2017-07

12・23(火)プッチーニ:「トゥーランドット」

  ベルリン州立歌劇場

 2003年9月にプレミエされたドリス・デリエの演出で、これもベルリンではすこぶる評判が良いらしい。第3幕後半にルチアーノ・ベリオ補作版が使われた上演は、ドイツではこのプロダクションが最初だった由。

 とにかくまあ、スペクタクルでマンガ的な、実に賑やかな舞台だ。
 冒頭からして、背景に佇立する骸骨の集団、赤い仮面をかぶった異形の群集、ウルトラマン映画さながらの怪獣の扮装による廷臣ピン、パン、ポンらが跳梁跋扈するといった具合。
 トゥーランドット姫は白い大きな熊か何かのヌイグルミの腹の中に住み、白いヌイグルミを抱き、黒い衣装を纏って刀を振り回す珍奇な女である。

 人間の姿をしているのはカラフとリューの2人だけだが、そのカラフは、巨大な携帯電話によじ登ってトゥーランドットを呼び出したり、3つの謎の正解をその画面上に引き出したりする。
 リューはえらく気の強い金髪の女で、激しい身振りでトゥーランドットを諌めるというのは悪くないにしても、正義感に燃えて殉教するキリスト教伝道師(十字架が描かれたガウンを着ている)といった設定なのが、何かおしつけがましい。

 演技は微細で、演劇的な面白さもある。
 音楽のあまり明るくないベリオ版を使ってフィナーレをどう構築するかが見所だが、ここではカラフがトゥーランドットの持っていたヌイグルミを奪って捨て、黒い衣装を脱がせ、背景に出現した大摩天楼の夜景を指し示し(コンヴィチュニーの「アイーダ」みたいだ)、新しい世界の存在を教える。
 かくて目が覚めた彼女は、まもなく現代の女性の姿に変わり、彼とともに小さな瓦ぶきの(!)小さな家に住んで、小市民的で幸せな生活を送ることになる・・・・という段取りだ。
 このあたりの舞台は、微細に変化する音楽のニュアンスと完璧に一致した動きを示しており、なかなか良く出来ていた。

 結局これは、カラフがトゥーランドットを異常な妄想から解放し、現実の世界に引き戻すまでの物語、ということになろう。トゥーランドットの父にあたる中国皇帝が、普通の父親に戻って2人の新居を訪ねて来る、といった場面も笑いを誘う。

 こういう具合にラストシーンで「魔力からの解放」を描いた演出は、これまでの「トゥーランドット」のプロダクションでもいくつか観た記憶がある。そのうちの大部分は、群集がたった今呪縛から解放されたという表情であちこち歩き回っているようなものだったが、主役2人に動きを絞ったこのデリエ演出も要を得て面白い。
 それにしてもこのべリオ版は、大団円に持って行くことも、悲劇的に終らせることも可能な、実に上手く出来ている音楽だと感心させられる。舞台美術と衣装はベルント・レペル。秀逸だ。

 30歳の気鋭アンドリス・ネルソンズが、小気味よい指揮ぶり。最近バーミンガム市響首席になった注目株で、2010年のバイロイト・デビューも決まっている。音楽のダイナミックな幅も素晴らしく、卓越した劇的感覚の持主だ。プッチーニのこの作品を、これほど良い曲だと思えたのは久しぶりである。
 今回のライジング・スター指揮者探索旅行は、実りが多いものだった。

 カラフ役のフランク・ポレッタもかなり力があったが、トゥーランドットを歌ったシルヴィ・ヴァレール Sylvie Valayre は小柄な体躯ながら良く通る声で、ドラマティックな表現力も申し分なかった。いわゆる女傑的でない雰囲気の、しかも優れた声を持ったトゥーランドットとして、これは貴重な存在であろう。リューはAdriane Queiroz、ティムールはアンドレアス・バウアー。

 ベルリン州立歌劇場からやや西、フンボルト大学前からブランデンブルク門にかけ、ウンター・デン・リンデンの並木にはクリスマスの燭光が飾りつけられて、美しい。フリードリヒ街にも明るいデコレーションが施されている。旧東ベルリンの街も、それなりにせいいっぱいクリスマスを祝っているという印象だ。もっとも、オペラが終る10時頃になると、もう人出もまばらになる。

12・22(月)ノイエンフェルス演出 モーツァルト:「魔笛」

  ベルリン・コーミッシェ・オーパー

 2年前の11月にプレミエされたこの「魔笛」を観て、カンカンになった知人がいる。
 ノイエンフェルスの演出だし、またザルツブルク音楽祭での「コジ・ファン・トゥッテ」に似た変なことをやったのかな、とその時は思ったが、以前シュトゥットガルトで観た彼の「ドン・ジョヴァンニ」は意外に面白かったので、それなら一つ、とやって来た次第。まあ、カンカンにはならなかったけれど、なるほどこれでは、と思ったのも事実だ。

 要は、シカネーダーの台本のうちのセリフの部分を、ノイエンフェルス自身がほとんど全部書き換えてしまい、マリー・ルイーズ、フランツ、クサーヴァーという3人の人物を新たに狂言回し的役割としてこしらえ、彼らをして登場人物たちに指示させたり助言させたり、時にはそのセリフをそっくり代わって喋らせたり、原作には無い話もさせたりする、といったものなのである。

 このような狂言回し役を追加する手法そのものは、悪いものではない。特に「魔笛」の場合にはオリジナルの筋書におかしな所が山ほどあるから、それを一度突き放して――音楽はそのままにしておいて――再構成してみるという発想は、充分成立し得るだろう。

 たとえば第2幕冒頭でのザラストロと僧たちの会話は、前述の3人により行われる。特にマリー・ルイーズ(エリーザベト・トリッセンナールという人が演じていた)は物語全体を仕切り、その出番は他のいかなる主役よりも多い。どちらかといえばザラストロ寄りの立場で行動し、彼から「わが娘よ」と言われて嬉し涙を流すという場面もある。

 ノイエンフェルスが作ったセリフはプログラムに掲載されているので参考にはなるが、それを以てしても、演技に付加されたあれこれのニュアンスは理解しがたいところも少なくない。
 タミーノが猛獣狩りのハンターで、ザラストロはライオン3頭が付き添う車椅子に乗り・・・・などというのは意外に原作のト書と無関係でもないが、夜の女王は歌いながら自分の乳房をもぎ取ってたたきつけ、歌い終わると必ず失神して倒れ、パパゲーノの右手は皆が気持悪がる異形の手(?)・・・・だとなると、推測の域を出なくなる。

