2017-10

1・31(土)ベルナルト・ハイティンク指揮シカゴ交響楽団初日公演

   横浜みなとみらいホール

 日本でシカゴ響を首席指揮者ハイティンクとのコンビで聴けるのは、おそらく今回の一連の公演が最後の機会になるだろう。来年からは、ムーティが音楽監督になる。

 オーケストラのアンサンブルをバランスよく、壮麗な響きと温かい音色を以て組み立てることにおいては世界屈指の存在であるハイティンク。
 何年か前のザルツブルク・イースター音楽祭で、ベルリン・フィルがラトルの指揮でかなりがさついた音を出していた時、ある日客演で登場したハイティンクが指揮したベートーヴェンの「ミサ・ソレムニス」が、何とヒューマンな音楽に聞こえたことか。

 それゆえ今回のシカゴ響との演奏も、いたずらに咆哮する音楽ではなく、滋味と美しさに富むものになるだろうとは、もちろん予想されたこと。
 モーツァルトの「ジュピター」は、響きからしても伝統的なスタイルの演奏で、私の好みからは既に少々外れたところにあるが、その穏当な壮大さはやはり立派なものだ。
 一方、R・シュトラウスの「英雄の生涯」も同じように何ら作為的な仕掛けのない解釈だが、ここではさすがにオーケストラの卓越した輝きが見事である。演出的な誇張が無くても、それ自体のサウンドが充分にドラマティックな音楽を創り出してしまう。
 本当に優れたオーケストラは、叙情的な個所で雄弁さを発揮することが多い――「英雄の伴侶」後半での豊麗さ、全曲の終結近くでの安息の美しさ。

  音楽の友4月号(3月18日発売)特別記事

1・29(金)ペーター・シュナイダーと東京フィルの「指環」

  サントリーホール

 ペーター・シュナイダー指揮の東京フィル、先日とは段違いに呼吸が合って来ている。

 前半のベートーヴェンの第4交響曲は、久しぶりに聴く「よき時代のドイツ風ベートーヴェン」(これまた曖昧な言い方だが)と言ったらいいか、柔らかくスケールの大きい、しかも重心の低い、どっしりした音楽となった。内声部はたっぷりと響き、音の密度も非常に高い。倫理的で高貴な風格を持ったベートーヴェン像とも言うべきか。

 後半には「ニーベルングの指環」抜粋――例のヘンク・デ・フリーガーが編曲した「オーケストラル・アドヴェンチャー」というメドレー版である。
 ベテランのシュナイダーは、下手をすればモンスター的なイメージになりかねないこの長大な曲を、さすがに巧くまとめてくれた。少し職人的な要領のよさはあるが、最大の強みは、やはり長年ワーグナーを指揮して来たことで身についたその独特の「味」だろう。
 なにより、長い全曲の最後、「神々の黄昏」を締め括る「救済の動機」が、まさに終着点のイメージを感じさせ、その瞬間に「ラインの黄金」冒頭からここまでの長い出来事を一望に回顧する思いを抱かせたこと。これは、私には今回が初めての体験だった。過去にもこの編曲版はエド・デ・ワールトの指揮などによりナマで二度ばかり聴いたことがあるが、そのいずれの時にもこんな感情は起こらなかった。

 全曲冒頭、ホルンの「生成の動機」の音量が非常に大きすぎ、続いてチェロ他に現れる「ライン河の動機」が全く聞こえなかったことにはすこぶる疑問があるけれども、それ以外は概して聴き応えのある演奏だった。個人的な好みからいえば、「ジークフリートの葬送行進曲」をあのような速いテンポで演奏することには絶対反対である――とはいえこれは解釈の違いなのだから、文句を言っても始まるまい。
 落ち着いた指揮振りのシュナイダーのもとで、東京フィルは阿修羅のごとき力演。「ジークフリートの角笛」でのホルンのソロも見事だった。オペラのピットでも、いつもこういう演奏をしてくれれば文句ないのだが――とにかくお疲れ様でした、いい演奏でした。

1・27(火)「日本管弦楽の名曲とその源流」
~HKグルーバー指揮東京都交響楽団

  サントリーホール

 一柳慧のヴァイオリン協奏曲「循環する風景」および交響曲第2番「アンダーカレント」を軸として、前後にジョン・ケージのバレエ音楽「四季」と、ジョン・コリリアーノの「ファンタスマゴリア」(日本初演)を配した個性的な選曲。
 これも定期である。東京都響得意のプログラムだ。

 外国人の作品2曲は、これが「源流」なのかねえという気もするし、そう言われればそうなのかなという気もする。しかしともかく、際立ったのはやはり一柳の作品2曲だった。
 最後の「ファンタスマゴリア」は、「セヴィリャの理髪師」のパロディなども顔を覗かせる華やかな曲で、それまでの緊張を解いて楽しくお聴き下さいというような感じでもあったが、もちろん面白い。

 指揮をしたのは、現代音楽の指揮で有名な、HKグルーバーことハインツ・カール・グルーバー。
 ノリントンみたいに賑やかなステージ・アクションの人だが、さすがに現代作品は巧い。オーケストラを明晰に響かせ、見通しの良い構築を行ない、作品全体をきわめてバランスよく構成する。特に「アンダーカレント」での、ちょっとサスペンス映画の音楽のような不気味な緊迫感など、なかなか見事に描き出していた。
 この曲を含め、今日は、4つの作品がすべて生き生きとした活力を以て甦っていたように感じられ、大いに聴き応えがあった。都響もいい演奏をしてくれていた。

