2021-04

2021年3月 の記事一覧




2021・3・31(水)東京・春・音楽祭「子どものためのパルジファル」

  三井住友銀行東館ライジング・スクエア1階アース・ガーデン 6時30分

 正確には「東京春祭for Kids 子どものためのワーグナー《パルジファル》(バイロイト音楽祭提携公演)」という名称。

 今年の音楽祭の目玉公演の一つ「パルジファル」本公演は、新型コロナ対策によるメイン・アーティスト来日不可のため惜しくも中止になったが、付随して開催される「子どものための」は予定通り5回開催されている。今日は第3日。このあとは4月3日と4日に公演が行われる。場所は大手町の三井住友銀行東館ロビーの特設会場。

 「パルジファル」は、もともと子供が観るようなオペラではない(見ちゃダメ、の類かもしれない)。
 しかも演出が過激を売り物のバイロイトの総帥カタリーナ・ワーグナー女史(今回はオンライン演出)となれば、ますます危ないものになりそうに思われるが、そこはそれ、子供向けとあって実に愛らしい舞台。
 愚かで純粋無垢な若者パルジファルは、魔人クリングゾルをやっつけて聖槍を取り戻し、めでたく聖杯の国の王様となり、永く国を治めましたとさ、というストーリーをシンプルに解り易く描き出した。

 上演時間を休憩なしの70分ほどにまとめ、音楽を要領よく抜粋し、ドイツ語歌詞で歌いつつ、要所に日本語のセリフを入れて物語を繋ぐ。登場人物は原作通りの役柄で、仮設ステージで衣装を着けての演技。第2幕の「魔法の花園」の場面はマンガチックなお菓子の世界とし、デーモン閣下ばりの扮装をしたクリングゾルが暴れ回るという設定に仕上げた。クンドリの役割は著しく薄められているが、子供のための物語仕立てだから、作品の哲学的な意味合いは切り落とされても致し方なかろう。
 オーケストラ(東京春祭オーケストラ)は、指揮の石坂宏とともにステージのずっと上手側に位置し、小編成ながら強大な音で音楽を響き渡らせる。

 観客は、前面に家族連れが床にクッションを敷いて並び、その後ろの壁際の椅子に評論関係と取材陣という具合で、ソーシャル・ディスタンス配置のため全体数は必ずしも多くはなく、オーケストラとキャストを合わせた人数とどちらが━━という状態ではあったが、それでも演技と演奏が真摯に繰り広げられていたことは讃えられてよい。
 子どもの目から見てどうだったかは定かでないが、大人の目から見ても、総じてよくまとまった面白いプロダクションだった、と言ってよいだろう。以前の「さまよえるオランダ人」などよりは、比較にならぬほど丁寧に仕上げられている。いっとき楽しめた上演であった。こういう「抜粋上演」は、形式はどうあれ、オペラ普及のためにも、もっと見直されてもいいだろうと思う。

 歌手陣は━━片寄純也(パルジファル)、斉木健詞(グルネマンツ)、大沼徹(アムフォルタス)、友清崇(クリングゾル)、田崎尚美(クンドリ)、河野鉄平(ティトゥレル)、横山和美・金持亜実・首藤玲奈・江口順子(魔法の乙女たち)という顔ぶれで、みんないい。他に助演者たち。
 なお編曲はマルコ・ズドラレク、オリジナル演出はトリスタン・ブラウン(2015年バイロイト)の由。

2021・3・30(火)東京・春・音楽祭 菊池洋子の「ゴルトベルク変奏曲」

      東京国立博物館 平成館ラウンジ  7時

 東京・上野を中心に開催されている恒例の「東京・春・音楽祭」。その一環としての「東博のバッハ」シリーズ、vol.53は、菊池洋子がピアノで演奏するバッハの「ゴルトベルク変奏曲」だった。
 東京国立博物館の建物の一つ「平成館」の、広いロビーのような場所にピアノを据え、それを半円形に囲むような形に数十の椅子を並べて、少人数の親しみやすい雰囲気の中にバッハを聴く、というコンサートである。

 菊池洋子さんの演奏は、モーツァルトをはじめとしてこれまでにもたびたび聴いてはいるが、彼女のバッハを聴くのは今回が初めてかもしれない。
 今日の「ゴルトベルク変奏曲」は、速めのテンポによる、目覚ましい推進力と気魄とを備えた演奏だ。例のカイザーリンク伯爵の「眠れぬ夜のために」の伝説が必ずしもあてにならぬと見なされる当今、こういう演奏解釈も面白い。

 30の変奏が、その流れの中で何度か起伏を繰り返し、そのたびごとに音量と力を増して行くような構築。第29変奏における嵐のような(ちょっとリスト的なほどの)昂揚は、第30変奏の「クォドリペット」に入ってもなおその勢いを持続してやまず、最後の「アリア・ダ・カーポ」に入るや初めて音楽が落ち着きを見せ、過ぎ去ったドラマを回想するようにエピローグを語りつつ消えて行く━━という具合。
 音量の面でも強靭な、骨太のバッハに感じられたのは、会場と、ピアノと、われわれの聴く位置との関係の所為かもしれない。

 8時20分頃終演。上野公園は見事なほど満開の夜桜に彩られて美しいが、花見客はほぼ皆無で、所々でスケボーの若者たちが騒いでいる以外は、むしろ寂しい雰囲気だ。こうなると上野公園は実に宏大に感じられる。

2021・3・28(日)高関健指揮富士山静岡交響楽団

      静岡市清水文化会館マリナート  2時

 厳密にいえば「富士山」の入った楽団名は4月からのものなのだが、オーケストラはすでにこの名称で今日の印刷物を作成している。ただし英語名はMt.Fuji Philharmonic Orchestraだそうで、そこにShizuokaの文字は無い。

 とにかく、昨年11月に浜松フィルハーモニー管弦楽団と「合体」(事実上の吸収?)し、4月の楽団名変更と同時に高関健氏を初代首席指揮者に迎えるという体制で、この楽団も今や意気天を衝く勢いである。新シーズン(4月~2022年2月)における定期公演は8回(うち3回は浜松公演も加わる)、特別演奏会は7回(1回は浜松公演も)というから、活動も本格的だ。
 コンサートマスターは藤原浜雄。メンバーは当面フリー中心との話だが、追々体制も強化されて行くことだろう。

 今日はその高関健の指揮で、清水銀行の提供による「名曲コンサート」である。プログラムは、モーツァルトの「パリ交響曲」、テレマンの「トランペット協奏曲ニ長調」(ソリストは守岡未央)、ベートーヴェンの「第7交響曲」。

 高関は一昨日シティ・フィルの定期を指揮したばかりだし、こちら静岡響とは練習時間も充分でなかったはずだが、オーケストラの演奏に溢れる壮烈な勢いがそれを補っていた。 「パリ交響曲」での演奏など、昂揚感においてはこちらの方が勝っていたかとさえ思われる。
 そしてなお高関は、「パリ交響曲」の第2楽章の美しい「第2稿」をアンコールとして最後に演奏するというサービスを、ここ清水では披露していた(これはシティ・フィル定期でもやってもらいたかったアイディアだが、あのショスタコーヴィチの「8番」で燃焼したあとでは、さすがに無理だったのであろう)。

 次のテレマンの「トランペット協奏曲」では、この楽団のメンバーでもある守岡未央が手堅い、しかし鮮やかなソロを聴かせて聴衆を沸かせた。アンコールとして吹いた「メサイア」の一節もなかなかいい。━━ただ、余計なことで失礼ながら、演奏が上手いから敢えて言うのだが、衣装はもう少し「クラシックの演奏会」っぽい(?)雰囲気のものにした方がよろしいのでは?

