2020-07

2006年3月 の記事一覧




2006・3・30(木)いずみシンフォニエッタ大阪

          いずみホール   7時

 いずみホール専属の室内オーケストラの演奏会を聴きに行く。現代音楽ばかりなのに、客席はほとんど満員。いっこく堂という腹話術の名手が前日だかにテレビに出演してこの演奏会のことを話したら、チケットがかなりの数売れたということだ。そうでなければ、7割入れば上々なのだという話も誰かがしていた。

 今日のプログラムは、プロコフィエフの「ヘブライの主題による序曲」とシュニトケの「七重奏曲」、後半に「兵士の物語」という、極めて意欲的で大胆なものだ。1曲目のみ指揮者なしの演奏。「兵士の物語」では、その「いっこく堂」が腹話術と人形を使って語り手を担当。シュニトケを除く2曲では小栗まち絵がリーダーを受け持っていたが、これがすこぶる見事な手腕を発揮していた。
 総じて演奏はすばらしく、充実したコンサートとなっていた。

 ただ一つ、「兵士」の後半ではナレーションが少なく、また人形も使われなかったため、兵士が王女と結婚するくだりや、兵士が悪魔によって地獄に引き込まれるいきさつなどが、初めて聴く人にはよく解らなかったのではないかと思われるのだが━━。

 終演後にリハーサル室なる所で打ち上げがある。毎日新聞の出水記者、読売新聞の持丸記者、朝日新聞の佐藤記者ら、関西の3大新聞の腕利き女性文化部記者たちと歓談。そのあとホテルニューオータニに場所を移し、いずみホールの森岡さんの仕切りで夜食会。

2006・3・27(月)チェチーリア・バルトリ&チョン・ミョンフン

      東京オペラシティ コンサートホール  7時

 チョン・ミョンフンは、指揮ではなく、ピアノを弾いての協演である。
 女王バルトリ、21日のリサイタルは本調子でなかったという話だが、この日はアンコールも数曲やったほどの快調ぶり。とにかく巧い。図抜けて巧い。単なる美声という領域にとどまらぬ、声の表現力の幅広さというものをつくづく思い知らされた。聴き手の方でも、いわゆるオペラ的な美声なるものに拘らない時代になったといえるのだろう。

2006・3・24(金)上岡敏之指揮読売日本交響楽団

      東京芸術劇場コンサートホール  7時

 モーツァルトの「交響曲《リンツ》」が、ハ長調でありながら重厚な陰影を帯びた音色で開始されたのには驚いたが、響きも柔らかく、それはかつてチェリビダッケがこのオケに客演した時に引き出した音と一脈通じるものがある。ともあれ読響とは思えないような膨らみのある響きで演奏されたモーツァルトだった。

 ブラームスの「1番」は、さらにその上を行く驚きの演奏である。最強音も決して怒号にならず、ある程度抑制された柔らかい響きが保たれており、最弱音はまさにささやくように、それでいてたっぷりとした厚みと拡がりのある音が生み出された。日本の指揮者とオーケストラのコンビがこれだけの音を創りだしたことは希有なことである。

 しかもテンポは大きく動き、時には今にも止まるかと思われるほど遅いテンポとなり、次の瞬間には気を取り直したようにテンポ・プリモとなって活気に富むものとなる。それを作為的といえばそれまでだが、しかしそれが音楽の構成とぴったり合致しており、主題群とそれらをつなぐ移行の部分、あるいは各場面とそれらをつなぐ暗転の部分といったような対比を作り出しているために、音楽がすこぶる生きたものとなって、千変万化の趣を生むのである。久しぶりに、生きたブラームスを聴いたといえよう。

 ただしこれは、ブラームスを聴き慣れた人間にとって面白いということであって、オペラでいえば「変わった演出」という範疇に入るのだろう。ドイツを中心にオペラで試みられている手法が器楽曲にも導入されているというように考えると、これはきわめて面白い傾向である。
 和声的な均衡も驚異的で、終曲クライマックスでのコラールなどは金管の咆哮でなく弦と管が完全に均衡を保った響きになっていたし、アンコールの「魔笛」序曲での和音も同様に見事なものだった。

