2017-06

4・30(木)旅行日記初日 ブーレーズ指揮シュターツカペレ・ベルリン

   マーラー:「千人の交響曲」
  ウィーン・ムジークフェライン大ホール

 着いたその日に何かを聴いたり観たりするのはコンディションを崩すので最近は一切止めていたのだが、今日は時間的に短いコンサートなので復活することにした次第。7時半開演。

 あのムジークフェライン大ホールで「千人の交響曲」とは、ちょっと恐ろしい話だ。大きいコンツェルトハウスでならともかく。
 ステージはまさに立錐の余地もなく、コーラスの数は、ウィーン楽友協会合唱団とスロヴァキア・フィル合唱団合わせて300人ほどか。オルガンの下にウィーン少年合唱団も並ぶ。声楽ソリストたちは、第1部ではコーラスの前に立ち、第2部では指揮者の両側に移動。1人はオルガンの横に立つ。

 「千人」では、これまで何度も難聴になりかけて懲りているので、今回は「後ろの方」の席を頼んでおいたが、回って来たのはRechtsのBalkon-Logeの3の1という席。
 この席には座ったことがないので右往左往、人に聞いて慌てて移動したり、位置を間違えてまた追い出されたりしながらやっと場所を探し当てたが、なるほどここは黙って座っていたら舞台はなーんにも見えない席である。その代わり、どんなに身体を動かそうと、伸び上がろうと立ち上がろうと文句は言われない場所なので、時差ボケと闘うには絶好の席であった。
 しかも先ほど「追い出された」席は、第1部と第2部の各コーダで参加する耳を劈くバンダの目の前の位置だったのだ。あのまま座っていたら酷い目に合っていたろう。人間万事塞翁が馬。

 しかし、それでもやはり第1部では、絶叫する合唱の大音量で耳も聾せんばかり。正面の位置を避けていて幸いだった。
 第2部では、合唱もほとんど怒号しないので、美しさは引き立つ。
 が、それにも増して第2部での、オーケストラの響きの美しさは譬えようがない。円熟のきわみにあるブーレーズが引き出す音色は千変万化と言ってもよく、フレーズごとに、大きな段落ごとに、音色が虹のように変化して行く。あるいは転調するごとに音楽がそのニュアンスを変えて行く、というべきか。
 第2部冒頭で弦がトレモロで入って来る瞬間など、慄然とさせるような不気味さだ。その揺れ動く音楽を、次第にある一点に向かって収斂させて行き、最後の「宇宙が鳴り響くような」解決の響きの大団円に導いて行くあたり、ブーレーズの呼吸は見事そのものである。全管弦楽がいっぱいに鳴り渡る終結の和音の、陶酔的なバランスの良さ。

 ブーレーズは、今年84歳になるはずだが、本当に元気だ。終始速めのテンポで、圧倒的な推進力をもって演奏者全員を引っ張って行く。しかも、1時間半近くに及ぶ演奏を、椅子にも座らずに指揮して行く。10分以上に渡った会場の拍手と歓声は、ほぼ全部がブーレーズに捧げられたものだったように感じられた。

 なお声楽ソリストは以下の通り――リカルダ・メルベット、カミッラ・ニールント、アドリアーヌ・ケイロス、ミシェル・デ・ヤング、ジェーン・ヘンシェル、ロバート・ディーン・スミス、ハンノ・ミュラー=ブラッハマン、ロベルト・ホル。
 拍手を含めて、9時17分終演。

4・29(水)ファビオ・ルイジ指揮シュターツカペレ・ドレスデン

  サントリーホール

  このオーケストラの最強の出し物ともいうべき、R・シュトラウスの作品によるプログラム。指揮はもちろん、ドレスデン州立歌劇場音楽総監督であり、このオーケストラの首席指揮者でもあるファビオ・ルイジ。
 両者の個性がほどよくミックスされた演奏――というべきか。

 前半は「ドン・ファン」と「ティル・オイレンシュピーゲルの愉快ないたずら」だったが、2階席正面で聴く限り、最強音が何か刺々しく力み返って、破れ太鼓のような騒々しい演奏に感じられてしまう。このコンビが以前東京で演奏した「ばらの騎士」はこんな音ではなかったのに――しかも今回は比較的良いメンバーの揃った編成の来日ということなのに――などと首をひねりながら聴いていた次第だが、しかし休憩後の「英雄の生涯」にいたって、たっぷりとした豊麗な響きが蘇った。

 これら作品によっての違いは明らかに意図的なものと思われるけれど、あまり無理のないフォルティシモの方がこのオーケストラの良さが出るだろう。あの独特のしっとりした弦楽器群の音色には、いつも惚れ惚れする。

 だが、今日の演奏の中で、まさにこれぞシュターツカペレ・ドレスデンの本領発揮と感じられたのは、アンコールで演奏されたウェーバーの「オベロン」序曲であった。弦の拡がりの上にホルンやクラリネットのソロが響く瞬間の、あの不思議な快さ――。これで、すべてはめでたしめでたし。

 「英雄の生涯」のコーダは、今日は原典版で演奏された。最近はこの版がよく取り上げられるようだが、私はやはり現行版の豪壮なエンディングの方が、張り合い(?)があって好きだ。

 2日続けてR・シュトラウスの作品ばかり、日本とドレスデンのオーケストラで聴いたことになる。ドレスデンの老舗ぶりは間違いないところだが、日本のもなかなか好かったと思う。

4・28(火)上岡敏之が新日本フィルに客演

  すみだトリフォニーホール

 上岡敏之が、読売日響以外の東京のオーケストラに客演するのはめずらしいケース。彼への反感をあからさまに出したN響(第9)は論外として、新日本フィルの場合はさすがに柔軟、これまでとは全く違ったスタイルの演奏に挑戦した。出来栄えは上々である。

 R・シュトラウスの「町人貴族」組曲では――洒落た演奏をしようと思えばおそろしく難しい曲だが――これほど日本のオーケストラがこの曲を明るく爽やかに演奏したのを聴いたのは、初めての体験だ。各パートのソロが、実に巧いのである。一種のコンチェルト・グロッソのような性格を持つこの作品は、これでこそ生きる。
 お世辞抜きで、新日本フィルは巧い。
 ある人の話によると、昨日(初日)の演奏は「堅苦しくてさっぱり面白くなかったが、今日のは別人のよう」だったそうな。昨日サントリーホールで聴いた人には悪いが、指揮者もオケも人間だから、まあ、そういうこともあるでしょう。

 後半は、同じくR・シュトラウスの「家庭交響曲」。これも、上岡の超個性的な音楽づくりが満開だ。テンポも遅い個所は極端に遅く、演奏時間も――時計は見ていなかったが――通常よりもかなり長かったのではないか。
 しかし、全体の構築バランスは画然と保たれており、緊張感も失われていない。やや翳りのある音色に支配されて、底抜けの明るさや外面的な威容を排したユニークな「家庭交響曲」が創り出されていた。オーケストラもごく僅かな瑕疵を除き、見事な出来である。最弱音の美しさ、ホルン群の雄弁さなど、いずれも讃えられて良い。

 上岡も好調である。読売日響との演奏とはまた一味異なる彼の魅力を楽しめた一夜であった。

4・27(月)小澤征爾指揮 水戸室内管弦楽団 第75回定期演奏会

  水戸芸術館コンサートホールATM

 批評は批評として別のこと。個人的に言えば、とにかく小澤さんが元気でステージに現われてくれればそれだけで懐かしく嬉しくなってしまうのは、やっぱり学生時代からずっと熱烈なファンだった者の心理ゆえか。

 今日は、水戸芸術館開館20周年・水戸市市制施行120周年・水戸藩開藩400年(!)記念事業――という、何やらものものしい触書のついた演奏会。
 最初はバッハの「管弦楽組曲第3番」の「アリア」だったが、それは水戸藩云々とは関係なく、今日が「このホールを愛してくれた」(小澤の冒頭挨拶コメント)ロストロポーヴィチの命日に当るため、彼を偲んで演奏されたものであった。

 メイン・プロは、生誕200年記念のメンデルスゾーンの作品2曲。
 「夏の夜の夢」では、人気の小澤征悦がナレーター(パック)役をつとめ、終ればお父さんとさり気なくハイタッチをして祝う、という光景もあって、聴衆を微笑ませる。
 彼が表現したパックは、ちょっとワイルドで不良じみた(?)闊達な若者というスタイルである。全篇ハイ・テンションで、かつ早口のまま――というのが少し単調だったきらいはあるにしても、まずは音楽とのバランスも悪くない。
 使われた訳詞は小田島雄志のもので、以前の小澤=ボストンのCD(松本隆訳)のものとは違う。

