2017-06

11・30(月)ゲンナジー・ロジェストヴェンスキー指揮
読売日本交響楽団定期 シュニトケ・プログラム

  サントリーホール

 来日オーケストラ実に9団体(!)に席巻された11月の東京の音楽界ではあるが、しかしその渦中にあっても日本のオーケストラは、外来さんよりむしろ遥かに意欲的なプログラムで応戦を続けていた。
 その一つが、読売日響だ。特に今夜はシュニトケ特集で、「リヴァプールのために」(日本初演)、ヴァイオリン協奏曲第4番、オラトリオ「長崎」(日本初演)という凄いプログラムである。ナマで聴く機会はこれが最初で最後かもしれない、という曲もある。

 管弦楽はいずれも大編成。協奏曲の場合には、ソロ(サーシャ・ロジェストヴェンスキー)がオーケストラの大音響の中に埋没することさえしばしばある。だがその音色と響きはすこぶる多彩で斬新で、スリリングな面白さにあふれるところが多い。どの曲にも古今新旧、ありとあらゆるスタイルが作品の中に顔を見せている。これもいかにもシュニトケらしい。

 「長崎」は1959年の作とのこと。原爆の災厄と、平和への呼びかけを内容としている。歌詞はソ連や日本の詩人のものが使われているそうだが、なんとなく50年代の「反戦歌」の雰囲気を感じさせるものだ。しかし、50年前のソ連にこういう音楽を書いた若者が既に居たのだという事実には、感銘を覚えずにはいられない。ショスタコーヴィチやプロコフィエフなどの影響らしきものも聞かれるが、音楽はさらに粘着性が強い。若きシュニトケの面目躍如だろう。

 アルトのソロは坂本朱、合唱は新国立劇場合唱団で、いずれも好演。

11・28(土)ワレリー・ゲルギエフ指揮マリインスキー劇場管弦楽団

   サントリーホール

 22日に熊本から始まった今回の来日公演が、今夜でやっと東京初日となった。
 ムソルグスキー・プログラムで、「ホヴァーンシチナ」前奏曲と「禿山の一夜」、「死の歌と踊り」、「展覧会の絵」。

 ただし最初の2曲はブラス・アンサンブル編曲版(金管奏者11人および打楽器奏者2人)であり、しかも後者はリムスキー=コルサコフ版を基にした編曲なので、ムソルグスキーその人は、実際には存在しないようなものである。「展覧会の絵」にしても、華やかな管弦楽は周知のごとくラヴェルの編曲なのだから。

 結局、ムソルグスキーの素顔が現われたのは――それがショスタコーヴィチの管弦楽編曲版ではあっても――「死の歌と踊り」のみだったと言えよう。楽屋に訪ねるとゲルギエフは「どうだ、今回のプログラム(作曲家別4種)はなかなか面白いだろう?」と得意満面だったが、他の日のことはともかく、今夜のプログラム構成に関しては、こちらはなんとなく生返事しかできないのが辛いところ。

 しかし、「死の歌と踊り」に聴かれた暗く重々しい、陰鬱かつ不気味に美しい音楽は、まさにムソルグスキーの真髄ここにありといった演奏であった。これ1曲だけでも充分満足できるコンサートと言っても良かったほどである。しかも、ソロのミハイル・ペトレンコが絶品であり、オペラのような劇的な歌唱の裡に悪魔的な凄味を織り込んだ表現の巧みさは、この歌手が今やロシアを代表するバスに成長したことを示すものであった。

 アンコールは、チャイコフスキーの「エフゲニー・オネーギン」の「ポロネーズ」と、リャードフの「バーバ・ヤガー」。
 このオーケストラの弦は、以前のしっとりとした瑞々しさを再び取り戻したようである。ゲルギエフは「ポロネーズ」の弦を浮彫りにして、踊りの音楽というより叙情的なバラードといった雰囲気を持たせて演奏した。「展覧会の絵」でも、テンポと音量をむしろ抑制気味にして、ラヴェルの華麗さを陰翳の濃いものに変えようとするかのようであった。彼の指揮スタイルにも、あれこれ変貌が生じているようである。

11・27(金)井崎正浩指揮ハンガリー・ソルノク市交響楽団

   東京オペラシティコンサートホール

 外来オーケストラのプログラムにやたら「巨人」ばかりが目立つ昨今、ハンガリーのローカル・オーケストラ――ソルノク市交響楽団は、彼らならではの特色を発揮するプログラムを携えて来日した。バルトークの「ハンガリーの風景」、同「ピアノ協奏曲第3番」、現代作曲家チェミツキの「アヴェ・マリア」、コダーイの「ミサ・ブレヴィス」。

 指揮は、2007年からソルノク市の音楽総監督に在任する井崎正浩である。14年前、ブダペスト国際指揮者コンクールに優勝したキャリアを持つ彼には縁のある活動場所と言えよう。
 このオーケストラは、1965年の創立という。最良の意味での「地方性」を誇らしげに持ち続けているオーケストラで、ハンガリーの作品を演奏して聴かせる時の音色や音楽の表情には、素朴で温かい、懐かしい感情を呼び起こすような、独特の雰囲気があふれている。そのオーケストラの個性を、井崎も十全に発揮させようとしているのだと思われる。

 バルトークの作品における音色の美しさは印象的だったし、無伴奏の短い合唱曲「アヴェ・マリア」を導入として切れ目なしになだれ込んだ「ミサ・ブレヴィス」での深い情感もすばらしいものであった。
 アンコールはブラームスの「ハンガリー舞曲」の第1番と第5番だったが、いずれも合唱入りのヴァージョンで演奏され、実に面白かった。後者など、あのエンディングはまさに「チャールダシュ」そのものだったのか、と改めて気づかされたくらいだ。

 合唱はバルトーク・ベーラ室内合唱団、ソルノク・コダーイフェスティバル合唱団、それに日本のハンガリーフェスティバル合唱団Tokyo。声楽ソロはポコル・ユッタ(A)、ムック・ヨージェフ(T)、イェクル・ラースロー(B)、清水理恵(S)。ハンガリー勢の荒削りな迫力と、日本勢の整った音色の対比が一興であった。ただし干野宜大のピアノは、あんなに乾いた音で叩きつけるように弾かれては、オーケストラとは水と油だ。

 ちなみに今回の来日公演は、日本・ハンガリー外交関係開設140周年および国交回復50周年、日本・ドナウ交流年2009などを記念するものの由。

11・26(木)新国立劇場 ベルク:「ヴォツェック」 最終日

    新国立劇場(マチネー)

 故・若杉弘芸術監督の選んだシーズン・ラインナップが如何に巧みで的確なものだったか、それを私たちは再び認識する。観客の関心をひきつける演目を新制作として随所に散りばめ、印象深いプログラムとする若杉の手腕は――それは彼の読売日響常任指揮者時代、東京都響音楽監督時代にもすでに充分発揮されていたものでもあるが――実に非凡なものであった。「黒船」「軍人たち」のあとにも、「修禅寺物語」や「ムツェンスク郡のマクベス夫人」、そしてこの「ヴォツェック」――。
 かけがえのない人を失ったという思いが、またしてもこみ上げてくる。

 今回は最初に、ハルトムート・ヘンヒェンが東京フィルから引き出した、表情の豊かな演奏を讃えたい。このオーケストラがこの劇場のピットで響かせた音色の中では、これはベストに入るしなやかなものだろう。
 マリー殺害直後に2回奏されるロ音の猛烈なクレッシェンド(「真の恐怖はあとから襲って来る」と言われた個所)は、比較的あっさりしたものだったが、しかしこれはヘンヒェンの意図だったのかもしれない。

 終結近く、一つの悲劇を絶望的に描き出すニ短調の間奏曲は、ぞっとするほどの強い慟哭を以て演奏された。弦のハーモニーの響きは、東京フィルとしてはめずらしいほど厚いものだった。
 そのあと音楽は、ひたすら沈黙の中へ、恐ろしいほど白々とした静寂の中に向かって進んで行く。ラストシーンでの子供が「跳ねながら退場」でなく、動かぬ姿勢を保っていた演出のせいもあって、オペラの最後は緊張の静寂で結ばれて行ったのである。このあたりのヘンヒェンの指揮は圧巻だった。東京フィルもよくそれに応えていた。

