2017-06

2・28(土)広上淳一指揮京都市交響楽団の東京公演

   サントリーホール

 昨年(2008年)4月に常任指揮者に就任した広上淳一のもと、東京公演として披露したのはめずらしく全USAプログラムで、バーバーの「弦楽のためのアダージョ」、ガーシュウィンの「ラプソディ・イン・ブルー」(ピアノ・ソロは清水和音)、バーンスタインの「管弦楽のためのディヴェルティメント」および「ウェストサイド・ストーリー~シンフォニック・ダンス」、アンコールとしてルロイ・アンダーソンの「忘れられた夢」。

 京響の音が壮麗さを増した――ということは先年に前常任の大友直人(現・桂冠指揮者)が指揮した東京公演でも承知していたが、今回の広上の指揮では、それに明るさが加わったようだ。
 とはいっても演奏されたのはアメリカの作品だから、それに適した響きが出されていたのだろう。しかし、以前には感じられなかったある種の開放的な雰囲気が横溢していたのは確かである。

 「弦楽のためのアダージョ」での弦の音色は美しいものだった。一方ガーシュウィンやバーンスタインものでは、もう少しスウィンギーな軽やかさと自由さが欲しいところだけれど、日本のオーケストラゆえ致し方あるまい。「ウェストサイド・ストーリー」での「マンボ!」の掛け声など、楽員の声は大きくても表情は生真面目なのが何か可笑しい。賑やかなのは広上だけだが、指揮者が突然客席を振り向いて大漁節の踊りみたいな格好をして大声で「マンボ!」とやられると、こっちは驚いて照れてしまう。しかし楽しいのは事実。
 広上と京都市響、期待したい。
       モーストリー・クラシック5月号(3月19日発売)

2・28(土)ブリュッヘン指揮新日本フィルの
「ロンドン・セット」最終日

   すみだトリフォニーホール(マチネー)

 ハイドン最後の交響曲3曲、「第102番」「第103番 太鼓連打」「第104番 ロンドン」が演奏され、「天地創造」を含め計5回にわたった「ハイドン・プロジェクト」がめでたく完結した。ブリュッヘンと新日本フィルが繰り広げてくれた温かく誠実な演奏に、感謝を捧げたい。

 「太鼓連打」での、冒頭小節のティンパニのソロ・パートは、もちろんフォルティシモのカデンツ。また全曲最後の部分(フィルハーモニア版スコア第338小節以降)では、ブリュッヘンは1987年に18世紀オーケストラを指揮して録音した演奏と同じように、第1版(改訂版より13小節ほど長く、ダイナミックスの交替も多い)を使用していた。

 3曲ともやや重いリズムの演奏だったが、これは一層スケールの壮大さを増して行く後期のハイドンの交響曲の世界を如実に示す効果を生んでいただろう。
 特に「第104番」フィナーレでの、管弦楽法の厚さ、音の響きの雄大さ、怒涛のごとく押すエネルギーを再現した演奏は、圧巻だった。ハイドンが最後に到達した「シンフォニー」の世界はまさにこれだったのだと、改めて姿勢を正したくなる思いであった。
       音楽の友4月号(3月18日発売)演奏会評

2・27(金)チョン・ミョンフンと東京フィルのブラームス

   サントリーホール

 「ピアノ四重奏曲第1番」のオリジナル室内楽版と、それをシェーンベルクが編曲した管弦楽版、その間に「ヴァイオリンとチェロのための二重協奏曲」が置かれるという長大なプログラム。しかも協奏曲のあとにも、アンコールとしてバルトークの「ルーマニア民族舞曲」の中の「角笛の踊り」。
 終演は9時半を過ぎるかと覚悟したが、「四重奏曲」管弦楽版のフィナーレが煽りに煽った猛烈なテンポだったため、予想より早く終る。それにしても、このテンポに応えた東京フィルもお見事。

 室内楽版では、チョンみずからピアノを弾いた。それも今夜の売り物だったろう。ピアノが主役ともいうべき曲でありながら、彼は少しも出過ぎず、しかも巧みに他の3人の奏者を支えていた。さすがのリーダーシップである。
 協演はヴァイオリンがスヴェトリン・ルセヴ、チェロがルイジ・ピオヴァーノ、ヴィオラが東京フィル首席の須田祥子。「管弦楽版」における堅固で壮大な、熱っぽくて強力な求心性を持った快演とともに、聴衆を沸き立たせた。

 協奏曲では、オーケストラにはやや戸惑っているような演奏のところもなくはなかったが、練習不足かな? だが2人のソリストが若々しく親密な対話を聴かせて、これも面白かった。
 東京フィル、先日の「レクィエム」に続く大ヒットである。

 なお先日(22日)のそのヴェルディの「レクィエム」の時に書き忘れていたこと。
 打楽器奏者の中村はるみさんの、あの楚々とした姿でありながらトルネードのごとき腕のスウィングで大太鼓を打ちまくる迫力には、私も呑まれてしまったクチである。東京フィルハーモニー交響楽団公式ブログの「オーケストラをゆく」に、今日のソリストの一人、ヴィオラの須田祥子さんが、その大太鼓について書いておられる「怒り爆発!」という項が、すごく面白い。トラック・バックで拝読したINTERNET ZONEさんのブログにも紹介されていたので、ここで改めてご紹介しておきます。

2・26(木)ジャン・フルネ追悼コンサート

  東京芸術劇場大ホール

 東京都交響楽団の特別演奏会。
 同団名誉指揮者で、昨年11月3日に95歳で他界したジャン・フルネに永久名誉指揮者の称号が贈呈され、ミリアム・ジェイクス・フルネ夫人が花束を手に、感激に声をつまらせながら答礼の挨拶。

 続いて演奏会が行なわれた。故フルネの孫ガスパール・ブレクール・フルネ(37歳。コムピエーニュ劇場音楽監督)がビゼーの「交響曲ハ長調」を指揮したが、これは言っちゃァなんですが、重くてイン・テンポで、全く変化のない、退屈極まる演奏でしたな。むしろ都響が――あの巨匠の薫陶を受けた都響が指揮者なしで演奏した方が、よほど良い演奏になるんじゃないかと思ったくらいだ(都響にはその形でデュカスの交響曲を見事に演奏した実績がある)。

 後半、都響レジデント・コンダクターの小泉和裕が勢いよく登場して「英雄交響曲」を振り始めた時、やっと一息ついた。あまり練習をやったとも思えないような演奏だったが、とにかく「ホンモノの演奏」には違いなかったから。