 ベートーヴェンの「7番」は、仁王の如く逞しい、力感たっぷりの熱演だ。第1楽章の結尾など、これほど力のこもった終結を日本のオーケストラから聴いたのは初めてかもしれない。全ての反復を忠実に行い、速いテンポと骨太な響きで轟然と押す。その熱気はいい。ただし細部の仕上げは必ずしも丁寧とは言えなかったが、これはマエストロにとっては二の次の問題だったのかもしれない。
 ひとつ難点を言えば、第4楽章で━━1階18列ほぼ中央の席で聴いた限りでだが━━12型編成の弦楽器群が、強大な音を響かせる管楽器群に打ち消され、旋律的な要素を失わせた個所が多かったことは、些か疑問を抱かせられた所以である。

 前述の「パリ交響曲」第2楽章によるアンコールを含め、3時50分頃終演。
 危惧された「春の嵐」は幸いに来ず、小雨がぱらつきながらも天気が「もった」ことは祝着だ。このホールは、屋根付きの回廊が清水駅まで繋がっているので、余程の嵐がすぐ傍の駿河湾から吹き付けたりしない限り、傘をさして歩く必要はない。普段ならすぐ目の前に本物の富士山の堂々たる姿を拝めるところなのだが、今日は厚い雲に覆われて何も見えなかったのが残念。

2021・3・27(土)井上道義指揮東京交響楽団

    サントリーホール  6時

 新日本フィルの演奏会の2時間後、東京交響楽団の定期では、井上道義の客演指揮により、ベートーヴェンの「ピアノ協奏曲第4番」と、ショスタコーヴィチの「交響曲第6番」が演奏されたが、これまたすこぶるエキサイティングな演奏であった。コンサートマスターはグレブ・ニキティン。

 ピアノ協奏曲のソリストには、当初予定されていたネルソン・ゲルナーの来日中止を受け、北村朋幹が登場。「4番」冒頭のソロを「テンペスト」ばりのアルペッジョで開始するという凝った手法で開始(これ、誰だったかが昔やっていた手だが)、カデンツァも含めて極めて個性的な、挑戦的な演奏を披露してくれたのが面白い。
 彼は、わが国の若手ピアニストの中でもユニークな個性の持主だ。外国人奏者が来日できなかったためにこういう日本の若手に活躍の場が与えられたことはかえって幸いだったであろう。綺麗な澄んだ音色が印象的だが、アンコールで弾いたシューマンの「春の歌」も、実に澄み切った表情だった。

 後半は、井上が得意とするショスタコーヴィチ。この「第6交響曲」も、甚だ強烈な演奏だ。昨夜の高関とシティ・フィルによる「8番」といい、今日のこれといい、2夜続けてこんなダイナミックなショスタコの交響曲を聴けるとは、東京の音楽界も凄いものだと言わねばなるまい。
 抑制された曲想の裡に緊迫感が充分に保たれていた第1楽章、慌ただしい動きの中で弦楽器群が美しい音を垣間見せた第2楽章。そして第3楽章は、細部も定かならざるほどのティンパニの大暴れの強奏の裡に、熱狂と狂乱とで幕を閉じた。

 井上道義の指揮も実に鮮やかだったが、オーケストラも好調だったため、演奏が目覚ましい盛り上がりを示したのも当然であろう。しかし━━考えてみれば、井上も確か今年で75歳になるはずでは? あの躍るような指揮の暴れっぷりたるや、驚くべき体力ではある。
 客の入りがいい。

2021・3・27(土)鈴木秀美指揮新日本フィルハーモニー交響楽団

     すみだトリフォニーホール  2時

 ベートーヴェン・プロで、「三重協奏曲」と「交響曲第5番《運命》」。
 協奏曲のソリストは、楽団ソロ・コンマスの崔文洙(vn)、同首席チェロの長谷川彰子(vc)、文洙の兄の崔仁洙(pf)。コンサートマスターは西江辰郎。

 「三重協奏曲」は、ソリストたちの伸びやかなソリで、彼らのアンコールの「街の歌」第2楽章とともに寛いで聴けた。
 だが、何といっても今日の白眉は「第5交響曲」だろう。極度に鋭角的なアクセントと強烈なデュナーミクを備え、ハリネズミのように全身の毛を逆立てた「第5」。

 スコアの全ての音符にいたるまで微細に神経を行き届かせた鈴木秀美の演奏構築は見事なものだったが、ただその速いテンポの中でそれを完全にこなすのは、オーケストラにとっては至難の業だったであろう。とはいえ、こういうタイプの演奏の場合、かのガーディナーにせよブリュッヘンにせよ、オーケストラを完全に鳴らし切るところまではやれなかったのだから、仕方のないところなのかもしれない。
 いずれにせよ、日本のオーケストラがピリオド奏法で演奏した「5番」の中で、これは飛びぬけて鋭い「5番」だったことは、間違いない。

 第3楽章295小節以降のホルンの「運命のモティーフ」があれほどはっきりと聞こえたのも、ナチュラルホルンが使用されていたためだろう。なおこのナチュラルホルン、第4楽章コーダの、あの跳躍音程の個所を除けば、見事な演奏だった。
 その第4楽章も強大で立派な風格を備えて響いていたし、全曲にわたり厳しく統一された構築の、緊迫感の豊かな、極めてエキサイティングな「運命」であった。
 最近の鈴木秀美の指揮は凄い━━という口コミは的を射ている。今日の演奏では、彼の本領を垣間見たような思いにさせられた。また新日本フィルの挑戦的な姿勢も好い印象を残した。

 そして更に特筆すべきは、今回の「5番」は、あのギュルケが校訂して話題になった第3楽章の反復を復活させた稀有な例だったことである。

 アンコールは、ベートーヴェンの「12のメヌエット集」からの「第11番」だったが、しかしこれは━━この曲の性格からして、いくら何でも激し過ぎたのではないか?

2021・3・26(金)高関健指揮東京シティ・フィルハーモニック管弦楽団

      サントリーホール  7時

 常任指揮者・高関健の指揮による3月定期。
 当初はヴェルディの「レクイエム」がプログラムに組まれていたが、飛沫感染予防のため、大合唱の出る作品の演奏が避けられてしまった。
 だが、この代替プログラムもいい━━モーツァルトの「交響曲第31番ニ長調《パリ》」と、ショスタコーヴィチの「交響曲第8番」である。高関の真摯で手堅いアプローチと、シティ・フィルの熱演により、見事な演奏となった。

 「パリ」は、オリジナルのアンダンテ楽章を使用し、編成を比較的大きくしての、祝典的な性格を打ち出した演奏。この曲はやはりこういうスタイルで豪華に演奏された方が面白い。

 そして休憩後の、ショスタコーヴィチの「8番」は、まさに渾身の快演であった。オーケストラは弦14型編成だが、絶叫と咆哮の音量は物凄い。この曲に籠められた絶望的な感情とでもいったものを抑制することなく、狂乱的に爆発させた演奏とでもいうか。特に全管弦楽が疾走する第3楽章での演奏は凄絶で、前楽章からアンサンブルのバランスを整え始めていたシティ・フィルが、ここでは見事な力を発揮して行った。

