2017-11

3・30(月)エリアフ・インバル指揮東京都交響楽団、
オピッツが協演

  横浜みなとみらいホール

 インバルが、いかに都響を変えて行くか――そこに興味を持ち、今回は少し集中的に聴いてみることにした。今日は「フィガロの結婚」序曲に始まり、ゲルハルト・オピッツのソロで「皇帝」、最後にチャイコフスキーの「第5交響曲」というプロ。

 「皇帝」では、久しぶりに飾り気や誇張のない、骨太で率直なベートーヴェンを聴いた気持になった。オピッツの生真面目で真摯なソロと、インバルのひた押しに押す指揮がぴったり合い、音楽は速めの安定したテンポで、毅然として突き進む。第2楽章も美しかったが、フィナーレも胸のすくような演奏。都響、明らかに勢いが出て来た。

 チャイコフスキーでもインバルは引き締まったテンポで、4つの楽章をアタッカで演奏、都響を煽りに煽る。これほど燃えた都響を聴いたのは久しぶりだったかもしれぬ。トランペットが加わった時の金管群全体の音色が少し濁り気味なのが気になるが、演奏にあれだけ熱気があったのだから、善しとしましょうか。
 カーテンコールで舞台に笑顔が多かったのも、好感を呼ぶ。演奏者が楽しそうにしていないと、聴衆も楽しい気持にならないから。
 

3・29(日)プッチーニ:「トゥーランドット」

  神奈川県民大ホール マチネー

 スダーンと東京交響楽団によるブルックナーの「7番」の本番も、ちょうど同じ時間にオペラシティで行なわれているはず。
 が、3日間ブルックナーとワーグナーにどっぷりと精神的にも浸っていたので、ここらで気持をプッチーニに切り替えたくなった次第。
 それに何故か「トゥーランドット」は、私がプッチーニのオペラの中で一番好きなオペラなのである。

 15日にびわ湖で観たプロダクションと同一のもの。舞台装置もかなり大掛かりなものだ。指揮も同じ沼尻竜典。ただし配役が異なる。

 トゥーランドットは並河寿美、この人は表情が映えるし、顔の演技もなかなかいい。3つの謎を解かれて屈辱の怒りに燃えるところなど、口の中で何事か罵りつつ求婚者を睨みつける眼ヂカラの物凄いこと。
 私がカラフだったら、たちどころに怯んで逃げ出すだろう。
 リューの愛の強さに心を揺り動かされる個所などの演技も、実にこまかくて上手い。
 この怒りの強さと感情の変化が、そのまま声楽的な表現に繋がればいいのだけれど、それには声が少し柔らかすぎるかもしれない。だが、期待充分のソプラノだ。

 カラフは福井敬で、今日は声が少々粗く、調子もよくなかったらしいが、それをカバーして声を響かせるあたりは相変わらずの練達ぶり。ただし演技が、いつもながらの類型的なものになっているのが惜しまれる。
 リューは高橋薫子、演技も良いし声も美しいし、可憐な味ではこの人を措いていないだろう。その意味ではさすがに映えたが、その一方、プッチーニの音楽というのはこんな可憐な役柄にさえドラマティックな声を要求する傾向があるのだなと改めて考えさせられたのも事実であった。

 神奈川フィルは、予想外に劇的な演奏を聴かせてくれた。
 カーテンコールを受けるために舞台上に現われた楽員たちも、陽気だ。今日のコンマスが先日のシュナイトの時のソロ・コンマスでなく、客員奏者だったためか、別オケのような明るい雰囲気。
 こういう調子なら、神奈川フィルの舞台は暗いなどと言われなくて済むのだけれど。

 沼尻の指揮は、先日の演奏よりも更に叙情的な色合いが濃かったように思えたが如何だろう。謎解きの場面での、トゥーランドットが激して行くあたりの緊迫感がどうも薄かった。
 先日の公演を聴いた時は、京都市響との呼吸の問題もあったか、などと妥協的な印象をこのブログで述べてしまったが、思ったとおり、これは彼の解釈の問題だった。この第2幕後半は、やはりオペラとしての劇的効果を欠いた演奏というべきではなかろうか。

 その代わり、第3幕アルファーノ編曲部分などでは、何かワーグナーの「パルジファル」を思わせるような官能美を演奏に湛えて、ここの音楽にこれまで聴いたことのなかったような魅力を付加していた。
 沼尻の今回のアプローチは、基本的にはこの路線に在ったのかとも思う。つまり、こけおどしのスペクタクルな咆哮にならない音楽。
 ただ、そうすると、今回の舞台装置が醸し出すイメージとは、少し違うことになるのだが。

3・28(土)ユベール・スダーンと東京交響楽団の
ブルックナー「7番」レコーディング2日目

   ミューザ川崎シンフォニーホール

 昔――というのは私が放送局の現場にいた頃のことだが――日本のオーケストラのスタジオ・レコーディング・セッションというのは、概してあまり面白くなかった。正確に演奏しようとするあまり、演奏から活気が失われてしまうことが多かったからである。
 しかし、すでに時代が違う。今の日本のオーケストラの上手いのなんの、ステージでの生演奏と全く同じように、アニマートかつコン・ブリオな勢いで音楽を創り上げる。どのオーケストラもすべてそうだというわけではないだろうが、このスダーンと東響に関する限り、まあ見事なものだ。

 昨日、第1楽章と第2楽章を録り終えたとのことで、今日はまず第4楽章、そして最後に第3楽章を録音。
 各楽章をそれぞれ前半と後半に分け、まず前半を通して録音し、モニタールームで試聴したあと部分的に録り直し、次いで後半でも同じ手順を採り、そのあとにまた楽章全体の中から要所を録り直す、という方法。

 試聴には20人以上の楽員が詰めかけ、中には自ら録り直しを要求する楽員もいたのは立派である。総じて、驚くほど少ないテイクで録り終えていたところに、オーケストラの演奏の好調さが窺えるだろう。
 特に、スケルツォやフィナーレのクライマックス個所でのデモーニッシュなエネルギー感は凄い。
 トリオ部分は、一昨日の練習でもそうだったが、スダーンはことさらここに思い入れが強いらしい。念入りに指示を繰り返し、録り直しをして、この上なく美しく仕上げていた。

 私は提灯持ちはやらない主義だが、このCDは楽しみにしている。現場で聴いた演奏の勢いと、音の響きの良さがそのまま再現できていれば、これは聴き応えがあるはず。リリースは夏以降だとか。

3・27(金)飯守泰次郎指揮関西フィルハーモニー管弦楽団の
「ワルキューレ」

  ザ・シンフォニーホール(大阪)

 「関西フィル、最初で最後のワーグナーですよ!(こんなカネのかかるものはウチではもうできませんよ)聴いておいて下さい!」と、関西フィルの西濱秀樹事務局長が風変わりなPRをしていたのは昨年、「指環」名曲集を大阪と東京でやった時のこと。

 どうせ冗談だろうと思っていたが、案の定、今年は「ワルキューレ」第1幕を取り上げた。来年は「トリスタンとイゾルデ」第2幕をやるという。
 たしかに制作費がかかる。エキストラも入れる必要があるし、演奏会形式とはいえ字幕付き上演である。
 大阪の自主運営オーケストラの心意気を見よ、というところか。
 採算度外視の意欲に敬意を払おう。

 ともあれワーグナーは、常任指揮者・飯守泰次郎きわめつきの十八番であり、ワーグナー・ファンから熱狂的な支持を獲得しているもので、東京だろうと大阪だろうとそれを聴ける機会があるのはありがたい。
 この日は最初に「トリスタンとイゾルデ」から「前奏曲と愛の死」が演奏され、そのあとに「ワルキューレ」第1幕が演奏された。