 その演出はアンドレアス・クリーゲンブルク、舞台美術はハラルド・トアーで、バイエルン州立歌劇場との共同制作の由。
 宙に浮いたまま前進と後退を繰り返す巨大な箱型の部屋と、水をたっぷりと湛えた平舞台との対比は、かなり凝った造りだ。「じめじめとして冷たく厭わしい水」(クリーゲンブルク)に浸かって動き回る、亡霊の姿にも似た貧困の群集の姿が凄まじい。大尉や医者は「異常な人間」を象徴するように、怪物じみた姿の男たちである。
 演出は、彼らの中で破滅に追いやられて行くヴォツェックとマリーとその子供の悲惨さを痛切に描くが、また貧困の群集の悲惨さをも看過してはいない。

 一つ難をいえば、登場人物たちが水をびちゃびちゃとはねながら歩き回る音は、音楽の山場を避けながら立てられるように巧みに演出されてはいたものの、それでもなお、音楽の息詰まる最弱音の瞬間を妨げることがあった。演出家はこの水の音を重視していたらしいが、稀にならともかく、全篇にわたってこのようにしつこく入る音となると、もはや度を過ぎた雑音というべく、賛同しかねる。

 ヴォツェックのトーマス・ヨハネス・マイヤー、マリーのウルズラ・ヘッセ・フォン・デン・シュタイネン、大尉のフォルカー・フォーゲル、医者の妻屋秀和、鼓手長のエンドリック・ヴォトリッヒら、歌手陣も優れた力量を示していた。
 新国立劇場のニュープロダクションとして、これも成功作に含まれるだろう。

11・24(火)エリアフ・インバル指揮東京都交響楽団
 ブルックナー「5番」

  東京文化会館大ホール

 こちらはブルックナーの「第5交響曲」。
 インバルの鋭角的で強烈な音づくり、フォルティシモとピアニシモとの極端な対比。あたかも表現主義的なブルックナー。しかも、非常に厳しい佇まいの交響曲になる。昨夜のブロムシュテットの対極に立つ解釈と言えようか。
 私にとっては、このインバルの指揮の方が遥かに刺激に富むものに感じられる。したがって今夜は昨夜より堪能したわけだが、しかし2日続けてこのような対照的な性格を持つ演奏でブルックナーが聴けるとは、何と幸せなことであろう。

 東京都響は、まさに渾身の熱演だ。プリンシパル・コンダクターのインバルの下で演奏して来た、このところのマーラーといい、ベートーヴェンといい、チャイコフスキーといい、――すべて激しいデュナーミクの変化を持った、メリハリ豊かな演奏が続く。
 ただ、もう少し綺麗な音色であればいいのだが。最後のクライマックスでの轟々たる音の坩堝など、いかにも音が粗く乾いて、法悦感を生み出すには不足する。そういう点になると、オーケストラのバランスも含め、残念ながら昨夜のチェコ・フィルとは雲泥の差を感じないわけには行かぬ。とはいえ、もし今日の演奏を残響豊かなサントリーホールで聴けば、もう少し異なった印象を得るかもしれないが。

 昨夜と同様、ぎっしり埋まった客席。しかし今夜は、昨夜のようなフライング拍手は起こらず、インバルが両手を下ろすまで、息をつめた静寂が保たれた。ここで長く空間に消えて行く残響があれば理想的なのだが、東京文化会館というのは本当にデッドなホールである・・・・。

11・23(月)ブロムシュテット指揮チェコ・フィルハーモニー管弦楽団
ブルックナー「8番」

  サントリーホール

 ブロムシュテットの人気は凄い。ただ私としては以前から――この指揮者の演奏を聴いて、どういうわけか、あまり感動したことがないのだ。今日のブルックナーの「交響曲第8番」も、立派な演奏であったことは認めるけれど、何か距離を置いて聴いてしまうのである。音楽をあっさりと、ひたすら押し流して行くだけの指揮に不満があるのか? 
 しかし第3楽章は、静寂の中にひれ伏して祈るような敬虔さに満たされていて、これは圧巻であった。

 チェコ・フィルの弦の美しさ、壮麗さも健在だったのが嬉しい。弦は見たところ14・14・12・12・8の編成だったように思うが、中低音域に重心を置いた厚みのある柔らかい響きが見事だった。

11・23(月)東京二期会/日生劇場共催公演
 R・シュトラウス「カプリッチョ」

   日生劇場(マチネー)

 東京二期会、近年の秀作の一つ。

 最初に、沼尻竜典の指揮を讃えたい。このところ「ばらの騎士」や「サロメ」など、R・シュトラウスもので連続ヒットを飛ばしている彼だが、この「カプリッチョ」でも成功を収めた。
 極めて叙情味が強く、室内楽的な精緻さを備え、かつ洗練された味を持つこの音楽を巧く再現するのは、ある意味では前2作よりも難しいといえるかもしれない。だが沼尻が、東京二期会のR・シュトラウス路線の中核だった故・若杉弘のあとを継いで――ちょうどびわ湖ホールのオペラ路線を引き継いだのと同じように――それを成功させたことは、大いに喜ばしい。
 オーケストラは東京シティ・フィルで、もう少し器用さと洒落っ気があったらとは思うけれども、まあ当面はこれが精一杯であろう。

 演出と舞台装置は、ジョエル・ローウェルス。
 舞台を、このオペラが作曲された時代の第2次世界大戦の最中のパリに設定した。同じコンセプトで評判が高かったというザルツブルク音楽祭でのヨハネス・シャーフの演出を私は見ていないが、このローウェルス演出による大詰めも、なかなか気の利いたものだと思う。
 この演出では、サロンも、そこに集まっていた人々も、ナチスの軍隊によって蹂躙される。オリジナルで終幕近く登場する給仕たちと執事長(家令)は、ナチスの兵士たちとその隊長に読み替えられた。「月光の音楽」を含む最後の場面は、年月を経て荒廃したサロンに訪れた、今は年老いた伯爵令嬢マドレーヌが往時を回顧するという設定になる。ここは、音楽の美しさとともに寂寥感が舞台を覆って感動的である。

 言葉か、音楽か、オペラで主導権を握るのはどちらか――という昔からの命題を延々と議論するのがこのオペラの内容というわけで、歴史上その争いの嚆矢となったグルックとピッチーニのオペラの音楽が第1場で引用されるのも面白い。
 第9場の「争いの8重唱」などはロッシーニのオペラにおける「混乱の重唱」のパロディそのものだが、今回はローウェルスがまさにジョークたっぷりに、巧みに演出してくれた。

 歌手陣が揃って好調。伯爵令嬢マドレーヌを演じた釜洞祐子の巧みさは、ラストシーンの老女役で存分に発揮された。
 劇場支配人ラ・ロシュ役の山下浩司の迫力、タカラヅカ的な扮装の女優クレロン役の谷口睦美の気障ぶりをはじめ、演技の上でも秀逸な光景がいくつも見られる。
 伯爵に成田博之、作曲家フラマンに児玉和弘、詩人オリヴィエに友清崇、歌手に高橋知子と村上公太、執事長に小田川哲也、プロンプターに森田有生。

 2日前に尼崎で観た関西二期会の「フィデリオ」での石器時代的舞台に打ち拉がれたあとでは、すばらしい目の保養になった。

11・22(日)山形交響楽団第200回定期演奏会
 歴代4人の指揮者が競演

  山形テルサホール

 大阪空港(伊丹)から11時05分のJALで山形空港へ飛ぶ。この便が飛んでいるだけでも有難いと言えるが、山形空港からのリムジンバスはすでに廃止されており、市内へ行くには予約の乗り合いタクシーとやらを利用しなければならぬと知る。都合でタクシーを利用したが、9千円近くかかったのには悲鳴。世の中、便利あれば不便もある、だ。 

 山形交響楽団の200回定期。
 創立名誉指揮者の村川千秋、名誉指揮者の黒岩英臣、現・指揮者の工藤俊幸、現・音楽監督の飯森範親が勢ぞろいし、1曲ずつ指揮したが、おのおの異なった指揮者の個性にオーケストラが実によく反応して、あたかも山響の歴史を一夜にして回顧するかのような趣きを呈した。

