2020-07




2005・8・28(日)バイロイト(終)「ローエングリン」

      バイロイト祝祭劇場  4時

 キース・ウォーナー演出による「ローエングリン」のプロダクション、2001年に見た記憶は少々断片的になっているのだが、照明(ウルリヒ・ニーベル)などは今回の方が洗練されたものになっているように思われる。
 特に第2幕、オルトルートがゲルマンの神に祈る場面では、後方に拡がる真紅の照明がいっそう見事になっていた。

 また前回は、手間の汚い池の中から出現したようにも見えたローエングリンは、今回は観客の注意があちこちに逸らされている間に、いつの間にか人々の間に登場する、という形がはっきりと判るようになった。但しラストシーンでは、ローエングリンは絶望して息も絶え絶えに池の中へ転落するという、なさけない最期を遂げることになっている。

 第1幕冒頭で、輝く甲冑に身を固めたザクセン軍が国王とともに吊り装置で上方から降りて来る演出は前回に同じ。ただこのザクセン軍はその後姿を見せず、合唱は専らブラバント軍と群衆により歌われる。従って第3幕における、ザクセン軍とブラバント軍が同盟する場面が今回は無い━━つまり第2幕で伝令に煽られて不承不承に武器を取ったブラバントの人々が、第3幕になるとすっかり「好戦的」に変わっている、という設定である。この解釈は面白い。

 ペーター・シュナイダーの指揮は、例の如く「10勝5敗」的なものだが、とにかく練達の職人的手腕だ。オーケストラと声楽のバランス、ソロとアンサンブルのバランスなど、実にツボを心得た指揮である。第1幕最後でも決してテンポを速めないというように、スリルや面白味に不足する指揮なのだが、その分、安心して聴いていられるというタイプのものだ。

 タイトルロールはペーター・ザイフェルト、絶好調で、ビンビンと声が来る。先年のベルリンでのローエングリンと違って、髭はなかった。
 エルザのペトラ=マリア・シュニッツァーは今回初めて聴くソプラノだが、純真で可憐で甘くて、この役には最適なキャラだ。
 テルラムントは、クルヴェナルを歌っていたあのハルトムート・フェルカーで、ここでは悪役というよりも哀れを催させる演技を見せる。オルトルートのリンダ・ワトソンは思いのほか迫力がないが、あるいは本調子でなかったのかもしれない。

 布告官はロマン・トレケル、安定はしていたがほんの一瞬声が裏返るという珍しいことがあって、儲け役にもかかわらず拍手がそれほど多くなかったのはそのためか。ハインリヒ王はラインハルト・ハーゲンで、老いたヨレヨレの王様だが、声は充分だ。合唱はいつものように圧倒的なパワーを響かせ、バイロイト祝祭合唱団の本領を示す。

 これで今年のバイロイト取材を終る。翌日午後4時半のバスでホテルを発ち、ニュルンベルクよりパリを経て帰国。

2005・8・27(土)バイロイト(4)「さまよえるオランダ人」

      バイロイト祝祭劇場  6時

 マルク・アルブレヒトの指揮、クラウス・グートの演出。
 舞台(クリスティアン・シュミット)は下手側から奥に向かって階段がある豪華な広間で、ドラマのすべてはここで展開するという趣向。海は照明で暗示されるだけだが、その出来は悪くない。水夫たちと船長は近代客船の乗組員スタイル。ゼンタの服装も甚だ野暮ったいセーラー服風。

 ゼンタの妄想が物語の基本になるという手法はこれまでにもいくつかあったが、この演出では父親ダーラント船長(ヤーッコ・リハイネン)と、オランダ人船長(ユッカ・ラシライネン)とを瓜二つにし、時には両者に同じ行動を繰り返させるなど、父と娘の心理劇に仕立てているのが特徴だ。
 ゼンタは、オランダ人との愛の二重唱のさなかにも、時に父親の背中に向かって歌うことさえある。また、少女時代のゼンタがしばしば登場し、「遠い思い出の中から」が歌われるのと並行して娘と戯れるダーラントが描かれたり、「しかしあなたのお父上が」のくだりになると、途端に厳しい顔になる父親が描かれたりする。