 何より、演奏が良かった。いかにも小澤征爾らしく軽快であり、リズムが安定して的確である。「序曲」にしても「結婚行進曲」にしても、最後の頂点へ向けて緊張を高めて行く呼吸が、この人は実に巧い。ティンパニの音をもっと軽く固い響きにすれば更に音楽全体が引き締まるだろうに、といつも感じるのだけれど、このドスンという重く太い音は彼の好みらしいので、致し方なかろう。

 ともあれ、メンデルスゾーンのこの「妖精的」な明るさと叙情と軽快さに満ちた音楽は、小澤にぴったり合っているだろう。
 出番は少ないが、声楽陣も良かった。2人のソリスト――中嶋彰子とキャサリン・ローラーおよび東京オペラシンガーズ(女声)のノリの良さは、第3曲の合唱で見事に発揮された。名手ぞろいのオーケストラの手際の良さも、いつもながらだ。

 前半は、ピアノ協奏曲第1番。これもフィナーレ最後のたたみかけの快調さがいかにも小澤らしい。
 小菅優のソロは――こちらの席(L列17)の位置の関係だろうが――響きのイメージがオーケストラに比して小さくなり、演奏もやや重く聞こえるという印象が拭えなかった。アンコールで弾いた「無言歌」2曲もいつもの彼女とは少し雰囲気が違っていた。これもこちらの席の関係だろうと思うが、定かではない。
   音楽の友6月号(5月18日発売)演奏会評

4・26(日)ダン・エッティンガー指揮東京フィルハーモニー交響楽団

   オーチャードホール

 幕開きは、指揮者および演奏者13人によるショスタコーヴィチの「ジャズ・オーケストラのための組曲」第1番。

 続いて三浦章広(東京フィルのコンマスの1人)をソリストに、ブルッフのヴァイオリン協奏曲第1番が演奏される。ソリストはちょっと力みすぎの印象もあったが、きわめて剛直なブルッフを聴かせた。オーケストラは、先日の「浄夜」と同様に重厚な低音たっぷり、どっしりと分厚い音だ。
 この指揮者は、ロマン派のこういう濃厚な音がとりわけ好きらしい。現代の指揮者の中ではめずらしい存在と言えるかもしれない。第1楽章最初に現われるコントラバスのピチカートが、ずしんと響く。そこに、ある種の悲劇的な緊張感が生れる。実は私も、こういう音は好きなのである。

 休憩を挟み、レスピーギの「ローマの祭」。祭の狂的な喧騒が、実にバランスよく描かれた演奏であった。ホルンや打楽器が奥行と遠近感を豊かに備えて響くくだりは、このホールのステージのアコースティックが巧く利用された一例だろう。

 東京フィルは、しかし不思議なオーケストラである。新国立劇場のピットに入ると恐ろしくか細い貧弱な音になるのに、いざ演奏会のステージに上ると、まるで別のオケのように豪壮華麗でダイナミックな演奏をする。

4・25(土)金聖響の神奈川フィル常任指揮者就任披露定期

   横浜みなとみらいホール

 金聖響が、神奈川フィル常任指揮者に就任した。

 その最初の定期は、ハイドンの「時計交響曲」とベートーヴェンの「英雄交響曲」。アンコールにベートーヴェンの「プロメテウスの創造物」序曲。さすがに人気の金聖響、ホールはほぼ満席である。
 このプログラム、アンサンブルを整えるのには、絶好のレパートリーであろう。かなりリハーサルを重ねたことを思わせる演奏であった。

 とはいえ、このオーケストラの特徴ともいえる音のエネルギーの少なさ、音量の小ささ、最弱音のか細さは、最初のうち根強く残っており、音楽の生気の不足は如何ともし難いと感じさせたのは否定できぬ。
 それがやっとどうやら解放に向かいはじめたのは、「英雄」第2楽章マジョーレのクライマックス以降だったであろう。第2楽章後半から第3楽章にかけては、実に立派な演奏であった。第4楽章最後のプレストなど、普通のオーケストラだったらもう一押しヴォルテージが上るところなのに――と歯痒いが、まず全体としては善しとすべきであろうか。
 ただ、第2楽章【D】以降及び第3楽章トリオにおけるホルンの高音域を部分的に音色を変えて吹かせた(ゲシュトップトに似て非なる、また所謂音を割る手法とも全く異なる)のは、理由や根拠はどうあれ、耳障りで興を殺ぐ。
 アンコールの序曲は、好演だった。

 まあ、いろいろあるけれども、新常任指揮者登場の披露公演としては、とりあえず成功を収めたであろう――と思いきや、カーテンコールでの異様な光景には驚かされた。
 コンサートマスター(石田)は、指揮者との握手との際にその都度途中から顔をそむけ、また普通の場合なら欠かさない「指揮者を讃える」ジェスチュアをも、最後までついに一度も行なわなかったのである。
 ウラの事情に関知する立場ではないし、知ろうとも思わないし、どちらの肩を持つわけでもないが、しかしこんなことで神奈川フィル、今後大丈夫なのか?

 歯に衣着せずに言えば、神奈川フィルの現在の演奏水準は、必ずしも芳しくない。東京のオーケストラ8球団の、最下位の球団よりも更に2ゲームほど離れた位置に低迷しているのが、残念ながら今の神奈川フィルなのだ。よほど引き締めてやってもらわないといけない。

4・24(金)宮本益光リサイタル~日本語訳詞で聴くオペラ名場面集

    津田ホール

 宮本益光は、1996年の「広島オペラルネッサンス」で「ドン・ジョヴァンニ」のマゼットを歌ったのを聴いて以来、ずっと注目していたバリトンだ。5年前に二期会の「ドン・ジョヴァンニ」(宮本亜門演出)で、キムタクばりのタイトルロールを演じた時には、なかなかの役者ぶりだった。

 今回はリサイタルと言っても、鵜木絵里(S)、鈴木准(T)、長谷川初範(俳優)、その他黙役や子役たち計3人を共演者に迎え、室内オペラ的な照明と演出を付けた舞台形式である。「愛の妙薬」(ドニゼッティ)の「薬販売」の場面など、鈴木准と黙役の女性(どなた?)の達者な共演で笑わせたし、第2部で全曲が上演された「奥様女中」(ペルゴレージ)もすこぶる面白かった。ピアノは石野真穂、この人もいい。

 演出者の名前は載っていないが、宮本自身か? あるいは「奥様女中」は、10月に六行会ホールでやるという今井伸昭演出の先取りか? いずれにせよ、ノリのいい、楽しい舞台であった。

 なお歌唱は、すべて宮本自身による日本語訳歌詞によるもの。彼はこれまで、多くのオペラの訳詞を行なっている。
 訳詞上演というものは昔からいろいろ難しい問題を含んでおり、いまだこれといった決定的な解決方法はないようで、彼自身もそれを模索しているのかもしれない。が、彼のやり方も一つの解決法には違いなかろう。
 「愛の妙薬」で偽薬を買わされたネモリーノが「Obbligato(オブリガート),ah,si! obbligato!」と小躍りしながら歌う個所――かつてパヴァロッティが日本公演で「アリガート、アリガート」と歌って笑わせた個所だが――に「神様よ、仏様よ」と充てるアイディアなど、なるほどな、と感心しながら楽しませてもらった。

 ともあれ、バリトン・宮本益光の、期待通りの多芸多才ぶりを楽しんだ一夜。
 このエンターテイナーとしての素質は大いに伸ばして、オペラの普及のために頑張って欲しいのは事実だが、それよりもやはり、あの豊かな声を大切にして、本格的なオペラ歌手としての存在を失わないで欲しいものである――日本では昔からその両立は難しいというジンクス(?)があるのだが・・・・。

4・23(木)エフゲニー・キーシン・ピアノ・リサイタル
 1時間のアンコール

  サントリーホール

 アンコールだけで1時間、終ると10時――19日のコンサートがそうだった、と事前に聞かされた。
 今夜も同様。弾くわ弾くわ、ショパンとプロコフィエフとモーツァルトなど総計9曲をアンコール。終演は10時10分となった。こちらも、こうなったら意地でも終りまで聴いてやるぞ、の精神状態。

