2021-04

2020年7月 の記事一覧




2020・7・31(金)東京混声合唱団「コン・コン・コンサート2020」

       東京芸術劇場 コンサートホール  7時

 飛沫感染防止のために最も大きな影響を蒙っている分野の一つ、声楽関係━━その中でも合唱団の活動への制限は深刻だ。
 そうした中、東京混声合唱団が「歌えるマスクを開発」し、それを着用して演奏会を開いた。指揮は常任指揮者・キハラ良尚、ピアノは鈴木慎崇。

 この特別なマスクは、You tubeでもナマ配信されたからご覧になった方もおられようが、マスクというよりは、まるで秘密結社の団員みたいな、眼の下から胸まで届くほどの大きな「覆面」である。男声団員は黒服に黒い覆面、女声団員は白服に白い━━いや何か綺麗な模様は入っていたようだが━━、とにかく、何となく物々しい。

 だが実際の合唱を聴いた感じでは、声にもこもった響きは全くないし、歌詞も明晰に聴きとれる。いつもの「東混」の美しいハーモニーは、全く損なわれてはいなかった。久しぶりにナマで聴く混声合唱は、信じられぬほど陶酔的な美しさに溢れていたのである。
 この覆面、いやマスクにどんな秘密があるのかは知らないけれども、もしこれが飛沫感染防止対策に効果を発揮するのであれば、比較的少人数で歌える実力のある合唱団なら、ミサ曲でも「第9」でも、可能かもしれない。

 東京混声合唱団が、先んじてこのような実験的試みを行ない、しかも成果を上げたことは、称賛されるべきである。もっとも、今日の成功は、それが東混というトップのプロ集団だからこそだったかもしれないのだが。歌う側がこのマスクで疲れなかったかどうかは、今日のところは承知していない。
 プログラムは、すべて日本の合唱曲。上田真樹、越智志帆、山口龍彦、岩崎太整、宮崎朝子、三宅悠太、木下牧子、信長貴富らの作品がリストを飾っていた。

 ━━と、ここまではいい。
 だが残念なことに私は、最初の3曲を聴いただけで、うんざりして席を立たなければならなかった。何故か? 私は1階P列で聴いていたのだが、背後の2階席最前列にセットされていたプロジェクターが発する物凄いノイズに、到底耐え切れなくなってしまったからである。

 その機械は、ステージ上のスクリーンに映像を投映するためのものだったらしい。そのノイズは、合唱団のピアニッシモをかき消すほど大きく、しかも特定の高さの発振音を伴っていたのだ。そのため、折角の合唱団の繊細なハーモニーは、惨めに混濁させられてしまっていた。所謂「補聴器のノイズ」よりも更に大きな雑音だったのである。
 この酷い音には、一瞬たりとも耐えられない。音楽を大切にするべき時と所で、こんな雑音を放置しておく制作者は、無神経にもほどがあろう。事前にテストをして確認しなかったのか? そこらのいい加減なイヴェンターならいざ知らず、天下の名門・東京混声合唱団ともあろうものが・・・・。

 なお、自宅に戻り、第2部の終りの方をyou tubeで視てみたら、舞台上のスクリーンは既に撤去されていた。コーラスは、実に美しく聞こえた。第1部の最後の2曲で何か映像的な趣向があると、帰りがけに受付の事務局から聞いた話は本当だったようだ。
 それを事前に知っていたら、不快なノイズに悩まされぬ第2部だけを聴きに行けばよかった。

2020・7・29(水)フェスタサマーミューザKAWASAKI
下野竜也指揮読売日本交響楽団

        ミューザ川崎シンフォニーホール  7時

 感染防止対策としての1席乃至2席の間隔を取った座席指定。「座っていい席」の大半が埋まっているように見えたということは、1000とは行かずとも、およそ800ほどは入っていたことになろうか。やはり読響の人気ゆえか、と事務局に訊いたら、「ソリストの人気かも」とコメントが返って来る。

 ソリストとは、ピアノの反田恭平と務川慧悟のことである。
 この2人のソロが加わったプーランクの「2台のピアノのための協奏曲」と、サン=サーンスの「動物の謝肉祭」とを、休憩を挟みつつ中央に置き、それらの前後にモーツァルトの交響曲の「第32番ト長調K.318」と「第31番ニ長調K.297(300a)《パリ》」をそれぞれ配したのが今日のプログラムだった。
 当初の予定曲目より一部が変更されたとはいえ、なかなか意味深い、洒落た選曲ではある。コンサートマスターは日下紗矢子。

 「動物の謝肉祭」は、ソリスト2人を含め計15人という小編成で演奏されたが、モーツァルトの交響曲では、弦8型(8・6・4・4・3)の編成が採られた。

 もう一つの、しかも最大の特徴は、今日の読響は、弦をまとめて下手側に、管をまとめて上手側に配置した、所謂ストコフスキー式の並び方だったことである。これは、プレトークでマエストロ下野が話していたように(この人の話のコーダはR・シュトラウスの曲のエンディングにも似てチト長いけど、巧い)一つの実験的試みだそうだ。

 3階席1列目中央で聴いた印象で言うと━━この配置で演奏されたモーツァルトの交響曲は、従って、ふだんとは全く異なった響きで聞こえた。美しく溶け合ったアンサンブルではない。早い話が、弦と管が「別々に」聞こえたのである。
 それはソーシャル・ディスタンス方式による間隔を広く採った奏者配置のために起こる響きではない(既に他のオケで体験済みである)。また、通常の配置による演奏を、P席(オケの後方席)やサイド席で聴いた時にさえ、こういう響きにはならない。
 聴き慣れた楽曲を異なったバランスで響かせてみるという試み自体は興味深いが、私の好みから言えば、今回の試みは、結果的に言えば賛意を表しかねるものだった。

 もう一つ不可解だったのは、前半の2曲が、異様に尖った、硬質なサウンドでガリガリと演奏されたこと。オーディオ用語で言えば、ツイターのレベルを上げ、しかもローカットで再生された音、ということになろうか。この「ミューザ川崎」の上階席は、ふだんなら柔らかい音で聞こえるはずなのだが・・・・他の席で聴いた方のご感想を聞きたいものだ。
 但し休憩後の2曲は、演奏の仕方を修正したのか、第1部におけるほどキンキンした音ではなくなった。

 というわけで、今日は音楽そのものに浸るよりも、刺激的な響きに閉口して疲労させられた、というのが正直なところだ。が、賛同できなかったとはいえ、マエストロ下野の意欲そのものには賛意を表する。次の「実験的試み」を期待しよう。

