2020-07




2005・4・29(金)「軽井沢大賀ホール」オープニング記念式典

     軽井沢大賀ホール  2時

 JR軽井沢駅北口から東へ数百メートルの位置に落成した客席数800ほどの五角形の美しいホール。今日はその開館記念式典で、たくさんの黒いスーツ姿のおじさんたち、若干のジャーナリストや業界関係者たちが席を埋めたセレモニーは軽井沢町長から県議会議長、羽田孜ら何人かの国会議員、長野県知事なども壇上に並んで、何とも物々しい雰囲気の中に行なわれた。

 そのあとチョン・ミョンフンと東フィルがベートーヴェンの「田園」をスルーで通す練習を聴かせるという段取りだったが、弦14型の大編成で全管弦楽が轟くと、もはや音は飽和して、低音は唸り、しかも細部は混濁するという最悪の響きになってしまう。
 このホールの規模は、このような大オーケストラには向いていない。あくまで室内楽、せいぜい小編成のオーケストラまでのものだろう。ピリオド楽器のオケやチェンバロなどはいいかもしれない。

 「あさま」でトンボ帰り。片道1時間、便利になったものだ。

2005・4・28(木)アンナ・ネトレプコ・リサイタル

       サントリーホール  7時

 よく伸びる張りのある美しい声、ステージでの明るい雰囲気づくり。まさに当代きっての若手ソプラノだ。モーツァルトの「イドメネオ」では未だ馴染まなかった雰囲気が、R・シュトラウスからグノー、ドヴォルジャーク、ラフマニノフと進み行くうちに聴衆を巻き込んで行った。作品によって性格描写のニュアンスを変えていくテクニックもすでに充分である。
 うまくなった、本当にこの人は上手くなった。今後深みが加わって行けば、カラスに匹敵するオペラ歌手となるだろう。

2005・4・26(火)第6回現代オーケストラ名曲の夕べ

     東京オペラシティ コンサートホール  7時

 かなり長大で作りも大規模な矢代秋雄の交響曲に始まり、静謐な細川俊夫の「回帰」、演奏者の行進曲的足踏みも交じる権代敦彦の「怒りの日/嘆きの日」、寛いだクロスオーバー的な平野公崇の「七つの絵」(抜粋)と続くプログラム構成は悪くない。

 指揮は前2曲を高関健、後半2曲を山下一史が執ったが、肝腎のオーケストラが寄せ集めの「オールジャパン・シンフォニー・オーケストラ」なる怪しげなもので(コンマスが戸澤哲夫で、シティ・フィルが中心だったとはあとから聞いた)雑然たる粗い演奏で興を削ぐ。
 特に「回帰」などはオーケストラの精緻精妙な音色が勝負なのに、こんな演奏では、作品の真価を害わせてしまうだろう。
 主催者の日本オーケストラ連盟は折角の立派な企画を、オーケストラの選定を誤り、その価値を半減させてしまった。

2005・4・25(月)スクロヴァチェフスキ指揮読売日響

      サントリーホール  7時

 プロコフィエフの「ロメオとジュリエット」第2組曲とバルトークの「管弦楽のための協奏曲」。素朴で剛直な、味のある音楽。「ジュリエット」の部分など軽快な少女の雰囲気など全くない演奏だが、全体としてはやはりいい音楽だ。

2005・4・21(木)ニューヨーク(終)MET「ファウスト」

     メトロポリタン・オペラ  8時

 今シーズンの新プロダクションの、今日がプレミエ。アンドレイ・セルバンの演出、サント・ロカスタの舞台美術と衣装デザイン、ドゥアン・シュラーの照明。

 新しいプロダクションにしては意外なほど写実的な衣装と装置で、大群衆がひしめく場面などはさながらゼッフィレッリの手法そっくり。METの観客の好みに合わせたのか、それとも他に意図があってのことか。
 もっとも、あとで詳細に舞台写真を見ると、衣装のデザインはかなり凝っており、旧式とか手抜きとかいう次元のものとは完全に一線を画しているということは理解できたのだが。

 ラストシーンでは、後方の牢獄の扉が開かれてマルグリートが歩み去り(奥に天使が歩き回っているのが説明過剰で野暮だ)、地獄へ一度沈んだファウストの姿が再び浮き上がると、それは老人の姿になっており、傍らでメフィストフェレスが横柄な態度で砂時計を一回転させ、その上に片足を乗せてファウストを見下している。このあたりはまあ納得という幕切れであろう。
 私のうしろの席にいたおばちゃんは、この幕切れには大いに満足らしい声を洩らしていた。

