2017-05

4・30(水)エリアフ・インバル指揮東京都交響楽団「千人の交響曲」

   サントリーホール

 インバルのプリンシパル・コンダクター就任披露公演で、マーラーの交響曲第8番「千人の交響曲」が演奏された。
 協演は晋友会合唱団、NHK東京児童合唱団、澤畑恵美、大倉由紀枝、半田美和子、竹本節子、手嶋眞佐子、福井敬、河野克典、成田眞という顔ぶれ。

 これは、都響の最近の演奏の中でも傑出したものだったと思う。インバルは実に明晰に見通しよく設計、全曲を完璧なほどにバランスよく構築していた。
 その大きな要因は、彼のテンポの設定の見事さである。特に第2部後半、テノールのソロに誘導されて開始される最後のクライマックスへのテンポは納得の行くものであった。都響の音色も輝かしく、その中でも矢部達哉をコンサートマスターとする弦楽器群、それにホルン群が一際豊かな音色で光っていた。管弦楽と合唱が過度に怒号せず、節度を保ってバランスを整えていたことも、インバルの巧みな設計の故であろう。
 バンダは2階正面席左右の中段におかれていたが、1階席の客にとっても2階席の客にとっても、これはあまり効果的な位置とは思えない。私は2階で聴いていたのだが、オーケストラ全体のバランスを著しく損なう。やはり舞台横、つまりLA席とRA席のそれぞれ後方が好ましいのでは?
  音楽の友7月号演奏会評

4・29(火)藤岡幸夫指揮 関西フィル「レニングラード」

  ザ・シンフォニーホール(大阪)

 再び激震に襲われている大阪のオーケストラ界で、経営も決して楽ではない自主運営の関西フィルハーモニー管弦楽団が頑張り続ける。

 3月の第200回定期では常任指揮者・飯守泰次郎がワーグナー・プロを指揮(東京公演も行なった。3月30日)。続いて今日の4月定期では、首席指揮者・藤岡幸夫がショスタコーヴィチの交響曲第7番「レニングラード」を指揮した。
 西濱秀樹事務局長のプレ・トークによれば、「大編成でカネのかかるものばかりやっているので、なんか『終り』っぽい、なんて言われましたが、そんなことは絶対ない」とのこと。こういう時代だからこそ、自主運営オーケストラの意地を見せようとばかり気合をこめている姿勢は、尊敬に値するだろう。今年1月から定期は完売を続けているそうで、今日もまさに満席であった。

 関西フィルはこのところ、指揮台に提供スポンサーの帯を巻き付けているという話を聞いていたが、なるほど今日の指揮台にも「suported by NTT DoCoMo」という赤いベルトが見られた。またプレ・トークの最後にも、西濱事務局長みずから提供スポンサーの名をクレジットしていた。
 これは、悪いことではない。自治体から数億の補助金を貰っているオーケストラと異なり、自主運営の関西フィルは企業からの支援に頼るところ大だから、民間放送局同様にこのようなことを行なうのも、むしろ当然というべきである。プログラムにも、CD展開を含めたオーケストラの活動を1ページに凝縮して掲載し、「私たち関西フィルは、年間120回以上のオーケストラ公演を開催。毎年延べ10万人近い方々へ感動をお届けしています」と、企業や自治体にとっても非常に解りやすい表現でアピールしている。こういった姿勢は大切であろう。
 お高くとまっていては、オーケストラは成り立たぬ。そういう状況は、昔も今も、常に背中合わせに存在する。

 さて演奏だが、意気が先走りしてか、瑕疵がないわけではなかったものの、藤岡とオーケストラが総力を挙げたものとして、その出来栄えを讃えたい。特に第3楽章での弦の歌い込みや、終楽章クライマックスにおける全管弦楽の法悦的な熱狂などには、真摯さがあふれていた。
 正規楽員数60名以下の関西フィルにとって、このような大編成の作品を手がける機会はそう多くなかったと思われるが、そのような場合には練習回数をいつもより増やすなどして練磨すれば、さらに上の水準が狙えるのではなかろうか。
 
 なお、プログラム前半には、先年のショパン国際コンクールで4位に入賞したこともある関本昌平(23歳)をソリストに、モーツァルトのピアノ協奏曲第23番が演奏された。爽やかなモーツァルトだった。

4・26(土)イダ・ヘンデル、シャン・ジャン指揮東京交響楽団

  東京オペラシティコンサートホール

 「伝説の女王」イダ・ヘンデルが、ベートーヴェンのヴァイオリン協奏曲を弾く。
 それだけを聴きに来たお客さんもいたらしい。プログラム前半でもかなりの入りだったが、休憩が終わってこの協奏曲が演奏される時には、ほぼ満席になっていた。

 しかし、この日の指揮者、中国出身の若い女性シャン・ジャンも、なかなか良かったのである。
 小柄で敏捷で、遠くから見ると松尾葉子に似た雰囲気のテキパキとした指揮ぶりだ。緻密にがっちりと音楽を組み立て、メリハリのいいアクセントをつけ、小気味良いテンポで曲を進めていく。
 前半では「レオノーレ」序曲第3番とシューマンの第4交響曲を指揮したが、特に後者の第4楽章冒頭へかけての個所など、緊迫感に富む豪快な盛り上げを聴かせて、すこぶる見事であった。後半の協奏曲でも、引き締まった重厚な音色を東京響から引き出していた。「女王」に対して平伏したり労わったりするのでなく、むしろ物怖じせず陽気に闘いを挑むといった雰囲気の指揮だったのが面白い。
 彼女、まだ30歳を少し出たばかりらしいが、プロフィールに拠れば、現在ニューヨーク・フィルのアソシエイト・コンダクターとシンシナティ大学音楽院指揮科准教授をつとめ、欧州にも活動を拡げているとのこと。注目株だろう。

 さて、女王ヘンデルの方は、おなじみの真紅のドレス姿。最近の資料ではお歳を伏せているようだが、昔の資料を参照すれば1923年生まれとのことだから、今年の誕生日で85歳ということになる。
 歩き方は少々心許ないけれど、いざ定位置に立てば堂々たる風格だ。長い提示部が終り、ホール内の恐ろしい緊張のうちに第1音が弾き出されたその音楽は、些か不安定さはあるものの、実にスケールが大きく、確固とした意思の力を感じさせるものであった。年齢から来る技術の面ではともかく、音楽に対する彼女の真摯な没入の姿勢に関しては何びとも異論を差し挟むことはできないだろうと思う。
 全曲をいとも楽々と弾き終わったあとのカーテンコールでの仕草も、陽気で親しみやすい。2階正面席からは部分的にしか聞き取れなかったが結構長いスピーチをし、そしてアンコールに自身編曲のチャイコフスキーの「白鳥の湖」からの「ロシアの踊り」という小品を鮮やかに弾いて見せた。いや立派なものである。
 事務局から聞いた話では、彼女はアンコールに15分近い長さのバッハの「シャコンヌ」をやりたいと言ったらしい。しかし、翌日の新潟公演に備えて現地への一部移動があるため、終演時間の関係で泣く泣く変更してもらったそうな。聴きたかった。新潟では演奏したのかしら?

