2021-04




2020・9・26(土)尾高忠明指揮東京交響楽団

     サントリーホール  7時

 続いて赤坂のサントリーホール。

 こちら東京響の9月定期でも、ホール入り口での手洗い消毒と非接触の体温測定はそのまま続けながらも、聴衆の座席設定を完全に通常のスタイルに戻した。つまり定期会員などは「市松模様座席への組み換え」をもう受けず、「もともと買った席」に座ることができる━━というスタイルである。
 したがって、私どものような「業者」連中も、2階席正面に隙間を空けずぎっしりと座らされる、という状態になり、お互い顔を見合わせて苦笑することになったわけだが、しかし客席をよく見ると、総じて2階席には客が多いが、1階席には空きが目立っていたようで━━つまりふだん1階席に多い年輩会員たちは、コンサートを聴きに行くには相変わらず二の足を踏んでいる、ということらしい。

 さて、演奏会のほう。当初予定のブランギエ(指揮)とイブラギモア(ソロ)の来日が不可能となったため、尾高忠明の客演指揮、川久保賜紀のソロで開催された。プログラムは、リャードフの交響詩「魔法にかけられた泉」、ショスタコーヴィチの「ヴァイオリン協奏曲第1番」、バルトークの「管弦楽のための協奏曲」。コンサートマスターはグレブ・ニキティン。

 代役とはいえ、それ以上の見事な仕事をしてくれた尾高と川久保である。
 尾高の指揮する「魔法にかけられた泉」では、夢幻的で官能的な響きが拡がっていた。かつてゲルギエフの指揮で聴いた時のような、ロシア特有の濃厚な色彩感には届かなかったかもしれないが、リャードフの幻想の世界をよく描き出していた点では、これはこれで適切な演奏であったと思う。

 また「管弦楽のための協奏曲」でも、東京響から久しぶりに完璧な均衡を備えた演奏を引き出し、この曲のシンフォニックな一面を浮き彫りにしてくれた。外国のオーケストラが演奏するとこの曲はまさにオーケストラの各楽器のコンチェルトといった趣になることが多いのだが、日本の指揮者とオーケストラはやはり全体の調和、均衡を自然に表に出してしまうのだな━━などと興味深く聴いていた次第である。

 ショスタコーヴィチの協奏曲での、川久保賜紀の演奏も、これももう見事なもの。特にアレグロ・コン・ブリオの「ブルレスカ」では、鮮やかなテクニックを煌かせつつも、これ見よがしのあざとい狂乱を聴き手に押しつけるといったようなところのない、爽やかで自然な演奏が聴けた。

2020・9・26(土)高関健指揮東京シティ・フィルハーモニック管弦楽団

      東京オペラシティ コンサートホール  2時

 9月定期。常任指揮者・高関健の指揮。
 テーマは「オルガン」ということで、バッハ~エルガー編の「幻想曲とフーガ ハ短調 BWV537」、ジョゼフ・ジョンゲンの「オルガンと管弦楽のための協奏的交響曲」(ソロは福本茉莉)、フランクの「交響曲ニ短調」。コンサートマスターは戸澤哲夫。

 ホールでは、いつの間にかビュッフェ・カウンターもクロークも開いていた。少しずつではあるが、各方面に「コロナ以前」のスタイルが蘇ってきたようである。客席の配置も既に「通常の」スタイルに戻されていた。もっともシティ・フィルの場合は、8月12日の「ブル8」の時にも、事務手続き上の理由とやらで市松模様への変更は行わぬまま「席の移動自由」で通していたのだが。

 さて今回のプログラム。いかにも高関の選曲らしく、新鮮で、凝っていて、気が利いていて、面白い。
 冒頭のエルガーの作品は、これがバッハのオルガン曲の編曲ものかと思わせるほど破天荒なものだ。大音響はともかく、オーケストレーションは放胆で豪快で凄まじく、特にエンディングに至ってはドッシャンガッシャンの暴発的な怒号で、あの上品な(?)エルガーがよくまあこんな・・・・と、唖然とさせられる。

 フィラデルフィアの有名なデパート「ワナメーカー」の建物内に設置された巨大なオルガンのデモンストレーションのため、1926年に書かれたというジョンゲンの「協奏的交響曲」も、なかなか激しい曲だ。
 マエストロ高関はプレトークで「オルガンとオーケストラの決闘と言われたほどの曲で・・・・オルガンが勝つか、オーケストラが勝つか、多分オルガンの勝ちでしょう」と語っていたが、まさにその通りのイメージの作品であった。

