2021-04




2021・1・30(土)広上淳一指揮新日本フィルハーモニー交響楽団

      サントリーホール  2時

 朝のうちに大阪から帰京し、午後は広上淳一と新日本フィルのコンビを、久しぶりに聴きに行く。
 スメタナの「売られた花嫁」序曲、パガニーニの「ヴァイオリン協奏曲第1番」(ソリストは吉村妃鞠)、ドヴォルジャークの「交響曲第8番」が演奏された。コンサートマスターは西江辰郎。

 序曲での演奏が、広上の指揮とは思えぬほど響きが硬く粗く、すべての楽器が団子状態になってしまって、強奏個所では内声部の動きさえ定かでなくなるような状態だったのには唖然とさせられた。オーケストラ・ビルダーとしても近年実績のある広上でさえ手の付けられないほど新日本フィルはこんなに荒れてしまっているのか、と、いたたまれぬような思いになったのは事実である。

 だが幸いなことに、コンチェルトを過ぎた後、「第8交響曲」の第1楽章後半あたりから弦がふくよかな音で鳴り出し、管とのバランスを回復したのをきっかけに、みるみる音が変わりはじめた。
 第2楽章からは、まるで別のオーケストラになったかと思われるほどに音色が瑞々しくなり、音楽全体があたたかみを取り戻して行ったのである。第4楽章は立派な演奏で結ばれた。

 こうなると、さっきの序曲や協奏曲での演奏は何だったのか、いやそれより、この演奏会の前までの新日本フィルはどういう活動をしていたのか、と問いたくもなるのだが、私がどうのこうの言ったところで何にもならない。とにかく、さすがは広上、と思い、新日本フィルもやる気になりさえすればまだ大丈夫だ、とも思い、━━終り良ければ総て良し、とばかり、盛大な拍手を送った次第である。

 なお、パガニーニの協奏曲を演奏した吉村妃鞠(ひまり)は、2011年生れの何と9歳の愛くるしい少女だが、すでにグリュミオー国際コンクールをはじめ内外のコンクールを総なめにし、あちこちのオーケストラとの協演のキャリアを積んだ驚くべき才能の持主である。その少女が、パガニーニの超絶技巧のコンチェルトを縦横無尽に弾く。もちろん、その音楽は熟練したおとなのそれとは違うけれども、この勢いでの大成を期待しよう。

2021・1・29(金)エリアフ・インバル指揮大阪フィル

       フェスティバルホール  7時

 エリアフ・インバルと大阪フィルハーモニー交響楽団の演奏を聴くのは、これが3度目になる。前回は2017年7月28日のマーラー「6番」、前々回は2016年9月28日のマーラー「5番」他であった。

 回を重ねるごとに、演奏が素晴らしくなる。今回のプログラム━━プロコフィエフの「古典交響曲」とショスタコーヴィチの「交響曲第10番」での演奏は、私がこれまで聴いた大阪フィルの演奏の中でも、屈指の水準のものだったと言ってもいいように思う。

 「古典交響曲」は弦12型、「10番」は弦16型の大編成による演奏。いずれもインバル特有の揺るぎなく引き締まった構築性、力のあるリズム(ティンパニの切れが実に良い)に支えられた豊かな律動感、豪壮雄大なスケール感などに満ちた、緊迫度の高い音楽にあふれていた。音楽監督・尾高忠明によって整備された最近の大阪フィルが、優れた客演指揮者のもとで聴かせる見事な演奏の一例とも言えるだろう。

 「古典交響曲」は、やや遅めのテンポで、急がず騒がず、堂々たる風格を保ちつつ構築されていた。プロコフィエフのユーモアもアイロニーも、若き日の彼の見栄のようなものもすべて気にせず呑み込んで、大規模なシンフォニーに仕上げた━━という感を与える演奏である。ティンパニの鋭い打ち込みが生み出す迫力も目覚ましく、全曲の最後が「叩きつける和音」の反復であるということを見事に浮き彫りにした演奏でもあった。

