2017-03

9・29(月)ハーゲン弦楽四重奏団

  浜離宮朝日ホール

 ハイドンの「五度」、ドビュッシーの「ト短調」、ベートーヴェンの「Op.135」。アンコールとして翌日演奏予定のプログラムから、ラヴェルの「ヘ長調」とドヴォルジャークの「第14番」より楽章一つずつ。

 昔は、上手くてエネルギーはあるけれども何か心に迫るものがいま一つ、と感じさせたこのカルテットだったが、最近は随分味が出てきた。アンサンブルを含む演奏スタイルにも、以前に比べ、良くも悪くも自由さが加わったようである。「Op.135」など、1990年の録音と比べて演奏の骨格はほとんど変わっていないにもかかわらず、はるかに温かさを感じさせるようになっている。

 それにしても、ドビュッシーがこんなにすばらしい演奏になるとは予想しなかった――特にフィナーレの昂揚と緊迫感。

9・27(土)スダーン指揮東京交響楽団の
シューベルト「第6交響曲」

  サントリーホール

 マチネーの「ばらの騎士」は、3時に開演し、7時に終った。ふつうならこれで帰るところだが、演奏が良かった時には、疲れも全く感じないもの。特にラストシーンでの藤村実穂子とヒェン・ライスの「締め」が気持ちよかったので、赤坂へ回って昨日のシューベルトを――たとえ1曲だけでも――異なるホールで検証(不遜な言い方だが許されたい)してみようかという元気が蘇る。東響のサントリーホール定期は、毎回6時開演である。タクシーをつかまえ、錦糸町から溜池まで15分。休憩に間に合う。

 で、プログラム後半の「6番」のみを聴く。
 ホールの響きのせいもあるのだろうが、昨日よりも少し重い演奏に聞こえた。リズムの弾み方、噴出する活気なども、何か昨日の演奏の方にいっそうの鮮やかさがあったように感じられる。昨日の第3楽章など、だれか拍手をしかけたほど、水際立った出来だったし。
 とはいえ今日も、立派な演奏であったことに変わりはない。こういうシューベルトを演奏できた日本のオーケストラは、そんなにあるものではなかろう。
 サントリーホールでのスダーンと東響の人気は、なかなかのものである。

9・27(土)アルミンク指揮新日本フィル「ばらの騎士」

  すみだトリフォニーホール (マチネー)

 定期公演で大作オペラを演奏、気を吐くオーケストラがまた一つ。
 これも好調のコンビ、クリスティアン・アルミンクと新日本フィルが、R・シュトラウスの「ばらの騎士」をセミ・ステージ形式で上演した。恒例の「コンサート・オペラ・シリーズ」の一環である。

 舞台手前に演技のためのスペースが作られ、オーケストラは舞台奥に配置される。そのためやや遠い感じの飽和的な響きになるけれど、厚みは充分である。冒頭のホルンがはっきりと力強く響き渡れば、もうそれでその日の演奏の雰囲気が一瞬にしてわかるというものだろう。

 アルミンクと新日本フィルは、見事に充実した演奏を聴かせた。
 官能性が足りないとか、クールだとか言って貶す人もいるようだが、エロティシズムや陶酔をことさらに過剰な情感で描くことをしないのがアルミンクの個性なのである(11日の「トリスタン」と全く同じスタイルの演奏だ)。第3幕での、オックス男爵とマリアンデル(オクタヴィアン)のやりとりの背景に流れる演奏の叙情的な美しさは聞き逃されるべきではないし、大詰めの三重唱と二重唱でオーケストラの音色を満たしていた透明で清澄な官能美を聴きとることだって、容易いだろう。

 歌手たちもいい。ナンシー・グスタフソンは大人の元帥夫人を聴かせ、ビャーニ・トール・クリスティンソンはやや野卑だが愛すべきオックス男爵を歌った。ユルゲン・リンのファーニナルは第2幕の最後でなかなかの存在感を示す。この役は初めてという藤村実穂子が毅然たるオクタヴィアンを表現、代役で登場したヒェン・ライスも可憐で魅力的なゾフィーを歌った。特にこの2人が最後に聴かせた二重唱は、きわめて印象的な幕切れを形作った。

 ステージ演出(飯塚励生)には、少々疑問がある。かなり動きもあり、単純ながらそれなりに演技も工夫されているのだが、そもそも「セミ・ステージでの演技」というものは、それを凝れば凝るほど、それはますます限りなく「中途半端なオペラ」に近づく結果になるのではなかろうか? 
 これは、この種の上演には必ずついて回る問題だが。
   音楽の友12月号カラー頁

9・26(金)ユベール・スダーン指揮 東京交響楽団

  ミューザ川崎シンフォニーホール

 絶好調のコンビ、スダーン=東響のシューベルト・チクルス。今夜は「5番」と「6番」。

 初日のためか、あるいはホールのアコースティックによる影響か、前回(5月17日)にサントリーホールで聴いた時のようなスダーン特有の音色――明晰な高音域と、翳りのある中低音域の音色の組み合わせ――はあまり感じられなかったが、しかし一分の隙も無く引き締まった響き、瑞々しくしなやかでありながら揺るぎの無い構築は、やはり非凡な演奏であった。特に「6番」での歯切れのよいリズムでの快いたたみ込みは、見事というほかない。細部まで神経を行き届かせた演奏である。
 明日はサントリーホールで公演があるが、あそこではまた異なった音色が聴かれるかもしれない。

 なお、この2曲の間には、前回と同様、全く異なった雰囲気を持つコンチェルトが演奏された。――それはベルクのヴァイオリン協奏曲だが、これがまた全く違和感なく前後の2曲に溶け合うところが面白い。プログラミングのセンスの良さを示すものである。
 ソロはアラベラ・美歩・シュタインバッハーで、叙情的な表情がすばらしく、あたかもこの曲に描かれている夭折の少女(マノン)がみずから語っているかのよう。オーケストラも均整を保って寄り添っていた。

