2021-04

2020年10月 の記事一覧




2020・10・31(土)群馬交響楽団創立75周年記念演奏会

       高崎芸術劇場 大劇場  6時45分

 山田和樹が客演、ベルリオーズの「イタリアのハロルド」(ヴィオラのソロは今井信子)、ガーシュウィンの「パリのアメリカ人」、ラヴェルの「ラ・ヴァルス」というプログラムを指揮。

 彼と群響は前夜にも東京オペラシティコンサートホールで同一プロを演奏していたが、私は藤が丘でオペラ講座をやっていたため東京公演には行けなかった。というより、新しい高崎芸術劇場で群響を聴いてみたいと以前から思っていたので、この高崎行きは当初から予定していたのである。それに高崎は東京駅から新幹線で50分。車内で駅弁を食べる余裕もないほど、近い。

 昨年秋に開館した高崎芸術劇場は、高崎駅東口(つまり以前からあった群馬音楽センターの方とは反対側だ)から200メートル足らずか。駅(2階)から劇場までは直接小さな屋根付きの空中回廊が通じていて、吹き降りでなければそれほど濡れずにホールまで行くことができるという仕組み。客席数2027の大劇場、412席の音楽ホール、400~1000席可変の演劇用のスタジオシアターなどを含む、大規模な施設だ。

 今日訪れた大劇場は、ホワイエも会場内も木目調で、スペース感も充分。特にホワイエとロビーの外部に面した部分はすべてガラス張りで、極めて開放的で気持がいい。
 音響の面では、それほど残響は長くはないが、オーケストラの音は良く響く。あの古い群馬音楽センターに比べれば、広さといい、アコースティックといい、設備といい、楽屋の広さといい、御の字であろう。群響にもやっと大きな音のいいホームグラウンドが出来たというわけで、これは本当に喜ばしいことである。

 実際、今日ここで鳴り響いた群馬交響楽団は、これまで古いホールで鳴っていたそれと比べると、全く別のオーケストラのように聞こえた。よりダイナミックで、より緻密で均衡豊かで、より美しい。いわば、スマートなオーケストラというイメージになっていたのである。

 今日の演奏、3曲それぞれの性格の描き分け、音色の変化などという点でも、鮮やかだ。
 「イタリアのハロルド」はシンフォニックな力感に富み、「パリのアメリカ人」は、所謂煌びやかな音ではないにしても、活気の漲る演奏である。一転して「ラ・ヴァルス」では、弦楽器群の柔らかい音色が優雅なニュアンスを醸し出す。
 これらはもちろん山田和樹の卓越した指揮から引き出されたものだが、それにしても彼の音楽構築は、また巧さを増した。「ハロルド」の全曲大詰での劇的な追い上げ、「パリのアメリカ人」でのリズムの躍動感。「ラ・ヴァルス」では、冒頭のコントラバスの4小節のピアニッシモはどうやら凝り過ぎていて、私の席(1階21列)でさえほとんど聞こえないような弱音になっていたが、中間部以降での熱狂ぶりは見事なものだった。

 「ハロルド」での今井信子のソロは風格充分で、放縦で苦悩に満ちたチャイルド・ハロルド像というよりも、思索に耽る高貴な性格のハロルド━━といった感だろう。なお彼女のソロ・アンコール曲、バッハの「無伴奏チェロ組曲第1番」からの「サラバンド」における深みのある演奏は、天下一品の趣があった。

 客席配置は未だ市松模様で、上限900席とのことだったが、お客さんはよく入っている。もともと群響のお客さんは、音楽センターの時代から、熱心な雰囲気を漲らせていたものだ。「いつ頃から以前の着席スタイルに戻しますか」と渡会常務理事に訊ねたら、「それならそれで今度は、隣にも人がぎっしりの客席では密が心配だ、と足が遠のいてしまう高齢者のお客さんもいるかもしれないので、それも心配なのは事実です」とのこと。これは確かにあり得るかもしれぬ。

 この劇場の「感染予防対策」も「健康状態記入用紙」を書かせるなど大がかりだが、大阪のどこぞのホールとは違い、場内アナウンスは柔らかである。ただ、終演後の時差退場の指示はあまりに悠然たるものだ。

2020・10・29(木)大山平一郎指揮関西フィルハーモニー管弦楽団

      ザ・シンフォニーホール(大阪) 7時

 桂冠名誉指揮者・飯守泰次郎と関西フィルの「ブルックナー・ツィクルス」の締め括りとして予定されていた交響曲「0番」と「00番」が━━これは実に奇想天外なプログラムだ━━飯守氏の急性胆嚢炎による入院のため延期となり、大山平一郎がブルックナーの「4番」を指揮するというプログラムに変更となった。なお飯守氏は幸いなことに快方に向かい、2,3日後には退院の予定と聞く。

 大山平一郎がブルックナーを指揮するのを聴いたのは、私は今回が最初である。ロサンゼルス・フィルの首席ヴィオラ奏者だった時代には、ジュリーニらの指揮で何度か弾いたことがあるという話は聞いたが、指揮者となってからはどのくらい手がけているのだろうか。
 今日聴いた限りでは、極めて慎重に几帳面に、スコアのすべての音符を丁寧に演奏することに専念しているように感じられた。

