2017-06

6・30(火)佐渡裕芸術監督プロデュースオペラ「カルメン」

    兵庫県立芸術文化センター (マチネー 2時)

 品川から午前10時頃の新幹線に乗り、JRと阪急(特急)を乗り継げば、午後1時ちょっと過ぎには西宮北口駅の南口にある兵庫県立芸術文化センターに着く。
 駅からホールに続く回廊では「カルメン」の前奏曲がスピーカーから流れ、「〈佐渡さん人形〉はいかがですか」と女性が呼びかける売店の前には人だかり。この人形は指揮台の底を押すと動く仕掛けになっていて、1個千円、ポスターに「くねくね、さどやん」と書いてあるあたり、いかにも関西のノリだ。聞けば、これもご本人のプロデュースの由。

 6月25日に幕を開けたこの「カルメン」、西宮で9回、東京で4回、名古屋で2回という具合に、7月26日まで続く。西宮の公演は「初日と2日目は10枚くらい残っていたが、あとは完売」だそうだ。相変わらず物凄い人気である。
 また西宮公演は、2回を除きすべてマチネーで、これがかえって集客を盛んにしていると主催者側は言う。今日の公演も補助席が出ての満席。立錐の余地もない盛況だ。

 演出は、ポネルとの共同作業も手がけ、最近はシャンゼリゼ劇場で多く仕事をしているジャン=ルイ・マルティノーティ。舞台美術はワーグナー・ファンにはおなじみのハンス・シャヴェルノホ(シャヴァーノッホと呼ばれることも多いが)。
 中間2幕では巨大鏡と映像を効果的に使用して観客のイメージを拡げ、特に第3幕では紗幕を利用して、密輸業者たちの場面と、山中へやって来るエスカミッロやミカエラ及び案内人の姿とを交互に浮かび上がらせるところは、アイディアだろう。

 第1幕は前奏曲の途中から幕が開き、ドン・ホセの処刑場面で開始される。ベルリンでのクシェイ演出と同じ手法だが、ただ今回は、このモティーフがその後も展開されるというわけではない。
 第1幕では群集(二期会合唱団、ひょうごプロデュースオペラ合唱団、同児童合唱団)の演技が――一所懸命やっているのは確かだが――どうも野暮ったく作為めいており、演出の手法にも新鮮さが感じられないこともあって、何とも平板に過ぎた。全員の演技のかみ合わせにも「隙間」が多いのである。
 これは当然、演出家の責任だ。

 しかし、第2幕の「ジプシーの歌」がホセの牢獄場面とダブらせた幻想的なシーンに設定され、そして現代のナイトクラブ風のリリアス・パスティアの酒場の場面に変わるといったくだりから、舞台は漸く活気づいて来る。
 特に酒場の主人(ジャン=ガブリエル・デュピイ)がなかなかに芝居巧者なので、ドラマとしても面白くなる。何によらずこういう脇役がしっかりしていると、舞台がピンと引き締まるのである。

 カルメンを含むジプシー5人の五重唱を、この主人を加え、ちょっとミュージカル風の「舞踊芝居」に仕立てたところなど(ピーター・セラーズがモーツァルトのオペラで昔使ったテではあるが)曲想に合ったコミカルな気分転換手法として面白い。
 それに、エスカミッロ(ジャン=フランソワ・ラポワント)が、また実に闘牛士らしい姿勢と明朗な歌唱で、すこぶるカッコいいのである。

 カルメン(ステラ・グリゴリアン)も愛らしく、歌唱も明快だ。いわゆる妖艶タイプとは異なるので派手さはないが、佐渡プロデューサーが狙った「性悪女でない、明るく華やかで魅力的な女性」を充分に具現しているだろう。カルメンという複雑な性格を持つ女性の解釈の一つとして、これは興味深いものである。
 これで肝心のドン・ホセ(ルカ・ロンバルド)が、もっとニュアンスの細かい演技と歌い方をしてくれていれば、彼の単純な性格を強調するにしろ、激情に流されやすい気質を表わすにしろ、ドラマがもっと雄弁なものになるはずなのだが――今後の上演で改善できるだろうか。

 第3幕で、ホセとエスカミッロの決闘のシーンがノーカットで演奏されたのには、わが意を得たり、の思いだ。
 もともとこの決闘は長く、音楽も結構ドラマティックなのである。最初の立ち合いではエスカミッロが勝ち、次にはホセが彼の隙を衝いて勝つ。それからカルメンたちが割って入る。これがちゃんと描かれていないと、あとでエスカミッロが「勝負は互角だな」などと大見得を切ることの説明がつかないからである。

 これらを含め、今回の上演はアルコア版を基本とし、そのセリフとギロー編のレシタティーフとをミックスさせた折衷版とでもいうべきものになっている。この選択は概して成功しているだろう。セリフのカットはあるけれど、それは上演時間の問題もあるので致し方ない。

 第4幕では、ここでも群集の動きがまだ練れていないので、むしろ前半では後景で行なわれているエスカミッロの身支度や、マリア像に向かって祈る所作、それに彼に親密に付き添うカルメンがカードの占いを繰り返しては暗い顔をしている姿との対比を見ていた方が面白い。
 群衆が闘牛場の中へ去ったあとも彼女が独り占いを続け、スペードのエースが出た瞬間に「あんたね?」と、ホセの方を見向きもせずに言うくだりの、それが伏線となっているわけだろう。

 メルセデスはソフィー・ポンジクリス、フラスキータを菊地美奈。いずれも好演だが、後者は演技にもう少し肩の力を抜いた方がいいような印象。小原啓楼(レメンダード)と加賀清孝(ダンカイロ)は、もっと演技を工夫されたい。与那城敬(モラレス)は舞台姿も充分だが、今日はなぜかあまり声が伸びなかったか? 
 パワーが充分だったのは、斉木健詞(スニガ)だ。凄味のある声で横柄な上官をよく表現していた。スニガは第2幕最後で殺されるが、最近はこうする演出が多い。

 オーケストラはもちろん兵庫芸術文化センター管弦楽団。佐渡の個性を反映して冒頭の前奏曲から豪勢な演奏を繰り広げた。フルートのソロ(第3幕前奏曲)などはもっと頑張ってもらわなくてはなるまいが、エスカミッロがホセに「あいつ(カルメン)には脱走した兵隊の情人がいたそうだ」と自慢げに噂する個所の木管の演奏には、きわめて美しいものがあった。

 圧倒的に中年女性客の多い客席は、拍手はおとなしいが、みんな愉しんでいたようだ。人気指揮者が人気オペラを制作し指揮することによって、阪神間・兵庫県でオペラがおなじみの「娯楽」になって行くのなら、目出度いことである。
 このシリーズ、暮に「ヘンゼルとグレーテル」、来年夏に「キャンディード」(シャトレ座版、ロバート・カーセン演出)が続くという。
 2幕ずつ続けて演奏され、5時20分終演。新大阪6時37分の新幹線で帰京。
 

6・28(日)大植英次指揮
ハノーファー北ドイツ放送フィルハーモニー日本最終公演
マーラー「交響曲第9番」

  サントリーホール
       
 先頃の大阪フィルとの「5番」(2月17日)以来、大植のマーラーを聴く時には「どのくらい遅いテンポで指揮するか」に興味を持つという――以前には考えられなかったことだ――おかしな心理状態になってしまった。
 彼の話によれば、あの時には彼の御母堂の病気のこともあって特別なものになったということだが、しかし今日の「9番」のテンポも、やはり相当遅い方だ。
 時計をちゃんと見ていなかったので正確な演奏時間は判らないが、総計96分くらいかかっていたのでは? 楽章間の休み計3分ほどを差し引いても、93分くらいになる。並みの演奏より10分は長い勘定だ。

 かなり遅いテンポだったのは中間2楽章。それに対し両端楽章は「遅めのテンポ」という程度だったであろう。
 しかし、物理的には遅いテンポでも、実際にはさほど遅さを意識させなかった、というのが、今日の演奏の最大の特徴である。演奏に緊張度が失われず、弛緩が皆無であれば、かりにいくら遅いテンポであっても、音楽は充分に成り立つものだ。大植と北ドイツ放送フィルは、それを可能にしていたのである。

 特に第3楽章は、ふつうはマーラーの「躁状態」を反映するような狂乱一辺倒の演奏になることが多いのだが、今日の大植の指揮は――何と言い表したらいいか言葉が見つからないが――もっと重々しく厳めしい表情の、しかもその中に皮肉で不気味な薄笑いを漂わせているマーラーが浮かび上がって来るような、何とも怪奇な世界を創り出していた。このテンポは、風変わりなものではあったが、不思議に納得が行く。
 このような個性的な大植の解釈を、柔軟に自在に、しかも生気に満ちて演奏に反映する北ドイツ放送フィルの実力も、すでに卓越したものである。

 思えばこのオケが初めて彼とともに日本に来た時、それはいかにもドイツのローカル・オケといった雰囲気で、良くも悪くもくすんだ実直な響きを持っていた。しかし、今やこのオーケストラは、重厚な響きと、明るく躍動的なリズム感とを併せ持ち、以前にはなかったような多彩な音色と表情を備えるようになっている。
 首席指揮者としての11年の間に、大植はこのオーケストラを、完璧に手中に収めた。両者にとって最良の結果が生み出されたことは疑いない。その最後の見事な総決算が、今日のマーラーの「9番」だったのである。大植としても感無量だったに違いない。
 この日本公演をもって首席指揮者を退く彼に、オーケストラは「終身名誉指揮者」の称号を捧げるという。

 なお、今日の録音はエクストンからリリースされる由。第4楽章の最後の個所で客席からの「大きな」咳が多かったので、終演後にその部分が収録し直されたはずである。先日のアルミンク=新日本フィルの「9番」の時のような長い静寂が保たれていればよかったのだが・・・・。
 以前ザルツブルクでアバドとベルリン・フィルがこの曲を演奏した際、最後の長い弱音のところで、それこそ無神経に平然と、しかも延々と咳をしていた中年の外人女が2階席にいた。さすがに場内が怒りでざわついたほどである。あれは酷すぎた。
 それに比べれば・・・・とは言え、やっぱり「咳とクシャミと紙の音」はいけない。

6・27(土)新国立劇場 清水脩「修禅寺物語」

   新国立劇場中劇場

 「修禅寺物語」(修善寺ではない)は、岡本綺堂の新歌舞伎を原作として清水脩により作曲され、1954年に初演された、日本オペラの古典的名作である。
 初演は関西歌劇団で、指揮は朝比奈隆だったという! どんな演奏だったのだろう?