2・25(水)藤村実穂子ドイツリートの夕べ

   いずみホール

 大阪はJR環状線の大阪城公園駅に近く、いずみホールがある。中規模の大きさのホールで、客席数は東京の紀尾井ホールとほぼ同じだというけれど、内部はずっと大きく見えて、壮麗だ。アコースティックが良いから、リートのリサイタルや室内楽の演奏会には絶好だろう。

 ドイツ・オーストリアの歌劇場で大活躍の藤村実穂子は、会場の響きを慎重に研究した上で本番に臨み、見事にこのホールを鳴らし切った。バイロイト祝祭劇場の客席空間をさえビリビリと震わせる、あの深みのある声が、今日もたっぷりと響いたのであった。
 歌われたのは、シューベルトの「泉に寄せて」など5曲、ワーグナーの「ウェーゼンドンクの5つの歌」、R・シュトラウスの「私の想いのすべて」など5曲、マーラーの「リュッケルトの詩による5つの歌」など。

 彼女のリートを聴くのは今回が初めてだったが、さすがにワーグナー以降の作品では、その重く陰翳の濃いアルトの声と、時に悲劇的情感の強い表現力が存分に生きる。強烈な存在感も凄い。マーラーは圧巻と言えたであろう。
 ただ最初のシューベルトでは、ロジャー・ヴィニョールズの明るい高音が際立つピアノの音色とのアンバランスが少し気にならないでもなかった。演奏の出来も、「ウェーゼンドンク歌曲集」の中盤になってノリが良くなって来たような気がしたのだが、いかがだったであろう。やはりこの人の壮大な歌唱は、オーケストラとの協演で聴きたいなと思ってしまうのだけれど、それはまた別の話。
 来週(3月3日)には紀尾井ホールでもリサイタルがあるから、もう一度聴いてみることにしよう。

2・22(日)チョン・ミョンフン指揮のヴェルディ「レクィエム」

  オーチャードホール

 東京フィルの定期公演、近来の超快演。
 これほどすべての演奏者の水準が高く、しかも完璧なバランスが保持されたコンサートも稀ではなかろうか。指揮者、オーケストラ、合唱、すべてが緊密に交錯し、堅固で劇的な「レクィエム」を構築していた。

 チョン・ミョンフンは、これまでにも日本でヴェルディの「レクィエム」の名演を一度ならず聴かせている。だが今回の演奏は、以前のそれをすら上回るものと称しても過言ではないだろう。
 壮絶に激しく沸き立ちながらも、きりりと引き締まった直線的な音楽の躍動が全曲を貫き、そこには一分の隙もない緊迫感があふれる。「怒りの日」はもちろん、「サンクトゥス」においてさえ、合唱もオーケストラも切り裂くような鋭角的な表情を示していて、それが息詰まるほどの緊張を生んでいるのだ。特に最後の「リベラ・メ」終結近くでは、身の毛のよだつようなクライマックスが築かれていた。

 これらを含め、演奏は――いうまでもなくヴェルディの「レクィエム」そのものが――単なる一つの宗教における祈りといったものを超越した、むしろ普遍的な人間のドラマという世界を感じさせる。チョンのこの驚くべき集中力に富む激烈な指揮に、今日の東京フィルは完璧に応えていた。このオーケストラの、近来屈指の快演である。

 そして今日の演奏の成功の一因は、充実した声楽陣にもあるだろう。
 まず、東京オペラシンガーズ(合唱指揮・宮松重紀)の、驚異的にドラマティックな表現力と、揺るぎないアンサンブル。この合唱団の力量には、サイトウ・キネン・フェスティバル他のオペラや演奏会などで度々感心させられているが、今日の迫力は図抜けて凄かった。響きがやや硬質で、強すぎる傾向なきにしもあらず――ではあったが、それはチョンの意図に応えたものであったろう。

 成功要因のもう一つは、優れた声楽ソリストたちだ。
 ソプラノのカルメラ・レミージョの声は輝かしく、美しい高音を聴かせた。アルトの藤村実穂子の陰翳に富んだ歌唱もすばらしく、出番が多く重要なこのソロ・パートで気を吐いた。テノールのキム・ウキョンは、笑顔の朝青龍といった感じで、その声の澄んだ力強さは実に魅力に富んでいる。バスのロベルト・スカンディウッツィは、これはもう練達の名手という雰囲気で、手に持ったスコアも開くことなく、全曲を暗譜で朗々と歌い上げていた。

 かように充実した演奏会であったが、瑕疵があったとすればそれは演奏そのものでなく、まず舞台方面から聞こえた、ホールの空調かなにかの回転音らしき連続ノイズ。全曲冒頭、やっと聞き取れるほどの最弱音で演奏が開始される個所で、それを邪魔するほどの音量で響いていた。天下のオーチャードホールともあろうものが、どうしたことだろう。それに、またもや多くの聴衆が内心舌打ちしたであろう、1階席中央あたりからけたたましく起こった非常識なフライング拍手。
    音楽の友4月号(3月18日発売)演奏会評

2・21(土)飯森範親と東京交響楽団のマーラー「7番」他

   サントリーホール

 シューベルトの「イタリア風序曲第2番」に始まり、岡田博美のソロによるリストの「死の舞踏」、そしてマーラーの「第7交響曲」と続く。

 後2者の組み合わせは、特にマーラーの作品の側から見て、意外に面白い共通性を感じさせるのではなかろうか。この「7番」の最初の4つの楽章におけるミステリアスな、怪奇な性格をもった楽想への導入としても、「死の舞踏」は本来の劇的な性格以上の怪奇性を示していた。

 ではあったが――演奏の出来は、残念ながら今ひとつ。
 リストとマーラーでの、弦の響きの軽さ、音量の小ささは、一体どうしたことか。マーラーでは、金管は充分に鳴ったが、全合奏での最強奏の時に16型の弦が全然聞こえないのだ(聴いた席は2階正面)。
 もともと東響の弦は柔らかい響きに特色があり、またそれが魅力的なのだが、こういう曲の場合には金管とのバランスも考慮する要があるだろう。

 飯森の指揮も、今回は不思議なほど全曲の見通しが明快なものに感じられず、特に両端楽章では音楽が散漫な印象を生じさせた。フィナーレの最後の頂点にしても、弦が鳴らないところへチューブラー・ベルを強打させるので、響きが混沌雑然としてしまうのである。彼らしくもない。

 やはりこの作品は「怪曲」のたぐいなのかもしれない。大体この交響曲は、だれが振ってもうまく行かないことが多いとまで言われている。
 飯森と東響のマーラーだって、本来はこんなものではなかったはずである。以前の「3番」や「5番」など、胸のすくような快演だったことを思い出す。もっとも、「2番」あたりからちょっと構え過ぎるようになったかという気も。
 コンサートマスターのグレブ・ニキティン、ホルンのジョナサン・ハミルら、東響のおなじみの首席奏者たちは、それなりに責任を果たしていた。

