2020-07




2005・12・23(金)広上淳一指揮NHK交響楽団

      NHKホール  3時

 ハイドンの「天地創造」が演奏された。
 弦12型編成は、この巨大なホールの空間には、やはり無理だろう。ただ、その少ない弦が、音量的には小さいながらもきわめて豊かに響き、柔らかいふくよかささえ感じさせたのは、さすがに広上だけのことはある。

 いずれにせよ、ハイドン時代の編成で演奏するのなら、ホールのキャパシティや音響もまたハイドン時代をしのばせるものであらねばならない。つまり、こんな大きなホールで演奏する場合には、ハイドン時代の楽器編成規模にこだわるのは全く意味がない、ということである。
 ただし合唱(東京音大)は200 人近い大所帯で、オーケストラとは甚だアンバランスである。これだけはホールに合わせて編成したのだろう。

 特にピリオド楽器的な音色が求められたわけでもなく、自然な流れと明るい音色で演奏された「天地創造」だったが、全体にメリハリが今一つ不足するように感じられたのは、これもやはりホールのせいかもしれない。
 もっとも、N響の演奏そのものがとりわけ興奮も陶酔もなく、淡々と、優等生のような雰囲気で流れていく(どの指揮者の時でも同じだが)ので、余計にそういう印象になったのかもしれぬ。だがこれは合唱も同様だった。

 バスの久保和範はドイツ語の発音にしても音楽上のリズムにしてもエスプレッシーヴォにしても全くメリハリがなく、平板そのものの歌唱で声楽陣の足を引っ張った。佐野成宏にももっとリズム感が欲しい。その点、釜洞祐子の歌唱は傑出しており、この人だけで全体を引き締めた感さえある。

 広上がこの作品どれほどの共感を抱いていたのか、この演奏からは判然とは汲み取れない。特に宗教色を強く出そうというわけでもないらしい。天地創造のドラマと夫婦の愛情を歌い上げようとしたのかというと、そうでもないらしい。しかし、美しい演奏であったことは疑いない。第1部ではレチタティーヴォからアリアや合唱に入る「間」が少し長かったようにも思えた。

2005・12・23(金)新日本フィルの年末の「第9」

      すみだトリフォニーホール  3時

 客席はまさに善男善女、暮れの「第9」を聴いて年を越す。良くも悪くもそういう雰囲気に満たされた客席。

 この日の指揮はヴォルフ=ディーター・ハウシルト。最初にマルティヌーの「リディチェ(リディツェ)への追悼」という8分ほどの大編成による悲劇的な作品が演奏され、そのあと切れ目なしにベートーヴェンの「第9交響曲」に入る。このため第1楽章はいよいよ悲劇的な音楽に聞こえる。

 但し今日のハウシルトとオーケストラは、いつかのブルックナーの「7番」の時とは大分異なり、かなりラフで粗っぽい。声楽陣は栗友会合唱団、ソリストは大倉由紀枝、菅有実子、永田峰雄、大津健。

2005・12・20(火)ジャン・フルネ指揮東京都交響楽団

       サントリーホール  7時

 「ついにこの日が来てしまいました!」と事務局の荒牧さんが感慨深げに言う。名匠ジャン・フルネのお別れ定期公演である。正確には明日の定期が正真正銘の告別になるので、その分、今日のサントリーホール定期の客は、予想されたほどの感傷は示さなかった。

 フルネは、やや硬い身振りで指揮をする。これを温かく受け止めるのはコンサートマスター矢部達哉と楽員たちである。「ローマの謝肉祭」序曲冒頭などはむしろオーケストラの方で自発的にアンサンブルを開始したといった雰囲気だったが、高齢の指揮者に対しては当然の行動であろう。

 伊藤恵の弾くモーツァルトの「ピアノ協奏曲第24番」を挾み、第2部はブラームスの「交響曲第2番」。前半は本当に精神のこもった、温かい充実した演奏だったが、第4楽章に至って少々息切れしたのだろうか、圧倒的な高揚で演奏をしめくくるというほどにはいかなかった。

2005・12・17(土)レニングラード国立歌劇場来日公演
グノー:「ファウスト」

      Bunkamuraオーチャードホール  6時30分

 芸術監督スタニスラフ・ガウダシンスキーの演出と舞台装飾考案。
 舞台奥に巨大な鏡を設置、舞台床のさまざまな図柄とともに登場人物の動きをも投影し、立体的で華麗な景観を創り出す。これは他の美術家も使用している手法だが、ここでは現実と超自然的な世界が交錯する幻想的な物語を描くものとしても効果的だ。
 比較的質素ながらきちんと作られた大道具と古典的な衣装を使用しての舞台は、オーソドックスで過不足のない演出といえよう。