2020・7・28(火)フェスタサマーミューザKAWASAKI
川瀬賢太郎指揮神奈川フィルハーモニー管弦楽団

       ミューザ川崎シンフォニーホール  3時

 恒例のフェスタサマーミューザKAWASAKIは、去る23日に東京交響楽団(ホストオーケストラ)によるオープニングコンサートで開始された。予定通り開催できたのはめでたいことである。

 第6日にあたる今日は、横浜を本拠とする神奈川フィルが、常任指揮者・川瀬賢太郎とともに登場。ドヴォルジャークの「管楽セレナード」、バッハの「2つのヴァイオリンのための協奏曲」、ドヴォルジャークの「新世界交響曲」というプログラムを演奏した。
 バッハではソロが石田泰尚と崎谷直人、コンサートマスターがゲストの千葉清加。「新世界」でのコンサートマスターは石田泰尚。

 当初、前半に予定されていたのは、アイヴズの「答えのない質問」やフィリップ・グラスの「ヴァイオリン協奏曲第1番」という、すこぶる尖った意欲的な2曲だった。これが変更されたのはかえすがえすも残念だったが、しかし今日のプログラム━━ドヴォルジャークとバッハでは、神奈川フィルの木管群と弦楽群がそれぞれしっとりした美しい演奏を披露してくれたので、聴き応えも充分だったと言えよう。

 一方、「新世界交響曲」は、弦10型編成で演奏された。このため室内楽的な響きが生まれ、弦の各パートの交錯や和声的な移行の面白さなどを感じせるという良さはあっただろう。ただし、管楽器群とのバランスの点を考えると、やはり全体として音が薄くなるという感は拭えまい。それに、あのティンパニの音色は、どう贔屓目に聴いても、弦10型編成のオケの音に相応しいとは言い難い。
 しかし何よりも、今回の演奏における最大の問題は、金管楽器の粗さだ。これは、出来るだけ早く改善して欲しいものである。川瀬の指揮が極めてヒューマンな情感に富み、オーケストラとしても第2楽章などでは郷愁を滲ませたいい音楽を聴かせていただけに、金管群がもっと丁寧な演奏をしていれば、と惜しまれる。

2020・7・25(土)東京響定期 ジョナサン・ノットが映像でリモート指揮

       サントリーホール  7時

 前半には、ストラヴィンスキーの「ハ調の交響曲」が、指揮者なし、コンサートマスターのグレブ・ニキティンの弾き振りで演奏された。
 これは予想以上にまとまりのよい出来。しかも整然と取り澄ましたような無表情な演奏どころか、それなりの闊達さと色彩感を備えたものだったところが嬉しい驚きである。

 休憩後の、ベートーヴェンの「英雄交響曲」━━こちらは、ジョナサン・ノットが映像出演で指揮するというのが話題だった。
 早い話が、ノットの送って来た指揮の録画映像を再生し、それに合わせてオーケストラが演奏するというシステムである。
 8型編成のオーケストラの中に大型のテレビ台を3台、上手側向き、下手側向き、ステージ後方向きに設置。楽員はそこに映し出されているジョナサン・ノットの指揮を見ながら演奏する。テレビ台はもう一つ、客席正面向きにも設置されているが、これは聴衆が彼の指揮を見て楽しむためのもの。 

 優れたオーケストラは、指揮者の棒にぶら下がって演奏するのではなく、指揮者のパーソナリティと、彼が創る音楽のイメージに反応して演奏するものだと言われている。従って東京響も、ノットの姿にインスパイアされ、かつ自発的に音楽をつくって行ったということになるだろう。
 虚心坦懐に聴く限り、例えば第1楽章コーダや、第2楽章中ほどのミノーレでの演奏の昂揚は目覚ましかったし、第4楽章中ほどでノットが猛然とテンポを煽るあたりでの盛り上がりなども、すこぶる聴き応えがあったと思う。

 欲を言えば、正面2階席で聴いた場合、直線上に大きなテレビ台が2基も設置されているためか、私の席(2列17番)からは正面に当るフルートの音がぼやけて聞こえる傾向があって(見えないせいではなかったと思う)、第4楽章の急速なソロなどが曖昧に聞こえたのも事実だが━━もっともこのあたりは、ノットのテンポにも妥協はなかったようである。 

 今回、ノットと東京響がこのシステムを使って演奏会を行なったのは、このステージが4回目であり、「英雄」は3回目に当たるはず。その間、実際の演奏にどのような変化があったかは、私は知らない。だが、たとえ1種類の映像に合わせて演奏したとしても、大勢の集団であるオーケストラなら、たぶん微妙にその都度演奏は異なったものになっていただろう。その点で、これはスタティックな方式だから1回の演奏にしか適用できないものだとかいう見解は当たらないだろうと思う。

 ノットは、指揮をしている間、自分の頭の中で音楽は鳴っていただろうが、その時に、実際の東京響の音は聴いていない。また、現場で東京響の反応に合わせて自分の指揮を調整して行くこともできなかったわけだろう。
 東京響とノットの間には、当然ながら企画段階でその問題が議論されたそうだが、その際にノットは「ベートーヴェンは《第9》初演の時、音楽は聞こえていなくても、指揮できたではないか」と言ったとか。なるほど、道理である。
 だがあえて上げ足を取らせていただくなら、ベートーヴェンには楽員たちの演奏する姿が見えていたはずだ。彼は実際の音は聞こえずとも、弦楽器奏者たちのボウイングなどに依って自分の音楽を「聴く」ことができた、というのがほぼ定説になっているのではなかろうか。

 しかし、いずれにせよ、これは大いなる実験として、興味深い試みではあった。
 演奏が終ると、ノットは画面の中でお辞儀したり、楽員を立たせるジェスチュアをしたり。ニキティンら楽員たちもそれに合わせて立ったり座ったりと、微笑ましくなるようなゲーム的なセレモニーも繰り広げられた。

 遥か昔のことだが、故・岩城宏之氏がベルリンからテレビ回線を利用して東京の合唱団をナマで指揮する、という計画を立てたことがある。それはもちろん電波の伝達速度などの技術的な理由で不可能となったが、彼がドイツ人の知人たちにそれを話したら、「そいつは実に面白いジョークだ」と爆笑されたそうである。
 結局それは、半世紀を過ぎた今日でも、未だにジョーク段階の状況に留まっていることになる。

