2017-07

9・30(水)スタニスラフ・スクロヴァチェフスキ指揮 読売日本交響楽団
ショスタコーヴィチ:交響曲「1905年」

   サントリーホール

 弦10型で演奏されたモーツァルトの「ジュピター」も毅然として鋭い表情に満ちていたけれど、ショスタコーヴィチの交響曲第11番「1905年」の壮絶さ、激烈さは、更に圧倒的であった。
 スクロヴァチェフスキ、4日後には86歳。この高齢にしてかくも強い精神力は、どこから生れるのだろう。

 「ペテルブルクの王宮前」(第1楽章)で、スクロヴァチェフスキは、トランペットやホルンのモティーフを、スコア指定のpではなく、むしろ強い音ではっきりと響かせる。冬の夜明けの神秘的な雰囲気こそ薄れるが、この剛直な音づくりによって悲劇の光景を骨太な筆さばきで描き出すことが、彼の狙いなのだろう。
 「永遠の追憶」(第3楽章)における「同志は仆れぬ」の主題なども、悲痛というよりはむしろ「不屈の歌」といったイメージの演奏である。

 読売日響も、今日こそは存分に燃焼していたのではなかろうか。
 これまでにも私たちは、デプリーストと東京都響、ラザレフと日本フィルをはじめ、いくつかの日本のオーケストラによるこの曲の優れた演奏に接して来たが、今回のような演奏を聴くと、オーケストラ自体の威力という点では、やはりこの読売日響は一頭地を抜く存在という感がある。

 たとえば、第4楽章でのチェロとコントラバスのリズムの切れの見事さと、壮烈な緊張感。そして、コーダの昂揚個所では、オーケストラは阿鼻叫喚になるどころか、逆に驚異的なほど調和のとれた響きになって行く。
 しかもその直前の長いイングリッシュ・ホルンのソロは絶品で――かなり骨太な音色であるけれども――断続する各フレーズが決して断片的なイメージになることなく、大きく弧を描くような繋がりを感じさせつつ高く高く上って行き、安らぎと浄化を感じさせたのであった。

 秋のシーズンはまだ始まったばかりだが、この演奏は疑いなく、今シーズンのハイライトとなることだろう。

9・28(月)河村尚子ピアノ・リサイタル

   紀尾井ホール

 大型新人ピアニストのソロ・リサイタル。

 前回(3月24日)にこのホールで聴いたリサイタルは特定会員向けのものだったが、それから僅か半年しかたっていないにもかかわらず、演奏には早くも驚異的なほど深みと多彩さが増している。
 ハイドン、シューマン、メンデルスゾーン、ショパンの作品――と並べたメイン・プロに、アンコールもドビュッシー、シューマン、モーツァルト、ショパン、シューベルトといったようにすこぶる多様な作曲家が選ばれており、それらの作曲家の個性の違いを明確に浮彫りにした見事さにも感服させられた。

 しかもたとえば、同じショパンの作品でも、「華麗なる変奏曲」では左手と右手の声部をそれぞれ鮮やかに浮き立たせて対話のように語らせたかと思えば、「幻想ポロネーズ」では流れるような和声の豊潤さを印象づけ、一方「練習曲作品10-8」では、和声の響きにユニークなバランスを導入して新鮮さを生み出す、といった具合に、それぞれ独創性を発揮させる術にも事欠かない。
 そして、それらを一つの流れに統一しているのは、揺るぎない楽曲構築力、綿密に組み立てられた厚みある和音、重厚で骨太な響きを生む低音の力強さなど、彼女の音楽が持つ独特の個性であるといってもいいのだろう。

 これだけ主張の明確な、思い切りのいい、壮大な演奏をする若手女性ピアニストを聴くと、胸のすくような思いになる。すばらしい人が出て来たものだ。

9・27(日)札幌室内歌劇場 オルフ:オペラ「月」

    札幌サンプラザコンサートホール (マチネー)

 前日のANA最終便(22時15分着)で新千歳空港に入り、ホテルコムズ(旧三井アーバン)に投宿。このホテルは空港建物の一角にあり、窓からは滑走路が見えるし、部屋も結構広い。最終便で着いた時や、翌朝一番で発つ時は至極便利だ。
 今回は、芸術文化振興基金助成金交付関連の調査を兼ねる。

 札幌室内歌劇場(1990年設立)の第38回公演。オルフのオペラ「Der Mond(月)」が、「月を盗んだ話」という題名により、日本語訳で上演される。
 プレトークは芸術監督の岩河智子が行なったが、明快で解りやすい解説であった。プログラムには記載されていないが、別の資料によると、編曲は彼女によるものの由。楽器編成もヴァイオリン、チェロ、フルート(ピッコロ持ち替え)、ピアノ、キーボード(電子楽器)各1となり、曲の形にも手が加えられているが、このような珍しいオペラを手っ取り早く愉しむための手段としては悪くはない試みであろう。
 指揮は柳澤寿男、演出は中津邦仁。

 いかにも手づくりといったプロダクションで、微笑ましさもあり、スタッフや出演者のひたむきさ、涙ぐましいまでの努力が伝わって来る。装置(三宅景子)は、写真で見る前回(2005年)の舞台よりも簡略化されたようでもあるが、ワイヤーで吊り下げられた銀色に発光する巨大な円球(月)を効果的に使用、それなりの面白さが作られていた。器楽アンサンブルの演奏水準も確実であった。

 だが、地方オペラが良くやっており、その努力を高く評価したい――などという玉虫色のお世辞を並べるのは、一所懸命オペラに取り組んでいる人たちに対して、むしろ著しく礼を失することになるだろう。
 それゆえ、私はやはり率直に書いておきたい。
 
 第一の問題は、やはり「劇としての演技」が全く不在の演出にある。
 常に客席を向いて手を拡げて歌い、喋り、あるいは客席に向かって一列に並んで歌い踊り(安物のミュージカルみたいだ)、そうでなければ所在無げに佇むといった所作は、いまどきのオペラの舞台が採るスタイルではない。地方オペラ運動が相も変らずこの段階からスタートしているようでは、先行き時間がかかって仕様があるまい。
 演出家は、前時代的な既成概念に囚われず、もっと現代の感覚を取り入れて欲しいものである。DVDも山ほどあるし、ペーター・コンヴィチュニーの優れた演技指導も日本で行なわれている。参考にできる素材は、いくらでもあるのに。

 第二は、歌詞の発音とセリフの発声に関してだ。
 特に「語り手」役の歌手は、「歌」の発声を優先するのではなく、――それもこの日のような、旧いタイプの日本のソプラノ歌手のような大時代的な発声でなく、歌詞がよく聞き取れるような歌い方をしなくてはならない。またペテロ(今回の表記はペトルス)役の歌手も、特に舞台奥での歌は、何を歌っているのか全く理解できなかった。
 皮肉にも、最も歌詞が明快に聞こえたのは、地下の亡者たちなどの、合唱のアンサンブルであった(これは評価されて然るべきである)。
 そしてセリフの発声も、声を張り上げ、絶叫するという、素人劇みたいなことをやるべきではない。もともと声はいい人たちなのだから、もっと自然に発声できるはずだろう。

 第三には、柳澤寿男の指揮である。極めて丁寧な音楽づくりで、器楽アンサンブルと声楽のバランスも良く、真摯に作品に取り組んでいることは解る。だがオペラとしては、もう少しドラマティックな音楽的演出の流れが欲しいのだ。特に終結へ向けての、亡者たちの乱痴気騒ぎの場のあとの安息の大団円では、音楽に緊迫感が失われ、妙に延々と長くてくどい、という印象を抑え切れなかった。
 これは、もしかしたらテンポの設定にもよるのではなかろうか? パウゼの長さや、セリフのあと音楽に移る「間」の設定が、どうもあまり舞台演劇的(?)でないのである。つまり、クライマックスへの追い込みが造られず、悠々としすぎているような気がするのだが、いかがなものか。

 このプロダクションは、来年1月に新国立劇場の小劇場で「地域招聘公演」として上演されるそうである。儀礼的な拍手だけで済まされるようなことになって欲しくない。どこまで改善できるだろうか?