○新潟でのアンコールについてDotch?さんのコメントあり。ありがとうございました。
 

4・26(土)デジレ・ランカトーレ ソプラノ・リサイタル

  紀尾井ホール マチネー

 最近日の出の勢いにあるパレルモ出身のソプラノ、デジレ・ランカトーレは、日本にも昨年「ルチア」や「ラクメ」の舞台でおなじみになった美女。

 リサイタルは今回初めて聴く。ヴェルディ、ドニゼッティ、ロッシーニ、パイジェッロ、マスカーニ、ベルリーニらイタリア・オペラのアリア集で構成されたプログラムの冒頭は、なんとモーツァルトの「魔笛」の中の悲痛なアリア「愛の喜びは露と消え」。これを最初にもってくる人は稀だろうが、そこに彼女の心意気というものがあるのだろう。
 前半は声の状態も必ずしも完璧でなく、高音域にしても彼女らしくないところがあったが、途中から調子を上げ始め、「愛の妙薬」あたりからは本来の明るさを取り戻した。この人、高音のコロラトゥーラももちろん好いが、中低音域に不思議な色気がある。
 いつも思うことだが、オペラ歌手がリサイタルを行なうというのは、本当に難しい。歌唱に深い表現力が備わるのはこれからだ。

4・25(金)飯森範親指揮 日本フィル

  サントリーホール

 大津波みたいに豪壮な「海」には微苦笑させられたが、日本フィルもこんなに柔らかく豊麗な音を出すことができるのだと再認識できたのは好かった。飯森は久しぶりに大暴れの大熱演。彼得意の骨太な音楽が復活した。

 この日はオネゲルの「パシフィック231」、ミヨーの「フランス組曲」、イベールの「寄港地」、ラヴェルの「高雅で感傷的なワルツ」、それに前記のドビュッシーの「海」という、なかなかに面白いプログラム。
 もっともそれらは、どれも仁王のように力こぶの入った演奏で、フランスのエスプリ云々とか、洒落た繊細さとか、そういうものにこだわる人はがっかりしたかもしれない。だが、いずれも多彩な音色を備えており、音は大きくても生硬な響きにならぬところは好い。最弱音の美しさも印象に残った。
 「パシフィック231」は、加速と減速のテンポにもう少し劇的な演出があったら、機関車らしい迫力が出せたであろう。「寄港地」第2曲でのオーボエは見事で、異国的な神秘性をよく描き出していた。

4・24(木)ニコライ・アレクセーエフ指揮新日本フィル

  サントリーホール

 エストニア国立響首席指揮者ニコライ・アレクセーエフの指揮をナマのステージで聴いたのは初めてだが、かなり豪快な音楽を創る人だ。

 ショスタコーヴィチの交響曲第11番「1905年」の「1月9日」の楽章など、阿鼻叫喚の巷ともいうべきものであったが、しかしただやみくもに怒号するのではない。楽曲全体をバランスよく設計し、音色の変化にも緻密に工夫を凝らしているところ、なかなかの手腕である。
 この人のピアニッシモはかなり音量が大きい方で、音楽はあくまで明晰だ。そのため同じような楽想が延々と続く第1楽章(宮殿前広場)でもきわめて見通しのいい構築を感じさせてくれたのは好ましい。それに比例してフォルティシモもいよいよ大きく、新日本フィルは轟然と鳴り響いた。それでも響きに硬さや濁りを感じさせなかったのは見事である。ただ、1時間を超える全4楽章を(楽譜の指定通り)アタッカで演奏して、第4楽章でやや息切れを生じたのかどうか知らないけれども、大詰めのダメ押し部分に些か迫力を欠いたのは惜しかった。

 1曲目のシチェドリンの「ショスタコーヴィチとの対話」(2001年作品)は今回が日本初演とのこと。すこぶる物々しく騒々しい曲。失礼ながら、この人の作品で面白いと思ったものは未だかつて1曲もない。
 2曲目のチャイコフスキーの「ロココ風の主題による変奏曲」(原典版)でソロを弾いたベルリン生まれのアルバン・ゲルハルトは、驚異的なほど鮮やかで生き生きとした音楽の持ち主である。次は現代音楽の演奏をナマ演奏で聴いてみたい。

4・22(火)弦楽合奏団「アカンサスⅡ」40年目の復活コンサート

   めぐろパーシモンホール小ホール

 大川内弘をリーダーとする芸大出身の弦楽奏者たちによるアンサンブルで、1966年(括弧して「昭和42年」とあったが、66年だったら昭和41年ですぞ)に結成されたグループの40年ぶりの復活なのだというが、昔のメンバーのうち何人が今回参加しているのかは、部外者には解らない。お歳は存じ上げないが、とにかく40年ということだから、それなりの・・・・。
 コンサートは、バッハの「ブランデンブルク協奏曲第3番」、レスピーギの「リュートのための古風な舞曲とアリア」第3番、モーツァルトの「ディヴェルティメント」第3番、ブリテンの「シンプルシンフォニー」という結構なプログラム。
 若いパリパリの奏者たちと違ってリズムも重く、最弱奏でのアンサンブルも苦しいけれども、大変なパワーの演奏だったことは事実であり、しかも流石に年輪のなせる業というべきか、音楽に曰く言い難い味を感じさせる。
 以前、「おじんトリオ」だったか「おじさんトリオ」だったか、ベテランたちがそう称して演奏した室内楽を聴いたことがあったが、その時も、演奏に不思議な温かい味を感じたことがある。円熟の味というものは、どうやら自然に滲み出て来るらしい。

4・21(月)大植英次指揮 大阪フィル 

  ザ・シンフォニーホール

 大植はかなりウェイトを減らしたようだが、すっかり元気になった様子なのは何より。アルベニスの「カタルーニャ狂詩曲」という愉快な小品では、腰をくねらせて踊りながら指揮をしていた。彼が聞かせてくれた話によれば、この曲はもともと「そういう曲」なのだそうな。
 
