2017-11

10・30(木)NHK交響楽団定期 ジャナンドレア・ノセダ指揮

   サントリーホール

 レイフ・オヴェ・アンスネスがソロを弾くラフマニノフの「ピアノ協奏曲第2番」で始まった。
 アンスネスの音色は、先日オペラシティで聴いた時とはガラリと違う。協奏曲にしても、アンコールで弾いたドビュッシーの「途絶えたセレナード」にしても、明るいクリアな音色の、粒立ちのいい響きが主体になっている。こちらの方が、ふだん聴き慣れているアンスネスの音色といえよう。が、聴く席の位置によっては、また別の印象が得られるかもしれない(今日は2階正面3列目。先日のオペラシティでは2階正面1列目)。
 ホールは楽器である――とはよく言ったもの。アコースティックだけでなく、聴く位置によっても、音色や演奏の印象が異なることが多い。今回の場合もその一例であろう。しかし、オペラシティで聴いた時には、実際にあのような音色に聞こえたのだ。

 ノセダは、またお家芸のダイナミックな身振りの指揮。「腕もひとより長いから、余計にそう見えるでしょ」と、ご本人も苦笑して認めている。
 N響もよく鳴るので、第1楽章ではアンスネスのソロも時に霞み、あたかもソロ・ピアノのオブリガート付の交響曲という雰囲気もあったが、そこはそれ、全曲を通じてはお互い巧く帳尻を合わせるといった具合に仕上げられていた。いいラフマニノフだった。

 休憩後は、レスピーギの「ブルレスカ」、ラフマニノフの「音の絵」をレスピーギが編曲した5曲、と続く。洒落たプログラムだ。ノセダのリズムの良さはすこぶる魅力的で、後者など――すっかりレスピーギ化された音色になってはいるが――ラフマニノフ独特のディミヌエンドしながら刻んで行くリズムの面白さをきわめて明確に出していた。それにしても、ここでのN響はさすがに上手い。

 大暴れしたノセダは、楽屋に戻った時には、全身シャワーを浴びたように汗まみれ。大きな身振りで握手の手を差し伸べてきた瞬間、頭と顔と腕から汗がしぶきの如く周囲に飛び散ったのには驚いた。
 オペラでの彼の次の来日はトリノ・オペラを率いての公演、そしてMET日本公演の指揮、と続くことになる。

10・29(水)小泉和裕指揮大阪センチュリー交響楽団定期

   ザ・シンフォニーホール

 大阪府からの補助金打切り予告に揺れる大阪センチュリー響の演奏を、大阪で聴く。
 先日びわ湖ホールで聴いた沼尻竜典(首席客演指揮者)との「サロメ」が、苦境をはじき返すかのような姿勢を示す入魂の演奏だったので、それでは今度は音楽監督の小泉和裕との定期を聴いてみようと、文化庁の芸術創造活動重点支援事業視察の仕事を兼ねて訪れてみた次第。

 小泉和裕は、彼がカラヤン国際指揮者コンクールに優勝して新日本フィルの音楽監督になって以来、よく聴いてきたし、演奏会のライヴ収録などで一緒に仕事もしてきた人である。オーケストラを実にバランスよく、均衡を保った響きで創り上げる手腕にかけては、国内屈指の存在であると私はその頃から思っていた。
 今夜の演奏でも、ブラームスの「ヴァイオリン協奏曲」などは、彼のその音づくりが最も良い形で発揮された一例だろう。
 このザ・シンフォニーホールのアコースティックは、サントリーホールや東京芸術劇場のような残響の長めのホールに慣れた私にとっては非常に難しく、ことに今夜のようなJ列席(1階中央の手すりのうしろ)で聴いた場合には、その音像の近さと生々しさに戸惑うことが多い。が、さすがに小泉と大阪センチュリーの音はまとまりがよく、ブラームスでは冒頭から良い音だなと惹きつけられた。がっちりと構築された演奏だ。

 常々彼は「シンフォニーをちゃんと演奏できるオーケストラに」を信条としており、その意味でもこれは成功した演奏に含めてよいであろう。ヴァイオリン・ソロに対していささかも妥協せぬがごときティンパニの強打も小泉らしいが、これは別の席で聴けばあるいは違ったバランスで聞こえたかもしれない。第2楽章のオーボエ・ソロもなかなか美しいものであった。

 後半のプログラム、シベリウスの第5交響曲は、大きな起伏を持った演奏で、特に終楽章は盛り上がりもよく、断続して強打される最後の和音の間の緊張も途切れることがなかったのはうれしい。ただ、このようなゆったりした音のうねりの大海の上に管楽器のソロが浮遊するような作品を演奏するには、オーケストラにもっと柔軟性が欲しい気もする。

 協奏曲のソロは、竹澤恭子。この人の気迫、明晰な音の構築、強力な響きを備えた、切り込むように鋭い演奏は、いつ聴いてもすばらしい。ここでは強い意志力を持ったブラームス像が描き出されて、聴き応え充分だった。彼女のような演奏家にならソロのアンコールを弾いてもらってもいいなと思ったが、こういう時に限って残念ながら何もナシ。

 会場は、ほぼ満席。これぞ聴衆の支援の気持の表れかと思ってうれしくなったが、しかし協奏曲が終り休憩後になったら、客席の中にやや隙間が増え、開演前に立ちこめていた熱気が不思議に薄らいでいるのが感じられた。この時期、いかがなものか。

10・28(火)エルヴェ・ニケ指揮ル・コンセール・スピリテュエル

  東京オペラシティ コンサートホール

 フランスのバロック・オーケストラ、待望の初来日。
 舞台は壮観だ。中央に基本8型編成(コントラバスは4本)の弦楽器群が構え、その後方に17本のオーボエ、8本のファゴット、2本のコントラ・ファゴットが位置し、9本のホルンと9本のトランペットおよび一対の打楽器がそれぞれ舞台の下手側と上手側に並ぶ。
 これらはすべてピリオド楽器で、人間の背丈の2倍ほどもある高さのコントラ・ファゴットや、左手を腰に当て半身に構え、右手だけで楽器を持って吹かれるナチュラル・トランペットなどは、とりわけ注目を集めたであろう。

 プログラムはダンドリューの「戦争の描写」を皮切りに、ヘンデルの「水上の音楽」第1,2,3組曲、「合奏協奏曲」作品3の4と5からの組み合わせ、そして「王宮の花火の音楽」組曲。
 作品によって楽器の編成は変えられる。弦と木管群のみの演奏があったり、オーボエとファゴットの一部がリコーダーと持ち替えられたりする。