 本体のプログラムは、前半がプロコフィエフで、「ロメオとジュリエット」からの小品3曲とソナタ第8番。後半がショパンで、「幻想ポロネーズ」に始まり、「マズルカ」3曲、「エチュード」8曲である。

 圧巻はやはりプロコフィエフのソナタだったが、もちろんショパンもいい。
 どんな作品においてもピンと張り詰めた緊張感がみなぎっており、強烈なダイナミックスの対比、鮮明な音色と構築感も相変わらずだ。これらの特徴あるがゆえに、3時間近くにわたる演奏に聴き手を惹きつけて離さないという力が生まれるのだろう。

 叙情的な面でも傑出しているのはもちろんである。アンコールの6曲目、「幻想即興曲」がこれほど旋律的な魅力を感じさせて――しかも些かも感傷に流れることなく――弾かれたのを聴いたのは久しぶりのような気がする。だが、それは単に美しさといったものより、一分の隙もなく設計構築された旋律美、というイメージなのだ。

 アンコールだけで1時間、といえば、30年以上前、ワイセンベルクが1時間10分にわたし、十数曲のアンコール曲を弾いたことを思い出す。
 その演奏会は、私がFM東京の番組のために収録していたのだが、予定外のコンサート時間の長さに、持って行った録音用テープがあわや足りなくなるところまで追いつめられた。あともう1曲しか入らない――とお手上げになった時、彼がいつも最後に弾く曲である「主よ、人の望みの喜びよ」が始まって、ヤレヤレと胸をなでおろしたのであった。

4・22(水)マリア・ジョアン・ピリス・プロジェクト第1夜

   すみだトリフォニーホール

 「ピリス・ピアノ・リサイタル」ではなく、「ピリス・プロジェクト」となっている。それは承知の上だ。が、何より聴きたいのは、やはり彼女ピリスの魅力あふれる瑞々しい演奏である。
 にもかかわらず、プログラムの半分を、添え物(?)の――平板極まる演奏をするチェリスト(パヴェル・ゴムツィアコフ)と一緒のデュオで聴かされては、張り合いがないこと夥しい。

 彼女がソロで弾いたのは、ショパンの「ソナタ第3番」とマズルカ3曲だけ。あとはデュオで、ショパン~グラズノフ編の「練習曲作品25-7」とリストの「悲しみのゴンドラ」、ショパンの「チェロ・ソナタ」だ。

 こんなつまらないデュオは聴いたことがない。彼女のピアノが浮かび上がる個所だけは音楽にもキラキラしたものが光っているが、チェロが入ると途端に音楽は陰々滅々たるものになってしまう。
 客席はほぼ真暗にされており、第1部1時間、第2部40分はいずれも中間の拍手を禁じての切れ目なし。何だかぐったりさせられた演奏会である。

4・21(火)鵠沼サロンコンサート 第273回 川本嘉子&三舩優子

   ラーラ・ビアンケ(神奈川県藤沢市)

 近年は、サロンコンサートには滅多に行く機会がないのだが、やはり室内楽はこういう小さな会場で聴くと楽しい。音響効果の点で問題は多々あるけれど、インティメートな雰囲気という長所がある。

 神奈川県の江ノ島に近い鵠沼の「ラーラ・ビアンケ」というイタリアン・レストラン。
 もう20年近くにわたり、定休日を利用してクラシックのコンサートをほぼ毎月1回の割りで開催している。主催は「鵠沼室内楽愛好会」である。
 出演アーティストの顔ぶれたるや、内外の一流どころを揃えて、すこぶる豪華だ。客席数約60、入場料は1回当り5000~6000円(会員は500円引き)で、コーヒーとケーキが付く。
 聴きに行ったのは、今回が初めてである。噂には聞いていたが、実に良い雰囲気だ。

 今夜は、川本嘉子(ヴィオラ)がバッハの「BWV.1015」の無伴奏ヴァイオリン・ソナタをヴィオラで弾き、三舩優子(ピアノ)がラフマニノフの「前奏曲作品32の5」とクライスラーの「愛の悲しみ」(ラフマニノフ編)を弾いた。そしてこの2人が、シューマンの「アダージョとアレグロ」とシューベルトの「アルペジョーネ・ソナタ」を協演した。あいにく戸外は土砂降りで、湿気も多く、演奏者には大変だったろう。しかし、室内楽の魅力を充分に堪能できたという気分にさせてくれたのであった。

 このコンサート、5月はガブリエル・クァルテット、6月はベネヴィッツ・クァルテット、7月には日下紗矢子が登場することになっている(なかなかの顔ぶれだ)。
 この店でのコンサートは、もともと今年いっぱいで終了せざるをえないことになっていた。しかし、幸いにも今後は近くのフランス料理レストランで開催できることになりそうで、その場合はおそらく、会員の更新期にあたる9月からになるかもしれないとか。藤原真理(9月)、漆原朝子(10月)、プラジャーク・クァルテット(11月)というラインナップが以前から決まっている。
 地域密着型の意義ある催しだ。応援したいものである。

4・19(日)シルヴァン・カンブルラン指揮読売日本交響楽団の
フランス・プロ

   横浜みなとみらいホール マチネー

 空港のホテルで、早朝なんの気なしにAIR-G'(エフエム北海道)をつけたら、「朝クラ!」という番組の後半コラムで、昨日の定期でコンサートミストレスをつとめていた札響の大平まゆみさんがDJをやっていた。レギュラー出演だそうだ。地元メディアとの結びつきはいいものだと思う。番組の前半は、PMF広報の渡辺史子さんが出演して、チケット売出しが始まったばかりの今年夏の音楽祭の話。いいなあ札幌、という感。

 とにかく朝一番(7時30分)の便で札幌から引き返し、横浜の読響マチネーを聴きに行く。次期常任指揮者のフランスものは、やはり聴いておかねばなるまい。

 先日のベートーヴェンでは、管楽器が未だカンブルラン流に非ず、などと書いてしまったが、今日はどうして、木管も金管も活気充分。フランス音楽にふさわしい輝かしさを聴かせていた。
 特に、首席オーボエが冴え渡る。ラヴェルの「クープランの墓」など典雅極まる演奏で、まさに絶品だった。日本のオーケストラがこの曲をやると、なにかリズムも表情も重くなって色合いにも乏しくなることが多いのだが、今日の読売日響は見事な柔軟性を示し、このオケがと思うほどの鮮明な色彩感を響かせたのである。第4曲「リゴードン」で音色が全く濁らず、爽やかさを保っていたのも驚異的。

 読売日響がここまで行けるとなれば、このオーケストラに画期的な1ページが開けることになるだろう。そのフランスもの路線がスター的・ブーム的な人気を集めるのはムリかもしれないが、在京オケの中で独歩の地位を築けることは間違いない。

 今日のハイライトともいうべきこの「クープランの墓」の名演を挟んで、前半にラモーの「ダルダニュス」からの組曲(8曲)、後半にベルリオーズの「幻想交響曲」。
 前者はもう少し軽い響きでもいいのではないかと思われたが、それなりの意図もあったのだろう。
 後者は、後半2楽章に豪壮重厚なクライマックスを設定、内声部にいたるまで精妙な音色にこだわった演奏。また、アンコール曲のサティの「ジムノペディ第3番」(ドビュッシー編)でさえ、そのこだわりのためにいっそう色彩的で妖艶な音楽になっていた。

 言っても詮無きことだが、今にして思えば、こちらのプログラムの方をサントリーホールでやってもらいたかった。そうすればラモーとラヴェルの作品も、その演奏にふさわしい熱烈な拍手を得ることができたであろうに。
   音楽の友6月号(5月18日発売)演奏会評
 

4・18(土)ラドミル・エリシュカ指揮札幌交響楽団 2日目

  札幌コンサートホール kitara

 エリシュカ=札響の評判は、すこぶる高い。今回の札幌コンサートホールkitaraの定期にも、私を含め、東京から少なからぬ数の熱心な聴き手が押しかけた。ちょっとしたエリシュカ現象という感。

 この日のプログラムでは、やはりヤナーチェクの「利口な女狐の物語」組曲(ターリヒ編)と、ドヴォルジャークの第7交響曲が聴きものであった。
 実に正統的で、瑞々しさの中にも毅然たる風格を備えたエリシュカの指揮である。私としては、もう少し熱っぽい演奏になるのではないかと勝手に想像していたのだが、思いのほか端正だ。「7番」第3楽章にも感傷的な雰囲気は一切無いし、第4楽章大詰めのクライマックスでも大見得や誇張は聞かれない。むしろ素っ気ないほど峻厳で、剛直な精神に満たされた音楽である。