 上岡はいい指揮者になっている。欧州でもっと注目されるといいのだが。もっとも、こういう指揮は、オーケストラにとっては疲れるたぐいのものだろう。カーテンコールで指揮者が讃えられた際、拍手をしない楽員も3分の1ほど居た。にもかかわらず、読響としては指揮者に完璧についていった。これは見上げたものだ。

2006・3・19(日)大友直人指揮東京交響楽団

     東京芸術劇場コンサートホール  2時

 ブラームスの「ピアノ協奏曲第2番」を、小山実稚恵が弾く。最近の彼女にはこのように叩きつける演奏が目立つ。

 後半はヴォーン・ウィリアムズの「南極交響曲」。期待が大きすぎたか、思いのほかに感動の少ない演奏という印象だが、その原因の第一は、音の響きがリアルすぎたことにあったようにも思われる。合唱とソプラノ・ソロは、この世ならざる神秘な世界から響いてくる音でなくてはならないのに、あくまで「舞台上の合唱」に止まった。またウィンド・マシーンの音は「風」にならず、どこまでも「奏者が回す音」に止まった。かような劇的な感覚の欠如の責任は、やはり指揮者が負うべきものであろう。

2006・3・18(土)ゲルト・アルブレヒト指揮読売日本交響楽団

     サントリーホール  6時

 この半年来、読響の演奏には以前に比べ少し隙間が生じてきたかという危惧なきにしもだったが、今日の演奏を聴くと、まだまだ読響健在なりの意を強くする。とりわけ弦楽器群が力強い。
 前半はベートーヴェンの「ピアノ協奏曲第2番」、菊池洋子がソロを弾く。この人のピアノの充実度は、若手女性奏者の中でも卓越したものだ。

 後半は「エグモント」全曲。江守徹がナレーターをつとめた。ナレーションの内容は、ゲーテの戯曲とグリルパルツァーの演奏会用台本からアルブレヒトがまとめたもの(プログラムの解説に拠る)という。
 やや物語の要点が解りにくかったのは、編者が自らこの内容を知りすぎており、それを前提にしてまとめすぎたということもあるかもしれない。

 最終場面のエグモントのモノローグには通常のごとく小太鼓2つが加えられたが、演奏者が舞台裏から舞台に出て来ると、さすがに語り手のPAをすら霞ませてしまう。またこのナレーションは日本語で行なわれたが、音楽の乗りとリズム感からいうと、むしろドイツ語で行なわれた方が劇的な盛り上がりを示したかもしれない。西洋音楽と日本語とはどうしても水と油の関係になってしまうのである。

 アルブレヒトの指揮は、強弱の差が極度に大きく、割って入る強音が悲劇性を感じさせて効果的だ。長調での明るさ、短調での暗さ。調性のもつ特徴を最大限に生かすことのできる感覚の見事さ。
 読響もいい。特にオーボエ。林正子のソプラノ・ソロもよかった。

2006・3・17(金)飯守泰次郎指揮東京シティ・フィル

      東京オペラシティ コンサートホール  7時

 東京文化会館で聴くのと、このホールで聴くのとでは、シティ・フィルの音にもかなりの違いが感じられる。オペラシティとて決して理想的なアコースティックではないが、少なくとも上野よりは響きに余裕がある。それに、今日くらいのシティ・フィルの編成なら、このホールの方が有利であろう。
 今日の編成は、ベートーヴェンの「ピアノ協奏曲第4番」では12型、シューベルトの交響曲「ザ・グレイト」では、14型2管編成だった。トラをあまり多く入れずに済むこの編成の方が、シティ・フィル本来の性格を判断することができる。

 協奏曲では、弦楽器群が柔らかく叙情的に鳴り、瑞々しい響きを生み出した。飯守特有の温かいぬくもりに満ちた音楽がこのように楽々と歌われていくのを聴くのは、シティ・フィルとの演奏では久しぶりのような気がする。
 ソリストは三輪郁。こちらは明晰で鋭い切り込みを感じさせる演奏。テンポを極度に落した第2楽章では、オーケストラもまた瞑想的な対話をソロと交わしているかのようであった。

