2017-02

5・30(土)沼尻竜典指揮日本フィルの「アルプス交響曲」

   サントリーホール

 マーラーの「交響曲第10番」の「アダージョ」と、R・シュトラウスの「アルプス交響曲」の組み合わせ。

 日本フィル、久しぶりに聴く快演である。完全な復調というには未だしだが、この調子で数年間、力を積み重ねて行ってくれれば、先は明るいだろう。
 ただし、緻密にオーケストラをまとめる力のある沼尻は、すでに指揮者陣から外れている。次のシーズンの東京・横浜定期には、彼の名は見られない。それゆえ、ラザレフ、ビエロフラーヴェク、ジークハルト、インキネン、飯守、広上、上岡といった首席や客演の指揮者たちがオーケストラをどのように引っ張って行くか、だ。

 「アダージョ」は、かなり集中力に富む演奏だった。
 一方の「アルプス」はすこぶる壮烈な「登山物語」になった。トランペットとホルンが今日はなかなか好調で、そのため華やかな高音域での叫びが映える。狩の場面のホルン群はP席後方、オルガンの下にずらりと並んで一斉に咆哮したが、これも今日は快調であった。嵐をついての下山の場面で、いろいろなモティーフがもう少し――特にホルンがもう少し壮絶に浮かび上がればいっそうスペクタクルな描写音楽になったろうが、もともとこの曲はどんなオーケストラがやっても散漫になることが多いから、贅沢はいえまい。

 それでも、今日の沼尻と日本フィルの演奏での響きのバランスは、私がこれまでナマで聴いた「アルペン」の中では、かなり良い方に属する。「頂上」や「日没」での管楽器群の響きは、とりわけ優れていた。
 あえて注文をつければ、たとえば全曲冒頭の小節や、「日の出」に入る個所(練習番号7前)、嵐が去った後で「山」が再び偉容を現わす瞬間(練習番号128)など、かんじんな個所でオーケストラの呼吸がどうも合いにくいように聞こえるのだが――このあたりに日本フィルの基本的な問題が絡むのかもしれない。
 
 とはいえ沼尻は、オーケストラをよくここまでまとめたものだ。テンポの設定も適切だ。特に頂上場面から日がかげる場面への流れがいい。「嵐」直前の緊迫感も、なかなかのものであった。

5・29(金)クリスティアン・アルミンク指揮新日本フィルの
ワーグナーとベートーヴェン

  すみだトリフォニーホール

 アルミンクのワーグナーは、一切の贅肉を削ぎ落とし、交錯する音の線を浮き彫りにしたような音楽ともいえようか。
 昨年9月の「トリスタン」の「前奏曲と愛の死」でも感じたことだが、そういう、良くも悪くもクールなスタイルのワーグナーには、なるほどと思うところも少なくない。とはいえ、陶酔に引き込まれるタイプの演奏とは言いがたい。
 いずれにせよ、「ワーグナーの毒」を抜き取った演奏――もしくは解毒剤を施したワーグナー解釈といったものが若い世代の指揮者の中に増えて来ている今日この頃、徒に好みだけにとらわれることなく、もう少しフランクにそういう演奏と向き合わなければなるまい。あまり好きなテーマではないけれども「ワーグナーの非ナチ化」云々のような問題と絡めて考える必要があるかもしれないのだから。

 プログラム冒頭におかれた「さまよえるオランダ人」序曲は、「救済の動機」で終る版で演奏された。オーケストラはごうごうと鳴り渡ったが、全体に硬く冷たい音楽で、古人が言った「スコアのどのページからも海の風が吹いて来る」という雰囲気からはいささか遠い。この曲から「海の雰囲気」を取り去ったら、あとに何が残るか? 

 休憩後は「指環」からの4曲。
 「ラインの黄金」からは「嵐」の後半から「神々のワルハラ入城」にかけての部分で、最後はそれなりに立派に昂揚したものの、それ以前の個所は何か不思議に田園的な、のどかな音楽に聞こえてしまった。「ワルキューレの騎行」はリズミカルで屈託ない演奏で、オーケストラのバランスもすこぶるいい。
 「森のささやき」は、新日本フィルの波打つ弦の美しさと木管の好演とで、この演奏が4曲中の白眉であったろう。
 「神々の黄昏」からは「自己犠牲」の抜粋からラストシーンにかけての部分が演奏されたが、新日本フィルもここでは引き締まった響きを聴かせた。

 総じて、好みを別とすれば、アルミンクの解釈そのものには筋が通っており、新日本フィルの演奏も概して清澄明晰で、白色の照明に照らされた音の綾――といった趣きがある。

 プログラム前半で、序曲の後に演奏されたのはベートーヴェンの「ピアノ協奏曲第1番」だった。ソロはピョートル・アンデルシェフスキ。
 ワーグナーを目当てに来たものの、結果として今夜一番気に入ったのは、実はこの協奏曲の演奏だった。オーケストラもピアノも、ニュアンスが精妙で瑞々しい。ワーグナーの間にあって、この曲と演奏は、あたかも清涼剤のような存在となっていた。
 特にアンデルシェフスキのピアノの自然でのびやかな爽やかさは絶品で、アルミンクと新日本フィルの引き締まったリズム感と見事な均衡を保っていた。高音域での16分音符のさえずるような音型にしばしば彼がかけるちょっとしたルバートが、アンコールで演奏したバルトークの「チーク地方の3つのハンガリー民謡」における高音域でのコブシと妙に共通しているのに気がついて、なるほどと感心したり、ニヤリとしたり。

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5・27(水)鈴木秀美指揮オーケストラ・リベラ・クラシカ演奏会

   浜離宮朝日ホール

 ハイドン没後200年記念の一環。「交響曲第3番」「サルヴェ・レジーナ ホ長調」「オルガン協奏曲ハ長調」「交響曲第44番」という、かなり大規模なプログラムだ。
 オルガンが今井奈緒子、合唱がラ・フォンテヴェルデ、ソプラノが星川美保子。

 このオーケストラ、発足の頃はよく足を運んだものだが、最近はちょっと遠のいていた。今日の公演(定期)がすでに第23回。継続は力なり――であろう。よくやっている。
 シンフォニーでの編成は4-4-2-2-1。久しぶりに聴いて、第1ヴァイオリンが随分力をこめて弾くものだと驚いたのだが、以前もそうだったかしらん? 演奏にもう少し温かさが加わり、学者的な演奏という印象がなくなればいいのだけれども――。

 朝日ホールのレジデント・オーケストラではなくなったのに加え、スポンサー問題でも大変苦労しているようである。存続のために賛助金を、と呼びかけるチラシも挿入されている。
 所用のため、前半を聴かせていただいたのみで辞す。

5・21(木)庄司紗矢香の個展

  プンクトゥム

 ヴァイオリンの庄司紗矢香が、油絵の個展を開いた。

 絵といっても、いわゆる余技という領域のものではない。(大部分は)音楽作品から与えられた彼女自身の心象を絵にしたものであって、言い換えればそれは――彼女の中では「演奏」と同等の位置を占めていることになろう。
 「ヴァイオリンを第1のインタープレテーション(解釈)とするなら、音楽の内に見えるものを絵画や映像で表現するのが私にとっての第2のインタープレテーションである」と彼女はパンフレット「Synesthesia」(シネスタジア=共感覚。音を聴いて色を感じるように、刺激により別の領域の感覚を起こす現象(三省堂仏語辞書より)」に書いている。

