはいいコンサートだった。

(注)翌31日の演奏会では、合唱団の入場は第3楽章のあとに行なわれた由。コメント投稿の方に教えていただきました。

3・29(月)クリスティアン・ティーレマン指揮ミュンヘン・フィル

    サントリーホール  7時

 聴いた席は、RB最前列、オーケストラへの至近距離。ここで聴くティーレマンとミュンヘン・フィルの音はさすがに生々しく、彼らの粘着質の演奏がさらにリアルな迫力で伝わって来る。
 ブルックナーの「8番」をこのホールのこの位置関係で聴いたらもう少し異なった印象を得たかもしれないが、そこはナマの演奏会という一期一会のさだめゆえ。

 ともあれ、最初のワーグナーの「タンホイザー」序曲で、中間部の「ヴェヌスブルクの場面」の後半から音楽が俄然凄い力を増し始め、「巡礼の合唱」から結尾の十数小節にかけては津波のような力で高潮点に達するところなど、ティーレマンの牽引は実に見事だ。
 こういう「持って行き方」の巧さは、優れた指揮者なら誰でも多かれ少なかれ持っているものだが、ティーレマンのそれは、特に押しの強さで際立った印象を与えるのだ。
 数年前バイロイトで彼が指揮する「タンホイザー」の全曲を聴いた際、第1幕の終りの詩人騎士たちの重唱の部分で、音楽がみるみる沸き立ち、力を増して来るのに舌を巻いたことがあるが、今夜のこの演奏にも、それを思い出させるものがあった。

 その押しの強さは、次のブラームスの「ヴァイオリン協奏曲」でも鮮やかに発揮されていた。第1楽章提示部での最初の高潮点(第17小節以降)からして、早くも猛烈なたたみかけが始まる。それはこの楽章の中で何度も繰り返され、そして予想通り第3楽章では、往年のフリッツ・ライナーもかくやの、全管弦楽挙げての怒涛の進撃だ。
 これほどオーケストラを雄弁に語らせたこの曲の演奏は、そう多くはないだろう。
 まるで――主役はオーケストラ、この曲はシンフォニー。さあどうするソロ・ヴァイオリン?――と言ってでもいるようなティーレマンの煽りように、ソリストのワディム・レーピンがどう応戦するかと息を呑んだが、さすがはレーピン、一歩も退かずに渡り合った。少なくとも、弱みは全く見せずに闘ったと言っていいだろう。
 なんだか下世話な表現になったが、とにかくそれだけスリリングで、エキサイティングで、痛快無類で、重量感にも美しさにも事欠かない演奏だったのである。

 休憩後は、ベートーヴェンの「第5交響曲(運命)」。これまた、嵐のようなエネルギーを噴出させた演奏だ。何ものもそれを停め難い勢いを持った音楽――とは、こういう演奏によって再現されたベートーヴェンのものを言うのだろう。
 第4楽章の壮大な第1主題の冒頭のみテンポを落し、その後は猛然と加速に移るところや、最後の和音の繰り返しで急激なリタルダンドをかけて行くあたり、最近の指揮者には珍しいタイプの――いかにもティーレマンらしいやり方であった。
 しかし、ティーレマンは決して力一辺倒ではない。第3楽章後半のスケルツォ部分で、弦楽器群のピチカートの音色に施された色彩感は、彼が細部にわたり綿密な神経を行き届かせる指揮者であることを、瞬時ながらも示した一つの例である。

 アンコールは、ワーグナーの「ニュルンベルクのマイスタージンガー」第1幕への前奏曲。これは、どちらかというと自由な雰囲気の演奏だった。

3・28(日)クリスティアン・ティーレマン指揮ミュンヘン・フィル
ブルックナー:「交響曲第8番」

    横浜みなとみらいホール 3時

 春の首都圏「ブル8」3連発のトリは、今や(漸く日本でも)人気沸騰となったティーレマン。
 ホールも超満席。ソロ・カーテンコールも1回行なわれた。

 オーケストラのたっぷりとした厚みと、どれほど咆哮しても音に無理がなく、豊麗さを保って大音響を轟かせるあたりとが、先行弾を大きく引き離している最大の特徴だ。こればかりは当面、如何ともし難いところだろう。

 ティーレマンも昔と違って――あるいはワーグナーやR・シュトラウスを指揮する時と違って――ハッタリを効かせず、大きな矯めも利かせず、ストレートなブルックナーを創る。
 そういうハッタリをやらないティーレマンでは面白くない――という考え方も、まんざら解らぬではない。だが、それをやったのではブルックナーは面白くない、という考え方もある。

 ともあれ今日の演奏では、ソステヌートな音で、かなり粘着的なイメージのブルックナー像が形づくられた。高貴で壮大なイメージの演奏でもなく、デモーニッシュで鳥肌の立つような演奏でもないが、しかし全体に滔々と流れる強大な力感が備わっている点では、屈指のものであろう。

 この指揮者とこのオーケストラの凄いところは、たとえば息の長い音楽が流れている最中に、まるで津波のそれのように、ぐーっと押して行くエネルギーがさらに強められて行く点にあるだろう。
 第1楽章のコーダでの、頂点に向けての長いクレッシェンド(第361小節以降)の最後の瞬間における緊張感しかり。あるいは第3楽章の最後で4本のホルンと静かに対話を続ける第1ヴァイオリン群の、極度に粘り気のある力感しかり。
 こういう個所では、ぎょっとさせられるような凄味が、音楽に漂う。

 今日の演奏では、非常にテンポの遅い第3楽章が、私には最も魅力的に感じられた。このテンポが影響して、全曲の演奏時間はほぼ90分近くになったが、このくらいの長さになるテンポで演奏される「8番」が、私はいちばん好きだ。
 最後の和音のあと、会場を圧した長い永い静寂は印象的であった。今日のお客さんも素晴しい。
 演奏されたのは、ハース版。結局今回の3連発は、それぞれに異なった版で競演されたことになる。良い趣向だ。

3・27(土)ユベール・スダーン指揮東京交響楽団定期演奏会

   サントリーホール 6時

 横浜の「ラ・ボエーム」が休憩なしの上演のため3時50分頃に終ってしまったのを幸い、元町中華街駅から東横線特急に飛び乗り(ダイヤが乱れていたため、早めに駅に着いたのがよかったようだ)、渋谷で地下鉄銀座線に乗り変えて溜池山王へ――かくして6時開演の東響の定期に間に合う。
 スダーンが指揮する、マーラーの管弦楽編曲版によるシューマンの交響曲ツィクルス、今日は最終回としての「第4交響曲」である。

 この版をナマで聴くのは、私にとってはこれが最初だ。
 とにかく分厚い響きで、特に管楽器のパートは音色が濃く、ホルン・セクションはほとんど交替で出ずっぱり――という勢いである。
 第4楽章も終り近く、突然スダーンが採った大きなパウゼ(休止)には驚いたが、あとで楽屋にスダーンを訪ねて訊いたところ、あれはマーラーが指定しているのだと言って、小節の線のところに「カンマ」が書き込まれているスコアを見せてくれた。

 かようにマーラーはいろいろ「余計なこと」(?)をしているわけだが、要するに彼はシューマンの絵に自分好みの色を塗りたくりたかっただけのことだろう。
 聴き手としてそれが気に入ったかどうかを訊ねられれば、全然気に入らなかった、と答えるしかない。
 だが、これらが初めて生演奏で聴けたのは何といっても貴重であった。良い企画だった。演奏も実に良かった。

 プログラムの前半には、ウクライナ生まれの24歳、ワレリー・ソコロフをソリストに、ブラームスの「ヴァイオリン協奏曲」が演奏された。このヴァイオリニストは技巧的にもしっかりしており、ケレン味のないストレートな演奏をするが、弓をたっぷり使って粘り気のあるフレーズをつくるところも一つの特徴である。

3・27(土)沼尻竜典指揮&アンドレアス・ホモキ演出
プッチーニ:「ラ・ボエーム」

   神奈川県民ホール 大ホール 2時

 昨年の「トゥーランドット」に続く、びわ湖ホールと神奈川県民ホールとの共同制作プロダクション。
 今年の「ラ・ボエーム」では、アンドレアス・ホモキによるベルリン・コーミッシェ・オーパー制作の舞台を持って来るというのが話題を呼んでいた。

