2017-06

7・29(水)
マイケル・ティルソン・トーマス指揮PMFオーケストラ東京公演

   サントリーホール

 マイケル・ティルソン・トーマスの指揮姿を見るのは久しぶりだ。長身でスマートな身のこなしは昔ながらだが、歩き方に少し年齢を感じさせるようになったか。
 彼は、90年代の10年間、PMFの芸術監督を勤めていた。この音楽祭が今も継続され、盛況であることを目の当り見て、さぞ満足に思っていることだろう。

 そのティルソン・トーマスが、マーラーの「交響曲第5番」を指揮した。札幌での2回の公演、大阪公演、東京でのスポンサーのためのクローズド公演に続いて、今日が5回目の演奏になるはず。そしてこれが今年のPMFの最終公演でもある。

 場数を踏んだ演奏は、圧倒的なものがあった。1番トランペット(女性)の音色の輝かしさと、ホルン群の豊麗さとを筆頭に、各管楽器奏者のソロも生き生きとして歌い躍動する。弦楽器群もブリリアントな音色で壮麗に歌う。
 この、実にしなやかな動きで晴れやかに突き進んでいくオーケストラの演奏を聴きながら私は、ティルソン・トーマスがかつて語った「指揮者が圧制を行なうのでなく、むしろ各パートが自主性を以て演奏し、指揮者とオーケストラ全体がそれについて行くくらいの演奏こそが、音楽に生命感を生み出すのだ――」という言葉を思い出していた。多分、今夜の演奏は、彼にとってその理想に近いものだったのではなかろうか? 

 長大な第3楽章も、盛り上がると思わせては退いて行く第5楽章も、全くだれることがない。安定したテンポも含め、全曲を完璧なバランスで統一することに成功した演奏でもあった。18型の大編成オーケストラには、些かの乱れもない。
 これは、近年のPMFオーケストラの演奏の中では、自在感と均衡とを併せ持つ点において、ゲルギエフの指揮で演奏したチャイコフスキーの「第5交響曲」に並んで優れたものだったといえよう。

 こうしたPMFオーケストラの演奏を聴くと、先日札幌でシエン・ジャンの指揮で聴いた演奏は、一体何だったのかという気がする。やはりあれは、相性の問題だったか。それとも指揮者の格の違いにアカデミー生たちがなめてかかったか、あるいは音楽祭期間中の中だるみだったか――。

 なおマーラーに先立っては、ティルソン・トーマスの自作「シンフォニック・ブラスのためのストリート・ソング」という15分くらいの長さの曲が演奏された。ホルン・トランペット各4、トロンボーン3、テューバ1という編成の作品である。金管楽器奏者たちの腕の冴えを示す曲としては絶好だろう。

7・28(火)フェスタサマーミューザKAWASAKI 3日目
下野竜也指揮読売日本交響楽団のワーグナー

   ミューザ川崎シンフォニーホール マチネー

 川崎のフェスタでも、平日のマチネーだとこうなってしまうのか、5割程度の入りというのは寂しい。
 15,6人しかいない4階席の正面でじっくり聴いた。ここはなかなか音が良い。細部は飽和的な音に響いてしまうため批評には向かないけれども、のんびり聴くには絶好の場所だ。

 全ワーグナー・プロで、「ニュルンベルクのマイスタージンガー」第3幕前奏曲と第1幕前奏曲とを前後に置き、真ん中に「タンホイザー」序曲、「ジークフリート牧歌」、「神々の黄昏」からの「ジークフリートの葬送行進曲」(プログラムには「ジークフリートの死」も掲載されていたが、そこは演奏されなかった)という組み合わせ。
 読売日響は持ち前の分厚い豪壮な響きで――こういう音が出せるのは、日本ではこことN響だけだ――最後の2曲と、アンコールの「ワルキューレの騎行」では、ホールをいっぱいに轟かせた。

 ただ、下野の採ったテンポは、極度に遅い。
 遅いこと自体は悪くはないが、緊迫感と表情の変化に欠けるきらいがあるのが問題であろう。
 「タンホイザー」序曲では、全体がただ暗く重い流れに終始してしまう。そのため、「巡礼の合唱」の動機と、官能のヴェヌスブルクの世界との対比が明快に描かれないという結果になる。
 また「ジークフリート牧歌」は、舞台の山台を「階段」に見立てて17人の奏者を斜め縦列に並ばせ(初演の際のエピソードを参考にした凝ったアイディアだ)、照明を落し、インティメートな雰囲気を舞台上に作って演奏したのはいいが、ここでも各動機のニュアンスが淡彩ゆえに、ハインツ・レーグナー並みの遅いテンポが生きて来ないのである。

 「葬送行進曲」では、この遅いテンポが良い効果を上げており、「死の動機」がディミヌエンドする個所でも重厚なリズム感で成功していた。「遅い」のではなく、むしろこれがこの曲の理想的なテンポであろうと思う。
 ただし欲を言えば――エンディングがティンパニの一音のみだったのには拍子抜け。全曲楽譜にこだわりすぎたのか。せっかく演奏会用の版があるのだから、それを使って終結感を出した方が聴き手には充足感を与えたろうに。

7・27(月)フェスタサマーミューザKAWASAKI 2日目
チョン・ミョンフン指揮東京フィルハーモニー交響楽団のブラームス

   ミューザ川崎シンフォニーホール

 すでに東京でも2回演奏したはずの、ブラームスの交響曲の「第1番」と「第2番」を組み合わせたプログラム。

 事実上の18型弦に、倍加の木管群。この大編成を駆使しての、重厚な響きと悠然たるテンポによる巨大な風格のブラームス。力感や音の厚みと翳り、盛り上がりなど、チョンの指揮には流石のものがある。
 が、チョンの指揮にしてはオーケストラには多少の緩みが感じられなくもなく、同じブラームスでも4月の「ピアノ四重奏曲第1番」(シェーンベルク編)での、何かにとり憑かれたような演奏とはだいぶ違った。

 所用のため、後半の「第2番」は聴かずに失礼する。客席は昨日と同様、ぎっしりと埋まっている。

7・26(日)フェスタサマーミューザKAWASAKI初日
ユベール・スダーン指揮東京交響楽団のモーツァルト

  ミューザ川崎シンフォニーホール

 「オーケストラ夏の大祭典」と銘打ったフェスティバルが今年も開幕。「首都圏で活躍する9つのオーケストラ」および洗足学園音大や昭和音大のオーケストラの演奏会を中心に8月16日まで行われる。オープニング・コンサートは、ホスト・オーケストラたる東京交響楽団。音楽監督スダーンの指揮で、モーツァルト・プログラム。

