2017-10

7・31(木)ファビオ・ルイジ指揮PMFオーケストラ

  サントリーホール

 PMFの最終公演は、ほぼ例年通り、東京での演奏会で結ばれる。今年は首席指揮者のファビオ・ルイジが指揮した。彼は2010年からこの音楽祭の芸術監督に就任することになっている。

 前半に「ドン・キホーテ」。
 これだけ標題音楽的要素が意識されない、整然たる形式を持った絶対音楽として演奏の「ドン・キホーテ」も珍しいのではなかろうか。「羊」が鳴きながらたむろしている描写の場面など、この演奏では単に金管楽器群が特殊な奏法を行なう個所としての扱いでしかない。全体としては実に美しい演奏で、最強音も最弱音も、オーケストラのすべての音色とも完璧なほどに均整の取れた響きになっていたことは事実だが、その反面、非常に生真面目な、夢想味の少ない音楽になっていた。これがルイジのこの曲に対する本来の解釈なのか、それともアカデミー生のオーケストラ相手の演奏の手法なのかは、簡単に断じるのは早計だが。

 しかしルイジは、こういったアプローチを行なうことにより、どうやら後半のプログラム「幻想交響曲」との明確な対比を作ろうというのが狙いだったように感じられる。
 こちら「幻想」は、一転して激情的な演奏で、全体に速めのテンポに加え、スコアに指定されているよりも遥かに多くのアッチェルランドが施され、非常に振幅の大きい音楽が設計されていた。各楽章とも。頂点に向かう個所でみるみるテンポを速め、感情を高めていくあたりは、すこぶるスリリングなものであった。第1楽章(夢と情熱)での後半の興奮など、まさに主人公の激情の高まりそのものだろう。
 とはいえ、第2楽章(舞踏会)は極めて流麗軽快なワルツ一色になっていて、主人公の嫉妬のジレンマなどは露ほどにも感じられない。結局ルイジは、この作品でも標題音楽的要素にはさほどこだわらず、純粋に音楽としての流れの上から、昂揚や沈潜、デュナミークの対比といったものを導き出しているように思われる。

 オーケストラは、今年も水準は高い。18型の弦楽器群は強力で、しなやかで瑞々しい魅力的な音色を聴かせていた。ただ、「ドン・キホーテ」の中でソロを弾くコンサートマスターの音が不思議にか細く弱く、さっぱり聞こえなかったのが惜しい。この若者は、ステージではもっと覇気を見せ、オーケストラはオレが引っ張るのだと言わんばかりの迫力を体で表わすことが必要だろう。
 木管の中では、第1オーボエを吹いた女性奏者が光った。金管群は、今回は音量が比較的抑制されていたようである。
 なお「ドン・キホーテ」のチェロのソロは、シュターツカペレ・ドレスデンの首席ヤン・フォーグラー。若いが、風格と迫力充分だ。

 拍手は熱烈。2階ではアカデミー生のアメリカ人の友人でもいるのか、口笛が盛んに吹き鳴らされていた。この口笛はうるさくて大嫌いである。傍でやられたらたまったものじゃない。

   東京新聞(8月9日)演奏会評  
   北海道新聞
   

7・30(水)小澤征爾音楽塾Ⅸ「こうもり」

  東京文化会館大ホール

 まずは小澤征爾が元気で指揮していたのがなによりもめでたい。
 腰はまだかなり悪く、椅子に座って指揮を、と小澤幹雄さんは言っていたが、カーテンコールでは走って出て来るなど、結構いつもの元気さを見せていた。

 塾生のオーケストラが、鈍く重い。昨日までのパリのオケの華麗さに比べ、あまりの格差に憮然(本来の意味で)とせざるを得ないが、まあ言うても詮無き事なれば――。

 ロザリンデのアンドレア・ロスト、アデーレのアンナ・クリスティが歌唱・演技ともに映える。ロストは「チャールダシュ」などでは地で行けただろう。仮面をつけた場面で彼女が「訳の解らない」早口でまくし立てるのを、アイゼンシュタインが「ハンガリー人だから情熱的なのかな」と納得してしまうくだりなど笑わせる。そのアイゼンシュタインを歌ったボー・スコウフスも、なかなかよかった。演技も細かい。

 演出はデイヴィッド・ニースで、5年前のプロダクションの再演かと思っていたが、舞台美術や衣装も含めてかなり異なっているように思われる。第1幕ではセリフ・音楽ともいいテンポで進んでいたが、第2幕以降には少し隙間が感じられ、舞台の雰囲気も極度に平板と化してしまったのは、やはり演出家の責任だろう。
 フロッシュには元宝塚の大浦みずき。セリフが明晰さに欠けるのと、声質が粗いのが残念。

7・29(火)パリ国立オペラ/
ヤナーチェク:「消えた男の日記」&バルトーク:「青ひげ公の城」

    オーチャードホール

 前半の「消えた男の日記」を観た位置は1階下手バルコン(?)席だったためか、オーケストラのバランスなど非常に悪く、しかも詰まった響きになり、総じて安っぽいサウンドに聞こえたのが残念。
 オーケストラ編曲と指揮がグスタフ・クーンだったから余計にそう聞こえたのかもしれない。が、とにかく「アリアーヌ」や「トリスタン」とは比較にならぬほど鈍い音と演奏に感じられた。「男」を歌ったミヒャエル・ケーニヒは熱演、好演である。

 後半の「青ひげ公の城」は、席を替えて聴く。バランスは良くなったが、クーンの指揮はやはり平凡の域を出ない。さまざまな曲想の微妙な変化が巧く浮き彫りにされず、全曲が妙に長々しく単調に聞こえてしまうのだ。こんな曲ではなかったはずなのに。
 歌手はウィラード・ホワイトとジャンヌ=ミシェル・シャルボネ。後者にはもう少し微細な表現が欲しかったが、ともにまず文句ない出来栄えであろう。
 舞台は紗幕と映像投影を多様に組み合わせた、最近の流行スタイル。総じて悪くはないが、扉が開かれるにしたがって変化するはずの光景が必ずしもその通り現われなかったり、音楽であれほど強調されている「血のモティーフ」がほとんど視覚化されなかったり、という点にはあまり共感できない。
 
 この2作、演出はアレックス・オレおよびカルロス・バドリッサのチームによる「ラ・フラ・デルス・バウス」。いずれも幕切れがやや平凡なのが珠に瑕か。
 これで今回のパリ・オペラ公演3つを終る。出来栄えは、一に「アリアーヌ」、二に「トリスタン」、三・四がなくて五が今日の2作?