 何一つ装飾のない、白色に近い照明を浴びた黒色の背景を持つ舞台に、現代の日常の服装をした登場人物たちが躍動する。
 見た途端に、なるほどこれはベルリン・コーミッシェ・オーパーらしいステージだな、と思った。昔このカンパニーが持って来日したハリー・クプファーの演出版も、当時としてはかなり「日常的な光景」を描写したものだったが、今回のものはさらにシンプルである。中道具として大きなクリスマス・ツリーが使われるのみで、あとはせいぜいテーブルとか椅子とか――。
 このように虚飾のない舞台で各キャラクターたちが適切な演技を行なったなら、若者たちの純粋な交友と愛が、より自然な形で浮かび上がるはずであった。

 舞台には、しばしば大勢の群衆が登場し、若者たちの生活は衆人環視の中で行なわれる。
 この「世間の目」たる「群集」は、画家マルチェッロが絵の具で街の塀を汚すのを見て顰蹙し、奔放なムゼッタには非難と嫌悪の視線を送るくせに、ミミが死にそうになっていても、べつだん助けようともしない。それだけに、現代社会における若者たちの孤独な存在が浮彫りにされるというわけである。

 ラストシーンでミミが死ぬと、親しいはずの「屋根裏の仲間たち」は、ロドルフォも含めて、だれもいなくなってしまう。彼らもまた、現実逃避者たちだったのか? 
 息を引き取ったミミに最後まで付き添ったのは、結局、世間からアバズレ女として爪弾きされていたムゼッタただ一人なのであった――。

 という解釈は、舞台を観てのこちらの勝手な見解なのだが(それが合っていようといまいと)コンセプトとしては結構だし、私はこういう演出は好きな方である。
 だが問題は、合唱団と歌手たちに、そういう社会の暗部を抉り出すような演技がカラキシできていないということなのだ。
 最初から最後までただ無意味に両手を拡げたり振り回したりしながら暴れ回るだけの単調な演技で、いったい何を表現できるというのか? 休憩なしで上演された全4幕1時間50分の間、あまりにニュアンスの変化に乏しい、素人くさいアングラ演劇並みの演技を見せつけられて、私はほとほと情けなくなった。

 その中で、堀内康雄の代役としてマルチェッロを歌い演じた宮本益光が、成長した演技を見せていたのが救いであろう。
 また、中嶋彰子が「華麗なるイタリア・オペラ」的な役柄表現とは真っ向から対立するムゼッタ像を示していたのには、さすがウィーンのフォルクス・オーパーで場数を踏んだ人だけのことはあると感心させられた。彼女のような良い意味での「あざとい」演技と歌唱表現によってこそ、このホモキ演出の狙いが生かされると思うのだが――。

 今日はダブル・キャストの初日組。その他の歌手陣は、浜田理恵(ミミ)、志田雄啓(ロドルフォ)、井原秀人(ショナール)、片桐直樹(コッリーネ)、晴雅彦(アルチンドロ)、鹿野由之(ブノア)ら。
 第1幕では、各歌手とも声が異様に遠く聞こえ、しばしばオーケストラにかき消されることがあったが、如何なる魔術を使ったのか、後半はよく聞こえるようになった。合唱にはびわ湖ホール声楽アンサンブルと、その4倍近くの人数の二期会合唱団。少年少女合唱団には神奈川県立弥栄高校合唱団。

 沼尻竜典が指揮する神奈川フィルは、比較的抑制された叙情的な表情でこのオペラを描き出していたように思う。ラストシーンのミミの死の場面では――そこがいかにも沼尻らしく――音楽を過度にセンチメンタルに号泣させることを避け、詩的な美しさを保ったままゆっくりと曲を結んでいた。私の好みからすれば、それが実にありがたかった。

3・26(金)スタニスラフ・スクロヴァチェフスキ指揮読売日本交響楽団
ブルックナー「交響曲第8番」(ノーヴァク版 1890年)

   サントリーホール

 スクロヴァチェフスキ、読響常任指揮者としての最後の定期。
 爆発的な拍手に迎えられた86歳の名匠は、立ったまま暗譜でエネルギッシュにブルックナーの「第8交響曲」を指揮し、演奏終了後には起立したままの楽員たちから盛んな拍手を享け、さらに聴衆からの2度にわたるソロ・カーテンコールに応えた。
 在京オーケストラの中でも、これほど愛されたシェフは稀有ではなかろうか。

 ブルックナーの「8番」は、春の首都圏「ブル8」3連発の第2弾。
 こちらは、ノーヴァク版の現行版による演奏である。

 高齢の指揮者がしばしば採るような壮大で悠然としたブルックナーとは程遠い、鋭角的なリズム、引き締まったフレージング、鋭い対比のデュナーミク、荒々しい推進力などを備えた演奏であった。これは、スクロヴァチェフスキが常に失わぬ若々しい気魄の表われである。
 演奏時間も正味80分以下という速いテンポ。しかもそのテンポの動きが激しい。
 全管弦楽の息の長い咆哮の中にあって、ティンパニだけには楽譜にないデクレッシェンドを導入するのも――こういう「いじり」は、私はあまり好きな手法ではないのだが――この指揮者独特の癖だ。
 スクロヴァチェフスキのブルックナーが神秘的でも巨峰的でもなく、不思議に生身の人間の息遣いのようなものを感じさせるのは、こういった演奏の特徴の所為でもあるだろう。

 読響も、全力でこれに応えていた。激しく鋭い演奏ゆえに、他の指揮者が振る時のような豊満な響きは失われていたが、その代わり、ほとんど熱狂的な絶叫と言ってもいいような音楽が創られていた。

 リタルダンドなしで終結音がなだれ落ちた瞬間、ホールの中は静寂に包まれた。残響が消え、スクロヴァチェフスキが手を下ろしたあとになって、堰を切ったように拍手が起こった。みんな、ブルックナーをよく知っている。

 余談ながら、チケットが売り切れたとかで追加公演まで行なわれるこの「スクロバのブル8」であるにも関わらず、会場のあちこちに空席が非常に多く目立っていたのは奇怪であった。
 聴衆のためにも、またオーケストラの健全経営のためにも、読響事務局はチケットの管理と有効活用にもっと注意を向けたほうが良いであろう。こういう状態が続くと、いくら親方日の丸オーケストラでも、いずれやばいことになる危険性なきにしも非ずだから。

3・25(木)エリアフ・インバル指揮東京都交響楽団
ブルックナー「交響曲第8番」(第1稿・1887年版)

  東京文化会館大ホール 7時

 春の「ブル8」3連発(広島響も含めれば4連発)の初弾が、このインバルと都響により放たれた。いかにもインバルらしく、版は1887年の第1稿である。
 不思議に集中している今月末のブルックナーの「第8交響曲」の公演の中にあって、このように使用楽譜で差別化を図り、特色を出すというのは、たいへん良いアイディアだ。

 滅多にナマでは聴けない、この「第1稿」版。
 現行版とは似て非なるこのヴァージョンは何度聴いても面白いが、しかし一方で、つくづくヘンな曲だという気もする。現行版が高貴で完成度の高い作品だとするなら、こちら第1稿は、意欲のみが先走った雑然たる曲だと言えるかもしれない。
 ブルックナーの交響曲の中で、第1稿が(本人の)改訂版と同等の高みに達しているのは、「第3交響曲」の第2楽章のみであろう――というのが、私個人の好みを基準にした意見である。

 インバルの指揮は、先日の「5番」の時と同様、火を吐く如く強烈なエネルギー感にあふれていた。ごつごつした鋭角的な構築で、強面なブルックナーを浮彫りにする。
 東京都響の演奏も、「5番」の時と全く同じような特色を出していた。弦の厚みは魅力的だが、金管の音色にはやはり不満がある。

 しかし、今のインバルと都響のコンビには、明らかに聴き手の気持を煽り立てる「何か」がある、と言えるだろう。私の主観では、そういう印象を与えるコンビは、ほかにはスダーンと東響、ラザレフと日本フィル、アルミンクと新日本フィル。
 

3・24(水)新国立劇場 ワーグナー:「神々の黄昏」

   新国立劇場オペラパレス 4時

 新国立劇場のオリジナル・プロダクション、キース・ウォーナー演出「ニーベルングの指環」再演も、あっという間に最終ステージまで来てしまった。
 「ジークフリート」の際にも触れたことだが、数年前にプレミエされた演出が今になっても未だスリリングな味を失わない「指環」は、世界の歌劇場にもそうそうあるわけではない。照明や美術の面でも、これだけ念の入った作りの舞台は、ウィーンでも、ザルツブルク&エクサン・プロヴァンスでも、ハンブルクでも、もはや見当たらない類のものなのである。