 冒頭のレオポルド・モーツァルト(伝)の「おもちゃの交響曲」では、川崎市立登戸小学校の生徒たちがおもちゃの楽器で微笑ましく共演した。東響の首席トランペット奏者アントニオ・マルティも小さいラッパで参加したが、事務局から聞いた話では、その楽器はスダーンが昔吹いていた楽器(!)を大金かけて修復したものだそうな。
 子供が参加しているから、軽い演奏で片づけるのかと思ったら、なんと驚くほど正面切った、大曲のごとき毅然たる音楽づくりで押して行った。これこそがスダーンの本領であろう。

 そのあとの、W・A・モーツァルトの「ピアノ協奏曲第27番」(ソロは菊池洋子、素晴らしい)と、交響曲「ジュピター」でも、スダーンは一音符も疎かにしない緻密な音楽のつくりで、東響とのコンビの変わらぬ快調ぶりを余すところなく示していた。
 特に「ジュピター」は、小気味よく引き締まった響き、些かも隙なく揺るぎない構築、瑞々しい旋律美、明晰な動きを聴かせる内声部など、完璧とも言える演奏であった。これはライヴ・レコーディングされてもよかっただろうに。

 アンコールでの「フィガロの結婚」序曲は、「ジュピター」よりはやや自由な雰囲気ではあったが、それでもスダーンらしく丁寧なつくりである。
 客席は文字通り満杯。かなりの吸引力である。このような良い演奏を初日に聴いたお客さんは、フェスティバル期間中に必ずやまた聴きに来ることだろう。

7・25(土)東京芸術劇場シアターオペラⅣ
プッチーニ:「トゥーランドット」 

   東京芸術劇場 マチネー

 朝7時12分の山形新幹線に乗り、9時44分東京駅着。

 茂山千之丞演出によるセミ・ステージ形式上演で、大道具はなく、演技よりも照明で切り回す。ただし衣装はかなり凝っている。
 オーケストラ(読売日響)は、チェロ(6)とヴィオラ(8)が横一列で舞台最前方に上っている他は、舞台手前の客席の前方数列を潰して配置されており、井上道義の指揮で非常に豪快に鳴り渡っていた。

 歌手ではタイトルロールのマリアナ・ツヴェトコヴァが、昨年ソフィア国立歌劇場の日本公演でも歌っていた時(10月4日)と同様、物凄い馬力で引っ張る。リューを歌った小林沙羅が極めて美しい声で、最後の「氷のような姫君の心も」を情感こめて聴かせてくれた。
 カラフはアレクサンドル・バデアというテノール。ちょっと変わっている。合唱は新国立劇場合唱団とTOKYO FM少年合唱団。

7・24(金)飯森範親指揮 山形交響楽団

   山形テルサホール

 暑い京都から、これまた暑い山形に移動。
 音楽監督・飯森範親の指揮で、今回はブルックナーの「第3交響曲」である。

 弦はこれまでと同様、10型(10・8・6・6・4)である。この編成で初稿版を聴くと、なかなか面白い。
 ブルックナーはこの曲で、よくもまあと思われるほど各パートのリズムをずらしながら音楽を作っているが、これが「あまり大きくない」10型編成の弦で演奏されると、その「リズムのずれ」の奇抜さ、意外さが、16型編成で演奏されるよりも、すこぶるあからさまに浮かび上がって来る。
 しかも飯森はアンサンブルを綿密に構築し、室内楽的な精緻さを以てアプローチを行なっているため、ますますその性格が強調されるのである。

 それに加え、この初稿版におけるブルックナーの、ある意味で放縦な、流れを無視した楽曲構築の特色が、大編成の弦で豊麗に演奏された時よりも遥かにリアルに浮き彫りにされ、それが独特の愉しさを感じさせることにもなる。
 こういう演奏を聴くと、この1873年版がいかに荒削りな構成の作品であるか、それゆえのちに作曲者が改訂に踏み切ったのも無理はない、ということを再認識させられる。そしてその一方では、改訂された最終版があまりに要領よく纏められており、野性味と無邪気さと面白味に欠けるものになっている、とも痛感させられる結果になるのであった。

 だが問題がないわけではない。周知の通りこの800席ほどのキャパシティのホールは、それほど長い残響は持っておらず、オーケストラはかなりドライな響きになる。それゆえ、ブルックナーが呆れるほど多用している長いゲネラル・パウゼ(総休止)が、非常に乾燥したイメージになってしまい、音楽の流れがスムースさを欠くという印象にもなる。ブルックナーはやっぱり風変わりな作曲家だな、という思いがますます強くなる。
 ただし前述のように、それを肯定的に聴くという面白さもあるわけだが。

 山形響は今回も緻密で正確な熱演を聴かせてくれた。弦もいいし、木管もいい。ホルンの3番、4番だけがどうも不安定なのが気になる(またこの曲では、それが目立つ作りになっているのだ!)が、トランペットもトロンボーンも好演である。

 なおプログラムの前半では、バルトークの「ヴィオラ協奏曲」(2003年校訂版)が、清水直子をソリストに迎えて演奏されたが、こちらはもう、見事と言う外はない快演であった。清水のソロが強靭で明晰、全曲息を呑ませるばかりの緊迫感に満ちていたのはもちろんだが、飯森もオーケストラも雄弁そのものである。
 バルトークのスケッチをもとに校訂者が纏めたこの作品は、もしかしたら最晩年のバルトーク本人を飛び越えてしまい、いろいろな意味で「現代音楽」的な世界に入ってしまっているような――という感を与えることが時たまあるが、今夜もそういう思いを起こさせる、鋭く、しかも快い演奏であった。

 終演後、ロビーではいつものように、飯森やソリストとファンの交歓会が行なわれる。そのあとは「マエストロ、それはムリですよ・・」という表題の、彼と山響の挑戦について書かれた本のサイン会。

7・23(木)大野和士指揮 京都市交響楽団

  京都コンサートホール

 品川から「のぞみ」に乗れば、2時間14分で京都に着く。そこから地下鉄烏丸線で約15分、北山駅で下車すると、京都コンサートホールはすぐ近くに在る。
 このホールを訪れたのは、実は今回が最初。建物の中に入ってから大ホールの受付に辿り着くまでに何だかエライ距離(?)があるが、すこぶる立派なホールだ。ロビーから見ると、隣接して森の木立がある。こういう自然環境は羨ましい。

 大阪の批評家や新聞記者たちは、関西で最近「演奏の状態」が一番いいオーケストラは「京響」だ、と口を揃えて言う。なるほど今夜の演奏を聴くと、それも納得できるような気もする。もちろんこれまでにも、大友直人や広上淳一の指揮する東京公演で京響の壮麗な響きは承知していたが、オーケストラというものはやはりホームグラウンドのホールで演奏を聴いてみないと、なかなかその素顔は判らないのである。