 第5楽章の結尾は予想外に淡々としていて、所謂悲劇的な、白々とした空虚感を滲ませた演奏にはならず、何かしら未来への希望を漂わせたような終り方になっていたのは、高関の解釈だったのか。
 終結近く、チェロのソロが出る直前に首席チェロの弦が切れ、楽器を変えるために僅かな休止が取られたことが演奏の雰囲気を変えてしまったような感もあるが━━しかし、この第5楽章へアタッカで入った瞬間、演奏に表現されていた一種の光明感が印象的だったから、やはり今日は「悲劇と絶望感からの解放」が幕切れのコンセプトだったのかもしれない。
 この辺はマエストロに訊いてみないと判らないけれども、私はただ自分が聴いた印象だけを正直に書いておく。とにかく、いい演奏だった。コンサートマスターは戸澤哲夫。

 シティ・フィルは、来シーズン(6月から)の定期演奏会を、また東京オペラシティコンサートホールに戻す。高関健と、桂冠名誉指揮者の飯守泰次郎、首席客演指揮者の藤岡幸夫、ほかに下野竜也らも登場する。
 その前に、5月には飯守泰次郎の傘寿記念として「ニーベルングの指環」ハイライト演奏会が外国の名歌手たちを招聘して予定されていて、何とか予定通りの陣容で開催されるといいが━━。

2021・3・25(木)小曽根真60TH BIRTHDAY SOLO

     サントリーホール  7時

 ホールの正面入り口近辺は、私などが入っていいのかと思うような雰囲気。客席は圧倒的に女性客ばかり。もちろん、男性客もチラホラとは居るけれども。それに、サントリーホールがこれほど満席近い状態になっているのを私が見たのは、昨秋のウィーン・フィル以来だ。

 主催がヒラサ・オフィスおよびJ-WAVEとなっている。ふだんクラシックの室内楽やリサイタルの主催を中心に活動している平佐素雄さんの事務所が、こういう方面のコンサートをも主催し、しかも満員にしている、ということを、私は不勉強にして、今まで全く知らなかった。

 配布されたパンフレットの表紙には「CLASSIC×JAZZ」と記載されており、CLASSICを見事にJAZZ化させたものも含まれている。私はその方面のテリトリーには疎いので、専ら彼の美しい、千変万化で変幻自在のピアノに快く耳を澄ませるのみ。
 9時過ぎ終演、客席は総立ちのオヴェーション。

2021・3・20(土)大井剛史指揮群馬交響楽団

    高崎芸術劇場大劇場  6時45分

 ロビーの窓際の高い椅子に掛けて開演を待っていると、何故か椅子が急にグラリグラリと揺れ始めた。貧乏ゆすりは私の昔からの悪癖だが、やってはいないはずだし・・・・と周囲を見回すと、皆がきょろきょろしながら顔を見合わせたりしている。これが6時10分頃のこと。高崎ではその程度で済んだわけだが・・・・。

 群響の第566回定期演奏会は、大井剛史の客演指揮で、マーラー編によるシューマンの「マンフレッド」序曲と、マーラー自身の「交響曲第6番《悲劇的》」。コンサートマスターは前者が群響の伊藤文乃、後者が客演の福田俊一郎。

 大井剛史がこういう大きなシンフォニーを指揮するのを一度聴いてみたい、と以前から思っていた(彼が滅多に振らないからだ)。しかも今回はマーラー版の「マンフレッド」などという珍曲がプログラムに入っているし、それにこの新しい大きなホールで大編成の群響の音を聴いてみたい━━などという興味に駆られ、サントリーホールでの都響公演が終ってすぐにこちらへ駆けつけた次第である。
 そして、来た甲斐は充分にあった。

 シューマンの「マンフレッド」序曲のマーラー版というのは初めて聴いた。楽曲の構築はそのままに、楽器編成と各パートに少し変更を加えたシロモノだ。度肝を抜かれたのは、曲の冒頭にシンバルの一撃が入るという、途方もない改変である。シンバルはそれ一度だけだが、これがその後の曲中で本当に必然性を証明したかどうか、かりにそれを探し出しても、所詮はこじつけの範囲に留まる程度のものだろう。マーラーは、指揮者としては古今独歩の名匠だったかもしれないが、相変わらず余計なことをするお人である。シューマンにはシューマンの、独自の魅力的な芸風があるのであり、他人が口を挟む筋合いはない。

 他人の作品でなく、自作でやりたい放題やるのなら、大いに結構だ。休憩後はそのマーラー自身の長大な「第6交響曲」。何度聴いても物凄い曲である。今回は第2楽章に「アンダンテ・モデラート」の楽章を置き、第3楽章にスケルツォを持って来る配列が採られた。第4楽章のハンマーは2回。

 大井剛史の指揮は、何の外連もない、率直で真摯なものだ。マーラーが総譜に書き込んだ事細かなテンポや表情の変化の指示などをさほど強調しないので(少なくともそのように聞こえる)、所謂神経質なマーラー像にはならないが、作品自体が図抜けて雄弁な性格を持っているので、そうした指揮もいい方に生きて来る。少なくともこの演奏は、前半の「マンフレッド」よりは遥かに成功していただろう。
 そういう意味では、彼の指揮は作品によって向き不向きが生じるだろうが、いずれにせよ真正面から作品に取り組んでいる姿勢はいい。

 大井は、基本的に速めのテンポで、ひたすら押しに押す。この曲のエネルジーコな性格を充分に発揮させた演奏である。特にリズム感がいいので、聴いていると快いほどである。
 ただ、欲を言えば、勢いに乗ってオーケストラを咆哮させるのも結構だが、長大な音楽の構築の中に、大きな起伏感がもっと欲しい。第4楽章など、這い上がっては打ちのめされる「英雄」の、その昂揚感と絶望感、狂乱と沈潜━━といったような対比が更に浮き彫りにされて欲しかった。だが、その第4楽章の何個所かで、彼がオーケストラから引き出していた、温かく柔らかい響きには、はっとさせられた。
 シンフォニーでの彼の指揮は誠実で、造りも丁寧だし、作曲家や作品にもよるだろうけれども、基本的には結構いいのではないかと思われる。他のレパートリーも、いろいろ聴いてみたいところだ。

 群響は、この新しい、空間的にもたっぷりと余裕のあるホールを得て、大編成のシンフォニーをも楽々と響かせる余裕を感じさせるようになった。今日は第1ヴァイオリンにもう少し人数が欲しいところだったが、コントラバスが強力で、重心もしっかりしているので、響きの安定感という点では問題なかったと思われる。1階17列18番の席で聴いた限り、全体は極めてバランスの良い音に聞こえた。

 あの旧い音楽センターだったら、今回のような豪壮雄大な音響は望むべくもなかったろう。群響はいいホールを得た。今後はレパートリーもいっそう多彩になって行くだろうし、群響自体の「音」も変わって行くだろう。ホールも竣工からまだ日も浅く、音も少し硬めだが、これから鳴らし込むにつれて音はだんだん温かくなり、数年経てば更にいい味が出て来るはずである。

 8時45分終演。9時台半ばに来た北陸新幹線に飛び乗って帰京。東北新幹線が運転見合わせになっていたことを知ったのはその時になってからだった。

2021・3・20(土)鈴木優人指揮東京都交響楽団

    サントリーホール  2時

 つい先日、芸術選奨文部科学大臣新人賞を受賞した鈴木優人━━今やまさに破竹の進撃といった感だが、今回は都響に客演。指揮したのは、ラヴェルの「マ・メール・ロワ」組曲にプーランクの「ピアノ協奏曲」(ソリストは阪田知樹)、ラヴェル編曲によるムソルグスキーの「展覧会の絵」という、統一の取れたプログラムだった。