 オペラの原作の構成を変更して全曲の最後に地獄の光景としての「ワルプルギスの夜」を置いたのは一理ある発想で、18世紀オペラのスタイルと一脈通じるところもある解釈だ。とはいえ、この音楽自体の性格と、今回の古典バレエ形式による振付は、やはりオペラ本体の印象を最後に著しく弱めてしまうように感じられる。

 首席指揮者アンドレイ・アニハーノフとこの歌劇場の管弦楽団は、ロシアものをやる時とはやや異り、少々粗さが目立ったか。歌手陣では、メフィストフェレス役のアレクサンドル・マトヴェーエフが風格・歌唱力ともに抜きん出ていた。
 ただしPAを使用したオルガンは不快なほどの音質・音量で、音楽全体のバランスを無惨にぶち壊した。

2005・12・16(金)金聖響指揮神奈川フィルハーモニー管弦楽団

       横浜みなとみらいホール  7時

 「かなフィル」を聴くのは久しぶりだ。なかなかいい。
 ハイドンの「交響曲第86番」とベートーヴェンの「交響曲第2番」は、楽器配置もティンパニもピリオド楽器スタイルのそれで、すこぶる引き締まった、かつアクセントの鋭敏な、しかも細かいフレーズでの精妙緻密な表情の徹底した演奏を聴かせてくれた。編成の大きくないオーケストラの特色を有効に生かしたといえよう。
 ただ、これは金の責任だが、あまりにイン・テンポの連続なので、全体としてはどこか単調さがついて回るのが惜しい。

 ホワイエで澤木泰成・営業課長と、佐藤健・事務局次長に出逢う。
 御両所から聞いた話は、県民大ホールよりも、やはりみなとみらいホールでの公演に人が集まること、シュナイトはブルックナーをやりたがっているがそれはもう少し先のこととして、さしあたりはベートーヴェンとブラームスなどドイツの古典・ロマン派をしっかりやってもらい、また得意の宗教作品で特色を発揮してもらいたいと思っていること、現田のイタリア・オペラ演奏会形式上演は完売に近い好評を得たがしばらく休むこと、県立音楽堂での公演にはベートーヴェン・プロなどホールにあった特色を持たせたいこと、何とかオケに個性を与えたいと思っていることなど。

 思うに、東京の聴衆をして横浜までカナフィルを聴きに行こうと思わせるには、かなりの特色を出さねばなるまい。もう少し派手な打ち出し方も必要だろう。
 どうもこのオケはすべてが地味である。楽員のステージマナーもそうだ。コンマスの石田がその筆頭だ。指揮者を讃えるジェスチュアも遠くから見ていると全くそれとわからず、逆に指揮者のいうことを聞かずにわざと立ち上がらないようにさえ見えてしまうからである。

2005・12・15(木)スクロヴァチェフスキ指揮読売日本交響楽団

      サントリーホール  7時

 間もなく新しい常任指揮者に就任することになるスタニスラフ・スクロヴァチェフスキを迎え、オーケストラの楽員たちは、まるでこれがもう就任披露演奏会であるかのように、彼に向かって盛大な拍手を浴びせかける。
 たしかにこれだけヒューマンな音楽を聴かせてくれる指揮者は最近では希有の存在に違いないが、如何に英傑といえども高齢、オケにとって果たしていいことなのかどうか。

 前半は彼の自作自演。常任指揮者になったら毎回自作をプログラムに入れるなんてことになったらたまらないね、とロビーで笑いが沸く。後半はブルックナーの「交響曲第6番」。温かい演奏だが、オケのアンサンブルとしては残念ながらタガが弛んでいる。そこが問題なのだ。