 で、今日は大野和士が客演指揮。会場は満席だ。
 冒頭に若杉弘氏を偲んでバッハの「管弦楽組曲第3番」からの「アリア」を演奏。次いでラヴェルの「ラ・ヴァルス」と「マ・メール・ロワ」組曲、ショスタコーヴィチの「交響曲第5番」というプログラムを披露した。
 1階席15列中央で聴いた印象では――といちいち断るのは、このホールの音響特性が席の位置でどう変るかまだ呑み込めていないからだ――オーケストラをあまり開放的に鳴らすことなく、むしろ室内楽的な精緻さを重視し、叙情的な側面を表情豊かに打ち出すことを狙った演奏であったという気がする。

 もちろん、ただ美しく流していたという意味ではない。
 「マ・メール・ロワ」の「妖精の園」など弦の清澄な音色がとりわけ魅力的だし、「美女と野獣」での描写音楽的性格が起伏豊かに描き出されるところなど、さすがオペラに卓越している大野だけあって、巧いものだと思う。
 また、豪壮さを抑制した「ラ・ヴァルス」では、洒落っ気とか、コーダに向けての加速とかにはちょっと物足りなさもあったけれど、ラヴェルが求めたであろうパロディ的な荒々しい挿入句(デュラン版練習番号61の前のチェロとコントラバス他)など、ていねいに作られていた。

 ショスタコーヴィチの交響曲でも同様、第3楽章の叙情性は見事だったし、また第4楽章最後の昂揚部分のテンポも速からず遅からず中庸を得て、きわめて納得の行く演奏であった。全曲を通じて悲劇的な感覚を備えた――彼自身がプレトークで語っていたように、「内省的な」性格を強く打ち出した演奏だったという感がある。大野は、本当にますます素晴しい指揮者になって来た。

 京響は、「ラ・ヴァルス」の終わり近くから、みるみる瑞々しく、豊麗な音色になって行った。ラヴェルでは木管の一部にやや物足りなさを感じさせたところはあったが、全体に表情も生き生きしていた。
 もう一つ感心したのは、演奏終了後、拍手に応える楽員たちの顔が、実に明るいこと。オペラでならともかく、コンサートのあとのカーテンコールでこんなに笑顔が多いオーケストラ――特に木管の女性奏者たち――は、日本では他に見たことがない。拍手を贈っても張り合いがある。N響のように、いつも「今の演奏、そんなに良かったですかねえ」という顔をされていては、こちらの気持も萎えてしまいますからね。

7・21(火)若杉弘氏逝去

 夜、産経新聞社からの電話で知る。落胆、暗澹たる気持だ。
 思えば昨年6月29日、新国立劇場中劇場で「ペレアスとメリザンド」を聴いたのが、氏の指揮に接した最後の機会になってしまった。あの時既に、カーテンコールでは歩くのもやっとという様子で、舞台中央にも出ず、袖近くに立って挨拶するという、見るからに痛々しい姿であったが――。

 若杉氏ほど、オペラや大規模な声楽作品を数多く日本初演した指揮者は、かつていなかったろう。60年代半ば以降、読売日響とシェーンベルクの「グレの歌」やペンデレツキの「ルカ受難曲」、ベルリオーズの「カルタゴのトロイ人」(「トロイ人たち」第2部、演奏会形式)、ヘンデルの「ジュリアス・シーザー」、ワーグナーの「パルジファル」「ラインの黄金」などを次々に日本初演していた氏の颯爽たる姿が、私にとってはつい昨日のことのように感じられる。
 東京都響時代にも、マーラーの交響曲ツィクルスに際して初稿版などを織り込み、かつマーラーと同時代の作曲家によるめずらしい作品を組み合わせたりして、常に一味違ったプログラミングの面白さで私たちを惹きつけていたものであった。

 「根っからの劇場人」と自他共に許す若杉氏は、本番前に舞台近辺を一回りすれば、今日は本番で「この壁が倒れそうだな」とか「舞台の灯りが故障して点かなくなるんじゃないかな」というように、「事件」がカンで予想できたと言う。
 ドイツと日本でのその長い劇場経験を生かして、新国立劇場オペラ部門芸術監督としても思い切り手腕を振るっていただきたいというのが私たちの願いであったのだが――任期半ばで他界されようとは。
 氏が芸術監督に就任して以来、新国立劇場のレパートリーがどれほど拡大したかは、誰もが認めるところであろう。せめてあと数年、氏が芸術監督の地位に留まることができたなら、新国立劇場のオペラはどれほど多彩になることだろう。そう思えば、氏の逝去はあまりに早すぎた。日本のオペラ界が若杉氏に恃むことは、まだ限りなく多かった。

7・20(月)小澤征爾音楽塾オペラ・プロジェクトⅩ
フンパーディンク:「ヘンゼルとグレーテル」 

  神奈川県民大ホール (マチネー)

 一昨年の「カルメン」、昨年の「こうもり」(再演)に続き、シリーズ第10回の今年は「ヘンゼルとグレーテル」になった。
 指揮はもちろん小澤征爾、オーケストラは豊嶋泰嗣をはじめ名手たちがコーチとして加わっている若手集団「小澤征爾音楽塾オーケストラ」。

 今日は初日だが、オーケストラの出来は、未だゲネプロ段階といったところ。金管(特にホルン)など、アンサンブルとしての体裁には遥か遠いレベルだ。東京公演(23日)までには何とかなるのだろうか? 
 小澤さんの指揮は、序曲で内声部を浮かび上がらせるなど、所々に新鮮な部分も聴かれたけれど、もっとオーケストラに豊麗なふくらみを持たせた音色で、作品の性格にふさわしく、ロマンティックに、夢幻的に響かせられないものかと思う。
 父親ペーターが浮かれる個所や、魔女の騎行のところ、最終場面で一同が大喜びする個所など、テンポもリズムもあまりに重い。もっと音楽に沸き立つような躍動感が欲しい。

 演出担当は、またいつものデイヴィッド・ニースだ。無為無策のこの舞台はもう、何をか言わんやである。
 メルヘン的舞台を狙うなら、それはそれで悪いことではない。が、出演者たちが手持ち無沙汰で、何となく場を繋いでいるような光景(最たるものは、魔女を退治したあとの、お菓子の家の前でのヘンゼルとグレーテルの行動だ)を見ると、いまどきこんな演出がまかり通るのかと情けなくなってしまう。彼の起用を続けている限り、小澤プロデュースのオペラ・シリーズはメジャーにはなれないだろう。

 歌手陣には、アンゲリカ・キルヒシュラーガー(ヘンゼル)、カミラ・ティリング(グレーテル)、ロザリンド・プロウライト(母親)、ヴォルフガンク・ホルツマイヤー(父親)、モーリーン・マッケイ(眠りの精&露の精)ら、手堅い顔ぶれが揃う。
 特にグラハム・クラーク(魔女)の一癖ある歌唱と演技は、この平板な舞台にちょっとしたタガを注入した(声だけ聞いていると、ミーメかローゲがいるような気がして可笑しい)。最近はこの魔女を男性歌手が演じる手法が多いらしい。
 ――だが、みんな歌はいいけれども、演出がああいう代物では、演技のし様がないだろう。