 さすが弦楽奏者出身だけあって、弦を瑞々しく響かせる。関西フィルの弦がこれだけ緻密に響いたのを聴いたのは、私にとっては初めてかもしれない。ただ、弦の編成が小さいために、とかく金管群に打ち消されがちになるのが惜しかったが。
 一方、その金管は実に力感たっぷりに、安定して鳴り響いていた。関西フィルの金管がこれだけ緻密にバランスよく咆哮するのを聴いた機会も、私としてはそう多くはなかっただろう。
 総じて今日の関西フィルは、すこぶる安定していて、良かった。以前に比べ、演奏の技術水準もかなり上がっているように思われる。
 
 だが、肝心なことは・・・・これは指揮者の責任だが、音楽の流れ全体に、もっと有機的な繋がりが欲しいのである。一つのフォルティッシモ、一つのピアニッシモ、一つのクレッシェンド━━それらすべてが一つずつ単独に存在してしまい、単独で完結してしまっている演奏なのだ。これでは、ブルックナーの巨大な山脈の如き音楽を再現することは不可能だろう。特に前半2楽章では、それが痛切に感じられた。
 ただ、第3楽章のスケルツォのクライマックスの個所あたりでは、オーケストラの力感と相まって、流れの構築もうまく行っていたのではないかと思う。

 今日の演奏会は、これ1曲。コンサートマスターは岩谷祐之。

 ザ・シンフォニーホールの新型コロナ感染予防対策は綿密を極めており、それは実に結構なのだが、それに関する場内アナウンスはくどいほど長く、「指示に従わない人には退館を求める」とか、演奏終了後の「規制退場」とかいう表現(そう聞こえた)もあったりして、安全対策への呼びかけというよりは「規制」という姿勢がもろに出ているように感じられて不愉快だ。これほど横柄な、音楽を楽しみに来ている人々を白けさせるようなアナウンスをしているホールは、私の知る限り、ここだけである。昔、NBSが(もしカメラで撮影している人がいたら)そのカメラを「没収いたします」という高飛車なアナウンスを繰り返し、その都度観客を失笑させていた例に次ぐものだろう。

2020・10・24(土)三ツ橋敬子指揮東京混声合唱団

      東京文化会館小ホール  3時

 東混の定期公演。前半に林光の「黒い歌 混声合唱のために」と、西村朗の「炎の孤悲歌(かぎろいのこいうた)=柿本人麻呂の歌に依る」。後半にフォーレの「レクイエム」。

 東混のメンバーは、秘密結社団員の覆面みたいな「歌えるマスク」を着用しての演奏。
 ホールは今や通常スタイルの客入れ方式となり、ぎっしり満員の盛況。めでたい話には違いないが、久しぶりにこういう「満員客席」に座ると、何となく圧迫感に襲われないでもない。

 前半の2曲は、無伴奏での演奏だ。「黒い歌」は1964年の、「炎の孤悲歌」は1990年のそれぞれ東混委嘱作品。所謂「コーラス曲」のような素朴なものではなく、どちらも複雑な合唱曲で、えらい難しい歌唱力を要求されるようである。
 三ツ橋敬子のプレトークに西村朗が呼ばれ、初演の時に古参のメンバーから「こんなの歌えねえよ。お前が自分でやってみろ」と凄まれた、という話を披露、三ツ橋が「その頃のメンバーが未だ6人くらいいらっしゃるようですよ」と受けて聴衆を笑わせていた。

 後半のフォーレの「レクイエム」は、オーケストラ・パートを信長貴富が弦楽五重奏とポジティヴ・オルガンとに編曲した版で演奏された。
 折角のアイディアだったが、残念ながらこれは成功だったとは言い難い。というのは、弦楽五重奏の音があまりにクリア過ぎ、シャープで大きな音量で響くので、この作品特有の柔らかく夢幻的な世界がどこかへ消し飛んでしまっていたからだ。特に今日は超満員のため、ホールの残響も吸われてしまっているから、なおさら音が乾いて聞こえ、些か刺激的な、ギスギスしたフォーレといった音楽に感じられてしまうのである。

 もしもっとよく響く大きなホールとか、残響豊かな教会とかで演奏されていたなら、響きも音色も少しは異なって聞こえただろうと思うが━━。合唱を含めて、何か落ち着かぬ感に支配された「フォーレのレクイエム」だった。
 声楽のソロは澤江衣里(S)と宮本益光(Br)で、これは素晴らしかった。

2020・10・23(金)配信映像、ラトル指揮の「青ひげ公の城」

 KAJIMOTO(梶本音楽事務所)の案内により、バルトークのオペラ「青ひげ公の城」(演奏会形式)の配信を、サイモン・ラトル指揮ロンドン響と、ジェラルド・フィンリー(青ひげ)およびカレン・カーギル(ユーディット)の演奏で視る。夜8時からの配信。