 演出スタッフがカーテンコールに現れると、少なからぬブーイングが飛んだ。METにしては珍しい。
 ジェイムズ・レヴァインの指揮であれば、今回はノーカットで上演するのかと思っていたが、「ワルプルギスの場」やはりカットされており、他にも数個所のカットがあったように思う。レヴァインの指揮はここでもあまり生彩がないという印象だったが、ただこれは、1階席後方の屋根の下の位置で聴いたためかもしれないから、即断は慎みたい。

 迫力抜群は何といってもメフィストフェレスのルネ・パーペだ。ビンビン通る声の力は勿論、堂々たる体躯を生かしての存在感は素晴らしく、軍人から夜会服の紳士、はては尻尾を生やした悪魔の扮装まで、さながらファッション・ショウのごとき舞台。この野獣のような悪魔のスタイルで身軽に柱をよじ登ったりするのだから凄い。パワフル極まりないメフィストフェレスである。
 もっともあまり勢いがよすぎて、しかも若々しすぎて、たとえば旧演出でモリスが見せていたような邪悪な不気味さといったものは、やや割引された向きもある。

 これに次いで存在感を示したのはヴァランタンのディミトリ・ホロストフスキー。何せかっこいい。この役を英雄的に見せることの出来る歌手だ。

 この間に挟まれると、ファウストのロベルト・アラーニャは少々軽くなる。歌唱はいいのだが、意志の権化たるファウスト博士の片鱗はどこにも感じられず、単に女を追い掛ける遊び人でしかない。もっともこのグノーのオペラにおけるファウスト自体がその程度にしか描かれていないことを考えれば、彼は極めて巧みにこの役を演じたといえるのかもしれない。

 マルグリートはソイレ・イソコスキ。きれいな声だが、この演出では弱々しくおとなしい存在に感じられる。シーベルはクリスティーン・ジェプソン、一所懸命にやっている。

 総じてこれは、すべての意味で、グノーのオペラ「ファウスト」の身の丈にあった舞台といえよう。それ以上でも、それ以下でもない。あまりこういう見方はしたくないが、やはりMETという歌劇場のそれが特徴なのかもしれない。

 今回のMETは、この3作のみ。翌日帰国。

2005・4・20(水)ニューヨーク(2) MET「魔笛」

     メトロポリタン・オペラ  8時

 ヒラリー・レイさんからの電話を受け、METの楽屋口から入ってサラ・ビリングハースト副支配人の部屋へ。何か物々しい話かと思いきや、単なる挨拶が主だった。
 話題の中に一つ、ルネ・フレミングの日本での評価はどうなんでしょう、というのがあったが、METは妙にそれを気にしているらしい。METの中でこんな話を出されては、「いや日本でも人気は高いですよ」としか言いようがなく、先方もそれを聞いて「そうですか」と言ったのみだったが・・・・。

 この「魔笛」は、今シーズン話題の新プロダクション。
 ジュリー・テイモア(演出)とゲオルギー・ツィーピン(舞台美術)のコンビによる、なかなか素晴らしい舞台だ。ガラスの建物が回転し、照明により様々な形像に見せるのはツィーピンの得意業である。
 黒子のダンサーが活躍し、彼らが操る鳥や獣(大きな布で作られた熊の動きの可愛いこと!)、夜の女王の羽根のような衣装などの動きの見事さには、我知らずうっとりして覚えず溜息が漏れるほどであった。

 客席にも拍手や笑い声が絶えない。一つのナンバーが終るごとに拍手が起こったのは、歌よりもむしろこの舞台の楽しさ故のようだ。
 ザラストロの国の場面のデザインは基本的に中近東、ペルシャ辺りのそれに似て、タミーノの扮装は中国辺りの王子(顔も同様)。殊更教義的な要素も打ち出されておらず、ただ愉しく美しいメルヘンという演出で、こういうところがMETであると言えるのかもしれない。ただそれが並み外れて巧く出来ているので、それゆえ舞台としての説得力を生むことになる。

 マティアス・ゲルネのパパゲーノが、やはり光る。以前のザルツブルク音楽祭でのプロダクションでは道化師の扮装だったが、こちらはコミカルな鳥刺しの姿。
 ルネ・パーペは、今回はザラストロではなく、力に満ちた弁者。
 そのザラストロを歌ったクルト・モルはあまり体調が良くなかったらしく、ヨレヨレの出来だった。エリカ・ミクローザの夜の女王が鮮やかな高音を聴かせた。タミーノのグレゴリー・テュレイはまあまあの出来だろう。パミーナは黒人のニコル・ヒューストン。

 指揮はジェイムズ・レヴァインで、拍手は大きかったが、演奏はなんとも平凡だ。以前のレヴァインとは別人のように低調な指揮である。彼はもしや「不調」なのではないか?