 21時30分発のANA最終便で帰京。

9・24(木)スタニスラフ・スクロヴァチェフスキ指揮 読売日本交響楽団

   サントリーホール (名曲シリーズ)

 今シーズンを最後に常任指揮者のポストから去るスクロヴァチェフスキの演奏会。今月は3プログラム、4回の演奏会が組まれた。残るは30日の定期。

 前半はベートーヴェンのピアノ協奏曲第4番。
 オーケストラにあふれる柔らかい安息と叙情がすばらしく、この作品の演奏における一つの典型と言ってもいいほどである。ただしその端整さと、アンドレ・ワッツの極めて自由な(自由すぎる?)感興にあふれたソロとは、些か不思議なギャップを感じさせる。
 それにしてもワッツ、札幌での「皇帝」の時には、こんなにリズムを崩すような演奏はしていなかったが・・・・。

 後半には、スクロバ氏定番のブルックナー。「9番」である。読売日響は痛快なほど鳴り渡った。
 それはいいのだが、なぜか音色が非常に汚い。弦も粗いし、木管は不揃いだし、金管は耳を覆いたくなるほど荒々しい。全曲最後のホルンとワーグナー・テューバ、トロンボーンなどによる終結和音のバランスの悪さは、そのダメ押しとなった。協奏曲に比べると、君子豹変である。
 もともと近年のスクロヴァチェフスキは、細部のバランスやアンサンブルについて気にする人ではない。そして彼のブルックナーは、荘重というよりはむしろ常に壮絶である。それは重々承知の上だ。しかし、それにしてもこれは――。

 昨年、私がインタビューしたロンドン響のある楽員は、「われわれは指揮者のバトン・テクニックに従って演奏するのではなく、指揮者のパーソナリティに反応して演奏するのです」と語っていた。味わうべき言葉だと思う。
 ロンドン響に限らず、世界の一流といわれるオーケストラの人たちは、概してそういう考えを口にしているのである。
 今夜の読売日響も、音楽の骨格の上では、紛れもなくスクロヴァチェフスキのそれを既に具現しているのだ。それならいっそ、音色、アンサンブル、和声上のバランスなどは、指揮者に頼らなくても、みずからの規範に従って創り出してもいいのではなかろうか。

 アルブレヒト時代の読売日響には、そういう自律的な力が備わっていた。だが、彼が去って数年、危惧されたことがそろそろ頭を擡げて来たのではないか? 昔のような、「荒馬のような読響」に戻る傾向なきにしもあらずといった様相が、ここ1年来というもの、演奏には感じられるのだ。
 今の状態だと、来年3月のブルックナーの「8番」は、少々心配になるが・・・・。。

 弁護のために付け加えるが、演奏における音楽のエネルギー自体は、壮烈なものがあった。第2楽章での、冒頭の神秘的な音楽が忽ち轟くリズムの大進軍と化すところなど、ブルックナーの悪魔的な側面を抉り出したような演奏である。第3楽章は「生からの別れ」(ブルックナー)や浄化の世界どころか、ほとんど苦悩の絶叫に近い(音色の問題とは別の次元の話としてだが)。スクロヴァチェフスキのブルックナー解釈はいつもながら人間的で、そこに彼の魅力があるだろう。

9・23(水)クリスティアン・アルミンク指揮
 新日本フィルハーモニー交響楽団

   サントリーホール(マチネー)

 サントリーホール定期。後半にシューベルトの交響曲「ザ・グレイト」を置き、前半にシュニトケの「モーツァルト・ア・ラ・ハイドン」とシマノフスキの交響曲第4番「協奏交響曲」を演奏するという、この指揮者とオケならではの個性的な、意欲的な曲目編成だ。

 シュニトケは8分ほどの小品で、13人の弦楽器奏者が舞台に点在し、最初は真暗闇の中で演奏を開始、最後は指揮者の気がつかぬうちに退場してしまう、という趣向だが、演奏は確実である。アルミンクも、最後に舞台に誰もいないことに気がつき慌てる様子がサマになっていて、なかなかいい雰囲気。

 「協奏交響曲」でのソリストは、クン=ウー・パイク(白 建宇)。いつもながらの誠実な演奏により、強靭かつ生真面目なシマノフスキ像をつくり出したが、これは少々好みの分かれるところだろう。
 「ザ・グレイト」は意外に正面切った演奏で、均整を保ちながらも多少ロマン的な味を感じさせる。美音を求め、新日本フィルを上品な潤いのある美しさでまとめたのは、やはりウィーン子アルミンクの、シューベルトに対する愛情の表われか?

9・20(日)新国立劇場シーズン開幕公演 ヴェルディ「オテロ」初日

   新国立劇場

 マリオ・マルトーネの演出は、なかなか興味深い。
 水をなみなみと湛えた掘割のような舞台装置は明らかにヴェネツィアの運河を連想させるが、事実、彼の演出ノートを読むと、台本の舞台となっているキプロス島にはこだわらず、イアーゴの心の暗部を象徴する蜘蛛の巣=張りめぐらされた運河=ヴェネツィア=イアーゴの街という発想のもとに、ヴェネツィアに舞台を設定したと判る。

 「運河」の水の色は、イアーゴが奸計を練ったり、オテロの心が濁ったりするのに応じて、さまざまに変わる。第2幕冒頭の「クレード」では、イアーゴは水の中から緑色のヘドロをすくって壁に十字架を描き、それを無造作に水で流し消し去る。そしてオテロは、このイアーゴの悪事の象徴ともいうべき「運河」の中に倒れて息絶える――という具合に、辻褄は合っている。

 第2幕で、さまざまなグループ(声部)のコーラスを舞台の下手や上手に分けて配置し、一種の音響的な面白さを作り出しているところなどは、面白いアイディアだろう。
 ただし、オテロの心に浮かんだ嫉妬の邪念を、安易に舞台上に具現化するのは――デズデーモナに蓮っ葉な行動をさせたり、彼女とカッシオの不倫の現場を見せたりするといったものだが(最近こういうテが流行だが)――どうもそこだけ取って付けたみたいで、ほとんど意味を成さないように感じられるのだけれど、いかがなものか。
 マルゲリータ・バッリの舞台美術、川口雅弘の照明は、よく出来ているだろう。

