2017-05

8・31(月)シュトックハウゼン「グルッペン」

   サントリーホール

 10日間近くワーグナーの濃厚なオペラに浸かっていた耳に、リゲティやシュトックハウゼンの「音」は、異様なほど新鮮に響く。

 サントリーホールの1階客席の前半分の、上手側と下手側3分の1ずつを潰して櫓を組み、下手側に第1オーケストラ(パブロ・ヘラス=カサド指揮)、上手側に第3オーケストラ(クレメント・パワー指揮)が乗り、中央メイン・ステージに第2オーケストラ(スザンナ・マルッキ指揮)が位置する。こうして演奏されるのが、シュトックハウゼンの「グルッペン」だ。
 オーケストラはN響。弦・管の他に多数の打楽器が必要だし、しかも著作権使用料、楽譜使用料、舞台制作費なども含めれば、随分カネがかかったことだろう。これは、サントリーホールの「サマーフェスティバル2009」最終日、サントリー音楽財団40周年記念公演である。

 20分足らずの曲だが、オーケストラのテクスチュアは緻密で、聴感上の内容も頗る濃い。52年前――当時29歳のシュトックハウゼンの大胆気鋭ぶりが、今なおなまなましく伝わって来る作品だ。
 聴く位置によって3群のオーケストラのバランスが異なって聞こえるのを愉しむため、休憩を挟んで2回演奏されるこの曲を、聴衆は席(自由席)を移動して聴くことができる。
 そのため、バランスよく聞こえそうな席を取り合って殺到する客たちで、休憩時間の通路はラッシュアワー並みにごった返した。私も最初2階C席で聴き、後半はP席をねらっていたのだが、途中で名刺を出して挨拶される方などに捉まっているうちに、P席はとっくに埋まってしまった。仕方なく、LA席の最後列にやっと空席を見つけて座る。

 近距離にあるオーケストラの音がやはり強く聞こえるため、聴く場所によって、まるで別の作品のように聞こえるのが面白い。2階C席後方では3群のオケの豊麗な溶け合いが聴けたが、二度目はオケに近い位置だったので、鋭角的な音のスリルが楽しめた。3人の指揮者がアイ・コンタクトを駆使し、呼吸を計って指揮する光景も、実に興味深い。

 前座(?)に演奏されたリゲティの「時計と雲(Clocks and Clouds)」(1973年作品)も良い。こちらはマルッキ指揮のN響で、東京混声合唱団の女声12人が参加する。解説には冒頭がテリー・ライリーの「イン・C」に似ていると書いてあったが、なるほどそんな感じもあり――70年大阪万博の鉄鋼館でその日本初演を聴いた時のことをふと思い出した――ただしこちらリゲティのは、音程の動きが逆だ。ミニマル・ミュージック的で、女声が微妙にずれながら繰り広げて行く幻想的なサウンドが神秘的で快い。

 広島のN.Wさんから、29日の「芥川作曲賞」も含めてのコメントを頂戴しました。妙に批評ぶらない、非常に率直な感想なので、読んでいても愉しく痛快です。ありがとうございました。

8・28(金)バイロイト音楽祭 ワーグナー:「トリスタンとイゾルデ」

  バイロイト祝祭劇場

 バイロイト音楽祭の会場の売店に、寿司を発見。あまりアテにはならないとは思ったが、まさかこんなところでこんなものを売っているとは予想もしなかったし、体裁は一応整っていたので、ものは試しとばかり4ユーロほど払い、買ってみる。いや食べられればこそ。一口食べて吐き出した。コメの問題もあろうが、冷凍のせいもあろう。劇場付属のレストランには、寿司のコーナーなどない。だれが作ったのだろう?

 結局今年は、音楽祭最後の日まで暑さが続いた。冷房のない劇場で、連日のように汗まみれ。ワーグナー聖地への巡礼は苦行である。今日は大詰めの「愛の死」直前、なぜかあちこちで同時に倒れる観客が続出、運び出されていた。

 「トリスタンとイゾルデ」は、2005年に大植英次の指揮で聴いたプレミエの年以来。
 あの翌年から、指揮はペーター・シュナイダーに替わっている。流石に手馴れたもので、第1幕はルーティン的で平凡な演奏だったが、第2幕の「愛の二重唱」からは突然生気を取り戻した。うねり、絡み合い、渦巻きつつ高揚する官能の音たちのすばらしいこと。今夏の音楽祭の最終公演を飾らんとするかのように、指揮者もオーケストラも燃えていた。
 これほど見事な第2幕の「愛の場面」は、これまで聴いたことがないほどだ。バイロイトのオーケストラの凄さを遺憾なく発揮した名演というにふさわしい。

 ただし、歌手陣には少々不満が残る。
 イゾルデのイレーナ・テオリンは、パワーはあるけれども絶叫タイプで、聴いていると些か疲れて来る(プレミエの年のニーナ・ステンメは良かった!)。クルヴェナルのユッカ・ラシライネンも第3幕では吠え放題という感。ところがこの2人は、大変な人気だ。
 トリスタンのロバート・ディーン・スミスはプレミエ以来の出演で、声量があまり大きくないため前記の2人に比べやや分が悪いが、所謂「英雄的な騎士」ではない「憂いのトリスタン」の表現としては充分すぎるほどに責任を果たしている。もちろん、彼への拍手も大きい。
 ブランゲーネのミケーレ・ブリートは、フリッカの時と同様に野暮ったい容姿と演技で、舞台上では少々損をしているような気もするが、観客の拍手に不足は見られない。マルケ王は老練ロベルト・ホル、物々しい歌唱だが味は充分。

 クリストフ・マルターラーの演出は、プレミエの際とほとんど変わっていない。
 大型客船の船室を幕ごとに1層ずつ下ろして行くような場面設定も同じ。イゾルデが愛の矛盾のストレスに陥る時に連動して起る(らしい)蛍光灯の慌しい点滅も、また彼女がそれを子供みたいに指差して相手(ブランゲーネあるいはマルケ王)の言うことを全く真面目に聞いていない様子を表わすのも同じである。
 
 第1幕と第2幕はごくオーソドックスな進行で、演技もかなり微細に行なわれている。が、第3幕は、相変わらず解釈がさまざまに可能な舞台だ。トリスタンはベッドから転がり落ちるようにして息を引き取り、イゾルデはベッドに独り横たわりシーツを被って死ぬ。マルケ王もメーロトもブランゲーネも、全く客観的な立場を守る。
 この幕の解釈については、すでにいろいろな文献によって教えられたことも多いが、それでもいまだに釈然としないところの方が多いのだ。
 むしろ私は、この場面を眺めていると、この幕はクルヴェナルはじめ(彼が幻想に取り付かれていることは、第2幕の最後の異様な振舞からして明白だろう)登場人物すべてが既に己の勝手な幻想に耽っている世界である――ということを想像してしまうのだが、さてそれを第2幕までの流れと関連付けようとすると、やはりうまく行かない。
 そもそもこの演出では、トリスタンとイゾルデは、最初から愛し合ってなどいずに、ただ薬の効果によって愛を感じるようになったような雰囲気さえ、感じられるのである。

 全曲最後の解決和音が美しく溶解して行ったあと、2,3秒おいて、猛烈なブーイングが沸き起こった。プレミエの年にもブーは凄かったが、それは演出家と指揮者へのそれが相半ばしていたのであって、今回は完全に演出に対する抗議である。しかし、プレミエ以来既に5年、それも今年の最終上演においてさえ未だに盛んなブーイングを呼ぶということは、この演出が意外に新鮮さを失わないという証明にもなるか。