 更に見事だったのは、ショスタコーヴィチの「第10交響曲」での演奏だ。長い第1楽章でも緊迫感を失わせることはない。第2楽章では破壊的な激しさで突き進むにもかかわらず、オーケストラには完璧なほどの均衡を保たせる。第3楽章ではホルン・ソロが安定して際立ち、重要な「エルミーラの主題」の意味を明確にしていたし、終楽章では作曲者自身のモノグラム(D-Es-C-H)で音楽を一転させる個所へのアッチェルランドの巧妙さも強い印象を残した。全曲大詰におけるモノグラムでの大暴れも、ティンパニの歯切れよさでいっそう映えたという感がある。

 インバルの指揮は、かように卓越したものだった。これは、この「10番」が、ショスタコーヴィチの15の交響曲の中で「4番」「8番」に次ぐ傑作であることを証明する演奏でもあったのである。
 それにしても、大阪フィルの最近のパワーは刮目すべきものがある。もはや昔のような「野武士」ではない、わが国オーケストラ界のリーダーシップを執る楽団の一つになった、と言ってもいいだろう。
 コンサートマスターは崔文洙。

2021・1・23(土)飯守泰次郎指揮関西フィル ワーグナー特別演奏会

       ザ・シンフォニーホール  4時

 第1部に「タンホイザー」からの「序曲」と「歌の殿堂」と「夕星の歌」、および「トリスタンとイゾルデ」からの「前奏曲と愛の死」を置き、第2部に「ヴァルキューレ」からの「ヴァルキューレの騎行」と「ヴォータンの告別と魔の炎の音楽」、および「神々の黄昏」から「ジークフリートの葬送行進曲」と「ブリュンヒルデの自己犠牲」を置いたプログラム。
 ソプラノの池田香織と、バリトンのミヒャエル・クプファー=ラデツキーが協演した。

 これは「第58回大阪国際フェスティバル2020」と「関西フィル創立50周年記念」の演奏会で、昨年5月30日にフェスティバルホールで開催されるはずだった企画である。プログラムも当初の予定では「《ニーベルングの指環》抜粋」だったのだが、延期開催に際し、歌手陣ともども、大きく変更されたものだ。

 だが、今日の演奏は、特筆すべき出来だったと私は思う。一時は来日不可能とされたクプファー=ラデツキーが━━この人、私はあまりよく記憶していなかったのだが、先年の新国立劇場での「フィデリオ」で悪役ドン・ピツァロを歌った人だった━━安定した手堅いヴォータンを聴かせてくれた。そして絶好調の池田香織が歌うイゾルデとブリュンヒルデが、これまた温かいヒューマンな性格を湛えた表現で、実に素晴らしい。

 そして絶賛すべきは、飯守泰次郎の情感豊かな指揮表現と、関西フィルハーモニー管弦楽団の大熱演だ。
 「タンホイザー」序曲の大詰めの昂揚感からして、今日の演奏はリキが入っているなと思わせたが、第2部に入ってからはそれがますます目覚ましく、4曲ともに濃密な演奏を繰り広げた。特に「ジークフリートの葬送行進曲」は、(ほんの1ヵ所だけを除けば)私が国内で聴いた演奏の中でも一、二を争う演奏だったと言ってもいいほどである。頂点での最強奏個所での気魄など、凄まじいものがあった。
 ただ、お客さんの拍手は不思議なことに、歌手の出る曲の方に集中している。この「葬送行進曲」のあとなどでは、戸惑いがちな短い拍手しか起こらなかったのは残念である。

 以前だったら東京からもワーグナー愛好家たちがたくさん押し掛けたろうが、こういう時世ゆえ、それも成らなかったようだ。だがとにかく、この企画が、規模を縮小したとはいえ、高い水準の演奏で実現できたのを慶ぶべきであろう。

 終演後、明日のびわ湖ホールで担当する「ローエングリン」入門講座第3回(ライトモティーフ解説)に備え、タクシーで新大阪へ向かい、JR新快速で大津へ直行。琵琶湖ホテルに投宿。