1・25(日)ペーター・シュナイダーが東フィルで
「ばらの騎士」を指揮

   オーチャードホール

 最初の「ジュピター」は、特にシュナイダーでなくてはならないというほどの演奏とは思えなかったが、第2部に置かれたR・シュトラウスの作品2つ――「ばらの騎士」組曲と「サロメの7つのヴェールの踊り」には、やはり独特の雰囲気があった。

 「ばらの騎士」冒頭のホルン。
 先年の新国立劇場で東フィルがシュナイダーの指揮で全曲を上演した際には、そのホルンのあまりの貧弱な音に切歯扼腕させられたものだが、今日は打って変わって朗々と鳴り響いた。やれば出来るじゃありませんか。

 が、全体の演奏としては――「サロメ」もそうだったが――どうも一つ、オーケストラが引き締まらない。2日前の上岡=読売日響の、あの緊迫感溢れる豪壮な演奏に感銘を受けた後では、なおさらだ。
 シュナイダーという人は、私の勝手な思い込みによれば毎場所平均「10勝5敗」の指揮者だという印象なのだが(あくまで「平均」である。13勝2敗の時もある)、今日は「9勝6敗」くらいの出来か。
 

1・24(土)ラン・ラン・ピアノ・リサイタル

  サントリーホール 6時

 1時間前に終った菊池洋子のリサイタルの最後の曲目と偶然にも同じ「変ロ長調K.333」のソナタで、こちらラン・ランの演奏会は開始された。
 当然ながら全く違うスタイルゆえ、何か突然異なる世界に飛び込んだような思いに襲われる。どちらが良い悪いの問題ではないが、私の場合には、ラン・ランのしなやかで柔らかく甘く囁くようなモーツァルトを聴いていると、さっきの菊池洋子の端正で張り詰めた清冽なモーツァルトがたまらなく懐かしくなって来るのであった。

 しかし、ラン・ランはさすがに当代の腕達者である。続くシューマンの「幻想曲」で俄然な豪壮な演奏に転じたかと思うと、瞬時に沈潜して行く(この第1部はちょっと長かった)。
 後半のプログラムは、中国の5人の作曲家による5つの小品に始まり、グラナドスの「愛のことば」、リスト編曲によるワーグナーの「イゾルデの愛の死」、そしてリストの「ハンガリー狂詩曲第6番」と続く。ここで遺憾なく発揮されたのは、彼のヴィルトゥオーゾぶりだ。
 特に最後の曲のクライマックスで彼がピアノを縦横無尽に操る光景は、その昔の映画「カーネギーホール」でルービンシュタインが殆ど頭の高さまで両手を振り上げつつ大見得を切って「火祭りの踊り」を演奏した姿を連想させる。満席の聴衆が熱狂したのも、むべなるかな。

 もっとも私は、このあたりまで来ると、もはや彼の凄まじい演奏のエネルギーに、へとへとに疲れてしまっていた。間に1時間の空白があったとはいえ、延べ5時間以上、2人のピアニストの演奏を真剣に聴いて来たのだから。
 だがラン・ランの馬力たるや、物凄い。彼はこのリサイタルの2時間ほど前にも、もう一つ、同じくらいの量のあるリサイタルをこのホールで行なっていたのである。若さというものだろう。

1・24(土)菊池洋子の
モーツァルト・ピアノ・ソナタ全曲演奏会第1回

  紀尾井ホール (マチネー 3時)

 7年前のモーツァルト国際コンクールに優勝、翌年ザルツブルク音楽祭にデビューした菊池洋子のモーツァルト・ツィクルスが、ついにスタートした。
 第1回は「ハ長調K.279(189d)」「ニ長調K.311(284c)」「ハ長調K.330(300h)」「変ロ長調K.333(315c)」のソナタに、「幻想曲ニ短調」と「ロンド イ短調」を組み合わせたプログラム。

 プログラムの前半をフォルテピアノ、後半をモダン・ピアノで演奏するという趣向で、これは今後の演奏会でも継続して行くという。
 フォルテピアノによる演奏の方が緊迫感がより強く、しかもニュアンスの細かさが感じられたが、モダン・ピアノに変わってからもその歯切れのよいタッチが引き継がれているので、音楽のコンセプトは不変のままに楽器の音色の違いが楽しめるということになろう――もっともそれはこちらの単純な受け取り方であって、ご本人には別の、もっと深い意図があるだろうと思う。

 第2回のコンサートは2月21日に開催される。

1・23(金)上岡敏之指揮 読売日本交響楽団定期

  サントリーホール

 上岡敏之はこれまで何度も読売日響に客演しているが、回を重ねるごとに、演奏に表われる彼の感情と形式感とが一体化して来ているように思える。そして読売日響も、上岡が突きつける個性的な音楽に対し果敢な挑戦を行ない、自らの多様な表現力を誇示してみせているように感じられる。

 この日、彼らが創り出した音楽は、両者の実力と気迫が正面から激突して生れた果実だったとも言えよう。マーラーの《アダージョ》での、随所に現われる強烈なアクセントや、破壊的なほど刺激に富んだ最強奏と最弱音との対比による表現主義的なイメージはその一例であり、またヨゼフ・シュトラウスの《隠された引力~デュナミーデン》およびR・シュトラウスの《ばらの騎士》組曲における変幻自在なテンポが生む流動感と緊迫感も同様である。

