2017-05

2・27(土)28(日)パーセル:「アーサー王」

  神奈川県立音楽堂

 神奈川県立音楽堂の「バロック・オペラ」シリーズは、これが第4回。全部観て来たわけではないが、あの「バヤゼット」をはじめ、音楽的水準は非常に高く、それぞれの音楽の素晴らしさを堪能させてくれる。
 今回出演のエルヴェ・ニケ指揮ル・コンセール・スピリチュアル(管弦楽&合唱)も、一昨年の初来日公演のヘンデル・プロ以上に、文句のつけようがないくらい闊達で洗練された演奏を聴かせてくれた。ジョアン・フェルナンデス(バス)、アナ・マリア・ラビン(ソプラノ)ら5人のソロ歌手も、比較的安定した歌唱を披露。
 正味80分ほどにまとめられたこの作品と演奏は、最後まで聴き手を飽きさせない魅力をたっぷりと湛えていたのである。

 この人たちが昨年モンペリエ歌劇場で上演した舞台と演奏をDVDで観ると、演奏の巧さもさることながら、芝居の達者なことにはほとほと感心させられる。
 アーサー王役のジョアン・フェルナンデスなどなかなかの芝居巧者だし、まして指揮者ニケと来たら、学者みたいに生真面目な顔をしているくせに舞台へ上って歌ったり踊ったり、そこらのコメディアンも顔負けの役者ぶりなのである。

 今回のホール上演では、ほとんど演奏会形式上演に等しい舞台構成のため、残念ながらそれらは見られない。唯一、終り近くの酒宴の場で、歌手たちが「酔って」歌い、楽員たちも勝手に「祝杯を上げる」光景があったが、片鱗はその程度だろう。
 ニケもその時、コップを持ってウロウロして見せていたけれども、舞台前方が暗かったため、折角の彼の芝居も観客には印象づけられなかったようだ。

 演出は、このシリーズをずっと担当している伊藤隆浩。
 どこに「演出」らしきものがあるのか首をひねらされるような舞台で、動きとしてはまあ歌手とダンサー(東京シティ・バレエ団)の出入りの整理程度――といったところだろう。プレ・トークで演出家は、「音楽の邪魔をしないように心がけた」という意味のことを語っていたが、それはどうも言い訳がましく聞こえる。

 舞台中央上方にスクリーンを設置し、そこに多少の象徴的映像を投影するのはともかく、日本の時事風刺などを映写するのは、どうもサマにならない。
 それ自体がいけないというのではない。もともとニケの選曲構成が原曲と異なってストーリイ性の不足する形になっている上に、歌手たちが平服で、演技もほとんどない形で歌い、「アーサー王の話はどこへいったの?」と思いたくなるくらい物語本体から離れる舞台進行になっているのだから、そこへ消費税アップを皮肉るキーワードを映したところで、木に竹を接いだようなものになるのがせいぜいだ、と言っているのである。

 結局、今回も、音楽と演奏がすべてであった。舞台に動きがないだけ、音楽そのものにじっくりと集中できる。2日間観たうちでは、初日の方が演奏のノリもずっと良かったようだ。
 これは、神奈川県立音楽堂開館55周年記念行事の一環。

2・26(金)阪哲朗指揮東京シティ・フィルハーモニック管弦楽団

   東京オペラシティコンサートホール

 レーゲンスブルク歌劇場音楽総監督に就任したばかりの阪哲朗が、久しぶり東京に登場。
シューマンの第4交響曲と、ブラームスの第2交響曲を指揮した。

 音楽のエネルギー感と量感とを存分に発揮させた指揮である。シティ・フィルも壮烈に躍動し、咆哮していた。
 金管が粗っぽいため、全体に荒々しい演奏という印象は拭えないが、慎重で無難な演奏を聞かされるよりは、少しくらい野放図でも、かように気魄が有り余る演奏の方がどれほど良いかしれない。

 それに、この演奏に感じられる「勢い」は、単なる「暴走」ではない。むしろドイツのオーケストラがしばしば聴かせるような表情の激しさ、デュナーミクとアクセントの強烈さをはじめ、ごつごつした構築の分厚い響きなどを含んだものなのである。金管群に付せられたメリハリの強い強弱なども、その一例だ。
 その一方、たとえばブラームスの第3楽章の最後に置かれた大きな、歌の息継ぎのような「間」は、洒落っ気と妙味を感じさせる。

 久しぶりに聴いた阪哲朗は、明らかに昔とは異なる、良い意味での「アクの強さ」を持つにいたっているようだ。ドイツで修行している指揮者だな、と一聴したとたんに判る個性が備わって来ている。

2・25(木)ベルトラン・ド・ビリー指揮ウィーン放送交響楽団

  杉並公会堂

 このコンビとしては、2度目の、そして今回が最後となるらしい来日公演。
 今日はAプロで、ベートーヴェンの「エグモント」序曲、交響曲の「田園」と「運命」が取り上げられた。
 モダン楽器による対向配置14型の2管編成、速めのテンポで、何の衒いもない、誇張のない演奏だが、手練手管の多い最近の演奏スタイルを聴き慣れたあとでこういうストレートな演奏を聴くと、かえって新鮮に受け取れる。のべつ聴くと飽きるだろうけれど、たまにはこういうのもいいなあ、と懐かしくなるタイプだ。
 それに、手を抜かない演奏姿勢も好ましい。

 平土間14列中央あたりで聴いた限りでは、弦はよく鳴って、低音弦がしっかりしており、重心の低い安定したベートーヴェン――という印象だ。「エグモント」も「田園」もテンポが快適で、ノリが良い。
 「運命」は、第1楽章などでは、ひたすら先へ進もうとするエネルギーが精密なアンサンブルを犠牲にしている傾向があるが、第2楽章のように落ち着いたテンポの個所では、充分に音楽の風格を感じさせるだろう。
 第3楽章でド・ビリーは、例の問題の個所でダ・カーポして、スケルツォとトリオを全部反復していた。これは全曲のバランス構成から言えば、本来は当然「あっていい」ものだ。作曲者が何故反復指定を削除したのか、定かではない。

 アンコールは、最初にモーツァルトの「魔笛」序曲――大編成で演奏されると、なかなか風格がある。最後はJ・シュトラウス兄弟の「ピチカート・ポルカ」。
 

2・21(日)仲道郁代ピアノ・リサイタル ショパン・プログラム

  サントリーホール大ホール (マチネー)

 午後1時に開演し、終演はほぼ4時。

 バラード3曲、ワルツ3曲、練習曲・ポロネーズ各2曲、即興曲・スケルツォ・夜想曲・マズルカ・ソナタ(第3番)各1曲を3部に振り分けてプログラムを構成、特に第2部の5曲はプレイエル社製のピアノ(1839年)で弾く。
 小ホールでは彼女のCD、写真、ショパン自筆譜のコピーなどの展示、ビデオの放映、チョコレートやクッキーのプレゼントなどが行なわれている。さながら仲道郁代のショパン・フェスティバルといった雰囲気だ(「あふれデリック・ショパン」なのだとか)。
 こういう企画も、親しみを呼んで良いだろう。

