2017-04

8・31(日)パノハ弦楽四重奏団

  紀尾井ホール

 早朝の「スーパーあずさ」で帰京し、午後3時からのマチネーを聴く。

 パノハ四重奏団の演奏は、いつも温かい。一種の手づくり的な音楽の雰囲気を備えたこのような弦楽四重奏団が今なお根強い人気を持ち、演奏会が満席になるという状況はうれしいものである。今日のプログラムは、ハイドンの「ロシア四重奏曲」の第6番、シューベルトの「第10番」、スメタナの「わが生涯より」の3曲。

 この中での圧巻は、やはり「わが生涯より」であった。先日、PMFでの東京クァルテットのあまりに素っ気無い演奏を聴いて腹立たしく思ったばかりなので、今日のこの演奏を聴いて溜飲を下ろしたような感がある。第1楽章など、冒頭から悲劇的な物語が開始されたという印象であり、その曲想の合間を縫って、雲間から時折光が射すように希望と安らぎの感情が現われるといった標題音楽的な進行が聞き取れる。このあたりでのスメタナ特有の細かい転調の妙味は、こういう演奏でなくては堪能できない。
 第3楽章は、ほとんど慟哭の歌だ。第1ヴァイオリンのイルジー・パノハが、聴き手の心に届けというような身振りで演奏する様子は、いつ見ても胸に迫る姿である。フィナーレ大詰めでの、明るい思い出が寂しく消えて行くくだりのパノハ四重奏団の情感豊かな演奏は、彼らが祖国の大作曲家に対して抱く愛情と共感とを痛いほどに感じさせる。

 前半の2曲は、当然ながらそれほど感情移入の激しいものではなく、いずれもしっとりした美しさと温かさにあふれた演奏だ。特にシューベルトで、これほど旋律をさりげなく、しかも心のこもった表情で歌う弦楽四重奏団は、今日ではほとんどいなくなった。
 アンコールで演奏してくれたモーツァルトの「K.171」からの「メヌエット」がまた絶品だった。
    モーストリークラシック11月号演奏会Reviews

8・30(土)サイトウ・キネン・フェスティバル 下野竜也指揮「わが祖国」

    長野県松本文化会館

 打ち続く豪雨のため、「スーパーあずさ」もまた運休か乱れを起こしはしないかとハラハラしていたが、幸いにも今日はそれほどの雨にも合わず、順調に松本着。何事もなく動いて、着いてくれれば、それだけでありがたい。雨上がりの信州、そう涼しくはないが、やはり空気が違う。

 恒例のサイトウ・キネン・フェスティバル、今がたけなわだ(9月9日まで)。
 今日は「オーケストラ・コンサートA」。サイトウ・キネン・オーケストラは客演指揮者として若手の下野竜也を迎え、スメタナの「わが祖国」全6曲を休憩なしに演奏した。

 総監督の小澤征爾が指揮する時にもその傾向なしとしないが、特に若い客演指揮者が振った時にはこのオーケストラ、なおさら粗さが目立つ。
 今日の演奏でも、速いテンポで煽っていく個所では勢いとパワーで盛り上がるけれども、ゆっくりと歌う個所や、とりわけ木管群が主題などを精妙に受け渡していく必要のある個所では、ちょっと呆気に取られるくらいニュアンスに乏しく、しかもバランスの悪い演奏が聞かれた。
 合うとか合わないとか、上手いとか下手とかいう次元の問題ではない。要するに「臨時編成の名手オケ」の欠点が出てしまうのである。
 お客の一人が「星野ジャパン」みたいなオケだと笑っていたのを小耳に挟んだが、うまいことを言うものだ。

 事実、前半、特に「ヴィシェフラド」と「ヴルタヴァ(モルダウ)」など、この指揮者とオケはもしや相性が悪いのではないかとやきもきさせられるような演奏であった。調子を取り戻したのは、荒々しい曲想の「シャールカ」以降だが、それでも「ボヘミアの森と草原から」では、スメタナ得意の転調の妙味が生きぬ。ただし最後の2曲は、骨太なエネルギーで驀進し、熱烈な盛り上がりで決めた。

 下野竜也は、11月にもこの全曲を読売日響と演奏するが、その時の方がニュアンスの豊かな音楽をつくれるのではなかろうか。

8・28(木)ベルリン・フィルの映画 

    映画美学校第2試写室

 ベルリン・フィル創立125周年記念として昨年製作された映画が2本。

 一つはトマス・グルベ監督の「ベルリン・フィル 最高のハーモニーを求めて」(原題 TRIP TO ASIA The Quest For Harmony)で、中国・韓国・台湾・日本への演奏旅行と現地の風景、それにラトルやベルリン・フィル楽員たちの個々の心象とを併せて綴った構成。赤裸々な告白もある音楽家たちの素顔が描かれている点で興味深い。