 特に印象深かったのは、村川千秋が久しぶりに振ったというシベリウス――その「カレリア組曲」であった。
 思えば、東京在住の私たちが山響の演奏を聴く機会を少しずつ増やすことが出来た頃、彼の振るシベリウスは、山響の「定番」だったと思う。彼が「地方都市オーケストラ・フェスティバル」で最後に指揮した(2001年)シベリウスの「第7交響曲」は、本当に心のこもった素晴らしい演奏だったのを記憶している。
 1972年に東北地方最初のプロ・オーケストラとして立ち上げ、自ら中心になって血の滲むような努力で引っ張って来たこの山響が、今やこんなにも立派な楽団に成長したのを目のあたりにして、彼の感慨もひとしおだったのではなかろうか。
 この「カレリア組曲」の演奏に聴かれた、不思議なほどに懐かしい温かさは、楽員が村川に捧げる想いをも反映したものであったろう。

 この日のプログラムは、現音楽監督・飯森範親の指揮する明晰かつダイナミックな、新しい時代に入っている山響の姿を如実に示す演奏の、ストラヴィンスキーの「火の鳥」組曲で結ばれた。
 

11・21(土)関西二期会 ベートーヴェン:「フィデリオ」

   アルカイックホール (尼崎)

 関西フィルが舞台上の前面に配置されているので、ハテ今回はセミ・ステージ上演だったのかなと一瞬首をひねったが、序曲が終るとオーケストラがピットに沈んで行き、通常のオペラ上演の形に変ったのに納得。
 第2幕途中での「レオノーレ序曲第3番」の演奏の際にもピットが上昇して、オーケストラが主役に躍り出る。このテは、欧州の歌劇場やマリインスキー劇場などでも時たま使われているらしいが、なかなか効果的だ。欲を言えば、演奏しながら上昇・下降が行なわれれば、ドラマの緊迫感が中断しなくて済むのだけれど。

 その関西フィルを指揮した飯守泰次郎は、さすがの練達ぶりだ。
 序曲の冒頭から、音楽が瑞々しく躍動している。惨忍な刑務所長ドン・ピツァロが登場する際の行進曲のリズムの重々しい不気味さや、第2幕冒頭のフロレスタンのアリア後半における「憧れのリズム」の波打つ高揚、それに続くレオノーレとロッコの対話の背景に流れる音楽の暗鬱な響きなど、平凡な指揮者なら無味乾燥に陥りやすいこれらの個所での飯守の音楽づくりは、まさに妙味と言っていい。決して力むことのない演奏ながら、アクセントは強く、ベートーヴェンの音楽特有のメリハリを充分に再現している。これだけ情感の豊かな音楽を聴かせる指揮者は、こんにちでは稀であろう。
 関西フィルも(ホルンの頼りなさを除けば)、この指揮によく応えており、好演であった。

 歌手陣では、フロレスタンを歌った小餅谷哲男が光った。時々走りすぎてオーケストラと合わなくなるのはいただけないが、不屈の囚人といった性格を感じさせる声の表現は魅力だ。
 看守長ロッコを歌った橘茂は、この役にしては声が軽い(その点、22日の木川田澄は適役だろう)が、表現力においては優れたものを聴かせていた。
 レオノーレの小西潤子とドン・ピツァロの花月真は、精一杯という感じだろう。ドン・フェルナンドの菊田隼平は低音が弱く、「正義の大臣」役としては存在感に欠ける。脇役だが、松原友(ヤキーノ)と高嶋優羽(マルツェリーネ)が、それぞれ役に合った良い表現を聴かせていた。

 但し、問題がある。だれもかれも、ドイツ語のセリフ回しがひどく単調であることだ。喜びだろうと怒りだろうと、すべての感情が間延びした同じ調子で喋られ、かつセリフと音楽との「間」ものんびりと空いているので、登場人物の心理の変化の表現やドラマの緊迫感が著しく削がれてしまう。これは指揮者の責任か、演出家の責任か?

 その演出(栗山昌良)に関しては、何をか言わんやだ。いまどき、こんな時代遅れで中途半端な舞台が罷り通るとは、恐れ入った話である。
 登場人物は舞台に出て来て姿勢を整え、客席を向いて直立不動で歌い、「歌い終ると退場」するというパターン。各キャラクターがセリフや音楽の上で演技的に反応し合うことは、最初のヤキーノとマルツェリーネの場を除けば、皆無と言っていい。
 刑務所長が激怒しているという報せを持って慌てて駆け込んできたマルツェリーネが、突然落ち着いた姿勢になって歌い始めるなどということなど、オペラの上演で考えられるだろうか? 地下牢での息詰まる対決の場面など、それぞれ勝手な方を向いたままの人物の表情の無さには腹立たしくなる。
 ヴィーラント・ワーグナー風の象徴的演出を真似るならそれでもいい。だが今回は、そこまで徹底もしていない。それに、なまじ全員がリアルな衣装姿でやるから始末に悪い。フィナーレでも、演技をする大臣、一切無表情で正面中空を見つめたままのレオノーレといった具合に、統一が取れていない。

 ちなみに、フィナーレで演技を停止させ、オラトリオ形式に変えてしまう演出は、ヨーロッパの歌劇場では時々見られる。だがそれが生きるのは、それに先立つ緊迫したドラマトゥルギーとの対比があってこそなのである。

 結局今回は、高い制作費を注ぎ込んで装置と衣装を作っておきながら、実際には演技なしの演奏会形式に等しい手法でやったような結果になった。
 レジー・テアター系演出をやれなどと言っているのではない。だが、もっと生きた人間のドラマを舞台上に創り出せるような――本当のドラマトゥルギーを駆使してオペラの舞台を創れるような演出家は、わが国にはいないのだろうか?

11・20(金)ゲンナジー・ロジェストヴェンスキー指揮 読売日本交響楽団
チャイコフスキー・プログラム

   東京芸術劇場

 チャイコフスキーの知られざる名曲――交響的バラード「地方長官」、幻想序曲「テンペスト」、組曲第1番、「戴冠式祝典行進曲」。

 「知られざる」とか「埋もれた」とかいうのは、たいていそれなりの理由があるものだが、これだけ手際の良い演奏で聴かせてもらうと、たちまちそれらは「名曲」として復活する。広大な空間的拡がりを感じさせる響きで演奏された「テンペスト」もその一例だ。

 「組曲第1番」は、更に面白い曲に聴けた。
 あまりチャイコフスキーらしからぬ手法と曲想で書かれた第1曲「序奏とフーガ」では、弦の各声部がくっきりと色彩的に隈取りされた音の流れとなって交錯する鮮やかな演奏に舌を巻く。一方、まさにチャイコフスキーそのものの愛らしい「小行進曲」では、木管の軽快なリズム感と音色が絢爛たる効果をあげていた。これが終った瞬間、客席に微かな歎声が流れたのも無理からぬことだろう。
 ロジェストヴェンスキーの巧さと、読売日響の良さに感心させられた一夜であった。

11・18(水)クリスティアン・アルミンク指揮新日本フィル
マーラー:「千人の交響曲」

  サントリーホール

 サントリーホールでの「千人」は、以前1階席で聴いて、危うく難聴(?)になりかけたことがある。あれはベルティーニ指揮の時だったか。 
 その他、ミューザ川崎シンフォニホールのオープニングの時にも、ウィーン・ムジークフェラインでのブーレーズ指揮の時でさえもそうだった。それはオーケストラの音ゆえでなく――歌っている方には失礼だが――第1部での合唱団の強大無比な音量、特にソプラノ軍団の高音域の強烈さのためである。
 まあ、こんなことを言うのは、自分がもともとこの曲の第1部を何度聴いても好きになれないためかもしれない。あそこは、マーラーの事大主義が一番好ましくない形で露呈されている、というのが私の主観なのである。

 今日は2階席で聴く。今回も合唱団(栗友会合唱団、武蔵野音楽大学室内合唱団、東京少年少女合唱隊)は強力であることには違いなかったが、アルミンクの好みか、あまり強引でヒステリックな怒号にならずに済んでいた。
 これは新日本フィルの演奏についても同様。アルミンクらしくややクールなアプローチがそのような効果を生んでいると思われる。その意味では、私にとっては気持よく聴けたというわけだが、反面、第2部での神秘性とか陶酔感とかいう点になると、少々物足りなかったことは事実であった。
 しかし、これがアルミンクの特徴なのだ。オーケストラの音色は美しく、きわめて均整の取れた響きを創り出している。彼と新日本フィルとの共同作業は、引続き好調な状態にある。

 声楽ソリストはマヌエラ・ウール(S1)、宮平真希子(S2)、安井陽子(S3)、アレクサンドラ・ペーターザマー(A1)、清水華澄(A2)、ジョン・ヴィラーズ(T)、ユルゲン・リン(Br)、ロベルト・ホルツァー(Bs)。特に日本勢の2人のソプラノが快調だった。コンマスは崔文洙。

