2017-09

11・30(日)ワレリー・ゲルギエフ指揮ロンドン交響楽団
プロコフィエフ・ツィクルス Ⅰ

     サントリーホール

 ゲルギエフ自らナレーション(ロシア語、字幕付)と指揮を兼任して、「ピーターと狼」を演奏。
 彼があの声で「小鳥がさえずっています」などと語るのを聴いていると何となくムズムズするのだが、予想外にテンポよく進み、大過なく終了した。それにロシア語だし、間違えたかどうかなどこちらには判らない。
 終演後に楽屋を訪れ、「いいナレーションだった」と祝したら、「自分でやったのはこれが初めてなんだよ。つまり僕のデビューさ」とのたもうた。

 プログラムの後半は、「ロメオとジュリエット」の抜粋。きわめて良いテンポの、リズミカルな演奏だ。
 この演奏の快調さは、ゲルギエフとオーケストラの関係がうまく行っているという証明だろう。もしかしたら、現在のマリインスキー劇場管弦楽団よりも、こちらロンドン響の方が、良いコンビとなっているのかもしれぬ。

 ロンドン響の弦の音色もやや細身になって、かつてマリス・ヤンソンスが指揮していた頃のオスロ・フィルのそれを連想させたほどだが、ゲルギエフは最近このような音色を好むようになったのだろうか? というのは、あのマリインスキー劇場管でさえ、最近の演奏では、昔のような濃厚な艶と厚みのある響きでなく、すっきりした透明な音を聴かせることがよくあるからである。

 アンコールは「三つのオレンジへの恋」からの「行進曲」。
 客席は満員ではなかったが、拍手の音量は非常に大きく、熱心なファンが集まっていたことを示していた。ゲルギエフにはソロ・カーテンコール。

11・29(土)クリスティアン・アルミンク指揮新日本フィル

  サントリーホール マチネー

 プログラムが面白い。
 ショスタコーヴィチの「交響曲第9番」に始まって、現代オーストリアの作曲家ヘルベルト・ヴィリのフルートとオーボエのための協奏曲「・・・久しい間・・・」、最後がヤナーチェクの「シンフォニエッタ」と、いかにもこの指揮者、このオーケストラらしい選曲だ。
 それでもお客さんが7割方入っており、しかも演奏後すぐに立ち上がって帰る人はほんの数人くらいしかいなかったのだから、「ふだんの演奏が良ければお客はちゃんとついて来る」の見本のようなものだろう。もちろんそれでも、「この入りじゃァ商売にならん」という考え方もついてまわるだろうが――。

 「9番」の、整然として引き締まった演奏が魅力的。この作曲家のアイロニーは、必ずしも荒々しく疾駆するような演奏をしなくても、ちゃんと伝わって来る。首席ファゴットの河村幹子が絶賛に値する。入団した頃から良い奏者だと感じていたが、今日の演奏などは超一流だろう。

 ヤナーチェクは、先日の「マクロプロスの事」の余勢を駆って、ということにもなろうが、これもこの指揮者とオーケストラらしく、きわめて洗練され、均整の取れた演奏であった。ファンファーレと弦楽器の全合奏が拮抗する大団円の個所など、整いすぎていて法悦感に不足する印象もあったけれど、これは演奏者の個性ゆえ仕方がない。
 ヴィリの作品は、新日本フィルをしばしば聴いている者にとってはもう馴染み深い存在だが、今回の協奏曲はかなり耳当りの好いものである。マティアス・シュルツ(フルート。ヴォルフガング・シュルツに代わってご子息が登場)と、ハンスイェルク・シェレンベルガー(オーボエ)が、これ1曲だけではもったいないような演奏を聴かせてくれた。

11・28(金)ル・ジュルナル・ド・ショパン PART Ⅳ

   東京オペラシティコンサートホール
 
 あのルネ・マルタンがプロデュースした、4日間(27~30日)14ステージからなるショパンのピアノ・ソロ曲の「全曲」演奏会。原則として作曲年代順に、6人のピアニストがリレー形式で弾いて行くという企画だ。1ステージ約60分ずつ、チケットは1回券1500円と2000円――なる仕組は、「ラ・フォル・ジュルネ」と似たアイディアである。

 そのうち、夜8時半から行なわれた第4ステージを聴きに行ってみた。
 作品9の「夜想曲」3曲を、アンヌ・ケフェレック、ジャン=フレデリック・ヌーブルジェ、アブデル・ラーマン・エル=バシャが順に1曲ずつ弾き、そのあとにヌーブルジェが「スケルツォ第1番」と作品10の「練習曲」全曲を弾いた。一種のガラみたいなコンサートとも言えようし、これも一つの方法であろう。
 今夜最も出番の多かったフランス青年ヌーブルジェは、まだ22歳とのことだが、ブリリアントで透明な明るさをもった音色と、若々しく勢いのある推進力を備えた演奏が非常に強い印象を残す。これは注目すべきピアニストだ。

11・26(水)イアン・ボストリッジ・リサイタル

  東京オペラシティコンサートホール

 マーラーの「若き日の歌」から2曲、「子供の不思議な角笛」から3曲、「さすらう若人の歌」、後半にベルリオーズの「夏の夜」。

 もともとボストリッジは、リサイタルでは前後左右に激しく動き回り、上下左右に顔の向きをのべつ変えながら歌う癖がある。
 ところがこのホールは、左右の壁の音のはね返りが大きいので――前回ここで彼のリサイタルを聴いた時もそうだったが――顔の向きが変わるたびに、声の響きが全く違って聞こえる傾向があるのだ。早い話が、ソロの声がステレオのスピーカーの左、中央、右と絶え間なく動き、その都度左は左側から、右は右側から、それぞれ残響が付加されるようなもの。1階真ん中あたりの席からは、これが気になって、落ち着かないこと夥しい。
 しかもピアニストのジュリアス・ドレイクが、(もともと饒舌に書かれている)上声部を異様に大きく、しかも鋭く弾く。そのためもあって、歌との和声的な一体感が失われ、えらく雑然とした音楽に聞こえてしまうのであった。

 ボストリッジの声そのものはすばらしいし、ソット・ヴォーチェも見事だし、ドラマティックな表現力も卓越している。それゆえ、マーラーやベルリオーズの歌曲にこめられた劇的な激情を、彼以上に巧く表現できる歌手はいないと思うのだが、こちらが最後までそれにほとんど集中できなかったのがもどかしい。どれも大好きな曲だったのに――いっそオーケストラ伴奏で聴きたかったなと思っても詮無きこと。

