2017-11

5・31(土)ラ・プティット・バンド

  神奈川県立音楽堂

 このところの長雨で湿度も高く、しかも「木のホール」として知られる古い音楽堂だから、この種の演奏団体には辛かろう。湿気満々の濡れた傘を客席に持ち込むのは更に良くないことなのだが、今日もそういう人が散見されたし、なぜかホール側もそれを認めている様子。

 シギスヴァルト・クイケンが音楽監督をつとめるラ・プティット・バンド。今回は彼みずから、ヴィオロン・チェロ・ダ・スパラという、肩からベルトで胸の前に吊るして演奏する楽器(見たところ小型チェロといった感じ)を携えてきた。
 チェロと違って低音域は出ないけれど、端整ながら瑞々しく、しかも不思議な官能美を感じさせる楽器だ。「RV403ニ長調」のチェロ協奏曲では、結構な迫真力さえみなぎらせていた。
 
 編成はその他に、ヴァイオリン3、ヴィオラ1、リコーダーおよびピッコロ1、チェンバロ。
 今回は全ヴィヴァルディ・プロで、最大の売り物は、スパラを含めた弦楽五重奏とチェンバロで演奏された「四季」であった。そのスパラの響きも影響して、CDで聴くよりも更に響きが軽やかである。協奏曲ならぬ室内楽の「四季」も、すこぶる新鮮で面白い。湿気のない時に、しかももっと音が良く響く教会のような場所で聴けば、いっそう詩的な趣きになるかもしれない。
 メンバーの一人に、ヴァイオリンの赤津真言(あかつ・まこと)がいる。「ラ・フォリア」では、リーダーとして闊達な演奏を聴かせてくれていた。

5・30(金)日本フィル第600回(東京)記念定期

   サントリーホール

創立(1956年)以来53年目、第1回定期を開催してから52年目で、ついに600回目の定期公演を迎えた日本フィル。プログラムの付録として、第1回から第600回にいたる東京全定期の指揮者、ソリスト、曲目を掲載したパンフレットも配布された。眺めていると、うたた感ありだ。渡邊曉雄時代、マルケヴィッチやミュンシュの客演、小澤征爾の登場、新日本フィルとの分裂、自主運営オケとしての苦難の道程・・・・。600のうちのどれを聴いたか、どんな演奏会だったか、すべてはっきりと記憶している。

 その600回定期への客演は、ジャンルイジ・ジェルメッティ。曲はブラームスの「ドイツ・レクィエム」であった。日本フィル協会合唱団、菅英三子、河野克典が協演。
 合唱はP席を溢れんばかりに埋めた極超大編成だが、かなり柔らかく歌う。このためいずこからともなく声がそっと沸き起こり、会場全体を包み込んでしまうような効果が生まれていたが、やはりオーケストラをも柔らかいヴェールで覆ってしまうような結果にもなり、すべてが模糊とした音に包まれていたのは、善し悪しでもあった。
 しかし、これはおそらく、ジェルメッティの意図だったのだろう。日本フィルの演奏も合唱に覆われ気味で、明晰さは犠牲になっていた。しかしその代わり、夢の中にいるような飽和的な響きがあって、特に第2楽章後半でのティンパニの音など、リズムというよりは完全なハーモニックスを形成するものとして響いていたところなどは面白い。すべてが不思議なサウンドだったが、温かさを感じさせる。盛り上がりもなかなかのものだ。とはいえ、そういった柔らかい空気に支配されていたため、劇的な流れは割引され、大詰めの安息感が生きてこなかったという印象もある。
  音楽の友8月号(7月18日発売)演奏会評

5・29(木)ブルーノ=レオナルド・ゲルバー・ピアノ・リサイタル

 東京オペラシティコンサートホール

 思えばちょうど40年前、大型新人として話題になっていた彼が初来日した時のこと、記者会見の席上で集まったカメラマンたちに、「どうか(顔の)こちら側から撮るようにして下さい」と自ら念を押し続けていたゲルバー。話の途中で一人のカメラマンが反対側に動こうとすると、話を中断して「あ、こっちからにして」と指示を出すのだった。同席していたわれわれジャーナリストたちは、「変なヤッちゃな」と苦笑したものである。
 だが、いざコンサートになると、それはもう堂々たる風格とスケールの大きさにあふれた演奏であった。「やっぱり大物だ」とわれわれは舌を巻いた。

 その初来日の時に、彼は読売日響と協演して「皇帝」を弾いた。
 ところがそのさなか、第2楽章あたりからだったろうか、東京文化会館の上手の写真撮影室から、ガラス戸を開けたまま、猛烈な勢いでシャッターを押しはじめた非常識なカメラマンがいたのである。
 1階前方の聴衆はみんな苛々しはじめ、舞台上手寄りにいたコントラバス奏者たちでさえ舌打ちして振り返るという騒ぎになったが、そのカメラマンは、一向に平気で、ヒステリックなほどにシャッターを押し続けていた。止めろと怒鳴るわけにも行かない。しかもそういう時に限って、あいにく第3楽章が終るまで切れ目がない曲なのだ。騒々しいシャッター音は、曲が終るまで続いていた。
 とにかく全曲が終って、大拍手。だが、それが終るやいなや、聴衆の怒りが爆発した。一人が立ち上がって、舞台前で関係者弾劾の演説をはじめる。それに拍手や同意の野次が飛び交う。肝心の悪徳カメラマンは、すでに逃走していた。

 ロビーでは、読売日響の事務局スタッフを取り囲んで怒号がひとしきり続いた。あのシャッター音に、ステージ関係者は気づかなかったのか。事務局はなぜあんなカメラマンに撮影を許可したのか。管理はどうなっているのか、など。
 「あんな妨害的な音を出して、ゲルバーさんに失礼ではないか」という声も多かった。が、後で聞くところによると、ゲルバーは演奏に没頭していたため、シャッター音など全く気がつかなかったという。しかし、かりに気がついていても、あの人柄だから笑ってそう答えたのではないか、という人もいた。ことほどさように、ゲルバーの人気は凄かったのだ。
 たが、不思議にも、指揮者のことについては、だれも問題にしなかった。
 その時の指揮者はだれだったのか? 無名の若い指揮者? そうではない。未だ日本ではあまり有名ではなかった、かのギュンター・ヴァントだったのである・・・・。
 
 さて、それ以降も何回か来日していたゲルバーだったが、久しぶりに聴いたのが今回。ベートーヴェンのソナタを4曲演奏してくれた。「月光」「ワルトシュタイン」「悲愴」「熱情」というプログラムだった。
 昔は重厚壮大なピアニズムが特徴だったゲルバー、今でも力強い低音を持っているが、そのスタイルはだいぶ変貌を見せ、明るいシャープなアタックと音色を駆使するようになっている。強烈な打鍵の演奏で、豪快さもあった。だが、彼としては、今日は本調子だったのだろうか? 全体に外面的な威容と輝かしさだけが目立った。特に後半の「悲愴」など、あまり納得行かない演奏だったが。

5・28(水)広上淳一指揮水戸室内管弦楽団

  水戸芸術館コンサートホールATM

 小澤征爾が、腰椎椎間板ヘルニアのため休演。
 あの17日の「悲愴交響曲」の時には、そんな体調を微塵も感じさせない凄い演奏だったが、終演後に私が楽屋を覗いた時には「痛くて立っていられないんだよ」と語るほど疲れきった表情で、見るからに痛々しかった。せめて元気づけようと、6月末のウィーン(国立歌劇場)の「スペードの女王」には行きますから、と言うと、「ありがとう。(6月は)3回しか振らないんだけど」と小声で答えていたのであった。だが、結局それもキャンセルになる可能性が強いらしい(ウィーンでは未だ発表されていない)。そしてその前、6月の水戸室内管弦楽団を率いての欧州演奏旅行も、休演になってしまった。腰の痛みがどれほど辛いものかは、経験した者でないとわからない。察するにあまりある。とにかく、1日も早い回復を切に祈るのみである。