7・18(土)第20回PMF シエン・ジャン指揮PMFオーケストラ

  札幌コンサートホールkitara
 
 昨年東京交響楽団に客演指揮した際には「シャン・ジャン」、今年のPMFの事前資料では「シャン・ザン」と表記されてきた中国出身の若手女性指揮者。来日してからのご本人の要望により「シエン・ジャン」に決まった。漢字で書けば「張弦」である由。
 今秋からミラノのジュゼッペ・ヴェルディ交響楽団の音楽監督への就任が決まっている、いわゆるライジング・スター指揮者の一人である。

 彼女シエン・ジャン、昨年4月26日に東京交響楽団を指揮した演奏が非常に歯切れよく活気にあふれていたので、私は大いに注目し、彼女に期待する一文を今年の「PMFニュース」に寄せ、札幌まで聴きに来たのだが――何の要因によるものかは解らないけれども、今日の演奏のイメージはだいぶ違った。

 最初の曲目、アンドレ・ワッツをソリストに迎えた「皇帝」では、彼女はオーケストラに比較的軽やかで明晰なアプローチを求めていたものと思われる。が、引き出された音は、アンサンブルの上でも、個々のソリの面でも、何か手探り状態で、隙間の多い演奏という印象を拭い切れなかった。

 「ラ・ヴァルス」と「火の鳥」組曲でも同様で、特にこの2曲の演奏ではぎりぎりの最弱音が多用されていたが、それらは――劇的なデュナーミクの対比を創り出す点では効果的だったものの――単なる物理的な音量の減衰にとどまるのみで、音のふくらみや余情を感じさせるピアニシモにはなっていないのだ。このため音楽全体がむしろ痩せたものと化し、活気やエネルギーを失わせる結果を招いてしまう。
 たとえば「ラ・ヴァルス」冒頭の「渦巻く雲の中から舞踏会の光景が見え始める」部分など、あの不気味に胎動する音楽が次第に光明を増して一気にクレッシェンドして行くはずの流れが聞かれない。いつまでたっても音楽が逡巡しているような気分に陥らせるのである。
 また「火の鳥」終わり近く「子守唄」からフィナーレに移って行く個所での念入りな弦の最弱音も、もっと緊迫感が備わったものであったなら、と惜しまれる。

 しかしその一方、「火の鳥」の「魔王カスチェイの凶悪な踊り」や、フィナーレの「夜明け」でトランペットが華麗に高鳴るような個所では、PMFオーケストラは解放感いっぱいという雰囲気で、すばらしい躍動を聞かせる。その時にはシエン・ジャンの指揮も、張りのある魅力を生み出すのであった。

 もしかしたら、彼女とオーケストラとの「相性」という問題もあったのだろうか。オーケストラが成熟しておらず、強力なカリスマ的指揮に頼らなければ纏まれない状況にある時には、彼女の指揮は真価を発揮できないのだろうか?
 昨年の東響との演奏がなかなか印象深いものであっただけに、今夜の演奏だけを聴いて云々するのも早計かとも思う。

 久しぶりに聴いたワッツのピアニズムは、以前にも増して細身で軽いイメージのものであったが、この音色は、むしろ使用楽器によるところが大きかったのではないかという気もする。特に高音域の潤いのない痩せた響きは、ワッツ本来のものではあるまい。いずれにせよ、雄大さ、拡がり、馥郁たる和声美や旋律美といったものからは遠く、さりとて何かを新しく発見させたとも言えない演奏の「皇帝」であった。

 人気のアカデミー生のオーケストラ――PMFオーケストラの演奏会は、まさに満席の盛況である(前夜とはエライ違いだ)。
 先週のPMFオーケストラの演奏会は、クリストフ・エッシェンバッハが指揮した。来週はマイケル・ティルソン・トーマスが指揮する(マーラーの「5番」他)が、その一般公演は27日に大阪、29日に東京でも行なわれる。

 なおもう一つ、PMFは今年の「第20回」を記念して、絵葉書セット(20枚)とオリジナルフレーム切手(80円×10枚)なるものを制作した。私も1セットずつ手に入れたが、Tシャツの絵柄にもなっているデザインの葉書はともかく、野外ステージやキタラでの演奏会の写真などが図柄に利用されているちょっとめずらしい切手の方は、使うのが何となくもったいない。
 

7月17日(金)第20回PMF  高関健指揮札幌交響楽団

   札幌コンサートホールkitara

 札幌交響楽団は、今年のPMF(パシフィック・ミュージック・フェスティバル 7月4日~29日)では「PMFウェルカム・コンサート」(5日)、「札幌交響楽団特別演奏会」(17日)、「ピクニック・コンサート」(26日)の3演奏会に出演している。10年ほど前までは犬猿の間柄だった両者が今やこのように比較的親密な関係を築いているというのは、札幌の音楽界にとっても慶賀の至りだ。

 今日のプログラムは、クロンマーの「2つのクラリネットと管弦楽のための協奏曲変ホ長調Op.91」、レーラ・アウェルバッハの「弦楽四重奏と室内オーケストラのための《Fragil Solitudes》」、バルトークの「管弦楽のための協奏曲」という、かなり個性的なもの。
 しかもクロンマーでのクラリネットのソリにはペーター・シュミードル(ウィーン・フィル)とマンフレート・プライス(ベルリン・フィル)、また新作の弦楽四重奏には東京クヮルテットが協演するという豪華な顔ぶれである。指揮は、札響正指揮者の高関健。

 慶賀の至り――であることは事実だが、しかし今日の札響のさっぱり「燃えない」演奏を聴いていると、このPMFという国際音楽祭の中で札響が果たすべき役割は何なのか、ということにまで思いが回ってしまう。
 札響が厳然と誇示すべきことは、あのアカデミー生のPMFオーケストラに対し、成熟したプロフェッショナル・オーケストラとしての「模範」なのではないかと思うのだが、いかがなものか?

 しかし、少なくとも今日の活気の無い演奏からは、札響が単なる「ゲスト・オーケストラ」としての存在でしかないような印象を与えられてしまうのである。これでは、札幌の音楽界の中核である札響がPMFに出演することの意義が、全く果たされていないのも同然だ。
 もし札響の楽員がこれを単なる「お座敷」としか思っていないのなら、非常に嘆かわしいことである。
 私はこれまで何度も札幌を訪れ、尾高忠明やラドミル・エリシュカらの指揮する定期を聴いては札響の演奏を絶賛して来たし、今夜もそれと同じような期待を抱いて東京からやって来たわけだが、まさかこんな演奏に出会うとは――それも国際音楽祭の中でだ――予想もしていなかった。

 聴衆の中にもそうした気持が以前から拡がっていた、と見るのは早計だろうか? 2階席CB席から見渡して、LA、LB、RA、RB、P席に座っていたお客さんの数は、目分量でも100人足らず。平日の午後6時開演、プログラムの渋さという要素を差し引いて考えても、これではあまりに寂しい。
 それに、今日初めて札響を聴いたお客さんの中に、さすがは札響、また聴きに行ってみよう――と思う人が、果たして何人生まれたであろう?