 新国立劇場がこのオペラを取り上げたのは、もちろん今回が最初。
 若杉弘が芸術監督として指揮するはずだったが、周知のように惜しくも病を得てしまったため、外山雄三が代わって指揮した。
 歌手にとって歌いやすい指揮なのかどうかは別として、彼が指揮した東京交響楽団の演奏は、非常にがっしりとして、堂々たる造りに聞こえたのはたしかである。この作品のオーケストレーションがこれほど分厚く豪快なスケールを持つものだったかということを今回初めて実感、清水修の音楽についても再認識させられた次第である。

 演出は坂田藤十郎で、歌舞伎のスタイル――というより、彼がプログラムにも書いているように、歌舞伎における「日本的なもの」の心を取り入れた舞台と言っていいのかもしれない。
 音楽が西洋的手法(それもやや保守的な)で作られているため、それと歌舞伎スタイルの演出とが果たしてマッチするのか、あるいは不調和ゆえの面白さとなるのか、そのへんは複雑な問題を含むだろう。ただ、これはこれで楽しかったことは事実だ。

 欲を言えば、面作師の夜叉王が自己の芸術に役立てようと瀕死の娘かつらの顔を写生にかかるラストシーンは、もっと鬼気迫る雰囲気(「地獄変」の物語のように)が舞台に欲しいし、娘が「あい」と答えて顔を上げるあたりにも、同様に惨酷な凄味が欲しい。
 だがこれは、演じた歌手の演技力の問題かもしれない。
 舞台美術(前田剛)はおそろしく古風な、初演の時にはかくこそありしか、といった感じのものだった。

 今回は字幕がついていたが、この助けを借りないと何を歌っているんだかよく解らない歌手、見なくても完全に解る歌手、いろいろである。
 その中では、源頼家を歌った福井敬が、さすがに歌詞も明瞭で声も楽々と伸び、立居振舞も雰囲気充分だった。
 また、夜叉王を歌った木村俊光も(高音域はやはり苦しくなったが)歌詞は明快に聴き取れる歌いぶりである。前記のラストシーンを別とすれば、このような日本の――いっこくものの老人を演じて、見事にベテランの味を出していたといえよう。
 頼家を庇って戦い命を落すかつら役の横山恵子と、その妹かえで役の天羽明惠は、声は充分だが、歌詞をもう少し明確に歌ってくれれば――。
 その他、かえでの婿・春彦役に樋口達哉、頼家の警護を担当する武士の下田五郎景安に土崎譲、修禅寺の僧に竹澤嘉明、北條方の武士・金窪兵衛尉行親に若林勉。

 ともあれ、貴重な意義深い上演であった。世界に通じるものであろうとなかろうと、われわれ日本のオペラ観客にとっては、昨年の「黒船」と同様、このような先人たちの優れた作品を水準の高い演奏で見直し、再認識する機会が絶対に必要である。その意味でも――指揮はできなかったが――芸術監督・若杉弘の企画力を讃えたい。
 いつかこのオペラが現代的な舞台装置と演出で上演される時代が来るといいが。

6・26(金)チョン・ミョンフン指揮東京フィルハーモニー交響楽団
ヴェルディ: 歌劇「椿姫」(演奏会形式上演)

   サントリーホール

 事前の広報資料やプログラムには「椿姫より」となっていたので、聴きどころだけの抜粋かと思っていたら、慣習的な省略個所はあるものの、事実上の全曲演奏だった。

 チョン・ミョンフンは、全体に速めのテンポで、しかも歯切れよく小気味よいリズムで追い上げる。引き締まった演奏だ。
 オーケストラから劇的な表現を引き出す手法においても、チョンはすこぶる細かい。ヴィオレッタを支える音楽は常に優しく流麗に、またジェルモンやアルフレードの怒りを描く個所では弦に極めて鋭いスタッカートを奏させるといったように。これらは既にスコアに書かれているものだが、その通りに対比させて演奏しない指揮者も、少なからずいるのである。

 東京フィルも、バランスが良くしっとりとした、しかもふくよかな音色でチョンの指揮に応えていた。こういう演奏を新国立劇場のピットでも聴かせてくれていれば、文句ないのだが――。
 先日のヴェルディの「レクィエム」といい、ブラームス~シェーンベルク編の「ピアノ四重奏曲第1番」といい、東京フィルは、チョン・ミョンフンの指揮の下では、とにかく並外れて見事な演奏をする。

 今回の「椿姫」公演は3回。前日に東京オペラシティで演奏したばかり。
 その疲れのせいなのかどうかわからないが、2人の主役――マリア・ルイジア・ボルシ(ヴィオレッタ)とダニール・シドーダ(アルフレード)が、何となく精彩を欠いていたのではないか?
 それでもボルシの方はたいへん柔らかく美しい声で、ジェルモンとのやり取りの個所などでは見事なカンタービレを聴かせていた。が、シトーダの方には、以前マリインスキー・オペラで歌ったレンスキー役の時のような声の張りや伸びが、今回はほとんど聴かれなかった。
 しかも、2人とも歌詞があまり明瞭に聞き取れないきらいがある。それゆえ、余計オーケストラに声が埋没したような印象を生み、もどかしさを感じさせたのかもしれない。

 が、この中に父親ジェルモン役のワシーリー・ゲレロが登場すると、途端に伸びのある声と比較的明晰な歌詞の発音とが響きはじめ、音楽が引き締まって来る。
 共演はフローラに渡辺玲美、ガストーネ子爵に二階谷洋介、お手伝いアンニーナに松浦麗、医師グランヴィルにタン・ジュンボ、ほか。主役2人より、これら脇役陣の方が歯切れのいい歌唱だったようにさえ思えたほどだ。
 なお、前日も聴いたという2,3の方の意見では、主役歌手の出来は前日の方が格段に良かったとのことであった。
 合唱は新国立劇場合唱団。
  「音楽の友」8月号(7月18日発売)演奏会評

6・24(水)ボリショイ・オペラ 
チャイコフスキー「エフゲニー・オネーギン」

   東京文化会館大ホール
 
 近年、日の出の勢いにあるドミトリー・チェルニャコフの演出。
 以前マリインスキー劇場で観た「皇帝に捧げし命」はなかなかに才気あふれる演出だったが、ベルリン州立歌劇場での「ボリス・ゴドゥノフ」があまりに騒々しい舞台だったので、今回はどうかなと一抹の不安も抱いて出かけた次第。
 しかし出来栄えはどうして、実によく考慮された舞台であった。オリジナルを若干変えてはいるが、話の辻褄は完璧に合っている。演出上のバランスの良さでは、コンヴィチュニーのそれを大きく上回るだろう。チェルニャコフも成長したものである。

 全篇を通じて、大きなテーブルのある現代の大広間が舞台となっており、人々は実によく飲み、よく食べる(双眼鏡で見たら、本物のケーキを食べていた)。オネーギンが歓待されたり、冷たく疎外されたりする模様が、この会食の客たちによって明快に描かれている。
 オリジナルではラーリン家の集いで長々と祝賀の歌を歌うトリケの役を、今回は何とレンスキーが余興として演じるという設定になっているのが面白い。
 またオネーギンは第2幕冒頭でタチヤーナに花と命名祝いの品を贈ろうとするのだが、彼に振られた余波の残る彼女の怒りの表情に遭い、不貞腐れて帰ろうとする。これがのちにオリガを踊りに誘ってレンスキーを怒らせる伏線となるわけだ。このあたりのもろもろの伏線を描く演技と顔の表情が、非常に細かく設定されているのがいい。

 演出上の最大のユニークなアイディアは、レンスキーの怒りに対し人々が「いまどき〈決闘〉なんて、あいつは冗談を言っているのだろう」と、誰一人本気にせず、ゲームか余興として芝居に協力したりしているうちに、いつの間にかそれが冗談ではなくなるというストーリーになって行くくだり。
 時を現代に置き換えての設定となれば、そもそもピストルで決闘するなどという話はありえないのだから、この読み替えは筋が通っている。

 それゆえレンスキーの辞世のアリアは、彼が詩人であるがゆえに、単なる詩としてしか周囲の人々には受け取られない。
 「決闘」も、レンスキーから投げ渡された猟銃(?)をオネーギンが「馬鹿をやるんじゃない」とばかり突き返し、これが争いに発展するうちに銃が暴発してレンスキーが死んでしまう、という設定である。友人同士の諍いのこのような展開は、たしかに一つの解釈であろう。
 原作でもオペラでも、オネーギンというキャラクターが複雑さを極めるものだけに、それこそ千変万化の解釈や読み替えが可能になる。それが面白いところだ。