 だが、いつの日かコンピューターで映像と音声の遠距離伝達の時間のずれが調整され、全く狂いが無くなる時代が来れば、ベルリンの指揮者と東京のオーケストラとがいとも簡単に協演できる、という手法も、技術的には可能になるだろう。ただ、両者の間に息の通った交流ができるかどうか、それを重要視するかどうか、その是非はまた別の問題になるが。

2020・7・24(金)小山実稚恵のリサイタル再開第1弾

      横浜みなとみらいホール  2時

 「今日はコロナ自粛後5ヶ月ぶりの演奏会です・・・・生の響きをホールにいらして下さった皆様と共有できる幸せに感謝しながら、心を込めて演奏したいと思っています」という彼女自身によるメッセージが、プログラム冊子に挟み込まれていた。
 主催は神奈川芸術協会。感染防止のため間隔を取って設定された使用席数は限られていたが、スタンディング・オヴェーションのファンをはじめ、熱心な聴き手が詰めかけている。

 プログラムは、モーツァルトの「デュポールのメヌエットによる9つの変奏曲」に始まり、シューベルトの「作品142の即興曲」全曲が続き、後半にはベートーヴェンの「ソナタ第30番」と「第31番」が置かれるという構成。アンコールにはシューベルトの「作品90の即興曲」から「第4番」と「第3番」が演奏され、2時間をフルに埋め尽くす演奏会となった。

 これは、私にとっても、まる4ヵ月ぶりにナマで聴くピアノ・リサイタルである。久しぶりに陶酔したことは言うまでもない。
 ホールが大きく、聴く位置も感覚的にはやや遠い場所(それでも1階21列だが)ために、彼女のピアノもいつもよりはソフトに、しかも遠く聞こえたのは事実だが、演奏には、清冽で純な美しさとあたたかい表情が溢れている。しかも、モーツァルト━シューベルト━ベートーヴェンと移り変わるそれぞれの作曲家の、音楽の性格に即した音色と響きの明確な対比は、実に見事だった。

 就中、私が注目していたのはベートーヴェンの後期のソナタだ。先頃、彼女の初のベートーヴェンのソナタのディスク「ハンマークラヴィーア」(ソニー SICC-19050)での、過度に威圧的にも攻撃的にならぬ、むしろ作品に内含されている叙情性を浮き彫りにするといった独自のアプローチに、強い興味をいだいたからである。
 今回はそれに続く「最後の3曲」のソナタの初めの2曲というわけで━━3曲やらなかったところに、何となく「予告編」のような感じを受けてしまったのだが━━いっそう注目していたわけだ。

 予想通り、一般にありがちなスタイルから離れた、つまり晦渋さや深遠ぶった表情や重厚さからも距離を置いた、瑞々しく澄み切った美しい叙情性に溢れる演奏となっていたように思う。これもまた、ベートーヴェンが晩年に到達した、純粋な透徹の世界に違いないだろう。
 その一方、強いエネルギー感も失われていない。「第30番op.109」の第3楽章後半の追い込みなど、息を呑ませる目覚ましい勢いがあったのである。

 みなとみらいホール、2階ロビーのコーヒー・カウンターが開いていたのには驚きだった。ただしCD即売会は認められなかったそうで、これにはソニー・ミュージックのKさんが落胆していた。ソニーの手腕で、CDの自動販売機でも開発したら如何?

2020・7・23(木)飯守泰次郎指揮大阪フィルがブルックナーの「6番」

     フェスティバルホール(大阪) 3時

 スコアとパソコンと替えマスクをバッグに入れ、予定通り大阪へ向かう。品川駅までは自分のクルマ使用、新幹線はガラガラ、新大阪から中之島のフェスティバルホールまでは━━梅田の地下街の空気はこれまでの経験からして相性が悪いので━━奮発してタクシーを使用。
 「人にうつさず、うつされず」の策としてはこれが精一杯のところ。

 大阪フィルの7月定期演奏会には、当初予定のユベール・スダーンが来日不可能になったため、飯守泰次郎が登場した。関西フィルの常任指揮者を長く務め、現在はその桂冠名誉指揮者である彼が大フィルに客演するケースは珍しいのだろう。
 プログラムは変更されず、モーツァルトの「交響曲第35番《ハフナー》」と、ブルックナーの「交響曲第6番」のままだったから、これなら飯守を招いた意味も充分にある。

 「ハフナー」は、⒓型弦編成だったが、たっぷりとして厚みのある、悠然たるテンポで繰り広げられた。こういう演奏スタイルを採る指揮者は、最近では稀なる存在となったが、反時代的と言われようと何と言われようと、自らの信じるスタイルを頑として譲らぬ飯守の信念は立派だ。それがこの、「セレナード」から発展した「ハフナー交響曲」の性格に相応しい解釈かどうかは、また別の問題ではあるが。

 休憩後のブルックナーの「6番」は、何と、━━弦16型編成で演奏された。
 ステージ上の楽員の「密」を避けるため、楽器編成を縮小しての演奏会を余儀なくされている昨今のオーケストラ界にあって、このように平常時の如く16型でブルックナーをやることのできるオーケストラは、広いスペースのステージを持つホールを本拠としている大阪フィルくらいなものであろう。楽団側も、どうやらそれを売り物にし、誇示しているようである。

 このような大きな編成で並んだオーケストラを見るのは、実に久しぶりのような気がする。以前の平和な時代には慣れっこになっていたこの景観が、今は何と新鮮に、貴重なものに感じられることか。
 そして、第1楽章第25小節以降、3連音符のリズムに乗って4本のホルン、3本のトランペット、3本のトロンボーンと1本のバス・テューバからなる金管群を含む全管弦楽が最強奏で爆発した瞬間に沸き上がった、「ああ、久しぶりにブルックナーの音!」という、言葉に言い尽くせぬ感慨。

 それらは本当に、不思議なほど新鮮で、「良かった」のである。
 何だか独りで夢中になっているみたいだが、あとで聞いてみると、演奏しているオーケストラの側でも、それはやはり感慨深いものだったそうだ。飢えと渇望は、人間の精神に予想外のご利益をもたらしてくれるものらしい。

 そして、この「6番」は、いかにも飯守泰次郎の指揮ならではの、温かく柔らかい、人間味豊かな演奏で繰り広げられ、閉じられて行った。アンサンブルや細部の仕上げなどに関しては疑問がないわけではないが、それよりも今は、かように懐かしいブルックナーを聴かせてくれた飯守と大阪フィルに礼を言おう。両者の体質の違いにもかなり大きなものがあるようだが、それもこの際、棚上げにしておきたい。
 今日のコンサートマスターは須山暢大。