 この人の演奏するショパンは、確固としてシンは強いけれども、実に温かい。壮麗な響きを持つ現代スタインウェイのピアノで弾かれた場合にはもちろん、精妙でインティメートな音色のプレイエルで弾かれた時にも同様の印象を与える(プレイエルのピアノが、この大ホールでもたっぷりした音で響くのには感動した)。
 それは、最近の欧州系の若手ピアニストがよく聴かせる鋭角的で闘争的なショパンとは違い、聴き手の心を包み込むような、おとなのショパン像とでもいうべきか。快い世界である。

 

2・20(土)東京二期会 ヴェルディ:「オテロ」

 東京文化会館大ホール

 上手側に向け大きくそそり立つように湾曲した白い舞台、暗黒色の背景。装飾は一切ない。あたかも60年代前半バイロイトのヴォルフガング・ワーグナーの「ワルキューレ」第3幕の舞台のようだ(装置・松井るみ)。主役陣以外の群集は一律に白い衣をまとい、ギリシャ劇を連想させる(衣装・前田文子)。
 日本でのヴェルディ上演としてはむしろユニークな舞台だが、これがたいへん新鮮に見える。

 演出は白井晃。冒頭の群衆の動きからして――どこがどうだからと具体的に言えるわけではないものの――やはり演劇畑の人の演出だな、という雰囲気をにおわせる。
 白色の広い舞台なので、人物の存在は常に強いアクセントとなって視覚に入ることになるが、その中での群集の動かし方が、なかなか良い。カッシオらの乱闘場面など、欧米歌劇場の乱闘演出並みの迫力があった。このくらいリアルでないと、面白くない。

 主役歌手たちの演技には例の類型的な仕草が皆無ではなく、そのあたりは演劇畑の演出家としては些か妥協を強いられたのではないかと想像するのだけれど、それでも「演劇的な」演技は随所に現われており、ドラマとしてはかなりの程度まで格好がついていたであろう。
 ただ、人物表現のうち、イアーゴを当初からメフィストフェレス的な魔人ヅラにしてしまうのは、物語の中でもオテロが「オネスト(正直者)イアーゴ」と呼び信頼していることに照らすと大いに疑問があるのだが、如何に。

 また冒頭、このイアーゴが「幕を切り落とす」ことにより演奏が開始され、最終場面で彼が独り幕の前に残るという設定は面白い発想だが、そのイアーゴが最後にがっくりと崩れ落ちるというのが、私にはどうにも合点が行かない。演出家はモラルに妥協したのだろうか?
 そういえば第3幕最後、オテロの没落を見るイアーゴの顔には、何か己の仕業に対する恐怖と困惑の表情のようなものが浮かんでいたが、それとも関連があるのか?

 とはいうものの、白井晃の今回の演出は、私は基本的に成功と受け取りたい。これからもいろいろな舞台を、思い切っていっそう「演劇的に」演出して欲しいと思う。
 そしてまた二期会がこの数年、いろいろなタイプの演出家を招き、新しい試みを行なっていることをも、高く評価したいと思っている。

 タイトルロールは、福井敬である。「オテロ登場の場面」における声などでは、やはり少し荷が重いのかなと危惧を抱かせたのは事実だが、その後の彼の歌唱は、この役を歌う歌手が必ずしもヘルデン・テナーでなくても、充分に性格表現を可能にするということを明確に証明していたのであった。
 後半に進むにしたがい、「悲劇的な役柄を得意とする」福井の本領が、歌唱にも演技にも発揮されて行く。彼の眼の表情には凄まじいものがある。第3幕後半以降での狂乱の演技も壮絶だ。ラストシーンで死せるデズデーモナを抱いて慟哭するあたり、あのツェムリンスキーの「王女様の誕生日」でも示された福井の鬼気迫る入魂の歌唱と演技との再現ともいえよう。

 イアーゴは大島幾雄。ベテランらしい演技だったが、低音域の不足が惜しい。デズデーモナの大山亜紀子は大物新人で、舞台姿も映えるし声も伸びる。ただ、後半になってだんだん独特のヴィブラートが気になり始めるのだが・・・・。

 指揮はロベルト・リッツィ・ブリニョーリ。大きな身振りで、実に劇的で緊迫感あふれた音楽を創り出していた。
 クライマックスに追い込んで行く盛り上げの巧さもさることながら、オテロの怒りが最高潮に達する瞬間などで大きくテンポを落し、フェルマータをかけて壮烈な「矯め」をつくるあたり、すこぶる芝居上手な指揮者である。
 東京都交響楽団がこれに応え、見事にダイナミックな熱演を聴かせていた。
 

2・19(金)セゲルスタム指揮読売日本交響楽団
マーラー:交響曲第7番「夜の歌」

  サントリーホール

 レイフ・セゲルスタムが、4年ぶり、5度目の読響客演。北欧のトロルを連想させるような巨大な容姿がなんとも親しみやすい。そして、人気も高い。
 今夜のプログラムはマーラーの第7交響曲「夜の歌」1曲だが、もちろん、これだけで一夜を圧する重量感。

 宏壮雄大で、火山が噴火するような演奏だ。
 テノール・ホルンの冒頭の轟くような響きは、まさにマーラーがスコアに、フォルテながら「大きな音で!」と記入した通りの開始であり、それに続くフォルティシモも「浮き出すように、際立って」というスコアの指示に忠実に沿っている。
 こういう演奏は、なかなか出くわさないタイプのものである。ふつう、これらの個所は、もう少し「憂いを以て」沈潜するように演奏されることが多いから。

 第5楽章最後の頂点で、ずらり並んだ管楽器群と打楽器群がいっせいに楽器を高くアップして咆哮する個所は、視覚的にもすこぶる壮観であった。しかしあまりにも打楽器を強調したため、4本のホルンと木管による肝心の主題がかき消されてしまうという結果を生んだのも事実だが。
 中間3楽章では、いわゆる奇怪な神秘性はさほど感じられず、全体としてはむしろ明るく楽観的な演奏であったように私には受け取れたが、それはそれでよいだろう。

 セゲルスタムの強烈さと、それに応える読売日響の見事なダイナミズムが映えた定期であった。コンサートマスターはデイヴィッド・ノーラン。

2・18(木)東京室内歌劇場 モーツァルト:「偽りの女庭師」

  紀尾井ホール

 アリアやカヴァティーナはイタリア語版で演奏され、レチタティーヴォ部分は日本語に直されてセリフで語られる。
 たしかに、プログラムで演出の飯塚励生も述べている通り、原曲のレチタティーヴォをそのまま演奏した場合には、上演時間は大変なものになったであろう――アーノンクールのCDでは正味3時間14分かかっており、これに休憩時間2回計1時間を加えれば、上演は4時間半にもなるだろうから。
 しかし今夜は6時半開演で、休憩1回を含み、総計3時間の上演時間。