   「グランド・オペラ」(10月18日発売号)公演評

7・28(月)シルヴァン・カンブルラン指揮新日本フィル

  サントリーホール

 パリ・オペラ座の「アリアーヌと青ひげ」で超豊麗な音楽を引き出したカンブルランが、日本のオーケストラに客演したコンサート。

 典雅でしっとりしたモーツァルトの「交響曲第33番」。
 それに、光彩の音色を随所に散りばめた――つまり呼吸が合った瞬間には、ということなのかもしれないが、オルガンのように音を長く延ばす個所の音色の美しさが印象的だったブルックナーの「ロマンティック」。
 ユニークだが面白い。

 だが最も面白かったのは、イェルク・ウィドマン(ミュンヘン生れの35歳)の2006年の作品「アルモニカ」という曲だった。グラスハーモニカやアコーディオンをソロ楽器に、打楽器群を含むオーケストラが実に多彩きわまる音色を展開させて行く。その響きはあたかも、風鈴、風の囁き、樹の揺らぎ、水の流れ、といった趣き。
 ドイツ人でもこんな感覚的な音色の音楽を書くのか、などと感心していては認識不足を曝け出すようなものだが、しかしこういう、響きの美しさを重視する作品を指揮した時のカンブルランは、さすがに卓越したセンスを発揮する。

 このカンブルラン、近々わが国の某大手オーケストラの常任指揮者に就任するらしいが、その暁にはいっそ大々的に、フランスもののシリーズなんかやってくれないかしらん。

☞モーストリー・クラシック10月号演奏会Reviews

7・27(日)パリ国立オペラ/ワーグナー:「トリスタンとイゾルデ」

  オーチャードホール

 オーケストラと歌の豪華な演奏付で、無声映画を観ているような感。
 と言っては、また下世話に過ぎるか。

 舞台上の生身の歌手たちの演技はセミ・ステージ・レベルで、「あってもよいが、なくてもよい」程度の演出。しかしこれは、今回の主眼たる映像演出と均衡を保たせるためのピーター・セラーズの意図だったのだろう。
 背景のスクリーンに最初から最後まで一貫して投影される映像は、ビル・ヴィオラによるもので、巧妙に演奏とシンクロしており、トリスタンとイゾルデの心象風景をさまざまな形で表わしている(ただし、マルケ王のそれは無情にも無視されている)。
 第1幕ではあまり趣味の良くないところも少し出てくるけれど、海や雲や水といった自然の映像は私の好みでもあり、大いに楽しめた。

 これは、バイロイトのシュリンゲンジーフ演出のようなグロテスクな映像ではなく――あれはあれで面白かったが――、あるいは先日のエクサン・プロヴァンスの「コジ・ファン・トゥッテ」のようにリアルな背景効果を持つ映像でもない。きわめて抽象的な心理映像である。
 それゆえ、音楽のイメージを破壊することが全くない。それがありがたい。
 こういった映像演出は、音楽の魔力を引き立てる効果を持つはずである。それゆえ、私はこの試みを支持する。このような手法は、今後一層増えることになるだろう。

 今日の指揮は、セミョン・ビシュコフ。昔とは比較にならぬほど、音楽に巧みを増した。
 オーケストラも、先日の「アリアーヌと青ひげ」に劣らず豊麗で官能的で、見事なものであった。楽員の間にオーケストラ・ピットの造りについて不満が生じていたことは23日の項にも書いたが――私の印象では、パリの本拠のガルニエなりバスティーユなりで聴いた時より、今回日本で聴いた時の方が、よほどいい音に聞こえていると申し上げたいくらいだ。
 とはいえ、そのいい音の中にも、今日のオーケストラには、ちょっと聞き慣れない、不思議なバランスの個所がいくつかあった。特に第2幕終わり近く、当然聞こえるべき木管や弦のパートがどこかへ行ってしまい、妙に金管が出すぎたりして、異様な和音に聞こえるところがいくつもあったのである。
 これは、いったい、何なのだろうか。もしパートが「落ちた」のでなければ、ビシュコフの音作りに一風変わったところがあった、としか言いようがないだろう。

 主役歌手陣は、クリフトン・フォービス(トリスタン)、ヴィオレータ・ウルマナ(イゾルデ)、フランツ・ヨーゼフ・ゼーリヒ(マルケ王)、エカテリーナ・グバノワ(ブランゲーネ)、ボアズ・ダニエル(クルヴェナル)。いずれも文句ない。
 ごうごうと鳴るオーケストラに声が消されるところもなくはなかったけれど、ドイツやフランスの歌劇場のオーケストラはこのくらい雄弁であるのがふつうなのである。
 ただ、客席上方で歌った「ブランゲーネの警告」では、グバノワは少々怒鳴りすぎたのではなかろうか。メーロトを舞台上で歌ったサムエル・ユンという人も同様だ。
 
 一つ、文句がある。今回のプログラムには、脇役歌手のプロフィールが全然載っていないのだ。こういうことは困る。

7・24(木)飯守泰次郎指揮東京シティ・フィルハーモニック管弦楽団

  東京オペラシティコンサートホール

 前半のR・シュトラウスの「カプリッチョ」の「序奏と月光の音楽」および「死と変容」は2階席正面で聴き、後半のブラームスの「第1交響曲」は1階席上手側やや後方で聴いたが、このアコースティックの違いは驚くべきものだ。
 2階正面では、オーケストラの細部まで明晰に聴き取れる代わりに、金管はかなり鋭く刺激的に、音は全体に硬く迫ってくる。それに対し後者では、低音域が唸るように轟き、弦に厚みが出て、管はその彼方から少しこもり気味に、それほど明晰でないが重厚に響いて来る。