 札響の演奏も見事だった。しなやかで美しい弦の魅力はいつもながらだし、オーケストラ全体のバランスもいい。むしろ整いすぎていたのでは――と私には感じられるほどで、エリシュカの音楽には本来もう少し豪快さもあるのではないかと思いもするのだが、これが札響の個性かもしれないから、それはそれでよかろう。
 いずれにせよ、エリシュカと札響、両者の心が通い合っている様子が、今日の演奏からも明確に感じられる。

 札響のドヴォルジャークの「7番」といえば、もう30年以上も前、ズデニェク・コシュラーが客演指揮した時の演奏が今なお耳の奥底に残っている。第4楽章終結でテンポをたたみこむように上げ、最後の一連の和音で大波のようなクレッシェンドを繰り返した迫力は凄かった。当時の札響も、すでに演奏水準は非常に高かったのである。

 なお、ヤナーチェクとドヴォルジャークの間には、モーツァルトの「ヴァイオリン協奏曲第3番」が演奏されていた。若い木嶋真優のソロは極めて美しい音色だったが、この曲に限ってエリシュカと札響の演奏は、冒頭からして不思議に活気に乏しかった。一晩のプロの中でムラがあるようではチト困る。

4・17(金)ダン・エッティンガー指揮
東京フィルハーモニー交響楽団定期

  サントリーホール

 最初発表されていたプログラムの順序は、R・シュトラウスの「祝典前奏曲」、シェーンベルクの「浄夜」、シュトラウスの「ツァラトゥストラはかく語りき」だったが、「指揮者の要望」とかで、「浄夜」が最初に演奏された。
 この変更は、音楽の流れの上ではあまり納得が行かない――「祝典前奏曲」の大音響の坩堝の直後では、「ツァラ」冒頭の劇的な効果も少々薄められてしまうからだ。が、ステージ転換の手間の点ではそれも止むを得ないところか。

 「浄夜」のみ、コントラバス(8本)が正面に配置され、たっぷりした低音とくぐもった音色で重厚かつ濃厚な演奏が繰り広げられた。まさに後期ロマン派ワールドという感じで、最近ではあまり聴けなくなったタイプのものだろう。
 冒頭部分が例のごとく極度に遅いテンポで開始された時には、先行きどうなるかと思ったが、幸いにも(?)その後はさほど極端なテンポにはならずに進められた。それでも全体の演奏時間は33分だから、やはり遅い方だろう。緊迫感さえ失われなければ、遅いテンポでも一向構わないのだが・・・・。
 冒頭その他で、ピアニッシモが非常に強い音で弾かれており、これはエッティンガーのユニークな感性の表れだろうが、些か賛意を表しかねる。

 「祝典前奏曲」は、オルガンも加わった超大編成で、オーケストラもよく鳴ったけれども、明晰さは完全に犠牲にされていた。
 ナマのステージでこの曲を、ただガンガン鳴るカオス的な音楽にせずに演奏するのは、やはり難しいのだろうか。昔ベームが指揮したレコードを聴いた時にはなかなかいい曲だと思ったものだが――ナマで聴いたのはこれが4度目、いまだに混沌ならざる演奏にめぐり合ったことがない。

 最後は「ツァラ」。今日の演奏の中では、これが一番均衡が取れていたようである。でも、トランペットとホルンには、どうも相変わらず問題が多いようで・・・・。

 エッティンガーと東京フィルは、結局のところ、相性は良いようである。この分だと、そろそろ首席客演指揮者就任か?

4・15(木)エド・デ・ワールト指揮NHK交響楽団 4月B定期

   サントリーホール

 ショスタコーヴィチの「祝典序曲」、プロコフィエフの交響的協奏曲(チェロのソロはトルルス・モルク)、最後にベートーヴェンの「交響曲第5番」というプログラム。

 デ・ワールトという人は――昔からずっとそう思っていたが――本当に生真面目というか、クソ真面目というか、正攻法以外の道は採らない指揮者だ。
 だから、オーケストラがルーティン的な演奏しかしていない時には、音楽が生気を失いかねない。
 今日のN響は、先日の「指環」の時とは大違い。特に「運命」など、今日のに比べれば、先日のカンブルラン=読売日響の演奏の方が格段に聴き応えがあったろう。

 せっかく出かけて行って、手ぶらで帰って来るのもシャクだから、気に入ったところを二つ挙げておくことにしよう。「運命」第3楽章最後のブリッジ・パッセージの前半分のピアニシモの緊張感。それに、モルクが弾いたアンコール曲の「鳥の歌」での静謐な祈りの歌。

4・13(月)シルヴァン・カンブルラン指揮読売日本交響楽団

  サントリーホール

 ザルツブルク祝祭大劇場でベルリン・フィルを聴いた直後にサントリーホールで読売日響の演奏を聴くと、何とまあきれいな音だろう、と感心する。
 これは、皮肉でも嫌味でもない。日本のオーケストラは、特に近年、本当にいい音になった。

 プログラムはモーツァルトの「劇場支配人」序曲に始まり、ベートーヴェンの交響曲の「第4番」と「第5番」と続き、アンコールの「ロザムンデ」間奏曲第2番で閉じられた。
 実に清雅な音色である。特に弦(モーツァルト12型、ベートーヴェン14型)には、読売日響らしからぬ洒落た色気のような響きが漂っていた。管楽器群の方は、まだそう簡単に方向転換できるものか、といった感じだろう。

 だが、次期常任指揮者カンブルランの個性は早くも発揮されはじめているようである。両者の呼吸が合ってくれば、結構面白いことになるかもしれない。読売日響がこのような明るく爽やかで開放的な響きを常時手中にするとなれば、このオーケストラにまた一つ新境地が開かれるのではなかろうか。
 もっとも、どの指揮者の場合も同じだが、カンブルランと読売日響との共同作業の成否も、レパートリーによるところが多いだろう。

 総じて、実に爽快な演奏だった。それ以外には――そこが問題だろう。
 いや、たまにこういうベートーヴェンを聴くのも悪くない。
 それに「運命」は、ちょっとニヤリとさせられる良さがあった。カンブルランは、デュナミークの変化や、音色の多彩な変化に、非常に凝る時があるようだ。第1楽章の「運命」のモティーフの中のティンパニのトレモロに強弱の変化を付けたり、第3楽章最後のブリッジ・パッセージの最初でティンパニをちょっとクレッシェンドさせたり、あるいは第4楽章の第1主題後の経過句でトランペットに同じようなクレッシェンドとデクレッシェンドを吹かせたりして、音楽に強いアクセントを付ける。

 それは決して、小細工とは言えない。第4楽章の第1主題など――特にリピートのところでは――見事に壮大で躍動的で、立派な演奏だったのではないか?(ここでのフルートの大きな身振りは面白かった)。こういう細かい演奏をするためには、アンサンブルをも練り上げなくてはならないから、オーケストラにとっても有益かもしれない。

 しかし、カンブルラン、やっぱりフランスもの総ざらえをやってくれないかな? 週末にはもう一つのプログラム――ラモー、ラヴェル、ベルリオーズがあるが。
 

旅行日記最終日 4・11(土)
ザルツブルク・イースター音楽祭 サイモン・ラトル指揮ベルリン・フィル

     ザルツブルク祝祭大劇場

 本日の席は1階左8-4。前過ぎるし、左過ぎるが、出入りには非常に楽だ。
 プログラムはヴァイルの「七つの大罪」、R・シュトラウスの「ホルン協奏曲第2番」、最後に「運命」。
 ベートーヴェンのこういう名曲を入れるのは、観光客が非常に多いイースター音楽祭を考慮したものだろう。ちょっと渋い現代作品を入れた時など、客があからさまに退屈している様子を何度も見たことがある。その退屈の様子たるや騒々しく、プログラムをめくったりするだけでなく、手で椅子を叩いたり、唸って周囲を見回したりするひどいオヤジも少なからずいるのだから。

