2021-04




2020・8・30(日)メノッティ:「アマールと夜の訪問者」

      東京文化会館小ホール  3時

 「東京文化会館オペラBOX」と名づけられたシリーズの今年は12回目。上野中央通り商店会が提供、歌手陣には東京音楽コンクール入賞者を主力として起用するという特徴がある。いずれも結構な趣旨だ。

 メノッティの「室内オペラ」的な作品は、このホールの小さなスペースにも合うだろう。むしろインティメートな雰囲気を醸し出して、理想的な場であると言えるかもしれない。
 岩田達示の巧みな演出は、このヒューマンなストーリーを持ったオペラに相応しい、実に温かくて微笑ましい空間をつくり出していた。

 舞台上には、母親(山下牧子)とアマール少年(盛田麻央)が暮らすあばら家があり、東方から来た3人の王(小堀勇介、高橋洋介、久保田真澄)および従者(龍達一郎)や、羊飼いたち・村人たち(コーロ・パストーレ、リトルシェパーズ)は客席を通って登場する。
 フェイスシールドを付けてはいるものの、衣装と扮装はしかるべく整えられているので、違和感はさほど感じられない。演技も綿密に設定されており、特に「3人の王たち」はコミカルな演技やダンス(!)も交えて観客を楽しませる。
 ただ、演技そのものは抑制しつつも最も存在感と滋味を示したのは、母親役の山下牧子ではなかったかと思う。

 群衆の歓迎の踊りは牧歌劇風の味わいを出し、ラストシーンでアマールが背負った松葉杖が十字架を思わせる形になっていたのも気が利いているだろう。

 音楽の面では、どの歌手たちも、歌唱面では異論を差し挟む余地のないほど快演を聴かせてくれていたし、その歌唱を、下手側舞台下に配置された園田隆一郎の指揮する小編成のアンサンブルが親しみやすい雰囲気で支えていた。
 小規模ながらも、極めてまとまりのいいプロダクションであり、コロナ禍と猛暑とに苛立つ観客の心を温かく慰めてくれるような上演であったと言えよう。東京文化会館の成功作である。

 なお、オペラの上演に先立ち、40分ほどの「オープニングトーク&セッション」と題して、朝岡聡の司会により園田隆一郎と岩田達示がメノッティやバーバーの音楽について語り、富岡明子、寺田功治、高橋裕子による演奏が加わるコーナーもあった。

2020・8・23(日)東京21世紀管弦楽団創立第1回定期演奏会

       東京芸術劇場 コンサートホール  2時

 コロナ禍のため多くの自主運営オーケストラが経営危機に瀕しているさなかに、東京21世紀管弦楽団(Tokyo 21C Philharmonic)というフル編成のオーケストラが旗揚げした。

 音楽監督は浮ヶ谷孝夫、コンサートマスターは中島ゆみ子。協賛社には三菱地所、ALBION、セントラル自動車技研、西島、ポマト・プロ、公文教育研究会の各団体が名を連ねている。
 オーケストラの楽員は固定ではなく、各オーケストラでの経験を持つ奏者を核に据え、多数のフリーの若手奏者を集めて編成するという形だそうである。若手オーケストラ奏者を育成するというのがこの団体の、いくつかの目的の中の最大のものである━━という話であった。

 音楽監督・浮ヶ谷孝夫は、第1回定期のプログラムとして、ベートーヴェンの「コリオラン」序曲、ピアノ協奏曲第4番(ソリストは福間洸太朗)、「交響曲第7番」を指揮した。
 彼の指揮は、最近はあまり聞けなくなったタイプの、かつてのドイツの指揮者がよくやっていたような、重厚そのもののサウンド━━低音に基盤を置き、どっしりと重々しく音楽を組み立てるといったスタイルである。些か反時代的な、と言えるかもしれないが、これが彼の信条なのだろうし、それはそれで尊重されるべきだろう。
 とにかく彼はそのスタイルを、創設されたこの新しいオーケストラにたたき込んだ。精密なアンサンブルの構築や、機能性などよりも、古き良きドイツ音楽の精神性を今の若者に伝えたい、という彼の意図か。

 オーケストラは、その指揮に従い、「コリオラン」序曲の冒頭ではコントラバスが先に飛び出るなど、まるで1954年にカラヤンがN響に要求したような「低音優先」の響きで演奏を開始した。前半の2曲では暗く重々しく、時代がタイムスリップしたような感覚に誘われる演奏が続いたが、「7番」では第1ヴァイオリン群が明るい力を増し、重厚ながらも力感のある音楽をつくり出した。
 総体的に弦はよく鳴り、木管は時々粗くなり、ステージ最奥に位置したホルン群が音量的に弱い、という演奏だったが、これは私の席が2階中央のE列という位置だったことから受けた印象かもしれない。演奏のさなかに時々緊迫感が希薄に感じられることが多々あったのだが、これはむしろ指揮者に責任があるだろう。