 会場には、プロコフィエフの「ソナタ第2番第4楽章」やブロッホの「ソナタ第1番第2楽章」、ベルクの協奏曲「ある天使の思い出に」などによる絵が展示されていた。風景画もあれば、シュールなものもある。曲の性格からして、絵は明るいものではないが、さりとて暗鬱なものでもない。もしかして彼女の心の暗部が覗けるのでは――などという野次馬的な興味は、打ち砕かれる。なお、それぞれの絵の下にはヘッドフォンがあり、該当の曲の一部が聴けるようになっている。

 私も目を閉じて音楽を聴いていると、必ずさまざまな映像のようなものが脳裏をかけめぐり、陶酔的な感覚に陥る。一昨日のポリーニの「西風の見たもの」のところで書いたイメージは、まさにその時に頭の中で渦巻いていた「もの」なのである。ただしそれは、静止した形で捉えることは絶対不可能な「もの」だ。それゆえ、かりに私に絵が書けたとしても、静止画として形にとどめることはできないだろう。

 その意味では、映写された短い映画――庄司紗矢香自身がフランスの映像作家パスカル・フラマンと一緒に作った、ショスタコーヴィチの「前奏曲第22番」に由るモノクロ映像が、私には強い共感を残した。

 彼女は6月1日に、N響とリゲティの協奏曲を弾く。この曲から生れた「中世の手」(部分)という絵も、前掲書に載っている。当日は、それを思い出しながら演奏を聴いてみようか。

 この個展は、東京・京橋の「プンクトゥム」(ハラダビル2F)という画廊で、6月13日まで行なわれている。

5・20(水)松山冴花/津田裕也デュオ・リサイタル

  トッパンホール

 仙台国際音楽コンクールで優勝した、ヴァイオリンの松山冴花(2004年優勝)と、ピアノの津田裕也(2007年)が組んでのデュオ。日本各地ツァー8回のうちの、今夜は5回目の公演に当る。
 プログラムは、ヴィタリの「シャコンヌ」、ブラームスの「雨の歌」、ベートーヴェンの「春」、フランクのソナタ。アンコールにはシューマンの「3つのロマンツェ」の第2番、クライスラーの「愛の悲しみ」、ドヴォルジャークの「4つのロマンティックな小品」の第1曲。

 松山は、他にも外国のいくつかのコンクールで上位入賞を果たしており、ジュリアードに学び、現在はニューヨーク在住とのこと。きわめてスケールの大きな音楽を創る、大輪の花といった印象を与える人だ。
 今夜の演奏でも、ハッと息を呑ませられる個所がいくつもあった。たとえば、ブラームスのソナタ第1楽章第2主題での、見事なカンタービレ。作曲者が指定した「ヴィヴァーチェ」ではなく、むしろ甘美で陶酔的に歌う表情だが、実に美しかった。それと、ベートーヴェンの「春」の第2楽章(アダージョ・モルト・エスプレッシーヴォ)での、官能的なほどの陶酔感。この楽章をこれほど嫋々と歌い上げた演奏を、私はこれまで聴いたことがない。

 レガートとポルタメントを極度に多用する彼女の濃厚な演奏スタイルは、私には共感できない。しかし、彼女の音楽的な主張には強烈なものがある。国際的に活躍するには、このくらいの個性は必要だ。いっそう研鑽を積んで音楽に深みが増して行けば、大物になるヴァイオリニストだと思う。
 
 一方の津田は、コンクール優勝の時にも同じように感じたのだが、いかにもきっちりまとまった几帳面な演奏をする。あまりに生真面目で、音楽に躍動感や拡がりが感じられない。若いのだから、もっと自由奔放に、少しは傍若無人に音楽するという姿勢があってもいいのではないか? 
 
 総じて言えば、少なくとも現時点では、この2人がデュオを組むという必然性は――同一コンクール優勝者という形以外には――さほど感じられなかったのだが、如何に? 

5・19(火)マウリツィオ・ポリーニ ピアノ・リサイタル

  サントリーホール

 前夜ツィメルマンを聴いたばかりなのに、続いて今日はポリーニを聴けるとは、東京の音楽界も凄いものである。

 来日もこれが16回目。1974年以降、2,3年おきくらいに来日を重ねて来たポリーニ。一頃は変貌の気配も感じられ、日本の聴衆を感心させたり、落胆させたりした時期もあったが、今日のリサイタルなどを聴くと、ポリーニぶしは健在であり、しかもきわめてバランスの良い芸風の域に達しているという感を強くさせられる。

 プログラムは、シューマンの「ピアノ・ソナタ第3番」(3楽章版)で開始された。冒頭のアレグロによるフォルテの下行動機を強靭に、かつ明晰に響かせ、さらに16分音符が上昇したあとの第7小節後半、第1主題が始まる直前の8分休符でハッと息を呑ませる呼吸の見事さ。かように――ポリーニの演奏が持つ引き締まった凄絶な緊迫感は、少しも失われていない。そのあとには、同じくシューマンの「幻想曲ハ長調」が続く。

 特に休憩後のシェーンベルクの「6つのピアノ小品」、ウェーベルンの「変奏曲Op.27」、ドビュッシーの練習曲6曲(第7~12番」と流れる音の組み立ては全く見事で、あたかもウェーベルンの断続する音たちを切れ目なく集約するとドビュッシーに変化するような――とまで感じさせてしまう、絶妙な移行の演奏であった。

 さらにアンコールでは、音楽の流れをドビュッシーの「沈める寺」で豪壮に変化させ、「西風の見たもの」では空間を上下左右自由奔放に飛翔するような凄まじさを聴かせ、最後にはリストの「超絶技巧練習曲第10番」(!)で聴衆を打ちのめし、熱狂させるポリーニなのである。
 アンコールの最後にかけてこのように煽りに煽る選曲と演奏を行なった彼を、私は今回初めて聴いたような気がする。今年67歳、ポリーニは健在だ。
 (KAJIMOTOの石川氏から聞いたところによると、ポリーニはこれまでもアンコールでこれらの曲をしばしば弾くことがあったそうである。私がたまたま聴いていなかっただけのことらしい)

 終演後のロビーは大騒動。ポリーニの煽り(?)に興奮したのか、ホールの出口のところにあるスプリンクラーが何だか誤作動を起こしたらしい。正面出口は水の「土砂降り」状態で、通行止めである。客たちはこれまで通ったこともないような出口からゾロゾロと迂回させられたが、天井からジャージャーと水が盛大に落下している正面玄関の光景を、めずらしがってわざわざ写真を撮りに行っている人もたくさんいた。

5・18(月)クリスティアン・ツィメルマン ピアノ・リサイタル

   サントリーホール

 バッハの「パルティータ第2番」、ベートーヴェンの「ソナタ第32番」、ブラームスの「4つの小品」、シマノフスキの「ポーランド民謡の主題による変奏曲」というプログラム。