 彼のフランス近代ものを聴くのは、メシアンの「トゥーランガリラ交響曲」(→2015年11月1日)と「峡谷から星たちへ」(→2020年10月6日)に次いで、多分これが3度目だ。
 こちらが勝手に予想していたよりは端整なアプローチで、「マ・メール・ロワ」など、もう少し優美で官能的な色彩感があってもいいように感じられたのだが、こういう「のめり込まない」ラヴェル解釈が彼の持ち味なのかもしれない。ただ、今回は彼と都響との相性がある種の作用を生んでいたのかもしれないし、早計な判断は慎もう。

 だが、「展覧会の絵」のように明らかな標題性を持ち、それもかなりこれ見よがしの色彩感を満載した音楽の場合には、やはりそれに相応しい、劇的な描写をも折り込んだ演奏でないと、この曲の面白さは味わい難いのではないか。
 冒頭のソロ・トランペットがいつになく演歌調の音色で━━まるで園まりの「夢は夜ひらく」のイントロのような━━演奏を開始した時には、これは何か途方もない試みをやる気かなとびっくりしたが、それも忽ちシリアスなスタイルに納まってしまった。
 都響(コンサートマスターは山本友重)が弦16型編成で轟かせた音響が久しぶりの威力を感じさせたのは確かだったが。

 プーランクの協奏曲では、阪田知樹がちょっと洒落た音色と表情でソロを弾き始めたのはよかったが、あまり洒落た表情でない指揮とオーケストラの音に消され気味になり、この曲のウィットが充分に感じられない結果となったのは惜しい。阪田がアンコールで弾いたプーランクの「トッカータ」の方が自由な感興があって、面白かった。

 終演後、高崎行きの新幹線に乗るために、東京駅へ向かう。

2021・3・17(水)太田弦指揮日本フィルハーモニー交響楽団

      東京芸術劇場 コンサートホール  7時

 「2021都民芸術フェスティバル」のオーケストラシリーズ最終日。大阪響正指揮者・太田弦(27歳)の客演指揮で、シューマンの「ピアノ協奏曲」(ソリストは伊藤恵)及びリムスキー=コルサコフの「シェエラザード」。コンサートマスターは木野雅之。

 コンチェルトでは、シューマンを得意中の得意とする伊藤恵が伸縮自在の演奏を披露。特に第1楽章では、あたかも音楽に言葉が付いているかのように、何かを独白的に語り続けるようなテンポとエスプレッシーヴォでソロを繰り広げた。若い太田弦もよくこれに付けて行ったと思われる。
 ただ、オーケストラがいかにも不愛想で野暮ったく、例えば各フレーズの終りを投げ遣りのような形で結ぶといった演奏をするのには、何とも耐え難い思いをした。リハーサル不足の感も覆い難いが、インキネンやラザレフが引き締めないとすぐこういう荒っぽい演奏に戻ってしまうのが日本フィルの悪い癖だ。

 だが、「シェエラザード」の方は、こちらは重点的にリハーサルを行ったのだろう。
 太田弦の指揮はかなり凝った、細かく神経を行き届かせたもので、冒頭のように総休止を長く採り過ぎて緊張感を薄めさせたのを除けば、全体に流れも良く、この作曲家特有の主題の執拗な繰り返しにおいても単調に陥らず、多彩な変化を持たせつつ演奏を盛り上げるという手腕を示していた。

 そして日本フィルも、例えば第2楽章でのファゴットのソロや、トランペットトロンボーンの掛け合いの個所、第3楽章でのチェロなど、すこぶる表情豊かに応じていた。本気になればこのような演奏も軽々とやってのけるオーケストラなのだということ。第4楽章での大暴れ的な咆哮はこの楽団のお家芸だ。それは如何にも洗練とは程遠いものだが、良くも悪くもこれが日本フィルのカラーと謂うべきだろう。

 若い太田弦の指揮を聴いたのは、私はこれが4度目になる。初めて大阪響との「第9」を聴いた時にはあまりに几帳面で生真面目過ぎるのに些か失望した(→2019年12月27日)が、新日本フィルとの「ザ・グレイト」(→2020年7月18日)では打って変わった勢いのいい、若者らしい気魄に富んだ指揮に驚かされたものだ(※)。
 そのあとの山響客演(→2020年10月10日)は曲目が特殊だったので別として、今回の「シェエラザード」を聴くと、彼もやはりヴィヴィッドな音楽性を備えた指揮者なのだということが判ったような気がして、楽しくなった。これでオーケストラの音色やアンサンブルを充分に制御できるようになればと思われるが、それは今後を待つことにしよう。

(※)これはエクストンからCDで出た(OVCL-00742)が、その特徴がはっきりと聴き取れる。

2021・3・14(日)小泉和裕指揮名古屋フィルの東京公演

       サントリーホール  2時

 緊急事態宣言下の東京に、名古屋フィルハーモニー交響楽団が、新型コロナに屈せずとばかり乗り込んで来た。音楽監督・小泉和裕の指揮で、ブラームスの交響曲「第4番」と「第1番」を組み合わせたプログラム。コンサートマスターは首席客演コンマスの荒井英治。

 小泉和裕の指揮を初めて聴いてから、もう46年になる。
 カラヤン国際指揮者コンクールに優勝したのち、凱旋して新日本フィルの音楽監督になったのが1975年、その1月23日に彼が定期デビューし意気天を衝く指揮を披露、それを録音しFMで放送した日のあれこれを、つい昨日のことのように覚えている。
 1976年にザルツブルク音楽祭にデビューし、当時ウィーン・フィルを指揮した最年少(27歳)指揮者として話題を集めた頃から彼の指揮の特徴が確立されはじめたように思うのだが、どうか。

 余談だが、彼がそのウィーン・フィルを振った前夜には、小澤征爾さんがシュターツカペレ・ドレスデンを指揮して大成功を収めており、小泉さんが終演後にホイリゲで「よりにもよって小澤さんの翌日に僕が振るなんて、どうしても比較されてしまうじゃないの」とぼやきまくっていて、それに対し私が何だか奇妙な激励をしたことも、鮮明な記憶となっている。

 そのマエストロ小泉の指揮。今日のブラームスの、特に「第1番」の第1楽章などは、彼のその芸風がベストな形で顕れた一例ではなかったか。低音に重心が置かれた音響構築、密度の高い厚みのある響き、霧のような陰翳を伴った音、「ソステヌート」というスコアの指定に従って音符の長さを充分に保った演奏など、所謂伝統的なブラームスのスタイルを打ち出した指揮には、ある種の説得力がある。全く衒いのない、ストレートで率直なブラームスだ。こういう指揮は、彼は実にうまい。
 手練手管の解釈を織り込んだブラームス演奏も少なくない当節、このような飾り気のないブラームスを、自信満々守り抜いている指揮者の存在は貴重である。

 名古屋フィルも、この重厚壮大なブラームスを見事に再現した。このオケも、初めて聴いてから49年になるか。1972年の4月だったか、時の常任指揮者・福村芳一に率いられての初の東京公演をやはりFMで放送したが、あの時もブラームス(第2交響曲)だったような。しかし今はもう、演奏のスケール感が全然違う。