11・16(月)アラン・ギルバート指揮北ドイツ放送交響楽団

  ハンブルク・ライスハレ

 ライスハレ(旧ムジークハレ)は、2RANG(3階)まである客席を持つクラシックな雰囲気のホール。1階18-13という席が音響的に良いのか悪いのかは未だ判断しかねるが、やや音が散る傾向にあるかもしれない。溶け合ったアンサンブルを愉しむというわけには行かない。その代わり、オーケストラを近距離で聴くという感じになる。

 今夜は北ドイツ放送響(NDR)を、アラン・ギルバートが客演指揮した。
 彼がドイツのオーケストラをどのように指揮するのか――を知りたくて私も聴きに来たわけだが、プログラムがバッハの「2つのヴァイオリンのための協奏曲」とストラヴィンスキーの「ヴァイオリン協奏曲」、ハイドンの交響曲「マリア・テレジア」、ベルクの「3つの管弦楽曲」という比較的ハイブロウで硬質(?)なものばかりなので、アランもいつも以上に抑制した指揮をせざるを得なかったのかもしれない。

 聴衆の側でも、ヴァイオリン協奏曲が2曲続いた前半が終り、休憩後の1曲目を飾る「マリア・テレジア」が――如何にハイドンとしては軽快華麗な曲想とはいえ――小編成で室内楽的に開始されたのでは、解放的な気分にはなれなかったのだろう。
 特に保守的な好みの高齢者にとっては、この日のプログラムはどうだっただろう。ハイドンが終ったあとで、早くも帰り始める高齢の客が何人もいる。そしてベルクが終ったあとでは、みんな席を立つのが早いのなんの。両側のじいさんばあさんたちが拍手もそこそこに席を立とうとざわついているのを見ると、こっちは意地でも、通路を塞いで動かずに拍手を続けていてやろうという気にもなってしまう。
 アランの地味だが誠実な指揮に反応している客は、1階の客の中では、半分ほどか。

 因みに、この日最も盛大な拍手を受けたのは、ストラヴィンスキーを弾いたレオニダス・カヴァコスだった。
 この人を聴いたのは昨年夏のエディンバラ以来だが、本当に彼の音楽は厳しく強烈な放射力を持っている。何気ないジェスチュアで弾くのだが、その一音一音が毅然としていて、聴き手の心にぐいぐいと切り込んで来る、といった演奏なのだ。聴衆が湧いたのも無理はない。
 なお、バッハの協奏曲でもう1本のヴァイオリンを弾いたのは、ほかならぬアランであった。カヴァコスと並んで弾いたのでは誰だろうと分が悪いが、まあ仕方なかろう。

 アランは11月のNDR定期にもう一度客演して、チャイコフスキーの第4交響曲などを指揮することになっている。そちらの方なら、拍手も長く続くだろう。
 今回のハンブルク旅行は、たったこれだけでお終い。明朝発つ。

11・15(日)ハンブルク・オペラ ワーグナー:「ジークフリート」

  ハンブルク州立歌劇場

 とんぼがえりでハンブルクを訪れる。
 まず、州立歌劇場。シモーネ・ヤング指揮、クラウス・グート演出の「ニーベルングの指環」が「ジークフリート」まで達している。
 昨年の「ラインの黄金」(3月19日)、「ワルキューレ」(11月12日)と順に見て来て、グートの演出はさほど面白い部類には入らないけれども、ヤングおばさんの指揮が引き締まって歯切れ良いので、とりあえず今回も、となった次第。

 もともと彼女の指揮には割り切って素っ気無いところがあり、たとえば「ブリュンヒルデの目覚めの場」での弦のトリルの後など、ラレンタンドなしで思い切りよくスパッと切るという演奏なので、官能や情緒を求めても無理だ。が、まあこれも近年のワーグナー演奏の一つのタイプであることは事実だろう。

 昨年と違って今回は、1Rang Recht Balcon (2階席)の最前列で聴いたせいか、オーケストラ(ハンブルク・フィル)の音が裸で生々しく細部まで顕わに聞こえるので、ちょっとした乱れやノリの悪さも気になってしまう。分厚い管弦楽の中で各モティーフが精妙に絡み合い、音楽が虹の色のように変わって行く感のある第3幕になると、彼らの演奏はどうも勝手が悪いようだ。
 それでも中盤以降、オーケストラのバランスは完璧に近いものとなり、ワーグナーの厚みのある響きとスペクタクル効果を充分に再現してフィナーレを盛り上げた。終り良ければ全て好し、ということにしましょう。

 配役の中で、このツィクルスで継続して出ているのは、ファルク・シュトルックマン(ヴォータン)とヴォルフガング・コッホ(アルベリッヒ)。前者は相変わらずの馬力で、迫力はあるのだが、少々吠え過ぎの印象がなくもない。
 ミーメのPeter Galliardは昨年春の「ラインの黄金」でもローゲを歌っていたはずだが、あの時は喉の不調とかで口パク演技で、舞台袖でクリスティアン・フランツがパワフルな歌唱を聴かせていた。
 そのフランツが今回はジークフリート。例のごとく暴れん坊を演じていたが、彼のジークフリートはその体型のせいか、大体いつもこんな調子である。

 ブリュンヒルデを歌ったのは英国人のキャサリン・フォスター。この人、何か我々が棒読みする時のドイツ語の発音みたいになる時があって、これでもいいんだろうか、と思うけれども、その代わり声は非常に綺麗で、張りとパワーもある。
 特に、全曲最後の高いハ音を絶叫にせず、濁らぬ声で、しかも2小節間も(!)朗々と延ばしたのには感心した。最近、ここをこのように歌えたソプラノにはあまりお目にかからないからである。

 その他、ファーフナーをDiogenes Randes、エルダをDeborah Humble、森の小鳥をHa Young Lee。最後の2人はキャリア・プロフィールも載っていない扱いとは如何なる訳か。ファーフナーに少々凄みが不足することを除けば、皆手堅い出来である。

 第1幕は、ジークフリートとミーメが「暮らしている」殺風景な広い部屋。ミーメは一度も鍛冶を行なわず、ただストレスに悩み、貧乏揺すりをし、精神安定剤を服用してばかりいる男だ。
 ジークフリートは部屋にある洗濯物から洗濯機からあらゆる物を叩き壊しては燃やし、洗濯機のモーターを鑢代わりにしたりして、とにかく上手く剣を作り上げる。
 第2幕は、空しくファーフナーを見張るアルベリヒが酒と煙草に浸る日々。クリスティアン・シュミットの舞台美術がちょっと変った面白さを見せて、「森」をテラスの向う側に密生している植物園のごとき樹林に設定、ファーフナーが斃れるとその葉林が割れ、奥に庭園の廃墟が現われる仕掛け。

 興味深いのは、森の小鳥が小型ジークフリートという姿をし、鏡に写ったような動作をしつつ出現することだ。明らかに小鳥は彼の幼年時代――つまり彼の幼児的な夢や憧れを象徴する存在として描かれている。そのあと第3幕で、ブリュンヒルデが心を開いた音楽が始まった時、窓の外に近づいて来た「小鳥」の前で、ジークフリートがゆっくりと窓を閉め、静かにそれと訣別するシーンがあることでも、それは証明される。
 今回のグートの演出で心理的な解釈が光っていた個所は、そのあたりである。

 第3幕第1場、エルダの出現場面は、何と巨大な図書室。彼女は膨大な文献の研究に没頭している。「智の神エルダ」だから、なるほどそれも一つの解釈。
 但しその本には、綴じの緩んでバラバラになった白紙も少なくないらしい。ラストシーンでブリュンヒルデがジークフリート一緒に何冊かの本を破り捨てるのは、おそらくそのエルダから受け継いだ「智」と訣別するという意味であろう(もう少し本というものを大切にしなさいよ)。

 この大詰めの場は、「ワルキューレ」第3幕で見られた汚いタイル製洗面所の痕跡が少し残る、大きな窓のある部屋。何となく壊れた温泉大浴場か、廃墟となったスパを連想してしまった。「ワルキューレ」第3幕のあの部屋は、長い年月の間に、ブリュンヒルデが寝ていた洗面所の一角だけを残して、改造され、そして廃墟と化したのだろう。
 5時開演で、10時終演。