 ソリストの福本茉莉さんは、休憩時にロビーで見かけた時にはごく親しみやすいお嬢さんという感だったが、ステージで背中を客席に向け、身体を大きく左右に揺らせ、長い髪を振り乱すようにして圧倒的な大音響のオルガンを轟かせるさまは、結構な迫力であった。
 曲は40分近く、この長さには少々もたれるけれども、こういう珍しい曲を紹介してもらえるのは、コンサートホールならではの楽しさである。

 後半はおなじみ、フランクの「交響曲」だったが、これも何故か、前述の2曲での嵐の如き怒号がそのまま乗り移ったのではないかと思われるほど、この曲の演奏としてはかつて聴いたことのないような猛烈な表現になった。解放的というか、豪放磊落というか。
 ふだんは渋くて落ち着きのあるこの交響曲が、かくも激烈な演奏で再現された例は、私は初めて聴いた。もともとオルガニストだったフランクがこの曲に籠めたオルガン的な響きを取り出そうという狙いがあったかもしれないし、いずれにせよ高関さんのことだから確信犯的な所業だったのだろうと思う。
 私は呆気に取られ、少なからず反発しながら聴いていたが、しかし、面白いのは事実だった。

 今日の演奏会、すべてがユニークであった。こういう「はじけた」プログラミングや、大胆で実験的でユニークな演奏が出来るのは、シティ・フィルならではの強みかもしれない。

2020・9・25(金)沼尻竜典指揮大阪フィルハーモニー交響楽団

      フェスティバルホール(大阪) 7時

 9月定期は当初の予定通り沼尻竜典の客演指揮で、プログラムも武満徹の「オーケストラのための《星・島》」、三善晃の「連禱富士」、マーラーの「大地の歌」(ソロは中島郁子、望月哲也)という、これも予定通りのプログラムだ。コンサートマスターは崔文洙。

 席は未だ市松模様方式のままだが、事務局のアナウンスによれば、来月定期からは正規の席割り━━「コロナ以前」の形に戻すそうである。「入場者50%」の制限が撤廃されるのは、経済的な苦境に喘いで来た主催者にとっては、待ちかねた天の救いだろう。ただし、「隣の席が空いている」ことでのうのうと座るのに慣れてしまったわれわれ客にとっては、初めのうちは、些か精神的緊張を強いられることもなるかもしれない。
 ついでに、サントリーホールと同じように、ビュッフェ・カウンターも再開してくれればありがたいのだが。このフェスティバルホール、ただでさえロビーが暗いのに、ビュッフェあたりも真っ暗とあっては、どうにも陰気でいけない。

 日本の代表的作曲家2人の作品を入れたのは、意義あるプログラムといえよう。
 1曲目の「星・島」での演奏は、金管群の一部の最弱奏による入りがいずれも不安定だったのが惜しかったが、弦の彼方から響いて来る木管の揺らめきがあまりにも妙なる音色なのにはハッとさせられた。これは迂闊にも今回初めて気がついたことで、武満徹の管弦楽法の巧みさに改めて感じ入った次第である。沼尻のオーケストラの鳴らし方も巧かったのであろう。

 これに続いて演奏された「連禱富士」は、打物陣も総出の派手な曲だから、繊細清澄な「星・島」よりも、はるかに大きな拍手を集めた。まあ、そうなるだろうとは思ってはいたものの、この拍手のアンバランスは寂しい。

 没後から既に半世紀にもなる武満の作品が、日本の聴衆から相変わらずこの程度の共感しか受けていないのは残念だ。
 そもそも武満徹の作品は、コンサートでは往々にして1曲目におかれ、前座的な雰囲気で扱われることが多いようだが、コンサートが始まってまだ落ち着かない雰囲気の中で聴く曲としては、これほどそぐわない曲はないのである。この種の性格を持った作品は、気持が落ち着いてからじっくりと聴くべき音楽なのだ━━。

 「大地の歌」は、初日公演のせいか、初めのうちはオーケストラの座りと音楽の情感の深みが今一つのように感じられたが、次第に調子がまとまって行き、特に第6楽章の「告別」では木管のソロも美しく、透き通った響きのマーラーが聴けた。
 現世への惜別感とか虚無感とかいった、余韻嫋々の深い情感とは些か距離のある、割り切ったような表現だったけれども、それは演奏者の世代によるもので、致し方ない。若い世代の指揮者がワルターと同じような感覚で指揮するなんてありえない話なのだ。