 オテロのシュテファン(スティーヴン)・グールドは、ドミンゴのような情熱的な演技ではないけれども、体躯が立派なので見栄えがするのは事実だ。ヴェルディのオペラらしい言葉とリズムの歯切れのよさに少々不足するのは彼のキャリアから来る問題だろうが、そのうち改善されるだろう。
 イアーゴはルチオ・ガッロが歌った。以前新国立劇場に出演した時の「西部の娘」の保安官ジャック・ランスを思い出させるようなメイクで、声はそれほど好調ではなかったようだが、しかし結構な悪役ぶりだった。
 デズデーモナを歌ったのは、グルジア出身のタマール・イヴェーリ。私は多分、この人を聴くのは初めてのような気がする。なかなか可憐で清純だし、声も美しく、第4幕での「アヴェ・マリア」など実に情感がこもっていて好ましかった。

 指揮は、リッカルド・フリッツァ。新国立劇場には「マクベス」「アイーダ」に次ぎ3度目の登場。東京フィルを良くリードして、とりわけ美しい弱音を見事につくる。劇的な盛り上げにも過不足はない。
 東京フィルは、ティンパニを加えた最強音が爆発する個所などでは引き締まった音を出したが、しかし第4幕でオテロが寝室に入って来るくだりのコントラバス群のフレーズは何とも下手糞で、この場の不気味な緊張感を台無しにした。こういういい加減な演奏をすることがあるのが、東京フィルの悪い癖だ。このオケに「東京国立歌劇場」を任せておくわけには行かないという非難を蒙るゆえんである。

 なお、新国立劇場合唱団は、ふだんに比べ今日は何故か音が薄い。第1幕冒頭の嵐の場面では、迫力を欠く。メンバーが変ったのか? もっとも、聴く席によって印象が異なるという人もいたので、判断は避けることにしよう。

 細かいところは措くとして、ともあれ今年のシーズン開幕公演、成功と見た。
 

9・19(土)クリストファー・ホグウッド指揮NHK交響楽団 9月A定期
愉しめたメンデルスゾーンの初稿

  NHKホール

 メンデルスゾーンの「フィンガルの洞窟」は、私が小学校の頃、初めてNHKの当時の内幸町の第1スタジオでN響のリハーサルを聴いて以来、愛聴措くあたわざる曲なのである。
 その曲の初稿(1830年ローマ稿、ホグウッド校訂)が日本初演されるとあっては、聴き逃せない。シャイーがゲヴァントハウス管と録音したCDには未だ接していなかったので、今日はそれこそ耳をそばだてて聴く。

 非常に面白かったが、やはり呆気に取られた。提示部後半など全く別の音楽だし、展開部でも、聴きなれた音楽の間に――そこだけ聞いたら何の曲かと思うような曲想が、数限りなく割って入って来る。再現部でもコーダでも然り。
 何より意外だったのは、現行版(出版譜)で聴けるような、巌窟に打ち寄せる荒々しい波濤、吹き荒ぶ風に舞う波しぶき、波頭の上に舞う海鳥の姿――といった北海の荒涼たる光景が、この初稿を聴いている間は、全く頭の中に浮かんで来なかったことだ。現行版がいかに流れ良いものに改訂されているかを痛感させられるケースである。

 「ヴァイオリン協奏曲ホ短調」の「1844年初稿版」は、すでにイザベル・ファン・クーレンが作曲者の自筆譜を使って1995年に録音したCD(BIS)でも聴いているし、また2005年ベーレンライター社出版の校訂譜をダニエル・ホープが演奏して録音したCD(DGG)でも聴いているから、さほどの驚きはない。それにこの曲では、「フィンガルの洞窟」におけるごとくアレヨアレヨという間に「違う曲」へ移って行ってしまうというようなことも、ほとんどない。
 しかし、ヴァイオリンのソロ・パートが、現行版に比べて随分違うのが興味深い。第1楽章のカデンツァも、かなり短い。ホープは、CDと同じように冒頭からポルタメントを多用し、嫋々たる表情を加えて面白い演奏を聴かせてくれた。

 プログラム後半の交響曲第3番「スコットランド」は、2006年にブライトコップから出版された新全集(作曲者の最終稿に基づくもので、現行の通常版とは細部が違うという。ややこしい話だ)による演奏だそうだが、何と、――これはまた異稿かと感じさせるくらい、聴き慣れたこの曲とは違った響きがした。
 スコアを見ていないので詳細は不明だが、聴いた感じでは、演奏に際して管楽器の音量や音色のバランスが綿密に考慮された結果なのではないか、という気がする。弦楽器群よりも管楽器群の響きの方が前面に立ち現われ、和声的にも多彩な響きを創り、しかも全ての楽器が豊かなニュアンスで語る――という演奏は、スコアのせいではなく、ホグウッドの解釈によるところが大きいだろう。
 とにかく、これほどスリリングな「スコッチ」の演奏を聴いたのは、初めてだ。

 以上の3曲で、ホグウッドが如何に精妙で精緻な表情をN響から引き出したか、驚くべきものがある。これに応えたN響も、また立派なものであった。出来得れば、こんなNHKホールのような場所でない、もっと音響の優れたホールで聴きたい演奏であった。
 ともあれ、メンデルスゾーン生誕200年を記念する公演の中では、今日の演奏会は、選曲・演奏ともに出色のもの、といって間違いないだろう。

 帰りがけに渋谷のタワーレコードへ寄って、遅まきながらシャイー指揮の「MENDELSSOHN DISCOVERIES」というデッカ盤を手に入れた。これには、「フィンガルの洞窟」のホグウッド校訂による1830年初稿の演奏も、「スコットランド」の1842年ロンドン稿(初稿)の演奏も入っている。
 今日の演奏会でこの「スコッチ」の初稿も取り上げられればよかったのに、とは私も思うが、あれだけの演奏が聴ければ、それ以上は望まないことにしよう。

9・18(金)クリスティアン・アルミンク指揮 新日本フィルハーモニー交響楽団
「エグモント」付随音楽(全曲)

   すみだトリフォニーホール

 メンデルスゾーンの「海の静けさと幸福な航海」は、静けさはともかく、さほど幸福でもないような演奏ではあったが、まあ、生誕200年記念のこの作曲家の作品から、ちょっと捻った選曲をしてくれたことは結構であった。

 2曲目のR・シュトラウスの「メタモルフォーゼン」の方は、明晰な音の交錯の、しかも緊迫感を失わない演奏となり、聴き応え充分。(予想を覆して?)鮮やかな演奏だった。黄昏の薄明か告別の哀感といったような雰囲気はあまりなく、むしろ若々しい音楽のイメージになっていたけれども、作品の骨格に光を当てるこのような演奏は、一つの意義を持つだろう。