 が、全篇108分を同じパターンで押し通しているため、長すぎて起伏に乏しいと感じさせる恨みがある。
 その中では、台北で若者たちからポップス・スター並みの大歓呼を受け、ラトル一同が感激するシーンがすこぶる感動的であった。このくだりと、台北の人々の表情や、離陸していく飛行機などの映像、そこに流れる「英雄の生涯」の最後の部分とは、きわめて見事なクライマックスを構成していた。
 しかし、ここで終らせてはあまりにロマンティックすぎる、というのがグルベ監督の考えなのだろうか。そのあとにまだ東京のシーンが、しかも前述の同じパターンで続くのだが、ここがどうも蛇足の感を免れないのである。
 とはいえ、全体として、音楽を聴くことの悦びを十二分に感じさせてくれる映画といえよう。字幕も解り易い。11月中旬からロードショーの由。

 もう一つは、エンリケ・サンチェス=ランチ監督の「帝国オーケストラ」。原題は「The"Reichsorchester" The Berlin Philharmonic and the Third Reich」。
  最初のPR資料では「ナチのオーケストラ」などという題名になっていたので、また例の――平和の時代にしか生きていない連中が、自分たちが体験してもいない時代で苦悩しつつ必死に生きた人間たちに対し、正義感まがいの天下泰平さをもって断罪して得意になる――あのパターンかと思って警戒していたのだが、幸いに原題に忠実な邦題に変更されていた。

 これは、現在80代、90代になる当時の楽員2人の証言を中心に、記録映像を織り交ぜて構成した映画だ。前述の映画で描かれた心象とは次元が全く違う。息詰まるような、恐るべき物語である。
 彼らが苦悩したことを、後世の泰平に生きる者たちが、単なる結果論だけで批判することなど、思い上がりも甚だしかろう。
 なお、当時の記録映像そのものは、これまでLDやVHS、DVDで見る機会のあったフルトヴェングラーの映画などからの引用(第9、「マイスタージンガー」前奏曲など)も多く、特に珍しいものは意外に少ない。こちらは11月下旬より公開の由。97分。

8・26(火)第20回アフィニス夏の音楽祭 東京演奏会

   JTアートホール アフィニス

 長野県飯田市で20年間開催されてきたこの音楽祭(音楽監督・四方恭子)が、今年で一応の打ち上げとなり、来年からは広島市と山形市で交互に行なわれるそうである。
 アカデミー生でなく、日本のプロ・オーケストラの奏者を対象としたセミナーである点で、PMFなどとは全く違った特色を発揮しているこの音楽祭。20年とはよく続けてきたものだ。偉としたい。

 北ドイツ放送響などドイツのメジャーなオーケストラの首席奏者や音大教授たちと、わが国のオーケストラの奏者たちの混成部隊による大編成のアンサンブルで演奏された今夜の3曲。この小さなホールでは響きが飽和するかと思われたが、合奏に均衡がとれていさえすれば、全く問題ないことがわかる。
 最初のブラームスの「弦楽六重奏曲第1番」は後半で大味な演奏になったが、次のシュテファン・ワーグナー(北ドイツ放送響コンマス)がリーダーをつとめたストラヴィンスキーの「プルチネルラ」組曲は、これほどヴィヴィッドな演奏は稀であると思えるくらい、見事な演奏になっていた。ソロがみんな上手い。
 そしていっそう完璧なバランスを保った密度の濃い演奏が聴けたのは、四方恭子がコンマスをつとめ、下野竜也が指揮したシェーンベルクの「室内交響曲第1番」であった。

8・25(月)サマーフェスティバル2008 MUSIC TODAY 21

   サントリーホール

 恒例のサントリー音楽財団の現代音楽フェスティバル。ますます尖ってくる気配。

 今日はその2日目で、54歳で他界したフランスの作曲家ジェラール・グリゼーの没後10年を記念し、「音響空間」という作品が演奏された。休憩を挟んで計1時間40分にもなる長大な作品である。ピエール=アンドレ・ヴァラド指揮の東京フィル、それに6人のソリストたち。

 プログラムに書かれた解説の、相変わらずゲンダイオンガクっぽい文体には笑ってしまう。「その限界を超えた過度の複雑さは回避され、音の成り行きはそのまま聴取の対象になる」など、こういう書き方をしないと、ゲンダイオンガクの専門家として、ゲンダイオンガクの専門家たちに認めてもらえないらしいのですな。
 しかしこういう調子では、現代音楽はいつまで経っても、一握りのスノッブたちのものでしかないだろう。

 そんなことより、虚心坦懐に音楽だけに耳を傾けてみるとよろしい。実に面白い。
 この「音響空間」なる曲も、特に後半、大編成のオーケストラが織り成す多彩きわまる音色が刺激的だ。楽器の音色というものがいかに豊富か、改めて思い知らされる。
 欠点といえば、ある一定の時間のあいだにほぼ同一の音の動きが、うんざりするほど執拗に繰り返されることだろう。コントラバス・ソロ、あるいはヴィオラ・ソロ、あるいは4本のホルンが、もう分かったから先へ行け、と言いたくなるくらい、くどく何度も同じモティーフを演奏する。しかも、「展開」がない。
 このグリゼーという人、メシアンの弟子だが、先生の手法を形だけ真似たのかな?