 飯守のワーグナーは、往年の指揮者のような豪壮雄大なタイプとも違うし、現代の指揮者によくある醒めた怜悧なタイプとももちろん異なる。普通のことを、普通の口調で語り続けるといった調子の、ことさら意図的な誇張や演出やこけ威しを排した指揮だが、そこにはどんな詭弁も及ばない真摯な深さがあり、温かい人間味がこめられている。
 私たちが彼のワーグナーを聴いて、何か安んじて心をゆだねていられるような気持になるのは、とかく忘れられがちな、ワーグナーの音楽におけるヒューマニズムが浮き彫りにされた演奏から受ける充足感ゆえではなかろうか。

 この飯守の指揮に関西フィルはよく応えたが、オーケストラのアンサンブルとしてはかなりガサガサしていた。
 もともと飯守の音楽はそれほど音をぴったり合わせるタイプのものでなく、雰囲気さえ出ていればそれで充分、という指揮だ。たしかに雰囲気は充分だった。
 が、それにしても、オーケストラ自身の姿勢として、もう少し緻密に演奏して欲しいものである。どのくらい練習時間を取ったのかは知らないけれども、こういう曲は普通以上の練習を積まないといけないのではないか。
 採算度外視のついでに演奏水準度外視になってしまっては、元も子もない。そして、もうちょっと音楽的に「燃えて」いただきたい。

 歌手陣。ジークムントを竹田昌弘。純粋な青年という役柄表現で成功。この人のワーグナーは――以前のパルジファルもそうだが――なかなかいい。
 ジークリンデは畑田弘美。今日は低音域があまり響かなかったが、ふだんはこんなものではないだろう。
 そしてフンディングは、木川田澄。声の重厚さ、貫禄、押し出しの良さで、以前のアムフォルタス同様、実に立派なものだ。

3・26(木)ユベール・スダーンと東京交響楽団のリハーサル
ブルックナーの「交響曲第7番」

  ミューザ川崎シンフォニーホール

 29日にオペラシティで演奏されるブルックナーの「第7交響曲」は、27日と28日にN&Fによりセッション・レコーディングされる。その取材を兼ね――というよりは自分の勉強のためと言った方がいいが――それに先立つリハーサルを聴きに行った。
 スダーンの練習は、昔から非常にこまかい。なので、こちらもしかるべき位置に座ってスコアを拡げて聴いていると、ふだん何気なく聞き過ごしている個所が如何に美しくすばらしいか、教えられるところがきわめて多いのである。

 たとえば、第3楽章のトリオ。スダーンは、弦楽器の主題の各フレーズを、あたかも歌の詩節のように有機的な関連を持たせて演奏するよう、綿密な指示を繰り返した。これで、ほぼ40小節間に及ぶトリオの第1部分が大きく弧を描くような形に構築される結果になり、ブルックナーが如何に「歌う」作曲家だったか、ということが、常よりも浮き彫りにされるのである。
 同じトリオの、【C】以降についても同様だ。ppで始まる主題が、弧を描くように問いかけと答えを繰り返す形でふくらみ、上昇し、そして沈潜に向かう。何度となく聴いてきた作品だが、それが本当に新鮮に聞こえるのだ。

 ついでながら、このトリオ部分の弦のパートの音楽は、すばらしい。管が入って悪いと言うのでは決してないが、リハーサルとして(管を休ませ)弦だけで演奏してみると、最後にpppで引き伸ばされる和音(ふだんは管に隠されて聞こえない)がどんなに安息感にあふれて美しいか、それはもう陶然とさせられるほどである。東響の弦がまた、すばらしく音がいい。

3・24(火)河村尚子ピアノ・リサイタル
(紀尾井ニュー・アーティスト・シリーズ第14回)

   紀尾井ホール

 咽喉を痛めているため咳が出るのを警戒して、主催者に最後方の席をお願いしたのだったが、たいへんなお客さんが傍にいて閉口した。
 開演ぎりぎりに飛び込んで来たおばさんは、「席が後ろ過ぎる」と、演奏が始まりかけているのにまだ大きな声でブツブツ言っている。私の隣に座ったおじさんは、肘を私の方まで大きく突っ張ってのけぞり、のべつ鼻と咽喉を鳴らし、ついにいびきをかきはじめる。
 もっと驚かされたのは、すぐ通路を隔てた席にいるおじさんで、のべつ身動きしてジャンパーの衣擦れの音をさせ、音を立ててプログラムをめくっては何度も足元にとり落し、その都度ワサワサと騒々しく拾い、しかもプログラム最初のスカルラッティの短いソナタ5曲の間中、「終りか? まだか? まだやるのか。いくつやるんだ?」とブツブツ独り言を言い続けるのであった(そのくせ拍手は盛大にするのだ)。
 このほかにも、最後のショパンでまだ1曲残っているのに、贈呈用花束を持った人が客席から現われたりして、いや物入りの多いコンサートではあった。

 そんなわけで、最初のドメニコ・スカルラッティの5曲のソナタは半ば上の空で聴く羽目になったが、しかしなんとか神経を集中し、演奏する彼女の綿密かつ完璧に組み立てられた和音の構造美、いささかもゆるぎない音楽の推進力などを耳にして、なるほどこの人は大型新人、近年の逸材と言われるだけある、という思いを強くしたのは事実である。
 席を移ってじっくりと聴いたそのあとの曲は、ドビュッシーの「月の光」「2つのアラベスク」「ピアノのために」、後半はショパンの「舟歌」「作品27の2つの夜想曲」「バラード第3番」「アンダンテ・スピアナート(この部分は少々散漫。花束贈呈に気が散ったか?)と華麗なる大ポロネーズ」など。それらで、彼女の実力は充分に確認できた次第。

 如何なる音もゆるがせにしない確実なテクニックにも感心させられたが、音楽がある種の骨太さを感じさせたのは、和声の響きが完璧に創られているからでもあろう。演奏のスケールもなかなか大きい。
 欲を言えば、一つ一つの曲は実にがっちりと隙なく構築されているものの、何曲かを続けて聴いた時、それらの曲想に対応する情感や音色の変化が今ひとつ不足し、そのためやや単調な印象をも抱かされてしまう、ということか。つまり音の動きの中にある感情、肉感、魔性、おののき、といったもの。これらが演奏に備わるようになると、彼女は凄いピアニストになる。2006年ミュンヘン国際コンクール第2位、07年クララ・ハスキル国際コンクール優勝。
 

3・23(月)エリアフ・インバル指揮 東京都交響楽団定期

   サントリーホール

 2008~2009年シーズンを締め括る定期でありながら、何かすでに新シーズン開幕の演奏会という雰囲気を感じさせる会場の盛り上がりである。それはひとえに、プリンシパル・コンダクターのエリアフ・インバルが登場したことによるだろう。
 盛り上がるということは、見方を変えれば、彼の登場が久しぶりだったからである。そもそも常任ともいうべき指揮者が1シーズンに2~3回の来日(演奏会は各3~4回)では少々寂しいし、それだけでは彼の個性がオーケストラに植えつけられるには不足だ。このあたり、何とか改善されるといいのだが。

 そのインバルが指揮したのは、ラヴェルの作品2曲。前半は横山幸雄をソリストにラヴェルの「ピアノ協奏曲ト長調」、後半に「ダフニスとクロエ」全曲。

 実にいい演奏だった。
 特に後者において、都響の弦(コンサートマスターは矢部達哉)がこれほど色彩的に輝いたことは、これまでにもそう度々はなかったであろう。とりわけ弱音で波打つ時の音のふくらみは、官能的なほどの美しさにあふれていた。
 音楽として流れのよい後半(第2組曲に相当する個所)では、木管のソロを含めた全管弦楽がしなやかに息づく。とかく散漫になりかねない前半の部分でも、オーケストラの色合いが目まぐるしく多彩に変化して行くので、カラフルな絵巻物を見ているような感覚にさえなって来るのだ。
 こういう演奏を聴くと、インバルにはさらに数多く指揮してもらいたいなと、心から願いたくなる。