9・25(木)タン・ドゥン指揮NHK交響楽団

  サントリーホール

 昨夜11時半のJALでハノイを発ち、今朝6時半に成田に着く。さすがに私のトシでは、このスケジュールは少々疲れる。

 夜のN響にはタン・ドゥンが客演、バルトークの「舞踊組曲」のほか、自作を2曲指揮。
 一つは2004年の作品「マルコ・ポーロの4つのシークレット・ロード」と題された、オーケストラと12本のチェロのための曲。民族的な色彩とダイナミックなリズムが印象的だ。特殊奏法も多く、チェロ奏者たちも大声で叫びながらの演奏で、あのキンゲンなN響の楽員たちもついにこういうことを照れずにやれる時代になったかと、往時を知る老(?)ファンとしては微笑を抑えきれぬ。

 もう一つは今年作曲のピアノ協奏曲「ファイア」で、ソロは小菅優。こちらも前述の曲同様、打楽器を駆使した力感豊かな曲だ(2階席で聴いていると、ピアノ・ソロはしばしばオーケストラの怒号に打ち消される)。
 いずれもタン・ドゥンの、郷土的な、熱狂的でポピュラライズな作風が強く打ち出されたもの。

 しかし、N響は上手い。音も強大だし。

9・23(火)本名徹次指揮ベトナム国立交響楽団

  ハノイ・オペラ・ハウス

 私は、アジアの国にはほとんど行ったことがない。これまでにたった一度、2年前にウランバートル国立歌劇場へオペラを観に行ったことがあるだけだ。
 すべての旅行費用を自分の乏しい財布から捻り出している身では、どうしてもまずオペラやコンサートを聴きに行くことを優先させ、そういうものを聴ける国を選ぶ結果になっていてしまう。――幸いにも今回は、現地で仕事をしている先輩友人の紹介で比較的安価な航空券が入手できたので、このオーケストラを本拠地ハノイで聴いてみることにした次第。ただしそれも現地2泊、機内1泊のとんぼ返りで、観光としては合間を見て歴史軍事博物館や民俗博物館を駆け足で回ったのみである。

 成田からハノイまで約5時間。時差はマイナス2時間。前日JAL便で18:15に発ち、現地時間21:30に入る。ホテル・ニッコーに宿泊。
 一夜明けて朝の街路を眺め、雲霞の如きバイクの大群に驚嘆。右側通行だが、左折の際には早くから反対車線に出て、対向車が来るのも構わず怒涛の如く突っ切る。その間を自転車が巧妙に縫って走る。乗用車やバスも、それらを右に左に避けつつ、猛然と突っ走る。これらの鳴らすホーンは、耳を劈くばかり。この道路を歩行者が横断するのは、至難の業だろう。
 ベトナムには珍しいといわれたほど快晴のこの日、気温36度、湿度70%の肌触りは、湘南の海水浴場といった感。

 ベトナム国立交響楽団の定期演奏会が行なわれている会場は、市の中央の広場にあるオペラハウス。20世紀初頭にベトナムを統治していたフランスが建てたもので、パリのガルニエのミニチュアともいうべき外装と内装を備え、広く豪華なホワイエと馬蹄形の客席(席数660)をもつ本格的な歌劇場である。惜しむらくは専属のオーケストラも歌劇団も存在せず、オペラは数えるほどしか上演されていない。

 しかし、1959年に設立されたこのベトナム国立交響楽団は、2001年から「ミュージック・アドヴァイザー兼指揮者」(「音楽監督」は間違いでした)をつとめる本名徹次のもと、ほぼ85名の正規楽員を擁し、非常に活発な活動を展開している。
 2008年を例にとれば、計11回の定期公演(各2日公演)と、異なる会場での4回の室内楽演奏会および5回の「バロック&クラシック・サイクル」(いずれも各2日公演)などを開催しており、ソリストには堀米ゆず子、村冶佳織、広田智之ら、客演指揮にはピエール=アンドレ・ヴァラド、鈴木秀美らの名も見える。

 本名とこのオーケストラは、今年の「ラ・フォル・ジュルネ」に来日してシューベルトやモーツァルトの交響曲を美しく聴かせているし、4年前の「アジア・オーケストラ・ウィーク」でもショスタコーヴィチの「第5交響曲」などを演奏しているので、耳にされた方も少なくないだろう。4年前の来日時に聴いた時の日記をひっくり返してみたら、「半世紀以上前の日本のオーケストラの水準。弦はある部分では綺麗に鳴るが、細部のアンサンブルはまだこれから」というメモが残っている。

 あれ以降、本名の献身的な努力で、演奏水準はかなり向上してきているように思えるが、本名は絶えず目標を引き上げ、オーケストラがそれに追いつく前に里程標を先へ先へと設定して、冒険を厭わないように見える。
 昨年から定期で開始した「マーラー交響曲サイクル」もその一例であろう。すでに「5番」「10番のアダージョ」「6番」を手がけ、そして今日が「3番」である(来年は「2番」と「7番」、2010年には「4番」と「8番」、マーラー没後100年に当る2011年には「1番」「9番」とのこと)。

 日本やノルウェーからも応援を頼んだ今回の「3番」は、弦は11型編成ながら、ポストホルンや2台のハープほか、総譜指定通りの編成を完備しての演奏が仕上げられていた。 
 細部に関しては言いたいことも山ほどあるけれど、それは措くとして、姿勢を正したくなったのは、フィナーレ後半の壮大な昂揚感にあふれた、堂々たる演奏であった。この厚みのある響きの最後の頂点を聴き終わって、そして――客席に答礼する楽員たちの笑顔に接すれば(美女が多い!)、どんな不満も全部吹き飛んでしまうということになろう。

 協賛支援には日本の企業も多く、トヨタの看板を筆頭に、味の素、ヤマハ、パナソニック、ホテル・ニッコー・ハノイ、アサヒビールなども名を連ねている。
 本名徹次の努力は涙ぐましいほどである。オーケストラの実力向上を祈りたい。