 ともあれこの日の演奏に関しては、1階で聴いた時の方が、音楽がロマンティックな色合いを増し、飯守がいかに豊かな情感を持った指揮者であるかという思いを強くさせたのであった。それゆえブラームスの交響曲は、濃い陰翳にあふれた非常な名演であったと感じた次第である。

 もちろん、これらの印象の違いの原因には、演奏の違いが大きく作用していたであろう。シュトラウスとブラームスの音楽の性格の違いを飯守が巧みに描き出して見せた、ということは当然あることである。聴衆の拍手の大きさが両者で歴然と異なっていたことが、何よりそれを証拠立てるものであろう。

 ただ、以前にもこういうことがあったのだ。チョン・ミョンフンと東京フィルの演奏を1階席後方で聴き、私は極めて柔らかく壮大で快い響きだと思ったのに対し、2階正面でそれを聴いていた人たちからは「うるさくてとげとげしい演奏だった」という感想を聞いたことがある。
 録音にせよナマにせよ、演奏批評には、如何に大きな陥穽があることか。

7・23(水)パリ国立オペラ/デュカス:「アリアーヌと青ひげ」

  オーチャードホール

 下世話に言えば、1人の男の6人の妻の間に生じた奇妙な絆の物語?
 しかし、ドラマの心理的解釈の面では、バルトークの「青ひげ公の城」より多彩で複雑なものがあるかもしれない。特に「妻」たち6人の心の動きという点でも。
 リーダー的存在だったアリアーヌが去ると、連帯感のようなものは脆くも崩れ、女たちは元の木阿弥、無気力な逼塞状態に戻る。だが、一番バカを見るのはやはり、自分も無力な男と化してしまった青ひげだろう。

 ドラマは後半にいたって少々冗長な進行になるが、にもかかわらずデュカスの音楽は最初から最後まで豊麗な音色に彩られ、時に不気味な、時に官能的な響きで緊張の高まる瞬間もある。
 パリ国立オペラ管弦楽団は――小耳に挟んだ話では――「こんなお粗末なオケ・ピットで演奏できるか」と文句タラタラだったとのことだが、それでいながらこれほど重厚で豪壮で、かつ煌びやかな演奏を聴かせるのだから立派なものだ。このホールでオペラをよくやる日本の某オーケストラの貧相な音に甘んじているわれわれからすれば、もう御の字である。

 今回の指揮のシルヴァン・カンブルランは、もともとオーケストラを轟々と鳴らす癖のある人で、今日も歌唱の一部が消される傾向もあったが(聴いた席は2階下手側バルコン後方)、しかしこの曲をこれだけ色彩的かつ劇的に聴かせるのは、やはりたいした手腕というべきであろう。
 歌手で光ったのは言うまでもなく、ほとんど出ずっぱりで力唱を聴かせたデボラ・ポラスキ。この歌唱量と、このオケの音量とを乗り切るには、ブリュンヒルデ級の戦艦のごとき馬力がないと務まるまい。青ひげ役はウィラード・ホワイトだが、この役は、歌唱面での出番がほんの少ししかないという不思議な主役。

 演出・美術・衣装は、アンナ・ヴィーブロックが担当していた。彼女得意の「蛍光灯」と「室内設定」がここにも顔を見せている。ドラマトゥルギーはマルト・ウベナフで、ヴィーブロックとのどちらが主導権を取っていたのかは定かでないが、まずは手堅い出来。

7・18(金)〈東京の夏〉音楽祭/サハラの声~トゥアレグの伝統音楽

   草月ホール

 パーシヴァル・クリストファー・レンの小説「ボー・ジェスト」では、フランス外人部隊の「凶暴な宿敵」として描かれているアフリカのトゥアレグ族だが、もちろんこれは侵略者たる西欧人の側が勝手に描いているイメージだから、アテにはならない。それでも、勇猛な戦士たちの存在は彼らの誇りだという話を聞いたことがある。
 現在は、北はアルジェリア、南はナイジェリア、東はリビアとニジェール、西はモーリタニアに接する広い範囲を生活圏としている遊牧民族だ。

 女性が作り、女性のみが演奏を許されるという弦楽器「イムザッド」や、料理に使う擂鉢に山羊の皮をかぶせて太鼓としたティンデ、「湿気に弱い」太鼓ガンガ、その代用品として最近多く使われている石油缶(!)といっためずらしい楽器が解説入りで紹介され、14人の民族衣装を着たトゥアレグの男女が熱烈に歌う。踊りもシンプルではあるが少しは入る。
 どちらかといえば単調なリズムの反復の連続だが、その賑やかさがまた興奮を呼ぶ。満席の聴衆のうち4割ほどが手拍子で乗り、十数人が舞台に飛び乗って踊りに参加していた。

7・17(木)〈東京の夏〉音楽祭/カラジャ族の芸能

  草月ホール

 涼しい札幌から、朝一番の便で帰京。
 
 今日は一転して、ブラジル中央部に住む少数民族カラジャの「伝統の音楽と儀式」。
 居住地のアラグアイア河中流の島からサンパウロ空港まで3日、そこから東京まで2日、合計5日の道のりを踏破してやってきた9人の男たちが、飾り物を全身に着けて、歌い、踊る。
 われわれからすれば「奇声」に属する声に感じられるが、それはやはり、その民族なりの表現手段であるはず。アマゾンの自然の中でこれを聴き、観れば、さぞ圧倒的だろう。

 休憩なしの75分、一つのパターンを4回ほど反復しては次に進むという形式を採っているので、時に単調に感じられることはある。とにかく、何だかよく解らないけれど、非常に面白い。

7・16(水)PMF/東京クヮルテット演奏会

  札幌コンサートホールkitara、7時

 東京クヮルテット(マーティン・ビーヴァー、池田菊衛、磯村和英、クライヴ・グリーンスミス)は、PMFにはこのところ4年連続で出演している。
 やはり最も完成度の高い演奏といえば、最初のハイドンの「作品76-1」だろう。豊潤でしなやかで明るい艶があり、造型的にも隙がない。