 4種の曲の流れの中で、音色が次第に分厚く変化して行く面白さを聴かせるあたり、プログラミングの妙と言うべきだろう。バッハの清澄さ、ベートーヴェンの堅固さ、ブラームスの重厚さ、いずれも卓越した自在の境地の演奏だが――やはり最も情熱的で壮絶だったのは、最後のシマノフスキの変奏曲であった。

 ここに至ってツィメルマンは、もはや自己のすべてを解放して故国の作曲家に愛と共感を捧げているように思われる。後半に向けて強烈なダイナミズムを積み重ねて行く息を呑ませるような凄まじさも、それまでの3曲における彼の演奏とは想像を絶するほどの違いがある――もちろんそれは意図的な演奏設計によるもののはずだが。

 最後の「ダメ押し」に次ぐさらなる「ダメ押し」のような盛り上げを圧倒的に創り上げて行く彼のあの演奏を聴いていると、曲が終らぬうちに拍手を始めてしまった人の心情も理解できるような気もする。ただ、それ以降も曲が続いているのに拍手を執拗に続けて止めなかったその人の態度は、不遜に過ぎるだろう。

 アンコールはなかったが、このシマノフスキのあとにそれを求める人は、多分いなかったのではないか。それほど充実した演奏会だった。

5・17(日)宮崎国際音楽祭 
シャルル・デュトワ指揮「七つの大罪」「巨人」

  4時 メディキット県民文化センター(宮崎県立劇場)
  アイザックスターンホール

 宮崎国際音楽祭は今年が第14回で、5月5日から23日までの開催。
 アーティスティック・ディレクターのデュトワが指揮するオーケストラ・コンサートは三つあるが、今日はその二つ目のものだ。プログラムは「フィガロの結婚」序曲、クルト・ヴァイルの「七つの大罪」、マーラーの「巨人」。

 「七つの大罪」は、先日(4月11日)ザルツブルクでラトル=ベルリン・フィルの演奏を聴いたばかりだが、今回の演奏は、それよりずっと面白かった。

 まず、デュトワの指揮である。「プロローグ」でのテンポは非常に速く、しかもリズムは軽く、やはりこの人は「明るい」のかなと思わせたが、その後のアプローチがいい。曲の舞台になっているアメリカ各地の雰囲気を描くジャージーな音楽の扱い方が、実に巧いのだ。ヴァイルの音楽が持つ「陽の部分を浮き出させた演奏ともいえるが、こういう洒落っ気の面では、デュトワは、さすがにラトルより一日の長がある。
 シャンタル・ジュイエをコンサートマスターとする名手ぞろいの宮崎国際音楽祭管弦楽団がまた柔軟に反応していた。これは、ラトルが振ったベルリン・フィルの正確で生真面目な演奏よりも、はるかに躍動的で魅力に富む。
 デュトワにこの曲を東京でもやってもらいたいと思うが、N響相手では、このエスプリは無理だろう。

 第二には、ソリ&コーラスとして出演したハドソン・シャドの変幻自在な表現力。
 これまでに「七つの大罪」を百回以上も歌い、ヴァイルを得意としているこのグループの噂は聞いていたが、なるほどその巧さは卓越している。「飽食」で、「アンナが食べたくなるであろうご馳走の数々」を、涎が垂れんばかりの表情で哀れっぽく歌ってみせるあたり、エンターテイナー的な表現力も天下一品といえよう(これに比べると、ザルツブルクで聴いた4人のソリストは、ただクソ真面目なだけにさえ思えるほどだ)。東京の皆にもぜひ聴かせたいグループである。

 そしてもちろん、ソロの中嶋彰子。
 彼女の歌唱は、欧州系の歌手たち――たとえば先日のキルヒシュラーガーなど――のような「アクの強い」歌い方でなく、「歌」としての美しさを浮き彫りにするスタイルに近い。ここでのアンナは、純な、愛らしい女性としての性格を感じさせるだろう。これもこの曲の一つの解釈だと思う。
 中嶋は、今年秋にはいずみホールで「月に憑かれたピエロ」をやるそうだが、どんなシュプレヒゲザングを聴かせることか、興味が沸く。

  後半の「巨人」も、オーケストラの勢いがいい。第4楽章でデュトワが聴かせたカンタービレが印象的だった。
 なお今回は初めて3階中央(33列)で聴いたが、この場所ではオーケストラをホール全体のたっぷりした響きとして聴くことは難しいようだ。あくまで「下の方にいるオーケストラ」というイメージになってしまい、大音響の「巨人」にしても、音がふくらみを以て「上がって」来ないのである。それが、張り出たバルコン席の屋根のせいなのかどうか判らないが。

5・16日(土)能「隅田川」&オペラ「カーリュウ・リヴァー」

  いずみホール

 大阪城公演の近くにある「いずみホール」の意欲的なオリジナル企画、能とオペラの2本立て上演を観る。客席数ほぼ800のこのホールにふさわしいプロダクションだ。

 ある春の日の夕方近く、隅田川の渡しに、都から人を探して旅して来たという狂女(実際には所謂狂人でなく、多少変わった言動を示す程度の女をさす)が現われ、舟に乗せてくれと頼む。
 一同が対岸に渡る間、船頭はある物語を聞かせる――1年前のちょうど今日、人買いに連れられた一人の少年が、旅の疲れによる病のため、人々の看護も空しく此処で息を引き取ったこと。今日はその小さな墓の前で供養が行なわれること。
 だが、話の中に、狂女は恐ろしい事実を知る――その少年こそは、彼女がはるばる都から捜し求めて来た、人買いに攫われた我が子であることを! 「いつかは会えると思うたに、此処であの子の死を知るとは」と彼女は悲嘆に打ちひしがれるが、人々に慰められ、気を取り直して供養の念仏を唱え始める。船客一同も声を合わせる。すると突然その読経の中に、何処からともなく子供の声が交じって聞こえて来るのだった――。

 これが観世元雅の能「隅田川」の物語だが、ブリテン(ウィリアム・プルーマー台本)は、これをかなり忠実に「カーリュウ・リヴァー」としてオペラ化した。
 異なるのは、ラストシーンだけである。原作の「隅田川」では、母の南無阿弥陀仏の声の中に子供の幻が現われ、涙とともに縋る母を残してまた消えて行き、空が白めばただ茫々たる野原と墓が残るばかり――という、いかにも日本人好みの「あはれ」を感じさせる結末を採る。
 一方、西欧人たるブリテンのオペラでは、祈りの歌は当然キリスト教の「キリエ・エレイソン」となり、子供の声が死者の復活と、いずれは天国で再会できることを伝え、「アーメン」の祈りで結ばれ、母の救済と浄化を描いて終る。しかも全体は、所謂「奇蹟劇」の形を採るという構成である。

 4年前(2005年)の9月10日に豊田市コンサートホールで上演された「2本立て」は、五十六世梅若六郎の演出だった(「隅田川」での狂女役も演じた)が、今回は岩田達宗の演出だ。
 特にオペラでは、簡素で要を得た舞台作りが小規模劇場にふさわしい。これで充分である。なまじ欧州流行の演出のようなあざとい読み替えなどせず、このようにストレートに描いてくれた方が、われわれもヒューマンな情感を共有することができる。