 ただし水を差すようだが、コーラス――晋友会合唱団は、どうも粗く、感心しない。この幻想的な性格を持つ作品で、生身の人間くさい声の荒れが随所に出て来てはぶち壊しもいいところ。この合唱団、かつての栄光今いずこ。

3・22(日)地方都市オーケストラ・フェスティバル2009
マルティン・トゥルノフスキー指揮 群馬交響楽団

     すみだトリフォニーホール (マチネー)

 群馬交響楽団の演奏は、これまでにも数え切れないほど聴いてきたが、この十数年ばかりは高関健(前音楽監督)の指揮による演奏ばかりだった。1998年から首席客演指揮者をつとめているマルティン・トゥルノフスキーの指揮では、私は怠慢の限りで、一度も聴いたことがなかった。
 したがって、今日が初めてだったのだが――それにしても、何と見事なドビュッシーの交響詩「海」の演奏だったであろう! 

 音楽が温かく、名状しがたい快さに満ちている。たとえばサロネンの怜悧で明晰な音色のようなものとは正反対の、ヴェールのかかったような陰翳に富む響きだが、不思議に懐かしい感情を呼び起こすような演奏なのだ。
 とりわけすばらしかったのは第2曲「波の戯れ」の後半、曲が高揚していく個所での息詰まるような緊張感、そしてそれが沈静化した個所での曰く言いがたい安堵感。
 トゥルノフスキーという人が一部のファンに絶大な人気と支持を受けている理由が那辺にあるかを、遅まきながら解ったような気がする。いや、まだ遅くはないだろう。彼の指揮をこれからももっと聴いてみたい。

 その他の2曲も濃い演奏だった。チャイコフスキーの幻想序曲「ロメオとジュリエット」、それにチェコの若い女性ピアニスト、ヤロスラヴァ・ピエフォチョーヴァーがソロを弾いたプロコフィエフのピアノ協奏曲第3番。このピアノもいい。

 もちろん、群響も相変わらず見事だ。あのアコースティックの悪い高崎のホールをフランチャイズにしていながら、どうしてこんなにバランスのいい音を出すオーケストラになっているのだろうと、高関時代からずっと感心していた。今日も弦をはじめ、フルート、トランペット、ホルンなどが魅力的な響きを聴かせてくれた。

3・21(土)ユベール・スダーン指揮東京交響楽団の
シューベルト・ツィクルス最終回

    サントリーホール

 「未完成交響曲」と「ロザムンデ」の付随音楽というプログラム――好調・好評の裡に進んで来た「シューベルト・ツィクルス」が、これで完結した。
 日本で過去にどのくらいシューベルトの交響曲連続演奏会が行なわれたかは知らないけれども、おそらくこのスダーンと東響による演奏は、これらの交響曲を新鮮な息吹で蘇らせた点でも随一の存在では、と想像する。

 「未完成」も――不遜な言い方で恐縮だが――やっぱりこれはいい曲だ、と改めて認識させられたほどである。
 いつものように精妙で、スコアの隅々まで神経を行き届かせたスダーンの指揮だ。第1楽章、第1主題を支えるヴァイオリンが16分音符を文字通り波打つように演奏し、そのあとオーボエとクラリネットの主題を受けてホルンがスコアどおり明確に鋭くフォルツァートを響かせるのを聴くと、本当にこの曲が新鮮に息づいているさまが感じられ、そのあとの音楽への期待で心が弾んで来る。
 第2楽章での、ヴァイオリンの旋律に対応する低弦の動機も、あたかもエコーで聴くようにふくらみがあってすばらしい。

 なお、第1楽章最後で、2分音符をデクレッシェンドさせたあとの4分音符を第1ヴァイオリンだけがはっきり響かせたのは面白かったが、何か中途半端な感もなくはなかった。CDでも出たら、もう一度聴き直してみたいところだ。

 「ロザムンデ」の付随音楽を演奏会で聴く機会は、めったにない。
 今回は、「魔法の竪琴」からの転用による序曲をはじめとして9曲が演奏され、「バレエ音楽第2番」で結ばれるという構成が採られた。通して演奏されたところで必ずしも劇的に盛り上がる構成ではないのだが、しかしどの曲も美しい。
 スダーンはここでもすべての音符に綿密な配慮を施していた。東響コーラス(かなり人数は多かった)の良さもあって、私の好きな「羊飼いの合唱」も実にふっくらとした音で響いていたのがうれしい。
 なお、「ロマンス」を歌ったのはソプラノの谷口睦美。なかなかスケールの大きい歌唱を聴かせる人である。

 昨年の「2番」と「3番」のライヴを収めたCD(東響自主制作盤)も出た。「3番」は、当日ナマで聴いた印象よりもやや重い録音で、第1楽章の最初の方など、多少潤いの不足するゴツゴツした響きに捉えられているのがちょっと気になるが、このコンビの名演を記憶するよすがとしての価値は充分だ。

3・20(金)地方都市オーケストラ・フェスティバル2009
児玉宏指揮大阪シンフォニカー交響楽団

   トリフォニーホール マチネー

 今年の同フェスティバルへの参加オーケストラは2団体のみとあって、例年と比べるとちょっと寂しい。が、先陣を切ったこの大阪シンフォニカーの演奏内容は、充分に優れたものであった。

 音楽監督・首席指揮者の児玉宏の指揮で、プログラムは、エルガーの「セレナード ホ短調」、R・シュトラウスの「4つの最後の歌」(ソロは佐々木典子)、アッテルベリの「交響曲第6番」――最近の児玉=大阪シンフォニカーの路線の一端を窺わせる選曲である。
 このオーケストラが、児玉が音楽監督に就任してからというもの、ありきたりの名曲主義から脱却し、ふだん聴く機会の少ない曲を大幅に取り入れたレパートリーでプログラムを組むようになっているのは周知のとおりだ。
 背水の陣を敷かなくてはならぬ状態に追い込まれている大阪のオーケストラ界にあって、プログラミングにユニークな特徴を備え、際立った個性を主張しようという姿勢は立派である。

 冒頭、弦の瑞々しい音色が拡がるエルガーの「セレナード」が美しい。
 2曲目の「4つの最後の歌」は、オペラでの経験豊かな児玉の本領発揮ともいえる演奏だ。歌のソロ、あるいは主題を支える管弦楽の鳴らし方がきわめて巧いのである。特に「眠りにつくとき」での、ヴァイオリン・ソロを囲む管弦楽の柔らかい和音が囁くように移行していくあたり。これほど慈しむような玲瓏たる響きで歌わせた演奏は稀だろう。

 そして、スウェーデンの近代作曲家アッテルベリの交響曲は、今日の目玉ともいうべき曲。ナマで聴くと、実に面白い。もちろんシリアスな作品だが、全く近代音楽っぽくなく、第1楽章などに演歌か民謡みたいなフシが出て来るところもニヤリとさせられる。

 お客さんが少ないのは意外だったし、はなはだ残念であった。

3・19(木)東京シティ・フィル定期 鈴木雅明の客演指揮

   東京オペラシティコンサートホール

 ヘンデル(没後250年)の「合奏協奏曲作品6-6」、ハイドン(没後200年)の「交響曲第90番」、メンデルスゾーン(生誕200年)の交響曲第4番「イタリア」というプログラムが組まれた今日の定期。
 すこぶる勢いのよい、闊達な演奏が繰り広げられた。あまり大きくない――つまりほぼ正規の団員数による編成でかっちりと演奏した時の方が、このシティ・フィルの長所が味わえるのではなかろうか。