 これに対して最後のスメタナの「わが生涯より」は、聴きなれたこの曲のイメージと全く異なる演奏で、何か不思議にモダンな作品に接しているような気持にさせられた。
 こういうアプローチの仕方もあるのかなと驚いたが、スメタナがこの曲にこめた自叙伝的なものは一切意識しない演奏で、特に最後の「耳鳴り」の描写の瞬間などは、音楽にドラマティックな転換もなく、単に一つのホ音がスピーディにあっさりと弾かれただけで終る、といった具合だ(しかもビーヴァーはこのホ音で音程が大きくぐらつき、コブシを利かせたような音にしてしまったから、なおさら何だか解らなくなっていた)。

 私はこのプログラムに解説を書いていたのだが、知人から「耳鳴りの音なんて、どこに出てきたんだ?」と訊かれて泡を食った。
 実は先日の「トゥーランガリラ交響曲」の時にも、「お前の解説には第6楽章が官能的だと書いてあったが、全然そんな感じじゃなかったぞ。解説が間違ってるんでないか」と冷やかされていたのである。
 身の置きどころに困るとは、このこと。
 これからは、「演奏によっては」とか、「ふつうは」とか、但し書きをつけなくてはならないかも。

 2曲目に演奏された細川俊夫の「弦楽四重奏のための開花」(15分)は、昨年の作品で、この日が日本初演。ここでも「蓮の花」がテーマだ。池の中で花が開花に憧れる、という内容は、あのピアノとオーケストラのための作品「月夜の蓮」と共通したものである。
 彼が何と言うかはわからないけれども、水と空気の動きや、水面から顔を出して開花する過程などを、4つの楽器の絡み合う動きから勝手に標題音楽的に想像しながら聴いていると、結構楽しめる。
   北海道新聞
   音楽の友9月号

7・16(水)PMF/アラカルトコンサート

  札幌市役所1階ロビー 12:25~

 当初は東京クヮルテットが演奏するはずだったのが、チェリストが腹痛になったとかで,代わりにアカデミー生がモーツァルトの弦楽四重奏曲からの二つの楽章を演奏した。わずか20分ほどの無料コンサートだが、昨夜の現代音楽よりは沢山の、150~200人ほどの客が集まっている。演奏は実にしっかりしたもの。
 しかし如何せん弦楽器、少し後の方にはほとんど聞こえない。「聴きに来た人」には問題ないとしても、通りがかりの人々にももっとアピールできる方法を考えたいところ。そうなると、やはり管楽器の方が良いのでは? TPOということもある。
   北海道新聞

7・15(火)PMF/パシフィック・サウンディング「細川俊夫の世界Ⅱ」

札幌コンサートホールkitara 小ホール

 PMFのプログラムの中に毎年織り込まれている「新しい音楽」路線の一つ。
 聴衆の数は必ずしも多くはないけれど、フェスティバル全体が隆盛であるなら、その中にステイタスとしてこのような企画が一つくらいはあってもいいし、またなくてはならないものだろう。

 今回は、細川俊夫の作品3曲と、彼が選んだ若い作曲家4人の作品が演奏された。
若い作曲家とは、インド生れの女性ジュヒ・バンサル、香港生れの女性プイシャン・チェン、中国生れの女性ル・ワン、日本人男性大西義明。4人とも現在はアメリカで学んでいる人たちという。
 企画の狙いは、西洋以外の国の、つまりこの場合は環太平洋地域から登場した音楽家が、西洋音楽の影響を受けつつも独自の道を開拓しようとしているその過程を聴こうという点にある。これは「パシフィック・ミュージック・フェスティバル」の精神の一端を担うものにほかならない。
 4人それぞれが自己の民族の音楽の精神を生かす方法を意欲満々模索中、というわけだが、その中では大西が作曲手法の点で一歩先んじている反面、インターナショナルな「現代音楽っぽい作風」路線を進んでいるようにも感じられた。インドのバンサルの作品も活気があって面白い。

 後半には、細川俊夫の作品が3曲。
 最初のバス・フルートのための「息の歌」は、西洋音楽のスタイルではノイズとみなされている「息」の音を、あたかも風の音のように、あるいは尺八の音のように「音楽」として扱っている作品。かつて武満徹も憧れた、竹林を通り抜ける風の音にも共通する響きであろう。
 その他の2曲は今回が日本初演で、トランペットとアンサンブルのための「旅Ⅶ」、およびフルートとアンサンブルのための「旅Ⅴ」。いずれも「コンチェルト」として、「人」(ソロ楽器)が周囲の自然や宇宙(アンサンブル)とかかわり、最後には共鳴して行く模様を描く作品で、作曲のスタイルとしては共通したものである。作曲者の説明によれば、それを発見して行く「旅」のようなもの、ということであった。
   北海道新聞
   音楽の友9月号

7・14(月)ゲルト・アルブレヒト、久しぶり読売日響に客演

   サントリーホール

 一度帰京。
 ゲルト・アルブレヒトの姿を見ると、何か懐かしい。都合で、プログラムの前半だけ聴く。前半は、このコンビがかつて日本初演した、エドガー・ヴァレーズの「アメリカ」。7年ぶりの再演である。

 ステージをフルに埋め尽くした超大編成のオケが咆哮する。それでも音が少しも濁らず、汚くならないところが、読売日響のいいところだ。舞台の奥から鋭く響いてくるサイレンの音が、久しぶりにヴァレーズを聴いた、という感覚を呼び起こす。このサイレン、今日は実に立ち上がりが良く、音も良く、しかも強烈だった。演奏者は殊勲賞ものだろう。

 たかがサイレン、などと言ってはいけない。この手回しサイレンの演奏が下手だったり、音が貧弱だったりすると、特にヴァレーズの音楽の場合、目も当てられぬ結果になるのである。
 随分昔になるが、ストラスブール・パーカッション・アンサンブルが来日した時、東京文化会館での演奏会を、放送のためにライヴ収録したことがある。
 ところが、「イオニゼーション」のリハーサルの時にサイレンの機械が壊れてしまい、実になさけない音しか出なくなった。修理の部品もないので、しかたなくそのままエイヤと本番に突入してしまった。ヘナヘナの音に、演奏者もわれわれも身の縮む思いで、演奏終了後にはお互い顔を見合わせて苦笑するばかり。
 しかし、である。後日、どこかの新聞だか雑誌だかの批評には、「サイレンの音は悲劇的なニュアンスを感じさせ、現代の苦悩を象徴するかのようであった」と書かれていたのでありました。
 ナニ、批評・評論なんてのは、だいたい、そんなものです。