 この新制作プロダクション「ジークフリート」はこの秋6回上演で、今夜が最終日である。オペラ部門インテンダント&音楽総監督シモーネ・ヤングは今シーズン、この作品の他に、新制作の「ルチア」11回と「アンドレア・シェニエ」6回、「期待」など3つの作品を集めた「トリロジー」6回を振り、またレパートリーでは「ホヴァーンシチナ」5回、「アラベッラ」3回、「ラ・ボエーム」2回、「椿姫」2回、「カヴァレリア・ルスティカーナ」と「道化師」各3回、「メリー・ウィドウ」3回、「サロメ」3回、「エレクトラ」2回、「ヴェルディ・ガラ」1回を指揮、またハンブルク・フィルのジルヴェスターも指揮するという大車輪だ。
 だが、オペラ座一国一城の主ともなれば、そのくらいは珍しいことでもなかろう。

11・12(木)トゥガン・ソヒエフ指揮トゥールーズ・キャピトル国立管弦楽団(続)

   東京オペラシティコンサートホール

 今回の来日公演最終日は、チャイコフスキー・プログラム。

 所用のため、2曲目の「ヴァイオリン協奏曲」のフィナーレをやっている頃、やっとホールに到着。ロビーで待っていたら、信じられないような速いテンポで演奏が盛り上がっているのが聞こえてきた。
 ソロは、諏訪内晶子だ。一昨日のブラームスの協奏曲では、実に堂々たる風格の、毅然とした意志の強さを示すような演奏を聴かせていたのに感心させられたものだが、この数年、彼女の音楽が著しく充実して来ていることは紛れもない事実である。今日のチャイコフスキーの協奏曲をホールの中で聴いた何人かの知人も、彼女が以前の優等生的な演奏から完全に脱皮しているという感想を口にしていた。
 それにしても、あんな凄いテンポで弾くというのは驚異的である。オケもよくやるものだ。

 プログラムの後半は、チャイコフスキーの「第5交響曲」。
 2日前にサントリーホールで聴いた時の印象とはやや異なり、今夜の演奏は、音色の彫琢よりもエネルギーを優先したワイルドなアプローチという感がある。
 もちろんこれは、作品の性格にもよるだろう。第1楽章と第2楽章では、フレーズの一つ一つに表情の精妙さがあり、デュナーミクの変化にも細かい神経を行き届かせてさすがと思わせたが、しかし第4楽章は、ただもう凄まじい勢いの、エネルギッシュな、スリリングな演奏となった。まあ、この楽章では、ロシア人指揮者はしばしばこういう突進型の演奏をするものだ。とにかく、煽ること、煽ること。
 それでも音楽が崩れないところが、いかにもこのコンビらしい。稀にティンパニなど、アララというところもあったが、笑って聞き流せばよろしかろう。

 ただ、アンコールでの――2曲目のエルガーの「愛の挨拶」はいいとしても、その他の曲――チャイコフスキーの「トレパック」、ビゼーの「カルメン」前奏曲、ドヴォルジャークの「スラヴ舞曲第1番」はあまりに威勢のよすぎる演奏で、「ご愛嬌」でなければ、これはちと「やり過ぎ」だ。オーケストラはそれなりに巧いことは事実だが。
 ドヴォルジャークなど最初のうち、あまりに金管と大太鼓が強すぎて、たしかにこの曲のはずなのに主題のフシが全然聞こえて来ない――という、一風変わったバランスになっていたのに驚いた。「やり過ぎ」でなければ、シャレか? しかしこういうノリが、若い指揮者の面白いところではある。

11・11(水)マリス・ヤンソンス指揮バイエルン放送交響楽団

  サントリーホール

 近年目立って増えて来たのは、オーケストラ・コンサートにおいて、ゲスト・ソリストが延々とアンコールを――もしくは長い曲のアンコールをやることだ。
 1曲ならまだしも、2曲も(昨年、3曲やったソリストがいた)やるのはいかがなものか。いくらその演奏が素晴らしいものであっても、その日の主役はオーケストラなのであり、彼(又は彼女)のソロ・リサイタルではないのだから、ほどほどにするべきであろう。
 今日のヨーヨー・マもその例だ。彼のアンコール・パートが占めた時間は、拍手も含め、実に22分に及んだ。その一方、オーケストラのプログラムにおいては、当初発表されていた「ローエングリン」第1幕への前奏曲の演奏がカットされた。本末転倒とはこのことである。

 まあ、それはそれとしましょう。
 ところで、このわずか10日の間に東京で演奏会を行なった外国のオーケストラは、何と6団体。フランス3、アメリカ1、ドイツ2、という比率で、大変な来日ラッシュだ。そのいずれもが大変すばらしい演奏を聴かせてくれたのだから、これまた稀有なことに違いない。
 その中でも今日のヤンソンスとバイエルン放送響は、まさに王者の風格というか、熟成された音楽家の味というか、さすがの底力を示した。このコンビもまた、今や最良の時期に入っていると言って言い過ぎではない。

 プログラムの最初は、ヨーヨー・マがソリストとなったドヴォルジャークの「チェロ協奏曲」。マの演奏は、昔より柔らかくなり、温かいぬくもりの表情をさらに増した。
 ヤンソンスとバイエルン放送響の方も、しなやかな、しかも引き締まった響きが美しい。第3楽章で、ソロの合間に戻って来るオーケストラの総奏主題があまりにスケールが大きく立派なので、この時代の協奏曲もやはりリトルネロの形式の精神をどこかで受け継いでいるのだな、なんていうことをふと考えてしまう。
 そして、そのあとにマのソロ・アンコール。バッハが2曲続く。前述の問題を別として、その演奏の極上に美しかったことは、紛れもない事実なのである。

 プログラム後半はワーグナーで、「タンホイザー」序曲、「神々の黄昏」から「ジークフリートのラインへの旅」と「ジークフリートの葬送行進曲」、最後に「ワルキューレの騎行」。
 CDで聴くよりもさらに響きが豊麗である。一種丸みのある独特の中音域の音色が、演奏全体に不思議な柔らかさと温かさを与えている。魔性や翳りのないワーグナーではあるが、これがヤンソンスの個性だとも言えよう。
 だが、プログラムの前半でヨーヨー・マに贈られたような熱狂的な拍手が、オーケストラにとってのメイン・プロである後半の曲目ではほとんど出て来ないのは意外だった。ヤンソンスとオーケストラには気の毒な気がする。ワーグナー・ファンは来ていなかったのだろうか? 

 アンコールに「伝ハイドン=ホフシュテッターのセレナード」と、「ローエングリン」第3幕への前奏曲(!)。こういう曲目の時には拍手が盛んになる。9時25分終演。

11・10(火)トゥガン・ソヒエフ指揮トゥールーズ・キャピトル国立管弦楽団

   サントリーホール

 かつては、ゲルギエフ率いるマリインスキー・オペラで副指揮者として名を連ねていたトゥガン・ソヒエフ。今では世界に活躍するライジング・スター指揮者の一人になった。
 若手指揮者の中でも屈指の逸材――と私が決め込み、入れ込んでいるソヒエフ。
 今回は、音楽監督を勤めるトゥールーズ・キャピトル国立管弦楽団を率いての来日である。

 常々感じていることだが、このソヒエフは、音色にこだわり、それを磨き上げることの出来る指揮者として、この世代ではずば抜けた才能を持った人であろうと思う。
 今日のプログラム――ドビュッシーの「牧神の午後への前奏曲」、ブラームスの「ヴァイオリン協奏曲」(ソロ・諏訪内晶子)、ムソルグスキー~ラヴェルの「展覧会の絵」、アンコールで演奏したチャイコフスキーの「胡桃割人形」の「パ・ド・ドゥ」、ビゼーの「カルメン」の「第3幕への間奏曲」と「前奏曲」といった曲にも、その手腕が見事に発揮されていた。

 ソヒエフは、とりわけテンポを誇張して動かしたり、デュナーミクを作為的に強調するという人ではない。むしろ、比較的ストレートに音楽をつくるタイプに属する指揮者だ。にもかかわらず、その音楽の細部は彫琢されていて、ニュアンスも極めて精緻に表現されている。若手の中で、彼のようにドラマティックに音楽を構成しつつ、作品全体のバランスに神経を行き届かせるといった指揮者は、決して多くはないのである。