 新型コロナ禍のため来日中止を余儀なくされたサイモン・ラトルとロンドン交響楽団。もし来ていれば、バルトークの「管弦楽のための協奏曲」とオペラ「青ひげ公の城」(演奏会形式)という、この上なく魅力的なプログラムが聴けたわけだが━━たとえ配信でも、その一端に触れることができたのは幸いだ。

 この「青ひげ公の城」は、9月に聖ルカ教会で収録されたものとかで、ラトルとLSOが始めた発信プロジェクトの第1弾なのだそうだが、今回の配信には演奏の前後にラトル自身が日本の聴衆に向けた丁重なメッセージが挿入されるなど、細やかなつくりになっているのもいい。
 演奏はもちろん非の打ちどころがない出来で、ラトルらしく劇的な起伏の非常に大きな指揮が素晴らしく、私の好きなこの作品を充分に堪能させてくれた。

 全曲が終ったあと、歌手と指揮者へのスポットが消え、そのまま暗転して終り・・・・かと思ったら、再び灯が点いて、楽員など全員の「お疲れさま」の和やかな光景が繰り広げられ、その中でラトルが日本へのメッセージを語るのを楽員たちが黙って聴き、それが終ると再びガヤガヤの光景に━━といった収録が、なんともナマっぽく、親しみやすくて、楽しかった。映像も録音も美しく安定していた。

2020・10・22(木)チョン・ミン指揮東京フィルハーモニー交響楽団

      東京オペラシティ コンサートホール  7時

 当初の予定では名誉音楽監督チョン・ミョンフンが指揮する予定だったが、新型コロナ感染予防対策の「2週間待機」が不可能だったため、代わって子息のチョン・ミン(東京フィルのアソシエイト・コンダクター)が来日して指揮台に立った。「2週間待機」をもちゃんとこなした上で、とのことである。
 プログラムは予定通りベートーヴェン作品集だが、「ヴァイオリン協奏曲」(ソリストは服部百音)はそのまま演奏されたものの、「英雄交響曲」は「第5交響曲《運命》」に変更された。コンサートマスターは三浦章宏。

 この指揮者、実は私は聴くのが初めてなのだが、今日のレパートリーに限って言えば、重厚な低音の上にオーケストラをがっしりと構築し、古典的な造型を重視する音楽づくりを目指す指揮者、という印象か。
 「ヴァイオリン協奏曲」でも風格ある響かせ方が目立ち、コンチェルトというよりは、あたかもヴァイオリン・ソロのオブリガート付きのシンフォニーといった音楽の組み立てを求めていたかのようだ(そうではないと言っても、私にはそう聞こえたのだから仕方がない)。

 かたや「運命」では、冒頭のモティーフの「2回1組」の演奏におけるバランスの良さに感心させられた。たっぷりとした音で、フェルマータをかなり長めに採る。しかもそれらの「間」の取り方が、一定のリズム感を生み出していて、実に絶妙なのである。
 この均衡の良さはそのあとも続き、各楽章と、ひいては全曲を均衡性に富んだものとしている。コントラバスを強く響かせ、力感のある重低音で安定感を生み出す指揮は魅力だ。東京フィルもよくこれに応えていた。

 とはいえ、第2楽章は、あまりに生真面目に纏めようとしているせいで、音楽に感情の動きが失われている。
 後半2楽章でも、適度にクレッシェンドなどデュナミークの変化を挿入して劇的な起伏を狙っていたようだが、その演奏にはやはりどこか生真面目さが残っているので、なまじ構築のバランスがいいだけに、スリリングな昂揚感といった要素に不足する印象を生んでしまうのだろう。
 もし今後、彼がこれらのバランス構築を保ちつつ、その中にデモーニッシュな力を感じさせるような音楽をつくれるようになったら、いい指揮者になるだろうと思われる。

 チョン・ミンの指揮がこういう調子だから、コンチェルトでは、服部百音の演奏が、美しくはあるものの、不思議に何となく線の細いソロに聞こえてしまう。むしろ彼女がソロ・アンコールで弾いたイザイの「第2無伴奏ソナタ」の第4楽章が自由闊達で開放的で、よかった。こちらが彼女の本領だろう。

 「運命」の演奏が終ると同時に、禁断のブラヴォーを叫んだ掟破りの御仁がいた。コロナ規制以来、久しぶりに聞くブラヴォーの声だ。何だか懐かしいが、ギョッとした。やはり当節、未だちょっとヤバイのではないか。

2020・10・18(日)プッチーニ:「トゥーランドット」

       神奈川県民ホール 大ホール  2時

 「神奈川県民ホール・オペラ・シリーズ2020」としての上演。
 共同制作として大分のiichiko総合文化センターと山形のやまぎん県民ホール、東京二期会、神奈川フィル、山形交響楽協会(山響)が名を連ね、大分でも今月24日に、山形でも31日に上演される。