 ただ、今回のこの「神々の黄昏」に限っては、原演出の面でも、舞台のケレンの面白さという面でも、「ジークフリート」までのそれに比べると、若干密度が薄いものに感じられることは争えまい。
 たとえば全曲大詰の場面で、現代の若者たちがこの物語を映画として振り返るあたり、映画のフィルムが重要なモティーフになっていた舞台としては辻褄が合うが、もう少し音楽に合わせた劇的な光景として、巧いやりようもあったのではないかと思う。炭焼き小屋みたいな「火葬場」の設定も然りだ。

 とはいえ、印象深い見せ場も少なくないことは事実だ。
 たとえば第1幕最後の「ワルキューレの岩山」の場で、台本では其処にいないはずのハーゲンを存在させ、指環を渇望する彼の「心象」を描き出したこと。
 また第2幕冒頭で、ハーゲンが台本にない行動――父親アルベリヒを殺すこと。これはハーゲンの父親離れを描くと同時に、指環を廻るライバルとなりかねない父親を抹殺してしまう意味もある。
 また第3幕で、ラインの乙女たちから死を予告されたジークフリートが、映画のフィルム(運命の女神が綯っていた「綱」でもある)を覗き見て己を待つ運命を知り、不安と絶望に一瞬襲われるという演技など、である。
 ウォーナーも結構いいポイントを衝いているな、と嬉しくなるようなこれらのシーンであった。

 演奏の方は、「ジークフリート」に次ぐ出来栄え。
 特にオーケストラ(東京フィル)は快調だった。このくらい演奏してくれれば、文句は言うまい。
 今日のホルンの上手さといったら信じられないほどで、角笛など、どれもこれも鮮やかなもの。これまであんなに頼りなかったこのオケのホルンなのに、この大化けは奇蹟である。練習の成果なら目出度いこと。だが、誰かトラを呼んだのなら落胆だ。いずれにせよ、演奏全体としては結構なことであった。
 ダン・エッティンガーの指揮は、遅い個所はやたら遅く、緊迫感を失わせる(ワルトラウテの場面など)けれども、東京フィルから厚みのある音を引き出していたのはたしかだろう。テンポは、初日などに比べると、いくらか速くなったらしい。10時12分には全曲が終ってしまったから、ロビーに予告されていた終演時間よりも15分ほど「巻いた」ことになる。
 ともあれ東京フィルはこれで、数年前のプレミエ時の汚名(?)――後半2作のピット入りをN響に奪われたことも含め――を完全に挽回したであろう。

 ブリュンヒルデを歌ったイレーネ・テオリンが圧倒的に素晴しい。彼女には、イゾルデよりも「怒れるブリュンヒルデ」の方が、はるかにふさわしい。これほど良く透る声で全曲を歌い切るブリュンヒルデは、そう多くないであろう。
 ただ「自己犠牲」の中の「憩え、安らげ、神よ!」のくだりをほとんど聞こえないほどの弱音に落としていたのは、咽喉の具合が悪かったのか、エッティンガーの指示だったのかは判らないが、納得が行かない。第2幕の3重唱の時に、何か不自然な演技で袖に一度引っ込んだことがあったから、調子でも悪かったか。

 ジークフリートのクリスティアン・フランツも見事の一語。時々声が不安定になることがあっても、実に巧くカバーして立ち直る。老練のワザだろう。
 ハーゲンのダニエル・スメギは、長身の体躯とパワーのある声で存在感を示した。グンター役のアレクサンダー・マルコ=ブルメスターは今回、演出のせいで多少控え目な演技を余儀なくされていたようだが、声はしっかりしている。ヴァルトラウテを歌ったカティア・リッティングは、容姿も声もなかなか良い。

 グートルーネの横山恵子は、メイクと歩き方にちょっと疑問を感じたが、歌唱の面では成長著しく、今後さらに飛躍してもらいたいものである。
 アルベリヒの島村武男だけは例のごとく独り異質な演技だ。この人は、舞台ではいつも同じ身振りしか出来ない歌手である。今回のアルベリヒは、酸素吸入をしながらハーゲンに語りかけるヨレヨレのキャラクターという設定になっているはずなのに、あの騒々しい手の動かし方は何だというのだろう。
 その他、ラインの乙女に平井香織、池田香織、大林智子、運命の女神に竹本節子、清水華澄、緑川まり。

(注)「憩え、神よ」のくだりのテオリンは、他の日も同じだったとのことです(「テオリンの目ヂカラ」さんのコメント参照)

3・23(火)井上道義指揮オーケストラ・アンサンブル金沢 東京公演

   サントリーホール 7時

 こちらは「地方オーケストラ・フェスティバル」参加ではなく、恒例の東京定期公演である。
 それはいいけれど、開演前にホールの前とホワイエとに、またしてもダークスーツに身を固めた男たちがずらりと並んでの異様な雰囲気。地方オーケストラの東京公演に特有の、スポンサー関係者が居並ぶこのいかにも野暮ったい光景は、最近はあまり見られなくなったと思っていたのだが。

 演奏会そのものは、実に見事な、楽しいものだった。
 1曲目のヘンデルの「合奏協奏曲作品6の12」から早くも、このオーケストラの明るい艶のある音色が発揮され始める。小編成であるにもかかわらず、その響きには厚みがあり、スケール感も豊かだ。
 タルティーニの「トランペット協奏曲ニ長調」では、ルベン・シメオが洗練された音色で軽快に吹きまくる。アウエルバッハの「フラジャイル・ソリテュード」での精妙な音の交錯も素晴しい。

 ショスタコーヴィチの「ピアノ協奏曲第1番」では、小曽根真が第3楽章で得意のスタイルによるカデンツァを披露、それを聴く楽員たちの楽しそうな表情も印象的。最後にルドヴィート・カンタがラフな格好でソロを弾く、メッポウ愉しいフリードリヒ・グルダの「チェロと管楽オーケストラのための協奏曲」。

 この時点で時計は既に9時半近かったが、「急ぐ人は帰ってもいいですけど、実はもう一つスペシャル・アンコールを用意していまして」という井上のスピーチがあり、最後に小曽根・カンタ・シメオの3人が特別セッションを繰り広げて聴衆を沸かせたのであった。終演は9時35分。

 オーケストラ・アンサンブル金沢と音楽監督・井上道義との相性は、前回や前々回の首都圏公演でのそれに比べ、はるかに良くなっているように感じられる。レパートリーからいっても今日のプログラムは、井上の個性を最も良い形で発揮するものだろう。オーケストラも絶好調と見受けた。
 これほどヴィヴィッドな熱気にあふれ、しかもハイブロウな演奏会は、東京のオーケストラ・コンサート界でも稀ではなかろうか。
 昨日といい、今日といい、地方都市オーケストラが素晴しい演奏で東京の音楽界に殴り込みをかけている。在京オーケストラも顔色なし――だ。

3・22(月)地方都市オーケストラ・フェスティバル2010
パスカル・ヴェロ指揮 仙台フィルハーモニー管弦楽団

  トリフォニーホール 3時

 今年の地方都市オーケストラ・フェスティバルは、20日~28日に開催中。参加団体は大阪シンフォニカー響、大阪センチュリー響、仙台フィル、群馬響、京都市響。その他室内楽参加として広島響とセントラル愛知響が名を連ねている。

 パスカル・ヴェロが4年前の4月に仙台フィルの常任指揮者に就任して以来、このオーケストラの音には明確な個性と色合いが備わって来ているのは、周知の通り。
 私はこの1年ばかり聴く機会がなかったが、久しぶりに聴いてみて、いいオーケストラになったとつくづく感じ、嬉しくなった。弦や管の音色に艶があり、響きも良く、声部の交錯には濁りがほとんどなく、しかも演奏にはノリがある。

 もちろんレパートリーにもよるけれども、今日の曲目――ベルリオーズの「ローマの謝肉祭」、フローラン・シュミットの「サロメの悲劇」、バーバーの「アンドロマケーの別れ」、ストラヴィンスキーの「ペトルーシュカ」といった作品では、ヴェロと仙台フィルの最良のものが発揮されているだろう。
 意欲的なプログラムだ。
 編成の大きな曲ばかりだから、カネも相当かかったであろう。企画と演奏の両面における気魄を讃えたい。

 バーバーの「アンドロマケーの別れ」を聴いたのは、私はこれが初めてだった。トロイ戦争に敗れた勇士ヘクトールの妻アンドロマケーが、処刑される息子への別れを悲痛に歌う曲だが、極めて劇的だ。
 こういう作品を聴くと、バーバーが新メトロポリタン歌劇場杮落しのために「アントニーとクレオパトラ」なるオペラを委嘱されたのももっともだ――という気もするが、あの上演が「壮大な失敗」に終ったのは、やはり彼には、長大な大作オペラを弛緩無く保たせるテクニックが不足していたのだろう。ともあれ、この曲を聴けてよかった。

 シュミットとバーバーの作品では、佐藤ひさら(ソプラノ)が協演。また「ペトルーシュカ」のピアノは、倉戸テル。

3・21(日)アンスネスとノルウェー室内管弦楽団

    東京オペラシティコンサートホール  2時

 ヴェルディ、プッチーニ、トーマ、ショスタコーヴィチなどのオペラに数日間浸り続けたあとで、モーツァルトのピアノ協奏曲を久しぶりに生演奏で聴くと、これはまた何という美しさであることか! 