 水戸室内管の定期では、急遽広上淳一が代わりに客演した。芸術館ではチケット代を割り引き、S席13,000円を8,000円に、B席8,000円を5,000円に、というように変更して、前売客には差額を返金する方法を採った。小澤より広上の方が出演料も廉いのはだれでも想像がつくことだから、お客に対しては正直で良心的であるのはたしかだが、広上に対してはかなり礼を失しているのも事実だろう。私自身も割引料金に変えてもらった手前、彼には申し訳なく思っている。

 しかし、その広上が指揮した演奏は、なかなか優れたものであった。初日のためか、両者の呼吸が今一つと感じられる部分は少なからずあったが、2日目以降は改善されたことと思う。
 プログラムは、モーツァルトの「コジ・ファン・トゥッテ」序曲に始まり、ラデク・バボラークのソロで同じく「ホルン協奏曲第3番」、児玉桃のピアノ・ソロで細川俊夫の「月夜の蓮」、最後にベートーヴェンの第4交響曲、アンコールにグリーグの「過ぎし春」というもの。
 最初の2曲では、いずれも出だしの音にガリガリした硬質の響きが感じられたが、数秒を出でずして、しなやかな広上のサウンドに変貌して行った。オケ側ではどう感じていたか知らないけれども、少なくとも聴いた側から言えば、広上によってこのオーケストラにこれまでとは異なった色合いが注入されたことには間違いなかろう。バボラークも例の如く巧い。そして「第4交響曲」は、まさに躍動的である。
 ただ、「月夜の蓮」だけは、一昨年12月に小澤征爾がこのオーケストラを指揮して日本初演した時の、あのすばらしい演奏に比較すると、残念ながら雲泥の差があるとしか言えぬ。オーケストラの音は濁り気味だし、しかも異様に拍節感が強く(広上の唸り?がいけない)、ピアノの音は打ち消され気味で、作品の性格とはおよそ様相を異にするものになってしまった。
  音楽の友8月号(7月18日発売)カラー頁

 ちなみに2006年12月9日、小澤征爾指揮水戸室内管弦楽団の演奏による「月夜の蓮」を聴いた時のメモは、以下のようなものであった(この一部は「音楽の友」07年2月号に掲載した)。今回の演奏での印象は、これとは全く違う。

 ・・・・今日のハイライトは、細川俊夫の新作「月夜の蓮」日本初演である(世界初演は4月7日にハンブルクで、準・メルクルと北ドイツ放送響、児玉桃のソロで行なわれている)。
 22分ほどの作品で、モーツァルトの第23番協奏曲第2楽章の fisをキーワードにしたもの。ピアノが蓮の花、オーケストラが水と自然を象徴するという。静かな明るい月の夜に蓮の花は開花に向かってまどろむ、というのが基本のイメージだ、と作曲者は書いている。
 しかし、こちらにはいささか異なるイメージで聞こえた。この水面は決して静かで穏やかなものではない。それは常にざわめき、胎動し、時に荒々しく波立つ。池というより湖であろう。いや、湖よりも、海のようにも感じられる。細川が以前から多く書いて海をモティーフにした作品におけると同様、そのざわめきは不気味な深淵を感じさせ、慄然とさせるのだ。
 この人のざわめきは、なぜ、いつも翳りがあって、暗いのか。蓮は開くにしても、水の中にそのまま寂しく生き続け、生涯を終ることを自ら慟哭しているかのようである。
 最後にモーツァルトのこの楽章の主題がピアノに遠く遠く微かに2度ほど姿を見せるが、これは作品へのオマージュというよりも、過ぎし日の思い出がほろ苦く懐かしく夢の中を霞めていくかのようである。そして曲は、湖畔を渡る風のような響きで終る。
 こういった感じ方は、あるいは作曲者の意図したところとは違うかもしれぬが、それはそれでいいだろう。純粋に音だけで考えれば、これは fisを基盤にして浮遊し、また元へ戻るという構成の作品といえよう。いずれにせよ、これは細川俊夫の優れた作品の一つである。

5・27(火)クリストフ・エッシェンバッハ指揮フィラデルフィア管弦楽団

  サントリーホール

 チューニングの時からすでに「いい音だ」と感じさせるオーケストラなど、そう多くはないだろう。フィラデルフィア管弦楽団の美音は、見事なほどに健在である。輝かしく艶っぽく、膨らみがあり、余情もある。
 これほどいい音のオーケストラならいつまでも聴いていたいとさえ思うほどだが、音がいいということは、女性にたとえてみれば絶世の美女みたいなものだから、内容がカラッポであればすぐ飽きるかもしれぬ。こういうオーケストラは、ピリオド楽器的奏法など巧くできるのかしら?

 しかし、今日の演奏は立派だった。ブリテンの「ヴァイオリン協奏曲」でも、シューベルトの「ザ・グレイト」でも、力強い低音の上に柔らかい音色が輝かしく拡がる。この低音は、やはりエッシェンバッハの好みなのだろう。コントラバスのピチカートがこれほど美しく響くオーケストラも稀だろう。
 エッシェンバッハの指揮についてはあれこれ風評もあるし、現実にこれまで聴いて心を打たれたことはなかったが、少なくともこの日の2曲に関しては、オーケストラの実力と合わせて非凡な音楽のつくりになっていた。そうした音を引き出した彼の功績も認めるべきである。ほんの一つのフレーズの扱いにも、双方の呼吸が合っていなければ不可能な特徴が感じられるし、壮大な起伏と、細部に置ける生き生きした躍動、多彩な音色の変化も実に魅力的であった。

 ヴァイオリン協奏曲は、五嶋みどりが恐るべき緊迫感を以て弾き切った。第2楽章での長いカデンツァでも、音楽は一瞬の緩みもない。これだけ「楽器を弾ける」ヴァイオリニストは他にもいるかもしれないが、音楽そのものに輝かしさと凄愴感とを併せ持たせる音楽家は、なかなかいないものである。しかも、そのソロを、エッシェンバッハが実に巧くサポートする。オーケストラを豪壮かつ劇的に鳴らしたかと思うと、さっと身を翻すように後退してソロを前面に押し出す、その呼吸もまた見事なものだった。

 アンコールは、一風変ったアレンジの「ピチカート・ポルカ」と、これまた実に豪壮な「雷鳴と電光」。大太鼓を含む低音部構築の巧さがここでも目立つ。どんな秘密があるのか?
   音楽の友8月号(7月18日発売)演奏会評

5・24(土)横山幸雄ピアノ・コンサート

  アクトシティ浜松 中ホール

 演奏会は、彼の物静かなトーク入りで、さながら横山幸雄ショーともいうべきもの。

 まず「華麗なる大円舞曲」などショパンを3曲弾いた後、高崎智久(現・群馬響第一オーボエ奏者)とシューマンの「アダージョとアレグロ」を、さらに石川晃(新日本フィル・ファゴット奏者)を加えてプーランクの「三重奏曲」(これは快演だった)を協演。
 第2部では、牧野正人(バリトン)と佐藤美枝子(ソプラノ)がオペラのアリアや二重唱、日本の歌曲などを、彼の伴奏で計7曲。そして第3部では再び横山のソロでバッハの「イタリア協奏曲」とベートーヴェンの「熱情ソナタ」、というように、ほぼ3時間近い盛り沢山のプログラムであった。雨の土曜日の午後、1000名強の客席の9割近くを埋めていたお客さんも堪能しただろう。
 なお「イタリア協奏曲」では、横山がお気に入りという、この春に発表されたばかりのローランド(浜松に本社がある)の電子チェンバロ=デジタル・ハープシコード「ROLAND CLASSIC C-30」が使用されたが、これがすこぶる良い音で、快かった(なんでもお値段も36万円とかいう廉価なのだそうだ)。
 
 主催者の「みどり音楽企画」は、浜松で室内楽を中心に良質の演奏会シリーズを年6~9回のペースで開催している由。後援として浜松市と浜松市文化振興財団をはじめ、中日新聞、静岡新聞、産経新聞、朝日新聞、静岡エフエム放送など各メディアをも引き込んでおり、すでにしっかり地盤を確立しているようである。