 オーケストラも、すこぶる優秀だ。響きのバランスの良さ、強奏個所においても濁ることのない透明感、弦楽器の艶と金管の輝かしさ、強大な音量など、驚くべき域に達している(以前プラッソンと来日した時は、こんなに綺麗な音ではなかった)。これらの点では、この秋の(今日までに聴いた分の)来日オーケストラの中では、随一の存在ではないかという気がする。

11・9(月)大野和士指揮フランス国立リヨン歌劇場管弦楽団

東京オペラシティコンサートホール

 ショーソンの「交響曲変ロ長調」、ドビュッシーの「牧神の午後への前奏曲」、サン=サーンスの「交響曲第3番」、アンコールにフォーレの「パヴァーヌ」と、見事にフランスもので固めた一夜――のはずが、最後のアンコール曲にブラームスの「ハンガリー舞曲第1番」とは・・・・。

 ショーソンの交響曲をナマで聴くのは何年ぶりだろうか。いい曲だ。この第3楽章冒頭部分が、昔ニュース映画(映画館で上演される世界のニュースのこと)の竜巻などの災害場面で必ず使われていたことを記憶している人は、もう少ないだろう。
 もともと激しい曲想が多い作品だが、大野の指揮もそれに輪をかけてアジタートだ。彼は本質的にラディカルな音楽性を持った指揮者ではないかというのが私の独断的意見なのだが、この曲の演奏など、その最たるものではなかろうか。

 サン=サーンスの「3番」にしても同様、第1楽章での嵐のような進行、フィナーレ最後でのテンポの猛烈な加速など、これほど激した演奏に出会うことはめずらしい。
 ほとんどプレスティシモのテンポで演奏された「スケルツォ」にあたる部分では、私は思わずベルリオーズの「ロメオとジュリエット」の「マブ女王のスケルツォ」を連想してしまったのだが、なるほどこの個所は、演奏によってはこういう妖精のような性格を備えることが出来るのだ、と啓示を受けたような思いである。

 だからといって、大野の指揮が常に疾風の勢いばかりだったというわけではない。「牧神の午後への前奏曲」におけるふくよかで夢幻的な世界など、彼の叙情面での良さが余すところなく発揮された演奏であった。
 ニュアンスも非常に細かい。「パヴァーヌ」で、フルートの主題に応答する木管群のフレーズを極度にふくらませて演奏させるあたり、大野の劇的センスも実に面白いな、と感心させられる。

 リヨン歌劇場のオーケストラは、叙情性とエネルギーとを交錯させた熱演を披露した。音色は必ずしも常に美しいというほどではなく、勢いが優先してしまうきらいがなくはない。だが、金管群の輝かしさは、さすがフランスのオーケストラというべきか。それはサン=サーンスの交響曲の、特にフィナーレにおけるファンファーレで、胸のすくような効果を発揮していた。

11・9(月)METライブビューイング
 09~10シーズン第1弾「トスカ」

   新宿ピカデリー 10時

 10月10日に上演されたプッチーニの「トスカ」が、今シーズンのライブビューイングの第1弾となった。

 25年の長きにわたりMETの定番だったフランコ・ゼッフィレッリの豪華絢爛たる舞台に換わって、新プロダクションとして登場したのは、リュック・ボンディの演出。
 予想通り、やや渋くなった。
 渋いのは構わないし、ストレートな演出であることも一向構わないけれど、特に何かこの作品について新しい視点を提供するといった舞台ではない。安泰で、常識の範囲を出ない、過去の路線をなぞるような演出であるのが「やっぱりね」という感だ。

 ただしその中では、「歌に生き、愛に生き」のさなかから、トスカが意識的にか無意識的にか、何度もナイフを手にするというところが、一般の演出と少しく変わっている。トスカはかなり激しい性格として描かれ、ラストシーンでは階段の上からスポレッタや看守(この演出では警備隊長)を招き寄せておいて蹴倒す。彼女が回廊から身を躍らせ、体が空に浮くかと見せた瞬間に暗転するという仕掛けが、いかにもMETらしい。

 トスカにカリタ・マッティラ、カヴァラドッシにマルセロ・アルバレス、堂守にポール・プリシュカ。
 警視総監スカルピアは、当初予定のユハ・ウーシタロに代わり、グルジア出身のジョージ・ギャグニッザ。なかなかの悪役ぶりを見せていた。指揮も当初予定のレヴァインが体調不良とかで、ジョセフ・コラネリへ変更になっていた。
 案内役はスーザン・グラハム。インタビューもCMも上手い。いつもながらこの幕間のインタビューは、すこぶる手際がいい。背景に写っている時計の時刻が少々腑に落ちなかったが。

(追記)
 この時計の時刻が午後4時少し前だったことについて、「この日の開演は午後1時だったのだから、腑に落ちないことはないはず」というコメントを頂戴した。
 私が腑に落ちないと書いたのは、それゆえである。それが、これから第3幕に入るとアナウンスしているグラハムの背景に映っている時計だったからである。午後1時から始まったのなら、4時には、すでに第3幕も終わりに近づいている頃のはずではありませんか?
 考えられるのは、その日の進行が遅れたか、コントロール・ルームの時計だけ別の時刻にあわせているのか、それともこの場面だけビデオ用にあとで差し替えたか、である。
 まあ、所詮どうでもいいことだから、私は「少々」とだけ書いたのだが、放送局で長年仕事をしていた者としては――また他ならぬこのMETの土曜日マチネーのラジオ中継番組(録音)の放送を「ミュージックバード」で数年間放送していた当の担当者としては、職業柄、ついこういうヘンなところに目が行ってしまうのであります。

11・8(日)ザ・カレッジ・オペラハウス「火刑台上のジャンヌ・ダルク」

   ザ・カレッジ・オペラハウス  (マチネー)

 大阪音大ザ・カレッジ・オペラハウスの20世紀オペラシリーズには、毎年のように優れた上演が並ぶが、今年のオネゲルの「火刑台上のジャンヌ・ダルク」もなかなかの力作であった。

 まず何より、首席指揮者チャン・ユンスンとザ・カレッジ・オペラハウス管弦楽団がいい。引き締まって密度の濃い演奏だ。劇中にいくつかある高揚点への追い込みもすこぶる緊迫感に満ちていて、全曲を意外に短く感じさせるほどであった。

 演出は岩田達宗、舞台美術は増田寿子。
 今回は、中央に十字架を置いてジャンヌを板付きにするといったセミステージ・スタイルではない。ジャンヌは中央の「火刑台」にとどまらず、しばしば舞台最前方にまで場所を移す。登場人物の動きを多くし、よりオペラとしての効果を狙っている。合唱団の動きがいいので、舞台としてもまとまりが感じられる。

 セリフ役のジャンヌと僧ドミニクは、常に日本語(ほんの1ヶ所あるジャンヌの歌も日本語)。その他の人々は歌唱・セリフを含めすべてフランス語という設定だ。これは、聴く側にとっても少々煩わしいところがなくもないが、まあ仕方がないだろう。ジャンヌ(石橋栄実)とドミニク(川下登)のセリフは極めて明晰で、特に石橋の演技の良さも特筆すべきものがあった。

 ただ惜しむらくは、石橋のセリフの発声が、日本のオペラ歌手がセリフを喋る時には必ずこうなる――歌うような、頭の天辺から声を出すあの流儀に陥っていることで、これは性格表現の微細さを完全に失わせる。このドラマでは、ジャンヌは歌手よりも俳優であるべきなのである。
 もう一つは、彼女のセリフが最初から最後までハイ・テンションのままであるため、性格表現が非常に単純になってしまい、苦悩の心理状態が一面的にしか描き出せなくなってしまうことだ。第9場「ジャンヌの剣」など、音楽が闇の中の回想にふさわしく暗鬱に沈潜している個所では、セリフも音楽に合わせてもっと起伏を持たせた方がいいのではなかろうか。そうしないと、クライマックスたる最終場面の火刑での感情高揚が生きて来ないのである。

 もっとも、この作品の舞台上演では、ジャンヌ役の人はたいてい張り切ってしまうらしい。これまで私が観たいくつかの上演でも、終始ハイ・テンションになってしまう点では大同小異であった。
 その昔、オーマンディ指揮のレコードで演じていたヴェラ・ゾリーナのような、起伏縦横、明暗自在といったセリフ回しでジャンヌの揺れ動く心理を微細に描き出せる人は、もう出て来ないのであろうか。