 今回も上手側上方のバルコン席で聴いていたのだが、ふだんなら分厚いオーケストレーションに消されて聞き取れぬことの多いテノールのソロが、今日は比較的よく聞こえた。正面ではない席からでもこのように聴くことができたのは、これも沼尻のオーケストラの鳴らし方が巧みに抑制されていたからかもしれない。もちろん、中島郁子の、特に「告別」の楽章での歌は聴きものだった。

2020・9・20(日)小山実稚恵ピアノ・リサイタル

    東京文化会館小ホール  4時

 「東京文化会館プラチナ・シリーズ」の「Ⅰ」として開催されたもの。
 市松模様の客席の「座ってもいい席」はほぼ全部埋まっていたようだが、もともと大ホールをも満席にできる人なのだから、不思議はない。

 プログラムは、前半にモーツァルトの「デュポールのメヌエットによる9つの変奏曲」及びシューベルトの「即興曲」作品142の2、142の3、90の3、90の2。後半はショパンの「ノクターン」第20番、21番、13番(作品48の1)、「ピアノ協奏曲第2番」第2楽章のピアノ・ソロ版、「アンダンテ・スピアナートと華麗なる大ポロネーズ」。

 第1部での「即興曲集」の演奏が何か苛立つかのように荒々しく刺々しく、「90の2」のコーダなど「怒りのシューベルト」といった様相を呈していたのには首をひねらされたが、幸いにも休憩を経た後のショパンでは、叙情美を甦らせた演奏を聴くことができた。
 特にコンチェルト第2楽章のソロ版では、ノクターンのような沈潜美と、中間部の激しい感情の高まりが見事な対を為し、今日の圧巻ともいうべき演奏となっていた。ポロネーズの後半の昂揚感も、いつもの小山実稚恵の鮮やかな音楽といえよう。

 因みにシューベルトの「即興曲」からは、アンコールの際に「作品90の4」も弾かれたが、こちらでは安定感と躍動感を併せ持つ演奏が戻って来ていて、一安心。

2020・9・19(土)「フィガロの結婚」~庭師は見た!~(野田秀樹演出)

      ミューザ川崎シンフォニーホール  3時

 2015年にミューザ川崎や東京芸術劇場など、全国10都市で上演された、野田秀樹演出と井上道義の指揮・総監督によるプロダクションの再演。今回も10月に北九州で、10月~11月に東京芸術劇場でそれぞれ上演されるという予定が組まれている。

 舞台の大筋は2015年6月17日2015年10月22日の項に書いたものとほぼ同じである。舞台が幕末の日本で、伯爵夫妻とケルビーノが外国人、その他はすべて日本人という設定。歌唱と字幕は原語と日本語の混在だが、登場人物は不思議にもみんな相手の国の言葉が解るらしい。

 演出は多少手直しされていると思われる━━というのは、前回観た時よりも今回は面白く感じられた、という印象を得たからだ。ただ、どこがどう変えられているのかはこちらの記憶が定かでないので、具体的には挙げられない。幕切れの大団円の場で、伯爵夫人だけが腹の虫がおさまらず、銃を虚空に発射してイラつくという演出は、少なくとも川崎での初演の際には見られなかったように思うのだが━━。
 舞台装置(堀尾幸男)も、ダンス(下司尚美振付)もそれなりに洒落ていて、なかなかに大がかりなものだ。

 ただし、「庭師は見た」という副題のわりには、庭師の存在は単なる狂言回し役という表面的なものにとどまってしまい、肝心の登場人物の性格が、特に庭師の視点から見たものとして描き分けられるような演劇性を伴っていないことへの不満は、前回と同様である。

 指揮は前回と同じ井上道義で、今回は東京交響楽団もいい演奏をした。第2幕の長いフィナーレの個所などでの木管の表情も豊かだったように思う。
 歌手陣には多少の入れ替わりがある。今回は、ヴィタリ・ユシュマノフ(アルマヴィーヴァ伯爵)、ドルニオク綾乃(伯爵夫人)、大山大輔(フィガ郎)、小林沙羅(スザ女)、村松稔之(ケルビーノ)、森山京子(マルチェ里奈)、三戸大久(バルト郎)、黒田大介(走り男)、三浦大喜(狂っちゃ男)、コロンえりか(バルバ里奈)、廣川三憲(庭師アントニ男)他、という顔ぶれに、8人の声楽アンサンブル、8人の演劇アンサンブルが共演。他に合唱としてザ・オペラ・クワイアの名があったが、これは第3幕で「ご当地助っ人合唱団」というプラカードを持って登場したグループのことか?