 大島早紀子の演出と振付、佐藤正浩の指揮、神奈川フィルと二期会合唱団、赤い靴ジュニアコーラス。キャストはダブルの今日は2日目で、岡田昌子(トゥーランドット)、芹澤佳通(カラフ)、砂川涼子(リュー)、デニス・ビシュニャ(ティムール)、大野徹也(アルトゥム)、大川博(ピン)、大川信之(パン)、糸賀修平(ポン)、井上雅人(役人)の出演。

 岡田昌子は5年前に宮崎でリューを歌っていたのを聴いたが、その時のかなり「強い」歌い方から、この人はリューよりトゥーランドットの方に向いているんじゃないか、と書いたことがある(2015年5月17日の項)。それが今回やっと聴けたわけだ。所謂猛女のような性格のみで押しまくる姫君ではなく、愛らしさと無邪気さと、ひたむきさとをも併せ持ったトゥーランドット━━というイメージの歌唱と演技とで、これは成功していたと思う。
 リューの砂川涼子は、これはもう極め付きともいうべき歌唱と演技で、今回は何となく田舎の素朴な少女といったメイクだったのが印象に残った。

 注目対象の一つは、コンテンポラリー・ダンスの大島早紀子が10年ぶりに手がけた演出と振付にある。ダンスはもちろん、彼女の主宰するH・アール・カオス(白河直子他)。
 結論から先に言えば、このプロダクションにおけるダンスの使い方は、東京二期会の以前の上演「ファウストの劫罰」(2010年7月15日他)でのそれを上回り、「ダフネ」(2007年)に並ぶ成功だと思われる。

 合唱の個所では全てダンスが活用され、登場人物の心理の動きなどをイメージする活気ある舞台が繰り広げられる。トゥーランドットの凶暴な心理が動揺する場面になると、高く低く宙を舞うダンスがいっそう激しさを加える。彼女の演技にも、また群衆の一部の動きにも舞踊的な要素が応用されているのも面白いだろう。
 中国人たちの動きが舞踊的であり、カラフやリューらの韃靼人たちの動きはリアル、という対照も面白いが、━━ただそれゆえにこそ、ただ一人、カラフの、あの日本のオペラ歌手特有の、手を前に差し伸べる類型的な仕草が、何とも野暮ったい、能のない動作に見えて来る。

 佐藤正浩のテンポが速めで切れが良く、神奈川フィルともども活気のある演奏を繰り広げていたのが良かった。

 なお、最後の場面に入った個所(リコルディ版楽譜453頁)で、その1小節目の2つ目の2分音符をトランペットが「上げて」吹いた(そこで偶然トランペットがひっくり返ったことは別として)根拠を、どなたか教えて下さらないだろうか。あそこを「上げて」吹かせた演奏は、1959年に録音されたラインスドルフ指揮のレコード以外、絶えて久しく聴いたことがなかったからだ(1回くらいはあったか?)。

2020・10・17(土)角田鋼亮指揮日本フィルハーモニー交響楽団

       横浜みなとみらいホール  5時

 これは横浜定期演奏会。角田鋼亮が客演指揮、辻彩奈がソリストに迎えられていた。
 最初に辻彩奈がソロでバッハの「シャコンヌ」(無伴奏パルティータ第2番終曲)を弾き、次にオーケストラとの協演でバッハの「ヴァイオリン協奏曲」の「第1番」と「第2番」を演奏。第2部は角田と日本フィルがブラームスの「第4交響曲」を演奏するというプログラムだった。コンサートマスターは扇谷泰朋。

 オーケストラの定期でありながら最初にソロ曲をおく━━それもステージ上にたった1人で立たせて演奏させるというのはかなりユニークなスタイルだが、これはその「シャコンヌ」が最後のブラームスの「第4交響曲」のフィナーレと呼応しているということを示す意図によるものだろう。どなたの発案か知らぬが、かなり凝った企画と言えよう。

 新鋭・辻彩奈の演奏は清らかな叙情感にあふれたもので、こういう屈託ない表情のバッハを演奏出来るのは若手の特権かもしれない。だが、この曲にはやはりもっと厳しい魔性のような力と陰翳の変化が欲しいところだ。そのあとの2曲のコンチェルトでの演奏にもある程度同じようなことが言えるのだが、ただこの場合は指揮者にも責任の一半はあるだろう。

 ブラームスの「4番」では、こちらの聴いた席(1階やや後方下手側寄り)にもよるのかもしれないが、ホルンと12型の弦とのバランスの悪さがまず気になった。第1楽章提示部あたりでは、ホルンがかなり強く浮き出して来るために、内声の動きの面白さという意味で聴いていたのだが、しかし、のちに4本のホルンが弦をマスクしてしまうようでは━━。
 概して金管とティンパニが弦を霞ませてしまうようなバランスだったと言っても言い過ぎではなかろう。

 それにしても日本フィル、今日は些か演奏が粗いし、音楽も乾いている。鬼将軍ラザレフと俊英の名将インキネンがいないと、またもや十数年前の日本フィルに戻ってしまうのではないかと危ぶまれる。