2021・1・22(金)アンドレア・バッティストーニ指揮東京フィル

       サントリーホール  7時

 ラヴェルの「ダフニスとクロエ」の第1組曲と第2組曲、ストラヴィンスキーの「火の鳥」組曲━━この3つを休憩なしで演奏し、「外出自粛目途時刻」なる8時までに終らせようというプログラムの1月定期。「火の鳥」の前にステージ・セット替えのため数分間の待ち時間を要したけれども、とにかく8時少し過ぎに終演とはなった。

 このような華麗な管弦楽法の作品を続けざまに演奏するのはオーケストラにとっても楽ではなかったろうが、バッティストーニの獅子奮迅の指揮と、東京フィルの久しぶりの熱演は、このコンビらしい沸騰する音楽をつくり上げ、客席を沸かせた。「第1組曲」においてのみ、金管の一部に物足りないところも残したものの、これだけの色彩感にあふれた演奏を聴けたのは、この時節、有難いことではある。

 プログラミングとしても、ほぼ同時代の作品━━「ダフニス」は1910~1912年の作曲、「火の鳥」は原典版が1910年の作曲ながら管弦楽編成改訂組曲版は1919年の編━━を並べた選曲センスがいい。
 ただ、私の好みから言えば、こう並べられると、ストラヴィンスキーの新古典主義作風への転換を反映した組曲版のオーケストレーションは、ラヴェルの華麗無比のそれに対して、些か味気ないものに感じられてしまうのだが。

 それにしてもこの1,2週間ほど、ヴァイグレを迎えた読響、インバルを迎えた都響、そしてこのバッティストーニと東京フィル、といったように、外国人指揮者のシェフ(もしくはそれに近い指揮者)が戻って来たオケが、解放的なパワーを湧き立たせたメリハリの強い、しかも引き締まった演奏を復活させているのを聴くと、先日触れたような理由から、ある種の安心材料が生まれて来るのは確かである。
 コンサートマスターは近藤薫。

2021・1・21(木)アレクサンドル・メルニコフ・リサイタル

      トッパンホール  7時

 1973年モスクワ生れのアレクサンドル・メルニコフが、1台のチェンバロ、2台のフォルテピアノ、1台のモダン・ピアノを弾き分けるという面白い企画のリサイタル。
 それほど広くないステージに4つの楽器がずらりと並んだ光景は壮観で、開演前にそれを撮影するファンも少なからず見られた。

 メルニコフは、それら4台の楽器を下手側から、
 最初に「ジャーマンタイプチェンバロ ミートケモデル」(以下プログラム冊子記載の表記に従う)でJ・S・バッハの「半音階的幻想曲とフーガ ニ短調BWV903」を演奏、
 続いて「ウィーン式フォルテピアノ ワルターモデル」でC・P・E・バッハの「幻想曲嬰ヘ短調Wq67」およびモーツァルトの「幻想曲ハ短調K.475」を弾き、
 次に「ウィーン式フォルテピアノ ヨハン・ゲオルク・グレーバー(オリジナル)」によりシューベルトの「さすらい人幻想曲ハ長調D760」を、
 そして四番目にモダン・ピアノのスタインウェイでスクリャービンの「幻想曲ロ短調Op.28」およびシュニトケの「即興とフーガ」━━という順に弾く。

 ちなみに事前の予告では、「さすらい人」のあと、休憩を挟んで同じ楽器でメンデルスゾーンの「スコットランド・ソナタ」が演奏されることになっていたが、都の「夜8時以降の外出自粛」要請を受け、公演時間短縮のため、休憩もろともカットされた。この曲が聴けなかったのは残念だったが、もし当初の予定通りに演奏されていたら、終演は9時半近くになっていたかもしれない。