 梅若演出では、オペラの最後は舞台にぽつんと十字架が残る光景のまま終ったと記憶しているが、今回の岩田演出ではオリジナル通りに修道士たちが劇の衣装から修道服に戻る場面とし、「奇蹟劇」としての性格を再現していた。ただ、私個人としては能の物語の方に涙腺を刺激されたことを告白しておこう。やはり日本人なのだな、と思う。

 「隅田川」では、シテ役の狂女を演じた九世観世銕之丞、ワキ役の渡守・福王和幸、ワキツレの旅人・福王知登らが、さすがの巧味。狂女の声は少しこもって聞き取り難かったが、これはつけていた面のせいであろう。鼓の音色も含め、クラシック音楽用ホール特有の残響の多さが能に合わぬと指摘していた人もいたが、私にはそのような欠点は全く感じられなかった。いずれにせよ字幕が使われていたので、候文の多い言葉もよく理解できたつもりである。

 唯一つ、最後に突然読経の声に加わって来る子供の声は――ここはブリテンに凄まじい衝撃を与えたという個所だが――今回はいかにも素人的な発声で念仏と溶け合わず、興を殺いだ。「涙と感動」を薄れさせた唯一の個所はここである。
 豊田での上演ではこの声はもっと美しく、いかにも夢幻的な趣を出していたように記憶する。あの時には、男声ばかりの響きの中にいきなり優しい子供の声が溶け合って聞こえて来た瞬間、われわれもぎょっとして、胸が締めつけられるような思いになったものだった。

 オペラ「カーリュウ・リヴァー」の方は、豊田でも狂女を歌い演じていた経種廉彦が、当時よりもいっそう練れた表現で同じ役を披露した。船頭役の晴雅彦と旅人役の西田昭広もすばらしく、この2人の優れた歌唱が何より全体の出来を引き立てていたと思う。他に少年の霊(陰歌)を老田裕子、修道士長を花月真。修道士たち(合唱)は演技はイマイチだったが、音楽的には充分。高関健が指揮する7人の奏者(いずみシンフォニエッタ大阪のメンバー)もいい演奏をしてくれた。

 能の方で、子供の亡霊を実際に舞台上に登場させるのは神秘性を欠くのではないか、という思いを豊田で観た時にも抱いたものだ。が、今回のプログラムで笠井賢一氏の解説を読み、その意味が理解できた。
 当時、元雅の父に当る世阿弥は「夢幻的な世界観」に基づき、子供の亡霊の登場は必要ないと主張したのに対し、元雅は「直接的に人の心に訴える」のを狙いとして、子方の演技を断固として主張したのだという。たしかに、「母が子の亡霊を抱こうとして追いすがるものの、それはすり抜けてしまう」ことが実際に語られている。そして、これがリアルな感動を呼び起こすのも事実だろう。
 一方、オペラの方では、あくまで形而上的なものとして、子役が登場しないようになっている。これもまた必然的であり、よく理解できるというものだ。

 この企画は成功であり、いい上演だった。東西文化の出会いと融合、共通のドラマトゥルギーが存在することを説いていた方も多い。それはそれで尤もである。
 ただ私にはむしろ、同じ物語を扱いつつも最後は「もののあはれ」に終る日本的な心情と、あくまで論理的な救済を求めるキリスト教徒的な心理との違いの方が、より面白く感じられたのだった。

 オペラの最後、修道士たちが聖歌を歌いながらゆっくりと退場している際に早くも盛大な拍手が起こってしまい、最後の「アーメン」が全く聞こえなくなってしまったのは惜しい。いくら感動のあまりとはいえ、これは早すぎた。

5・15(金)あらかわバイロイト ワーグナー「パルジファル」

   サンパール荒川大ホール

 あらかわバイロイト――とは、よくまあ大胆な名前をつけたもの。
 主催は東京国際芸術協会(TIAA)と荒川オペラ劇場、共催が荒川区地域振興公社。後援にはドイツ大使館、二期会、ワーグナー協会が名を連ねている。
 今年からワーグナーのオペラを、年に一つずつ上演して行くとのこと。初弾をいきなり最後の作品「パルジファル」で放った。その意気や好し。

 このプロダクションは、ドイツの「ロストック市立国民劇場」との共同制作である由。同劇場の総監督を昨年まで勤めたシュテフェン・ピオンテックが演出、同劇場舞台装置主任のマイク・ハーネが美術を担当、同劇場第一指揮者クリスティアン・ハンマーが指揮を執った(3日公演のうち中日は珠川秀夫が指揮)。

 結論から先に言うと、これは一つの快挙だ。
 そもそもこのオペラが日本では滅多に上演されないことを思えば、取上げたこと自体にまず大きな意義があるだろう。そして上演の水準も、予想されたよりしっかりしている。規模こそ小さいけれども、それなりに概して丁寧に作ってあるところに、良心的な制作姿勢を感じさせる。

 舞台装置はきわめて質素で、しかも博物館から借りて来たような旧いタイプのものだが、今でも東欧の歌劇場の来日公演などでは、このような舞台が多い。驚くには当るまい。
 演技も、まずまずだろう。棒立ちになったまま歌わせた新国立劇場での某イタリア人演出家のそれよりも、よほどまともである。
 オーケストラも(メンバー表によれば)弦はわずか7型という小さなものだが、昔のドイツの地方歌劇場では「指環」をも4型で挑戦したという話も伝わっている。上演の機会が少なければ、それでもやりたいという意欲がオペラ関係者の間に沸いて来るのは当然のこと。
 昔と今とは違う、などと嗤ってはならぬ。今日の日本と、どれほどの差があろう?

 演奏したTIAAフィルハーモニー管弦楽団は、フリーの若手を集めたオーケストラだそうで、結構達者な腕を持っているようである。
 前奏曲の6小節目で金管とティンパニが柔らかく入って来た時には、これは間違いなく「パルジファル」の音楽になっているとさえ感じられたほどだ。第1幕で頑張りすぎたか、第2幕以降は多少もどかしい部分もあったが、全曲大詰めの浄化の場面などはなかなか雰囲気のある音楽になっていた。
 ただ、超小編成の弦の音は、メロディアスな個所こそ室内楽的な味も感じさせて悪くないものの、ワーグナーの音楽に絶対不可欠なトレモロの個所では、いかんせん迫力を欠いて致命的である。

 しかし、このあたりは、ピアニシモをもっと強く弾かせるとか、テンポを加減するとかで解決できたのではないか? 指揮のクリスティアン・ハンマーは手堅く纏める人で、この上演を成功させた功労者だろうが、小編成のオケを大編成のオケと同じようなテンポで制御したのは、音の「間」をもたせられなかった点で――特に第2幕以降――多少疑問を抱かせる。つまり、小さい編成の場合にはもう少し速めのテンポを採った方が効果的ではないかと思うのだが・・・・。

 歌手陣も大健闘だった。アムフォルタス王の太田直樹、ティトゥレル老王の志村文彦、老騎士グルネマンツの大塚博章が安定した歌唱表現と演技を示し、魔人クリングゾルの田辺とおる(この公演の監督でもある)は悪役的大見得で一際存在感を示した。
 一方、「謎の女」クンドリーの蔵野蘭子は、ワーグナーものでは既に実績を上げている人だし、声もきれいだが、この役には声質が明るすぎるのではないか? 愚者パルジファルの小貫岩夫もよくやったが、演技の方はもう少し勉強していただきたいところ。