 合唱はすべて大仰なダンスを伴うが、恋人たちが航海から帰って来ると知らされた娘たちが慌てて掃除を始めるあたりは、その動作が急速な音楽とぴったり合致していて、笑いを誘う。
 第3幕での奇怪な面をつけた水夫らの合唱と演技は、ほとんどパロディ的なものだ(ここはクプファーの演出の影響が大きいようである)。

 その後半はゼンタの妄想のクライマックスとなり、彼女が何人もの「船長」の姿に脅かされた挙句、天井から下がって来た逆さづりの巨大な骸骨の船長に空中高く吊り上げられ、連れ去られて行く己の別身を眺めて錯乱するという具合。幕切れは、カーテンの影に消えたオランダ人を追ってゼンタが突進、そのカーテンが開けられると壁があって進めず、絶望する・・・・。

 ゼンタのアドリアンヌ・ダッガーをはじめ、2人の船長、エリックのエンドリク・ヴォトリヒら、みんな水準は高い。合唱団は歌唱も演技もダンスも絶妙で、熱烈なブラヴォーを浴びていた。マルク・アルブレヒトの指揮は例の如く殺風景そのものだが、オペラの呼吸はよく呑み込んでいるだろう。第3幕の終結近くの三重唱がノーカットで演奏されていたにもかかわらず、第2幕大詰の三重唱には慣習的なカットが施されていたのには納得が行かないが、多分「2人の船長」をいつまでも同次元に置くのは都合が悪かったのかな、とも思う。

2005・8・26(金)バイロイト(3)「トリスタンとイゾルデ」

      バイロイト祝祭劇場  4時

 われらが大植英次の華々しきバイロイト・デビュー、ここに登場した最初の日本人指揮者。
 それ自体は素晴らしいことに違いなく、心から声援を惜しまなかったわれわれだったが━━事前に入って来る情報は、彼の指揮が酷評を浴びているという話ばかりだった。その多くはドイツの新聞批評によるものだった。だが私は、そんなものは自分の耳で演奏を聴くまでは一切信用しないと決めていた。ドイツの批評だし、どうせ一種の偏見も混じっているだろう・・・・。

 しかし、自分で実際に聴いてみて(正直に書くが)、残念ながら、結果は甚だ芳しくない。
 これほど指揮者とオーケストラと歌手が乖離した演奏は、かつて聴いたことがなかった。私はドイツ語には詳しくないが、ワーグナーの作品を隅から隅まで聴いている愛好家として、彼の音楽と言葉との響きが本来どのような関連を持っているかということぐらいは、ある程度は心得ているつもりだ。だがこの日の演奏では、それが無惨にも覆ってしまっていたのだ。

 歌手はオーケストラに乗らず、それとは無関係に歌っているように聞こえる。一方、オーケストラの方は、抑えが利かず、和声やモティーフの動きを全く等閑にし、指揮者に従わず、ただ勝手に咆哮している。そして指揮者は、それらには構わず、ひたすら同じテンポで押しまくっている。かくて全体の演奏は、大音響の塊がただバラバラに突進するのみ、という印象になってしまう。

 何が原因でこんな演奏になってしまったのか? 大植がバイロイトの響きに不慣れであること、彼がオペラの指揮にあまり経験がないこと、歌詞の理解が不充分であることなどは、彼のふだんのレパートリーや演奏を知るものにはたやすく想像がつく。ただ、それ以外にも何かどろどろした内幕のようなものもあったのだろう。それらが集積してこういう演奏になったのではないかと思われる。

 前奏曲では、かなり豊麗で厚みのある響きが生まれていたが、チェロのうちの1人か2人が妙に突出していたことや、木管の合奏が著しく雑なことが、早くも気になった。冒頭の水夫のソロは変なリズムで強調されていたし、クルヴェナル(ハルトムート・フェルカー)は、最初から完全に指揮者のテンポを無視して歌っていた。全体を通して歌手の言葉のリズムは━━レガートな部分を別にして━━指揮者及びオーケストラと全く調和していなかった。