2005・12・11(土)ベルリン日記(終)
ムソルグスキー「ボリス・ゴドゥノフ」

        ベルリン州立歌劇場  7時

 ダニエル・バレンボイムの指揮、ディミートリー・チェルニャコフ演出の注目プロダクション━━ではあったが。

 短い1869年版が使われている。休憩なしの2時間15分は、3階(2 Rang)3列19の狭い椅子では苦しい。ヘトヘトになる。

 ロシアの若手演出家、マリインスキーでの「皇帝に捧げし命」で私がファンになったディミートリー・チェルニャコフの演出と装置は、2010年代のどこかの町に場面を設定。ボリスも皇帝ではなく市長か、それもシュイスキーに操られる傀儡的な市長といったところだ。
 テロ、治安悪化といった最近の世相を取り入れ、子供の集団がガラスを割る、物を壊すという騒々しい舞台に仕上げる。白痴が「長い夜」を予言すると、本当に「全市停電」となる。
 シュイスキーは廃人同様となったボリスを手荒く「看護」、ボリスを発狂させたピーメンを殺すが、策謀に失敗したためか、そのまま逃走する。

 チェルニャコフの発想そのものは面白く、結構な才能の持主と思われるが、やや才に溺れ、アイディアも未整理という感もある。
 それにしても、ピーメンが歌っている間にグリゴリーは何と騒々しく酒ビンをひっくりかえしたり掃除をしたり荷造りをしたりしていることか。また会議の場面で役人の一人が何とうるさい音を立てて紙を一枚一枚破って捨てていることか。最後のピーメンの話の間中、シュイスキーは何と騒々しく着替えをしていることか。街で子供は何とうるさく駄々をこねていることか。
 こういう余計な演出があまりに長く、視覚的にもうるさく、音響的にも騒々しいので、いい加減にしろと怒鳴りたくなる。

 カーテンコールで、チェルニャコフが出てきた時には、やはり猛烈なブーイングが飛んだ。顔を強ばらせて後ずさりしかける彼を、バレンボイムが「いいんだ、いいんだ」というポーズで励ましている。
 さらにもう一度幕が上がった時には、バレンボイムはわざわざ彼を連れて舞台先端まで出てきて、「この才能ある男を起用したのは俺の責任だ」と言わんばかりの態度で自らもそのブーイングを満身に浴びた。総監督として、実に立派な態度というべきであろう。
 この瞬間、バレンボイムは、極めて魅力的な男に見えた。客席のブーイングはいつの間にか消え、バレンボイムの毅然たる態度を称賛するようなブラヴォーの声が劇場内にあふれて行った。

 その彼の指揮は、この席で聴くかぎりは、「パルジファル」の時と同様、かなりシャープなものに感じられる。パルケットでは多分もっと柔らかく聞こえるのだろうと思う。1869年版特有の散漫な音楽の特徴を必要以上に露呈することになったのは止むを得まいが、オーケストラはすこぶる強力だった。
 タイトルロールはルネ・パーペ。押し出しといい声の力といい、申し分ない。なおこれは、ロシア語上演であった。

 この歌劇場も、幸いにホテルから程近い。ヒルトン・ホテルのレストラン「ブランデンブルク」に入ってジャガイモのスープとチキン・サラダを注文したら、サラダよりチキンの方が山盛りになるほど多くて少々辟易した。今回は時差の調整ついにならず。翌日ミュンヘン経由で帰国。

2005・12・11(日)ベルリン日記(3)
ウラジーミル・フェドセーエフ指揮ベルリン交響楽団

       ベルリン・コンツェルトハウス  4時

 ベルリン交響楽団の演奏を首席指揮者ウラジーミル・フェドセーエフの指揮で聴ける機会など、日本にいるとなかなか巡り合えないことだ。
 この日のプログラムは、シュニトケの「夏の夜の夢でなく」、R・シュトラウスの「4つの最後の歌」、それにベートーヴェンの「第7交響曲」。演奏がさっぱり面白くない。

 このオケには、来年秋からツァグロゼクが来るそうである(シュトゥットガルト州立劇場の音楽総監督の後任は、何とまあ、ライナー・ホーネックだそうだ。あの劇場としたことが、信じられない人選である)。

 それにしても今日は、なんと高齢者が客席に多いのだろう。前日のベルリン・フィルの方には若い聴衆もたくさんいたが。
 ホテルは目の前、一度戻って休息。

2005・12・10(土)ベルリン日記(2)ベルリン・フィル

       ベルリン・フィルハーモニー  8時

 マリス・ヤンソンスが指揮するベルリン・フィルだから最も楽しみにしていたのだが、何と指揮者変更とあって、落胆の極み。全く今回は、思わぬ事件が多い。代わりに指揮したのは、シモーネ・ヤングだ。