 ヴィート・クレメンテが指揮した東京室内歌劇場管弦楽団(弦4-4-2-2-1、2管にティンパニの計24人)の演奏がいい。伸びやかで生き生きした表情に富んでいて、長い全曲を少しも弛緩せずに聴かせてくれる。バランスの良い響きがすべての部分に保たれており、軽快なリズム感とともに柔らかい叙情的なふくらみも兼ね備えた演奏が、実に快いものであった。

 歌手陣(Aキャスト)もなかなか聴き応えのある顔ぶれで、行天晃(市長ドン・アンキーゼ)、青地英幸(ベルフィオーレ伯爵)、和田ひでき(ナルド)ら男声組が勢いのあるところを聴かせ、女声陣の小笠朝美(アルミンダ)を筆頭に小林菜美(女庭師サンドリーナ=侯爵令嬢ヴィオランテ)、末吉朋子(セルペッタ)、高橋節子(騎士ラミーロ)も健闘した。

 音楽的な面では、かようにノリのいい上演ではあったのだが――。
 問題はやはり演技だ。
 例のごとく、類型的でいけない。特に男の歌手たち。相手にもの問いたげにする際に、どうして何時もいつもあのように、すぐ片手を体の前に差し出すのか。あの画一的な仕草を見るたびに、日本のオペラ歌手たちの演技の貧困さになさけなくなる。これは演出家のせいでもある。
 それからもう一つ、セリフを語る際の、頭の天辺から声を出すような、かん高く叫ぶような発声。これは女性歌手たちに多いが、男にも少なくない。もっと劇の性格に応じて、多様な表現が出来ないものかと思う。

 飯塚励生の今回の演出は、1905年の女権拡張運動――婦人社会政治連合の活動の時代に物語を設定、男連中をコテンパンにやっつけるアルミンダやセルペッタの性格をそこに投影しているという。
 なるほど、それは一つの解釈として興味深い。が、しからばそれが彼女らの舞台での演技の中に、どのように辛辣に正確に表現されていたろうか? 
 あえていえば、序曲のさなかに1905年の年表を映写するほどの「時代背景」は、実際の舞台ではほとんど意味をなさず、結局はごく普通の恋愛劇に終始してしまっていたのであった。観客の側が演出コンセプトを補充(?)しながら舞台を見なければならないようでは、何にもならぬ。これは、歌手たちの演技のせいでもある。
 

2・17(水)新国立劇場 ワーグナー:「ジークフリート」

  新国立劇場オペラパレス

 温故知新――というほど旧いプロダクションではない(2003年3月・新国立劇場でプレミエ)が、ここ何年かあちこちの「指環」の舞台を観て来たあとでは、この演出はえらく新鮮で、やたら面白いものに感じられる。
 それに、世界の歌劇場で上演されているワーグナーものの中でも、これほど手の混んだ――あらゆる発想や仕掛けやマジックやジョークがこれでもかとばかり詰め込まれた、しかも華やかな色彩にあふれた舞台は、今では非常に稀な存在になって来たのではなかろうか。

 どこの歌劇場でも予算難に喘ぐ今日、「指環」といえども舞台は(あえて言えば)みじめったらしいほど簡素になって来て、せっかく高い飛行機代や宿泊代やチケット代を費やして外国へ観に行っても、拍子抜けして帰ってくるのがオチだ。
 その意味でも、今にして思えば、この新国立劇場が制作したキース・ウォーナー演出の「指環」は、良き時代の一つの記念碑であったように思われる。

 7年前のプレミエの際の舞台をすべて覚えているわけではないけれど、基本的には同じだろう。
 ジークフリートが冷蔵庫から林檎か何か(実はノートゥングの破片だったそうです。訂正)を出してジュースを作り、それを基にしてノートゥングを鋳るというシャレ、ナイトヘーレのペンション・バンガローで、アルベリヒの隣の部屋にヴォータンが泊まりあわせるといったジョーク、吊り装置を使って宙を舞う小鳥、映画のフィルムが散乱するエルダの世界など、いずれも記憶にあるとおりだ。

 総じてこの演出は、演技のニュアンスがすこぶる細かく、ドラマの伏線をありとあらゆる個所に見せて行くといった、目の離せない舞台である。そして、新国立劇場は実はここまで多様な舞台機構を擁しているのだということを披露してみせる演出でもあるのだ。
 装置と衣装はデイヴィッド・フィールディング、照明はヴォルフガング・ゲッペル。いずれも卓越したコンセプトを備えている。

 歌手陣が揃っていたのも、今回の上演の収穫の一つであろう。
 タイトルロールはクリスティアン・フランツで、このパワーは相変わらずである。最後の二重唱の中で「Ha!」を落すといった予想外の出来事もあったが、これだけの力強いジークフリートは、かのヘップナーもグールドも及ばぬところだろう。

 ヴォータンのユッカ・ラシライネンも強烈だし、ミーメのヴォルフガング・シュミットの巧さはいつもどおり、アルベリヒのユルゲン・リンも馬力充分だ。エルダのジモーネ・シュレーダーはまず手堅い出来。ブリュンヒルデのイレーネ・テオリンは、昨年バイロイトでイゾルデを聴いた時には少々辟易させられたが、今回は声域の違いもあり、あまり力まずに張りのある声を聴かせてくれたので、ありがたかった。

 ファーフナーは妻屋秀和で、スピーカーを通して聞かせた大蛇の声があまりに堂々としていたため、いざ「正体露見」して舞台上で歌った時には、少々ワリを食ったかもしれない。
 「森の小鳥」は安井陽子。いい声だが、ワーグナーということで力んだのか、リズムが崩れて重くなった。もう少し得意の軽やかなコロラトゥーラを利かせた方が、この役には合うのではなかろうか。

 最大の収穫は、ダン・エッティンガー指揮する東京フィルハーモニー交響楽団。
 このオーケストラがここのピットの中で、かくも重厚かつ豊かな音で、轟々たる壮大なワーグナーを響かせようとは、だれが予想しただろう! 弦も管も、全てにおいて目を見張らされるばかりの水準にあった(それゆえ、角笛にはあえて触れないことにしよう)。
 少なくとも今日の演奏に関する限り、私がこの2ヶ月間に聴いたウィーン国立歌劇場管弦楽団やベルリン・ドイツオペラ管弦楽団などのルーティン公演での演奏を、はるかに上回る出来だった、といっても誇張ではない。
 カーテンコールが終る頃、お客さんのだれかがピットの傍で「オーケストラ、ブラヴォー」と声をかけていたが、その気持はわかる。このオケが、この劇場のピットでいつもこういう演奏をしてくれたら、どんなにいいか――。

