2021-04

2020年11月 の記事一覧




2020・11・30(月)鈴木優人プロデュース「四季」&ケージ

       よみうり大手町ホール  7時

 読売日本交響楽団恒例の「読響アンサンブル・シリーズ」の一環。長原幸太をリーダーとする10人の弦楽アンサンブルと、打楽器の西久保友広および野本洋介が出演。

 今回はヴィヴァルディの「四季」4曲と、ジョン・ケージの作品4曲とを交互に演奏して行くという奇想天外な面白いプログラムが組まれ、ケージの作品からは「Our Spring will Come 私たちの春が来る」、「ヴァイオリンと鍵盤のための6つのメロディ」から3つ、「リビングルーム・ミュージック」から「メロディ」、「Credo in Us」が演奏され、最後に一柳慧の「In Memory of John Cage」が演奏された。

 企画としてはさしずめ、珍しくもジョン・ケージの作品をやるが、それだけでは客が来ないだろうからヴィヴァルディを交ぜる━━という趣旨だったのだろうと思ったら、実は逆で、「四季」をやりたいけれども何を交ぜるか、というところから発展してジョン・ケージが選ばれた、ということなのだそうな。まあ、どちらでもいいが。

 ステージにはリビングルーム風な家具調度が置かれ、レトロなラジオや電気スタンドも飾られ、本箱にはケージが好きだったキノコや鈴木大拙の著書など(これはこちらからは見えなかったが、プレトークで鈴木優人が説明した)もセットされるという凝りようである。なかなかいい雰囲気だ。

 ジョン・ケージの曲は、私も生意気盛りの1960年代前半には、草月会館(旧)へ通って、一種の前衛気取りのステータス気分で、のべつ聴いていたものだ。もっともあの頃は専ら「偶然性音楽」が流行っていたものだが━━。最近はトンと聴く機会を得なかったので、喜んで出かけた次第である。
 やはり面白い。その中でもやはり最も長い「Credo in Us」が圧巻で、ピアノ、プリペアード・ピアノ、ドラム、缶を打楽器風に叩く音(打楽器奏者たちの巧いこと)、ラジオと蓄音機(!)から流れる音なども交錯して、「雑然たる音群の整然たる構築」が繰り広げられる。

 正直なところ私には、前半では「四季」の「春」と「夏」のコンチェルトが長すぎるように感じられ、もっとジョン・ケージが聴きたいな、と思ったくらいだ。
 だが、後半に至って「四季」での演奏がガラリと変わり、「秋」と「冬」などでは弦の奏法も多彩、長原幸太らの演奏も激しさと凄味を帯びて、いとも鮮烈極まるヴィヴァルディが立ち現れた。こうなるとヴィヴァルディとケージの音楽とが完全に一体化して、互いに触発し合うイメージになり、かくてこの2人の作曲家を組み合わせた趣旨が完璧に成立するといったものになる。これこそ、企画の成功を意味するものだろう。

 鈴木優人は全曲出ずっぱりで、ヴィヴァルディではチェンバロを弾き、ケージではピアノを弾きつつ自ら操作してプリペアード・ピアノを弾き、ついでにドラムまで叩くという八面六臂の活躍ぶりで、この日の立役者となった。彼はこの秋、まさにブレークした感である。

2020・11・29(日)ムーティ指揮のヴェルディ、プッチーニ他

       オンライン視聴  7時

 仕事の都合で終日在宅したため、東京芸術劇場での井上道義指揮読売日本交響楽団のブルックナーの「7番」など(マチネー)は聞き逃したが、夜7時からのリッカルド・ムーティ指揮ルイージ・ケルビーニ・ジョヴァニナーレ管弦楽団によるラヴェンナ音楽祭関連の配信は、先週に続き視聴することができた。これは先週触れた通り、「東京・春・音楽祭」からの紹介によるものである。

 今日はマルトゥッチの「ノットゥルノOp.70-1」、プッチーニの「交響的変奏曲」、ヴェルディの「ナブッコ」序曲、「マクベス」のバレエ音楽、「シチリア島の夕べの祈り」序曲というプログラム。
 前回より時間的には少し短かったが、前回同様に素適な演奏だった。前半2曲での祈るような静謐な雰囲気と、後半3曲の躍動的な曲想との対比もいい。ヴェルディの序曲など、何か久しぶりに聴いた思いがして━━ディスクで聴くのと全く別の新鮮さが感じられるから不思議だが、それもやはりムーティのカリスマ性ゆえのものなのだろう。

 ただ、演奏会場(ステージ)の雰囲気が、照明も含めて何とも暗い。ムーティはニコリともしない厳めしい顔つきだし、マスクをした楽員たちもシリアスそのものの表情。

2020・11・28(土)オペラ仕立ての「ヴォルフ イタリア歌曲集」

       東京文化会館小ホール  3時

 都響の2曲を聴き終ったのが2時50分頃。直ちに隣の小ホールへ移動してこの奇想天外な公演を聴く。
 もう1時間半、せめて1時間でもこの開演時間があとにずれていれば、2つのコンサートをたっぷり聴ける人も少なくなかったろうに。こちらは東京文化会館の主催だし、都響は都のオーケストラだし、同じ「東京都」なのだからその辺何とかならなかったのかね、と。ただし、こちらの方はほぼ満席だったから、大ホールから客がどっと流れて来ても、入るのは無理だったに違いないが。

 それはともかく、この「歌劇 ヴォルフのイタリア歌曲集」なる企画は、大変ユニークなもので、そのアイディアも、出来栄えも実に面白かった。
 つまり、ヴォルフの「イタリア歌曲集」46曲を、歌詞の内容が一つのストーリーとして繋がるように、しかも調性にも配慮して配列し、その物語を、若干の小道具を交えたシンプルかつ清涼な舞台で、2人の歌手と2人のダンサーが演じて行く━━という形なのである。

 ストーリーは、愛の語らいや口論で織りなされた、美しい、時にはコミカルになる恋のドラマだ。解説書によれば「イタリアのとある町で、思春期の夢見がちな少女と不器用な少年が出会い、恋に落ちる」という設定である。
 冒頭2曲目に「もう、ずっと長い間待ち焦がれていた」を置き、「誰があんたをここへ呼んだの?」という口喧嘩で第1部を終り、第2部を「笑っていられるか」「何を怒ってるの?」「あんな鼻持ちならない女、放っておけ」などの曲で開始するといった構成には、なるほどと思った。

 もっとも、仲直りしたあとにこの少年は戦場に赴き戦死したものと思われるが、「君が僕を見て微笑み」による永遠の愛で結ぶと思いきや、最終曲に「ペンナに私の恋人がいる」を置き、少女を再び別の陽気な恋に向かわせ、少年ががっくりとずっこける━━この辺の解釈は観る人により違うかもしれない━━というオチをつけるのだから洒落ている。