 しかし、やはり大阪フィルとしては、「スペイン交響曲」と、ラフマニノフの「交響的舞曲」というシリアスな作品で本領を発揮することになった。
 特に前者では、長原幸太(大フィル・コンサートマスター)の、時に嫋々たる甘美な表情を交えながらもヴィルトゥオーゾぶりを発揮したソロが冴え、この作品を実に生き生きと聴かせてくれた。
 後者も、弦を中心にしっとりとして美しい。一頃少し荒れていたように思えた大植と大フィルの音色も、今年に入ってから二つの聴いた演奏会(一つは2月17日の東京公演)での印象では、もはや完全に修復されただけでなく、指揮者とオーケストラの呼吸がぴったり合ってきたように思えるほどである。

 ただ不思議なことに、音楽全体のつくりもアンサンブルも非常に好いのだが、なぜか音色の変化に不足するという感を拭えないのだ。
 2月のサントリーホールでの公演では、彼らの演奏はすばらしく色彩感にあふれていた。それを思うと、今日の印象がこのザ・シンフォニーホールのリアルなアコースティックのせいなのか、それともこのホールに慣れない私の耳のせいなのか、今はどうもわからない。

4・20(日)ザルツブルク音楽祭制作「フィガロの結婚」

  大阪フェスティバルホール

 今年は大阪国際フェスティバルの第50回記念に当るということで、ラインナップはかなり華やかなものになっている。オリジナル企画云々という面では些か問題もあるが、とりあえず今年はメジャーな顔ぶれが揃っていることはたしかである。

 そのフェスティバルの第4日、ザルツブルク音楽祭制作によるモーツァルトの「フィガロの結婚」を、東京公演に先んじて観た。
 クラウス・グートの演出で、人物相関に極度の読み込み(読み替えと言わないのは、このオペラの台本からはこういう解釈も充分引き出せるのだという理屈も立つからである)を施した舞台である。第2幕のラストシーンでケルビムが壁に映し出して見せるこの相関図たるや、それはもう一見して目がちらちらするほどの複雑なものだが、それはもちろん演技においても細密に描かれているものである。
 グートのこの着眼点は、正しいだろう。
 これを観て、しかも続編の「罪の母」を含むボーマルシェの三部作全体を考えれば、第2部に当る「フィガロの結婚」におけるこのダ・ポンテの台本とモーツァルトの音楽とが、どれほど的確に、しかも精妙かつ巧妙につくられているかということに、改めて感嘆しないではいられない。

 この複雑な人間関係は、すべて愛の天使ケルビムによって仕組まれ、操られているというのがグートの演出の狙いだ。
 だがこれは、たとえ不倫であっても、そのエロスが単なる低次元の欲望ゆえではないということの一種の「弁護」とも解釈できよう。「ドン・ジョヴァンニ」においてならともかく、流石に「フィガロの結婚」のような音楽からは、グートもそこまでどろどろしたドラマを発想することを避けたのかもしれぬ。

 しかし、私は思うのだが、ケルビムの助けをこれほど借りなくても、伯爵にしろ、ロジーナにしろ、スザンナにしろ、そのようなエロスの持ち主であることを充分に描き出すことは可能なのではないかしらん。
 その意味で、最初のうちはともかく、オペラが進むに従い、グートの演出が、いやに説明過剰に感じられて来るのだ。視覚的にも、何かというとしゃしゃり出て来るこのケルビムの存在が、だんだんと煩わしくなって来るのである。

 少壮ロビン・ティチアーティの指揮は、ザルツブルクでアーノンクールやハーディングが指揮した時に比べると、ずっとストレートで、妙に意図的な細工や誇張はない。
 その意味では基本的には好ましいものだが、ただ、この舞台に拮抗するためには、音楽的に些か迫力を欠く。エイジ・オブ・エンライトメント管弦楽団の演奏も、本来はもっと個性を感じさせるものだ。
 将来はともかく、今のティチアーティには、もう少し穏健な舞台との協演の方が似合っているだろう。

 歌い手たちは、まあ、手堅くやってくれていたというところか。いや、決して悪いということではない。しかし、こういう演劇性の強い舞台を成功させるには、やはりザルツブルク・プレミエの時のような、一騎当千のツワモノどもが顔をそろえていないとなかなか難しいのは事実だろう。
 特にスザンナ役の歌手に一種の魔性的な性格が備わっていることが、この舞台の意味を左右する最大のポイントとなるはずなのだが、それは言っても詮無きこと。

 話は変るが、この大阪フェスティバルホールは、今年12月で改築のため閉じられるという。同じ建物の中にあるグランドホテルは既に閉鎖され、何がなし廃墟の気配すら漂っている。ここには取材や収録のため、何度も訪れた。それらもつい昨日のように思われ、懐かしい。

 思えば、初めてこのホールを訪れたのは41年前。バイロイト音楽祭の日本公演「トリスタンとイゾルデ」と「ワルキューレ」を観に来た時だ。
 ビルギット・ニルソン(イゾルデ)、ヴォルフガンク・ヴィントガッセン(トリスタン)、ハンス・ホッター(マルケ)、アニア・シリア(ブリュンヒルデ)、テオ・アダム(ヴォータン)らが歌い、ブーレーズとシッパースがそれぞれ指揮した(オーケストラはN響)。いずれもヴィーラント・ワーグナーの演出であった。

 今とは時代が違い、客席は気の毒なくらいのガラガラの入り。天井桟敷の一番安い席を買って東京からやって来たわれわれ3人の仲間は、第3幕になる頃には、1階のグランドサークルの傍に座っていたほどだ。
 それにしても、あの舞台の何と強烈な印象であったろう! ワーグナーの巨大な「闇」の物凄さに、われわれは文字通り圧倒されたのであった。
 たとえば「ワルキューレ」の「死の告知」で、暗黒の中から長い時間をかけて少しずつ姿が浮かび上がってくるブリュンヒルデの姿。「ワルキューレの騎行」で、広い舞台のスクリーンいっぱいに渦巻く雲を背景に、体を左右に揺らしながら歌い続けるワルキューレたちのシルエット。「魔の炎の場面」では、そのスクリーンいっぱい、半円形にゆっくりと拡がって行くオレンジ色の、やがて深紅に変る炎を背景に、ヴォータンの姿がこれもシルエットで浮かび上がる。
 とりわけ震撼させられたのは、「トリスタン」の幕切れ、奥行きも知れない大きな暗黒の真ん中にたった一つ、イゾルデの上半身だけがスポットのように浮かんでいる「愛の死」の場面。その一点をじっと見つめていると、こちらの目が錯覚を起こし、いつのまにかイゾルデの姿が視覚の範囲全体に拡がっているような感覚になるのだ。オーケストラ・ピットにはバイロイト祝祭劇場同様に大きな覆いがかけられていたので、いっそうその暗黒の魔力が生きたというわけであった。

 終演後、われわれは「すごいね」「うん、すごいね」と、それだけ言葉を交わしただけで、あとはひたすら黙ったまま、深夜の街を大阪駅まで歩き続けた。口もきけなくなる、ということこそ、真の感動なのであろう。そんなことは一生に一度でもあれば幸せというものだろうが、あの時のわれわれは、まさにそういう状態にいたのである。