8・22(金)アシュケナージ指揮EUユース・オーケストラ

  神奈川県民ホール

 午前中に帰国。午後にかっきり2時間の昼寝。これはJTBの山本氏から教わった時差ボケ解消の方法で、非常に効き目がある。

 夜7時から、リムスキー=コルサコフの「不死身のカシチェイ」などという珍しいオペラがあるので聴きに行く。
 演奏会形式とはいえ、ナマでは一生に一度聴けるかどうかの作品だ。
 とはいえ、ウラディーミル・アシュケナージの温厚無難な指揮のため、はなはなだまとまりのない曲に聞こえてしまう。本来はもっと起伏の大きいカラフルな音楽を持つオペラなのにと隔靴掻痒の思いだったが、ナマで聴ける機会を作ってくれたことだけは感謝しなくてはなるまい。
 しかし歌手陣には、アンドレイ・ポポフ(カシチェイ)、マリーナ・シャグチ(囚われの王女)、アレクサンドル・ゲルガロフ(イワン王子)と3人の実力派が揃って文句のつけようながく、アンジェリナ・シェバチカ(カシチェイの娘)、大塚博章(嵐)もなかなかいい。
 前半には「シェエラザード」。
 それに、カラヤンが編曲した「EUの歌=ヨーロッパ讃歌」(第9)をナマで聴けるというおまけも。

8・20(水)旅行日記最終日 ザルツブルク音楽祭 「ルサルカ」

   モーツァルト・ハウス(旧祝祭小劇場)

 湖のほとりの「森」を曖昧宿(夜の女の溜り場? 娼婦の館? 今は何ということばで呼べばいいのか?)に読み替えた、ヨッシ・ヴィーラーとセルジョ・モラビトの演出。

 魔法使いの老婆をその元締めに、さらに3人の森の精を全裸に薄いヴェールをまとっただけの娼婦に仕立てたのは、第2幕における森番の歌詞にもある「森では魔法使いの婆さんが皆をたぶらかし、一糸まとわぬ森の精が男を惑わせる」を拡大強調した設定だろう。
 シェローが76年のバイロイト「指環」で、フリッカが「今まで何人もの男たちをたらしこんで」と噂する言葉を利用し、ラインの乙女たちを娼婦として設定したのと同じ発想である。

 ルサルカ自身は森の精でなく水の妖精だが、スラヴの伝説では、彼女もまた男を誘惑し、狂わせる性格を備えている由。となればこの演出におけるように、彼女が魔女の仕切る娼婦の館で森の精たちと一緒にいる理由も成り立つのかもしれない。「遊女が客に惚れた」という伝か。
 もっとも、冒頭でルサルカが湖から出て館にもぐりこむ場面があるので、無邪気な彼女が単に「遊びに来ている」だけのことかもしれないが。

 毒々しい赤色を使ったこの「宿」のサロンは、非常に下品で、感じが悪い。
 だが、第2幕での人間の館もこのヴァリエーションのような光景になっており、それは少しは綺麗に飾られてはいるものの、本質的には両者は共通している。
 普通は、人間世界は穢れたもの、妖精や自然の世界は無垢なもの、という対比の概念があるものだ。このオペラも一見その構図のようでありながら、しかし台本をよく読むと、実はそうでないことが解る。この演出もそこを衝いたものといえよう。

 この演出では、ルサルカが魔女から(王子を殺すために)渡されたナイフで自らを刺し、早々と死んでしまうという設定にされている。
 もっとも、これも台本ではあまり明確に描かれておらず、その後で王子の前に現われる彼女が「生きているとも死んでいるとも判らぬ亡霊のような姿と化している」という説明もあるので、この演出のような形になっていても全く違和感がないどころか、むしろ自然に思えるほどなのだ。「あらゆる犠牲も無意味だった」という歌詞も最後にあるため、なるほどそのことかと思わせられてしまうのがヴィーラー&モラビトの演出の巧妙なところだろう。

 フランツ・ウェルザー=メストの指揮が実にいい。いわゆる情緒纏綿たるスタイルではないが、無味乾燥なものでもない。ドヴォルジャークの音楽の旋律と和音の美しさを浮き彫りにして、今まで気づかなかったような魅力を作品から引き出して見せてくれる。また演奏の構築が明快そのものなので、聴いていて長さを感じさせないのだ。
 オーケストラはクリーヴランド管弦楽団。少々殺風景な音色で、几帳面な演奏ではあるが、この曲の良さを存分に味わわせてくれたことは間違いない。

 ルサルカのカミッラ・ニールンドは清純な歌唱表現で、しかも美しく、妖精としての雰囲気を充分に出している。「亡霊」になってからのメイクもなかなか巧く、息を引き取った王子をみずから「水中」(といっても揚げ蓋の中だが)に落し、自身は十字架を手にして彼を見送るラストシーンでの死霊同然の顔つきなどには、ちょっと鬼気迫るものがあった。
 声楽面で最もすばらしかったのは王子役のピオトル・ベチャーラ。情熱と力感があふれる歌唱で、第1幕の終わり近くにある長い歌など、息を呑ませる迫力だ。
 底意地の悪い公女役はエミリー・マギーで、これは何となくぴったりのイメージ。魔法使いの老婆役はビルギット・レンメルト、大柄な体躯を生かして、メイクからして何か気持悪くて物凄い。河童のような水の精はアラン・ヘルドで、これも迫力満点だろう。3人の全裸の森の精(アンナ・プロハスカ他)は、本当に見事に踊って歌う。