9・21(日)飯守泰次郎指揮東京シティ・フィル
「トリスタンとイゾルデ」

  ティアラこうとう大ホール

 総力を挙げての演奏は、こちら飯守泰次郎とシティ・フィルも同様。
 「オーケストラル・オペラ」と題するセミ・ステージ形式上演のワーグナー・シリーズも第7回となり、ついに待望の「トリスタンとイゾルデ」が取り上げられた。ワーグナーの舞台作品の中でも、いわば抒情詩的な色合いをもつ「トリスタン」こそは、飯守が最もその本領を発揮できる曲である。

 演奏の仕上がりは、まさに予想通り。こんにち、これだけ情感を重視したアプローチでワーグナーを聴かせることのできる指揮者は、世界にもそう多くいるとは思えない。決して無機的にならない飯守の指揮こそ、「トリスタン」には最もふさわしい。そしてシティ・フィルも、彼の感情豊かな指揮を実によく具現化して見事だった。

 非常な緊張感をもって開始された前奏曲に続き、第1幕は驚くほどヴォルテージの高い演奏になった。とりわけ、船がコーンウォールの港に入る個所から幕切れにいたるあたりの音楽の盛り上がりの凄まじさには、息を呑まされたほどである。
 第2幕に入ってからは、演奏はやや落ち着いたというか、おとなしくなったというか、――まあ要するにいつものシティ・フィルに戻ったということになろうが、――しかし、愛の二重唱の中間部分や、大詰め近くトリスタンとイゾルデが常闇の夜の国について言葉を交わすあたりの、この世ならざる暗い響きの個所などでの深い情感は、やはり印象的であった。
 そして、第3幕の「愛の死」では、オーケストラをいたずらに絶叫させずに、温かみをもって陶酔的な響きに導いていく飯守の感性がすばらしい。私見では、彼とシティ・フィルのこれまでのワーグナー・シリーズの中で、ことオーケストラに関する限り、今回は最高の出来であったと思う。

 歌手陣は、成田勝美(トリスタン)、緑川まり(イゾルデ)、小鉄和広(マルケ王)、福原寿美枝(ブランゲーネ)、島村武男(クルヴェナル)他。
 セミ・ステージ形式とあって多少の演出はつけられていたが、これまでのシリーズ同様、この程度の演出なら無くても一向に困らない。その方が制作費が節約できていいのではなかろうか。
 
 連日、重量感たっぷりな作品と演奏の連続で圧倒され気味だが、明日はハノイへ行って、音楽監督の本名徹次が指揮するベトナム国立交響楽団のマーラーの「交響曲第3番」を聴いてみようと思う。一度本拠地で聴いてみたいと思っていたオーケストラである。

9・20(土)尾高忠明、「札響音楽監督は辞めぬ」と明言


 正午から札幌コンサートホールの一室で、尾高忠明が札幌や東京のジャーナリストたちを招いての「記者懇談会」。
 趣旨は、「新国立劇場の音楽部門芸術監督就任決定により、尾高は2010年で札響を辞めるのだろう、という噂が勝手に一人歩きしているため、それをきっぱり打ち消そうというのが目的」とのこと。
 しかし、昨夜の演奏に感激しまくっている英国ブリテン・ピアーズ財団ジェネラル・ディレクターのリチャード・ジャーマンが「オレも一つジャーナリストたちに話を」と列席して来たため、話は途中から「ピーター・グライムズ」の方に飛んでしまった。

 札幌は、今度の台風13号とは無縁の、快晴で爽快な大気。だが、飛行機はどの便も満席に次ぐ満席。空港は雑踏するやら、発着は遅れるやら。
 

9・19(金)尾高忠明指揮札幌交響楽団定期
「ピーター・グライムズ」

  札幌コンサートホール Kitara

 札響が総力を挙げた「ピーター・グライムズ」(ブリテン)演奏会形式上演。音楽監督・尾高忠明が入魂の指揮だ。

 英国BBCウェールズ響桂冠指揮者であり、ウェールズ大学名誉博士、ウェールズ音楽演劇大学名誉会員、大英勲章CBE受章者、英国エルガー協会エルガー・メダル受賞者でもある尾高が得意とするレパートリーである。それゆえ彼はこのオペラを、相性のいい札響とぜひ演奏したかったのだろう。彼は10年ほど前にも読売日響を指揮してこのオペラを演奏会形式で上演し、成功を収めているが、今回は歌手陣をすべて日本人で固めた上演にしていた。

 タイトルロールは、福井敬が歌った。現在、日本で最も役柄の掘り下げの巧い、最も安定したテノールである。この人の歌唱は、本当に安心して聴いていられる。
 彼の個性もあって今回のグライムズは、決して粗暴でも根っからの悪人でもなく、むしろ神経質で孤独であり、人並みの幸福を夢見ながらも、おのれの狷介な性格のために村人から疎外されていく男として描き出されていた。これは、あのジョン・ヴィッカーズのような粗暴スタイルとは全く対照的な性格表現である。が、かつて作曲者ブリテン自身が、ヴィッカーズのグライムズは「根本的に誤り」と激怒していたという事実からも、福井敬の解釈は正しいだろう。

 エレン・オーフォード役は釜洞祐子、気品があってすばらしい。ただし、バルストロード船長の青戸知は、この役柄にしては雰囲気も声も若すぎ、酸いも甘いも噛み分けた退役老船長としてグライムズに引導を渡せるだけの説得力を欠いて、惜しいかなミスキャストの感が強い。
 その他、セドリー夫人の岩森美里ほか歌手たちは好演。合唱(札響合唱団、札幌アカデミー合唱団、札幌放送合唱団)も健闘した。総じて、みんな歌いにくい英語によく取り組んでいたと思う。
 