 その他歌手陣は、第8場に出て来る坊さんだけがおそろしくいい加減な歌い方をしたことを除けば、みんな健闘していた。

 日本ではそれほど繁く上演される機会のない曲なのに、なぜか重なる時には重なるらしく、来年2月には沼尻竜典が大阪センチュリー響の定期でこれを取り上げる。それも聴いてみたい。この曲は、昔から私の好きな曲である。

11・7(土)ユベール・スダーン指揮東京交響楽団
 シューマンとブラームス

   サントリーホール

 スダーン&東響、充実の演奏会。このコンビは、特にここ2、3年、最高の水準にある。

 マーラー編曲版によるシューマンの交響曲シリーズ。今日の第3回は「交響曲第2番」。
 冒頭からして、オリジナルと異なった響きがする。全曲、よくまあこれだけオーケストレーションに手を加えたものだと感心したり、呆れたり。その手法は実に巧妙だ。
 しかし、聴いていると、何か落ち着かない。初めからマーラーの作品だと思って聴いていればいいのかもしれないが、やはりこちらの頭の中には、シューマンのオリジナルがある。結局、以前にも感じたことだが、所詮マーラーは、やらなくてもいいような、余計なことをやってくれたのではないかな――という思いが最後まで抜けきれないのである。

 だがひるがえって言えばこれは、スダーンと東響の演奏が、それだけ迫真力があったことを証明するものだろう。閃くフォルティシモ、細かく精妙なクレッシェンドとデクレッシェンドなど、いつものようにスコアの細部にまで綿密に気を配った演奏は、見事というほかはない。
 第1楽章や第4楽章のコーダにおける熱狂的な昂揚感――これこそシューマンというよりむしろマーラーのものだろう――は、スダーンがこれまで聴かせたことがなかったほど、壮絶なものであった。

 この「2番」に、精神病者の症候を感じ取り、それを演奏に再現したのが、故ジュゼッペ・シノーポリだった。彼の指揮による第2楽章――特にそのコーダの部分における痙攣的なテンポの加速は、まさにそれを反映したものだったのだろう。
 スダーンが、それを意識して指揮したとは思えない。が、今夜演奏された第2楽章のコーダは、何かそれに共通するものを持った、激しい演奏だった。スダーンもまた、無意識的にシューマンの病む精神を読み解いたのだろうか。
 そしてマーラーのオーケストレーションが、その狂気性をより強めているような気もする。

 プログラムの前半におかれた、ブラームスの「ピアノ協奏曲第1番」――これがまた今日は、襟を正したくなるほどの立派な演奏だった。ゲルハルト・オピッツのヒューマンな温かさにあふれた、しかも揺るぎのない風格に満ちたソロは、まさに良きドイツ魂ここにあり、という演奏といえよう。
 そしてさらに、スダーンが東響から引き出す緻密でしっとりとした、しかも強固な構築性を備えた音楽の素晴らしさは、比類ない。

 アンコールは、コンマスの高木和弘がソロを弾くシューマンの「トロイメライ」。編曲はテオ・モーゼズという人だとか。何となくマントヴァーニ的雰囲気のトロイメライ。

 このところ、疲れも吹き飛ぶ素敵なコンサートが続く。

11・7(土)NISSAY OPERA 「ヘンゼルとグレーテル」

  日生劇場 (マチネー)

 今年の日生劇場の「NISSAY OPERA」(NISSEIではない)は、フンパーディンクの「ヘンゼルとグレーテル」。演出がクリスティアン・シューラー、指揮が下野竜也。字幕付の日本語上演。

 「青少年のための日生劇場オペラ教室」というシリーズの一環のためもあるのだろうが、演出はきわめてオーソドックスで、イェンス・キリアンの簡素だが丁寧に作ってある舞台装置ともども――ただしその大道具を扱う演技の手順はあまりいいとは言えないが――可愛らしく、ほのぼのとした舞台になっている。
 ここにはスーパーの菓子売り場などは出て来ないし、魔女もグロテスクな大女などではないし、解放される子供たちも甘味を摂り過ぎた異常肥満体などではない。そういう読み替えのない、いわば原点回帰とでもいうべき演出だ。

 とはいえ、この舞台が平凡な構図だったと言っているのではない。冒頭場面でテーブルや椅子、冷蔵庫を巨大に作って、ヘンゼル(田村由貴絵)とグレーテル(臼木あい)を子供に見せたり、あるいはお菓子の家の場面で幕を巧く揺らせたりして、観客に視覚的錯覚を起こさせるような仕掛けは――それら自体は独創的なものではないが――観客を愉しませるだろう。

 歌手陣は他に渡辺敦子(ゲルトルート)、青戸知(ペーター)、諸井サチヨ(露の精)、虎谷亜希子(眠りの精)、蔵野蘭子(魔女)。なお、魔女の分身のような操り人形を演じていた黙役の山中美奈は、八代亜紀みたいな白塗りメイクだが、演技が実に愛らしくて色気があって、魅力的だった。

 下野竜也指揮の読売日響は、整然たる演奏。欲を言えばもっとメルヘン的なふくよかさが欲しいところだが、この劇場のピットの音響特性では、なまじフワフワした音で演奏すると、バラバラな響きになってしまう可能性もあろう。
 天使たちのパントマイム場面での音楽の昂揚や、お菓子の家が爆発した瞬間の金管の咆哮など、なかなか良かった。

11・6(金)マルク・ミンコフスキ指揮ルーヴル宮音楽隊のハイドン

  東京オペラシティコンサートホール

 昨夜のラモーとモーツァルトがあまりに良かったので、今日のハイドンの交響曲も聴きに行く。今夜のプログラムは第101番「時計」、第103番「太鼓連打」、第104番「ロンドン」の3曲。
 良い指揮者とピリオド楽器オーケストラが演奏するモーツァルトやハイドンは、本当にふるいつきたくなるような魅力がある。プレヴィン・スタイルのモーツァルトも、もちろんたまに聴くといいけれども、やはりピリオド・スタイルの方が――かりにモダン楽器のオケであっても、ピリオド系の指揮者による演奏の方が、私の好みだ。
 
 私の主観では、たとえばこの3曲中の最高傑作と思われる「太鼓連打」におけるハイドンの才気、猛烈なエネルギー、斬新なアイディアなどは、落ち着いた柔らかい響きを持つモダン楽器オケよりも、シャープな響きを出すピリオド楽器オケの方がはるかに生々しく再現できると思われるからである。
 なお今回の「太鼓連打」第1楽章のティンパニのカデンツァは行進曲調のリズムで始まり、次第にアドリブ的なものに変わって行く形を採っていた。

 アンコールは、昨夜の2倍。最初にハイドンの「驚愕」から第2楽章。フォルティシモの一撃の代わりに楽員全員が「ワッ」と叫ぶという趣向も入る。何とも秀逸。
 2曲目がハイドンの「チェンバロ協奏曲ニ長調」の第3楽章。
 次にラモーの「優雅なインドの国々」の「ペルーのインカ人」から、「太陽への祈りのためのプレリュード」、4曲目に同じく「優雅なインドの国々」の「アメリカの未開人」から「未開人のエール(平和のパイプの踊り)」。
 さらに、昨夜と同じグルックの「ドン・ジュアン」からのフィナーレ。
 最後に、これも昨夜と同じモーツァルトの「ハフナー・セレナード」からの「ロンド」。
 ――という具合に、今夜も実に愉しいコンサートであった。終演は9時40分。

 帰宅してから、――滅多にやらないことだが――パリ・オペラ座の上演ライヴ「優雅なインドの国々」のDVD(オーパス・アルテ)から、「未開人のエール」の場面を見直してみる。あのリズムと旋律に乗ってインディアンが踊り、その少女に扮したパトリシア・プティボンが愛らしく歌い踊る。ラモーの「オペラ・バレ」の音楽の、何と魅力的なことだろう。もっとも最終のカーテンコールでは、インディアン=未開人という設定への抗議なのか、ブーイングも飛んでいたが。

11・5(木)マルク・ミンコフスキ指揮ルーヴル宮音楽隊

  東京オペラシティコンサートホール

 「ルーヴルの音楽家たち」という名のオーケストラ。今回がなんと初来日。ルーヴル宮に直接関係があるわけではなく、ミンコフスキの両親の家がルーヴル宮の前にあったため、そういう名にしたのだとか。