2・20(金)ブリュッヘン指揮新日本フィルの
「ロンドン・セット」第3日

  すみだトリフォニーホール

 ブリュッヘンと新日本フィルのハイドン交響曲「ロンドン・セット=ザロモン・セット」の第3日は、「第99番」「第100番 軍隊」「第101番 時計」。

 今日は不思議に、前半の曲目でアンサンブルが緩く甘く、弦にも不安定さがあり、木管同士のピッチ合わせにも腑に落ちないところが散見された。もっとも、そんな欠点をあげつらうのが無意味に思われるほど、ブリュッヘンの音楽にはヒューマンな滋味、飾り気のない温かさがあふれているのは言うまでもない。

 「99番」フィナーレでは表情も生真面目で、ハイドンが其処此処に覗かせている楽器の対話のユーモアはさほど発揮されなかったが、転じて「軍隊」第2楽章の終わり近く、打楽器奏者3人を大きな指揮杖を持った男の先導により舞台前方を行進させ、かつトルコ軍楽隊さながらにポーズを執らせたあたり、ブリュッヘンもなかなか洒落っ気の持主である。
 事務局の話によれば、なんでも昔このような形で演奏された記録がある、とブリュッヘンが語ったとのこと(その出典がどこにあるかまでは教えてくれなかったそうな)。

 彼はその他、「時計」第2楽章第24小節以降で、反復の際に弦のピチカートをアルペジョ風に弾かせるという趣向も披露した。18世紀オーケストラとのCDでは1回目の演奏の際にも行なっていたが――なにしろあれは、20年以上前の録音である。概してCDよりも今回の演奏の方がアクセントも柔らかく、かなり大らかになっているように感じられる。

 「99番」第4楽章と、「時計」第1楽章のそれぞれ最後の和音が何かフニャリとした感じだったのは、どんな意図によるものだったのでしょう。
 だが「軍隊」第4楽章や、「時計」両端楽章などでは、押しに押すハイドンの音楽的推進力の面白さも存分に味わえる演奏だった。

 これらはすべて、ハイドンの後期の交響曲が実に多種多様な性格を備え、大胆な試みを欠かさない作品ばかりであることを示してくれる演奏だ。それだけでも貴重なツィクルス――意義の高さでは「ハイドン・ミニ・フェスティバル」と言ってもいいほどである。

 新日本フィルは20年ほど前にもカザルスホールでハイドンの104曲の交響曲を、番号順にいろいろな指揮者で演奏したことがあったが、後期の作品に関する限り、今回の演奏の方がはるかに刺激的である。その一因は、ピリオド楽器スタイルの響きにもあるだろう。

    ☞音楽の友4月号(3月18日発売)演奏会評

2・19(木)下野竜也がNHK交響楽団の定期に客演

  サントリーホール

 つい1週間前の読響のドヴォルジャークでは「火の玉小僧」だった下野竜也も、N響に来ると、何か遠慮がちで、鯱張っているような雰囲気。
 ベートーヴェンの序曲「献堂式」と、フランクの「交響曲ニ短調」――いずれも演奏の内容は些か空虚。多分、指揮者とオーケストラとの、両方の責任だろう。

 「献堂式」序曲は、もともと誰が振ってもうまく行かない曲だ。今夜の下野とN響の演奏でも、同じ音型の繰り返しというこの曲の悪い面ばかりが目立つ結果になっていて、しかも甚だ緊迫感が乏しい。

 この曲を、その本来の性格どおりドラマティックに演奏できたのは、古今おそらくトスカニーニだけではなかろうか。今回のプログラムでは平野昭氏が解説に「退屈な職人的仕事」のような曲、という意味のことを書いておられたが、昔のトスカニーニのレコードを聴けば、その考えも変わるのではないかと思う(聴いた上でそう書いたんだよ、と言われればどうしようもないが)。
 あのトスカニーニの怒涛の如き演奏――ひた押しに押し、クレッシェンドを何度も繰り返して頂点に持って行く名演(1947年録音、但しLPに限る)でこの曲を聴けば、「第9」第1楽章や「ミサ・ソレムニス」の「グローリア」と同様、晩年のベートーヴェンの恐るべきエネルギーに圧倒されること、間違いない。

 フランクの交響曲では、N響の音がまさに昔ながらの、シュヒター以来のN響の音――重くくすんだ、透明さのない音だったのに驚いた。これは到底、下野の音とは思えない。N響がその本性を現した、ということになろうか。第1楽章でのクレッシェンド個所その他での量感などにはさすがのものもあったが、作品全体としてはいかにもN響らしく、精神性の希薄な演奏である。ただし第2楽章におけるイングリッシュ・ホルンのエスプレッシオーネは見事であった。

 以上2曲の間には、ショスタコーヴィチの「ピアノとトランペットと弦楽のための協奏曲」が置かれた。スティーヴン・オズボーンのピアノは、この曲の叙情的な側面を浮き彫りにしようとしたものだが、関山幸弘のトランペットの壮麗な音色とのアンバランスがある。しかもオーケストラには躍動感が不足。

 N響と日本人若手指揮者の組み合わせは、やはりうまく行かないものらしい。困ったものだ。

2・17(火)大植英次と大阪フィルの東京公演

  サントリーホール

 モーツァルトの「ピアノ協奏曲第9番」とマーラーの「交響曲第5番」というプログラム。ピアノのソロはあのすばらしい若手、ジャン=フレデリック・ヌーブルジェである。

 大植が指揮する大阪フィルの音色は、以前には最強奏の際に管と弦の音がダンゴ状態になって、濁りも生じるケースも少なくなかったが、昨年の東京公演(「幻想交響曲」他)でそれが解決されていたのには、嬉しい思いをしたものである。
 きれいになったとは言っても、いわゆる彫琢された清澄な音色とか、艶麗な美感とかいうタイプのものではない。喩えて言えばナニワ的な感じのもの(?)だが、それはそれで関西のオーケストラたる大阪フィルらしい良さを出しているだろう。

 今夜のモーツァルトなど、大阪フィルも随分変わったものだと感じさせるほど、清涼で軽快な演奏になっていた。ヌーブルジェの澄み切った溌剌たる、しかも端正さを失わないピアノとの対話もバランスよく、魅力的であった。