 なお飯守は、8月7日にも東京シティ・フィルハーモニックを指揮して、ブルックナーの「第4交響曲《ロマンティック》」を取り上げる(ミューザ川崎)。
 ブルックナーの「第6番」までの交響曲の━━響きはともかく楽器編成そのものは、ブラームスやチャイコフスキーの交響曲とそれほど大きく違わないのだから、「密」防止の状況にあっても、そろそろレパートリーに復活してもいいかもしれない。
 ただし驚いたことにそのシティ・フィルは、高関健の指揮で、8月12日にオペラシティで「第8番」を演奏するという。これは3管編成の木管群と8本のホルンを含む大編成の曲なのだから、当今、何ともアグレッシヴの極みだ。

2020・7・18(土)太田弦指揮新日本フィルハーモニー交響楽団

      すみだトリフォニーホール  2時

 朝の新幹線で帰京、新日本フィルの「アフタヌーン コンサート・シリーズ」を聴くため、錦糸町に直行。

 今日は音楽監督・上岡敏之が「諸般の事情により・・・・出演できず」(楽団側の表現)のため、若手の太田弦が客演指揮した。
 だがこの人選は悪くない。こういう機会に日本の若手指揮者を積極的に登用し、彼らに活動の機会を与えるということは大切だからだ。それに太田弦は、昨年だったか新日本フィルに客演する予定のところ、体調不良で出演中止になったことがある。それもあって私も、彼の「大舞台」での指揮は、これまでに大阪響との「第9」(2019年12月27日)しか聴いたことがなかった。したがって今回はもっけの幸い、というところである。

 プログラムも、ベートーヴェンの「ピアノ協奏曲第1番」(ソリストは田部京子)と、シューベルトの「交響曲第8番《ザ・グレイト》」━━と、全く変更がなかったことも有難い。コンサートマスターは崔文洙。

 太田弦の指揮は、大阪響との「第9」を聴いた時にはえらく几帳面に過ぎ、若い情熱に不足する演奏にとどまっていたという印象を受けていたのだが、今日の新日本フィルとの演奏を聴くと、同じ几帳面で端然としながらも、もっと活気に富み、勢いのある音楽をつくる若手指揮者という印象が強まって来る。

 「ザ・グレイト」では、それが如実に顕れていたのではないか。第1楽章の序奏は、最近の研究に従い、アラ・ブレーヴェのテンポで演奏されたが、はからずもこれは、今日の演奏への気魄を予告するような趣をも感じさせただろう。
 以下、長大な全曲にわたり、闊達なエネルギーが演奏に保持されていた。それは時に一気呵成に過ぎたり、単調な感を与えたりする向きもあったことは事実だが、その解決は今後に期待を繋ぐことにしよう。

 前半に演奏された田部京子との「第2コンチェルト」は、端正清涼、きりりとした気品を湛えたベートーヴェン、といった感か。オーケストラの力感そのものに不足はなかったし、この曲を古典派的なイメージで捉えるなら、こういうアプローチも一つの考え方だ。
 ただ、この作曲家の若き日の満々たる意欲を思えば、もう少し「若き獅子」的な意志が演奏にあっても良かっただろう。第1楽章での田部京子のカデンツァがいい。

2020・7・17(金)広島交響楽団も公開定期を再開

      広島文化学園HBGホール  6時45分

 当初は昨夜大阪で大阪響の再開公開定期を聴き、そして今日は広島で広響の再開公開ステージを取材する予定だった。東京都の新型コロナ感染数の急上昇による旅行自粛要請を受けて、仕方ないとホテルや新幹線を一度はキャンセル、大阪響には昨日の昼前に電話で欠席の連絡とお詫びを入れた。だが午後になって、やはり大切な天職(?)から逃げるべきではないと思い直し、大阪は取材できなかったけれどせめて広島だけでもと、もう一度新幹線とホテルを予約し直して、かように遠路遥々やって来た次第である。

 こちら広響も、5か月ぶりの公開ステージでの演奏になるとのこと。
 今日の客演指揮は、かつての音楽監督兼常任指揮者である高関健。コンサートマスターは佐久間聡一。
 プログラムは、シチェドリンの「ベートーヴェンのハイリゲンシュタットの遺書~管弦楽のための交響的断章」、ベートーヴェンの「ピアノ協奏曲第2番」(ソリストは藤田真央)、シベリウスの「交響曲第2番」というフルタイムの公演だ。
 弦⒓型編成だが、チェロとコントラバスは各6。

 開演ブザー(これはけたたましい)が鳴ったあと、いきなり音楽総監督・下野竜也が、おそろしくラフな服装で、マイクを持って登場。まさか彼が今日ここにいるとは思わなかったが、居ても不思議はない。客席も驚きながらの大拍手。
 「なぜお前が出て来るんだ、と言われそうですが」と例のごとくユーモアをこめた前置きをしつつ、定期再開の挨拶。演奏会でのスピーチには賛否両論あるが、彼のような親しみやすい雰囲気と語り口を持った指揮者が話すのなら、特に現在のような状況の中では、聴衆の心を和ませるのに役立つだろう。
 今回も当初予定のプロコフィエフの「第5交響曲」が、楽器編成とステージ上のソーシャル・ディスタンス方針との理由でシベリウスの「2番」に変更になったことなどをいつもの調子で説明しながら、今日この場に来てくれた聴衆に礼を述べていた。

 1曲目に「ハイリゲンシュタットの遺書」とは、時節柄少々物騒だが、これは以前から決まっていた曲目。高関はこの曲を2年前に神奈川フィルで日本初演しているので、今回がいい機会だと思ったのだろう。広響の定期のプログラム編成も、下野が音楽総監督に就任以来かなり意欲的になっているが、これもその一例か。
 今日は硬めの音で、ピリピリした雰囲気を醸し出しつつ演奏された。私も今回の定期のプログラム解説を書いた手前、聴くのはこれが何度目かになるが、しかし・・・・聴くたびにその魅力を深めて行く作品━━とは、申し訳ないが言い難い。やはりシチェドリンだ。