 もっと大きなホールか、あるいは音のはね返りが少ないホールなら、また違った印象を得るだろう。
 彼が4年前のイースター音楽祭の際、ザルツブルク祝祭大劇場で、ラトル指揮ベルリン・フィルと協演して3日連続で歌ったブリテンの歌曲集など、それはもう見事なものだった。リサイタルの時ほどには顔の向きは動かさないけれど、それでも他の歌手よりは頻繁に動く。にもかかわらず、音像がぶれることは全くなかったのである。したがって ppp から ff にいたる音量の幅、歌詞の内容に応じての表現の多様さが、あの時は実に自然に味わえた。そして彼独特の身振りも――ポケットに手を突っ込んでアパッシュよろしく与太って見せたり、客をにらみつけたり、罵るような格好で歌ったり、苦悩や陶酔の表情を交えたりといった「癖=演技」も、今回のような余計なことに煩わされずに楽しめたのであった。

11・24(祝)ヤナーチェク:オペラ「マクロプロス家の事」

   日生劇場 マチネー

 「マクロプロス家の事」とは、耳あたりも字ヅラも、何んか座りのよくないタイトルですね。といって「マクロプロス家之事」ではお家騒動か何かのようで。
 その点、以前呼ばれていた「マクロプロスの事件」の方がものものしくて、300年以上も不死の生命を保った怪奇な美女エリナ・マクロプロスの物語には合っているような。

 今回の上演は、東京二期会と日生劇場の共催だが、鈴木敬介の演出となれば、ごく伝統的な手法の舞台になるであろうことは最初から予想されたところ。事実、出来上がったのは、写実的な光景(パンテリス・デシラス美術)と、さほど微細でない平凡な演技のみの舞台であった。
 舞台美術は、伝統的なものでも一向構わない。だが、かように演劇的要素の希薄な、アイディアの欠如した演出の結果、人間の生と死の神秘性――不老不死なるものが果たして幸福であるか否かを抉り出すはずのこの物語は、ただ表面的に描かれるだけにとどまり、全く単調な進行に終始してしまったのである。登場人物の表情、他の人物の動きに対する微細な反応などにも、ドラマトゥルギーは全く読み取れないままだった。――せっかくの上演なのに、もったいない話だ。

 ただ、それは別として、主人公のエリナ(=エミリア・マルティ)役を歌った小山由美の力演は讃えたい。チャペックの原作における「氷のような冷たい女」の像は、ヤナーチェクのオペラ化に際しての意図とも更にまた異なって、かなり蓮っ葉な――ルルに近いような――性格の女として演じられたが、これはこれで一つの解釈かとも思う。

 演奏は、クリスティアン・アルミンク指揮する新日本フィル。この劇場のドライな音響効果を巧く解決していたとは残念ながら言い難く、いささか痩せて潤いを欠き、コマ切れの音楽に聞こえた。しかし終結近く、エリナの心に疲れと安息感が次第に沸きあがって来るあたりの演奏のもって行き方は、さすがにアルミンク、なかなか好い。

11・23(日)クリスチャン・ツィメルマン&チョン・ミョンフン、東京フィル

   サントリーホール 6時

ツィメルマンに捧げられた故ルトスワフスキのピアノ協奏曲(1988年)が今日の演奏会の目玉。

 もちろんオーケストラ・パートにも、この作曲家らしく多彩で、しかも透明感のある魅力的なテクスチュアが聴かれる。が、やはり最も魅惑されるのは、ツィメルマンのきらきらと輝くようなピアニズムだ。この緊迫した華麗さを、何に喩えよう。こういう時のツィメルマンは、やはり超絶した感性の凄いピアニストである。という具合に、このひととき私の前に存在したのは、ルトスワフスキよりも、チョン・ミョンフンよりも、結局ツィメルマンただ独り。

 そうソリストばかり立てていられるかとばかり、チョン・ミョンフンと東京フィルは、休憩後のベートーヴェンの「運命」で壮烈な気迫を発揮した。基本16型編成の弦(しかしコントラバスは10本)と、倍加(=4本)された管とによる大編成の壮大なベートーヴェンを久しぶりに聴いて、その力感あふれる懐かしいサウンドに、これもなかなか好いもんだ、と楽しくなる。

 協奏曲の前にはメシアンの「ほほえみ」という作品も演奏されていた。これは「鳥」とは関係ない曲だが、協奏曲の冒頭が鳥のさえずりのような曲想で開始されるだけに、ちょっとひねった選曲と言えたかもしれない。

11・23(日)エドゥアルド・トプチャン指揮アルメニア・フィル

   東京オペラシティコンサートホール 2時

 1924年エレバンに創立されたアルメニア・フィルが、エレバン生れのトプチャン(音楽監督・首席指揮者)と初来日。
 今日は一連の日本公演の最終日で、ボロディンの「イーゴリ公」からの「ポロヴェッツ人の踊り」、ハチャトゥリアンのヴァイオリン協奏曲、ドヴォルジャークの「新世界交響曲」というプログラムだった。

 もっと野生的で豪快な演奏をするのかと思っていたが、予想外に柔らかい味を出している。それでもやはり普通のオーケストラよりはずっと骨太で逞しいサウンドであったことには変わりなく、ppにおいてすら、力感のこもった響きを聴かせていた。
 トプチャンという指揮者も、作品を大掴みにして滔々と押して行くタイプと感じられたが、しばしば長い音符をふくらませて演奏に表情の変化をもたせることで、音楽に流動性を生じさせるところが興味深い。
 アンコールは、ハチャトウリアンの「ガイーヌ」から「レズギンカ」と「剣の舞」。「出た出た」という感じだ。打楽器陣の壮烈な咆哮は予想以上。このくらい鳴ってこそ、この曲は面白い。こういう演奏は、他の国のオーケストラではちょっと真似できないであろう芸当だが、かといってこれがアルメニアの演奏家の本質だなどというのは、先入観に過ぎるだろう。

 協奏曲でソロを弾いたのは、美女カトリーヌ・マヌーキアン。野性味に富んだ曲に清涼剤のような叙情を加えて、しかもエネルギー豊かな音楽に仕上げてくれた。

11・21(金)オスモ・ヴァンスカ指揮読売日本交響楽団
ベートーヴェン・シリーズⅢ

   サントリーホール
                               
 序曲「コリオラン」、第4交響曲、序曲「命名祝日」、第8交響曲――という良いバランスのプログラムだが、全体の演奏時間は短い。7時開演で、8時半ちょっと過ぎには終ってしまった。とはいえ、これに何かの曲を付け加える必要は全く無いだろう。