 マーラーの「5番」も、今日はあまり怒号しない演奏だったため、オーケストラの音も柔らかく保たれたようだ。比較的余裕を持って鳴っていた、と言ったらいいか。無理に凶暴に絶叫しない演奏だったのは好ましい。この作品の叙情的な側面の良さを、120%発揮させた演奏と言えよう。
 だが――テンポは異様に遅い。時計を詳しく見ていたわけではないが、普通なら68~70分程度の総演奏時間が、今夜は90分近くかかっていたのでは? 師バーンスタインの87年盤(75分)のそれをすら、はるかに上回る遅さである。

 このテンポを大阪フィルが完全に持ち応えていたとは、言いがたい。特に第1楽章では葬送行進曲の悲劇的様相が、時に沈滞して疲れ切った足取りのようになることもあった。最弱音も極端であり、しかもそこでは更にテンポが落とされる。
 3年前に彼らがこの曲を取り上げた際にどう演奏したのか、聴いていないので何とも言えないけれども、今夜の演奏を聴く限り、大植もいよいよこのような独善的で極端なマーラー解釈に足を踏み入れたか、と驚かされたのは事実である。

 もっとも、この超遅テンポのおかげで、これまでの猛烈型演奏では聞き逃していたような和音の美しさ、旋律の意外な魅力、楽器の交錯の面白さなどに気がつかされ、ひいてはこの「5番」が何と美しい曲なのだろうと、改めて感じることができたのは有難かった。善いこともあるものだ。

 かように長い長い「5番」のあとに、さらに沈潜したテンポの「アヴェ・ヴェルム・コルプス」(モーツァルト)がアンコールで演奏された。マーラーの交響曲のあとにアンコール曲を演奏する感覚には、私にはとても共感できない。終演は9時55分。

    ☞モーストリークラシック5月号(3月19日発売)

2・16(月)シナイスキー、チュマチェンコ、読売日響の
ハチャトゥリアン

  サントリーホール

 2月の定期公演だが、都合でハチャトゥリアンの「ヴァイオリン協奏曲」のみ聴く。
 この曲を初めてラジオで聴いたのは、もう半世紀ほど前。オイストラフの演奏したレコードだった。その時にはヘンな曲だと思ったが、その後何度聴いても、やはり変な曲である。それゆえ、何度聴いても実に面白い。

 もともと鳴りっぷりのいい読売日響が、ワシリー・シナイスキーの指揮で豪快に轟く。
 アナ・チュマチェンコの音は最初のうちヴィオラを思わせるような濃い音色で、そのせいかオーケストラに埋もれ気味だったが、カデンツァを境として輝かしい表情に転じていった。
 いろいろな意味で、練達の大ベテラン――といった雰囲気の演奏であるけれど、ソロと管弦楽の決闘みたいなこの協奏曲をこれだけエネルギッシュに弾けること自体、凄いことだ。彼女は現在、ミュンヘン音大の教授でもある。
 私が聴けなかった今夜のプログラムの後半は、ラフマニノフの第2交響曲。

2・15(日)ブリュッヘン指揮新日本フィルの「ロンドン・セット」第2日

   すみだトリフォニーホール マチネー

 第94番「驚愕」、第98番、第97番というプログラム。
 フランス・ブリュッヘンと新日本フィルは、前回同様に充実した演奏だ。「98番」には、フォルテピアノの渡邊順生が加わっていた。

 それにしても、聴くたびに感じ入るのだが、ハイドンの交響曲とは何と大胆で奇抜で、曲ごとに新鮮なアイディアにあふれていることか。
 今日のプログラムの中も、「第97番」など、聴いていると思わずニヤリとしてしまうほどだ。同一の音型を反復しながら上昇していく音階が、予想を裏切って大きく跳躍して転調してしまったり、ファゴットの跳躍がベートーヴェンの「8番」第4楽章を先取りしていたり(いずれも第1楽章)、弦の主題に木管が合いの手を挟む形が几帳面に繰り返されていたかと思うと、突然怒ったような表情が現われたり(第2楽章)、弱音で進行しているさなかにティンパニだけがいきなりフォルテで入るという表現主義さながらの手法が用いられたり(第3楽章)、それまで下行で出ることが多かった半音階の音型が、終結直前に突然上行で挿入されたり(第4楽章。ここでハイドンは悪戯っぽく笑っているのだろう)――。
 しかも全曲は、頻繁でスピーディなダイナミズムの交錯の連続で、それは「驚愕」第2楽章の比ではない。

 ブリュッヘンのテンポは例によって速い方ではなく、どちらかといえば悠揚迫らざるタイプなので、後半2楽章ではダイナミズムの交替も目まぐるしいといった感ではないが、それでも変化の面白さは余すところなく味わえる。第4楽章のホルンの8分音符の刻みの個所では、アーノンクールがやっているような劇的で刺激的な音色は求めていない――そこがお人柄(?)というところか。

 こういうハイドンの音楽の特色は、私にとっては、やはり今日のように、ピリオド楽器的奏法で演奏された方が、存分に楽しめる。モダン楽器の響きだと、音色が飽満に柔らかくなり、どうしても音楽が穏健に聞こえてしまうのである。 

    ☞音楽の友4月号(3月18日発売)演奏会評

2・13(金)ハルトムート・ヘンヒェン指揮のドラマティックな「エリア」

  紀尾井ホール

 所謂「音楽療法」なるものはあまり信奉していないクチだが、私の場合は、多少体調が悪い時でもすばらしい演奏を聴くと、必ずいつの間にか元気になってしまう。今日も――春一番が吹き荒れたにもかかわらず寒気と熱っぽさに悩まされ、それでも仕事だからと無理をして(インフルの症状ではなかったので)演奏会を聴きに行ったのだけれど、この演奏の見事さのおかげで、風邪気味の体調などどこへやら――で帰って来た次第。

 近年のヘンヒェンはオペラの指揮が実に上手くなった。その腕前を以て、彼は今夜もメンデルスゾーンのオラトリオ「エリア」を驚くほどドラマティックに指揮して聴かせてくれた。神の怒り、バールの預言者たちの必死の祈り、エリアが起こす奇蹟の場面など、息詰まるような迫力を生み出す。緊迫感を構築する上でのテンポやデュナーミクの設定が、非常に巧いのである。しかもあの有名な合唱「見よ、イスラエルを守る方は」での、愛らしい旋律主題がオーケストラと声楽の各声部に受け渡されて行く個所での呼吸なども、オペラで腕を上げている指揮者ならではのものだ。