 小編成ながらたっぷりとした響き、爽やかな音色で演奏されたヘンデルは快い。ハイドンは、強打のティンパニを低音の重心に、やや響きは重いが引き締まった演奏だ。
 そしてメンデルスゾーンでは流麗さが加えられ、途切れないエネルギーが突進する。特に第1楽章冒頭の木管群による刻みが颯爽として、解放的な美しさにあふれていたのが強い印象を残す。
 かように、3つの作品それぞれの個性を強く打ち出した鈴木雅明の解釈がいい。オーケストラの多彩な表現力も聴きものだった。東京シティ・フィルは、この東京オペラシティコンサートホールのアコースティックを完全に手中に収めているようである。

 なお「90番」のフィナーレでの、ハイドンの面目躍如たるイタズラ趣向個所の演出は、今回は以下の通り。
 曲が完全終止すると、指揮者は客席を向いて一礼、オーケストラを放り出してさっさと袖に引っ込む。客席はつられて万雷の拍手。ややあって、何をやっているんだという表情でコンサートマスターとオーボエが立ち上がり、指揮者の去った下手側の袖を向き、まだ全曲が終っていないのだから戻って来い、とばかり、主題の一部を響かせる(オーボエが主題のリズムを、ちょっと哀願するような調子で「合図」のように吹いたアイディアがいい)。事情を知っている聴衆の笑い声と、不審がる人々のざわめきの中、指揮者が慌てた様子でドタバタとすっ飛んで来て、再び指揮台に飛び上がり、曲の最後の部分を演奏する――という仕組み。
 日本の演奏家がこういうギャグをやると、何か臭くなることが多いのだが、今日のは比較的よくできていた。
 (1曲目から、1階席後方でフライング気味のけたたましい拍手をする人がいたが、気の毒にこの曲でちょっとメンツを失ったのでは? もっとも、あそこで拍手が起こらなければシラケル結果になったろうから、彼の功績はむしろ大か?)

3・16(月)スクロヴァチェフスキ指揮読売日本交響楽団の
ベートーヴェン:「荘厳ミサ曲」

  サントリーホール

 先日のエネルギッシュなブルックナーの「交響曲第1番」に続く、常任指揮者スタニスラフ・スクロヴァチェフスキによる「ミサ・ソレムニス」。こちらは定期だ。

 聴くたびに思うことだが、この人、本当に若々しい。今年10月で86歳になるのに、舞台出入りの際は歩くのも速いし、全曲80分以上に及ぶ演奏の間も曲間を含めてずっと立ったまま、しかも指揮の身振りは非常に精悍で素早い。
 それが演奏にも表われていて、テンポも速めであり、音楽の表情もきりりと引き締まっている。「クレド」の中盤、アレグロ・モルトの部分が進むに従い、猛烈なアッチェルランドをかけて行くところなど、とても高齢の指揮者とは思えない音楽のエネルギーを感じさせた。16型編成でありながら響きは軽めで、むしろピリオド楽器オーケストラの明晰さに近い音色である。
 
 ただし読売日響の方は、それほど引き締まってはいないようで、この老巨匠の勢いについて行くには少々ガタガタしているきらいがある。先日のブルックナー同様、アンサンブルは少々ラフだ。もともとスクロヴァチェフスキは音をピタリと合わせるタイプの人ではないことは事実だが――。
 たとえば、「アニュス・デイ」の中ほどでティンパニのリズムに乗せ、トランペットが一度目は遠くから響くファンファーレのように、二度目には荒々しく咆哮するように演奏する印象的な個所があるが、そのあたりなどは、もっと丁寧に整えてもらいたいものであった。
 恐れていた読売日響の「合奏力の荒れ」が、またぞろ姿を現わして来たのでなければ幸いである。

 声楽ソリスト(オーケストラの後方に位置)はインドラ・トーマス(S)、シャルロット・ベルカント(A)、ロイ・コーネリアス・スミス(T)、ジェームズ・ラザフォード(Bs)といった人たち。何か歌いぶりが慌しく、スクロヴァチェフスキのようなタイプの指揮に慣れないのかという気もして、あまり感心しなかったが、いずれもまだ若い世代だとのこと、まあ仕方がない。

 新国立劇場合唱団(P席=後方客席に位置)のコーラスは、音量の上でも非常に強力だ。サントリーホールでは、正面に座るとP席の合唱が物凄く大きく聞こえるものである(マーラーの「千人の交響曲」の時には危うく難聴になりかけたほどだった)。もう少し柔らかく、ふくらみのある発声の方がいいのではないかと思ったが――やはりスクロヴァチェフスキの、粒立ちのいい響きを求めるという好みに拠ったものか。

3・15(日)びわ湖ホールプロデュースオペラ 
プッチーニ:「トゥーランドット」

   滋賀県立芸術劇場 びわ湖ホール

 びわ湖ホールと神奈川県民ホールおよび東京二期会による共同制作オペラのシリーズで、昨年の「ばらの騎士」に続く第2弾、今年は日本オペラ連盟も制作に加わった形を採る。

 出来栄えは、このシリーズのプロダクションとしても連続ヒットといえよう。
 第一に、近年大きく変貌した沼尻竜典(びわ湖ホール芸術監督)の指揮が快調。充分にスペクタクル性を備えながらも野放図に音楽を煽ることなく、彼らしいバランス感覚を以て全曲を構築している。
 ただ私の好みから言えば、第1幕のエンディングや第2幕の場面転換の音楽などで、もっと直線的にクライマックスに向かって伸びるデモーニッシュな雰囲気が欲しいと思ったのだが、これはあるいは、沼尻と京都市交響楽団との「呼吸」の問題だったのかもしれない。

 歌手陣はダブルキャストで、今日は第2日組だったが、なかなか良い。
 トゥーランドット役の横山恵子は伸びのある声で、謎解きの場でもすこぶる安定。また粗暴な姫としてではない役柄表現だったこともあり、第3幕後半のアルファーノ版の個所ではいっそう本領を発揮した。
 カラフの水口聡はとにかく馬力で最後まで押し切ったという感。リューの木下美穂子も良いが、この役には、歌唱でも演技でも、もう少し複雑な感情の襞が求められるだろう。脇役で結構いい味を聞かせたのが、皇帝役の近藤政伸。与那城敬が役人を歌っていたのはちょっとぜいたくな配役といえようか。

 このプロダクションでは、粟國淳の演出が注目されていた。たしかに幕開き早々、怪奇なロボット集団が働く巨大な工場の場面(装置は横田あつみ。すこぶる大掛かりだ)は観客の度肝を抜くし、またボーイスカウトみたいな制服を着た群衆が、姫を讃える時と、その圧制を呪う時とで演技を変えるところなど、「ボリス・ゴドゥノフ」におけるような「群集の2面性」を感じさせて面白かった。

 だが全部観終わってみるとこの演出は、登場人物の心理表現という点では、やはり従来の慣習的なオペラ舞台の枠から踏み出すことはできなかったのではないか、という印象しか残らないのである。第2幕後半場面をはじめ、主役たちが最後のぎりぎりの選択を求められる個所や、ちょっとした心理的な応酬が必要とされる個所での演技が、何かひとつ、まだるっこしいのだ。

 なお、リューが自決する場面は、どうも腑に落ちない。あれでは彼女が獄吏に殺害されるように見えてしまい、物語の筋が通らなくなる。終演後に沼尻マエストロから聞いた話では、あれは獄吏でなく「殺人機械のロボット」で、彼女がわざとそれに近づいてロボットの刃を自ら体に浴びる「のだそうですよ」とのことだったが、どう見てもそうは――。