2020・10・16(金)山下洋輔流ベートーヴェン

      東京芸術劇場コンサートホール  7時

 ジャズ・ピアニストの巨匠・山下洋輔がベートーヴェンの作品を弾く。
 ソロではピアノ・ソナタの「第6番」第1楽章、「悲愴」第2楽章、「エリーゼのために」、「月光」第1楽章、自作の「オマージュ」。
 室内楽の形では「第9」第2楽章、「田園」第1楽章、「運命」第1楽章」、「第9」第4楽章(アンコール)。
 協演は八尋知洋(パーカッション)及び飛鳥ストリング・クァルテット(マレー飛鳥、相磯優子、志賀恵子、西山牧人)。室内楽の方は櫛田哲太郎の編曲とのこと。

 「編曲」という、ある程度事前に準備されている(ことを推測させる)ヴァージョンによる演奏よりも、やはり即興的な要素の強い(と思われる)ソロの方が面白かった。
 従って、原曲から主題の部分だけを抜き取り、そこから自由に飛翔して行くフリー・ジャズのスタイルの演奏が繰り広げられたソナタ集の方が、私には気に入った。実を言えば、八尋知洋のパーカッションとの、丁々発止のアドリブの応酬がもっとあるかと期待していたのだが━━。

 折角の「山下洋輔流ベートーヴェン」なのに、総じてなんとなく遠慮っぽかったような雰囲気で・・・・まさか、ベートーヴェンあるいはクラシック・ファンに気を遣っていたわけでもあるまいに。
 これは東京芸術劇場の「生誕250年記念 ミーツ・ベートーヴェン・シリーズ」のVol,4として行われた演奏会。

2020・10・11(日)下野竜也指揮神戸市室内管弦楽団

    紀尾井ホール  3時

 1981年に神戸市室内合奏団(? オケのサイトにも公演プログラムにも最初の名称は書いてないが)として創立、2018年4月から現名称。
 公演プログラムによれば2000年(オケのサイトには1998年となっているが、どちらがほんと?)ゲルハルト・ボッセが音楽監督に就任。2013年からは岡山潔が音楽監督を務めたが、ネットによれば、彼の逝去後空席となっていた同ポストには、来年4月に鈴木秀美が就任予定とのこと。

 今日の東京公演は、下野竜也の客演指揮でベートーヴェン・プロ。第1部では清水和音をソリストに迎えて「ピアノ協奏曲第4番」が、第2部では「英雄交響曲」が演奏された。
 オーケストラの弦は6・6・5・4・3の編成だが、下野の指揮は力感にあふれており、すこぶる堂々たるベートーヴェンが展開された。「英雄」での演奏は、特に第1楽章が作品の性格に相応しい明確な造型力を備えており、下野が確信を以ってこの大曲を構築していることを感じさせる。コンチェルトの方でも清水和音が骨太なソロを聴かせていた。

 コンサートマスターは客演の松原勝也。本来が弦楽合奏団だったこともあり、弦24名のうちのほとんどは正規楽員だが、管の大半はエキストラのようだ。歯に衣着せずに言えば、今日の演奏では、このトラたちの力量の方が、弦のそれを上回っていた感もある━━。

2020・10・10(土)やまがた芸術の森音楽祭初日 山形交響楽団

      やまぎん県民ホール  2時

 土砂降りの東京を朝発って、昼近くに着いた山形は薄日も漏れる穏やかな天候。駅西口からホールへの屋根付き通路もほぼ完成に近づき、その傍らには新しいレストランも建設中とあって、整備も順調に進んでいるようだ。

 以前からある山形テルサホールに隣接してまたこのような大規模なホールを建設したことについて、地方では屡々起こる「税金の無駄遣い」という非難は出なかったのかとある人に訊ねたが、ホールの建設には「県産物」を多く使用したことで、「山形県の産業振興の顕れであり、文化振興の証でもある」という名目を立てることができ、非難を受けるのを避けられたのだ━━という話を聞いた。

 そこで、今日の音楽祭。2日にわたる開催だ。主役は山形交響楽団で、今日は指揮に太田弦を、ソリストに小曽根真を迎えての演奏会。コンサートマスターは高橋和貴。

 第1部は、まず山形にゆかりのある題材によるNHK大河ドラマのテーマ音楽から、千住明作曲の「風林火山」、池辺晋一郎の「独眼竜政宗」、大島ミチルの「天地人」、富田勲の「天と地と」。次に、映画でも山響が演奏を受け持っていた久石譲作曲の「おくりびと」。最後に伊福部昭の「SF交響ファンタジー」第1番。
 そして第2部に、小曽根真の自作自演による「ピアノ協奏曲《もがみ》」。

 編成も音響も壮大で賑やかで、ステージ上はぎっしりという感。これは当初3月に予定されていた演奏会とのことである。
 「天と地と」では琵琶の久保田晶子が協演、「おくりびと」でのチェロのソロは山響主席の矢口里菜子が弾いた。さらに大河ドラマのテーマの演奏の時には「やまがた愛の武将隊」なる鎧兜に身を固めた3人の武将(直江兼続の兜の前立は確かに目立つ)も登場して舞を演じ、良きローカル色を発揮する。因みにこの「愛の武将隊」は、観光PRを役目として2015年に結成されたものだそうだ。