 これで、今年のバイロイト音楽祭もめでたく閉幕。こちらも翌朝、帰国の途につく。

グランド・オペラ 2009年秋号

8・27(木)バイロイト音楽祭 ワーグナー:「パルジファル」

  バイロイト祝祭劇場

 「パルジファル」は、不思議な曲だ。これを聴いていると、寂しい曇り空の下の、ドイツの何処とも知れぬ静寂な村の光景が朧げに浮かんで来たり、遥か遠い昔の思い出の中に息苦しくなるほど引き込まれるような気持になったりしてしまうのである。

 それゆえ私のこの作品への最大の関心は、まず音楽にある。――今回のプロダクションの指揮はダニエレ・ガッティであることを聞いて、私は半信半疑を通り越し、あまり期待していなかったというのが正直なところだが、案に相違して実に瑞々しい演奏が創られていたのに驚愕した。遅いテンポの中に緊張感を保ちきれないという傾向は拭えないにしても、「パルジファル」の音楽からこれほど旋律的な美しさを浮き彫りにした指揮者は稀だろう。
 陰翳豊かな和声の厚みは、「この劇場で演奏されるこの作品」なら自然に生まれるものだろうが、しかしガッティの「ワーグナーの音」の構築もなかなかしっかりしたものだ。十全とは言わぬまでも、満足できた演奏であった。カーテンコールでは若干のブーイングも飛んでいたが、私はそれには賛成できない。

 昨年プレミエされたこの「パルジファル」の舞台は、ノルウェー出身の演出家シュテファン・ヘアハイムによるものだ。
 まさに全篇、目まぐるしいほどに変化する光景の連続で、ありとあらゆる趣向が織り込まれている。しかし、どんな奇抜な出来事や演技であっても、それらが完璧に音楽の動きと合致しているので、自然に納得させられるところがある。
 ヘアハイムは、2003年にザルツブルク音楽祭へ「後宮よりの逃走」の滅茶苦茶な演出でデビュー、客席挙げてのブーイングで演奏を中断させたこともあるし、また今年4月にもベルリンで煩わしい「ローエングリン」を演出したばかりだが、いったん真正面からワーグナーに取り組めば、このようにスコアと寸分の違いもない緻密な構築をやってのけることもできる人である。興味深い。

 前奏曲の途中から幕が開き、パルジファルの母ヘルツェライデの臨終場面が描かれる。その母の苦しみを直視できずに逃避してしまったパルジファル少年が、やがて記憶の中に現われる母や、重傷を負ったアムフォルタス王の苦しみを理解できるようになって行く過程も、この演出の基底を為す重要なテーマといえよう。
 ヘルツェライデが息を引き取ったベッドは中央に全曲最後まで置かれたままで、そこでは物語が進むに従い、彼女やアムフォルタス、クンドリー、あるいはクリングゾルまでが、全く同じ白衣の姿と化してマジックのように入れ替わる。人物や出来事に関する「記憶」や「イメージの重ねあわせ」を、見事に描き出した演出だ。パルジファルが射てしまう白鳥も、幼い頃の自分自身の姿に変るのである。

 こうした複雑な出来事は、深層心理的に全篇にわたって続くのだが、それを逐一綴って行くスペースはない。
 が、特に印象深かったのは、バイロイトのワーグナー邸ヴァーンフリートの庭と建物をモティーフとして変化して行く舞台の光景であった。第1幕ではそれが1882年にこのオペラが初演された際の舞台装置と同じ聖堂に変化したり、第2幕第1場では傷病兵収容の病室となったりする。
 しかもそこには、この1世紀におよぶ時代の流れが、映像や実際の装置、登場する群衆により描き出される。作品初演の時代から欧州大戦、出征、移民や亡命による別れの光景が順に現われる。マレーネ・ディートリヒ的な姿でパルジファルを誘惑するクンドリー。ナチス(クリングゾル)のハーケンクロイツの旗は、パルジファルの槍の一閃で木っ端微塵にされる。

 そしてその後も、空襲で破壊されたヴァーンフリート荘、焼跡に暮らす人々、ドイツの復興――と続き、大詰めではドイツ国会議事堂の場面や現時点のバイロイト祝祭劇場(奥の巨大な鏡には我々が座っている客席が映される)の場面となる。
 国会議員たちから攻撃され、自らの脇腹の傷口を示して激しく応酬するアムフォルタスの姿は、あたかも――歴史の苦悩を背負った人間が、裁判官気取りの者たち相手に闘う光景にも似ており、もしくはナチスとの関連を弾劾されて憤り反論する、自らも傷を負ったバイロイトを象徴しているかのようにも見える。

 全篇にわたり舞台手前に設置されていたのは、ヴァーンフリート荘との位置関係とも一致するワーグナーの墓。これが終始パルジファルその他の者たちから、一種の祭壇のように扱われていたのが意味深い。
 最後に、パルジファルは槍とともに血の池の中に沈み、アムフォルタスは父の棺の上で息絶える。一方、クンドリーとグルネマンツは結ばれ(?)、幼かったパルジファルと同一の姿をした少年ともに前景に立つ――クンドリーは新たなヘルツェライデとなり、新たなパルジファルの物語が始まるのかもしれぬ。
 舞台には、現代ドイツの国旗マークが輝く。「マイスタージンガー」の逆を行くような幕切れだ。

 これら一連の動きの中における舞台の転換、装飾、照明の変化は、言いようもなくすばらしい。これはヘアハイムの演出の冴えももちろんだが、舞台美術担当のハイケ・シーレと、照明担当のウルリヒ・ニーペルの手腕が大きな役割を果たしているだろう。久しぶりにバイロイトならではの幻想的な舞台転換のテクニックに巡り合ったという感じだ。これなら、もう一度観てもいいという気持になる。

 歌手陣では、グルネマンツを歌ったクヮンチュル・ユンが真摯で重厚な存在感を示し、今やバイロイト最大のスターとなっている感がある。
 クンドリーはわれらの藤村実穂子、かなり特異なキャラクター表現で、私としては少々掴みにくい面もあったが、ドイツ文化の要塞バイロイトで主役を張るのだから、やはり凄い人だ。
 アムフォルタスのデトレフ・ロートも不気味なメイクで、シャープな演技と歌唱を示して成功。クリングゾルのトマス・イェサツコも、男版クンドリー(もしくは男版マレーネ・ディートリヒ)といった姿でユニークな味を出していた。パルジファルのクリストファー・ヴェントリスはまだ荒削りなところもあるけれど、力はあるだろう。

 そして、文字通り圧倒的な男声合唱の迫力を聴かせたのが、バイロイト祝祭合唱団。第3幕は特に凄い。往年のソフィア国立歌劇場合唱団をも凌ぐ力感だ。それに、全員がモロ国会議員という雰囲気を出すその扮装と演技の巧いこと!

 幕が先に降りて、最後の和音がまだ鳴っている最中に前列の方でブラヴォーを喚いた男がいた。場内失笑、制止の声、怒りのざわめき。

グランド・オペラ 2009年秋号

8・26(水)バイロイト音楽祭
ワーグナー:「ニュルンベルクのマイスタージンガー」

   バイロイト祝祭劇場

 「マイスタージンガー」前奏曲が始まった瞬間、これが昨日(指環)と同じオーケストラなのかとびっくりする。アンサンブルの密度といい、締まりといい、バランスといい、音色といい、全てがあまりに違うのだ。
 いや、思うに昨日までのティーレマンの指揮が凄すぎたのであって、むしろ今夜のセバスチャン・ヴァイグレの指揮の方が普通なのかもしれない。
 それにしてもこちらは、ルーティン的で、粗っぽい。演奏には瑞々しさも、豊麗さも、人間的な温かみも全く感じられない。このヴァイグレの指揮は、先年ウィーン国立歌劇場で「ボリス・ゴドゥノフ」を聴いて、その乾いた素っ気無い演奏にうんざりしたことがあるが、今回も似たようなものである。
 もっとも、このカタリーナ・ワーグナーの演出によるような舞台には、こういう指揮者が合っているかもしれない――というのは悪いシャレだが、ティーレマンがこのプロダクションを指揮したら、おそらく舞台とは水と油のようになるだろう。