 「ピアノ協奏曲第2番」は、広響のベートーヴェン・コンチェルト・シリーズの一環。
 ソリストの藤田真央は、ほとんどフォルテというもののない、「p」の連続ばかりのこの曲のソロ・パートを、本当に終始ひそやかな表情の弱音で弾き続けた。滔々と流れるオーケストラに対し、ピアノは常にささやきかけ、微笑みつつ静かに応え、時には半身に構えて受け流す━━といったイメージを生むが、その演奏全体に満ちる流麗な詩情はすこぶる豊かで、若い藤田の並々ならぬ感性を印象づけた。
 ソロ・アンコールではラフマニノフの「前奏曲op.23-4」を弾いたが、これもレガートな弱音で押し通された演奏で、「p」をここまで続けるのは些かやり過ぎの感もなくはないが・・・・。客席は熱烈な拍手。

 シベリウスの「2番」は、総力を挙げた演奏だ。オーケストラがしばらく演奏から遠ざかっていた所為か、アンサンブルも少し粗く、弦の音色も硬くて刺激的に聞こえたものの、高関健の手腕により、デュナーミクの起伏の大きな、筋肉質で引き締まった演奏が実現されていた。
 前半2楽章でのクレッシェンド効果も見事だったが、ただし第3楽章から第4楽章へ盛り上がって流れ込む個所で、その前後の音量や表情の変化が明確にならず、明暗の対比による解放感が充分に感じられなかったのが惜しかったような気がする。だが第4楽章終結は見事な盛り上がりを聴かせ、豪壮に締め括られた。

 8時50分頃終演。聴き応えのある演奏会であった。
 ここもソーシャル・ディスタンス方式の席割りだが、結構な客の入りとお見受けした。こういう時にも聴きに来る熱心なお客さんは、本当に素晴らしい人たちだ。

2020・7・15(水)佐渡裕指揮東京フィルハーモニー交響楽団

      サントリーホール  7時

 チョン・ミョンフン指揮の「英雄」などベートーヴェン・プロで予定されていた7月定期が、彼の来日不可のため変更になり、佐渡裕が客演してベートーヴェンの「コリオラン」序曲と「交響曲第7番」を指揮した。正味45分程度の短いプログラム。

 いかにも佐渡らしく、筋骨隆々の音楽で、「コリオラン」の冒頭から猛然たる力感がホールに轟きわたる。痛快と言えば痛快だろう。細部はともかく勢いで押して行く、という指揮は彼の美学だ。
 「7番」も同様、「リズムと力感の交響曲」に仕上げられた。第1楽章コーダのバスのオスティナートに起伏を持たせたり、第2楽章の最初の主題を暗く引き摺るように響かせたり、あるいは第1楽章再現部直前のリズムや第2楽章最後の8分音符に一瞬強いアクセントを付してメリハリをつけたり、といった細かい配慮は行われているけれども、基本的にはストレートな演奏設定である。

 今日の東京フィルは、三浦章宏をコンサートマスターに、弦は12-10-8-6-6。管は総譜指定通りの編成だが、ホルンのみは4本に倍加されていた。前述のように「勢い」優先の演奏だったから、アンサンブルは━━特に弦は、苦笑させられるくらい荒っぽかった。

 なおサントリーホールは、今夜から1階のソフトドリンクのバー・カウンターが再開されていた。これが開いているだけでも、ロビーの雰囲気がかなり明るくなって来る。ジュースでも飲もうかと思ったが、カウンターの前にロープを張った「行列用の」長い通路が作られ、その入り口には改めて手消毒用のアルコールが置かれ、「番人」が立っているという物々しい雰囲気だったので、気おくれがして止めた。
 かように会場の感染防止対策は徹底されているという、これは一つの良き見本である。聴衆は安心して聴きに来て可なりというわけなのだが━━。

2020・7・14(火)原田慶太楼指揮読売日本交響楽団

     サントリーホール  7時

 アーティスト来日不可能のため中止になった第600回定期公演(ヴァイグレ指揮の「ヴァルキューレ」)に替る特別演奏会。

 このところの都内新規感染者増大への不安が嵩じての影響か、今夜の客の入りは残念ながらあまり芳しくない。クラシック音楽のコンサートは、入り口ではアルコールによる手消毒と非接触体温測定を実施、座席配置の間隔も充分に採って密集を避けるなど、くどいほど真面目に感染防止のための対策を徹底しているのだから、まず心配はないはずである。ほんの一部の不注意グループの所業が祟って劇場の活動全体にまで規制を云々されかねないのは、嘆かわしいことだ。

 今夜の客演指揮者、原田慶太楼は、つい数日前、東京交響楽団の正指揮者への就任(2021年4月より)が発表されたばかりである。未だ35歳の若さだが、既にシンシナティ響のアソシエート・コンダクターを務めたキャリアもあり、2020年シーズンからはジョージア州サヴァンナ・フィルの芸術監督にも就任と聞く。ステージマナーはアメリカ仕込み(?)の陽気さで、音楽づくりも実にユニークで面白い。

 前半にコープランドの作品が2曲あり、「市民のためのファンファーレ」(金管11、打楽器3)が明快でダイナミックに、続いて「静かな都市」(弦、北村貴子のコール・アングレ、辻本憲一のトランペット)が叙情的に演奏され、それぞれの曲の良さを堪能させてくれた。
 ところが、この切れのよい音楽のつくり方が、後半のハイドンの「軍隊交響曲」では、一転する。

 彼は、古典の交響曲を、明晰かつ端正に構築するのではなく、むしろ旋律やフレーズやハーモニーやリズムの輪郭を滲ませたような音の組み立てをやる。これには少なからず驚かされた。従ってここでは、所謂古典派的な清澄さの代わりに、やや粘り気のある混沌とした響きがしばしば生まれる。
 ただこれが決して制御不在の混乱状態にならず、むしろ確信的に構築され、しかも見事なほどの活気を以って、時には重厚で壮大な響きで繰り広げられて行くところが、若い指揮者にしては実にユニークで面白いと感じられる所以である。

 そして、アンコールで演奏されたシューベルトの「軍隊行進曲」が、これまた全体にヴェールをかけたような、高音域を減衰させたような、徹底的にくぐもった音色になっていたのも興味を惹いた。日下紗矢子をコンサートマスターとした読響の弦が、最後まで完璧にこの音色を押し通していたところも面白い。

 この2曲を聴く限り、彼が徹底的に音色や響きにこだわりを示す指揮者だということが感じられる。なんとも面白い若手が現われたものである。これからはオケとの相性も重要な要素になるだろうが、注目しよう。
 彼が正指揮者になる予定の東京響との協演は、直近では8月10日にミューザ川崎で行なわれるはずである。