 なお、今回の上演では、出演者全員にPCR検査を徹底した上で、フェイスガードも着用せず、演技等も「通常の」スタイルで行なうようにした由。手前のピット(に相当する場所)に位置したオーケストラは、弦楽器奏者のみマスクを着用していた。
 観客は相変わらず全員マスク着用、市松模様の着席。6時半終演。

2020・9・18(金)沼尻竜典指揮新日本フィルハーモニー交響楽団

       すみだトリフォニーホール  7時15分

 聴衆の座席配置は例のごとくソーシャル・ディスタンス対応の市松模様スタイルながら、椅子に貼られた「ここは座れません」という表示のある大型シールに、すべて葛飾北斎の相撲力士の絵がデザインされているのが、いかにもこのホールらしくて微笑ましい。

 今日のプログラムは、ストラヴィンスキーの「カルタ遊び」、リストの「ピアノ協奏曲第1番」(ソリストは實川風)、サン=サーンスの交響曲第3番」(オルガンのソロは石丸由佳)。コンサートマスターは崔文洙。

 沼尻竜典が新日本フィルの定期に客演するのは実に久しぶりのことと聞く。両者の関係、客席から一望するに、何となく良い雰囲気のように感じられる。
 もちろん、演奏が良かった。サン=サーンスの「3番」の第1楽章での弦楽器群が、恰も泡立ちクリームのように柔らかい量感を以って沸騰するあたり、新日本フィルからは滅多に聴かれたことのない響きだったし、第4楽章コーダでテンポを速めて猛烈な追い込みをかける部分でも音楽が上滑りしないスリリングな趣を感じさせた。この曲、結構巧く出来ているんだな、とその良さを再認識させてくれる演奏に出会えたのは、実に有難いことである。

 ただ、冒頭の「カルタ遊び」が端整ながら硬質な、何か肩肘張ったような演奏に感じられたのは、指揮者とオケの呼吸が未だ万全ではなかった故だろうか? せめてもう少し清澄透明な構築になっていればと思ったのだが、これは指揮者の意図的なアプローチだったのかもしれないから、一概に云々はし難い。しかし、これがリストのコンチェルトに入った瞬間、オーケストラの響きが俄然分厚い重量感を帯び始めたので、一瞬安心させられた次第であった。

 なお、これも久しぶりに聴いた實川風(じつかわ・かおる)のソロは、リストの作品ということもあってか、かなり体当たり的で激烈なピアノになっていた。それは若さの炸裂と考えれば微笑ましいが、リストの音楽はただ荒々しい名人主義的なものだけではなかろう。アンコールで弾いたドビュッシーの「花火」も、猛烈な花火といった感で苦笑させられたが、それはそれでいいとしても、もう少し緻密で幻想的な色彩感が欲しいものである。

2020・9・16(水)大野和士指揮東京都交響楽団

      サントリーホール  7時

 ベートーヴェン・プロで、第1部では「三重協奏曲」が矢部達哉、宮田大、小山実稚恵をソリストに迎えて演奏され、第2部では「英雄交響曲」が演奏された。コンサートマスターは第1部が四方恭子、第2部が矢部達哉。「都響スペシャル」としての演奏会。

 これは「矢部達哉・都響コンサートマスター就任30周年記念」と題された演奏会でもある。
 彼のコンサートマスターとしてのデビューは1990年9月8日の「定期演奏会A」で、それは同時に大野和士の「都響指揮者就任披露演奏会」でもあった(私は当日の演奏会は聴いていない)。いずれにせよ、もう30年も経ったのかという感慨に襲われる。
 しかし大野と矢部にそういう縁があったのであれば、後年、大野が音楽監督として都響に復帰した際、矢部が記者会見の席上で「自分にとっては、彼の復帰は《蕩児の帰郷》のように感じられる」とコメントしていたのもむべなるかな、と思えるであろう。ともあれ今日、矢部達哉に何度か向けられた聴衆の拍手には、ひときわ温かく、大きなものがあった。

 さて、今日のベートーヴェン2曲。これはもう、大野和士の円熟ぶりを如実に感じさせ、常にも増して印象深い演奏になっていたと言えるであろう。
 特に「英雄交響曲」は、過度に力み返ったり、鋭角的で乾いた殺伐としたものに陥ったりすることのない、温かさを感じさせる豊麗な音で全曲が歌い上げられていた。またそれは、威圧的な英雄賛歌ではなく、むしろ未来への希望を籠めた人類の歌━━といったイメージをも感じさせる音楽だったのである。