 「東京21世紀管弦楽団」の第1回定期を聴いた私の印象は、大雑把だがこんなところである。
 だが、21世紀のこの多難な環境の中に船出した新しいオーケストラが、その方針のもとでどのような活動を展開して行けるのか、またこの指揮者との組み合わせのもとでどのような新しい路線を打ち出して行こうというのか、残念ながら今の私には見当がつかぬ、というのが本音だ。
 更にありていに言えば、今日の演奏を聴いた限り、このオーケストラからは、その名称とは裏腹の「古色蒼然」というイメージを感じてしまうのだが・・・・。せっかく発足した新しいオーケストラなのだ、即断は避けよう。

2020・8・22(土)ラ・ルーチェ弦楽八重奏団

     東京文化会館小ホール  2時

 「弦楽八重奏曲を中心に、五重奏以上の編成の室内楽作品をレパートリーとして、2014年から1年に1度の《La Luceシリーズ》を継続」(プログラムによる)という若手のアンサンブル。

 メンバーは大江馨、城戸かれん、小林壱成、毛利文香(以上vn)、有田朋央、田原綾子(以上va)、伊東裕、笹沼樹(以上vc)。
 プログラムは、ブラームスの「弦楽六重奏曲第1番」、ヴォーン・ウィリアムズの「幻想的五重奏曲」、ニールス・ガーデ(ゲーゼ)の「弦楽八重奏曲ヘ長調Op.17」。なおアンコールとして、ピアソラの「オブリヴィオン」(弦楽八重奏版)も演奏された。

 とにかく演奏は若々しくて明るく、勢いがある。メンバーには、内外の各コンクールで優勝あるいは入賞した若手や、内外のオーケストラのメンバーを務めている若手が揃っているから、この活力も当然だろう。暑さとコロナを吹き飛ばすほどのパワーだ。

 この上は、音楽に陰翳、深みといった内省的な要素が欲しい。ブラームスの「弦楽六重奏曲第1番」などその最たるもので、それはこの音楽の持つエネルギー性のみを浮き彫りにするとでもいう確信的な意図(私は同意できないけれど)があったのなら別だが、しかし、━━もっと演奏にブラームス特有の感情の揺れや逡巡、明暗などの要素が表出されていなければ、専ら解放的な力感のみで押す表面的な音楽に終ってしまう。歯に衣着せずに言えば、この六重奏曲の演奏の中には、ブラームスという人の存在がほとんど感じられなかったのである。

 アンサンブルの音色は、トップを弾く奏者によって様々に変わるようだ。毛利がリーダーを務めたブラームスの「六重奏曲」では、音は鋼の如く強靭で硬質だったが、小林がトップで弾いたゲーゼの「八重奏曲」では普通の柔らかさを取り戻し、色彩的な変化をもつくり出していた。

 客席は、密を避けて両側に1席ずつの間隔を取ったソーシャル・ディスタンス方式の着席形式だが、よく入っている。

2020・8・19(水)読響「三大交響曲」未完成・運命・新世界

       サントリーホール  6時30分

 読売日本交響楽団の夏の名物、「三大交響曲」。前半にシューベルトの「交響曲第7番ロ短調《未完成》」とベートーヴェンの「交響曲第5番ハ短調《運命》」、後半にドヴォルジャークの「交響曲第9番ホ短調《新世界より》」というプログラム。今年の指揮は角田鋼亮、コンサートマスターは長原幸太。

 何か懐かしさを呼ぶプログラムだ。思えば私もクラシックの音楽会に自分でチケットを買って行き始めた頃には、このような「三大交響曲」などの演奏会をよく聴きに行ったものである。それは「運命・未完成・新世界」だったり、どれかが「悲愴」に替ったりしていた。オーケストラはたいてい東響か東フィル。指揮は山田和男(一雄)とか、上田仁とか、森正とか━━。楽しかった。

 当節、コロナ禍のためコンサートの数が減り、大規模なシンフォニーを聴く機会が稀になっている時期ではあるものの、災い転じて福と為す、むしろこのような聴き古した名曲の数々が改めて新鮮に感じられるようになったことを幸せだと思うようにしたい。
 読響は「12型」で演奏していたが、もともと重厚雄大な響きを備えたオーケストラの強みと上手さと、それにホールの響きの良いことなどもあって、この3曲、たっぷりした響きの音楽を楽しませてもらった。細かい部分では少々ゆるいところもあったし、ティンパニも暴れ過ぎのところもあったけれど、演奏全体の量感はいい。