 更に完璧だったのは、フランク・ブラレイをソリストに迎えたモーツァルトのピアノ協奏曲第23番であった。ブラレイが颯爽と突入した終楽章では、清冽なソロと、歯切れのよいオーケストラとが見事に対決していたが、特に最後の数小節で上岡は弦を鮮やかに盛り上げ、あたかもオペラのクライマックスにも似た終結感を生み出したのであった。

 これほど強烈な手ごたえを感じさせた演奏は、今年になって最初のものである。ツワモノぞろいの読売日響をよくぞあそこまで「引きずり回した」ものであり、また読売日響の方もよくぞあそこまで応えて見せたものだ。そこがお互いの相性の良さなのだろう。

 満員に近い客席、上岡に向かって飛ぶ拍手とブラヴォー、サインを求める長蛇の列、やっと上岡の日本での人気も確立されたようで、うれしいことである。

  音楽の友3月号演奏会評 

1・22(木)ドミートリー・キタエンコ指揮NHK交響楽団

  サントリーホール

 「エグモント」序曲に、プロコフィエフのピアノ協奏曲第3番、「悲愴交響曲」。
 いささかの芝居気も誇張もなく、ひたすら生真面目にスコアに取り組む、といったタイプの演奏だ。スリリングな面白みはないけれども、「悪達者なケレン」の全くないところが構えずに聴けるゆえんか。「悲愴」の第1楽章再現部での息の長い昂揚、第4楽章後半での我意のない詠嘆の表情など、悪くなかった。

 協奏曲でのソロは上原彩子。最近の彼女の進境は著しい。今日はちょっと重い演奏にも感じられたが、キタエンコとN響の地味な演奏の中にあって、唯一明るく輝いた音楽だった。

1・21(水)児玉宏が東京シティ・フィルハーモニック管弦楽団に客演

   東京オペラシティコンサートホール
  
 プログラムが一風変わっていた。
 バッハの作品を編曲して「賢い乙女たち」というバレエ組曲にしたウォルトンの作品が最初に演奏され、次に1920年代のドイツの流行歌「膝でどうするハンス君よ」による変奏曲「ドイツ流行歌の愉快な遊び」(舩木篤也氏の解説文に拠る)なるカール・ヘルマン・ピルナイ(1896~1980)の作品が取り上げられた。
 よくまあこんなめずらしい曲を探して来たものだと感心させられるが、すべて指揮者の発案だったそうである。

 就中、この11の変奏からなる「ドイツ流行歌の愉快な遊び」は、主題に古今の大作曲家の有名な曲の形をものの見事に応用して――「魔笛」序曲、「セビリャの理髪師」序曲、「アイーダ」大行進曲、「蝶々夫人」登場場面の音楽、R・シュトラウスの「ドン・ファン」、リストの「ピアノ協奏曲第1番」や「ハンガリー狂詩曲第2番」などといった名曲の中に主題を巧みに取り入れて作ったもので、それはもう吹き出したくなるほど上手くできていた。この種の「お笑い」は古今数々あるが、その中でもこれはなかなか凝った面白い作品であろう。
 後半はプロコフィエフの「交響曲第7番」で、これは児玉宏が大阪シンフォニカー響の音楽監督・首席指揮者就任記念定期演奏会(昨年6月20日)にも取り上げた曲である。

 東京シティ・フィルがこれだけ多彩な音色を出し、豊かな表情の音楽を創ったことはうれしい驚きだ。
 最初の「賢い乙女たち」では、ウォルトンの音楽というより、まさにバッハのコラールのイメージにふさわしい音色を朗々と響かせた。管と弦との絶妙なバランスもさることながら、「オルガンにも似て、しかしやはりオーケストラ」――というあの独特のサウンドが最良の形で発揮されていたのである。

 「第7交響曲」は、このところナマで立て続けに聴く機会があったゲルギエフ=ロンドン響や、ラザレフ=日本フィルのそれとも、全く異なる。今回の児玉と東京シティ・フィルのそれは、柔らかく精妙で、並外れたカンタービレとエスプレッシーヴォに満ちた演奏であった。
 いわゆるプロコフィエフのイメージとは異なる演奏ではあったが、私はこれを聴いて、プロコフィエフの精神が、もはやソ連の音楽界だの民族主義だの現代音楽手法だのといったしがらみから全く離れ、はるか遠く高く、この世ならざる世界に飛翔して行っていたのではないか、という幻想に引き込まれていたのである。プロコフィエフの死が、この曲の完成から1年後に迫っていたことを思いおこすと、この幻想も何か身の毛のよだつものになる。

 こんな印象は、昨年ザ・シンフォニーホールで大阪シンフォニカー響との演奏を聴いた時には、得られなかった(6月20日の日記)。
 オーケストラの違い、ホールの音響効果の違い、いろいろな要素もあると思われるが、少なくとも今日の東京シティ・フィルが、児玉の精妙な指揮により良く反応していたことはたしかであろう。

 児玉宏の指揮には以前から注目していたが、今回の演奏を聴いて、やはりすばらしい実力を持った指揮者であるという感を強くした。彼の指揮は、大阪シンフォニカー響との演奏が、東京でも3月20日のトリフォニーホールで聴ける。
 