 とは言っても、その演奏がいくらかでも生ぬるさを感じさせたわけでは決してない。大野は、要所でティンパニを強打させて音楽を引き締め、第2楽章の【D】の個所におけるホルンのパートを4本(スコア指定では第3ホルン1本)で強奏させて壮大な挽歌を響かせ、また第1楽章コーダでは全てのエネルギーを結集させてオーケストラと聴き手を共に高みへ向かわせる、というさまざまな手法を駆使して、演奏に緊迫度を加えて行った。
 フィナーレでも、導入個所での嵐のような激しさの中に籠められた風格、それぞれの変奏の流れの良さ、ポーコ・アンダンテの後半における雄大なスケール感など━━。

 これは久しぶりに快い後味を残す「英雄交響曲」だった。オーケストラは弦14型、管に少し粗いところもなくは無かったが、全体の昂揚感が素晴らしい。

 一方、前半に演奏された「三重協奏曲」では、弦12型編成で進められたオーケストラの威容感がまず印象に残る。
 「30年」の矢部達哉はソリストの1人として登場したが、その演奏は、少し遠慮がちな、他のソリストたちを盛り上げようとするかのような美しいソロに終始したか。ここでは彼はコンサートマスターではなくソリストなのだから、もっと出しゃばってもよかったであろう。
 また、この曲のソロでは最も活躍するはずのチェロの宮田大が、何故か今日はドルチェな演奏で、オーケストラとの釣り合いが取れぬ結果を招いていたのは腑に落ちない。逆に、この曲ではもともとあまり冴えないはずのピアノが、今日は目覚ましい存在感を示した。さすが小山実稚恵の貫禄というべきか。

2020・9・13(日)原田慶太楼指揮東京交響楽団 「名曲全集」

       ミューザ川崎シンフォニーホール  2時

 スッペの「詩人と農夫」序曲、ベートーヴェンの「ピアノ協奏曲第0番」、プロコフィエフの「交響曲第5番」。何とも変わったプログラムだ。

 コンサートマスターは水谷晃。
 オーケストラの編成は弦14型(コントラバスは7本)、プロコフィエフの「5番」は3管編成。少なくともステージの上ではいち早く「コロナ以前」の「通常の」スタイルに戻ったということになろう。在京楽団の中でこの東京交響楽団、何かにつけて先端を行く活動が目立つ。

 指揮者・原田慶太楼は、登場すると答礼なしにいきなり「詩人と農夫」を振り始めた。拍手の中からあの柔らかいファンファーレ風のテーマが始まるという演出で、またこのテーマがすこぶるバランスのいいアンサンブルと音色だったので、これは曲の性格に相応しい快調なスタートだったであろう。
 適度な芝居気、元気一杯の指揮、解放感満載のフォルティッシモ、━━若い指揮者ならではの勢いがあって、たとえ大暴れの演奏であっても大目に見ようという雰囲気になって来る。

 とはいえ、「詩人と農夫」ならともかく、プロコフィエフの「5番」のように複雑な作品になると、ただ勢いで押しまくるだけでは、この作品の真髄に迫ることは難しい。いや、難しいどころか、今日の打楽器群の破壊的な怒号は、他の楽器群のフォルティッシモをさえ屡々霞ませ、その都度作品の容を失わせてしまったきらいがあるのだ。
 エネルギッシュであること自体は決して悪くはない。が、作品の多彩な性格を再現するためには、たとえば内声部が交錯する動きを常に明確に浮き彫りにするといったことも必要であろう。その修練を積んでほしいところである。

 ただし今日は、その演奏の荒々しさゆえに、図らずも作曲者の狙いが見事に蘇っていたであろうと私には思われた個所がある。「こけつまろびつ」突進して来たオーケストラが、全曲終了直前、急激にその音量を減じて謎めいた私語を交わすかのような部分(最後から3小節目と2小節目)で、ここでの一瞬の変化がすこぶる好かった。

 これら2曲の間に、ベートーヴェンの「ピアノ協奏曲第0番WoO4」なる曲が演奏されたが、これは彼のボン時代、14歳の時の作品で、ヴィリー・ヘスにより管弦楽パートが復元されたもの。子供の作品にしては歯が強い。
 ソリストは最近注目されている鐡百合奈(てつ・ゆりな)で、才人らしい選曲と演奏だったが、彼女の演奏家としての本領を知るには、必ずしもそぐわない作品だったようだ。