 休憩後は「エグモント」のための付随音楽。引き締まって要を得た演奏だ。下手にやればひどく散漫になってしまうこの曲集を、隅々まで神経を行き届かせて、まとめてくれた。
 感心したのは、たとえば「太鼓は響く」での、オーケストラの鳴らし方。クレッシェンドの巧みさ。クレールヒェンが、それまでの昂揚した気持からふっと力を抜いて、「男に生れていたら、どんなに幸せだったろう」と歌う直前のオーケストラの下降音型を、ドルチェ気味に柔らかく響かせるあたり。
 本当にこのアルミンクは、オペラ的感覚に優れた人だ。

 ソプラノ・ソロは、チューリヒ歌劇場に籍を置くサンドラ・トラットニックという人。少し可憐だが、歌唱は清純ではっきりしていて、好感を与える。

 ナレーターは広瀬彰勇で、ドラマティックなモノローグ形式。台本は誰の手によるものだろうか、やや意味の解り難いところがある。この種のナレーションは、もう少し簡易明快な表現にした方がいいのはないか。特に残響の多いホールでPAを使うと、反響して言葉が不明瞭になることがあり、聴く方が疲れてしまうから尚更だ。
 前半の2曲でも、曲前にナレーションが入った。全プログラムの統一感を出そうという狙いだろうが、それほど効果的だったとも思えぬ。

 大詰めのメロドラマ(エグモントの愛国のモノローグ)は、小太鼓の行進曲リズムに乗って大芝居的にやるのかと内心期待していたのだが、ここは少々肩透かし。
 まあ、日本語訳詞では、ちょっと難しいだろうとは思う。

9・17(木)ミラノ・スカラ座日本公演最終日
ヴェルディ「ドン・カルロ」

   東京文化会館大ホール (3時開演)

 見事にクールな「ドン・カルロ」。
 ダニエレ・ガッティが極度に遅いテンポと長いパウゼを駆使してオーケストラから引き出す、透明清澄、怜悧明晰な音色。
 聴き慣れた「ドン・カルロ」が、驚くほど沈潜した叙情的な音楽となって流れる。フランスの演出家ステファーヌ・ブランシュヴァイクの動きのない演出と、白と黒を基調にした舞台装置が、視覚的にもそのクールさを助長させる。

 こういうスタイルの「ドン・カルロ」も確かに成り立つのだ、と考えつつ、観て、聴いていた。しかしやはりその一方では、かつてザルツブルク音楽祭で観たカラヤン指揮・演出の豪華絢爛たる音楽と舞台や、マゼールやゲルギエフが豪壮に指揮した故ヴェルニケの壮大だが細密な演技を伴った舞台などを、時々懐かしく思い浮かべてしまうのであった。

 ガッティは、「火刑の場」などでも、オーケストラを咆哮させるようなことをしない。あの閃くトランペットの音階さえ、極度に抑制した響きで、くぐもった音色で吹かせる。この場面をスペクタクルなものとせず、悲劇的な要素をのみ強調するねらいだろう。
 その代わり、次の場面でのフィリッポ2世と宗教裁判長との息詰まる応酬のくだりでは、ここぞとばかりオーケストラを不気味に高鳴らせる。スカラ座管弦楽団の弦のトレモロの物凄さ! これだけデモーニッシュで暗い迫力の漲った演奏は、これまで私がナマで聴いた「ドン・カルロ」の中では、あのカラヤンとウィーン・フィルの演奏以来である。
 テンポを誇張する傾向のあるガッティの指揮には私はあまり共感できないのだが、この応酬場面の演奏には、特大の拍手を贈りたい。

 ブラウンシュヴァイクという人の演出には、この4年間、ザルツブルク・イースター=エクサン・プロヴァンスの「指環」をじっくりと観て来た上でだが、私はもう何も期待しないことにした。今回上演に使われたのは「4幕版」だが、カットされているフォンテンブローの森の場面での思い出を実際の光景として背景に蘇らせるあたりは良いアイディアだと思ったものの、それ以外は全く単調で、演技と呼べるほどのものも皆無と言ってよい。

 歌手では、やはりルネ・パーペのフィリッポ2世が、あの「独り静かに眠ろう」のアリアで本領を聴かせた。ロドリーゴを諭す場面では、口調は厳しくても、信頼する部下への愛といった表情を眼に浮かべていたが、しかし今回は演出のせいもあってか、彼得意の「眼の演技」はあまり見られなかったようだ。

 彼に次ぐ出来を示したのは、理想主義者ロドリーゴ役のダリボール・イェニス。なかなかシャープで個性的なキャラクターである。
 王妃エリザベッタのミカエラ・カロージと、エボリ公女のアンナ・スミルノヴァには、失望の連続。甘い音程と、だらだらしたリズム感は、ガッティのつくる端正な音楽の流れと全く合わない。特にカロージは、オーケストラとのハーモニーを全然つくれない人である。あれでは、せっかくのヴェルディの美しい和声も台無しだ。
 リズムの甘さという点では、宗教裁判長のアナトーリ・コチェルガも同様だろう。だが彼には、いかにズレズレのリズムやテンポでも、名調子でとにかく聴かせてしまう、という老練さがある。
 肝心のドン・カルロ役のラモン・ヴァルガスは――彼はもともとああいう人だから、演技も声も、あれこれ言ったところでどうしようもなかろう。

 「往年の名演」に縋りつく気は毛頭ないけれども、せっかく話が出たからには、記憶に残る上演二つについて少々。
 一つは1976年のザルツブルク音楽祭におけるカラヤン指揮の上演。ニコライ・ギャウロフ(フィリッポ2世)、ホセ・カレーラス(ドン・カルロ)、ピエロ・カプチッリ(ロドリーゴ)、ミレッラ・フレーニ(エリザベッタ)、フィオレンツァ・コッソット(エボリ)、エディタ・グルベローヴァ(天の声)――という、ため息の出そうな豪華配役だった。全盛期の名歌手たちが競って聴かせる迫力の凄かったこと。コッソットの「むごい運命よ(呪わしき美貌)」のあとなど、場内がどよめいたほどだ。

 同じくザルツブルク音楽祭で世紀の変わり目に上演されていた、故ヘルベルト・ヴェルニケの演出は、名プロダクションとして有名だった。演技もかなり精緻で、ふつうは目立たない役柄のレルマ伯爵が国王の腹心として常に侍し、王と宗教裁判長の対決の場面では、事あらば宗教裁判長との刺し違えも辞さぬ――という決意を物陰で示しているところなど、隅々まで神経を行き届かせた演出だと感心させられたものだ。ちなみにその時、レルマ伯爵を好演していたのは、ジョン・健・ヌッツォだった。
 

9・15(火)ズービン・メータ指揮ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団

  サントリーホール

 R・シュトラウス・プロ。演奏曲順は、先に「ドン・キホーテ」、後半に「英雄の生涯」、という具合に変更された。当然だろう。

 メータも今年73歳。毒気も抜け去った感じ。「ドン・キホーテ」の演奏など、随分淡白である。タマシュ・ヴァルガ(チェロ)とクリスティアン・フローン(ヴィオラ)のソロも流麗で甘美で、「英雄ドン・キホーテの生涯」(?)を描くというよりは、結局ウィーン・フィルの音色の美しさだけを印象づける演奏になった。