 その大阪フェスティバルホールを訪れる機会も、おそらく今回が最後。


4・19(土)大友直人指揮 東京交響楽団

   サントリーホール

 最初に演奏された「レンダリング」は、本来は面白い曲である。
 シューベルトがスケッチとしてだけ残している交響曲(あまりシューベルトらしからぬ音楽だが)に、ルチアーノ・ベリオが己のスタイルによる音楽を投入して組み合わせた、30分以上かかる大規模な作品だ。
 シューベルトの音楽が進んでいるうちに、いつのまにかベリオの妖しい「現代音楽」がめらめらと紛れ込んできて、しばらくは怪奇妖艶な音楽が続き、やがて白昼夢から目覚めたようにスッとシューベルトに戻る。そのパターンが何度か繰り返されるのだが、起伏豊かに演奏すれば、パノラマか絵巻物のように、夢と現実、安息と不安、清純と魔性、といったものが交錯する、きわめて色彩に富む作品になるはずなのだが・・・・。

 プログラム後半の最初は、エリック・シューマン(今年26歳、父はドイツ生まれ、母は日本人)がソロを弾いたブルッフのヴァイオリン協奏曲第1番。何の衒いもない、率直で実に美しいヴァイオリンだ。比較的遅めのテンポで流麗に歌い上げる。この「なだらかさ」は、日本人音楽家の血を受け継いだものだろうか? 
 最後は「ローマの松」。ここで大友直人と東響はやっと本来の調子を出したようだ。見事なほどに耽美的な演奏だった「ジャニコロの松」では、特にクラリネット(首席奏者エマニュエル・ヌヴー)がすばらしかった。

4・18(金)スクロヴァチェフスキ指揮 読売日本交響楽団

   サントリーホール

 84歳の常任指揮者、スタニスラフ・スクロヴァチェフスキは、本当に元気だ。
 今日のブルックナーの「第5交響曲」も、椅子にもかけず、いつものように暗譜で振り通す。かつての朝比奈隆を思えば驚くには当らないという声もあるが、それでもその体力と気力は見上げたものではある。
 演奏時間およそ75分(楽章の間を含む)という速めのテンポで、やや軽量の、しかし情のこもったブルックナーを聴かせてくれる。2階席後方からは熱烈なブラヴォーが飛び、客席全体も力のある音の拍手で沸き返り、これもいつものようにスクロヴァチェフスキへのソロ・カーテンコールがある。「老巨匠の滋味」に対して日本の音楽ファンがいだく崇敬の念は、やはり特別なものだ。

 もっとも、われわれブルックナー・オタクは、舞台後方に並んだ金管群が一斉に咆哮する最後の大コラールの真っ最中にフルートの上昇音階を浮かび上がらせるスクロバ先生の例の大ワザ(アバドもやっているが)を聴けば、それだけで悦に入ってしまうのだが。
 スクロヴァチェフスキは今回、人気に応えて、常任指揮者としての任期を更に1年、2010年3月末まで延長したそうである。

4・17(木)コンヴィチュニー演出 ヴェルディ:「アイーダ」

  オーチャードホール

 結局、舞台はソファ一つだけが置かれている小さな部屋に統一されていて、物語はすべてこの「矮小な世界」でのみ進められていく。
 主人公たちがどんなに威張っても、もがいても、生きているうちはこの閉鎖的な世界から出られないという設定だ。よく使われる「砂の女」的なコンセプトだが、納得はできる。

 この部屋が開かれるのは、ただ2回。最初は「凱旋の場」で、コンヴィチュニーの語るところによれば「ユートピアの幕開け」なのだそうだが、これはいささかこじつけっぽいし、そう説明されなければ何だか解らない。
 2回目は当然ながらラストシーンで、今回の上演では欧州での舞台と異なり、壁が崩壊した背景に、大都会の映像(動画!)が新しい世界として拡がっている。アイーダとラダメスは、和解したアムネリスを部屋に残し、手を携えて彼方の未知の世界へ歩み去る。こちらは音楽の雰囲気ともぴったり合って、かなり感動的な光景だ。

 そしてまた結局、舞台上に姿を見せていたのは、アイーダ、ラダメス、アムネリス、エジプト国王、高僧ラムフィス、アモナズロ、巫女の主役7人のみ。合唱は1ヶ所(凱旋の場で、背景に演奏者として並んでいる)を除き、すべて陰コーラスである。
 したがって民衆も奴隷も僧侶も、実在の人物としては一切登場しない。
 珍しい手法だが、初めてのものではないだろう。かなり昔、モスクワのボリショイ劇場での「トスカ」で、ボリス・ポクロフスキーが同じ手を使っていたのを観たことがある。その「テ・デウム」の場面など、一面暗黒の巨大な舞台の奥から響いてくる合唱が、なにか恐ろしい圧迫感を感じさせたのを記憶している。ただし今回のは、もちろんそこまでの凄みはなく、ただの陰コーラスというイメージを出なかったけれども。

 こうしたシンプルな舞台だから、いきおい観客は、主役キャラクターの演技に注意を集中することになる。コンヴィチュニーのねらいはそれだろう。
 なるほど、高僧ラムフィスが平和の証として、アモナズロと娘アイーダをエジプトに人質として残すことを提言した時に、ライバルが今後も王宮内に残ると知ったアムネリスがラムフィスに対し怒りを爆発させるという演技など、はっきりと堪能することができる。さすがにレジー・テアター系演出家の大御所によるものだけあって、登場人物の心理の微細な綾は、すこぶる詳細に描かれていた。その意味では、この演出の趣旨を認めるのにやぶさかでない。

 だがしかし、このような演出のみがドラマの本質に迫ることができるのだ、という主旨の発言は、いささか独断に過ぎるような気もする。人間性の本質を明らかにするには一切の衣類を脱ぎ捨てなければならぬとする一部のヌーディストの論理と似たようなものだ。かりに華麗な装置を備えた伝統的な舞台であっても、演出次第で、登場人物の性格や葛藤を存分に描き出すことも可能なはずである。また、観る側の理解度や感性によって、それらを読み取ることもできるだろう。
 何が「本質」なのかという議論も含めて、コンヴィチュニーのこの手法は、あくまで一つの方法に過ぎない。
 また今回の字幕は意図的にかなりオリジナル台本と異なるニュアンスの訳語であった。但し書きによれば、ドイツで上演された際に、その演出意図に基づき作成されたドイツ語字幕をもとに訳されたということだそうだが、そういう訳語にすることが果たして作品の「本質に迫る」ための正しい行為なのかどうかも、疑問と言わなければなるまい。