 「七つの大罪」では、アンナⅠ、Ⅱをアンゲリカ・キルヒシュラーガーが中央の指揮者横で歌い、「家族」役の4人(アルノルト・ベツーイェン、ベルンハルト・ベルヒトルト、ダニエル・シュムツハルト、クリスティアン・ヴァン・ホルン)は上手側のオーケストラ後方に位置する。
 「プロローグ」が開始された時のオーケストラの音色は例のごとく淡彩で、テンポも速め。曲が持つ一種の頽廃的な雰囲気がほとんど感じられず、やはりラトルが振るとこういう屈託ない音楽になってしまうのかな、とちょっと失望したのだけれど、「怠惰」に入ってからの渦巻くような曲想の追い込みはさすがに鋭く、スリルが感じられた。
 だが総体的には、やはりラトルの感性は、この作品にはどうも明るすぎるように思われる。同じ非ドイツ系の指揮者でも、たとえば以前マイケル・ティルソン・トーマスがロンドン響を指揮した演奏(CD)には、もっと何か不気味な暗さが感じられたものだ。

 しかし、キルヒシュラーガーのソロはすばらしい。時に怒り、時に嘆息し、時に遣る瀬無さそうにアンナの感情を表現して行く歌唱は、すこぶる迫力に満ちている。この曲は「春の祭典」とともに今回のお目当てだったが、彼女のこの歌を聴けたことでその甲斐があったというところだ。

 「ホルン協奏曲第2番」のソロは、ベルリン・フィルのソロ奏者シュテファン・ドール。鮮やかなテクニックを聴かせていたけれど、オーケストラの厚みある柔らかい響きとの対比を強調しているのか、かなりアクセントの強い戦闘的な演奏になっていたのには――好みの問題もあろうが――違和感がないでもない。バボラクだったら、もっと豊満でスケールの大きなホルンを聴かせてくれただろう。

 最後の「第5交響曲 運命」は、エネルギー性充分の演奏だ。1階のこの席で聴く限り、オーケストラの厚みと重量感、響きの均一性、ひたすら前へ前へと突き進む力といったものを堪能することができる。しかも過度に戦闘的・闘争的な響きを持たないところも良い(とはいえこれも、1階席と2階席とでは相当違った印象を生んだのではなかろうか)。

 8時40分にはお開きになる。アンコールは絶対やらず、カーテンコールも4回ほどやったところでオーケストラはあっさり引き上げてしまうから、昨日と同様、時間的には連日短いコンサートである。
 今年のイースター・フェスティバルでは、明晩ウェルザー・メストがベルリン・フィルを指揮する演奏会があり、また明後日はラトルが指揮する「ジークフリート」の上演があって、それで終る。後者は昨年夏にエクサン・プロヴァンス音楽祭で観た。ラトルとベルリン・フィルの演奏は見事だったが、舞台の方は二度観るほどのものでもなかろう。

旅行日記第3日 4・10(金)
ザルツブルク・イースター音楽祭 サイモン・ラトル指揮ベルリン・フィル

    ザルツブルク祝祭大劇場

 朝ベルリンを発ち、昼過ぎザルツブルクに入る。いずれもかなり気温が高く、晴天で空気も爽やかだ。
 イースター・フェスティバルの第2ツィクルスのうち、今回は初めの2日のみ聴く。

 今日は、ブラームスの「ピアノ協奏曲第2番」と、ストラヴィンスキーの「春の祭典」というシンプルなプログラム。
 席は1階左の9-16で、やや前方に過ぎるが、至近距離で聴くベルリン・フィルの分厚く壮大な響きは何とも快い。それはラトル流ブラームスともいうべき淡白な色合いの演奏ではあるが、私自身がこのところブラームスから久しく遠ざかっていたせいもあって、実に懐かしく、温かく瑞々しい音楽に感じられたのだった。
 ピアノのソロはイェフィム・ブロンフマン。またかという感。一昨年もこのフェスティバルでラフマニノフを弾いたのだ。何も隔年で出て来ることもなかろうに。

 後半の「春の祭典」は、今回の私の目当ての曲目の一つだったが、試みに知人と席を交換して、2階中央最前列で久しぶりに聴いてみる。
 予想通り音は乾いて硬く鋭く、耳を劈く騒々しい演奏に聞こえていた。
 これは、ブラームスとストラヴィンスキーの音楽の違いという要素だけではなく、また作品の性格に応じた演奏スタイルの違いだけでもない。もう明らかにこの祝祭大劇場のアコースティック(音響特性)の問題である。
 演奏後の拍手は大きかったが、ブラヴォーの声は上階からはほとんど飛ばず、専ら1階席から沸いていたのも、音響的な印象が演奏のイメージと絡んでいたからではないだろうか? 

 ただし演奏における音楽のエネルギーは充分だったし、ラトルのリズムの追い込みにはスリル感もあった。以前に出たCDにおける演奏よりもテンポが速く、勢いも凄まじい。
 「選ばれし処女の踊り」の途中の第149小節以降で、和音が3つ続けて刻まれる個所のみデクレッシェンド気味に演奏されるのが、CDよりも明確に聞こえる。もちろんスコアにも指定されていない方法ではあるが、大変面白かった(ブゾーニの「トゥーランドット」の謎解きの場面によく似た音楽がある)。
 ラトルはあまり細かく振らず、要所で入りの指示をする程度で、あとはイメージをオーケストラに与えるといった指揮ぶりである。

 6時半開演で、8時15分には全部終ってしまった。おそろしく短くて、コストが高くつくコンサート。

旅行日記第2日 4・9(木)
レスピーギの幻のオペラ「マリー・ヴィクトワール」ドイツ初演

    ベルリン・ドイツ・オペラ

 レスピーギが書いた4番目のオペラ「マリー・ヴィクトワール」を初めて観る。
 これは、フランス革命を背景にした物語。1915年にテアトロ・コスタンツィで初演を予定されながら、第1次世界大戦下のフランスとの政治的問題を慮ってオクラになってしまい、やっと2004年にローマで日の目を見たという経緯を持つ。今日がドイツ初演なる由。

 今回の演出は、当初カタリーナ・ワーグナーが担当する予定だったものが、あれこれの裏事情があって、老練ヨハネス・シャーフに変った。もっともベルリン・ドイツ・オペラは――これもまたあれこれの複雑な事情があって、それを長いこと公表しなかったとか。カーテンコールでシャーフにかなりしつこくブーイングが飛ばされたのは、単に演出への不満といったものの他に、政治的な裏事情とも関係があるのかも。

 しかし、シャーフの演出だから、舞台は複雑な読み替えなどにはなっていない。
 すこぶるストレートな作りで、舞台を見ているだけで内容がはっきりと解る。フランス革命時の衣装が使われ、舞台装置(スザンネ・トマシュベルガー)も、多少コラージュ的ながら比較的リアルなものだ。

 とはいえ、あのシャーフにしては、随分あっさりした演出である。
 最近の彼の演出の傾向については全く承知していないのだが、少なくとも十数年前にロイヤル・オペラで演出した「ドン・ジョヴァンニ」(日本でも上演された)の鮮烈な読み込みに比べると、どうも今回は、あえて手を加えない方法を選んだように見える。
 なお今回は、第3幕と第4幕を切れ目なしに上演、間奏曲をマリーとモーリスが心を通わせはじめる場面として扱っていた。が、その間動きが全くないために、何か非常に長く冗長に感じられる結果になってしまっていたのが惜しい。

 歌唱はフランス語で、ドイツ語の字幕が付く。
 1793年――フランス革命勃発から4年後――パリの貴族夫人マリーは、夫モーリスの不在中に、夫の友人たるクロリヴィエールとともに革命政府に逮捕されるが、処刑寸前にジャコバン党が勢力を失ったため、幸運にも釈放される。だが彼女は、獄中でクロリヴィエールの熱愛を受け、不本意のうちにその子供を宿してしまった。
 やがて彼女はパリで服飾店を経営し成功を収めるが、7年後、長いこと消息の知れなかったクロリヴィエールとモーリスが相次いで現われる。マリーは未だクロリヴィエールを許していない。一方モーリスは、その幼児が「自分たちの」子供でないことを聞かされ、衝撃を受ける。
 間もなくクロリヴィエールはナポレオンの馬車に爆弾を仕掛けたが失敗、追われる身となる。人生に絶望しているモーリスは、犯人を追う群衆に対し、自らをテロリストの一員であるように見せかけ、真犯人の名前を明らかにするのを拒否し処刑を求めるが、間一髪クロリヴィエールが飛び込み、己が犯行を告白、「国王万歳」と叫び、ピストルで自ら命を絶つ――。