 これは3月28日(土)、29日(日)に神奈川県民ホールでもマチネー上演されることになっている。指揮は同じく沼尻だが、オーケストラは神奈川フィルだ。 


3・14(土)関西二期会 ブリテン:「ルクリーシア」

  アルカイックホール・オクト(尼崎)

 原題は「The Rape of Lucretia」。一般には「ルクリーシアの凌辱」という訳語で知られているが、言葉がいまどき解り難いからか、あるいは世間体を慮った(?)のか、今回は「ルクリーシア」のみの表記で上演されていた。
 もちろん筋書きが変えられたわけではない。演出(中村敬一)は、レイプ場面をシルエットも利用してちゃんと(?)描く。といっても最近流行の過激演出に比べれば至極穏便なものだが、この程度で充分だろう。こんなシーンをリアルにやられてはたまったものではない。

 ただ、ラストシーンでルクリーシアを十字架上のキリストとして描く発想は、少々安易に過ぎないか、と思う。
 もちろんこの台本が、エトルリア人の暴虐の犠牲となった彼女をキリストになぞらえて悼むという形を採っていることは承知している。が、本来これは古代ローマを舞台とした物語なのであり、にもかかわらず幕切れに至って突然キリスト教の思想に切り変わるという、非常に我田引水的な、木に竹を接いだような結末に仕立て上げられているという見方も拭えないからだ。今回の演出は、台本をきわめて忠実に踏襲したもの、ということになる。

 舞台装置(野崎みどり)はカーテンを使ったシンプルなもので、室内オペラとしての性格からすれば、これもさほど不足を感じない。

 演奏は、奥村哲也指揮のエウフォニカ管弦楽団(13人編成)。もう少し響きに溶け合いが欲しいところだが、この作曲者独特の音色――曖昧な表現だが、「そう、ブリテン!」と感じるあの名状しがたい響きである――が紛れもなく随所に聴き取れたことは事実であった。
 歌手陣はダブルキャストの第2日組で、みんな健闘。油井宏隆(悪役タキニアス)と大西信太郎(将軍ジュニアス)はイケメンで舞台姿も映えるし、歌唱に更なる研鑽を積んでオペラ界のスターになって欲しい。西村薫(ルクリーシア)も同様、いい雰囲気を持っている。

 滅多にやられないオペラゆえに上演の意義は充分だし、しかも良心的なプロダクションで、それなりの成果を収めたのではなかろうか。ブリテンのオペラは、関西では昨年秋にカレッジハウス・オペラが「真夏の夜の夢」を上演しているし、今年5月にはいずみホールが「カーリュウ・リヴァー」(原作の「隅田川」との2本立上演)をやることになっている。ちょっとしたブームか。

 JRの大阪から尼崎までは170円なのに、帰りに阪神電車を利用したら尼崎駅から梅田駅まで230円――この差に首をひねる。しかし、久しぶりに訪れた阪神の尼崎駅前が見違えるようにきれいになっているのには感動した。大阪のホテルに一泊、明日はびわ湖の「トゥーランドット」を観てみよう。

3・13(金)ハンス=マルティン・シュナイトの
神奈川フィル音楽監督お別れ定期

   みなとみらいホール

 ハンス=マルティン・シュナイト(1930年生)が、2007年4月からつとめた神奈川フィルの音楽監督(それ以前は2002年から首席客演指揮者だった)を勇退する。その最後の定期が今日行なわれた。
 前半がブラームスで「悲劇的序曲」「哀悼の歌」「運命の歌」、後半にブルックナーの「テ・デウム」という、希少価値のプログラムである。

 停まってしまうのではないかと訝られるほど、極度に遅いテンポだ。が、どれほど中盤でテンポを落しても、エンディングにいたるや必ず最初のテンポに戻り、引き締めて終結するという具合に、一貫した構築性を失わないシュナイトの指揮なのである。そして遅いテンポの中にも、温かい味があふれている。
 彼の指揮になじんだ神奈川フィルは、その不可能なくらいの遅いテンポを、見事にもちこたえていた。ただ、合唱(神奈川フィル合唱団)にとっては、このテンポは、さすがに苦しいものがあっただろう。
 ブルックナーでのソリストは、平松英子、加納悦子、小原啓楼、青山貴。

   東京新聞演奏会評

 お別れ定期にしては、空席が少なくないというのは意外。私も「モーストリー・クラシック」3月号の「特選館」頁で取り上げておいたのだが、残念ながら効果は薄かったか。オーケストラ側でももっとPRしたらどうなのだろう。
 それにお別れ公演のわりには、カーテンコールのステージの楽員の雰囲気が、客席から見ていても盛り上がらぬ。いや、盛り上がっているのかもしれないが、指揮者を讃えるにしても拍手のジェスチュアは小さく、ただチョコチョコと手先を動かしているのみで、ことごとく控え目だ。ステージの雰囲気が地味なのは、専らコンサートマスターに責任があろう。こういうことは不思議に演奏にも反映するもので、首都圏のオーケストラの中でも神奈川フィルは地味だと言われる一因でもある。楽員たちは、もっと音楽することの悦びを体で表現しては如何なものか。

3・12(木)新国立劇場オペラ研修所公演
プーランク:「カルメル会修道女の対話」

   新国立劇場中劇場

 星の数ほどあるオペラの中でも、このくらい気の滅入るラストシーンを持つものはちょっと無いだろう。

 フランス革命直後の恐怖政治の時代、死刑を宣告されたカルメル会の修道女たちが、ギロチン(断頭台)のぞっとするような音の中で処刑されて行く。「サルヴェ・レジーナ」を歌う修道女たちの声が次第に少なく、小さくなり、やがて歌声は全く消え、舞台は死の静寂に覆われる――。
 この他にも第1幕大詰に、病の床にあった修道院長マダム・ド・クロワッシーが、修道女でありながら死の恐怖に錯乱しつつ息を引き取るという凄愴な光景もある。いずれもなぜか単なる娯楽として見ることができず、つい感情移入させられてしまうのだが、それはやはり、ドラマ全体を覆うプーランクの暗い不気味な音楽の力のせいでもあろう。

 今回はロベール・フォルチューヌの演出、クリストフ・ヴァローの舞台美術、ジェローム・カルタンバックの指揮――という具合に、フランス勢の指導による上演だった。
 舞台は簡略化されたもので、わずかな大道具だけが使用されていた。制作費用をかけられないからには、これで充分だろう。
 最後の場面は、断頭台などは出現せず、青白い光が当てられた舞台で修道女たちが一人ずつ倒れて行くという演出である(この手は以前、誰だったかの演出でも観た覚えがある)。

 こういうオペラを、研修所の若手歌手たちが、実によくやった。ブランシェ役の木村眞理子、コンスタンス役の山口清子、マダム・マリー役の塩崎めぐみ、その他若手たちの敢闘的な熱演を讃えたい。
 演技が予想外に良いのにも感心したが、フォルチューヌの功績は大だろうと思う。とにかく、最後は本当にドラマとして気の滅入る思いにさせられたのだから、良く出来ていた証拠である。不満だったら、気は滅入らず、むしろ切歯扼腕するだろう。
 ただし、ジェローム・カルタンバックが指揮する東京ニューシティ管弦楽団には、もっとしなやかな音楽を求めたいところであった。