2005・4・19(火)ニューヨーク(1)MET「ヴァルキューレ」

     メトロポリタン・オペラ  6時30分

 成田11:00発のANA-NH10で定刻10:30ケネディ空港着。最近は人差指の指紋を左右とも取らされるようになっている。但し係官の愛想は非常に良い。
 入国目的を訊ねられた時、私はわざと「オペラを観に来たんだ、METに」と答えることにしているのだが、そうすると「何を観るんだ」とか「おれも時々行くぞ」とか喋り出す係官が結構いるのである。このあたりがアメリカらしいところだろう。
 正午にウェリントン・ホテル到着。チェックインは3時からということになっていたのだが、「部屋はもう空いているからどうぞ」とフロントの大男が愛想よく言ってくれた。有難く1231室に飛び込む。但し部屋は旧式だ。

 開演前に楽屋入り口でMET広報のヒラリー・レイ女史に会い、土産(小さい5月人形)を渡す。ラジオ担当の広報エレン・ゴッドフレイ女史に明日会えるよう手配を頼んだら、サラ・ビリングハースト副支配人と一緒に会いたいのでお待ちしている、とあとで返事が来た。何事ならん?

 さて本番は、ワーグナーの「ヴァルキューレ」。
 ワレリー・ゲルギエフが指揮するというので聴きに来た次第だが、貰った席はプレス・チケットにもかかわらずDD3という最後列から3番目、屋根の下という席で、すべてが遠く聞こえてしまう。オーケストラも控えめな音に聞こえてしまったが、これが席の位置のせいだったのか、それとも本来そういう演奏だったのか、一概には言えぬ。おそらく両方の理由からだろう。

 しかし装置は、この位置から見てもやはり豪壮である。岩山の高さ、焔の作り具合、煙の密度など、東京で観た時とは桁違いだ。これほどの舞台で観ると、いかにオットー・シェンクの旧いタイプの演出といっても、何となくそれなりに納得させられてしまうというものだ。
 それに、近年のあざとい演出、チマチマした演出ばかりに接していると、こういうストレートで写実的な舞台も悪くないとさえ感じられる。あれこれ音楽をそっちのけにして演奏中に舞台の意味を考える手間がないということも一つ。
 そしてまた、旧くとも演出はそれなりに過不足なく行なわれているし、それ自体一つの完成されたものを感じさせるからでもある。昔作られたもので流行に沿っていないものはすべてだめだ、と極め付ける風潮には賛意を表しかねる。

 ジークリンデのカタリーナ・ダライマンが清楚で素晴らしい。
 ジークムントのプラシド・ドミンゴは、流石に年令は争えず、第1幕のクライマックスなどではフレーズも短めになる。ただしその舞台姿のヒューマンな味は得難い。

 ブリュンヒルデのオリガ・セルゲーエワは、声は比較的よく伸びるが、音楽的に単彩であり、これが音楽を単調にしてしまうのが問題であろう。演技は以前よりは少し進歩したものの、両手を拡げて足を踏張るいつもの癖が時々出てくるのが困る。
 更に問題はヴォータンのミハイル・キットで、著しくメリハリのない歌い方がこの演出に必要な「偉大な神」としての存在を害なってしまう。この2人、来年の「指環」の日本公演は大丈夫なんだろうか? 
 他に、フンディングにステファン・ミリング、フリッカにラリッサ・ジャジコーワ。
 ヴォータン役が弱いせいか、終演後の拍手は、このたぐいの作品にしては意外なほどに短かった。

 楽屋にゲルギエフを訪ねる。彼、「この演出は30年も前のものだよな」と意味ありげに笑いかける。数年前からの「マリインスキー・リング」と絡んだ、我々だけに通じる話だ。外に出た時には既に12時近かった。ニューヨークは暖かい。