5・23(金)ハンス=マルティン・シュナイト指揮神奈川フィル

  横浜みなとみらいホール

 これほどテンポが遅く、しかも最弱音が多用されたブラームスの第3交響曲の演奏も、近年稀だろう。ブラームスのアレグロ・コン・ブリオ(第1楽章)やアレグロ(最終楽章)は、他の作曲家の基準とは全く異なるのだということを主張するかのようなシュナイトの指揮である。
 しかも彼が採った著しく抑制されたデュナミークは、ブラームスが本来この曲のスコアでフォルティシモを数えるほどしか使わず、昂揚個所でも単なるフォルテにとどめている場合が多いことを、そしてピアニシモを予想外に多用していることなどを、改めて私たちに、きわめて正確に示してくれる。つまり、スコアに忠実な指揮なのだ。
 こういう演奏を聴くと、昔ハンス・リヒターが言ったとかいう「ブラームスの英雄交響曲」などという比喩は、およそ見当違いに思えることだろう。しかし、これもまたスコアそのものから引き出された演奏なのであり、それゆえ耳慣れないけれども、大きな説得性を持つものといえよう。

 ただ、このような遅いテンポと最弱音が多用されると、オーケストラは大変だろう。特に金管楽器は、しばしば「入り」の音が不安定になっていた。このあたりは、神奈川フィルのいっそうの切磋琢磨を願わなくてはならない。しかし、基本的には、指揮者のこれらの要求をよくあそこまで持ちこたえたものだと思う。

 プログラムのもう1曲は、ヒンデミットの交響曲「画家マティス」だった。こちらも、スコアの指示を改めて思い起こさせてくれるような演奏だ。それは決して晦渋なものに陥らないどころか、一見謹厳なこの作品の中に潜んでいる劇的な美しさを引き出してくれる。第3楽章では、ブラームスの交響曲での演奏にも聴かれた火花のように鋭いスタッカートや、デモーニッシュな昂揚が、作品の標題的イメージを見事に再現していた。最終個所にはもう一つ盛り上がりが欲しい感もあったけれど、神奈川フィルの演奏はこちらの曲の方が充実していたように私は思う。
  音楽の友7月号演奏会評

5・22(木)宮崎国際音楽祭
 シャルル・デュトワ指揮宮崎国際音楽祭管弦楽団

   宮崎県立芸術劇場 アイザックスターンホール

 第13回にあたる今年は、5月4日(日)から24日(土)までの開催。メインプログラム5公演(うちデュトワ指揮のオーケストラ・コンサート3、レオン・フライシャーなどの室内楽演奏会2)の他、スペシャル・プログラム5公演(室内楽演奏会、ストリート演奏会など)、教育プログラム等4公演。なかなかの大規模である。

 午後のANA3755便で宮崎に入り、夜7時から聴いた公演は、アーティスティック・ディレクターのデュトワが指揮する宮崎国際音楽祭管弦楽団の二つ目の演奏会で、「激しくも優雅な舞曲」と題されたプログラム。ラヴェルの「道化師の朝の歌」と「ラ・ヴァルス」を最初と最後におき、中にチャイコフスキーの「ピアノ協奏曲第1番」とラフマニノフの「交響的舞曲」を配した長大な、しかし趣旨のはっきりした曲目構成。

 オーケストラはほぼ毎年おなじみの名手を集めたメンバーで、今夜は音楽祭総合プロデューサー徳永二男をコンサートマスターに、トップサイドには漆原啓子が居り、第2ヴァイオリンのトップに漆原朝子と川田知子が並び、その他にも伊藤亮太郎(ヴァイオリン)、扇谷泰朋(同)、三浦章弘(同)、横山奈加子(同)、川崎雅夫(ヴィオラ)、古部賢一(オーボエ)三界秀美(クラリネット)らをはじめとして、錚々たる顔ぶれがメンバー表に名を連ねている。

 こういう特別編成のオーケストラは、うまく行った時には凄い演奏になるし、そうでなければ粗っぽい演奏になるものだ。
 冒頭の「道化師の朝の歌」はその後者のほうだったが、しかしチャイコフスキーの協奏曲の後半からみるみるうちにバランスを回復、ラフマニノフでは常設のプロ・オーケストラでさえこれ以上の演奏は望めまいと思えるほどの域に達していった。
 実際、この「交響的舞曲」の第2楽章のワルツが、これほど暗く頽廃的で、クルト・ヴァイル的な香りを漂わせていた演奏は、これまで聴いたことがないほどである。そしてまた、曲の細部も実に明解に描き出された結果、ラフマニノフがいかに第2次大戦前の欧米の音楽の趨勢に敏感であったかを改めて認識させてくれるというタイプの演奏にもなっていたのであった。

 最後の「ラ・ヴァルス」は、オケのリズムがまた少し重くなった。まるで、大きな重い女性を一所懸命振り回しながら踊る、といった感じ。しかし、豪華な雰囲気はあった。このオーケストラはどうやら、洒落たエスプリの方は苦手らしい。
 ただ、コンマスが大先生でなく、若い人になれば、また違った雰囲気も出るだろう。以前、小曽根真がアンコールでジャズの即興を弾き、途中からモーツァルトの協奏曲(その前の本プロでやったもの)に変わって行った時、オケのメンバーがアドリブで入って行ったこともあるのだから。

 なお協奏曲でソロを弾いたロシア出身の若手キリル・ゲルシテインは、なかなか達者な、活気あふれる演奏を聴かせる人だ。協奏曲では猛烈にバリバリ弾きまくったのには少々たじろがされたが、アンコールで弾いたガーシュウィンの「エンブレイサブル・ユー」では詩的なニュアンスを感じさせていた。結構幅の広いピアニストのようである。

 最終日(24日)のプログラムに入っている「惑星」(合唱:東京オペラシンガーズ)では、橋本邦彦のナレーションに、NASA提供の宇宙の映像が使われる由。いろいろ趣向が凝らされている。
 思えば、デュトワが音楽監督をつとめていた頃のN響のプログラムにも、あれこれ変った面白い試みがたくさんあった。やはり、この指揮者は、面白い人だ。

5・21(水)別府アルゲリッチ音楽祭東京公演

  紀尾井ホール

 室内楽コンサートで、シューマンの「ヴァイオリン・ソナタ第1番」(樫本大進&ネルソン・ゲルナー)、バッハの「無伴奏チェロ組曲第1番」(ミッシャ・マイスキー)、ラフマニノフの「交響的舞曲」(マルタ・アルゲリッチ&ゲルナー)、武満徹の「ワルツ」(桐朋学園オーケストラ)、モーツァルトの「協奏交響曲」からアンダンテ(同、樫本&川本嘉子)、グリーグのチェロ・ソナタ(アルゲリッチ&マイスキー)。

 やはり聴きものはアルゲリッチとマイスキーの協演で、サムライ同士が自由な感興を迸らせながら対決するスリリングな光景と音楽は圧巻だ。その他、川本の「合わせ」の巧さも印象的。しかしラフマニノフでのゲルナーの、これでもかとたたきつける騒々しいフォルティシモには辟易した。如何に強奏しようと音にふくらみと余韻を失わぬアルゲリッチが、ますます美しく見える。

5・19(月)下野竜也指揮 読売日本交響楽団

  サントリーホール

 山根明季子の「ヒトガタ」、コリリアーノの「ザ・マンハイム・ロケット」「ハーメルンの笛吹き幻想曲」という作品を並べたプログラムは、定期とはいえ、いかにも大胆で、意欲的である。

 下野は曲間のトークで、「ゲテモノ担当のシモノといたしましては」と聴衆を笑わせた。アルブレヒトが去ったあと、読響の現代音楽初演路線を背負って立つ若い正指揮者、下野の奮闘を讃えたい。こういうレパートリーだと、客席に隙間が多くなるのが残念だし、心配にもなるが、読響には御大スクロヴァチェフスキや嵐のラザレフなど、客寄せレパートリー担当の指揮者たちもいることだから、そのへんのバランスはなんとかなるのだろう。