 さて、バイロイト祝祭の総裁に就任したカタリーナの演出デビュー作、2007年プレミエの「マイスタージンガー」が、大変な物議を醸したのは周知の通り。
 3年目のサイクルに当たる今年の上演――その最終公演の今夜も、第2幕と第3幕のあとには盛大なブーイングと口笛と、それに対するブラヴォーと拍手が交錯した。第2幕のあとでは、何かを舞台に向けて投げつけた客もいたらしい。大相撲だったら、座布団が飛ぶというところか。
 カタリーナは第3幕のあとでカーテンコールに現われ、してやったりという調子で満面に笑みを浮かべ、手を振って退場する。ブーイングなど彼女にとっては勲章のようなものだ。ドイツとワーグナーの関係の過去の歴史を批判した場面を織り込むことによりバイロイトの総帥としての「免罪符」を貰った上に、スキャンダラスな舞台を創って話題を集めてしまえば、もはやすべてのお膳立ては整うからである。

 場面の設定は、美術のハイスクールかカレッジといった場所である。
 何事も規則づくめで、マイスター(先生)も生徒も画一的に振舞い、思考する世界。その中でザックスだけは常に裸足でラフな姿をし、会議の最中に平気でタバコを吸っている異端的人物だ。
 この学校に、「伝統の破壊者」たる奔放な学生ワルターがやって来る。テンガロン・ハットを冠り、気障な服を着たこの青年は、辺り構わず白いペイントを塗りたくり、教師たちが延々と規則の会議をやっているのに退屈しきって暴れ出す。彼が携えて来たのは詩ではなく、大胆な絵なのだが、先生たちが顰蹙する中にあって、ザックスだけはそれに興味を示した。
 ワルターへのテストは、堅物の書記ベックメッサーとの競争によるジグソー・パズルの作成。ベックメッサーはきちんと手本通りいち早く作り上げたが、ワルターは何とそれを逆さまにデザインして見せた。彼は当然、試験に落第する。
 ここまでが第1幕で、このくらいの読み替えなら、どうということはない。

 第2幕あたりから、この演出の本領が見えてくる。ベックメッサーの下手糞な――実は「型破りの革新的な」歌に、ザックスは靴底打ちの音でなく、タイプライターの騒々しい音で茶々を入れる。彼は靴屋ではあるけれど、この舞台では実際に靴を作る光景は出さない。
 幕切れはベックメッサーの歌に煽られた人々が――乱闘ではなく――カーニバルさながら練り歩くお祭り騒ぎで、その騒々しさ、乱雑さは、並みのものではない。夜警の角笛に脅かされて人々が瞬時に退散した後、リストやワーグナーやベートーヴェンの仮面をつけた者たちが亡霊のように踊るあたりは面白い(設定を美術学校にしておきながら音楽家の残像を引っ張り出すというのも辻褄が合いにくいが)。

 この騒動の一夜を契機として、ワルターは従順で礼儀正しい体制派に、一方ベックメッサーが前衛的な芸術家に変身してしまうというわけだが、これがいかにも唐突に過ぎるのが気になる。
 とにかく「Beck in Town」と字の入ったTシャツを着て気取るようになったベックメッサーは、超前衛的な制作を披露し、着飾った客たちの度肝を抜く。このあたりからは、もはや彼が最大の主役だ。ワルターの「取り澄ました歌」や、ニュルンベルク銀行からの彼への賞金贈呈の模様、あるいはザックスの「偽善者ぶった大演説」を、まるでローゲさながら、冷笑気味に眺め、聞くベックメッサー。
 しかし、やがて舞台に威圧的な彫像が出現し、ザックスが見る見る「過去の恐るべき偶像」の姿に変身して行く光景を目の当りにしたベックメッサーはたじろぎ、ほうほうの体で逃げ出して行く。

 音楽および歌詞と、展開される物語の齟齬――それは本来大問題のはずなのだが、とりあえずそれを措くとして――を別にして考えれば、この演出のコンセプト自体は、ストーリイとしては極めて解りやすい。
 だが、その過程で織り込まれるさまざまな光景には、極めて雑多で下品で、悪趣味なものが多い。美術学校の話だから一糸纏わぬ男や女が出て来ても不思議はなかろうが、それが大暴れしたり、ことさら卑猥な身振りをして見せたりするのは、――そういう手法を絶賛しない者は時代遅れだと馬鹿にされる風潮があることを心得た上で、わざとスキャンダラスな舞台を創って注目を集めようとする下心が見え見えとしか、私には感じられないのである。

 そんな中で、ごく何でもない平凡な場面――ワルターとエーファと「その子供たち3人」および父ポーグナー、そしてダーヴィトとマクダレーネと「その2人の子供たち」を額縁に入れた第3幕の「五重唱」が、客席に柔らかい笑いを拡げるのであった。

 卓抜なアイディアも少なくない舞台ではあるが、しかし私はラストシーンに割り切れぬものを持つ。ベックメッサーを反体制的人物に設定するのはいい。だが彼はなぜ、決然として立ち去るのではなく、また過去の重圧に対して立ち向かうのでもなく、腰を抜かさんばかりの格好で逃げ出して行くのだろう。
 不気味な光景だけが残るというのでは、これまでワーグナーの作品をナチやネオナチと絡めて描いて終っただけの手法と何ら変りはあるまい。私のようなワーグナー愛好家としては、いつまで皆同じことをやっているのか、という不満を抑えきれないのだ。バイロイトともなれば、それらを乗り越えた未来への展望が求められると思うのだが、どうも逆の方向を走り始めているような気がしないでもない。
 まあ、時流に阿った「免罪符」演出であれば、とりあえずはここまでだ、ということになるのかもしれないが。

 歌手では、ワルターを歌い演じたクラウス・フローリアン・フォークトが、声でも演技でも目立っていた。これは、彼の当たり役の一つになるだろう。
 ベックメッサーのアドリアン・エレートはまだ若い人で、嫌味な書記を演じてはあまり味がないが、イカレた前衛教師としてはサマになっている。
 これらに対しザックスのアラン・タイトゥスが例のごとくいかにも大味な演技で、彼がもう少し巧ければ、ザックスが「明から暗」の性格に変貌する「歴史的皮肉」が、もっとはっきり描かれたのではなかろうか。
 エーファ(ミヒャエラ・カウネ)とマクダレーネ(カローラ・グーバー)は、まるでマネキンみたいに表情のない役作り。

この舞台には、歌にも芝居にも――いかにも20代後半の強気の女性の演出にふさわしく、愛なき世代の物語といったような、突き放したような雰囲気がある。それがまたヴァイグレの指揮にぴったり合っているのは、最初に書いた通り。

グランド・オペラ 2009年秋号


8・25(火)バイロイト音楽祭
ワーグナー:「ニーベルングの指環」第3夜「神々の黄昏」

   バイロイト祝祭劇場

 言っては何だがこの「指環」の演出、1回はいいが、2回観るほどのものではない――というのが、歯に衣着せぬ感想だ。といってもあくまで私の主観ですから、悪しからず。このプロダクションは、来年まで上演される。

 冒頭の「ノルンの場」は、花火が上がった形のような星空(占星術的)を背景とする幻想的な場所。また「ヴァルキューレの岩山」は、前作と同様に石切り場。
 後者の場面で、ヴァルトラウテとブリュンヒルデが緊迫した話をしている最中にヘルメットをかぶり梯子を持った男が背後をウロウロするのには、気を散らされる。総じてこの演出では――コンセプトはともかく――現代人が「突然」現われて観客の気を散らす、ということが多いのが欠点だ。