 演出ばかりに気をとられるのも、オペラの本質を見誤ることになろう。
 指揮はヴォルフガング・ボージッチという、ニーダーザクセン州立劇場の音楽総監督をつとめる人。手堅くがっちりと、歌手に流されずに音楽をつくるタイプの指揮者だ。彼の引き締まった指揮のもと、東京都交響楽団が、幕を追うに従い予想外に(?)しっかりした演奏を聴かせていった。
 おなじみのキャサリン・ネイグルスタッド(アイーダ)をはじめ、歌手陣がいわゆるイタリア・オペラ的な歌唱でないことは、別に非難される筋合いもなかろう。高音の苦しい人もいないではなかったが、これは致し方あるまい。

 カーテンコールでは、演奏者たちに対するブラヴォーと、演出家に対するブーが、ほどよく飛んでいた。ブーイングを受けたことによって、多分コンヴィチュニーも日本の観客に手ごたえを感じたのではなかろうか。

4・16(水)ケント・ナガノ指揮モントリオール交響楽団

   東京オペラシティコンサートホール

 「幻想交響曲」では、ハープが何と6台、下手にズラリ並ぶ。豪勢なものだが、随分コスト比が悪かろう。
 弦は一昨日と同様18型で、管も倍加されているものがあるため、ステージはあふれんばかり。この壮大志向ならば、もしや旧版のコルネットのパートも復活か、と期待したが、それは果たされなかった(舞踏会の場面にあれが入ると、実に華やかでいいのだが)。

 プログラムは、前半にその「幻想」が演奏され、後半に「トリスタンとイゾルデ」の「前奏曲と愛の死」、そして「ボレロ」という配列。
 音色の壮麗なこと、和声のバランスの良さは一昨日と同じで、ケントがこのオーケストラを既に完全に把握していることをうかがわせる。
 その美感が最大限に発揮されたのは、意外にも「トリスタン」の前奏曲であった。しかし、それはいかにも音響的に快い音楽であるとはいえ、それ以上には踏み込まないところに、ある種のもどかしさを感じさせる。灼熱の愛も苦悩も、この音楽からは伝わってこない。だがそれがケントの音楽の個性なのだろう。冷たく醒めた音楽だと言っているのではない。「前奏曲」や「愛の死」での大きなクレッシェンドの個所で、ケントはテンポをぐいぐいと速めて行く。彼なりのスタイルで激しい感情の高まりを描き出していることは事実なのだ。

 アンコールでは、14日の演奏会におけるものと全く同じ3曲が同じ順序で演奏された。とりわけシューベルトの「ロザムンデ」間奏曲における最弱音の美しさは、それはもう陶酔的でさえあった。2種類のプログラムを聴いて最も感銘を受けたのは、この泡立ちクリームのように柔らかく拡がって行く弱音の響きだったのである。

4・14(月)ケント・ナガノ指揮モントリオール交響楽団

   サントリーホール

 18型の大編成で、ドビュッシーの「牧神の午後への前奏曲」「海」が演奏される。
 これだけの編成で演奏されれば、明晰な抒情の代わりに、壮麗なふくよかさといったものが支配的になるのは当然だろう。音がきれいであれば、それも良い。特に最弱音はふくらみがあって美しい。「海」で弦と木管が囁きを交わす個所など、あたかも泡だったクリームが静かにあふれ出すような趣きだ。金管と打楽器が爆発するフォルティシモでは和音にやや硬さと濁りが生じるが、これは微々たる瑕疵にすぎないだろう。
 前任者デュトワの時代におけるブリリアントな響きを残しつつも、ケントはこのオーケストラに、しっとりとした柔らかい音色を植えつけた。とりわけ和音のバランスの巧みさはケントの腕の冴えというべきであろう。オーケストラのレベルは非常に高い。

 後半は「アルプス交響曲」。優秀なオーケストラで聴くと、さすがにこの作品は、本来の壮大さを蘇らせる。頂上の場面や嵐の場面などでの音塊の密度の高さと完璧な楽器のバランスは、素晴らしい。
 ただ、ケントの表現はかなり淡白であり、「日の出」にしても「日没」にしても、ひどくあっさりした切り口で、これ見よがしに誇張するところは全くない。いわゆる情感の濃さとか深い滋味とかいったものからは無縁の音楽であり、そこが好悪の分かれ目だろう。
 なおバンダはオーケストラの楽員による自前だ。それゆえ、楽員が慌しく出たり入ったりするのが視覚的に少々煩わしい。特に登山の開始されるところとか、森に入ったところとかいう大事な音楽の個所なので、なおさらである。

 アンコールは「ロザムンデ」間奏曲に「さくら変奏曲」、最後に「ファランドール」。最初の曲での弦の柔らかさも、これまた美しさのきわみであった。
   音楽の友6月号(5月18日発売)演奏会評 

4・13(日)小澤征爾指揮「エフゲニー・オネーギン」

  東京文化会館

 「東京のオペラの森」の目玉公演で、小澤が日本で指揮するチャイコフスキーのオペラとしては昨年のサイトウ・キネン・フェスティバルにおける「スペードの女王」に続くもの。

 流石に彼が得意とするレパートリーだけあって、モーツァルトやベートーヴェンのオペラにおける指揮と違い、音楽の流れに生き生きとしたものが感じられる。いわゆるロシア的な澄んだ叙情性といった色合いには不足するけれど、「手紙の場」でのタチヤーナの感情の激しい起伏や、第2幕で人々の動揺が次第に高まっていくあたりのオーケストラの劇的な力感は見事なものがあった。
 「東京のオペラの森管弦楽団」の音が毎年のことながら少し粗く、それがために何となく力んだ演奏に聞こえたことは否めないが、とにかく聴き応え充分の音楽になっていたことはたしかである。

 小澤はやはり、ロシアものやフランスもの、あるいは近代・現代のレパートリーで、オペラの指揮者としても一国一城の主たりうる人なのである。
 それで充分ではないか。
 ウィーン古典派のレパートリーを演奏できなければ指揮者ではない、などという考えは、20世紀後半以降、もう過去のものとなっている。何を好んで独墺系指揮者たちの後を追う必要があろう?