 第2部では、今日の「目玉商品」たる小曽根真の「もがみ」全曲が演奏された。2003年に作曲され、彼自身のソロと指揮、山響の演奏で初演されたもの。何度か演奏されている由だが、今回は改訂版による演奏とのことであった。私は初めて聴く。
 「最上川舟唄」という民謡がモティーフとなっており、大編成のオーケストラにより複雑精密な響きが展開される。3楽章形式で、演奏時間も50分近い長さを持つ力作だ。最初にステージ下手袖で民謡が遠藤憲一の歌と高橋兼一の尺八で演奏され、続いてピアノとオーケストラによるコンチェルトの本編に入る。小曽根真がクラシック音楽のジャンルに真向正面から挑み、しかも成功を収めた例ということができよう。

 客席は市松模様の席割ながら、コンチェルトのあとにはスタンディング・オヴェーションも盛んな熱狂ぶり。「BRAVO」の文字の入った紙を掲げる人が多いので、用意してきているファンが結構多いんだな、と思ったら、実はそれは山響のタオルの由。
 山響は、「山響グッズ」としてタオルと手拭1本ずつを1セットとして販売したが、どうせならということでそのタオルに「BRAVO」の字を染め込み、時節柄活用できるようにしたのだという。

 コロナの飛沫感染防止対策として「ブラヴォー」は叫んでくれるなという要請は今や各ホールで行われているけれども、それをグッズ販売に結びつけるとは大したアイディアというべきであろう。それは完売したという。経済的な苦境を克服するための山響の懸命の活動は称賛に値する。
 7時31分の新幹線で帰京。

2020・10・9(金)飯守泰次郎指揮日本フィルハーモニー交響楽団

     サントリーホール  7時

 日本フィルの10月定期。
 予定されていたラザレフの指揮するリムスキー=コルサコフの「金鶏」組曲や「ピアノ協奏曲」、ショスタコーヴィチの「交響曲第10番」という濃密なプログラムが聴けなかったのは痛恨の極みである。代わって飯守泰次郎が代役に迎えられ、シューベルトの「未完成交響曲」と、福間洸太朗のソロ(彼は当初の予定通り)によるブラームスの「ピアノ協奏曲第1番」とが演奏された。もちろん、これはこれでいい。
 コンサートマスターは扇谷泰朋。

 「未完成」は近年の飯守らしくアクセントの強い、ダイナミックな構築性を前面に押し出したスタイルによる演奏。それは言うまでもなく、この交響曲の解釈として、現代の風潮に沿ったものだ。
 その演奏に心を委ねながら、ずっと昔に初めてこの曲を聴いた頃のロマンティックな嫋々たるスタイルの演奏とは随分変わったものだなあ、などということを何となく思い返していた(この曲には、そういうノスタルジーを感じさせる要素がある)。もちろん私も、この曲の場合は、今日のような毅然たる構築の演奏の方が好きである。
 ただし、それはいいのだが、今日の演奏、オーケストラは少々荒っぽくて、最強音では美しさに不足した。日本フィルの定期の初日は、以前から大抵こういう演奏になる。

 ブラームスのコンチェルトの方は、第1楽章のいくつかの部分でオーケストラの響きの密度の薄さが不満を残したものの、飯守得意のドイツ音楽レパートリーだけあって、表情にも陰影の豊かさが感じられ、ブラームスらしい雰囲気を充分に生み出していたと言えよう。
 だがソリストの演奏のほうは、速いテンポの時にはともかく、沈潜した遅いテンポの個所では、もっと心から湧き出る情感といったものが欲しい。あまりに素っ気なくて、表情に乏しいのである。当初予定のリムスキー=コルサコフのコンチェルトだったら、これでも何とかなっていたかもしれないが。

2020・10・8(木)新国立劇場 ブリテン:「夏の夜の夢」

      新国立劇場オペラパレス  6時30分

 2020/2021シーズン開幕公演、デイヴィッド・マクヴィカー演出による新プロダクション「夏の夜の夢」。5回公演のうちの3日目。

 外来アーティストは全て来日不可能となったため、指揮もマーティン・ブラビンスから飯森範親に代わった。
 キャストも全員が日本勢となり、藤木大地(オベロン)、平井香織(ティターニア)、河野鉄平(パック)、大塚博章(シーシアス)、小林由佳(ヒポリタ)、村上公太(ライサンダー)、近藤圭(ディミートリアス)、但馬由香(ハーミア)、大隅智佳子(ヘレナ)、高橋正尚(ボトム)、妻屋秀和(クインス)、岸浪愛学(フルート)、志村文彦(スナッグ)、青地英幸(スナウト)、吉川健一(スターヴリング)という顔ぶれになった。