 対向配置の16型(弦)で演奏されたベートーヴェン。冒頭の「コリオラン」でのがっしりした不動の構築が見事な威容を響かせる。歯切れがよく明快で、しかも重厚なリズム感を備えたこういうベートーヴェンは、私の最も好きなタイプだ。読売日響のスケールの大きな響きも好い。続く第4交響曲も同様、中庸を得たテンポの引き締まった演奏がすこぶる魅力的である。

 休憩後の「命名祝日」がさほど特色を感じさせぬ演奏のまま推移したあと、第8交響曲は一転して、アンサンブルの上でもかなり解放的な演奏になった。それゆえこれは、全体にやや散漫な印象と化したことは否めまい。
 もしかしたらヴァンスカは――ニーチェの「悲劇の誕生」的に言えば――「4番」をアポロ的に、「8番」をディオニソス的に、といったような性格分けを意図していたのかもしれないが、残念ながら後者では、読売日響との呼吸も今一つだったか。しかし第2楽章での、メトロノームのリズムを刻む木管の和音の音色など、美しかったことはたしかである。

11・20(木)フランク・ブラレイ・ピアノ・リサイタル

   東京文化会館小ホール

 同じ時間に、すみだトリフォニーホールではミシェル・ダルベルトが演奏している。
 サントリーホールでは、クリスティアン・ツィメルマンの演奏会が行なわれている。
 聴きたいピアニストがこうも重なってしまうのも珍しい。結局、プログラムへの興味からこのブラレイを選んだ(ツィメルマンは日曜日に聴く)。

 シューベルトの即興曲3曲とベートーヴェンの作品110のソナタが前半に演奏され、休憩後はドビュッシーの「前奏曲」から「沈める寺」など7曲に、ガーシュウィンの「ラプソディ・イン・ブルー」という構成。

 このドビュッシーとガーシュウィンの組み合わせというのが、何とも絶妙だ。
 ケークウォークの動きによる「風変わりなラヴィーヌ将軍」が酔っ払った足取りのように終ったあとに「ラプソディ・イン・ブルー」が始まると、まるでこの2人の作曲家が1本の糸で繋がっているような幻想におそわれる。しかもこのラプソディが、ジャズでもなくエンタテインメントでもなく、まさにドビュッシーから続く現代音楽としての性格を露わにしたような、強烈な演奏だったのである。

 そしてアンコールには、今度はジャズっぽくというわけで、ガーシュウィンの「アイ・ガット・リズム」、ドビュッシーの「ミンストレルズ」、みたびガーシュウィンの前奏曲(第3番だったか?)という具合。完璧なコンセプトによる選曲と演奏であった。

11・19(水)グザヴィエ・ドゥ・メストレ・ハープ・リサイタル

   トッパンホール

 ウィーン・フィルのハープ奏者グザヴィエ・ドゥ・メストレの来日コンサート。
 とにかく上手い。鮮やかに上手い。それは認めるが、何んかこう、「ウマイダロ」という調子でテクニックを誇示する雰囲気を感じさせるところがどうも・・・・。

 上手けりゃ上手いで結構なのだが、かようにどの曲もバリバリと一気呵成に弾かれ、高域の弦は常に鋭く激しく硬くはじかれ、ふくよかさも詩情も陰翳も皆無と言っていいほどに希薄な演奏が続くと、この貴族的風貌のハーピストにはデリカシーが欠如しているのではないかとさえ思えてしまうのだ。
 パリシュ=アルヴァースの「コンチェルティーノOp.34」のような華麗な協奏曲の場合にはそれでも格好はつくだろうが、ドビュッシーの「神聖な舞曲と世俗的な舞曲」や「2つのアラベスク」などでこんな縦横無尽に斬りまくるような演奏をされては辟易する。何もハープの音は艶麗玲瓏でなければならない、などと言うつもりはないけれども。  
 なお曲により、小森谷巧・渡部基一(Vn)、柳瀬省太(Va)、古川展生(Vc)が協演。

11・18(火)ロッシーニ・オペラ・フェスティバル「マホメット2世」

   オーチャードホール

 イタリアはペーザロの「ロッシーニ・オペラ・フェスティバル」初の日本引越公演。今回は「マホメット2世」と「オテロ」という、珍しい作品二つでやって来た。びわ湖での公演を経て、今日が東京初日。いい上演だった。

 「マホメット(メフィト)2世」は15世紀に実在、かのコンスタンティノープルを落城させ、東ローマ帝国を滅亡させたトルコの皇帝のことである。イスラム教の祖ムハンマドとはもちろん別人。
 今回はナポリ初演に使われた、悲劇的なエンディングによる版による上演。

 演出はミヒャエル・ハンペで、例のごとく手堅いオーソドックスなスタイルだが、彼らしく辻褄を合わせた舞台づくりは、安心して見ていられるたぐいのものだ。
 登場人物が長いアリアを歌っている間の舞台の動きをどうするか、というのは演出の重要なテクニックでもあるが、あれこれ滅茶苦茶な動きを入れてかき回すのが好きな現代の若手演出家たちに対し、常に音楽とドラマの本筋に沿った演技を添えるのが老練ハンペの演出の特徴である。
 ただ、もともとストーリイ的に「おかしなところ」だらけのこのオペラだから、ハンペといえども以前の「どろぼうかささぎ」や「チェネレントラ」でのように、理屈で固めた演出を施すわけには行かなかったようにみえる。

 で、なんといっても光ったのは、アルベルト・ゼッダの指揮であった。この人のオペラ指揮の巧さには、いつもながら感心してしまう。音楽のもって行き方といい、歌を巧みに立てつつもオーケストラをして雄弁に語らせるテクニックといい、まさにオペラの名匠と呼ばれるにふさわしいだろう。
 ボルツァーノ・トレント・ハイドン・オーケストラの演奏は柔らかく拡がりがあり、実に美しい音色であった(1階席12列ほぼ中央で聴いた印象では、あまりにソフトな響きに過ぎるとも感じられたが、2階のバルコン席あたりではまた異なる音に聞こえたのでは?)。ロッシーニの音楽の美しさを存分に表出してくれたのがありがたい。

 ヒロインのアンナはマリーナ・レベカ。後半にいたってぐんぐん調子を上げていった。パオロ・エリッソ役のフランチェスコ・メーリの明快でよく伸びる声は快い。マホメット2世を歌ったロレンツォ・レガッツォの声が意外に伸びて来なかったのは、こちらの席の位置の関係だったのか。