 この上演で使用されたのは、1963年の出版譜だった。一般の上演でしばしば省略される個所も、すべてノーカットで演奏された。そのため演奏時間もかなり長いものになり、ドラマの追い込み、たたみ込みが多少妨げられるという作劇上の問題も感じられるところもあった。が、人物の意外な側面が浮き彫りにされたところも多い。きわめて意義深い演奏であった。

 尾高と札響は、演奏会形式の長所を最大限に生かして、ほとんど聞こえないような最弱音の美しさを追求し、成功を収めていた(こんな弱音は、オーケストラ・ピットではまず不可能である)。このピアニシモあってこそ、フォルティシモが完璧に生きてくる。村人の群集心理が爆発し、理不尽なグライムズ糾弾に向かうまでのクレッシェンドと最強音が意味深いものになるのはそれゆえである。このようなデュナミークの大きな幅が、音楽に壮大な起伏を与えていたのだった。
 コンサートミストレスの大平まゆみの見事なソロも含め、尾高と札響の演奏は実に卓越したものであり、このオーケストラの歴史に記念すべき1ページを加えたことに疑いはない。

9・17(水)ウィーン・フィル ヘルスベルク楽団長講演と
弦楽四重奏演奏会

  サントリーホール

 ウィーン・フィルハーモニー協会創立100周年に因み、同団楽団長ヘルスベルクが「カラヤンとウィーン・フィル」「フィルハーモニー協会の歩み」という二つのテーマで講演(7時開演、9時半終演)。

 彼の話はまじめで少々長いものだったが、第1部ではゲストに登場したムーティがカラヤンについての個人的な思い出話を披露、これはなかなか迫力があった。
 その一つ。カラヤンが最後の年にザルツブルク音楽祭の「仮面舞踏会」の上演の準備をしていたさなか、体調を崩した際に「万が一の場合、私の代わりをつとめられるのはムーティだけだ」と、音楽祭の総裁だかに語ったこと、カラヤンの急逝直後にこれを電話で知らされた自分は、「カラヤンが立つことになっていた指揮台に私が代わりに立つなど考えられない。むしろ公演そのものを中止することが彼に対する礼儀ではないか」と断ったこと。だが結局、音楽祭事務局は会議の末、「Show must go on」と結論を出した旨、2時間後に連絡してきたこと、など。

 ムーティは、このエピソードは今日初めて公開したのだと語っていたが、音楽祭当局がムーティに依頼したところ断られたという話は、以前にも報道されたような記憶がある。ただ、彼が「公演中止が礼儀であろう」と提言した話は、今回初めて聞いた。

 公演と組み合わせて行なわれた弦楽四重奏の演奏がすばらしかった。ライナー・キュッヒル、エックハルト・ザイフェルト、トビアス・リー、ゲルハルト・イーベラーのカルテットが演奏してくれたのは、ハイドンの「第65番」第1楽章、モーツァルトの「不協和音」第2楽章、フランツ・シュミット(かつてウィーン・フィルのチェロ奏者でもあった)の「イ長調」からの第3楽章、そして創立者でもあったオットー・ニコライの「変ロ長調」全曲。――特に後半の2曲は、滅多に聞けない作品だ。

9・16(火)リッカルド・ムーティ指揮ウィーン・フィル

  サントリーホール

 恒例の「ウィーン・フィルハーモニー・ウィーク・イン・ジャパン」、8回公演のうちの今日は3日目。
 ハイドンの「交響曲第67番」とブルックナーの「交響曲第2番」を組み合わせたオーソドックスなプログラムだ。

 コンサートマスターはおなじみライナー・キュッヒル。その他のメンバーには若い顔がいつもより多く見えるような気もするが、しかし、特に弦楽器群など、やはりウィーン・フィルでなければ出せない音色であろう。
 その点でも、前半のハイドンは絶品であった。弦のコル・レーニョをシンフォニーで初めて使ったのはベルリオーズではなかった――ということなど、こういう良い演奏によってもっと広く知られたりするといい。ヴァイオリンが対向配置であれば、この第2楽章など、もっと響きの面白さが堪能できたのではないかと思うが――。

 ブルックナーの「2番」も、ムーティらしくカンタービレが効いて、美しい。今回はノーヴァク版を基本に、省略(可能)個所指定にも従う一方で、第2楽章をアンダンテでなくアダージョで演奏したほか、いくつかハース版とも共通する演奏の個所が聴かれたように思うのだが、録音でもあればもう一度調べてみたいところだ。
 この日の1番ホルンはことのほか調子が悪かったようだが、人間だから仕方がないだろう。それより、アンコールで演奏されたマルトゥッチの「ノクターン」での木管のハーモニーは、さすがにすばらしかった。
   音楽の友11月号(10月18日発売)

9・15(月)二期会「エフゲニー・オネーギン」最終日

  東京文化会館

 12日(初日)とは別キャストで、こちらの方が若い世代が多い。

 そのためか、役柄表現――演技はまだまだこれからという人が多く、特にタチヤーナ役やレンスキー役の歌手は、演技以前の――素人芝居の段階にあると言わなければならない。ただ、みんな声楽的には非常に期待が持てる人たちばかりなので、何とか外国の歌手を見習って、1日も早く本格的なオペラの演技を習得して欲しいと願うこと切である。

 しかしその中で、オネーギンを歌った与那城敬は一歩先んじた存在だ。これで声楽的にも演技的にも研鑽を積めば、わが国のオペラ界のトップスターになれることは間違いあるまい。例のラストシーン――タチヤーナが破り捨てるかつての「手紙」を必死に掻き集めて彼女にすがっていたオネーギンが、彼女の最後の言葉を聞くや、ついに逆ギレ状態になり、こんな馬鹿馬鹿しい役回りなどごめんだという顔で紙切れを放り出し、立ち去るあたりの歌唱と演技は、初日の黒田博に勝るとも劣らぬ出来であった。