 今回は合唱(東京のオペラの森合唱団)もなかなか良かった。冒頭の合唱など、力強さにハッとさせられたほどである。演技の面でも動きが良く、舞台を引き締めていた。
  ソリストの歌手陣は、まず平均的な出来だろう。タチヤーナを歌ったイリーナ・マターエワはマリインスキーのゲルギエフ軍団の一人で、この役にはぴったりだと思われたが、なぜか今夜は、声楽の上でも演技の上でもやや硬い。演出家との意思の疎通が充分であったのかどうか多少気になるところであった。

 ファルク・リヒターの演出による舞台には、私は大いに感心した。それを支えるカトリーン・ホフマンの舞台装置とカーステン・サンダーの照明も陰翳に富んでいてすばらしい。背景に滝のように降り続ける雪(季節とは無関係なもの)、彫像のように立つ抱擁した男女、氷のようなテーブル、冷徹で気取って殺伐とした社交界の場、いずれもタチヤーナの心象を象徴する風景として完璧なものがあるが、これはそのままオネーギンの心象風景にも当てはまるだろう。民族色に富む舞台も悪くはないが、このような心理的なニュアンスを押し出した演出によるロシア・オペラの舞台も面白い。
 第1幕と第3幕の雪、それに第2幕での吊られた灯(蛍光灯)のそれぞれ垂直方向の「線」と、それらに対して横方向に激しく動く群集との対比は、視覚的にもすこぶる強烈であった。

 リヒターの演出が、あまり独りよがりになっていないところにも好感が持てたが、このように意外なほどストレートな手法は、もしかしたら音楽監督(小澤)の意向もあったのかもしれない。
 しかし演技もすこぶる微細にわたっていて、特にオネーギン(ダリボール・イェニス)とレンスキー(マリウス・ブレンチウ)の葛藤は緻密に描かれていた。
 たとえば、第2幕でレンスキーがオネーギンに決闘を申し込んだのは、ただ嫉妬から生じた怒りのためだけでなく酔った勢いもあった、と解釈した演出など興味深い(私はこの発想の演出は初めて見た)。そして、ラーリナ夫人から「私の家でなんということを」と非難された瞬間、レンスキーは酔いが醒めて我に還るという演出もいい。これにより、ここで音楽がぐっとテンポを落とす意味もいっそう強調されることになる。
 また「決闘の場」で、2人のうちのどちらかが仲直りしようと試みる演出はこれまでにも数多く見たことはあるが、今回のように、2人が同じ感情を抱くようになり、もし「作法にうるさい」介添人の余計な一言がなかったら再び親友になれたかもしれない、ということを極端に強調した演出は、私には非常に印象深いものがあった。

 全曲大詰のオネーギンの歌詞の字幕には、少々驚いた。
 ここはたしかオペラの台本では「何たる恥辱!悲しみ!惨めなわが運命よ!」となっているはず。つまりこの期に及んで、まだ失恋を「恥辱」と考えるところがオネーギンの見栄っ張りでエゴイスティックな性格を表わしているわけであり、非常に重要な意味を持つ歌詞のはずである(プーシキンの原作とは異なっているが)。
 ところが今回の字幕では、「ただ死あるのみ!」となっていた。字幕を担当したのはロシア文学者であり、ロシア・オペラにも詳しい田辺佐保子さんだったから、これは何かわけがあるのかと思い、終演後に会って尋ねてみると意外や意外、「小澤さんが読んでいた英語訳歌詞がそのようになっており、彼がそれに非常にこだわっていた」ため、日本語字幕もそれに従わざるをえなかった、ということであった。英語訳歌詞がいかなるものか私は知らないが、しかしここは、やはり誤りであると思う。

4・12(土)パトリシア・プティボン(ソプラノ)・リサイタル

   東京オペラシティコンサートホール

 フランス系(アーン、ロザンタール、プーランク、コレ、カントルーブ、サティなど)、アメリカ(バーバー、コープランド他)、スペイン(オブラドルス、トゥリーナ、ファリャ)の作曲家の作品に、モーツァルトの「フィガロの結婚」から2曲、といったプログラムが組まれた。

 これらを通じて展開されるプティボンの歌と演技の、何と多芸多才なこと!
 美声から奇声、嬌声、悪声にいたるまであらゆる声を使い分け、踊り、行進し、自ら打楽器を演奏し、ギャグまでこなす。それはもう見事なものである。しかも、ピアノのマチェイ・ピクルスキまで日本語を使ってギャグに参加するという具合だから、予想外に賑やかで華やかで陽気なリサイタルとなった。
 これに対しお客さんは、どちらかといえば普通のリサイタルを予想してやって来て、プログラムが一区切りするところまで拍手を控えてじっと聴き入ろう、という姿勢だったから、当初のうちは気分的にマゴマゴするようなところがあって、このギャップが何とも不思議な雰囲気を作り出していた。
 次第にみんな彼女のペースに乗せられていったが、プログラムの終りの方で、「フィガロの結婚」のバルバリーナのカヴァティーナとスザンナのアリアがオーソドックスなオペラのスタイルで歌われた瞬間に初めて大きなブラヴォーと拍手が爆発したのは、もしかして今日の聴衆のホンネの表われだったかもしれない。

 しかしともあれ、楽しい、異色のリサイタルであった。この人の歌唱力と表現力は、たしかにすばらしいものだ。昨年のザルツブルク音楽祭でハイドンの「アルミーダ」のゼルミーラを歌うはずが、当日行ってみたらキャンセルになっていたこともあり、私にとっては何故かなかなか舞台姿に接する機会に恵まれないのが残念である。

 そういえば、最初の方で彼女の歌に合わせて舞台に闖入し、独りで勝手に踊りまくり、ピクルスキの「ピストルに撃たれ」、袖に引きずり込まれて二度と出てこなかったあの兄ちゃんは、だれが演じていたのだろう?

4・12(土)準・メルクル指揮NHK交響楽団
「トゥランガリラ交響曲」

   NHKホール(マチネー)

 N響の「虎狩り交響曲」、いや「トゥランガリラ交響曲」といえば、私以上の世代ならすぐ思い出すのは、あの1962年の夏、若き気鋭の小澤征爾の指揮で行われた日本初演の演奏会である。
 あれは、本当にわが国音楽界の一大事件だった。東京文化会館での本番は、一つの楽章が終るごとに大拍手が起こるというフィーバーぶりだったが、何しろ当時はまだ「超現代音楽」だったこの作品のこと、演奏する方も聴く方も文字通り気負った必死の精神状態にあったといっていいかもしれない。

 あれから幾星霜、今やこの曲もすっかり古典の仲間入りをしてしまった感がある。
 メルクルのもと、N響はこの曲を、何とさり気なく美しく、いとも易々と演奏して見せたことであろう。オーケストラはいささかの破綻もなく、ほとんど完璧ともいえるほどのバランスを保っていた。さすがN響、ひとたび本気になれば難曲すらかくの如し、といった立派な演奏であったが、その代わり、この曲について回るスリリングな興奮もあまり感じさせない演奏で、「星の血の喜び」での絶叫の中の法悦も、続く「愛の眠りの園」での危うい陶酔も、ともに思いがけずあっさりと通り過ぎてしまった。第10楽章の大詰めでも同様、坩堝の深淵に投げ込まれるような興奮とはだいぶ距離があったようである(ただ、これがNHKホールでなかったとしたら、もう少し異なった印象を得たかもしれない)。
 なお、ピアノはピエール=ロラン・エマール、オンド・マルトノは原田節。