 オネーギンにはウラジスラフ・スリムスキー。怒ったキューピーみたいな顔立ちなので、ちょっとコミカルに見えるのが問題か。タチヤーナはタチヤーナ・モノガローワ、レンスキーにアンドレイ・ドゥナーエフ。3人とも若い世代だ。安定した歌唱という点では未だしの感があるが、フレッシュなところはいい。

 指揮は、劇場音楽監督のアレクサンドル・ヴェデルニコフ。10年前の内紛で傾きかけていたボリショイ劇場の音楽水準を、よくぞここまで復調させたものである。
 彼が就任した直後、新日本フィルに客演するために来日した際に話を聞いたことがあるが、就任の経緯について、彼はこう語っていた――打診が来た時、「火中の栗を拾う」ことに躊躇し、迷いに迷ったあげく、有名な音楽家(バス歌手・指揮者)だった同名の父に相談したそうだ。すると、父は次のように答えたという。

 「お前は断りたいのだろう。当然だ。だれでもそう思う。断るのは簡単だ。だが、お前が齢をとってから、もしもあの時引き受けていれば、伝統あるボリショイ劇場を自分が建て直すという名誉を担うことができたかもしれないのに――と後悔することはあるかもしれんぞ。そういうこともよく考えて、お前が自分自身で決めればいい。わしがお前に言うことはそれだけだ」。
 これでヴェデルニコフは、ボリショイ劇場音楽監督を引き受けようと決心したのだという。

 今回の上演は2部構成。第1部として、通常の第1幕と第2幕――計120分が、切れ目なしに上演された。これはチト長い。しかし、退屈させられることは無かった。

6・23(火)吉野直子(hp)&クレメンス・ハーゲン(vc)

   サントリーホール ブルーローズ(小ホール)

 「響きあう刻(とき)」と題された、ハープとチェロの美しいデュオ。

 ドビュッシーの「チェロとハープのためのソナタ」(原曲はチェロとピアノ)で始まり、次いでハープのソロによる「月の光」と「ロマンティックなワルツ」(リリー・ラスキーヌ編)と続く。
 このドライなアコースティックの小ホールでは、チェロの音はどんな時にもシャープに生々しく響くが、ハープはあくまで玲瓏な響きを失わない。

 私にとっては昔、ラスキーヌの演奏したLPレコードをうっとりと聴き続けた時代から、ハープはソロ楽器の中で最も好きな楽器になっている。とりわけドビュッシーの作品と来れば、今夜のような暑い夏の夜には、最高の清涼剤である! 
 そのあと、ユン・イサンの「二重奏曲」(1984)が演奏されたが、これは不思議に爽やかな作品。ユンの叙情的な側面が発揮された曲だろう。

 それにしてもドビュッシーの作品というのは、管弦楽、室内楽、ソロ曲を問わず、現代音楽と組み合わせ、それに先立って演奏されるのにぴったり合う、という不思議な力を持っている。これまでいくつの演奏会で、そういうプログラムが編成されて来たことだろうか。
 もちろんそれは、ドビュッシーの曲が現代音楽への序奏としてちょうどいい、などという意味では全くないのだが。
 ここまでの第1部が終ったところで、都合のため辞す。

6・21(日)ボリショイ・オペラ チャイコフスキー「スペードの女王」

   NHKホール(マチネー)

 一にガルージン、二にガルージン、三、四がなくて、五がプレトニョフ。

 と言ってしまっては極端すぎるかもしれないが、この上演を印象的にしたのは、やはり第一には、士官ゲルマンを歌ったウラジーミル・ガルージンの存在であろう。陰翳の濃い、悲劇的なニュアンスにあふれた歌唱がすばらしい。

 彼のゲルマンを聴くのは、これが4度目か、5度目か。最初は1992年暮のマリインスキー劇場でだった。彼がゲルマンを初めて歌った頃である。
 2度目が1999年夏、これもマリインスキー劇場での白夜祭公演だった。声の張りという点では、その頃が絶頂だったであろう。最近はやや太めの声に変わって来たようにも感じられるが、その代わり、表現の上で格段に巧味を増している。
 演技も相変わらず見事で、恋に思いつめた暗い貧乏士官から、必勝カードの秘密を老伯爵夫人から聞き出すのに成功して賭け事に狂う男へと変貌して行く表情には、まさに鬼気迫るものがある。薄笑いを浮かべつつ賭博場に「行進」して行く一連の演技など、実に不気味であった。おそらくこのゲルマンを歌い演じて今日、彼の右に出るテノールはいないと思われるほどである。

 指揮はミハイル・プレトニョフ。前半では意外なほど音楽を抑制しておいて、最後の賭け事の場面に全曲のクライマックスを置く、というやり方だ。このオペラには、嵐の場面、伯爵夫人の死の場面のあとの幕切れ場面、リーザの死の場面など、管弦楽が劇的に高鳴る個所が少なくないのだが、それらが予想外に抑えられていたので――プレトニョフはこのオペラの叙情面にのみ重きを置いているのかと、勘違いしたほどだった。

 歌手陣で、さすがの貫禄を示していたのは、何といっても老伯爵夫人役のエレーナ・オブラスツォワ。杖を突きながらも背筋をピンと伸ばし、周囲を威圧する風格と迫力の演技は、69歳の底力だ。リーザ役のエレーナ・ポポフスカヤもこれからが楽しみである。

 演出はワレリー・フォーキン、舞台美術はアレクサンドル・ボロフスキー、照明はダミール・イズマギロフ。上下2層の舞台、白と黒の対比によるシルエットも、冷徹ながら美しい。
 面白かったのは賭博場の光景。テーブルやカードは一切無く、登場人物の動きによって賭博のイメージが完璧に描かれる。同じくこの場では、ゲルマンを嘲笑する伯爵夫人の亡霊として、肖像画に描かれている「モスクワのヴィーナス」の貴婦人を3人登場させていた(これは既に伯爵夫人の部屋の場で観客の目に触れさせていた)。ドラマの説明としては、筋が通っているだろう。
 ちなみにフォーキン自身によれば、2層の舞台の「下」は、「上」で起きていることの反映を意味する、ということだが、そう言われればそうかな、という程度。

6・20(土)ジャン=フレデリック・ヌーブルジェ・ピアノ・リサイタル

   サントリーホール

 サントリーホールでの2回目のリサイタルということになるが、すでに何度か来日していながら未だ知名度の点で及ばないのか、お客さんの入りは「紀尾井ホールだったら超満員」という段階。
 若い(23歳)逸材だから、いつかこのホールを満員にする日が来るだろう。

 今日のプログラムはモロにドイツもので、ブラームス編のバッハの「シャコンヌ」、そのブラームスの「ソナタ第2番」、最後にベートーヴェンの「ハンマークラヴィーア・ソナタ」というものだった。

 その音色の、何と清澄で爽やかで、快いフレッシュさに満ちていることか。「シャコンヌ」冒頭からその明るく若々しい表情に魅了される。ただ、左手のみで演奏されるこの編曲版を、緊張度と多彩な表情の変化を以て演奏して行くことは、彼には未だこれからか?
 3曲通じて、エネルギー感のある個所では見事な音楽を聴かせてくれる。叙情的な部分で緊迫感を失わないようになれば、文句ない。

 「ハンマークラヴィーア・ソナタ」は、その昔のフランスの巨匠イーヴ・ナットを一瞬連想させるような演奏だ――もちろんナマで聴いたことはなく、古いレコードでしか接したことがないが――。
 明朗かつ鮮明な音色でドイツ音楽から洗練された感覚を引き出すフランスのピアニストの演奏とは、まさにこのようなものだろう。

6・20(土)
アレクサンドル・ラザレフ指揮日本フィルハーモニー交響楽団
プロコフィエフ交響曲ツィクルス Ⅱ

    サントリーホール (マチネー)

 前回の「1番」「7番」に続き、今回は「2番」。
 「鉄と鋼(はがね)の交響曲」と呼ばれる凶暴無比な大音響を持った作品の性格を十二分に発揮させた、ラザレフ特有の豪快な演奏となった。日本フィルも完璧に応えていただろう。

 全管弦楽の咆哮も並外れたものだが、しかしそれは、ただ大音響を誇示するのではなく、適切なバランスと、鋭いが豊麗なふくらみを保った最強奏となっていたのが良い。
 特に感心させられたのは、その咆哮の間を縫ってそれほど強くない音量で躍動する弦楽器の音色が、見事に統一されていたこと――たとえば第1楽章冒頭の金管の怒号が一段落したあと、弾むように現われる弦のモティーフのしっとりした音色。

 僅か半年前にはあんなに荒れ放題だった日本フィルの弦が、よくこれだけ早く復調したものである。指揮者次第では、これだけの実力を発揮できる日本フィルなのだ。
 沼尻竜典(5月)とラザレフ(今月)とでここまで持って来た水準を、だれか粗っぽい指揮者がぶち壊さなければいいのだが、これまでの例からすると、残念ながらまた元の木阿弥になる公算大?