 ともあれこれは、彼の演奏がどうのこうのということより、4つの楽器の音色の違いと、その響きによりそれぞれ異なった様相で立ち現れる作品の綾の面白さを堪能させられたということで、実に刺激的な演奏会ではあった。
 最後のモダン・ピアノのための作品としてスクリャービンとシュニトケを選んだところも、如何にもメルニコフらしい。そのスタインウェイでの、恐るべき威嚇的な音量と表現力で、聴き手を戦慄に追い込んで幕━━とするのも劇的な手法だったと思うが、それでは後味が悪いと見たかメルニコフ、アンコールにワルター・モデルでモーツァルトの「幻想曲ニ短調」を未完の形で弾き、お開きとした。

2021・1・19(火)セバスティアン・ヴァイグレ指揮読売日本交響楽団

      サントリーホール  7時

 ヴァイグレが指揮する1月の3つ目(計4回目)の演奏会。R・シュトラウスの交響詩「マクベス」、カール・アマデウス・ハルトマン(1905~63)の「葬送協奏曲」、ヒンデミットの交響曲「画家マティス」が演奏された。

 国内オケの定期としては稀有なほど渋い、馴染みのない曲を並べたプログラムだったが、それでも結構な客の入りだったのは、このところのヴァイグレと読響の右肩上がりの演奏水準が固定客に好感を持たれている所為か。そして事実、聴きに来たお客さんは、コロナ禍と寒風を衝いてわざわざ聴きに来た甲斐があったと、大多数が感じたのではないだろうか。今日の演奏は、どれも素晴らしかった。

 「マクベス」は、この作品の演奏にしては思いがけぬほどの色彩的な変化に富んでいた。下手をすれば雑多な構成になりかねないこの標題音楽が、目覚ましく劇的な様相を備えて再現されていたのである。

 さらに、ナチスから「頽廃音楽」の烙印を押された作曲家ハルトマンが、1939年(第2次世界大戦勃発の年)に作曲したヴァイオリン・ソロと弦楽合奏のための「葬送協奏曲」では━━ヴァイオリンの成田達輝が、鋭利で強い表情のソロを聴かせてくれた。成田の現代ものはこのところ評判がいいようだが、今日の演奏を聴くと、なるほどと納得させられるだろう。

 そして今日の極め付きは、ヒンデミットの「画家マティス」である。この演奏でヴァイグレが読響から引き出した見事な構築は卓越したもので、主題の明確な性格づけといい、全曲の構築の鮮やかさといい、私がこれまで聴いて来たどの演奏よりも刺激的なものだった。
 それは往年のドイツの名指揮者たちが手がけたものとは全く異なった、明快で割り切った演奏で、いかにもヴァイグレらしいやり方だったが、それがこの晦渋な性格を備えた作品を快く聴けた一因だったかもしれない。

 いずれにせよ、この「画家マティス」の演奏での読響の弦も管も完璧な出来で、とりわけ金管楽器のコラールはまるでオルガンのように美しく壮大に、均衡豊かに澄み切って響いていたのが感動的だった━━先日のような粗っぽい音は、もはや全く影を潜めていたのである。

 おそらくこの「画家マティス」の演奏は、ヴァイグレの指揮で読響が生み出した最高の演奏の一つに数えられることになるのではないか。
 コンサートマスターは長原幸太。

2021・1・19(火)エリアフ・インバル指揮東京都交響楽団

      東京芸術劇場 コンサートホール  2時

 「都響スペシャル」としての演奏会。インバルがベートーヴェンの「交響曲第6番《田園》」と、「交響曲第7番」を指揮した。
 名曲のプログラムだし、もう少し客が入ってもいいマチネー・コンサートだと思われたが、やはりコロナ禍の中で「名曲嗜好」の人たちには二の足を踏まれたのか。

 だが都響は、この厳しい指揮者インバルのもとで、先週の演奏会よりも間違いなく演奏水準を向上させていた。音色は少し荒く、洗練彫琢されたものとは距離があるけれど、分厚くて重みがあり、がっしりと引き締まって、強靭な意志力を備えた演奏だったのである。
 ずしりと手応えを感じさせてくれるベートーヴェンの交響曲の演奏を久しぶりに聴いたような気がして、こういう「濃い」ベートーヴェン演奏ならいいな、という満足感に浸る。