 山根の作品は読響の委嘱曲。正直言って私にはさほどの感興を呼ばなかったが、異なるテンポが入り乱れる部分の曲想に、些かのスリルを覚えたのは事実だ。あとで作曲者が登場したトークで、「それぞれの時間」というキーワードを聞いて、なるほどと感心したものである。
 一方、コリリアーノの「ザ・マンハイム・ロケット」は少々漫画チックな曲で、ロケットに乗ったイメージで味わう「時空の旅・音楽史の旅」というべきか、いろいろな名曲の断片が見え隠れ。ドタバタと上がって行ったり墜落したりするロケットだが、一瞬笑える。
 
 最後の「ハーメルンの笛吹き」では、王子様のような派手な衣装を着て、曲の途中から舞台に入って来た瀬尾和紀のフルート・ソロが冴え渡った。
 大詰めでは、「子供たちも笛を吹き、太鼓をたたきながら、笛吹きのあとについて、どこかへ行ってしまいました・・・・」という雰囲気で瀬尾と少年少女鼓笛隊が客席後方へ姿を消して行くと、舞台の照明が次第に落ち、オーケストラの演奏も暗くなって行く。さっきまで華やかな衣装の笛吹きがいた所には、もう誰もいない・・・・といった寂寥感もいい。

 読響は、打楽器陣を筆頭に、輝かしい演奏を聴かせた。しかし、それにもまして冒頭に演奏された「ニュルンベルクのマイスタージンガー」前奏曲における音づくりの見事さを称賛したい。曲中にその冒頭の和音が引用される「ザ・マンハイム・ロケット」への伏線となるものだが、この演奏がすこぶる良かった。羽毛のような響きの弦に、くぐもった音色の管が調和し、「柔らかく陰翳の濃いハ長調」をつくる。このユニークな音色を実現した下野と読響の呼吸はすばらしい。

 このところ、わが国のオーケストラの卓越した演奏会を3つ、立て続けに聴いたことになった。そう、日本のオーケストラもこんなに見事な演奏をしているのだということを、もっと多くの人たちに知ってもらいたい!

5・17(土)ユベール・スダーン指揮東京交響楽団

  サントリーホール

 シューベルトの「第1交響曲」冒頭では、明晰な弦楽器群の音色と、それとは異なる丸みのある独特の音色を持った強い響きの管楽器群のハーモニーとが同時に高鳴り、実にユニークな音になる。
 これこそが、スダーン・サウンドというべきものだ。彼が以前音楽監督をつとめていたあのザルツブルク・モーツァルテウム管弦楽団でさえ、いつもうまく鳴らせるとは限らなかったサウンドである。
 このような管楽器群のバランス作りは、至難の業に違いない。第3楽章あたりになるとそのバランスはいささか緩んでしまうのだが、しかしたとえ前半2楽章の間だけでも、東京交響楽団が完璧にその音を出したということは、音楽監督スダーンとの関係が今や(再び)最良の時期にあることを示すものではなかろうか。

 この日は、シューベルトの交響曲からは2曲。
 10型編成で清澄な古典的感覚を以て演奏された「第1番ニ長調」に対するに、12型編成に拡大されてロマン派的な翳りを折り込まれた第4交響曲ハ短調「悲劇的」の演奏との対比の見事さ。
 それは、充分に説得力をもつ解釈である。これまで数多く聴いてきたスダーンと東響との演奏の中でも、抜群かつ最高の出来だ。
 2曲の間には、リーリャ・ジルベルシュテインの鮮やかなソロとの協演によるプロコフィエフの「ピアノ協奏曲第3番」があった。意表を衝くプログラミングだが、不思議なことにこの嵐のような協奏曲がシューベルトの「2つの世界」の間に在って、これまた絶妙な絵巻物的効果を発揮していたのであった。

 これは、今年になって聴いたオーケストラ・コンサートのベストともいうべきもの。

5・17(土)小澤征爾指揮新日本フィルハーモニー交響楽団

  すみだトリフォニーホール
 
 「小澤の悲愴」は、これまでにも何度か聴いてきた。今日の演奏を聴くと、流石に彼の「定番」にふさわしく、既に一つの完成品に近い形を整えているのではないかという気がする。

 たとえば、全曲をバランスよく構築するその設計の巧みさだ。テンポの設定も、フェルマータ付休止の「間」の取り方もきわめて自然なのだ。楽曲全体のバランスを失わせぬスムースな流れは、ここから生まれるのだろう。第3楽章後半のクライマックスへ盛り上げる呼吸、特にコーダで白熱的なエネルギーを爆発させて追い込んでいく呼吸もひときわ目覚しい。もともとこのような「もって行き方の巧さ」は、チャイコフスキーの音楽自体に備わっている特徴の一つなのだが、小澤は忠実にスコアを再現することによって、作曲者本来の感性を引き出してみせる。

 音量的な山場はもちろんこの第3楽章にあるが、しかしチャイコフスキーの意図した本当の頂点は第4楽章にあり、小澤もそこに全曲のクライマックスを設定している。この第4楽章アンダンテの第2主題部分では、以前の演奏よりもやや速めのテンポを採り、激しい感情の動きを吐露させ、慟哭の歌をつくり上げる。第1楽章序奏での低弦の音色はとりわけ美しかったが、第4楽章の最後ではまさにそれと同じ音色を再現させ、かくして深淵から立ち現われてきたこの交響曲が再び深淵の奥深く沈んで行くというイメージを聴き手に強く印象づけるのである。こういう設計が、小澤は実に巧くなった。
 この演奏には、いわゆる悲劇的なイメージは無い。それゆえ、この曲のロシア語のタイトル「パテティーク」(感情豊かな)にふさわしい性格の演奏と言えるだろう。

 プログラムの前半には、ラフマニノフの「ピアノ協奏曲第3番」が演奏された。ソロは上原彩子。もともとロシアのレパートリーに強い共感をもち、現実に実績を重ねてきた彼女だが、この曲は成功した例の一つであろう。以前には感じられなかったような堂々たる自信と風格、強い意志力のようなものが演奏にあふれていて、あの小柄な体のどこからこのようなパワーが生まれるのかと驚くほど、豪快で白熱した音楽をつくっていた。小澤が例のごとく綿密に合わせて行き、全曲の大詰めでもゲルギエフやラトルのそれに劣らぬ見事な「決め」を聴かせたのであった。

 この日、小澤は、腰椎間板ヘルニアのため、脂汗を流しながらの指揮だったという。だが客席で聴く者には、演奏に常ならぬ鬼気が感じられたことを除けば、病気のこと微塵も悟らせない指揮ぶりだった。翌日以降の演奏会出演は、すべてキャンセルされた。回復を切に祈りたい。

  東京新聞演奏会評
  音楽の友7月号演奏会評

5・16(金)井上道義指揮
兵庫芸術文化センター管弦楽団のベートーヴェン

   兵庫県立芸術文化センター大ホール マチネー

 平日午後3時開演にもかかわらず、2千人収容のホールはほぼ満席状態。このホールのマチネーコンサートは、概してこのような盛況なのだそうである。周辺が住宅地なので、お客さんのニーズも高いのだという。なるほど客層は、年輩の人たちが中心だ。リタイアした人たち、時間的に余裕のある人たちが集まるのだと聞いた。地域の状況に即したホールのあり方として、これは実に興味深いし、他のホールにも参考になるケースだろう。
 大阪の梅田からなら阪急電車の特急で12分(普通でも20分)、西宮北口駅の南口にほぼ直結しているホールだから、地元住民でなくても行きやすい位置にある。