 歌は小森輝彦(Br)、老田裕子(S)、ピアノが井出徳彦、ダンスは山本裕、船木こころ。演奏もダンスも極めてしっかりしているから、岩田達宗による演出と構成(選曲も!)がいっそう映える。

 今回の企画は成功といえよう。歌曲はそれ1曲ずつが凝縮されたオペラである、ということは私も昔から感じていたことだが、それらを連鎖した形で更なるオペラ的な世界に拡げる、というアイディアも面白い。以前試みられたような、武満徹のいくつかの作品を配列構築してオペラに仕上げるという手法とは全く異なるスタイルだが、発想の勝利といえよう。

 岩田達宗さんのその発想の背景には、「肥大化、巨大化、成長といったお伽噺に強迫されて来た世界が、新型コロナウィルスによってその動きにストップがかけられた」こと、「肥大化されたオペラは上演できなくなったが、しかし、(歌曲のような)小さなものはしぶといのだ」という思想があるという。
 確かに、もしかしたらこの考え方は、第1次世界大戦による世界変貌の中に、肥大化・巨大化した後期ロマン派への反動が芽生え、ストラヴィンスキーが小編成の清澄な響きによるオーケストラを活用し━━つまりあの「新古典主義」を推進させて行った歴史と、軌を一にするものかもしれない。

2020・11・28(土)沼尻竜典指揮東京都交響楽団

     東京文化会館大ホール  2時

 ワーグナーの「タンホイザー」序曲、モーツァルトの「ピアノ協奏曲第20番ニ短調」(ソリストはアンドレイ・ガヴリーロフ)、ブラームスの「交響曲第4番」。コンサートマスターは山本友重。━━というプログラムだったのだが、次項で述べるような事情で、前半の2曲しか聴けなかったのは残念である。

 「タンホイザー」序曲は、さすがびわ湖ホールのワーグナー路線を成功させて来た沼尻竜典だけあって、堂に入ったもの。密度も濃かったし、特に後半の「巡礼の合唱」のモティーフが再現する日の出の個所では、演奏も充分に壮大な絵巻物のようになっていた。
 残響が少ないホールなので、オーケストラの音は乾き気味であり、金管の低音域での動きが妙に分離して聞こえたのは気になったが(1階席最後方での印象による)。

 モーツァルトの「20番」は、すこぶるユニークな演奏だった。
 まずそのテンポの速さ。第1楽章のアレグロからかなり飛ばし気味で、第2楽章は(速度指定はない)アレグレットのテンポになり、第3楽章は、スコアの指定の「アレグロ・アッサイ」を通り越してプレストといったイメージ。もっともこれは、他の演奏に比して速いということであって、「アレグロ」というテンポ表示をどう解釈するかは演奏者の考え次第なのだから、間違いではない。
 しかしいずれにせよ、全体の演奏時間が25分か26分くらいで終ってしまったのだから、他の演奏(大体30分)に比べれば相当な速さだったことは確かである。

 沼尻は切れのいいリズム感で正確に都響を制御してモーツァルトの端整さを打ち出し、一方のガヴリーロフは自由奔放、変幻自在にデュナミークや「間」を動かしてモーツァルトの激情を浮き彫りにする。
 ソリストが指揮者の造型の中で自由に躍動する、と解釈すべきか、全く異なったスタイルの激突というべきか。
 共存といえば言えないことはないが、水と油が最後までせめぎ合っていた、とも言えよう。その意味では、実に面白い「20番」ではあった。

 フレーズの最強音を叩き終った勢いで席から飛び上がるピアニストは珍しくはないが、モーツァルトの演奏で、しかも2度もそれをやるピアニストは、私は初めて見た。ガヴリーロフはお馴染のピアニストだが、以前からモーツァルトをこんな風に弾いていたのか?

 演奏会を最後まで聴いた音大教授A・Iさんの話によれば、「あの凄まじいモーツァルトのあと、沼尻さんと都響は、しっかりとしたブラームスを創って行きました」とのこと。

2020・11・25(水)東京二期会 レハール:「メリー・ウィドー」

      日生劇場  6時30分

 「日本語字幕付きの日本語上演」で、5回公演。
 指揮は沖澤のどか、演出は眞鍋卓嗣。今日のキャストは初日組で、与那城敬(ダニロ・ダニロヴィッチ伯爵)、嘉目真木子(寡婦ハンナ・グラヴァリ)、三戸大久(ツェータ男爵)、箕浦綾乃(ヴァランシエンヌ)、高田正人(カミーユ)、岸本力(ボグダノヴィッチ)、新津耕平(カスカーダ子爵)、湯沢直幹(サン・ブリオシュ)、その他の人々。喋り役の山岸門人(ニェーグシュ)のみは全日。東京交響楽団と二期会合唱団。

 若手の注目株、沖澤のどかのオペレッタの指揮は注目されたが、ドライなこの劇場の音響を巧く処理するという点では━━初日だったこともあって━━未だ完璧な状態ではなかったように感じられた。冒頭から東響を勢いよく響かせつつ飛び出したことには期待を持たせたが、この作品の音楽に備わる洒落っ気や瑞々しい色気をオーケストラから引き出すのは、劇場のアコースティックな面からも、そう簡単ではなかったようだ。
 でもまあ、第2幕後半でカミーユがヴァランシエンヌに迫る場面に必要な官能的な表現は、これまでいくつか聴いた日本のオーケストラの演奏よりは巧く行っていたと思うが。

 舞台は、新型コロナ禍対策で「密」を避けたせいか、夜会は出席者の数も少なく、少々寂しい感。単色系の舞台装置が、華やかさを更に薄めさせる。
 それらは仕方がないとしても、やはり問題は、「全体の流れ」だ。セリフの運びを、もう少しテンポよくリズミカルに、つまり音楽そのものの雰囲気に準じるテンポで構築できなかっただろうか? セリフによる芝居の部分と音楽の流れがどうにも合致せず、それが何かまだるっこしさというか、間延びした雰囲気を生んでしまう。従ってその瞬間、舞台には一種の白けた空気が感じられるのである。だがこれは、日本での日本語オペレッタ上演にはよくあることだ。

 私の体験では、これまでそうした「間延び」や「白け」を感じさせなかった「メリー・ウィドウ」の舞台はただ二つ。一つは、1972年の二期会上演(立川清登、伊藤京子ら)、もう一つは2008年6月23日に観た佐渡裕プロデュースの兵庫県立芸術文化センター上演での「関西のノリ」満載の舞台(桂ざこば、佐藤しのぶ、大山大輔ら)である。

 今回の歌手陣は、一部高音が苦しかった人はいるものの、手堅い感はあるだろう。ただ、前述の流れの問題もあって、歌唱にも全体に「硬さ」が取れない。芝居=演技という点では、ダニロの与那城敬が顔の表情も加えて細かい演技を見せていたが、他の歌手たちにも、もう少し躍動感ある演技を見せてもらいたかったものだ。
 ━━それやこれやで、今日の上演は、沸き立つ華やかさには乏しかった。