 なお合唱(あらかわバイロイト合唱団)は、演技も歌も、根本的にいけない。音楽的に足を引っ張ったのは、この合唱だ。「花の乙女たち」も、何か衣装がハワイアンのようで、どうもサマにならぬ。

 演出に関しては、舞台装置と同様、意図的に古色蒼然たるものにしたのだろう。穿り出せばキリがないが、このスタイルにおいては可もなく不可もなしと思うことにしよう。ただ、音楽と全く同じテンポで演技を進めた場合、その「間」を保たせるのがいかに難しいものであるか、今回の舞台を観ていてつくづく実感させられたのであった。

 今回の上演は3回で、トリプルキャスト。来年は「トリスタンとイゾルデ」を手がけるとのことである。

5・14(木)下野竜也が新日本フィルハーモニー交響楽団に客演

   サントリーホール

 久しぶりに聴く、「アナログ的」(?)なサウンドのベートーヴェンの「運命」。こういうスタイルも良い。しかも、濃厚鈍重な響きではなく、引き締まって明晰な、どこかに透明さも伴うきれいな音である。

 それにスコア読みも丁寧だ。第2楽章の第120小節で、管が和音を刻む中にトランペットとティンパニをわざと遅れて参加させるというベートーヴェンの狙いをこれほど強烈な形で認識させてくれた指揮者は、私にとっては初めてである。
 最弱音を多用し、デュナミークの対比を強調するのも下野のベートーヴェンのスタイルか。それだけに、クレッシェンド後の第4楽章冒頭のハ音の一撃はティンパニがめずらしくずれて決まりを欠いたのは惜しかったけれど。その代わり、リピート部分ではオーケストラも名誉挽回、猛然と突進した。

 前半は、めずらしい作品が2曲。
 最初は、マルティヌーの「リディチェへの追悼」という短い曲だ。故国で起きたナチスの侵略による悲劇を外国で耳にしたマルティヌーが、その犠牲者に捧げた作品という。重々しく、呻くような楽想が冒頭から聴き手に衝撃を与える。ベートーヴェンの「運命」のモティーフが織り込まれているということも、選曲の理由の一つなのだろう。凝った発想のプログラミングである。

 2曲目はプフィッツナーの「チェロ協奏曲第3番」で、「どこまで行ってもアダージョ」という雰囲気の曲――実際にはアンダンテの部分も、テンポが時々活気づく瞬間もあるのだが。一緒に聴いていたある人が「どうせ僕なんか――と、落ち込みまくっているような曲」だと感想を漏らしたが、言い得て妙。
 その中で客演ソリストのガブリエル・リプキン(1977年イスラエル生れ)の鮮烈なチェロが、暗く美しいオーケストラとの、鋭い、すばらしい対比を創る。

 この2曲、日本では、ナマで聴くことはほとんど叶わない作品だろう。貴重な機会だった。事務局の広報氏が「こんな曲を定期でやるのは、ウチくらいなもんでしょう」と言う。
 「偉いじゃないですか!」と言ったら、「でも辛いですよ、ホントに」と呟いた。こういう曲がプログラムに入ると、途端にお客さんの入りが悪くなるらしいのだ。

 しかし、経営の苦しい自主運営のオーケストラがこういうプログラムを積極的に組むのは、本当に見上げたものである。世界的な常識で言えば、本来ならこういうことは、放送局が運営する経済状態の安定したオーケストラが率先してやるべき仕事なのだ。
 

5・12(火)グスタフ・レオンハルト・チェンバロ・リサイタル

  トッパンホール

 80歳とは見えないきりりとした姿勢に、学者のような風格を示すグスタフ・レオンハルト。
 2年ぶりのトッパンホールでのリサイタルは、前回同様――といっても、2007年のリサイタルは聴けなかったのだが――イタリアとフランスのチェンバロを弾き分けての演奏だ。

 今回は、前半にマルティン・スコウロネック製作(1980年)のイタリアン・タイプの楽器(特定モデルなし)でフレスコバルディ、バード、フローベルガー他の作品が、後半にアラン・アンセルム製作(1987年、17世紀フェリペ・デニスのモデルによる)でデュモン、パーセルなどの作品が演奏された。

 60年代から聴き続けて来た名匠、グスタフ・レオンハルト。私などの世代にとっては、チェンバリストの代名詞といってもいいくらいの存在だ。一種の懐かしさと親近感を抱いて聴かずにはいられない。
 だが、さすがの彼も、その演奏にやはり年齢を感じさせるようになった。悲しいが、今日の演奏を聴くと、それを受け止めないわけには行かぬ。
 しかし、それをむしろ独特の味として自身の芸風に取り込んでしまっている――というか、ある種の温かい音楽として聴かせてしまうところが、やはり円熟の名匠の見事なワザと言うべきか。時々グラリとする瞬間があっても、それを何気なく乗り越え、さり気なく真摯な音楽に戻る。練達の名人の語り口とは、こういうのを指すのだろう。ずっと元気で活躍を続けて下さい。

5・10(日)二期会ゴールデンコンサート 彌勒忠史×アントネッロ

  津田ホール

 今日の主役は、カウンターテナーの彌勒忠史。
 彼の面白い演出(「ダイドーとイニーアス」と「タンクレディとクロリンダの戦い」)を、横須賀芸術劇場で先日観せてもらったばかりである。本も出している多才な人だ。

 16~17世紀イタリアの歌曲集、というのが今日のプログラム。彼の多彩で表情豊かな表現力が聴き手を愉しませてくれる。
 声にも劇的な力があるが、これに艶やかさと、一種の優しさが加味されれば理想的ではなかろうか。もっとも、トーク部分(これもなかなか面白い)で彼が語っていた「男の恋の悩み」を、今回はドラマティックに表現することが狙いだったのかもしれないから、イージーにあれこれ注文をつけることは慎みたい。

 協演のアントネッロ――濱田芳通、西山まりえ、石川かおり――は、今日はゲスト格だったせいか、いつもより少し温和し気味。ヴォーカルを支える石川のヴィオラ・ダ・ガンバの控え目な美しい音色が印象的だった。
 最後の「船上の宴会」では、彌勒が乗客の声をさまざまな音色で歌う。「全員が歌う」個所で、あるいは西山がチェンバロを弾きながらヴォーカルで特別参加するのかと期待したが――残念ながらそれは無し。しかしその代わり、そこで濱田のリコーダーが、あたかも実際に重唱となったように思わせる雄弁な音色を響かせて行ったのには、なるほどと感心させられた(一部思い違いがあるかもしれないが、感心したのは事実である)。

5・9(土)ユベール・スダーン指揮東京交響楽団
マーラー編曲によるシューマンの交響曲ツィクルス第1回

   サントリーホール

 さしもの東京交響楽団も、どうやら「ショスタコ荒れ」になったか?
 最初のブラームスの「悲劇的」序曲は、スダーンの指揮で演奏しているとは思えなかったほど、冒頭からしてラフな響きになっていた。
 まあ、「マクベス夫人」であれだけ連日のように咆哮を重ねていれば、それがあとを曳いてしまうのかもしれない。コンマスは両方とも同じニキティンだし。