 モノスタトスがパミーナを氷柱にして鑑賞するくだりなどは深層心理の表現として解るが、一方、さほど意味の無いものとしか思えない個所もたくさんあるのだ。
 大詰めではパパゲーナが流産(?)してパパゲーノとともに失意に落込む。ザラストロも多分死んだのだろう。そのあと人々がワインのボトルとバゲット・パンを手にして祝う光景は、仮に宗教的儀式と解釈しても、それまでの物語の帰結として受け取るには、些か考える時間を要する。

 そんなこんなで、――パトリック・ランゲの指揮がまとまっていて、しかもオリジナルを歪めない演奏だったから最後まで我慢できたものの、何か上演がえらく長いものに思えてしまった。実際は7時開演の10時15分終演(休憩30分)であり、決してセリフ部分が長すぎるというほどでもないのだが。

 歌手たちは馴染みのない人ばかりだったが、夜の女王役のBurcu Uyar など極めてしっかりしており(ただし歌いながら変なことをいろいろやるので、こちらはそれに気を取られ、肝心の最高音も何となく聞き過ごしてしまう)、他の主役たちもみんな安定した歌いぶりであった。

 客は半分くらいの入り。家族連れも多い。こちらは拍手も遠慮し、一目散に逃げ出した。

12・21(日)ロッシーニ:「アルジェのイタリア女」

  ベルリン州立歌劇場

 やっと晴れたウィーンをあとにして、ベルリンに移る。飛行機が1時間半近く遅れたおかげで昼寝もできず。ベルリンはやはり小雨の寒い天気。フリードリヒ街にはクリスマスの飾り付けも見られる。ジェンダルメン広場には例のごとくテントが立ち並び、イベント開催中。コンツェルトハウスを中央に二つの大聖堂が聳えるこの広場の美しい光景も、毎年12月にはカタナシだ。

 「アルジェのイタリア女」は、ナイジェル・ロウリー&アミール・ホセアンプールの演出により2005年5月にプレミエされたプロダクションで、比較的評判は良いらしい。

 とはいうものの、舞台を温泉施設だかトルコ風呂だか、イスラム系の看板をかけたあまり上品ならざる観光施設のような場所に設定、アルジェの太守ムスタファを派手なアロハ・シャツを着た親分に仕立てる、といった読み替えだから、推して知るべし。
 ロッカールームから時々現われる薄いヴェールをかぶった「後宮風」の女たちのダンスが可愛らしくて笑える。
 要するにドタバタ・コメディで、観ていて楽しいのは確か。このオペラから新しい何か――たとえば風刺のようなもの――を引き出そうというのではなく、単に目新しさを狙った娯楽的演出という性格が強い。

 指揮のオッターヴィオ・ダントーネは結構いいテンポで全曲をまとめていたが、シュターツカペレ・ベルリンはルーティン的演奏で、バレンボイムがワーグナーを振る時などとは雲泥の差がある。特に中年の1番オーボエ氏など、序曲のあの速いフレーズを満足に吹けないとあっては興醒めだ。
 なお、今回の演奏は、トロンボーンやティンパニが入っていない編成――コルギ校訂のクリティカル・エディションによるもので、音は軽く明るいが、演奏が雑になると少々けたたましい音になる。

 しかし、歌手陣はいい。ムスタファ役のロレンツォ・レガッツォ、「イタリア女」イザベラのヴェッセリーナ・カサロヴァ(凄みのあるカサロヴァ節の連発である)、その恋人リンドーロのアントニーノ・シラグーサ(見事な高音の連発で客席を沸かせていた)の3人を愉しめただけでもお釣りが来るだろう。
 ムスタファの手下ハーリーを演じたヴァレリー・ムルガ、正体不明のタッデオ役のアルットゥ・カタヤという2人のバスもしっかりしていた。

 平土間やロージェには、不思議に空席が目立った。が、天井桟敷方面の沸き方が結構凄いので一安心。終演は9時45分頃か。雨は上がったが寒気強し。

12・20(土)R・シュトラウス:「インテルメッツォ」

  アン・デア・ウィーン劇場

 ウィーンに来てからついに一度も晴れない。連日、雨と寒い北風が続く。

 あんなカミサンがいちゃ大変だろう、という友人に対し「僕にはあれがいいんだ、気紛れだけど可愛いところもあるし」と平然たる作曲家兼指揮者のシュトルヒ。たまたまある女性からの間違い手紙が妻クリスティーネの目に触れ、離婚だ何だと大修羅場が起こるが、やがて真相が判明、丸く収まる――という、夫婦間に起こった実際の事件をそのままオペラに仕立てたR・シュトラウスは、実に変った人である。

 所謂「時事オペラ」なるものはそれなりに面白いものだが、この作品のように演劇台本にも通用するほど「言葉」が極端に多いオペラとなると、どうも苦手だ。
 しかし幸いにも今回は入手できた席が最前列中央、指揮者の真後ろの位置。彼の頭が邪魔になって舞台中央が見えなかったり、彼がぐっと背中を仰け反らすたびに羽目板がこちらの膝を圧迫し痛い思いをさせられることを除けば、オーケストラの細部が手に取るように聞こえ、否応無しに「言葉」でなく「音楽」に没頭することができる利点もある。
 しかも指揮者の肩越しに、指揮台のスコアも覗けるという有難さ。

 目の前にいる若い指揮者は、今回のお目当ての一人、キリル・ペトレンコである。
 彼の指揮するオペラをナマで聴いたのは、いつぞやのベルリン・コーミッシェ・オーパーでの「コジ・ファン・トゥッテ」以来だが、きびきびした音楽を創る実によい指揮者だ。テンポの良さでも卓越しているし、盛り上げ方も極めて巧い。セリフも混じる構成をバランスよく纏め上げ、大団円でついに出現する「シュトラウス節」を、やっと辿り着いたゴールという雰囲気を持たせて聴かせるあたり、見事なセンスである。
 2日前のネジェ=セギャンと同様、今回聴きに来た眼目の一つは充分に達せられたように思う。オーケストラはウィーン放送響。

 このプロダクションは、1週間前にプレミエされたばかり。演出はクリストフ・ロイだが、彼は初期の段階で体調を崩したそうで、補助演出のような形でアセル・ワイダウアーとトマス・ヴィルヘルムの名がクレジットされていた。
 巨大な高級家具調の壁の他には何にもない舞台装置の中で、人物はほとんど常に全員が舞台に登場しており、各人の心理的な背景――大体が性的欲求不満らしい――や、物語の背景的事情などをそれぞれの役割に応じて演じるというアイディアだ。それはそれで舞台が多彩になるが、人物の動きがやや雑然として個性も強くなかったのは、ロイが最後まで指揮を執っていなかったためなのかどうか。