 「指環」の指揮は今回が最初のものになるというエッティンガーの力量も、なかなかのものであった。
 ただ疑問を言えば、テンポをしばしば極度に遅く採りすぎることだけは、必ずしも成功しているとは思えない。特に第2幕全体と、第3幕での「ブリュンヒルデの岩山」の場面がそうだった。
 遅いテンポそれ自体は決して悪いものではないが、オーケストラが緊張感を保ちきれず、演奏に弛緩が感じられるという欠点を生むのである。かつてのティーレマンにもそういうところがあったが――。
 

2・13(土)旅行日記(終) ジュネーヴ立ち寄り
アルバン・ベルク:「ルル」(3幕版)

  ジュネーヴ大劇場

 雪で空港のコンディションが悪く、空の便も大混乱である。早朝ベルリンのテーゲル空港に駆けつけ、予定の便よりも一つ早いミュンヘン行きに飛び乗ったが、これが正解だった。ミュンヘン空港も大雪ながら、予定していたジュネーヴ行きに接続でき、昼前には現地に到着。雪は空港近辺には少しあったが、ホテルから見える市街にはほとんど残っていない。久しぶりに見る雪無し光景だ。

 8時よりジュネーヴ大劇場で「ルル」。3幕版だから、終演は11時45分にもなる。
 私はこの「3幕版」の、ベルク自身でなくツェルハが書き加えた第3幕の音楽には、何度聴いても興味が沸かない。ベルクの音楽だけでまとめた「2幕版」(エピローグ付)でやってもらった方がどれほどいいか、と思うくらいなのだ。
 だが、わざわざジュネーヴくんだりまで来て――しかもオリヴィエ・ピイが演出し、名花パトリシア・プティボンがルルを歌うとなれば、断じて終りまで観なければならぬ。

 とはいうもののプティボンが、冒頭からヘアヌードの全裸で――どうせタイツ利用なのだろうが――大暴れしようとは、予想外であった。
 今回のピイの演出は、「18歳以下は鑑賞お断り」と銘打ったという噂だけあって、まさに裸とセックスの連続である。場面転換の間奏曲の間にはたいてい誰か(多くはルル)のセックス・シーンが行なわれるし、メインの物語の間にも、背景のショップのガラス越しに同様の光景が繰り広げられる。
 ルルがダンサーとして舞台に立つ場面は、原作と違って、背景の「内舞台とそれを見る観客」で実際に視覚化されており――これ自体は非常に良くできた発想だ――そこでも他のダンサーたちによるセクシー場面の連続である。観客は忙しく目を動かさなくてはならぬ(!)。


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プティボン(ルル)

 プティボンにせよ、ダンサーにせよ、いずれも肢体が美しいのでたいへん結構なのだが、しかし第3幕での背景の「映画館」でアダルトビデオが上映されているという演出は、たとえ全篇ボカシであろうと、悪趣味の極みではなかろうか。
 とにかく、舞台の上で展開される芝居は一つではないので、すべてを見ながら、しかも字幕(英語と仏語の2種あり)をもちらちら見るとなると、クルマの運転時さながら、目を動かすのも猛烈に慌しい。

 ピエール=アンドレ・ウェイツの舞台美術と衣装は、物語の内容に応じてどぎつく、かつ乱雑だが、巧く出来ている方だろう。ベルトラン・キリイの照明も同様だ。
 背景のショップやホテルなどの建物は、常に回転舞台で左に右にゆっくりと移動して行く。したがって舞台は異様にカラフルで変化に富む。
 その舞台のあちこちには、「COMME TOUJOURS」「MEIN HERZ IST SCHWER」「I Hate Sex」「MEINE SEELE」など、オペラの内容を象徴する文字がネオンもどきに光る。

 大詰めでは、雪の降りしきる街角に、「切り裂きジャック」がサンタの姿で登場する。原作と違い、舞台中央でルルはジャックにナイフで喉を切られて殺されるが、しかし彼女はあたかも十字架にかけられたような姿で佇立したままになる。そのあと、彼女は再び生き返り、ガウンを脱ぎ捨ててまたも全裸の姿となり、これまでの物語に登場した人物すべてに囲まれて生き続ける。
 つまりこの物語は、comme toujours――今日でも常に起こり得ること、という意味であろう。

 肝心のプティボンだが、細身でリリカルな声の質からいうと、いわゆる悪女ルルのイメージとは、多少食い違いがあるかもしれない。
 しかし、かのクリスティーネ・シェーファーと同じように、たとえ細身の声であっても、すべての男を破滅させる美悪魔としての性格は充分に出せることはたしかであろう。
 但し問題は第3幕で、ツェルハの書き加えた咆哮絶叫気味の音楽には、彼女の声はやはり異質のような気がする。もしこの上演を、歌っているのがプティボンであることを知らぬままにラジオで聴いたら、どう感じられるだろうか? 
 もし2幕版で上演されたなら、「プティボンのルル」は、音楽的にも高く評価されるだろう。もちろん、演技など舞台上の映えは、2幕版でも3幕版でも変わりない。

 共演歌手たちには、それほどスター的な人はいないけれども、画家のブルース・ランキン、アルヴァのゲルハルト・ジーゲル、シゴルヒ老人のハルトムート・ヴェルカーら、安定して固められている。ただ、重要なゲシュヴィッツ伯爵令嬢(ジュリア・ジュオン)が冴えないのが惜しい。

 ルルに破滅させられる新聞編集長、シェーン博士を歌い演じるパヴロ・フンカも重厚さを示す。彼は原作の指定通り、切り裂きジャックとの掛け持ちだが、最後に2人の女を殺したあとでサンタの仮面を脱ぎ、シェーン博士の顔に戻って見せるあたりは、昨夜の「エリーザベトとヴェーヌス」におけると同様、1人2役の意味合いが完璧に生かされていると言ってよい。ピイの狙いの確かさが証明されているだろう。


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 左よりジュオン(ゲシュヴィッツ伯爵令嬢)、フンカ(シェーン博士)、プティボン
 写真はいずれもジュネーヴ大劇場提供 C GTG/Gregory Batardon


 指揮はマルク・アルブレヒトで、スイス・ロマンド管弦楽団がピットに入っている。彼の指揮は例のごとくバサバサして殺風景で、オーケストラもかなり乾いた、音の密度の薄い演奏だ。ベルクの音楽の裸の骨格が無表情に露呈されているというタイプの演奏である。

 この新プロダクションは2月4日にプレミエされ、今シーズンに6回上演され、今夜が4回目の上演になる。客席からのブーイングは全く出ない。かといって、ブラヴォーも最後に少々出たにすぎない(歌手に対してはもちろん少なからぬ歓声が飛ぶ)。拍手もそれほど大きくもない。
 2Rang のバルコンに座っていた私の周囲の男女高齢者たちは、若干おざなりの拍手をするだけで、あとは黙って座っている。そのくせヘアヌードが出て来ると、オペラグラスで食い入るように覗き込んでいるのである。変な客どもだ。