11・16(日)下野竜也指揮読売日本交響楽団
スメタナ:連作交響詩「わが祖国」全曲

     東京芸術劇場 マチネー

 さすがに読売日響は、下野にとってすでに気心知れたオーケストラ。

 この曲でも、8月末に松本でサイトウ・キネン・オーケストラを指揮した時の演奏に比べると、格段のニュアンスの細やかさが感じられる。「ヴィシェフラド」の最後の部分のようにゆっくりと歌うところ、「モルダウ」のように木管群が主題を精妙に受け渡して行くところなど、臨時編成のオケではなかなかこうは行かなかっただろう。下野は、このような読売日響の豊満な音色と、アンサンブルのバランスの良さを存分に楽しみつつ指揮しているようにみえる。

 最後の「ブラニーク」も、骨太なエネルギーだけでなく、闘いの末に訪れる勝利の讃歌といったものまでを感じさせる演奏だ。私自身の好みとしては、コーダではさらにテンポを速めて熱狂的な歓呼にもって行くスタイルを期待したいところだが、彼のテンポはあくまで正確そのもの。だがそれは、いささかも弛緩を感じさせない。がっしりした構築を以って全曲を結んで行くのである。
 実に壮大な、見事な「わが祖国」だった。ホルンのソロ(山岸博)の美しさをも讃えたい。

 マエストロ下野の髪も、少し伸びてきたようですね。祝着でございます。

11・15(土)イルジー・コウト指揮NHK交響楽団定期
「トリスタンとイゾルデ」演奏会形式第2幕

   NHKホール 6時
  
 ペーター・ミリングをゲスト・コンマスに迎えたN響の弦は、ふっくらした柔らかい響きを発揮していた。
 全体に悪くない演奏ではあったが、音楽に陰翳が全くないというのが珠に瑕か。
 特に終結近く、トリスタンとイゾルデがともに黄泉の国に向かうことを語る個所など、この世ならざる絶望の深淵が描かれてしかるべきではないかと思うのだが、今日の演奏はただ軽く流れて行くのみである。

 ソロはアルフォンス・エーベルツ(トリスタン)、リンダ・ワトソン(イゾルデ)、マグヌス・バルトヴィンソン(マルケ王)、クラウディア・マーンケ(ブランゲーネ)、木村俊光(メーロト)。一声だけのクルヴェナル役は陰歌だったが、だれの声?

 第2幕の前に「前奏曲と愛の死」がワトソンの歌入りで演奏された。大詰めの「愛の死」を先にやってしまうのもおかしなものだが、まあよかろう。しかしこれをやるくらいだったら、そのぶん、第2幕をノーカットで演奏してもらいたかったという気もする。
 「ブランゲーネの警告」は最上階客席で歌われたが、このテには異論がある。本来この歌は彼方の見張りの塔の上から聞こえてくるような、夢のごとき響きによって聴衆に伝わるべきものなのだ。だがこの方法では、2階客席以上の客にはオーケストラよりもはるかに大きな、リアルな歌声に聞こえてしまうのである。「舞台上で聴けばバランスがいいんだけど」では困る。
 それにもう一つ、今日の字幕は著しく言葉が多すぎる。過ぎたるは及ばざるがごとし。
 

11・15(土)小山実稚恵ピアノ・リサイタル

  オーチャードホール マチネー 3時

 シューマン(蝶々)、シューベルト(即興曲Op.142-1)、ショパン(第3ソナタ)の間(2曲目)にベートーヴェン(テンペスト)を含ませたプログラム。

 小山はこれを「内なる叫び」というコンセプトでまとめ、さらに「心の中で吹きすさぶ風、感情の渦の中から聞こえてくる声」とも付記している。
 作品本来の性格からみた場合、2つのソナタはともかく、他の2曲については必ずしもそうとも言えないような気もするのだが、しかしこれが彼女の演奏にかかると、まさにその表現ぴったりの曲と化してしまうのだ。そこが面白い。
 その音色はあくまで澄んで明晰であり、しかもなまなましい生命感に満たされる。一刀両断的な明快さを持ちながら、その一方で瑞々しい詩情をも失わないという、そのように見事な均衡を保った演奏をするピアニストは、わが国には決して多くはないだろう。

 久しぶりでこのホールにおける彼女のシリーズ・リサイタルを聴いたが、一頃のようなエネルギー偏重の演奏スタイルからはすでに完全に脱しているようだ。彼女は、その魅力をいっそう増した。

11・14(金)マリス・ヤンソンス指揮
ロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団 来日公演

  横浜みなとみらいホール

 マリス・ヤンソンスは、ほんとうに巧い指揮者になったものだと思う。
 オーケストラとの呼吸が今や完全に合致した状態にあるために、みずからの思い描く音楽をそのまま実現できるようになったこともあるだろう。伸縮自在のテンポ、精妙なアゴーギク、変幻自在のデュナーミクなど、見事に名門コンセルトヘボウ管弦楽団を動かしている。

 ドヴォルジャークの「交響曲第8番」第2楽章での、まるでレチタティーヴォのように自由に表情を変化させる凝った演奏など、以前のマリスからは聴かれなかったものだ。最近の比較的若い世代の西欧の指揮者(その中にはラトルもいる)が古典派以前の作品でよくこの手法を使っているが、60歳代半ばに達した(1943年生れ)のマリスが、しかもドヴォルジャークの交響曲でこれを成功させているのだから面白い。

 しかも、その芸の細かいこと。
 第2楽章第47小節以降で下行を繰り返すヴァイオリンの16分音符の後半部分のテンポを僅かに走らせ気味にして洒落た変化をつけたり、第3楽章最後で管から引き継ぐ弦の頭にアクセントをつけて小気味よい味を出したり、第4楽章冒頭のトランペットのファンファーレを受けたクラリネットの低音に見事なエコー効果を感じさせたりと、枚挙にいとまがないほどだ。
 また第4楽章で、フルートがあの「ドライ・ボーンズ」的に降りて行くところ、第135小節のロ音と第139小節の変ロ音をちょっとクレッシェンド気味に延ばさせ(マリスは奏者に左手で大きく掬い上げるようにして指示を送っていた)、次のフレーズを引き出す明快な役割を与えていたあたり、何と巧いのだろうと舌を巻いてしまう。
 第3楽章に満ち満ちていた哀感も、実にすばらしいものだった。オーケストラが、また上手い。

 こういう演奏に接すると、時差ボケ(朝帰国)も完全に吹き飛んでしまう。
 プログラム後半は、R・シュトラウスの「ティル・オイレンシュピーゲルの愉快ないたずら」と、ラヴェルの「ラ・ヴァルス」。