2005・4・18(月)ケント・ナガノ指揮ベルリン・ドイツ交響楽団

      東京オペラシティ コンサートホール  7時

 前半にメンデルスゾーンの「ヴァイオリン協奏曲ホ短調」で、ソロは庄司紗矢香。彼女のソロも、最近は何か非常に表情が濃いものになった。歌うというか、甘美さに傾くというか。

 後半にはブルックナーの「交響曲第6番」。予想外にワイルドな演奏で、音色も荒っぽい。散漫な演奏というほどではないのだが、よい意味での形式性、構築性といったものにやや不足しており、そのために、もともとまとまりがいいとは言えないこの作品が、更に雑然としたものに聞こえてしまう。

2005・4・17(日)スクロヴァチェフスキ指揮読売日響特別演奏会

       サントリーホール  6時

 スタニスラフ・スクロヴァチェフスキが、ベートーヴェンの「交響曲1番」とブルックナーの「交響曲第7番」を指揮した。
 この高齢で、なおこれだけ明確で鋭いリズム感覚、オーケストラを統率制御する強烈な力を持つとは、やはり大変な指揮者である。ベートーヴェンは速いテンポでキビキビと畳み掛けたが、これまた高齢の指揮者には珍しいことだ。
 読響は物凄い音量と、豊かな響きを出した。この分なら、このオケは大丈夫だろう。

2005・4・17(日)伊藤恵ピアノ・リサイタル

     紀尾井ホール  2時

 シューマンとシューベルトによるリサイタル。爽やかな演奏。

2005・4・15(金)準・メルクル指揮NHK交響楽団

      NHKホール  7時

 ベートーヴェンの「ミサ・ソレムニス」1曲のみ。N響は━━このホールで聴く音にしては━━美しい音を出していた。ただどうも、オルガンが別の方向から聞こえてくるのは始末に悪い。

2005・4・14(木)武満徹「マイ・ウェイ・オブ・ライフ」

      東京文化会館大ホール  7時

 ついにオペラを書くことなく世を去った大作曲家・武満徹を惜しみ、彼の作品の中からいくつかの曲を選んで繋ぎ合わせ、舞台上演した壮大な企画。ケント・ナガノの指揮、ペーター・ムスバッハの演出、エーリヒ・ヴォンダーの装置、アレクサンダー・コッペルマンの照明という優れたスタッフによるもの。

 作品は武満のいろいろな傾向のものから選ばれて接続されており、ミュージック・コンクレートから「ノヴェンバー・ステップス」のような邦楽器を使った現代風作品、あるいは晩年の叙情的で耽美的な、ロマンティックな傾向の作品にいたるまでが含まれている。
 その傾向の大転換には今更ながら驚かされる(ワーグナーに例えれば「妖精」から「パルジファル」までを接続曲に仕立て上げたようなものだ)。しかもその他に、武満が好きだったという「聞かせてよ愛の言葉を」や「思い出のサンフランシスコ」なども挿入されている。「系図」と「マイ・ウェイ・オブ・ライフ」からの抜粋が長さの点からいっても中核的存在になるだろう。

 いずれにせよこれは、形式としてはオペラではなく、といって適切な名称もありそうもなく、結局単なる舞台作品としか呼ぶ他はなかろう。休みなしに2時間近く、いささか長さを感じさせる。
 こうした試みはゲームとしては面白かろうが、しかし、音楽的な試みとしては果たして何程の意味があろう? 

 要するにこれは武満の作品ハイライトといったものだ。ただ、それはそれで、演奏、舞台とも完成度が高いことは間違いなく、プロダクションとしてみれば、むしろ上質なものといっていいかもしれない。━━おそらく中心コンセプトは、「永遠と無常」ということになろうか。

 最後の「思い出のサンフランシスコ」の部分では、著しく下卑た笑い声が延々と続く。その笑い声のしつこさには、いささか白ける。誰かが「あれは、あの世から武満さんが笑っているのだ」と言っていたが、武満さんがあんな笑い方をするはずはない。
 だがかりに、もしそうだと解釈すれば、それは「オペラを書かなかった私の茶番劇でござる」という自嘲の笑いかもしれないし、あるいは「この世はすべて喜劇」というあのファルスタッフ的な暗示なのかもしれない。
 登場人物はきわめて多く、費用のかかる上演であったことも確かだ。