 「第23番イ長調」のロンドが始まった瞬間など、これまで単なる文字の上での感覚に留まっていたアルフレート・アインシュタインの「薄暗い部屋の中に新鮮な風と陽光がさっと流れ込んで来たような」という表現が、信じられないくらい陶酔的な実感を伴って浮かんで来たほどだ。「第24番ハ短調」でも、単純だが深遠なラルゲット、魔性的な激しい終曲など、いずれも鳥肌の立つような感覚に引き込まれる。
 これほど新鮮にこの2曲を聴けたのは、やはり先立つ1週間の、異なる作品体験を経たおかげだったのかもしれない。

 いや、そんなことを言ってしまっては、ノルウェー室内管弦楽団と、弾き振りをしたレイフ・オヴェ・アンスネスとの見事な演奏に対して礼を失するだろう。
 アンスネス、軽やかさと明るさと陰翳とを兼ね備えた演奏で、たいへん良かった。イザベル・ファン・クーレンをリーダー(コンサートマスター)とするノルウェー室内管弦楽団も、ノン・ヴィブラートの画然かつ毅然とした構築で堂々たる協奏曲を聴かせてくれた。

 オーケストラは、最初に指揮者なしで「ハフナー交響曲」を、著しくパンチの効いた演奏で披露した。
 そして続く前記2曲の協奏曲の間には、これも指揮者なしでグリーグの「ホルベルク組曲」を、一転して流麗に――リズム感は実に明確だが――演奏した。
 このグリーグが、また実に良い味だったのである。この曲の古典的な佇まいが、モーツァルトの作品の間でも独自の個性を発揮していた。しかも第4曲の「アリア」を聴いている時には、あのトロルハウゲンの寂しい湖畔に建つグリーグの仕事小屋の光景が、懐かしく蘇って来たのだった――これもノルウェーの演奏団体のオーラゆえか。

 アンコールには、モーツァルトのピアノ協奏曲「第14番」のフィナーレを演奏。これで終りかと思ったら、なおアンスネスがショパンの「ワルツ作品64の2」を弾いた。なにもここでショパンを、と思わなくもなかったが、この曲の中間部の憂いを含んだ個所が、なんとなくグリーグの音楽と共通しているような気がして、なるほどね、という感。
 かようにたっぷりのプログラムで、終演は4時半となった。

 ちなみにイザベル・ファン・クーレンは、コンサートマスターであると同時に、このオーケストラの芸術監督(Artistic Director)でもある。またアンスネスは、首席客演監督(?)という地位にある由。

3・18(木)旅行日記(終) MET第4日 ゲルギエフ指揮の「鼻」

   メトロポリタン・オペラ  8時

 今シーズンプレミエの「鼻」(ショスタコーヴィチ)は全6回公演。今日が第4日。

総支配人にピーター・ゲルブが就任して以降、METには初登場の演出家が増え、新鮮な活気も出て来たようだ。
 今シーズンは、新制作8本のうち6本までをその「デビュー演出家」たちが担当している――「トスカ」のリュック・ボンディ、「死の家から」のパトリス・シェロー、「カルメン」のリチャード・エイレ、「アッティラ」のピエール・オーディ、「ハムレット」のパトリス・コーリエ&モーシェ・レイゼル、そして「鼻」のウィリアム・ケントリッジである。

 中でも、この「鼻」を演出しているウィリアム・ケントリッジは、最大の話題を集める存在だろう。METでの演出について3年前にゲルブから打診を受けたケントリッジは、いくつかの候補作品リストの中からただちに「鼻」を選んだという。そしてゲルブは、すぐさまゲルギエフに指揮を依頼したのだそうである。

 今回の「鼻」上演に際しては、関連イベントとして「ケントリッジ展」が開催されている。MaMOおよびMETの展示場(建物正面左側に臨時に設置)では、「Ad Hoc」と題して「鼻」のためのデザインなどの展示が行なわれていた。METの建物正面にも巨大なポスターが掲げられており、「鼻」のイメージは、いやが上にも目立つ存在になっている。

 このような奇想天外なオペラには、奇想天外な演出と舞台デザインが必要だろう。
 ケントリッジのそれは、ショスタコーヴィチの音楽にふさわしく、すこぶるウィットに富み、活気があって、洒落た舞台づくりである。あらゆる場所に彼得意のドローイング手法が発揮されていて、文字、アニメーション・フィルム、若きショスタコーヴィチがピアノを弾く映像やスターリンの似顔絵、時には字幕や場面の説明までが投影されて乱舞する。
 それらはまさに可笑しく、目まぐるしいほどで、登場人物の卓抜な演技とともに、最後まで観客を飽きさせない。こんな面白い舞台は、滅多にないだろう。

 主人公コワリョーフ少佐が「俺の鼻が消えてしまった」と大騒ぎをしている背景に、2本足の生えた「鼻」がこっそり逃げて行くコマ撮りアニメーションが現われ、次いで短い足の生えた巨大な仮装の「鼻」が踊りながら飛び回る光景など、可笑しさ抜群、客席も大爆笑だ。
 アニメの「鼻」が赤旗を振り回して人々を扇動する映像も、何か皮肉たっぷりのニュアンス。実際の鼻がコワリョーフ少佐の顔に戻ったあと、コマ撮りアニメの方の「鼻」が警官に射たれてバラバラになるあたりが一種の社会批評か。

 終わり近く、音楽と演技が完全に停止し、セリフのみで「なぜ作者はこんな荒唐無稽な話を考えたのか」と議論されるはじめる個所では、観客席から爆笑と拍手まで起こる。アメリカ人の観客は実によく笑う。登場人物が音楽のリズムに乗せて笑うところでは、観客は必ず一緒に笑い出す。

 こういう目まぐるしい舞台の前では、音楽はとかく霞みがちになるものだが、そこはワレリー・ゲルギエフ、こちらも一歩も退かぬ巧みさだ。ショスタコーヴィチの音楽は、ちゃんとピットから響き渡り、芝居全体をリードしている。
 ただ――これも聴いた席(1階席後方)のせいかもしれないが――オーケストラの音はかなり拡散し、豊麗な響きとなってしまい、ショスタコーヴィチのヴィヴィッドでシャープな、皮肉な音楽の雰囲気は些か薄められた気がしないでもなかった。しかしゲルギエフへの人気はやはり抜群であり、カーテンコールで最も歓声が飛んでいたのは、彼に対してであった。

 歌手たちの中で最大の拍手を浴びたのは、もちろんコワリョーフ少佐を演じたブラジル出身のバリトン、パウロ・ソットPaulo Szot(METデビュー)だ。
 彼はブロードウェイの「南太平洋」のエミール役で2008年トニー賞(ミュージカル部門最優秀男優賞)を受ける一方、オペラでも幅広く活躍している人だが、声楽的に実にしっかりしている。演技が抜群に巧い。鼻が無くなったと騒ぎ、警察や新聞社からも馬鹿にされて泣き、戻って来た鼻がうまく顔に付かないと言って暴れ、めでたく顔に納まったと喜んで躍りまくる。まさに舞台をさらった感があった。

 その他の歌手たちの中での随一の好演者は、かん高いテノールで警察署長役をコミカルに演じたアンドレイ・ポポフ。

 休憩なしの上演で、終演はちょうど10時。
 今回は、4日間に3つのニュー・プロダクションを観ることができた。効率としては良い方だろう。

 コートなしでも歩こうと思えば歩ける気温になった。
 スーパーで「お~いお茶」を1本買って帰る。「Japan’s #1 Green Tea」と表記されている。さすがニューヨーク、ちゃんとこういうものも売っているんですね。ただし500mlのボトル1本で3ドル前後とは、おそろしく高い。