 なおこの交響曲のあとに「口直し」とかで、同じプロコフィエフの「3つのオレンジへの恋」からの「行進曲」が演奏された。これまた豪壮華麗なアンコールである。

 プロコフィエフに先立つ第1部のプログラムでは、最初にチャイコフスキーの組曲第4番「モーツァルティアーナ」。ナマでこの曲を聴けたのはこれが3度目くらいか。
 いい曲なのだが、俗受けしないタイプの作品なのかもしれない。骨太で強面な演奏だった。

 2曲目は、モーツァルトの「ヴァイオリン協奏曲第3番」。
 オーケストラは何となく「牛刀を以て鶏を――」的だったが、ソリストのニコラ・ベネデッティが非常に色の濃い演奏を聴かせたので、これも骨太なモーツァルトになって面白かった。
 もっとも、彼女の強烈な個性が遺憾なく発揮されたのは、アンコールでのイザイの「ソナタ第5番」の第2楽章だったが。

6・19(金)児玉宏指揮大阪シンフォニカー交響楽団
ジークフリート・ワーグナーの作品など

  ザ・シンフォニーホール(大阪)

 稀少モノのレパートリーで年間の定期のプログラムを編成し、大きな話題を呼んでいる児玉宏と大阪シンフォニカーが、今日はジークフリート・ワーグナーの歌劇「異教徒の王」間奏曲「信仰」と交響詩「幸福」を、そして第2部ではブルッフの「交響曲第3番ホ長調作品51」を取り上げた。
 CDでならともかく、生演奏では二度と聴く機会がなさそうな作品ばかりである。

 ジークフリート・ワーグナーは、あの大リヒャルトの息子。「ジークフリート牧歌」の主人公である。母コージマの下でバイロイト音楽祭を主宰する一方、作曲家・指揮者としても活動した人だが、「偉大な父」の傘の中では、さぞや気苦労も大きかったろう。
 この2つの作品からも、何か不思議にそのジレンマのようなものが伝わって来る。前者は1913年、後者は1923年の作品だとのことだが、いずれも20世紀に生まれた作品とは思えないほど過去の遺産に寄り掛かった作風を示しており、リストやブルックナー、フンパーディンク、それに保守回帰したあとのR・シュトラウスらの作風を追ったような音の世界になっている。
 人格者として定評のあったジークフリートが、父の影響から脱しようともがいた挙句に行き着いたところは、その人柄ゆえに、せいぜいここまでだったのかもしれない。

 前者は7分ほど、後者は30分近い演奏時間だったろうか。さほど面白い作品とはいえなかったが、美しくロマンティックな曲であったことは確かだ。
 とにかく、ワーグナー一族の伝記を読んだだけであれこれ彼について語るのではなしに、実際に彼の音楽そのものを聴いて見なければ話にならないわけで、その意味ではこの2つの作品をナマで聴けたことは、本当に得がたい体験であった。演奏者には感謝を捧げたい。
 曲そのものが沸き立つような性格のものではないので、演奏も比較的地味な印象になってしまったが、しかし手堅くしっくりと纏まった誠実な演奏であった。

 休憩後は、ブルッフの第3交響曲。こちらは1882年の作曲。紛れもなくブルッフの語法を持ったドイツ・ロマン派の作風である。演奏時間も40分ほどを要した。第3楽章には一瞬ながらブルックナー的な曲想も現われたが、多分偶然に過ぎないだろう。
 児玉と大阪シンフォニカーは、きわめて均衡の取れた響きで、がっしりとこの曲を構築していた。これも滅多にナマでは聴けない作品だけれど、このようにきちんとした演奏で聴かせてくれると、われわれも作品についての正確な判断をすることができる。

 客席は、ステージの両側とオルガン下のブロックに空席があったものの、その他は結構な入り。こういう意欲的で大胆なプログラム編成がどんな反応を呼ぶかが心配だったが、オーケストラ側にもいろいろと試行錯誤があるだろう。
 来年のシーズンのプログラムも既に発表された。それを見ると、やはりスタンダードなレパートリーがかなり復活して来ているようである。

6・18(木)沼尻竜典指揮大阪センチュリー交響楽団
ショスタコーヴィチ 交響曲第11番「1905年」

    ザ・シンフォニーホール(大阪)

 大阪センチュリー響と首席客演指揮者・沼尻竜典のコンビによる演奏は、昨年びわ湖ホールで「ばらの騎士」や「サロメ」を聴いた時にも、その劇的表情の多彩さと、柔らかく拡がる響きの見事さに感嘆させられたものだった。
 そこで今回は、彼らがザ・シンフォニーホールで演奏するショスタコーヴィチの交響曲第11番「1905年」がどんなものになるだろうかという期待を抱いて、大阪まで足を運ぶ。

 プログラム前半はグリーグの「ピアノ協奏曲」。
 ウズベキスタン生れで93年ミュンヘン国際コンクール優勝のアンナ・マリコヴァ(マリコーワ?)がソリストとして登場。容姿から来る印象と同じようにヒューマンな温かい音楽を聴かせる人で、久しぶりに叙情的なグリーグを味わえたという感。
 この曲での弦は美しかった。沼尻は遅めのテンポでじっくり(過ぎるほどに?)付けていたが、これはそのあとのショスタコーヴィチでの大爆裂との対比のつもりもあったか?

 「1905年」は、彼の獅子奮迅の指揮と、オーケストラの渾身の演奏で、すこぶる聴き応えのある音楽になった。
 第1楽章(宮殿前の広場)での延々と続く弱音など、下手に演奏された場合には――非常に長く、なかなか本題に入って行かない冗長なものに聞こえてしまうこともあるのだが、今日は音楽が終始明確な形を保って演奏されていたため、悲劇の前の緊張感も的確に描かれていたように思う。

 殺戮を描く第2楽章での打楽器群にも、単なる大音響にとどまらない凄惨な雰囲気を感じさせていた。フィナーレでの弦楽器の鋭いリズム感は殊更印象的で、12型という編成――この交響曲の演奏としては小編成だろう――を逆手に取った鮮烈な効果を生んだ。

 細かいところでは不満がなくもない――たとえば、第1楽章でのトランペットのファンファーレはもう少し遠くから聞こえてくるようなイメージが出るべきではないか? 
 また第4楽章終わり近くの長いイングリッシュ・ホルンのソロは、もっと各部分が繋がるようなイメージで、全体を一連の大きな起伏として吹いた方が、切々たる哀悼の歌としての深い情感が生きるはず。背景のホルンやハープとの溶け合いも不可欠だろう。

 ちなみにこの第4楽章の個所は、私がこれまで聴いた演奏の中では、デプリーストと東京都響のそれが最も感動的だった。あの時の演奏で、イングリッシュ・ホルンの歌が徐々に高音域に上昇して行き、背景のホルンとハープの響きと陶酔的に溶け合い、第164小節にいたって安息感を生み出した瞬間には、ショスタコーヴィチがこの作品にこめた万感の想いがすべて語りつくされたようにさえ感じられたのである。

 そうは言っても全体としては今日の演奏、充実したものだったと言ってよい。
大阪センチュリー響にとってショスタコーヴィチの後期の交響曲を演奏したのは今回が初めてだったと聞くが、レパートリーの拡大は歓迎すべきことだ。お客さんの入りも8割くらいには達していただろうか。拍手とブラヴォーも大きかった。

6・17(水)準・メルクル指揮NHK交響楽団 スペイン系プログラム

  サントリーホール

 こちらは豊かな財政を備え、保守的嗜好層をお得意客に持ち、最近の定期では超安定路線から一歩も出ないオーケストラ。

 準・メルクルの指揮で、ファリャの「三角帽子」第2組曲、ラロの「スペイン交響曲」(ソロはワディム・レーピン)、ドビュッシーの「イベリア」、ラヴェルの「ボレロ」というプログラム。
 この中では、「イベリア」の第2曲(夜の香り)での囁くような弱音の美しさが卓越していた。かつてメルクルが日本デビューした時にこのオーケストラと聴かせた「牧神の午後への前奏曲」の夢幻的な音色を思い出させる快演。
 「ボレロ」は冒頭から速めのテンポでスタート、軽快な響きで盛り上げた。どちらかと言えばあっさり味の「ボレロ」である。各パート、さすがに上手い。

 「イベリア」第1曲の途中から、かなり大きな高域ノイズが聞こえ始めた。上杉景勝なみの耳鳴りに罹ったかと肝を冷やす。幸い、第1曲が終って間もなく突然止んだが、まるでスウィッチを切った時のような止まり方だった。

6・17(水)クリスティアン・アルミンク 新シーズン・プロ発表記者会見

     東武ホテルレバント東京 午後2時

 新日本フィルの今秋からの新シーズン企画について、彼自ら説明。

 リンドベルイの「クラリネット協奏曲」、ショスタコーヴィチ編のシューマン「チェロ協奏曲」、アイネムの「ブルックナー・ディアローク」、ヴェレシュの「哀歌~バルトークの思い出に」、シマノフスキの「協奏交響曲」など、めずらしい作品が散りばめられる。
 これらがスタンダードな名曲と組み合わせられてプログラムに載るわけだが、新しいレパートリーを聴くことができるという点でも、本当に勉強になる。自主運営オケが経営の苦しい中に試みるこのような意欲的な路線は、高く評価され、注目されてしかるべきだろう。

 オペラで取り上げられるのは、ドビュッシーの「ペレアスとメリザンド」(マルクス・ヴェルバ、藤村実穂子)と、バルトークの「青ひげ公の城」(井上道義指揮)。
 また2010~11シーズンから、ついにダニエル・ハーディングが「Music Partner of NJP」という肩書で指揮者陣に参加、年間6公演を指揮して行くとのこと。このオーケストラ、波に乗った感がある。

6・16(火)クリスティアン・アルミンク指揮 新日本フィル
マーラー:交響曲第9番

   サントリーホール

 聴く前からすでに予想されていたことで――などと言ってはミもフタもないが、アルミンクのマーラーは、粘ったところが全くない。

 素っ気ないとか、無機質だとかいうことではない。それどころか、音楽の隅々にいたるまで非常に細かいニュアンスや、彫琢された音の響きには事欠かない演奏だ。
 が、じわりと襲いかかって来るような圧迫感とか、底知れぬ深淵に引き込まれるような恐怖感といったものは皆無なのである(あくまで私にとっては、である。それを感じる人もいるかもしれない)。