 このホール所属の兵庫芸術文化センター管弦楽団(長い名前だ!)のシェフはもちろん人気の佐渡裕だが、今回は井上道義の客演。「井上道義のベートーヴェン」と題した4回シリーズ(各2日連続公演)の、今日は第2回。交響曲の第4番、第5番「運命」、第6番「田園」をいっぺんに演奏するというものすごいプログラムだ。井上のトークも最近は面白い。演奏とトークに対する聴衆の反応も早くて活発である。
 ちなみに第3回は5月23&24日で、「7番」「8番」「三重協奏曲」、最終回は30&31日で「ミサ・ソレムニス」(第9でないところがミソ)というスケジュール。

 オーケストラは10型の小編成。リズムの歯切れが良く、いかにも井上らしい、躍動感を重視したスタイルのベートーヴェンだ。
 ところどころで演奏の空気の密度が薄くなるような印象(4番の第3楽章、5番の第1楽章前半、6番の第1楽章など)もあったが、もともとベートーヴェンの交響曲に慣れているオーケストラではないということだし、2日目には多分改善されただろうと思う。
 ただ気になったのは、このオーケストラに以前からしばしば聞かれる、緻密なアンサンブルに欠けるという問題がなかなか解決されていないことだ。特に管楽器群にそれが言えるだろう。もちろん、音楽的な自発性は大切だし、ソロ奏者それぞれが個性を発揮するというのは大いに結構で、オーケストラには不可欠な姿勢なのだが、それとアンサンブルが雑に流れることとは、また別の問題である。よくわからないけれども、ソロを吹くコア・メンバーと、エキストラ・メンバーとの間におけるメンタリティのバランスなどにも原因があるのかしらという気もするのだが・・・・。 

 今回は井上もかなり苦心してまとめたらしいが、その問題は、客演指揮者の責任の及ぶ範囲ではあるまい。とにかく、地元のファンからこれだけの圧倒的な人気と支持を集めているオーケストラである。それに酔うことなく、どこから見ても完璧なオーケストラとしての水準を自ら保って欲しいものである。

5・12(月)旅行日記最終日
コルンゴルト「死の都」

  ウィーン国立歌劇場

 今日も快晴、空気が香しい。今回は本当に天気に恵まれた。PFINGSTEN(聖霊降臨祭)の翌日の月曜日ということもあって、ケルントナー街などは今日も観光客で雑踏。

 「死の都」は、ザルツブルク音楽祭、リセウ大劇場、ネーデルランド・オペラとの共同制作プロダクションで、ウィーンでのプレミエは2004年12月12日とある。来シーズンにも上演予定が入っているところを見ると、結構人気のあるプロダクションのようである。演出はウィリー・デッカー、舞台美術はヴォルフガンク・グスマン。

 妻マリーを亡くして悲しみに沈む青年パウルの役は、以前はシュテファン・グールドも歌っていたそうだが、今回はクラウス・フローリアン・フォークトだった。彼の独特の不思議な「眼」は、遠くからはしかと見えないが、雰囲気は判る。リリカルで、やや優男的な個性がこの役には良く合っているだろう。まっすぐきれいに伸びる声も好い。
 マリーとマリエッタ(2役)はアンゲラ・デノーケ、前回に続く登板のようだ。1930年代の衣装で登場する最初(そして最後)と、幻想シーンで悪女として暴れ回る部分とでは、声の出し方も演技も別人のように個性を変えて、すこぶる見事なものであった。

 第1幕の基本舞台は大きな居間だが、マリーの亡霊が出現するシーンもパウルの幻想の裡に含まれる。前景で失神状態のまま椅子に横たわる彼の後方(奥舞台)に前景と全く同じ居間の光景が見えてきて、そこでマリーと(もう一人の)パウルが対話する形になる。妙に「本物の」亡霊などが出現しないところがこの演出のアイディアといえるだろう。
 奥舞台のそのシーンの最後に、ガストンやジュリエッタら踊り子連中が幽霊のごとくせり上がって来て、そのまま切れ目なしに第2幕の音楽に続いて行くという、これは予想通りの展開だ。
 ここでは舞台の居間の形が突然ぐにゃぐにゃと崩れて行き、天井もさまざまに角度を変えて、いかにもパウルの歪んだ幻想を表わすように、部屋全体が大きく歪んでしまう。背景に家が回転しつつ流れて行き、友人フランク(マルクス・アイケ)が屋根にしがみついた姿でパウルを罵るという突飛な光景も、「悪夢」もしくは「歪んだ幻想」にぴったりだろう。

 このようなグロテスクな幻想シーンは非常に長い間続くが、最後は予想通り第1幕冒頭と同じ正常な居間の形に戻り、人物も最初の姿に戻って再現する。この舞台は大変楽しく、劇場の舞台機構を生かして、幻想と現実との差異をこの上なく具体的に描き出して見せている。
 
 問題は、指揮者のフィリップ・オーギャンである。この人の指揮はこれまで、一つか二つの例外を除いておよそ良いと感じたためしはないが、今回もうんざりした。
 オーケストラをガンガン鳴らすばかりで、ドラマの心理的な表現のニュアンスなど皆無なのである。鳴らすのは構わないとしても、その上に声を浮き出させるという配慮が感じられないのだ。昨夜のウェルザー=メストに比べて何という違いか。幻想シーンでは各登場人物が異常な心理状態にあるためかなり激しく歌っているので声が聞こえなくもないが、落ち着いた歌唱になった時には、フォークトの声もデノーケの声もほとんど聞こえない状態になる(因みに席の位置は昨夜とほとんど同じ、1階 rechtsの10‐15というところ)。
 これで、作品の良さが随分削がれてしまった。
 しかも、あの有名な二重唱の個所など、オケは荒っぽくて、折角のロマンティックな夢幻の美しさもどこへやら。二重唱でのヴァイオリンのソロはここぞとばかり派手なポルタメントを聞かせていたが、これもいささか粗っぽい(誰が弾いていたのかは見えなかったが、終演後に楽屋からキュッヒル先生が出て来るのが見えたので、おそらく彼だったのだろう)。

 ただこの粗さも、全曲の幕切れでは改善され、かなり丁寧な演奏になっていた。そこでの豊麗で、エロティックで、陶酔的な美しさは、流石にウィーン国立歌劇場管弦楽団の本領だろう。コルンゴルトはあの旋律のヒット性を実によく認識していたと見え、それを全曲の最後にもう一度聴かせるという見え透いた手を試み、大成功を収めたのだった。実際、この旋律のノスタルジーは、巧く演奏された場合には泣かせるものである。

 ともあれ、このようなオーケストラの音色の美しさをはじめ、舞台の面白さ、主役歌手の充実など、たとえルーティン公演とはいえこれだけの水準を保っているというのは、あれこれ言われながらもウィーン国立歌劇場、やはりたいしたものと言うべきであろう。

5・11(日)旅行日記第3日
新制作 ワーグナー:「ジークフリート」

  ウィーン国立歌劇場

 快晴続きのベルリンからウィーンに移動、こちらも抜けるような青空で気温が高い。街は観光客であふれんばかり。
 5時よりワーグナーの「ジークフリート」。制作進行中の「指環」の第2作。4月27日にプレミエされたばかりで、今日が5回目の上演だ。これが今回お目当てのオペラだったが、期待に違わず、いや期待以上の満足すべき上演であった。
 席はPARKETT LINKS 9-15、これは中央通路側で、出入りには非常に便利な所だ。

 指揮はフランツ・ウェルザー=メスト。昨年12月の「ワルキューレ」の時にも感じたことだが、この次期音楽監督の人気は非常に高い。現音楽監督・小澤征爾の同国人たる我々にとってはいささか複雑な気持にさせられる。
 しかし残念ながら、このような独墺系のレパートリーにおいては、やはり音楽の味において、ウェルザー=メストに一日の長があることは認めなければならない。曰く言い難いが、聴き手を納得させるようなものが備わっているのである。
 彼がオーケストラから引き出す音楽は、決して派手ではなく、これ見よがしな作意もなく、ひたすら生真面目なものと称してよかろう。といって、無為無策でも愚直でもない。モティーフの扱いに関して特に演出的効果を狙うところもないが、しかし、言うべきことはすべて言い尽くされている。この演奏からは、ワーグナーの音楽の良さが十全に伝わって来る。