2005・4・9(土)新国立劇場 モーツァルト「フィガロの結婚」

     新国立劇場  5時

 一昨年秋にプレミエされたアンドレアス・ホモキの演出の再演。フランク・フィリップ・シュレスマンの角型の舞台装置とともに、振国立劇場の最近のプロダクションの中では最もバランスの取れたものの一つだ。

 演出という点では、それほど突飛なことはやっていない。第3幕で結婚式の場が無いこと、ラストシーンで伯爵がバルバリーナを強姦する(ように見せかける)ことなどが、以前と変わった演出といえばいえようか。
 第2幕の最後で白い壁と床の箱型の装置が崩れたのちに黒い舞台奥の色が見える、この白と黒の舞台に相当するように白と黒でコントラストをつけた衣装群(メヒトヒルト・ザイベル)、白い壁に効果的に当てる照明(フランク・エヴァン)もなかなか洗練された感覚を示している。こういう舞台であれば、あれこれ意味を考えて耳がお留守になるという弊害を生まずにすむというものだ。

 それにまた、平井秀明という若い指揮者がまじめに音楽を作っており、それは機知とか劇的緊迫感とかいったものには欠けるけれども、まずモーツァルトの音楽の美しさを率直に伝えることに専念していたことが、われわれに一種の快さを与えてくれるもとになったのではないか。
 そのあまりのまっとうすぎる指揮ぶりに退屈させられることが無かったわけではないけれど、モーツァルトの音楽の良さ、特にこの「フィガロの結婚」の音楽が実に良くできたものであることを改めて感じることはできたのである。

 歌手陣は伯爵にヴォルフガング・ブレンデル、フィガロにマウリツィオ・ムラーロ、ケルビーノにミシェル・ブリート(以上はいずれも堅調)、伯爵夫人にエミリー・マギー(意外に細かい音符をいい加減に歌っている)。スザンナの松原有奈も、前回の中嶋彰子のような芝居の巧さには不足するが、健闘していた。

2005・4・8(金)ダン・エッティンガー/東フィル定期

     サントリーホール  7時

 たっぷりしたいい音をオーケストラから引き出す指揮者だ。東京フィルハーモニー交響楽団も久しぶりに大らかに、かつ豪快に鳴り響いた。テンポはきわめて遅い方で、ワーグナーの「タンホイザー」序曲など、じれったくなるほど。モーツァルトの「ピアノ協奏曲第21番」では、第2楽章を恐ろしく陶酔的に演奏した。

 だが、ブラームスの「ハイドンの主題による変奏曲」ではオケも重厚になり、最後のR・シュトラウスの「ティルオイレンシュピーゲルの愉快ないたずら」では逞しく豪壮になった。ただいかんせん、テンポが全体に単調で、音楽に流動的なものがいささか欠ける。と

 はいえこのエッティンガーという人、オケを巧く鳴らし、音色をつくることに関しては才能がある指揮者だと思われる。東フィルは、もしや彼をシェフにでも迎える気か?

2005・4・7(木)アルミンク指揮新日本フィル定期

      サントリーホール  7時15分

 現代音楽とベルクとベートーヴェン、という凝ったプログラムだが、客の大部分は高齢者で、クリスティアン・アルミンクの折角の狙いも、果たしてどのくらい成功したかと案じられるような客席の反応。

 が、その現代音楽の方が、演奏の出来がいい。ハースの「ヴァイオリン協奏曲」はあまり面白くなかったが、ノイヴィルトの「傾斜/結節」は「イオニザシオン」の拡大版みたいな曲(「ライオンの咆哮」まで似てる)で、結構楽しめた。ベルクの「パッサカリア」はボーリーズ編曲版の日本初演だという。
 ベートーヴェンの「運命」は、何故か珍しく演奏が雑で低調で、オーケストラはどうやら前半の現代物に精力を使い果したか。

2005・4・2(土)ヘンヒェン指揮紀尾井シンフォニエッタ東京

      紀尾井ホール  6時

 ハルトムート・ヘンヒェンの指揮で、オーケストラ創立10周年記念、ドレスデン音楽祭出演の壮行演奏会と題したコンサート。
 総じてテンポの速い箇所はいいのだが、緩徐楽章では音楽に生気が感じられない。棒に合わせようとするあまり、自由さを失っているように聞こえるのである。第1部のアンコールで、ポール・メイエとともに指揮者なしで演奏したウェーバーの「クラリネット五重奏曲」終楽章が遥かに生き生きしていたというのは皮肉だ。彼の指揮によるドレスデン音楽祭での演奏がどんなものになるのやら。

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