 しかし、ブラームスの「二重協奏曲」に入ると、これはもう堂々たる威容の演奏に変わっている。弦16型でどっしりと、しかも瑞々しく構築された音は、実にスケールが大きい。ブラームスがこの曲を最初は交響曲として構想したという話を、ふと思い出させる。

 後半のシューマンの交響曲第1番「春」は、これまた予想外に荒々しいスタートになったが、それがマーラーの編曲ゆえの音なのか、それともスダーンのこの曲に対するアプローチのスタイルなのか、たまたまオーケストラが荒れていたのか、あるいはその全部なのか、一概には片づけられない。
 何か細密なニュアンスが感じられるようになったのは、第1楽章の終り近くのアニマートあたりからだろうか。第2楽章では、いかにもスダーンらしい、しなやかな叙情感が発揮されていた。
 ただ、他の楽章を含めて、スダーンとしてはもう少し全体に揺れ動くようなデュナミークを求めたかったのではないか――という気がしないでもない。それは単に、彼の指揮の様子から、私が勝手に憶測したに過ぎないのだが。
 ともあれ、「シューベルト・ツィクルス」でこのコンビが聴かせた、あの魔法のような音色とリズムと構築美は、今日のシューマンからは――残念ながら感じられなかった。

 マーラーの編曲版による「春」は、ナマでは初めて聴いた。シューマンの初稿をも部分的に取り入れてオーケストレーションを分厚くしたこの版は、あっちこっちにニヤリとさせられるような趣向が凝らされている。かなりしつこいデュナミークの強調もある。
 それは実に興味深くて面白いものだが、しかし畢竟、やはりマーラーはやらなくてもいいことをやったのではないか、という思いが、聴いている間じゅう、抜け切れなかった。思えばシューマンのオリジナルは、いかにすっきりして爽やかな音色であることか。

 だが、こうなったら(何が「こうなったら」だか判らないが)意地でも4曲全部聴いてやるぞ、という気がして来る。好みは別として、このツィクルスは意義のある企画だ。

 なお、「二重協奏曲」のソリは、ヴァイオリンがインゴルフ・トゥルバン。21歳でチェリビダッケに認められ、ミュンヘン・フィルのコンサートマスターに採用された(日本にも来た)ことのある人だ。しなやかで美しい音色で、弧を描くような豊かな音楽を演奏する人だが、なぜか今日は楽器をあまり鳴らさない。第1楽章ではオーケストラに埋もれるきらいもあったが、あるいは楽器のせいか? 
 一方チェロのウェン=シン・ヤン(スイス生れ)は骨太でがっちりした音を響かせる。2人の音量的なアンバランスは惜しかったが、しかし音楽的な意味では、聴き応えがあった。
 

5・7(木)新国立劇場 
ショスタコーヴィチ:「ムツェンスク郡のマクベス夫人」

  新国立劇場(3日目公演)

 指揮する予定だった若杉弘は、病気のため降板している。昨シーズンには「軍人たち」と「黒船」という、いかにも彼らしいプログラムを立て続けに指揮して大きな成果を挙げ、その勢いを駆って今年はこの「マクベス夫人」や「修善寺物語」を指揮していく予定だったのだ。さぞかし残念だったろうと思う。なんとか復帰できるよう、切に祈りたい。

 しかし、代役として指揮を執ったロシアの指揮者ミハイル・シンケヴィチは、なかなかよい手腕を備えている人だ。マリインスキー劇場で重要なポストをつとめているという人だから、経験も充分に積んでいるのだろう。非常に引き締まった音楽を創る。東京交響楽団を豪快に鳴らし、ショスタコーヴィチの音楽が持つ荒々しいエネルギーを引き出した。
 欲を言えば、響きに陰翳が乏しく、作品が持つ悲劇性、魂の慟哭――といった要素に欠けるきらいはあるのだが、日本のオーケストラとは初顔合わせのため呼吸もまだ万全でないだろうから、止むを得まい。

 東京響は例のごとく、良い演奏をした。今回のコンサートマスターは、ロシア出身のグレブ・ニキティンだったそうで、彼もやりがいがあっただろう。

 音楽面ではかように、比較的満足できる水準だったのだが――舞台の方は残念ながら、何とも「締まり」がない。
 主役も脇役も、動きに緊迫感が不足し、リアリティに欠け、だらだらした演技に見えてしまうのだ。
 特にセルゲイ(ヴィクトール・ルトシュク)の、情事が発覚して責められる場面をはじめ、全篇にわたる切迫感のない演技は、一体どういうことなのだろう。
 カテリーナ・イズマイロワ(ステファニー・フリーデ)にしても、追いつめられ破滅して行く悲劇の女としての表現が、顔の表情にも身体の動きにも乏しい。イズマイロフ家の使用人たちを見ていても、ドラマの中心点に向けて集中していくような演技が感じられないのである。

 このリチャード・ジョーンズの演出、私はロンドンでの上演を観ていないので何とも言えないのだが、ローレンス・オリヴィエ賞の最優秀オペラ賞を得たというくらいだから、まさかこんな程度のものではないだろう。本人が来日して自ら演出に当っていたなら、もう少し締まった舞台になったのではないかという気がするのだが、以て如何と為す? 

 カテリーナがソニェートカを急流に突き落とし、自らも一緒に身を投げるというラストシーンも、この演出ではプロンプターのすぐ傍の位置で彼女をセリにゆっくりと押し沈めるという手法が採られるのだが、これでは「一瞬の悲劇」という緊迫度が皆無で、間が持たない。ただこれは、解釈の問題だろうが。

 なお、舞台美術はジョン・マクファーレン。壁を多用した、圧迫感のある舞台だ。この3方の壁が反響板の役割を為し、歌手の声を客席に向けて大きく響かせるのに役立っていただろう。何せ大編成のバンダも加わっての、新国立劇場としては「アイーダ」を凌ぐ空前の大音響を出したオーケストラだったから、それに負けないように歌手を助けられたわけだ。

 バンダは下手側バルコン・ロジェに配置され、時に舞台上に歌手たちに交じって登場する(これはあまり意味があるとは思えない――特に演出が徹底していない場合には)。ボロを着た男が警察へ注進に突っ走る時の間奏曲の個所では、舞台前面に一列に並んで吹く。かつてマリインスキー劇場で、ゲルギエフがこの個所だけオーケストラ・ピット全体を上昇させて演奏し、すごい迫力を出していたが、それに似たアイディアだろう。

 歌手陣で良かったのは、うるさい舅ボリスを歌い演じたワレリー・アレクセイエフの重厚さ(老囚人との2役だったが、こちらは少し危なかった)。それと、ボロ服の男役の高橋淳の達者な演技。またソニェートカ役の森山京子も、カテリーナを向うに回しての嫌がらせの演技に巧いところを見せた。
 新国立合唱団も、演出のせいで演技は中途半端だったものの、声楽面では非常に力強いものがあった。

 余談ながら、近年はこの「ムツェンスク郡のマクベス夫人」のみがもてはやされ、ショスタコーヴィチがのちに改訂した「カテリーナ・イズマイロワ」の方はほとんど忘れられた存在になっているが、後者の方にもすばらしい音楽が数多く聴かれるのだということを私は主張したい。
 前者はセックス場面の描写において露骨で――つまり「優れて」おり、国家権力により弾圧された作品であるがゆえに偉大なのだ、という意見を述べる人が多いが、実際はそんなに単純に片づけられるものではない。

 たとえば改定版では、最後の老いた囚人の歌が原典版よりも長くなっており、そこには「なんと俺たちの人生は暗いことか! 人間はこんなことのために生れて来たのだろうか!」という歌詞が追加され、それは流刑囚の合唱の上にひときわ高く歌われて、絶望的な悲劇感を強調しているのである。これこそ、国家権力にがんじがらめにされた作曲者が、心底から叫びたかったことなのではあるまいか? 