2020・9・12(土)鈴木優人指揮読売日本交響楽団

       東京芸術劇場 コンサートホール  2時

 読響の「指揮者/クリエイティヴ・パートナー」の鈴木優人が指揮するベートーヴェン・プロ。コンサートマスターは長原幸太。

 ソリストに郷古廉を迎えての「ヴァイオリン協奏曲ニ長調」は、若手同士の瑞々しい気負いのようなものがあふれた演奏で、快く聴けた。
 郷古の芯の強い、確固たる意志を感じさせる音楽は、日本の若手ヴァイオリン奏者たちの中でも群を抜いた存在と言っていいだろう。鈴木優人もこれに呼応して、読響とともに切れのいい演奏を構築して行った。

 プログラムの後半は「田園交響曲」だったが、これはしかし、気負いがどうも裏目に出た演奏だったような━━鈴木優人の演奏構築は、前の協奏曲と同様に切れの良さを求め、矯めたエネルギーを「嵐」の楽章でティンパニの豪打とともに放出させ、さらに第5楽章ではそれを上回る力感を創り出そうとしていたように思われ、それはそれで結構だったのだが━━私が最も納得の行かなかった所以は、その演奏に、この曲特有の「美しさ」が欠けていた、ということにあるのだ。

2020・9・8(火)尾高忠明指揮読売日本交響楽団

       サントリーホール  7時

 これは9月定期。名誉客演指揮者・尾高忠明が振った。
 グレース・ウィリアムズの「海のスケッチ」、モーツァルトの「ピアノ協奏曲第23番イ長調」(ソリストは小曽根真)、ペルトの「フェスティーナ・レンテ」、オネゲルの「交響曲第2番」というプログラムだった。

 英国音楽には定評のある尾高の指揮ゆえ、当初は最後の曲にウォルトンの「第1交響曲」が予定されていたのだが、「密」を避けるため編成の小さい作品に変更された。尾高のウォルトンを楽しみにしていたのだが、仕方がない。だがオネゲルの「2番」も滅多にナマで聴ける曲ではないから、これはこれで貴重な機会ではあった。

 それに、日下紗矢子をコンサートマスターとする読響の弦(12型)が今日はしっとりと瑞々しく冴え渡り、実に張りのある壮麗な音を響かせてくれたおかげで、どの曲も極めて聴き応えがあったのである。
 モーツァルトの協奏曲を除く3曲はすべて弦楽合奏であり、ペルトではハープ1台が、オネゲルではトランペット1本が加わってはいたものの、今日は読響の弦の良さを誇示する演奏会という趣にもなったであろう。

 グレース・ウィリアムズ(1906~77)は英国の女性作曲家で、「海のスケッチ」は、その題名に相応しく、海を優しいタッチでスケッチした佳品だ。マエストロ尾高のお気に入りの曲らしく、彼はいろいろなオーケストラとこの曲を演奏している。この秋は、大阪フィル定期でもこれを取り上げるはずである。

 ペルトの「フェスティーナ・レンテ」は、プログラム解説の飯尾洋一さんによれば「急がば回れ」のような意味だとのこと。まさにペルトならではの沈潜の極み、譬えようもないほど美しい。これは、今夜のハイライトだったかもしれない。

 そしてオネゲルの「2番」は、ステージ最後方にたった1人でじっと座っていたトランペット奏者が、最後の最後にやおら楽器を取り上げたかと思うと、それまでの渋い弦楽器のアンサンブルを締め括るように━━もしくは、「おお友よ、このような音ではない、いざ歓喜の歌を」とでも言わんばかりの勢いで━━朗々と輝かしい旋律を吹き鳴らして全曲を閉じる。これで客は沸く。トランペット奏者は、儲け役だ。

 2曲目に置かれていた「23番」のコンチェルトでは、小曽根真が闊達でリズミカルなモーツァルトを聴かせた。
 カデンツァの個所ではもっと小曽根らしい、突き抜けたアイディアで大暴れをしてくれるかとひそかに期待していたのだが、思いのほか「クラシック音楽調の」端整な表情に終始した。私としては少々拍子抜けの印象だったが、しかしこの曲の性格ということもあるし、尾高の指揮する読響が実にシンフォニックで完璧なバランスと流れを持った演奏を繰り広げ、それ自体が完成品とでもいえるような域に達していて、異なった様式を導入させる余地もないほどだったし、━━それに相手が大御所・尾高忠明とあれば、小曽根も暴れるわけには行かなかったのかもしれない。

 ただし彼はアンコールに「Take the A Train」を鮮やかに弾き、しかもこれに読響の若い首席コントラバス奏者・大槻健が協演するという趣向だったので、客席は大拍手に包まれた(ベースをPAなしで聴かせるのは、ちょっと苦しかっただろう)。