 ただ、そういう演奏は、ワーグナーの音楽の場合にはどうにも隔靴掻痒の思いにさせられるのだが、マーラーの場合には、それはそれでまた別の面白さを引き出してくれる。
 第1楽章など、たとえばワルターの指揮したディスクで聴くと何か背筋がぞっとするような絶望感を抱かせられるけれども、アルミンクのそれは、まだ前途に希望の光を垣間見つつ、不安と動揺の大波を突っ切って行くような感覚に浸らされる、といった演奏なのである。

 第4楽章は、実に美しかった。新日本フィルの弦の良さが発揮された演奏といっていいだろう。
 弦の響きは軽やかで爽やかだが、力がある。テュッティでのハーモニーは豊麗だが、むしろ飽和的というか、和声のすべてが一体化して響くという感だ。
 第56小節と57小節のごとき、スコア通りに1音符ずつアクセントを強調してぐいぐいと下行させる指揮者も多いけれど、アルミンクはそんな粘りのあるアクセントを与えず、ややレガート気味に押して行く。音楽は、凄みのある津波でなく、美しい大波という印象になる。

 最後の十数小節にしても、アルミンクの指揮はテンポを無理矢理落すという手法ではないので、モティーフの形が最後まで崩れずに保たれる。ここを今夜のように透明な音色で聴くと、ワルターが言った「あたかも澄み切った無限の碧空の彼方に溶け行く白い雲のように――」というニュアンスにも共感できるというものだ。
 なお新日本フィル、今夜はホルン群も見事だった。

 全曲に先立ち、アルマ・マーラーの「夜の光」という歌曲が、指揮者とオケは板付きのまま、舞台裏(下手の袖)でピアノ伴奏により歌われた。切れ目なしに「9番」に入るというアイディアはいいと思うが、歌曲そのものはさっぱり面白くなかった。それに、いかにも音が遠くて、2階席などでは、ピアニッシモの個所がよく聞こえないのである。
 が、歌ってくれた市原愛は――ソプラノとあったが、メゾ・ソプラノといってもいいほど中低域の声に濃い陰翳のある人だ。出番は少なかったが、魅力を感じさせた。ピアノは丸山滋。

6・15(月)二期会 week in サントリーホール 初日
 腰越満美が歌う日本の歌

   サントリーホール ブルーローズ(小ホール)

 演奏会タイトルは延々と長く、誰が主人公か判らないようなのが付いているが、要はソプラノの腰越満美が日本の歌曲を歌い、その歌の一部を服部克久が編曲しているという演奏会。ピアノは丸山和範と、一部を服部克久。

 こういう演奏会には、久しぶりに行く。
 昔はオペラ歌手が日本の歌曲を歌うとなると、いわゆるオペラ的な発声(?)で物々しく吼えるのが常で、それに辟易し、ずっと敬して遠ざけていたのだが、十何年ぶりに聴いてみて、今や時代も変わったものだと遅まきながら再認識。

 「カチューシャの歌」「宵待草」「別れのブルース」「蘇州夜曲」「銀座カンカン娘」「東京ブギウギ」「悲しくてやりきれない」「明日」など、日本歌曲から歌謡曲、Jポップにいたるまで数曲ずつ、それに武満徹の歌曲も入ったプログラムを、腰越満美は非常に明快な日本語の発音で、言葉の意味をはっきりと表現しながら、表情豊かに歌う。これが何より爽やかで気持いい。「夜空のムコウ」など、良い意味でのオペラ的解釈を交えた、感情豊かな表現だと思った。
 彼女は日本語歌唱の発音が本当に美しい。しかもその発音を、モーツァルト的なカンタービレに巧く乗せることが出来る人だ。

 彼女については、私は5年前に岡谷での創作オペラ「御柱」で主役の巫女を歌っていたのを聴いてから注目するようになったわけだが、その他にも「メリー・ウィドウ」のハンナ・グラヴァリ、「ドン・ジョヴァンニ」(宮本亜門演出)のドンナ・エルヴィーラ、「黒船」のお吉など、いろいろ観て、聴いた。舞台姿も映える人である。だから、Jポップや歌謡曲を歌うのももちろんいいですけど、オペラの方も続けて行って下さいよ?

6・14(日)藤原歌劇団 ドニゼッティ「愛の妙薬」

   東京文化会館

 マルコ・ガンディーニの演出は、藤原オペラのプロダクションにしてはめずらしく舞台設定を変え、原作の「バスク地方の村」を、現代の洒落たショッピングモールの化粧品売り場とした。
 ネモリーノはモールの商品補充係、アディーナは高級ブランド化粧品売り場の美容部員、ベルコーレは士官学校生、ドゥルカマーラは美容クリームの実演セールスマン(外商)という設定だから、こいつは面白そうだと楽しみにしていたのだが、思わぬ所に落し穴あり。

 原作の村人たちなら、共同体の一員としてのネモリーノとアディーナの恋に口を挟み、合唱に参加することに何ら不思議はないが、ショッピングモールの買物客どもが店員の色恋沙汰にいちいち興味を持って口を突っ込むだろうか? 端役に至るまで細かい演技をしているにもかかわらず、第1幕では店員や客の動きが今一つ明快さを欠いた原因は、この矛盾ゆえではないかと思われるのだが、如何に。

 その点、第2幕は、脇役の動きを主として店のスタッフに絞ったことによって、話は辻褄が合ったように感じられる。

 歌手。何といってもアディーナの高橋薫子が、演技も歌唱も絶品だ。この人を観て、聴いているだけで充分舞台の醍醐味があるが――。ネモリーノを歌い演じたエマヌエーレ・ダグアンノは、ソット・ヴォーチェさえ上手くなれば文句ないだろう。ベルコーレの須藤慎吾は威勢がよくて役柄にぴったり。

 総じて歌唱面では満足すべきものが多いが、残念ながら指揮(園田隆一郎)がいかにも力不足だ。音楽に活気と軽やかな流れが皆無で、「間」がもたないのである。東京フィルともども、こんな生気のない演奏では、ドニゼッティの音楽の良さは発揮できない。

6・13(土)シュテファン・アントン・レック指揮東京交響楽団
マーラー「悲劇的」

    サントリーホール 6時

 NHKホールでの演奏はちょうど5時に終ったが、渋谷近辺でデモに引っ掛かり、しかも信号機が故障したらしく道路は麻痺状態。やっと渋谷を抜け出たのが5時33分、青山通りを10分で飛ばして、何とか6時からの東響定期に滑り込む。

 前半でシューマンの「チェロ協奏曲」を弾いたダニエル・ミュラー=ショットの、清潔で豊潤な表情がいい。ただでさえ長いプロのオーケストラの定期で、ソロ・アンコールを2曲(ラヴェルの「ハバネラ形式の小品」とブロッホの「祈り」――いずれも無伴奏)もやるのはどうかと思うが、しかしこの演奏がまたすばらしく瑞々しかったのである。

 その協奏曲で、やや低徊趣味の、アナログ的な(?)伴奏をしたレック。
 この調子でマーラーの巨大な第6交響曲「悲劇的」をやられたら、と腰が引けたが、案に相違して強いアタックの、鋭いリズム感を備えた演奏が開始された。第1楽章は「躁状態」のマーラーそのものといった感だったし、第2楽章も極めて引き締まったスケルツォとなっていた。
 ただ、第4楽章は――かなり精緻に仕上げられてはいたが――もう少し劇的に起伏のある「闘争性」があってもよかったのでは、と思う。長いプログラムで、さすがの東響も息切れしたか? レックは総じて、両端楽章で何度も現われるあのイ長調からイ短調へ瞬時に変わるモティーフを、それほど重要視していないように感じられる。

 客席は満席に近い。今日のお客さんは、いろいろな意味で、すばらしかった。
 

6・13(土)準・メルクル指揮NHK交響楽団 「夏の夜の夢」他

  NHKホール マチネー

 前半がジャン・フレデリック・ヌーブルジェをソリストに迎えたベートーヴェンの「ピアノ協奏曲第1番」。この若い(23歳)ピアニストは近来屈指の注目株だ。ベートーヴェンの若い作品における叙情的な側面を、自らのスタイルで浮き彫りにして見せる。20日のリサイタルがいよいよ楽しみになる。

 後半はメンデルスゾーンの「夏の夜の夢」全曲。メルクルがN響から不思議な透明感を持った音色を引き出した。1階席で聴いた範囲では低音がかなり強く響いており、そのため音楽がやや重いイメージになっていたが、それでも音色は明晰で、各声部がはっきりと聞こえ、メンデルスゾーンの音楽が持つ精妙な音の綾が多彩に繰り広げられるのには感心した。

 序曲で、スケルツァンドな木管や弦の向こう側から、やや音を割ったホルンがすこぶる鮮烈な音で響く。面白い感じだった。
 この演奏を聴いていて、ハタと思い当たったのが、プロコフィエフの「炎の天使」の悪霊が跳梁する場面で、飛び交う弦の中にホルンが短く鋭く何度も咆哮する音楽だ。あれはまさしくこの「夏の夜の夢」の精霊の音楽からヒントを得たものではないかと。

 ただ今日の演奏は、いわゆる夢幻的な、妖精的な音楽の面白さを味わうという面になると、果たしてどうだろうか? 合唱(東京音大)とソリ(半田美和子、加納悦子)も、軽快な美しさという点では、先日水戸で小澤征爾の指揮で聴いた東京オペラシンガーズと中嶋彰子他の歌唱に一歩を譲るだろう。