1・18(日)飯森範親指揮山形交響楽団の
ブルックナー「交響曲第5番」

   山形テルサホール(マチネー)

 「つばさ109号」で、正午前に山形に入る。予想に反し、雲一つない晴天。残雪の山形市内は、澄んだ空気が快い。

 飯森と山形響がブルックナーの交響曲を手がけるのは、先頃の「4番」に次いで、これが2度目だ。
 今回も弦は10-8-6-6-4の編成。だが、楽器のバランスさえ巧く設定されていれば、オーケストラの響きは、決して小編成というイメージにはならないのである(これは「4番」の時にも証明されている)。管にしてもスコアでは木管は2管編成だし、金管もホルン4(+アシスタント1)、トランペットとトロンボーン各3、バス・テューバ1という編成なのだから、楽譜通りにやるのであれば、山形響としては、せいぜい2~3人のトラを調達するだけで事足りることになる。
 ブルックナーの交響曲といえばとかく超大編成というイメージがあるが、少なくとも中期の作品までは、ロマン派初期の交響曲までの編成で基本的に充分に演奏が可能なのだ。「5番」第4楽章最後のクライマックスで金管の大軍を補強するなどという手法は、あくまでオプションである。

 たしかにこの飯森=山響の「5番」は、いわゆる広大無辺な響きをもつブルックナーではなかったかもしれない。だがそれは、客席数800程度のこのホールのアコースティックにも由るだろう。私は時に目を閉じ、弦の編成のことなどを全く考えずに聴いていたのだが、これはまぎれもなくブルックナーの響きであり、まさしくあの堂々たる「第5交響曲」になっていることが感じられたのである。それは筋肉質的に引き締まった演奏で、緻密に凝縮されたブルックナーであった。

 特に感心させられたのは、第4楽章終結の個所。
 ふつう、このあたりは、バテバテになった金管群が、数を恃んでやけっぱちのように咆哮し、アンサンブルのバランスも雑になってしまうことが多いのだが、この日の山響の――スコア通りの数の金管群は、最後まできちんと形を崩さずに、実に明晰かつ整然たるバランスで吹いてのけたのである。その結果、トロンボーンとテューバおよび低弦群によるオクターヴの跳躍のリズム(ハース版第624小節以降)が明確に浮かび上がって来て、音楽がスコア通りの律動感に富むものになっていたのだった。
 この数小節を、これほど躍動的に演奏できた例は、めずらしいと言っていいだろう。

 総じてこれは、まことに驚異的な演奏であった。飯森が音楽監督として率いる山形響は、いよいよ快調のようだ。10年前の山響と比較すると、その水準は、隔世の感がある。

 演奏会は例のごとくライヴ収録されていたが、これは別にセッション録音されてCD化されるとのこと。おそらくライヴの方が勢いがあって良いのではないかと思うのだが――まあ、そのへんはどうなるか。

1・17(土)ラザレフと日本フィルの
「プロコフィエフ・ツィクルス」第1弾

  サントリーホール

 アレクサンドル・ラザレフが日本フィルの首席指揮者に就任するにあたり、最初に掲げた看板がこのプロコフィエフの全交響曲の連続演奏である。その第1回が1月定期に組み込まれて、いよいよスタートの運びとなった。

 結果は、ともかくも上々の出来と言って間違いない。
 第1回に取り上げられたのは、第1番「古典交響曲」と、第7番「青春」。

 ラザレフは、前者を比較的端整に、形式美を重視するような形で演奏し、それと対照的に後者を非常にラディカルに荒々しく、近代音楽家としてのプロコフィエフ像を擁護するような解釈で描き出して見せた。
 つまり「7番」については、所謂平易な「保守回帰」路線でなく、むしろ逆に、晩年までアイロニー精神を貫いた作曲家の遺言のような性格を聴き手に感じさせる、といった演奏だったのである。そして特に最後が消え入るように終る「原典版」の第4楽章においては、プロコフィエフの心情に何か異様な絶望感と虚無感が漂っていたことが、鮮やかなほど浮き彫りにされたのであった。「青春」などというサブ・タイトルが如何に無意味なものであるかを証明する一例である。
 こういったラザレフの解釈は、先頃のゲルギエフとはまた異なったスタイルのものとして、非常に興味深い。
 全曲が終った後、彼はアンコールの形で第4楽章の後半を――賑やかな結尾を持つ版で比較演奏して聴かせた。ほんの数小節が付加されただけで、作品の性格はこんなにも正反対になってしまうのだ、ということを明快に提示してみせたラザレフの指揮である。

 猛烈な練習の甲斐あって、日本フィルの演奏も、1週間前とは格段の差を示した。いつも肝心の聴かせどころでコケるトランペット群にはもっとプロ根性を見せてもらいたいが、弦は充分鳴っており、しかも全合奏においても音色に明晰さが蘇っていた。

 2曲の間に演奏されたモーツァルトの「協奏交響曲K.364(320d)」が、漆原朝子と今井信子のソロを含め、実に良かったのも嬉しい。特に第3楽章など、夢のような美しいハーモニーになっていた。日本フィルからこんなに綺麗な音を聴けたのは、なんか久しぶりのような気がする。