 その2曲のうちでは、ラヴェルの「ラ・ヴァルス」が面白かった! 冒頭、「渦巻く雲の切れ目からワルツを踊る人々の姿が見えてくる・・・・雲が晴れると、そこは明るいシャンデリアに輝くウィーンの宮廷の・・・・」といったような作曲者の解説はここでは用を為さず、雲はいつまでも晴れてこないような響きが続く。
 全曲の演奏も意外性の連続で、ありふれたストレートな演奏スタイルに比べると、すでにデフォルメに近い。が、全体の響きはまさに「近代音楽家」ラヴェルそのものであり、時にプーランクのそれを予告するような怪奇な陰翳も聴かれたのである。自由奔放、かつ魁偉で深淵のようなものを感じさせる「ラ・ヴァルス」の演奏だったが、もしかするとこれこそが、当時のラヴェルの真の心象風景だったのではなかろうか。
 

11・12(水)ハンブルク・オペラの新プロダクション「ワルキューレ」

   ハンブルク州立歌劇場

 北都ハンブルクはもう冬の気候。街を歩く時は、コートが手放せず。

 この歌劇場では、音楽総監督シモーネ・ヤングの指揮、クラウス・グートの演出による「ニーベルングの指環」ツィクルスが進行中である。第2作にあたるこの「ワルキューレ」は、去る10月18日にプレミエされたもので、年内はこれが最後の上演だ。

 シモーネ・ヤングの指揮は、今年3月(19日)に観た第1作「ラインの黄金」でも実に確固たる演奏で感心させられたものだったが、今回も非常に引き締まった音楽になっていた。おそらく14型編成と思われるけれど、あたかも室内楽のように緻密で凝縮した響きである。そのためスケールの大きさや拡がりはあまり感じられず、情緒もかなり抑制されており、いかにも最近のワーグナー演奏といったタイプだろう。だが管弦楽のバランスは、見事と言っていいほどに整っている。

 ヴォータンは、「ラインの黄金」に引き続き、ファルク・シュトルックマン。相変わらずの凄まじい馬力である。
 ブリュンヒルデには、前以て予告されていたリーザ・ガスティーンがずっと病気とかで、代わりにおなじみデボラ・ポラスキが登場している。第3幕の終わり頃には彼女らしくもなく少々声がぐらつく個所もあって、いかに戦艦歌手と雖も疲れることもあるのかなと思わせられたが、まず安心して聴いていられる人であることは間違いない。
 フンディンクには、最近すっかりこの役づいているミハイル・ペトレンコ。この人、好い歌手なのだがいつもあまりブラヴォーに恵まれないのは、この役にしては声が軽いと思われがちだからか。
 ジークムントはステュアート・スケルトンで、少し線は細いが悪くない。ジークリンデにはイヴォンヌ・ナエフ、第3幕での「愛の救済」の個所ではすばらしい力強さを聴かせた。フリッカにはジャンヌ・ピラン、もう少し強引さが欲しいか。

 かように音楽面では手堅いプロダクションではあったが、クラウス・グートの演出(クリスティアン・シュミットの舞台美術を含む)が、今回はどうも腑に落ちない。「ラインの黄金」では、あまり新味はないけれども比較的良くまとまっていたように感じられたのだが――。

 第1幕では、舞台手前にいるヴォータンが、奥舞台(主舞台)の上に静止しているジークムント(既に登場している)とジークリンデにキューを出し、ドラマを始めさせるという仕組みで、要するにすべてはヴォータンにより操られるゲームというコンセプトだが、こんなテは随分前にドレスデンのウィリー・デッカー演出などで観た覚えがある。
 しかも兄妹がそれぞれ身の上を語る時には、父親ヴォータンが主舞台の周囲を歩き回ったり、みずから剣を壁(幹ではない)に突き刺したり、あるいは幼年時代の兄妹が場面を横切ったりする。これも最近よくやられる「記憶内の出来事を具象化させる」手法だ。
 初めて観る人には面白いかもしれないけれど、あちこちオペラを観歩いているスレッカラシとしては、また同じようなテですな、と苦笑するしかないわけで。
 そのわりに第2幕ではこの手法は使われず、徹底を欠く(二期会のジョエル・ローウェルス演出とはそこが違う)。ただし第3幕では、死んだ息子のジークムントが現われ、苦悩するヴォータンに手を差し延べる場面がある。

 第2幕は、ヴォータンの居間のような所。壁には「ラインの黄金」でフローとドンナーがシコシコ作っていたヴァルハラ城の山の箱庭がすでに完成されて、飾られている。一方、部屋の隅には「ワルキューレ」第3幕の舞台の模型もある。デスクの上には第1幕の舞台が――兄妹の人形も含めてそのまま模型として載っており、ヴォータンはそれを見て悦に入っているが、フリッカがジークムントの人形の手から剣をはじき飛ばすのを見て顔色を変える。これもどこかで見たような。

 第3幕は、岩山どころか、見るからに薄汚いコンクリートの地下室。汚れたタイルの洗面所までついているこの部屋に、8人のワルキューレが――ただの馬鹿みたいな薄汚い女たちが収容されており、口だけは勇ましい歌を歌いながらも空想に耽っているという設定か。彼女らがカラテのような似非武術踊りをやりながら「ホ・ヨー・ト・ホー」と歌っているシーンの、何という滑稽さであろう。
 娘たちはヴォータンの名を聞いただけで強迫神経症を起こして震え上がり、彼が上階のドアを開けて入って来た時には、布団をかぶってベッドにもぐりこんでしまう始末だ(この中から「神々の黄昏」のヴァルトラウテはどのようにして現われるというのだろう?)。
 
 ラストシーンではブリュンヒルデは、父親が「ヴォータンの告別」を歌っている最中に、床に布を敷き枕を置き靴を脱ぎ、さっさと自分で毛布のようなものをかけて、先に寝てしまう。ヴォータンはここでも主舞台から手前に降りて、黒幕としての地位を守る。「魔の炎」は主舞台の手前の縁に沿って盛大に燃え上がるが、今日はあいにく仕掛けの調子が悪かったか、均等に燃え広がるというところまでは行かなかった。
 演出者がいないので、ブーイングは一切出ない。演奏者に対する拍手は大きく、特にヤングは大変な人気である。

 今年春のライヴを収録した「ラインの黄金」のCDが、エームズ・クラシックスから最新の新譜として発売されていた。「お買い上げの方には、終演後シモーネ・ヤングがサイン会を行ないます」との貼紙を発見。周囲に知った顔の見えないのを幸い、たちまちミーハーの本性を顕わし、1セットを購入に及んで、行列に参加する。20人ほどいたが、ほとんど全部が中年女性。彼女、オンナたちからの支持が強いらしい。
 「CDお買い上げの方」と書いてあったのに、おばちゃんたちが手に持っていたのはプログラムばかりだった。肝心のCDはあまり売れなかったとみえる。