 ナレーターは中井貴恵が担当した。やや演劇調だが、悪くない。
 彼女のせいではないが、「序曲」のあとにシェイクスピアの原作について「聴いていただきましょう」(とは言わなかったが)的な「解説」を彼女に喋らせたのは、いかにも「NHKの放送」的センス。音楽と物語のロマンティックな雰囲気のバランスを、見事にぶち壊してしまう。

6・12(金)ウラジーミル・スピヴァコフ指揮
ロシア・ナショナル・フィルハーモニー交響楽団

    サントリーホール

 スピヴァコフが指揮台に上って、指揮棒を振り上げる。「ロメオとジュリエット」(チャイコフスキー)の最初の音を予想した瞬間、始まったのは「君が代」。誰しも不意を衝かれたという感だったろう。両国国歌の演奏の最中、外国人客も含めて、起立したのは多くても10人程度か。いずれにせよコンサートホールでは、それぞれの考えに任せれば充分。しかしこの国歌の響きから早くも、噂に聞くこのロシア・ナショナル・フィルが本当にいい音色を持った優秀なオーケストラである――ということが聴き取れたのは事実であった。

 プーチン大統領の肝煎りで2003年に創設されたこのオーケストラ、たしかに優秀な楽員を揃えているようである。個々の奏者の技量も基本的にしっかりしているし、とりわけ弦の音色の瑞々しい輝かしさは、「ロシアの弦」の伝統を受け継ぐものだ。
 チャイコフスキーの「ロココ風の主題による変奏曲」と「アンダンテ・カンタービレ」(チェロとオーケストラによる版)、休憩後のショスタコーヴィチの「第5交響曲」など、いずれも厚みのある明るく洗練された音色、均衡の保たれた響きにあふれていた。

 ただ、それはいいのだが、肝心の芸術監督・首席指揮者のスピヴァコフの指揮が――昔とほとんど変わっていない。
 特に今日は、終始イン・テンポの指揮。しかも音楽のエスプレッシーヴォにも、曲想に応じて刻々変化するといった要素が皆無なのだ。要するに、演奏が何とも単調なのである。
 かようにサウンドを磨くことだけにこだわった演奏では、作品本来の美しさ以上のものは創り出せまい。その意味で、「ロメオ」も「ロココ」も「カンタービレ」も、金太郎飴みたいに一本調子な演奏であった(ソロのガブリエル・リプキンも今日は彼に似合わず音楽にノリが不足していたようだ)。

 むしろ、アンコールでの3曲――シュニトケの「アダージョ」、チャイコフスキーの「チャールダシュ」と「トレパック」――のような軽い小品の場合は、彼らのしなやかな響きが存分に生きる。特に「チャールダシュ」の最初のラーシュ(ラッサン)における驚異的に艶っぽい弦の音色は、なるほどこれぞハンガリー民族舞曲の味か、と思わせるほどであった。

6・10(水)新国立劇場「ラ・チェネレントラ」2日目

  新国立劇場

 新国立劇場がこのロッシーニの「ラ・チェネレントラ」を取り上げたのは、意外にもこれが最初。レパートリーの嘆かわしい空白の一つがやっと埋められたことになる。

 ただし演出・装置・衣装は、21年前に他界した名匠ジャン=ピエール・ポネルが制作したもので、今回の演出・演技指導はグリシャ・アサガロフが行なったという。装置と衣装はともかく、演出にはポネルのそれらしい洒落た味もあるのは事実だが、舞台のあちこちに感じられる「隙間」のようなものが何かもどかしい。もしポネル本人が直接采配を振るっていたら、おそらく遥かに密度も濃く、美しい舞台になっていたろうに――と思っても詮無きこと。

 とはいうものの、3人の主役歌手のおかげで、舞台の体裁は保たれた。
 チェネレントラには、強豪(!)ヴェッセリーナ・カサロヴァ。シンデレラ役としては少々オッカナイ雰囲気だし、独特の「カサロヴァぶし」の炸裂は強烈な個性に過ぎて好みが分かれるのも致し方ないが、これだけ存在感のあるメゾ・ソプラノが新国立劇場に初登場したのは歴史的(?)なことなのかもしれぬ。

 王子ドン・ラミーロのアントニーノ・シラグーザは、昨年暮にベルリンで「アルジェのイタリア女」のリンドーロを聴いた時(あの時も相手役はカサロヴァだった)に比べると、少し勢いに不足する感もあったが、聴かせどころのアリアでは充分に本領を発揮、最後のくだりをアンコールする余裕も見せてくれた。
 従者ダンディーニはロベルト・ディ・カンディア。この人は派手ではないが、安心して聴いていられるタイプだ。
 強欲な父親ドン・マニフィコ役のブルーノ・デ・シモーネと、黒幕的な哲学者アリドーロ役のギュンター・グロイスベックがもっと一癖も二癖もある表現をする人たちだったら、今回の舞台は実に楽しいものになったであろうに、それが残念至極である(演出次第でどうにでもなるはずなのだが・・・・)。

 性格の悪い娘クロリンダとティースベをそれぞれ演じた幸田浩子と清水華澄は、3枚目的な大熱演。外国人歌手勢がほとんど演技らしい演技を見せない(これは何ともなさけない)ので、代わって舞台を明るく引き立てるのに貢献したともいえよう。新国立劇場合唱団(男声)もよくやっていた。

 指揮は、カサロヴァの希望で今回選ばれたとか聞く、英国のデイヴィッド・サイラス。管弦楽は東京フィル。
 序曲の最初のマエストーゾあたりでは音楽に全く生気が感じられず、これは危ないかなと思ったが、アレグロ・ヴィヴァーチェの途中あたりから演奏に少しノリが出て来た。総じてリズム感に不足するのが問題だが、アリドーロのアリアでの木管のハーモニーや弦の歌などきわめて美しく印象的だったし、全曲を通じて「ロッシーニ・クレッシェンド」の音のバランスの良さもなかなかのものであった。

6・8(月)下野竜也指揮読売日本交響楽団とザビーネ・マイヤー

   サントリーホール

 1曲目のウェーバーの「オイリアンテ」序曲がえらく真面目くさった演奏だったせいか、2曲目の同じくウェーバーの「クラリネット協奏曲」を吹いたザビーネ・マイヤーが、いっそう光彩陸離と輝く存在になった。
 ソロ・アンコールで演奏して見せたストラヴィンスキーの「クラリネット・ソロのための3つの小品」からの一つとともに、ずば抜けた個性の冴えを示す。今夜の演奏会の人気をさらった感がある。

 とはいえ、ホストグループも面子にかけ、休憩後のドヴォルジャークの交響曲第1番「ズロニツェの鐘」で気を吐き、存在感を奪回した。これは下野&読響のドヴォルジャーク・シリーズの一環。

 この曲をナマで聴いたのは、私はこれが初めてだ。
 ドヴォルジャークの交響曲は、「3番」以降は好きなのだけれど、「1番」と「2番」はどうもこれまで一度も面白い曲だと思ったことはなかった。
 だが、今日の下野と読響の演奏を聴いてみると、これはなかなか、悪くはない曲だね、という気になる。第3楽章の民族舞曲風の主題をはじめ、ところどころにこの作曲家らしい愉快なリズムや旋律が顔を見せるのだが、レコードで聴いた時より、今日はそれがはるかに生き生きとした音楽に感じられたのであった。貴重な演奏に感謝しよう。
 アンコールは同じドヴォルジャークの「わが母の教え給いし歌」(管弦楽編曲版)。この曲を含め、今日はオーボエが映えた。

6・7(日)東京二期会 モンテヴェルディ:オペラ「ウリッセの帰還」

      北とぴあ さくらホール  午後2時

 コンヴィチュニーのワークショップはまだ続いており、後ろ髪引かれる思いだったが、1時15分に中座し、混雑の上野公園を抜けて、上野駅から京浜東北線の快速で10分ほど、王子駅近くの北とぴあに入る。
 モンテヴェルディのオペラ「ウリッセ(=ユリシーズあるいはオデッセウス)の帰還」の上演である。高関健指揮の東京交響楽団、演出は高岸未朝。

 このオペラ、登場人物は非常に多い方だし、しかも今回はハンス・ヴェルナー・ヘンツェの編曲による超大編成オーケストラでの演奏(日本初演)で、相当な制作費もかかったろう。申請していた文化庁からの補助金が認められなかったとかで(私が審査委員をつとめている分野ではないのだが)かなり苦労したようである。
 にもかかわらず、よくここまでやったと思う。二期会の意欲的な力作であった。

 ヘンツェ版オーケストラは、エレキや打楽器なども加わった、4管編成の多彩で強大なもの。管楽器の使用が思いがけぬ音色を生んだり、和音が異様に分厚くなったりして驚かされるところもあるが、なるほどこういうテもあったかと感心させられることも多く、やはりこれはこれで面白かった。東京響の力演と、高関健のまとめの巧さが成功の一因であろう。

 演出は、演技がすこぶる類型的で平凡だったことを除けば、全体の構成はよくまとまっており、音楽をもとにした場面の設定や展開などもていねいに考慮されていた。
 ただ、衣装を含めてトラディショナルなスタイルを選んだのは、めずらしいオペラの紹介ということと、2幕併せて正味3時間という長丁場を楽しく見せようということからなのだろうか。おカネがかかったのでは?