2020・11・24(火)鈴木優人指揮読売日本交響楽団「運命」他

       サントリーホール  7時

 村治佳織がソロを弾くロドリーゴの「ある貴紳のための幻想曲」を間に挟み、前後をベートーヴェンの「レオノーレ」序曲第3番」と、「交響曲第5番《運命》」で固めた「名曲シリーズ」。コンサートマスターは小森谷巧。

 鈴木優人が指揮するベートーヴェンの交響曲は先月「田園」を聴いたばかりだが、それはこの曲にしては荒々しくて鋭角的な演奏だった。だが今日の2作品ではその性格上、その手法が効果的に生きるだろう。
 「レオノーレ」3番では、各主題、各モティーフがごつごつと浮き出て、かなり攻撃的な演奏となり、荒々しいドラマを想像させる演奏となった。最後のクライマックスの個所でベートーヴェンが指定しているfffが、スコア通り、ffよりも本当に強い音で演奏されたのを聴いたのは、今回が初めてかもしれない。

 「5番」も、さらに戦闘的な演奏である。ティンパニとホルンを咆哮させ、鋭いリズム感で殺到し、特に両端楽章ではエネルギーを熱狂的に解放する。聴き手に安堵感を与えない、全ての邪魔物を蹴散らしながら突進して行くようなベートーヴェンだ。痛快そのもので、スリリングでさえある。これは、最近の欧州系の若手指揮者たちが進めている路線と軌を一にするスタイルだろう。こういうベートーヴェンを躊躇いなく演奏する指揮者が日本にもついに登場したことは面白い。

 読響は、第1楽章前半ではこの速いテンポに追いつかぬような部分もあったが、緩徐楽章を経るうちに立ち直ったようだ。
 第4楽章での躍動感は目覚ましい。この楽章に入った瞬間、意外に渋い音色だったのにはオヤと思ったが、その提示部が勢いよくリピートされはじめた際には、音色が俄然明るくなったのは━━偶然か意図的か。意図的なものだったのなら、それはそれで面白い解釈だが、もし偶然そうなったのなら、鈴木優人と読響の呼吸はこれから、ということになるだろう。

 この優人と読響の沸騰するベートーヴェンの中に割って入ったギターの村治佳織は、ちょっと異質な存在のイメージになったことは否めないが、じっくりとロドリーゴの世界を主張したと言えよう。そして、ソロ・アンコールで弾いた「アルハンブラの思い出」は、ホール内の人々の心を惹きつけた。

2020・11・22(日)ムーティ指揮のシューベルト「未完成」他

      (オンライン視聴 7時)

 「東京・春・音楽祭」の案内により、リッカルド・ムーティがルイージ・ケルビーニ・ジョヴァニーレ管弦楽団を指揮したシューベルトの交響曲2曲━━「第3番」と「未完成」━━の演奏を、同公式サイトで視聴することができた。これはラヴェンナのダンテ・アリギエーリ劇場において無観客で事前収録された演奏映像の由。

 久しぶりに顔を見たムーティ、流石に齢をとったという雰囲気だが、それよりも驚かされたのは、2曲の交響曲における演奏の表情である。普段は明るい「3番」が、ここでは躍動感とは程遠く、温厚に微笑むかのような演奏に終始し、一方の「未完成」は、暗く打ち沈んで、恰もレクイエムのよう。

 当今の世相の影響を受けて憂鬱極まる状態になっている心理状態には、この「未完成」は、まるで遠い遠い世界へ引き込まれて行くような感覚に陥らせる。この曲がかくも美しく、かつ悲しい曲であったことを思い出させるような演奏でもあった。第2楽章の幕切れはまさに彼岸的なイメージになっていたが、それでもセンチメンタルな情緒に陥ることなく、毅然とした構築を保っていたところがさすがムーティ。

 この配信は、11月29日(日)にも日本時間夜7時から、プッチーニなどの別プログラムで行なわれる由。
 配信の詳細はこちら
https://www.tokyo-harusai.com/news_jp/20201120/

2020・11・21(土)阪哲朗指揮紀尾井ホール室内管弦楽団

      紀尾井ホール  2時

 何とか気持を落着けつつ、川崎から第2京浜国道と首都高速2号線を経て都心に入り、とにかく紀尾井ホールへ入る。
 こちらは定期演奏会で、阪哲朗が客演指揮するベートーヴェン・プログラムである。「コリオラン」序曲、「ピアノ協奏曲第3番ハ短調」(ソリストは石井楓子)、「交響曲第1番ハ長調」という配列。
 「コリオラン」はハ短調だから、今日のコンセプトは「in C」ということになる。コンサートマスターは玉井菜採。

 阪哲朗の指揮は、殊更な小細工もない、極めてストレートなスタイルだが、ニュアンスは充分に細かい。
 とりわけ印象的だったのはその演奏の流れの良さで、「第1交響曲」第1楽章終盤あたりにさしかかる頃からそれが目立って来た。第2楽章冒頭、第2ヴァイオリンが始めた主題にヴィオラとチェロ、次いでコントラバス、そしてすぐ第1ヴァイオリン━━が次々と加わって来るくだりで、こんなに音楽が自然に膨らみを増して行く演奏は、これまで聴いたことがなかったほどだ。阪哲朗の設計は巧いなと思わせる。

 コンチェルトを弾いた石井楓子は、不勉強な私は今回初めて聴かせていただいた次第だが、極めてしっかりした力量の人とお見受けする。ただ、ベートーヴェンの、それも「3番」のような一種の暗いデーモン性を備えた作品の演奏には、今一つ陰翳の濃さがあったらとも思われる。

2020・11・21(土)沼尻竜典指揮東京響「モーツァルト・マチネ」

      ミューザ川崎シンフォニーホール  11時

 「ミューザ川崎シンフォニーホール」主催による「モーツァルト・マチネ」第43回。すっかり人気も定着したようである。

 今日はジョナサン・ノットに代わり沼尻竜典が指揮してのプログラムで、モーツァルトの「交響曲第32番ト長調K.318」、ハイドンの「トランペット協奏曲」(ソリストは佐藤友紀)、モーツァルトの「交響曲第38番ニ長調K.504《プラハ》」。コンサートマスターはグレブ・ニキティン。
 休憩なしでの公演時間はちょうど1時間だが、これはもともと、この「モーツァルト・マチネ」シリーズの当初からのスタイルであって、新型コロナ感染防止策のためのものではない。