2020・7・12(日)山形響&仙台フィル合同演奏会 飯森範親指揮

     やまぎん県民ホール(山形県総合文化芸術館)  3時

 仙台フィルハーモニー管弦楽団と山形交響楽団の合同演奏会。いわば仙山(せんざん)フィルハーモニー交響楽団。
 本来はブルックナーの「第8交響曲」が演奏されるはずで、私も以前からそれを楽しみにしていたのだが、コロナ騒動のためオーケストラ配置にも変更を余儀なくされ、今回のようなプログラムにされた由。

 合同とはいっても、両楽団の全員が参加しての大編成で演奏したわけではない。
 第1部には「祈り」、第2部に「未来」、第3部には「希望」と、それぞれタイトルが付されていて━━。
 第1部の早川太海の「Spirit of YAMAGATA」と内藤淳一の「闘志躍動」は金管16人と打楽器2人で、またブルックナーの「アンティフォナ《マリアよ、あなたは誠に美しく》」と「モテット《キリストは従順であられた》」は金管13人で演奏され、第2部のエルガーの「序奏とアレグロ」は弦楽四重奏および弦10-8-6-6-4で演奏されていた。
 そして第3部のチャイコフスキーの「交響曲第5番」は、弦12-10ー8-8-6および総譜指定の数の管と打楽器、という編成だった。

 コンサートマスターには山響の高橋和貴、トップサイドにも山響の犬伏亜里が座っており、その他の各パートのトップにも山響のメンバーが多く見られて、今回は何となく山響側が押し気味の感。2千人を収容できる大型ホールを竣工した山形に花を持たせたか。ただし、18日(土)の同プロによる仙台公演も、今日と同じ編成だそうである。
 まあ、この両楽団の合同演奏は毎年の企画だから、振り分けもその都度、うまくやっているのだろう。

 これらをまとめた指揮者は、山響芸術総監督の飯森範親。生気あふれる中にも節度を保たせた、いい演奏だった。金管アンサンブルのバランスの良さは快いものだったし、エルガーでの瑞々しさも印象的だった。また、「第5交響曲」も、「合同演奏」とは思えぬほどの出来だった。
 アンサンブルの緻密さとか、表情の細やかさといったものをここで求めるのはさほど意味はなかろう。それよりはむしろ、フェスティヴァルとしての活気が演奏には優先されるだろう。その点、第4楽章コーダにはもう一段の熱狂があっても良かったとは思うけれども・・・・。

 とにかく、ホールの音響の良さが、オーケストラをたっぷりと響かせ、演奏の良さを更に引き立てたと思われる。2001の客席に対し今日は入場者数を800程度に抑えていたため、残響はいっそう豊かだったようである。

 この「やまぎんホール」は、山形駅の西口、以前からあった山形テルサホールの隣の広い空き地に建設されたもので、2001の客席を持つ、若々しく明るい感じの会場である。音響が予想以上に良いので、ポップス系のみならず、大規模なクラシック音楽の公演にも適しているといった長所がある。落ち着いた中型の「テルサホール」との使い分けもうまく行くだろう。それにしても、このようなホールを二つ並べて建てるという山形県の意欲たるや、は並々ならぬものである。
 仙台フィルの楽員たちが、この山形に竣工した大ホールを羨ましがっている、という話がプレトークで出ていた。そういえば、仙台の方の大規模コンサートホールの建設については未だ企画段階にとどまっているようだが、今回のコロナ感染症の問題が影響して、なかなか円滑には進まない状態にあると聞く。

 今日はマチネーのため、山形新幹線で日帰り。

2020・7・11(土)東京二期会、ガラ・コンサートで再始動

       東京文化会館大ホール  3時

 本来なら今日あたりは、東京二期会の「ルル」が上演されているはずだったが━━。
 その代わりに東京二期会は、「スペシャル・オペラ・ガラ・コンサート 希望よ、来たれ! KOMM、HOFNUNG!」と名づけたアリア・コンサートで再始動(再起動?)を行なった。
 沖澤のどか指揮東京交響楽団をバックに、7人の看板歌手たちが、ここ何か月間にわたり活動を抑圧されていたことへの溜まり溜まった鬱憤を蹴散らすかのように、朗々たる快唱を披露する。

 第1部では、木下美穂子が「フィデリオ」(ベートーヴェン)から「悪者よ、何処へ急ぐ」、城宏憲が「トスカ」(プッチーニ)から「星は光りぬ」、中島郁子が「セビリャの理髪師」(ロッシーニ)から「今の歌声」、黒田博が同オペラから「わたしは街の何でも屋」を歌い、
 第2部では妻屋秀和が「魔笛」(モーツァルト)から「イシスとオシリスの神に祈りを」、森谷真理が「ルル」(ベルク)から「ルルの歌」を、そして最後に福井敬が「トゥーランドット」(プッチーニ)から「誰も寝てはならぬ」を歌って締めた。

 いやもう皆さん、実に気持よさそうに歌うこと歌うこと、東京文化会館大ホールの大空間を思い切り響かせて、持てるものすべてをこの一瞬に賭けたという感の歌唱を披露してくれた。飛沫感染を避けるため聴衆のブラヴォーは禁止されていたが、もしそうでなければ、客席は沸き返っていたことだろう。なお「ルル」では、中村蓉のダンスが加わり、ルルの激しい感情を視覚化するという趣向が為されていたのもいい。

 これに加え今日は、帰国した沖澤のどかの指揮が久しぶりに聴けたのが興味深かった。各部の冒頭では、それぞれ「フィデリオ」と「魔笛」の序曲が演奏されたが、そこでの彼女の指揮は極めて引き締まっていて切れ味もよく、好感をいだかせた。直線的で生真面目過ぎるのが問題だが、こういうコンサートではどうせリハーサルの時間も少なかったのだろうから、多くを望むわけにも行くまい。

 彼女、エンディングをひときわ強奏して盛り上げるのが癖のようだが、それも良いけれども、「何でも屋の歌」の最後など、オケをもっとリズミカルに煽り立てつつ盛り上げて行けば、さらに劇的になるのではないか。一方、「ザラストロのアリア」の最後、超低音のヘ音をバス歌手が響かせる際に、オケをスッと抑えてやるくらいの細やかさも欲しいところだ。「魔笛」序曲の序奏での音色の清涼さには感心した。

 東京響は、ホルンがいけない。「フィデリオ」では、序曲でもアリアでも、肝心のホルンがグラグラしていて、後者では折角の木下美穂子の熱唱の足を引っ張った。

2020・7・10(金)日本フィル、広上淳一指揮で東京定期再開

      サントリーホール  7時

 「日本フィルハーモニー交響楽団がサントリーホールに帰ってまいりました!」という広上淳一の挨拶に、客席から拍手が巻き起こる。
 この挨拶はプログラム終了後に行われたものだが、聴きに来てくれたお客さんの前で演奏出来ることの喜びを率直に表したもので、なかなか心のこもったものだった。