 特に感心させられたのは、全曲におけるデュナミークのバランスの良さである。第1幕など、前半はかなり抑制した音量で進めながらも鍛冶の場面にかけて次第に盛り上げ、第3幕でも序奏などでオーケストラをあまり劇的に咆哮させず、ブリュンヒルデの目覚めの場の音楽から最後の二重唱にかけて徐々に高揚させて行くという設定だ。
 ただ、スコアに忠実すぎるというのか、弱音を几帳面に使うので、クライマックスに向けての大きな怒涛の流れに不足するかもしれない。それもウェルザー=メストの意図のうちなのだろう。たとえば第3幕後半の二重唱など、もともと音楽自体に外面的な壮大さが目立ち、その結果空虚なものを感じさせる危険をはらむ箇所なのだが、今日の演奏ではそのような欠点が全く露呈せず、むしろ叙情的な美しさが際立つという結果になっていたのである。これは、この曲の演奏としては注目すべきものであるといって間違いない。

 演出はスヴェン=エリック・ベヒトルフ、舞台美術はロルフ・グリッテンベルク。
 特に奇抜ではないが、なかなか好い。少なくとも、現在進んでいるザルツブルク/エクサン・プロヴァンス共同制作プロダクションの舞台などより、格段に好い。

 全体を通じ、テクストのニュアンスがそのまま演技に反映されているのが目立つ。それもこれ見よがしではなく、自然なさりげない形になっているのが好ましい。神話的な「ワルキューレ」と、各キャラクターが日常的な動きをすることが多いこちら「ジークフリート」との違いが自ずから現われているのだろう。
 ワーグナーの作品では常にそうだが、セリフの多い、レチタティーヴォ的な要素の多い音楽の部分では、人物の動きがめまぐるしく、「芝居」としての性格が濃くなっている。「マイスタージンガー」全幕がそうだし、この「ジークフリート」の第1幕と第2幕がそうだ。ベヒトルフの演出も巧みにそこを衝いて、舞台上の芝居を面白く見せる工夫を凝らしているようだ。

 たとえば、ちょっとした身振りにユーモアを感じさせるところなども、特徴の一つであろう。ヴォータンとミーメの問答の場面(第1幕)では、ミーメがガイドみたいな本を調べ、「さすらい人」が大神ヴォータンその人であることに気がつく。ヴォータンが歌っている間にミーメは物珍しげに槍を手に取るが、それを取り落とした途端に轟く雷鳴に震え上がり、ヴォータン自身も呆気に取られるという寸法。オリジナルでは、ヴォータンが自ら槍を地に突き立てて威嚇する場面である。このくだりは軽い読み替えだが、一寸コミカルな解釈だ。
 ヴォータンとアルベリヒが大蛇ファーフナーを呼び出す場面(第2幕)も微笑を誘う。オタオタするアルベリヒに、ヴォータンはまるでこう言うかのような演技だ。「もっと大きな声で呼んでみろ! ばか者、俺に向かってじゃない、ファーフナーにだ!」

 第1幕の壁には、至る所に森の獣の剥製のようなものがへばりついている。しかもすべて逃走の姿勢を採っているのが面白い。ジークフリートが連れてくる設定の熊は映像で、彼の後ろにフワリと投影されるが、これは「ワルキューレ」で見られた狼の映像を思い起こさせる。第2幕最後、幕が閉まりかける直前に、背景に飛んでゆく小鳥の姿が映像で映るのは、ソプラノがすべて陰歌だっただけに、気が利いているだろう。
 大蛇の出現の場面でも、その映像手法が活用される。後方の壁が上がると、緑色の半円形の画面が現われ、これが爬虫類のよく動く、巨大で不気味な眼に変る。戦いになると、その眼の中にジークフリートの姿が投影される。大蛇が斃されるとその眼は消えるが、少し離れた地下からファーフナーが出現、その背の高さは見る見る6、7メートルくらいにも伸びて行く。彼は死ぬと再び地下に消えるが、その言葉をもっと聞きたがるジークフリートが彼を引き上げようとすると、出てきたのはすでに鱗(衣装)のみだった。
 また第3幕では、ヴォータンはスコップで穴を掘っており、その穴からエルダが出て来る段取りで、のちに槍を折られたヴォータンも、その穴の中へ姿を消す。が、ここは少々小細工に過ぎるだろう。岩山への場面転換では一旦幕が下り、音楽は間奏曲として扱われる。炎を潜って辿り着いたジークフリートはススだらけで、ヘトヘトになっている。

 この演出で特に気に入った点を一つ、特に挙げておきたい。ミーメの言葉の謎の部分(第2幕)だ。ここは小鳥の通訳によってミーメの本心が聞こえてくるというように解釈もできる(キース・ウォーナーの演出にはそれに近い表現があった)が、今日の演出ではむしろ、ミーメの言葉の間に響く小鳥のモティーフにジークフリートがハッと耳を澄ます演技が何度か挿入されており、これによって彼が小鳥の警告をその都度思い出すことを描いていると言えよう。これもまた、音楽が忠実に演技に反映している一例である。

 シュテファン・グールド(ご本人の意向だそうなので、こう表記する)のジークフリートは、歌唱と演技と容姿の3つの点に置いて、今や斯界ベストの存在になったといってもよいだろう。声を巧みにセーブし、ほとんど出ずっぱりのこの役を最後まで疲れを見せずに歌いきった。最後のブリュンヒルデとの心理的な演技も、かつてのルネ・コロのそれには及ばずとも立派なものである。
 ヴォータンのユハ・ウーシタロは絶好調、「ワルキューレ」の時にも増して風格を備えるに至っている。こちら「ジークフリート」では少し俗っぽいキャラクターだから、やや楽なのかもしれない。
 
 ブリュンヒルデはニーナ・ステンメが、「ワルキューレ」でのジークリンデに続いて登場。あのバイロイト・デビュー(94年)の時のフライア歌手がここまで強い個性と強い声を聞かせるようになるとは、誰が予想したであろう。最近だいぶ肉が付いて来たようだが、あまり女傑タイプにならぬよう願いたいものだ。なお、このプロダクションでは作品によって一部歌手を変えており、「黄昏」でのブリュンヒルデはエファ・ヨハンソンが歌う。来年の4部作チクルスでもその同じ方式で行われるらしい。
 ミーメはヘルヴィヒ・ペコラロという人。巧いが、胸に一物あるニーベルングを表現するにはもう一つ。アルベリヒのトマシュ・コニイチュニーも、あまり悪役の雰囲気を出していない。エルダのアンナ・ラーソンは純白の衣装が映えて美しく、実に舞台映えする姿で、歌唱も優れている。小鳥はイレアーナ・トンカという、若く愛らしいソプラノで、カーテンコールにのみ私服で現われる。以上、総じて満足できる歌手たち。
産経新聞5月25日 演奏会評

5・10(土)旅行日記第2日
バレンボイム指揮 ブゾーニ:「ファウスト博士」

  ベルリン州立歌劇場

 今年のPHINGSTTAGEのリストには、昨夜の演奏会と、オペラとしては「ファウスト博士」「ドン・ジョヴァンニ」「トリスタンとイゾルデ」がクレジットされている。「トリスタン」は、日本にも持ってきた、以前のクプファー演出のプロダクションが選ばれている。2006年春にプレミエされた新しい方(バッハマン)はよほど評判が良くないらしい。たしかに、あんなつまらない舞台は見たことがないくらいだ。その他の2つは、この劇場のインテンダント、ペーター・ムスバッハの演出である。