 この幕切れの場面は、コンヴィチュニー得意の一種のオチというべきか、面白い発想である。このあと、幕が上がって人々が整列しているのが見え、オネーギンもその中に入って行き、これまでのことはすべて茶番劇だったと言わんばかりに冷静に戻る。音楽が終ってもタチヤーナだけが一人ムキになったまま、延々と手紙を破っているという設定は少々蛇足に見えるけれども、この物語の「シリアスな女」と「シニカルな男」の対比を描き出すには、役立っているだろう。あるいは、ムキになっている女は相手にせず、という男のメンツを最後に保たせた設定、ということにもなるか?
    詳細グランドオペラ 2009 春号

9・13(土)大野和士指揮東京都交響楽団

  東京芸術劇場

 大野和士の指揮は、聴くたびに成長を重ね、大きくなっている。
 今日のR・シュトラウス・プログラムでも、音の構築の緻密さとニュアンスの豊かさや、標題音楽としての解釈の巧みさなどには、本当に感嘆させられた。
 先日モネで聴いた「ウェルテル」でも感じたことだが、音楽の「哲学」的な意味でのドラマトゥルギー感覚と、それをオーケストラから明確に引き出す力量――つまりこれはオペラを含む劇的な音楽を指揮する際に最も重要なことなのだが――を備えた日本人指揮者としては、彼は若杉弘に続く2人目の存在であり、あるいはすでにそれを超えた存在にあると言ってもいいかもしれない。しかも大野の指揮には、豊かなバランス感覚で全曲の統一性を感じさせる構築と、細部にまで神経を行き届かせた丁寧な音楽づくりがある。

 この日のプログラム、「四つの最後の歌」「二重コンチェルティーノ」「英雄の生涯」においても、そういった大野の見事な指揮が聴かれたが、その中でも最も強い印象を与えられたのは、彼が東京都響とともに創り出した弱音のすばらしさであった。
 たとえば「4つの最後の歌」の第3曲「眠りにつくとき」の中間部におけるハーモニーの柔らかさ、豊麗さ、繊細さと、ゆっくりと動く低音弦の微細な表情など、コンサートマスターの矢部達哉による適度な情緒を湛えたヴァイオリン・ソロともあいまって、これまでナマで聴いたいかなる演奏をもしのぐ美しさを感じさせたのであった(なお第2曲「9月」におけるホルンのソロもなかなかすばらしかった)。

 大曲「英雄の生涯」でも同様である。「英雄の伴侶」の最後、すべてが変ト長調のpppに収束していく中での、弦楽器群の動きがこれほど表情に富んでいて、それゆえ終結感をいっそう強く感じさせた演奏も稀であろう。作品の後半、「英雄の隠棲」あたりの叙情的な個所での精妙な美しさも、特筆すべきものであった。
 もちろん、良かったのは弱音ばかりではない。作品の標題性を重視した演奏上の演出も、さすがにオペラで経験を積んでいる大野だけあって卓越したものがあったし、なによりフレーズが強いアクセントによって際立ち、時には音楽が噛み付くような鋭さを示して劇的な力を遺憾なく発揮していた。

 矢部達哉のソロも「四つの最後の歌」同様に良い。もう少し甘さがあればさらに標題に忠実なイメージになっただろう(いつぞやのティーレマン指揮ウィーン・フィルの日本公演での演奏のように)が、これまで日本のオーケストラがこの曲を演奏すると、何故かコンマスは必ずと言っていいほどコンチェルトのカデンツァみたいに弾きまくることが多かったのに比べれば、充分に満足の行くものであった。

 「四つの最後の歌」では、緑川まりに代わって急遽登場したソプラノの佐々木典子が、ふくよかでスケールの大きな歌唱を聴かせてくれた。
 また「クラリネットとファゴットのための二重コンチェルティーノ」のソリストは、楽員でもある三界秀美と岡本正之で、2人がプログラムで述べているような標題性を感じさせるとまでは行かなかったが、この曲のユニークな洒落っ気を思い出させるには充分であった。
    音楽の友11月号

9・12(金)二期会「エフゲニー・オネーギン」初日

   東京文化会館

 日本人のみの歌手陣で、原語による「オネーギン」が上演できるようになったのだから、思えば時代も進んだものである。
 オーケストラも東京交響楽団だが、ただし指揮はロシア人のアレクサンドル・アニシモフ。すっきりした、誇張や思い入れのほとんど無い指揮ではあるけれど、このオペラの叙情的な音楽を浮き彫りにして美しく、また華やかさを排した演出ともよく合致していた。

 その演出は、話題のペーター・コンヴィチュニー。彼の舞台のうちでは、これは意外なほど「まとも」な部類に属する。とはいえ、新機軸はいくつかある。
 たとえば、オネーギンがタチヤーナに説教する時にも、レンスキーとの決闘に臨む時にも、すべて泥酔気味であること。もっともこれは、オネーギンが常にそのあと自己嫌悪に陥ることを考えれば、わざと酒を煽って自己逃避していると勘繰れないこともない。それにオネーギンは、タチヤーナの手紙を大勢の女に見せびらかして嘲笑するという言語道断な男で、みんなの顰蹙を買うのだが、これが第2幕冒頭での客たちの陰口に結びつく。よく考えられた伏線である。
 第3幕の「ポロネーズ」を舞台転換の音楽としているのは最近の演出の流行で、特筆すべきものではないが、その音楽に乗せて、自己嫌悪と後悔のカタマリになったオネーギンが親友の遺体に取りすがり絶叫し、ついには彼を抱いて踊り出すという狂態を演じるくだりなどは、コンヴィチュニーならではの発想であろう。

 タチヤーナの描き方にも、なるほどと思えるものがある。たとえば、オネーギンに手紙を書く際に、参考になる文章を引っ張り出そうと、いろいろな本を調べはじめること。読書好きの彼女なら、やるだろう。こういうところに着目するコンヴィチュニーのセンスは、やはり洒落ている。