 主人公シュトルヒ役のボー・スコウフスは、例のごとくエネルギッシュな、噛みつきそうな歌いぶりと演技。
 妻の役は、当初予定されていたソイレ・イソコスキがいつのまにかカローラ・クレイザーという人に替わっていた。愛想も可愛らしさもなく、見かけは大河ドラマ「篤姫」で高畑淳子が演じた本寿院さまそっくり。「カード仲間たち」ならずとも「勝手にせい」と思わせてしまうようなクリスティーネだが、これは最終場面で旦那を放ったらかしてさっさと出て行ってしまう場面への伏線だったのかもしれぬ。
 アンナ(ガブリエラ・ボーン)も、主人の前では冷然たるお手伝いさんに徹し切っている模様。他の歌手たちは私にはほとんどなじみがないが、総じて脇役たちの方が生き生きしているような感の舞台であった。

 7時開演で、終演は9時45分。

12・19(金)ウェルザー=メスト指揮 ワーグナー:「神々の黄昏」

  ウィーン国立歌劇場、5時

 ウィーン国立歌劇場最新の「ニーベルングの指環」ツィクルス第3弾「神々の黄昏」。12月8日にプレミエされたプロダクションで、今夜は第4回の上演。

 演出はスヴェン=エリック・ベヒトルフ、舞台美術はロルフ・グリッテンベルク。これまでの2作同様、ごくストレートなスタイルである。
 ただ、第1作の「ワルキューレ」では映像で狼を走らせたりするなど、多少は変った趣向も見せていたのに、その後はアイディアが枯渇してきたのか、それとも制作費が苦しくなったのか、拍子抜けするほど動きのない舞台になってきた。この「黄昏」にいたっては、せいぜい照明の色を変化させて、グリーンのカーテンを上下させる程度の変化しか施していない。

 最終場面は、ジークフリートの遺体とブリュンヒルデがセリで沈んで行くと照明が赤く変り、背景に白煙が巻き起こり、下りてきた紗幕に渦巻く炎と煙が映し出される。
 やがてその彼方、高くせり上がって行く舞台に仁王立ちとなっている巨大な後姿は、折れた槍を両手に掲げたヴォータンである。だがそれも炎と煙の映像の中に沈み行き、最後の5小節(救済の動機)では白く浄化されたような光景になるが、その彼方におぼろげに見えるのは、どうやら抱き合った男女の姿のようであった。これは、ジークフリートとブリュンヒルデの姿か、あるいは一般的な「愛による救済」の象徴か。
 最後には、スクリーンに満々たる「水」が映し出される。「ラインの黄金」の冒頭すでに見えたり、という感。

 なお、これはミッテロージェで観ていた方の話だが、ジークフリートが殺されたあと、グンターや一族の男たちは「河」に浮かべられた美しい「舟」に乗って奈落に下がって行った由。平土間の観客には、そんなことは何にも判らない。

 かように、天下のウィーン国立歌劇場のニュー・プロダクションとしてはナーンダという程度の舞台ではあったが、しかしこのベヒトルフの演出、スペクタクル場面は面白くなくても、登場人物を巧く動かして感情の機微を描き出す点においては悪くない。たとえば第2幕など、怒れるブリュンヒルデを核にした人物それぞれの描き方は解り易く、要を得ていた。

 次期音楽監督フランツ・ウェルザー=メストは、相変わらず結構な人気だ。
 今回は、これまでの2作と著しくスタイルを変え、速いテンポを設定、きわめてエネルギッシュな音楽を創っていた。ただでさえ編成の大きなオーケストラを、鳴らすこと鳴らすこと。ピットの位置も決して低くないので、歌手の声はしばしば打ち消される。特に第2幕では、あのギビフング家の軍勢の合唱すらほとんど聞こえない状態であった。

 幕を下ろしたまま演奏される「葬送行進曲」など、ウェルザー=メストとオーケストラはここぞとばかり更に轟々と音楽を響かせるから、音響的な迫力は圧倒的に凄い(ただしあの速いテンポでは、悲愴感といったものはほとんど感じられない)。総じて言えば、詩趣といったものはほとんど感じられない演奏である。
 この大変身ぶりは、いかなるわけか。

 ブリュンヒルデには、「ジークフリート」の時のデボラ・ヴォイトでなく、「ワルキューレ」に出ていたエヴァ・ヨハンソンが再登場。「ラインへの旅」二重唱最後の「Heil!」をこれほど楽々と綺麗に響かせられるソプラノは、こんにち決して多くないだろう。が、流石の彼女もこれだけガンガン鳴るオーケストラを前にしては旗色が悪い。第2幕の怒りの場面然り、「自己犠牲」の場面然りで、特に後者では力み返りの絶叫という雰囲気。とはいえ、たとえ音程が上ずり気味になろうと、最後まで声が衰えないというのは立派ではある。

 ジークフリートには、当初予定されていたシュテファン・グールドに代わってクリスティアン・フランツが出演。彼の並外れた馬力は、このオーケストラに対抗するに充分である。
 ハーゲンはエリック・ハルフヴァーソンで、妙にはしゃいで飛び回る悪役だったが、役割は完璧に果たしていた。アルベリヒは「ジークフリート」でのそれと同様、軽々しいキャラに仕立てられていて(この親にしてあの子あり、というわけか)、トーマシュ・コニーチュニーが若々しく騒々しく演じている。
 グンター(ボアズ・ダニエル)をお坊ちゃん的キャラクターに仕上げたアイディアは面白い。グートルーネのカロリーネ・ウェンボルンは一生懸命健闘したが、ブラーヴァが飛ぶまでに行かなかったのは気の毒。
 
 そしてワルトラウテは、われらの藤村実穂子。悲劇的なキャラクター表現で歌い演じる舞台は、贔屓目に見なくてもすばらしいものがある。ただ彼女も、バイロイトで聴けば劇場内の空気をびりびり震わせるほどの迫力を持つ声であるにもかかわらず、今夜は鳴らし過ぎのオーケストラに埋没する傾向を免れなかった。
 以上はいずれも、平土間12列10で聴いた印象である。どうもこの位置は、歌手を聴くには適していないらしい。