 曲順が変更になり、前半にラモーの「もう一つのサンフォニー・イマジネール(空想のシンフォニー)」が演奏された。ラモーの作品からミンコフスキが選んで配列した40分ほどの組曲風の作品である。この豪華で洗練されたセンスの演奏は、フランスのピリオド楽器オーケストラの真骨頂だろう。細部のアンサンブルがどうという難癖は無益。その沸き立つような音楽づくりは、見事というほかない。

 更に素晴らしかったのは、後半に演奏されたモーツァルトの「ポストホルン・セレナード」。「行進曲K.335-1(320a-1)」を先導として全7楽章、瑞々しい躍動にあふれる。こういうモーツァルトはいい。第1楽章終結部における、たたみ込み、追い上げて行く呼吸の巧さ。ワクワクさせられるほど小気味よい演奏だ。
 ポストホルンの楽章では、トランペット奏者がポストホルンを吹きながら自転車で舞台中を走り回り、郵便を配達するという洒落っ気を披露し、われわれを愉しませてくれた。

 アンコールは、最初にラモーの「優雅なインドの国々」から、ドラムの音も豪快な「トルコの踊り」(と発表されていたが、いわゆる「タンブーラン」だろう)。
 2曲目に、モーツァルトの「ハフナー・セレナード」からの「ロンド」。
 最後にグルックのバレエ・パントマイム「ドン・ジュアン」から「怒りの舞い」(とミンコフスキはアナウンスしたが、つまり同バレエのフィナーレの音楽にあたる曲。「オルフェオとエウリディーチェ」の「復讐の女神の踊り」に転用されている)。
 どれも颯爽たる演奏だ。「ロンド」をこれほど痛快な快速テンポでこなした演奏はそう多くないだろう。また「ドン・ジュアン」のフィナーレをこれほど凄愴な迫力で演奏したものは、1959年ザルツブルクでのカラヤン(グラモフォンPOCG-1703~4)以来ではないかという気がする。

 たまった疲れも吹き飛ぶような、胸のすくようなコンサートであった。
 なお、あとで朝日新聞のY記者から聞いたところによれば、ロビーには「自転車提供 日本郵便金沢支社」というクレジットが掲示されていたとのこと。なるほど、やることが徹底している。

11・4(水)パーヴォ・ヤルヴィ指揮シンシナティ交響楽団
(来日公演最終日)

  サントリーホール

 一頃はこのコンビ、果たして相性がいいと言えるのだろうか、と疑われる時期もあったが、今夜の演奏を聴くと、そんな心配も無益に終ったようだ。

 プログラム後半におかれた、目当てのラフマニノフの「第2交響曲」。
 この曲特有の、そこはかとない哀愁と甘美な暗さは消え、明るい陽光をあびて輝く叙情の織物――という感の演奏になっていて、あまり私の好みのタイプではないものの、まあそれはそれで善いだろう。
 パーヴォはオーケストラの響きを内声部の動きがはっきり解るように音を組み立てる人ではなく、しばしばサウンドを(意図的に?)団子状態の硬い音塊にさせてしまう。それが気になるところだ。それでも、全曲最後のクライマックスでオーケストラ全体が大きく息づく個所――ラフマニノフはこういう「もって行き方」が本当に巧い――では、その豊麗な音響に、一種の名状しがたい法悦感を味わったことは事実である。
 一方、アンコールの「悲しきワルツ」では、パーヴォは、その気になれば精妙な音色をオーケストラから易々と引き出せる指揮者であることを如実に証明してみせる。

 その他のプログラムは、アメリカの作品である。バーンスタインの「ディヴェルティメント」、ガーシュウィンの「ラプソディ・イン・ブルー」、最後のアンコール曲だったバーンスタインの「キャンディード」序曲、いずれもスピーディに快走するリズムの躍動が好ましく、いかにもアメリカのオーケストラらしい。
 ただ、これがパーヴォとの相性というのか。何か生真面目で、解放感に今ひとつ欠ける表情なのが、物足りない。

 クリスチャン・ツィメルマンがどんな「ラプソディ・イン・ブルー」を弾くのかというのも興味津々だったが、最初の方などショパンを聴いているようで、ニヤリとさせられた。彼のガーシュウィンは一風変わったもので、そういう点の面白さはあるのだが、ただあまり気勢の上らないガーシュウィンであることはたしかだ。

11・3(火)大野和士指揮 フランス国立リヨン歌劇場管弦楽団
マスネ 「ウェルテル」(演奏会形式)

  オーチャードホール (マチネー)

 一昨年12月、ブリュッセルのモネ劇場での上演で彼の指揮する「ウェルテル」を聴いた時には、かなり鋭角的で壮絶な、ウェルテルの破滅に向かって音楽が滔々と流れて行くような演奏に感じられたものであった。
 が、今日は、もう少し叙情的で柔らかい音楽になっていた。これはもちろん、オーケストラの違いにもよるし、しかも今回はよく響くコンサートホールでの演奏であったせいもあろう。

 しかし、非常に劇的で、起伏の大きな演奏であることには変わりない。いわゆる甘美なマスネではなく、悲劇の音楽の作曲家としても見事な手腕を示すマスネ――という作曲家像を浮彫りにするような演奏であった。
 こういう点一つとっても、大野和士のオペラにおける感性というのは、卓越したものだと思う。オペラ指揮者としての大野がたゆみなく前進を続けていることは、どこから見ても疑いない。彼のような優れたオペラ指揮者を擁していることを、われわれ日本人は誇りに思うべきである。

 歌手陣は、ウェルテルにジェイムズ・ヴァレンティ、シャルロットにケイト・オールドリッチ、アルベールにリオネル・ロート、ソフィーにアンヌ=カトリーヌ・ジレ、大法官にアラン・ヴェルヌ、シュミットにバンジャマン・ベルネーム、ヨハンにナビル・スリマン。「ノエル」の児童合唱は東京少年少女合唱隊。いずれも手堅いしっかりした歌唱で、聴き応えは完璧であった。
 欲を言えば、ラストシーンでの児童合唱による舞台裏からの「ノエル」がもう少し明確に聞こえれば、最後の悲劇性がもっと浮彫りにされたのではなかろうか。

 演奏会形式で、歌手はオーケストラの前で歌うが、必要最小限の演技が加えられているので、ドラマの進行は充分に解る。音楽そのものの魅力を隅から隅まで聴こうとするのであれば、あざとい演出などの無い、このような演奏スタイルが一番いい。

11・2(月)リッカルド・シャイー指揮ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団

    サントリーホール

 メンデルスゾーンの第5交響曲「宗教改革」と、ブルックナーの第4交響曲「ロマンティック」。

 「宗教改革」が、圧倒的に素晴らしい。
 演奏された版も「初稿版」と銘打たれており、現行版とは随所に相違がある。あちこちに聴き慣れない音楽が入っており、特に第4楽章コーダなど、全く別の曲と言ってもいいくらいに違う。こういうところが、何ともワクワクするくらい面白い。

 先日のホグウッド指揮N響の「フィンガルの洞窟」といい、今日の「宗教改革」といい、今まで聴いたことのなかったあれこれの版に接することが出来るのは実にありがたいことだ。が、初稿版やら改訂稿やら新改訂稿やらがいっぺんに現われて来るというのはややこしく、まごつかされる。もっともメンデルスゾーンの場合は、これまであまり研究が進んでいなかったこともあって、それも仕方がないのだろうが。

 しかし今日の演奏は、そのような版の面白さももちろんだったが、演奏自体が実に鮮やかだったことを特筆しておかなくてはならない。
 シャイーの指揮の瑞々しさと晴朗さ、ゲヴァントハウス管弦楽団の堅固ながら弾力的な響きなどが相まって、緊迫感のある構成が創り出される。かくも躍動的で迫力に富んだ「宗教改革」は、これまで聴いたことがなかった。これ1曲聴けただけでも、大満足である。
 後半には「ロマンティック」が演奏された。こちらは、決して悪いというわけではないのだけれども・・・・。

 作品の性格からして今日のゲヴァントハウス管弦楽団は、先日の「巨人」の日のそれよりも、陰翳があって落ち着いた音色を紡ぎ出していた。モダンな感覚を取り入れたドイツ古都のオーケストラ、といった雰囲気だが、しかしやっと聞こえるくらいの極端なピアニシモというのは、やはり昔のドイツの管弦楽団なら出さなかった音だろう。
 ちなみにブルックナーは対向配置で、弦は16-16-14-12-10という編成。

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