 東京響の演奏は些か粗っぽかったが、沼尻の指揮が活気ある演奏を生み出していた。
 ハイドンのコンチェルトも、首席トランペット奏者・佐藤友紀の節度ある好演とともに、すこぶる快い世界を響かせていた。ハイドン特有のあの木管の妙なるハーモニーが美しく再現されていたことも、そこが好きでたまらない私にとっては、大いに満足である。

 2つのシンフォニーとて演奏は決して悪くなかったのだが、問題はティンパニだ。まるで木の板をハンマーでぶっ叩くような無遠慮極まる大音響が、オーケストラと全く融合していないのだ━━というより、完全に「分離」しているのである。曲のエンディングへ盛り上げて行く個所ほど酷く、特に「32番」の最後の個所では、その乱暴な演奏も含めて、耳を疑ったほどだった。

 モーツァルトの交響曲におけるこんなティンパニの叩き方は、指揮者の注文だったのか、奏者の考えなのか。沼尻の指揮するモーツァルトのシンフォニックな作品といえば、私はこれまでいくつかの序曲しか聴いていない(オペラ本体は別としてだ)が、それらではこんなティンパニの音は聴かれなかったし・・・・。
 折角のモーツァルトの交響曲を無惨にも破壊したティンパニのこの凶暴な音にすっかり衝撃を受け、「プラハ」が終った時には拍手も出来ず、蒼白になってそそくさと退出。

2020・11・20(金)尾高忠明指揮新日本フィルハーモニー交響楽団

       すみだトリフォニーホール  7時15分

 当初予定されていたマルクス・シュテンツが来日不可となり、尾高忠明が指揮。
 メンデルスゾーンの序曲「静かな海と楽しい航海」と「交響曲第3番《スコットランド》」、およびその2曲の間にモーツァルトの「協奏交響曲変ホ長調K.364(320d)」(ソリストは成田達輝vn、東条慧va)を挟んだプログラムとなった。コンサートマスターは崔文洙。

 尾高忠明の音楽の構築それ自体は完璧で、作品全体の流れの良さ、構築上のバランスの良さ、揺るぎない緊迫度など、異論を差し挟む余地はない。
 課題は、新日本フィルの「音」だろう。序曲冒頭の「海の静けさ」では弦楽器群の爽やかな響きに魅了されたが、これが「楽しい航海」のモルト・アレグロに入ると、何故か音色がえらく硬質になる。「協奏交響曲」では全体が柔らかい音で演奏されていたが、「スコットランド」は再び弦が━━それもかなり硬質の、ガリガリした音になった。

 私が座っていた1階席20列でなく、3階席あたりなら、もう少し柔らかい音に聞こえたのかもしれないが、いずれにせよこういう音は、私は苦手である。アンサンブルも尾高の指揮にしてはすこぶる粗っぽかったが、━━まあ、演奏に勢いがあったことでそれは帳消しにしよう。
 なおソリスト2人は好演だったが、成田達輝のヴァイオリンはかなり煌びやかで、東条慧のヴィオラおよび新日本フィルの音色とは性格を異にしていたようだ。

2020・11・19(木)鈴木優人指揮読売日本交響楽団

      サントリーホール  7時

 活躍目覚ましい鈴木優人(読響の「指揮者/クリエイティヴ・パートナー」)が、シャリーノの「夜の自画像」、シューベルトの「交響曲第4番《悲劇的》」、ベリオの「レンダリング」を指揮した定期。コンサートマスターは長原幸太。
 新型コロナ感染急拡大の影響で出足が鈍ったか、それともプログラムが渋い所為か、客の入りはソーシャル・ディスタンス方式時期のそれを下回っていたけれども、演奏会そのものは実に面白い内容だった。

 最初に現代作曲家サルヴァトーレ・シャリアーノ(1947~)の「夜の自画像」(1982年)が極度に静謐な世界━━解説には「背景のノイズ群が緊張感の推移を司る」とあるが、私には逆で、恰も松林を渡る壮大な、しかも懐かしい風の音を連想させた━━を築いたあと、ややバロック的なイメージの演奏によるシューベルトの「第4交響曲」が鳴り響き、休憩後にはシューベルトの所謂「交響曲第10番」に基づくルチアーノ・ベリオ(1925~2003)の「レンダリング」(1990年完成)が展開する、という流れだ。

 この「レンダリング」は、これまで聴いたいくつかの演奏では━━たとえばユベール・スダーンの指揮では、シューベルトの世界が基盤となり、そこに白昼夢のようにベリオの世界がめらめらと燃え上がって来る、というべきイメージで描かれるのだが、今回の鈴木優人の指揮では、冒頭からベリオの奇怪な世界を基盤として演奏が構築されているかのように感じられる。つまり、ベリオがすでに魔王の如くシューベルトを取り込んでしまっており、音楽全体をベリオが支配しているようなイメージとなっていたのである。

 こういうアプローチも面白い。「レンダリング」におけるこの性格づけが即ち、その前のシューベルトの「4番」と明快な対を為し、併せて冒頭のシャリアーノの世界と呼応し合う、という結果を生んでいるだろう。
 読響の演奏も鮮やかで、気持のいい演奏会であった。

2020・11・18(水)藤倉大の最新作オペラ「アルマゲドンの夢」世界初演

      新国立劇場オペラパレス  7時

 SF作家H.G.ウェルズ(ハーバート・ジョージ・ウェルズ)の「世界最終戦争の悪夢 A Dream of Armageddon」(1901年)を原作とし、ハリー・ロスが台本を、藤倉大が音楽を書いたオペラ「アルマゲドンの夢」。
 今回が初演で、11月15日から23日までの間に4回公演されている。今日はその2日目。

 ピットに入ったのは大野和士指揮東京フィルハーモニー交響楽団。
 歌手陣は、ピーター・タンジッツ(クーパー・ヒードン)、セス・カリコ(フォートナム・ロスコー、ジョンソン・イーヴシャム)、ジェシカ・アゾーティ(ビラ・ロッジア)、加納悦子(インスペクター)、望月哲也(歌手、冷笑者)、長峰佑典(兵士)。因みに長峰はボーイソプラノで、「TOKYO FM少年合唱団」のメンバーの由。

 スタッフはリディア・シュタイアー(演出)、バルバラ・エーネス(美術)、ウルズラ・クドルナ(衣装)、オラフ・ブレーゼ(照明)、クリストファー・コンデク(映像)。

 上演時間90分と作曲者は書いているが、実際は100分くらいだろうか。現代音楽のオペラとしてはまあこの長さが限度だろうね、と、ある現代音楽に詳しい同業者が言った。
 だが内容は、あたかも今日を予言して書かれたような物凄いものだ。猛威を振るう疫病コロナに脅え、それがきっかけで起こるかもしれぬ第3次世界大戦=世界最終戦争への恐怖さえ感じている今日のわれわれにとっては、実に不気味なオペラと言えよう。