 7時半開演で、休憩は第1幕の後に1回あり、終演は10時40分となった。薄汚くて気持の悪い舞台のところもあったが、好みを別にすれば、これも良くできたプロダクションといえるだろう。
 

8・19(火) 旅行日記第5日 ザルツブルク音楽祭「ドン・ジョヴァンニ」

   モーツァルト・ハウス(旧祝祭小劇場)

 クシェイ以来の新演出で、クラウス・グートが担当。舞台美術と衣装はクリスティアン・シュミット。

 このオペラの舞台には珍しく、場面が深夜の森林の中に設定されている。回転舞台が活用されるが、いくら回っても場面はすべて夜の林の中である。
 初めは、どこか別荘地に近い林の中かとも思ったが、その後の場面でアンナとオッターヴィオが乗って走って来たクルマがエンストしたり、エルヴィーラがトタン張りの掘立て小屋でバスを待っているらしい場面なども出て来るところをみると、森林は森林でも場所は漠然としているらしい。
 こんな夜中に、暗い林の中でいろいろな人間がうろついていたり、結婚祝いのパーティが行われたりするのは全く論理的でないけれども、その一点だけを除けば、――この演出はいかにもグートらしく、緻密にきちんと組み立てられている。

 通常の上演は「プラハ版」と「ウィーン版」の折衷版だが、今回は珍しく「ウィーン版」である――とはいえ、レチタティーヴォなどには一部カットがある。
 この版の特徴の一つは、ドン・ジョヴァンニの地獄落ちの場面でオペラが終了する点にある。したがって、最後の6重唱がない。
 そのため、残りの者たちの「一応の大団円」も一切語られないわけだが、これがむしろ人物描写の解釈の幅を広げるのに役立つという面白さにつながるだろう。
 他にも一般の版と異なっている部分がいくつかあるが、グートもそれらに着目して今回の演出を試みているようだ。

 ドンナ・アンナとドン・オッターヴィオを待つものは、おそらく破局である。
 相手がジョヴァンニと知りつつ情事を重ねたアンナは、林の中でクルマがエンストした時、(何故かそこへ現われた)ジョヴァンニと秘密の合図を交わした瞬間をオッターヴィオに目撃され、ばれたと気づいた途端に防御姿勢に転じてジョヴァンニの「悪行を捏造して」オッターヴィオに告げるという女なのだ。 アンナとジョヴァンニの「謎」にこれほど簡単な抜け道を作ってしまった演出も、そう多くはないだろう。
 自己嫌悪に陥ったらしい彼女は、最後のアリアのあと、自殺をほのめかしつつピストルを持って姿を消す。茫然としていたオッターヴィオも、さすがにうろたえつつ後を追って去る。われわれがこの2人を見るのは、これが最後である。
  この版では、オッターヴィオの二つ目のアリアが削除されているため、彼のアンナへの想いが薄らぎ始めているのを観客に感じさせるだろう。もともとこのアリアは彼の性格をいっそう未練がましく煮えきらぬものとして描いているので、――音楽的魅力は別として、ドラマの進行の上では――無い方がすっきりするかもしれない。

 ツェルリーナとマゼットはどうか。
 この版には、ウィーンでの上演のために書かれた、ツェルリーナがレポレッロを縛り上げ拷問する場面の二重唱が入っている。彼女の異常な性格を浮き彫りにする場面として、モーツァルトがどうしてこういうものを書き加えたのか不思議ではあるが、ここでも彼女がレポレッロごときを相手になぜこれほど残虐な行動に出るのか理解しがたいような場面が展開されていた。
 この場の終りは、オリジナルのレチタティーヴォおよびト書きとは少し異なる進行と演出になっていて、彼女を追って来たマゼットが、その異常な行動を目の当たりに見て愕然とし、喚き暴れる彼女を強引に連れ去るという設定にされている。われわれが最後に見たツェルリーナは、容貌すらヒステリックな狂女と化した姿なのであった。
 こんなことのあとに、彼女と、真面目そのもののマゼットとの間に未来があるなどと思えるだろうか? これも、最後の大団円の6重唱が無いという版の特徴を逆手に取った、巧みな解釈といえよう。

 エルヴィーラとレポレッロの2人の今後に関しては、定かではない。

 主人公ドン・ジョヴァンニについては、グートは一風変った設定を試みている。
 ジョヴァンニは、騎士長の頭を太い木の枝で一撃して倒すが、みずからも騎士長のピストルで左腹を撃たれ、かなりの傷を負った。したがって彼は、その後遺症に悩み、いささか元気がない。なるほどこのオペラでは、ジョヴァンニは最初から最後までヘマばかりやっているが、その理由はそんなところにあったのかと納得させられてしまう設定である。
 ラストシーンの「地獄落ち」では、その場面の最初から大きなシャベルで穴を掘り返していた男が騎士長だ。頭に包帯を巻いていたところから見ると、どうやらあの時死ななかったらしいが、定かではない。彼の威嚇によりジョヴァンニは力を失い、土煙とともに穴の中へ転げ込む。
 騎士長が登場する音楽あたりからしきりに雪が降り出し(これは音楽の悲劇的な終末感を強調するのには実に効果的である)ジョヴァンニは激しく震え出すのだが、それが寒さのためなのか、あるいは古傷が悪化したためなのか、この演出ではあまり明確に描かれていない。