2021・3・13(土)山田和樹指揮読売日本交響楽団&清水和音

       東京芸術劇場 コンサートホール  2時

 「土曜マチネーシリーズ」で、コープランドの「エル・サロン・メヒコ」、ガーシュウィンの「へ調のピアノ協奏曲」(ソロは清水和音)、ヴィラ=ロボスの「ブラジル風バッハ第9番」、レスピーギの交響詩「ローマの松」。コンサートマスターは長原幸太。

 去る9日の演奏会と同様、賑やかな曲が多く、山田和樹も読響を存分に鳴らしたが、今日はオーケストラの響きもまとまっていて、壮麗感があふれていた。打楽器が必要以上に自己を主張しすぎることもなくて聴きやすかったが、これはあるいはホールの空間の巨大さが好ましく作用していた故かもしれない。
 「ローマの松」のクライマックスでの壮大な音響など、この会場だったからこそ生きたと思われる。この「アッピア街道の松」におけるバンダは、客席ではなくステージ上に分散して配置されていたが、それは聴衆にとっても実に有難いことであった。

 一方、今日のプログラム中、唯一の弦楽合奏のみによる作品として、起承転結の役割を効果的に担っていた「ブラジル風バッハ」は、それでもかなり強靭な音で演奏されたが、ここでは読響の弦がブリリアントな表情をつくり出していた。

 前半の2曲のアメリカ作品━━「エル・サロン・メヒコ」の色彩感もいい。また小耳に挟んだところでは、清水和音は今回がこの「へ調のピアノ協奏曲」への最初の挑戦だった由。シリアスなスタイルだったが、それはそれでひとつの考え方であろう。

2021・3・12(金)辻彩奈ヴァイオリン・リサイタル

     紀尾井ホール  7時

 阪田知樹のピアノとの協演で、前半にモーツァルトの「ソナタ変ホ長調K.380」とベートーヴェンの「ソナタ第7番ハ短調作品30の2」。後半は最初に権代敦彦の「Post Festum~ソロ・ヴァイオリンのための 作品172」がソロで演奏され、その後再び阪田とのデュオによるフランクの「ソナタ」で結ばれた。
 アンコールはサティの「偽善者のコラール」とパラディスの「シチリアーノ」。

 阪田知樹のピアノが━━もちろんフタを開いた状態で━━すこぶる宏大な音量で響き渡るので、少なくとも2階正面で聴いている範囲では時にヴァイオリンがマスクされてしまう傾向もあったが、デュオとしての音楽の多彩さという点では、充分なものがある。
 とりわけフランクのソナタは圧巻で、今日は流麗さがひときわ目立っていた彼女の主張の明確なソロと、その背景に大海の如く拡がる阪田の雄弁なピアノとが、絶妙な世界をつくり上げていた。力まず、熱演型に陥らず、しかも流れるように伸びやかに歌い上げる辻彩奈のソロは、この若さ(1997年生れ)とは思えないほどの落ち着きを感じさせる。

 無伴奏で演奏された権代敦彦の「Post Festum」は、作曲者自身のProgram Noteによれば(「祭の後」という意味だとかで、小品3つからなり、元来はそれぞれアンコールとしても演奏できる仕組みの由。例えばシベリウスやチャイコフスキー、ブラームスなどの協奏曲を弾いた後にこの何曲目を━━といったジョーク交じりの解説がついているのも面白い。
 今日はその3曲がまとめて演奏されたが、多様な奏法を駆使して多彩な音の変化を繰り広げるさまが実にスリリングな緊迫感を生み出していて、面白かった。辻彩奈が委嘱した曲だっただけに、すべて暗譜で演奏していたのは流石である。

2021・3・11(木)新国立劇場「ヴァルキューレ」初日

       新国立劇場オペラパレス  4時30分

 ゲッツ・フリードリヒ演出、飯守泰次郎の指揮で制作された新国立劇場の2つめの「ニーベルングの指環」(ヘルシンキ国立歌劇場のプロダクション)からの単独上演。この「ヴァルキューレ」は2016年10月2日にプレミエされたものだ。

 今回の再演でも飯守泰次郎の指揮が予定されていたが、病み上がりのため長時間の指揮が不可能となり降板、またアイン・アンガー、イレーネ・テオリン、エギルス・シリンスら外人勢主役陣もコロナ禍による入国制限のため来日不可となった。
 とはいえ、指揮には新国立劇場オペラ部門芸術監督・大野和士が直々に出馬し(最終回/5日目のみは城谷正博が指揮)、ヴォータン役にはミヒャエル・クプファー=ラデツキーを迎え、ブリュンヒルデには池田香織、ジークリンデには小林厚子を起用して、しかもフリッカ役の藤村実穂子は予定通り━━という布陣で切り抜けられたことは幸いである。

 唯一、ジークムントのみは代役がなかなか決まらず、10日ほど前になって、第1幕が村上敏明、第2幕が秋谷直之という変則的な分担で歌われることになった。これが今回の歌手陣の唯一の問題点だったが、馬力のある福井敬がびわ湖ホールでローエングリンを歌ったばかりだし、日本にはヘルデン・テナーあるいはテノール・ドラマティコが少ないという現状を物語るものとして、当面は仕方がないのかもしれぬ。

 大野和士が指揮するワーグナーを聴く機会はめったにない。全曲上演では新国立劇場での「トリスタン」(→2010年12月25日、東京フィル)、抜粋では「ヴァルキューレ」第1幕を含む名曲もの(→2013年6月27日、九州響)などがその希少な例で、それだけに貴重な機会だったわけだ。
 だが今回の東京交響楽団を指揮した「ヴァルキューレ」は、それらいずれの演奏ともスタイルが異なっていて、驚いた。ティンパニをはじめ、総じて叩きつけるようなフォルティッシモが目立ち、この作品に特有な壮大感と叙情性の融合よりも、むしろデュナーミクの対比の構築に重点を置いたような演奏に思えたのである。

 それを筋肉質の演奏というには、オーケストラの響きがあまりに乾いていて、しかも重量感の皆無な薄い音に過ぎた。「ヴァルキューレの騎行」など、何かオーケストラがやけっぱちに喚いているようで、どうにも騒々しい。最強奏の中で、重要なライト・モティーフが埋もれてしまった例もいくつか聴かれた。
 せめて膨らみと詩情と潤いがあれば、もう少し「ヴァルキューレ」の音楽の美しさを味わえたろうに、と思う。ただ、最大の長所は、全曲にわたって弛緩したところが一つもなかったことだろう。

 歌手陣でいえば、長身で見栄えのするクプファー=ラデツキーは、ヴォータンとしては細身で神経質な神というイメージだが、最善を尽くしていたのだろうし、悪くない。
 藤村実穂子は、短い出番ながら滋味ある歌唱で、かつてバイロイトの常連だったころに比べ声は少し軽くなったかもしれないが、正論を貫く女神フリッカとしての貫禄を充分に発揮してくれた。彼女の存在が、今回の再演の舞台を引き締めていたことは誰しもが認めるところであろう。

 ブリュンヒルデを歌い演じた池田香織は今回も絶好調で、ヴォータンの「愛する娘」としての性格を見事に表現した。今やわが国の貴重なワグネリアン・ソプラノとしての存在になっていることは間違いない。
 ジークリンデの小林厚子は幕を追うに従って調子を上げ、第3幕での悲劇の母としての女性を熱唱した。
 フンディングの長谷川顯は、こういう役はもともと巧い。ただし衣装と演技の所為もあってか、何となく農夫然として見えるのは、この役柄とは些か解釈を異にするのではないか。

 問題のジークムントだが、村上敏明はかなりプロンプター(彼の時だけその声がやたら大きく聞こえた)に助けられていたようだが、肝心の「ヴェルゼ!」で声がぐらついたことを除けば、よく切り抜けたと思う。この一連の公演を通じて、新しいものをつかんで欲しいものである。秋谷直之も同様、最初はイタリア・オペラ的な声と身振りが気になったが、声には張りがあるから、頑張ってもらいたい。

 ヴァルキューレたちは佐藤路子、増田のり子、増田弥生、中島郁子、平井香織、小泉詠子、金子美香、田村由貴枝という顔ぶれだが、こちらはちょっと━━オーケストラの咆哮に煽られたか、かなり慌ただしい(もともとそういう役柄だったとしてもだ)歌と動きのままで終ってしまった印象もある。

 舞台は、前回観た時にはあまり印象に残らなかったのだが、今回の再演をじっくり観てみると、結構よく出来ているではないか、という感がする。第2幕決闘の場面で舞台装置が一回転する趣向、「魔の炎」の中途半端な拡がり方、前回はどうだったっけか? 