 「英雄の生涯」も、冒頭から暫くは比較的温厚な演奏が続く。
 聴きながら、終りまでずっとこの調子ではたまらないなと思ったり、先年のティーレマンとの大芝居に富んだ演奏をふと思い出したり、最近このオーケストラをアーノンクールやハーディングなどあざとい指揮者で聴くことが続いたから、たまにはこういう正統的でストレートな演奏で聴くのも悪くないかな、などという雑念に悩まされたりしていたが、「英雄の伴侶」に入り、フォルクハルト・シュトイデが表情たっぷりのヴァイオリン・ソロを聴かせるあたりから雰囲気が変わりはじめた。達者なソロだが、曲の内容にふさわしくコケティッシュな口調も聞きとれて、英雄役の低音楽器群との対話を多彩にしてくれる。

 続く愛の場面に至るや、一気に流れ出る豊麗芳醇な響き。これこそ、まさにあのウィーン・フィルならではのものだろう。
 「英雄の戦い」の後半から「英雄の業績」直前まで、怒涛のごとく押しに押す音楽の勢いも凄い。決して大芝居をすることなく、自然に畳み込んで行くだけで、作品自体の力は充分に発揮される。
 といってそれは、メータが何もしていないという意味ではない。おそらく彼の中では、今夜のプログラムの中では、「ドン・キホーテ」を抑制気味に演奏して、後半の「英雄の生涯」にクライマックスを設定し、さらにその中盤から後半にかけて頂点を築くように音楽を持って行く――という設計ができていたのだろう。

 「英雄の業績」の中で、イングリッシュ・ホルンがちょっとリズムをずらせながら、あたかも演歌の名調子みたいに歌って行く呼吸の面白さ。そして「英雄の引退」までの間、これぞウィーン・フィルの本領――玲瓏豊麗な美しさの極地ともいうべき弦とホルンの和音の響き。これ以上を望むのは贅沢に過ぎるのかもしれぬ。

 アンコールは、まずヨハン・シュトラウス2世の「アンネン・ポルカ」。私のとりわけ好きな曲だ。主題が出て来ると、胸の中に温かいものが湧き出て来るような思いになる。そして最後に「トリッチ・トラッチ・ポルカ」。この2曲はもう、誰が指揮しようと、ウィーンのオーケストラのものだ。
 

9・14(月)クラウス・ペーター・フロール指揮
マレーシア・フィルハーモニー管弦楽団

   東京オペラシティコンサートホール

 1998年にクアラルンプールで活動を開始したオーケストラで、創設時の音楽監督はキース・パークルス。2001年に来日したはずだが、私はその時には聴いていない。
 今回は、現在の音楽監督クラウス・ペーター・フロールとの来日。所用のため、プログラム前半の曲目――スメタナの「モルダウ」と、ブラームスの「ヴァイオリン協奏曲」のみ聴いたが、厚みと重量感のある響きを出すパワフルなオーケストラで、なかなかに手応えがある。

 ペーター・フロールは、アンサンブルの細部にはさほど拘泥せずに、音楽の流れとエネルギーに重点を置いた指揮で作品を構築する。ブラームスの第3楽章など、胸のすくような勢いの大熱演だ。この驀進のオーケストラに応戦して、ソリストのワディム・レーピンが、こちらも煽ること煽ること。細かいところはともかく、何だかやたら痛快なブラームスといった感。これはこれで面白い。この楽章は、私はこういう演奏の方が好きなのである。
 第2楽章のオーボエは太い音色で、これもテュッティとのバランスが取れた好演だった。楽員には「西欧人」もかなり入っている。「世界各国からオーディションで集められた」と、プログラムには書かれている。

 マレーシアのオーケストラは、2004年に「アジア・オーケストラ・ウィーク」で来日した「マレーシア国立交響楽団」(1993年創立)という団体を聴いたことがある。指揮は常任指揮者のムスタファ・フゼー・ナウイという人で、やはり強大な音響を出すオーケストラだった。あの国の好みがそうなのかしらん?

9・12(土)続バイロイト~ワーグナー協会の例会と
真峰紀一郎氏のコンサート

 日本ワーグナー協会の東京9月例会は、例年と同様に「今年のバイロイト報告」(東京芸術劇場大会議室)。たまたま上演曲目7本(8月20日~28日)全部を見た立場から、私がレポーターを担当。
 ただし、今年は新演出が1本もなかったので、私の話よりもむしろ、バイロイトの場外新企画ともいうべき「トリスタンとイゾルデ」のパブリック・ビューイング(大画面による公演生中継で、約6千人が最後までじっくりこのオペラを愉しんだそうである)などの話題を、映像を交えて報告して下さった小野博道さんのお話の方が面白かったのではなかろうか。

 そういえば、ベルリン・ドイツオペラ管弦楽団のヴァイオリン奏者として、及びバイロイト祝祭管弦楽団の奏者として長年活躍された真峰紀一郎氏が、ドイツのヴァイオリン奏者3人と共に「ヴァイオリン・クァルテット」の演奏会を10月に日本で開く。
 このブログではコンサートのPRは一切行なわないことにしているのだが、今回はバイロイトとの関連が深い公演ということもあるので、ご紹介しておこう。

 プログラムには、ヴィヴァルディ、モーツァルト、ハイドン、テレマンの作品などもあるが、その他はめずらしい曲目ばかり。
 「こんな難しそうな現代音楽じゃ、お客さん引いちゃいますよ」とバイロイトで真峰氏に言ったら、
 「そうじゃないんですよ、実は・・・・」と、曲について説明してくれた。
 キルヒナーの「エッコ・ヴェネツィアーノ」は、「ヴェニスで亡くなったワーグナーを偲ぶ曲」で、「トリスタン」の半音階を使った静かな作品だとのこと。
 クプコヴィッチの「4つのヴァイオリンのための《ローエングリュン・ヴァリエーション》」は、「ローエングリン」を題材にした「機知に富んだ曲」の由。
 また、ダンクラの「4つのヴァイオリンのためのクァルテット」も、「キラキラ星」の主題による8つの楽しい変奏曲なのだそうな。

 そういう曰く付きの曲ばかりなら、その説明もチラシにも載せて紹介しておけばよかったのに。
 「でも、今からじゃチラシを作り変える時間もオカネもない・・・・」と真峰氏。
 この演奏会は、10月12日・名古屋(しらかわ)、14日・大阪(フェニックス)、16日・東京(浜離宮)、18日・松本(ハーモニー)で開催される。ヴァイオリン4本の弦楽四重奏は、めずらしい。

9・11(金)ミラノ・スカラ座来日公演 ヴェルディ「アイーダ」

   NHKホール

 これがあのフランコ・ゼッフィレッリの演出?と疑いたくなるほど、おっとりした舞台だ。

 以前にはゼッフィレッリの演出といえば、主人公たちはもちろん、端役や群集の一人一人まで、細かい演技をしていたものだった(例えば映像に残っているMETのライヴ「トスカ」「ラ・ボエーム」「トゥーランドット」での演技を観られたい)。だからこそ、舞台全体が生き生きと躍動して、人間のドラマが展開されていたのである。