 なおインバルは、「田園」では第1楽章提示部を反復していたが、「7番」ではそれは行わなかった。コンサートマスターは矢部達哉。

2021・1・17(日)「ローエングリン」講座第2回

     びわ湖ホール  2時30分

 音楽会ではないけれども、熱心なお客さんの姿に感動したということで、これを書く。

 びわ湖ホールの例年3月の「沼尻竜典指揮のワーグナー上演」に関連してこの数年私が担当している入門講座(各2回)。昨年の「神々の黄昏」や一昨年の「ジークフリート」の時には地元や京都、あるいは大阪あたりから150人近くの受講者が参加して下さって、その研究意欲の旺盛さに驚き、嬉しくなったものだった。

 今年は「ローエングリン」に関する3回シリーズで、新型コロナ感染防止対策のため席が100人以下に制限されたものの、それでも反応は上々。
 とはいえ、今日の第2回は、先月19日の第1回に比べると、休みの人がやや多かったかもしれない。滋賀県は両隣の京都府と岐阜県に比べ、感染者数が少ないので、雰囲気もあまりピリピリしていないのが羨ましい。

 なお、今年のびわ湖ホールの「ローエングリン」は、沼尻竜典の指揮で3月6日と7日にダブルの日本人キャストにより、セミ・ステージ形式で上演される━━昨年の「神々の黄昏」まで例年行われていた大規模な舞台上演は、コロナ禍のため見送らざるを得なかった由。だが、視覚に惑わされずにこの「ローエングリン」の素晴らしい音楽に没頭できるとあれば、それもいいだろう。
 因みに、来年のワーグナーは「パルジファル」だそうである。

2021・1・14(木)セバスティン・ヴァイグレ指揮読売日本交響楽団

      サントリーホール  7時

 第1部に登場した人気沸騰の若手ピアニスト、藤田真央はラフマニノフの「第3協奏曲」を弾いたが、これがまた実にいい演奏だった。
 清廉な音色のピアノが美しく、骨太という感でもないのに俊敏な力を備えている。そして、特に力を入れて叩いているわけでもないのに、そのソロは、分厚いオーケストラの強奏を突き抜けて響いて来る(オケに埋没してしまうピアニストも少なくないのだ)。ラフマニノフ特有の陰翳には不足するとはいえ、躍動感にも推進性にも充分なものがある。こういう瑞々しい、清新な、透明なラフマニノフ像も、魅力だろう。

 ヴァイグレと読響も、この華麗なコンチェルトを柔軟に紡ぎ上げ、ソリストを巧みに盛り立てた。このヴァイグレという人、これまであまり意識していなかったが、コンチェルトのサポートが意外に上手いのかもしれない━━先日のブルッフと言い、今日のラフマニノフと言い。

 後半はチャイコフスキーの「第4交響曲」。こちらはしかし、ダイナミックではあったものの、些か殺風景な演奏だ。
 こういう乾いた演奏は、ヴァイグレの癖でもある。バイロイトやウィーンでいくつか聴いた彼のオペラの指揮は、大体このような、味も素っ気もない演奏が多かった。先日の「新世界」とは作品の性格が違うせいもあるが、この「4番」では彼の癖も露呈したようである。たとえば第2楽章の中間部など、何かエネルギッシュで、あれでは作曲者が述べている「疲れた人間が真夜中に物思いに耽る」というイメージとは程遠いだろう。

 なお、「新世界」でもそうだったが、今日もオーボエ奏者の演奏がどうも腑に落ちない。ファゴットもかなり癖のある吹き方をするな、と思ったのだが・・・・。
 読響、今日は弦14型編成。コンサートマスターは長原幸太。