 若手中心の歌手陣が健闘した。特に良かったのは、ユリッセ役の小林昭裕(バリトン)、妻ペネロペ役の金子美香(メゾ・ソプラノ)、海神ネットゥーノ役の北川辰彦(バス)、王の忠実な羊飼エウメーテ役の森田有生(テノール)、女神ミネルヴァ役の佐藤奈加子(ソプラノ)。

6・7(日)ペーター・コンヴィチュニー オペラ演出ワークショップ最終日

   東京藝術大学音楽学部第6ホール  午前10時半~

 6日間にわたったワークショップ(演出指導講座)の、今日は最終日。都合で午前の部のみ見学させていただく。

 今日は「魔弾の射手」からの「アガーテとエンヒェンの場」がテーマ。
 その前半では、エンヒェン(熊田彩乃)がアガーテ(竹多倫子)を元気づける「ロマンツェとアリア(第13番)」が素材で、2人に魔法をかける悪魔の役をソロ・ヴィオラ(阿部春花)に演じさせる趣向。3人とも藝大の専攻生だが、ヴィオラ奏者がなかなかの役者ぶりであった。

 しかし、やはり面白かったのは、後半の「アガーテとエンヒェンの二重唱(第6番)だ。
 演じていたのは、アガーテを橋爪ゆか、エンヒェンを吉原圭子。いずれも二期会の若手第一線歌手だけあって、学生とは違って呑み込みも早く、指示されれば自ら演技を工夫して展開して行く力のある人たちだから、観ていても楽しい。

 ここではコンヴィチュニーが、この2人の女性の性格の違いや心理の動きを分析する前提として、作品の性格や時代背景や音楽の構成を綿密に解説して行く。
 (大詰め場面に登場する謎の「隠者」と、ギリシャ劇や旧いオペラで最後に登場して物語を大団円にひっくり返す「神」との共通性を、そこでの転調と関連させて分析して行く話は、とりわけ面白かった)
 歌詞のキーワードから、音楽の転調、和声の動きにいたるまで、あらゆる要素をもとにして2人の心理を分析しつつ演技を創り上げて行く指導の手法は、さすがのものがある。
 
 自らピアノを弾いての序曲のアナリーゼなどは、なまじの指揮者よりもよほど専門的だ。
 序奏のアダージョの冒頭は「神のいない世界への悲痛な呼びかけ」であり、「良き時代への想い」(有名なホルンの主題)を経て悲劇的な世界が始まる――といったように、序曲の中に描かれた政治観や宗教観や人生観を分析、それらを基盤にしてドラマ全体の演出を組み立てて行く考え方も、実に興味深い。それは、まさに「音楽の視覚化」といってもいいほどである。
 このようにして創られた演出は、オペラというものの可能性をいっそう拡げることになるだろう。

 コンヴィチュニーが実際にドイツで行なっている演出がすべて納得できるものとは必ずしも言えないし、またこのような演出コンセプトを持つ演出家は必ずしもコンヴィチュニー独りではないけれども、少なくとも今回の彼の「オペラ演出ワークショップ」は、わが国のオペラ演出界や歌手たちにとって、非常に有益なものだったはずだ。
 なぜなら、残念ながらわが国のオペラ演出家や歌手たちの中には、ただ客席を向いて両手を拡げたり、無意味に片手を差し延べたりするだけのような、昔ながらの類型的な身振り――つまりドラマトゥルギーの欠如としか思えないような演技――のみを善しとする傾向が、未だにあまりに多く見られるからである。

6・6(土)ボリショイ・オペラ来日記念講演会
「ロシア・オペラの世界 リアリズムとシュールレアリズム」

    東京国際大学大学院早稲田サテライト マルティ・ホール

 ボリショイ・オペラ6月の来日公演曲目、「スペードの女王」と「エフゲニー・オネーギン」に関する研究会的講演会。これは自分も話したもの。

 ひのまどかさん(音楽作家)が前者について「プレトニョフとフォーキン 渾身のプロダクション」と題し、田辺佐保子さん(ロシア文学研究)が後者について「文学とオペラと演出と」と題し、それぞれモスクワ上演の記録映像を使いながら講演したあと、5時からの出番となった私が両者の作品について十数種類の映像を使いながら「同一場面における演出の比較」を行なった。
 特に「オネーギン」は、その人物像の複雑な性格ゆえに、演出上での多種多様な解釈も生れ、話題に事欠かない。

 これは「マリインスキー・オペラ友の会」の主催で、2時から6時40分までの長丁場。参加者は70名ほど。

6・5(金)フェドセーエフ指揮モスクワ放送交響楽団「イオランタ」

  サントリーホール

 チャイコフスキー最後のオペラ「イオランタ」の、純演奏会形式上演を聴く。
 一昨年秋にロジェストヴェンスキーが読売日響を指揮した演奏会形式上演も良かったが、やはり今日は、一枚上を行った感がある。

 最大の要因は、フェドセーエフが手兵モスクワ放送響を自在に制御して引き出す弱音の美しさに在るだろう。昨日の「第4交響曲」と同様、16型(コントラバスは同じく10本)のオーケストラをフワリと柔らかく、豊かな空間的拡がりを持たせて響かせるその音づくりの見事さは名人芸だ。

 今日の演奏でも、ヴォデモン伯爵とロベルト公爵が近づいて来る個所や、レネ王たちが登場する個所、終結近くロベルト公爵が連隊を率いて接近して来る個所など、「遠くから誰かが近づいて来る瞬間」で、オーケストラが波打ちながら次に「来る」ものを予感させる――そういう演奏が、なにしろ図抜けて巧く、美しいのである。
 また、医師エブン=ハキアがイオランタ姫の眼の治療について王を説得するアリアでオーケストラが次第に高潮して行く部分も、熟練のワザだ。チャイコフスキーの劇的手法と管弦楽法の冴えをこれほど見事に浮き彫りにしてくれた演奏は、私にとっては初めて聴くものであった。

 イオランタ役は、読売日響の時にも歌った佐藤美枝子。ロシア人ソリストたちの中にただ一人、それもタイトルロールを歌うということで一抹の不安もなくはなかったが、それは完全に吹き飛んだ。前回よりもはるかにのびのびと歌っていた。
 9人の共演歌手たちも手堅く安定。P席に配置されたモスクワ合唱団(ウラジーミル・ミーニン指揮)のメンバーも、目立つ個所は少ないけれどもよく歌っていた。

 字幕は一柳富美子さんだろう。読売日響の時と同じだった。彼女の字幕は言葉が生き生きしていて解りやすく、私は好きである(レネ王のモノローグの中で一つだけよく解らないところがあったが、そんな細かいことはどうでもいい)。
 ただし今回の字幕板の設置場所は、オルガン両横の高い所(サントリーホールでは時々あそこが使われる)。雲煙万里の彼方(?)だ。目が疲れる。

6・4(木)ウラジーミル・フェドセーエフ指揮
モスクワ放送交響楽団(チャイコフスキー交響楽団)

  サントリーホール

 コントラバス10本が舞台奥一列にずらりと並ぶ配置は、いつ見ても壮観。この楽器はそう配置した方がよく響くのだ、とだれかが言っていた。

 コントラバスだけでなく、このオーケストラの弦は、全部が実にたっぷりと豊かに鳴る。「ロシアの弦」の威力だ。「白鳥の湖」の序奏、オーボエのあとにチェロが美しく朗々と歌い始める瞬間から早くも、このオケの弦はいい状態にある――と実感できるのではなかろうか。
 「第4交響曲」でも同様である。第1楽章では、たとえば第99小節からの4小節間、弦全体がユニゾンで大津波のように滔々と押して行くさまは迫力そのものだし、第2楽章の副次主題でも、弦の響きがふくよかな哀感に満ちて懐かしい。

 交響曲は、総じてくぐもった音色で、翳りの濃い響きで演奏されたが、これはフェドセーエフとこのオーケストラの近年のお家芸ともいうべきものである。永い間コンビを組み、互いを知り尽くしている指揮者とオーケストラの最良の結実――と言っていいであろう。

 前半の曲目、「白鳥の湖」は、フェドセーエフ自身による選曲。有名な第2幕の「情景」が入ってないのはつまらない、とぼやいている人もおられたが、まあ、「ウェストサイド・ストーリー」の「シンフォニック・ダンス」版に「トゥナイト」が入ってないという例もあることだし、仕方ありますまい。
 とにかくこれは、超遅テンポで、バレエ的要素を一切排した、さながら重戦車軍団が最徐行で地響き立てて進軍して行くような「白鳥の湖」であった。

 交響曲の方もかなり遅めのテンポで、最弱音を多用し、テンポの変化についてもスコアの指定以上に趣向を施している。第2楽章の中程のピウ・モッソのテンポが、それ以前のテンポをそのまま引き継いだものだったのには驚いたが、しかしそれはそれで面白い効果を生んでいた。
 いずれにせよ、フェドセーエフの楽曲構築の設計はさすがに見事と言ってよい。第4楽章で「運命の動機」がそれまでの喜びを中断するというくだりも、まさにその必然性が納得できるという感じなのだ。そして、くぐもった音色にもかかわらず、すべての声部は明晰に聞こえる。こういう演奏で聴くと、チャイコフスキーという人は、なんと管弦楽法の巧い作曲家だったのだろう――と実感できるのである。

 2曲のアンコールもチャイコフスキーで、「四季」からの管弦楽編曲版による「4月」――会場での表示では「雪の下」となっていたが、普通は「雪割草」という訳が使われているのでは? それに「白鳥の湖」からの「スペインの踊り」。
 後者でタンバリンを叩いていたおじさんは、以前「雪娘」の「道化師の踊り」で、二つのタンバリンを両手で頭上高く振り回して大見得切っていた人ではなかろうか。今夜も最後は二刀流で、派手なところを見せていた。