 アウェルバッハは旧ソ連出身の女性作曲家で、今年のPMFのレジデント・コンポーザーである。今回が日本初演になるこの作品は、非常に多彩な弦の音色の変化を伴った面白い曲だ。弦楽四重奏(東京クヮルテット)の生き生きしたパートが強い印象を与えたのに比較すると、オーケストラ・パートは何か付け足しのようにも感じられたが、それが演奏のせいなのかどうか、軽率な判断は避けたい。

7・16(木)パスカル・ヴェロ指揮
東京シティ・フィルハーモニック管弦楽団

   東京オペラシティコンサートホール

 ヴェロのフランス&ロシアものを久しぶりに聴く。

 ヴェロは、いつからこんなに遅いテンポを採るようになったのだろう。以前はもう少し、爽やかで引き締まった、洒落た軽いテンポで指揮していたように思うが――あるいはこれはこちらの記憶違いかもしれないから、比較についてはこれ以上、口を差し挟まないことにしよう。

 前半はフランスもので、ドビュッシーの「牧神の午後への前奏曲」、ラヴェルの「亡き王女のためのパヴァーヌ」と組曲「マ・メール・ロワ」。
 ヴェロは、いかにも彼らしい均衡と節度と瑞々しい音色を以て、これらを指揮した。「牧神」での清澄な感覚など、見事である。とはいえ、かように基本的に遅いテンポを持った作品ばかりが更に遅いテンポで演奏されると、時に緊張感が保たれにくくなる――特に「パヴァーヌ」の場合、冒頭のソロ・ホルンの不安定さが、演奏の印象を低調にしてしまったこともあって。

 休憩後はリャードフの「バーバ・ヤガー」と、ムソルグスキー~ラヴェルの「展覧会の絵」。前半とは対照的に大爆発――と思いきや、これらも比較的抑制された演奏になっていた。
 客員コンサートマスターの松野弘明がリーダーをつとめたシティ・フィルの弦はなかなか良い響きを聴かせてくれたが――管は、どうも難しい。シティ・フィルが在京8メジャー・プロ・オーケストラの中で際立った個性を発揮して行くには、このあたりの早い整備が不可欠ではなかろうか。

7・13(月)長岡京室内アンサンブル

  浜離宮朝日ホール

 金曜日深夜から咽喉と鼻に違和感を生じ、さてはどこかで新型インフルエンザを?と肝を冷やしたが、熱も出ないし、体の痛みもないし、新型インフルに罹るにはトシを取りすぎているし(?)、それに咽喉炎と鼻炎は子供の時からの持病みたいなもの。とりあえず2日間謹慎、辛うじて治癒。
 しかしこのため、土・日でどうしても聴きたいと思っていた、広上指揮日本フィルの「オックスフォード」、スダーン指揮東京響のシューマン~マーラー編の「ライン」、ボロン指揮東京都響のシベリウスの3本を棒に振った。痛恨の極みだ(モーストリークラシックのH氏の話によれば、12日・大阪のザ・カレッジ・オペラハウスの「イドメネオ」――児玉宏指揮、岩田達宗演出――もすばらしかった由)。

 そこで今日、聴きに行ったのが、長岡京室内アンサンブル。
 結成以来12年というけれども、もうそんなに経つかと思う反面、まだ12年かという気もする。N&FのCDを通じて聴く機会も多かったからであろう。
 ナマで聴いたのは久しぶりだが、指揮者なしの弦楽アンサンブルとしては、これほど滑らかで艶のある、流麗な美しい音色をもった団体も日本では稀だろう、という思いをいっそう強くした。音楽監督&ヴァイオリンの森悠子の統率力は見事なものである。

 舞台照明を落し、雪洞の明かりで演奏した最初のモーツァルトの「アイネ・クライネ・ナハトムジーク」は、全曲にわたり神経を行き届かせ、テンポやデュナミークにも独自の微細な趣向を凝らしたもの。私の好みからすれば少しやり過ぎという感もあったが、一つの解釈としては興味深い。

 通常の舞台照明になった2曲目のメンデルスゾーンの若書きの作品「ヴァイオリン協奏曲ニ短調」では一転して、高木和弘の活気あるソロとともに、開放的な明るい演奏が繰り広げられた。
 この長岡京室内アンサンブルが織り成す音楽は、あくまで流麗であり、リズムもなだらかだ。したがって作品自体も、古典派の作風の影響を受けたものというより、いかにもロマン派時代のものといった性格を強くして再現されることになる。

 休憩後は、まずバーバーの「弦楽のためのアダージョ」で、これもきわめて翳りのない、美しい音色である。この曲について回る「追悼の音楽のイメージ」などというものを払拭して――それがねらいだったかどうかは別として――本来の叙情的な美感を強く打ち出した演奏といえようか。
 そして最後は、ヒナステラの「弦楽のための協奏曲 作品33」。このアンサンブルの各奏者の腕の良さを余すところなく発揮した力演で、一夜のプログラムにおける見事な頂点を築き上げた。

 なお今日のアンサンブルの基本編成は、4-4-2-3-1。

7・10(金)
クリスティアン・アルミンク指揮新日本フィルハーモニー交響楽団
フランツ・シュミット オラトリオ「7つの封印を有する書」

   すみだトリフォニーホール

 こんな滅多に上演されない大作を、経営的に苦しい自主運営オーケストラが、よくまあ取り上げたものだ。しかも、すばらしい演奏だった。

 近代作品を指揮するアルミンクはさすがに鮮やかだし、新日本フィルも弦、管ともに絶好調と思われる。「第2の封印」での反復されるリズムの緊迫感、終結近くの「ハレルヤ」で曲想を煽り立てる弦の上昇句の力感、いずれも見事である。

 増田のり子、加納悦子、吉田浩之ら日本人ソリストも健闘したが、何といってもクルト・リドルの重厚な迫力と、そしてとりわけヘルベルト・リッペルトの巧味のあるヨハネ役が卓越していた。この2人に比肩するだけの人は、今日なかなか得られないだろう。栗友会合唱団の劇的な表現力も、予想をはるかに超えるものだった。

 作品の題材は「ヨハネの黙示録」である。筋書は甚だ不条理なものだ。思想的に共感できない内容を持った作品の場合、それを切り離して、音楽の力だけで最後の{ハレルヤ」で精神的な昂揚感を共にすることができるかどうか、――これはなかなか複雑な問題である。宗教の違いを超えて聴き手の心に訴える力を持つバッハの受難曲のような内容とは、そこが大きく違う。
 演奏時間は正味2時間。7時20分開演で、休憩1回を含め9時40分終演。