 ――今回の旅行日程は、これで終了。
 翌日早朝ルフトハンザ便でジュネーヴを発ち、フランクフルトで同便の成田行きに乗り継いで帰国するはずが、ジュネーヴで私の乗るべき便のみ土壇場で飛ばなくなり(雪のフランクフルトから機材が来なかったか?)大慌て。止むを得ずエールフランス機でパリへ飛び、そこからJALの満席の成田行きに潜り込む仕儀になった。そういうアレンジは、責任航空会社(この場合はルフトハンザ)がやってくれる。たとえ当初の予定より5時間遅れとはいえ、何とか「日本の土を踏めた」のだから、ありがたいと思わなくてはなるまい。

2・12(金)旅行日記 ベルリン4日目
 ワーグナー:「タンホイザー」

  ベルリン・ドイツオペラ

 これは2008年11月にプレミエされたもの。畏れ多くもベルリン・ドイツオペラのインテンダント、キルステン・ハルムスじきじきの演出である。今夜の指揮はウルフ・シルマーだ(シーズン最初の公演では音楽総監督ドナルド・ラニクルスが振ったとある)。6時半開演、30分の休憩2回を挟み10時35分終演。

 序曲と第2幕歌合戦の場ではドレスデン版、第3幕最後ではパリ版を使用した、所謂「折衷版」での上演だった。それ自体は珍しくはないが、「ドレスデン版序曲」の中でヴェヌスブルクの官能的なバレエを見せ、序曲が終るとただちにタンホイザーが我に返る個所――第2場(アレグロ)に飛ぶやり方を聴いたのは、私は初めてだ。
 たしかに要領のいい方法ではある。が、短いなりにも意味のあるドレスデン版「ヴェヌスブルクの音楽」は全部カットされたわけであり、作曲者に対する礼儀という点ではいかがなものか。

 しかし、それより愕然とさせられたのは、第2幕の最後のすばらしい大アンサンブルにおける大幅カットだ。
 いつぞや新国立劇場でオーギャンが指揮した時のとほぼ同じ方法で、合唱の中にエリーザベトのソロ「Lasst hin zu dir ihn wallen」が入って来るところから、最後の piu motoに入る前までの部分がカットされていた! あの強引な暴虐カットは、こちらドイツの本場(?)でも行なわれている方法だったのか。 
 だからといって、それが正当化されるわけではない。

 タイトルロールにはシュテファン(スティーヴン)・グールドが登場。
 複雑な心理に苦悩する役柄の表現、ヘルデン・テナーとしての力強さや安定感において、彼はいま絶好調の段階にあるだろう。
 また、清純ながら情熱的な乙女エリーザベトと、官能の女神ヴェーヌスの2役を、ナディア・ミヒャエルが異なった表情で巧みに歌い分けていた。メゾ・ソプラノ的な強い声を響かせるヴェーヌスの方に格段の迫力があったが、この人は澄んだ声がなかなかの魅力である。

 ヴォルフラムをディートリヒ・ヘンシェルが歌うというので期待していたのだが、可もなく不可もない出来であって、特に存在を感じさせる表現でもなかった。
 その他、領主へルマンにラインハルト・ハーゲン、ワルターにクレメンス・ビーバーら。

 ハルムスの演出は、それほど特異な趣向を凝らしたものではない。
 むしろ舞台美術や衣装を担当したベムト・ダモフスキーに力量を発揮させたものといえようか。ヴェヌスブルクのバレエをはじめ、巡礼や第2幕での群集などの登場にはセリによる上昇が効果を生んでおり、しかも華麗な照明が強い印象を与える。
 吟遊詩人たちはすべて甲冑に身を固めた武士の姿をしており、第2幕冒頭(歌の殿堂)やラストシーンではそれと同じ姿をした無数の「甲冑軍団」が吊り装置により出現しては消え、幻想的な効果を生み出す。

 ハルムスの演出の中で一つ挙げるとすれば、第3幕で、エリーザベトとヴェーヌスを1人の歌手が掛け持ちする意味を最大限に活用した手法であろうか。
 この演出では、エリーザベトは、タンホイザーの帰還を空しく待ちつつ、ヴォルフラムに看取られて息を引き取る(コンヴィチュニーの手法と同様だ)。
 だがそのあと、帰って来たタンホイザーの腕の中で、彼女はヴェーヌスとなって生き返り、彼を官能の世界へ呼び誘うのである。
 タンホイザーはその彼女に取り縋ったまま、「聖なるエリーザベトよ、我がために祈れ!」と呟きながら死ぬ。彼は間違いなくこの瞬間、ヴェーヌスとエリーザベトとを混同、あるいは同一視しているのだが、1人2役の効果がこれほど舞台上ではっきりと作られた演出は、そう多くはないだろう。
 われわれ観客もまたその一瞬のうちに、2人の女の愛の間をさまよい続けた主人公タンホイザーの永遠の迷いと苦悩とを、集約された形で視るのである。

2・11(木)旅行日記 ベルリン3日目
 ワーグナー:「さまよえるオランダ人」

    ベルリン・ドイツオペラ

 7時半より「さまよえるオランダ人」を観る。
 これは2008年6月にプレミエされたタチヤーナ・ギュルバカの読み替え演出で、――全くの予備知識無しに見たのだったが、今回ばかりは私も、さっぱり理解も共感も同情も持ち得ない状態に陥っている。

 内容について誤認があってはいけないから、東京に帰ってから物知りたちに教えを請うことにしておき、とりあえず「のように見えた」印象だけを勝手にメモしておくと――。
 ダーラント社長率いる証券取引会社みたいな場所に、異次元から紛れ込んできたような若い「オランダ人」が出現、この男は催眠術のような効果を周囲に及ぼす力を持っており、その魔力は「幽霊船の水夫たちの合唱」を通じても、あるいは彼について話す「ゼンタのバラード」を通じても発揮されるらしい。その魔力から逃れ得ているのは、唯一まともなキャラクターの、ゼンタを愛する青年エリックのみである。
 第3幕は、中級ナイトクラブのような店でのドンチャン騒ぎ。最後は怒った「オランダ人」がナイフをゼンタに渡すと、ゼンタはそのナイフでエリックの頸を切って殺し、返す刀で自分の頸をも切り自殺、並み居る女たちも次々にそのナイフで自らの頸を切って自殺して行く――。

 プログラムには、タチヤーナ本人がもう少し高邁な(?)演出意図をあれこれ語っており、それはそれで結構なことではあるものの、少なくとも実際に「観た」限りでは、ざっとこんな程度にしか見えないのである。
 最近は何かというと相手をすぐ殺したり、自殺したりする読み替え演出がドイツで増えているようだが、これは実に不快極まる。
 滅多なことでは辟易したことのない私も、さすがに今回は拍手をせずに、早々に席を立った。あとには、猛烈なブーイングが続いていたようである。