11・10(月)テミルカーノフ指揮サンクトペテルブルク・フィル
チャイコフスキー・ガラ

   東京オペラシティコンサートホール

 来日オケ愛好派はサントリーホールのマリス・ヤンソンス&コンセルトヘボウに流れるのではないかと心配していたが、かなりの入りだったのにはホッとした。何によらず、客席に隙間が多いと、演奏者に気の毒でたまらないものだからだ。

 今日はチャイコフスキー集。冒頭は「エフゲニー・オネーギン」からの「ポロネーズ」。
 最初は1階15列目で聴いていたのだが、右隣に座った外国人の男が凄いオーデコロンの臭いの上、横柄に肘を大きく突き出す奴なのにうんざりし、このままで30分以上も「ピアノ協奏曲第1番」を聴き続けるのは堪らないと、1曲目が終ったところで逃げ出す。
 そういえば、去る3日にこのピーコンを聴いた時にも、これも右隣の某氏が轟然たるいびきをかくのに閉口、1楽章に一度のわりで計3度突っついたが効き目なく、ついに休憩後は他の席に逃げたことがあった。どうもこの曲、ついていない。

 が、1階のうしろから2列目あたりに退避すると、このオーケストラの音量はちょうどいい具合に聞こえる。ダイレクトで強烈な音響でなく、適度の遠近感と柔らかさをもって響いてくるようになるのだ。以下はその位置で聴いた印象。

 ソリストのデニス・マツーエフの演奏は、前述の3日のとほぼ同じ。
 休憩後には、まず庄司紗矢香が登場して「憂鬱なセレナード」を弾く。まさに暗くメランコリーな音色ではあったが、ふだんの彼女とは随分違う演奏に聞こえ、いささか戸惑った。拍手の感じから推察すると、お客さんも同じだったのではなかろうか。
 続いて若い歌手2人――ソプラノのエカテリーナ・シェルバチェンコ(ロシア生れ)と、テノールのアンドリュー・グッドウィン(オーストラリア生れ)が登場、「スペードの女王」「エフゲニー・オネーギン」「イオランタ」からのアリアや二重唱を歌う。
 この数曲でのオーケストラの甘美でソフトなサウンドは天下一品。テミルカーノフの指揮するオペラを聴く機会が無いのは本当に残念だ。かつてはゲルギエフの前任者としてキーロフ・オペラの芸術監督だった人だし、現在もボリショイ劇場の首席客演指揮者に迎えられている人なのだから、もう少し日本でもオペラを聴かせてくれないものか。

 最後は、「1812年」。この曲をナマで聴く機会はあまり無い。やや素っ気ない演奏だったが、弦の迫力は抜群である。最後の帝政時代のロシア国歌が鳴り響くくだりでは、金管群が立ち上がって吹くという「巨人」なみの演出だ。
 これを聴きつつ、以前テミルカーノフが語った「ソ連時代には、この曲をオリジナルの形で演奏することはできなかったのですよ」という言葉を、ふと思い出した。たしかに昔聴いたソ連のレコード(日本でも出たはずだが)では、この国歌のフシだけが別の旋律に差し替えられ、異様な響きになっていたのを記憶している。その時にはそのフシがなんだったかは知らなかったのだが、あとでグリンカの「皇帝に捧げし命」(ソ連時代の題名は「イワン・スサーニン」)の、終幕の合唱だと聞かされた――。

 翌日朝のハンブルク行きに備え、この曲が終ったところで会場をあとにする。
 

11・9(日)北九州国際音楽祭フィナーレ・ガラ・コンサート

    北九州市立響ホール マチネー

 小倉で開催されているこの音楽祭も、今年で第21回になる。
 10月2日にエマニュエル・パユとオーストラリア室内管弦楽団の演奏会で開幕、以降シンフォニア・ヴァルソヴィア、ソフィア国立歌劇場、東京メトロポリタン・ブラス・クィンテット、チェン・ミン、田村響、若林顕、南紫音、江口玲ほかが登場してきた。そのフィナーレが、今日の午後3時から4時間にわたって行なわれたマラソン的コンサートである。音楽祭実行委員会会長をつとめる北九州市長が登壇してのセレモニーもあり、すこぶる盛況。

 第1部は、ピアノの松本知将と、最近東欧のいくつかの歌劇場で「蝶々夫人」を歌って成功を収めているソプラノの豊嶋起久子が協演しての、プッチーニのオペラを中心にしたプログラム。
 第2部では一転して、元読売日響の首席奏者・菅原淳が率いる加藤恭子、野本洋介ら「パーカッションの仲間たち」による賑やかなステージになる。オペラやバレエの名曲に、野本や一柳慧といった現代作品を巧く配した選曲もなかなか良く、特に菅原自身が編曲した「カルメン」組曲では、「アルカラの竜騎兵」などにお遊び的な洒落た手法も織り交ぜての見事な「音色旋律」を披露。
 シロフォンからチューブ・ベルから、各種打楽器を奏しまくって大暴れのこのリーダーを、もし読売日響定期会員が見たら、「菅原さんはティンパニだけじゃないんだ、凄い」と、目を見張ることだろう。

 第3部は、おなじみマロこと篠崎史紀(N響コンマス)がリーダーをつとめる弦楽五重奏がウィーンのワルツを演奏。白井篤、桑田歩、本間達朗らN響メンバーに、ベルリン・コーミッシェ・オーパーのオーケストラで弾いている西山雄太が加わってのアンサンブルだが、いうまでもなくみんな音も良いし、実に上手い。しかもステージでのトークの自然で楽しいことたるや、N響でのふだんの演奏会の舞台からは想像もできない光景だ。
 特にマロさんのサービス精神は抜群。趣向として(彼の発案だそうだが)ステージ上におかれたテーブルに招かれ、椅子にかけてワインを飲み、わざわざマロさんに間近まで寄って来られてヴァイオリンの甘い音色を聴かされた人たちも、さぞ楽しんだことだろう。
 それにしても、そういう時にパッと手をあげて客席から舞台まで出て行く人が結構いるんですねえ。私などは照れくさくて、到底真似できない(第一、酒が飲めない)。しかも、その人たち――特に女性たちの笑顔の、なんとすばらしいこと! それはまさに、フィナーレ・ガラにふさわしい雰囲気だった。