 ドラマは現実の「電車」の中で交わされる会話から開始されるが、この現実は間もなく「夢」の世界の中に取り込まれて行く。平凡な市民クーパーと、その妻で、政治悪にも立ち向かう勇敢な意識の持主ベラは、知的な悪と感情的な悪の支配者の力の中に呑み込まれ、やがて起こった世界最終大戦争(アルマゲドン)の中に命を落す。

 この演出では、ベラが夢の世界の中で斃れるのに対し、クーパーは現実の電車の中で死ぬ(彼自身は冒頭で「おれは夢の中で死んだ」と語っている)が、その電車の中もまた死屍累々といった状態だ。現実の世界も既にアルマゲドンに呑み込まれてしまっていたのか? 
 解釈を観客に委ねた幕切れが恐怖感をそそり、ボーイソプラノと遠いコーラスが響かせる「アーメン」の歌が強い余韻を残す。

 音楽は鮮烈だが、耳あたりはいい。愛の場面の音楽や海岸の場面の音楽のように官能的な叙情性も備える一方、極めて多彩な表現力を持ち、戦争の場面などでは雄弁な描写性も聴かせている。
 舞台もなかなか大がかりで、セリなどの舞台機構も活用されているが、これは新国立劇場としては久しぶりのものだろう。照明の使い方、反射ガラスの活用法も巧い。

 ともあれこの「アルマゲドンの夢」は、新国立劇場が制作した舞台としては久しぶりに世界に通用するプロダクションであり、大野和士がオペラ部門芸術監督として生み出した傑作と言えるのではないか。先頃の「夏の夜の夢」に続き、新国立劇場の今シーズンのオペラは良い滑り出しを見せているようだ。

 台本は英語で、英語と日本語の字幕がつく。日本語字幕(小田島創志、増田恵子)は補足語も多く織り込んだ非常に説明的なものになっていたが、こういう訳文になるのかな、と、後半は英語版の字幕と見比べながら考えこんでいた。

2020・11・15(日)「ルチア あるいはある花嫁の悲劇」

      日生劇場  2時

 ドニゼッティの「ランメルモールのルチア」。
 当初予定していた全曲上演を、新型コロナ禍のため、田尾下哲(演出)の翻案により、ルチアという女性に焦点を合わせた楽曲構成と演出に変更したもの。全曲を90分に縮小、合唱なし、オーケストラの金管をピアノで代用━━などの手段が採られていたが、これが実に巧く出来ていたのに感心した。

 指揮は柴田真郁、読売日本交響楽団の演奏。今日は2日目の公演で、ダブルキャストの今日の歌手陣は、森谷真理(ルチア)、吉田連(エドガルド、城宏憲から交替)、加耒徹(エンリーコ)、妻屋秀和(ライモンド)、伊藤達人(アルトゥーロ)、布施雅也(ノルマンノ)、藤井麻美(アリーサ)。黙役として田代真奈美(泉の亡霊)。

  舞台上に姿を見せるのはルチアと、「泉の亡霊」のみ。その他のキャラクターは舞台両側の暗幕の中にいて、姿を見せない。音楽は要するにルチアの登場する場面を繋ぎ合わせた構成だから、結局森谷真理はほぼ90分間、出ずっぱりで激しい動きの独り芝居を続けながら歌い続けるということになる。
 有名な「六重唱」のあとの、激したフィナーレはそのまま生かされた。となると、このまま彼女は続けてあの長い「狂乱の場」を歌えるのか?とハラハラしたが、そのあとに「エドガルドとエンリーコの対決の場」が、部分的ながら挿入された。それゆえ、ここで彼女も少し休めるな、と安堵した次第。

 なお、この場面冒頭の嵐の音楽は、前場のフィナーレの最後の音にすぐ繋げられて開始されたが、それがルチアの演技と照明演出と併せ、彼女の精神が破壊されるさまを描いているようで、極めて不気味な効果を上げていた。そしてその2人の男の口論のさなかにライモンドの「争いは止めよ!」が割って入り、かくて「狂乱の場」に続くと言った具合。このあたりの繋ぎ方は、少し唐突なところもないではないが、巧妙な発想ではある。

 森谷真理の長丁場の歌唱と演技には、満腔の称賛を捧げたい。かなり無理な姿勢を取りながら歌う場面も多かったが、彼女にとってそれが何でもないことは、以前の「後宮よりの逃走」での激烈な演技で承知している。
 他の歌手たちも、立ち位置からして随分「合わせ」難かったのではないかと思うが、しかしみんな声が良く響いていたし、緊迫感も完璧であった。柴田真郁の指揮と、縮小された編成の読響の演奏も安定していて、バランスもいい。

 こういう「短縮オペラ」形式の上演は、楽譜作成の手間はかかるだろうが、オペラ普及のためには、意外に効果的なのではないか。90分という時間も、手頃である。

2020・11・14(土)ゲルギエフ指揮ウィーン・フィル来日公演最終日

      サントリーホール  4時

 昼に帰京。
 当初の予定を変更して、ウィーン・フィルの来日最終公演と、そのあとの記者会見を取材に行く。この日のプログラムは、ドビュッシーの「牧神の午後への前奏曲」と交響詩「海」、ストラヴィンスキーの「火の鳥」全曲。アンコールは今日もチャイコフスキーの「パノラマ」。

 ドビュッシーは2曲とも濃厚だ。この厚ぼったい色彩に覆われたドビュッシーはあまり私の好みではないタイプの演奏だけれど、そこがこのゲルギエフとウィーン・フィルのコンビらしくて面白い。
 同じドビュッシーの作品でも、ゲルギエフがマリインスキー劇場管を指揮したのをサンクトペテルブルクで聴いたことがあるが、それは色彩的ではあったものの、「北国のドビュッシー」とでもいうべく、陰翳の濃い演奏だった。またウィーン・フィルのドビュッシーも、ザルツブルクでハイティンク(だったか?)の指揮で聴いたのは、もう少し清澄に近いものだった。
 協演する相手によって新しい性格を持った演奏が生まれるという、興味深い例であろう。

 「火の鳥」は、ゲルギエフとウィーン・フィルの個性が丁々発止と激突し、しかも見事に調和した演奏だ。濃厚さもいろいろな面で好ましく作用する。
 かつてゲルギエフは、「ストラヴィンスキーはリムスキー=コルサコフの教えを受けたロシアの作曲家だ、自分は彼の音楽を生粋のロシア音楽として指揮する」と宣言したが、今日の演奏もそれを示すもので、これにウィーン・フィルのしなやかで洗練された個性が加わると、より柔らかく豊麗な色彩感をロシア音楽に加味する。今回私が聴いた数曲の中では、この「火の鳥」がベストのものだったと思う。