 舞台の光景も賑やかだが、演奏も実に賑やかでダイナミックだ。荒々しく野性的なほどに咆哮するホルンやティンパニをはじめ、あらゆる楽器が力強いタッチで鳴り響く。「王宮の花火の音楽」など、あのように豪快なサウンドとエネルギーで演奏されたものは、かつてのコレギウム・アウレウム合奏団のレコード(ただし録音で聴く演奏のみ。ナマではずっと柔らかかった)以降、なかなか聴く機会のなかったタイプで、痛快だ。その一方で弦楽器群は、「合奏協奏曲」などできわめてしっとりした美しい音色を聴かせていた。

 これらには野外の祝典演奏、といったイメージをも感じるが、それとは別に、ヨーロッパの人々の多様な音楽の受容の仕方というものをいろいろ考えさせられることもたしかである。
 いずれにせよこういう時に、アンサンブルがめちゃくちゃだとか、トランペットが(ヴァルヴのないナチュラル・トランペットなのに!)速いパッセージで音を外したとかで文句を言うのは、野暮というものだろう。ましてブーイングなどする人の神経は、私には到底理解できない。とはいえ正直なところ、アンコールとしてもう一度演奏した「王宮の花火の音楽」の一部のような、完全にお祭りと化した音響には少々辟易させられたのも事実だが・・・・。

 思えば1992年にガーディナーとオルケストル・レヴォリュショネル・エ・ロマンティークが来日して、日本最初の「ピリオド楽器オーケストラによるベートーヴェン交響曲チクルス」を行なった時にも、アンサンブルが粗っぽいとか、金管が音を外してばかりいるとか――実際には「不安定」という程度、それも部分的にすぎなかったのだが――悪口ばかり言っていた人がいたっけ。

 舞台の上手側と下手側に分かれた金管群が交互に呼応して吹く音響効果は面白い。この効果は、冒頭のダンドリューの「戦争の描写」という曲で遺憾なく発揮されていた。
 昔、フィリップ・ジョーンズ・ブラス・アンサンブルが来日した際にも、「塔の音楽」という作品でこの効果を巧く使っていたのを思い出す。またノリントンがシュトゥットガルト放送響とシューベルトの「ザ・グレイト」を演奏した時にも、ホルンとトランペットを舞台の上手と下手に離して配置し、第2楽章231小節からの両者が呼応するくだりを立体的に響かせるといった卓抜したアイディアを披露していたが、これも同じ発想だったのだろう。
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10・27(月)レイフ・オヴェ・アンスネス・リサイタル

  東京オペラシティ・コンサートホール

 ノルウェー出身の人気のピアニスト。会場は満席に近い。

 プログラムは、ヤナーチェクの「霧の中で」に始まった。翳りのある音色としっとり歌い上げられる憂愁感のようなものがすばらしい。
 この音色は、次のシューベルトの「ソナタ第19番ハ短調」にそのまま引き継がれる。こちらの聴いた席が2階正面だったせいか、聴く前に予想していたのとはやや異なる、かなり陰翳に富んだ、和音に厚みのあるシューベルトになっていたのが興味深かった。EMIに入っている彼の新しい録音ではもう少し軽快なイメージも感じられたのだが、これはそれぞれのホールのアコースティックの違いにもよるだろう。

 もっともこの人は、作品によって音色を大きく変えるというタイプのピアニストではない。休憩後のドビュッシーの「前奏曲集」抜粋(5曲)も、どちらかといえば骨太で、力強い低音部に支えられた厚みのある和音で響き渡っていた。
 私は聴いていて何となくかつてのアラウの演奏を思い出してしまったが、もちろん彼ほど重くはなく、いっそうエネルギー感が豊富で、しかも瑞々しい。こういうドビュッシーもいい。実はメイン・プログラムの中でいちばん気に入ったのが、これだった。
 そして最後はベートーヴェンの「月光ソナタ」。この日の演奏に共通する特徴だった低音域の力強さが、存分に生きる。

 何となくプログラム後半にかけてぐんぐんと勢いを増していったようなこの日の彼だったが、その余勢を駆って、アンコールでもすこぶる活気にあふれた演奏。
 初めて煌びやかさを聴かせたドビュッシーの「アナカプリの丘」(マネージャーはそう言っていた。こちらは「映像」第1集の中の「運動」かと思っていたが・・・・あとになったら、記憶が曖昧になった)に、意志の強いベートーヴェンの「ソナタ第13番」の後半、それに天馬空を行くようなスカルラッティのソナタ――何番か忘れたが、訊ねたら「K.492」とのこと――。

 こうして振り返ってみると、聴いている間はさほど意識しなかったものの、結局は気分の上で「暗」から「明」へと向かうように、巧みに構築されたプログラムだったことに気づかされる。アンスネス、なかなかの曲者だ。

10・23(木)ウィーン国立歌劇場来日公演「コジ・ファン・トゥッテ」

   東京文化会館

 ロベルト・デ・シモーネ演出による舞台は、きわめてオーソドックスなもの。主役6人は過不足ない演技だが、コーラスは何もしない棒立ち整列。
 ラストシーンでは2組の恋人の行く末は具体的に示されない。しかし、照明がどんどん暗くなり、6人の表情も渋面のままで終わる幕切れは、苦々しい体験だけが残るというアイロニーを示すものなのだろう。

 いくつかの壁がさまざまに組み合わせられ、異なった光景を作るマウロ・カロージの舞台美術は、なかなか良くできている。
 すべてが安定していて、安心して見ていられる舞台だ。その反面、スリルも意外性もなく、この物語に新しい何かを見出せるというたぐいの舞台でもない。要するに、それだけのものである。目を閉じて聴いていたとしても、特に支障はなかったかもしれぬ。

 結局、常に永遠であり、かつ常に新鮮さを保っているのは、モーツァルトの生き生きした、心理描写に富む音楽だけなのだった。
 リッカルド・ムーティの指揮は昔に比べるとパウゼを長めに採るようになり、落ち着いた雰囲気の音楽になってしまってはいるが、それでもこの作品の魅力の一つである精妙なハーモニーの美しさを存分に聴かせてくれていた。

 バルバラ・フリットリ(フィオルディリージ)、アンゲリカ・キルヒシュラーガー(ドラベッラ)、ミヒャエル・シャーデ(フェランド)、イルデブランド・ダルカンジェロ(グリエルモ)、ラウラ・タトゥレスク(デスピーナ)ら、いい顔ぶれが揃っていた。いずれも清冽な歌唱と演技だったが、これでナターレ・デ・カローリス(ドン・アルフォンゾ)が一癖ある黒幕的存在を演じていたならこの舞台、いっそう引き締まったろう。

10・22(水)大野和士指揮 「ヘンゼルとグレーテル」(フンパーディンク)