 レスピーギの音楽はさほど複雑ではないが、「ローマ3部作」などの音楽とは性格を全く異にし、むしろ「教会のステンドグラス」や「ボッティチェリの3枚の絵」などに近い性格を持つだろう。
 かなり色彩的で華麗な響きを備える一方、著しく暗鬱で不気味な描写にも優れている。オペラとしてはいまひとつ劇的効果には不足し、第4幕の大詰めにおけるモーリスとマリーが再び心を通わせるまでにいたる場面など、些か冗長なところもあるが、美しいところも多い。

 指揮はミハイル・ユロフスキ。とりわけ閃きを感じさせるというほどでもないが、音楽の良さを味わわせてくれたことはたしかであった。
 タイトルロールを歌ったのはタケシャ・メッシェ・キツァルト(キザール? Takesha Meshe Kizart)というソプラノで、アフリカ系の人だろうか。幕が進むに連れて次第に調子を上げ、牢獄の場で感情を激しく爆発させるくだりなどでは大熱演、熱狂的な拍手を浴びていた。カーテンコールでのやり方をよく知らず、右往左往していたところを見ると、まだオペラハウスのしきたりをよく心得ていないキャリアなのかもしれない。

 モーリスは、前夜ベルリン州立歌劇場の「ローエングリン」で「熊の伝令」を歌ったばかりのマルクス・ブリュック(忙しい人だ)。こちらは堂々たる主役、地味だが手堅い。クロリヴィエールのゲルマン・ヴィラール、クロトーのシュテファン・ブランクも同様。みんなしっかりしている。
 7時半開演で、終演は11時15分。

旅行日記第1日 4・8(水) ベルリン・フェストターゲ
バレンボイム指揮 ヘルハイム演出 ワーグナー:「ローエングリン」 

    ベルリン州立歌劇場

 今年のフェストターゲのオペラの目玉は、この新制作「ローエングリン」。

 演出は悪名高き(?)シュテファン・ヘルハイム。
 予想通り、何とも煩わしい舞台だ。
 第1幕ではローエングリン、オルトルート、テルラムント、伝令の4人を除く全員が服を脱ぎ捨て、イチジクの葉をつけただけの全裸になる(もちろんタイツ姿だが)。
 こんなことまでやってスキャンダルで名を揚げ、目立ちたいのかとうんざりする。が、かつてザルツブルク音楽祭で彼が演出した「後宮よりの逃走」の際、客席の怒号とブーイングで演奏が中断したような時代と比べると、今回の程度では全くブーイングも出てこない、という今日の独墺オペラ界ではある。いいことか、悪いことか。

 第1幕では、群集は最初のうちジーパンなどの普通の姿。
 シュターツオーパー、ドイッチェ・オーパー、コーミッシェ・オーパーのプラカードを持ち、操り人形(ワーグナーあるいはヴァイキング――つまり旧型ヴォータンの人形)を持って、いろいろなグループに別れたり集まったり。
 ベルリンの3つのオペラハウスが結局ワーグナーで成り立っていることのパロディと思えば面白い。ワーグナーものをほとんどやらないコーミッシェ・オーパーのプラカードを持った者の数が非常に少ないというのも道理だろう。
 となれば、国王の伝令(マルクス・ブリュック)がベルリン市の象徴たる熊のヌイグルミを着ているのも、バカバカしいが筋は通っている。背広にネクタイの国王(クヮンチュル・ユン)は、さしずめベルリン市長か。

 ローエングリン(クラウス・フローリアン・フォークト)は、中央の華麗なカーテンの中から現われるが、何と金ピカの鎧兜をまとったヒゲ面の、さながらミニ・ヴォータンといったいでたちで、これもやはりワーグナーのパロディか。「白鳥」は、鳥の羽根(もしくは白い鵞ペン)である。

 テルラムント(ゲルト・グロコウスキ)との決闘を前にしての「祈り」の大合唱のさなかに、前述のごとく国王を先頭に一同が次々と服を脱いで行くわけだが、それに先立ちエルザ(ドロテア・レッシュマン)がローエングリンの前で全裸になってみせることからすると、アダムとイヴのごとく自らを純真無垢(の第2段階?)とし、「権威」の前に己のすべてをさらけ出すという解釈も出来るだろう。

 これらの狂態(?)を目にして、伝令役の「熊」(ベルリン市)が転げまわって嘆き悲しむ様子は笑える。だがいずれにせよ、オペラの歌い手さんたちの大半は、概して裸形に適しているとは言えない方たちであって――それゆえ、そういうお姿を舞台の此処彼処に延々と見せつけられるのは、どうもねえ。

 「過激演出」については私もかなり場数を踏んでいるつもりだが、こういう舞台を前にしていると、面白さを通り越して、だんだん白けて来る。演奏そのものに神経を集中するようにしながら、かつてこのオペラをレコードで聴いて、その音楽に陶酔した時の気分を何とか蘇らせようと努めてはいたのだが――。

 第2幕では、妻オルトルート(ミヒャエラ・シュスター)の勧めで、テルラムントはヴァイキングの兜を冠る。異教徒の妻と同様、ゲルマンのオーディーン信奉者に鞍替えしてローエングリンに対抗しようというわけで、これは筋が通っているだろう。エルザを欺くため、オルトルートまでが全裸になってみせるのも、ここまでくればもう当然視されてしまう。

 陰謀の夜が明けると、臨時の舞台が設えられ、舞台上では操り人形や実際の人間が交錯し、群集は「観客」のような姿で婚礼の行列を眺めたり、あるいは参加したり。舞台はこのあと第3幕までの間に、群集によって解体されたり、再び組み立てられたりする。
 この「群集」が「観客」なら、彼らはわれわれと合体することになる理屈だ。われわれ自身がこのオペラの再創造に参加している、という理屈なのだろう。

 更に「人形」も、ドラマで特別な意味を持っていることが解る。各キャラクターの実像と、その体面あるいは虚飾の姿(人形)とを対比させるものとして使われている場面もあり(テルラムントの場合)、最終場面への伏線として使われている場合もある。
 それを手遣う道具が十字架の形をしており、群集がそれを聖なる形として掲げて見せたり、異教徒オルトルートがそれを折って叩きつけたりするといった演技も織り込まれるが、このあたりは論理的な反面、些か場当たり的で曖昧な意味合いもあるだろう。

 第2幕大詰め、「禁問の動機」が高鳴る劇的な瞬間に見られるものは、ト書きにあるようなオルトルートの威嚇の動作ではなく、突然舞台奥のカーテンが割れて出現するワーグナーの顔であった。
 このオペラの最重要モティーフである「禁問」なるものは、実はワーグナーがローエングリンを通して発した命令だったのか? 
 第1幕前奏曲のさなかにも、聖杯の足のような形をしたカーテンの中でワーグナーらしき男が鵞ペンを持っていた場面があったことを思い出す。

 こんな具合で、舞台上に現われるさまざまな出来事は、それぞれ関連があるようで、また全く無いようで、観る者をして著しく疲れさせる。第3幕の婚礼場面で国王が付き添いの女たちにチヤホヤされ、ローエングリンとエルザが顰蹙したりするというジョークなどもあるが、こんなのはまずどうでもいいような付録に過ぎない。

 ただし、特筆すべきはラストシーン。鎧兜のローエングリンもまた操り人形さながら、空中に浮かび上がって舞台上方に姿を消すのだが、最後に「聖杯の動機」が奏される瞬間、突然上方から、まさに人形そのもののローエングリンが落下して、大音響とともにバラバラに壊れる幕切れになる。
 ここでどうやらヘルハイムの物語は辻褄が合ったようで、あれだけ目まぐるしく活用された「人形」の意味が何であったか、また最初にベルリン市の3つのオペラハウスがワーグナーやヴォータンの人形を持って張り合っていた意味が何であったかも、(おぼろげながらだが)こちらにも理解ができる。ワーグナーの偶像または虚像は破壊されるが、その再創造は観客に委ねられるということになるのだろう。

 まあ、そんな風にこちらの思い込みで分析して行くと、ヘルハイムの演出コンセプトはなかなか穿ったものではないか、という結論に辿り着いてしまう。だが――今バイロイトでやっている「指環」と同様――コンセプトが良く出来ているからといって、実際の舞台が良く出来ているとは限らないのである。
 それに、「破壊」して何になるのか? 仮に偶像だ虚像だと言った所で、ひとりの演出家が他の演出家のそれをそう見て怒っているに過ぎず、結局は同じ穴のムジナではないのか? いずれにせよ、虚像は壊れてもワーグナーそのものは不動であり、相変わらずベルリンのオペラハウスを蓋って支配する魔物的な存在であることには変わりない。