 かくて演奏会は、7時近くに終る。7時半に会場を出て、北九州空港から9時5分発のスターフライヤー便で帰京。

11・8(土)日生オペラ「魔笛」

   日生劇場 マチネー

 日生劇場開場45周年記念公演として制作されたもの。上岡敏之の指揮、高嶋勲の演出。

 プログラムには特に記載されてないけれど、聞けばこれは「学校公演」――高校生のための公演として制作されたプロダクションの由。
 なるほど、そう言われてみれば、非常に簡略な舞台装置、何ら特別な解釈や意味づけを加えない演出コンセプト、いまどきプリミティヴで単純な演技、現代語を取り入れたセリフや字幕など、「それ向き」に作られているのだな、と納得が行く。

 とはいえ私などは、学校向けであろうとなかろうと、しかも一般公演としても上演するのだから、45年前にゼルナー演出のベルリン・ドイツ・オペラでオープンした日生劇場の面子にかけても、新機軸を打ち出した舞台を創るべきではないかと思うのだが――何も突拍子もない演出をやれといっているのではない。オーソドックスな手法でだって新味は充分出せるはずである――考え方の違いは致し方ない。

 これを観ている最中に私は、50年も前に初めてこのオペラを見た時の、産経ホール(東京)での二期会上演を思い出していた。舞台の作りも演技も、何となくイメージがよく似ているのである。
 あれは今にして思えば実に単純な演技だったが、それでも当時は楽しく面白く、いまだにその時の模様が脳裏に焼きついている。それゆえ今回の舞台で初めて「魔笛」を見た人の中にも、何十年かののちにこれを懐かしく思い出す人がいるだろうな――などと、本番中にあれこれ余計なことまで考えていた。
 しかしいずれにせよ、このようにストレートな演出で見せてもらうと、やっぱりこの「魔笛」というオペラは、ストーリイも作劇法も随分めちゃくちゃなものだということを改めて思い知らされてしまう。今回はザラストロたちが夜の女王一派(モノスタトスも)に和解の手を差し伸べるという設定になっていたが、これはよく使われる手で、とりわけ目新しいものではない。

 歌手陣は概して手堅い歌唱を示していたが、その中ではタミーノの吉田浩之が良く伸びる声で際立っていた。この人は最近好調である。
 また、夜の女王を歌った安井陽子は、先ごろツェルビネッタで絶賛を浴びた(私は残念ながら聞き逃した)新人で、たしかに高音のコロラトゥーラを伸びやかな声で楽々とこなす、すばらしい人だ。ただ、これだけ鮮やかな歌唱ができるのだから、セリフ回しの声が絶叫調の硬い声にならぬよう研究して欲しいものである。ともあれ、大注目株であることには相違ない。

 しかし、やはり今回の最大の収穫は、読売日本交響楽団からこの上なく引き締まった、しかも生き生きした息づきを持つ音楽を引き出した、指揮者の上岡敏之であろう。
 この劇場のドライな音響を全く気にさせず――というより、巧く使いこなしたと言っていいかもしれない――モーツァルトの音楽を明晰に、バランスよく再現してくれた。私がこれまで数多く聴いてきた日本の指揮者とオーケストラによる「魔笛」の中でも最も優れた演奏と称しても過言ではないと思う。歯切れのいいリズムで追い上げ、たたみこんだ各幕の終結個所など、ものの見事に「決まって」いた。さすがドイツの歌劇場で場数を踏んできた人だけある。日本では彼のオペラ指揮は、先ごろの新国立劇場での「椿姫」程度しか知られていないが、今回は本領発揮といってよかろう。
 われわれの国は、大野和士、上岡敏之という2人の優れたオペラ指揮者を擁していることを、もっと誇っていい。ただし遺憾ながらその2人ともが、日本の歌劇場のピットで真価を示す機会を未だ充分に提供されていないのは皮肉なことだが。

 オペラ終演後、羽田空港に直行、スターフライヤー便で北九州空港に飛ぶ。小倉のリーガロイヤルホテルに泊。


11・6(木)ジュリアーノ・カルミニョーラと
ヴェニス・バロック・オーケストラ

   紀尾井ホール 7時

 人気のピリオド楽器アンサンブルの演奏会。今日は「オール・ヴィヴァルディ・プログラム」で、ヴァイオリン協奏曲4曲を含み計7曲。そのあとにアンコールを5曲も演奏するという大サービス。

 今回は、指揮者のアンドレーア・マルコンは来ていない。そのせいか、最初の3曲は、このオーケストラにしてはどうしたのかと思うくらいアンサンブルも粗く、演奏も低調だった。が、ジュリアーノ・カルミニョーラがソリスト兼リーダーとして参加した4曲目以降は、これはまた別のオーケストラと見まごうばかりのすばらしい演奏となった。

 とにかくカルミニョーラの千変万化の音色とリズム、華麗なテクニック、演奏の推進力はまさに圧倒的で、これに触発されたヴェニス・バロック・オーケストラが目も眩むばかりの多彩さで縦横無尽に躍動して行く。ヴィヴァルディの協奏曲をこれほど面白く聴かせてくれるヴァイオリニストとオーケストラは、こんにち他に例を多くは見ないだろう。したがって後半は、至福の演奏会となった。満員の客席も、最後まで沸いていた。

11・6(木)METライブビューイング R・シュトラウス「サロメ」

  新宿ピカデリー

 もちろんシネマ上映。午前10時からの試写会を観る。
 松竹配給による新シーズンのプログラム第2弾が、この「サロメ」だ。

 ユルゲン・フリム演出で、2003~4年のシーズンに制作されたプロダクション。プレミエの時にはゲルギエフが指揮しており、私も当時手がけていた「ミュージックバード」の「メトロポリタン・オペラ・ライヴ」で放送したことがある。今回の指揮はパトリック・サマーズで、音楽的にはだいぶ薄味になった。
 サロメはプレミエ時と同様、カリタ・マッティラ。歌唱面では文句ない――が、言っちゃ何だが、この種のオペラではあまりアップで観ない方がいいかも。

 フリムの演出は、METの方針に合わせたか、所謂安全運転タイプで、気軽に観るぶんには過不足ないだろう。それゆえ、新味もない。「7つのヴェールの踊り」もたいしてどうということはないけれど、最後の決めのところはいかにも場末のストリップ・ショウ的な、野暮ったいセンスで興醒めも甚だしい。カメラが意図的に逃げてくれたのが幸いだ。
 ユハ・ウーシタロ(ヨカナーン)が物凄い馬力。他にキム・ベグリー(ヘロデ)、イルティコ・コムロジ(ヘロディアス)ら。