 ブルックナーの「交響曲第3番」で、「ノーヴァク版第1稿」をこの大オーケストラが演奏するのを聴けたのは大収穫といえようが、ただし演奏は、何とも雑なものだった。オケが本気でやっていないような印象なのである。プログラムは他にヒンデミットの交響曲「画家マティス」。ますますつまらない。

 気晴らしに、フィルハーモニーからジェンダルメン広場までぶらぶらと歩いて帰る。

2005・12・9(金)ベルリン日記(1)
モーツァルト:「コジ・ファン・トゥッテ」

       ベルリン・コーミッシェ・オーパー  7時

 11:05フライトのLH0293でベルリンに移動、1時間で着く。今回はまた旧「東側」のジェンダルメン広場に面したヒルトン・ホテルに泊。
 ここは以前、ベルリン・フェストターゲでバレンボイムが「ワーグナー10連発」を上演した際に3週間ほど長逗留したことがあり、それ以来、妙に気に入っているホテルなのである。

 今回は手始めに、ペーター・コンヴィチュニーが演出した「コジ・ファン・トゥッテ」を観る。コーミッシェ・オーパーは、ホテルから近いので便利だ。

 さて、つい2日前、シュトゥットガルトでの「エレクトラ」でコンヴィチュニーのセンスを見直したばかりではあったが、今夜の舞台を観て、また猛烈な反発に変わった。
 演技や役柄の性格表現にはよく配慮されているとは思うし、第2幕の大詰を人形芝居という余興に仕立てたアイディアなどウィットに富んでいるは事実だが、フィナーレのクライマックス、アレグロ・モルトに入った瞬間にアルフォンゾが指揮者を押し止め、演奏を中止させて主役たちがストーリーについて議論を始めるという、あの「マイスタージンガー」で使った手法を、コンヴィチュニーはまたここにも持ち込んだのである。

 そして再開されたあとの演奏は、それまでの軽快な流れを全く失ってしまい、著しく無味乾燥なものと化してしまった。演出家は、その責任を指揮者におしつけようというのか? 演奏家の心の高揚を阻止するような演出は犯罪行為に等しい。この種の演出家には、音楽に対する畏敬の念などないのではないか。音楽は単に素材の一つとして料理されるだけなのである。

 指揮をしたキリル・ペトレンコという若者、このハウスの音楽総監督だが、初めて聴いた。なかなかの才能の持主のようである。モーツァルトの音楽を極めて微細に創り上げる。第1幕フィナーレでの演奏の推進力も実にすばらしい。
 ただ、第1幕前半での見事な精妙さが第2幕では次第に薄められて行き、例のストップのあとの第2幕フィナーレでは情けないほど平凡な演奏になってしまったのは、彼のオーケストラの把握力にやはりまだ至らぬ点があるのかもしれない。
 だがこの指揮者、ちょっと面白そうだ。この次は、もっとまともな上演で聴いてみたいものである。

 歌手たちの名は殆ど知らないが、よく言えば手堅く、はっきり言えば平凡である。フィオルディリージを歌ったタチヤーナ・ガズディクというソプラノなどは、メジャーな歌劇場で歌ったとしたら、低音域の弱い歌手としてせいぜい並の拍手しか貰えまい。

 オペラの出来に腹を立て、席を早々に立つなど、日本にいる時ならあり得ないことだ。外国にいると、仕事として客観的に冷静に観ることができず、一介のファンとなってしまうらしい。 

 フリードリヒ通りはクリスマスの飾りつけが進められており、賑わっているが、ジェンダルメン広場にはテントが張られ、しかもフランス・ドームは修復工事中とあって、景観はカタナシだ。

2005・12・8(木)シュトゥットガルト日記(終)
ブゾーニ「ファウスト博士」(リハーサル)

       シュトゥットガルト州立劇場  7時

 よりにもよって、なんと劇場のストライキに遭遇。この日の本番は翌日に変更され、その代わりにリハーサルが行なわれた。石津さんが急遽ドラマトゥルグに交渉してくれ、そのリハーサルを見せてもらえる段取りになった。

 見学者を入れることには結構うるさいのだそうだが、今回は演出家のセルジュ・モラビトがOKしてくれた由。このシュトゥットガルト州立劇場は間もなく日本公演を控えているので、「日本の著名な有力クリティカー」(岸浩さんの有難いハッタリの紹介状)を無視するわけにもいかなかったと見える。
 だが、リハーサルは夜10時までの3時間に過ぎず、しかも小返しもやるものだから、教会の場はカット、後半は学生の酒場での騒ぎの場面で時間切れとなってしまった。残念の極みだが、ただ、大体のものはつかめたと思う。