 この人の演出の、極度の人間くささ、非論理性、精緻な機微を備えた心理描写、といった特徴は今回も充分に発揮されていたが、その一方で彼の舞台に時々感じられる、一種の野暮ったい「隙間」のようなものもかなり見られたのも事実だった。それは初日公演のせいもあろうが、また日本人歌手たちの演技の限界のせいかもしれなかった。

 しかし、ラストシーンにおけるオネーギン(黒田博)とタチヤーナ(津山恵)の歌唱と演技は、それまでの不満を解消した。そして最後の「おお、この恥辱!」というオネーギンの歌詞の意味を、これほどまで巧妙に、しかも皮肉に、多少は喜劇的に具現した演出を、私はこれまで見たことがない。オネーギンの性格のある面を描くにふさわしい、興味ある彼の行動である。

 カーテンコールでコンヴィチュニーが登場した時、ブーを飛ばしたのは、多分一人くらいだろうか。が、これしかブーイングがなかったということには、もしかしたらコンヴィチュニーは不満だったかも。

    詳細 グランドオペラ 2009春号 

9・11(木)クリスティアン・アルミンク指揮新日本フィル

  サントリーホール

 「衝動と死による償却」とポスターには書いてあるが、プレトークでは「愛と死による救済」とか言っていたような気もしたが――まあとにかく、そういったコンセプトによる選曲とのこと。

 とにかくこれはオーケストラの定期としては実にユニークなプログラムであり、第1部に「トリスタンとイゾルデ」の「前奏曲と愛の死」(ソロ:ナンシー・グスタフソン)、第2部に「中国の不思議な役人」全曲をおき、それぞれその前後にモンテヴェルディとジェズアルドの短いマドリガーレを1曲ずつおくという組み合わせである。各部の3曲ずつはいずれも切れ目なしに演奏され、その流れが非常に良い。
 マドリガーレでの声楽アンサンブル、ラ・フォンテヴェルデとリュートの金子浩はオルガンの下やや上手寄りに位置し、「中国の不思議な役人」でのコーラス、栗友会合唱団はオーケストラの後ろに位置する。――これだけ意欲的で面白い発想のプログラムは滅多に聴けないものだが、それでもやはり曲のせいか、客席にかなりの隙間ができている。こういった路線にこれしか客が来ないとすると、ちょっと心配になる。

 さて演奏だが、全体としてはやはりオーケストラの方に分があったか。
 ラ・フォンテヴェルデには鈴木美登里や櫻田亮ら名手の名が見られるが、なぜか各人がバラバラに歌っているような感があり、各声部の動きと絡みが非常に粗っぽく、聴いている方も落ち着かなくなってくる。特に前半は肌理が粗かった。オーケストラの演奏に入るとほっとさせられるという状態では、せっかくの意欲的なプログラムの価値も半減してしまう。

 アルミンクと新日本フィルの演奏は予想通り、「トリスタン」では清澄な音色、一切の贅肉を排した響きで、交錯する楽器群の線を鮮やかに描き出す。
 それはそれで一種の快感ではあるが、もしプラトニックなという表現をここで使うことが許されるならば、これは清い「純愛」を想像させるような演奏である。「愛の死」の最後の高揚個所でもイン・テンポを崩さず、あっさりと通過してしまう。これで「死による救済」といえるのかどうかと思うが、アルミンクの感性にとってはこれがそうなのだろう。

 新日本フィルも、いかにもこのオーケストラらしい「爽やかな」演奏であった。ソリストのナンシー・グスタフソンは、イゾルデらしからぬジェスチュアで歌うのが気になって仕方がなかったが、声の表現力は充分だった。

 バルトークの方は、さすがにアルミンクのもって行き方が冴える。これもドロドロした情感や、エロティックな誘惑のようなものを全く感じさせない演奏ではあるけれども――それが根本的にこの曲には合わないという意見も否定はしないが――このような脂気のないアプローチで描き出されたバルトークの音楽も、その構築をモダンな照明で浮き出させたような感じで、いつもとは異なる面白さがある。
 合唱に奇怪な恍惚感が不足していたのは、オケとのバランスから言えば、仕方がない。

 それにしても、新日本フィルの演奏は、相変わらず快調である。アルミンクが着任する以前の演奏のことを思えば、感無量である。
    音楽の友11月号演奏会評

9・10(水)スタニスラフ・スクロヴァチェフスキ指揮読売日本交響楽団

   サントリーホール

 1曲目のブラームスの「第3交響曲」冒頭、管が膨れ上がり、全管弦楽の第1主題が柔らかく壮大なフォルテで始まった瞬間、「ああ、いいな」と思う。不思議な安心感が、胸の中に沸き起こる。
 「滋味」とは、こういう演奏を指して言うことばなのだろう。名匠スクロヴァチェフスキにして初めて為し得る、温かい語り口である。読売日響もそれを実に上手く演奏に具現化した。第2楽章と第3楽章は、懐かしくも寂しい逍遥だ。

 アリョーナ・バーエワ(すばらしい)をソリストに迎えた2曲目のシマノフスキの「ヴァイオリン協奏曲第1番」では、一転して豊麗でカラフルな音色。これも温かい。
 そして最後のショスタコーヴィチの「第1交響曲」では、節度を保ちながらも、見事なほどに音楽の歯切れがいい。
 老巨匠と読売日響、鮮やかに3曲をそれぞれ性格づけての快演。
 
 ホールの外は、突然今夜から快い秋の空気に。

9・8(月)サイトウ・キネン・フェスティバル
小澤征爾指揮サイトウ・キネン・オーケストラ 

  長野県松本文化会館

 松本訪問は、これが今季3度目。今回は小澤征爾が指揮する「オーケストラBプロ」で、モーツァルトの交響曲第32番、武満徹の「ヴィジョンズ」、マーラーの「巨人」。このプログラムは、今日が2日目の公演。