 そのムスバッハ演出による「ファウスト博士」は7時から。
 2006年12月当劇場プレミエ、1999年ザルツブルク音楽祭プレミエとクレジットされているプロダクション。舞台美術はエーリッヒ・ヴォンダー。
 今回上演されたものは、ザルツ版に比べ、舞台の横幅こそ短くなってはいるものの、その他は(覚えているところは)ほとんど、あの時と同じだ。たとえば、精霊たちが体から火を噴きつつ舞台を横切っていく場面、兵士が日本の赤い鎧兜に身を固め、日本式のチャンバラをやる場面、舞台が割れてファウストが雪の中に沈んで行く場面、ラストシーンの雪の遠景に、微かに電線と電柱が見えるところなど。
 しかし初めて見る観客たちは、薄汚い採掘場のような序幕で、背中や頭が燃えている精霊どもが歩いて行く光景に驚いたであろう。メフィストフェレスはトロッコに乗って出て来る。パルマ公爵邸での宴会の場面は白塗りの顔をした非人間的な集団がマリオネットのように動くが、魔術で古代の人間どもが出現する場面では特にケレンはない。
 
 最後はファウストが幼児の亡骸を抱いてゆっくりと遠景に遠ざかり、入れ替わりにメフィストフェレスが前景に近づいて来る印象的な場面で閉じられるが、ここではファウストを歌ったロマン・トレケルの背中の演技が見事であった。しかしト書きにあるような、裸の少年がファウストに代わり立ち上がり、街の方角へ歩いて行くという設定は行われていない(ザルツ版ではその光景があったようにも思うが、はっきりした記憶がない)。

 総じてこの演出、改めて観ると何か鮮度と緊迫力に不足するように感じられるのは、やはり出来が今一つなのだろうか、それとも再演演出の手際に欠けているのだろうか。二度観たためではあるまい。何度観ても面白味を失わない演出だってあるのである。トレケルがさほど好調とも思えず、他の歌手たちにも個性が不足していたからということも考えられるが、この種の舞台ではそれはさほど大きな要因とも思えない。

 劇場音楽総監督バレンボイムの指揮には、序奏などではこの作品に欠かせない「闇」を感じさせる音色があって期待を持たせたが、3人の悪魔の学生の登場場面や、魔術で精霊が次々に現われる場面などでのテンポには何故か持って回ったところがあって、音楽そのものの緊迫感と不気味さは激減した。
 休憩後の主幕に入ってからのパルマ公爵邸場面以降はやや持ち直したが、最後の雪の場面でファウストが自ら破滅を受け入れる儀式を行うあたりの暗さ、不気味さといった音楽が全く生かされていないのには落胆させられる。
 バレンボイムとムスバッハは最近仲が悪いらしいから、こんな演奏になるのか? まさか。

 いずれにしても、こういう味も素っ気もない演奏には苛々させられる。特に、かつてフェルディナント・ライトナーが指揮(フィッシャー=ディースカウがファウストを歌っていた)したレコードにおける、ぞっとするような暗黒の魔性、圧迫感、終焉の恐怖に満ちた演奏が残っている耳には。
 使用楽譜はヤルナッハ版と聴き取ったが、あとでプログラムを見たら、やはりそう書かれていた。この版の方が短いから、楽なんでしょうね。ただ、序幕でワーグナーが3人の謎の学生の来訪を告げたあとの、ファウストが一旦断りかける個所がカットされていたように思えたが、確信はない。

 メフィストフェレスを歌ったジョン・ダスザックが、何処と言って破綻はないけれども個性的に強烈でないのも、この演奏と舞台とに迫力を欠いた原因の一つだろう。その他、パルマ公爵夫人をカローラ・ヘーンら。いずれも安定はしているが、際立って光るものはない。なおこちらの席(2階=1RANG 下手側寄り)の関係かもしれないが、舞台上の声はすこぶる聞き取りにくい。特にトレケルの声はほとんど聞こえなかった。

 今日は不思議に客の入りが余りよくない。平土間は何とか埋まっていたが、上階席はせいぜい半分以下か。休憩2回を入れ、終演は10時40分頃。カーテンコールには、一応感謝の意味を込めて最後まで参加した。好きなジェンダルメン広場を通り、並外れた威容と風格を以て聳え建つコンツェルトハウスを懐かしく眺めつつ、フリードリヒ街を横切って帰る。

5・9(金)旅行日記第1日
バレンボイム指揮シュターツカペレ・ベルリン

  フィルハーモニー・ベルリン

 時差調整のため、前日夕方ベルリンに入る。雲一つない快晴。暑いが、実に爽やかな天候だ。夜8時よりフィルハーモニーで、ダニエル・バレンボイム指揮シュターツカペレ・ベルリンの演奏会。モーツァルトのピアノ協奏曲第27番とブルックナーの第8交響曲(ハース版)という、いかにもバレンボイムらしい長大なプログラム。終演は当然10時半になる。

 協奏曲のソロは、もちろんバレンボイム自身だ。オーケストラの音色は清澄だったが、彼のピアノの方は終始囁くような音量で、テンポもゆっくりと、何かしんねりむっつりと粘った演奏なのがどうにもぴんと来ない。こういうスタイルの演奏をたまに聴くのも悪くはないのだが、新鮮というイメージとも感じられなかったのは、演奏に生気が不足していたからではなかろうか。しかし客席は盛大な拍手。

 ブルックナーの「8番」では、弦がよく鳴っていた。金管が引込み気味に聞こえたのは、こちらが1階席(やや「右側12-8)にいたせいかもしれない。かなり大らかな演奏で、壮大な伽藍といった風格からは程遠い。清澄さや高貴さをこの曲に求める必要はない、といわんばかりで、ブルックナーの野人としての素朴さの面を浮き彫りにしたような演奏に感じられる。まあ、予想していないわけではなかったが、あまり感動を呼ばぬ演奏だ。だがこれも場内はスタンディング・オヴェーション。バレンボイム御大、相変わらずの人気。

5・5(月)新国立劇場 新制作 ツィンマーマン:「軍人たち」

  新国立劇場

 若杉弘芸術監督が面目を賭けた、ベルント・アロイス・ツィンマーマンの「軍人たち」がついにハウス・プレミエされた。ドレスデン・オペラのオリジナル制作にもとづくネーデルランド・オペラ版からのレンタル上演だが、これはきわめて価値ある日本初演である。
 脇役の日本人歌手陣をはじめ、合唱団がよくあそこまでやったものだ。演技というよりは舞踊といった方が当っているかもしれないが、演出に人を得ればこれだけの水準の舞台が創れるのだということが、ここでも立証されたといえよう。

 その演出はウィリー・デッカー、再演演出がマイシェル・バルバラ・フンメル。舞台美術と衣装がヴォルフガング・グスマン、照明がフリーデヴァルト・デーゲン。
 舞台幅一杯に長方形の箱型内舞台が、やや高い位置に設定されている。
 軍人たちはすべてスキンヘッドで赤服という画一的な姿。彼らを含め登場人物は全員が白塗りの顔。大道具は他に無く、小道具もほとんど無い。巨大な箱の中で繰り広げられる人物たちのマリオネットのような動きは、実に強烈かつ精妙だ。
 ただその一方、たとえばラストシーンでPAにより拡大された軍靴の響きや喧騒といったものに象徴される生々しい人間の「業」のようなものが、著しく抽象化されてしまった印象は否めまい。したがって、物語が持つリアルなどぎつさには不足する。もっともこれはあくまで演出スタイルの選択肢だから、あれこれ言ったところで、所詮は好みの問題になろう。しかしこのような舞台は、時にやや単調に感じられることがある。

 主役陣は、娼婦に身を持ち崩すマリーをヴィクトリア・ルキアネッツが体当たり的に熱演。彼女を愛するシュトルツィウスを歌ったクラウディオ・オテッリが、今回は予想外に良かった。デポルトのピーター・ホーレも安定している。その他脇役たちと合唱(新国立劇場合唱団)も、音楽的にも演技的にも優れたものを示していた。
 東京フィルは若杉の指揮の下で今回は珍しく豪快に鳴り渡った。金管がのべつ唸り、咆哮するようなこの曲では、アンサンブルもクソもないといった感じだが、とりあえずパワーは讃えておこう。これらをまとめた若杉の力量も、長年にわたりオペラに情熱を燃やしてきた彼の本領と言うべく、見事なものであった。