 歌手陣では、演技面でも歌唱面でも、最も闊達で劇的で、しかも微細な表現を見事に発揮していたのがレポレッロ役のエルヴィン・シュロットだ。その存在感は、不良青年的なジョヴァンニ役のクリストファー・マルトマンを食ってしまうほどであった。騎士長のアナトーリ・コチェルガが太い低音で健在だったのは懐かしいし、慶賀の至りだ。パーヴォル・ブレスリクのオッターヴィオと、アレックス・エスポジートのマゼットは手堅く健闘というところだろう。

 ドンナ・アンナのアネッテ・ダッシュが病気で出られなかったのは残念だが、ブルガリア出身のスヴェトラーナ・ドネーヴァが代役でいいところを示した。ドンナ・エルヴィーラのドロテア・レッシュマンは歌唱面では文句ない出来ながら、何かこの役柄を一つ掴みかねているような曖昧さが感じられた。勿論これは演出のせいだろう。観ているわれわれの側にも、この舞台ではエルヴィーラのみが何か明快な存在でなかったように思えたのである。
 例のツェルリーナ役はエカテリーナ・シウリナで、この歌手はなかなかの曲者だ。

 ウィーン・フィルの音色は相も変わらず美しい。2-27という至近距離で聴いたためもあり、その美しさはさらに増す。指揮はベルトラン・ド・ビリーで、オーケストラをかなり厚みのある響きで鳴らしており、最後のカタスローフでもすこぶる緊張にあふれた音楽をつくっていた。
 結構な指揮だと思ったが、どうも反対派がいるらしく、第2幕の初めに彼がピットに現われた瞬間には何人かが強烈なブーを叫んでいた。これに対してウィーン・フィルのメンバーがこれ見よがしに彼に拍手を贈るという光景も見られた。

 総じて、ザルツブルク音楽祭のプロダクションらしく、よく作ってあって、手堅い出来を示す上演といえよう。第1幕は芝居が長かったため100分近くを要したが、第2幕は通常版より曲が少ないので、わずか75分ほど。3時開演で、6時半にはすべて終った。
 昨日に続き快晴で、気温もかなり高い。

8・18(月)旅行日記第4日 ザルツブルク音楽祭 「青ひげ公の城」他

  ザルツブルク祝祭大劇場

 エディンバラを早朝発ち、フランクフルト経由で昼過ぎにザルツブルクに入る。朝4時に起きなければならないスケジュールなどもう真っ平なのだが、毎回仕方なくこうなってしまう。

 大ホールは夜8時開演で、ペーター・エトヴェシュ指揮ウィーン・フィルによる「4つの管弦楽小品」「カンタータ・プロファーナ」「青ひげ公の城」の3曲。これは今年の音楽祭のテーマの一つである「バルトーク・シリーズ」のメインとされているらしい。

 上演は休憩無し。オーケストラは最初からピットに入ったままで、2曲目まではピットの位置を上げて演奏する。ウィーン・フィルの音色は、10-14という比較的前の方の位置で聴いても、きわめて美しい。ただし、エトヴェシュの指揮は、必ずしもまとまりの良いものではない。
 1曲目が終ると幕が上がり、合唱団はセットの窓から首を出す形で居並ぶ。これが終ると、吟遊詩人の口上を転回点として舞台のセットが変り、「青ひげ公の城」が始まるという段取りだが、この「青ひげ」の舞台装置は何もなく、ただ背景に水墨画のような曲線が一杯に拡がっているだけだ。カラフルなセットの「カンタータ・プロファーナ」と、モノクロ的なオペラの舞台とが対を成すという狙いもあるらしい。

 オランダの演出家ヨハン・シモンズによるこの舞台は、重度の外科的障害者である青ひげ(ファルク・シュトルックマン)と、その車椅子を押して付き添う看護婦ユーディト(ミシェル・デ・ヤング)の葛藤である。
 ユーディトは無邪気で惨酷で、青ひげに対し面白半分にしつこく迫り続け、彼の心の中を白日の下に曝してしまい、そのプライドをズタズタにしたあげく――彼女としても予想外なことに――彼を死に追いこんでしまう。
 舞台には扉もなく、血の色も変化する光もなく、城も花園も宝も涙の池も出現しない。もちろん3人の前妻も現われない。場面の変化は、ただ痙攣したり悶えたり怒ったりする青ひげと、それに対応するユーディトの演技だけで描かれるというわけである。前半に現われる「ため息」も、青ひげ自身の口から発せられるかのようである。

 好意的に見れば、これはあらゆる装飾物や猥雑物を排してこのドラマの本質――青ひげの心理の内面――を物語った、心理劇的な演出ともいえようし、音楽にすべてを託した演出ともいえようか。したがって、アイディアそのものは悪いとはいえない。
 しかし、オペラを観に来た観客にとっては、要するにさっぱり面白くない舞台なのである。なぜかブーイングは一つも出なかったが、夏の音楽祭で、しかも祝祭大劇場のあの広大なステージでセミ・ステージもどきの演出を見せられては、高いカネを払ってわざわざ観に来た立場からすれば、肩透かしを食らったもいいところだ。
 これに比べれば、平板だとか何とか文句をつけたあのパリ・オペラ座の「青ひげ公の城」の舞台の方が、なんぼか視覚的には華やかだったことか・・・・。