 終演後、小ホールで、ダニエル・フロシャウアー楽団長とミヒャエル・ブラーデラー事務局長、サントリーホールの堤剛・館長と折井雅子・総支配人が出席して、公演終了記者会見が行われた。楽団側からは、感染防止対策のための隔離状態生活など並々ならぬ努力を払いつつ公演を無事に完了できたことは大きな喜びであること、コロナ禍の中にあって音楽活動が出来なくなっている世界の演奏家たちを激励し、活動の突破口となるために尽力できたとも思っていること、コロナ禍の中でもツアーを約束通り実現したいと努力する勇気を他のオーケストラにも望みたいこと、今回は中国と韓国とも演奏旅行について交渉していたが、ただ日本だけがそれを可能にしてくれたこと、などが語られていた。
 なお、来年の「ニューイヤーコンサート」は、立見席を制限した上で何が何でも開催したいという意向だとのことである。


※ウィーン・フィルが特別扱いで来日したことについては、巷に多くの意見が交錯しております。当ブログにもいくつかコメントをお寄せいただいていますが、事実誤認や曲解に基づく、根拠を示さない感情的な誹謗中傷のようなコメントにはこの場を提供できませんのでご承知おき下さいますよう。

2020・11・13(金)尾高忠明指揮大阪フィルハーモニー交響楽団

      フェスティバルホール(大阪) 7時

 グレース・ウィリアムズの「海のスケッチ」と、マーラーの「交響曲第5番」とで構成された11月定期。
 後者は弦16型による演奏で、新型コロナ禍による規制の当今、このような大編成のステージを復活させられるオーケストラは、国内では大阪フィルだけであろう。コンサートマスターは崔文洙。

 「海のスケッチ」は、尾高の愛してやまぬウェールズの自然を描いた組曲風の佳曲だ。彼はこれを、国内ではすでに札響、新日本フィル、九州響、読響と演奏している。私はこれらのうち、読響との演奏しか聴いていないけれども、今日は弦の響きがよりいっそう瑞々しく透明で、しかも厚みのある音を響かせていたためもあろう、尾高のこの曲に対する愛を充分に理解できたような気がする。

 後半のマーラーは、たぐい稀なほどの均衡と瑞々しさを備えた快演である。最近の尾高の音楽が強い信念と力にあふれたものになっていることはすでに触れた通りだが、この「5番」でも、完璧なバランスの裡に熱狂を燃え滾らせた見事な構築の音楽となっていた。充分に情熱的な特徴を持ちながらも、過度な荒々しさと騒々しさに陥らないこのような「マーラーの5番」を聴いたのは、滅多にない経験である。

 大阪フィルに何を求めるかはそれぞれの好みの問題だが、とにかくこのオーケストラをして、朝比奈時代のそれとは全く対極的な、説得力のある性格を示すに至らせた尾高の手腕は、並々ならぬものと言えよう。金管のソロにいくつか不安定な個所があったのを別とすれば、これは大阪フィルの現在の充実ぶりを証明する見事な演奏と言っていいであろう。第3楽章でのホルンは、なかなか強力であった。

2020・11・13(金)J・ハウランド:ミュージカル「生きる」

      兵庫県立芸術文化センター KOBELCO大ホール  12時30分

 夜の演奏会前の時間を有効に使うべく、阪急電鉄の西宮北口駅前にある兵庫県立芸術文化センターで上演されている「生きる」を観に行く。

 これはジェイソン・ハウランドの音楽、高橋知伽江の脚本・歌詞、宮本亜門演出によるミュージカルで、2018年に制作された舞台。今回は東京(日生劇場)、富山(オーバードホール)に続く公演で、このあとにも今月末までの間に久留米(シティプラザ)と名古屋(御園座)でも上演される由。

 ストーリーは、あの有名な黒澤明監督の映画におけると同様、胃がんで余命半年と悟った平凡な市役所の老課長が、生きた証を残さんがため、上司の反対に遭いつつも市内の一角に小さな公園を造ろうと奔走する物語である。ミュージカル版として当然いくつかの設定や展開の細部は変えられているものの、幕切れで観客をして義憤と「やりきれぬ気持」にさせるという点では同じだ。

 音楽はややアメリカン・ミュージカル的な雰囲気も感じさせ、ハイテンションの賑やかな曲想のものが多いが、あの「ゴンドラの歌」は、映画におけると同様、主人公がブランコを漕ぎつつ呟くように歌う曲として重要な使い方が為されている。
 宮本亜門の演出はスピーディで、セットの転換も速いので観る者を飽きさせない。ドラマ全体が映画よりも華やかな性格を濃くしてしまっているのは、ミュージカルの舞台ゆえに、致し方のないところだ。例えば映画で、やくざに「命が惜しくないのか」と脅された主人公がニターッと笑う、あの志村喬の凄味ある顔の演技などは、ミュージカルでは扱いようがない類のものだろう。

 出演はダブルキャストで、マチネー公演では主人公の渡辺勘治を鹿賀丈史、その息子・渡辺光男を村井良夫、勘治を助ける小説家を小西遼生、勘治に同情を寄せる少女・小田切とよを唯月ふうか、ほかが演じていた。なお、夜の公演では渡辺勘治を市村正親が演じるそうで、私の好みからすれば彼の芝居の方を観てみたかったところだが・・・・。

 良く出来ていたと思うのだが、たった一つ文句をつければ━━女たちは、老いも若きも、揃いも揃ってなぜあのようなギャーギャーした絶叫調の声で歌ったり喋ったりするのか?

2020・11・12(木)飯森範親指揮日本センチュリー響「フィデリオ」

     ザ・シンフォニーホール(大阪) 7時

 オーケストラの後方にソロ歌手陣を、オルガン前方席に合唱団を配置する演奏会形式上演ながら、ドラマの内容を表す簡略な演技を加味し、要約されたドイツ語台詞で音楽を繋ぐという、解り易く流れの良い手法を採っている。
 これは、日本センチュリー交響楽団と首席指揮者・飯森範親が総力を挙げた秋の定期のハイライトだ。第250回定期で、しかもベートーヴェン生誕250年記念と語呂を合わせているのも洒落ている。

 声楽陣は、木下美穂子(レオノーレ)、水野秀樹(その夫フロレスタン)、山下浩司(看守ロッコ)、石橋栄美(その娘マルツェリーネ)、松原友(ロッコの助手ヤキーノ)、町英和(刑務所長ドン・ピツァロ)、萩原寛明(大臣ドン・フェルナンド)、日本センチュリー合唱団。コンサートマスターは荒井英治。

 演奏は極めて好かった。なにより、飯森が速めのテンポと切れのいいリズムでたたみかけ、些かも弛緩を感じさせない指揮で全体を制御していたことが挙げられよう。先頃の新国立劇場で指揮した「夏の夜の夢」も含め、彼のオペラでの指揮がこのところ快調さを増してきたように感じられるのは嬉しい。
 音楽上の劇的な構築にも細かく配慮が行われていて、たとえば第1幕の、ピツァロがロッコに囚人の殺害を命じる個所でのオーケストラを極度に不気味に強調したり、第2幕大詰めのフロレスタンのソロに始まる高潮個所でリズムをアッチェルランド気味に煽って行ったりしたこともその例である。