    サントリーホール小ホール

 これはシネマ上映。
 メトロポリタン・オペラの「METライブ・ビューイング」の好評に後乗りしたか、ソニー(株)が「UKオペラ@シネマ」と題し、英国のロイヤル・オペラおよびグラインドボーン音楽祭からの4本のオペラ・ライヴ映像の配給を開始した。前者からは「フィガロの結婚」と「カルメン」、後者からは「ジュリアス・シーザー」(ヘンデル)と「ヘンゼルとグレーテル」が12月以降に上映されることになっている。
 後乗りだろうと何だろうと、これは良いことである。大いに展開して欲しい企画だ。

 この「ヘンゼルとグレーテル」は、ロラン・ペリーの演出と大野和士の指揮で、グラインドボーン音楽祭で今年夏に上演されたプロダクション。大野が実に良いテンポで、巧みな起伏をもって音楽を盛り上げる。見事だ。ジェニファー・ホロウェイ(ヘンゼル)とアドリアーナ・クチェロヴァー(グレーテル)も、舞台狭しと躍りまわり、跳びはねる。

 「お菓子の家」がスーパーの菓子売り場をもじった造りだったり、「魔女」(ヴォルガング・アプリンガー=シュペルハッケ)が言語道断なほどグロテスクな扮装をした大男だったり、菓子の家から解放されて出て来た子供たちが揃いも揃って凄い肥満児だったりするところなど、笑いを誘う。だが何より観ていてうれしかったのは、グラインドボーン音楽祭デビューの大野和士が盛大な拍手を浴びていた光景であった。

 前半で、スピーカーの音量があまりに大きく、再生音が耳を劈くようなレベルになっているのには辟易した。AV機器の企業でありながら、かように音に無神経とは困ったものである(とはいえ、METビューイングでもひどいPA音量の時がたまにある)。たまりかねて休憩時間に、ソニー・ミュージックの知己の大立物氏を通じて頼み込んだら、音量を少し下げてくれた。第3幕は聴きやすかったと思う。

10・21(火)エサ=ペッカ・サロネン指揮
ロサンゼルス・フィルハーモニック

   サントリーホール

 今回のサントリーホールでの2回の演奏会は、ドビュッシーの「海」を除き、すべてバレエ音楽(もしくはそれに因むもの)で構成されたプログラムである。今日は「恋は魔術師」(ファリャ)から「恐怖の踊り」「愛の戯れの踊り」「火祭りの踊り」の3曲、「マ・メール・ロワ」(ラヴェル)の全曲、「火の鳥」(ストラヴィンスキー)全曲、そしてアンコールに「悲しきワルツ」(シベリウス)と、翌日のプロの1曲目におかれている「花火」(ストラヴィンスキー)が演奏された。
 
 オーケストラから引き出される音色の、なんと明晰なこと。それは爽やかで快いほどである。響きには透明感があり、いささかも曖昧なものがない。
 「マ・メール・ロワ」や「火の鳥」では、微細に絡み合う各声部の動きがすべて明確に、時には冷徹なほど鮮やかに浮かび上がる。白色の光に照射された玲瓏たる響きは、これらの作品がもっている驚くほど精妙で清澄な美しさを浮き彫りにしてみせる。「パゴダの女王レドロネット」におけるハープとチェレスタを交えた、溶けるような柔らかい響きなどもその一例といえよう。
 甘美な陶酔感や、民族的な色彩感にあふれたダイナミックな演奏もたしかに一つの手法であり、それはそれでもちろん魅力的だが、しかし一方、このように端正なスタイルによる再現も作品の多様な側面を描き出して聴き手を引き付ける。

 しかし「恋は魔術師」のような作品になると、やはりそれだけでは片付けられない何かがあるようだ。あまりに民族的な色彩が作品のすべてになってしまっているからだろう。ここではサロネンとロス・フィルは、分厚い音で暗黒の魔術的な雰囲気を巧みに描いた。重量感のある弦楽の響きと、その奥から不思議な遠近感(音量を抑制していたこともあるだろう)をもって聞こえてくるオーボエの音色が、実に奇怪な夜の雰囲気を表わして面白かった。このデュナーミクの対比は見事である。

 テンポは全体として遅めだったが、それは「火の鳥」の最後の長い壮大なクレッシェンドで効果的だった。十数年間にわたったサロネンとロス・フィルの共同作業は、見事な結実を生んでいる。音楽監督の交替ということもあって、このコンビを日本で聴くのはおそらくこれが最後になるだろう。本当に魅力に富んだ組み合わせであった。

 客席の入りがあまり良くなかったのは残念だが、しかし拍手の音量も盛り上がりも並外れて大きい。熱心なお客さんが集まっている。
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10・20(月)下野竜也指揮読売日本交響楽団のヒンデミット

  サントリーホール

 「下野プロデュース・ヒンデミット・プログラム」の第2回。
 前半に「シンフォニア・セレーナ」、後半に「前庭に最後のライラックが咲いたとき(When lilacs last in the door-yard bloom'd)~愛する人々へのレクイエム」。

 いくら定期ではあっても、これはかなり思い切った、渋いイメージの曲目編成だ。読売日響の意欲的な姿勢が評価されてよかろう。客席に隙間がかなり多かったのは残念だが、拍手は大きく、かつ長かった。オーケストラのこういう努力はいつか必ず報われよう。実際の演奏を聴けば、本当に魅力的なプロなのだ。
 今日の演奏では、何といっても読売日響を制御する正指揮者・下野竜也の真摯な気力がすばらしい。ちなみに彼は、このオーケストラの正指揮者としての契約を2013年3月まで延長したそうだ。楽団側と聴衆からの支持の結実であろう。祝着である。
 ついでに言えば、指揮者たるもの(髪があるならばだが)やはり丸刈り坊主頭でなく、髪を振り乱して指揮する方がいい。理由はべつにない。何でもいいから、髪を伸ばしてくれたまえ。

 「シンフォニア・セレーナ」ではオーケストラの豊麗な響きがなかなか魅力的で、作品の題名が持つニュアンスを重視したと感じられる演奏でもあった。第2楽章でパロディ的に引用されているベートーヴェンの行進曲の主題を殊の外明快に響かせたのも面白く、叙情的な曲想が主流の全曲の中にアクセントをつけるのに効果的だった。第3楽章での弦のソロは藤原浜雄(コンマス)とデイヴィッド・ノーラン(舞台外)、ヴィオラが生沼晴嗣と鈴木康浩。