 全曲の演奏終了は、10時15分。休憩計1時間を差し引けば4時間10分だから、やはりテンポは速い方だろう。
 序夜「ラインの黄金」は最後(09年春)に制作され、次いで5月の全4部作一括ツィクルスの冒頭を飾ることになるが、何だかこの一連のベヒトルフ演出、尻つぼみの感がなくもないので、どんなものになるのやら。

12・18(木)ヤニク・ネジェ=セギャン指揮ウィーン交響楽団

   ウィーン・コンツェルトハウス大ホール 夜7時半

 ネジェ=セギャン――正確な発音が判らないため、とりあえずこう書いておく。
 日本では「セガン」と表記されているが、フランスやドイツの放送局のアナウンサーの発音を聞いていると、「セギャン」に近い響きに聞こえるのだけれど、どうなのだろう。まあ、ゴーギャンにしてもオーギャンにしても、どう表記したところで微妙なものが残るが。

 実は今回のウィーン滞在は、この若い指揮者を聞くのが眼目の一つだった。彼は最近ロッテルダム・フィル首席指揮者に就任した、ライジング・スター指揮者グループの一翼を担う存在である。モントリオール生まれの未だ33歳、少年っぽい雰囲気を残す表情で、精魂こめて指揮をするといった雰囲気が客席に伝わってくる。

 プログラムは「ラ・ヴァルス」に始まり、バルトークのピアノ協奏曲第3番、「マ・メール・ロワ」、「海」。音色などかなりニュアンスが細かいし、妙な誇張や小細工をせずに自然なテンポで盛り上げてゆくところも好感が持てる。協奏曲でのソロはピオトル・アンデルジェフスキで、これも絶品であった。

 彼がアンコールを弾き終わり、まだだれも席を離れず、拍手が続いているさなかに、客席からわざわざ出て来て舞台に近寄り、第1ヴァイオリンの楽員に曲名を聞きまわっている変なオヤジがいた。ヨーロッパのコンサートやオペラでは、時々こういう奇人オヤジを見かける。9時50分頃終演、外は雨も風も強い。

12・18(木)ベルトラン・ド・ビリー指揮ウィーン放送交響楽団リハーサル

   アン・デア・ウィーン劇場 午前10時

 雨のウィーン、寒く冷え込む。ケルントナー通りは人出が相変わらず多いが、クリスマスの飾り付けはむしろリング大通りの方が華やか。

 ウィーン在住で、スロヴェニア国立マリボル歌劇場で「蝶々夫人」を歌っている豊嶋起久子さん、およびウィーン放送響でヴァイオリンを弾いている堀口志織さんの手引きで、リハーサル会場に潜り込んだ。
 リハーサルは、何とピットの中で行われた。これは、舞台が丁度今上演されている「インテルメッツォ」のセットで埋まっているためのようである。オケ・ピットで演奏される「運命」はあまり迫力がないが、「合唱幻想曲」のカラオケ(?)をナマで聴けたのは貴重な体験。

 このリハーサルは、12月22日にここアン・デア・ウィーン劇場で行われる演奏会のためのもの。これは200年前の同じ日に行われたあのベートーヴェンの歴史的な演奏会のプログラムを、そっくりそのまま再現する大イベントだという。
 つまり「田園」(初演時は「第5番」)に始まり、アリア「ああ、不実なる人よ」作品65、「ミサ」作品86から「グローリア」、ピアノ協奏曲第4番、「運命」(同「第6番」)、再び「ミサ」作品86から「サンクトゥス」、最後に「合唱幻想曲」という、想像を絶する長いコンサートになるはず。協演にはアルノルト・シェーンベルク合唱団、ボリス・ベレゾフスキー、アネッテ・ダッシュの名がクレジットされていた。

 「運命」「田園」「合唱幻想曲」がいっぺんに世界初演(協奏曲は公開初演)されたあの輝かしい夜のことを、200年後の聴衆はどう受け止めるか。こちらはベルリンに移動してしまうため、聴けなくて――というより「体験」できなくて残念。

12・14(日)METライブビューイング
ベルリオーズ:「ファウストの劫罰」

   新宿ピカデリー 午前10時

 今シーズンのメトロポリタン・オペラのライヴ映像シリーズ第3弾がこの「ファウストの劫罰」(11月22日収録)。ベルリオーズの音楽が好きな者にとっては、見過ごせない。

 ロベール・ルパージュの新演出だというから期待して行ったのだが、何のことはない、1999年のサイトウ・キネン・フェスティバル松本で彼が演出したもの(パリ・オペラ座との共同制作)と、骨格は全く同一だった。
 数層に組み上げられた櫓の舞台装置、そこで展開されるダンス、逆さ吊りのアクロバット、最終場面での梯子を登って「昇天」するマルグリットや、デブデブした裸の男声合唱団員が並ぶ見苦しき光景など――再演と言ってもいいほど、同じだ。
 松本でマルグリットを歌ったスーザン・グラハム(多分パリでも歌ったろう)も、今回の幕間のインタビューで「以前この演出で歌ったわ」と答えているから、間違いない。

 辛うじて「新演出」と名乗れるであろう唯一の差異点は、以前の舞台より遥かに大掛かりな映像演出が付加されたことであろう。
 しかしこれは非常に良く出来ていて、舞台の景観そのものをさえ一変させてしまうほど念入りなものである。この数年来の映像製作技術の進歩には、本当に感心させられる。ルパージュ自身もこの中で「舞台と映画との結合、異業種の参加協力によるオペラ上演の活性化」について語っていたが、共感させられるところ大きい。

 とはいえ、あの松本のテレビ収録映像と同様、「ビューイング」用ビデオでは、その全貌はもちろん、本来の魅力を伝えることはほとんど不可能である。これはあくまでも舞台全体を観なければ、真価は解るまい。それに今回の収録は、センスも手際も甚だしく悪い。スタッフ名は見逃したが、だれだったのだろう? ブライアン・ラージでなかったことは確かだが。

 音楽的には、なかなか良い。指揮はジェイムズ・レヴァイン、マルグリートは前出のスーザン・グラハム。メフィストフェレスはジョン・レリアで、この人は悪役としてもこの数年来飛躍的に上手くなった。ファウストはマルチェロ・ジョルダーニ。幕間のインタビューアーとしてトーマス・ハンプソンが出演していた。