3・17(水)旅行日記 MET第3日 ゼッフィレッリ演出「ラ・ボエーム」

  メトロポリタン・オペラ 8時

 隣に座ったのは賑やかな話好きのオバチャンで、他の連中の写真を撮ってやったり、席を替わろうかと反対側の客に申し出たり、舞台に本物の馬が出て来たといっては喜んで大笑いする。来年7月に日本に行くのが楽しみだと言う。医療関係のツァーだそうな。「日本はすごくいいところだけど、その頃は湿気が強くて暑いですぞ」と脅かしてやった。このオペラの幕切れでは必ず泣くから、ティッシュ・ペーパーを用意しているのと言いながら、袖に仕込んだ紙の束を見せる。その言葉通り、ミミの死の場面では盛大にすすり泣いていた。こういう純粋な観客は羨ましい。

 METの定番、プッチーニの「ラ・ボエーム」は、もちろんあのフランコ・ゼッフィレッリの演出・舞台デザイン。1981年のプレミエ以来上演され続けているプロダクションだ。
 これは日本でも他の来日オペラ・カンパニーにより上演されたことがあり、METのライヴ映像が発売されたこともあるけれど、やはりMETの巨大な舞台で実際に観るに限るだろう。
 第2幕大詰めの軍楽隊が――日本での上演のように舞台後方を通るのではなく――下手の階段を降りて来て舞台前方を横切って行進するあたり、METのステージのキャパシティあればこその見せ場である。
 それに第3幕での、しんしんと降り続ける粉雪に霞むような場面の美しさも、照明の効果と相まって一層素晴しい。

 もっとも、そうしたスペクタキュラーな見せ場だけでなく、ヒューマンな描写がゼッフィレッリの演出に常に備わっていることは、周知の通りだ。
 第3幕、ミミとロドルフォの別れが最高潮に達した頃、一度降り止んでいた雪がまた激しく降り始めるところなど、泣かせるツボを心得ている演出家の巧みな手腕であろう。
 また第4幕では、死に行くミミを囲む気の良い仲間たちの悲しみの演技が素晴しい。動きに一つとして無駄がなく、誰もがやるせない悲しみを全身に表わしている。私はこのオペラの最後の、殊更なお涙頂戴の音楽はどうも苦手なのだが、このように微細な感情表現にあふれた演出で観ると、思わずジンとさせられてしまうのは確かだ。

 アンナ・ネトレプコがミミを歌うのが最大の呼び物だった。大変な人気である。柔らかい声がふっくらと拡がる美しさは独特のものだ。
 ただ――これはあるいは聴いた位置(1階席やや右後方)のせいかもしれないが――歌唱全体に、不思議に存在感が薄いのである。彼女らしくもない。第3幕で万感こめてロドルフォ(ピオトル・ベチャワ)に別れを告げるクライマックスの個所では、さすがに印象深い歌唱を聴かせてくれたが、――冒頭から病むミミを表現して声をセーヴしていたとも考えられないし。
 お客もその辺は反応が正直で、第1幕でペチャワが絶好調の声を聞かせて「冷たき手を」を歌った時には拍手とブラヴォーが爆発したが、そのあとネトレプコが「私の名はミミ」を歌い終わった時の拍手は、ほんの少し弱いものがあった。

 その他の歌手陣は、ムゼッタにルース・アン・スウェンソン。惜しいことに、往年の輝きは既に薄れている。マルチェッロのジョージ・ペティアン、コリーネのオレン・グラドゥス、アルチンドロのポール・プリシュカら。

 指揮は、マルコ・アルミリアート。ますます上手くなった。プッチーニ節を、艶のある甘美な音色で巧みに歌い上げていた。彼は、今年のMETではこの「ラ・ボエーム」の全9回公演と「連隊の娘」の全6回公演を指揮する他、代打として「アイーダ」の3月末~4月の公演3回を指揮するという、著しいモテようである。

 11時終演。
 深夜のマンハッタンも、かなり暖かくなった。昨日今日と快晴が続いている。今日はセント・パトリック・デイで、ミッドタウンは割れ返るような混雑と喧騒の熱気だった。この時間になってもまだその余韻が残っている。

3・16(火) 旅行日記 MET第2日 「ハムレット」

   メトロポリタン・オペラ  8時

 やっと快晴になり、マンハッタンも少しは爽やかになる。日中は15度C前後、深夜は9度C前後とか。今日のオペラは「ハムレット」。

 METの今シーズンの上演作品は総計26本あるが、そのうち8本までが新制作だ。但しすべてがMETの独自制作というわけではなく、「死の家から」「鼻」「トスカ」のような他歌劇場との共同制作プロダクションも含まれている。
 この「ハムレット」も新制作ながら、共同制作ではなく、ジュネーヴ大劇場のプロダクションを持って来たものとのこと。今夜がそのプレミエであった。

 アンブロワーズ・トーマのこのオペラ「ハムレット」は、好きな人も少なくないようだが、これまで私にとってはどうも「繰り返し聴く」という存在ではなかった。

 トーマの叙情的な作風自体をどうこう言うのではないけれども、その甘美な音楽スタイルのままで「ハムレット」のような深層心理の綾を描くというのが、そもそも無理なのではないかという気がする。
 同じシェイクスピアの戯曲でも、「ロメオとジュリエット」なら恋愛ドラマとして割り切ってオペラに仕立てることは出来るだろうが、「ハムレット」は、そうは行かない。「生きるか死ぬか、それが問題だ」や「弱き者、汝の名は女なり」などの有名なセリフと、その背後にある複雑な心理状態とを完璧な音楽に置き換えるのは、たとえワーグナーの精妙な作曲技法を以てしても至難の業だろう。
 この戯曲のオペラ化に手を付ける作曲家が少なく、あったとしても成功例として知られていないのは、そのためではなかろうかと思う。

 今日の指揮者ルイ・ラングレは、作品のそういう問題点をあえて短所として扱わず、正面から几帳面に指揮した。トーマが思索的なドラマに創り上げようと目論んだ「沈潜的な」個所も、そのまま作為なく演奏して行った。
 プレミエゆえに慎重になっていたところもあるだろうが、演奏には緊張感を欠くところも少なくなく、正直なところ、あまり面白くなかったのは事実である。オーケストラも昨夜に比べると少々荒っぽく、手探り状態という感がなくもなかった。

 結局、それらをカバーして、特に後半にかけて舞台を盛り上げて行ったのは、今回METデビューとなったパトリス・コーリエとモーシェ・レイゼルの演出コンビということになろう。
 彼らの演出は、以前ゲルギエフが制作した「エフゲニー・オネーギン」を観て感心したことがあるが、この「ハムレット」も、なかなかの手腕だ。巨大なパネルをあちこち動かして舞台空間を造り、それにより主人公たちの心理の閉塞状態を暗示したりする。オリジナルの戯曲には及ばずとしても、ハムレットの思索的な面を精一杯描き出していたのは確かである。

 第2幕の幕切れ、自らの殺人を劇中劇で見せられた王が恐怖に陥ったのち、ハムレットもまた頭からワインをかぶり、血塗られたような姿で暴れ回り、みずからの狂気のさまを人々に示すあたり――彼自身がすでに正気と狂気の狭間で苦悩している様子をまざまざと示して、説得力がある。

 かなり迫力があるのは、休憩後の第3幕以降だ。第3幕でのハムレットと母親との口論の場での演技は非常な緊迫感を生んでおり、この演出の頂点とも言えるものだろう。
 第4幕における「オフェリエ(オフェリア)の狂乱の場」では、彼女は自ら刃物で身体を傷つけて鮮血にまみれ、更に舞台奥で、あたかも小川に溺れるような体の動きを見せる。ここはなかなか巧みなアイディアであり、クリストフ・フォレイの簡素ながら怜悧な照明と相まって美しい。

 第5幕の墓地の場面では、台本に対し、大きな読み替えが行なわれている。
 ラエルト(レアーティーズ)は短剣をかざしてハムレットに切りかかる。2人のもみ合いの中でラエルトは死ぬが、ハムレットもまた重傷を負う。オフェリエの葬列の最中、先王の亡霊が現われ、現王クローディアスを抑えつける間にハムレットが王を刺殺し、自分もオフェリエの遺体に取り縋りつつ、先ほどの傷がもとで息を引き取る。
 もともとオペラの台本では、ハムレットは最後まで死なず、国王に即位するという奇想天外なエンディングになっているのだが、いまどきそのような演出はされないだろうと予想したとおり、コーリエ&レイゼルは終結を(少しは)戯曲に近いものに変更していた。まあ、これは一応、妥当な読み替え演出と言ってもいいだろう。
(注)→4月15日METライブビューイングの項参照