 ジャック・ラコム指揮するオーケストラは、ぶっつけ本番か、序曲を含めてあちこちいい加減な演奏が多く、昨夜や一昨夜の充実した演奏とは月とスッポンの差。
 しかし、救いは合唱団で、女声も男声も相変わらず好調、圧倒的な迫力を生んでいた(第3幕の幽霊船の水夫の合唱が聞き取りにくかったのは音響演出上の失敗であろう)。

 歌手陣が良かったのも救いであった。ゼンタを歌ったマニュエラ・ウールは張りのある清澄な声だ。少しクールな声質でもあるが、舞台の雰囲気とは合致していただろう。
 オランダ人は Egila Silins という好青年で、7つの海を彷徨った苦労人船長というイメージはどこをつついても出て来ないものの、若いビジネスマン(幽霊?)としてはそれなりにまとまっている。

 ダーラント社長はハンス=ペーター・ケーニヒで、これは相変わらず堂々たる風格。
 いつもどこか粗いところの抜けないエントリク・ヴォトリヒが、今回は実に安定したエリックを聴かせていた。

 今回の演奏では、序曲と第3幕の終結は「救済の動機」入りの版が使用され、全曲切れ目無しの版で演奏された。
 また第2幕最後の三重唱および第3幕最後の三重唱では、予想通り慣習的なカットが行なわれていた。
 しかし、――舞台のあまりの乱雑さに耐えかね、ついに私は、どこでも、いくらでもカットしていいから、とにかく早く終ってもらいたいね、という心境にまで到ってしまったのである。こんな体験は、初めてだ。
 あのザルツブルク音楽祭での、悪名高かったノイエンフェルス演出「コジ・ファン・トゥッテ」でも、同じくヘアハイム演出の「後宮よりの逃走」でも、観ていてこんなにイライラさせられたことはなかった。

 9時40分終演。また雪が降り出した。今夜はかなり盛んに降っている。

2・10(水)旅行日記 ベルリン2日目
 ワーグナー:「リエンツィ~最後の護民官」

    ベルリン・ドイツオペラ

 相変わらずきつい冷えである。朝降っていた雪は昼までにやんだが、道路はまた凍りついた。

 ワーグナー初期のグランドオペラ、「リエンツィ~最後の護民官」を観る。1月24日にプレミエされたばかりの、今シーズンのニュー・プロダクションだ。

 原曲の全5幕を2部に分けた構成。午後7時30分開演で、30分の休憩1回を含み10時40分終演という時間配分だから、相当なカットが行なわれている。
 まあ、この作品を歌劇場で観たり聴いたりするには、このへんの長さが手頃かもしれない。
 ただし、物語の舞台を20世紀のローマに読み替え――「新しいローマ」という映像が随所に出て来る――リエンツィ(トルステン・ケルル)の丸々した体形を利用して往年のだれやらの「肥った独裁者」に比定する解釈を採ったため、彼と教会との対立場面(破門など)を大部分カットしてしまったので、民衆の英雄だったリエンツィが支持を失う理由の一つが失われ、物語が単純化されてしまう危険性も生じたわけだが。

 今回の演出は、フィリップ・シュテルツル。先年のザルツブルク音楽祭の「ベンヴェヌート・チェルリーニ」では、世にも稀なる騒々しい舞台を創った人だ。
 それゆえこの「リエンツィ」でも、作品の性格からして同じようにやるのではないかと予想していたが、案の定。舞台上にはいつも民衆や兵士がひしめき合い、騒々しくごった返す。主人公のモノローグの場面においても、常に背景や周囲に大勢が群がっている。

 しかし、後半に近づくにつれ、群集の動きは明らかに一つの流れを示すようになって行く。
 リエンツィの失政――彼が民衆の要求を無視し、一時の情にほだされて看過してしまった反乱軍から手酷い攻撃を受け、ローマが廃墟と化してしまったことなど――から、指導者の正体が虚栄心と自己満足の傀儡であったことに気づき、リエンツィに反旗を翻すあたりの民衆の描き方は、原作の台本におけるよりも、よほど明確で、解り易くなっていた。
 終わり近く、上層が破壊されたローマの市街、下層がリエンツィの「地下壕」として設定された舞台構造も気の利いたアイディアであり、これも人物の相関を解り易く描くのに役立ったであろう。

 かくのごとくリエンツィは、この演出では、没落する独裁者として描かれる。
 序曲の間、執務室で独り世界雄飛の夢に浸り、アクロバットをやりながら興奮している(映画「チャップリンの独裁者」のもじりだろう)。
 彼の演説の映像は、しばしば背景一杯に投影される。ユーゲントか黒シャツ党みたいな制服を着た民衆は、最初のうちそれに熱狂する(マス・メディアを有効に使ったヒトラーを想起させる)が、次第に見向きもしなくなる。
 ラストシーンでは、リエンツィとその妹イレーネ(カミッラ・ニールント)は、原作のように炎上するカピトールの中へ消えるのではなく、民衆に虐殺され、曝される――あの独裁者ムッソリーニたちがそうされたように。

 しかし、もともと原作ではリエンツィは、世間知らずの妹イレーネとその恋人アドリアーノへの情に絆され、政敵に恩赦を与えた――それが墓穴となったのだが――男なのであった。それを思えば、彼が単に暴虐な独裁者として描かれてしまうのは少々場違いでもあり、酷であるような気もするのだが・・・・。
 トルステン・ケルルは、この演出ではほとんど出ずっぱり。ハイ・テンションのテノールの高音を聞かせ、大写しになる演説映像のためにのべつ百面相を披露し続け、文字通り大熱演であった。ご苦労様でした。

 リエンツィと、反乱軍の総帥である父親コロンナ(アンテ・イェルクニカ)との間を揺れ動き、結局はリエンツィに反旗を翻すアドリアーノ(メゾ・ソプラノが演じる)――この世間知らずで、優柔不断で、常に行く先の定まらない身勝手な若者には、原作のオペラでも苛々させられるが――この演出では常におどおどしながらも肩肘を張ろうとする青年として描かれた。これは、比較的同情を買いそうなキャラクター表現であろう。
 ラストシーンでは、アドリアーノは惨殺されたイレーネの上に倒れ伏して慟哭する――やっと自らの進むべき道を見出したかのごとく。
 今回のこの役では、燕尾服姿のケート・アルドリッチが、これもリエンツィ以上に大熱演を展開。
 彼女は前出「ベンヴェヌート・チェルリーニ」で見事なアスカーニオ(正体はロボット)を、また昨年東京での大野和士指揮の「ウェルテル」でも素晴しいシャルロットを歌った人だが、今回の体当たり的な演技と劇的な歌唱は、絶賛に値しよう。カーテンコールでも、彼女への拍手と歓声は群を抜いていた。

 その他の歌手たちも、脇役に至るまで、いずれも隙がない。舞台がいかにドタバタしていようと、演出上の解釈に疑問があろうと、音楽的水準が優れていれば、手ごたえのある上演になるのである。