 しかし、今回の「アイーダ」は、全く、何ということだろう。主役たちも僧侶も兵士も、ただ立って、類型的な身振りをしているだけだ。
 アイーダ、アモナズロ、ラダメス、アムネリスの主役4人の構図が大きく動くという、最も緊迫した場面であるはずの第3幕の幕切れなど、彼らの演技の何という表情不足な、しかも緩慢なことか――ラダメス説得に失敗したエチオピア国王アモナズロは、逃げるどころか悠々と歩いて退場、エジプト兵士たちもそれを見ながら追うこともしない。ラダメスもあまり慌てた様子もない。
 これは2006年にプレミエされたプロダクションだという。多分日本公演での歌手たちには、演出家の意図が全く伝えられていないのだろう――と考えるしかあるまい。

 舞台装置もゼッフィレッリだが、以前の「アイーダ」の舞台に比べると、また10年前の新国立劇場のプロダクションのための舞台に比べても、「よく言えば」やや抽象的なデザインになった。
 壮大ではあるものの、概してくすんだ暗い色調の舞台である。良い意味にこじつければ、登場人物の心の暗部と、戦争により引き裂かれる主人公たちの悲劇を象徴したのだ、ということになるのか。

 ダニエル・バレンボイムの指揮にも、疑問がある。この人はワーグナーの作品のように幅広く滔々と流れる音楽をやらせると実に巧いが、ヴェルディの後期のオペラのように1小節ずつニュアンスが細かく変化して行く音楽を指揮すると、どうもあまり小回りが利かないのだ。
 例えば第2幕第1場、アイーダがアムネリスに向かい、
 「あなたが私の恋敵ですって? ええ、結構ですとも、私もそうありましょう!」
と激情に駆られて宣言したあと、ハッと奴隷の身である己が立場に気がつき、
 「ああ! 私は何を言ったのでしょう。お許し下さい!」と懇願する場面。
 あるいは第4幕第1場、恋人ラダメスを想うアムネリスが、
 「あの人は、あの女と逃げようとした! 裏切り者には死を!」
と叫んだ直後に、
 「ああ! 私は何を言っているのでしょう。私はあの方を愛しているのに」と自制する場面。
 前者では、オーケストラは彼女の感情の高まりに従い、1小節間激しく上昇したあと、瞬時にpとなって、アイーダの自制の強さを表わす。
 また後者では、「死を!」の言葉と共に最強音で上昇したオーケストラが、次の小節で瞬時に中断し、強いリズムの8分音符で下降して「私は何を――」の歌詞に続く。

 こういった感情の変化や、2人の女の性格の違いを、ヴェルディがオーケストラで如何に巧みに、しかも簡潔に、一瞬の裡に描いているかは驚くばかりである(トスカニーニの指揮では、それらがはっきりと再現されている)。
 ところが、こういう個所をバレンボイムが指揮すると、ただイン・テンポで鷹揚に曲が流れるだけになってしまい、細かい感情の揺れといったものがさっぱり表現されないのだ。それゆえ、音楽のドラマとしては、いささか単調にならざるをえない。

 出演者は、ヴィオレータ・ウルマナ(アイーダ)、アンナ・スミルノヴァ(アムネリス)、ステュアート・ニール(ラダメス)、ホアン・ポンス(アモナズロ)他。この人ならもっと上手いはずなのに、と首をひねるところもいくつかあった。

9・10(木)クリストファー・ホグウッド指揮NHK交響楽団 B定期

    サントリーホール

 ノン・ヴィブラート奏法においても弦の音色が鋭くならず、しかも重量感を保って響くあたり、やはりN響の実力というべきか。このB定期はベートーヴェン・プロで、「コリオラン」序曲、ピアノ協奏曲第4番、交響曲第7番という、これもN響らしい名曲集。

 3曲ともどっしりとした響きで、きわめて強固な構築を示す、古典的な気品を備えた演奏。
 特に「7番」は、全4楽章がアタッカで演奏され、強いエネルギーで緊迫感が生み出されていた。リピートも遵守されていたが、テンポが中庸を得たものであるため、むしろ短く思えたほどである。オーソドックスな路線にある演奏ながら、スケルツォでのティンパニの鋭いアクセントに、昔ながらのホグウッドらしい才気が迸る。彼はこの日が68歳の誕生日。

 協奏曲でソロを弾いたクリスティアン・ベザイディンオートはまだ30歳の若手。オーケストラの中に蓋を外したピアノを置き、指揮者に対峙する形で演奏する。フォルテピアノとしての音色の透明さと爽やかさ、音楽の瑞々しい表情は非常な魅力で、この鍵盤奏者の並々ならぬ実力を感じさせた。

9・7(月)サイトウ・キネン・フェスティバル松本
小澤征爾オーケストラコンサート最終日

  長野県松本文化会館

 名古屋12時発の「ワイドビューしなの11号」に乗ると、松本には14時03分に着く。快晴の木曽路を時速120キロで快走するのは気持がいい。この線の特急には初めて乗ったが、中央線も西線となると随分飛ばすものだと驚いた。

 サイトウ・キネン・フェスティバルの8月下旬の「戦争レクィエム」は、バイロイトに行っていた関係で残念ながら聞き逃した。結局、今年の音楽祭で聴けたのはこの小澤征爾のオーケストラコンサートの最終公演のみ。
 しかし、最後を飾るにふさわしく、いい演奏だった。プログラムはラヴェルの「道化師の朝の歌」と「シェエラザード」(ソロはスーザン・グラハム)、後半にブラームスの「交響曲第2番」。

 名手ぞろいのサイトウ・キネン・オーケストラ(SKO)も、最近はプレイヤーの世代交代が進んだためだろうか――あるいは小澤征爾の指揮の変貌ということもあるだろうが――初期の頃のようにガリガリ猛烈に弾くという傾向がなくなり、全体に音色がすっきりして柔らかくなって来たように感じられる。その代わり、以前のような一種のアクの強い個性が失われ、どことなくおとなしいオーケストラになって来たような気がしないでもない。
 まあ一長一短だが、私としては柔らかくすっきりした響きの方が好みに合うので、近年の演奏は概して気に入っている。

 今夜の演奏でも、「道化師の朝の歌」の冒頭からすこぶる軽やかな、しかもフワリとした響きの躍動が感じられ、それはなかなか快いものであった。2曲目の「シェエラザード」も、グラハムの歌唱を含めて小澤得意の叙情美が充分に反映された演奏である。
 洗練された味とか洒落っ気とかはあまり感じられないけれど、もっと響きの豊かなホールで演奏されたなら、そういったものも生まれたかもしれない。いずれにせよこういう演奏を聴くと、小澤がフランスものをもっと(昔のように)たくさん振ってくれたらと思わずにはいられない。