 オーケストラの音量は、この劇場で聴いたあらゆる演奏の中でもとりわけ大きく、歌手の声をしばしば打ち消しただけでなく、音楽的に不必要なほど怒号した個所もある。大きな音がいけないというわけでないが、問題は、その大音響が曖昧な団子状態になり、その裡にあるべきモティーフや、転調や、ニュアンスの変化が埋没してしまい、この作品本来の精妙極まりない音楽の特徴を失わせてしまっていることにある。

 もちろん、大植のやりたいことも解るし、ある個所ではそれが良い方向に出ていたことは確かである。例えば、第1幕の大詰へ向けての劇的な追い込みは、成功していたと思われる。そして彼が目指す豊満で夢幻的な響きも、第2幕や第3幕では少なからぬ個所で、うまく打ち出されていたのではないかと思う。ただ、その音色は、このバイロイトのオーケストラなら、自ずから創り出すことの出来る範囲のものではなかったか、という気がしないでもないのだが。

 結局、大植英次にとって、このバイロイト出演は、あまりに時期尚早だったのではないかという気がする。あらゆる歌劇場の中でもとりわけユニークな音響特性を持ったこの劇場、ドイツ芸術の真髄であり、難攻不落の魔城ともいえるこのバイロイト祝祭、そこへのデビューに際し、よりにもよって「トリスタンとイゾルデ」のような難作を選んだこと━━「さまよえるオランダ人」だったらまだ何とかなったのではないかと思えるのだが━━これらは、彼がオペラの分野でもっと充分に経験を積んでからにすべきだったのだ。それが私には残念でならない。
 彼の意欲は買うが、あまりに無謀過ぎた。イカルスのように飛び過ぎた。

 カーテンコールでのブーイングは、あまりにも何か組織的な雰囲気もあって疑問も感じられるのだが・・・・。来年の出演すら危ぶまれるような気配が漂っているのが悲しい。
 打たれ強いという彼のことだから、きっとこの体験をバネにして成長してくれるだろうとは思うが・・・・この影響が変なところに跳ね返らなければいいと願うのだが、さりとてわれわれとしては、この出来事を隠蔽するわけには行かないのだ。

 歌手陣では、トリスタンのロバート・ディーン・スミスと、イゾルデのニーナ・ステンメがいずれも卓越して素晴らしい。声も表現力も見事だ。
 ブランゲーネのぺトラ・ラングは、今回の演出ではストレスの塊のような女で、メイクも醜く奇妙だったが、歌唱は劇的で見事だった。クルヴェナルのフェルカーはえらく老人じみたメイクながら、主人思いで一本気で愚直な性格をよく表現した歌唱と演技。マルケ王は東洋人のユン・クワンチュルで、眼鏡をかけてオーバーと手袋に身を固めた、社長然としたいでたち。力のある声だ。

 クリストフ・マルターラーの演出は、もっととっぴなことをやるのではないかと覚悟していたが、思いのほか音楽に忠実なスタイルである。
 舞台装置(アンナ・ヴィーブロック)も大型客船の中に設定されていて、第1幕では上階の広間で、幕を追うに従い、階が下に移動して行くというのが、ドラマの展開に即しているようで、面白い。第1幕ではイゾルデが乗客、トリスタンが乗務員といった趣であるのも納得が行く。

 このトリスタンは、どちらかというとおっとりした性格で、一方イゾルデは積極的かつ情熱的、全て彼女が先に仕組んだ恋であるかのように描かれる。
 第2幕で、マルケ王がトリスタンを難詰している場面でも、イゾルデは全く彼の言うことを聞いていないようで、天井の照明(蛍光灯だが、歌詞に出て来る「愛を妨げる光」を象徴するものだろう)が点滅するのを指さして面白がっているという不謹慎さだ(この蛍光灯とイゾルデの動作は、観客の注意を音楽から逸らしてしまうので煩わしいが、演技としては秀逸だ)。
 第2幕の大詰、メロートを投げ飛ばしてイゾルデの方へ向き直ったトリスタンを、メロートは後ろか襲って背中を刺す(卑怯さの象徴である)。