11・3(月・祝)テミルカーノフ指揮サンクトペテルブルク・フィル

   サントリーホール 7時

 すみだトリフォニーホールを出て、赤坂のサントリーホールに。
 こちらは、葬式に参列したあとで結婚式に出たような気分になったコンサート。

 プログラムの最初は、チャイコフスキーのピアノ協奏曲第1番。冒頭のホルンの強奏と、続くオーケストラのテュッティの何と開放的で明るく、壮麗で、ふっくらした響きだったこと!
 私はロシア音楽あるいはチャイコフスキーものも大いに好きなのだが、この曲だけは昔からすこぶる苦手だった。ただでさえ「ピアノとオーケストラの決闘」と言われるこの曲が、あまりに戦闘的に、ガリガリと怒号して演奏されるのに辟易していたのだ。だがこの日のように、オーケストラ・パートがふんわりした幅広い豊かさをもって演奏されれば、この協奏曲はこんなにきれいなものだったか、と見直すことができるというもの。

 ただ、ピアノのデニス・マツーエフは、相変わらずだ。強烈なダイナミズムこそ至高のもの、という思考からまだ抜け出ていないらしい。全曲最後の和音を、ティンパニのトレモロのフェルマータをピアノに編曲した場合に使うあのテで猛烈にたたき続けたのには、呆気にとられたり、苦笑したり。ソロ・アンコールで弾いた「山の魔王の宮殿にて」も、いや終わりの音の物凄いこと。
 まあ、ロシアの若手としては、このくらい勢いのある方がいいのかもしれないが。

 後半は、チャイコフスキーの第5交響曲。アンコールは「愛の挨拶」と、「胡桃割人形」からの「トレパック」。
 今年でコンビ20年を迎えたテミルカーノフとサンクトペテルブルク・フィルの呼吸は、今や充分と見える。指揮者がただ手を軽く上げてイメージをあたえるだけで、オーケストラは自在に躍動する。

11・3(月・祝)クリスティアン・アルミンク指揮新日本フィル定期

    トリフォニーホール 3時 マチネー

 「死の神秘」と題し、クルタークの「石碑」、ベルクのヴァイオリン協奏曲「ある天使の思い出に」、武満徹の「死と再生」、最後にマーラーの第10交響曲のアダージョ。
 選曲コンセプトといい、作品の性格といい、作品同士の音の続き具合といい、まさにこれ以上はないくらいの完璧な流れを持った陰鬱な(?)プログラム。息をつめて聴き、大いに気が滅入り、満足して帰る。

 クルタークの「石碑」は、舞台も溢れんばかりの超大編成による、3楽章からなる計12~3分の作品である。特に両端楽章での管楽器群の不思議な音の揺れが強い印象を残す。早い話が、たとえば第1楽章の最初では、「レオノーレ」序曲第3番冒頭で和音がたたきつけられたあとに下行して行く音がぐらぐらと揺れて震えるような、という具合――。
 タイトルの由来はよく解らないが、アルミンクがこれまで聴かせてくれたたくさんの現代曲の中では、私には大いに気に入るものであった。

 続いて、イザベル・ファウストが弾くベルクの協奏曲、休憩後には武満の「死と再生」(弦楽合奏)と続く。そして、これら晩秋の孤独の歌ともいう感のある曲を体験したあとに聴くマーラーの「アダージョ」が、これはまた何と透徹した凄みにあふれていたことか。
  音楽の友新年号(12月18日発売)演奏会評

11・1(土)ユベール・スダーン指揮東京交響楽団定期

   サントリーホール

音楽監督スダーンによるシューベルトの交響曲ツィクルス、いよいよ好調。今回は「3番」と「2番」。

 これまでの各曲と同じように、スコアの隅々まで神経を行き届かせた演奏である。曲中のすべてのフレーズ、すべての和声、すべてのリズムに気配りのない個所はない、と言っていいほどの演奏だ。
 このように一分の隙もない引き締まった響きをいとも易々と――内幕はどうか判らないけれども――聴かせる東響もすばらしい。何年か前、スダーンの指揮でモーツァルトの交響曲をさかんに演奏していた頃から既にその勢いがあったのは事実だが、一時期の迷いのような段階を克服して、現在はぴったり呼吸の合った関係に到達したといえよう。今回のシューベルト・ツィクルスは、スダーンと東響との共同作業における最高の結実であると言っても過言ではない。

 この日の演奏――冒頭の「3番」は、音づくりにあまりに念を入れすぎて、音楽の推進力がいささか薄められ、硬さをみせていた感がなくもない。「2番」第1楽章でも似たような傾向が感じられたが、これらはいわば気負いすぎのせいかもしれぬ。何にしてもこんなことは、翌日の川崎での公演では解決される問題だろう。

 毎回、プログラム後半に置かれた作品の方が強烈な演奏になる。これは作品の性格にもよるところ大きいが、一方でスダーン自身がプログラム構成の上で「山場」を設定しているためもあろう。前々回の「4番」、前回の「6番」がそうだった。

 この日の「2番」も、一夜の演奏の頂点を築く。第4楽章での押しに押す音楽の快調さ、終結近く第1主題を支える低弦のピチカートによるリズムの良さなど、もって行き方も実に巧い。
 12型の弦はきわめてよく鳴り、第1楽章提示部や再現部における小結尾のような個所では木管を打ち消す。しかし一方、第2楽章では各木管が変奏ごとに主役を演じ、あたかも室内楽のような精緻さで響く。このあたりのバランス設計も行き届いたものだ。
 また、第3楽章トリオではオーボエと掛け合う第1ヴァイオリンのパートを面白い音色のソロ(コンサートマスター=高木和弘)で演奏させたり、第4楽章冒頭の弦楽パートをソリで演奏させたりという趣向も凝らされていた。私は不勉強にして知らなかったのだが、これには当然何か根拠があるのだろう。スダーンご本人に訊いてみればよかったと思っている。

 この2曲の間に演奏されたのは、アンドレア・ルケシーニをソリストに、ベートーヴェンの「ピアノ協奏曲第4番」だった。オーケストラは、ここでも快いほどにかっちりと引き締まった隙のない響きを聴かせ、作品の古典的な性格の面を浮き彫りにしてくれた。
 ルケシーニの清澄な叙情感も美しい。第2楽章は指定の「アンダンテ・コン・モート」というより、アダージョとでもいうべきテンポで極度に沈潜するが、最近の若手ピアニストはよくこのテを使う。ソロ・アンコールではシューベルトの即興曲の「作品90-2」を弾いた。前後のプログラムに合わせたつもりだろうが、これはチト長い。

 会場が満員でなかったのは残念。こんな良い演奏は、もっと多くの人に聴いてもらいたい。スダーン=東響のシューベルトは、天下の超一級品である。
 音楽の友新年号(12月18日発売)演奏会評

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