 「前庭に・・・・」も落ち着いた演奏で美しかったが、60分以上、11曲からなる長い作品となれば、全曲の構成にもう少し起伏があってもよかったか。
 頂点と思われる第7曲のフーガは、歌詞のどの部分に重点を置いて考えるかで音楽の解釈も変わってくるだろうが、全体の音楽の流れからいえば、もっと力強く壮大であってもよかったのでは。
 もっとも、今回の声楽陣――新国立劇場合唱団と重松みか(Ms)、三原剛(Br)――の英語発音があまり明晰でなく、リズムや表情にもメリハリが不足していたことが、全曲の流れをやや平板に感じさせたのかもしれない。
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10・18(土)ドミトリー・キタエンコ指揮東京交響楽団

  ミューザ川崎シンフォニーホール

 昼前に早稲田大学オープン・カレッジでのオペラ講座(「オペラにおける一般大衆の群像」というテーマ)を行ない、それからコンサートのダブルヘッダー取材を目論んではいたものの、早起きしたあとのこのスケジュールはさすがに応える。
 やむを得ず、当初に予定していたマチネーのハウシルト指揮新日本フィルは諦めた(他にもノセダ指揮N響、ヴォルコフ指揮東京都響など目白押しだった)。また夜の方は、はじめは小山実稚恵とシンフォニア・ヴァルソヴィア(サントリーホール)を予定していたが、ある原稿の都合でキタエンコの指揮を聴いておく必要に迫られたため、川崎へと向きを変える。

 東響の演奏会は「名曲全集」の第41回。このシリーズはすこぶる好評と見え、今日もほぼ満席に近かったのには感心。全チャイコフスキー・プロで、「エフゲニー・オネーギン」からの「ポロネーズ」、ヴァイオリン協奏曲に交響曲第5番。

 キタエンコの指揮には、これまでにもベルゲン・フィルとの来日の際などで何度か接してきたものだが、今やすっかり巨匠然とした風格も備わっているように見える。「ポロネーズ」でも交響曲でも、遅めのテンポで悠然と音楽を進めていた。
 かたやオーケストラの方は、このどっしり構えたテンポを常に持ち応えていたとは必ずしも言いがたいものの、しかし第2楽章最後のクラリネットと弦によるpからppppへの漸弱の美しさは絶品だったし、終楽章コーダのモルト・マエストーゾにおける弦楽器群も威容感にあふれてすばらしい演奏であった。

 協奏曲のソロは、最近人気の高いKというイケメン青年だったが、齢に似合わずおそろしく粘り気の強いレガートを多用する。それが彼のスタイルだというならそれでもよかろうが、音楽に終始表情の変化が皆無であり、曲想やオーケストラがどんなに昂揚する個所でも我関せずといった調子で同じように弾き続けるのには心底呆れた。つまり、弾いてはいるけれど、生きた「音楽」がないのである。音程にも不安定なところが多いし、速いパッセージの個所など一つ一つの音が明晰でない。高校生の時に全日本音楽コンクールに優勝したはずだが、そのあと一体どこで何を勉強していたのか。こんな程度の音楽への姿勢で演奏活動をやり、人気に溺れていたら、先は無いと言っていい。まだ22歳だというから、勉強し直すための時間はたっぷりあるだろう。

10・16(木)ミハイル・プレトニョフ指揮東京フィル

  東京オペラシティコンサートホール

 ラヴェルの「ダフニスとクロエ」第2組曲、グラズノフのサクソフォン協奏曲変ホ長調(ソロは須川展也)。後半はショスタコーヴィチで、「黄金時代」から4曲と、交響曲第1番。

 18年前にロシア・ナショナル管弦楽団を旗揚げした頃、プレトニョフの指揮は天馬空を行くがごとく英気颯爽とした勢いで、畳み込むような緊張感をあふれさせ、いかにも才人といった洒落っ気もたたえていたものだった。
 それに比べると、近年はだいぶ肩の力を抜いたというか、よく言えば自由な、悪く言えば無造作な音楽を聴かせるようになった。昔のようにオーケストラをきっちりと統率することには、さほど興味を持たなくなったようにも感じられる。手塩にかけたロシア・ナショナル管との演奏にもそうした傾向が聞かれるくらいだから、客演相手である東フィルとの演奏なら、むしろ当然なのかもしれない。
 今夜もリズムが妙に堅苦しく、音楽にしなやかな流動性が不足していた。もっとも、東フィルの管楽器群の方も、ちょっと拍手を送りかねる出来だったことは事実である。

 ただし、最後のショスタコーヴィチの「第1交響曲」にいたって、それまでの不満や問題も、すべて吹き飛んだ。オーケストラも俄然引き締まった。若き作曲者の才気を再現するにはもう少し洒落っ気が欲しく、もう少し軽かったら、とも思わせられたが、この曲特有の不意を衝く荒々しいデュナミークの変化などではなかなか勢いがあり、鮮やかさもあった。

 日曜日には「9番」が演奏されるはずである。

10・15(水)新国立劇場 プッチーニ「トゥーランドット」

  オペラパレス

 僅々2週間足らずのうちに観る、これが3つ目の「トゥーランドット」。
 ソフィア・オペラとキエフ・オペラのそれがいずれもトラディショナル系の舞台だったので、あれこれ工夫を凝らしたこの新国のプロダクションは、いい気分転換になった。

 演出と照明はヘニング・ブロックハウス。イタリアの某地にやって来た旅回りの一座が、遊園地の仮設舞台でこのオペラを上演する、という設定だ。集まった大勢の見物人も、中国風の衣装に着替え、合唱団として参加する。そして、第3幕で可憐なリューが死ぬ場面をもって劇中劇の上演が終わり、そのあとのアルファーノ補訂部分はエピローグとして扱われる。
 こういったコンセプトは――理由は省くが――とりあえず理解が行く。

 ただ、一同が平服に着替えて進められるこのエピローグ部分においても、ドラマは結局のところ継続されているわけであり、そのへんにどうも不自然さが付き纏う。
 あれが「後日談」なら、平服に戻るのは筋が通るまい。あるいはガイ・ヨーステンがオランダで演出した「ノルマ」のように、楽屋での人間関係とドラマとを交錯させた手法なら納得できるが、そういう方向でもない。それならいっそ、エピローグだけ演奏会形式にしてしまう方が解り易かったのではないかと思うが、そんなのはよく使われるテだから陳腐であるとブ氏は考えたのだろうか。

 この「エピローグ」を設定したがゆえに「プロローグ」も必要だという理由で、今回は演奏が始まる前に、遊園地に群集が三々五々集まって来て、賑やかな屋台が出て、舞台が設営され、道化(3人の廷臣たち)が前景気をつけるシーンがおかれた。が、ずっと無音の状態で続くこの場面は異様に長々しく、少なからず気分を白けさせた。