 ともあれ日本フィルには、この勢いで復活の道を驀進してもらいたいと願うこと切である。また変な指揮者によってアンサンブルがバラバラにされなければいいと思うが、そうなったらもうむしろオーケストラ自身の責任といわねばなるまい。
 客席はすでに満員。一頃は定期もガラガラだったことを思えば、祝着の極みだ。

1・16(金)小澤征爾指揮新日本フィルのブルックナー「1番」

  すみだトリフォニーホール

 さて、何と書いたらいいものか?
 小澤征爾がブルックナーを指揮するのは、もちろんこれが初めてではない。あながち向いていない作曲家ではないとは思われるが、といって小澤の個性がより良く発揮されるというレパートリーとも思えない――。

 今回の「交響曲第1番」にしても、たしかに音楽のダイナミックな推進力、クライマックスへ向けて盛り上げて行く設計の巧さなどに関しては、全く異論はない。このあたりは、いつもの小澤らしく、見事なものである。

 だが問題は、それが強弱の対比――デュナーミクの設計の面だけにとどまっており、楽器のバランスの変化――つまり音色の変化の面については全く配慮されていない、ということにある。
 それゆえ、突き進む音楽はあまりに色合いに乏しく、金管と弦との対比も曖昧で、ブルックナーの音楽――たとえ初期の交響曲においても――に欠かせぬ清澄で高貴な響きも失われ、ただ混然たる一塊の音響に止まってしまう。
 特に、トランペットとトロンボーンが最強奏で参加した時のオーケストラの響きの濁りは著しい。新日本フィルには、時々このようなことがある。この点に関する限りは、N響、東京響、読売日響の後塵を拝する結果になるだろう。

 前半は、ハイドンの「協奏交響曲変ロ長調」。小澤=新日本フィルとしては、おそらく37年ぶりの演奏だろう。忘れもしないあの「新日本フィル第1回定期公演」での演奏は、私がFM東京所属時代に録音して放送したものでもあるが、当時の小澤のリズムには切れ味があった。今や音楽もかなり重くなっている。が、それは彼の変貌ゆえ致し方ない。
 今回は豊嶋泰嗣(ヴァイオリン)と花崎薫(チェロ)のソロは目立ったが、ファン=マヌエル・ルンブレラス(オーボエ)と河村幹子(ファゴット)の音はテュッティの中に埋没気味だった。それは1階席で聴いた印象なのだが。
  音楽の友3月号(2月18日発売)演奏会評

1・15(木)
読売日本交響楽団が演奏するシューベルトの「冬の旅」

  サントリーホール

 リンツ生れの指揮者ワルター・グガバウアーが客演して、モーツァルトの「交響曲第40番」と、シューベルトの「冬の旅」(!)を指揮した。何となく曲の組み合わせがサマになっている。

 「40番」は昔、小遣いを貯めてトスカニーニのレコード(SPだった)を買い、だいじに抱えて帰って来て、テレフンケンの電蓄にかけてむさぼるように聴き入った時、2,3日前に降った雪に夕陽が木立を通して穏やかに光を投げかけていた庭の光景に音楽がぴったり合い、名状しがたい陶酔感に浸ったものであった――。
 それはともかく、今日の演奏は、久しぶりに聴く、柔らかいサウンドのモーツァルトだった。どんなスタイルの演奏であろうと、良い曲は良い曲に変わりはない。すべての反復を遵守していたが、第2楽章はテンポが速いので、演奏時間はさほど長くはない。

 後半は、ピアノ・パートを鈴木行一がオーケストラに編曲した「冬の旅」だ。
 以前、岩城宏之指揮のオーケストラ・アンサンブル金沢とヘルマン・プライの歌によるCDで聴いた時には、所詮ゲテモノの域を出まい、と感じたのだが、今日改めてナマで聴いてみると、案に相違してなかなか良くできていると認識を新たにした次第である。
 これは、弦12型という、大きからず小さからずの編成で演奏されたため、適度な空間的拡がりをもった響きで聴けたからでもあろう。弦のトレモロを有効に使ったり、木管を巧く組み合わせたりして、厚みのあるオーケストレーションをつくっているこの編曲の特色は、ナマ演奏での方がよく解る。

 このアレンジで聴くと、なるほどこの曲は、まさに独墺ロマン派の時代が生んだ子なのだ、という思いにさせられる――このオーケストレーションには、ウェーバー、メンデルスゾーン、シューマン、ワーグナーら(ついでにヴェルディまでも!)が、みんな顔を覗かせているからである。
 最も成功している編曲は「旅籠屋」(第21曲)である。ゆったりと長く引き伸ばされる表情豊かな響きは、これはもうオーケストラにしかできない大ワザであった。

 とはいえ、もちろんこれは、一長一短である。
 最大の、しかも致命的な欠点は、メリハリがなく、ただ叙情的に甘く流れすぎること。シューベルトがピアノ1台であれほど凄絶に描き出した深淵、身の毛もよだつような絶望感や虚無感、激烈な感情の高まり、といったものが、この編曲では、ものの見事に欠落してしまっているのである。
 これなくしては、「冬の旅」は成立しないのだ。となると、やはりこのオーケストラ編曲は、一種のゲーム程度のものに留まる、ということになってしまうか。

 もっともこれは、演奏に因るところが大きいかもしれない。グガバウアーは、いくつかの個所を除いて、オーケストラにソット・ヴォーチェを保たせ、延々と平板に演奏させた。また、バリトン・ソロのフローリアン・プライは、父へルマン・プライよりもずっとリリカルな声質を持っている人のようだが、このなだらかでメリハリのないオーケストラに合わせたのか、これまた劇的な要素の全くない歌い方をしていた。

 思えば、歌とピアノだけであれほどの壮絶な世界を創り出したシューベルトの凄さ!