 それにしてもこの代役歌手陣、みんなよくやった。こういう洒落っ気のある舞台は日本人歌手があまり得意としないところのものだが、今回は視ていて身体がムズムズするなどということは一切なかったのである。
 もっとも、登場人物たちが向き合って細密な演技を見せるという演出は━━コロナ感染防止対策のゆえだろうか━━ほとんど見られず、概して横一線に並んで、しかも客席を向いた姿勢で歌唱や演技を行うという方法だったから、かえってバタ臭い不自然な動作がなくて済んだのかもしれない。以前に観た日本の2つの上演━━ザ・カレッジ・オペラハウス(2008年10月13日)と名古屋二期会(2009年9月6日)━━では、そういう点が気になって仕方なかったものだが、今回はそれを逆手に取って巧く切り抜けたことになる。

 ただそれだけに、なおさら今回も、演劇としての微細な性格表現に関しては物足りぬところが多かったわけだが・・・・。この演出もレア・ハウスマン(演出補)がリモートで行なったとのことである。舞台美術はレイ・スミスで、これはモネ劇場(かつて大野和士がシェフだった)からのものとクレジットされている。

 指揮の飯森範親は、東京フィルハーモニー交響楽団から小編成なりの柔らかく落ち着いた音色を引き出し、このオペラの音楽を極めて美しく再現した。この劇場のオケ・ピットからこのようなカラフルな音色が、しかも明晰に湧き上がって来るのを聴いたことは、これまであまりなかったような気がする。
 TOKYO FM少年合唱団も演技や踊りを交え、ソロを含めてなかなかの好演だった。
 20分の休憩2回を含め、終演はほぼ10時。

2020・10・7(水)三ツ橋敬子指揮東京フィルハーモニー交響楽団

     松本市音楽文化ホール(ザ・ハーモニーホール) 7時

 松本の島内にある音響の良いホール、ザ・ハーモニーホールの開館35周年を記念した「東京フィルハーモニー交響楽団特別演奏会」を聴きに行く。この30年近くの習慣で、年に1回は信州の空気を吸いたくなるのである。

 この名ホールはシューボックス型で、客席数は約700。入場者数はまだ50%に抑えられていたが、「座っていい列」は全てぎっしりと埋まっていた。今年は恒例名物の「セイジ・オザワ松本フェスティバル」が中止になっていたので、このような大編成オーケストラの来演は、松本のお客さんには喜ばれたであろう。
 なお着席指定は市松模様でなく、1列おきに空席列を作る、というシステムで、これは私も初めて見た。

 当初はバッティストーニの指揮で予定されていたが、彼が来日不可能となったため、代わって三ツ橋敬子が指揮した。この代役は成功と言えたであろう。
 プログラムは変更なしで、ロッシーニの「ウィリアム・テル」序曲、武満徹の「系図」(語り手は下地尚子、アコーディオンは大田智美)、セシル・シャミナード(1857~1944)の「コンチェルティーノOp.107」(フルート・ソロは神田勇哉)、ベートーヴェンの「交響曲第5番《運命》」。

 今日の東京フィル、ベートーヴェンでは少々リハーサル不足のようにも感じられたものの、演奏自体は極めてノリが良かった。
 なにより三ツ橋敬子の指揮が実によく、東京フィルから活気と張りに満ちた胸のすくような音楽を引き出していたのである。率直で推進性に富み、聴き手を巻き込んでしまう。「ウィリアム・テル」での勢いの良さは目覚ましく、しかもその勢いが上滑りせずにエキサイティングな効果を生み出していたのが好ましい。

 「運命」は、さらに熱烈な演奏になった。両端楽章の提示部を反復せず(当節ではむしろ珍しいが)、速いイン・テンポで先へ先へと突進し、ひたすらこの曲の持つエネルギー性を追い求めるといった指揮である。第4楽章の冒頭とその再現部冒頭の第1主題では活力いっぱいに躍動し、また展開部の頂点で音楽を一度「締め括って」から第3楽章の回想に移るというあたりの設計の見事だったのにも感心した。若さいっぱいの痛快な「運命」である。

 ただしアンコールでのブラームスの「ハンガリー舞曲第5番」は「運命」の余波が影響したかのように荒っぽく、しかもテンポの動かし方が不自然なので、プログラム本編における率直なエネルギー性やバランスの良いイン・テンポ感が殺がれたような印象になってしまい、これは聴かないほうがよかったな、とさえ思ったほどで━━。

 一方、前半2曲目での「系図」では、武満の甘美な色彩感や旋律美も率直に再現されていて、快い世界が再現されていた。語り手のためにはPAが使われたが、ナレーションが一部オーケストラに消されて聞き取れないところがあった。もっともあのPAの音量はあれ以上に上げるとワンワン響き過ぎるだろうし、難しいところだろう。まつもと市民芸術館を本拠とする劇団「TCアルプ」の女優・下地尚子のナレーションは落ち着いた「おとなの」雰囲気のものである。

 シャミナードの「コンチェルティーノ」は、何度聴いてもあの團伊玖磨の「ぞうさん ぞうさん お鼻が長いのね」にそっくりで可笑しくなるのだが、三ツ橋指揮の東京フィルの演奏は極めて瑞々しく、武満作品と同様、このホールの規模には最適の響きがつくり出されたと言っていいだろう。神田勇哉(彼も松本市出身だとか)のソロは鮮やか。彼のソロ・アンコールの「シランクス」は速めのテンポで演奏された。