2020・9・4(金)山田和樹指揮日本フィルハーモニー交響楽団

     サントリーホール  7時

 秋のシーズンの定期第1弾。9月定期に正指揮者・山田和樹が登場するのは、ここ何年間かの恒例だ。

 今回は一風変わったプログラムで、ガーシュウィンの「アイ・ガット・リズム」変奏曲(ピアノ・ソロは沼沢淑音)、ミシェル・ルグランの「チェロ協奏曲」日本初演(ソロは横坂源と沼沢淑音)、五十嵐琴未の「櫻暁for Japan Philharmonic Orchestra」世界初演、最後にラヴェルの「マ・メール・ロワ」全曲。
 なお協奏曲のあとで横坂源と沼沢淑音がアンコールとして弾いたのはフォーレの「夢のあとに」。

 映画音楽作曲家として有名なミシェル・ルグランのチェロ・コンチェルトとは、何とも珍しい。彼がパリ音楽院でナディア・ブーランジェに師事したクラシック音楽畑出身の人だということは承知していたが、この曲を聴くのは初めてだった。
 第1楽章はスケルツァンドだが、第2・3楽章はリリシズムが優勢な曲想になる。基本的にはメロディアスな作品で、作曲者がさまざまな色彩感を織り込もうとしていた様子も窺えるのだが、━━そして全曲休みなく弾き通しだった横坂源には敬意を表するのだが、━━やはり長い(33分だが)という印象を抑えきれぬ。

 むしろ休憩後の1曲目に演奏された五十嵐琴未の小品の方が清澄で、シベリウスをモダンにしたような趣を感じさせ、私の好みに合った。
 「マ・メール・ロワ」は少し荒っぽかったものの、山田和樹のフランスものには、良さがあろう。

 このようなプログラムでも客がよく入っていたのは、オケとして立派なもの。もちろんソーシャル・ディスタンスで1人措きの席だが、「座っていい席」の多くは埋められていたように見えた。日本フィルの人気、ヤマカズの人気だろう。

2020・9・3(木)東京二期会 ベートーヴェン:「フィデリオ」初日

     新国立劇場オペラパレス  6時30分

 ベートーヴェン生誕250年を祝う新制作上演が予定通り行われたこと自体は、喜ばしい。

 今回は、過去に二期会の「ダナエの愛」と「ローエングリン」で実績を上げた深作健太を演出に起用したことが注目点でもあった。
 演奏は、大植英次指揮東京フィルハーモニー交響楽団と、二期会合唱団、藤原歌劇団合唱部、新国立劇場合唱団。主役陣はダブルキャストで、今日の初日は土屋優子(フィデリオ/レオノーレ)、福井敬(フロレスタン)、大沼徹(ドン・ピツァロ)、妻屋秀和(ロッコ)、冨平安希子(マルツェリーネ)、松原友(ヤキーノ)、黒田博(ドン・フェルナンド)他━━という顔ぶれ。

 装置には「ベルリンの壁」を含む世界各地の「壁」がモティーフとして使われ、特に第2幕前半までは、ナチスの腕章を付けたピツァロの支配する刑務所がその舞台となる。そして、ナチスの収容所の光景を含む第2次大戦(ただし欧州大戦のみ)から「9・11同時多発テロ」に至るさまざまな「自由喪失」の映像と、シラーや平塚らいてうなど、多くの思想家の言葉が投映される。

 このように「歴史」をドラマに重ね合わせ、作品に新しい視点を与えようとする演出手法には、すでにバイロイトでステファン・ヘアハイムが完璧なアイディアを駆使して見事に成功させた例がある(→2009年8月27日の項)。
 だがそれに比して、今回の深作演出は残念ながら、あまりに皮相的な手法と言えるのではなかろうか。投映される映像や文言が、ドラマとは全く乖離した状態にとどまっているのである。あれこれ歴史の注釈が投映されても、ドラマはそれとは特に関係なく、淡々と進んで行くのだ。

 しかも、第2幕前半までの投映では欧米の悲劇の歴史のみで進められて来ながら、第2幕後半の大団円の場面で突然「戦後75年」のマークが挿入された日本の祝典行事の光景になるのも、唐突な感を与えるだろう(発想としては悪くないのだが、流れが悪い)。
 最後には客電を上げ、舞台も裏まで見せてしまい、このドラマと歴史を皆で共有しようと呼びかけるかのような手法も、なんだかコンヴィチュニーめいていて、今となっては少々鼻につく。
 狙いたいことは理解できるけれども、それなら、もっと掘り下げ、念入りに作らねばいけない。歯に衣着せずに言えば、私には、東京二期会が手がけたドイツものの中で、これは到底合格点には遠い類の出来のように思われる。