 とにかく、あまり後味のよろしくない舞台であったことは事実だ。以前のハリー・クプファー演出の巧みなプロダクション(エルザの妄想によるドラマ)が懐かしくなるほどである。
 ただし今回の舞台、プロジェクターを活用した映像の扱いが巧みだったことには、触れておかねばなるまい。これは結構な見ものだった。

 歌手たちの顔ぶれは前述の通り。当初予定のルネ・パーペに替わって登場した国王役のクヮンチュル・ユンは、歌唱の面では、今やいよいよ貫禄と風格を増し、押しも押されもせぬバスの重鎮的存在になっている。
 また、ブルクハルト・フリッツから替わったクラウス・フローリアン・フォークトは――すでにわれわれはバーデン・バーデンでの彼の俗人離れしたローエングリンを知っているが――調子が良いのか悪いのか判らないようなナヨナヨした表現で何となく進んで行く。今回も「ヘンなヤツ」的な、英雄的でない騎士役を歌い演じていた。

 その他の歌手たちに関しては、まず予想通りの平均的な出来である。グロコウスキの声が多少こもり気味で明晰さを欠いていたことと、レッシュマンがちょっと変ったアクセントをつけて歌う時があることなどだけが、少々違和感を生んだ。

 指揮はもちろん、総帥のダニエル・バレンボイム。さすがに要所ではハッとさせられるような閃きのある音楽はあったものの、総じて彼らしくもない散漫な演奏が聴かれたのには落胆させられる。かつてワーグナー10連発をやった頃の、あの気魄に満ちた演奏は今いずこ、という感だ。このところ彼は疲れているという噂である。シュターツカペレ・ベルリンの演奏も、またベルリン州立歌劇場合唱団も、かなり粗っぽくて、感興を削ぐ。必ずしも席の位置による印象だけではないだろうと思う。

 6時開演で、休憩45分2回を挟み、終演は11時少し過ぎ。カットは慣習的な形で行われる個所のみ。
 ヘルハイムを起用したのは、結局バレンボイムである。彼は少し前にもフェストターゲにロシアの若手チェルニャコフを起用、やりたい放題の演出による騒々しい「ボリス・ゴドゥノフ」を上演したことがある。近年のバレンボイム自身がそういう路線を本当に好きなのか、単に批評家受けを狙ってやっているのかは知らない。
 ただ今回、プローペにバレンボイムが現われなかったとか何とか、ヘルハイムが公然と批判したとか何とかあって(裏事情に詳しい人に尋ねていただきたい)、4日前のプレミエのカーテンコールはちょっと不思議な雰囲気があったそうである。

 この演出について、森田さんから「マリオネット解釈」というご意見のコメントを頂戴しました。非常に興味深いご意見です。そちらの方が合っているかもしれない。お読み下さい。

4・5(日)ホール・オペラ 「ドン・ジョヴァンニ」本番初日

   サントリーホール

 サントリーホール恒例のホール・オペラ、モーツァルトの「ダ・ポンテ3部作」の第2弾、「ドン・ジョヴァンニ」の本番の幕が開く。

 何はともあれ、先日(2日)のリハーサルの項に書いたことをもう一度繰り返して、ニコラ・ルイゾッティの指揮と東京交響楽団の演奏を、第一に讃えなければならない。モーツァルトの音楽の快活さ、美しさを、実に見事に表現していたという点で。
 ルイゾッティにしてみれば、登場人物の感情の起伏といったものを、もう少し強調したかったところがあるのかもしれない。が、端正な美しさという点ではこれで充分だったろう。ドン・オッターヴィオの最初のアリアでの、後奏部分の弦の豊麗なカンタービレなど、うっとりさせられるほどであった。
 弦の編成は12型の由。豊麗のもとはそれか。あの狭いスペースによく入ったものだ。

 歌手陣も文句ない。みんな全力を出し切っていただろう。

 問題は、ガブリエーレ・ラヴィアの演出。
 昨年はシンプルで鮮やかだったが、今年は些か賛意を表しかねる。
 アレッサンドロ・カメラによる舞台装置もそうだが、狭いスペースの中に、あまりに多くを――つまり、専門のオペラハウスと同じようなことを注入しすぎたのではなかろうか。
 たとえば第1幕の大詰のごとき、狭い場所に大勢の登場人物がひしめき合うため、浮かび上がるべき人物が混雑の中に埋没してしまい、3種の舞曲が交錯するドラマ上の意味合いも失われ、騒然、雑然とした舞台と化してしまうのである。

 セミ・ステージやホール・オペラでは、本物の歌劇場の舞台を真似しようとすればするほど、逆にますます「中途半端なオペラ」に堕してしまうものだ。
 昨年の同種のオペラの中では、トリフォニーホールで上演された「ばらの騎士」がその例だったが、こちらのホール・オペラも、今年はその轍を踏んでいるような気がしてならぬ。
 ホール・オペラたるものは、あくまで歌劇場でのオペラとは別の――大きな歌劇場では創り得ないような、独自の視覚的空間をめざすべきではないのか?

 もっとも今回、そういう傾向はあったとしても、最後の「ドン・ジョヴァンニの地獄落ち」の場面には、ある種の迫力があったのは事実だった。演奏に助けられたところもあるが。

 結局、すべてを救っていたのは、つまるところモーツァルトのすばらしい音楽だったであろう。
 本当にこのオペラは、傑作中の傑作である。

4・4(土)エド・デ・ワールト指揮NHK交響楽団 4月A定期
R・シュトラウスとワーグナー

  NHKホール

 日本の若手指揮者を苛める癖のあるこのオーケストラの体質は何とも怪しからぬものだが、本気で演奏した時の上手さは、やはり公正に賞賛しなくてはならない。

 今日の1曲目、R・シュトラウスの「4つの最後の歌」での柔らかくふくらみのある、空間的に拡がりのある最弱音の美しさは、これまでどんなオーケストラからも聴いたことのないものであった。特にホルン群(1番を吹いていたのは松崎裕さんだろう)の温かいハーモニーには、陶然とさせられたほどである。
 もちろん、こういう夢幻的な響きを引き出したエド・デ・ワールトの力量も賞賛されるべきものだ。ソロはスーザン・ブロック(N響の表記はバロック)。数年前に新国立劇場でブリュンヒルデを歌った時に比べ、さすがに声が「きつさ」が出ているように思われる。その点で、オケの豊麗な音色とは多少のアンバランスもあったか。

 後半は、あのヘンク・デ・フリーハー(フリーガーという発音ではないとのこと)が編曲した、ワーグナーの「ニーベルングの指環」による「オーケストラ・アドベンチャー~指環」だ。
 ただし今日は「ラインの黄金」部分をカットして「ワルキューレ」から始め、その代わり最後の「ブリュンヒルデの自己犠牲」を、スーザン・ブロックのソロを入れて全部演奏するという形が採られた。これはこれで面白い。

 実はこの編曲版は、私は最初聴いた時には接続の巧さなども含めて興味津々だったが、何度か聴くうちに、すっかり飽きてしまったのである。というのは、幸いにもオリジナルの全曲を聴いて楽しむ機会が非常に多いからなのかもしれない。それに他方、ワーグナーの音楽にふだんあまり接していない人にとっては、この曲は一体どう感じられるのだろう?