7・9(木)ミハイル・プレトニョフ指揮ロシア・ナショナル管弦楽団

   サントリーホール

 東京最終公演はベートーヴェン・プログラム。前半に、意外に端正で抑制された「交響曲第7番」。後半に、プレトニョフ節全開の「交響曲第5番」。
 曲順をこのようにした理由も、演奏を実際に聴けば理解が行く。2曲の演奏の性格を極端に対照づけるのは、あのマゼールもしばしばやっていたことだ。

 「7番」は、経過句のような個所でぐっとテンポを落すような解釈もしばしば試みていたけれど、最近のプレトニョフとしては予想外にストレートな、かつ音量の上でも端正なバランスを保たせた演奏であった。

 が、「5番」に至るや、冒頭の主題からして一つ一つ叩きつけ、しかもテンポとリズムを微妙に動かしながら進める凝った構築を聴かせ始めて、こちらの時差ボケを吹き飛ばす。
 次の音を出すタイミングを僅かにずらせることもあるので、あたかも自動ドアが自分の予想より少し遅れて開き、そのため思わずぶつかりそうになって慌てる時の気持のような――あるいは行進で一歩を踏み出そうとした時に、周囲が未だ歩き出していないのを見て慌てて控えるような、そんな気持にさせられるようなテンポなのである。

 しかし、プレトニョフの音楽を聴いているうちに、この「運命」の第1楽章には、本来その「リズム感の意外性」という性格が備わっているのではないか――ということに気づかされた。
 そもそもあの有名な「運命の動機」にしてからが、最初の音の前に8分音符の休止が付いているという曲者ぶりなのだし、それ以降でも、小節の1拍目で4分音符を叩きつけながら次の小節の頭に8分音符の休止を入れ、ハッと「間」を取るという不安定な要素を、ベートーヴェンは多用しているからである。
 いわばプレトニョフは、そうしたベートーヴェンの、常識的な感覚通りには事を進めない前衛的な性格に着目し、それを強調しているのではなかろうか、ということだ。

 第1楽章コーダでの最後の第1主題の再現の時には、プレトニョフは文字通り全管弦楽を咆哮させた(かつて彼が何かのピアノ・ソナタを弾いた時に、やはり曲の最後で超人的な恐るべきフォルティシモを響かせたのを思い出す)。後半2楽章は、凄まじい急速テンポである。
 第3楽章後半(第245小節以降、あるいは第281小節以降)のチェロのピチカートは、ファゴットと一緒に演奏されるのだが、あんなに豊麗なふくらみを以て響かせられたのは初めて聴いた。まるでファゴットではなく、ホルンが一緒に吹いているような音色だった。プレトニョフの音色創りの感覚、畏るべしである。

 アンコールはバッハの「管弦楽組曲第3番」からの「アリア」だったが、これもストコフスキー編曲版という、何となくプレトニョフらしい選曲。ジャゾット編曲の「アルビノーニのアダージョ」に似た響きで、主旋律をチェロが受け持つ個所など、きわめて華麗多彩な音色だ。

 第3楽章開始後間もなく、上手寄りP席あたり(?)で、馬鹿でかいクシャミを2回も連発した男は、呪われるべきであろう。咳やクシャミは生理現象だから抑えろと言っても無理だが、ふだんから野放図にやっていると、基本的にfffの音量に設定(?)されてしまうものである。
 以前、某若手来日女性ヴァイオリニストが協奏曲を演奏中、客席前方で無遠慮な巨大な咳払いをした老人がいたため、驚いて音を外してしまい、一瞬演奏が止まりかけた事件があったが、今日の一件はそれに匹敵する。今日はオーケストラだからさすがに演奏は止まらなかったが、我々の方は第3楽章前半の印象がフイになった。テレビ収録の方は、どうなったろう?

7.7(火)エクサン・プロヴァンス音楽祭 旅行日記最終日
モーツァルト 「クレタの王 イドメネオ」

   アルシェヴェーシェ劇場

 開演は夜9時40分。
 オリヴィエ・ピイの演出、マルク・ミンコフスキの指揮、グルノーブルのルーヴル音楽隊の演奏。

 序曲の開始直後から幕が上がり、トロイの捕虜(黒人の強制移民グループ)にクレタの軍隊(秘密警察のような集団)が暴行を加える場面から始まる。
 こういう暴力シーンは最近のヨーロッパのオペラ演出における流行みたいだが、私は大嫌いだ。ああいう場面が演じられていると、モーツァルトのすばらしい序曲など、観客の耳に入らないのではなかろうか? 

 しかし、ピイの演出に抵抗感があったのはその部分だけで、その他は実に綿密に丁寧に作られた舞台であった。深夜の正味3時間、いささかも退屈を覚えなかったほどである。
 各キャラクターがアリアを歌う際にも、当人だけが一人で舞台にいるわけでなく、関連のある他の人物が諸々に居てそれに反応するという手法が使われる。これは登場人物の構図を解り易くするのに役立っているし、特にトロイの王女イリア――クレタの王子イダマンテ――アルゴスの王女エレットラの「三角関係」と「女2人の嫉妬」とを、明確に描き出しているだろう。

 ネプチューンは怪異な海神姿で、のべつ姿を現しては槍を振りかざして踊り、イドメネオ父子を威嚇するが、威張って権力を誇示している割には、イドメネオと格闘すれば簡単に叩き伏せられてしまうという、可笑しなキャラである。
 この海神は、てっきり黙役のダンサーだろうと思い、最後にイドメネオを許す「神の声」は誰かが陰歌でやるのかと思っていたら――配役表にも「声」とあったので――いきなりみずから朗々としたバスで歌い始めたのにはびっくりした。

 エレットラは最後のアリアで血を腕や顔に塗りたくり、短剣で自殺する。
 舞台装置は冷たく白色に光るステンレス製か何かの大きな櫓を多数組み合わせる仕組みになっており、その上には群集とともに都市開発計画途次の建物(王子イダマンテはその設計にも熱中している)が並ぶが、それらを乗せたまま黒背広の男たちが力仕事で頻繁に移動させるのだから、全くご苦労なことである。
 ともあれ、舞台は演技・装置ともすこぶる手の混んだ、しかも心理描写を巧妙精緻に織り込んだ造りになっていて、昨夜の「黄昏」とは雲泥の差であった。装置と衣装はピエール・アンドレ・ウェイツ。

 歌手たちは、演技はいいけれど、歌唱力の点では概して平均的水準にある。
 イドメネオ王を歌ったリチャード・クロフトが最も手堅く安定していたが、王子イダマンテのヤン・ボーロン、イリアのソフィー・カルトホイザーは、さほど際立った個性の持主ではない。
 エレットラのミレイユ・ドゥルンシュは見栄えも良い女性で、最近人気も高いと聞くが、歌唱は意外に雑で、最後の怒りのアリアなど、もう少し正確に歌ってもらいたいと思うほどであった。
 容貌魁偉なメイクで映えた海神は、ルカ・ティットートという人。