12・13(土)モーツァルト:「ドン・ジョヴァンニ」

  新国立劇場

 新国立劇場制作のニュー・プロダクション。

 今回の演出は、グリシャ・アサガロフ。ごくオーソドックスなもので、演技もさほど微細なものではないが、バランスと全体のまとまりは良い。
 第1幕フィナーレ近く、3つのパターンの踊りが交錯する場面で、楽士を3つのグループに分けて演奏させていたのも――必ずしも目新しい手法ではないが――納得が行く。地獄落ちの場面は、背景の壁が上昇する裡に、ジョヴァンニの乗ったテーブルが奈落に下がって行くという、目の錯覚を強調する方法。舞台美術はルイジ・ペレゴで、久しぶりにシックで落ち着いた感じの立派な装置になっていた。

 指揮はコンスタンティン・トリンクスというドイツ生れの若手で、カールスルーエで大野和士のアシスタントだった由。初めて聴いたが、いい指揮者だ。
 リズムは歯切れよく、デュナーミクの設定も巧みで、何よりハーモニーの響かせ方に卓越したセンスがある。最弱音の創り方もなかなかのもの。遅いテンポの箇所に来ると例外なく緊迫感が薄れるという厄介な欠点(これは東京フィルにも責任があろうが)さえ克服できれば。

 歌手陣はタイトル・ロールにベテランのルチオ・ガッロが君臨、アンドレア・コンチェッティ(レポレッロ)、エレーナ・モシュク(ドンナ・アンナ)、アガ・ミコライ(ドンナ・エルヴィーラ)、ホアン・ホセ・ロペラ(ドン・オッターヴィオ)ら若手世代が気を吐いた。日本勢では、高橋薫子がツェルリーナで当り役ぶりを披露している。
 ルーティン公演としては、よくまとまったプロダクションという印象。

12・12(金)児玉桃/メシアン・プロジェクトⅤ 

  浜離宮朝日ホール

 メシアン生誕100年を記念し、9月からの5回シリーズで企画された「児玉桃 メシアン・プロジェクト2008」が、今夜めでたく完結。

 しかもこれは、ルノー(ヴァイオリン)とゴーティエ(チェロ)のカプソン兄弟に加え、作曲家としても活躍するイェルク・ヴィトマン(クラリネット)を協演者に迎えるという、フィナーレにふさわしい顔ぶれであった。
 演奏されたのは、メシアンの作品からは「ヴァイオリンとピアノのための幻想曲」と「世(時)の終りのための四重奏曲」。そしてその間に、「世の終り・・・・」と同じ楽器編成による細川俊夫の「時の花~オリヴィエ・メシアンへのオマージュ」(日本初演)。

 満員ではなかったけれど、熱心な聴衆が集まっていただろう。
 今年の児玉桃が、このシリーズ以外にも優れた演奏を繰り広げていたことは、当日記でもいくつか触れた通り。今夜はそれを締め括るにふさわしく、聴き応えのある演奏会となった。彼女の快演に、カプソン兄弟が瑞々しい演奏で花を添えたのは言うまでもない。
 ただ欲を言えば、「四重奏曲」のあの長いクラリネット・ソロの楽章で、ヴィトマンの演奏にもっと緊迫感があったらと惜しまれる(ここばかりは、あのリチャード・ストルツマンが聴かせた、鬼気迫る圧倒的なソロが忘れられない)。

 なお、細川俊夫の「時の花」は、風の音のような響きで結ばれる彼の得意のスタイルによる美しい作品。同じ編成で書かれている武満徹の「カトレーンⅡ」が旋律的な起伏に富むのに対し、こちらは4つの楽器が厚層の響きを創るといった趣きだ。

12・10(水)ボリショイ・バレエ ショスタコーヴィチ:「明るい小川」

   東京文化会館大ホール

 ショスタコーヴィチを語る際に必ず出て来る話は、1936年初頭に「プラウダ」紙から猛烈な批判を受け、あわや粛清の対象になりかねないほどの窮地に陥ったという、例の事件だ。

 その槍玉に上がった作品が、「音楽の代わりの荒唐無稽」と極めつけられたオペラ「ムツェンスク郡のマクベス夫人」と、「バレエのまやかし」とこき下ろされた「明るい小川」だったことは、ショスタコーヴィチ・ファンなら誰でも知っている。
 だが、オペラはともかく、「明るい小川」の方は、2003年にボリショイ劇場が蘇演するまで実に68年間もオクラになっていたのだから、観たことのある人さえ稀だったはずである。

 それが今回、日本でついに観られたとはうれしい。
 何せこれで、実際に観たこともないくせに「明るい小川というバレエがプラウダ紙で非難され・・・・」などと知ったかぶりをして文章を書くという後ろめたさから、やっと解放されることになったのだから。

 ボリショイ劇場バレエ部門の現芸術監督アレクセイ・ラトマンスキーの振付(2003年版、全2幕4場編版)で上演されたこの作品。
 なるほど題名どおり、すこぶる明るいバレエだ。コルホーズ(集団農場)を舞台に、他愛ないコミカルなストーリイが展開する。
 スターリンが観て激怒した理由の一つはこの賑やかさであるとも言われるが(その他にもあれこれ憶測される理由がある)、今にして思えば、こんなバレエを貶すのは、言い掛かりにも等しい所業だろう。

 今日の上演でも、ほぼ満員の客席からは笑い声と拍手が絶えなかった。平和の時代のありがたさをしみじみと思い知らされた次第。
 それにしても、近年復調著しいといわれるボリショイ・バレエがこの演目を携えて来たことは、いろいろな意味で快挙に価すると言っても過言ではない。

 しかも今回は、テープ再生の音楽でなく、パーヴェル・クリニチェフ指揮するボリショイ劇場管弦楽団が同行して、豪壮なナマ演奏をオーケストラ・ピットから響かせてくれたのもありがたい。
 私たちはこれで、ショスタコーヴィチの音楽の全容を、余すところなく味わえたのだった。いかにも彼らしい、ウィットに富んだ陽気な、だが少しはアイロニーを交えた音楽が、全曲にわたってあふれていたのである。
 あの激烈で悲劇的な「ムツェンスク郡のマクベス夫人」や「第4交響曲」とほぼ同時期にこのような対照的な音楽を書いていたショスタコーヴィチの多芸多才ぶりに、今度こそは実際に体験した上で感心できたわけだ。

 もっとも、歯に衣着せずに言えばだが、音楽そのものは、明るくて楽しいのは事実だけれども、かといって強く印象づけられるといったタイプのものでない。前作「ボルト」や「黄金時代」の音楽に比較すると、やはり少々泰平的な趣きもあって、ショスタコーヴィチの作品の中では抜きん出た存在とは言えないように思われる。
 実はスターリンはそれを見抜いて、このバレエを批判したのだ――なんていうストーリーがもし成立するとしたら、これは大変な歴史の読み替えドラマになるところだろうが・・・・。