 以上2曲でのコンサートマスターは、それぞれ小森谷巧、ジェニファー・ギルバートがつとめていたが、後半のブラームスの「第2交響曲」では豊嶋泰嗣が登場。

 しかしこの曲でも、SKOの初期の頃のような猛烈型の演奏は既に影を潜め、もっとしなやかに、しみじみと歌い上げるようなアプローチになっている。第3楽章での弦の歌などには、このオーケストラの昔ながらの厚い響きが残っているが、それも今は囁くような柔らかさの方が際立っているようだ。
 第4楽章はまさにSKOの威力を発揮した演奏だが、熱狂的な最後の頂点でも、かつてのように威圧的な表情になることは、もうなかった。小澤とこのオーケストラの良い面への変貌をまざまざと感じさせるような表現であり、久しぶりにこの曲のいい演奏を聴いたという気にさせてくれたのであった。

 カーテンコールで、指揮者と楽員が一緒に出たり入ったりするのはいつもの通り。最終コンサートとあってリンドウの花が捧げられ、小澤を先頭に楽員たちやグラハムがそれを客席に投げ入れるというフィナーレの風景。東京などでは見られないアットホームな雰囲気である。
 このあと、8日と9日には、長野県の中学1年生を対象とした「青少年のためのオペラ ヘンゼルとグレーテル」が上演される。この音楽祭には、この他にも「子どものための音楽会」などがある。松本在住の親戚に聞いたところでは、子供たちは毎年それらをたいへん楽しみにしているそうだ。

 なお、以前からその傾向があるが、NHKのテレビカメラは、舞台上であちこち動きすぎる。放送局たるもの、詳細に報道することは重要な使命だが、そのために聴衆の気を散らし、演奏会の雰囲気を損なうようなことがあってはならない。

9・6(日)名古屋二期会 ブリテン:オペラ「真夏の夜の夢」

   愛知県芸術劇場大ホール (マチネー)

 「愛知県芸術劇場」は、品川から新幹線に乗って名古屋で地下鉄に乗り換え、二つ目の栄駅で降りれば、目の前にある。正味1時間50分とはかからない。開演は午後2時。

 このオペラは昨年、大阪音大のカレッジオペラハウスで観たばかりだが、今日の舞台もそれとほぼ同じだった。中村敬一の演出、増田寿子の舞台美術だから、あの同じプロダクションを持って来たのだろう。
 中央に小さい回り舞台を設置し、場面の転換をはじめ、妖精の世界と人間の世界との対比、時間の経過などを象徴させる。この装置は、それなりによく纏まっている。制作費を軽減するためにも、良くできた舞台装置を各地のオペラ団体が使い回しをするのは適切なことだと思う。

 ただし、前回も感じたことだが、演技が常に類型的で、面白くない。
 原作は周知の通り、シェクスピアの戯曲。ウィットと人情の機微に富んだドラマだからこそ、ただ客席を向いて歌うのではなく――あるいは両手を拡げたり、右手を相手に差し延べたりするお定まりの身振りだけで歌うのではなく、もっと演劇的な、芝居としての精妙な演技を導入してもらいたかった。
 演じている対手を見ずに、客席を見て歌う――こういう舞台を眺めていると、日本でドラマトゥルギーの概念が確立するまでには、まだまだ道は遠いなという感を抑えきれぬ。

 歌手陣は名古屋二期会を中心に、名古屋在住の声楽家たちが参加したものという。公演は2回で、大部分がダブルキャストだ。
 だが、ダブルキャストというシステムも良し悪しで、それぞれが1回しか出演しないとなれば、演技や歌唱の表現を経験により研究し、次回にはより良い方法を編み出そうという試みも出来ないことになる。
 世界の一流歌手たちでさえ、こう言っているのである――「どんな公演も、初日は、ほぼ手探り状態です。初日が開いてホッとし、本当に調子が出て来るのは2日目以降」。
 まして、その役に経験のない歌手たちにおいてをや。
 ブリテンのこのオペラのような珍しいレパートリーを1回だけ歌って、それで優れた水準の上演になるわけがないのだ。最悪の場合それは、歌手の顔見世会か温習会に留まるということになってしまう。

 今回は字幕付き原語(英語)上演だったが、正直のところ、英語らしきものが聞こえた瞬間はごく僅かであった。これは必ずしも私の語学力のせいだけでもなかろう。特に中心的存在となるはずのオベロンとタイタニアの2人は、言っちゃ何だが、終始何語で歌っているのか見当もつかないほどだった。

 指揮は阪哲朗、演奏は名古屋二期会オペラ管弦楽団。楽員の腕はしっかりしていると思われるが、音楽の流れに生き生きしたものが感じられない。阪の指揮には期待が大きかっただけに残念であった。さっきの英語発音の問題にしても、言葉のリズムや抑揚をどれほど忠実に再現するかが歌の――オペラの音楽の生殺与奪の鍵を握るのだから、やはりそれも最終的には指揮者の責任になるだろう。
 休憩2回(各20分)を含み、終演は5時20分頃。

9・5(土)大友直人指揮東京交響楽団
シベリウス:「テンペスト」日本初演

   東京オペラシティコンサートホール (6時)
   
 日本ではほとんど演奏されないシベリウスの劇音楽「テンペスト」を、ナマで聴けるのはうれしいことだった。
 しかもフィンランド語上演で、ヘレナ・ユントゥネン、ペッテリ・サロマらフィンランドの歌手4人を迎えての演奏。合唱は東響コーラス。
 総計1時間15分ほどかかる大曲だが、その他にもプログラムの前半には、「悲しきワルツ」と「カレリア」組曲、そして冒頭には「フィンランディア」が、合唱入りヴァージョンで演奏された。かなり凝ったプログラムである。

 ただ――何と言ったらいいか、何故か今日の東京響の演奏は、いつもに比べ、緩い。響きに隙間が多く、バランスも今一つ、締まりに欠けていたという印象を抑えきれないのである。こちらの聴く位置(2階正面)のせいだけとも思えないが、どうだろう? 
 特に「テンペスト」では、、序曲からして演奏に何か緊迫感が不足していた。また、中には数秒しかない短い曲もあるのだが、これらを一つずつゆっくり間を置いて演奏したり、また途中で歌手が出たり入ったりしてその都度拍手を指揮者自身が(!)要求したりするのでは、全曲の流れが一貫しなくなり、楽曲全体がいよいよ散漫な印象になってしまう。

 「テンペスト」開始直前、チューニングが終って場内が静まり返った瞬間に、上手側3階席からステージに向かい、いきなり大声で何事か怒鳴り始めた白髪の年輩者がいた。最近、東京響の演奏会では、なぜかよくそういう「すぐキレる」高齢者にお目にかかる(いつかもサントリーホールで取っ組み合いを始めた老人がいたっけ)。カルシウム不足か。いいトシをして、みっともない。
 

9・5(土)福井敬 テノール・リサイタル

   日本大学カザルスホール (マチネー、1時)

 第1部にチマーラの歌曲3曲、日本歌曲6曲(山田耕筰、中田喜直、武満徹他)、第2部にオペラなど(ウェストサイド・ストーリー、ほほえみの国、ウェルテル、アイーダ、道化師、トウーランドット)のアリア計6曲、それにアンコール数曲(しかも最後は「グラナダ」の絶唱!)という超重量プログラムを、疲れも見せず歌い切る。