6・3(水)アイヴォー・ボルトン指揮
ザルツブルク・モーツァルテウム管弦楽団

  東京文化会館大ホール

 ハイドンの「時計交響曲」、ラルス・フォークトをソリストにモーツァルトのピアノ協奏曲第20番、休憩後に「ジュピター交響曲」。アンコールにはモーツァルトを4曲も――「フィガロの結婚」序曲、行進曲K.335(320a)のⅠ、コントルダンスK.534「雷雨」、カッサシオンK.63。

 シンフォニーの弦は8・8・5・4・3という編成で、対向配置を採っていない。ホルンとトランペットには、所謂古楽器を使用している。
 スダーンが首席指揮者をつとめていた時代よりは音を柔らかく響かせるオーケストラになったような気もするが、かなり厚い響きを出すところや、アンサンブルにそれほどシビアさを求めないところなどは、以前と同じような印象を与えるだろう。しかし、歯切れよい明快なリズム感が快い。

 「時計」から協奏曲の冒頭までは心なしか畏まった演奏が続き、この指揮者とピアニストらしからぬ妙におとなしい雰囲気だったが、協奏曲の第1楽章の途中から音楽が突如として生気を取り戻した。情熱的な激しさも加わって、以降は沸き立つような演奏に。
 フォークトの演奏も同様、フォルテピアノ的な軽やかな音の粒立ちに、途中からにわかに凄まじい気魄をみなぎらせはじめる。「モーツァルトの短調」特有の強い推進力が再現され、聴き応えのある「K.466」となった。

 「ジュピター」もがっちりと組み立てられた演奏。ボルトン自らユーモラスな曲紹介(結構賑やかな人だ)をやりながらのアンコールでは、演奏に解放感が生れて行く。

6・2(火)ペーター・コンヴィチュニーのオペラ演出ワークショップ

  昭和音楽大学ユリホール

 (前項に続く)
 その6日間にわたる「オペラ演出ワークショップ」の、今日は初日。

 3時から行なわれた記者懇親会での質疑応答では、私が質問した「なぜオペラのクライマックスで音楽を止め、そこで登場人物たちが議論を行なうような手法を選ぶか」に答えての説明などもあって面白かったが――私が質問したのは本当はそのことでなく、「演奏が再開された時に、それまでの音楽の高揚の流れが中断されてしまい、演奏が白けてしまった例がいくつかあったが、その危険性についていかがお考えなりや」ということだったのだが、結局彼は言外に「それは指揮者の責任」という意味を含ませたかったらしい。

 2時間にわたる懇親会のあと、コンヴィチュニーはそのままたいした休憩も取らずに6時から「演出ワークショップ」――「公開演技指導」に入り、3時間以上にわたって実地指導とビデオによる演出のレクチュアを行なった。
 素材は「タンホイザー」第3幕の「エリーザベトの祈り」と「夕星の歌」。歌詞と音楽とに基づく精密詳細きわまる心理分析を行ない、それを演技として指示して行く。

 前者の歌では、「祈り」というより「絶望」の感情を強く表現することをエリーザベト(伊藤さやか)に指示、彼女が「肉欲への悔悟」を口にしたことに驚愕動転するヴォルフラムの感情を巧く表現するよう歌手(月野進)に指示する。
 そのあとの長い間奏の個所では、エリーザベトがヴォルフラムの秘めた愛に慰めを見出して行く過程を緻密に表わすよう指示。そして、「夕星の歌」の中で彼女が自ら剣で手首を切り、彼の膝の中で安息を得て死んで行く場面の指導に移る。

 すべてこれらはト書とは異なる、コンヴィチュニー独自の解釈による演出であり、登場人物の心理や相関関係を深く読み込んだ演出である。
 それゆえ、彼の「タンホイザー」演出では、タンホイザーやエリーザベトよりもヴォルフラムの存在が非常に重要となるのだ。
 昨年春に観たドレスデンでの上演では、マーカス・バッターの実に巧みな演技で、見事にそれが表現されていた。ヴォルフラムは、エリーザベトのことを想って取り乱し続ける、非常に多感な男として描き出されていたのである(来日上演では、代役で来たアラン・タイトゥスが全篇棒立ちで全く演技をしなかったため、主役3人の三角関係が全然浮き彫りにされず、平凡な舞台と化していたのは痛恨の極みであった)。

 最後に彼の演出による「ヴォツェック」のマリー殺害の場面がビデオで紹介されたが、そこではマリーが単にヴォツェックだけにより殺されるのではなく、「社会」に制裁され殺されること――これは「エフゲニー・オネーギン」でレンスキーが「世論=マスコミ」により殺されるという彼の演出と共通している――が表現されていた。
 このように、主人公にのみ悲劇の責任を負わせず、その原因を社会と関連させて考えるという、ある意味での「主人公に対する温かい同情の念」は、コンヴィチュニーの演出コンセプトにおける特徴の一つというべきものであろう。

 さながら演出学校の実地を見学するような気持にさせられるこのワークショップは、オペラ関係者にとっても、われわれ観客にとっても、実に有益である。
 日本のオペラ界がこのような演出教育のシステムを常備するまでには、まだ随分時間がかかるだろうが――そして、かりに常備されても、それが効果を表わすようになるまでには、気が遠くなるほどの時間がかかるだろうが――とにかく今、だれかが手をつけなくてはならない。
 その意味でも、今回のこのプロジェクトは、計り知れないほどの意義があるだろう。
 一般公開は今日だけだが、ワークショップそのものは7日まで行われることになっている。主催は昭和音大と東京芸大、ドイツ文化センター。

 なお、二期会の方からの公式発表は未だ無いが、コンヴィチュニーは来年と2013年に二期会でオペラ・プロジェクトを行なうことになっていると自ら語っていた。 

6・2(火)METライブビューイング ロッシーニ:「ラ・チェネレントラ」

   新宿ピカデリー

 もうおなじみになったメトロポリタン・オペラのライヴ録画シリーズ、今シーズンの最終回。去る5月9日に上演された「ラ・チェネレントラ」のビデオ上映。

 今回の指揮はマウリツィオ・ベニーニ、演出はチェーザレ・リエーヴィで、ごくまっとうなプロダクション。気軽に楽しめることは事実だ。
 毎度のことながら、ビデオの映像収録のテクニックの、なんと要を得て緻密で豪華で、流れがいいことであろうか。NHKも、こういうセンスを少し参考にしてもらいたいものである。

 チェネレントラ(シンデレラ)役のエリーナ・ガランチャ、父親ドン・マニフィコ役のアレッサンドロ・コルベッリ、哲学者アリドーロ役のジョン・レリエが、いい演技と歌唱を示していた。10時上映開始で、休憩時間(映像)およびトーマス・ハンプソンの案内によるインタビューなどを含め、終映は1時半頃。

 次のイベントに間に合うよう、終るや否や会場を飛び出し、新宿から小田急で新百合ヶ丘駅に向かう。今日は昭和音楽大学で、人気演出家ペーター・コンヴィチュニーによる「オペラ演出ワークショップ」――つまり彼による公開「オペラ演技指導」がある。
 何年か前、シュトゥットガルト州立劇場で彼が演出した「神々の黄昏」を観た時、終演後のパーティで「来月はMETへ行く予定だ」と私が話したら、彼がニヤニヤ笑って「あんなとこ、行くのやめなよ」とのたもうたことがあった。コンヴィチュニーとMETとが相容れない個性であるのは自明の理。今回もまさにその「相容れない」二つをハシゴするわけであり――。

6・1(月)N響 MUSIC TOMORROW 2009

   東京オペラシティコンサートホール

 ジョナサン・ノットが指揮して、今年の尾高賞受賞作品である原田敬子の「エコー・モンタージュ~オーケストラのための」と藤倉大の「secret forest for ensemble」、N響委嘱による斉木由美の新作「モルフォゲネシス」(世界初演)。最後に庄司紗矢香が特別出演してリゲティの「ヴァイオリン協奏曲」を弾いた。

 「MUSIC TOMORROW」にしてはなかなか客の入りがいい、と思ったら、N響事務局いわく「庄司効果です」と。それで彼女の演奏をプログラムの最後に置くというのは、少々アコギだが――まあ、それでお客さんに現代音楽を聴いてもらえるのなら、それもよかろう。

 新作をたった一度ナマで聴いただけであれこれ言うのはおこがましいし、私にはそんな大ワザはとても出来ないから、日記としては印象だけを一言書いておくにとどめる。

 どれも力作で、大変面白かった。
 原田敬子の「エコー・モンタージュ」は――プレトークで藤倉が言っていたように――なるほど「男っぽい」強い力を持つ曲だ。一部の奏者を客席に点在させる、いわゆる「空間配置」をも採用しているが、ただこの効果は一部の客席でしか発揮しにくいものだろう。
 斉木の「モルフォゲネシス」は、彼女得意の(?)「虫の声」のモティーフを取り込んだ美しい曲で、その律動感が耳に残り、ずっと拍節が続いているような快い感覚に陥る。

 藤倉の「secret forest for ensemble」は、舞台上に弦楽合奏が、客席に管楽器群が点在して配置される。管楽器奏者たちがそれぞれ持つレインスティックが不思議な響きを作り出すが、空間配置そのものは、1階席ならともかく、上階席の聴衆に対してはさほど効果的ではない。
 だが、音色の多彩さと、音楽のインパクトの強さという点からみれば、さすがに彼は今夜の若手作曲家たちのうちでは、一歩も二歩も先んじているだろう。

 庄司の演奏によるリゲティは、これはもう別格的存在だ。
 

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