 角田鋼亮も前半の2曲は几帳面な指揮だったが、「運命」の第4楽章へのブリッジ・パッセージのティンパニのクレッシェンドはなかなかの演出だったと言えるのではないか。特に後半の「新世界」では、彼の音楽も生き生きとして自由さを発揮し、音色の変化、内声部の多彩さなど、面白い「新世界」として聴くことができた。

 彼の指揮はこれまでに複数のオーケストラとの演奏で聴いて来て、正直、あまりに真面目過ぎるのではないかという気もしていたのだが、今回の読響との「新世界」では彼の新しい一面を聴かせてもらったように思う。意地悪い見方をすれば、「読響が巧いから」なのかもしれないが、そう言ってしまってはミもフタもない。いずれにせよ、今日の「新世界」を聴いて、この指揮者、もっといろいろ聴いてみたい気がまた湧いて来た。彼は現在セントラル愛知響の常任指揮者であり、大阪フィルと仙台フィルの指揮者をも兼任している若手である。

2020・8・17(月)藤原歌劇団公演 ビゼー:「カルメン」3日目

       テアトロ・ジーリオ・ショウワ(昭和音楽大学) 2時

 ついにオペラの公開舞台上演再開に踏み切ったか、思い切ったことをやるな、と感心していたのだが、実際にはオーケストラをステージ上に乗せ、合唱をその後方の高い位置に並ばせ、主役人物たちの演技は舞台前面(かなりのスペースを取っている)で行なわせるという上演スタイルの「カルメン」だった。

 だが、制作関係者が「セミステージよりもっと凝った形だよ」と言っていた通り、なるほど、岩田達宗のこの演出では、舞台前方に限られた演技空間ではあっても、衣装も、登場人物たちの演技も、充分にリアルなものだった。
 エスカミーリョとドン・ホセの決闘シーンにも、岩田流の巧みな解釈による演技がちゃんと織り込まれていたし、ホセがカルメンを刺殺するくだりも、なかなか凝ったものであった。衣装を着けたダンサーたちも登場する。

 第3幕で銃を持った男たちがやたらウロチョロするのは、この演技空間においては少々煩わしかったが、しかし黙役でもそれだけ多数の人物が登場する舞台だった、ということである。数枚の大きな透明アクリル板を小道具として利用しているのも、巧いアイディアと言えよう。
 なお、第1幕での子供たちの行進場面と音楽は省略されていたが、これはやむを得ないことだろう。

 出演は、鈴木恵里奈指揮テアトロ・ジーリオ・ショウワ・オーケストラ、藤原歌劇団合唱部。
 配役はダブルキャストで、今日は初日(15日)と同じ顔ぶれ━━桜井万祐子(カルメン)、藤田卓也(ドン・ホセ)、井出壮志朗(エスカミーリョ)、伊藤晴(ミカエラ)、東原貞彦(スニガ)、大野浩司(モラレス)、山口佳子(フラスキータ)、増田弓(メルセデス)、押川浩士(ダンカイロ)、及川尚志(レメンダード)という皆さんである。ダンスは平富恵スペイン舞踊団。

 題名役の桜井万祐子を聴いたのは、私は実は今回が初めてなのだが、声の伸びもいいし、好感を呼ぶ歌唱だ。カルメンとしては少々品がいい感もあるけれども、今回の演技空間においてそれを云々するのは早計かもしれない。ただ、ロマの女性の扮装をしている時には「それらしい」雰囲気を出していたものの、第4幕で白い結婚衣装を着けて出て来た途端にカルメンの雰囲気がなくなってしまったのは、演出の所為もあろうが、ひと工夫欲しいところではあった。
 ドン・ホセ役の藤田卓也はもちろん良く、ミカエラ役の伊藤晴は注目株である。

 今回は、歌手全員が透明なフェイスシールド(というのか?)を付けて歌っていた。声がくぐもるかどうかが問題だったが、これはどうやら歌手によって、また声の音域や強弱によって変わって来るようである。つまり、声の響きが気になる瞬間と、全く正常に感じられる時とが、交錯するのだ。従って、一概にどうのこうのとは、言い難い。

 オーケストラもそれなりに健闘していたと思うが、指揮にはもう少し起伏が欲しいところである。どのナンバーも同じような調子で演奏されるので、音楽にドラマティックな変化や緊張感が生まれないのだ。致命的だったのは「カルタの歌」で、オーケストラに委ねられているはずの不気味な不安、予感、恐怖感などが全く描かれずに終っていたのが残念であった。