 よほどのパワーがある歌手でないと、終盤にかけてますます盛り上げて行くこういうプログラムは組めないだろう。この人の歌唱は常に安定していて、声が崩れるという気配を一切見せないのが特徴だ。福井敬のあらゆる面を一覧にして展示したような、聴き応えのあるリサイタルだった。ピアノは河原忠之。

 特別ゲストの江川紹子さんとのステージ対談で福井さんは、「僕の一番興味のあるのは転落して行く男を演じること」というような意味のことを話していた。なるほど、そう言われてみると確かに、私がこれまで数多く観たり聴いたりした福井さんの役柄の中での最高傑作は、ブリテンの「ピーター・グライムズ」とか、ツェムリンスキーの「こびと~王女様の誕生日」といったような、「悲劇的なキャラクター」だった。

 久しぶりのカザルスホール。なんという美しいホールだろうと思う。昔はここによく通ったものだった。ホール内の香りも、「鳥の歌」のチャイムも、ロビーに張られたカザルスの額縁入りポスターも、みんな昔どおり。しかし、あの頃ホールに来れば必ず会えたアウフタクト(ホールの制作事務所)のスタッフは、もうだれもいない。ロビーにまだ置かれたままの「CASALS HALL倶楽部」のボードが、ありし日のこのホールの盛況を思い出させて、寂しい。
 後発の紀尾井ホールに人気をさらわれ、すでに以前からクラシックの「トップ中ホール」の位置を失ってしまっていたが、しかしその雰囲気の良さ、音響のすばらしさは、かけがえのないものであった。それは、クラシック・ファンの記憶の中に、永く生き続けるだろう。私にとっても、この日本屈指の名ホールを訪れるのは、おそらくこれが最後かもしれない。

9・4(金)日本フィルハーモニー交響楽団定期演奏会
ピエタリ・インキネン指揮

  サントリーホール

 日本フィルの首席客演指揮者に就任したフィンランド出身の若手、ピエタリ・インキネンが登場。プログラムは、ショスタコーヴィチの「祝典序曲」と「交響曲第5番」、その間にシベリウスの「ヴァイオリン協奏曲」が挟まれる。

 いかにもフィンランドの指揮者だなと感じさせたのは、日本フィルから引き出した弦のカンタービレ個所での、透明な音色。これは魅力だ。
 しかもインキネンは、内声部をも明晰に響かせて、整然とバランスよくオーケストラを構築し、爽やかに音楽を盛り上げて行く。こういうタイプの指揮者は、今の日本フィルにとっては最適のはず。

 今年1月頃の演奏に比べれば、かなり「整備された」感のある日本フィルだが、それでも最強奏のテュッティとなると、まだまだ音に美しさと明快さに欠けるきらいがある。厳しいベテランの首席指揮者ラザレフとともに、このような個性を持つ、若い熱心な優れた指揮者を繁く迎えれば、このオーケストラも更に上昇線を辿ることができるだろう――ただし何度も言うように、どのくらいの頻度で来日・指揮できるかが問題だが。

 協奏曲のソリストは、ベルリン・フィルのコンサートマスター就任に向け、上げ潮に乗っている樫本大進。一躍「時の人」となっていることもあり、今日も大変な人気。

9・3(木)飯守泰次郎指揮の「ワルキューレ」第3幕演奏会形式上演
(Bunkamura 20周年記念 ワーグナー・ガラ・コンサート)

  オーチャードホール

  ヴォータンに予定されていたアラン・タイトゥスは「喉頭炎による発熱」で来日しなかった。1週間前にバイロイトで聴いた「マイスタージンガー」のハンス・ザックス役では、第3幕の後半、突然声にも表情にも精彩を失い、明らかに疲れを感じさせていたのは事実である。ただ、それと今回の来日中止とが結びつくのかどうかは、私には判らない。

 代わりに来てヴォータンを歌ったのは、ラルフ・ルーカスだった。今年のバイロイトでは、「トリスタン」のメーロトと、「ラインの黄金」のドンナーと、「神々の黄昏」のグンターを歌っていた。このうち初めの2役はチョイ役だが、グンターはかなり力のある表現だったので、印象に残っている。
 先週金曜日にメーロト役でバイロイトの舞台を終えて来日(もしかして一緒の飛行機だったのかな?!)、ただちにリハーサルに臨み、暗譜でヴォータンを歌ったというから、すでに経験豊富な証拠である。極めて歯切れのいい、リズム感の明晰な、明快な発音の歌唱をする人で、すこぶる好感が持てる。
 演奏会形式ながら付随させた簡単な演技も実に感情豊かで、解りやすいものであった。「この炎を越えてはならぬ」のあと、壮大に高鳴る「ジークフリートの動機」のあいだ、腕を高く上げたまま立ち、言葉の意味を聴衆に印象づけようとする演技も、またゆっくりと退場しつつ、「運命の動機」とともに後ろ髪引かれるように立ち止まり振り向くといった演技も――。

 ちなみにこの演技は、彼が自分で考えて行なったものの由(タイトゥスだったら、ここまではやらないだろう)。それを見て、今夜の他の日本人歌手たちも、それぞれ自分なりに考えて演技を行なったとか。
 とにかく今回、彼がヴォータンを歌ったことは、公演としても大成功だったと思う。ブリュンヒルデを歌ったキャスリン・フォスターの表情不足を補って余りあるものであった。

 他に、ジークリンデの増田のり子がよく通る声の歌唱で、今後が楽しみ。ワルキューレたち(江口順子、渡海千津子他)はいずれも先日の二期会の「ワルキューレ」に出演経験のある人たちで、轟々と鳴るオケに対しては分が悪いが、精一杯健闘していた。歌手全員が暗譜、プロンプターなしの歌唱。

 しかし、今夜の最大のスターは、やはり何といっても――これも全て暗譜で指揮した――飯守泰次郎であった。この人のワーグナーは、天下一品の趣きがある。
 プログラムの前半で演奏された「タンホイザー」序曲と「トリスタンとイゾルデ」の「前奏曲と愛の死」では、極度に遅いテンポをオーケストラが保ちきれないきらいもあったが、「ワルキューレ」では一転して緊迫感と情感に富む演奏が繰り広げられた。第3幕前半の嵐のようなテンポと、後半の引き締められたテンポとの対比も、見事といっていい。これでこそ、この場面の悲劇は、完璧に成立するのだから。
 彼のワーグナーにおけるオーケストラの鳴らし方は、本当に巧い。「魔の炎の音楽」の部分で、弦のゆらめきをもう少し強く出せば炎の拡がりの感じが出ると思うが、全体に「ワーグナーの音」になっていたことは紛れもない。

 東京フィルも、新国立劇場のピットにいる時とは別の団体のような豊麗な音を響かせた。「ワルキューレ」で、ある低音の金管が1小節早く飛び出したなんてこともあったけれど、歌手の声を浮き上らせるよう巧く響きのバランスをとるところなど、オペラを心得た演奏と言っていい。
 ここまでお出来になるのだから、いつもピットでこのような演奏をしてくだされば、東京国立歌劇場管弦楽団としても万々歳なのでありますが・・・・。

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