2021・1・13(水)エリアフ・インバル指揮東京都交響楽団

   サントリーホール  7時

 都響桂冠指揮者エリアフ・インバルが久しぶりに戻って来て、ワーグナーの「トリスタンとイゾルデ」の「前奏曲と愛の死」およびブルックナーの「第3交響曲」(初稿版)でスケールの大きな演奏を聴かせた。
 よくぞ来てくれた、と客席はこれも久しぶりに聞く大音量の拍手。飛沫感染防止のためにブラヴォーの声が禁止されていなかったなら、さぞやいっそう沸いた雰囲気になっただろう。

 都響は、これも久しぶりの弦16型の大編成。インバルが求める強靭なデュナミークに富む音楽をリアルに響かせ、ブルックナーでは全管弦楽を挙げて轟いた。インバルの指揮が生み出す引き締まった構築と、豪快で劇的なクレッシェンドは、やはり見事なものだった。
 が、惜しむらくは、やはりオーケストラの音が硬くて、鋭くて、粗くて、美しくないのである。かつてのインバルと都響の演奏に聴かれていたあの管と弦の絶妙なバランス、声部の交錯における完璧さが、今日はほとんど聴かれなかったのだ。「トリスタン」も些か硬質な演奏にとどまった。

 思えば10年前、東日本大震災直後に1ヶ月ほどの演奏活動の空白期間があった後、インバルが戻って来て指揮した時には、都響はふくよかな音色を直ちに復活させていたものだったが━━。それに比べると、(先日も触れたことだが)このたびのオーケストラの状態は、些か重症と言わざるを得ないのか?

 来週のベートーヴェン・プロの時には、もう少し改善されているだろう。だが、インバルのこの指揮を聴くと、月末の大阪フィルとのショスタコーヴィチがいっそう聴きたくなるのは確かだ。

2021・1・10(日)セバスティアン・ヴァイグレ指揮読売日本交響楽団

      東京芸術劇場 コンサートホール  2時

 これは「マチネー・シリーズ」の2日目。R・シュトラウスの「ドン・ファン」、ブルッフの「ヴァイオリン協奏曲第1番」(ソリストは金川真弓)、ドヴォルジャークの「新世界交響曲」という、いかにも新年の演奏会らしいプログラムだ。コンサートマスターは客員の伝田正秀。

 昨年12月の定期および「第9」に続き1月も登場のヴァイグレ、今日の演奏を聴くと、読響との呼吸もかなり合って来たのではないかという気がする。「新世界」などでは、演奏にかなり細かいニュアンスの変化が感じ取れるようになって来た。最強奏での音の粗さも、金管の一部(トロンボーンあたりでしょうか)を除き、格段に改善されて来たように思えるのは嬉しい。

 特に感心させられたのはブルッフのコンチェルトで、ドイツ・ロマン派の作品ならではのたっぷりした響きが再現され、大波のような起伏がテンポの緩急を伴って続いて行く。これに協演する若い金川真弓の明確な主張を持ったソロも素晴らしく、特に第3楽章ではヴァイグレの大きなクレッシェンドやテンポの矯めに呼応して大見得を切るように弾き切るあたり、お見事、と思わず会心の笑みを漏らしてしまったほどであった。

2021・1・9(土)日本フィルハーモニー交響楽団横浜定期演奏会

        神奈川県民ホール  5時

 横浜みなとみらいホールが改修工事により長期間休館に入ったため、日本フィルの横浜定期も会場をこの県民ホールに移して開催されはじめている。

 今日は第1部がピアソラの「ブエノスアイレスの四季」(デシャトニコフ編、ソロ・ヴァイオリンと弦楽合奏版)で、指揮者なし、神尾真由子の弾き振りで演奏された。
 これはまさに彼女の強烈な色彩感覚に満ちた荒々しいほど情熱的なソロが全てといった演奏。日本フィルも菊地知也(チェロ)を先頭によく呼応したけれども、それでも神尾の世界とは些かの落差を感じさせてしまうほどであった。