 一方、交響曲では、飯守とオーケストラはタイトルに相応しく壮大な音響をめざしていたが、そこでは協奏曲の演奏にあった、あのしっとりした美しさはかなり犠牲にされていた。全体に粗っぽいのである。
 もともと飯守は、アンサンブルの緻密さをそれほど重視する指揮者ではなく、むしろ情感の豊かさを重視して感興を盛り上げるタイプの人であり、それが彼の魅力として多くのファンを引き付けるものとなっているが、その反面、当然のことだが、シティ・フィルの合奏力が相変わらず向上しない原因の一つとなっているだろう。今日も、ホルンなどはもう少し丁寧に演奏してもらいたいし、また管楽器の一部にはやや不安定さも拭えなかった。

2006・3・16(木)ルカーチ・エルヴィン指揮日本フィル

    サントリーホール  7時

 リストの「ピアノ協奏曲第2番」を弾いた河村尚子(ヒサコ)は、未だ20代というが、音楽のスケールが大きく、これは注目株だ。

 後半はバルトークの「青ひげ公の城」演奏会形式上演。オーケストラの演奏は実に立派で脹らみがあったが、16型でコンサート・スタイル、しかもクライマックスでバンダを入れるという編成では、基本の音量も大きくなるのは当然で、声(コヴァーチ・コロシュの青ひげ、渡辺美佐子のユーディト)が消されてしまうのも致し方ない。オケと歌手の位置を工夫すればもう少し何とかなったのでは。
 字幕が遠く、読むのにみんな苦労した。これで音楽に対する注意力がかなり削がれたのではないかと思う。

2006・3・15(水)新国立劇場 ヴェルディ「運命の力」

      新国立劇場  6時30分

 井上道義と東京交響楽団の演奏が良い。井上のオペラというのは何故かきわめて新鮮に聞こえるのだが、これは彼の指揮がいわゆる伴奏的でイージーな演奏にならず、正面から音楽に取り組んでシンフォニックに、しかも彼の趣向に添って極度にドラマティックな表現を採っていることも理由の一つだろう。
 今回も、特に後半2幕においてこのオペラの音楽の良さを浮き彫りにしてくれた。終場面でのティンパニの強打による劇的な表現が印象に残る。

 ローレンス・コルベッラの舞台美術(衣装を含む)は真赤な壁に天井と三方を囲まれた舞台を一貫して使用、これに「せり」を多少加味したもの。第3幕第1場を兵舎の中に設定したことがやや不自然だった以外は、悪くはない。ただしエミリオ・サージの演出はラストシーンで安っぽい光を当てて救済を象徴するあたりがどうもお手軽だ。

 ドン・アルヴァーロはロバート・ディーン・スミス、生真面目で融通の利かない青年に仕立てられた役柄。レオノーラはアンナ・シャフジンスカヤ、声は恐ろしく大きく、やや怒鳴り気味の印象。ドン・カルロのクリストファー・ロバートソンは巨大な体躯で声もあ
るが、異常に執拗な復讐の鬼としての役柄には少し不足かもしれない。
 プレツィオジッラの坂本朱は締まりがないが、グァルディアィーノ神父のユルキ・コルホーネンは安定、カラトラーヴァ侯爵の妻屋秀和が長身で声もたっぷりある押し出しの良さが目立った。

2006・3・12(日)大山平一郎指揮大阪シンフォニカー交響楽団

     すみだトリフォニーホール  3時

 第10回東京公演にして、「地方都市オーケストラ・フェスティバル2006」特別参加とある(今年はなぜか「特別参加」が多い?)。

 大山平一郎(ミュージックアドバイザー兼首席指揮者)の指揮。久しぶりに懐かしいブラームスを聴いた。「第4交響曲」の重厚な響き、哀愁と寂寥を一杯に湛えた深々とした味は近年滅多に聴けなかった世界だ。大阪シンフォニカー響は以前の東京公演でもヴァーレクの指揮でなかなか充実した演奏を聴かせていたが、今日のそれも、それ以上に絶賛に値しよう。