 ミンコフスキの指揮は、小編成のピリオド楽器オーケストラを適度に劇的に、適度に清涼に響かせてモーツァルトの音楽の魅力を発揮させたが、この人もしばしばテンポを遅い個所で誇張する癖がある。
 今回はカットも全く行わず、第3幕最後のバレエ音楽をも省略なしに演奏した。このオペラ全体を通じてバレエは効果的に使われ、海神の怒り、それに怯えるクレタの民衆などを随所で描いており、したがって最後のバレエも物語全体を要約した内容になっている。

 第1・2幕を続けたあとに休憩が30分。第3幕が始まった時点で既に午前0時。合唱終了時は0時55分で、やれやれ1時前に終ってクレタと思ったのだが、このバレエがあったので、終演は午前1時7分になった(南欧の連中はどうしてこんな時間を組むのやら。8時に開演すればいいものを)。
 これで翌朝6時に起きてマルセーユ空港に向かうというスケジュールはきつい。

7.6(月) エクサン・プロヴァンス音楽祭 旅行日記第2日
ワーグナー 「神々の黄昏」

  エクサン・プロヴァンス大劇場

 午後4時40分、大劇場へ向かう。目も眩むばかりの暑さと日差しである。

 サイモン・ラトルがザルツブルク・イースター音楽祭およびエクサン・プロヴァンス音楽祭でプロデュースして来た「ニーベルングの指環」も、ついに最終作を迎えた。「神々の黄昏」はさる3日にプレミエされ、この音楽祭では4回上演されるが、今日はその2回目である。

 これまでの3作に示されたステファーヌ・ブラウンシュヴァイクの演出が、「指環」としては何ともアイディア不足で閃きに乏しいものゆえに、興味は当然ラトルとベルリン・フィルの音楽に向く。
 今回も、実に圧倒的な演奏が行われた。K01という、かなりピットに近い中央の席で聴いたためもあろうが、各パートの細部における明晰さは過去3作に変らず、全体の響きも作品の性格に応じていよいよ豪壮重厚、かつ巨大なスケール感を増した。

 オケ・ピットから出て来る音でありながら、空間にたっぷりと拡がる豊麗さを備えているところが驚異的である。「葬送行進曲」での巨巌のごとき力感も凄いし、第3幕第1場で波打つライン河を描く弦楽器のうねりも、これまで聴いたことがないほどの見事さであった。
 これだけ瑞々しくふくらみのある美しいサウンドは、オケ・ピットから噴出するものとしては、おそらく世界に3つとないのではないか(私の経験の範囲では、もう一つはドレスデンの歌劇場で聴くオーケストラの音色である)。

 なおこれは休憩時間に知人から聞いた話だが、樫本大進がすでに第1ヴァイオリンのトップサイドに座っていたとのことだ。また、舞台裏で角笛のホルンを吹いていたのはバボラークかドールか知らないけれど、おそろしく上手い。

 ラトルの指揮における、テキストと音楽の見事な一致――そのニュアンスの細やかさには、既に「ワルキューレ」の時から感服させられていたことだが、もちろんこの「神々の黄昏」でも充分に発揮されている。
 ただし、そろそろ気になり始めたのは、彼がハイドンのオラトリオなどの演奏でよく使う、登場人物が「思索にふける場面」や、音楽の弱音の「矯め」の個所で極端にテンポを落とす癖が、ワーグナーの演奏にも際しても現われて来ていることだ。

 それはワーグナーの音楽に極めて微細な表情の変化をもたらす解釈になり、面白いといえば面白いところもある反面、大河のごとき音楽の滔々たる流れがしばしば途中で堰き止められ、楽曲全体のバランスを崩してしまう結果を生むことにもなるのである。
 もっとも、ラトルの場合は、その抑制したテンポが緊迫感を失わぬ域に達している(フルトヴェングラーの域には遠いけれども)ことは事実であり、作品を長すぎると思わせるような危険性を感じさせないのが幸いだ。

 ブラウンシュヴァイクの演出は、「ラインの黄金」以来、平々凡々な舞台が続いて腹の立つことばかりだったが、この「神々の黄昏」に至っては、何かもう演出家としての意欲を失っているのではないかと感じられるくらいである。
 舞台装置がセミ・ステージと言ってもいいほど著しく簡素化されていることはいいとしても、登場人物の演技にほとんど表情が与えられていないのが情けない。特にギビフング一族の群集(ベルリン放送合唱団)の動きの所在無さと来たら――。
 第2幕第1場の夜明けの場にしても、背景のスクリーンにせっかく暁の赤い光が拡がり始めたと思う間もなくそれが消えて暗くなり、その闇に紛れてアルベリヒが退場し、そのあと白色の照明が点いて(朝になり)ジークフリートが下手からスタスタと現われる――何とも味気ない、詩情のない演出である。

 全曲大詰めの場面は以下の通り。
 ジークフリートの遺体が置かれている山台の後方に階段が出現し(「ワルキューレ」第3幕でヴァルハルへの道として使われた階段だ)、そこに尾羽打ち枯らした姿の貧弱なヴォータン(もちろんヴィラード・ホワイトではない)が現われ、為す所なく立ったままブリュンヒルデを眺めている。その階段に炎の映像が単調に映写され、ジークフリートとブリュンヒルデは寄り添って寝たままセリで下がる。ラインの乙女たちが指環を掲げて奈落から現われ、再びそこに姿を消す。ハーゲンが「しばらくして」口惜しそうにあとを追う。炎の映像が投影されている階段にはヴォータンが座り、その前に幕が下りる。明るく揺れる光に満たされた長方形の奈落の穴の周辺をギビフング一族の群集が取り囲み、何か呆然とした表情で立ち尽くす。
 ――緊迫感も何もない。それにいずれも、どこかいろいろな「指環」の演出で、一度も二度も見たような光景ばかりではないか?