 「ライン河畔の場」は、「ラインの黄金」におけると同様、コンクリートの堤防の上になっており、後方には現代人の若いカプルが涼んでいる。堤防には今や下水管が設置され、ラインの乙女も排水口を出たり入ったりである。以前には川底にあった石が下水管の脇に積み重ねられているのも、時代の移り変わりを皮肉に示している。

 「ギビフング家の場」は、ある高級ホテルのロビーだ。集う者たちはハーゲンの手勢と、着飾ったパーティの出席者の男女。
 ラストシーンでは、ブリュンヒルデの放った火がホテルに燃え移り、大勢の人間が逃げ出して来る。ここは現代人と異次元世界の登場人物との区別が最もつきにくいところで、観客を戸惑わせる。それでも、プレミエ時よりは、かなり整理されたようだ。
 下手側の階段に腰掛けて終始本を読んでいる男が現代人という設定だろうが、それにしては顔のメイクが「パーティ出席者」と同じというのは少々解せぬ。

 大詰め、グンターとグートルーネの遺体以外には人の姿のなくなった最終場面では、例の「少年」が現われ、グンターの「王冠」をかぶったりして遊んでいる。そして、ここがあの壮大な悲劇が起った場所だなどとは全く知らぬ若い恋人たちが自転車を押して通りかかり、キスを交わし、何事もなく通り過ぎて行くところで、「神々の黄昏」の幕が閉まる。

 神々の世界は炎上して消え去った。が、その痕跡はどこかに残っているだろう。そしてその悲劇や崩壊は、今日でも世界のどこかで繰り返されている。もしかしたら、世界支配の権力をめぐる新たな神々たちの闘争がまた行なわれているのかもしれない。神々は現代でもあらゆる所を彷徨っているのだ。人間たちは、これから何をすべきなのか――というのがこの演出のコンセプトだ。
 が、これは実はこちらが好意的に理解したことなのであって、残念ながら実際の舞台は、それをすぐ納得させるほどには、巧くできてはいないのである。
 幕が閉まると、劇場内にはしばらく沈黙が続いた。やがて戸惑ったような拍手が起り、数秒間は元気の無い拍手が続く。幕の間から歌手たちが姿を現すと、やっとブラヴォーの声とともに拍手が盛り上がった。

 いっぽう演奏の方は、何度でも聴きたくなるスリリングなものだ。
 ティーレマンは、前作に続いて巧みな音楽づくりである。第2幕では「ホイホー・ハーゲン」から「ブリュンヒルデとグンターの到着の場」の音楽をむしろ抑制気味にして、後半のブリュンヒルデの怒りを中心とするアンサンブルと三重唱の部分に轟々たるクライマックスを設定していたのも、3年前と同じ。また「葬送行進曲」の頂点の一つ、「死の動機」を含む個所の長い四分音符をクレッシェンドさせて凄絶な迫力を出すところも同様。

 ただ、3年前に「自己犠牲」冒頭部分で戦慄させられたような、限りない闇の空間に木魂する魔性の響きは、この日の演奏からは不思議に感じ取れなかった。それがこちら聴き手に責任があることかどうかは微妙だが。
 しかし、最後のヴァルハラ炎上の場面の音楽は、文字通り総力を挙げての盛り上がりである。この個所を阿鼻叫喚にせず、かくも透明感さえ漂わせる音色の美しさを以て壮麗に演奏できる指揮者とオーケストラは稀ではないか。いかにバイロイト祝祭劇場特有の音響効果があるとはいっても、どんな指揮者でもこういう大技ができるわけではないのだ。

 歌手陣に関しては、必ずしも全員が絶好調とはいえなかったようだが、それでも充分に立派なものであったろう。
 クリスティアン・フランツ(ジークフリート)は第3幕で声に少し疲れを見せたためか、しつこいブーイングを浴びたが、それは僅か数人の観客からに過ぎない。
 リンダ・ワトソン(ブリュンヒルデ)も同様、「自己犠牲」の最後で絶叫気味になるのは惜しいけれど、ここまで馬力を失わない歌手は、今日では決して多くないだろう。
 絶賛を浴びたのはハンス=ペーター・ケーニヒ(ハーゲン)で、プレミエの年に比べ悪役として格段の進境ぶりだ。エディット・ハラー(グートルーネ)も、バイロイトにこの役で(ガブリエーレ・フォンターナの代役として)デビューした時に比べ、別人のような歌唱と演技になった。
 ラルフ・ルーカス(グンター)は手堅い出来を示し、出番は少ないがアンドルー・ショア(アルベリヒ)も個性豊かな歌いぶりである。

 演技という面ではほとんど巧味も新味も面白味もなく、それが舞台を単調に見せてしまう一因となっていた。これはもう演出家の責任だ。4作を通じて基本的にはオリジナルのト書きに忠実な動きで、それはそれでもちろんいいのだけれど、もっと微細な表情を各キャラクターが表現していたなら、この舞台はもっと面白くなっていたろうに。
 第2幕でジークフリートが、慣れぬ正装をしてオタオタし、ブリュンヒルデが怒って突きつける手に握手をしてしまい、観客を笑わせるシーンがあったが、これは何となく愛嬌のある容姿のフランツゆえに成功した演技であろう。プレミエの年のシュテファン・グールドは、確かこういう演技はやっていなかったように思うが――定かではない。

グランド・オペラ 2009年秋号

8・23(日)バイロイト音楽祭
ワーグナー 「ニーベルングの指環」第2夜「ジークフリート」

  バイロイト祝祭劇場

 快晴。しかし、少し涼しくなった。爽やかな大気なので、厚い上着を着たまま歩いて劇場へ行くのもそれほど苦痛ではない。本番中は上着を脱いだ方が楽という程度の暑さ。3日目にもなると、80分もの間身動きせずに座っているのにも少しは慣れて来る。

 「ジークフリート」の舞台は、前作に続いて現代世界の日常的な場面。
 第1幕は廃校となっている学校の理科教室、第2幕は森の中の工事中高速道路の下。第3幕は第1場のみ青い紗幕の中で、それ以降は「ヴァルキューレ」第3幕と同じ巨大な石切り場。

 この中では、森の中の場面がよくできているだろう。いかにも妖怪が出没しそうな場所だ。現代人から見ればただの大きな穴も、実はそれはファーフナーが財宝を守って住んでいた洞窟の痕跡だった――という想像も面白い。
 「神々は多分消え去ったに違いない。しかし必ず何かの痕跡を残している」というドルストの解説は、私にはすばらしいロマンを感じさせる。――ただし、「その超自然的な出来事を唯一見ることが出来る感受性の強い少年」が舞台にチラリと現れる演出が、相変わらず野暮ったくて、納得性を欠いているのが問題なのだが。

 ジークフリート(クリスティアン・フランツ)が、単なる野性児でなく、優しい心を持った少年(風貌は別としてだが)として描かれているのが珍しく、非常に印象的だ。
 ミーメへの乱暴は、嫌悪感からというよりむしろ甘えの表れで、自分を育ててくれた矮人に対し、一種の親近感を示す。毒薬で自分を殺そうとしたミーメを逆に殺したあと、「好いところもあったのに、可哀相な奴だったなあ」という態度をしんみりと示すところなど、なかなかに泣かせる演出と演技である。
 プレミエの時にジークフリートを歌っていたシュテファン(スティーヴン)・グールドは、ここまでの演技をしていなかったように記憶しているが、どうだったろう。

 歌手陣は概ね好調。ミーメのヴォルフガンク・シュミットと、アルベリヒのアンドルー・ショアは、本領を存分に発揮した。ヴォータンのアルベルト・ドーメンも威力がある。クリスティアン・フランツも、これだけ最後まで声を衰えさせずにジークフリートを歌える歌手はそうそう多くはあるまい、と思わせるような、巧みな力の配分だ。リンダ・ワトソンも声の伸びは充分である。