 セバスティアン・ラング=レッシングが指揮する(私はこの人の指揮を初めて聴いた)ベルリン・ドイツオペラ管弦楽団もすこぶる立派で美しく、序曲からして徒に吠えず、華美に陥らず、グランドオペラ的な空虚な華麗さに対し一線を引くようなアプローチが良かった。合唱団も、前夜に続き非常に優れた演奏と演技を繰り広げていた。

 「リエンツィ」――音楽には次作「さまよえるオランダ人」を先取りした部分もあるが、合唱はむしろ「ローエングリン」のそれを予告するところもあろう。「オランダ人」以降の高峰と肩を並べるにはやや苦しいが、さりとて無視するには忍びない。特に合唱の迫力と魅力は、演奏の良さのせいもあって、すこぶる印象的である。
 カットの良し悪しは別として、このオペラがバイロイトの上演ラインナップに加えられても、ほとんど遜色はない存在となり得るのではないか? ワーグナー生誕200年に向け、バイロイトにもそろそろレパートリーの変化が起こってもよさそうだ。

 総じて今回のシュテルツルによる演出プロダクションは、リエンツィという人間の解釈をめぐって大きな矛盾を含んでおり、未解決の要素が多分に残されていたことは否めまい。
 だがそれにもかかわらず、私にとっては、かつて藤沢市民オペラが日本初演した時の、精一杯だったが情けない解釈の舞台での悪夢を振り払ってくれた上演だったことは確かなのである。

2・9(火)旅行日記 ベルリン初日 ワーグナー:「ローエングリン」

    ベルリン・ドイツオペラ

 前日夕方ベルリンに入る。小雪がちらつく猛烈な冷え。マイナス4度くらいではなかろうか。何日か前に降った雪が黒くなってあちこちに凍りついている。

 今回はベルリン・ドイツオペラでのワーグナー4夜連続だ。といっても「指環」でなく、新演出の「リエンツィ」が眼目で、ついでに初期に属する3つのロマンティック・オペラも観ようというわけ。

 初日の今夜は、「ローエングリン」。20年前に制作された故ゲッツ・フリードリヒ演出版が、まだ大事に(?)上演されている。
 だが観ていると、ペーター・シコラの舞台装置ともども、――どこがどうだからというわけではないが――やはり何となく古色蒼然として来たかな、という気もする。もっとも、どれほど良いプロダクションでも、長年の上演でルーティン化してしまうと、細かいところがいい加減になって来るものである。何かこちらの気持にぴったり来ないのは、そういうことも理由の一つかもしれない。

 茶色の木目のような舞台装置、特に床は、不思議に家具調を連想させる。第2幕の2人の女の対決場面など、どう見ても安マンションのベランダから顔を出すエルザ――だ。
 一方、その家具調の舞台の「床」の手前には、古い石がゴロゴロ転がる、日本の石庭を野卑にしたような光景の「庭」みたいなものがある。オルトルートの動きからすると、どうやらその二つの部分によって、キリスト教徒の世界と、ゲルマンの旧教徒の世界の対比を暗示しているようにも解釈できる。

 演技の面では、ローエングリン(ベン・ヘップナー)やエルザ(リカルダ・メルベート)やテルラムント(アイケ・ヴィルム・シュルテ)をはじめ、兵士や群集に至るまで、動きが妙にトロい。そのため、ドラマトゥルギーの必然性や緊迫感の面で、もどかしい思いにさせられてしまう。「ローエングリン、ボケッと突っ立ってないで、早く何とかせんかい」と言いたくなるような感じである。
 しかしただ一人、オルトルートを歌い演じたワルトラウト・マイヤーだけはきわめて細かい芝居をしており、エルザに見せかけの同情を注いだり(第1幕)、無言で威嚇したり(第2幕幕切れ)、ゴットフリート少年に媚びつつも再び呪うかの動作を示したり(第3幕大詰め)という場面などで見事な表情の変化を見せ、舞台全体を引き締めていた。
 もしかしたらそれは、彼女が自分で考えて演技していたのかもしれない。ベテランの彼女なら、やりそうなことである。

 なお、第2幕の幕切れ――教会に向かう婚礼の行進の音楽の中に突然「禁問の動機」が割って入る劇的なクライマックスは、ワーグナーの作曲技術が中期の熟練に達した例の一つともいえるが、このフリードリヒの演出では、そこで一瞬照明が暗くなり、上手の教会の石段に足をかけたエルザのみが愕然として振り返り、下手に威圧するように立つオルトルートと視線を合わせるという、一種の心理描写的な描き方が採られていた。
 しかも、そのあと婚礼の行列が上手に歩み去ったにもかかわらず、一度幕が降りて再び上がったカーテンコールでは、舞台は何と数秒前の、エルザが振り返った場面にリセットされていたのであった。ドラマの大詰めを控えての、なかなか気の利いたアイディアである。実は、今夜の舞台でいちばん気に入ったのはここなのであった。

 指揮はミヒャエル・シェーンヴァントで、悪くはないが、まあ無難な出来であろう。第2幕のブラバント人たちの合唱はノーカットで歌われたが、第3幕では慣習通りのカットの連続であった。仕方のないことなのかもしれぬ。
 歌手陣では、前述の通りワルトラウト・マイヤーが声を巧くカバーして味のある歌唱であった――ラストシーンでのローエングリンに呪いの言葉を浴びせかけるくだりなど、絶叫調にならず、ここまで安定した声を響かせられるオルトルートが他にいるであろうか? ヘップナーは後半少し声が疲れたようだが、この人、最近同様なケースによくぶつかる。メルベートとシュルテ、それに国王役のクリスティン・ジクムッソンは手堅い出来。

 ベルリン・ドイツオペラのオーケストラは比較的綺麗な音を出していたという印象だったが、第3幕で客席後方から吹いていたバンダ群(トラだろう)は何とも下手糞で興を削ぐ。隣に座っていた紳士が、聞かせどころでトランペットが派手にこけた瞬間、「参ったねこりゃ」という様子で額を押さえ、下を向いてしまったのが可笑しかった。合唱団はなかなか好調である。
 6時開演、30分の休憩2回を挟み、10時40分終演。

2・6(土)藤原歌劇団公演
プーランク:オペラ「カルメル会修道女の対話」

   東京文化会館大ホール (マチネー)

 大阪より早朝の新幹線で帰京。大阪と東京は快晴だが、途中、京都から名古屋にかけては大変な雪だ。新幹線も20分以上遅延する。午後、東京文化会館へ。

 「カルメル会修道女の対話」は、これはもう、何度観ても聴いても、すこぶる気の滅入るオペラではある。同じフランス革命を背景にしたオペラでも、開放的な「アンドレア・シェニエ」(ジョルダーノ)や、作りものめいた「マリー・ヴィクトワール」(レスピーギ)とは全く異なり、リアルで陰惨で、哀しい物語だ。