12・9(火)ゲルハルト・オピッツのベートーヴェン 第7回

  東京オペラシティコンサートホール

  8回にわたるオピッツのベートーヴェンのピアノ・ソナタ全曲演奏会も、ついに第7回に達した。残るは、今月26日の最終回。
 番号順に演奏して来ているので、今日は「第27番」と「第28番」、そして巨作「第29番 ハンマークラヴィーア」の3曲。

 生真面目すぎるほどの端然たる音楽の表情は、いつもながらのオピッツだ。
 強靭な低音域を基盤にがっちりと構築され、和声的な厚みに富んだベートーヴェンが堂々と展開される。先日のペーター・レーゼルのベートーヴェンも生真面目ではあったが、どこかに温かみが漂っていた。それに対してこちらは、にこりともしないベートーヴェン。

12・8(月)矢崎彦太郎指揮東京シティ・フィルハーモニック定期

   東京オペラシティコンサートホール

 首席客演指揮者・矢崎彦太郎がプロデュースする好評のシリーズ「フランス音楽の彩と翳」の第15回。
 クリスマスに因んで、ゴセックの「クリスマス組曲」第1番、ドビュッシー~カプレ編「おもちゃ箱」(語り手:幸田弘子)、オネゲルの「クリスマス・カンタータ」(東京シティ・フィル・コーア、江東少年少女合唱団、バリトン=東原貞彦、オルガン=小林英之)というプログラム。珍しい選曲であり、良い試みである。

 東京シティ・フィルも、特にゴセックでは弦楽器群と木管が、整った典雅な響きをつくり出していた。
 「クリスマス・カンタータ」も決して悪くはなかったが、合唱団員の発音がもっと明晰であれば、――そして、あのクリスマスの数々の歌が交錯する印象的な個所で、合唱および管弦楽の声部の動きがさらに巧く整理されていれば、いっそう良い演奏となったのではなかろうか。
 そうはいうものの、たとえばあの「清しこの夜(Calme nuit)」をはじめとするいろいろな讃美歌が対位法的に各声部に引き継がれていくあたり、かなりよく聞き取れ、楽しめたことは事実。それだけでも善しとするべきだろう(騒然として何が何だか解らない演奏になる場合だってあるのだから・・・・)。

音楽の友2月号(1月17日発売)演奏会評

12・7(日)鈴木雅明指揮バッハ・コレギウム・ジャパン
ヘンデル:オラトリオ「ユダス・マカベウス」

      東京オペラシティコンサートホール マチネー

昨年の「エジプトのイスラエル人」に続くBCJの「ヘンデル・プロジェクト」第2弾にあたる。なお第3弾は「リナルド」(来年12月)の由。

 例の「見よ勇者は還る(見よ、勝利の英雄が還る)」は、ヘンデル最大のヒット曲(?)として誰知らぬ人とて無い存在だが、長い全曲をナマで聴ける機会は極端に少ない。
 その意味でも、今回の演奏会は貴重であった。演奏も誠実で、ヘンデルの音楽の特質を存分に聴かせてくれた。ただ正直なところ、少々長い(3幕、正味2時間半、休憩を含め3時間半)という印象は拭えない。これはやはり、この音楽の性格と、比較的単純な物語とのせいだろう。

 BCJの合唱は、第2幕後半が最高の出来。歌手陣では櫻田亮(ユダス・マカベウス)がさすがの安定度。マリアンネ・ベアーテ・キーラント(イスラエルの男、Ms)も引き締まった歌唱を聴かせてくれた。

 物語の方は、シリアを破ってエルサレムを奪回したユダを讃える内容だが、こういう西欧側――あるいはキリスト教徒側のみから見た史観は、鼻につくことが多い。「狡猾で邪悪な異教徒」「傲慢な敵の王」などという唯我独尊的な歌詞は、時代を下って十字軍を題材にしたオペラや物語にもしばしば登場する。
 しかも、そういうオペラの上演では――キリスト教徒側は常に純粋で至高の理念を持つ存在として描かれる一方、たとえばシリアの王は必ず悪逆で残虐で、愚劣な存在として描かれるのである。
 こうした一方的な歴史観から解放された解釈の作品なり上演なりが、そろそろ出て来てもいい時代なのだが・・・・。

12・6(土)大友直人指揮東京交響楽団定期
ジョン・アダムズ:オペラ「フラワリング・ツリー(花咲く木)」日本初演

   サントリーホール 夜6時
 
 木に変身して美しい花を撒き散らすことのできる女性クムダは、木を傷めつけられ、人間に戻れなくなる――元は南インドに伝わる民話だそうだ。プレ・トークで演出家のピーター・セラーズが語っていたように、自然破壊を告発するにふさわしいお伽話であることはたしかだろう。

 しかし、音楽は快いほどに耳当りのいいもので、ジョン・アダムズの作品の中でもとりわけ「柔らかい」性格を持っていると思われる。オーケストラ・パートには旋律的な要素はほとんど聴かれず、むしろ和声的な美しい響きが主体となる。そして、その上に歌唱パートが展開して行く、といった手法だ。
 2幕構成で各幕1時間ずつ、ミニマル・ミュージック的な要素もある第1幕は少々単調で長すぎる感もあったが、音楽に起伏を増した第2幕はすこぶる美しい。特にクムダが王子の愛により人間に戻る大団円への盛り上げなど、なかなか良かった。

 大友直人の手堅い指揮、東響の弦の美しさ、歌手の好演のおかげもあって、この曲がナマで聴けたというのは本当に貴重であった。作品に対する賛否両論があったとしても、自主運営のオーケストラがこんなに費用のかかる企画を実現するという意欲に関しては、どれほど賞賛されても過ぎることはなかろう。
 歌手はジェシカ・リヴェラ(クムダ)、ラッセル・トーマス(王子)、ジョナサン・レマル(語り部)、それに舞踊手3人。東響コーラスはいつものようにすべて暗譜だった。これも立派。

 セラーズの演出は、セミ・ステージということもあって、たいしたことはやっていない。王子とクムダの演技と並行して、その内面的な部分を同時に舞踊手2人にも演じさせるといった手法は、あのパリ・オペラの「トリスタン」における生身の人間と映像とによる同時進行の手法と共通するだろうか。
 例のごとくセラーズは、カーテンコールではしゃぐこと、はしゃぐこと。指揮者をさしおいて、自分でオーケストラやコーラスを立たせてしまうのは彼のいつもの癖だが、あれは少し出しゃばりだ。