 これらに対し、エルダのクリスタ・マイヤーは――「ラインの黄金」でもそうだったが――凄みに欠け、ドラマにおける重要な役割を果たすには不足。「鳥の声」のクリスティアーネ・コールは声の質はいいが、この役には少し太い声なのではないか。

 ティーレマンは、今日もまたこのドラマの最大の主役だ。
 「ワルキューレ」まではあまり出さなかった彼独特の長いゲネラル・パウゼを、ついに今夜は、第3幕を中心に3回ほど聴かせるにいたった(プレミエの時は、「神々の黄昏」まではこの癖を出さなかった)。昔の彼と異なり、単なる「長い休止」ではない、息を呑ませる緊迫感に満ちたパウゼを使えるようになっているところが見事である。

 テンポの増減も、まさにスコアの指定どおりだ。各幕ごとに、それぞれ一貫した流れの大きな起伏が作られる。クライマックスへ盛り上げる手腕も相変わらずの冴えで、第1幕の「鍛冶の場面」の最後の熱狂、第2幕序奏や第3幕序奏での不気味な咆哮など、バイロイトのオーケストラの卓越した威力を存分に発揮させている。
 弦のトレモロの凄絶さも特徴だろう。このロマンティックな魔性の力の根源ともいうべき弦のトレモロに、ティーレマンは、最近の指揮者には珍しいほどの激しい気魄をこめる。「指環」のドラマにおける超自然的な世界の不気味さを、これほど明確に描き出せる指揮者は、今日では稀ではなかろうか。

 一方、「ジークフリート牧歌」の動機が初めて現われる瞬間の弦の響きには、あたかも泡立ちクリームがピットから流れ出てくるかのような、馥郁たる美しさがあふれる。かように濃い情感を臆することなく吐露させるところにも、この指揮者の本領があろう。
 そして、こういうロマン的な音楽を再現する指揮者がバイロイトで圧倒的な人気をかち得ているという現象は、すこぶる興味深い。カーテンコールで最大の熱狂を受けるのは、毎夜のごとく、ティーレマンなのである。

「グランド・オペラ」2009年秋号

8・21(金) バイロイト音楽祭
ワーグナー: 「ニーベルングの指環」第1夜「ヴァルキューレ」

     バイロイト祝祭劇場

 ティーレマンの音楽作りは、昨夜にも増して魅力的になる。弦の瑞々しく豊麗な音色を軸に、叙情性と劇的迫力を見事に交錯させた美しい流れの音楽が全篇を満たす。
 それはもちろん、ワーグナーの作品に本来内蔵されているものなのだが、それを余す所なく再現してみせる卓越した腕の冴えが、ティーレマンにはある。
 テンポの流れも、プレミエ時よりも更に良くなった。第2幕大詰めでのフンディングとジークムントの決闘場面や、第3幕(ヴァルキューレの岩山の場)でのヴォータンの激怒の場面などのような劇的高揚の瞬間には、テンポはみるみる加速されて息詰まる緊張感が創られるが、このあたりの呼吸が、この指揮者は何とも巧い。

 特に第3幕における各場面の音楽の対比――これは実にワーグナーの天才ぶりを感じさせるところだが――、これらを見事に際立たせつつ、しかも一連の流れとして構築するティーレマンのバランス構築には舌を巻く。

 ヴォータンが娘ブリュンヒルデとの訣別を万感こめて語る音楽は、彼が憤怒に燃えていた頃の第3幕前半の、あの激烈な嵐の場面の音楽を経てこそ生きて来る。神々の長として世界に君臨した時代が今や終焉し、こののちは「さすらい人」として世界の行末を見守るだけの存在になることをヴォータンみずから予感するのがこの場面なのだが、――彼のその慟哭と感慨の心理を、単に歌詞の分析によってではなく、このように音楽そのものによって理解させてくれる演奏にめぐり合うことは、きわめて稀である。

 といってもそれは、「ヴォータンの告別」をただ情感豊かに演奏しただけで成り立つものではない。第3幕全体を大きく弧を描くように有機的に構築してこそ、最後の悲劇的な場面を十全に生かすことができるのである。
 ティーレマンは、幕の前半を煽り立てるテンポで構築したあと、この大詰めのクライマックスを、極度に遅いテンポで演奏した。それは少し誇張が過ぎる印象がなくもなかったが、しかし紛れもなく、こうしてこの長大な物語における一つの時代が終りを告げたのだ、という感懐をしみじみと抱かせてくれる演奏だったのである。
 ワーグナーの音楽そのものが如何に雄弁に、すべてを語り尽くしているか――それを再認識できた喜びに浸れただけでも、今回の演奏を聴きに来た甲斐があったと思う。

 歌手陣でのピカ一は、何と言ってもジークリンデを歌ったエファ=マリア・ウェストブレークであろう。明晰で張りのある、しかも悲劇的な陰翳にも不足しない声と歌唱表現がすばらしい。プレミエの時のアドリエンヌ・ピエチョンカも良かったが、それとはまた異なるタイプの素晴しさがある。
 ヴォータンのアルベルト・ドーメンも、プレミエ時のファルク・シュトルックマンと同様、最後の「魔の炎」では「nie!」を最大限に延ばしての大見得。「ラインの黄金」における若い時代の神との性格の違いは、ドーメンの方がやや上手く出していたようだ。
 フリッカのミケーレ・ブリートは、まず安全圏内というところか。

 プレミエ時と同じ顔ぶれは、まずフンディングのクヮンチュル・ユン。底力のある声で、暴力的な男を演じる。
 ジークムントのエントリック・ヴォトリヒは――あの時には声が不調で、第1幕で降板してしまったが――今回は大丈夫。しかしこの人の声は、時たま不安定になるのが問題で、「ヴェルゼ!」の個所など、芝居気のあるティーレマンならもっとフェルマータを引き延ばしたかったのではないかと思うのだが、どうだろう。
 ブリュンヒルデはリンダ・ワトソン。馬力は充分ながら、歌唱も演技はスタイルの少し旧いところが目と耳につくようになった

 ドルスト演出は、今回の印象でも可もなく不可もなしといったところ。
 オリジナルのト書きには非常に忠実ではあるけれど、細かい部分にはどうもトロいところがある。たとえば、ヴォータンがわが子ジークムントを心ならずも斃す場面など。
 この演出では、ヴォータンが彼を背後から何となく槍で刺すという設定なのだが――かつてユルゲン・フリムがこのバイロイトで、ジークムントが振り向いて父親の顔を認め、「あなたは!」と駆け寄ろうとした瞬間に背後からフンディングの槍に刺される、という劇的な演出を行ったことがある(クプファー演出もそれに近かった)が、あれに比べると歯がゆいほどだ。

 つまらないことながら今回、ブリュンヒルデがジークムントの折られた剣(ノートゥング)を拾うことなく逃げてしまったのは、辻褄が合わぬ。そのくせ第3幕では平然と剣の折れ端を出して皆に見せているのだから、バイロイトともあろうものが手抜きもいいところだ。ワトソンが忘れたのか。
 第2幕でヴォータンが世界の破滅を語る個所では、背後に深層心理上の自らの別の姿が出現するが、全体の流れからすると、どうも取ってつけたような感がある。

 「現代人関係」(?)では、第1幕冒頭はプレミエの時には、廃屋―フンディングの家――の中で自転車を携えて遊んでいた子供の一人がジークリンデの顔を不思議そうに眺めたのち立ち去るという演出だったが、今回は嵐を避けて廃屋に雨宿りしていた大勢の男女が出て行き、子供の一人が近くの椅子に座っていたジークリンデのショールをめくってその顔を見、慌てて逃げて行くという演出に変っていた。この方が辻褄は合うだろう。
 第2幕で、ジークムントたちが逃げて来るまでの間、背景に自転車を脇に置いてずっと新聞を読んでいる現代人の男がいるのも前回同様――これも取ってつけたような光景。