 同じくブラームスの「ヴァイオリン協奏曲」は竹澤恭子のソロで、これも風格といい、緊迫感といい、卓越したもの。その前が「大学祝典序曲」で、最初がこのオーケストラの委嘱作品で、デ=メイの「祝典ファンファーレ」という曲。オーボエとフルートの1番(いずれも女性)は立派なものだ。

 5時半近く終演。かなり長い演奏会になったが、これなら疲れない。3階バルコンL42という席をもらっていたが、ここは実に音が豊かに、しかも内声部も明確に聞こえて好ましい。この3日間のうちでは、今日が最も拍手が大きくブラヴォーも多かった。今や地方都市のオケといえども、在京オケ顔負けの演奏をするようになっている。

2006・3・11(土)高関健指揮群馬交響楽団

      すみだトリフォニーホール  6時

 オーケストラ創立60周年記念、「地方都市オーケストラ・フェスティバル2006」特別参加。
 音楽監督・高関健の指揮で、マーラーの「復活」を、マーラー協会とキャプランの共同研究による校訂楽譜により演奏。楽譜が届いたばかりで、事実上の「試演」だという。いかにも高関のやりそうな企画だ。

 演奏も実に熱の入ったもので、郡響も渾身入魂の力演だったが、ただ、その校訂スコアを正確に忠実に再現しようという姿勢が先行したような演奏という印象もないわけではなく、その意味ではやや肩の凝るコンサートだったように感じられた。

 1階席21列左側で聴いた第1楽章があまりに鋭い音で、低音もあまり聞こえない突っ張った音だったので、15分の休憩があったのを幸い、ホールのスタッフの案内により3階の正面5列に移ってみると、これはまた実に分厚い音に聞こえて快い(このホールは3階前方が音がいい、という定説を再確認した)。

 郡響は、昨日の名古屋フィルに比較すると技術的には少し遜色があるだろう。トランペットが弱く、また木管や弦にも、長く音を引き伸ばして切る段になると突然ふらつくという欠陥が聞かれることが時々ある。
 合唱団は郡響合唱団で、アルトの音の膨らみがきわめて良い。ソロは佐々木典子と永井和子。

2006・3・10(金)沼尻竜典指揮名古屋フィルハーモニー交響楽団

      すみだトリフォニーホール  7時

 「地方都市オーケストラ・フェスティバル2006」参加公演。この3月で常任指揮者の任期を終える沼尻龍典が、シェーンベルクの「管弦楽のための変奏曲」、ドビュッシーの「遊戯」、ブラームス=シェーンベルクの「ピアノ四重奏曲第1番」を振った。

 いかにも沼尻らしいプログラムで、高年齢層の多かった聴衆はいささか戸惑ったらしい。だが演奏は見事なもので、1階席21列中央で聴いた音も豊麗そのもの、弦のふくよかさが特にすばらしい。沼尻の成長もうれしく、オーケストラの充実も喜ばしい。昨年の「英雄の生涯」に続く快演だ。

 終演後、沼尻は「せっかく自分の音が出せるようになったところで辞めちゃうのは残念なんですけど」と言っていた。何かあったと見える。

2006・3・9(木)ウラディーミル・アシュケナージ指揮NHK交響楽団

     サントリーホール  7時

 ショスタコーヴィチの「交響曲第4番」。何もかも、予想どおりの演奏である。ショスタコーヴィチの音楽から「魔性」と「毒」を抜いてしまったら、ただの大音響に過ぎぬ。この作品をこのように悲劇性の皆無な、屈託ない演奏でやってしまうこのアシュケナージという人は、どこかおかしいのではないか。「私はレパートリーが広い」と豪語するが、中身のない演奏でありながらレパートリーなどと言えるはずがないことくらい、自分では分からないのであろうか。
 ただし前半のエルガーの「チェロ協奏曲」なら、彼の指揮でもそれほど曲想から解離していないだろう。

2006・3・6(月)MET チャイコフスキー:「マゼッパ」

     メトロポリタン・オペラ  8時

 「マゼッパ」は、METでは1998年にゲルギエフとマリインスキー劇場がトラディショナルなプロダクションを持って来て上演したことがあり、それがNY初演だったしい。コサックのダンスなどはアメリカ人を大いに喜ばせたであろう。
 従ってMETとしてのオリジナル・プロダクションは今夜の上演が史上最初ということになる。ただしこれはマリインスキーとの共同制作の由。装置はいずれマリインスキーに持って行くとかいう。