 ソリスト4人のうち、バスのアレキサンダー・マルコ=ブールメスターの底力ある強靭な声と表現が、エリアの存在を圧倒的なものにして、全曲を引き締めた。実に今回の演奏の成功は、彼に由る所が大きいだろう。アルトのカタリーナ・カルネウスも個性的だ。ソプラノのヒェン・ライスも綺麗な声だが、独特のヴィブラートが気にならないでもない。テノールのイリヤ・レヴィンスキーは、ちょっと頼りない。
 合唱は「東京オペラ・シンガーズ」で、いつもながらの鮮やかな、胸のすくような歌唱ぶり。その中の8人のソリも優れていた。ボーイ・ソプラノは「TOKYO FM合唱団」のメンバー1人が歌っていたが、名前の出ていないのが不公平なほど良い声だった。
 そしてオーケストラはもちろん「紀尾井シンフォニエッタ東京」。ヘンヒェンの指揮に適切に応えていた。

 結論として、これは私がこれまでナマのステージで聴いた「エリア」の中では、最上位に近い水準の演奏と言っていい。
 ただし、私個人としては、ここに描かれている物語については、むしろ反感を抑え切れぬ。「主の他に神は存在しない」という言葉に象徴される宗教的非寛容さをはじめ、異教徒(バール)が支配するからという理由でその国に旱魃を与えて民を苦しめ、しかもその預言者たちを皆殺し(!)にし、イスラエルから異教徒をすべて追放し、かくて「真の神」エホバを讃える――といったような、この宗教特有の独善的な力の論理にも。
 こうした思想と演奏とを、きっちりと分けて受容するのは、非常に難しいのだが。

  音楽の友4月号(3月18日発売)演奏会評

2・12(木)二期会「椿姫」 アッレマンディ指揮 宮本亜門演出

   東京文化会館大ホール

 宮本亜門が演出を担当していることが今回の話題の一つ。以前の「ドン・ジョヴァンニ」や「コジ・ファン・トゥッテ」などと同様、軽くひねった手法を見せたことは予想されたとおり。

 最近の流行りともいうべき暴力的な演技が随所に見られる。第1幕などはアルフレードとドゥフォール男爵のいがみ合いの連続で、片方が相手を殴り倒す場面まである。アルフレードが頭に血の上りやすい単純な性格であることを伏線的に描くなら、これは意味があるだろう。
 もっとも、ドゥフォール男爵をあれだけ暴力団か成金のボスみたいにして目立たせるからには、それを伏線として後半で何か特別な役割を担わすのかと思ったが、それは特に見られなかった。

 ヴィオレッタにしても、このドゥフォールのごときガラの悪い男をヒモにしていたことからしてお里が知れる――というのが、この演出における「伏線」なのかもしれない。
 ヴィオレッタには、常に「娼婦」の過去が付きまとう。第2幕のパーティの場で、逆上したアルフレードが札束をヴィオレッタにたたきつける行動はオリジナルのト書きにもあるもので、これは彼がヴィオレッタを娼婦として罵倒する意味合いをこめた重要な演技でもあるが、今回の演出ではそれに先立つ場面で、アルフレードの父親ジョルジョ・ジェルモンが彼女にカネ(札束)を握らせて身を引かせようとする場面があり、これも「娼婦=カネ」のモティーフを想起させる演技として意味を持っているだろう。

 このジョルジョとヴィオレッタのやりとりの場面でも、彼が彼女の腕を掴んだり引き据えたりするなどの暴力的な行動がしばしば見られたが、これならいっそ字幕の方も伝統的な「です=ます調」より、彼女への軽侮を剥き出しにした荒っぽい訳語を使用した方が迫力も出たであろう。字幕も演出の一部なのだから。

 歌手たちもこれらの微細な演技をよくこなしていた。いわゆるオペラ的な、両手を拡げて客席を向いて歌うという陳腐な身振りを見せる歌手がいなかったのもありがたい。
 ただし第3幕で、重病で頭も上がらないはずのヴィオレッタがやたら舞台をあちこち走り回っているのだけは、いかがなものか。昔、ヴィーラント・ワーグナーの演出した「トリスタン」の幕切れでイゾルデが倒れて死なないのに驚きの声が上がった時、「音楽自体が死を表わしているのだから、本人は倒れなくてもいいのだ」という弁護がドイツであったらしいが、どうみても詭弁だろう。説明するだけ野暮である。――舞台上に絶えず荒々しい「動き」がなくては済まないという「流行の」演出では、やはりこのテを取り入れたくなるのだろうか。

 澤畑恵美のヴィオレッタは、第1幕の最初ではやはり声質が柔らかすぎるかと思われたが、次第に力を増して行った。私は彼女のこの役は初めて観たのだが、こういう汚れ役的なヴィオレッタも魅力的だ。ただ第3幕では、忙しい動きとは対照的に、声は時々、その病状の進行を表わすようになることがあったが、――もちろんそれも演出でしょうね? アルフレードの樋口達哉、ジェルモンの小森輝彦、いずれも健闘だが、2日目にはもっと良くなるだろうと思わせる個所もある。

 最も気に入ったのは、指揮者アントネッロ・アッレマンディのテンポだ。歌手の一部にはそのテンポについて行けない人もいたようだが、そのかみのトスカニーニやセラフィンの指揮と同様、このくらいのドラマティックな速めのテンポで演奏されないと、このオペラは緊迫感を失う。

 装置は松井るみ、照明は沢田祐二。舞台が上手上がりに軽く傾斜しているなどというのは、さほど珍しい手法ではない。
 装置を含めた演出には、すでに欧州で上演された舞台からヒントを得たと思わせるものも少なからず見られるが、それ自体は一向構わない。議論されるべきは、その出来が良いかどうかということだ。

2・11(水)ブリュッヘン指揮新日本フィルの
ハイドン「ロンドン・セット」初日

   すみだトリフォニーホール

 フランス・ブリュッヘンが指揮するハイドン交響曲シリーズ「ロンドン・セット」の第1日は、「第96番ニ長調 奇蹟」「第95番ハ短調」「第93番ニ長調」というプログラムで開始された。

 ノン・ヴィブラートの弦は12-12-8-6-4の編成だが、無理に縦の線をきっちり合わせようというような演奏ではないおかげで、たっぷりとした厚みと、空間的な拡がりとをもって、豊かに響く。それゆえ音楽は実にスケールが大きい。威容も充分だ。
 3曲ともそうだったが、第1楽章のアレグロが始まった瞬間、なぜか一瞬、アンダンテで演奏されているような錯覚に陥る――変な話だが、それが正直な印象なのである。それだけ、演奏に悠揚迫らざる風格があふれているということなのだろう。
 どの曲もこうした趣きの中に、毅然とした剛直さで、誠実に進められる。しかも、新日本フィルの演奏に堅苦しさが少しも感じられないところがいい。このシリーズ、楽しみである。このあと、15日、20日、28日と続く。