 このオペラを、ブルックナーの交響曲並みに原典版と改定版の「折衷版」で上演することはできないのかな、などと私は時折考えるのだが、まあ、やっぱり通用しない考えでしょうね。

  グランド・オペラ 2009年秋号ステージ評

5・3(日)旅行日記最終日
ヘルツォーク演出 ワーグナー:「ローエングリン」プレミエ 

    フランクフルト歌劇場(シャウスピールハウス)

 今日の「ローエングリン」も、これがプレミエだ。
 ベルトラン・ド・ビリーの指揮、イェンス・ダニエル・ヘルツォークの演出、装置と衣装はマティス・ナイトハルト、ドラマトゥルギーはノルベルト・アベルツ。
 先日ベルリンで観たヘルハイム演出ほどではないが、なかなか跳ね上がった舞台である。

 かつてコンヴィチュニーはこのオペラの舞台を学校の教室に設定したが、ヘルツォークのこれは、かなり昔の、場末の映画館が舞台だ。
 前奏曲の途中から紗幕越しに、こちらを向いて映画を観ているような人々の姿が浮かび上がり、最前列に「エルザ」と「ゴットフリート少年」が座っている。この2人は姉弟というより、野暮ったいお母さんエルザとそのやんちゃな息子、といった感じ。

 「国王」一行がやって来て映画館の客席2階で演説しているのにエルザが気を取られている間に、ゴットフリート少年はプログラム売り子(これはオルトルートの変装か?)に連れられ、遊びに行ってしまう。
 気がついたエルザが必死で探し回るが見つからず、その間にビジネスマン的テルラムントの非難告発により彼女はリンチに遭いかけるが、「国王」に制止される。
 ローエングリンは客の中から野人のような半裸の格好で現われ、すこぶる自信無げに応援を買って出て来て、逆にエルザに励まされる――といった具合。

 かように、すこぶる滅茶苦茶で、矛盾だらけの読み替えストーリーである。ただ、この滅茶苦茶さを一旦乗り越えてしまうと、意外にそれなりに辻褄が合うように出来ているのに感心する。
 ローエングリンとテルラムントの決闘は、テーブルを挟んで向かい合って座った2人が(最初は腕相撲でもやるのかと思った)、1挺のピストルを交互に頭に擬して引き鉄を引くという、「ロシアン・ルーレット」を開始。薬莢のどれか一つに実弾がこめられており、その番に当たった方は命がないことになる。
 ローエングリンは落ち着き払って3回の空砲を当てるが、テルラムントは恐れ戦き、3度目にはついにガタガタ震えて降参するという趣向。ここはやたら面白い。

 ただ、結局これは、単に「映画館で起こった事件」なのではなく、彼らは結局「映画」を観ていたにすぎない、ということになるらしい。
 というのは、第1幕と第3幕で「白鳥」が現われる瞬間には、彼らは必ず映画の観客としての演技に戻るのである。
 彼らの演技が終始曖昧であるのが不自然で、それは演技が下手なわけでもあるまいに――と訝っていたのだが、どうもそれとの関連があるらしい。
 全曲の大詰めでは、「ゴットフリート少年」が涼しい顔でもとの席に戻って来る。エルザは「あんた、今までどこに行ってたの?」と言わんばかりの表情。
 かくしてこのオペラは、その最初のシーンと同じ光景で終る。

 問題は、この「映画の中の物語」と、一同の「幻想」(?)との交錯がはっきりしないところにある。すべてが同一の次元の中で描かれて行くので、時々不可解な場面に出会うことになるのだが・・・・。
 とはいえ、これ以上その深い意味を考えたくなるほどのプロダクションでもないような気もするので、このあたりにしておこう。

 ベルトラン・ド・ビリーの指揮が、予想外に良かった。彼の指揮で強い印象を得た演奏は、実はこれまではほとんどなかったのだが、今日は速めのテンポで緊張感を失わず、しかも劇的なニュアンスの濃密な音楽を創っていた。第3幕でのカット個所は少なく、あの「ドイツは未来永劫、敵に侵略されることはありません」の部分も省略せずに演奏していた。
 総じて、この曲におけるド・ビリーのアプローチは成功しているだろう――全曲大詰めでのテンポが速すぎて音楽の壮大な性格を失わせたのを除けばだが。
 彼に寄せる観客や楽員の拍手は、絶大であった。

 おばさんエルザは、エルザ・ファン・デン・へーファーが歌っていた。充分な声で力がある。
 悪役オルトルートはジャンヌ=ミシェル・シャルボネ。強靭な声と強烈な歌い回しで、この日の舞台では随一の迫力だろう。
 ミヒャエル・ケーニヒは、昨年日本で「消えた男の日記」に出た時と同様、モリゾーみたいにむさ苦しい姿で、聖杯守護の騎士とは縁遠い「町の男」だ。最後の最後に、別れの歌で声がバテたのは惜しい。
 むしろテルラムントを歌ったロバート・ヘイワードが知的なビジネスマンという演技で、決闘では意気地なく負けたものの、その後のローエングリンへの口舌攻撃ではむしろ優位に立つという、いろいろな表現力にも秀でていた。
 国王役には、予定されていたグレゴリイ・フランクに代わって急遽ビャルニ・トール・クリスティンソンが出演。出だしはハラハラさせられたが、間もなく低音の迫力を発揮して行った。

 演技はともかく、音楽的に非常に優れていたのは合唱。来住さんから聞いたところによると、昨年エリック・ニールセンが合唱指揮者に就任して以来、飛躍的に水準が高くなっているとのこと。

 プレミエのため、ヘルツォークら演出チームには、ブラボーとブーイングが交錯して投げかけられた。彼としては、してやったりという表情。
 このくらい明確な賛否両論の反応が出なければ、観客が真剣にこの上演に向き合ったことの証明にはなるまい。5時開演、9時40分終演。

 今回の旅行は、これで終り。フランクフルトやウィーンの空港では、インフルエンザなんかどこ吹く風(風邪?)という雰囲気。マスクをしている人など、どこにもいない。成田に帰ったとたんに、これは大変だ!という気分になる。

5・2(土)旅行日記第3日
 ベヒトルフ演出 ワーグナー:「ラインの黄金」プレミエ

   ウィーン国立歌劇場

 7時より「ラインの黄金」のプレミエ。

 このツィクルス、最初の「ワルキューレ」はともかく、演出は作品を追うに従って単調になって来ていたが、この新作も予想通り、スペクタクル性も見所も全くない、平凡な演出になってしまっていた。舞台装置も仕掛けもいたって簡素なもので、制作費不足を窺わせるプロダクションとも言えようか。簡素なら簡素で、往年のヴィーラント・ワーグナーの舞台のように心理劇的な葛藤や陰翳があればいいのだが、そういうのとも違う。