 今日プレミエを迎えた「マゼッパ」は、ユーリ・アレクサンドロフ演出を別とすれば、ワレリー・ゲルギエフ指揮、ゲオルギー・ツィーピン舞台美術、グレブ・フィリシチンスキー照明、タチヤーナ・ノギノワ衣装という、あの「指環」と全く同じスタッフによるものだ。
 ギリシヤの彫刻のような柱が立ち並ぶ第1幕をはじめ、いわゆるロシアやウクライナを想起させる民族色は感じられぬ。コパック(コサックの踊り)には民族的なカラーも瞥見されるけれど、例のジャンプもほとんど見られない。

 しかし、黄金色の衣装や照明の変化はすこぶる華やかで美しい。コチュベイやイスクラも含め、男たちはすべて長い口髭に、満州系の弁髪に似たヘア・スタイルを採る。これはコサックの史実的な風習を踏襲したものだろう。ただしマゼッパのみ弁髪でなく、服装もコサック兵とは別物にしたのは、彼の政治的姿勢を暗示するのか(彼は結局ロシアのピョートル大帝を裏切り、スウェーデンのカール12世と結ぶ人物だ)。

 第2幕の処刑の場面は大がかりである。奥の処刑台で切られたコチュベイの「首」は投げ捨てられ、傾斜した舞台を手前に転がり落ち、娘マリヤはそれを抱えて狂乱状態になる。傾斜した舞台は、今度は手前から持ち上げられ、その下には犠牲となった者達の死体が無数にぶら下がっている仕組み。何とも凄まじい血の光景である。
 ここでのマゼッパは、かつての友を殺すことになった自己を顧みて激しく苦悩するという設定になっている。もともと謎の多い人物だから、この辺りの描き方は演出家の匙加減一つだろう。

 第3幕序奏個所でも、紗幕越しの舞台は大きくそそり立ちはじめるが、これもMETならではの迫力だ。なおこの序奏は、「SLAVA」の旋律を使い、さらに「1812年」そっくりの音楽を絡ませたもので、スウェーデン軍に対するロシアの勝利を暗示している。序奏の後で猛烈な拍手が沸き上がったのは、ゲルギエフとオケの演奏の良さもあっただろうが、舞台のこの視覚的迫力も効果的だったのではなかろうか。

 終幕、マゼッパがピストルを突き付けると、アンドレイは意気地なくも狼狽して剣を投げ出し、逃げる。哀願するように再び近づいてくる彼を、マゼッパは射殺する。すると、一時止んでいた雪がまた急に振り出す。これはいいアイディアだ。
 精神の平衡を失っているマリヤの歌の間に、それまで廃墟のようだった舞台はいつのまにか黄金色に輝く、かつての我が家の光景に変わり、死んだ家族の姿も見えてくる。マリヤの幻想の中の光景なのだろう。アンドレイすらも生き返る。そして一同は輝く背景の方に姿を消して行く。やがて光はすべて消え、舞台はまた暗澹たる廃墟に戻り、暗い音楽とともに溶暗する。

 この最終場面で歌われる哀愁感に満ちた「子守歌」は感動的だが、それを除けば、音楽はそれほど面白いものではない。この壮麗な舞台に恵まれなかったら、あるいはこれほど強い印象を残さなかったかもしれない。
 ゲルギエフの指揮は叙情的な部分で充分な美しさを出してはいたが、最強音ではかなり荒々しい音を響かせた。もともとあまり民族色の強い音楽ではないが、METのオケのせいもあってか、さらにロシアのカラーとは遠いものになっていた。

 しかし、歌手陣は重量級だ。パータ・ブルチュラーゼのコチュベイは見事にどっしりした風格と存在感を示した。これに比べるとニコライ・プチーリンのマゼッパは少し霞んでしまうが、いわゆる悪役ではない描き方は好ましいだろう。リューボフのラリッサ・ジャジコーワは、あまり出番は多くないがさすがの締まりよう。オレグ・バラショフのアンドレイはやや細身。オリガ・グリャコーワは、見かけは可愛いのだが声はどちらかといえばメゾ系で、歌唱のスタイルも少し旧いのでなかろうか。