 それはともかく、デ・ワールトは、この曲を最初にレコーディングした人だけあって、さすがに手馴れたものだ。「葬送行進曲」も決して速過ぎず、いいテンポで指揮してくれた。N響も「葬送行進曲」以降、凄まじい重量感と馬力を発揮した。お見事と言うほかはない。
 ブロックの歌唱も、むしろこちらの劇的な性格を備えた「自己犠牲」の方で成功していたと思う。
 

4・4(土)エリアフ・インバル指揮東京都交響楽団
「作曲家の肖像~ベートーヴェン」

    東京芸術劇場 マチネー

 「コリオラン」序曲、ピアノ協奏曲第2番、「英雄交響曲」。

 弦16型の編成、木管倍加(各4本)による、堂々たる重厚なサウンドのベートーヴェンだ。久しぶりにこういうタイプの演奏に接し、なにか昔、新鮮な気持でこれらの曲を聴いて胸躍らせた時代が蘇ったような感。
 「英雄」は、多分ブライトコップ版が使われたか、あるいはそれを踏襲した版による演奏ではなかろうか。

 こういう壮大指向の英雄的なベートーヴェン像を頑として守ってくれる指揮者は、いまや貴重な存在といえよう。今日のソリストはゲルハルト・オピッツで、彼もまた生真面目なほどに毅然としたベートーヴェン像を守り抜く人だ。先日横浜で聴いた「皇帝」と同じように、インバルとの演奏は何の歪みもなく率直で、力のこもったものである。
 都響も、引続き快調。

4・3(金)「トーキョー・リング」再演第2弾
 ワーグナー:「ワルキューレ」

  新国立劇場

 7年前に上演された新国立劇場オリジナル制作によるワーグナーの「ニーベルングの指環」第1夜「ワルキューレ」再演の初日。

 まずは、オーケストラ(東京フィル)がかなり良かったことを寿ぎたい。
 そりゃまあ、トランペットやホルンが頼りないという欠点は相変わらずある(オケは本気で改善に取り組むべきだ)けれども、今日はトラブルが少なかった方だろう。
 そして何より、弦が非常に良かった。いつもと違って音に厚みと瑞々しさがあり、第1幕前半などはどこへ出しても恥ずかしくない出来の演奏だったと思う。

 ダン・エッティンガーの指揮も、遅いテンポの個所をことさら――緊張感を失わせ、作品全体のバランスを壊すくらいにまで強調し過ぎる癖はあるものの、悲劇的な情感を充分に備えた壮大な構築で成功していたであろう。とりわけ、ジークムントとジークリンデの出会い(再会)の場面や「ヴォータンの告別」の場面の音楽は、オーケストラの響きの良さと併せ、卓越した演奏であった。

 主役歌手陣は、エンドリック・ヴォトリッヒ(ジークムント)、マルティーナ・セラフィン(ジークリンデ)、クルト・リドル(フンディング)、ユッカ・ラシライネン(ヴォータン)、ユディット・ネーメット(ブリュンヒルデ)、エレナ・ツィトコーワ(フリッカ)という顔ぶれ。
 傑出した出来というほどの人はいなかったが、これだけ歌えること自体が立派なものなのだ。大拍手が贈られて然るべきである。
 8人のワルキューレはすべて日本勢。看護婦姿で大暴れしながら歌うのだから大変だったろう。ドアを飛び蹴りしながら「ホ・ヨー・ト・ホー」と暴れ回っていたヘルムヴィーゲ役の平井香織さん、お疲れ様でした。

 キース・ウォーナーの演出、デヴィッド・フィールディングの衣装と舞台装置、ヴォルフガング・ゲッベルの照明、いずれも立派なものである。
 これだけ美しい舞台は、いまや世界のどこのプロダクションでも観られないだろう――私はもちろん世界中のを全部観たわけではないが、少なくともバイロイトを含むメジャーな歌劇場でこの10年ほどの間に観た10種類以上の舞台と比較すれば、そう断言できる。
 今回の再演での舞台演出は、「ラインの黄金」と同様、プレミエ時に演出補だったマティアス・フォン・シュテークマンが担当。見事にまとめていた。

 第3幕で、追い払われたワルキューレたちが竦み上がる場面――今回の演出では、ワルハラへ繋がる入口を持つ病院――が遠ざかって行くくだりは、新国立劇場の舞台機構がめずらしく活用された例として、当時話題になったものだ。
 こういう設備があの劇場にはあるのだから、もっと使ってもらいたいと思うのだが、なかなかそういう演出がない。他には――「アラベッラ」くらいなもんじゃないですか? 他に何かあったかな?
 

4・2(木)ホール・オペラ「ドン・ジョヴァンニ」リハーサル

   サントリーホール

 5日・8日・11日にサントリーホールで上演されるモーツァルトのオペラ「ドン・ジョヴァンニ」のリハーサルを取材。

 昨年の「フィガロの結婚」とは――演出は同じガブリエーレ・ラヴィアだが――舞台の雰囲気がガラリと違う。今回は、廃墟かゴミ屋敷か、という陰惨な光景の舞台装置。もちろんこれは、精神の荒廃した時代の物語である、ということの象徴だろう。
 オーケストラ(東京交響楽団)は舞台奥に、センター客席に背を向けて配置され、指揮のニコラ・ルイゾッティはこちら客席を向いて指揮、登場人物の演技は主として舞台手前で行なわれる――という形。これは、昨年同様だ。

 ルイゾッティのテンポは速い。序曲の主部など、スコアの指定モルト・アレグロをはるかに上回るテンポで、疾風のごとく駆け抜ける。
 もともとプレストと指定されている「シャンパンの歌」でのテンポも、更に速い。ドン・ジョヴァンニ役のマルクス・ヴェルバ――欧州で引っ張りだこの若手だけあってさすがにすばらしい――が、完璧にそのテンポに乗って、猛烈な早口で豪快に歌う。ルイゾッティは、「やるな、お前も」と言わんばかりにニコニコと彼を見ながら、ますます楽しそうに飛ばして行く。
 オーケストラの弦のほうは、さぞや大変だろう。

 が、東京響は快調につけて行く。このホールの音響特性ゆえにオーケストラの音はよく響くため、細部は飽和状態になるが、きわめてしなやかで弾力性に富む美しい音色であることはたしかだ。快い演奏である。

 歌手たちは、リハーサルのためフル・ヴォイスはほとんど出さない。しかし、実力のほどは解る。
 前記ヴェルバの他、同じく若手のマルコ・ヴィンコ(レポレッロ)、セレーナ・ファルノッキア(ドンナ・アンナ)、ブラゴイ・ナコスキ(ドン・オッターヴィオ)らが、さすがにリハーサル段階から光る。増田朋子(ドンナ・エルヴィーラ)とダヴィニア・ロドリゲス(ツェルリーナ)も、本番までには更に調子を上げるだろう。
 総じて、音楽面ではきわめて満足の行く上演になるだろうと思う。

 演出に関しては、ちょっと首をひねるところもないではない。狭いスペースに、主人公たちに交じって合唱団(村の若者たち)や黙役(召使たち)もひしめき合う。難しい問題である。その整理が巧くできればいいのだが。大きな幕の使い方も含めて、本番までにはもっといろいろ手直しされて行くだろう。

 騎士長の亡霊の登場場面や、ドン・ジョヴァンニの地獄落ちの場面は、今は書けないが、なるほどこういうテもあったか――という感。
 

4・1(水)METライブビューイング 「蝶々夫人」

   東劇(東銀座)

 メトロポリタン・オペラにおける上演ライヴのビデオの映画館上映。去る3月7日に上演されたもので、これは2006年秋のシーズン・オープニングを飾って話題になったプロダクションだ。演出は演劇畑のアントニー・ミンゲラだが、彼は惜しくも昨年他界したとのことである。

 「蝶々夫人」という字が幕(緞帳)にデザインされており、シンプルな舞台に「かなりの程度までなんとなく日本的」な要素があふれるのも特徴だろう。
 ゴローやヤマドリが宮廷風の衣装だったり、ボンゾが山伏風の装束で大見得切ったりするところなどは微苦笑させられるが、多彩な照明を含めた幻想的な視覚効果などもあって、外国ものの「蝶々夫人」としてはなかなか妖艶で壮麗な舞台になっている。
 かように、オーソドックスな演出の範囲で可能な限りの趣向を凝らすのがMETの演出方針なのであり、これはこれで一つの立派なポリシーといえよう。
 なお、蝶々さんの子供の演技が非常に微細で上手い――といっても実はこれは人形で、3人の手遣いによる操作であった。面白いアイディアである。

 指揮はパトリック・サマーズ、無難だがつまらない演奏だ。歌手陣は、蝶々さんがパトリシア・ラセット、ピンカートンがマルチェロ・ジョルダーニ、シャープレスがドゥウェイン・クロフト、スズキがマリア・ジフチャク、その他。いずれも手堅い出来である。

 休憩時間には歌手たちへのインタビューもふんだんに織り込まれ、ルネ・フレミングが陽気な案内役ぶりを発揮する。彼女も司会が随分上手くなった。来シーズンのビューイングのプログラムを紹介し、さりげなく「ワタシもこれを歌うの」とPRするあたりも手馴れたものである。
 映像は綺麗に捉えられているが、アップが多いので、舞台全体の幻想的な雰囲気を捉えるに至らないところが惜しい。

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