2020・8・12(水)高関健指揮シティ・フィル ついに「ブル8」

      東京オペラシティ コンサートホール  7時

 東京シティ・フィルハーモニック管弦楽団は、公開定期演奏会再開の第1弾として、ブルックナーの「交響曲第8番」(ハース版)を取り上げた。

 周知のようにこの曲は、弦楽5部の他、3管編成の木管群、ホルン8(アシスタント1を含めれば9)、トランペット&トロンボーン各3、コントラバステューバ1、ハープ2、打楽器など━━を含む大編成である。それをここタケミツ・メモリアルホールの、必ずしも広いとは言えぬステージで敢行するというのは、舞台上の「密」という点において些か気にかかるところもなくはないが、楽団側としては当然それなりの見通しと確信に基づいて行なったことなのであろう。

 また客席に関しても、楽団側としては定期会員の席をソーシャル・ディスタンス方式で振り分け直すことをせず(間に合わなかったとか?)、「着席に関しては客に任せるので自由に移動して可である、ただし移動した場合は座った席を帰りがけに用紙に記入して報告されたい」と告知するにとどめていた。
 それに基づき自主的に移動分散していた会員もいたようだが、やはり自分の固有の席を断固として動きたくない人、動くのが面倒くさい人、ナニ大丈夫だよと思う人、なども多かったようである。日頃から「席の移動は断じて認めません」とレセプショニストたちから厳しくしつけられ(?)ていると、こういう時にも几帳面にそれを守る習慣はなかなか変えられないのかもしれぬ。

 まあ、コンサート会場は向き合って喋るような場ではないし、しかもマスクをちゃんと着けて静かに座っているだけだから、密接して座っていたって大丈夫のはずだ、という考え方も解らないではないけれど、しかし━━。

 さて、かんじんの演奏だが、常任指揮者・高関健の率いるこの大部隊(コンサートマスター・戸澤哲夫)の演奏は、なかなかの快演であった。
 弦は12型編成だったが、このあまり大きくない、よく響くホールでの演奏の場合には、それほど響きの薄さを感じさせることもない。ワーグナー・テューバを含むホルン群が比較的快調だったことも、この演奏を快く聴けた一因だっただろう。第3楽章で2回出て来るワーグナー・テューバを中心とした4小節のコラール(これは私も好きな個所だ)が実に深々とした響きで演奏されたのは嬉しかった。

 高関健の指揮は、オーケストラを怒号させるよりも、全ての楽器の響きの均衡に重点を置いた音楽づくりで、華麗な迫力よりもオルガン的な重厚さを狙っていたように感じられた。
 何よりテンポ設定が良く、特に第4楽章では一部の指揮者がやるような(楽譜にない)唐突な加速などの愚を一切行わないのが立派だ。第2楽章も他の指揮者に比べると遅いテンポだが、このテンポでこそ楽譜に指定された「アレグロ・モデラート」のイメージが生きるというものだろう。これらのテンポ感は、かつてのカラヤンのそれによく似ている。

 第3楽章冒頭の最弱音の弦は、他の指揮者があまりやらないような、極めて明確なリズム感を保ったスタイルで演奏されたが、これも「引き摺らぬように」というスコアの指定を生かしたものとして納得が行く。

 均衡重視の演奏のため、第4楽章のコーダの最後では圧倒的なひと押しという感にはやや不足していたものの、この大曲を僅かの弛緩もなく聴かせてくれたことには、特にコロナ禍に脅える今の日々、久しぶりの快哉を胸の中で叫びたくなるような気持をいだいたのだった。他のお客さんたちもそうだったのでは? 拍手は非常に熱烈だった。

 ※これを書いたあとで、ふと10年前に彼が日本フィルを指揮した「ブル8」のことを思い出し、記事(→2010年11月12日)を読み返してみたら、何か似たようなことを書いていたのに気がついた・・・・。

2020・8・10(月)フェスタサマーミューザKAWASAKI
東京交響楽団フィナーレコンサート 原田慶太楼指揮

        ミューザ川崎シンフォニーホール  3時

 7月23日から開催されていた「フェスタサマーミューザKAWASAKI2020」も、今日でめでたく閉幕。
 「めでたく」と言ったのは、この時世、このような大規模な音楽祭が予定通り開催されただけでも立派なものだからである。感染者を出さぬための主催者の神経の使いようも並みではなかったろうし、興行面でも「密」を避けるために集客数を半分以下に抑えたことによるチケット売り上げの減少をはじめ、難題も山積していたことだろうと思う。