 第2部は指揮者入りのベートーヴェンの「第7交響曲」で、永峰大輔が客演した。細部に拘泥することなく、ひたすら強いアタックでダイナミックな構築を狙う意図の指揮なのかとも思われるが、弦楽器群はともかく、管楽器とティンパニの音量の抑えが効かないようで、全合奏になると甚だバランスがよろしくない。これは1階22列中央やや右寄りで聴いてのこと。

 今日のコンサートマスターは田野倉雅秋。

2021・1・6(水)東京二期会 サン=サーンス「サムソンとデリラ」

       Bunkamuraオーチャードホール  7時

 松の内に「サムソンとデリラ」とは何か物凄いが、これは昨年上演されるはずだった「二期会コンチェルタンテ・シリーズ」の一環で、新型コロナ禍のため延期になっていたものだ。

 セミ・ステージ形式上演で、オーケストラはステージの上に通常の形で並び、ソロ歌手陣は舞台前面で必要程度の演技を行ないながら歌い、合唱団(人数は多くないが音量は充分)はオーケストラ後方の高い位置に並ぶ。
 この合唱団は照明により色彩明暗が変化する紗幕に包まれており、それが背景全体を覆いつつ変化する装飾的な映像と相まって、神秘的なイメージを生む。つまりコーラスは影のような存在として響いて来るというわけで、この手法は成功していると思われる。

 それに加え、マキシム・パスカルの指揮する東京フィルハーモニー交響楽団の演奏が抑制気味の、抒情的要素の勝ったものだったので、この作品がオペラというよりむしろ劇的オラトリオといった性格で再現されているように感じさせる。
 しかし、そうではあっても、それは悪い解釈ではなかろう。第1幕前半など、もともとその性格が強い音楽だ。暗黒の中から湧き上がって来る民衆の苦悩の声と重苦しいオーケストラの響きは、のちのオネゲルの「火刑台上のジャンヌ・ダルク」の先駆のようにさえ思われる。この合唱は二期会合唱団。舞台構成は飯塚励生。

 配役はダブルキャストで、2日目の今日は、福井敬(サムソン)、池田香織(デリラ)、小森輝彦(大司祭)、ジョン・ハオ(アビメレク)、妻屋秀和(老ヘブライ人)、伊藤潤(ペリシテ人の使者)、市川浩平&高崎翔平(ペリシテ人)━━という強力な顔ぶれだ。

 オケがあまり大きな音を出さない上に、ソロ歌手全員は舞台手前で歌うので、だれの声もビンビンと響き渡る。
 とりわけ強靱無比の声で際立つのはサムソン役の福井敬である。彼のサムソンはかなり前、大阪で大植英次の指揮する演奏会形式上演でも聴いたことがあり、その頃よりは少し声が太くなっているようにも思えるが、パワーは相変わらず充分である。ただ、些か力一辺倒の表現のように感じられないでもなく、部分的に細かいニュアンスが伴う歌い方でもいいと思うのだが━━。

 かたやデリラ役の池田香織の歌唱も、もはや完璧の域に達しているだろう。あのイゾルデ(2016年9月17日の項)で大ブレイクして以来の彼女は、本当に何を歌っても天馬空を行くが如きの快調ぶりだ。今回の彼女のデリラは、豊満で官能的なデリラというよりは知的で優しいデリラという雰囲気だったが、ただ、もう少し━━特に後半━━悪女的な歌唱表現も欲しいところではあった。内心ではサムソンを最後まで愛していたことを表す狙いがあったとも思えないので。

 2回の休憩を含み、終演は9時45分となった。正月なのだから、開演をもう30分繰り上げてもよかっただろう。都内の新型コロナ感染者数激増に対して緊急事態宣言も明日には実施されるという状況の中、この終演時刻は如何にも遅く感じられるようになったのは事実である。
 それでも、こんな状況にあっても、客席はほぼ5割~6割程度は埋まっているというのだから、熱心なお客さんがいるものだ。頼もしいといえば頼もしい。

 だが、ロビーで遇った某楽団の事務局スタッフは、(緊急事態になると)また前の(入場制限の)ようなことになってしまう、と暗い顔をしていた。

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