 準・メルクルは、7月にもこの曲を、札幌のPMFオーケストラを指揮して取り上げる。

4・11(金)ラドミル・エリシュカ指揮札幌交響楽団

  札幌コンサートホール kitara

 札響の本領を聴きたければ kitaraへ行くがよろしい、とは私の持論である。空気が良い。ホールが良い。ホールと一体化して創られた音色は、ここで最良のものを発揮する。日本の地方都市オーケストラは、たいてい東京で演奏する時には張り切って物凄いパワーを発揮するものだが、逆に地元での方が良い演奏をするのが札響である。

 それはともかく、大評判の裡に首席客演指揮者に迎えられたエリシュカの指揮を、その札響で聴いた。プログラムはヤナーチェクの「タラス・ブーリバ」、モーツァルトのピアノ協奏曲第24番(ソロ:伊藤恵)、ドヴォルジャークの交響曲第6番。

 エリシュカの指揮も、予想通り先日の東京都響との演奏とは格段の差。気持の上で相性が良く、しかも一所懸命、真剣に演奏する札響との演奏は、音も美しく、決して無用に力みかえったりすることがない。作品の性格によることもあろうが、先日の都響との演奏を聴いた際のエリシュカの指揮の印象は、若干修正する必要がある。その音楽はいかにも瑞々しくしっとりしていて、まさにチェコの指揮者たちのよき伝統を今に伝える音楽家なのだ。今日の演奏には、先日のような古武士的な豪快さは全くといっていいほど感じられなかった。あのチャイコフスキーは何だったのだろう? しかし、芯の通った揺るぎない風格が音楽にあふれていることだけは共通している。

「タラス・ブーリバ」の演奏は、リハーサルでの美しさとしなやかさに比べて些かぎこちなかった(翌日の演奏は良かったということである)。
 だが、たとえば3曲目の、ヤナーチェク特有の和声が津波のように押していく個所で、弦楽器群にびっくりするほど瑞々しくエロティックな表情が顔を覗かせるあたり、指揮者との呼吸の良さが窺われるだろう。
 協奏曲に入るとオーケストラは、室内楽的な端正さに転じた。伊藤恵も、たとえばシューマンなどで聴かせる柔らかさとは異なった透明で明晰で、時に禁欲的にさえ感じられるアプローチでモーツァルトを聴かせてくれる。それらは清澄で鮮やかなものではあったが、一面ではある種の冷たさが漂っているようにも聞こえ、演奏家たちが持つさまざまな側面を垣間見たような気がして、なかなか興味深かった。

 この古典派の作品を経由したためだろうか、ドヴォルジャークの交響曲では、札響はしなやかな動きを取り戻した。エリシュカもチェコの指揮者らしい情感を存分に発揮する。作品にどっしりした安定感がみなぎっているのは、彼のテンポの適正さによるものだろう。少しも不自然な、無用に強調したところがないが、さりとて無骨で融通の利かないものでもない。第3楽章の最後にかけての自然で快い加速など、この指揮者のテンポ感覚の見事さを感じさせるものであった。
  北海道新聞(4月23日)演奏会評

4・10(木)新国立劇場 ウェーバー:「魔弾の射手」

 序曲が始まる前に、台本にはなかった隠者の庵の場面が設定され、そこで隠者とアガーテがすでに知己の関係にあることが描かれる。アガーテはしばしば、隠者の生活に必要なものを時に届けに来ていることになっている。演出はマティアス・フォン・シュテークマン。

 オペラの最後の場面で隠者が突如出現、領主が宣告した狩人マックス追放をひっくり返すのはあまりに唐突ではないかという疑問を解決するには、これはいいアイディアだろう。
 とはいえ、この隠者が冒頭で悪夢にうなされ悲鳴を上げているというのは、いささか頼りない。そんなことでは、彼の超自然的な存在、もしくは村人から尊敬されている人格者としての威厳をだいなしにしてしまうのではなかろうか。とりわけラストシーンで、彼が悪魔ザミエルと対峙する存在として描かれる演出になっているからには(たとえこの両者が表裏一体と解釈されるにしてもだ)、なおさらである。
 まあ、これは、演出家の選択肢の問題だが。

 とはいうもの今回の舞台、おとぎ話的な物語としてストレートに演出されたものの中では、比較的よくできているだろう。
 そもそも妖怪変化の出現する狼谷の場面などは、まともにやって上手く行ったためしはなく、舞台装置を含めてどれも学芸会的な安っぽい見世物になるのがおちであった。それを避けるには、「森」から離れて抽象的な舞台にして逃げるか、あるいは昨年のザルツブルク音楽祭でのファルク・リヒター演出のように全く設定を読み替えた舞台(8月20日の項)で観客の裏をかくしかあるまい。
 しかし、このシュテークマンの舞台は、特に照明(沢田祐二)を巧く使い、魑魅魍魎が跋扈する狼谷の場をそれなりに面白く見せていた。ただ、悪漢カスパルが魔弾を受けて斃れる場面の演出だけは、どうも腑に落ちないけれども。
 その他、PAのエコーがらみのザミエルのセリフ落ちなど、いろいろ手違いのようなものはあったが、それはなんとか改善されるだろう。

 ソロ歌手陣に関しては、主役も脇役も、全体にあまり納得が行かない。マックス役のアルフォンス・エーベルツなど、こんなに旧式に喚くテノールだったか? アガーテのエディット・ハッラーも、もっといいソプラノのはずなのに、この日は少し調子を崩していたのかしらん。
 むしろ合唱団の方が面白かった。狩人たちのメイクと衣装が、狩人というよりジャングルの自衛隊員といういでたちだったのと、女性たちのメイクが妙に田舎っぽい(田舎の物語だから仕方がないにしても)のが気にはなったが・・・・。

 ダン・エッティンガーの指揮は、ところどころにテンポの誇張がありすぎるが、全体としてはロマン派オペラの解釈に妥当な線を行っているだろう。
 だが、問題はやはりオーケストラ(東京フィル)だ。たとえば、この作品で重要な役割を果たすはずのホルン群の、あの痩せた音はどうしたものか。管も相変わらず不安定だ。何年経ってもピットの中で腕の上がらないこの「東京国立歌劇場管弦楽団」には、もはや我慢も限界、不信任案を突きつけたい気持にもなってしまう。責任を自覚してくれない体制の契約オーケストラなら、交替していただくしか手だてがないかもしれぬ。どうなんでしょう?