 ともあれ今日のファイナル・ステージには、ホスト・オーケストラの東京交響楽団が、間もなく正指揮者に就任する原田慶太楼とともに登場し、極めて闊達な演奏を聴かせてくれた。
 プログラム冒頭、ショスタコーヴィチの「祝典序曲」では弦14型(14・12・10・8・7)および指定数通りの管に、オルガン席の前には金管のバンダ10本を配置するというフル編成で「胸のすくような」音を響かせた。久しく聴くことの出来なかったオーケストラの大音響である。

 この壮烈さは3曲目のリムスキー=コルサコフの「交響組曲《シェエラザード》」でも再現され、特に第4楽章の「嵐」や「難破」の場面では、轟く怒号となってホールを揺るがせた。ただ、私の聴いていた2CB(2階席後部ブロック)中央からは、ティンパニの「太い」叩き方の轟音がステージ全体に回り過ぎてオーケストラをマスクするような傾向が聴かれたのは気になったが・・・・。
 「若き王子と王女」の部分ではテンポを落してたっぷりと歌い上げてはいたが、総じて勢いに乗った演奏であり、それは原田の気鋭の指揮の特徴なのだろう。少し乱暴なところもないではないが、若々しくて好ましい。コンサートマスター・水谷晃のソロはモデラートに、優しくも毅然としたシェエラザードを描き出していた。

 この2曲の間に演奏されたのは、グリエールの「ハープ協奏曲変ホ長調Op.74」で、東京響の首席奏者・景山梨乃がソリストを務めた。
 豪華な装飾の楽器ライオン&ヒーリー製「style23 Gold」を駆使、コンチェルトをやや鋭角的な明るい音色で弾き、アンコールとしてルニエの「いたずら小鬼の踊り」を、今度は優雅な音色で聴かせてくれた。

 なお彼女は、ソリストとしての仕事が終ると、次は上手側後方に移って「シェエラザード」のハープのソロを受け持った。オーケストラのハープ奏者とは、なんとも忙しいものだ。ソリストの時とは打って変わって、「シェエラザード」では、ふくよかな音色の女性吟遊詩人の竪琴とでもいった雰囲気を聴かせたが、流石の使い分けである。
 その時、彼女はさっき着ていた華やかな衣装を脱ぎ、オーケストラの「制服」に着替えていた。なるほどそういうことになるわけか、と何故か妙に感心。

2020・8・8(土)山本耕平テノール・リサイタル

     東京文化会館小ホール  7時

 「五島記念文化賞オペラ新人賞研修成果発表」のためのリサイタル。

 授賞そのものは平成26年だったが、この「賞」は、賞を出しっぱなしということにせず、賞を贈って海外研修を助成するからちゃんと勉強して来なさい、そして帰国したらその成果をちゃんと聴かせなさい━━という念の入った授賞方式であるところが特徴だ。そこで彼はマントヴァで修行して帰国、その発表会が今日行なわれた、という次第になる。

 前田拓郎のピアノのサポート(巧演)により歌われたのは、第1部ではトスティとレスピーギの歌曲、第2部ではモーツァルト、ドニゼッティ、ヴェルディ、グノーのオペラからのアリアと、最後にまたトスティおよびガスタルドンの歌曲。

 東京二期会の会員として、彼はすでに多くの舞台を踏んでいる。ただ、私は数年前の日生劇場での「コジ・ファン・トゥッテ」でしか彼の歌を聴いたことがないかと思うのだが、ともあれ久しぶりに聴く彼の歌唱が実に伸び伸びとして輝かしく、力に溢れているのには嬉しくなった。
 高音域に目覚ましい張りがあって、聴き手に快い興奮を与える。それでいながらレスピーギの歌曲のある部分でのように、低音域にも力と凄味を利かせるあたり、なかなかの声である。ただしソットヴォ―チェでのニュアンスに関しては、もう少しといったところだが。

 たった一つ気になったのは、モーツァルトの「ドン・ジョヴァンニ」の、ドン・オッターヴィオのアリア「恋人を慰めて」を、あまりに開放的かつ楽観的に朗々と歌い上げてしまったこと。その声の美しさには敬意を払うが、このアリアは本来こういう表現で歌われるべきものではない。たとえリサイタルで歌うにせよ、どんなアリアでもオペラの役柄の性格を研究した上で歌って欲しいものである。
 この第2部では、「リゴレット」の好色貴族マントヴァ公のアリアが圧巻の絶唱だった。期待の新星、まっすぐ伸びていただきたい。

 ドイツ語で歌ったのは「魔笛」の「タミーノのアリア」のみ、その他はイタリアものを中心として、オペラ・アリア集を歌った後にもイタリア歌曲(アンコールも「コーレングラート(カタリ・カタリ)」で大見得切って締め括ったあたり、やはりイタリア志向なのかなと思わされるが、コロナ禍さえなかったらこの7月には東京二期会の「ルル」(ベルク)でアルヴァ青年役を聴けていたはず。上演は来春に延びているが、それも楽しみに待つことにしよう。