 その聴衆の数は、2階RC席から見ると400人か、多くて500人といったところか(実数を確認したわけではないが)。
 事務局の話によれば「金曜日の定期会員が全部来てくれれば600人以上にはなるはずだが、昨日今日の東京都の新型コロナ感染者数増加の状況の中では、やはり外出を躊躇う高齢者も多くなったらしく、欠席の人も少なくない」由。当日売りを出したら如何なのか、と訊くと、「会員の席替え(市松模様への変更)処理が大変で、とてもそこまで手が回らない」とのこと。さもあろう。

 ともあれ、クラシック音楽の聴衆は静かだし、規律も守っているし、会場の感染防止対策は徹底を極めているし、交通機関の問題を別にすれば、もっと多くの人に来てもらっても大丈夫なはず、と思われる。

 今日のプログラムは、バッハの「ブランデンブルク協奏曲第3番」と、ブラームスの「第1交響曲」だった。弦楽器群とチェンバロの計11人で演奏されたバッハの美しいこと。何の濁りもない、清らかで気品のある作品の素晴らしさと演奏の爽やかさ。こんな気持で音楽を受容できるようになったことの嬉しさをも今更ながら噛みしめるような想い━━というのは個人的な感傷の致すところだが、いや事実、この広上と日本フィルの弦(コンサートマスターは扇谷泰朋)は天下一品の趣ではなかったか。

 ただしブラームスの「1番」の方は、溜まった鬱憤を晴らすかのような大熱演ではあったものの、好調時の日本フィルに備わっていたアンサンブルの瑞々しさや緊密さを失っており、しばらく演奏活動から遠ざかっていたことから生まれた欠陥を覆い隠すわけには行かなかったようだ。
 ━━もっとも、あの鬼将軍ラザレフが着任して建て直す以前の日本フィルは、ちょうどこんな演奏をしていたものだったが・・・・今回は遠からず立ち直るだろう。いや、名手・広上の指揮だから、明日(2日目)の公演だって、今日よりもっとまとまった演奏になるのではないかと思っている。

2020・7・10(金)METライブビューイング
ワーグナー:「さまよえるオランダ人」

     東劇  1時30分

 本来はライブビューイングとして中継されるはずだった3月14日(土)の上演が中止になったため、3月10日(火)の記録映像が替りに使われている。そのためだろう、インタビューは一切なし。案内役にはリセッテ・オロペーサというソプラノが登場し冒頭に一言喋ったが、これは別に収録してはめ込んだらしく、いかにもリアリティがない。

 この映像収録はもともとカメリハだったのか? 観たところ、カメラワークも何となく要領が悪くて単調だ。演奏者たちに「ライブビューイングに使用する」と伝えてあったのかどうか? どうもステージの燃焼度があまり高くなくて、所謂ルーティン公演的な雰囲気を感じさせるのである。
 METの上演と雖も、日常の上演と、生中継のある日とでは、かなり出来栄えに差があるのは周知のとおり。ゲルブ総支配人でさえ「ライブビューイングのある日は歌手のアドレナリンが高くなる」と認めているし、私が何度か観に行った時にも明らかにそれを感じたものだ。

 今回のプロダクションは、指揮がワレリー・ゲルギエフ、演出が映画監督フランソワ・ジラール。主役歌手陣はエフゲニー・二キーチン(オランダ人)、アニア・カンペ(ゼンタ)、フランツ・ヨーゼフ・ゼーリヒ(ダーラント)、藤村実穂子(マリー)、セルゲイ・スコロホドフ(エリック)、デイヴィッド・ポルティッロ(舵手)。

 ニキーチンが「アグリッピーナ」の幕間のインタビューで「荒々しい性格ではなく、救済を求めて苦悩するオランダ人船長を表現したい」とかいう意味のことを語っていたが、それは確かに暗く、憂鬱な性格表現で実現されていただろう。ただ惜しいことに、それが演技の上でも歌唱の上でも、突っ込み不足というのか、地味で冴えない存在にしか感じられないのだ。
 アニア・カンペも━━彼女がMETデビューだったというのは意外だった━━別に破綻があったわけではない。が、絶好調時の彼女とは趣を異にして、何か生彩が感じられぬ。
 同じくデビューの藤村実穂子も、この役では気の毒すぎるとは当初から思っていたが、彼女の真価発揮には程遠い扱いをされていた。

 そういう歌手陣の出来を招いたのは、やはりゲルギエフの、遅めのテンポによる、あまりに抑制した音楽づくりにあったのではないかと思われる。あんなにゆったりと打ち沈んだテンポでは、このワーグナー初期のリズミカルな要素の濃い作品はうまく活きないのではないか?
 第3幕で、幽霊船の水夫の合唱に打ち負かされたノルウェー船の水夫たちの合唱が、ゲルギエフの遅いテンポを保ち切れず、ついに走り出してしまい、オケと合唱との間に惨憺たるアンサンブルの乱れを生じさせてしまったところなど、とてもこれがMETの上演とは思えぬほどであった。この日の上演が「ライブビューイング」に使われることなど、やはりほとんどの出演者が予想していなかったのだろう。

 METの以前の「パルジファル」では、映画監督の発想らしい面白さを見せたジラールの演出(2013年2月15日参照)だったが、遺憾ながら今回の「オランダ人」では、その狙いは解り難い。第3幕の幽霊船の水夫たちの合唱が爆発するシーンで、ノルウェーの少女たちをそのまま舞台に置き、一種の幻想的な動きを見せたアイディアだけがユニークだったと言えようか。
 ただ、「パルジファル」の時と同様、今回も背景の大スクリーンには映像が投映されていたようだが、カメラがそれを充分に捉えていないので、真価は汲み取り難い(全く工夫のないカメラワークで、やはりこれはカメリハだ)。

 お客さんは、今のような状況の中にしては、予想外に入っている。4時終映。

2020・7・5(日)鈴木優人指揮読売日本交響楽団

       東京芸術劇場コンサートホール  2時

 読響も本日から公開演奏会を再開したが、これは定期公演ではなく、特別演奏会。「日曜マチネーシリーズ~この自然界に生きる」というタイトルを付しての、休憩なし、1時間強の長さの演奏会だ。