 ヨッシ・ヴィーラー&セルジュ・モラビトのこの演出では、ドラマはすべてファウストの研究室で展開する仕組みだ。
 教会のオルガンは壁の戸棚を開くと出てくる。装置(アンナ・ヴィーブロック)はすこぶる凝った作りだが、天井からは何本もの蛍光灯の照明が吊られ、舞台はきわめて明るい。したがってブゾーニの音楽が持つ不気味なオカルト性やミステリアスな雰囲気はすべて払拭されてしまっている。
 以前にこの劇場で観た「ノルマ」でもそうだったが、この2人の演出家は、音楽の神秘さに戦慄したり胸を躍らせたりしたことがないのではないかとさえ思われる。闇の中から響く声の無限の拡がりを感じたことがもしあれば、舞台にももっと陰影というものを存在させるはずだ。

 指揮も今日はツァグロゼクではなく、何とか言う第2指揮者だったが、彼の引き出す音楽もまた陰影の皆無なものだった。ブゾーニの音楽の特質は、かくして全く無視されているのである。

 ファウスト(ゲルト・グロコウスキ)は出ずっぱりの力演。老人ではなく中年の学者という設定らしい。ファウストに呼び出される精霊たちは学生の面接風景か、セールスマンの面接といったもの。クラカウの学生3人も柄の悪い若者たちだ。悪魔メフィストフェレスは、最初は低姿勢のセールスマンという風情でおずおずと入って来る、という具合に、すべてがリアリスティックな光景のもとに進んで行く━━。

 今回は、石津なをみさんに本当に世話になった。

2005・12・7(水)シュトゥットガルト日記(2)
R・シュトラウス「エレクトラ」

        シュトゥットガルト州立劇場  8時

 音楽総監督ローター・ツァグロゼクは、流石にこのような20世紀ものを指揮すると鮮やかな手腕を発揮する。R・シュトラウスの分厚いオーケストラがシャープに響き、これが舞台上のトラウマの塊ともいうべき人物たちの激しい演技と、ピタリ合う。

 ペーター・コンヴィチュニーの演出は、流石にノイエンフェルスのそれよりは大人の雰囲気を持つもので、ト書とは異なった部分も少なくないが、読み替えというほどのものではなく、基本的にはストレートな解釈である。何が何だか解らなくなるような猥雑な動きは付加されてはいない。コンヴィチュニーとしては意外なほどシンプルな類のものだが、観ている方としては、このくらいがちょうどいい。

 ト書とは異なっているものの、良い効果を挙げている点は次のようなものである。
 まずアガメムノンの死体が浴槽に入ったまま全編を通じて舞台に置かれたままになっていること、時にこの王が亡霊となって徘徊すること。
 またエギストとクリテムネストラ殺害の場では、オレストの付き人がピストルを発射し、エレクトラが斧でそれにとどめを刺すこと。それに続く銃撃戦では敵も味方も、エレクトラ姉妹も、さらに無関係な者たちまでが命を落すこと。

 特にこの死屍累々たるラストシーンでは、復讐は復讐を呼び、無辜の者たちまでが巻き添えになるという恐ろしさをコンヴィチュニーは強調したかったのであろう。ちなみにこの「巻き添えになって命を落とす」多くの若者たちの1人を演じていた石津なをみさん(彼女はソリストでもあり、合唱もやる)から聞いた話では、コンヴィチュニーは「なんでおれたちがこんなことに巻き込まれるんだ」という表情で演技してくれ、と注文したそうである。

 もちろんその場合は原罪も追求されなければならぬわけで、オペラの開幕前にアガメムノンが子供たちと入浴中に斧で殺害されるという場面が挿入されている。これは些か説明過剰とは思われるが、悪いアイディアとは言えない。しかし、子供たちが延々とけたたましい声を上げて遊ぶ様子には、うるさくてうんざりした。

 エレクトラはジーパン姿のスーザン・ブロック、見事な声と演技だ。クリテムネストラのレネー・モーロックもなかなかの迫力。クリソテミスのエヴァ・マリア・ウェストブロックは前者2人と異なり、座付のソプラノなのだそうで、出来は普通だったが拍手はむしろ盛大。クリテムネストラの侍女の一人の怯え切った表情の演技がなかなか巧い。