       ☞音楽の友4月号(3月18日発売)演奏会評

2・10(火)下野竜也指揮読売日本交響楽団の
ドヴォルジャーク・シリーズ

   サントリーホール

 「オセロ」序曲、「チェコ組曲」、「第4交響曲」という、演奏会ではめったに聴けない曲ばかり。下野と読響の面目躍如たるものがあろう。
 しかも、ドヴォルジャークの初期・中期の交響曲とは、面白いところに目をつけたものだ。年がら年中「7番」「8番」「9番(新世界)」ばかりではつまらないし、それ以前の交響曲にもいい曲があるからだ。私はとりわけ「3番」「4番」「6番」に愛着を持っている。

 それゆえ今夜も「4番」を楽しみにしていたが、これはもう、期待していた以上の演奏にめぐり合えたという気がして、大いに気持がよくなった。
 この曲、第2楽章では「タンホイザー」そっくりの響きが出て来たり、第3楽章では勢いのいい民族舞曲風主題が暴れまくるかと思えば「マイスタージンガー」そっくりのフレーズが出て来たり、第4楽章ではやたらカンタービレな副主題が突然現われたり、とにかく微笑ましいところがあるのだが、これを振る下野竜也の「持って行き方」の巧さには、感嘆させられる。

 演奏は、いかなる指揮者の「4番」にも増して、驚異的に熱っぽい。特に後半2楽章での、弾丸のようなエネルギーに富む熱狂的な躍動感は圧巻だ。これだけアッチェレランド(テンポの加速)の見事な日本人指揮者はめずらしいだろう。それでいて粗いところは少しもなく、きっちりと均整の造型を保って、非常にニュアンスの細かい表情を創る。「転調の一撃」を強調する瞬間の指揮などは几帳面なほどだし、第4楽章でポーコ・メノ・モッソのカンタービレ主題が最初に登場した時にも、全身で歌っているような身振りでオーケストラを盛り上げる。

 読売日響がまた見事にこの指揮に反応する。両者の関係は最良の状態にあるようだ。この調子なら、6月定期での「第1番 ズロニツェの鐘」も楽しみである。もっとも下野の「ドヴォルジャーク・シリーズ」はコンスタントに進められるわけではないらしい。次のシーズンには、メンデルスゾーンの作品を多く振るようだ。

2・9(月)マレク・ヤノフスキ指揮ベルリン放送響の「運命&未完成」

   サントリーホール

 「運命」「未完成」といえば、何十年か前の日本の演奏会やレコードでの「組み合わせ定番」だ。私も初めて自分でプレイガイドで切符を買って行ったコンサートが、日比谷公会堂での山田和男(一雄)指揮東京フィルによる「三大交響曲演奏会」で――もう1曲は「新世界」だったか。

 それはともかく、久しぶりにドイツの陰翳ある響きのオーケストラで聴くこの2大名曲、なかなかいいものだ。
 特に「未完成」。ヤノフスキ(同響音楽監督・首席指揮者)は、第1楽章をスコアどおりアレグロ・モデラートのテンポでやってくれるので、端正な古典的な要素とロマンティシズムとがほどよく調和し、気持よく聴ける(ここをアンダンテでのんびりやられると、気持よさが限度を超えてしまう)。
 一方「運命」は、ヤノフスキは両端楽章で速いテンポを採り、この曲が持つ強烈なエネルギーの側面を存分に浮かび上がらせる。それはそれでいいのだが、オーケストラが充分に弾き切れない、吹き切れない、という問題もあるようで、細かいところが雑になってしまう欠点も大きいだろう。

 それにこのオーケストラ、木管が最弱音を上手く吹けないのは困ったものだ(今日だけのアクシデントだろうが、「運命」第3楽章後半は総崩れ)が、まあ、演奏全体には理屈抜きのいい雰囲気があるし、このようなドイツのローカル色を今なお持ち続ける団体は貴重だから、善しとしましょう。アンコールで演奏したベートーヴェンの「第8交響曲」第2楽章や、シューベルトの「ロザムンデ」間奏曲など、温かくてすばらしい演奏だった。

 2大名曲の間におかれたのは、ベートーヴェンの「ピアノ協奏曲第4番」で、人気の若手ラファウ・ブレハッチがソロを弾いた。ポーランド出身の23歳のこの若者には、彼なりのベートーヴェンのイメージがあるだろう。それは清冽で新鮮で、魅力的なものだ。オーケストラの個性とは微妙な食い違いがあるが、それがまた生演奏の面白さである。

2・8(日)「ダイドーとイニーアス」他

    横須賀芸術劇場 マチネー

 京浜急行汐入駅前にある横須賀芸術劇場は、歌劇場スタイルの馬蹄形の客席を持つ、音響的にもなかなか良いホールだ。今日はその開館15周年を記念しての、オペラ2作品の上演。面白かった。
 上演されたのは、彌勒忠史の演出による、モンテヴェルディの「タンクレディとクロリンダの戦い」と、パーセルの「ダイドーとイニーアス(ディドとエネアス)」。

 前者は基本的に歌舞伎のスタイルで、中央で主人公(花柳珠千鶴、求かづき)による舞踊が行なわれ、上手に歌手3人(宮本益光、鈴木慶江、望月哲也)とテオルボ(佐藤亜紀子)、下手に歌舞伎囃子(笛と太鼓)が控えるという舞台構成だ(写真上)。バロック・オーケストラと囃子の響きが不思議にうまくかみ合う。望月が見事な「歌い語り」を聴かせて、舞踊よりもこちらの方が主役という感。

 後者は予想に反して、物語の場所はバリ島(!)に読み替えられた(写真下)。
 登場人物たちの東南アジア風衣装、所作、悪(魔女)の仮面などが極めて新鮮なイメージを生み出し、舞台を多彩にエキゾティックに、退屈させずに見せていた。林美智子(ダイドー、魔女)、國光ともこ(ベリンダ)、際立って朗々たる声の与那城敬(イニーアス、水夫)らが登場。横須賀芸術劇場合唱団もなかなかの熱演である。

 いずれの作品においてもそうだったが、やはりみんな、(西洋人でなく)東洋人の格好をした方が美しく可愛く、ずっとサマになる。

 彌勒の「演出ノート」によれば、オペラの誕生と歌舞伎の誕生とが同じ1600年であったこと、初期のオペラの声楽様式(歌い語り)と日本の「語り物」との共通点に着目したこと――これが「タンクレディとクロリンダの戦い」の演出への発想になったという。
 一方「ダイドーとイニーアス」では、ダイドー役が魔女役をも受け持つなどの善悪相反するキャラクターを演じる手法(これ自体はよくある方法だが)を、「善と悪とがあってこそ、この世は成立する」というバリ・ヒンズーの世界観と結びつけた――と説明している。これらの発想は、すこぶる興味深い。