1・14(水)庄司紗矢香ヴァイオリン・リサイタル

  サントリーホール

 シューベルトの「ソナティナ第3番」で、主題とその確保を、あたかも歌曲で登場人物のダイアローグをさまざまな音色で描き分けるかのように演奏するやり方――かつてのグリュミオーなどはこれが実に巧かったものだが――庄司紗矢香も今やそれを自分なりの形で楽々と手に入れているようだ。

 この細やかなニュアンスの変化は、プログラムの最後に演奏されたベートーヴェンの「ソナタ第7番」でも発揮されており、第1楽章などでは「アレグロ・コン・ブリオ」の裡に隠されていた叙情味が浮き彫りにされる。世の中にはベートーヴェンの演奏に際して力感を重視するあまり、pをもフォルテにしてしまう演奏が多いものだが、彼女はスコア通り、pはまさにpで再現する。全体にソット・ヴォーチェのカンタービレが多用されているようなイメージになるのもそのためかもしれない。
 いずれの曲でも、気心知れたパートナー、イタマール・ゴランが創る重心豊かな音との呼吸の合った対比が興味深い。彼女の音色には、以前よりも更に艶麗さが増したようだ。

 2曲目におかれていたのは、ブロッホの「ソナタ第1番」。2人が織り成す轟然たる力感と雄弁な表情が見事。今夜の演奏の中で最も強烈な印象を与えられたのは、この曲であった。
 3曲目には彼女の委嘱で昨年夏に作曲されたアヴナー・ドルマンの「ソナタ第2番」。プログラムに作曲者自身が書いている御託宣ほどには面白い曲ではないが、第1楽章で中央アジア的な旋律がしばしば顔を覗かせるのにはニヤリとさせられる(この人の作品は、オーケストラ曲の方が私は好きだ)。
 アンコールは、チャイコフスキー、クライスラー、ショスタコーヴィチなどの小品5曲。

1・13(火)井上道義指揮オーケストラ・アンサンブル金沢のベートーヴェン

  横浜みなとみらいホール
   
 ベートーヴェンの「エグモント」序曲、「皇帝」、第7交響曲というプログラムを携えて、8日から23日まで、札幌から広島にいたる「全国ツァー」を実施中。

 序曲と交響曲は、鋭いアタックとリズム、それに戦闘的な響きが重視された「いまどき風」のベートーヴェンである。小気味良いけれども、かなりメタリックな音色になってしまい、そんなにガリガリ弾かなくてもいいんじゃないかと思わせられることがしばしば。
 だがアレグレットの第2楽章だけは、一種の陰翳も加わり、強弱の起伏というよりは、近づいてはまた遠ざかる風景を見るかのような、面白い幻想に浸らせてくれた。

 井上はあまり細かく振らず、ただ音楽のイメージをオーケストラに与えるような指揮ぶりで、コンサート・ミストレスのアビゲイル・ヤングを信頼して任せるといった感。オーケストラとの呼吸も充分に合った状態にあるのだろう。ただ、フルートとオーボエは、もう少し頑張ってもらいたいところだ。

 「皇帝」のソロは、人気上昇中のアリス=紗良・オット。
 音楽のイメージは軽やかだが、まっすぐに正面から作品に挑み、爽快かつ明朗清澄な「皇帝」を構築しているところが好ましい。時に小さく音が揺れることがあっても、テンポ感が実に安定しているため、破綻に結びつくことがないのである。
 正直なところを言えば、いきなり「皇帝」でなくても――という印象が残るのは事実だけれど、その挑戦の姿勢を好しとしたい。ソロ・アンコールはリストの「ラ・カンパネッラ」。
 しかし、とにかく可愛いですね! カーテンコールでの笑顔の、何と爽やかでチャーミングなこと。聴衆の心をいっぺんにつかんでしまう。

 オーケストラのアンコールは、何と「篤姫」のメイン・テーマだった。この曲、以前から思っていたのだが、武満徹の映画音楽「波の盆」からの影響が大きいようである。
   音楽の友3月号(2月18日発売)演奏会評

1・11(日)再びアレクサンドル・ラザレフ指揮日本フィル

   東京芸術劇場

 満々たるファイトのラザレフに率いられた日本フィル。今日はマチネーの「サンデー・コンサート」で、昨日とは全く異なるプログラムである。メインのチャイコフスキーの「第4交響曲」は、昨日の「新世界」よりも成功していたように思う。

 冒頭に演奏されたリストの「レ・プレリュード」(最近はめったにナマで聴けなくなった曲だ)とともに、演奏全体を貫くのは、ラザレフのオハコともいうべき、強烈なデュナーミク――つまり強弱の著しい対比。
 金管とティンパニは会場を揺るがせるほどに轟く。その一方で、弦楽器の最弱音はほとんど聞き取れぬほどの音量にまで下がる。この弦の最弱音――ラザレフはチャイコフスキーの第1楽章と第2楽章でこれを多用した――は衝撃的だ。木管の音量の方はスコアの指定どおりであるため、聴き手は弦が「落ちた」のではないかと一瞬錯覚を起こし、ギクリとさせられてしまうほどなのである。