 9時終演。外はかなり激しい雨で、さすが信州の夜、空気はいいが、寒い。主催者側が用意しておいてくれたタクシーで宿泊先のリッチモンド・ホテルへ戻る。

2020・10・6(火)サントリー音楽賞受賞記念コンサート 読売日本交響楽団

      サントリーホール  7時

 読響の同賞受賞は2017年度。主な理由がカンブルラン指揮によるメシアンの「アッシジの聖フランチェスコ」上演だったのに因み、今回も彼の指揮でメシアンの「峡谷から星たちへ・・・・」が演奏される予定になっていたが、彼の来日不可能を受けて、同楽団の「指揮者/クリエイティヴ・パートナー」の鈴木優人が代役を務めるということになった。
 ピアノは予定通り、この協演のために帰国した児玉桃。コンサートマスターは長原幸太。

 結論から先に言えば、この企画も、実際の演奏も大成功である。
 この3部12曲からなる長大な作品が、少しの緩みもなく、しかも澄み切った音の響きで演奏されたのには、読響があの「アッシジの・・・・」上演を通してメシアンの音楽を既に体験していたこともあるだろう。それは予想していたことであるが、それ以上に鈴木優人が今回これほどの鮮やかなメシアンを聴かせてくれたことは、嬉しい驚きであった。
 彼は以前、「トゥーランガリラ交響曲」を東響と演奏したことがあった(2015年11月1日の項参照)が、その時の演奏に比べるともはや今回は別人のような趣がある。このレパートリーに彼のスペシャルが一つ確立されたという意味で、これは鈴木優人のさらなる新しい「今後」を示すものと言っていいかもしれない。

 そして、児玉桃のピアノが絶品。彼女は、メシアンの演奏にかけては現在わが国の最先端を行く存在と言っていいが、今日もまた最良のものを聴かせてくれたという気がする。
 さらに読響の見事なソリストたち━━ホルンの日橋辰朗、シロリンバの西久保友広、グロッケンシュピールの野本洋介の完璧な演奏による活躍。その他の管と打楽器も爽快に、また弦楽合奏も艶めかしい音色を響かせた。

 曲が曲だけに、また時期が時期だけに、必ずしも客の入りが満足すべきものではなかったのが残念だった。もしメシアンの音楽に興味を持つ人だったなら、いや近現代の音楽に少しでも興味を持つ人だったなら、聴かなければ損と思われるほどの演奏会だったのに。私にしても、メシアンの作品をこれほど快い陶酔感を以って聴けたのは、滅多にないことだった。

2020・10・2(金)コロン・エリカ ソプラノ・リサイタル

      東京オペラシティコンサートホール  7時

 渋谷から西新宿へ移動。

 先日の「フィガロの結婚」でバルバリーナを好演していたコロン・エリカのリサイタルで、協演が長富彩(ピアノ)と碓井俊樹(同)、石川智(パーカッション)、オペラ・ラティーナ弦楽四重奏団(崎谷直人、瀧村衣里ほか)という錚々たる顔ぶれ。

 それゆえ、大規模なオペラ・アリアか何かのリサイタルかと思っていたが、趣旨はだいぶ違っていた。詩の朗読や祈りの歌を織り交ぜ、さらにアルジェリアやメキシコやアフガニスタン、パレスチナなど各国大使の夫人たちからなる合唱団もゲストに登場するコーナーも━━と、そういうタイプの演奏会だったのである。

 所用のため、第1部のみを聴いて失礼した。

2020・10・2(金)小山実稚恵の「ベートーヴェン、そして・・・」第3回

      Bunkamuraオーチャードホール  3時

 ベートーヴェンの「ピアノ・ソナタ第30番 作品109」とバッハの「ゴルトベルク変奏曲」を組み合わせたプログラム。

 今回は「そして・・・」の曲の方が長いものになっていたが、しかしその「ゴルトベルク変奏曲」での小山さんの演奏が、なんとも魅力に富んでいたのだ。音楽そのものの推進性と緊迫感に加え、あたたかい表情が全体に沁み通っていて、時には微笑みのようなものさえ感じられる。もちろん、演奏を貫く情熱は火のように燃え上がっているものの、あくまでも自然体で、ことさらに何かを仕組んでやろうといった構えのようなものは感じられない。それが作品そのものの良さを再現してくれるのである。

 今回の演奏時間はちょうど1時間、30もの変奏の長い旅のあとに、最初に聴いたあの「アリア」がまた聞こえてくる瞬間は、本当に形容し難い懐かしさの感情に浸されるものだ。この曲の演奏をナマで聴いたのは、実に十何年ぶりのことだが、それだけに感銘も深い。

 もちろん、主テーマたるベートーヴェンのソナタでの演奏もいい。今日はピアノの音色も伸びやかで美しかったし。

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