 ただし、私が面白いと感じたアイディアが一つある。
 舞台には「ARBEIT MACHT FREI」(働けば自由になる)という、ナチスが収容所に掲げたスローガンが人権抑圧のモティーフのように吊られているのだが、第2幕の地下牢の場でフロレスタンがこの文字群を取り外し、FREIHEIT(自由)に改綴しようとする必死の「闘い」を試みる、というくだりだ。

 この改綴が彼にはついに完成できないと見られた時、助けに来た「女性/妻」(つまりFiderio)が、欠けていた最後の字「F」を加え、フロレスタンに自由が戻って来たことを示す━━。これもコンヴィチュニー的なテではあるが、興味深いだろう。
 大臣F(Fernando)が到着したおかげで、F(Fiderio)がF(Florestan)を救済し、F(Freiheit)をかち取るというシャレ。ついでに、今日救われたのがF(Fukui)だなどといったら、もはや悪乗りの域だが・・・・。

 一方、音楽。オーケストラ・ピットを客席最前列に近い高さにまで上げたのは、感染防止対策上、ピットの換気を目的としたためか。しかし、オーケストラを雄弁な主役として扱うというドイツオペラのコンセプトを日本の歌劇場によみがえらせる結果を生んだことは悪くない。オケの粗さが目立ったのは初日の悪癖で、これはもう、触れても詮無いこと。

 それよりも、歌手陣にはおそろしくビンビン響く声の持主と、反対にさっぱり響かぬ声の人が混在し、それらが一緒に三重唱、四重唱を歌うのだから、当然音楽的には酷いアンバランスを生む。重唱の役目を果たさなかった個所もいくつかある。
 これは、指揮者にも責任があるし、こういう歌手を組み合わせたプロデューサー(公演監督か?)の責任でもあろう。とにかく、今回はそれがあまりにも際立っていたのは、結局音楽的にも成功ではなかった、と言わざるを得ないだろう。

2020・9・1(火)田部京子が弾く!ベートーヴェン2大コンチェルト

      サントリーホール  7時

 「2大コンチェルト」とは? 「皇帝」と、もう1曲は「ヴァイオリン協奏曲Op.61」のピアノ編曲版(Op.61a)をさす、という解釈。なるほど。

 この2ヶ月半の間に2回ほど、田部京子が弾くベートーヴェンの協奏曲を聴く機会があったが、それらはゲスト・ソリストとしての演奏だった。だが今回のそれは5月2日の延期公演で、当初から彼女が主役としてコンチェルトを弾く演奏会として企画されていたものである。

 それもあってか、演奏の密度が、今回は段違いに濃い。清澄で気品のある表情はいつも通りだが、とりわけ音楽が実に温かく、しかも自然で、瑞々しいのである。これまで聴いて来た彼女の演奏の中には、時に端整でシリアスな表情が前面に押し出されることもあった(4年前のドイツの作品を集めたリサイタルでの演奏などその例だろう)が、今日は彼女の持つすべての美点がバランスよく総合されていた、と私には感じられた。

 「作品61a」なる不思議なコンチェルトは、第1楽章のカデンツァでの新機軸を別とすれば、ピアノ協奏曲への「遠慮がちの」編曲という印象を抑えきれないのだが、それでもフィナーレに入ってピアノが待ち切れずに己の個性を主張し始めるくだりになると、彼女の演奏も猛然、熱を帯びて来る。
 そして、プログラムの第2部での「皇帝」になると、毅然とした風格の裡にも優しさを湛えた彼女の演奏が、この王者然としたコンチェルトの中に潜む「愛」を浮き彫りにしてくれる、というわけだ。

 アンコールはベートーヴェンのソナタ「第18番Op.31-3」の第3楽章。これも美しい。何の作為的な仕掛けもない清楚なピアノでありながら、ベートーヴェンの持つヒューマンで素朴な「歌」の素晴らしさを、これほどしみじみと感じさせてくれた演奏も稀である。

 協演は飯森範親指揮する東京交響楽団。定期などの自主公演ではあれほど見事な演奏をするのに、「御座敷」公演になると、どういうわけか途端にゆるい演奏になるのが、このオケの悪い癖である。たとえば今日なども、「皇帝」のフィナーレへのブリッジ・パッセージでのホルン・・・・。

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