 そのピアニシモはなかなか良いのだが、全合奏に至った時に、日本フィルの弦には総じてもっと厚みのある「鳴り」が欲しい。今日も弦は金管やティンパニの咆哮に打ち消されることが多く、せっかくの熱演にもかかわらず、もどかしさを感じさせることがしばしばあった。管も充分に力強いけれども、相変わらず粗っぽいのが難点である。これからの課題であろう。
 上記2曲の間には、小山実稚恵のソロで、リストの「ピアノ協奏曲第1番」。

1・10(土)デイヴィッド・ジンマン指揮NHK交響楽団定期

  NHKホール 夜6時

 ジンマン初のN響客演とあって、かなりの注目を集めた。

 シューベルトの「ザ・グレイト」は何のケレンもない正攻法の演奏だったが、初顔合わせのせいか、オーケストラがしっとりとまとまって来たのは第2楽章も中盤になってから。
 いずれにせよ、このように音が柔らかく揺れ動く、時にリズムが弱音の中に溶け込んで行くタイプの演奏は、本来はNHKホールのようなドライで巨大な会場で聴くべきではなかろう。

 むしろ今夜は、前半に演奏されたショスタコーヴィチの「ヴァイオリン協奏曲第1番」におけるリサ・バティアシュヴィリ(プログラムでは何にも触れられてないが、グルジア出身)という若い美女ソリストの、精悍で明晰な、切り込むような気迫を持った演奏の方に魅惑された。
 あの長いカデンツァで、ゆったりした部分から荒々しい昂揚へと緊迫感を次第に高めて行き、ついにフィナーレの「バーレスク」に飛び込むあたりなど、実に見事な設計の演奏である。まだ20歳そこそこらしいが(失礼、訂正。今年30歳。しかしこの訂正はかえって失礼ですね。年齢の件はお忘れ下さい)、ここにもまたすばらしい女性ヴァイオリニストが1人。
   音楽の友3月号(2月18日発売)演奏会評

1・10(土)アレクサンドル・ラザレフ指揮日本フィルの「新世界交響曲」

   サントリーホール・マチネー

 昨年9月、首席指揮者に就任したアレクサンドル・ラザレフが、いよいよ始動。
 「名曲コンサート」から、今回は都合で「新世界交響曲」のみを聴く。
 
 リハーサルでは、かなりギリギリしぼったらしい。その効果はたしかに表われているし、ラザレフが目指す方向も良いと思われる。が、この荒れたアンサンブルの日本フィルを立て直すのは、一朝一夕には行かないようだ。願わくばこのラザレフの就任を突破口に、オーケストラも今日の演奏に示していたような気迫をもって、背水の陣で臨まれんことを。

1・9(金)ヒラリー・ハーン・ヴァイオリン・リサイタル

   横浜みなとみらいホール

 一昨日の「コラボレーション」とは別に各地で彼女が行なっているリサイタルは、ピアノのヴァレンティーナ・リシッツァとの協演だ。
 プログラムは、イザイの無伴奏ソナタ2曲(4番、6番)と「こどもの夢」、アイヴズのソナタ3曲(1,2,4番)、ブラームスの「ハンガリー舞曲集」(7曲)にバルトークの「ルーマニア民族舞曲」といったもので、きわめて個性的な選曲と組み合わせである。

 リシッツァも決して悪いわけではない。が、ヒラリーのパートナーとして聴いた場合には、どうしても凡庸に感じられてしまう。アイヴズのソナタなどでは、耳と心を捉えるのはヴァイオリンだけ、ということになる。
 それゆえ一昨日と同様、無伴奏でヒラリーが弾いたイザイのソナタがやはり圧倒的な印象だ。音の美感は言うまでもないが、それ以上に彼女のリズム感覚のすばらしさは驚くべきものである。まさにそれが、優れた造型を生み出して行く。イザイのソナタにおいて、これほど作品を見通し良く構築し、フォルムを明晰に描き出した演奏は、決して多くはないだろう。

 ロビーで池辺晋一郎さんに出会ったら、「さすがヒラリー、ハーンパ(半端)じゃない」ですと。

1・8(木)アントネッロ第2回定期公演「聖母マリアのカンティガス」

   東京文化会館小ホール

 これほど面白いコンサートは、そう多くはないだろう。
 アントネッロ――濱田芳通(リコーダー、コルネット他)、石川かおり(フィーデル)、西山まりえ(歌、ゴシック・ハープ、オルガネット他)の基本メンバー3人に、今回は春日保人(歌、ヴォーカル)ら7人が参加。13世紀のカスティーリャ国王アルフォンソ10世編纂の写本「聖母マリアの頌歌集」による曲集を演奏した。

 これは2年ほど前にスタジオ録音されたアルバム「薔薇の中の薔薇」(AMOE-10001)と同一メンバー、同一曲集による演奏だが、そこはやはりナマ・ステージの強み。はるかに自由で闊達で、空間的にもふくらみのある、生き生きとした音楽が創り出されていた。