 面白かったのは第3幕の、クルヴェナルがマルケ王の軍勢と戦うくだりが、全てこの主人思いの老人の空想として、しかも老人らしい頑固な仕草によって描かれていることだ。これは第2幕で主人の危機を救えず打ちひしがれてしまった従者の心理描写としても実に適切な解釈であろう。
 ただラストシーンの、イゾルデがトリスタンのもとへやって来ながら、なかなか彼に近づかず、挙句の果てにトリスタンがベッドから転げ落ちると、彼女がそのベッドに上がって「愛の死」を歌い、シーツをかぶって寝てしまうという演出は、甚だ理解し難い。ベッドが死体置き場のように見えるということに鍵があるようにも思えたが、考えるのは煩わしい。

 終演後にマエストロ大植を楽屋に訪ね、おめでとうを言う、という打ち合わせをマネージャーの蚊野さんとしていたのだが、休憩時間に宮下博氏から「ヴォルフガング(ワーグナー)氏との打ち合わせがあるので、お会いできないかもしれない」と彼女が言っていたという話を聞いた。
 しかし、とりえず宮下氏と、舩木氏と、中山氏との4人で楽屋の入り口まで行ってみる。そこで窓越しに見えた蚊野さんに合図したのだが、何故か彼女はそのまま奥へ入ったまま出て来ないので、屋外でしばし待つ。

 とはいえ、あのような演奏を聴いたあとで、かりに彼に会えたとしても、どんな顔をして、なんと声をかけたらいいものか? 
 かように今日は4人とも腰が引けていて、出来ればこのまま逃げてしまいたい、という意識が先に立っていた。結局、「やっぱり帰ろうか」ということになって、すごすごと丘を下り、駅近くのレストランに入る。テラスにしか席が取れない。しかも夏だというのに、今夜は猛烈に冷える。
 気落ちした4人は、「心も体も寒いなあ」と呟きつつ、ストーヴの傍で盛り上がらぬまま食事をするのであった。

2005・8・24(水)バイロイト(2)「タンホイザー」

      バイロイト祝祭劇場  4時

 演出と舞台美術はフィリップ・アルロー、指揮はクリスティアン・ティーレマン。ドレスデン版使用。

 前夜の「パルジファル」とは打って変わって、色彩的な美しい装置と照明。第2幕はよくあるタイプの、観覧席で広報を囲むスタイルだが、これは反響版としても絶好のものであり、その所為か声楽を耳も聾するほどの音量で響かせるのに役立っていたようだ。
 一方、詩的な美しさを感じさせたのは、第1幕後半と第3幕における、緑の芝生に赤い花々が咲き乱れる円形のホールのような景観である。

 第1幕でのヴェヌスブルクの場はシンプルな室内のような光景だが、赤と青の色彩的な対比が印象的で、特にヴェヌスブルクの世界が消える瞬間は、そのセットが空中に斜めに浮き上がって瞬時に背景へ消えるという、素晴らしく幻想的な手法が用いられていた。ただし第3幕ではこのようなケレンは行われず、ただ照明が赤色に変わって、ヴェヌスがそばに歩み寄って来るというだけの、ちょっと肩透かしのものだったが。

 演技は総じて微細である。例えば、ヴォルフラムがエリーザベトに恋々として未練がましい男であり、ビーテロルフが気の短い武人であるという描き方。
 また、ヴァルトブルクの人々は全て異様なお伽噺の登場人物の如き扮装をし、歌合戦の場ではその都度大仰なポーズを取って反応する。ストップ・モーションを多用するのは最近のアルローの好みらしい。