 シュトルックマンはサングラスをかけ、右手に1メートルもありそうなギブスをはめ、いつものようにパワフルな歌唱。あたかも入院中のヴォータンといった勢いの強靭な青ひげだが、何もない舞台で彼の存在感を際立たせるには、このくらいの強い個性で演じてもらったほうがありがたい。
 デ・ヤングも強靭な声では引けをとらない。悪戯っぽく乱暴な、すこぶる感じの悪い看護婦を演じ切って、単調な舞台を最後まで保たせてくれた。
 エトヴェシュは可もなく不可もなしといったところで、もっぱらウィーン・フィルの芳醇な音色を楽しむべき演奏だったが、後半、第7の扉を開けろとユーディトが迫るあたりの音楽の緊迫感と、最後の破局的なクライマックスをつくる盛り上がりの個所での壮絶な慟哭は、さすがに見事なものだった。

 以上のプログラムで、終演は9時50分。手頃な時間だろう。

 ●なお、青ひげの「症状」について、知り合いの医師の先生から異なる「診断」をいただきました。コメントをお読み下さい。ありがとうございました。

8・17(日)旅行日記第3日 エディンバラ国際音楽祭
ゲルギエフ指揮ロンドン響のプロコフィエフ・チクルス最終夜

  エディンバラ、アッシャー・ホール

 日曜日のせいもあって、客は完全に満員。
1曲目は「交響曲第6番」だが、これはプロコフィエフの交響曲の中でも最も説明し難いものではなかろうか。「5番」で円熟の手法を見せた筈の彼が、再び「バッド・ボーイ」的作風に戻ったかのような曲想だし。

 2曲目は「ヴァイオリン協奏曲第2番」で、再びレオニダス・カヴァコスが登場した。
 「1番」でもそうだったが、他のヴァイオリニストならバリバリ弾きそうな個所でも、彼は実に陰影濃く、しかも叙情味を含ませて演奏する。しかもリズミカルでエネルギー豊かな進行を充分に音楽に備え、作品全体を見通しよく組み立ててみせるのだ。これほど硬軟兼ねた演奏のプロコフィエフは、そう多くはないだろう。今日のプログラムの中で最も客が沸いたのは、皮肉にもこの曲であった。

 最後に「交響曲第7番」。
 ゲルギエフはこの曲について、「札幌のバーンスタインのように、齢を重ねた人間が最後に思い起こす使命は若者に教え伝えることだと意識したプロコフィエフの作品」だと指摘していた。
 もっとも、ゲルギエフが指揮すると、そこには野生的かつ情熱的なエネルギーが噴出して来るので、必ずしもこれが達観的境地に入った作品として聞こえるわけでもない。
 終結部では、静かに終る方の版が使われた。チクルスのエンディングとしては華やかさに欠けるが、ロシアではこの版による演奏の方が多いとかいう話も聞く。このあたりにも、ゲルギエフのプロコフィエフ観といったものが垣間見えるような気もする。

 長いプログラムなので、終演はやはり10時半となった。
 今夜は珍しく雲が切れていて、プリンセス・ストリートを歩いていると、ライトアップされたエディンバラ城の斜め上方に恐ろしく巨大な満月が堂々と輝いているのが見える。満月と欧州の古城という組み合わせは、なかなか壮絶な景観である。少し歩くと、満月は古い尖塔のうしろにかかる。まさにドラキュラでも現われそうな光景だ。同じ月でも、見る場所によっていろいろな性格を持つものである。音楽や演奏と同じように。

8・16(土)旅行日記第2日 エディンバラ国際音楽祭
ゲルギエフ指揮ロンドン響のプロコフィエフ・チクルス第2夜

  エディンバラ、アッシャー・ホール

 午前10時より午後1時までゲネプロを聴く。
 空っぽのため、このホールの響きの良さが遺憾なく発揮される。細部も豊麗な残響の中に包み込まれるような、たっぷりとした美しさだ。昔、札響をここで聴いた時も――残念ながら客の入りが悪かったため――、こういう音だった。
 休憩の合間を縫って、このオーケストラの Vice Chairman of the Board of Directors なるマシュー・ギブソン(コントラバス奏者)の話を聞く。リハーサル終了後、1時10分から2時少し過ぎまでゲルギエフに久しぶりのインタビュー。彼、昔は、どんなに忙しい時でも愛想が良く、相手を逸らさない人だったが、今は常に何かに追いまくられ、苛々しているような感がある。
 なお、このインタビューは、「音楽の友」9月18日発売号と、公演プログラムに掲載予定。

 本番は今日も夜8時から。ホール内は寒く、足が冷える。満席なので、ゲネプロとは大違いのドライなアコースティックになり、作品の性格さえ若干異なって聞こえる。上階席で聴けば少し印象も変るかもしれないのだが・・・・。
 最初は「交響曲第4番」。ゲルギエフは、この曲の場合には初稿版と改訂版とでは全く別の曲に等しい、と言っており、日本でも――先年ロンドンで行なったチクルスと同様に――両者を演奏することになっているが、この音楽祭では日程の都合で「初稿版」のみだ。