 ダンスは、3人の舞踊手自らの振付とクレジットされており、なぜかインドとインドネシアとがごちゃ混ぜになっているという不思議な(いい加減な?)ものだが、それほど存在が目立つほどでもない。

 余談を一つ。
 休憩時間に私が知人と立ち話をしていたすぐうしろで、年配の男2人が怒鳴り合いを始め、あわや乱闘になるところを東響事務局スタッフに取り押えられるというイベント(?)があった。
 事務局に聞くと、演奏を聴いている最中に、組み合わせた手の指を動かしているのは目障りだ――と片方のオヤジが相手に文句をつけたのが発端だという。
 いいトシをして、みっともない話だ。
 最近はすぐキレる老人が多い。暴発老人と言うんだそうな。見方を変えれば、それだけエネルギーの有り余っている老人が増えたということなのか。

 「まあまあ、コンサートなんだから」と落ち着いてなだめていた事務局のベテラン氏に、
 「あんな仲裁までやらなきゃならないとは、たいへんですねえ」と言ったら、
 「ナニ、あんなことはオレは昔からやってるよ。面白いよ、好きだよ」と、こともなげにのたもうた。
 ちなみにこのお方は、先頃「楽団長は短気ですけど、何か?」という自伝を出版された業界のツワモノである。さすがだ。

12・6(土)シャルル・デュトワ指揮NHK交響楽団
ストラヴィンスキー:「エディプス王」GP

   NHKホール 11時

 夜には、これの本番がある。同時刻、サントリーホールでは東響がアダムズの「フラワリング・トゥリー」を日本初演し、東京芸術劇場では「イリス」の上演がある(もちろんコンサートも数知れずだが、聴きたかったのはこの3つ)。結局今回はN響の事務局に頼み込んで、こちらの方はGP(総練習)を聴かせてもらうことにした。

 前半に「ミューズの神を率いるアポロ」が演奏され、後半に演奏会形式でこの「エディプス王」が演奏される。
 リハーサルのため、歌手たち――ポール・グローヴズ(エディプス)、ペトラ・ラング(ヨカステ)、ロベルト・ギェルラフ(クレオン、伝令)、デイヴィッド・ウィルソン=ジョンソン(ティレシアス)、大槻隆志(羊飼)――はフル・ヴォイスは出さないが、デュトワの音楽づくりは明快に解る。良い演奏だ。緊迫感は充分だし、カタストロフィに向けての追い込みもすこぶる見事。こういうレパートリーでは、デュトワの最良のものが発揮される。本番はさぞ聴き応えがあるだろう。コロスは東京混声合唱団。

 ナレーターは、平幹二朗が担当していた。どっしりした風格のある語りが、音楽の厳しい構築にぴったり合って、きわめてドラマティックだ。これまで私が聴いた3つの「エディプス王」上演のナレーターの中では、最も演奏とのバランスがいいものだと思う。
 ちなみに最初のものは1966年4月(26日か28日のどちらだったかは忘れた)の藤原オペラによる上演(岩城宏之指揮、五十嵐喜芳のエディプス王)で、語り手は観世栄夫だった。巧かったが、何か物凄く勢い込んだものだったという記憶がある。
 2つ目は、サイトウ・キネン・フェスティバル開幕の1992年の上演(小澤征爾の指揮)。演奏も舞台も見事だったのに、白石加代子のすこぶる大時代的で物々しいナレーションが聴くに堪えず、実に居心地の悪いものだった。

 それにしても、恐ろしい物語だ――それとは全く気づかぬまま父を殺め、未亡人となっていた何も知らぬ母を妻にしてしまったエディプス王の物語。「エディプス・コンプレックス」の語源である。真相を知った母は自ら首を吊り、エディプスは両眼を抉る。王を愛していた民は、悲しみを以って優しく彼を追放する。――リハーサルながら、今日の演奏とナレーションは、その悲劇を充分に描き出してくれていた。

12・5(金)ワレリー・ゲルギエフ指揮ロンドン交響楽団
プロコフィエフ・ツィクルス Ⅴ

     サントリーホール

 「第4交響曲」(オリジナル版)、「ヴァイオリン協奏曲第2番」、「第5交響曲」、アンコールに「ロメオとジュリエット」からの「仮面」、と並べたツィクルス最終日。今日くらいのお客の入りなら、まず演奏者に対して失礼には当らない範囲だろう。

 演奏の鮮やかさは昨日と同様だ。プロコフィエフの音楽のスリリングな面白さを、これほど見事に表出した演奏も稀だろう。
 特に「5番」では、デュナーミクやテンポの変化が極めて自然で巧妙で、瞬時のクレッシェンドとアッチェルランドを経て爆発点に持って行く呼吸の見事さなど、唖然とさせられるほどだ。2004年の録音はもちろん、今年夏のエディンバラでの演奏でも、ここまでの変幻自在さは感じられなかった。ゲルギエフとロンドン響との呼吸は、本当にうまく行っているようである。

 ゲルギエフは以前東京で、ロッテルダム・フィルを指揮してこの曲を演奏したことがあるが、あれはびっくりするほど骨太で豪快で、仁王のような凄さだったが、今回の演奏は非常にしなやかである。
 ただ、これをもってゲルギエフのスタイルが変貌したとみるのは早計だ。彼は指揮するオーケストラによってその都度表情を変える癖があるから、今回のそれもあくまでロンドン響の個性を生かしての演奏である――と解釈しておいた方がよいだろう。

 それにしてもこのツィクルス、エディンバラでの演奏よりも数段優れていたと言って間違いない。これには、サントリーホールの音響も、プラスに作用していたはずである。
 終演後、楽屋にゲルギエフを訪ねてそれを述べると、彼もホールのアコースティックの良さのおかげで「大きく幅広い」(ジェスチュア入りで)音楽が出来たという感想を持っていた。そしてもう一つ、エディンバラでは番号順に全交響曲(「4番」は初稿版のみ)を、しかも協奏曲3曲を交えて3日間で演奏する強行軍だったが、東京では4日に分けて演奏できたことも良かった、とも語り、喜んでいた。