2020・8・7(金)フェスタサマーミューザKAWASAKI
飯守泰次郎指揮シティ・フィルのワーグナーとブルックナー

      ミューザ川崎シンフォニーホール  7時

 今日の東京シティ・フィルハーモニック管弦楽団(コンサートマスター・戸澤哲夫)は、弦12型(12・10・8・6・5)編成。桂冠名誉指揮者・飯守泰次郎の指揮で、ついにブルックナーとワーグナーのレパートリーを復活させた。

 曲は、ワーグナーの「タンホイザー」序曲と、ブルックナーの「第4交響曲《ロマンティック》」。
 いずれも管の編成がそれほど大きなものではない時期の作品ゆえ、ステージでの「密」はそれほど心配されるべきものではないだろう。同規模の編成であるチャイコフスキーやブラームスのシンフォニーでさえ、既に取り上げられるようになった最近である。
 とはいえ、このような大きなホールでこのような作品を演奏する場合、弦12型ではやはり音の厚みや量感、スケール感などに不足する傾向なしとしない。16型は無理でも、せめて14型は欲しいところだ。

 今日のシティ・フィルの演奏はかなり粗かったが、ここもしばらく公開ステージでの大編成による演奏活動から遠ざかっていたようだから、アンサンブルの再整備を待つ時間が必要であろうかとは思う。
 ただ、先行して演奏活動を再開した他のメジャーオーケストラが既に以前の水準を回復しつつある今、再開が遅れたからと言ってアンサンブルや金管のソロを不充分なレベルのまま「シーズン入り」することは、プロ・オケとして、あまり褒められたことではあるまい。

 プレトークで、「飯守さんの指揮は解り難い」などという話が出ていたが、それは話の序でや、比喩や、冗談などであったにしても、アンサンブルの乱れを指揮者のせいにするのではなく、オーケストラ自身がまず自主的に確固とした「音」をつくるという姿勢を示すべきではなかろうか?
 安永徹さんがベルリン・フィルのコンサートマスターだった時、こう語ってくれたことがある━━「指揮者のせいでこんな(ガタガタの)演奏になった、なんて言ったらオーケストラの恥ですからね。僕ら、みんなそう思ってます」。

2020・8・6(木)広島交響楽団「平和の夕べ」コンサート

      広島文化学園HBGホール  6時45分

 朝、テレビで「平和の祭典」生中継を見てから東京を発ち、夜は現地で恒例の広響の「平和の夕べMusic for Peace」を聴く。

 例年なら「広島原爆の日」の前夜に行われるこの「平和の夕べ」演奏会だが、今年は被爆75年の節目とあって、5日と6日の2回公演となった。
 今日は朝の平和祭典行事に出席した駐日の大使館・公使館関係の人たちが何人か来館していたのが目を惹いた。ただし日本人客の方は前日と分散したためなのか、目測400人ほどの入りというところだろうか。当初の計画では、「節目」と「オリンピック」関連とで大規模な行事となるはずだったようだが、コロナ禍騒動により幾分か縮小されてしまったのは残念である。

 また、当初の予定では「広響平和音楽大使」アルゲリッチが客演し、藤倉大が彼女に捧げた広響委嘱作「ピアノ協奏曲第4番《Akiko’s Piano》」を世界初演することになっていた。だがコロナ禍の影響のため彼女が来日不可能となったため、代わりに広島出身の萩原麻未が弾くことになった(これはこれでいいだろう)。

 その他、プログラムも一部変更になっている。今日演奏されたのは、第1部にペンデレツキの「ポーランド・レクイエム」からの「シャコンヌ」と、藤倉大の前掲曲。第2部にベートーヴェンの「弦楽四重奏曲第13番」からの「カヴァティーナ」、マーラーの「亡き子をしのぶ歌」(ソロは藤村実穂子)、バッハ~齋藤秀雄編の「シャコンヌ」。アンコールにプーランク~下野竜也編の「平和のために祈って下さい」。
 指揮は広響音楽総監督・下野竜也。コンサートマスターは佐久間聡一。

 開演前に、ステージ下手側に設置された大きなモニター画面に、訪日できなかったことへのお詫びのメッセージを語るアルゲリッチの映像と、藤倉大の新作に登場する「明子のピアノ」(原爆で亡くなった故・河本明子さんの遺品━━奇蹟的に焼け残った所謂『原爆のピアノ』)についての動画などがプロジェクターで映写され、そのあと松井一實・広島市長が実際にステージへ登壇しての挨拶も織り込まれた。