 これはこれとして、私は11年前のサイトウ・キネン・フェスティバル松本で上演された「カルメル会修道女の対話」(小澤征爾指揮)の舞台を思い出す。フランチェスカ・ザンベロ演出、ヒルデガルト・ベヒトラーの装置だったが、あれは今にして思えば、なかなか「怖い」舞台だった。
 修道院長のフェリシティ・パルマーの鬼気迫る演技も凄かったし、ラストシーンでは断頭台を象徴する巨大な壁のようなものが中央に直立、修道女たちがその陰に一人ずつ入って行くと、ギロチンの刃が滑り落ちる轟音が響く――という演出も迫力充分だった。最初の大音響が聞こえた時、私の前に座っていた女性の観客が飛び上がったのを記憶している。処刑される修道女の姿が客席からは見えないだけに、不気味さもひとしおだったのである。

3・11(水)ダニエル・ハーディング指揮新日本フィルの
第2弾「死と変容」「英雄交響曲」

  サントリーホール

 前半は弦16型によるR・シュトラウスの「死と変容」、後半は12・12・8・7・6という編成によるベートーヴェンの「英雄交響曲」。
 
 「死と変容」は、いわゆる神秘的で重厚豊麗な響きとは対極的な、精妙に交錯する音の線が見えてくるような感覚に引き込まれる演奏。
 最強奏での音色は必ずしもきれいとは言えなかったが、それでも一昨年夏のザルツブルク音楽祭で聴いたウィーン・フィルとの、あの汚いガシャガシャな音による演奏とは格段の差だ。ハーディングが後期ロマン派の作品で試みたいのはこの手法なのだということがよく理解できる。指揮者の意を酌み取ろうとする新日本フィルの姿勢の結果というべきか。
 弱奏個所――特に全曲結尾部分での澄んだ和音の響きはすこぶる印象的であった。

 もっとも、相変わらず遅いテンポの個所は極端に遅い。序奏のところなど、この分では先は長いぞ、と気がもめて来るほどである。
 遅いこと自体は、決して悪いものではない。ただ要は、彼の指揮には、遅いテンポの個所で充分に緊迫感を保ち切れない――という欠点がまだ残っていることであろう(ティーレマンにも十数年前にはその傾向があった――ちょうどあのベルリン・ドイツ・オペラを率いて来日した頃だ)。
 それでも、全曲の演奏時間はおよそ27分。時間的には極端に長いというほどではない。となると、やはりそのテンポに緊張感があるかないか、という問題になるのだろう。

 大編成のあとに、12型に縮小された編成の「英雄」が来る。
 この音量的な変化のアンバランスには、私自身は些か戸惑いを感じるものがあった。彼としては音楽そのもののエネルギーと精神的な昂揚を以て第2部を盛り上げようとしていたのだろうが、こちらの耳の切り替えにはやや時を要した。
 演奏は、スフォルツァンドも、またスタッカート(ただしベーレンライター版だから錘点の方だが)も、予想通り明快で歯切れよく、軽量で軽快な「英雄」となっていた。この編成で、しかもこの鳴らし方であれば、第2楽章のあのホルンの主題(第135小節以降)も、まさにスコア通り3番ホルン1本のみで充分な力強さが出せるのだ、と証明してくれる演奏であった。今日はこのホルン3本が大活躍。

 ハーディングはしばしばホルン群の音を前面に押し出すが、その一方でトランペット(2本)は抑えに抑え、せいぜい和音を厚くするだけの働きしかさせていない。彼が引き出す独特の音色のもとは、こういうところにもあるのかもしれない。

3・9(月)クリストフ・プレガルディエンの
シューベルト:「美しき水車屋の娘」

  HAKUJU HALL

 先日のリサイタルと同じく、感情こめて囁くような表現から怒りに燃えて叫ぶような表現まで、きわめて振幅の激しい劇的な歌唱だ。
 旋律の上では反復の形を採る曲においても、歌詞の変化に応じて各節ごとに表情を変えて行くあたりの呼吸は――もちろん、一流歌手なら誰もがやっていることではあるが――この人も実に巧みである。冒頭の「さすらい」からして、このたった1曲の間に、旅に出る若者の心がみるみる変化し昂揚していく模様が鮮やかに描かれて行く。2曲目の「どこへ?」にかけてのテンポの良さから生れる快さはどうだろう。旅立ちにおける希望というものは、まさにこういう躍動感であるに違いない。

 ただ、この人の歌は、劇的ではあるといっても、それはやはり理詰めに設計された構築のものである。私はかつて「水車屋と小川」(第19曲)の最終個所でヘルマン・プライが聴かせたような、音楽がみるみる浄化に向かって行った神秘的なニュアンスを忘れることができないのだが、プレガルディエンは、そんな陶酔感とは一歩を置いている。

 一方、ピアノのミヒャエル・ゲースだが、先日よりはずっときれいなペダルの使い方だったのはありがたい。声楽パートの感情を敏感にピアノに反映させるというニュアンスの細かさという点では、この人は確かに優れたものを持っているだろう。「さすらい」の冒頭の8分音符と16分音符を(某ピアニストのように)どたばたと強調したスタッカートでなく、なだらかに開始したのも賢明である。

 ただ、激しい感情の爆発を描くためとはいえ、あまりに度外れた轟音をつくる彼の演奏には、私はどうにも賛意を表しかねる。
 たとえば最後の「小川の子守歌」の第4節「離れなさい水車場の橋から、悪い少女よ」(石井不二雄訳)に移るくだり、pの中に突然たたきつけるようなフォルティシモを挿入するのは如何なものだろう。その解釈だと、「小川」が、不運な若者を悼むあまり激怒して「不実な」少女を威嚇する――といった表現になるわけで、それはそれで面白いだろうが、シューベルト自身は、ここでは楽譜にフォルテすら書き入れていないのである。
 また、アンコールで演奏された「菩提樹」。「冷たい風が(突然)真正面から僕の顔を打った」に入る直前の個所――ここは確かに音楽が一転する劇的な個所には違いないが、シューベルトがここのピアノのパートに書き入れた強弱指定は「フォルツァート」なのであり、今日ゲースが演奏したような「フォルテ3つ」の轟音のごときものでは決してないのだ。

 こうした解釈やダイナミックスの誇張それ自体は、今日では別にめずらしい部類に入らないだろうし、私も面白いと思う。ただゲースの演奏は、あまりに才に溺れた作為的なものに聞こえてしまうのである。もっともこれは、もちろんプレガルディエン自身が承知したものであるはずだし、彼の解釈と一体になっていると考えなければならないのだが。
 

3・8(日)スタニスラフ・スクロヴァチェフスキ指揮読売日本交響楽団

   東京芸術劇場 マチネー

 何といっても目玉はやはりこれ、ブルックナーの「第1交響曲」だ。
 やや雑然として荒々しく、作曲者自ら「小生意気な小僧」と呼んだほど勢いだけはさかんなこの交響曲――それを無理やり体裁を整えることなく、ありのままに演奏すれば、かようにエネルギッシュな魅力に富んだ作品となる。
 ありのままと言ってもそこはスクロヴァチェフスキ、特に後半2楽章でオーケストラをぐいぐいと引っ張って行く精神力は、まさに物凄い。84歳で、暗譜で、これだけの音楽を創る人なのだ――彼は。

 プログラムとしては他に、ブラームスの「ハイドンの主題による変奏曲」、モーツァルトの「ピアノ協奏曲第27番」。後者のソロはアンヌ・ケフェレック。
 読売日響は、アンサンブルとしては些かゲネプロ・レベルの演奏だったが、明日のサントリーホールでの演奏は定期だから、もうちょっとは纏まるでしょう。

3・7(土)トーキョー・リング待望の再演
ワーグナー: 「ラインの黄金」初日

  新国立劇場(マチネー)