4・8(火)三枝成彰:モノオペラ「悲嘆」

  サントリーホール

 2・26事件で刑死した夫の遺体の傍らで慟哭し、怒り、殉死を選ぶ妻のモノローグによるオペラ。台本はロンドン生まれの戯曲家アーノルド・ウェスカー。中丸三千繪が延々75分にもおよぶ長尺物の英語歌詞(らしきもの)を独りで歌い、演じた。

4・6(日)本名徹次指揮オーケストラ・ニッポニカ
日本の交響作品選集

  紀尾井ホール

 当初の予定では準・メルクルとN響の定期を聴きに行くつもりだったが、オーケストラ・ニッポニカの定期のプログラムを見ると、これを聞きのがせばもう二度と機会はなさそうなものばかりが並んでいるので、NHKホールでなく、紀尾井ホールへ足を運ぶことにした。メルクルとN響は、12日に「虎狩交響曲」を聴くことにしている。

 オーケストラ・ニッポニカは、2002年に創立されたアマチュア・オーケストラで、音楽監督は本名徹次、日本の交響的作品ばかりを取り上げるという個性的な活動を続けている。このような地道な業績がもっと広く注目されればいいのだが。

 今日の曲目は、金井喜久子の「梯梧の花咲く琉球」、平尾貴四男の「古代讃歌」、深井史郎の交響的映像「ジャワの唄声」、松平頼則の「南部子守唄を主題とするピアノとオルケストルの為の変奏曲」、橋本國彦の「感傷的諧謔」、山田和男(一雄)の大管弦楽の為の交響的「木曾」・・・・といった具合に、1928年から1946年の間に作曲されたものを組み合わせている。
 これらは沖縄あるいは日本本土の民謡的な旋律を取り入れた作品ばかりで、そこでは第2次大戦前のわが国の先達たちが日本音楽の精神を西洋音楽の形式と合体させるために試みたさまざまな手法を聴くことができる。
 金井の作品以外はすべて大戦前あるいは大戦中のもの。国威発揚時代のわが国の作曲家の姿勢がしのばれるのも興味深い。一方、沖縄民謡を取り入れたこの曲を金井が書いたのが、太平洋戦争で同地が大打撃を受けた直後の時代であったことも意味深い。
 本名とオーケストラの熱演も含め、意義のある演奏会であった。

4・5(土)大島莉紗ヴァイオリン・リサイタル

  トッパンホール

 パリ・オペラ座のオーケストラのヴァイオリン奏者として活躍する大島莉紗の、8年ぶりという日本でのリサイタル。モーツァルトの「K.301」、シューベルトの「幻想曲」、ショーソンの「詩曲」、R・シュトラウスのソナタが取り上げられた。

 華奢で楚々とした容姿の女性だが、きわめてシンの強い、はっきりした自己主張を行うヴァイオリニストだ。強靭な響きとつややかな音色は、ホールを圧するほどである。
 これで、もっと作品ごとに異なる性格が浮き彫りにされ、主題やフレーズのそれぞれに多様な表情が与えられたら、音楽はより多彩になるだろう。ピアノはマーティン・カズン。
 

4・5(土)ラドミル・エリシュカ指揮 東京都交響楽団

  東京芸大奏楽堂(マチネー)

 突然人気が沸騰しはじめたチェコの指揮者ラドミル・エリシュカ(77歳)。
 札幌交響楽団での成功がクチコミで伝えられてはいたものの、何がどう素晴らしいのかはこれまでちっともつかめなかった。今日初めてその演奏をナマで聴き、なるほどと思うと同時に、若い聴衆の熱狂の仕方に大いに興味を感じた次第である。

 今日のプログラムは、ドヴォルジャークの「野鳩」、ヤナーチェク~ターリヒ編の組曲「利口な女狐の物語」、チャイコフスキーの第5交響曲という組み合わせ。
 東欧系のベテラン指揮者特有の陰翳と情感と滋味に富んだ音楽づくりが特徴だが、この人の指揮には更に、今日の時代には珍しいほどの豪快な力感、剛直な精神力といったものがみなぎっている。
 とりわけチャイコフスキーの交響曲では、レコードで聴く昔の名匠パウル・ファン・ケンペンの古武士的な音楽づくりを彷彿とさせるものがあるだろう。どっしりと揺るぎない構築、まっすぐにたたきつけられる金管の和音、起伏は大きいものの作為を感じさせぬデュナミーク。
 こういう音楽を創る指揮者がまだいたのかと、うれしい驚きを味わわせてくれたエリシュカの指揮であった。

 ただし、この人の指揮に今日の都響は果たして心から共感していたのかどうか。演奏を聴いた範囲では、少々見極めにくい。
 来週には、エリシュカと最も相性がいいはずの札響との演奏を聴くことにしているので、そこで彼の音楽をもう一度じっくりと聴いてみよう。

 聴衆は熱狂し、最後は指揮者にソロ・カーテンコールを求めた。
 興味深かったのは、若い知人たちの反応だ。
 実に新鮮だ、とみんなが言う。
 今の時代にあっては、これは新鮮なものと感じられるのか。
 私などには、たとえば前出のケンペンのように、昔はこのような演奏をする音楽家が大勢いたもので、そのよき伝統を受け継ぎ、頑固に主張し続けている昔気質の指揮者が久しぶりに現われてきたのだ、というように受け取れるのだけれど、それがレトロと言われず、新鮮だと言われるところが面白い。
 ある種の演奏スタイルばかりがもてはやされ、それに非ずんば現代の演奏に非ず、といった風潮を肯んじない聴衆がまだ健在なのだということに、私は大いに意を強くしたのであった。

4・4(金)東京室内歌劇場「星の王子さま」

  紀尾井ホール

 サン=テグジュベリの有名な原作をもとにした新作の室内オペラで、アルベルト・カルーソの台本・作曲・指揮、畑中更予の台本日本語訳とナレーション、栗山昌良の演出。

 全篇ゆったりした雰囲気のカンタービレ満載の音楽で、狐の場面など美しいことこの上ないが、しかし単調なこともこの上ない。あたかも組曲のように一つずつナンバー(?)が完奏するという構成が採られ、場面移行の音楽も皆無なので、いっそう起伏に乏しい印象になる。フィリップ・グラスを癒し系トーンに換えたという感じといえようか。
 だが、そのレガートなオーケストラに乗った日本語歌詞の表情やリズムはむしろリズミカルで明晰であり、この点に関しては日本人オペラ作曲家たちよりもよほど優れたセンスを示している。

 弦楽5部にピアノとハープを加えた8人編成のアンサンブルの音色は流麗。
 歌手陣では、王子さま役の釜洞祐子が出ずっぱりで奮闘。狐役の青山恵子もよかった。

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