 冒頭のライン河底の場面は、それでも緑色の光に照らされて、かなり美しい。背景のスクリーンに映写される波の映像と、舞台に波打つ布の動きが効果を出し、乙女たちは身体を揺らせながら優雅に動き回る。アルベリヒも冒頭から布(波)の中に潜ったまま舞台に登場している。
 布の覆いが外れて現われた「黄金」は、金色に輝く木材オブジェ(?)のようなもの。アルベリヒがその一つを掲げて高笑いをする――まではいいのだが、そこで早くも幕が下りてしまうあたりから、な~んだ、策がないな、という白けムードに陥って来る。
 その後も、場面転換はすべて幕を下ろして行われる。ウィーン国立歌劇場ともあろうものが、もう少し見せ場を作れないのかと思わせる。

 「天上の場面」は、背景に大きな曇りガラスのようなものがあって、出来上がったワルハラ城なるものは、そこにうっすらと投影されている格子のような絵柄だ。
 「ニーベルハイムの場」には、宝の陳列棚のようなものが一つ。大蛇だけは背景に映写されるが、蛙はアルベリヒが隠れ頭巾をかぶって真似するのみ。
 「神々のワルハラ入城」では、ガラスの向こう側に入った神々がシルエットのままセリで上がって行くという演出で、――その他は推して知るべし。

 演技表現の面では唯一つ、中性的な炎の神ローゲが、神々の一族を破滅に陥れようという願望を諸々の仕草に表わし、時にヴォータンの不意を衝いて背後から槍で刺そうとしたり、畏れのために思い止まってワナワナ震えたりする動きなどは面白かったが、その他にはとりわけ新機軸や深い読み込みなどは見られなかった。

 ところが、最後の幕が下りると、場内は割れんばかりの大拍手とブラボーの歓声。カーテンコールで、スヴェン=エリック・ベヒトルフら演出チームが登場した際にも、ブーイングはわずかに出たものの、それも大ブラボーの声と拍手にかき消された。
 こういう、何の変哲もない演出が――こんなに受けるのでありますか。
 ウィーンのワグネリアンも、結構甘いんですねえ。
 ウィーン在住の音楽ジャーナリスト・山崎睦氏と食事をしながらそうぼやいていたら、「そんなもんよ、あーた」と一笑された。
 「音楽を邪魔しない演出のみを支持する」とウィーンの人々が考えているのなら、それはまた一つの見識だろう。私もそれには共感するのだが、しかし、それにしても――。

 ツィクルスが進むごとに演出が単調になって行ったのに対し、逆に1作品ごとに勢いを増して行ったのが、フランツ・ウェルザー=メストの指揮だ。
 「ワルキューレ」「ジークフリート」ではオーケストラを控えめにし、そのためもあって音楽が叙情面に傾きすぎるきらいもあった彼の指揮だったが、「神々の黄昏」では突然別人のようにオーケストラを鳴らしはじめ、合唱すら打ち消すほどの音量で音楽をダイナミックに構成するようになったのである。
 そして今回の「ラインの黄金」では、ただ鳴らすだけではなく、オーケストラのバランスへの留意が感じられ、しかも「ニーベルハイムへの下降」の個所などではデモーニッシュな迫力さえ生み出していたのであった。たとえ演出がつまらなくても、演奏が良ければ、それはそれで結構なのである。

 歌手で光ったのは、第一にローゲ役のアドリアン・エレード。赤髪の中性的なキャラクターで前述のような複雑な役柄を巧妙に演じ歌っていた。
 次いでアルベリヒのトーマシュ・コニーチュニーで、ライン河で乙女たちを追い回すエロおやじ的な性格と、黄金を奪って成金になったあとの若々しい颯爽とした悪役とを、演技でも声でも巧く演じ分けていたのが面白い。
 もともとこの2役は儲け役ともいうべきもの。神々の長ヴォータンよりも遥かに栄えるのが通例である。
 そのヴォータンは、ユハ・ウーシタロ。今回は安定している。
 その他、フライアにリカルダ・メルベット、エルダにアンナ・ラーション、フリッカにヤニア・ベヒレといった人たちが演じていた。
 ドンナーのマルクス・アイヘは、歌唱はまず普通だったが、例の「雷の一撃」の場で目にも留まらぬ勢いの腕のワインド・アップを見せていたのが、妙に可笑しかった。ヴォータンの牛太郎さんが「ワルキューレ」第2幕最後で槍を派手に振り回し、大見得を切っていたのといい勝負。

 ウェルザー=メストのテンポは、極度に速い。演奏時間は2時間20分という驚異的な短さだ。カーテンコールを含め、9時35分にはすべて終った。

5・1(金)旅行日記第2日 ベートーヴェン:「フィデリオ」

  ウィーン国立歌劇場

 4時から国立歌劇場で「フィデリオ」。
 今回は、これが目当てで来たわけではない。例のオットー・シェンク演出のもので、かなり古いプロダクションだ。いまだに上演されているということは、定番として人気がある証拠なのだろう。オペラ入門篇としては、手頃なプロダクションかもしれない。
 幕が開いた瞬間に、伝統的な舞台装置が出現する。

 それはそれでいいのだが、やはりプロダクションが古くなれば、舞台進行もそれだけルーティン化するのだろう。
 如何にシェンク演出といえど、最初はもう少し綿密な演技が付加されていただろうと思うが、今は誰が舞台を取り仕切っているのか、演技も何か通り一遍で雑で、劇的緊張感に乏しい上に、歌手が客席を向いて歌うケースも少なくない。こうなると「定番」として長生きするのも良し悪しか。

 指揮はアダム・フィッシャー。序曲が始まった時には、ウィーン国立歌劇場管弦楽団も気乗りがしないような演奏で、これはやはりダメかと思ったが、序曲の途中から少しずつ引き締まり始めた。内声部の動きにハッとするような美しさが現われることも多かったし、「レオノーレ序曲第3番」などはなかなか壮烈な演奏であった。
 それでもやはり、ルーティン演奏の上の部、といった程度の出来か。ただルーティンと雖も、我が新国立劇場のオーケストラなどと比較すれば、天と地ほどの開きがあるのはもちろんである。

 フロレスタンはペーター・ザイフェルト。出番は少ないが、とにかく彼が一番声のある人だし、存在感もある。
 その妻レオノーレはペトラ・マリア・シュニッツァーで、まあ手堅く精一杯やっているという感だろう。
 刑務所長ドン・ピツァロを、このところ悪役専門のようなジョン・ヴェーゲナーが歌い演じているが、この人が少々迫力に欠けるのはドラマ全体のバランスにおいて痛い。
 他にロッコをワルター・フィンク、マルツェリーネをイルディコ・ライモンディ、ヤキーノをアレクサンダー・カイムバッハー、大臣をアレクサンドル・モイシウク。

 あまり尖った騒々しい舞台も煩わしいが、古色蒼然たる舞台も退屈を招く。いずれにせよ、こういう平凡な上演では、この作品は固有の弱点を露呈してしまう。
 日本人観客も多い。国籍問わず、記念写真を取り捲っている人たちが多いし、カーテンコールではフラッシュの砲列乱発。6時45分終演。

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