 しかし、その2点を除けば――たとえ一風も二風も変わった舞台構成であるとはいえ――意図的な田舎芝居に設えられた「トゥーランドット」として、それなりにまとまったものになっているようである。
 道化たちがくどいほど軽業を繰り返したり、踊り子たちがのべつ登場したり、あるいは仮設舞台の屋根の上にバンダが並んで金管パートを補充強化したりしていても、それらは「劇中劇」であるという理屈で通ることになる。演技は全く無いに等しい(唯一、アルトゥム皇帝の五郎部俊朗だけは細かい演技をしていた)が、それも「旅回り一座」のイメージで許されてしまうのだろう。

 アントネッロ・アッレマンディが指揮する東京フィルは、めずらしく轟々と咆哮していた。この劇場のピットの中でこれほど重厚に、しかも分厚い響きで鳴った東フィルは、もしかしたら初めて聴いたかもしれない。先日のキエフ・オペラのオーケストラほどではなかったにしても、なかなか豪華だった。なお第3幕の最終場面に入った直後、ピットのオーケストラのトランペットが一つの音を4度上げて吹いていたような気がしたが、聞き違えでなければ、これは場面にふさわしく爽快である――ただ、瞬時に通り過ぎてしまったので、確信はない。

 新国立劇場合唱団は、いつものように、非常に力強かった。パワーとしてはソフィアのそれをはるかに凌ぎ、キエフのそれに匹敵するだろう。トゥーランドットはイレーネ・テオリンだったが、声にやや無理がある。一方カラフ役のヴァルテル・フラッカーロは存分に高音を誇示していた。リューの浜田理恵は美しい声で映えたが、第1幕の「ご主人様、お聞き下さい」の方は少し表情過多だったか? 

 「トゥーランドット」が、続くときには続くものである。来年3月には、びわ湖で沼尻竜典が指揮する上演がある。その前には、ベルリン州立歌劇場で突拍子もない演出のプロダクションをやるというから、観に行ってみようかと思っている。
 

10・14(火)イラン・ヴォルコフ指揮東京都交響楽団

  サントリーホール

 このところ指揮者の「ライジング・スター」に出会うことが多いが、このイラン・ヴォルコフという人も注目株だろう。
 イスラエル生れで、まだ32歳。既に2003年からBBCスコティッシュ響首席指揮者をつとめる若武者だが、私がナマで聴いたのは、今夜が初めてである。

 「トゥーランガリラ交響曲」(メシアン)が個性的な演奏で、面白かった。冒頭からして、実に明晰な音である。最近聴いたこの曲の演奏の中で、これほど各楽器のパートが明瞭に浮かび上がった音づくりは珍しい。
 そしてそれらが、ことごとく挑戦的な、突き刺さるような響きをもって噴出して来る。そのため作品全体が、とてつもなく刺激的なサウンドになる。第5楽章などその荒々しさゆえに、「星の血の喜び」というよりは「星の血の狂乱と咆哮」といった感があろう。こんなに強烈なメシアンは私には想定外だったが、しかしこの曲にはたしかにこういう面もある、ということを教えられたのは事実である。
 だが、ヴォルコフはただ吼えるだけではない。「愛の歌Ⅱ」や「愛の眠りの園」の各終結部分における透徹した最弱音などには、ハッとさせられるほど、それらにふさわしい安息感が聴かれたのであった。

 都響は、大熱演だった。最強奏での音があまりきれいでないのが問題だが、もしかしたらそれもヴォルコフの意図的なねらいだったのか。でも、熱気にあふれていたところは好い。
 オンド・マルトノは、いつものように(?)原田節。
 ピアノは今回は児玉桃で、彼女のメシアンは、どんなに激しい個所においても、音色が温かい。ヴォルコフがたたきつけて来る音楽とは異質なところもあったが、むしろ私にはそれが救いだった。もし同じような鋭角的な音色だったら、こちらはヘトヘトになったかもしれない。

10・13(月、祝)大阪音大ザ・カレッジ・オペラハウス
「真夏の夜の夢」

   ザ・カレッジ・オペラハウス

 昨夜は「ホテルグランヴィア大阪」に泊。ここは大阪駅に直結している(ほとんど構内という感)ので、早朝の新幹線に乗るには至極便利な場所だ。ただ、一休あたりのネットを通じて安い部屋を予約すると――これは「新阪急ホテル」あたりでも同様だが――中庭に面した、陰々滅々たる雰囲気の部屋を割り当てられる(だから安いのだろうが)。今回もそう。

 で、今日は阪急線庄内駅の近くにある大阪音楽大学ザ・カレッジ・オペラハウスでのマチネー・オペラ公演だ。
 ここは「20世紀オペラ・シリーズ」と題し、きわめて意欲的なレパートリーを上演している団体で、今年はブリテンの「真夏の夜の夢」を取り上げた。それほど潤沢な予算があるとは思えないが、実に良心的なプロダクションを毎年制作しているところである。

 今年の上演も力作。
 中村敬一の演出は、彼らしく中庸を得た作りで、中央に置かれた回転舞台装置と紗幕(美術:増田寿子)および照明(石田紀子)を駆使し、妖精たち・2組の恋人・芝居に熱中する職人たちの3グループの存在を要領よく、巧みに描き分けていた。
 これだけでもこのオペラの演出上の最大の難問を解決できていたといってもいい。
 しかし、歌手たちの演技が悉く類型的――例の、客席方向を向いて両手を拡げるジェスチュアだ――なのが難で、これが3幕正味2時間半の長尺ものを単調に見せてしまう原因になる。昨日の「サロメ」でのドラマトゥルギー満載の演技に接した翌日だけに、なおさら旧弊依然たるものに感じられてしまうのである。もしここにシェイクスピアの戯曲らしく「芝居」が導入されていたなら、この「真夏の夜の夢」の舞台は、目を見張るものになっていたろうに。

 歌手はいずれも関西の人たちだが、ボトム役の西田昭弘ら、男声歌手たち分があったようだ。女声歌手の方は主役陣の中に、ソプラノの高音域がフラットになったり、アルトの(低域はいいのだが)高音が伸びなかったりする人がいるのが気になる。
 首席指揮者チャン・ユンスンが率いるザ・カレッジ・オペラハウス管弦楽団は好演で、管のソロもなかなかのもの。ただ、この室内楽にも似た微細な響きに満ちる長丁場の音楽を快い流れで進めるには、指揮者にはもう一工夫してもらいたいところである。

 2時開演で、5時半終演。
 2日続けて関西で20世紀オペラの意欲的な上演に接することができたのは、本当にうれしい。
 新大阪7時13分発の新幹線で帰京。連休最終日とあって満席。