 ただしその追い込みのアンサンブルに入る個所で、歌手の入りにちょっと食い違いがあり、聴かせどころが今一つになったことは惜しかった。更に欲を言えば、第1幕での行進曲に今少しの不気味な緊迫感が、また幕切れのオーケストラの後奏に今少しの熱狂が欲しかったところだが・・・・全体の出来の中では些少な不満に過ぎぬ。
 日本センチュリー響も、飯森の指揮によく応えて緻密な演奏を繰り広げた。序曲や「レオノーレのアリア」などでの難しいホルンも、今日はあまり大きな破綻もなく吹かれていたので安心。

 歌手陣では、まず木下美穂子の豊かな、張りのある劇的な歌唱を挙げよう。先日の新国立劇場での彼女のレオノーレは聴けなかったのだが、それより前、東京二期会のガラ・コンサートでこのアリアを素晴らしく歌っていたのを聴いて、今日の演奏を楽しみにしていたのである。
 他に、松原友は脇役ながらも主役級の堂々たる歌唱、石橋栄美もいつもながら豊かな声と愛らしさで、この脇役2人はいずれも映えていた。

 帰国できなかった松位浩に代わってロッコを歌った山下浩司は、この役としてはもう少し重みが欲しかったが、中盤から調子を上げて行った。フロレスタン役の水野秀樹は歌唱が荒っぽいが、たっぷりした声があるので、これからに期待しよう。町英和が意外に声の伸びを欠いていたのは不思議で、悪役の刑務所長としての迫力には不足気味。大臣役の萩原寛明にも、もう少し威厳を望みたい。

 合唱団はフェイス・ガード(らしきもの)を着用していたため、総じて声がこもり気味になっていた。事情は理解するが、幕切れの頂点の個所(2分足らず)だけでもガードを外してストレートに声を響かせて欲しかったくらいだ。頂点での熱狂を些か薄めさせた原因はこの合唱にある。
 もっとも、マスクをつけての歌唱であっても、あの東京混声合唱団は量感ある歌唱を響かせていたのだから、この辺は力量の差ということになるのだろうか。

 地下牢の場である第2幕では照明を半明かりに落し(オーケストラは譜面灯を使用)フロレスタンらが解放されて自由が戻る第2場では照明を明るく戻すという「演出」もいいだろう。
 なお演奏前に、フロレスタン役に予定されていながら今春急逝した二塚直紀氏を悼んでの黙禱が行われた。
 「レオノーレ」序曲第3番の挿入などは無し。それでも20分ほどの休憩を含み、終演は9時半頃になった。

 今回は大阪駅構内の「ホテルグランヴィア大阪」に宿泊。ここは何処へ行くにも便利だ。

2020・11・10(火)ワレリー・ゲルギエフ指揮ウィーン・フィル

      サントリーホール  7時

 デニス・マツーエフの弾くソロ・アンコール曲がグリーグの「山の魔王の宮殿にて」に変わったのを除けば、オーケストラのアンコール曲を含め、一昨日の川崎での演奏会と同一のプログラム。
 ただし、━━そこがナマの演奏の面白いところだが、演奏の表情も、音色も、川崎でのそれとは、大きく異なったものになっていたのである。
 それは、ホールのアコースティックの違いのためもあろう。だがともかく、今夜の演奏では、オーケストラの響きが全体に柔らかく、あたたか味を帯びたものに変わり、余計な力みのようなものも消えて、音楽に「歌」がより強く蘇っていたのだ。

 一昨日には僅かしか出ていなかった「ウィーン・フィルらしさ」も、今日の演奏では、より強く復活していたように感じられた。「ロメオとジュリエット」の1曲目、「モンタギュー家とキャピュレット家」冒頭のクレッシェンドでも、凶暴さがかなり和らいでいたのではないか。

 後半の「悲愴交響曲」では、ゲルギエフは両端楽章をかなり遅めのテンポに設定し、総休止の「間」もたっぷりと採って慟哭美を強調し、これらを以って中間2楽章の速いテンポによる激情との明確な対比をつくり出す。
 ここでの感情の大きな起伏の所以は、もちろんゲルギエフとウィーン・フィルの巧さによるものだが、今回は演奏直前にVPOからこの演奏を新型コロナ禍の犠牲者等に捧げること、演奏終了後には暫し黙祷を要請する、といった主旨のアナウンスがPAを通じて入ったため、それがあの16年前━━2004年11月19日にこのホールで行われた、北オセチアの「子供のための支援基金」「新潟中越地震被災者支援」のチャリティコンサート━━の「悲愴」と同じく、演奏にある種の影響を与えていたのかもしれない。

 ともあれ、あの時に印象づけられた指揮者とオーケストラとの駆け引きのようなものは、今日のプログラムでも、かなりの程度までは再現されていた。つまり、ウィーン・フィルはゲルギエフに合わせてロシア的な色彩感を打ち出すと見せながら実は己の個性を譲らず、ゲルギエフもまたウィーン・フィルの個性を尊重すると見せながらも自らの癖を押し出すといったような、強豪同士のせめぎあいのようなものである。
 ただその緊迫感の面白さは、16年前の協演の時に比べると、やや薄らいでいたか、とも思えたが。

 一昨日に比較すると、オーケストラは全体に、良くも悪くも落ち着いた演奏になっていたようだが、そういえば、マツーエフも、コンチェルトの「2番」での演奏が、川崎よりもややおとなしかったか? 最後の一撃を叩き終った勢いでダッと立ち上がるいつものあの動作が、今日は何故か見られなかったっけ。

 終演は9時半頃。

2020・11・8(日)ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団来日演奏会

       ミューザ川崎シンフォニーホール  5時

 多分無理では━━と一時は思われていたウィーン・フィルが、本当に来日した。
 麒麟が来た、動物園にゾウが来た、などいろいろ面白い比喩を口にしていた人もいる。だがその一方、何故ウィーン・フィルだけが特別扱いなのだ、と激怒している人もいるようだ。何かにつけて怒り出す人が多いようだが、こんなところでマイナス面を取り上げて怒ってみても意味はない。物事は一つ一つ解決して行かねばならないのである。

 満席の大ホールの客席を見るのはいつ以来か。2千近い数の客席がぎっしりと詰まっている━━もちろん所々に一つか二つ、欠席客によるカラの椅子もあったが━━光景は壮観で、久しぶりに見ると、何か気圧されるような感に襲われる。感染症対策を充分に行いつつ、だんだんと通常の状態に復帰して行ければ、それに越したことはないのだが。