 2001年3月のプレミエ以来、8年ぶりに観る舞台。
 そうそう、こういう風だったよな、と思う場面ばかりだ。
 しかし「8年ぶり」という感がしないのは、あの時の印象が強烈だったせいもあるだろう。キース・ウォーナーの演出、デヴィッド・フィールディングの装置と衣装、ヴォルフガング・ゲッペルの照明、どれも少しも色褪せていない。
 今世紀に入って以降、この他にもユルゲン・フリムやタンクレート・ドルスト、シュテファーヌ・ブランシュヴァイクやクラウス・グートなど、10プロダクション以上の「ラインの黄金」を観て来た勘定になるが、それらの演出と比較しても些かも遜色がないどころか、むしろそれらを上回るほど良く出来た舞台と言っても言いすぎではないのだ。賞味期限の短い最近の演出界では、めずらしいケースではないかと思われる。再演の価値、十二分に有り。

 映画を見ながら戯れるラインの乙女たちの場に始まり、いびつな形をしたヴォータンの「建築設計事務所」やアルベリヒの成金的オフィス、「神々のワルハラ入城の場」での「見せ掛けの華やかさ」など、いずれもプレミエ時と全く同じ。
 アルベリヒが財力にもの言わせて女をもてあそんだりする場面(ハーゲンはこの時にできた息子ということになる)、指環を奪われて自己去勢し、愛も権力も金も放棄して怨念のみに生きることを誓うような場面なども同様だ。

 「ワルハラ入城」で、ゲルマン神話のヴォータン一族がキリストをはじめアフリカ、インド、東洋、南太平洋など世界各所の宗教者(?)を招待する場面は、ある意味で最もアイロニーに富んだものと言えよう(今日的な意義を持つとすれば此処かなとも思わせる個所だ)。
 この光景を見れば、本来ならヴォータンがユートピアを目論んでいたということにもなるのだが、そうは行かないところがこの「指環」の物語たるゆえんだろう。あたかもナチが主催したベルリン・オリンピックのごとき「見せかけの繁栄」を端的に示したアイディアとして、私はこの場面の演出、気に入っている。

 演技の細部においては、プレミエ時と多少違うところもあるような気もするが、そこまでは詳細な記憶がない。今回の再演に関しては、キース・ウォーナー自身は自らの意向に反して手直しなどにタッチすることができず、その代わりに、プレミエの際に演出助手をつとめていたマティアス・フォン・シュテークマンが演出進行を受け持ったということである。その是非は、ここで詳述する余裕はない。

 歌手陣は、前回と異なってシングル・キャストだった。
 アルベリヒのユルゲン・リンが声も演技も強力で、一夜の主人公的存在となった感がある。これに対し、ヴォータンのユッカ・ラシライネンとローゲのトーマス・ズンネガルドは、予想に反して無難な出来という程度。また、エレナ・ツィトコーワがフリッカ役でかなり癖のある演技と歌唱を示し、エルダのシモーネ・シュレーダーも強力な存在感で映えた。
 しかし、これらの外国勢に比べ、日本勢ではミーメの高橋淳が達者なところを披露したにとどまった。特にドンナーとフロー、および2人の巨人――ファーフナーとファーゾルトが声でも演技でも外人勢に対して迫力を欠いたのは、やはり力の限界なのかと残念だ。

 指揮はダン・エッティンガー。やや遅めのテンポを採り、第2場などでは少し緊張感に乏しいきらいもあったが、さすがにバレンボイム仕込だけあって(?)ワーグナーの音楽の良さを味わわせてくれたようだ。
 東京フィルも、ホルンが終始なんとも頼りなかったことを除けば、前回上演の雪辱戦としては辛うじて面目を保ったか。少なくとも弦の響きは良かったし、音のふくらみという点でも少しは水準に近づいたかなという感。

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3・6(金)ダニエル・ハーディングが新日本フィルに客演、
「幻想」他を振る

   すみだトリフォニーホール

 話題の指揮者が登場。
 こういう傾向の指揮者には、アルミンクに鍛えられた新日本フィルは合うだろう。今日はフランス・プロで、ドビュッシーの「牧神の午後への前奏曲」、ラヴェルの「ラ・ヴァルス」、ベルリオーズの「幻想交響曲」だった。

 例のごとく、微に入り細を穿った音楽づくりだ。もっとも、マーラー・チェンバー・オーケストラ相手の時と違って、それほど極端なテンポの誇張や、ダイナミックスの変化などは試みていない。それは作品が――モーツァルトでなく、19~20世紀音楽であるということも関係しているのかもしれないのだが。

 「幻想交響曲」第1楽章の序奏が、極度に遅いテンポで、しかもたっぷりと長いパウゼを使いながら開始された時には、そら来たと思ったほどだ。が、全体としては幸いにもそれほど持って回った演奏ではなかった。それよりも強烈なリズムとアクセントが特徴的である。特に第1楽章や第4楽章では、切りつけ、叩きつけるように激しいアタックが続く。胸のすくような鮮やかさだ。
 「ラ・ヴァルス」でも同様で、それはワルツというより、音のエネルギーの噴出と激突、せめぎ合いと崩壊の大絵巻、といった方がいいかもしれない。「牧神の午後への前奏曲」は、もちろん曲想にふさわしく豊麗なふくらみのある響きだ。

 「幻想」では、ハープが4台、指揮者の両側に2台ずつ、しかもオーケストラより前方に、最初から配置されていた。ハープの音色をいっそう明確に聴かせようという狙いであろう。たしかにこれは効果的で、オーケストラの音をまろやかにさせていた。第2楽章以外では使われぬこのハープ、まさか終りまでそのまま?と訝っていたら、楽章が終ると突然大勢のスタッフが現われ、あっという間に袖に片づけてしまった。

 ハーディングと新日本フィル、まだ来週のプログラムを残しているけれど、どうやら相性はいいらしい。ハーディングも以前、ザルツブルクでウィーン・フィルを振った時のチグハグさとは大違い。
 

3・5(木)クリストフ・プレガルディエン
「ハイネの詩による歌曲」

   トッパンホール

 プレガルディエンがシューマンの「詩人の恋」やシューベルトの「白鳥の歌」抜粋などハイネの詩による歌曲集のCDを録音したのはもう十数年も前のことだが、それと今夜の歌唱を聴き比べると、もはや別人の趣だ。
 近年は、テノールというよりは、バリトンの声質の色合いがますます強くなった。表現もはるかに劇的で、激情的である。

 それゆえ今夜の「詩人の恋」は、恋に悩む青年のロマンティックな心の吐露などではなく、怒り、闘い、毅然と生きる詩人の激しい独白といったような表現になっている。「白鳥の歌」の中の「影法師」や「アトラス」などでも、そのドラマティックな凄みが生きる。シューマンの「2人の擲弾兵」など7曲にも、同様の特徴がみられる。
 ハイネの詩を、単なる愛の苦悩から怒りと強靭な意志にまで昇華させた彼のこのような解釈は、たしかに一理あるだろう。必ずしもすべて共感はできないにしても。
 来週月曜日には、彼はHakujuホールで「美しき水車屋の娘」を歌う。どんな風になるだろう。

 ピアノのミヒャエル・ゲースが、この激しい歌唱に負けじ劣らじと怒号する。
 しかし、いくらなんでも、もう少し神経を使ってくれないものか。強音はあまりに騒々しい。それに音が汚い。しかもしばしば、バタンと大音響を立てて楽譜をめくる。「プログラムをめくる際に音を立てないようご配慮下さい」という会場アナウンスは、ピアニストにも言って下さい。

3・5(木)METライブビューイング
ドニゼッティ:オペラ「ランメルモールのルチア」

  新宿ピカデリー

 去る2月7日のメトロポリタン・オペラ上演のライヴ映像だ。今シーズンはこれが第7弾。

 タイトルロールのアンナ・ネトレプコは――随分ふっくらして来たけれど、相変わらず巧い。「狂乱の場」など、眼の演技が凄いので、このようにアップで映されると、オペラは鬼気迫るドラマになる。
 その兄エンリーコのマリウス・クヴィーチェンも、なかなかいい悪役ぶりだ。ライモンドを歌うイルダール・アブドラザコフにも、威厳が備わって来た。