 1曲目、ペンデレツキの「シャコンヌ」は、彼の有名な「ヒロシマの犠牲者に捧げる哀歌」とは全く異なって、後年の彼の作品の傾向を示すロマン的で抒情的な性格に満ちた作品。だからというわけではないけれども、あまり印象に残る曲ではない。
 それよりもやはり、同じ抒情性でも、藤倉大の作品の方が遥かに興味を惹くだろう。

 最初の部分を聴いた時、私は一瞬、澄んだ大気の中の日本庭園にいるかのような感覚に誘われてしまったが、もちろんこれは標題音楽ではない。ドビュッシーの現代版といったような雰囲気もあり、抒情的な曲想が主流を占めながらも、常にムーヴマン=動きに富んだ作品である。
 ソロ・ピアノは雄弁で、最初からオーケストラと対等に語り続けるが、開始後16分ほど経った頃、突然沈黙し、しばしオーケストラに席を譲る。ソリストはこの間に、それまで弾いていた中央のグランドピアノから離れ、ステージ上手側に置いてあった「明子のピアノ」の前に移る。次いでオーケストラ側の照明は落されて闇となり、スポットの当たった「明子のピアノ」のみが長いモノローグを語り続けて行く。やがてそのピアノも沈黙すると、ステージは暗くなり、それで全てが終る。21分ほどのコンチェルトだ。

 萩原麻未の演奏は清楚そのもので、清冽な叙情美に満ちていた。もし当初の予定通りアルゲリッチが弾いていたら、曲の性格ももっと濃厚で劇的なものになっていただろうけれど、萩原の日本的な感性による今回の演奏も、それはそれで一つのアプローチではないかと思われる。
 なお、この「明子のピアノ」はアップライトだが、修復されてからの保管と調律も良いらしく、いい音だし、音量も充分である。

 演奏のあとには、下手側のモニター画面に拍手を贈る藤倉大の映像が、平和の折鶴や「ロンドンから」と書いたボードなどとともに映写された。

 休憩を挟んでの第2部は、「平和の夕べ」という演奏会のイメージとは逆に、あたかも原爆犠牲者への追悼演奏会のような雰囲気を呈した。作品の性格のせいもあるだろうが、マエストロ下野が、殊更に深刻な表情をして指揮をするので、オーケストラの演奏自体も打ち沈んで暗いものになる。
 バッハの「シャコンヌ」など、かつて下野が読響の正指揮者就任記念演奏会で指揮した時の、凄まじいほどの緊張感に溢れた、気負った演奏を今でも記憶しているのだが、どういうわけか今日は、それとは全く逆の、暗くて生気のない演奏になっていた。

 また、「亡き子をしのぶ歌」も、全体に抑制された、沈み切った演奏の連続だったため、全曲最後の落ち着いた静かなエピローグ的な音楽が醸し出すはずの凄愴な諦めきった感情が、ほとんど浮き彫りにされぬ結果となってしまったのである。藤村実穂子の歌は深々としてはいたが、これも彼女だったらもっと感情の変化の激しさを表出できたはずなのに、と思わせる歌唱だった。
 なおこの演奏の時には日本語字幕がついたが、藤村自身の訳文がかなり砕けたものになっていたのは、演奏のシリアスなイメージと合致しない感がある。また曲のフレーズに合わせて言葉を短く切っての字幕表示だったため、文脈全体が掴みにくくなるという、字幕では一番やってはいけないスタイルだったのが残念である。

 広響の演奏は極めて充実していた。この4週間に2回の演奏会を聴いたわけだが、いずれも聴き応えがあった。地方オーケストラの水準が目覚ましく上がっていることは、本当に喜ばしい。

2020・8・2(日)フェスタサマーミューザKAWASAKI
尾高忠明指揮東京フィルハーモニー交響楽団

       ミューザ川崎シンフォニーホール  3時

 音楽祭第10日。桂冠指揮者・尾高忠明の指揮。ベートーヴェンの「三重奏協奏曲」とチャイコフスキーの「交響曲第5番」という重量感あふれるプログラムだ。コンサートマスターは近藤薫。

 第1部で演奏された「三重協奏曲」では、ピアノに田村響、ヴァイオリンに戸澤采紀、チェロに佐藤晴真を迎えていた。
 マエストロ尾高はプレトークで「今日の3人のソリストの齢を全部足しても貴方の年齢に届きませんね、というメールをよこした怪しからんヤツがいてムカッと来た」と聴衆を笑わせていたが、その年齢差があればこそ、若手たちの音楽を堂々たる風格の演奏で包み、鼓舞し、高みに引き上げて行く偉大な家父長としての役割を発揮できたのだろう。彼の指揮する今日の東京フィルのベートーヴェンは、壮大で、甚だ立派であった。