10・12(日) びわ湖オペラ「サロメ」

   滋賀県立芸術劇場 びわ湖ホール

 僅か9ヶ月の間にR・シュトラウスのオペラを、それも非凡な水準の新プロダクションを二つも制作するというのは、日本のオペラ界にあっては偉業と言うべきであろう。
 沼尻竜典(芸術監督)とびわ湖ホールが、2月の「ばらの騎士」に続き、今回は「サロメ」を成功させた。彼が指揮する大阪センチュリー響の濃密な快演と、日本人のみで編成された歌手陣の健闘、カロリーネ・グルーバーの新解釈演出による、見事な上演だった。
 これはポルトガル国立サン・カルロス劇場との共同制作。

 まずはグルーバーの演出だが、基本的なコンセプトは多分こうだろう。
 ここでのサロメは、本来は異常な怪物でもなんでもなく、思春期を迎えている普通の少女(スカートにソックスという服装)なのだが、両親との幸せな家庭生活に憧れているにもかかわらず、その両親の淫乱猥雑な日常を見せ付けられていることにより精神的に荒廃して行く。彼女のそのストレスは、偶々ヨカナーンという予言者に出会ったことで暴発し、彼への愛を妨害するナラボートや小姓をも殺害した挙句、ヨカナーンの血塗れの首を抱きかかえ(あたかも胎児を抱くことを夢見るような姿で)愛撫しつつ、自ら短剣で命を絶つ――。
 サロメ像については古今多くの解釈が行われているが、このグルーバーの演出アイディアは、すこぶる面白い。

 場面は一貫して、ブランコや滑り台、人形や玩具なども見える遊園地のような光景の中に進められる。
 冒頭、ブランコで遊ぶ幼女サロメの姿が目に入るが、これはまもなく、同じ服装をした、少女に成長したサロメ(大岩千穂)にすり替わる。とはいえ幼女の方も最後まで舞台に存在し続け、人々の関心の対象にもなっているので、これはサロメの分身としての性格を示していることは明らかだろう。
 ヨカナーン(井原秀人)は井戸でなく地上にいて、折々後景から出て来る(これは最近よくやられるテである)。ヘロデ(高橋淳)やヘロディアス(小山由美)をはじめ、その場に集う人物はいずれも淫靡で華美な服装と演技である。
 
 しかし、なんといっても極めつけは、「7つのヴェールの踊り」を、サロメが父母――もちろん、ヘロデとヘロディアス――との家庭の団欒を夢見る場面に仕立て上げたことであった。サロメは父のバースデーを祝って母とともにケーキを楽しく食べ、父とバドミントンをしてはしゃぎ、母は服にアイロンをかけるという、まさに温かい一家の生活が展開する。しかし、この夢も長くは続かぬ。踊りの音楽が終結に近づくと、父と母は突如悪魔のような姿に変って行き、少女サロメの顔に恐怖の表情が浮かぶや、踊りの終了和音とともに舞台はもとの猥らな世界に戻る。
 この心理学的な解釈は実にすばらしく、強烈な印象を生む。現代の社会問題を描き出すとかなんとかいう説明も可能だろうが、それ以前にまず舞台芸術としての一つの成果であることは疑いない。

 こういうドラマを創り出すに当たり、日本人歌手たちは見事な演技と歌唱を繰り広げていた。聴きごたえと観ごたえ、ともに充分なものだったと断言して間違いではない。脇役や無言役の助演者たちにいたるまで同様である。下手寄りでは終始かなりエロっぽい演技を続けていた助演者たちもいたが、そうした隅々までの完璧な演技こそが、舞台を引き締めるもとになる。

 カーテンコールでグルーバーとヘルマン・フォイヒター(照明)が一緒に登場した時には少々のブーイングも出たが、むしろこのくらいの反応がなければ、手ごたえがあったとは言えまい(なおブーを叫んだ一人は、某大新聞社の論説委員だった由)。

 そして何より最大の賛辞は、沼尻竜典と、彼の指揮する大阪センチュリー響に捧げられなければならない。今回も、今年2月の「ばらの騎士」に勝るとも劣らぬ濃厚で官能的な、劇的表情の強烈な演奏であった。歌手の声量を考慮した、抑制された音量の個所にも、きわめて柔らかく拡がる豊満な音色があふれていた。その一方、ヨカナーンの首が台車の荷台から放り出されるあたりの管弦楽の怒号には、衝撃的なほどの魔性も漲っていたのだった。経済的な苦境に直面している大阪センチュリー響の、必死とも言える演奏を称えたい。

 当然ながら、沼尻の近年の変貌にも目を見張らずにはいられない。かつてはクールな音楽の持ち主だった彼が、なにがきっかけで、こんなに表情の濃厚な、劇的な音楽をも創るようになったのか。
 終演後の打ち上げの際に、冗談交じりに彼に「そういう傾向を、自分でも意識している?」とたずねたら、「そうかなあ、全然自分では意識してないけど。しいて言えば、トシとったせいかな」と笑い飛ばされた。頼もしい指揮者が、ここにもいる。

10・11(土)トゥガン・ソヒエフ指揮NHK交響楽団

  サントリーホール

 トゥガン・ソヒエフ Tugan Sokhiev――北オセチア生れ。日本では今「ソキエフ」と表記されているが、ロシア語読みなら「ソヒエフ」である。たとえば、Khrushchev は「フルシチョフ」であり、「クルシチョフ」とは言わない。Mikhail だって「ミハイル」であり、「ミカイル」なんて言わない。

 とにかく、すばらしい若手が現われたものである――といっても欧州では既に著名な存在だ。31歳の若さながら、トゥールーズ・カピトル国立管弦楽団の音楽監督をもつとめている(来年このオケと来日する)。

 今日のコンサートでも、1曲目の「魔法にかけられた湖」(リャードフ)冒頭から早くも不気味なほど神秘的な音色がオーケストラを満たしはじめていることが感じられた。これを聴いただけでもソヒエフは、「音の響き」へのこだわりを並外れて強く持つ指揮者であることがわかる。プロコフィエフの「ヴァイオリン協奏曲第2番」においても、この曲には意外なくらい、濃厚な色合いというものがオーケストラには漂っていた。

 そして休憩後のショスタコーヴィチの「第5交響曲」では、N響の弦楽器群に、ロシアのオーケストラによくある(昔は東欧のオーケストラにもあったが)あのしっとりして艶っぽい、しかも高音域に一種の透明さを備えた音色が聴かれたのだった。これは、驚くべきことだろう。
 またこの曲では、それまでの演奏で抑制されていた強烈な力が存分に噴出されたが、それが野放図なものでなく、きわめて緻密な制御によって内側に凝縮していくように感じられるところが面白い。演奏には緊迫感が漲っていて、第3楽章での弦のトレモロは物凄い気迫だったし、第4楽章でコーダに入るあたりからの期待感を持たせる構築も巧い。
 アンコールは、プロコフィエフの「古典交響曲」の第3楽章で、この洒落たリズム感と、最後の茶目っ気のある終結もなかなか好い。