 今日の協奏曲でのソリストはワディム・レーピン。これまた実に躍動的でよく歌う音楽だ。エディンバラで弾いたレオニダス・カヴァコスの硬軟兼ねた至芸も良かったが、レーピンもまた、全く異なったスタイルで自国の名作を自信満々演奏した。
 しかもアンコールでは、プロコフィエフの「二つのヴァイオリンのためのソナタ」の一部を弾いたが、このデュオでの相方は――プログラム記載によれば――リーダー=コンサートマスターのアンドルー・ハヴロン(客員だそうな)で、いや彼も上手いこと、レーピンに一歩も譲らずの劇的な演奏を繰り広げ、盛大な喝采を浴びていた。

 数日の裡にプロコフィエフの交響曲の面白さを存分に堪能できる機会など、これからもほとんどないだろう。
 1月から始まるアレクサンドル・ラザレフ指揮日本フィルによるツィクルスは、何ヶ月か間を置いての、定期での演奏になる。もっともそれはそれで、疲れないで(?)済むかもしれない。それに、チケットもずっと安価だし。

12・4(木)ワレリー・ゲルギエフ指揮ロンドン交響楽団
プロコフィエフ・ツィクルス Ⅳ

    サントリーホール

 これだけ良い演奏が行なわれているのに、相変わらず客の入りが半分くらいにとどまっているとは残念だ。やはり5日間公演となると、お客さんも分散してしまうのか。プロコフィエフという作曲家についても、熱心なファンとなると、一般的には未だそれほど多くないのだろう。こういう演奏で一度聴いてみれば、結構面白いのだけれど。

 ゲルギエフとロンドン響の演奏は、尻上りに快調になっている。彼らのプロコフィエフ・ツィクルスも、ゲルギエフ首席指揮者就任直前のロンドン公演(2004年)、今年8月のエディンバラ音楽祭に続いて今回が3度目。となれば、呼吸もすでに充分合っているだろう。
 今日は交響曲第3番、ピアノ協奏曲第3番(ソロはアレクセイ・ヴォロディン)、交響曲第4番(改定版)というプログラム。

 3曲とも、演奏は見事の一語に尽きる。第3交響曲での、あの「炎の天使」の中で悪魔が扉をたたく場面に使われている音楽――弦楽器群に短い音型が閃光のように交錯する個所や、第4交響曲での津波のように押しまくる音楽など、いずれもすこぶるスリリングなものがあった。協奏曲も含めて、響きは壮麗でカラフルで、しかも骨太である。それにしてもロンドン響のうまいこと。
 総じてゲルギエフの創るプロコフィエフは、きわめてラディカルなイメージを備えている。それもまた魅力の一つだ。
 アンコールは、初日と同様の「三つのオレンジへの恋」の「スケルツォ」で、これまた猛烈なエネルギーに富む。終演は9時半近く。

12・3(水)ゲルギエフ指揮ロンドン響
プロコフィエフ・ツィクルス Ⅲ

  サントリーホール

 交響曲第2番と第7番、その間にチェロ協奏曲第2番(交響的協奏曲)という長大なプログラムに加え、アンコールとして「ロメオとジュリエット」からの「タイボルトの死」が演奏され、終演は9時40分となった。楽員のエネルギーもたいしたものだ。さすが自主運営オーケストラの意地と言うべきか。ゲルギエフにとってはこのくらい何でもあるまいが。

 凶暴無類な響きを持つ「鉄と鋼の交響曲=第2番」は些か耳を疲れさせるが、そのあとに叙情性が備わった協奏曲を置き、最後に簡明平易な「第7番」を配すプログラミングはすこぶる効果的である。これは、エディンバラ音楽祭での演奏の時とは少し異なる。
 しかも、あそこの満員時のアッシャーホールと違い、サントリーホールは残響が多い。そのためもあって、ロンドン響はきわめて豊麗に鳴り響いた。音色を重視するゲルギエフとしても満足の行く演奏であったろう。
 とりわけ協奏曲の第3楽章のアンダンテにおける、ふくらみのある温かい響きの音楽は心を和ませるものだった。そのたっぷりした拡がりは、「第7番」のすべてに引き継がれていた。今日の演奏は初日の印象とはだいぶ異なり、ゲルギエフらしい厚みのある壮麗さに満ちたものだったが、色彩感という面ではやや淡彩だったのは、やはり英国のオーケストラの個性ゆえか。

 チェロのソロを弾いた若い女性タチヤナ・ワシリエワ(=ヴァシリエヴァ)は、夏にエディンバラで聴いた時よりずっと演奏のバランスが良く、進境著しい。バリバリした荒々しい野性味でなく、力強さと叙情との均斉が保たれた演奏が好ましい。今後伸びるだろう。

 総じて、卓越した演奏である。さすがゲルギエフ、鮮やかなロシア音楽。4日と5日の演奏会も聴いてみることにする。客の入りがよくないのが残念だ。そのおかげで響きがいいという利点はあるにしても。

12・2(火)ゲヴァントハウス弦楽四重奏団のベートーヴェン

  紀尾井ホール

 今シーズンが創立200年記念に当るというから、そもそもはベートーヴェンの在世中に結成された弦楽四重奏団ということになる。さながら「歴史と伝統」が舞台上に立ち籠めているといった感だ。

 現在のメンバーは、第1ヴァイオリンがフランク=ミヒャエル・エルベン(1993年入団、42歳)。第2ヴァイオリンがコンラート・ズスケ(89年入団、50歳)、ヴィオラがオラフ・ハルマン(95年入団、同)、チェロがユルンヤーコプ・ティム(73年入団、59歳)。
 かつてゲルハルト・ボッセや、カール・ズスケがリーダーをつとめていた時代と比べると、やはりリズム感が強くなり、音色も明るくなっているようにも思えるが、それでも「良き時代」のドイツの演奏スタイルといったもの(曖昧な表現だが)を今なおはっきりと感じさせるだろう。かくも陰翳の濃い、深みのあるヒューマンで倫理的なベートーヴェン像をここまで伝えてくれる弦楽四重奏団は、今日では非常に稀な存在になった。

 プログラムは、「第3番」「第9番(ラズモフスキー第3番)」「第15番」。
 最後の曲の「モルト・アダージョ」における崇高なまでに沈潜した祈りの歌は、至高至福の時間だった。これだけでも、聴きに来た甲斐があるというものである。その一方、「ラズモフスキー第3番」の終楽章での追い込みも、なかなかの緊迫度であった。エルベンの演奏が時に雑になるのは気になるが、若いリーダーの彼が先輩たちにこれだけ音色や様式などをぴったり合わせられるというのは、立派なものだろう。

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