 かような演出では、歌手たちも曖昧な演技を繰り返すしかなかろう。
 ジークフリートは、前作と同じベン・ヘップナー。声は残念ながら昔の勢いはなく、演技といえるほどのものもないが、野暮ったい青年という役柄には徹底しているようだ。
 ブリュンヒルデも前作と同様、カタリーナ・ダライマン。やや線が細いのが気になるけれど、ラトル的ワーグナーにはある意味で合っているだろう。欲を言えば、「ワルキューレ」で同じ役を歌ったエヴァ・ヨハンソンと今回のそれとが逆だったらと思わぬこともなかった。

 グンターのゲルト・グロコウスキ、グートルーネのエンマ・フェッター、アルベリヒのデイル・デュージングら、演技・歌唱とも可もなく不可もなしといったところ。
 ヴァルトラウテにはアンネ・ソフィー・フォン・オッターが出演、ダライマンを遥かに凌ぐ歌唱表現を示したが、この役柄のイメージとしてはやや軽い。これもラトル的ワーグナーの一環といえるのかもしれない。

 これらの歌手陣に対し一人異彩を放っていたのはハーゲン役のミハイル・ペトレンコで、非常に暗く神経質な顔の表情と、時たま見せる屈折したような笑顔の対比も面白く(この人の笑う顔は舞台で初めて見た)、ソファに座って葉巻を吹かしつつ冷然と一同の醜態ぶりを眺める仕種も光っていた。演技らしい演技を見せていたのは、彼だけである。
 彼の声質は比較的軽い方なので、往年のゴットロープ・フリックやヨーゼフ・グラインドル、新しくはジョン・トムリンソンといった歌手たちのような重厚な暗さと凄みには欠けるけれど、これはこれで一つのスタイルであろう。歌手で最も拍手とブラヴォーを大きく受けたのは、彼ペトレンコであった。

 演出にブーイングは全く出ない。ラトルが登場するや、客席は総立ちで手拍子。彼とベルリン・フィルには拍手を贈りたい一方、予想を超えた演出のお粗末さに気抜けして座ったままでいたが、カーテンコールの出演者たちが見えないので渋々立ち上がる。
 開演は5時35分で、40分と35分の休憩を挟み、終演は11時40分。

7.5(日)エクサン・プロヴァンス音楽祭 旅行日記第1日
オッフェンバック 「天国と地獄(地獄のオルフェ)」

  アルシェヴェーシェ劇場
  
 前日、フランクフルト経由でマルセーユ空港に着く。そこからエクスまではタクシーで25分程度。
 時々雲は出るが、南仏の空は澄み切ってあくまで碧い。空気も爽やかそのものだ。
 時差ボケ解消目的も含め、午後3時半頃から夜7時半頃まで午睡。このくらい眠っておかないと、とても深夜まで体がもたない。
 
 開場はやや遅れ、午後9時40分。開演が10時10分。
 「地獄のオルフェ(天国と地獄)」は、当然フランス語上演だが、字幕が――それも歌詞のみ――フランス語で出るだけでは、私のごときエトランジェには不公平のきわみ。
 セリフで笑い転げているのは客のほぼ半数だったから、笑いたくても意味がよく解らず、笑えずに片頬だけ歪めていた客は他にも多数いたのでは? ジュピテールがたった1ヶ所、「not explain, not complain」と英語を使った時に、やたら盛大な笑い声が起こったことがそれを証明しているようである。

 ただし今回の上演では、1858年の初演版に1874年の改訂版を加味したものが基本的に使われているので――つまりミンコフスキ指揮で出ているCD(EMI)の演奏とほぼ同じだから、それを聴いていた者にとっては、あらかた見当はつくというもの。

 新制作で今日がプレミエになるこのプロダクションの演出は、Yves Beaunesne。
 すべて現代風に直してあるが、「テーバイ郊外の田園」が「オルフェとユリディース夫妻の小さなダイニング・キッチン」になり、「世論」がカメラを持った雑誌記者になった程度で、ストーリー展開も基本的に変ったことは行われていない。神々のフレンチ・カンカンも盛んに踊られる。
 欧州の音楽祭で上演される舞台としては、今回は意外なほどにストレートな設定だ。何の変哲もないといえばそれまでだが、だれやらのザルツブルクでの「こうもり」のように突拍子もない舞台ではないから、娯楽オペレッタとして、のんびりと気軽に観ていられるという良さもある。

 ヴァイオリニストのオルフェ(ジュリアン・ベール)は、もともと第1場以外にはほとんど見せ場がなく、なぜ彼が題名役になっているのか解らぬような存在である。世論に催促され、オリュンポスで嫌々ながらグルックの「われエウリディーチェを失えり」を調子外れに投げやりに(弾き)歌い、客席を爆笑させるのがせいぜいのところだ。

 ユリディース(パウリーヌ・クールタン)は小柄で可愛い容姿だけが取柄。平凡な主婦が最後にバッカスの巫女に取り立てられるなどという可笑しさを描くにはいいかもしれない。その意味では、ラストシーンでいつの間にか神々にも見捨てられ、独りぼっちになり、落胆するという設定は利いている。

 儲け役はやはり、地獄の神プリュトン(マティアス・ヴィダル)と、その召使ジョン・スティクス(ジェローム・ビリー)だろう。前者は人を食ったような性格を上手く出していたものの、後者は肝心の聴かせどころのクープレに面白味が不足していたのが惜しい。ジュピテール(ヴァンサン・ドリアウ)はじめ神々はそれなりに明るく歌い、楽しく演じている。
 まあとりあえずは面白かったと言えるが、舞台全体に未だ言い難い「隙間」が感じられるのは、今夜がプレミエだったせいもあろう。

 演奏はカメラータ・ザルツブルクで、指揮はアラン・アルティノーグル(アルティノグリュと発音するのが正しい、とパリの三光さんからあとで教えられた。ありがとうございました)。
 初演版基本のため編成が小さいこともあって、オーケストラをどのように制御できる人なのかは、今夜の演奏からだけでは少々掴みにくい。つまり、必ずしもノリのいい指揮には感じられなかったということである。
 終演は、深夜0時40分になった。

7・1(水)藤岡幸夫指揮関西フィルハーモニー管弦楽団 東京公演

   サントリーホール

 サン=サーンスの「死の舞踏」を演奏会で、それもこのように正面切った演奏で聴く機会は、ごく稀である。今日は、陰々滅々たる妖怪の音楽というより、威勢のいい死神(ソロはコンマスの岩谷祐之)に率いられたダイナミックな魔物の一団といった雰囲気の、すこぶる豪壮な「死の舞踏」であった。

 2曲目は、吉松隆の左手のためのピアノ協奏曲「ケフェウス・ノート」の改訂2管編成版東京初演――と銘打って、舘野泉をソリストに迎えての演奏。何とも甘美で快い作品。彼はソロ・アンコールでカッチーニの「アヴェ・マリア」(吉松編)を弾いたが、これもまた高級イージー・リスニングといった感。

 休憩後には、藤岡が得意とするシベリウス。今日は「第1交響曲」。
 凄まじく噴出するような演奏で、打楽器陣もハープもすべて荒削り、浪花の心意気というか、河内のおっさん風シベリウスというか、とにかく猛烈な「1番」ではあったが、他方陰翳の濃い響きに満ちた叙情的な部分には、紛れもない北欧のシベリウスの魅力的な音楽が滔々と流れていたことは疑いない。
 ただ、金管には少なからずミスが聞かれる。ナマゆえに仕方がないにしても、こういう取りこぼしは、プロとしては本来許されないこと。熱気と勢いだけではことは解決しない。
 アンコールはエルガーの「2つの小品」からの「夕べの歌」。

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