 一方、若手3人の演奏にはもう少し覇気があっても良かったと思うが、彼らがアンコールとして演奏したフォーレの「夢のあとに」は、これは実に瑞々しく清らかで、とりわけ佐藤晴真のチェロにはうっとりさせられた。

 休憩後のチャイコフスキーの「5番」の演奏には、少々驚かされた。尾高のチャイコフスキーがこれほどagitato(激した)なものになるとは予想していなかったからだ。14型編成の東京フィルは、咆哮し怒号し、ホールを揺るがせた。それはまるで、コロナ禍を受けて演奏活動を長期間制限され、また再開しても飛沫感染防止のために小編成の控えめな音量の作品ばかり演奏していたことへの、溜まり溜まった鬱憤と欲求不満とを一気にぶちまけるかのような演奏にさえ感じられたほどである。

 だが、割れんばかりの大音響ではあったとはいえ、尾高の演奏設計は決して野放図ではなく、緻密だ。
 フォルティッシモの個所は、スコアでは間違いなく「ff」と指示されている個所なのであり、更にその上を行く最強音は、スコアではまさしく「fff」と指示されている個所なのである。第4楽章で、再現部がfffで終ったあとに行進曲調の終結部に入った瞬間、演奏は一瞬柔らかくなったような印象を受けるが、そこは金管と弦のリズムがフォルテひとつに、主題もffに抑えられているからだ。
 この対比は、実に明確だった。そしてここでは、熱狂と興奮が一段落して、いよいよ終結という落ち着いた感情を取り戻す模様さえもが、見事に再現されていたのである。

 正直なところを言えば、オーケストラの最強音の咆哮は決して美しいとは言えず、それどころか、特に第1楽章では、金属的で耳障りな印象を抑えきれなかった個所も多かった。しかし、第4楽章ではそれも次第にバランスよくまとまりを示し始めて行った。おそらくオーケストラにとっては、何ヵ月ぶりかの渾身の大音響発散だったのかもしれず、復興途上の現象の一つだったのかもしれない。
 なお、そうしたことの一方で、第2楽章の終結での「pppp」というチャイコフスキー独特の弱音指示も見事に美しく生かされていたことにも触れておきたい。

 アンコールでは、弦楽合奏のみで、チャイコフスキーの「サマーリンの栄誉のためのエレジー」(1884年作曲)という珍しい曲が演奏された。この弦のしっとりした美しさは心に残った。

2020・8・1(土)フェスタサマーミューザKAWASAKI
高関健指揮群馬交響楽団 

       ミューザ川崎シンフォニーホール  3時

 この音楽祭は、基本的には東京都及び神奈川県のオーケストラの出演で構成されているが、昨年からは日本各都市のオーケストラを1団体ずつ招くという企画が加わり、その第1弾としては仙台フィルが高関健(同団レジデント・コンダクター)を指揮者として出演していた。

 そして今年は群響である。指揮は、今回も(!)高関健(元音楽監督、現名誉指揮者)だった。コンサートマスターは伊藤文乃、プログラムはベートーヴェンの「交響曲第4番」「交響曲第2番」。アンコールとしては「プロメテウスの創造物」序曲が演奏された。弦の編成は10型(10-8-6-6-4)。

 群響のナマ演奏を聴くのは、ほぼ2年ぶりになる。さる2月、新しい高崎芸術劇場でアルミンク指揮のマーラー「復活」を聴くのを楽しみにしていたのだが、コロナ禍のため中止になってしまった。
 それ以降、本格的な演奏会があったのかなかったのか詳しくは承知していないが、今日のベートーヴェンを聴いた範囲では、━━ベートーヴェンの交響曲を演奏するにしては些か粗く、好調時の群響とはかなりギャップがあったようにも感じられた。

 もっとも、「4番」よりは「2番」が演奏にノリがあり、さらにアンコールの序曲に至って更に集中性が高まって行ったようにも思えたので、要するにこれもウォーミングアップ不足の問題なのかもしれない。
 そう感じたのは、必ずしも私だけではないだろう。お客さんの拍手も、「4番」のあとのそれと比較すると、「プロメテウスの創造物」のあとの拍手は、段違いに濃かったのである。

 マエストロのプレトークを聞き逃したので、「2番―4番」ではなく「4番―2番」の順に演奏した理由などは承知していないが、演奏を聴いた限りでは、「2番」の方に革命的な精神が横溢していることを強調したかったのかな、とも思う。
 けれんのない、正面切った重心豊かな、真摯なベートーヴェン像が再現されていた。

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