「グランド・オペラ」2009年秋号

8・20(木) バイロイト音楽祭
ワーグナー: 「ニーベルングの指環」序夜「ラインの黄金」

     バイロイト祝祭劇場

 3年ぶりのバイロイト。雲一つない晴天は結構だが、猛烈に暑い。冷房のない祝祭劇場の中は蒸し風呂状態だ。ワグネリアンたるもの、それを覚悟でこの「聖地」に巡礼せねばならぬ――というのが、昔からの「天の声」らしい。誰も表立っては文句を言わない。

 「指環」は、2006年のプレミエの年に観て以来。
 指揮はもちろん同じくクリスティアン・ティーレマン。彼はますますカリスマ的な物凄さを発揮しているようだ。カーテンコールに出てきた時も、気のせいか、何か怪物的な雰囲気を漂わせるようになった。
 演奏も、プレミエ時より更に深みを増した。オーケストラは一層しなやかになり、響きにも均整が備わって、この曲から思いもよらぬほどの陰翳とロマンティシズムを引き出す。
 ローゲが「女の愛に比するものはこの世にない」と語るくだりは、この「ラインの黄金」の中で唯一叙情的な音楽がオーケストラに現われる個所だが、そこでのティーレマンの指揮はまさに甘美で、エロティックな趣を一杯にあふれさせる。これほど陶酔に浸るような音楽を創れる指揮者は、今日では彼を措いて他に例を見ないだろう。

 演出(タンクレード・ドルスト)と、舞台装置(フランク・フィリップ・シュレスマン)の主旨は、プレミエ時とほとんど変っていない。
 ライン河底の幻想的な場面――上手奥から手前に向け湾曲して設置されている大きな川底の石群、それに反射して流れを表わす光の美しい効果、位置は動かないが身振りは大きい乙女たち、アルベリヒの妄想として出現する女たちやその映像――だけが、他の3つの場と切り離された異質な光景だ。多分これは、「清きラインの河底」なるものを、その後に続く人間界の光景と異なるものとして強調したということだろう。

 「山上の場面」は、工事中の看板、街灯、ゴミ箱、落書きで埋められた壁など、雑多で薄汚い現代のコンクリートの河岸に変更されている。「地下のニーベルハイムの場」は工場の地下室で、壁の一部が割れるとニーベルハイムの穴蔵が見えて来る。
 こういう場面の中に神々や巨人族、ニーベルハイム族などが登場するわけだが、そのほか、前者には落書きの様子をカメラでチェックして巡回する監視員や、「ファーフナーとファーゾルトごっこ」をして遊ぶ子供たちが、また後者には電源をチェックする係員といった「現代人」が時折姿を見せる。

 かように、舞台は現代の日常の世界であり、ここに普通の人間には見えぬ神々や妖怪が活動しており、純粋な心を持った少年のみがそれを見たり感じたりすることが出来る――というのが、この演出コンセプトだ。つまり我々が幼い頃に想像したような超自然的な世界が、本当に繰り広げられていることになる。子供の心を失わない者にとっては、これは、実にワクワクするようなアイディアと言えよう。

 しかし、それを舞台に具象化する手法がどうも未整理で、取ってつけたような感がある――というのがプレミエ時の印象であった。それは4年目になる今夏の上演でも、大して改善されていないようだ。ドルストは、これで充分だと考えているのだろう。
 場面転換の際には常に幕を下ろしてしまい、面白味を半減させているのも前回と同じ。演技の面においては、オリジナルのト書きに非常に忠実である。

 ただし大詰めの場では、神々がコンクリートの堤防上から奥の階段を降りて行った後、後景の「ヴァルハラ城」(映像)へ向かって階段を上って行く設定になっていた。これはたしか、プレミエ時にはなかったような気がする。今回の方が解りやすいだろう。

 歌手陣。ヴォータンはアルベルト・ドーメン。プレミエの時のファルク・シュトルックマンのような個性と強靭な馬力には不足するが、歌唱はしっかりしており、まず平均的で安定したヴォータンであろう。
 アルベリヒのアンドルー・ショアは、プレミエ時と比べ、格段の巧味を増した。ファーゾルトのクヮンチュル・ユンも進歩著しい。ローゲのアルノルト・ベズイエンは狡猾な雰囲気においてはさほど進歩が見られないものの、歌唱の点では、以前より少しは表情が濃くなったか。だが、このローゲ役がもっと強烈な個性を発揮してくれないと、このオペラは引き締まらないのだ。
 他に、ミーメをヴォルフガンク・シュミット、フリッカをミケーレ・ブリートなど。

 結局、今回もプレミエ時と同様、一にティーレマン、二にティーレマン、三、四がなくて、五が・・・・といった「指環」になりそうだ。プレミエの年に観た時ほどは舞台に欠点を感じなかったが、それはこちらが演出コンセプトを理解した過程で生まれた「同情により得られたもの」の所為かもしれない。

「グランド・オペラ」2009年秋号

8・15(土)「あッ!ベートーヴェン。」第3日 交響曲第8番、第9番
飯森範親指揮 東京交響楽団

   神奈川県立音楽堂 (午後4時)

 3日連続のベートーヴェンの交響曲の番号順ツィクルス最終日。
 全部聴いた人には、美麗な「究極(9曲)の証明書」なるものが贈られた。表彰の文章も物々しい。総計400枚近くが出たというから、今日の入場者(満席)のうち4割ほどの人々が3日間通ったことになる。
 「お盆のベートーヴェン」も悪くない。終戦記念日に「第9」を聴いて平和を祈るというのも、意義深いものがあろう。

 残響がほとんどなく、オーケストラの音が「もろリアル」に聞こえるこの神奈川県立音楽堂だが、最も響きのバランスが良かったのは意外にも「8番」でなく「第9」だった。ノン・ヴィブラートの弦もあまり刺激的な音にならず、木管、金管、打楽器との調和もほぼ理想的なものになっていた。飯森と東響の鳴らし方も巧かったのだろう。
 音の動きの極度に細かい「8番」に比べ、「第9」はむしろ滔々たる音の流れを持っていることからも、これがホールの鳴りの上で良い効果を生んでいたのかもしれない。

 もちろん、演奏の音楽的な内容においても、この「第9」は出色のものだった。特に第1楽章には、強固な意志力でひたすら突き進むエネルギーがあふれていた。また、3つの楽章が第4楽章の「歓喜」の1点に向けて集中して行くような感を与える演奏構築上のバランスの良さも特筆されよう。

 スケルツォ楽章のティンパニについては、飯森は展開部に入ったあとの[E]前後のオクターヴの一撃を4回ともフォルテで叩かせ(楽譜指定通り)――おまけに5回目もディミヌエンドなしのフォルテで叩かせ(奏者が間違えたのかと思った)、これに対しダ・カーポしたあとの同じ個所では、5回全部をディミヌエンドで演奏させていた(マズアの指揮を参考にしたか?)。
 飯森もプレトークでこのダイナミックスの違いの狙いについて説明をしていたが、必ずしも演奏からそれが感じ取れたわけでもない。それにこのティンパニの叩き方には、いささか共感しかねるのである(「パンパラン」でなく「ドンバタ」と聞こえるのはいかがなものか?)。

 文句ついでにもう一つ、第4楽章冒頭のチェロとコントラバスのレシタティーフおよび、ヴィオラが「歓喜の主題」に入って来る個所だが、あんなに音がふらついたのは、ノン・ヴィブラートでやったせいなのか? 事情(?)は判らないけれども工夫を願いたい。だが演奏全体としては、最後のクライマックスに至る昂揚感も含め、極めて見事なものがあった。