 まだ31歳の若さながら、あの我儘な(?)N響をこれだけ縦横に制御するソヒエフの力量は、驚異的である。N響といい演奏をしたからそうだというわけではないが、音楽の造りから予想すれば、この人は大物になるだろう。当節、キリル・ペトレンコといい彼といい、「ロシア系の」若手指揮者には注目株が多い。

 プロコフィエフの協奏曲を弾いたのは、神尾真由子だった。チャイコフスキー国際コンクール優勝からまだ1年しか経っていないにもかかわらず、成長が目覚しい。キラキラする表情が音楽にあふれていて、この作品が明るい陽光の中に輝くかのようである。終楽章の追い込み個所などに、持って行き方の巧さが加われば文句ないだろう。全身で弾く舞台姿には、美しい迫力がある。ただ一つ、あんなに顔をしかめずに演奏してくれればなお好いのだけれど。
 

10・10(金)キエフ・オペラ(ウクライナ国立歌劇場)
「トゥーランドット」

  オーチャードホール

 ソフィア国立歌劇場は「仮面舞踏会」と「トゥーランドット」を持ってきた。そしてこのウクライナ国立歌劇場は「椿姫」と「マノン・レスコー」と「トゥーランドット」を持ってきた。
 同時期に来日した二つの東欧の歌劇場が、いずれも西欧の名作オペラのプロダクションを携えて来たというのは、勧進元の商売上の都合だったのか、それとも歌劇場側が「ウチだっていろんなのが出来る」と実力を誇示したがったためか。そういえば、かのゲルギエフも「俺たちはロシアもの以外にもたくさんレパートリーがあるんだ」とばかり、ワーグナーやヴェルディを盛んに日本で上演したことがあったし――。

 それはともかく、しかしこのキエフ・オペラの「トゥーランドット」は、すこぶるまとまりが良い。素朴だが、エネルギー充分である。
 首席指揮者ヴォロディミル・コジュハルが率いるオーケストラの鳴ること鳴ること、特にトランペットがあれだけ朗々と小気味よく吹きまくる「トゥーランドット」は、ナマの上演では、私にとっては初めての体験である。オペラは、やはりオーケストラが雄弁でないと面白くない。

 そして、それに負けぬパワーで声を轟かせたのが、題名役のテチヤナ・アニシモヴァ(座付歌手である)と、それほど人数の多くない合唱団。この合唱団は、先日のソフィアとは比較にならぬほど力強く、聴きごたえがある。リューを歌ったアッラ・ロジーナも、細い体だがよく通る声を持っていた。カラフ役(アンドリイ・ロマネンコ)があまり冴えなかったのは、先日のソフィア・プロダクションと同じ。

 演出(マリオ・コラッジ)に関しては、ごくまっとうな、シンプルな直立スタイル、という以外に形容すべき言葉は無い。舞台装置は簡略だが、これもソフィア同様、精一杯カラフルな趣向を凝らしたものであり、特に女性の衣装は妍を競っていた。
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10・9(木)マーク・パドモア&イモージェン・クーパーの「冬の旅」

  トッパンホール

 ちょっと不思議な「冬の旅」。

 マーク・パドモアは、バッハの宗教曲のエヴァンゲリストとして定評のある名テノールだが、そういう先入意識を抜きにして聴いていても、何かエヴァンゲリスト風「冬の旅」という、論理的に説明できないイメージに取りつかれてしまう。それはパドモアが、あたかもレシタティーフのように微細な変化に富む表情や声の音色で、テキストの内容をこれ以上は望めないほど忠実に表現していることから生まれる印象でもあろうか。
 往年のフィッシャー=ディースカウのスタイルともさらに異なる、このように詠嘆と激情を併せ持つ神経の細かい歌い方による「冬の旅」も、一面では興味深い。ただし、私の好みというほどではないが。

 イモージェン・クーパーは、いかにも彼女らしいピンと張ったピアニズムで音楽を進めて行くが、そのある意味で無骨な演奏は、パドモアの精妙極まる――あまりにも精妙すぎるほどの――歌唱とは溶け合わぬようにも感じられる。もっとも、この歌と一体化できるピアノなど、なかなかあるはずもなかろう。

10・8(水)クリスティアン・ヤルヴィ指揮
ウィーン・トーンキュンストラー管弦楽団

   東京オペラシティコンサートホール

 「運命」「新世界」と、その間に上原彩子がソロを弾くグリーグのピアノ協奏曲。名曲ぞろいである。こうしたプログラムがこの指揮者とオケの本領を発揮するのにふさわしいのかどうかは、定かでない。それにしても、ちょっとユニークな演奏ではあった。
 14型編成の対向配置、ただしコントラバスはステージ奥に一列に並ぶ。

 概して速めのテンポで、演奏に充満するエネルギー感と推進力はかなりのものだ。爽快というか小気味よいというか、屈託ない音楽が勢いよく展開する。「運命」の第2楽章や第3楽章には、あたかも舞曲のごとく弾むリズムが聞かれる。第3楽章最後のピチカート個所では、クリスティアン自身が踊るような身振りで指揮をしていたのだ。それ自体は悪いことではないが――。

 その一方で、各パートのソロやパート間のバランスなどを含め、オーケストラのつくりがどうも無造作なのが気になってしまうのである。
 ほんの一例だが、たとえば「運命」の第1楽章第101小節のような個所(109小節でもいい)で、高音域からなだれ落ちた最後の変ロ音は、いったい正確に(音量も含めて)弾かれていたのだろうか? 絶えず先へ先へと急ぐ結果、なにか細部をおろそかにしたまま通り過ぎてしまうといった印象が拭えないのだ。

 また、協奏曲では、ピアノにそっと寄り添うはずのホルンやファゴットのソロが、これもあまりに無造作で無神経に過ぎる。こういう演奏を続けていると、オーケストラはだんだん荒れて行くのではなかろうか。
 なおこれはクリスティアンの解釈の問題だから仕方がないかもしれないが、彼が採るエンディングのフェルマータは、「運命」にしろグリーグの協奏曲にしろ、異様に短い。しかし「新世界」最後のフェルマータを、総譜には「pppまで長く引っ張ってディミニュエンド」と指定されているにもかかわらず、ほんのわずか漸弱気味に延音しただけでスパッと切ってしまったのには、唖然とさせられた。

 救われたことといえば――上原彩子が進境目覚しく、グリーグを実にスケール大きく弾き切った。この1、2年、彼女の演奏には、以前にはなかったような揺るぎない安定感が増しているように感じられる。
   音楽の友12月号(11月18日発売)演奏会評