 全曲大詰ではタンホイザーが十字架を抱えて悔悟、昨夜の「パルジファル」と正反対に、こちらは原作通りキリスト教的だ。その「パルジファル」と比較すればこちらは穏健そのものだが、それでも随所に新機軸が導入されているところが面白い。
 大詰の合唱団は佇立したまま客席を向いて歌うだけだが、各々の身体が左右に軽くゆすられ、それが音楽のクレッシェンドとぴたり合致しているだけに、何か異様な迫力を醸し出すのである。コロンブスの卵的な発想であろう。

 そして何よりもこの上演では、ティーレマンの卓越した指揮を挙げなければならない。オペラの聴かせどころをよく心得た指揮で、音楽の上での演出を巧みに繰り広げて行く。
 第1幕の終り近く、タンホイザーと他の歌手たちが和解する場面で、あのなだらかな旋律を弦と声楽とに甘美なほどに歌わせつつ、徐々にテンポを速めてクライマックスに持って行く呼吸など心憎い限りで、ティーレマンの非凡なオペラ=ドラマ感覚が証明されているだろう。

 第2幕の歌合戦の場で、最初のヴォルフラムの歌を非常に遅いテンポで、しかも長いパウゼを採りつつ進めて行くのは、アルローの演出に合わせたものか、ティーレマンの意図によるものかは判らないが、いずれにせよヴォルフラムの慎重な性格をよく描いている。
 また第3幕最後の小節は、普通の演奏だと妙にあっけなく終ってしまう感を与えるものだが、ティーレマンの最後の音の延ばし方が事実に巧いので、見事な終結感が生まれるのである。かようにティーレマンは、音楽で演出を行なうことのできる稀有な指揮者と言えるかもしれない。

 音色も美しい。弦の響きなど、まるでクリームが沸騰するような柔らかいふくらみに溢れている。だが何よりもうれしい驚きは、現行の一般的な出版譜どおりの、完全ノーカットの演奏だったことだ。ひところバイロイトで行なわれていた慣習的なカットも今回はすべて避けられ、各声楽のパートも出版譜に忠実に歌われていたのである。
 昨日のブーレーズ、今日のティーレマン、━━バイロイトには、こういう海山千年のツワモノ指揮者たちが君臨しているのだ。昨日今日オペラを振り始めた新参の指揮者などが付け入る隙などないのだと痛感させられる。

 ヴォルフラムのロマン・トレケルをはじめ、歌手は最近出てきた人ばかりだが、しかし強力である。
 タンホイザーはステファン・グールド、「迷える吟遊詩人」ではなく、自信家で鼻っ柱の強い男という設定だが、これを実に巧く表現しているし、第2幕の声楽パートをカットなしに歌い上げたパワーは敬服すべきものである。
 エリーザベトはリカルダ・メルベートという人で、声の美しさが目立った。脇役で普段は目立たぬ存在だが、ビーテロルフを歌ったジョン・ヴェーゲナー(昨夜もクリングゾルを歌った)がすこぶる強烈な存在感を発揮していた。

 場内は猛烈な暑さで、睡眠不足も影響してフラフラになる。シャトルバスでホテルへ帰るころには元気を回復したが、昼間入ったオイレまで行くほどの力はなく、知人とまた近くの中華料理店へ。

2005・8・23(火)バイロイト(1)「パルジファル」

       バイロイト祝祭劇場  4時

 バイロイト訪問は、2001年以来、4年ぶりになる。
 今回は日通のツアーに乗り、21日にドゴール空港経由でまずニュルンベルクに入り、ARABELLA SHERATON HOTEL-CARLTONに宿泊。22日には━━あまりしたくもなかったが━━このツアー恒例の市内観光に参加。夕方にはバイロイトのRAMADA-TREFF RESIDENZSCHLOSSなるホテルに到着した。別行動で先着していた知人たちと近くの中華料理店で夕食。

 そこで今日の「パルジファル」だ。ピエール・ブーレーズ指揮、クリストフ・シュリンゲンジーフ演出の、かなり物議を醸しているプロダクション。

 まず何といっても、ブーレーズの指揮は白眉だ。10列目中央の席で聴く限り、それはまるで室内楽のように精密で繊細で、透き通るような美しさを持った響きである。弦はどのくらいの編成か判らないけれども、まるで小編成であるかのように思えるほど、精妙な音色だ。しかも、「聖金曜日の音楽」の高潮個所で示されたように、ワーグナーに相応しい力感と劇的な昂揚にも事欠かない。

 この音楽の深みは、まさに名匠の大技ともいうべき指揮のゆえであり、彼がバイロイトでの長年にわたる活動の末についに到達した孤高の境地といっていいかもしれない。ブーレーズは、今年がバイロイト最後の出演という。そのまさに最終の公演を聴けたのは、何と幸せなことか!