 所謂「古楽」などという概念では言い尽くせぬこの摩訶不可思議な世界――オリエント的でグローバルで、野生的で官能的で、リズミカルでスウィンギーで、陶酔的なほど美しいハーモニーを備えた音楽は、ナマ演奏で聴くと、2時間があっという間に過ぎてしまう。 
 それに、一人でいろいろな楽器をこなし、迫力ある地声のヴォーカルも披露するアントネッロのメンバーたちの、達者なこと。
 特に西山まりえの多芸多才ぶりは、相変わらずすばらしい。今日も「すべての聖人たち」という曲で彼女の演奏したカスタネットの、巧いのなんの!(予備知識なしに初めてアントネッロを聴きに来た人は、彼女がチェンバロの名手でもあって、バッハの「ゴルトベルク変奏曲」その他の見事なCDをたくさん出していることを知ったら、びっくりするだろう)。

 とにかく、百見は一聞に如かず。このアントネッロの演奏はおすすめである。たくさん演奏会があるので、以下のサイトで確認されたい。
古楽アンサンブル アントネッロ公式サイト

1・7(水)ヒラリー・ハーン&ジョシュ・リッター コラボレーション

   東京オペラシティコンサートホール

 ヒラリーが無伴奏で演奏したのは、バッハのソナタ(2番)、イザイのソナタ(5番)、エルンストの「夏の名残のばらの主題による変奏曲」及び「魔王による奇想曲」など――さすがに美しく、緊迫感にあふれる演奏だ。
 彼女は、以前よりいっそう音楽にスケールの大きさを増した。清純ながら艶やかな音色で瑞々しいカンタービレを聴かせつつ、きわめて安定したリズム感をもって、作品すべてに毅然とした構築性を導入して行く。本当に彼女は、聴くたびにすばらしくなっている。

 来日公演の初日の今日だけは、フォークのシンガーソングライター、ジョシュ・リッターとの「コラボレーション」というコンサート。
 彼がギターを弾きながら歌う(PAつき)柔らかいフォーク・ソングの数々はなかなか美しいが、いささか単調で、しかも長い。
 しかし、それにヒラリーが入れるヴァイオリンのオブリガートの方は、音色も旋律も、なんとも魅力的だった。これがもし即興的なものだったとすれば、彼女のセンスはたいしたものだろう。
 私はもともとフォークは嫌いではないし、かつて放送局勤務時代にはその種の番組も作ったことがあるくらいだ。が、今日の演奏会では、ヒラリーのヴァイオリンが聞こえはじめるたびに何となくホッとする気分になった、というのが正直なところである。

 彼女の公演は18日まである。次はリサイタルを聴きに行ってみよう。

1・6(火)ウィーン・リング・アンサンブル

  サントリーホール

 ウィーン・リング・アンサンブル――ライナー・キュッヒル、エクハルト・ザイフェルト、ハインリヒ・コル、ゲルハルト・イーベラー、アロイス・ポッシュ、ヴォルフガンク・シュルツ、ペーター・シュミードル、ヨハン・ヒントラー、ギュンター・ヘーグナーの9人。ウィーン・フィルのトップがみんな来てしまった感のある顔ぶれ。
 3日から11日まで8回の公演を日本で行なっている。3日に富岡での初日――ということは、あの「ニューイヤー」の夜にウィーンを発って来た人もいるわけか?

 名手ぞろいの九重奏団で、とにかく上手いが、演奏の内容は何ともサラリとあっさりしたもの。シュトラウス一家の作品をさりげなく聴かせて終った。
 「なにせ8回も全く同じプログラムを繰り返してるんだから、そうもなるでしょうよ」とは、ウィーン在住で帰国中の某音楽ジャーナリスト氏の言。

1・3(土)NHKニューイヤー・オペラコンサート

  NHKホール

 昔、故・立川清登さんが「ニューイヤーはオペラの紅白のようなもの。オペラ歌手にとって、ニューイヤーに出られるかどうかはたいへん重要な問題なのです」と語ったことがあった(彼自身は紅白歌合戦にも出場したことがある)。

 今もそういう基準で出場歌手が選抜されているのかどうかは知らない。それに、時にはオペラの何シーンかをマルマル演奏する年もあるようだ。が、今年(第52回)は男女歌手計18人が、原則として交互に1曲ずつ歌うというスタイルだった。

 もちろんこれは「紅白」ではないけれど、それを真似て採点してみると、今回はどうも「紅組」に分があったような気がする。特に「夜の女王のアリア」を歌った若手の安井陽子は、先日の日生劇場での「魔笛」と同じように軽快華麗な高音を聴かせていた。この人は本当に将来が楽しみである。その他にも臼木あい、高橋薫子らも光った。

 ただ、これは全体を通じての印象なのだが、みなさん、何か歌詞の発音が甘く流れてメリハリに乏しく――つまり歌のリズムにメリハリが乏しくなる、という傾向が感じられるのである。
 その点、「アンドレア・シェニエ」のジェラールのアリアを歌ったベテランの堀内康雄の安定感はさすがで、歌詞とリズムと旋律線とが、すべてピシリと決まっていた。

 1階前方の席を知人に譲り、試みに3階てっぺんの席で聴いてみたが、オーケストラの音に電気的残響(それも硬質な)が加わって聞こえたのには驚く。

«  | HOME |  »

Since
September 13, 2007

これまでの来訪者数

最近の記事

カテゴリー

全記事表示

全ての記事を表示する

RSSフィード

ブログ内検索

プロフィール

リンク

News   

雑誌 モーストリー・クラシック に連載中
「東条碩夫の音楽巡礼記」