 ハムレットを歌い演じたサイモン・キーンリイサイドは奮迅の熱演で、特に狂乱状態になった場面での演技が優れていたように思う。
 オフェリエを歌ったドイツのソプラノ、マルリス・ペーターセンは、もともとはナタリー・デセイとのダブルで最終公演のみを歌う予定だったのが、デセイの降板のため全公演(8回)を歌うことになったのだった。初日で緊張もあったのか、高音域でヒヤリとさせられる個所が何度かあったけれども、しかし実に一所懸命、よくやっていたと思う。「狂乱の場」などはデセイが歌い演じれば遥かに凄みがあったろうが、致し方ない。とにかく、彼女の健闘を讃えよう。

 王クローディアスを歌ったのが、大ベテランのジェイムズ・モリス。昨日のサミュエル・レイミーと同じように、聴き始めは一瞬大丈夫かなと心配させられる声だが、間もなくその歌唱の独特の「味」と、貫禄のある舞台姿とに納得させられてしまうタイプだ。こういう人が厳然と脇を固めているところがMETならではの強みなのだろう。
 その点では、王妃(ハムレットの母親ジェルトルード)を歌ったジェニファー・ラーモアも同様で、実に巧い。キーンリイサイドをよく盛り立て、舞台を引き締める上でも彼女の存在は大きいものがあった。
 ラエルトを歌った英国のテノール、トビー・スペンス(METデビュー)は、出番は少ないが若々しい張りのある声で、極めて爽やかなイメージを披露していた。

 プレミエでの聴衆は、どんな反応を示したか。
 多少声の危なっかしかったペーターセンに対しても、METの聴衆は温かい。
 ラングレに対してのブラヴォーは少なく、ブーイングが2つ3つ飛んだのには私も同感だったが、コーリエとレイゼルに向け飛んだブーイングがどうも同じような声だったことからみると、その客のセンスもあまり当てにならない。演出家コンビに向けられたブラヴォーはかなり多かったようである。我が意を得たりだ。
 11時20分終演。

3・15(月) 旅行日記 MET第1日 ムーティ指揮の「アッティラ」

    メトロポリタン・オペラ  8時

 前日昼前にニューヨーク着。雪はないが、小雨がぱらつき、セントラル・パークの方から吹きつける北風が冷たい。こういう天候だと、ただでさえくすんだ色のマンハッタンの街が、いよいよ殺風景に見える。今日も気温は3℃前後とか。

 今シーズンのニュー・プロダクション、ヴェルディの「アッティラ」を観る。
 これは計10回公演で、そのうち前半の7回をMETデビュー(!)の御大リッカルド・ムーティが振っていた。今日がその最終回。

 まさにこれは、王者ムーティ――と言ってもいいくらいの、壮大なスケールを備えた指揮だ。
 METのオーケストラが、冒頭から形容しがたいほど瑞々しく響く。弦楽器群の柔らかく厚みのある、しかも輝かしい音色によるカンタービレは、本当に惚れ惚れするような美しさだ。金管群は少しラフではあるものの、要所ではきらびやかに躍動する。比較的落ち着いたテンポの、パウゼをも大きくとる指揮だが、その静寂の最中にさえも緊張感が失われることが全くないのも見事である。そして第2幕アンサンブル・フィナーレのストレッタでのように、怒涛の勢いで頂点へ押して行く呼吸の鮮やかさ、素晴しさ。

 これまでMETで聴いたオペラの中で、これほどワクワクさせられたスリリングな演奏は、かつてなかった。彼が今までMETに招かれたことがなかったとは、今更ながら全く信じ難いものがある。METでは危険発言だから言うのは何だが、ムーティのこの指揮の前には、いかに音楽監督レヴァインだろうと――顔色無しであろう。

 歌手陣。フン族の王アッティラを歌ったのは、イルダール・アブドラザコフ。歌唱を含めて悪くはないけれども、この役には少し線が細い感もあるだろう。特に野人的でもなく、かといって思索的でもなく、とてもヨーロッパを震撼させた征服者とは見えないアッティラ像だ。これは演出のせいもあろうが、やはりアブドラザコフはまだ若い、ということでもあろう。

 ローマの将軍エツィオは、カルロス・アルヴァレスが降りた後を受けてMETデビューしたジョヴァンニ・メオーニが歌った。声には充分力がある。少し粗めの、悪役向き(?)の声質は、往年のシェリル・ミルンズを思い出させる。
 騎士フォレストにはおなじみ、ラモン・ヴァルガス。この演出ではあまり演技らしいものもないから、彼の長所は大方生きるだろう。
 その恋人オダベッラにはヴィオレータ・ウルマナ。この人のイタリア・オペラは、いつ聴いても少し重い。

 登場が僅か1場面、ソロもほんの少ししかないローマの僧正レオーネに、かつてアッティラ役で一世を風靡したサミュエル・レイミーが顔を見せているのはMETならではのサービス精神ともいえようが、これがまた威容たっぷり。アッティラはおろか、他のキャラクターすべてを圧倒してしまう風格の迫力である。声は峠を越しているが、舞台に重みを与えるオペラ歌手とは、彼のような人を言うのだろう。

 演出は、ピエール・アウディだ。彼もこれがMETデビューだが、何のことはない演出で、所謂伝統的な解釈と演技表現から一歩も出ていないのには失望させられた。やはり彼も、METの雰囲気の中に妥協せざるを得なかったのか? 大詰めでアッティラがオダベッラに刺殺されるシーンも、ものものしい舞台装置のわりには、意外にあっけなく、盛り上がらない。
 なお舞台装置は、図柄としては非常に凝った美しい重厚なもので、ミウッチア・プラダおよびジャック・ヘルツォーク&ピエール・ド・ムーロン(例の北京の「鳥の巣」)によるデザインと、ジャン・カールマンの照明とにより成功を収めていた。視覚的に最後まで保たせたのは、この舞台デザインのおかげであった。

 結局今夜は、ムーティがすべて。終演は10時45分。

3・13(土)アレクサンドル・ラザレフ指揮日本フィルハーモニー交響楽団

   サントリーホール

 モーツァルトの「大ミサ曲ハ短調K.427」と、プロコフィエフの「交響曲第4番」を併演するという大変なプログラム。聴き手にも相当な重量感を与えるコンサートである。リハーサルにもかなり時間をかけた由。その成果が充分に表われた、充実した演奏であった。

 「大ミサ曲」(ラビンス・ランドン校訂版)では、天羽明恵、加納悦子、鈴木准、成田眞、東京音大の合唱(かなりの大編成)が協演した。オーケストラの編成も大きい。

 ラザレフが振るモーツァルトは、これまで器楽曲の場合には必ずしも納得できるものではなかったが、このような大規模な声楽曲となると、ラザレフ得意のオペラ感覚が入って来るのだろうか、ミサ曲でありながら適度の劇的要素が盛り込まれていて、すこぶる面白く聴けるのである。
 壮大なドラマ・ミサ――とも言えようか。この作品の曲想を考えれば、こういう演奏に発展することも当然あり得るだろう。

 今回は3本のトロンボーン(うち1本はバス・トロンボーン)を、オーケストラの金管の定位置および合唱の左翼と右翼との3ヶ所に分散して配置するという試みが行なわれた。
 また、合唱団の最前列に座っている声楽ソリストたちを、ソロの時には舞台前方、指揮者の横にまで進ませて歌わせるというスタイルも採られた。事務局から聞いた話では、これはある典礼の儀式に倣ったスタイルであるとのこと。ラザレフ、なかなか凝っている。
 オーケストラは生真面目な演奏ではあったが、安定していた。オーボエの2重奏も聴きもの。

 後半は、プロコフィエフ・ツィクルスの一環、「第4交響曲」が改定版により演奏される。
 これも良い演奏だった。冒頭から、濃厚な色彩を備えたプロコフィエフ特有の音色が見事に流れ出る。指揮者とオーケストラの呼吸は、もう充分に合致しているようだ。巨大な音塊が突進するような演奏は、ロシア人指揮者ならではのものであろう。ラザレフの「持って行き方」の巧さは、決してゲルギエフに引けはとらない。
 強烈なフォルティシモの奔流の随所に、屹立する岩のような、さらに強烈なアクセントを備えたパンチが1回、2回と炸裂する、その呼吸も見事だ。日本フィルの金管群と打楽器群もこのあたり、すこぶる鮮やかである。
 第2楽章での骨太な叙情感も、また第3楽章の、あの木管による「だんだんだーれが見つかった」だったかの歌によく似たフシでのほの暗い雰囲気も、プロコフィエフらしくて快い。