 これに対して、シュリンゲンジーフの演出は、このブーレーズの指揮とは全く異質なもので、煩雑にして乱雑、時には悪趣味でさえある。あまりに一度にいろいろなことをやり過ぎ、いろいろな人物を一度に登場させすぎる。音楽そのものの力を信じていないタイプの演出家の一例といってもいいだろう。ダニエル・アンゲルマイールとトーマス・ゲオルゲの装置も、避難民小屋かホームレスの住居のようなもので舞台全部を埋め尽くし、観客の注意を音楽から逸らしてしまうといった類のものだ。

 しかし、そうした枝葉の部分を強引に切り払ってみると、━━そこには意外なほど明快なコンセプトが浮かび上がっていることに気づく。つまり、脱キリスト教、脱ヨーロッパの視点である。
 そして彼は、魔人クリングゾルの国をアフリカ(を想像させる所)に設定する。花園の場面など、呆れるほどパロディ的で滑稽で、これで人種差別にならないかと危惧されるほどの扱い方である。
 だが、花の乙女たち(様々な衣装と装身具で身体を飾っている)の狂態は、過去に行われて来たこの場面での演出を思い起こすと、一見突拍子もないように見えながらも、やはりそれらの延長線上にあるのではないかと考えられる。これは、このドラマから「聖なるもの」を引き剥がそうとする試みの一つだと言えよう。

 「グラールの場」では、キリスト教徒の騎士団の代わりに、神主から僧侶から、おそらく世界中のありとあらゆる宗教の人間が集まっている。キリスト教徒以外の者たちにも門戸を広げた(?)ところに、この演出のコンセプトの一つがあるだろう。キース・ウォーナーの「ラインの黄金」の幕切れ場面と共通した考え方だ。一神教の見直しは最近の流行か。キリスト教徒にとっては愉快なことではないかもしれない。
 「聖杯グラール」には、黒人の大女もしくは黒いグロテスクな女の巨像が設定されているのは、宗教関係者も結局は同じ穴のムジナであるとの皮肉か? 

 クンドリーはその本来の性格に相応しく、あらゆる場所であらゆる姿になるという女に描かれる。但し彼女とパルジファルには常に「分身」がいて、それぞれの「異なる別の性格」を象徴するだけでなく、しばしばその手助けをしたりする。
 魔人クリングゾルは黒人で、すこぶる敏捷、歌いながら急な梯子を後ろ向きのままスルスルと駆け上がる。恐るべき軽業の持主だ。彼は最後にロケットに飛び乗って逃走するというシャレがつく。

 聖槍は槍ではなく、巡礼の杖のような形状をしている。パルジファルも最後はこの槍で刺されるようだが、死ぬのではなく、━━いや、死んだからなのか?━━紗幕の彼方に僅かに見える明るい世界に向かって静かに歩み去る、という比較的ありふれた救済の場面で閉じられた。

 スクリーンに延々と映し出される腐敗したウサギの気持悪い映像は、平和の象徴がもろくも崩れ去るということの象徴のように思われる。
 かように舞台は、甚だしくくどいが、その基本コンセプトにはきわめて興味深いものがある。ここまでやらなくても彼の思想は充分に伝えられる手法もあっただろうが、これが彼の美学なのだろう。観ていて、甚だ疲弊させられたけれども、しかしなかなか面白かったというのが正直な感想だ。この種の舞台を観ながらも音楽を聞き逃さぬように修練を積むことが、現代の観客には求められているのかもしれない。