 それよりも今回は、演技が結構細かく設定されているな、ということに気がついた。ジークムントが斃れた後にヴォータンが歩み寄って彼を抱き、悲嘆にくれるという演出は、私は気に入っている。ブリュンヒルデの処罰について、ヴァルキューレたちが父ヴォータンに異議を申し立てようとする身振りを盛んに示していた解釈も面白い。
 ただし衣装のうち、第1幕のジークリンデがドイツ料理店のおばさんのよう、ブリュンヒルデの服装が空手の試合着のようで、あまり神話ドラマ的な趣味とは思えなかったことは、前回に同じ。

 休憩時間は40分と35分で、終演は9時50分頃。総計5時間20分の長丁場の上にスナック・カウンターも閉じられているので、「水と非常食」は各自携帯していた方が無難だろう。最初の休憩時間には(チャイコフスキーのバイロイト訪問記での表現を借りれば)「観客は大波のように」劇場外へと流れ出て、コンビニなどそれぞれの場所へ何がしかの調達に向かっていた。当節、こういう長いオペラを観る時には、こちらも装備が必要だ。

2021・3・9(火)山田和樹指揮読売日本交響楽団

       サントリーホール  7時

 リストの交響詩「前奏曲」、R・シュトラウスの交響詩「死と変容」、ニールセンの「交響曲第4番《不滅》」というプログラム。コンサートマスターは小森谷巧。

 先週の定期と違い、こちらは「名曲シリーズ」だが、選曲が面白い。
 つまり、ラ・マルティーヌの「人生は死によりその厳粛な第一音を奏でられる未知への前奏曲にあらずして何ぞ」という詩に基づく「前奏曲」のあとに、大正時代には「死と成仏」とまで訳されたことのある「死と変容」(「死と浄化」)が続き、そして「不滅」で終るという━━何か三題話みたいなこの配列。
 ヤマカズさんのアイディアか、事務局のアイディアなのか、詳しいことは知らないけれども、読響のプログラムには時々こうした洒落っ気がみられる。

 オーケストラをフルに鳴らした山田和樹の指揮は、この上なくエネルギッシュで、コロナ禍による沈滞ムードを吹き飛ばすような勢いだ。もちろんその一方、「前奏曲」や「死と変容」での緩徐個所におけるように、美しく歌い上げる叙情性も発揮されている。そのあたりの山田和樹の音楽構築は優れたものだ。

 敢えて難を言えば、3曲とも、最強奏の個所でのオーケストラの音は、もう少し綺麗にならないだろうか? 
 それにまた、打楽器群が鳴り過ぎだ。「前奏曲」の後半の打楽器群の騒々しい打撃音は、オーケストラとはかなり乖離した存在になっていた。「不滅」でステージ上手と下手に位置したティンパニも、いくら聴かせどころとはいえ、ただ怒号すればいいというものでもなかろう。それらは存在感を主張しつつも、あくまで「オーケストラの中から湧き上がって来る」ものでなければなるまい。それにこのニールセンの音楽は、各声部が明晰に交錯し、あるいは重なり合って響いて来ないと、その北欧的な、白夜的な雰囲気はよく伝わらないだろう。

 だが、この「不滅」がティンパニ群の大暴れで終結した時には、ホール内は久しぶりに素晴らしい拍手に包まれた。ブラヴォーの発声が飛沫感染防止のため禁止されていなければ、さぞや賑やかなことになっていたろう。
 ヤマカズ氏のカーテンコール時の動きはもともと陽気だが、今日は最後にいきなり指揮台に飛び上がり、「不滅」に引っ掛けて、かの長嶋茂雄選手の引退スピーチにおける有名なセリフを「わが読売日本交響楽団」に置き換えた挨拶を一言。場内を大爆笑させてお開きとした。明るい。

2021・3・7(日)びわ湖ホールの「ローエングリン」2日目

      滋賀県立芸術劇場 びわ湖ホール  2時

 2日目になると、京都市響の音にもいっそうの膨らみ、密度の濃さ、といったものが出て来る。第1幕前奏曲からそれは目覚ましく、その頂点の個所は、昨日の演奏におけるよりも、はるかに輝かしかった。

 だが昨日よりオーケストラの鳴りがよくなっただけ、舞台奥の合唱団(びわ湖ホール声楽アンサンブル)は分が悪くなる。全員がマスクをしている所為もあり、男声合唱の人数も30人そこそこだから、これでザクセン軍とブラバント軍の連合軍を形成するのは少々苦しかろう。最善を尽くしていたことは確かだが、群集の量感という点では如何ともし難いものがあった。
 ただ、女声合唱のパートはもともと抒情的な要素が強いから、たとえば結婚行進曲のような個所では最良の歌を聴かせていた。

 ソロ歌手陣の今日の配役は、小原啓楼(ローエングリン)、木下美穂子(エルザ)、黒田博(フリードリヒ・フォン・テルラムント)、八木寿子(オルトルート)、斉木健司(ドイツ王ハインリヒ)、大西宇宙(布告官)、ほか。
 昨日の組とは歌も演技もかなり異なるので、それがなかなか面白い。

 エルザの木下美穂子は終始伸びのある美しい声で、率直な性格の公女といったエルザを描き出した。オルトルートの八木寿子も、あまり悪女的な雰囲気ではないものの、「2人の女の対決」シーンを含め、ここぞという個所で敵役としての迫力を発揮した。
 フリードリヒの黒田博は力のこもった歌唱と演技で、所謂悪役ではない、それなりの信念を持った告発者、といった感の堂々たる存在感である。
 ハインリヒ役の斉木健司は、声が若々しいので、壮年のドイツ王ともいうべき雰囲気だろう。布告官は昨日と同じ大西宇宙だが、同じ快調な歌唱ながら、今日の方が若干ニュアンスの変化を感じさせたと思われる。

 小原啓楼のローエングリンはかなり風変わりで、音楽の上でも演技の上でも昨日の福井敬とは対極の存在というべく、終始打ち沈んだ雰囲気の、寡黙で内向的な白鳥の騎士━━といったイメージを受ける。粘着的な歌い方に加え、ソットヴォーチェを多用するので、声が聞こえなくなることも屡々であった。これほど昂揚感を否定したようなローエングリン表現は、これまで聴いたことがない。彼は、3年前の東京二期会での上演(→2018年2月25日)の時にはそんな歌い方をしていなかったはずだが…。
 そのため、ドラマとしての緊張感が失われる傾向もあり、これは沼尻竜典の採る遅めの━━いや、総じて遅すぎる印象もあった━━テンポにより、いっそう助長された感がある。