7・13(日)PMF/準・メルクル指揮PMFオーケストラ

    札幌芸術の森・野外ステージ  3時

 プログラムは前日に同じだが、こちらは野外コンサートなので、PAが入るため、感じは随分違う。音響もスピーカーで拡大されているため、「トゥーランガリラ」などは、ホールでのナマ音よりもずっとダイナミックに聞こえるだろう。しかしここのPAの質の高さは驚異的であり、音楽のバランス、音色を含む全体のイメージを少しも損なっていない。

 晴天に恵まれ、普通なら広い芝生席も家族連れやカプルで一杯になるはずなのだが、やはりこういうプログラムでは少々苦しいか。出入り自由のため、もちろん途中で帰る人たちもいないではなかったが、大部分は終りまでじっと聴いていた。どんなアンケート結果が出たか興味をそそられる。
    北海道新聞
    音楽の友9月号

7・13(日)PMF/「PMFウィーン」トークコンサート

   札幌芸術の森アートホール・アリーナ  10時30分~、12時45分~

 ライナー・キュッヒル、エックハルト・ザイフェルト、ハインリヒ・コール、ヴォルフガング・シュルツらをはじめとするウィーン・フィルの錚々たるメンバーが演奏する室内楽トーク・コンサート。
 まさに至福の時間であろう。

 モーツァルトの名曲の抜粋を中心に、200人ほどの熱心な聴衆相手に、親しみ深い雰囲気で演奏する。司会は同フィルのクラリネット奏者で、PMFの芸術主幹でもあるペーター・シュミードル。通訳が松田暁子。アーティスト一人一人をユーモラスに紹介する滋味豊かな話も面白い。
    北海道新聞
    音楽の友9月号

7・12(土)PMF/準・メルクル指揮PMFオーケストラ

  札幌コンサートホール kitara

 恒例の国際教育音楽祭、PMF(パシフィック・ミュージック・フェスティバル)が、7月5日から札幌を中心に行なわれている。今年は第19回。開催期間は、7月31日の東京公演まで。

 アカデミー生たちと教授陣で編成されている「PMFオーケストラ」は、この音楽祭の中核的存在で、公演のたびに2千人の「札幌コンサートホール kitara」を満席にする人気を誇っているほどだが、さすがにこの日のように、いわゆる「現代音楽」で全プログラム」を固めるとなると、お客も7割くらいの入りになってしまう。意欲的ではあるものの、難しいところだ。曲は、細川俊夫の「雲と光」に、織部飯庵の「虎狩交響曲」。

 前者は、ドイツ放送フィル・ザールブリュッケン・カイザースラウテルンとPMFとの共同委嘱作品で、この日が日本初演。
 オーケストラ(弦楽5部とトランペット1、トロンボーン1、ホルン4、打楽器各種)に、宮田まゆみの笙のソロが入る。
 仏の来仰図にインスピレーションを得、笙は「光」を、オーケストラは「雲」をイメージしつつ、それらが次第に地上に近づいて来る光景を描こうとした、と作曲者は述べている。静謐な曲想を持つ20分ほどの作品だ。
 これは、微かな音響に始まり(「空に漂う雲」と題される)、中間部に突然荒々しい嵐のような曲想が入り(「暗雲と小さな嵐」)、最後は風のような囁きになって遠く消えて行く(「浄化」)という、細川の管弦楽曲に多く用いられている構成が採られたもの。
 彼の「海」を題材にして書かれた作品群などと比較すると、音色も響きもかなり明るく軽く、爽やかさを感じさせる。ただ、この日の準・メルクルの指揮によるようなメリハリのいい演奏でなく、きわめて叙情的な演奏スタイルが採られれば、もう少し神秘的な雰囲気になっていたかもしれない。
 なお、笙をソロ楽器としてあまり際立たせず、ヴァイオリンやトランペットの音色に近接させようとしていたのは意外だったが、それは作曲者の意向だった由。つまりこの曲はコンチェルトでなく、笙とオーケストラ(光と雲)の融合をテーマにしているというわけだろう。曲の中では、笙によって吹かれたモティーフを直ちにそれに近い音色で弱音トランペットが引き継ぐというところもあったほどだ。興味深い。

 一方、後者では、コンサートマスターにライナー・キュッヒル、トップサイドにエックハルト・ザイフェルトというウィーン・フィルの大物2人が座り、その他にも同フィルの名手たち(教授陣)が要所に座っていた。これなら、オーケストラの音色があの名門オケの独特のカラーの影響を受けるのは当然だろう。
 それゆえまさに、実に立派な風格を備えた、均整の取れた響きの「トゥーランガリラ交響曲」といえようか。大編成の弦がたっぷりと鳴り、金管も過度に飛び出さずにバランスを保っている。「虎狩」などやったことのない若いアカデミー生たち(ウィーン・フィルのメンバーだって怪しいものだが)をここまで短期間に仕込んでしまったメルクルの手腕は、大したものである。
 ただその反面、あまりに端然として美しすぎるこの演奏には、いわゆるメシアンぶしともいうべき、光彩陸離たる音色も、エロティックな官能も、あざとい陶酔も、表面には出てこない。そこが好みの分かれるところだろう。全曲が上品な一つの音色で統一されてしまうと、この長大な、同一音型の反復の多い作品は、その単調さを露呈してしまうようにも思われる。しかしその中でたった一人、ピエール=ロラン・エマールのピアノだけが、千変万化の色彩を感じさせていたのであった。
    季刊「ゴーシュ」演奏会評
    北海道新聞
    音楽の友9月号演奏会評

7・11(金)広上淳一指揮 日本フィル

  サントリーホール

 広上が客演すると、日本フィルの音楽には、明快な意志のようなものが蘇る。

 武満徹の「3つの映画音楽」は、今やある種のノスタルジーに聴き手を浸らせる曲だが、ここでの弦楽器群はきわめて明晰な輪郭を示し、力強いシンフォニックな流れを創り出していた。武満の音楽の受容のスタイルも最近はひところの固定観念から脱し、多種多様に変化して、さまざまな側面から聴くことが可能になって来ているのがうれしい。