 2曲目の「チェロと管弦楽のための協奏交響曲」は、長大で魁偉な作品である。これを弾いたソリスト、タチヤーナ・ワシリエーワは楚々たる少女的雰囲気と華奢な体躯の人だが、音楽は驚異的にエネルギッシュで、すばらしい。
 最後は「第5交響曲」。かつてゲルギエフは日本でロッテルダム・フィルを指揮してこの曲を聴かせたことがあるが、その時と同じように豪快激烈な演奏になった。このホールでは響きがドライだから野性味が目立つけれど、響きのいいサントリーホールで聴けば、はるかに多彩な音色が楽しめるだろう。ともあれこの曲、手練手管を心得た革命児ともいうべき性格を持っていて、客を沸かせるツボを心得ている。プロコフィエフの交響曲の中ではやはり最もよく出来たものという感を強くする。

8・15(金)旅行日記第1日 エディンバラ国際音楽祭
ゲルギエフ指揮ロンドン響のプロコフィエフ・チクルス第1夜

  エディンバラ、アッシャー・ホール

 風格あるアッシャー・ホールは、いま一部を改装中。何も音楽祭のさなかにわざわざ工事をやらなくても、とは思うが、何せ19世紀末に建ったホールで、相当老朽化が進んでいるらしい。ステージ裏側の楽屋の通路は数年前に札響英国演奏旅行に同行して訪れた時と同様、狭くて足の踏み場もない。
 舞台はシャンゼリゼ劇場とよく似た造りで、奥は階段式。ティンパニや金管など後方に配置される楽器は2メートルも高い所に並ぶことになる。その後方の階段にもぎっしりと客を詰め込んで座らせていたが、音が吸われて残響ゼロの乾いた音になってしまっていたのは、そのためだろう。

 ゲルギエフとロンドン響は、今日から3日間にわたりプロコフィエフの交響曲チクルスを行う。
 初日は「古典交響曲」で開始された。CDで聴く演奏(ロンドンでのチクルス)と同様に、あまり細部に拘泥しない演奏で、練習不足なのかどうか定かではないが、プログラムの幕開けとしてはピシリと決まったものともいえない。

 しかし「交響曲第2番」になると、あの荒々しい「鉄と鋼の交響曲」といわれる作品の特色が見事に発揮され、鋭く凶暴な咆哮が続いて嵐のような演奏になる。こういうタイプの作品であれば、たとえ練習不足であろうともゲルギエフの野生的な面で独自の世界を築けるわけだ。
 が、叙情的な個所に至った時には、いつの間にか弦楽器などには、あのゲルギエフ本来の特徴たるしっとりした厚みと光沢のある響きが現われていたのだった。こういう点からも、オーケストラとの呼吸が既に合っていることを感じさせる。

 休憩後は、まずレオニダス・カヴァコスの詩的で、しかも見通しのいいソロによる「ヴァイオリン協奏曲第1番」。彼の流れのいい演奏にはいつも惚れ惚れさせられるが、ゲルギエフもまたここで意外なほどの叙情性を強く打ち出した。
 そして最後の「第3交響曲」では、あの「炎の天使」のモティーフ群が目まぐるしく飛び交い、不気味なエネルギーが蠢動するさまが鮮やかに示された。特にこの「3番」でのフィナーレの終わりにかけての、何か巨大なものが恐ろしい勢いで迫って来るような演奏は、久しぶりに聴いたゲルギエフぶしともいうべきものであった。

 このプロコフィエフの交響曲集は、面白い。1曲だけ抜き出して聴いた場合にはそれなりの印象に留まるのだが、こうして作曲順に3曲を続けて聴いてみると、彼の中で作風が変貌していく過程を追体験できるし、彼が如何に並外れて大胆不敵、自由奔放な音楽性の持ち主だったかを如実に感じることもできる。「古典交響曲」も決して手遊びの曲などではなく、アンファン・テリブル的な性格の裏返しなのだということが実感できよう。
 12月に行われる日本でのチクルスは番号順の演奏ではないが、さて、どのように受け取られるだろうか。

8時開演、10時半終演だが、観光シーズンということもあって街なかは深夜まで賑やかだ。雨こそ降らないが曇り空。気候は昼間でも涼しいくらいで、特に夜は冷える。ホールの中はそれ以上に冷える。服装は全員カジュアルだから、気楽でいい

8・12(火)幕間雑談 パリ国立オペラ オケ・ピットの話その後

 パリ国立オペラ来日の際の、オーチャードホールのオーケストラ・ピットをめぐるトラブルの話は当日の日記にも書いたが、そのあとでこのオケのヴァイオリン奏者・大島莉紗さんがみずから書かれたブログを読ませていただく機会があった。たいへん面白く、なるほどと思ったので、ちょっと紹介したい。