 客席はほぼ満員。数年前の定期の客席とは格段の差である。

3・12(金)ヴォルフ=ディーター・ハウシルト指揮
新日本フィルハーモニー交響楽団

   すみだトリフォニーホール

 ブルックナーの「交響曲第9番」を核にしたプログラムだが、前半に演奏されたのは、ゴットフリート・フォン・アイネムが1971年に書いた「ブルックナー・ディアローク」という15分ほどの作品(日本初演)。これが、私には実に面白かった。

 この「ブルックナー・ディアローク」なる曲は、ブルックナー特有の作曲技法や、いかにもブルックナー的な音響を巧みに取り入れがら、しかもブルックナーとは微妙に異なる音楽を創って行く、といった作品なのである。
 曲想としては大体「第4交響曲」の頃のブルックナーのそれに近いが、しかしその中に「第9番」のフィナーレの核を成す(はずだった)と言われるあのコラール主題が早くから姿を表わす。現代音楽っぽい音の響きの中に朗々と割って入って来るこのブルックナーのコラールは、言いようのないほど魅力的に聞こえる。

 こうなるとこのアイネムの曲は、だれやらが「第9交響曲の完成版」として書いたような、まがい物丸出しのフィナーレより、よほどブルックナーにふさわしく聞こえるような気がするのだ。

 後半はご本尊、「交響曲第9番」が、もちろん3楽章版で演奏された。
 ここでのハウシルトと新日本フィルの演奏は――月並みな表現だが――実に重厚壮大という言い方がぴったり来るような、堂々たるものであった。
 金管群が全く刺激的にならず、弦楽器群と均衡を保った陰翳の濃い響きで沸き上がって来る。そのような滋味あるブルックナーは、今日ではなかなか聴けないたぐいのものだろう。

3・11(木)アルベルト・ゼッダ指揮東京フィルハーモニー交響楽団
ロッシーニ:「スターバト・マーテル」ほか

  東京オペラシティコンサートホール

 ゼッダと東京フィルの今月の2つのプログラムは、いずれもロッシーニの「シリアスな」作品だった。
 滅多に聴けない曲だけれど、ロッシーニにはこんなに素晴しい音楽もあるのです――と広く知らしめてくれた今回の東京フィルの企画は、実に良い。
 先日の「ギョーム・テル」に続いて、今日は劇場用カンタータ「ディドーネの死」と「スターバト・マーテル」。

 演奏は、先日と同じ新国立劇場合唱団とイアノ・タマール、シ・イージエ、牧野正人に、もう1人のソプラノとして松浦麗(実際の声域はメゾ・ソプラノ)が加わった顔ぶれ。
 ゼッダの滋味豊かな指揮は、今日も同様であった。円熟の境地に達した指揮者だけが紡ぎ出すことのできる音楽であろう。聴いていて、何ともいえず温かい気持になるこのような演奏は、今日では、そうたびたびは巡り合えない類のものだ。
 誰にも増して彼に大きな拍手とブラヴォーが寄せられていたのも、むべなるかなである。

 このホールには、1階席後方で聴くと柔らかく飽和して聞こえる音でも、2階席正面では少し硬く荒いものに聞こえるという癖がある。
 今日のオーケストラもコーラスも、比較的ガサガサした音色に聞こえたのは、そのせいかもしれない。
 そして声楽ソリストの声も、特定の音域に関しては――具体的にはテノールの声のことを言っているのだが――オーケストラにマスクされる傾向があるらしい。オーチャードホールの1階席ではあんなに明晰に聞こえたシ・イージエの声が、今日はオーケストラに消され気味だった。

 「ディドーネの死」では、オーケストラの編成を若干小さくして、タマールがソロを歌った。カルタゴの女王ディドをヒロインとするカンタータにふさわしく、物々しい歌いぶりで悲劇性を強調した彼女は、次の「スターバト・マーテル」ではスタイルをガラリと変え、ストレートな歌唱でカンタービレを利かせていた。
 
 

3・10(水)ベルチャ弦楽四重奏団

   紀尾井ホール

 ルーマニア出身のコリーナ・ベルチャ=フィッシャーをリーダーとする英国のベルチャ弦楽四重奏団が来日。

 紀尾井ホールでの初日のプログラムは、シューベルトの「弦楽四重奏断章」とバルトークの「四重奏曲第1番」、ベートーヴェンの「ラズモフスキー第1番」だった。
 客の入りが半分もあったかどうか。やはり知名度の問題か。
 しかし、いい弦楽四重奏団である。
 バルトークでの切れ味の良さなど、さすが現代の若手のクァルテットの感性ゆえだろう。
 シューベルトやベートーヴェンでも、その爽快なテンポ、あたかも現代音楽を聴いているような明快で鮮やかな声部の交錯、すべてが若々しい美しさと張りに満ちている。

 特に印象的なのは、ほんの短い音符の一つ一つにさえも微細にこめられた精妙なニュアンスだ。
 うち震えるような速さで、あるいは強く、あるいは弱く、不断に交替する表情の細やかさ。「弦楽四重奏断章」など、眼を閉じて聴き入っていた私は、まるで空中を浮遊しているような、しかも時に突然奈落に墜落して行くかのような、目くるめく愉しい感覚に引き込まれていたのである。

3・8(月)望月京のオペラ「パン屋大襲撃」

  サントリーホール小ホール・ブルーローズ

 村上春樹の小説「パン屋襲撃」と「パン屋再襲撃」とを合体させたヨハナン・カルディの原台本(英語)を、ラインハルト・パルムがドイツ語訳。
 望月京としてはこれが初のオペラで、1時間半弱の長さを持つ。昨年1月24日にルツェルンで初演されたとのこと。
 指揮はヨハネス・カリツケ、今回は副指揮を杉山洋一、演出を粟國淳が受け持っての日本初演で、今日が2日目の上演だった。なかなか面白い作品である。

 舞台後方に配置されたオーケストラ(東京シンフォニエッタ)にはクラシック系の楽器も多いが、響くのはほとんどが電気楽器系の音づくり。
 ドラムスとハイハットによるシンバルが、パン屋を襲撃する主人公の夫(高橋淳)と妻(飯田みち代)セリフの背景に延々と流れ続ける個所もある。

 そのポップな音と、襲撃されるパン屋の主人(畠山茂)が嵌っているワーグナーのレコードの音との対比も面白い。
 これはプログラムで舩木篤也氏も指摘しているように、「ワーグナーの呪い」――つまり19世紀の巨大なオペラ芸術による重圧――と、それに対する現代オペラとの闘いに発展し得るコンセプトとも言えよう。
 もっとも、私にはそれは、畢竟、後者の「あがき」に過ぎないのではないか、と思われてならない――というのは、そこでポップな音楽の中に響いて来るワーグナーの「タンホイザー」序曲や「神々の黄昏」終場の音楽が、私にはやはり、あまりにも魅力的に感じられたからでもある。

 しかし、このオペラに詰め込まれた望月京の洒落たセンスは、見事なものであると思う。
 細かい話に過ぎないが、パン屋の代わりに襲撃の対象となったマクドナルドの店で、可愛い女性店員(吉原圭子)が銃を突きつけられても平気で軽快に一つの音型を歌い続けているのが、ロボットのごとくマニュアル言葉を繰り返す現代の売り子を皮肉っているようで、なんとも可笑しかった。

 演出は、場面や設定があれこれ突然飛躍するという、現代の日本の演劇と共通するスタイルが採られている。そもそもこれなど、ワーグナーのオペラにおける「移行の芸術」に真っ向から対峙する手法だろう。

 ドイツ語による歌詞とセリフは――私にはそれを批評できる語学力はないが――あまりそれっぽく歯切れよくは聞こえなかったものの、スピーディで楽しかったことは事実であった。日本語の一音一音を長~く引き延ばして歌うテを使った創作オペラが嫌いな私としては、今回の「パン屋」での手法は、現代オペラはやはりこれでなくちゃ、という気がするのである。
 