 グルネマンツのロベルト・ホルは、相変わらずの巧みな演技と歌唱だ。クンドリーのミシェル・デ・ヤングは何か突き放したような演技で、所謂「妖艶な女」とは程遠いが、これは演出の意図だったのかもしれない。
 クリングゾルのジョン・ヴェーゲナーは悪役然とした表現が見事で、強い存在感を残した。これは面白い歌手である。その点、アムフォルタスのアレクサンダー・マルコ・ブルマイスターはあまり冴えず、存在感も薄い。

 カーテンコールでは、ブーレーズが総立ちの拍手と熱狂的なブラヴォーとを捧げられた。そのあと、彼と一緒にシュリンゲンジーフが姿を現したが、こちらには特に客席後方から壮絶なブーイングが浴びせられる。彼は手を振ってそれに応えるという、してやったりの表情で押し通した。

 終演後、評論家の舩木篤也氏と読売新聞記者の宮下博氏との3人でバイエリッシャー・ホフのレストランに入ったが、なんとそこへシュリンゲンジーフが忽然と現れた。私は━━お世辞ではなく、実際に面白いと思っていたので━━正直にブラヴォーの合図をしたら、遠くから同じジェスチュアを返して来て、しかも「ハロー、ハロー」と叫ぶ(これは知己だという舩木さんに対して言っていたのかもしれない)という喜びよう。面白い個性を持った若者だ。
 こういう若者を大胆に起用するバイロイト祝祭の総帥ヴォルフガング・ワーグナーも、やはり優れた見識と、実験的な精神の持主ではないかと思う。

2005・8・10(水)プッチーニ「蝶々夫人」

      東京文化会館大ホール  6時30分

 産経新聞社主催、モーストリークラシック他後援のプロダクションの再演。

 前回はダニエラ・デッシーらが出演してなかなかの評判だったが、私はゲネプロしか観ていなかった。そこで今回は楽しみにしていたのだが、何せ今回のタイトルロールはドイナ・ディミートリゥという新人、硬質な声を絶叫させて耳障りなこと夥しい。ニコラ・ルイゾッティ指揮の東響が予想外に粗く硬く潤いを欠いて聞こえたのは、2階席だったからか? 

 きわめてシンプルな舞台美術(安田侃)と洗練された照明デザイン(石井幹子)の組合せがよくできていて、これをまとめるヴィヴィアン・ヒューイットと飯塚励生の演出は、演技という点では特に見るべきものではなかったものの、舞台全体の構成としては統一が取れていたと思われる。巨大な彫刻と照明の変化という組合せはゲオルギー・ツィーピンの影響か。それにしても今夜の上演は、音楽的には実につまらなかった。

2005・8・6(土)飯森範親指揮東京交響楽団

     サントリーホール  6時

 最近好調の東響と雖も、定期でない時には音の響きに少し隙間を生じる。練習量の問題かもしれぬ。

 前半は「魔弾の射手」から、序曲を含め7曲。アリア計4曲、「狩人の合唱」、「フィナーレ」。
 女声の「花嫁の合唱」も欲しかった、と終演後の楽屋でマエストロ飯森に言ったら、「(演奏)時間がオーバーなんで」と苦笑していた。入れてもせいぜい3分位だろうに。

 狩人の合唱の前に合唱団を入れたりしたので間が空き、短いフィナーレがあまり盛り上がらぬ感になってしまった。こういう時にはいいテンポで演出するのが肝心である。折角のオペラ・ハイライトで、この作品を知らぬ人にもいい機会になると思われたが残念だ。もっとも、このオペラでの飯森のテンポは慎重すぎる位に遅かったが。

 歌手陣では、高橋薫子がエンヒェンにふさわしい軽快さと明るさを発揮していたが、その他は問題多し。緑川まりは声が硬く、高橋淳は声の伸びはあるがマックスのガラじゃないし、大塚博章は悪役的表現に不足して声も弱い。しかし、序曲と「狩人の合唱」での4本のホルンは完璧だった。