10・7(火)エマニュエル・パユ&オーストラリア室内管弦楽団

  サントリーホール

 名手パユが吹いたのは、ヴィヴァルディのフルート協奏曲Op.10から第1番「海の嵐」、第2番「夜」、第3番「ごしきひわ」、第4番、第5番フィナーレ(アンコール)。
 一方、これも名手リチャード・トネッティがリーダーをつとめるオーケストラ(管はない)のみの演奏では、ペルトの「フラトレス」(1992年版)、ラヴェルの「弦楽四重奏曲」(トネッティ編曲)、ピアソラの「オブリビオン」(アンコール)、ウォルトンの「弦楽のためのソナタ」フィナーレ(同)。

 パユの何ともエロティックな音色によるフルート・コンチェルトの数々も、もちろん悪くはない。
 が、私はむしろ、トネッティ率いるオーストラリア・チェンバー・オーケストラの方が気に入った。このオーケストラは、彼らだけの演奏の時に、ずっと雄弁な表現力を発揮する。

 特にラヴェル! これが良かった。弦楽四重奏として聴き慣れた曲を、弦楽合奏の分厚い音で聴くというのは、ふだんはあまり好きではない。だが、この場合は違った。まるでシェーンベルクの「浄夜」の弦楽合奏版の響きにも似て、官能的な情感が波のように沸き上がり、流れて行く。
 ピアソラでも、トネッティの透き通ったヴァイオリン・ソロの音と、テュッティの弦楽器群のくぐもった音色の対比が面白い。しかもこの弦合奏のポルタメントが、あたかも霧が風に吹き流されるが如く、緩やかに揺れ動く。それが、何ともいえない陶酔を呼ぶのである。

10・4(土)ソフィア国立歌劇場 「トゥーランドット」

  東京文化会館

 舞台にほとんど大道具を置かない、いわゆるモダンな舞台美術は、予算不足の場合には絶好の隠れ蓑になる。しかし、東欧やロシアの歌劇場の中には、予算が無いなりにも精いっぱい綺麗な舞台を作って、観客にオペラを美しく楽しませようとする努力を試みているところが今も多い。
 このソフィア国立歌劇場(ブルガリア)の「トゥーランドット」などもそうした手法で作られた舞台といえよう。非常に簡略なものではあるが吊り装置なども使い、「何となく中国風」という雰囲気を醸し出す。

 演出は、ソフィア国立歌劇場の総裁もつとめたことがあるプラーメン・カルターロフという人。いわゆるトラディショナルなスタイルで、よく言えば――舞台全体を大づかみにする手法だが、逆に言えば――細かい心理的な演技はすべて様式的な形の中に呑み込ませてしまう、というスタイルだ。

 大詰め、自殺したはずのリューが生き返ったのかと思ったら、これは「亡霊」のようなものだとのこと。そのわりにこの前後の演技が明快でなく、非常に解りにくいところがあるのだが、察するにどうやらこれは、「愛」を象徴する存在として復活させているものらしい。
 この彼女に対比する舞台構成として、カラフとトゥーランドットが抱き合わず、それぞれ舞台の上段と下段とに別れたまま下手方向に歩み去る、という方法が採られていた。2人は結ばれないのか? アイディアとしてはなかなか面白いが、もう少し明快な形でやってもらった方が解りやすくなるだろう。

 ちなみにこの最後の場面を一ひねりしたものとしては、1986年に来日したロイヤル・オペラ公演でのアンドレイ・シェルバン演出があった。一同がカラフとトゥーランドットの結婚に歓呼している目の前をリューの葬列が横切るという趣向だったが、あれは非常に解りやすく印象的だった。

 タイトルロールはマリアナ・ツヴェトコヴァが歌った。少々荒削りだが、合唱を圧するほどの物凄い馬力である。カラフはカメン・チャネフ。どう見てもどう聴いても、トゥーランドット相手に勝ち目はなさそうだ。
 寂しかったのは合唱。かつては西欧にもその名声を轟かせたあの美しい力に富んだコーラスは、今いずこ。

10・3(金)ホーチミン市交響楽団

  東京オペラシティコンサートホール

  2週間のうちにベトナムのオーケストラを二つ、聴く機会を得たことになる。
 先週はハノイのベトナム国立響。これは、こちらが現地に出かけて聴いた。
 一方、今回はホーチミン(旧サイゴン)に本拠を置くオーケストラ。「アジア・オーケストラ・ウィーク2008」出演のための来日である。

 プログラムはヴォー・ダン・ティンの交響詩「革命の記憶」、ラフマニノフのピアノ協奏曲第2番(ソロはチャ・グエン)、ブラームスの交響曲第2番。
 オーケストラの特徴は、ハノイのそれとよく似ている感がある。弦は結構良いが、管セクション全体にピッチの不安定あるいは技術上の未熟がいまだ多く聞かれるのが問題だろう。それでも、ベトナムとは比較にならぬほど湿気の少ない秋の東京(特にホールの空調)での演奏の方が、オーケストラの「鳴り」も音色も、よほど良かったはずである。
 首席指揮者のチャン・ヴォン・タックは、テュッティの際に音がダンゴ状態にならぬよう、明晰な響きを引き出すようにして欲しいもの。ただ、彼はなかなか流れのよい音楽をつくる人だとは思う。

10・2(木)ペーター・レーゼル ベートーヴェン・リサイタル

  紀尾井ホール

 ドレスデン生まれの名ピアニスト、レーゼルが、日本でベートーヴェンのピアノ・ソナタ全32曲を4年がかり(全8公演)で弾く。今日が第2回だ。

 プログラム前半に叙情的な色合いの強い「第9番」と「第30番」、後半にデュナミークの対比が強い性格をもつ2曲「第6番」と「第23番 熱情」を配すという、神経の行き届いた構成はさすがである。

 低音域を堅固な基盤にして、たっぷりとした厚みのある和音を積み上げ、深々とした響きで押して行く演奏は、やはり「良き時代のドイツの伝統」(実に漠然とした言葉ではあるが)といったものを感じさせるだろう。重厚で、陰翳豊かなベートーヴェンだ。
 しかもレーゼルの演奏には、全く飾り気がない。「熱情」第1楽章第168小節前後の右手の個所など、ちょっと気取ったルバートをかけて弾くピアニストも少なくないところだが、レーゼルはいっさいの小細工を排し、ただひたすら几帳面なイン・テンポで、真摯に弾いていく。
 そうしたストレートな演奏が、なんとも力強い安定感に満ちて迫ってくるのである。自然でありながら、強い説得力をもった語り口。こういう演奏は、聴いていて疲れることがない。久しぶりでこういったタイプのピアニストを聴くことができて、心和む思いであった。

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