 やたら高音域の声を使い、四六時中絶叫しているという感じのドイツ現代オペラ特有の嫌らしさには辟易するけれど、重量感充分のあざとい個性を持つ「軍人たち」。このオペラをナマで聴けたことはうれしかった。
   

5・4(日)東京歌劇団「ムツェンスク郡のマクベス夫人」

  サンパール荒川

 ショスタコーヴィチのオペラ「ムツェンスク郡のマクベス夫人」は、94年に東フィルが「オペラ・コンチェルタンテ」(大野和士指揮)で、セミ・ステージ形式の原語上演により取り上げたことがある。改定版「カテリーナ・イズマイローヴァ」の方は、1973年に二期会が日本語訳で舞台上演を行なったことがある(外山雄三指揮、栗山昌良演出)。
 一方、来日オペラでは、92年にケルン・オペラが前者を、96年にマリインスキー・オペラが両者2作を連続して上演している。
 したがって日本人による本格的な原語の舞台上演は、いずれにせよ今回が最初のものになる。

 新しいオペラ・カンパニーが旗揚げ公演をこのような作品で、しかもロシア語上演で行なうとは並外れた意欲だ。プロデューサーは田辺とおる、公演監督は岸本力。2人とも今回のダブル・キャスト上演で自らボリスを歌っているバス歌手。舞台の雰囲気からして手作り上演という印象だが、生まれたばかりの赤児にしては歯が強い。スタッフとキャストの熱意を讃えたい。

 この日は、その田辺とおると、菊地美奈(カテリーナ)、羽山晃生(セルゲイ)らが中心となるキャスト。この3人の歌唱は充実していた。どちらかといえばコミックな役柄に向いている感のある田辺も、なかなかに重厚な表現で聴かせていた。
 可憐な役どころのイメージが濃い菊地がカテリーナを歌うとは予想外だったが、ミカエラが悪女ぶっているような見かけ上のギャップを別にすれば、この強い声は魅力的だった。ただ、羽山ともどもベッドシーンなどで迫力ある力演を見せたものの、もっと突っ込んだ微細な心理的演技があれば、自由と解放を求めて破滅する女性像をさらに強烈に描くことができたろう。
 特に羽山にはいつものことながら、俳優としての演技を見につけて欲しいところだ。でないと、せっかくの声と体躯が空回りする。もっともこれらは、演出・美術・衣装を担当した大島尚志の責任もあろう。せっかくの力作ながら、ドラマが何かきれいごとに済まされた段階で留まってしまったのが惜しまれる。

 珠川秀夫が指揮する「東京歌劇団管弦楽団」は、テュッティでのまとまりが良く、メリハリ充分の沸き立つような熱演を聴かせていたのに感心させられたが、メンバーの主力はオーケストラ・ダスビダーニャ(ショスタコーヴィチの作品の演奏が売り物のアマオケ)であるとのこと。道理でショスタコーヴィチの音楽への共感があふれ出るような演奏であった。だが、弦のソリにはいずれも身の縮む思いをした。公演自体はアマチュア・オペラではないのだから、このあたり甘えは禁物であろう。

 なお予告によれば、この「東京歌劇団」は来年から「ワーグナー音楽祭・あらかわバイロイト」という名称のもと、まず「パルジファル」を上演して行くという。何とも物怖じしない姿勢だが、野望は大きいに越したことはなかろう。
   モーストリークラシック7月号「東西南北」

5・3(土)「ラ・フォル・ジュルネ」 本名徹次指揮ベトナム国立交響楽団

  東京国際フォーラム hall A

 恒例となったラ・フォル・ジュルネ(「熱狂の日」音楽祭)2008、今年のテーマは「シューベルトとウィーン」。
 昼頃までは昨日同様、雨に祟られたが、東京国際フォーラムでの人出はまずまずの様子、慶賀祝着の至りだ。日頃クラシックのコンサートになど億劫で来られないというような親子連れが、それほどポピュラーでもない作品の演奏に耳を傾けている光景はすばらしい。まだの方は、一度行ってごらんになるといい。6日まで開催されている。演奏会以外にもいろいろ面白い催し物もあるし、食べるものもある。
 とはいうものの、私自身はあの雑踏と賑やかさはどうも苦手で、歩いているだけでヘトヘトになるので、今回もチラリと覗くだけである。聴きに入った演奏会は、わずかにこれ一つ。

 5千人を呑み込む巨大なホールAに、3千人か3千5百人くらいはお客さんが入っていたろうか。しかし、それだけでもめでたい話だ。2階席の高みからは、オーケストラのメンバーも、音楽監督の本名さんも、豆粒のように見える。PAが入っており、2階席では音がふんわりとした感じで聞こえるが、この音質はなかなか良好である。
 前半に演奏されたシューベルトの「交響曲第5番」が格段に美しい。後半はモーツァルトの「交響曲第40番」だったが、こういう場所での演奏の場合、何もリピートをすべて延々と行なわなくてもいいのではないかという気もする。このオーケストラの真価を、一度本拠のハノイのホールで体験してみたいと思っているのだが、まだその機を得ない。

5・2(金)ヨハネス・ヴィルトナー指揮フィルハーモニア台湾

  横浜みなとみらいホール

 「(台湾)国家交響楽団」の名称は今でも生きているらしいが、国外向けには2年前から「フィルハーモニア台湾」を使うようになっている。PMFでもおなじみのチェン・ウェンピンは、現在は首席客演指揮者。このポストにはもう一人、アーティスティック・アドヴァイザーを兼ねるギュンター・ヘルビッヒ(!)がいる。

 このオーケストラ、基本的にはきわめて優れた団体のように感じられる。木管群のバランスの良さ、弱音における弦楽器群の柔らかいふくよかな音色などに関しては、東洋のオーケストラとしては出色のものだろう。特に弦は、「ザ・グレイト」(シューベルト)第4楽章第2主題での伴奏音型などで秘めやかな美しさを発揮していた。
 とはいえ(1階席で聴く範囲では)フォルテ以上の大きさになった時の第1ヴァイオリンの音が異様に大きくて鋭く、全体の音色の均衡を失わせる傾向があるのだけは気になる。前半のベートーヴェンの「ヴァイオリン協奏曲」(ソロは胡乃元=フー・ナイユアン)でのように節度を保った響きの場合には、そのようなことはない。

 今回は客演だったヴィルトナーは、この2曲のあと、おそろしくハイな調子のスピーチをやり、アンコールとしてベートーヴェンの「レオノーレ」序曲第3番を指揮。いかにも練習不足を感じさせる散漫な演奏だったが、1番フルートがやたら上手く、あの華麗なソロ・パートを聴かせるのが目的でこれを取り上げたのではないかと思わせるほどで、そのあとはオケも俄然盛り上がった。しかし、最後の土壇場でのティンパニの大ポカはいただけない。同じ種の事故は、フルトヴェングラー指揮ストックホルム・フィルでの前例もあるが、不思議だ。

5・1(木)日本演奏連盟クラシックフェスティバル

  東京文化会館大ホール

 日本演奏連盟が主催するこのシリーズ、今年が第20回記念ということで、「スペシャル・ガラ・シリーズ」が開催された。客席はまさに超満員である。
 新日本フィルと東響のメンバーを中心に東フィルと日本フィルも加わった「フェスティバル・オーケストラ」を飯森範親が指揮。彼は司会も兼ねた。
 「フィガロの結婚」序曲で始まった後は、高木綾子と吉野直子がモーツァルトの「フルートとハープのための協奏曲」第1楽章を、清水和音が「皇帝」第1楽章を、堀米ゆず子が「スペイン交響曲」第5楽章を、高橋薫子が「椿姫」のアリアを、大谷康子がサン=サーンスの「ヴァイオリン協奏曲第3番」第3楽章を、堤剛がドヴォルジャークの「チェロ協奏曲」第1楽章を、中村紘子がチャイコフスキーの「ピアノ協奏曲第1番」第1楽章を演奏。コンサートは休憩を含めておよそ2時間半に及んだが、まあ、お祭の場向けの演奏水準といったところか。

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