 後半はオルフの「カルミナ・ブラーナ」。飯森は一転してテンポを煽り、オーケストラをよく鳴らして明るく盛り上げたが、今度は勢いがよすぎることもあって、この曲が本来持っているアイロニーや頽廃的感覚はどこかへ行ってしまった感がないでもなかった。
 ここでも高橋薫子が清純さを出して美しく、日本での「カルミナ」といえば必ず登場する高橋淳も例のごとく大芝居を併用してのコミックぶり。成田博之はほとんど声が聞こえない。

 横須賀芸術劇場合唱団少年少女合唱隊は良かったが、東響コーラスにはやや問題がある。いつものように暗譜で歌ったのは大いに買うが、音量が弱く、しばしばオーケストラに(主として打楽器群に)打ち消された。フォルティシモはともかく、弱音が全く響かないので音楽に厚みを失う結果となるのである。

2005・8・4(木)ネッロ・サンティ指揮PMFオーケストラ東京公演

      サントリーホール  7時

 前半にロッシーニの序曲(セミラーミデ、どろぼうかささぎ、ウィリアム・テル)、後半にレスピーギの「ローマ3部作」をおいた、すこぶる長大なプログラム。休憩20分を挿み、終演は9時半を超えた。客の入りはすこぶる良い。

 ネッロ・サンティはオーケストラ・ビルダーの名手との評が高いが、このPMFのような若手アカデミー生のオーケストラとの相性については、いささか危惧の念を抱かないではなかった。
 しかしすべては杞憂に終り、実に見事に彼は若者のオーケストラをリードしていた。アンサンブルの精度を求めるという面ではかなり鷹揚なところもあるが、そんなこととは別次元の良さが彼にはある。それは、作品の性格に即した多彩な音色づくりの巧さと、えも言われぬアナログ的な音楽の「味」の濃さである。

 正直な所、PMFオーケストラがロッシーニの序曲のような「軽い」作品でこれほどシンフォニックな演奏を聴かせ、ローマ3部作でこれほど柔らかくたっぷりした温かい音色を創り出すとは、予想をはるかに超えるものであった。

 サッシャ・ゲッツェル、準・メルクルという2人の指揮者に指導されるたびにそれぞれ異なった表現力を発揮してきた今年のPMFオケは、このサンティによって更に異なる音楽を見事に奏でた。
 昨年のゲルギエフの時と同様、若いアカデミー生の順応力のすばらしさを目のあたりにした思いである。真にいい音楽家に指導された若者集団がどれほど底知れぬパワーを発揮するものか、今年もそれが証明されたような気がする。

 ロッシーニでのサンティのテンポは極度に遅く、オーケストラが時にそれを超えて走りだしたくなるような部分もいくつか聞かれたが、2曲目、3曲目と進むに連れ、演奏は尻上がりに呼吸の合うものになった。呆気に取られるほど重厚でシンフォニックで、音色は豊麗で壮大である。PMFオケがこういう曲をやったのを初めて聴いたが、これはこれで悪くない。
 弦は18型、これならロッシーニが重厚豊麗になるわけだ。ただ、木管にいささか吹き飛ばしのようなものが感じられたのは、すでに各地で公演を積んで来たはずなのに、納得が行かない。

 「ローマの噴水」では、オルガンと金管が強大で、大編成にもかかわらず弦が消され気味になる傾向があったが、これは弦の弾き方がガリガリしていないためもあったろう。
 「ローマの松」でも、「ローマの祭」でも、オケは全力で咆哮したが、音が汚くなったり割れたりすることはついに一度もなかった。これは、メルクルもゲッツェルもこのオケでなし得なかったほどの大ワザである。
 「祭」での凶暴な最強音が轟く中でも、オケ全体としては驚異的にバランスを保っていた。この日の演奏の白眉であった。

 以前には、PMFオケの東京公演は、フェスティヴァルの最後の演奏会ゆえに開放的なお祭騒ぎに堕し、演奏もいい加減になる傾向がしばしば見られたものだが、このところ幸いにもそのような乱稚気状態は皆無になったのは歓迎すべきことである。

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