 正直なところを言えば、最初のモーツァルトは、昔ながらのこのオーケストラの癖がモロに出ている感じで――つまり、ガリガリ弾きすぎるのか、音が非常に荒っぽくなるのである。「アレグロ・スピリトーゾ」にふさわしい活気もエネルギーもリズム感も充分ある演奏なのだが、勢いだけでは解決できない。

 武満も、小澤の指揮にしては意外なほど無造作なところがあり、何かしら精緻な美しさに不足する演奏だった。新日本フィルや東響だったら、もっとしっとりした味を出すだろう(もっとも、サイトウ・キネン・オーケストラのサウンドは、コンサートマスターによっても随分変わることがこれまでの例で証明されている。私の主観では、矢部達哉がトップに座った時がいちばん澄んで綺麗な音が出ていたように思う)。

 その点、休憩後のマーラーは、比較的余裕のある響きが感じられ、音楽の表情もぐっと瑞々しくしなやかになって、小澤がかつてボストン響との録音で聴かせたような爽やかな歌が、このサイトウ・キネン・オケからも再現できていた。
 たとえば第1楽章で、第1ヴァイオリンがあの「さすらう若人の歌」にも出て来る旋律をスラーで美しく奏し、チェロがピチカートのリズムでそれを彩っていくあたりの音楽の進行の快さ。また第3楽章中間部、これも「さすらう若人の歌」の第4曲最後に出て来る「菩提樹が」の旋律主題での、スコアに指定されているppをさらに強調した、神秘的なささやきにも似た叙情性など、――これらも小澤の感性の良さと、このオーケストラが出した久しぶりの珠玉の響きと言えるだろう。そういえば、この楽章冒頭のコントラバスのソロも、他に例を見ないほどきれいな音色だった!

 総じてこのサイトウ・キネン・オーケストラは、あまり力み返らない演奏をした時がいちばん良く、名手ぞろいのオーケストラとしての本領を発揮する。この「巨人」の演奏でも、どちらかといえば抑制された、均整の保たれた響きが基調になっていて、弦も金管も、刺激的な音は避けられていた(第1楽章最後のティンパニだけはちょっと雑だったが……)。

 松本は、夕方になるとすでに肌寒い。今年のこの音楽祭も、明日で閉幕。

     ☞モーストリー・クラシック12月号(10月20日発売)Review

9・7(日)ロナルド・ゾルマン指揮東京フィル

  オーチャードホール

 今日の定期の指揮は、最初の予定では若杉弘だったが、膵炎で入院中とのこと。非常に心配である。
 代わってベルギー出身のロナルド・ゾルマンが客演。この人の指揮は、今日初めて聴いた。プロフィールには書かれていないが、60歳前後か。ベルギー国立管音楽監督などを歴任、現在はハイファ北イスラエル響音楽監督在任とのこと。プログラムは最初の予定通り、プフィッツナーのヴァイオリン協奏曲Op.34(ソロは東フィルのコンマス、荒井英治)と、ブルックナーの第4交響曲。

 少なくとも今日の演奏を聴いた限りでは、プフィッツナーでのずしりと響く低音、ブルックナーでの分厚く豪壮重厚な音の積み上げなど、最近ではあまり聴かれなくなった独墺ロマン派系の作品にぴったりの音を出す人で、アナログ的(?)な音楽の雰囲気を漂わせる指揮者にも感じられる(2日前にはフランクやルーセル、ダンディなど、フランス系の作品をも指揮したはず。そちらの方はどんな演奏だったのだろう?)。 

   音楽の友11月号(10月18日発売)演奏会評

9・6(土)大野和士のオペラ・レクチャーコンサート

   テアトロ ジーリオ ショウワ

 小田急は新百合ヶ丘にある昭和音大のオペラ劇場。

 このシリーズは大変な人気である。私もこれまでに何度か聴きに行ったが、とにかく面白い。
 大野和士がみずからピアノを弾きつつ、ゲスト歌手たち(今回は黒木真弓、藤田美奈子、西村悟ほか)にも歌ってもらいながら、オペラについてのさまざまな話を展開する講座だ。漫談みたいなところもある彼独特の話術がなんとも楽しい。オペラの音楽がかくもニュアンス豊富で表情豊かで、しかもすべてを語りつくしているのだということを、実に解りやすく解説しているところが見事である。
 こういう話を聞くと、演出ばかりに気をとられず、もっと音楽の一つ一つの個所――わずか一つのフレーズ、一つの音符、一つのクレッシェンドがどれほど雄弁に登場人物の性格を描き出しているかを味わおうではないか、という気持が起こってくるだろう。

 今年のテーマは、「オペラに咲く悪の華」で、「マクベス」のマクベス夫人、「ローエングリン」のオルトルート、「リゴレット」のマントヴァ公爵、「トスカ」のスカルピアを素材に、悪玉あってこそ善玉が引き立つのだという話。
 実は私も、毎年担当している早稲田大学エクステンション・センターのオペラ講座で昨年「悪役の本領ここにあり」というテーマでヴィデオの映像を使い、さまざまな悪役の魅力を探ったことがある。が、話を「水戸黄門」や「遠山の金さん」から始めたり、生身のゲスト歌手を使って(指揮者の威令?で歌手に指示も出す)大野の巧さには感服する。

9・5(金)ティエリー・フィッシャー指揮名古屋フィル

   愛知県芸術劇場コンサートホール

 名古屋フィルの新常任指揮者、ティエリー・フィッシャーの評判がすこぶる高いので聴きに行ってみた。
 スイス生れ、51歳、BBCウェールズ・ナショナル管弦楽団首席指揮者との兼任(このオーケストラの桂冠指揮者は尾高忠明である)。以前はハンブルク州立歌劇場などのフルート奏者だった由。なるほど、1984年の同劇場来日公演のプログラムを引っ張り出して見たら、メンバー表に「ティールリー(!)・フィッシャー」という名前が載っていた。