 合唱の東響コーラス(安藤常光指揮)が、すばらしく優秀。
 ソリストは小林沙羅(S)、小林由佳(A)、中嶋克彦(T)、与那城敬(Br)。この4人の声楽的なバランスの良さ――特に終り近くのポーコ・アダージョの個所――も、特筆すべきだろう。
 小林沙羅は、先日(7月25日)の「トゥーランドット」のリューを聴いた時にも感じたことだが、本当に透明な綺麗な声の持主だ。小林由佳も、普通なら目立たないこの曲のアルトのパートを明晰に聴かせていた(こういう人はなかなかいない)。中嶋克彦は手堅い。与那城敬ももちろんいいが、最初のレシタティーフは、なにごとかとびっくりさせられるほど物々しく厳めしかった。ちょっと凝り過ぎではなかろうか。

 終演後にロビーで、指揮者、ソリスト、コンマス(高木和弘)に、聴衆も加わっての交流会。首席トランペットのアントニオ・マルティが退団し帰国するそうだ。寂しい。
      

8・14(金)「あッ!ベートーヴェン。」第2日 交響曲第5番、6番、7番
飯森範親指揮 東京交響楽団

    神奈川県立音楽堂

 東京響のこのシリーズは、すでに2002年から開始されていた。最初は大友直人の指揮で、2007年からは飯森範親の指揮で。
 今年はその締めくくりとして、9つの交響曲を3日間で演奏するという、最近流行の「イッキ・スタイル」である。全部聴いた人には「究極(9曲)の証明書」が贈られる由。

 昨日は「第1番」から「第4番」までを、休憩時間を含め4時間かけて演奏したとか。今日は第5番「運命」、第6番「田園」、第7番――というプログラムだ。7時に開演され、休憩20分ずつを含み、終演は9時40分になった。
 なお、弦の編成は対向配置12型(12-12-10-8-6)。

 危惧したほどのこともなく、演奏は丁寧につくられていた。しかも3曲とも、極めてテンションの高い演奏だったことには感心させられる。
 「5番」の第4楽章など、あたかもプログラムの最後を飾る頂点といった勢いの熱演だったし、――そのあと、決して容易な作品ではない「田園」をやって、最後に狂乱の「7番」をそれなりに盛り上げて演奏したのだから、指揮者もオーケストラも大したものである(特にトランペットには敬意を払おう)。

 まあ、あえて言えば、「7番」第1楽章で力を出尽くしてしまった感もないではなかったが、しかしスケルツォとフィナーレでも、形は決して崩れることはなかった。
 「田園」第2楽章のように、微細なバランスのアンサンブルが重要視される部分での木管(特にフルートとオーボエ)の掛け合いに緻密さが失われる、という点などは気になるものの、まあこれは「サマーコンサート」ですから・・・・。

 この神奈川県立音楽堂は、オケの演奏の場合には――今夜のように超満員の時には尚更――残響がほぼゼロになり、いかなるアンサンブルの乱れも露呈されてしまうというホールだ。
 しかも19列中央あたりで聴くと低音があまり聞こえず、弦の高音ばかりが強く響いて来る。そのため、特にノン・ヴィブラート奏法のフォルティシモなどは、かなり耳にきついものに聞こえるのである。

 終演後、飯森はまたロビーで延々とサイン会。元気ですねえ彼は。プレトークの時には「昨夜は終ったら体重が3キロ減っていました」と客席を爆笑させていたが、そんなものはどうせ食べてすぐ取り返すだろう。

8・11(火)フェスタミューザKAWASAKI 14日目
飯守泰次郎指揮 東京シティ・フィル ブルックナー「交響曲第7番」

    ミューザ川崎シンフォニーホール  (夜8時)

 飯守さんがピアノでテーマを弾きながら、ソロでプレトーク。
 話が、随分上手になった。昔は、話の筋道などどこへやら、ピアノを弾き出せばそのまま延々と自分ひとりで陶酔に浸ってしまうのが常だったが、もう今は違う。
 今日は、この曲の究極のテーマは「愛」であるという話を中心に、作品解説を含めて25分間。
 これだけ聴衆から真剣に聴かれ、盛大な拍手を浴びたプレトークも稀ではないか。真心こめた話しぶりが聴き手の心を捉えるのだろう。

 プログラムは、これ1曲。
 第1楽章は、予想外に遅いテンポだ。じっくりと起伏をつくる狙いがあったと思われるが、もともとソロやアンサンブルに緻密さが不足するシティ・フィルの弱みが露呈して、その遅いテンポを保ちきれないのが惜しまれる。
 しかし、第2楽章以降は持ち直した。とりわけアダージョはしっとりと美しかったし、ノーヴァク版の指定に従いアッチェルランドとリタルダンドを頻繁に繰り返した第4楽章もエネルギー感充分だ。
 難点といえば、第3楽章でのティンパニがあまりに乱暴すぎることと、第4楽章最後の昂揚したコーダでテュッティが混濁し、主題の明晰さが失われたこと。
 でも、総合的には良いブルックナーだった。

 終演後の楽屋で、「第1楽章は、昔より随分テンポが遅くなりましたね」とマエストロ飯守に尋ねたら、苦笑しながら「宗教性より官能性に傾いてしまうんだよね、どうも最近は」と、意味シンな答え。
      

8・9(日)広上淳一指揮 京都市交響楽団 ロシア・プログラム

  京都コンサートホール

 先日、京都で大野和士が客演指揮した定期を聴きに行ったばかりだが、京都の「古都百話」さんから「ぜひシェフの広上のホームゲームを聴くべし」とのコメントを頂戴したこともあって、それではと再度遠征した次第。
 広上=京響はつい最近、東京公演でも聴いたが、このホールで聴くのはこれが初めて。今回も聴き応え充分だった。聴いた席は17列ほぼ中央の位置。

 ロシア・プロ。チャイコフスキーの「スラヴ行進曲」が、予想外にすっきりした軽い響きで始められた。抑制気味の音楽が次第に轟然と盛り上がって行くあたり、広上の設計もなかなか巧いものだと思う。

 プロコフィエフの「ヴァイオリン協奏曲第2番」でソロを弾いたのは、19歳の黒川侑。彼のコンチェルトに接するのはこれが3度目になるが、聴くたびに成長しているのが感じられてうれしい。音色の美しさと、しなやかに歌い上げる情緒感は出色のものだ。芯の強い逞しさや演奏の陰翳は、まだこれからだろう。表面的な美しさや技術でなく、精神の奥底から沸き上がって来る音楽を、ヨーロッパでよく会得して来て欲しいもの。

 後半の2曲は、まさに広上=京響の本領発揮――ではなかろうか。
 ラフマニノフの「パガニーニの主題による狂詩曲」では、頂点へ向けてたたみかける勢いが凄まじい。
 ソロを弾く河村尚子も、最初の和音の一撃から黒川少年とはケタが違うというか、場数を踏んだプロの演奏というイメージを感じさせる。本当にこの人は「大型新人」と呼ばれるにふさわしい。ピアノの音色が妙に乾いて薄手に聞こえたが、これはホールのアコースティックのせいか、聴いた席の位置のせいか、でなければ楽器のせいか?
 いずれにせよ、彼女の音色は、もう少し厚みがあるはずである。しかしその力感あるソロあればこそ、オーケストラもあれだけ豪壮に鳴りわたることが出来たのだろう。

 プログラムの最後は、チャイコフスキーの「イタリア奇想曲」。冒頭のトランペットと、それに続くホルンがいい音だ。あれだけ色気のある音色のラッパは、日本のオケの中でも稀ではなかろうか。演奏全体は非常にシンフォニックで、それゆえ少し重ったるいが、弦のトレモロが緊張感を高めて行く呼吸などはすばらしい。

 アンコールは、何故か大河ドラマ「天地人」のテーマ。広上が何事か延々と説明していたが、マイクなしの喋りだったため、何だかよく解らず。この曲、ティンパニのリズムをもっとスタッカートでパンチを強くして演奏しないと、陣太鼓的な迫力が出ない。
      