 なお、第2幕最後の個所と、第3幕の場面転換の個所における金管のバンダは、客席最前方の上手側と下手側に配置され、これはステージ上のオーケストラと適切なバランス感を出して、成功していた。

 演技は、明らかに昨日の組の方が細かく、観客にも解り易かった。もともと象徴的なものにとどめられていたから、特にあれこれ言っても始まらないだろうが、せっかくのセミ・ステージゆえに、今日のそれについて少々言わせてもらえば━━
 ハインリヒ王は、ローエングリンとテルラムントとの決闘開始の合図を明確に行なうべきだろう、昨日の妻屋秀和のように。
 ローエングリンは、第3幕でフリードリヒを斃す瞬間には、やはりもっと解り易い身振りをするべきだろう、昨日の福井敬が剣を突き出すジェスチュアをしたように。

 第2幕の最後、「禁問の動機」が轟く個所では、やはりト書きにあるように、オルトルートは威嚇的な身振りをし、エルザも振り向いて慄く表情をするべきではないのか。これは昨日の組にも言えたことで、演出家の問題だ。
 ただ今日は、彼女への威嚇的な身振りをしたのがオルトルートでなく、テルラムントだったのは、黒田さんの自主的なアイディアだろうか。これはワーグナーの初期のアイディアに近い方法なので、ある意味では興味深い。

 終演は6時35分。目出度く完結した今年のびわ湖ホールのワーグナー、祝着である。音楽の面における沼尻竜典・芸術監督の手腕を讃えたい。来年は「パルジファル」だそうである。

2021・3・6(土)ワーグナー:「ローエングリン」セミ・ステージ形式上演

      滋賀県立芸術劇場 びわ湖ホール  2時

 あの画期的なオペラ生中継オンライン配信で話題を集めた「神々の黄昏」からもう1年経ってしまったのかと、過ぎ去り行く時のあまりの速さに感無量。
 今年は無観客ではなく、正常の形を採った上演となり━━入り口では検温や手指消毒などを義務づけてはいるものの━━クロークも付属レストランも開業しており、ホワイエでは人々が賑やかに懇談している。東京では半ば忘れ去られたような光景が、こちらでは未だ日常なのが羨ましい。感染者の非常に少ない滋賀県ならではの情景だろう。

 その恒例のワーグナー・シリーズは、今年は「ローエングリン」。ただしコロナ禍の状況を慮り、舞台上演でなく、セミ・ステージ形式上演が採られた。
 ピット内の配置とほぼ同じ型の並び方をしたオーケストラがステージ上に、その後方の少し高い場所に合唱団が位置、ステージ前方に設けられた多少の段差を備えた簡素な舞台に歌手陣。演技はごく象徴的な形のみにとどめられている。
 背景いっぱいのスクリーンに、白鳥をイメージした映像だけでなく、湖、城、槍を持った兵士の軍団などリアルな映像も投映され、それらは開閉される黒いカーテンによりアクセントが施される。このステージングは粟國淳の担当によるものであった。

 演奏はいつものように京都市交響楽団、指揮はびわ湖ホール芸術監督・沼尻竜典。2回公演の初日の今日の配役は次の通り━━福井敬(ローエングリン)、森谷真理(エルザ)、小森輝彦(フリードリヒ・フォン・テルラムント)、谷口睦美(オルトルート)、妻屋秀和(ドイツ王ハインリヒ)、大西宇宙(王の布告官)他。

 総括的に言えば、極めてよくまとまった上演であったと言えよう。沼尻は今回、ノーカット上演を目指した。もちろんローエングリンの名乗りの場面「遥かな国に」の第2段まで復活させたわけではないけれども、一般にカットが慣習となっている第2幕のブラバント人たちの合唱の一部も、第3幕のエルザの「おお、大地が揺れる」から一同の「白鳥だ!」に至る間の長いアンサンブルも、すべてノーカットで演奏した。この姿勢を、まずは讃えておきたい。
 そしてまた沼尻は、基本的にやや遅めのテンポを採っていて、それは時に慎重すぎるような感も与えたが、最も核心的なドラマたる第2幕では、前半の陰謀の夜の場面の重苦しさを後半の対決の場面で解放するといった音楽上の設計をも示して、大河のような演奏を展開した。

 京都市響の演奏も例年通りに安定している。「ローエングリン」のオーケストラ・パートには、昨年までの「指環」のような桁外れの雄弁さはないので、前奏曲以外には所謂聴かせどころといった要素に乏しいが、これだけオペラを安心して聴かせる管弦楽団は、日本では東の読響と、西のこの京響くらいなものであろう。

 歌手陣。題名役の福井敬は、「白鳥の騎士」にしては些か激情的に過ぎたようにも感じられたものの、本来このローエングリンというキャラクターには、音楽にも歌詞にも、非常に高圧的で横柄な性格が備わっているので、その面を強調して歌い演じたとみてもいいだろう。とにかく、あの強烈なパワーは相変わらず立派なものである。
 小森輝彦は少し声が荒れ気味ながら、前半での悪役的な表現を、「正義の自信」を回復した第2幕後半で大転換するといった感の歌唱で巧みさを発揮。

 森谷真理と谷口睦美は第2幕後半、ゲルマン神話に謂う「2人の女の争い」の場面で、見事な対決を聴かせた。森谷は3つの幕でエルザの感情の変化を描き分け、特に第3幕で本領を発揮、実に情感豊かな歌唱を披露してくれた。谷口も聴かせどころの第2幕で前述のとおり活躍したが、欲を言えばゲルマンの神に祈る悪魔的な部分と、その前後のエルザに対する偽善的な丁寧さとの対比をもう少し明確に出していてくれたらと思う。ラストシーンでローエングリンを罵倒する大見得場面も充分。

 その他の主役、妻屋秀和と大西宇宙は文句なし。布告官はもともと儲け役だが、それでもこれだけ朗々と歌ってくれれば聴衆の大拍手を集めるのも当然だろう。

 第2幕冒頭で、宮殿内から聞こえる祝宴のファンファーレは録音された演奏のPAによる再生だったようだが、1回目はちゃんと出たものの、2回目は音が出ず、長い長い無音の時間を生んでしまったのは、まさに大事故だ。明日はちゃんとミスなく再生してもらいたいものである。
 25分の休憩2回を含み、終演は6時半頃。

2021・3・4(木)山田和樹指揮読売日本交響楽団 

     サントリーホール  7時

 首席客演指揮者・山田和樹は、今月は読響との演奏会で3種のプログラムを指揮するが、いずれも比較的珍しい曲を取り上げている。もちろん名曲も含まれているものの、それもふだんあまり演奏されない作品である。
 今日は定期演奏会だから、プログラムは最もユニークだ。曰く、ウェーベルンの「パッサカリア」、別宮貞雄の「ヴィオラ協奏曲」(ソリストは読響の鈴木康浩)、グラズノフの「交響曲第5番」。どれも極めて濃密な演奏であった。コンサートマスターは長原幸太。

 「パッサカリア」は、ウェーベルンの作品の中でもまだあまり先鋭的でなかった作風の時代のもので、むしろ際立つのはオーケストラの色彩感だ。山田和樹のオーケストラの鳴らし方が実に「解り易い」ので、愉しめる。
 一つだけ希望を出すとすれば、冒頭のパッサカリアの主題を、もう少し明確に聴かせておいてもらいたかった、ということ。その基本主題を常に自分の頭の中で鳴らしつつオーケストラの演奏を聴く方が、私にとっては面白いからである。