 噂にたがわず、好い指揮者である。隈取りの明確な、引き締まった音楽をつくる人で、ちょっとクリスティアン・アルミンクを連想させるクールなところもあるが、彼よりは音楽の表情がもう少し温かく柔らかく、ロマンティックな感性もやや強いかとも思われる。
 休憩後に演奏された「ダフニスとクロエ」全曲など、大編成のオーケストラを楽々と鳴らして、豊麗かつ豊満な音色を存分に展開してくれた。

 第1部の2曲目におかれた武満徹の「ファンタズマ/カントス」は、これはもういかにも外国人指揮者によるタケミツといった感じで、メリハリの非常に強い、時に剛直な面さえ感じさせる演奏。
 作曲者の言う「日本庭園の情景の変化」に従えば、沈潜した光景の中にも時に湧き上がる不動の力があり、しかもその移り変わる景観の一つ一つに明確な区切りが付けられている、という印象なのである。
 私は日本人指揮者による「武満」演奏におけるような、なだらかで瞑想的な美を感じさせる演奏も懐かしくて好きだが、このように外国人が感じる「武満の美」の表現も、新鮮に感じられて好きだ。ただし、クラリネット・ソロは亀井良信。

 プログラム冒頭には、メシアンの「キリストの昇天」。ここでもフィッシャーは、音を明確に縁取りして響かせる。金管、次に木管、やがて弦、と音色が次第にふくらんで来る過程でのオーケストラの鳴らし方もすこぶる巧い。ジャン・フルネが都響を振った時に聴かれた一種の陶酔感のようなものはここにはないけれども、それはないものねだりというものであろう。

 この3曲のプログラム、音楽の性格の上で、実に巧く繋がっている。コンセプトとしても見事に設計された選曲だ。
 それはいいのだが、実際に続けて聴いてみると、特に第1部では、ほぼ同系統のゆっくりしたテンポ(感覚の上でだが)が正味40数分、この間ずっと緊張感を保ち続けるのは、いささかの心理的重圧を免れぬ。しかも「ダフニス」にしたところで(音楽の細かい動きはあるけれど)緊張を解放するような速いテンポとフォルティシモは、40分の全曲中でも数えるほどしかないのだ。あまり巧すぎる選曲も、時にはよしあしか。

 名古屋フィルは、実に多彩な音色をもつオーケストラになった。メシアン冒頭の金管のコラールなど、なんと均整の取れた響きかと感嘆する。ただし弦が、速いパッセージではそう目立たないのだが、遅いテンポでじっくりと歌う個所などで粗さがあるのが惜しいところだ。しかし、最後の「ダフニスとクロエ」では、大体うまく行っていた。細かいところではいろいろあったが、多分2日目の演奏では改善されるたぐいのものだろう。

 「のぞみ」が満席なので、「ひかり」で帰京。

9・2(火)サイトウ・キネン・フェスティバル 「利口な女狐の物語」

      まつもと市民芸術館

 再び松本へ。
 昨年の「スペードの女王」に続き、今年も小澤征爾のプロデュースによる「サイトウ・キネン・オペラ」は成功を収めた。

 彼とヤナーチェクの音楽は、以前の「イェヌーファ」でも証明されたことだが、相性のいいものに属するだろう。特に今日の演奏では、この作品の持つ叙情性が存分に浮き彫りにされ、「愛の場面」や終幕の場面などでのしみじみとした情感もすばらしい。オーケストラの音色の美しさも特筆されてよい。さすが最終上演ともなると練れてくるものである。

 ロラン・ペリーが演出と衣装を担当した舞台は温かく愛らしく、狐をはじめ、蠅、蚊、ヒヨコ、蛙など、動物たちの扮装とメイクと演技は、実にリアルさをきわめて楽しい。
 登場する人間たちと動物たちは特に仲良く暮らしているわけではないのだが、それにもかかわらずこの舞台に感じられるのは人間と動物との愛であり、地球への愛、自然への愛なのだ。
   グランドオペラ2008年秋号(10月18日発売)

9・1(月)ペーター・コンヴィチュニー、ワーグナー演出を語る

   ドイツ文化会館

 二期会の「エフゲニー・オネーギン」演出のため来日中のコンヴィチュニーが、ワーグナー協会の例会に登場した。
 私は特にコンヴィチュニー信奉者ではないけれども、彼の演出は既に十数本観る機会を得ている。なるほどと感心させられるもの、反発したくなるもの、ブーイングしたくなるもの、いろいろあるのだが、少なくとも今日聴いた彼の話はすこぶる面白かった。

 「意味を理解するためには文字を変えなくてはならないことがある」という諺がドイツにはある、と彼は言う。
 つまり、古い言葉で語られたものを理解するには、時には現代語に翻訳する必要が生じる、という意味だろう。いわゆる「読み替え」(ここでは不適当な表現だが)の原点はここにある、ということか。
 そして彼の話は続く。
 「さまよえるオランダ人」第2幕で女たちが糸を紡ぐ行動は、彼女たちがせっせと働くことにより男に気に入られようとしていることを表わす。
 では現代だったら、何をすることで男の歓心を買うだろうか。たとえばスポーツクラブに通って、容姿を磨くことに専念するだろう。かくして第2幕冒頭は、女たちがいっせいに運動用の自転車のペダルを踏み続けている場面に設定される、と彼は説明する。

 その他、権力の基盤の上に作られる人生か、それとも愛の基盤の上に作られる人生かを択一せよ、と迫ることこそ、ワーグナーが「指環」でわれわれに突き付けているメッセージである、という話。あるいは、「劇場の役割と意味」のような話なども。

 なお、「パルジファル」(08年3月20日の項参照)第1幕で巨樹の中から出現する「聖母マリア」はクンドリーである、という説明もあって、これはたしかにコロンブスの卵的な発想であったと思い当たる。
 彼曰く、「日本ではどうか知らないが、西洋では、女性は二つに分類される。聖母か、あるいは娼婦かだ」。

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