8・8(土)幕間閑談 「マエストロ、それはムリですよ・・・」の続篇

 7月24日の山響定期の会場で飛ぶように売れていた「マエストロ、それはムリですよ・・・」は、飯森範親と山響の奮闘をドキュメントにした本。
 サッと読める本だが、なかなか面白い。両者の魅力が生き生きと伝わって来て、このコンビの演奏をまた聴きに行こうと思わせられるような雰囲気にあふれている。出版はヤマハ。

 ただ、こういう「面白く書かれたドキュメント」がとかく陥りやすいのは、その指揮者がオーケストラへ如何に大きな刺激を与えたかを描くあまり、それまでのオーケストラが如何にダメ集団で、事務局長は如何に気弱で消極的な人間であるかという、ヒール的な役割を作り出してしまうことだろう。
 幸いこの本は、そういった危険性を巧みに避けて書かれているが、それでも所々にその「構図」が顔を覗かせないでもない。

 読み手の中には、その陥穽に嵌ってしまう人もいるだろう。某雑誌の書評にある「山形交響楽団はこうした当たり前のことが出来ていなかった。『常識』を持ち込んだ飯森に、必死で応える事務局やオーケストラの・・・・」という一文などは、その最たる例だ。
 山響のS事務局次長はオトナだから、そんなことに目くじら立てる人ではなかろうが、それでも内心では、穏やかならざる気持になることもあるに違いない。彼は彼なりに、長年努力して来ていたわけだから。

 以前、ある指揮者が地方オーケストラで「オール武満プロ」をやろうと提案し、事務局長が「それではお客が入らない」とマッサオになったのを、強引に押し切って大成功を収めた――という談話だったか記事だったかを読んだことがある。
 私は、当の事務局長なる人をよく知っている。彼は70年代に東京から優秀な楽員を何人か引き抜いてオケを強化していたことでも知られた人で(私は彼に「人買い○○」と綽名をつけたほどだった)、企画にも意欲的だったから、「マッサオになる」はずなどないのである。
 これなども、一人の功績を持ち上げようとするあまり、その他の人々を旧弊なダメ人間として設定してしまう、好ましからざる一例であろう。

 「改革」とは――上杉謙信ではないが、「天の時、地の利、人の和」で、全てが揃ったときに初めて実を結ぶものである。優れたリーダーの存在は不可欠だが、彼一人の力のみによって成就するものではない。
 ゲルギエフがキーロフ・オペラを改革できたのも、その例に漏れない。そこに彼の卓越したリーダーシップがあったことはいうまでもないが、その前にはテミルカーノフが積み重ねた成果があり、またペレストロイカという国家の大変化もあったことを見逃してはなるまい。

8・5(水)フェスタミューザKAWASAKI 9日目
広上淳一指揮 日本フィルハーモニー交響楽団

    ミューザ川崎シンフォニーホール

 夜8時開演で、1時間前の7時からプレトークがあると予告されていた。誤植ではないかと思いつつ、試しに7時10分頃ホールに行ってみたら、本当にもう始まっていた。広上自身が司会して、今日出演する合唱団とその指揮者・中島良史を紹介し「ハレルヤ・コーラス」を歌ってもらい、曽根麻矢子を紹介してチェンバロを弾いてもらうという趣向。7時40分までサービスしていた。曽根が弾いた曲はスカルラッティの作品を自ら編曲したものだそうだが、いい曲だった。

 本番のプロは、ハイドンの「テ・デウム」、バッハの「ブランデンブルク協奏曲第5番」、メンデルスゾーンの「イタリア交響曲」。コーラスあり、ソリストありの選曲。

 「テ・デウム」のコーラスは、東京は恵比寿のガーデンプレイスクワイヤ。もう少し歌詞の発音にメリハリをつけ、リズム感を出して歌ったらどうだろう。
 バッハでのソロは曽根麻矢子、高木綾子(フルート)、江口有香(日本フィルのコンサートミストレス)。小編成のオーケストラともども清透な演奏だ。

 「イタリア」は、出だしなど極めて快かったが、アンサンブルは段々粗くなる。まあ、サマーコンサートだから、あまり多くを求めても仕方がないか、とは思いながらも。
 広上の指揮する姿は例のごとくだが、第3楽章などでは、まるでスコアのエスプレッシーヴォをそのまま表わしたような身振りだ。もしオーケストラが、彼の腕の動きにぴったり反応して演奏できたら、それはまさに作品にふさわしく、表情豊かに揺れて息づく音楽になるだろう。

 アンコールはバルトークの「ルーマニア民俗舞曲」からの「角笛の踊り」で、ここでも江口有香が活躍。日本フィルはいい女性コンサートマスターを手に入れたと思う。

 今夜も天辺の4階正面で聴く。ここから視角に入る天井は殺風景極まる光景だが、音は豊麗に聞こえる。ブラヴォー族もいる。熱心なお客がいるフロアの雰囲気はいいものだ。
      

8・4(火)バーンスタイン:「ウェストサイド・ストーリー」

   オーチャードホール (マチネー)

 初演(1957年)50年を記念して制作され、2007年にウィーンでプレミエ、今年(2009年)3月からブロードウェイのパレス劇場で上演され始めたプロダクションの由。
 これは、オリジナルの脚本家アーサー・ロレンツ(今年91歳)が演出、振付師のジョーイ・マクニーリーが舞台演出と振付を担当したもので、しかもオリジナル演出・振付のジェローム・ロビンスのコンセプトにもかなり忠実であるらしい――「らしい」と言ったのは、このジャンルのプログラムの解説の常で、詳しくない者にとってはどうもよく解らない書き方が多いからである。

 音楽監督と指揮は、この曲を「すでに2千回以上も指揮しているというドナルド・チャン。オーケストラは大部分が日本人奏者で編成されているが、リズム感の明快なこの演奏は、悪くない。

 トニーとマリアは――今日はダブルキャストのうちのBキャストにあたるのか、トニー役のスコット・サスマンは発声に無理と野暮ったさが著しく、演技も地味で硬く、舞台ではほとんど目立たない。マリア役のケンドール・ケリーも声はともかく、演技には素人っぽさが残る。
 やはりシングルで出ているベルナルド役のエマニュエル・デ・ヘスースと、アニタ役のオネイカ・フィリップスが、これはもう儲け役の強みもあって、存在感も強い(しかしこういった出演者たちを見ると、あのジョージ・チャキリスが如何に素破抜けたキャラクターであったかということを、改めて思わざるを得ない)。

 スピーディなダンスとセリフと演技、スクリーンに映写されるマンハッタンの光景を背景に大道具(骨組みの建物)を移動させつつ迅速に転換される舞台など、さすがの手際よさだ。
 ただ、出演者たちの大熱演にもかかわらず、どこかにまだ隙間が多く、作り物めいて自然さに不足する舞台という印象を拭いきれないのは、やはり臨時編成のプロダクションのせいなのだろうか? このキャストの詳細についてはよく解らないけれども。

 だがこんな不満があったとしても、もしPAの音が美しければ、私も充分満足したに違いない。とにかく、何というPAの音色の悪さ、無神経な音のバランスであろう。最初の頃は音色もバランスも悪くないと思われたが、第1幕の途中から突然酷い音になってしまった。こういう音には、とても耐え切れない。
 こう見えても私だって、ブロードウェイの劇場でミュージカルを観たことは何回かある。あそこでは声もオーケストラも、もっと柔らかい、大きすぎない、自然な音だった。日本でも札幌のPMFの野外演奏会などでは、あのウィーン・フィルのシュミードルも感心したほど、実に自然な、きれいな音が聴けるのである(今年はどうだったか知らないけれど)。

 とはいえこの「ウェストサイド・ストーリー」は、ドラマも音楽も、やはり強烈だ。特に物語の面では、移民と人種的対立の問題がある限り、身につまされるものがあろう。

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