 第1幕の終結、高潔なはずのクロワシー修道院長が死に臨んで恐怖に耐えられぬまま悲惨な最期を遂げる(森山京子の迫真の演技と歌唱)場面など、特に凄まじい。
 オペラでの「死の場面」はたいてい虚構として視られることが多いものだが、ここは妙にリアルで息を呑ませるものがある。演出と演技の見事さもあろうが、プーランクがオーケストラをことさらオーバーに鳴らして誇張していないことも、かえってリアルさを高めているだろう。

 今回の演出は松本重孝、美術は荒田良。演技は細密であり、舞台装置は居間も教会の礼拝堂も写実的なつくりだ。
 したがって大詰めの断頭台のシーンも、さっきの「クロワシー修道院長の死」の場面に呼応するようにリアルに演出されるのかと思ったが、違った。
 ここでは、背景高所にギロチンが聳えており、修道女たちはその前に一列に並んで歌い、「象徴的に」一人ずつ倒れて行く。

 最近はこのような演出が多いようだが、しかし思えば1998年、サイトウ・キネン・フェスティバルでフランチェスカ・ザンベロが見せた、修道女たちが祈りを捧げながらギロチンのある壁の中に一人ずつ入って行き、ただちに刃の落下する轟音が響く――というあの演出は、随分スリリングなものだったと思う。
 私はあのスタイルの方がずっと泣けるのだが、いかがなものだろう。

 また今回は、その処刑の間じゅう、断頭台のイメージの両側の壁面にさまざまな処刑と殺戮の映像を投影し、いわば汎時代的な悲劇といったものをアピールする手法が採られていた。涙に浸るより、理性で歴史を視る――といった手法である。
 それは説得性のある一つの解釈であることは事実だ。とはいうものの、私には少々煩わしさの方が強く感じられた――。

 今日(初日)のキャストは、森山京子の他には、出口正子(修道女ブランシュ)、中鉢聡(その兄、騎士フォルス)、佐藤美枝子(修道女コンスタンス)、佐藤ひさら(リドワーヌ修道院長)、鳥木弥生(マザー・マリー)ら。
 演技の表情は比較的おとなしい。ただ、女声陣の歌唱がおしなべて叫ぶような声になってしまうのが少々気になる。フランス語の発音に関しては、昨夜の「火刑台上のジャンヌ・ダルク」同様、私には云々できる力は無いが、ただしみなさん、あまりフランス語っぽく聞こえなかったのでは?

 指揮はアラン・ギンガル、オーケストラは東京フィル。
 後半は多少改善されたとはいえ、前半のスカスカの歌謡曲伴奏オケみたいな音は、とてもクラシックのプロ・オケとは言えまい。特に金管のお粗末さは酷い。
 それでも、晩年のプーランクの音楽に特有の暗い音色と魔性的な表情は再現されていたから、とりあえず拍手は贈ったが――。

2・5(金)沼尻竜典指揮 大阪センチュリー交響楽団
 創立20周年記念演奏会
オネゲル:劇的オラトリオ「火刑台上のジャンヌ・ダルク」

    ザ・シンフォニーホール(大阪)

 このところの沼尻竜典の充実ぶりには、目を見張るものがある。
 びわ湖オペラのシリーズをはじめとして、手がける大作の演奏はことごとくヒット続きだ。今回も極めて水準の高い出来となった。

 彼はもともと20世紀もの――それも透徹した性格を持つ作品群に鋭さを発揮する指揮者だ。そこに近年のごとく指揮に豊麗さ、色彩、劇的な感情のうねり、強い感興といったものが備わって来たとなれば、もう怖いものなしであろう。
 特にこの作品のような近代フランスものは、彼の個性に合ったレパートリーと言えるかもしれない。今回も全曲にわたり、激しく昂揚する曲想と、暗く沈潜する曲想とを巧みに交錯させた指揮が見事であった。

 さらに、ジャンヌのナレーションをハイ・テンション一辺倒にせずに――これまで日本で上演されたいくつかのプロダクションでは、おしなべてジャンヌが絶叫調に終始していた――山あり谷ありの起伏を持たせ、各場面の曲想と一体化させていたのも、今回の演奏を成功させた一因であることは間違いない。
 このように随所にジャンヌの感情が抑制される個所があってこそ、最後の火刑場面での最高潮の叫びと音楽とが生きて来るのだ。このあたりの沼尻の楽曲設計には、きわめて優れたものがあった。

 最後に舞台が暗くなって行き、音楽が沈んで行く個所でのフルート・ソロに、もう少し余韻嫋々たる趣きがあれば、もっと「泣ける」と思うのだが、まあこれは感覚の違いだろう。ジャンヌが昇天して以降は、テンポも含めて、ややあっさりした感じの演奏ではあったが――。

 大阪センチュリー響も、暗黒時代のフランスを描く冒頭の重々しい音楽からして、きれいな、しかも明晰な音を響かせていた。
 このオケは沼尻(首席客演指揮者)が指揮している時には常に良い音を出すが、今日も快調。とりわけトランペットを筆頭に、金管群が見事な出来であった。

 ジャンヌ・ダルクを演じたのは、フランスの女優カティア・レフコヴィチ。
 前述の通り「語り」に大きな起伏を持たせた快演で、憂いに沈むジャンヌ、絶望するジャンヌ、誇らしげなジャンヌ、怒りに燃え立つジャンヌなどを美しいフランス語で演じ分け、クライマックスの「解放されるジャンヌ」の高揚にドラマを導いていた。
 これは、昔のレコード(オーマンディ指揮)に聴くヴェラ・ゾリーナの名演には及ばずとも、それを髣髴とさせる、きわめて表情豊かなジャンヌである。私個人の考えでは、これはほぼ理想に近いタイプのジャンヌ表現であろうと思う。

 彼女を受ける修道士ドミニクは、これもフランスの俳優ミシェル・ファヴォリ。この人も巧い。

 脇役は、すべて日本勢。豚(裁判長)などを巧みに演じた高橋淳をはじめ、酒樽かあさん他を達者に演じた田村由貴絵、そのほか竹本節子、望月哲也、片桐直樹、谷村由美子、渡辺玲美らのソリストたち、それに手堅くコロスの役割を受け持ったザ・カレッジ・オペラハウス合唱団など。
 フランス語の発音については私には云々できる力はないが、しかしともかく熱演を讃えておきたい。子供の声を歌った岸和田市少年少女合唱団のソロが上手いのには驚かされた。

 なお、これは演奏会形式だったが、一部セミステージ形式上演の形が採られ、丁寧で効果的な照明演出が施されていた。ジャンヌとドミニクは、オーケストラ背後の客席にセットされたピラミッドのような形をした白い壁の前に位置しており、日本人ソリストたちは天使たちが背後客席の高所に、その他が舞台前方に演奏会スタイルで配置されていた。

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