 一方、ルチアの恋人エドガルドは、「体調不良」のロランド・ビリャソンの代役としてピオトル・ベチャワ(ベチャーラBeczala)だと思っていたが、字幕チームが本人に確認したら「ベチャワ」ですと)が歌った。声はいい。が、顔の表情がおっとりしているので、悲劇的な迫真力を欠く。ビリャソンだったら激怒の表情が凄いから、2人の敵役の対決にもずっと凄みが出たろうに。

 指揮はマルコ・アルミリアートだ。ハープの安楽真理子さんも大活躍で、アップで撮られているし、エンド・タイトルでもクレジットされている。
 METはふだんからノーカット上演主義を採っているので、今回も第2幕の大詰めの合唱の一部や、第3幕第1場の前記「敵役の対決」場面も省略せずに演奏してくれたのはうれしい。私が好きな個所なので。その代わり、上演時間はだいぶ長くなった。また「狂乱の場」では、グラス・ハーモニカが復活されていた(もしかしてヴェロフォンだったか?)。

 演出はマリー・ジンマーマン。オーソドックスな手法だが、演技は脇役に至るまでかなり細かい。こういう舞台を一概に保守的ときめつけるのは間違いである。
 だが、いくら亡霊がルチアにとって大切なモティーフ――スコットの原作に従った、と演出家が説明している――になっていたとしても、ラストシーンでルチアを亡霊として登場させ、エドガルドに口づけしたまま倒れ伏すのは、オペラの舞台としては説明過剰だ。俗っぽくて感銘を損なう。

 ライブビューイング売り物の幕間のインタビューは、今回も面白い。ナタリー・デセイ(ドゥセ)の陽気な進行で、主役たちが愉快に、率直に語る。もともとはナマ中継番組だから、歌手たちも余程のサービス精神と余裕がないと、うまく喋れないだろう。現に、いつもは賑やかにはしゃぐネトレプコも、今日は「狂乱の場」を前に緊張していたのか、さすがに少し口数が少ない。
 進行役(ドゥセ)が、さりげなくMETのコマーシャルや、次のプロダクションのPRを織り込むところも、いかにもテレビ的だ。私など、上演の本番がたとえあまり面白くなくても、この幕間の趣向が楽しみでならないのである。何度か取材で訪れたことのあるバックステージの光景も懐かしいし。

 今日の上映、お客さんがよく入っている。大部分が女性客だ。常連も多いらしく、話を小耳に挟んでいると、なかなか詳しい人がいる。今シーズンの「ライブビューイング」は、札幌から福岡までの各都市で、このあと「蝶々夫人」、「夢遊病の女」(ドゥセとファン・ディエゴ・フローレスが共演)、「ラ・チェネレントラ」と続く。
 

3・4(水)都民芸術フェスティバル
 飯森範親指揮東京交響楽団

   東京芸術劇場

 都民芸術フェスティバルの一環、主催は日本演奏連盟。ほぼ満席。

 2階のエスカレーター前にボケッと突っ立ったまま、見るともなしに眺めていたのだが、本当に若いお客さんが少ない。中年か高年齢層の客が圧倒的だ(私を含めてだが)。中高年になると趣味はみんなクラシックになる、というのならそれはそれでいいが、若者が全く聴きに来ない、というのは由々しき問題だ。女性の客には、少しは若い世代も多いようだけれど。われわれは何をすべきだろうか? 

 今日のプログラムは、モーツァルトの交響曲第9番とピアノ協奏曲「戴冠式」、ベートーヴェンの「英雄交響曲」。

 演奏水準ベスト3の一角の存在だ、などと私は東京交響楽団をふだん絶賛しているのだが、やはり「定期」と「お座敷」とでは、力の入れようも違うようですな。
 「英雄」では、第1楽章のエンディングでの昂揚や、第4楽章後半のポーコ・アンダンテに入ったあとの弦のふくらみ(第357小節以降)、同コーダのプレスト部分での盛り上がり、そのほかチェロによる内声部の響きの良さなど、ハッとさせられる個所もいくつかあったものの、概してメリハリと生気に不足する演奏だ。
 第1楽章が始まってからしばらくの間、スフォルツァンドがほとんど利いていない演奏にはどうなることかと思ったほどだし、まして第2楽章にいたっては――。

 第4楽章終結近くホルンが主題を朗々と吹く[F]の1小節前の3連音符で下行するヴァイオリンをクレッシェンドさせず、スコア通りpのままで押し切るといったように、綿密な配慮を行なった演奏であることは認めるけれど、アクセントの不足した演奏であっては元も子もない。

 ピアノのソロは今野尚美。第1楽章のソロの最初のところを、いきなりオーケストラよりもずっと速いテンポで弾き出したのにはびっくりした。そのテンポの方が活気があったのは事実だが、音楽としてはもっとエスプレッシーヴォであって欲しいものだ。

3・3(火)藤村実穂子リーダーアーベント

  紀尾井ホール

 タイトルは微妙に異なるが、プログラムは2月27日のリサイタルと同じ。しかし演奏の感銘度は、さすがに調子を上げて来た今夜の方に分があった。

 まず、ロジャー・ヴィニョールズのピアノの出来が違う。先日のそれに比べて高音域の暴れもなく、ハーモニーの厚みも充分に表出され、かつ和音の動きが声の旋律の動きに対し表裏一体、完璧に合致するようになった。曲の構築がきわめて堅固なものになったのも当然である(彼は本来、このくらいのことはできる人なのだが)。

 これで彼女の歌の印象も随分異なって来る。あの時には座りの悪かったシューベルトの歌曲集も、冒頭の「泉に寄せて」から既にピタリと決まっていた。そのあとの曲目もすべて――アンコールで歌われたシューベルトの「夕映えの中で」と、R・シュトラウスの「朝に(明日の朝、あした、他いろいろな訳あり)」も含め――なんと豊かな空間的な拡がりを持った、スケールの大きな音楽になっていたことか。
 先日「この人の歌はやはりオーケストラとの協演で聴きたいもの」などと書いてしまったが、あれはピアノの演奏への不満から出たセリフであって、今日くらいのピアノであれば文句はない。

 この人の歌で聴くシューベルトは、おとなの、毅然たる意志を感じさせる世界だ。そしてワーグナーの「ウェーゼンドンクの5つの歌」、マーラーの「リュッケルトの詩による5つの歌」、シュトラウスの「ダリア」など5曲、いずれも心に秘めた襞を告白するかのような表現が見事である。
 高音のピアニッシモにおけるニュアンスは、彼女が年齢と経験を重ねるにしたがって更に微細なものになり得るだろう。先日のリサイタル時に比べると、今日の彼女の声は明るく、時にソプラノといってもいいほどの声質に聞こえたのも興味深い。

3・1(日)セミョン・ビシュコフ指揮ケルンWDR交響楽団

    ミューザ川崎シンフォニーホール

 シューマンの「マンフレッド」序曲、ベートーヴェンのヴァイオリン協奏曲(ソロはヴィヴィアン・ハーグナー)、ブラームスの第4交響曲、アンコールにエルガーの「ニムロッド」。
 ビシュコフは昨年のパリ・オペラ座来日公演の「トリスタンとイゾルデ」で好演を披露した。彼もついに変貌したかとうれしく思ったものだが、今日の演奏を聴くと、どうもあまり昔と変わっていないようである。――このオーケストラ、来年秋からはユッカ=ペッカ・サラステが首席指揮者に就任する由で、どのような個性が打ち出されるか。

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