 客席は例の如くの座席配置だが、今日は見たところ随分客が入っているという感じで、現行の感染対策基準入場者数━━つまり当ホール・キャパの50%(約1000人)までは行かぬとしても、それに近い数の聴衆がやって来た、という印象を抱かせる。
 これには、以前からの読響の人気、日曜のマチネー、手頃なプログラム、といった理由もあるだろうし、この4月から同楽団の「指揮者/クリエイティヴ・パートナー」に就任している若い鈴木優人の人気のゆえもあるだろう。

 いずれにせよ、いろいろな制約付きとはいえ、こうしてコンサートが少しずつでも正規の形に戻って行きはじめたのは、めでたいことと言えよう。そして今日は、鈴木優人の発信力に富むトークが客席を笑わせ、拍手をも呼び起こし、とかく暗めで粛々とした雰囲気に支配されがちなこのところのコンサートに明るさを与えていたことも歓迎されるだろう。カーテンコールでは、彼は単独でステージに呼び戻されていたのである。

 その鈴木優人が指揮したのは、マーラーの「第5交響曲」からの「アダージェット」、メンデルスゾーンの「管楽器のための序曲」、モーツァルトの「ジュピター交響曲」と言うプログラムだった。
 長原幸太をコンサートマスターとする読響も予想以上に音がまとまっていたのには一安心。

 注目の「ジュピター」では、第1楽章冒頭から「高音域を減衰させた」ようなユニークなバランスの音色で開始され、鈴木優人もなかなか個性的なことをやるな、と思ったのだが、提示部反復の際には━━引き締めが弱くなったか、それとも意図的にか━━このバランスがガラリと変わってしまっていたこともあって、その辺はよく判らない。
 重心のしっかりした、意志力を感じさせる「ジュピター」の演奏だったことは確かだが、彼がこの海千山千の楽員を巧く制御して自己の個性を発揮させるには、まだ時間が必要なのだろう。
 しかし、アンコールで演奏したラモーの「優雅なインドの国々」からの「未開人の踊り」こそ、音が少し分厚く重いとはいえ、あらゆる点で鈴木優人らしさを発揮した選曲と演奏だったことは間違いない。

2020・7・3(金)METライブビューイング「アグリッピーナ」

     東劇  11時

 珍しや、ヘンデルのオペラ「アグリッピーナ」! 
 デイヴィッド・マクヴィカーの新演出で、2月6日にプレミエされ、3月7日までの間に計9回上演されるスケジュールが組まれていた(多分全部上演されたのでは?)。今回上映されたのは2月29日の上演ライヴだ。

 指揮はハリー・ビケット。主要歌手陣はジョイス・ディドナート(ローマ皇妃アグリッピーナ)、マシュー・ローズ(ローマ皇帝クラウディオ)、ケイト・リンジー(アグリッピーナの連れ子ネローネ)、イェスティン・デイヴィーズ(ローマ軍の司令官オットーネ)、ブレンダ・レイ(その恋人ポッペア)、ダンカン・ロック(自由民パッランテ)。

 休憩1回ながら上映時間4時間。おそろしく長いけれども、演出の素晴らしさ、歌手陣の巧さ、ビケットの指揮の颯爽たるテンポと勢いの良さ、そして曲の良さなど、実に鮮やかな出来の上演だ。これはMETの最近のプロダクションの中でも傑作の一つと言っていいのではないかと思われる。

 マクヴィカーの演出は、ローマ帝国時代の物語を完全に現代風の設定に置き換え、権力術数と陰謀の渦巻くどろどろしたストーリーをコメディ風のタッチでカラリと描き出すという見事な技を具現したものだ。ポッペアの「復讐のアリア」を酒場での泥酔シーンと絡ませるアイディア一つとっても、秀抜の極みであろう。

 それに歌手陣の、歌唱から演技から、揃いも揃って巧いのなんの。ジョイス・ディドナートの凄味と迫力のある悪女ぶり、ケイト・リンジーがズボン姿で繰り広げるイカレた若造ぶりなどをはじめ、本当に役者揃いだ。よくあんな猛烈な演技と無理な姿勢の中で、あんな見事な歌を歌えるものだな、と舌を巻かされる。
 そしてビケットの指揮が、些かの緩みもなく息もつかせぬテンポ運びで長い全曲をまとめ上げる。━━METもいいオペラを創るものだ。

2020・7・2(木)新日本フィルも定期公演を公開で再開

      サントリーホール  7時

 当初予定の指揮者ダンカン・ワードに替って下野竜也が客演指揮。
 プログラムも、2曲目のヴォーン・ウィリアムズの「テューバ協奏曲」(ソロは新日本フィルの佐藤和彦)以外は大幅に変更され、1曲目にフィンジの「弦楽オーケストラのための前奏曲」、3曲目にベートーヴェンの「田園交響曲」が組まれた。
 コンサートマスターは豊嶋泰嗣。

 フィンジの曲は「浄夜」そっくりの重厚な出だしも面白く、「テューバ協奏曲」も佐藤和彦の若々しい表情の鮮やかなソロが映えて、いずれもあまり聴ける機会のない作品だけに、公開定期再開第1弾を飾る意欲的なプログラムとなっていた。なお佐藤は、ソロ・アンコールとしてヴォーン・ウィリアムズの「イングランド民謡による6つの習作」から吹いてくれたが、これも良かった。

 「田園」は、弦12型編成で演奏された。かなり念入りに細部まで構築した演奏だったが、下野にしては予想外に濃厚な造りで、この曲にしては不思議にピリピリした表情を感じさせる。音色が硬いのはその所為か、それとも長期間の空白による影響か。
 だが第2楽章最後に鳥の声を描写する木管群はこの上なく明晰で、スコアが眼前に浮かび上がって来るような鮮やかさだった。その一方、この楽章での最弱音のつくり方などは、何となくあの朝比奈隆のそれを思い出させたが・・・・。

 オケのアンコールとして、バッハの「管弦楽組曲第3番」からの「アリア」が演奏されたが、変わった響きがするのでストコフスキー編曲版かなと思ったら、やはりそうだった。この版、下野が東日本大震災直後に東京都響との演奏会で犠牲者追悼のために演奏したのを聴いたことがある。今回は新型コロナの犠牲者を悼むという意味も含まれていたのか?

 客席はもちろん、ソーシャル・ディスタンス方式というか、市松模様での座席割りだが、入りは目測で700~800人あたりというところか。人混みを恐れて外出を控える高齢者が多い現在の状況から考えれば、このくらいお客が来ていれば御の字といえるだろう。

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