 さてそのウィーン・フィル、今回の指揮はワレリー・ゲルギエフ。2004年以来16年ぶりの組み合わせである。
 北九州、大阪に次ぐ今日は3日目の公演で、プロコフィエフの「ロメオとジュリエット」から4曲、同じく「ピアノ協奏曲第2番」(ソリストはデニス・マツーエフ)、後半にチャイコフスキーの「悲愴交響曲」というプログラム。
 アンコールはチャイコフスキーの「眠りの森の美女」からの「パノラマ」。なおマツーエフのソロ・アンコールは、チャイコフスキーの「四季」から「秋の歌」だった。

 オーケストラの曲目はすべてロシアの作品ばかりだったので、ウィーン・フィルの音も総じて野性的な色合いを濃くしていたが、それでも「ピアノ協奏曲」でのオーケストラは豪壮な力感の裡にもあたたか味を感じさせていたし、就中「悲愴交響曲」の第3楽章後半から終楽章にかけてはやはりウィーン・フィルだな、と感じさせるような凄味が、特に弦楽器群には漲っていたように思う。

 とはいえ・・・・今回のこのゲルギエフとウィーン・フィルによる「悲愴」、ダイナミックな勢いこそ充分だったものの、かつて2004年秋にロシアのテロ事件の犠牲者と新潟県中越地震の犠牲者を追悼して彼らが日本で演奏した時の痛切な慟哭にみちた、聴き手に涙させるような「悲愴」には、残念ながら比すべくもないようだ━━まあ、あの時は異常な状況下にあったわけだから、比べるのは野暮というものだが・・・・。

 デニス・マツーエフは、また一回り体躯が大きくなった印象で、演奏もさらに鮮やかだ。長いカデンツァをはじめ、これだけ激しく豪快な演奏を繰り広げながらも、音色が透明で綺麗なのには感心する。最後の最強音を叩きつけた勢いでそのまま立ち上がってしまうのも、以前に変わらない迫力だ。だが、ソロ・アンコールで弾いたチャイコフスキーの「秋の歌」での、ショパンとまがうばかりの叙情美は魅力的であった。

 それにしても、「来日オーケストラ」を聴いたのは、今年1月のサロネン&フィルハーモニア管弦楽団以来だ。月並みな表現だが、久しぶりに聴く外国の超一流オケは━━やはり凄い。
 外国勢が来ない間、私は日本のオーケストラを応援しつつ各地のオケを聴き歩いていた。こういう時にこそ日本のオケは意地を見せるべきだったが、今から思えば、必ずしもその意気を示したオーケストラばかりではなかったし、また、それを感じさせる演奏が多かったとは言い難いのが残念である。・・・・やはり外国からの刺激は不可欠なのだろう。

2020・11・4(水)ウィーン・フィル来日記者会見(オンライン)

 コロナ禍のため演奏家の来日が長期間ストップされていた中にあって、ついにウィーン・フィルハーモニー管弦楽団が予定通りの来日を果たした。
 ダニエル・フロシャウアー楽団長とミヒャエル・プラーデラー事務局長が夕方5時からオンライン記者会見を行ない、ほぼ45分間話す。蔵原順子さんの明晰な通訳なので、解り易い。

 ウィーン・フィルの2人の顔をパソコン画面で視た時は、不思議に懐かしさがこみ上げた。とうとうウィーン・フィルが約束通り来てくれたのだ、と。今回は所謂「特別な措置」だったようだが、これを突破口として演奏家の国際間移動が少しずつでも復活するように━━そういう動きへの希望を抱かせるには充分な出来事であるに違いない。

 2人の話は詳細で多岐にわたったが、日本へのツアーを中止することは一度も考えたことがなく、こういう時だからこそわれわれの力を示さねばならぬという決心のもとに、9月頃よりオーストリア外務省や日本大使館と綿密な打ち合わせを繰り返し、文化的な意義を優先して実現に漕ぎつけたとのこと。

 以下、特別機で福岡空港へ到着(通常ウィーン―福岡の便は無い)したこと、2週間の滞在中は(ホテルと会場間の移動のみで)ほぼ「隔離状態」にも等しい生活になるが、それでも日本演奏旅行を実施しようと決めたこと、楽員は常に厳格な健康検査を受けていること、出発直前に楽員の1人に陽性者が出た(ただし症状なし)ため、医者が「問題ない」と判断した数名の楽員に至るまでをツアー参加者から除外し、さらに全員に検査を行うなど、慎重かつ万全の体制を敷いての訪日だったことなど。

 演奏会は、予定通りゲルギエフの指揮で開催される由。楽しみである。

2020・11・3(火)ヘンデル:「リナルド」セミ・ステージ形式上演

      東京オペラシティ コンサートホール  4時

 「鈴木優人プロデュース/BCJオペラシリーズVol.2」と題された力作プロダクション。
 ステージ奥にバッハ・コレギウム・ジャパンのオーケストラが、中央に指揮の鈴木優人がチェンバロとともに位置する。ステージ前面に簡単な小道具があり、かなり丁寧な照明演出が加わり、登場人物は舞台上演並みの衣装を着けて簡単な演技を行う。イタリア語上演の日本語字幕付き。

 歌手陣は全て日本勢で、藤木大地(十字軍の兵士リナルド)、森麻季(その許嫁アルミレーナ)、久保法之(十字軍の将軍ゴッフレート)、青木洋也(その弟エウスタツィオ)、大西宇宙(エルサレム王アルガンテ)、中江早希(魔女アルミーダ)、波多野睦美(魔法使)、谷口洋介(使者)、松井亜希&澤江衣里(セイレーン)。
 演出が砂川真緒、ドラマトゥルクが菅尾友、照明が稲葉直人、衣装コーディネートが武田園子━━その他の顔ぶれ。

 照明が華麗で、舞台が美しく見える。歌手陣も全員健闘して、なかなかに聴き応えがあった。アルミーダ役の中江早希のコミカルな演技、大西宇宙の張りのある歌唱などが印象に残る。オーケストラもさすがBCJ、堂に入ったものだ。

 だが何といっても鮮やかだったのは、指揮とチェンバロの演奏に獅子奮迅の活躍を示した鈴木優人であったろう。長い全曲を些かも弛緩なく、しかもバランスよく、流れよく構築し、ヘンデルの活気に満ちた音楽の魅力を余すところなく再現していた。チェンバロのソロとオーケストラとがこれほど有機的な関連性を持って密接に流れよく結びつけられた演奏は、そうたびたび聴けるものではないだろう。アルミーダがヤケ酒をあおる場面では、チェンバロで泥酔ぶりを示すような演奏をして見せるようなユーモア感覚もある。
 彼の感性とエネルギーには舌を巻いた。先日の読響とのメシアン(10月6日)といい、今回のヘンデルといい、このところの鈴木優人の躍進ぶり、好調ぶりには刮目すべきものがある。

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