 ショスタコーヴィチの交響曲第12番「1917年」は、この日の圧巻。
 管弦楽の阿鼻叫喚のさなかにも循環主題を明確な形で浮かび上がらせ、しかも4つの(切れ目なしに演奏される)楽章それぞれの性格を際立たせながら最後の頂点へ持って行く呼吸など、広上の手腕は実に鮮やかだ。
 第1楽章での怒号の個所は、いささか騒々しい。日本フィルに時々聞かれる癖だ。しかし、同じ怒号でも、第4楽章に入った頃には、驚くほど均整を保った響きに変わっていたのである。多分2日目(12日)の演奏では、全曲にわたって好い結果が出るのではなかろうか。
 これは、もし広上がある程度長期間にわたってこのオーケストラとの共同作業を行なうことができたとしたら、再び昔のような絶妙な音色を引き出すことも容易い、という証明でもあろう。

 この2曲の間には、ボリス・ベルキンをソリストに、プロコフィエフのヴァイオリン協奏曲第2番。これも面白かった。

7・10(木)ライプツィヒ・ゲヴァントハウス・バッハ管弦楽団

  サントリーホール

 しばらくあざとい(?)音や演奏に浸っていた耳に、この落ち着いたトラディショナルなバッハは、実に温かく響く。

 ゲヴァントハウス管弦楽団のメンバーによる指揮者なしの、コンサートマスターのクリスティアン・フンケがリーダーとなっての演奏は、このオーケストラの母体が今なお保持する個性を改めて明らかにしてみせる。
 「ブランデンブルク協奏曲」の「1番」「2番」「4番」は、ベテランの滋味ある語り口とでもいうべきものだろう。 特に「2つのヴァイオリンのための協奏曲ニ短調」での緊密な演奏はすばらしく、第3楽章は息を呑ませる緊迫度にあふれていた。 

 ただ、「チェンバロ協奏曲」の「2番」と「5番」を、このオーケストラのコントラバス奏者ラインハルト・ロイシャーがギター協奏曲に編曲したものは、試みとしては面白いが、結果としてはあまり納得が行かない。
 ソロの村治佳織の腕はたいしたものには違いないが、ギターの演奏のルバートと、泰然たる古豪オーケストラのイン・テンポの表情とは、どうも相容れないものがあるようだ。オーケストラのメンバーがパリパリの若手で、伝統にこだわらぬ演奏のできる人たちだったら、あるいは異なった様相を呈したかもしれない。

7・7(月)旅行日記最終日
 バイエルン州立歌劇場「ファウスト博士」

 マルセーユからのルフトハンザがストで欠航、代替便でブリュッセル経由を余儀なくされたため、ミュンヘン空港着は当初の予定より3時間以上も遅れて6時近く。7時の開演に間に合わず。

 とりあえず7時半頃、歌劇場に到着し事情を話すと、オーケストラ・ピットの下手側の最上階にある小さなスペースに案内してくれた。既に数人の先客あり。舞台はほんの一部分しか見えないけれども、ナマ音は(それもかなり良い響きで)たっぷり聴ける。
 
 折しも場面は序幕の途中、メフィストフェレスが出現してファウストと応酬している真っ最中。
 遠慮してしばらく後の方に立っていると、一人のドイツ人らしき中年の女性が「前にお立ちになっていても構いませんよ、どうぞ」と勧める。「あなたは?」と訊いたら、首を振って「だってグロテスクなんですもの」と断る。
 なるほど間もなく、教会の中で兵士が股間に槍を突き立てられて殺され、容器に入った血のようなものを全身に浴びせられた。

 このプロダクションは、今年のミュンヘン・オペラ・フェスティバルの新制作。演出はニコラス・ブリーガー、共同演出者がロイ・ラッロ、ドラマトゥルギーがゾフィー・ベッカーという顔ぶれ。
 休憩後は1階席でゆっくりと観たが、多少趣味の悪いドタバタ個所はあるとしても、どこもかしこもグロテスクというわけでは全然ない。むしろ、ザルツブルクやベルリンで観たムスバッハ演出や、シュトゥットガルトでリハーサルを半分観たヴィーラー&モラビト演出よりも、舞台に変化があって面白い。
 物語にふさわしくマジック=奇術が多用され、それらは一寸したものではあるが気が利いていて、手際も進行もスムースに行われている。黒子が扱うさまざまな人形も、表情に富んでいた。

 歌手陣の中では、ファウスト役のヴォルフガング・コッホが歌唱・演技とともに劇的で存在感充分。
 メフィストフェレス役のジョン・ダスザックも、登場場面ではデブデブした裸体を延々と誇示しているのには顰蹙させられるが、高音域を力強く使って劇的な性格表現だ(かつてアロン役でも売ったクリス・メリットを太めにしたような個性と声である)。 
 パルマ公爵夫人はキャサリン・ネイグルスタッドが歌っており、この人は絶対声の崩れない性格派ソプラノとして卓越した存在であろう。それにここミュンヘンでも大変な人気。

 が、それらにも増して今回感心したのは、トマシュ・ネトピルという若い指揮者だ。ドラマティックに全体を盛り上げたりバランスよく構築したりする点では未だこれからという感じもあるが、何よりこの音楽にふさわしい音の陰影、音楽の不気味さと暗さ、それに瑞々しさを見事に出しているのに魅了された。
 本来この曲には、こういった不気味な魔性のようなものが不可欠なのだが(以前のライトナー指揮のレコードはすばらしかった)、なぜかこれまでバレンボイムの指揮でも、ケント・ナガノの指揮でさえも、なかなか聴けなかった表現なのである。パルマ公爵邸の場面の音楽など、これほど生き生きと瑞々しいものに感じられたのは初めてかもしれない。
 こういう演奏なら、たとえ全曲の半分でも聴けたのは幸いだったと思う。
 終演は10時25分頃。