 別宮貞雄の「ヴィオラ協奏曲」は、私にはある意味で衝撃的だ。自分の手帳を引っ張り出して見ると、どうもこの曲の公開初演の時の演奏会を聴きに行っていたらしいのだが、何一つ記憶が残っていないのである。それはもちろん、当時の私の理解力がお粗末だった所為もあるだろう。

 だがこれは当時の邦人の作品についても一般的に言えると思うのだが、当時の重い、色彩感も希薄気味のオーケストラの演奏で聴くのと、表現力も遥かに向上している現代の日本のオーケストラの演奏で聴くのとでは、随分異なった受容の仕方になるのではないか、ということだ。当時はごく限られた専門的な聴衆にしか受け入れられなかった邦人作品も、現代の活気に彩られた指揮者とオーケストラによって再現されると、はるかに多くの支持者を集めるのでないかという気がする。
 近年、そうした例にいくつか遭遇して、当時の日本の作曲家は凄いものを書いていたのだな、と思わされることが多い。その意味からも、初演以来「日の当たらなかった」日本の昔の作品を今また取り上げることは、大いに意義あることのように思う。

 今日の山田和樹と鈴木康浩と読響によるこの曲も然り。精緻な音色の交錯、強靭な音のヴィオラ・ソロと透明清澄な響きのオーケストラとの対比、フランス仕込みの音と日本の音との妙なる調和あるいはせめぎ合い━━何だか変な表現だが、要するにそういう特徴が、今日の演奏からは実にリアルに伝わって来たのだ。お客さんの拍手が驚くほど熱烈で、しかも長く続いていたのも、決して儀礼的なものとは思えない。今回は嬉しい機会を得たものである。

 この別宮貞雄の曲から、イメージから言えば水と油の感もなくはないロシアの作曲家グラズノフの「第5交響曲」に、全く違和感なく入って行けたのは不思議だが、それはこの「5番」が、ロシア民謡調の曲想も含まれていながら何故かあまり土臭くない性格を備えているためもあろう。とはいえそれは、ヤマカズと読響が、敢えてロシア色とは遠い音でこの曲を響かせた所為もあるかもしれない。もしラザレフが指揮していたら、もっと異なる効果を生んでいただろう。
 いずれにせよ、いい曲だが、ヘンな曲でもある。第4楽章後半から終結にかけての個所など、その最たるもので、聴いていると吹き出したくなる。

2021・3・3(水)大阪4オケ「4オケの4大シンフォニー2020」

      フェスティバルホール  2時

 恒例の「大阪4オケ」。これは昨年春に行われるはずの「ベートーヴェン生誕250年」演奏会だったが、コロナ禍のため延期されていたもの。プログラムは、
井上道義指揮大阪フィルハーモニー交響楽団が「第3番《英雄》」
藤岡幸夫指揮関西フィルハーモニー管弦楽団が「第5番《運命》」
 20分の休憩を挟み、
飯森範親指揮日本センチュリー交響楽団が「第6番《田園》」
外山雄三指揮大阪交響楽団が「第7番」

 全てベートーヴェンだ。
 2015年の「第1回」に際し、当時大フィル首席指揮者だった井上がブラームスの交響曲をそれぞれ1曲ずつ順にやろうという案を出したところ、藤岡と飯森が「そんなの絶対嫌だ」と言って、4楽団ともそれぞれ聴衆をワッと沸かせる得意の曲目を出し合うプログラムになったという話が当日のアフタートークでバラされたものだが、今回はどうやら、その井上案に似たコンセプトに戻ったかのようである。

 先陣を切った大阪フィルは、その井上道義が指揮。今日はいつも以上に獅子奮迅の指揮で、彼としては、本当はもっと豪放磊落な「英雄」をやりたかったのだろうが、尾高忠明・現音楽監督のもとで整備された今の大阪フィルはやはり昔とは違うのだろう、あくまで生真面目に応えていて、第1楽章最後の昂揚個所では井上がオケの中まで前進してトランペットを煽っていたにもかかわらず、さっぱり音が来ず、あの第1主題が際立たない、ということまであった。まさか原典版以外の譜面で吹いたことがない、というわけでもないだろうに。大阪随一の規模を誇る老舗オケにしては、これは良し悪しだろう。
 しかし他方、極めて遅いテンポが採られた第2楽章はまさに「葬送行進曲」に相応しい演奏で、充実感があった(アフタートークで井上サンは、昨年の丁度この日に長逝した大阪国際フェスティバルの元総帥、村山美知子氏のことに触れていたが、この第2楽章の思い入れの強い演奏は、それと関連があるのか?)。

 この大フィルは弦16型の大編成で威容を誇示したが、次に登場した藤岡幸夫と関西フィルは弦14型編成。だが気合の入りようは大フィルを凌ぎ、日本のオケとしては珍しいほど激烈壮大な「運命」を演奏した。第2楽章は引き締まって立派だったし、第4楽章展開部の最後に全管弦楽が崩れ落ちて行く個所など轟然たる凄まじさで、息を呑ませた。コーダでプレストに転じた時のテンポ感の明晰さも見事なもの。この日一番の爆演と言えたであろう。

 休憩後の日本センチュリー響は、意表をついて弦10型による「田園」。このピリオド・スタイルによるベートーヴェンは、今日の4オケの中で個性を際立たせるには絶好の方法だと思われたし、4人の指揮者の中で飯森範親の得意業を示す上でも巧みなアイディアだと思われた。小編成のすっきりした響きの演奏からは、第1部での二つの猛烈巨大型の演奏の後では、清涼な感さえ与えられる。第1楽章展開部の、主題のモティーフが反復される個所での転調の扱い方もいい。嵐の楽章もなかなかのリアル感だったが、ただ、第2楽章の弦の音色には、私としては些か抵抗感がある。
 飯森サンは、ピッコロ、トランペット、トロンボーン、ティンパニの各奏者を第3楽章トリオの個所で入場させたが、これはもともと井上サンがやっているスタイルなのだとのこと。演出としては、あまりサマにならないように思われるが如何。マーラーの「第4交響曲」第3楽章で、大爆発の瞬間にソプラノ歌手を入場させるのとは少し雰囲気が違う。

 大トリは弦14型編成の大阪響と、その名誉指揮者となった大ベテラン、外山雄三の指揮だ。この5月で90歳になろうという外山さんなのに、その元気さは驚くべきものである。ステージ上の毅然とした挙止も、アフタートークでの歯切れのいい話ぶりも、少しも変わっていない。彼が指揮した「7番」は、どちらかと言えば悠然たる風格のものだが、それでも第4楽章での昂揚感は見事なもので、ここぞという個所では堂々と音楽を決めるその気魄、その構築力、そのカリスマぶりは尊敬に値しよう。
 ただしオーケストラは、金管群の不安定さが目立ち、指揮者の遅いテンポを保ち切れぬ個所も散見して、いい状態にあったとは言い難い。とはいうものの、その量感ある演奏は、聴き終わった後の印象を鮮やかにさせる。

 というわけで、4指揮者4オケの演奏の気合の入りようは並々ならず、かつ作品の密度の濃さも尋常ではないから、些か疲れたのは事実。最後に各オケの演奏会招待の抽選会が賑やかに行われ、終演は6時少し過ぎとなった。お客さんの入りは素晴らしい。
 今年「2021の4オケ」は4月17日に開催される。また行ってみようかと思っている。

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