2005・12・6(火)シュトゥットガルト日記(1)
モーツァルト「ドン・ジョヴァンニ」

     シュトゥットガルト州立劇場 7時30分

 前日、13:15のLH13便で成田を発ち、ミュンヘンからLH1370便(何とプロペラ機だ)で20:20シュトゥットガルトに入る。ミュンヘンは雪が残っていたが、こちらはその気配はない。しかし厚い雲が立ち篭め、時に小雨もぱらつく、すこぶる陰欝な寒い天候だ。

 今日は7時半より「ドン・ジョヴァンニ」。
 ハンス・ノイエンフェルスの演出で、とにかく人物はよく動く。音楽が鳴っていようと何だろうと、何かをやっていないと気が済まないらしい。音楽だけ聴いているのではつまらないと言わんばかりで、音楽や作曲家を単に素材の一部として考えているのだろう。このような演出家のもとでは、指揮者もオーケストラも一介の伴奏者に下落する。指揮者ローター・ツァグロゼク(劇場音楽総監督)はそれでも満足だというのだろうか?

 面白いところはもちろんある。たとえば、ドンナ・アンナが復讐を求めるアリアの最中に騎士長の亡霊が姿を現わし彼女にまつわりつき、娘との精神的相姦関係を暗示し、ドン・ジョヴァンニすら現われて彼女に触れる。彼女がその二人の存在に強く支配されているのを感じたオッターヴィオは、己の無力さに打ち拉がれる。
 しかも彼は、続くアリアの最中、騎士長の召使たちに花輪の鎖でがんじがらめにされ、その家のしがらみから逃れることさえできないのである。それが伏線となり、最後のアリアでオッターヴィオはついに錯乱状態となり、ピストルを振り回して周囲の人間を脅した挙げ句、それを自分の頭に擬して周囲を唖然とさせ、一同にクロロホルムのようなものを嗅がされて失神する。

 そのアリアの直前にも彼は、レポレッロを殺すよう一同に勧められてもついに果たせず、馬鹿にされるという憂き目も味わっている。気の毒な男だ。
 歌手はノーマン・シャンクルというアメリカ出身のテノールだが、風貌が南米系のようにも見える男なので、このような一風変わった役柄表現がかえって生きて来る。このオッターヴィオの性格描写は、納得できるものだ。

 だが、その他の大部分は、すこぶる難解である。舞台は一貫して、闘牛場を模したサークルの中で展開する。村の男たちは牛の格好をして行動。ジョヴァンニは料理人たちに殺されるが、最後には黒い牛が登場、ジョヴァンニの人形が持ち出されると、一同はそれを見て失神する。

 この最後の演出は、謎解きにはある程度修練を積んだつもりの私でも、さっぱり解らない。特に最後に出て来る「黒い牛」は何を意味するのか、この劇場で歌っている石津なをみさん(この作品には出ていない」を通じて何人かの出演歌手に尋ねてもらったのだが、みんな「自分にもよく解らん」と返事した由。

 だが客席はもちろん大拍手で、ブーイングを飛ばすような「不逞の輩」は誰一人としていないという不思議な劇場なのである。これだけ全員の意見が統一され、反対者がだれもいないという状況は空恐ろしい。反対の人間は初めから来ていないことは確かだろうが、客席にいた人間の一人としてブーイングを出さない、もしくは出せないという現象も奇怪である。反対を表明すれば非国民だとでもいうのだろうか。
 バイロイトやウィーンの観客の保守性がよく問題にされるけれども、ブラヴォーとブーを自由に叫べるだけ、まだマシではあるまいか。

 その歌手陣にしたところで、こういう状況のもとでは、他のオペラハウスでなら云々されるような音楽的な完璧さなどは、さほど観客の関心の対象ではないのだろう。
 ドンナ・エルヴィーラを歌ったマルティーナ・セラフィンは、先日のモネ劇場来日公演で同じ役を歌った人だった。声はあるが、少々粗い部分もある。ドンナ・アンナのセレーナ・ファルノッチアも、これといった特徴のない人である。レポレッロのホセ・ファルディラは味のある好人物といったおじさんで、題名役ドン・ジョヴァンニのルドルフ・ローゼンは、表情の嫌らしいメイクで暴れている。
 そもそもツァグロゼクとオーケストラにしたところで、これが他のオペラハウスだったら雑な演奏と評される程度の出来だったから、推して知るべし。

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