7・6(日)旅行日記第3日
 エクサン・プロヴァンス音楽祭 「コジ・ファン・トゥッテ」

  アルシェヴェーシェ劇場

 こちらは、音楽祭のための新制作。
 アバス・キアロスターミの演出は「原点に還ろう」的な舞台。騙した男と騙された女がラストシーンで破局を迎えるでもなく、最後は明るく結ばれる。ただ、カーテンコールの際に組み合って出て来る2人が当初のカプルと入れ替わっているところあたりに、ある含みを持たせたのかもしれない。衣装もクラシックなスタイルだ。拍子抜けするほどストレートなもの。

 結局、この舞台におけるスパイスは、背景一杯のスクリーンに投影される映像にあるようだ。映像演出は最近の流行だが、このプロダクションでもなかなか凝った手法が使われている。
 冒頭に男3人が議論している場面では、背景にアマデウスの名を持ったカフェが映し出され、客やギャルソンたちが3人の言い争いを見物している設定になっていて、その上、ほどよいタイミングで演技も行なっているのである。紗幕の向こう側で実際に人間が動いているのかと最初は思わせるほどだ。
 ただし私の方は商売意識というのか、映像が本当に上手くサイマルできるかどうかということに気を取られ、実際の3人の動きにはほとんど目が行かないという心理状態になってしまうのが困るけれど。
 
 よくできているのは、その後の場面の大部分に映写される、海と半島の光景だ。
 すべて実写であり、波は動き、雲も動いている。大変美しい。
 遠くに見えていた帆船が次第に近づいて来て窓の下に停泊すると、これが「フェランドとグリエルモの乗る」船である。やがてそれが海の上を遠ざかって行くと、ご丁寧に船の上から手を振っている2人の人物の姿まで見えるというわけ。
 これらが、実際の舞台上での演技や音楽に見事に同期しているのがミソ。夕暮れの海に遠ざかる船を背景に、あの美しい3重唱が流れるといった趣向はなかなか雰囲気があり、快い感覚に誘われる。
 
 またラストシーンで背景に写されるのは、クリストフ・ルセが指揮するオーケストラが演奏している映像。
 これは別のサロンのような場所で撮影されたもので、実際の演奏とは必ずしも巧くシンクロしていないが、ある程度タイミングは合わせてある。途中で瞬間的に映像に動きがあるのは、コンピューターか何かで調整しているためなのかもしれない。
 全曲の演奏が終ると、歌手たちはまず後ろを向き、背景の映像中のオーケストラに向かって拍手、その指揮者と楽員が立ち上がって答礼する。やがて映像中の指揮者が手前に近づいてくると、それが実物のルセにすり替わり、彼が歌手たちとともに客席に答礼、今度はピットの中の「生身の」オーケストラに起立を促す、という段取りだ(この場面を見て、何となく日本の映画「リング」の、ビデオの中の古井戸から出て来た女が実際にテレビの画面から部屋に侵入してくるあの場面を連想してしまった)。

 まあ、微笑ましいトリックではあるものの、これが「コジ」という室内オペラ的な性格を持つ作品であり、この小規模な劇場で上演されるということを逆手に取った、洒落たアイディアであることは事実だろう。舞台上の演技がストレートなスタイルであるのが、逆に生きる。いっとき楽しめるものではあった。こういった映像演出は、これからもっと盛んになっていくのだろう。

 クリストフ・ルセの指揮は、だれかのようにテンポや間の採り方に妙な小細工を施さず、モーツァルトの音楽の快い進行を生き生きと再現してくれた。カメラータ・ザルツブルクも、小編成という点でハーモニーの拡がりに制限はあるものの、「コジ」の音楽の美しさを描き出すにはさほど不足はない。
 
 歌手では、ドラベッラを歌ったYanja Vuletic (クロアチア出身)が声も演技も爽やかで魅力的だ。フィオルディリージ役のウクライナ生まれのSofia Soloviy も演技は良いが、高音にやや不安定さがあるだろう。デスピーナのJudith van Wanroij という人も軽快で好ましい。
 男声では、フェランドのFinnur Bjarnason (レイキャビク生れとか)の声の弱さが若干物足りなかったものの、グリエルモのエドウィン・クロスリー=メルセルが明晰な声で光る。問題はアルフォンゾのウィリアム・シメル、いくら老人役でももう少し引き締まって貰えぬものか。この人、そういえば3月にハンブルクでドン・ジョヴァンニを歌っていた時にも甚だ危なっかしい歌い方をしていたっけ。

 開演が9時半で、終演は午前1時15分。噴水広場でタクシーを捉えようとしたが1台もなし。日曜日深夜のこの時間となると、さすがに人出も減る。エクスも最近は治安が悪化しているらしく、2日前の夜中には大劇場傍でクルマが炎上していたし、私もある不愉快な目に遭った。いくら観光地でも南欧でも、こんな上演時間の設定は不便極まりない。一人旅行でホテルを取るなら、市街地の中にすること。

7・5(土)旅行日記第2日
 エクサン・プロヴァンス音楽祭「ツァイーデ」

 アルシェヴェーシェ劇場

 この劇場、周知の如く出入口が非常に狭く、混雑を極める。しかもお喋りに夢中なヨーロッパの観客は、ぎりぎりになってから入って来ることが多いものだから、開演時間になっても未だ通路はごった返している。
 中に一人初老の男、通路を通ってでは間に合わぬと見たか、突然上手オケ・ピットの手摺の上に飛び上がり、僅か幅30センチ足らずのその上を器用に体のバランスを取って下手まで突っ走る。観客はもちろん、オーケストラのメンバーも口あんぐり。

 「ツァイーデ」は「イドメネオ」直前の作曲だが、音楽の質はそれと比較にならない。それをカバーしようとしてか、ピーター・セラーズ(演出)は、ジンクシュピールのこの作品を、例の如く音楽にではなく、芝居に重点をおいて解釈する。そのため、音楽もセリフもない演技の時間が非常に長い。忘れた頃になって、やっとアリアや重唱が演奏されるというわけである。
 ジンクシュピール(歌芝居)だからそれもよかろうが、指揮のルイ・ラングレもその演技に合わせてか、あるいは現在流行のスタイルに沿ってか、ゆっくりした個所ではテンポを極端に落とし、しかもパウゼを極度に長く置くという方法を採る。したがって、モーツァルトらしい音楽の自然な流れは完全に破壊されてしまっている(アレグロのテンポの個所では、特にわざとらしい細工はない)。
 セラーズは、以前にも「コジ」フィナーレでパウゼを異様に長く取らせ、登場人物の思い悩む様子を強調する方法を採ったことがある。とにかく、冒頭のこの音楽の扱いからして、私には非常に不愉快なプロダクションに感じられた。
 しかもゴーマッツ役の男が、音楽の和音に合わせて金属のドアを騒々しくガンガンと叩く演出になっているので、その間、音楽は消えてしまうのである。