 要するに、あのホールはピットが非常に狭く、「トリスタン」を演奏するのに必要な編成を採ると身動きもできぬ状態になり、奏者と譜面台との必要な距離も取れず、ヴァイオリンの弓が隣の奏者の「頭を突き刺し」たりするありさまだったという。
 またピット全体の位置が低く設定されていたので、指揮者に近い奏者たちにはそのタクトが視角に入りにくく非常に見難かったこと、舞台上の歌手とのコンタクトが満足に取れないケースもあったこと、なども指摘されていた。そして、パリのピットと違い、椅子がスチール製の簡単なものなので、5時間も座って演奏するのは非常に苦痛だったそうである。

 そんな状況でありながら、それでも編成を少なくするなどといった妥協をせずに頑張ってくれたオーケストラには、脱帽しなくてはなるまい。あのホールで上演されるオペラにしては、いつもより編成が大きいのではないか、とは当日現場でも感じられたことだが、本当に演奏は雄弁で立派で、音量はたっぷりと厚みがあった。

 だがこういう話を聞くにつけ、日本での「オペラ上演におけるオーケストラ問題」に関し、いかに考えるべきことが多いかを痛感する。
 わが国では未だに、オペラではオーケストラは「歌の伴奏」たる存在に過ぎない、という概念がどこかに巣食っているのではないか? 

 しかし、パリの人たちは、日本滞在を非常に楽しんでくれたそうである。休日を利用して関西から新幹線で名古屋へスモウを見に来て、そのあと京都へ戻って別のグループと合流して・・・・という芸当もやってのけたとか。われわれ日本人はつい「距離」ということを意識してしまい、そういう遊び方はあまりやらないものだが、外国人の感覚には新幹線が解決してくれる「時間」の方が距離よりも大きいと映るのかもしれない。

 他にもいろいろな愉快な話があるようである。大島さんのブログは実に面白いので、一度訪問してみては如何。アドレスは以下の通り。

ヴァイオリニスト大島莉紗~パリ・オペラ座からの便り~

8・9(土)フェスタサマーミューザKAWASAKI 最終日
ユベール・スダーン指揮 東京交響楽団

   ミューザ川崎シンフォニーホール

 今日もほぼ満席状態。

 スダーンが指揮するロシアや東欧のレパートリーはこれまであまり聴いたことがなかったが――あったかもしれないが、すぐには思い出せない――今日の最初の「ルスランとリュドミラ」序曲など、弾むようなリズムで開始され、しかも要所に聴きなれぬアクセントがつけられて音楽が鋭角的になっているあたり、いかにもスダーンぶしといった感じなのにはニヤリとさせられる。
 ところが、帰宅して序曲のスコアを引っ張り出してよく見ると、スダーンが強調していた音符には、まさにスフォルツァンドやアクセントがちゃんと付いているのだ。
 つまり彼は、これまで慣習や演奏の勢いで等閑にされていたスコアの指示をもう一度正確に再現しようとしていたのである。この辺は彼がロシア人指揮者でないために――あるいはいわゆるオペラ指揮者でないために、既存のイメージに捉われずにできたことなのかもしれない。

 だがそうはいっても――やっぱり正直なところ、ロシア特有の色彩を充分に感じさせない演奏は、必ずしも手放しで楽しむというわけにも行かないところが、辛い。
 次のラフマニノフの「ピアノ協奏曲第2番」も、最後のドヴォルジャークの「交響曲第8番」も、実にきちんと設計構築された立派な演奏だったのだが、どうも面白み(というのは曖昧な言い方だが)に不足するのである。演奏とは、演奏する方にとっても聴く方にとっても、実に難しいものだ。

 その点、楽しませてくれたのは、協奏曲と、アンコールで「音の絵」の1曲を弾いてくれた小川典子の色彩感豊かな演奏であった。デビューした頃は力任せのところもあった人だが、今はもう別人の風格がある。今日は、ラフマニノフの光と影を充分に味わわせてくれた。

8・5(火)フェスタサマーミューザKAWASAKI/
尾高忠明指揮東京フィル

   ミューザ川崎シンフォニーホール

 ラフマニノフ・プログラムで、「ヴォカリーズ」「パガニーニの主題による狂詩曲(ソロは小山実稚恵)、最後に「交響曲第2番」。

 尾高は英国音楽にも定評があるが、こういうラフマニノフのような、情感に重点をおいた作品を振っても実に巧い。特に「第2交響曲」は、ぎっしり満員の客席を大いに沸かせた。「ラプソディ」を弾いた小山もいつもながらの強靭なピアノで、頂点に向けてクレッシェンドしていくあたりの音楽の昂揚など、気持のいい迫力である。

 今日は久しぶりに2階正面2列目で聴いたが、この位置は――オーケストラのウラのウラまで聞こえてしまうほどの近さはいいとしても――不思議にホールの残響が聞こえず、響きがドライになり、しかも低音域が薄くなるという傾向がある。3階席ではこんなことはないのだが。
 ちなみにこの「フェスタサマーミューザ」は、東京・神奈川のプロ・オーケストラ計9団体を総動員したフェスティバルで、今年はその他に洗足学園音大の打楽器アンサンブル、オルガンと打楽器、いくつかの教育プログラムなども入っていた。客の入りも上々とのこと。7月19日から始まっていたものなので、今週で終る。9日午後のスダーン指揮東響が千秋楽だ。

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