 今日の席は初めて真ん中(オーケストラ席T-108)で、椅子の配置がずれているため、今回唯一舞台がよく見えた。
 終演は深夜の12時近く。グラン・ティアーのロビーでプレミエ打ち上げが行なわれ、大内氏(ジャパンアーツ)やMET広報担当のヒラリー・レイ女史に誘われ、場違いとは思ったが出席してみた。既に馴染みのサラ・ビリングハースト副支配人やジャナンドレア・ノセダにも再会。他にもいろいろな人に紹介されたが、何しろ翌日6時起きだし、荷づくりもしなければならぬため、ゲルギエフに挨拶したのをシオに引き上げた。帰国準備を終ったのが午前1時半、寝つかれず。
 翌朝7時半ホテルを発ち、11時15分のANA09便で帰国。

2006・3・5(日)リッカルド・ムーティ指揮ウィーン・フィル

      カーネギーホール  2時

 モーツァルトとラヴェルにファリャという、昨年の日本公演とほぼ同じプログラム。前から3列目では音もよく分からないし、時差ボケのせいで朦朧たる状況、133ドルも払いながら最悪のマチネーとなった。日本人の多いこと。

 ━━ニューヨークに来たら、何故か突然日本食が恋しくなる。高い店に入るのは馬鹿々々しいので、利用は専ら廉い「めんちゃんこ亭」だ。ここのおにぎり、ラーメン、おでん等は、日本国内の店のそれらの味を少し濃厚にしたような感があり、親しみやすい。入っている客は日本人よりも欧米人の方が多い。

2006・3・4(土)MET ヴェルディ「運命の力」

     メトロポリタン・オペラ  8時

 初めてオーケストラ席(1階)になったが、CC-33は屋根の下、左端から2番目。音も遠く、舞台も雲煙万里の彼方だ。

 指揮者ジャナンドレア・ノセダは、METではたいへん評判もいいらしい。デボラ・ヴォイト(レオノーラ)は意外に声がフラットだったが、盛りを過ぎたのか? 
 サルヴァトーレ・リチートラ(ドン・アルヴァーロ)は少々頼りなく、むしろマーク・デラヴァン(ドン・カルロ)が凄味を利かせた声で迫力を出している。しかしいずれも少しいい加減な歌い方をしているのは、やはりルーティン公演のせいだろう。
 ファン・ポンス(メリトーネ)とサミュエル・レイミー(グァルティアーノ神父)はまさしくベテランの味。前者はコミカルな性格表現で、この物語の中に息抜きをもたらす存在となっていた。

 演出はジャンカルロ・デル・モナコ。彼でもMETでの仕事となると、このように類型的なスタイルになってしまうのか。マイケル・スコットの舞台美術も写実的な伝統的なもので、いかにもMET向けだ。ただ、これだけ徹底して豪壮で絢爛たる装置だと、それなりの説得性がある。
 終演は11時45分。今日は風がなく少し温かい。0度。

2006・3・4(土)METマチネー グノー「ロメオとジュリエット」

      メトロポリタン・オペラ  1時30分
 
 新プロダクション。ガイ・ヨーステン演出、ヨハネス・レイアッカー舞台美術は、中庸を得た現代風のもの。第4幕の愛の場面では、2人が乗ったベッドが空中高く吊り上げられ、背景や舞台中に星が輝き、しかもベッドから垂れ下っているシーツが風になびき、はためき続けるという美しい光景になる。当然客は大拍手である。また、決闘シーンでは中央の回り舞台が活用されている。

 ナタリー・デセイとラモン・ヴァルガスが好調。前者は全盛期の迫力には欠けるが、悪くはない。
 ティバルドにジョン・健・ヌッツォが出て、メルキューシオとの決闘シーンでは白刃を振りかざしての大立ち回り、怪我をしないかとハラハラさせられるほどの迫力で固唾を呑ませた。彼のウィーンやザルツブルク、そしてこのニューヨークでの大活躍は嬉しい。