 物語の場所をトルコ宮廷でなく、どこかの監獄同様の衣装工場に設定したところはいいだろう。
 装置はゲオルギー・ツィーピンだが、薄汚い工場の光景を強調しているもので、特に彼らしい閃きのようなものは感じられない。

 ゴーマッツのショーン・パニッカー、アラツィムのアルフレッド・ウォーカー、その他ソリマン役、オスミン役にいたるまで、男性歌手陣はすべてアメリカ系の黒人である。一方、ツァイーデのエカテリーナ・レヒーナはロシア出身の白人女性だ。いずれも、歌唱は極めてしっかりしている。

 これは、ウィーン芸術週間(2006年)にユーゲントシュティルでプレミエされたものとのことで、リンカーン・センター・パフォーミング・アーツおよびバービカン・センターとの計3者による共同制作プロダクション。

7・4(金)旅行日記第1日
 エクサン・プロヴァンス音楽祭「ジークフリート」

エクサン・プロヴァンス大劇場

 シュテファーヌ・ブラウンシュヴァイクのこの「指環」サイクルの演出には、本当にアイディアも工夫も見られない。第1幕の幕が上がった瞬間、相変わらずこの程度か、と落胆させられるような経験はそうそう無いものだが、今回はまさにそれだ。

 「ラインの黄金」からずっと、ほとんどの幕で使用されてきている背景の大きな壁には、炎の映像がちらりほらり。その前でブリュンヒルデが階段の中段に置かれた椅子の上で寝ている。要するに「ワルキューレ」終幕場面を再現しているわけだが、これを第3幕の「目覚めの場」でなく、こんなところで見せてしまうというのは、如何なものか。
 そもそも第1幕はミーメの仕事場であり、彼の関心事はファーフナーの洞窟にあるのであって、岩山にではないはず。演出家としてはここで奇を衒ったつもりだろうが、説得性は感じられぬ。

 ブリュンヒルデが椅子とともにセリで沈むと、ミーメと鍛冶道具などが上がって来る。あとは何の変哲もない進行だ。
 第2幕の舞台も同じような壁で、奥に樹木の茂みらしきものが一つ、洞窟は壁の割れ目からの光で象徴される。ファーフナーは剣に刺されたまま血まみれのスーツにネクタイ(「ラインの黄金」ではそういう姿だったっけか?)で現われ、またアルベリヒはミーメが殺されるまでずっと下手の一角で場面を見守っている。小鳥は上部からの吊りで盛んに飛び回る(姿かたちは、森の小鳥というより、カモメだ)。
 ジークフリートが母を想う個所で、奥から「ジークリンデの亡霊」が現れるのがちょっと変った趣向だが、こんなのは大勢に影響はなく、ただの付け足しに過ぎぬ。

 第3幕ではエルダがベッドに伏したまま最初から出ている。このベッドはのちにジークフリートとブリュンヒルデにより使われることになる。あとは例により壁の炎の映像。
 ざっとこんな感じだ。
 この舞台に、一体何か新しい発見があるだろうか? 

 もしこの上演が「セミ・ステージ形式」とでも銘打たれていれば、それにしては手が入っている、と賞賛されるかもしれない。が、音楽祭(来春のザルツブルク・イースターもだが)の舞台上演プロダクションとしては、どうにも貧弱な発想だ。この演出家を起用したのがラトルであるとすれば、彼自身にも大誤算を生んだという責任がある。

 しかし、そのラトルとベルリン・フィルは、今回もまた音楽的には極めて並外れた力量を示した。特にワーグナーのオーケストレーションが大変貌を遂げた第3幕の音楽では、堂々たる風格と厚みのある響きと幻想的な壮大さが演奏に漲り、巨大なシンフォニーとしての音楽の魅力が余す所なく発揮される。「ワルキューレ」におけるようにライト・モティーフが一つ一つ強調されていなかったのは、多くのモティーフが渾然一体となって音楽の流れを創っているという性格のためでもある。
 今回も昨年同様、G列(前方3列目)ほぼ中央という席の位置もあって、ベルリン・フィルの絶妙な音色が堪能できただけでなく、歌手の声もさほど消されずに楽しむことができた。演出が愚作であると知りつつもわざわざ出かけたのは、この音楽が聴きたかったためにほかならぬ。

 ジークフリートのベン・ヘップナーは、最近かなり痩せたような気がする。顔つきも、昔と全然違う。これがヘップナー?という印象だ。そのせいでもあるまいが、最初は好調だった声が、第3幕のブリュンヒルデとの二重唱に入るところから突然パワーを失った。終りの方では声が一瞬ひっくり返る事態もあった。しかも終り近くには、それまで3方を囲っていた壁のうち左右の2つが引込んでしまうのだから、歌手にとっては反響版の大半を失うわけで、酷でもある。
 ブリュンヒルデはカタリーナ・ダライマン、こちらは随分余裕のある体格になった。エヴァ・ヨハンソンのようなたっぷりした余裕のある声ではないけれど、ジークフリートの声を庇って最後を飾ったといえよう。
 ミーメのブルクハルト・ウルリヒは声も演技も悪くないが、この役にしては長身だ。アルベリヒのデイル・デューシングは、今日はあまり声が伸びなかったようである。これに対しさすらい人のウィラード・ホワイトは快調。ファーフナーのアルフレッド・ライターもかなり底力のある声である。エルダのアンナ・ラーソンはもちろん手堅い。
 以上、演技はいずれも特に際立ったところはないが、それは演出家の責任である。森の小鳥役のモイカ・エルドマンは、声が美しい。

 →モーストリー・クラシック10月号「夏の音楽祭速報」(8月20日発売)

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