3・7(日)アルベルト・ゼッダ指揮東京フィルハーモニー交響楽団
ロッシーニ:オペラ「ギョーム・テル」ハイライト

   オーチャードホール

 ロッシーニのオペラ「ギョーム・テル(ウィリアム・テル)」が、オリジナルのフランス語版で、演奏会形式により抜粋で上演された。

 およそ4時間に及ぶ長大なオペラが、序曲と第1・2幕計約60分、第3・4幕計約45分という構成にまとめられている。著しくハイライト版――である。
 こうなると、「此処をやるよりも彼処を演奏するべきだ」という議論も、当然出て来るだろう。本筋と直接関係のない有名なバレエ音楽を取り上げるなら、そのぶん、もっとドラマの流れを重視した曲を選んだ方がよかったのでは、と言う人もいた。
 が、まあ、そう言う人には、「あんたが主催者だったら、そうすればよかろうさ」と答える他はあるまい。
 いずれにせよ、最初から「ハイライト」と銘打って演奏されれば、諦めもつくというものだ。なまじ「全曲上演」と称しながら大幅カットの演奏をするよりは、よほど良心的と言えよう。

 指揮のアルベルト・ゼッダは、さすがに老練で巧みな指揮だ。過度にオケを鳴らすことなく、温かい感情をこめ、ロマン派オペラの先駆としての作品の性格を浮彫りにしつつ、クライマックスの壮大なフィナーレへと導いて行った。
 序曲のみを聞いてこのオペラを軽く見ていた人でも、この壮麗な終曲を聴けば、ロッシーニの思いがけない面を知ることができて、驚くのではなかろうか。
 東京フィルも、いい演奏をしていた。

 登場歌手は、テル、アルノール、マティルデの3人のみ。したがって、悪役ゲスレルも、テルの息子ジェミーも、今日は出て来ない。
 マティルデを歌ったのは、当初予定のマリーナ・レベカに代わり、新国立劇場の「トスカ」でも歌っていたグルジア出身のイアノ・タマール。何語で歌っているのかさっぱり見当のつかぬ発音だが、声の質はオトナっぽくて柔らかい。

 アルノールを歌ったのは上海生まれで東邦音大に学んだ28歳のシ・イージエで、ピンと張った高音域の力強さがすばらしい。ただ、ゼッダのメッセージ(プログラム掲載)にある「フランス語で歌われるならば、柔らかく順応性に富むベルカント歌手が、イタリア語(での上演)ならば、強靭で起伏の激しい音の強弱を表現できるテノールがふさわしい」という文章に照らすと、彼の歌唱は明らかに「イタリア語用」のそれではないかという気もするのだが。
 そして、ギョーム・テルは牧野正人。雄大な声だ。息子の頭上に乗せた林檎を狙いつつ歌うアリアでは、極めて迫力のあるドラマティックな歌唱を聴かせていた。

3・6(土)アレクサンドル・ラザレフ指揮日本フィルのシベリウス

   横浜みなとみらいホール

 「トゥオネラの白鳥」に始まり、「ヴァイオリン協奏曲」と「第2交響曲」、アンコールとして「悲しきワルツ」というプログラム。

 ラザレフがこの日本フィルの首席指揮者として始動したのは昨年1月のこと。短期間のうちによくここまで建て直したものだとは思う。
 「第2交響曲」は、いかにも「ロシア人指揮者のシベリウス」的な、骨太なタッチと明確な隈取り、強烈無比なダイナミズムを備えた演奏で、金管群は吹いて吹いて吹きまくり、ティンパニは叩いて叩きまくるといった調子だったが、たとえ荒くてもアンサンブルそのものは確立されていた。
 力いっぱい、体当たり的に演奏するという姿勢は、大いに評価されて良かろう。

 さればこの上は、音色が美しくなることが求められる。今日の音色は、混濁こそなかったものの、一つ一つが粗く汚かったのは事実。
 ラザレフがかつて首席として指揮していた頃のボリショイ劇場のオーケストラは、鮮やかで艶やかな音色に満ちていた。彼はもともと、そういう音を創れる指揮者のはずである。

 なお、最近トランペットの客演首席奏者となったオッタビアーノ・クリストーフォリは、例の佐渡裕の兵庫芸術文化センター管弦楽団を「卒業」して来た23歳の若武者だそうで、実に爽快に吹きまくる。
 こういう威勢のいい若者が入って来て気を吐けば、金管群の雰囲気もかなり変わるだろう。

 「ヴァイオリン協奏曲」でのソロは、渡辺玲子。集中力に富む凝縮された演奏がすばらしく、しかも近年は音楽の表情に豊かなふくらみが増したように思われる。

3・5(金)改装ヤマハホールにおける中村紘子のショパン・リサイタル

   ヤマハホール

 めでたく新装成った銀座のヤマハホール。座席数333、完全なクラシック音楽専用ホールで、濃いベージュ色の内装とゆったりした椅子を備え、昔のヤマハホールとは全く違う落ち着いた雰囲気になった。

 それはたいへん結構なのだが、出入りは、お客にとっては、昔と同じように不便極まる。
 ホールへの直通エレベーターがない上に、2基あるエレベーターはいずれも各売り場や事務所との共用なので、乗ろうとすれば延々と行列して待たねばならぬ。
 体力に自信のある人は、アタマに来て、7階まで階段を上って行く。
 私は自信がないが、気が短いので、やはり階段を上って行く。

 エレベーターに首尾よく乗れたとしても、7階のホワイエで降ろされてしまうので、モギリを通ったのちは、また階段を8階のホールまで上らねばならぬ。
 しかもトイレは8階になく、7階にしかない。
 この2層階の間には、前述のエレベーターのうち1基だけが残っているが、使用できないことになっている。
 「足の悪いお客さんはどうするの?」と訊いたら、「その時には、私どもがご案内して、特別にエレベーターを呼んでこのフロアに停めます」と言っていた。手間のかかることだ。
 しかし現実には、休憩時間に、足の悪い一人の高齢者(ある音楽事務所の人だという)がそれを係りの女性に頼んでいたのに、1基しかないエレベーターは延々と各階停止を繰り返しており、とても来るどころではなかったのである。第2部の開演時間がどんどん迫って来るので、その人は途方にくれ、ついには激しく怒り出したのであった。

 とにかく、このホールに行く人は、開演ぎりぎりに行くのは避けた方がいい。障害者にとっても不便なホールである。利用者の使い勝手というものを、ここの設計者は考えていないらしい。

 中村紘子は、第1部でショパンの「葬送ソナタ」と、作品30の3つのマズルカ、「軍隊ポロネーズ」「スケルツォ第2番」、第2部で「24の前奏曲」を弾いてくれた。
 私はH列の1番(下手側壁際)で聴いていたのだが、最初のうちはホールの中への音のはねかえりがおそろしく大きく、特にペダルが多用される強奏個所などでは、まるで洞窟の中にいるかのようにがんがんと響くのには辟易させられた。もっとも、彼女もおそらくこの異様なアコースティックの問題に気づいたのかもしれない。響きは間もなく修正され、いつもの彼女らしい演奏に変わって行った。
 使用ピアノは当然ヤマハだったが、――なんか、彼女のピアニズムとヤマハの楽器とは相容れないような気がするのだけれども、どうなのだろう?

3・4(木)METライブ・ビューイング
ヴェルディ「シモン・ボッカネグラ」

  東劇(銀座)

 2月6日にMETで上演された舞台のライヴ映像。

 ジャンカルロ・デル・モナコの演出はいかにもMET向きといった感で、これ以上にトラディショナルな演出もあるまいと思われるタイプの舞台だ。
 まあしかし、プラシド・ドミンゴ(シモン・ボッカネグラ)、ジェイムズ・モリス(フィエスコ)、マルチェロ・ジョルダーニ(ガブリエーレ)、アドリアンヌ・ピエチョンカ(アメーリア)と役者が揃い、総帥ジェイムズ・レヴァインが指揮をしたとあれば、それだけで充分か、とも。

 テノールのドミンゴがシモンを歌うのがこのプロダクションの最大の売り物だったが、声の質の点で全く違和感がなかったのが面白く、しかもさすが千両役者の風格である。もう一人の千両役者はジェイムズ・モリス。終幕でドミンゴ相手に丁々発止と応酬するところなど、これもまた見事な凄味だ。

 案内役はルネ・フレミングで、今や手馴れたホステスぶりである。幕間のインタビュー・ゲストにはレヴァイン、ドミンゴ、ピエチョンカ、ジョルダーニ。それに「連隊の娘」に出演するというキリ・テ・カナワが出て来たのが懐かしかった。彼女、健在だった。

 再来週にはMETの現地へ行く予定なのだが、「アッティラ」でエツィオ役の予定だったカルロス・アルヴァレスが降板している上に、「ハムレット」のナタリー・デセイまでが「病気」で降りてしまい、涙。
 METで主役降板に遭遇したことはこれまでにも何回かあるのだが、代役として出て来た歌手で良いのに当ったためしがない・・・・。

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