 泰西オペラを他国のスタイルに読み替えたものは、ゲルギエフが試みた「スキタイ風ニーベルングの指環」、市川猿之助演出の「影のない女」、市川右近らが演出した「撤羅米(サロメ)」、その他いろいろ面白いのがあったが、更にもっと多くの試みが行なわれていいのではないか。

 以前、若杉弘氏から聞いた話だが、ルドルフ・ゼルナーが二期会の「ラインの黄金」を観た時に、「実によくやっている。しかし、なぜ舞台面でヨーロッパの真似をするのだ。日本には文楽、能、歌舞伎などすばらしい舞台があるではないか。なぜその手法を取り入れないのだ。自分もオルフの作品を演出した時、それらを取り入れてみたいと研究したほどなのに」と言っていたそうである。
 またヴォルフガンク・ワーグナーも、二期会の「ジークフリート」を観て、「これは日本スタイルの舞台としてやっても成立するはずだよ。私にテクニックがあったら、ぜひやってみたいところだな」と言ったということだ。

 なおオーケストラは、江崎浩司指揮のトロヴァトーリ・レヴァンティ。演奏は良かったが、オペラに先立って冒頭に演奏された江崎自身の作「スカジャン」(横須賀ジャンパー)なる曲は、言っちゃあ何だが、見事につまらなかった。

T002

D002
撮影:今津勝幸氏  写真提供:横須賀芸術劇場



2・7(土)リゲティ:オペラ「ル・グラン・マカーブル」日本初演

   新国立劇場中劇場

 東京室内歌劇場40周年記念公演。大掛かりな力作である。

 「グラン・マカーブル(大いなる死)」は、架空の淫蕩な国ブリューゲルランドを舞台にしたアイロニーの荒唐無稽な喜劇だ。歌詞はドイツ語。

 筋書は措くとして、ジェルジー・リゲティ(1923~2006)はここに伝統的なオペラのあらゆる形式――アリア、二重唱、合唱、大団円のアンサンブルといった要素――とともに、パッサカリアなどの楽曲形式、オペラならではの非合理的な物語展開手法、娯楽性などをも持ち込んだ。かくして彼は「アンチ・オペラ」の風潮に対する更なる「アンチ」というコンセプトに立ったと言われる。
 だがそのついでに彼は、オペラ独特の長々しさ、くどさ、同じ言葉のうんざりするほどの反復、といったものまで持ち込んだのも事実であった。こんな要素をオペラへのオマージュとして持ち込む愚か者はいないだろうから、結局これはやはりオペラへのパロディなのであり、オペラの伝統に従っていると見せながら、実は痛烈に「伝統的オペラ」をシャレのめしているのだと見た方がいいだろう。いわばこれは、リゲティ版「古典交響曲」なのである。

 ウリ・セガルが指揮するアンサンブルは、多様複雑な打楽器や効果音楽器(?)を巧みに扱って優れた演奏を聴かせてくれた。歌手陣も松本進(ネクロツァール)、高橋淳(大酒飲みのビート)らをはじめ、精一杯の熱演である。

 やや戸惑うのは藤田康城の演出で、演劇性を追及したとはいうものの、結局は「中途半端なオペラの舞台」に留まってしまった。これまた非合理的で、いかにも日本の舞台だな、という感。世界のオペラ演出には、これよりもはるかに演劇性に富んだものが山ほどある。非合理的なものを合理的に見せてしまうようなものだってあるのだ。もちろん、合理的なもの即ち演劇性であると言っているのではない。

 それに難しいのは、こういう「笑い」を表現することにかけては、残念ながらわれら日本の歌手たちは、およそ不向きだ。今日の上演でだって、客席に笑いが(それもほんの微かに)起こったのは、演技に対してではなく、痔民党とか公迷党とか「アナタトハチガウンデス」とかいった政治ギャグを取り入れた字幕に対してだけだったのである。
 ついでに、今日の字幕に対しては、あまりに言葉が多いと読む方は眼が疲れるものです、という提言だけ申し上げておきたい。

2.6(金)フランス・ブリュッヘン指揮新日本フィルの「天地創造」

   トリフォニーホール

 ブリュッヘンは、いつものように前屈みの姿勢でゆっくり登場し、聴衆の少し心配げな注視の裡に、非常に高い段差のある指揮台に危なっかしく上がって、椅子に腰掛ける。
 ソリストのうち、デイヴィッド・ウィルソン=ジョンソンは、その指揮台の上に譜面を拡げて眺めたり、「虫は地を這う」と歌いながら指で虫をつまんでみせるジェスチュアをしたりと、余裕のステージ姿だ。マリン・ハルテリウスは終始ニコニコと他の歌手や歌詞に反応しつつ、実に楽しそうに歌う。ジョン・マーク・エインズリーは貫禄で、先頃ウィーンで観た「死者の家から」のスクラトフ役でのパンツ1枚で狂乱していたあの姿が可笑しく思い出されるほどの落ち着きぶり。
 ――これらの名歌手たちは、いずれもブリュッヘンの指名により招聘されたという。今回の演奏を充実させた功労者たちである。

 ブリュッヘンが自信満々の裡に始めた「ハイドン・プロジェクト」の初日を飾ったのがこの「天地創造」だ。期待に違わず、ヒューマンな音楽に溢れていた。物語に応じての芝居気や誇張などは一切なく、ひたすら心をこめて淡々と語って行くタイプの演奏だが、音楽が実に温かい。弦がノン・ヴィブラート奏法ながら14型という比較的大きな編成で柔らかい音を出しているため、豊かな厚みのある響きが生れているともいえよう。新日本フィルは、日頃のアルミンクとの共同作業のたまものか、こういった清楚明晰な演奏の領域では非常な強みを発揮する。

 かように第1部と第2部は見事な演奏だったが、このような飾り気のない指揮の場合には、第3部の音楽の構築面での本来の弱さが露呈してしまうのは仕方のないところなのだろうか。
 なおブリュッヘンは、最終合唱の頂点における華麗な声楽パートを、ソリストたちにでなく、合唱(栗友会合唱団)のソリに歌わせる版を使用していた。が、ここはやはりソリストたちの妙技で聴かせてもらった方が私は好きだ。合唱団のソリもよくやっていたが、ソプラニの最初のところで一瞬ヒヤリとさせられたのは事実。だが、ハルテリウスがまたニコニコと彼女らを振り返り、演奏終了後に拍手を贈っていた光景が印象的だった。

 いい演奏だったのに、客席の拍手が意外に薄い。特に1階の客の半数以上は、手先を動かすだけだったり、黙って身じろぎもせず舞台を眺めているだけだったり。どういう人たちなのだろう? 上階席から飛ぶブラヴォーの声が救いだった。