 ベルトラン・ド・ビリーの指揮がすばらしい。オーケストラをふくよかに響かせ、クライマックスでは決して威圧的にならずに全体を盛り上げる。

 席はやはりGRAND TIERだが、今日は上手側バルコンの39-4。プレス・チケットにしてはひどい席だ。この上演はラジオで生中継されており、この席からは、ラジオ中継室と、ジャントウェイト女史がヘッドフォンをかけて喋っている光景がよく見える。但し今日は休憩時間でのクイズはないので、広報のエレン女史には会えずじまい。

2006・3・3(金)MET ヴェルディ「椿姫」

      メトロポリタン・オペラ  8時

 午前11時成田発のANA10便に搭乗。ANAは国際線就航20周年なる由。10時15分より10便のゲートでイヴェントありと聞いて覗いてみたが、なんか知らないタレントの挨拶や、全く盛り上がらぬ女のMCに鏡開きなど、どうということもないセレモニー。客にコップ一杯の日本酒が振舞われたが、酒の駄目な私には縁なし。ストラップの記念品をもらったのみ。
 同日午前9時ニューヨーク着。郊外には雪がかなり残る。気温-4℃とかで冷える。タクシーにてヒルトン・ホテル着、アーリイ・チェックイン。1泊369ドルと値は張るが部屋は快適。

 今回は開演前にチケットを4日分まとめて貰うことができたのは結構だったが、その席は前回同様、あまり良くない。特にこの日のGRAND TIER下手側39-6(バルコンの2列目)のごときは、110ドルもする席でありながら前の客の頭に隠れてステージは3分 の1程度しか見えぬ。立ち上がれば何とか4分の3くらいは見えるか。

 音もあまり来ない。もっとも今日は歌手が弱体だったから、指揮者マルコ・アルミリアートも音をやや抑えたのかもしれぬ。
 ヴィオレッタは、アンジェラ・ゲオルギューがドタキャンして、ダブル・キャストのマリー・ダンリーヴィが歌った。頑張ってはいたが声にさほどの個性がなく、プリマドンナの資質には少々乏しい。長いアリアに緊張感を持たせるのは苦しいようで、「ジョイア」の箇所など音楽の流れが途切れてしまうし、最後は絶叫しすぎて音を外してしまった(しかしMETの客はいつもながらきわめて温かく、大拍手を贈っていた)。
 おまけにアルフレードは(これもダブル・キャストだった)メキシコのホセ・ルイス・デュヴァルというのが歌い、図体はでかいが声にも演技にも全く力がなく、第2幕の怒りの場面などダイコンそのもので興を削いだ。

 かように音楽面では全く期待外れだったが、フランコ・ゼッフィレッリの舞台美術はなかなか豪華で、少しくすんだ色調と古風な広間のデザインが美しい作りになっている。いわゆる「きれいな」舞台だ。旧いタイプの舞台ながら、これだけ豪華に出来ていると文句も言えない。旧い建築様式の建物に入ると不思議な懐かしさと安堵感を得るのと同様、あざとい舞台ばかり氾濫している欧州系のオペラを観たあとには何となく寛いだ思いになるだろう。
 とはいっても、ここで彼が直接演出の指揮を執っているわけではないから、脇役たちの一部の演技は━━あの映画の片鱗が多少は見られるとはいえ━━概して大雑把なものである。従ってスリルはない。席のせいで3分の1しか見えなくても、それほど悔しくはならぬ類の舞台だ。

 第3幕の背景からの合唱の箇所で、ヴィオレッタの病室は、下からせり上がってきた別の舞台に変わる。それは第1幕の夜会の部屋と同一だが、今は荒れ果て、家具には覆いが掛けられている。このあたり、あの映画で採られたような、回想と現実、夢と現実が交錯する演出の伏線かとも思ったが、そうではなくただの景気づけのようだ。日本公演の会場ではこの手法は採れないだろうが、なければならぬというほどのものではない。

 終演は11時過ぎ。外は空っ風で身を切る寒さ。-7℃との表示あり。途中でサラダと水を買ってホテルに帰る。

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