        ☞音楽の友4月号(3月18日発売)演奏会評

2・4(水)シカゴ交響楽団来日公演 4日目(日本最終公演)

  サントリーホール

 プログラムは1月31日のみなとみらいホールと同一(「ジュピター」と「英雄の生涯」)だが、ホールのアコースティックが異なれば演奏の特徴が変わることもあるし、またこちら聞き手の印象も異なって来ることがある。初日と4日目とでは、演奏者のノリが違って来ることもあろう。今回は「音楽の友」のレポートを担当していることもあり、そうした違いの有無を確認するために聴いておくことにした次第。
 それに、31日に聴いたみなとみらいホールの1階24列席は舞台からやや遠く、しかも下手寄り席では客席上後方上手側からのはね返り音が混じることがある。そのため、比較的安定した音響のサントリーホール2階前列中央で聴き直してみる必要もあった。

 詳細は省くが、演奏そのものは今日の方が全体に落ち着いた感じ――ということは、初日の方が、演奏の勢いにおいては若干勝っていたことになろうか。
 「英雄の生涯」では、ホルンの名手クレベンジャーは、今日はそれほど調子が良くなかったようだ。一方コンサートマスターのロバート・チェンは、初日よりもはるかにエスプレッシーヴォに富んだ色っぽいソロを聴かせ、「英雄の気まぐれで愛らしい伴侶」の性格を巧みに描き出していた。ハイティンクも今日はこのソロが気に入っていたのかもしれない。最後のカーテンコールで2度もソロで呼び出された彼は、その都度チェンを一緒に連れて出て来たのである。

 ひときわ美しさにハッとさせられたのは、「ジュピター」第2楽章の主題提示部の後半部分であった。ここでのハイティンクとシカゴ響の演奏には、あたかも天国的な法悦のようなものが漂っていた。モダン楽器オーケストラのサウンドだけが持つ柔らかい、ロマンティックな世界である。先日の演奏では気づかなかった魅力であった。

   音楽の友4月号(3月18日発売)カラー頁記事

2・3(火)シカゴ交響楽団来日公演 3日目

  サントリーホール

ハイドンの「時計交響曲」に、ブルックナーの「第7交響曲」。

 「時計」第1楽章が主部のプレストに入った瞬間、第1ヴァイオリンの何とまあ美しい音色だろうと、うっとりさせられてしまう。初日の「ジュピター」同様、基本的にはかつて聴き慣れていたスタイルの演奏だ。それは、不思議な懐かしさと安堵感を抱かせる。
 ――とはいえ、その美しさにもかかわらず、しばらく聴いていると何か名状しがたい欲求不満を抑え切れなくなってしまうのは、歯切れと切れ味のいいスリリングなタイプのハイドン演奏に惹かれ、それに慣れてしまっている私の好みゆえか。
 もちろん、今日の演奏のようなスタイルもあっていい。たまにこういうのを聴いてホッとするのも悪くない。

 ブルックナーの方は、圧巻だった。コンセルトヘボウ管弦楽団その他の演奏でもよく聴いた「ハイティンクのブルックナー」だから、実は今回のプログラムの中ではさほど大きな期待をしていなかったのだが、彼は昔の彼ならず。クライマックスへの持って行き方も、驚くほど巧い。
 それは、このようなスーパー・オーケストラの演奏で、しかもナマで聴くと一層よく解る。楽章を追うごとに壮大さを増して行く彼の音楽づくりは、シカゴ響の並外れた力量と相まって、物凄い効果を発揮するのである。

 第2楽章の頂点(ノーヴァク版による打楽器入り)を聴いた時には、やはりハイティンク、フォルテ3つの個所でもまだある程度抑制――音量の問題でなく、音楽の昂揚という点でだが――した演奏をするのかと思ったが、どうしてどうして、第3楽章で彼はオーケストラからそれを上回る力感を引き出した。そして第4楽章後半からコーダにかけては、金管群にいよいよ強烈なエネルギーを発揮させて行った。
 シカゴ響の金管も、もうここまでが限度だろうと思わせながら、次の瞬間には更にそれを超える巨大な音の壁としてそそり立って行く。しかもその響きが、驚異的に、全く濁らないのだ。トロンボーンとトランペットとホルンは、信じられぬほどに見事な均質を保ち続けていたのであった。

 並みの演奏なら構成上の弱点をさらけ出しかねないこの第4楽章を、ここまでがっしりと圧倒的に構築して見せたハイティンクとシカゴ響の実力には、最敬礼を捧げるしかない。
 いうまでもなく、弦楽器群の豊麗で厚みのあるカンタービレもすばらしい。第2楽章第2主題はもちろんその好例に違いないが、私はむしろ第3楽章のトリオの後半部分を挙げたい。

   音楽の友4月号(3月18日発売)カラー頁記事

2・1(日)シカゴ交響楽団来日公演 2日目

   サントリーホール

 マーラーの交響曲第6番「悲劇的」が今日のプログラム。

 かつてショルティが日本で指揮したマーラーの「第5番」を思い出させる豪壮華麗な演奏だ。
 とはいえ、ショルティは豪腕でヴィルトゥオーゾを引き出したが、ハイティンクはむしろ自然体で、オーケストラ自らにそれを噴出させるよう仕向けているといったイメージを感じさせる。
 この「悲劇的」でも、ことさら激烈凶暴な音楽を求めることもなく、ことさらオーケストラを咆哮怒号させようともしていない。それでいながら、シカゴ響は楽々と壮大に轟く。大音響の坩堝だが、それが決して刺激的な荒々しさにならないのが、このオーケストラの凄いところだ。
 その一方、第3楽章(アンダンテ・モデラート)の美しさもすばらしい。終結近くの頂点(練習番号61)で弦楽器が歌う主題の、何と熱っぽく、壮麗なことだろう。

 来月はじめに80歳の誕生日を迎えるベルナルト・ハイティンクは、本当に元気だ。聴衆からも今日は彼にソロ・カーテンコールが贈られていた。
 「悲劇的」という副題のイメージとは少し距離のある音楽づくりをする人ではあるけれど、充実感はたっぷり。それに何より、年輪が生む音楽の形容しがたい感動。

 音楽の友4月号(3月18日発売)カラー頁特別記事

«  | HOME |  »

Since
September 13, 2007

これまでの来訪者数

最近の記事

カテゴリー

全記事表示

全ての記事を表示する

RSSフィード

ブログ内検索

プロフィール

リンク

News   

雑誌 モーストリー・クラシック に連載中
「東条碩夫の音楽巡礼記」