2020-07

2006年4月 の記事一覧




2006・4・28(金)ユベール・スダーン指揮東京交響楽団

     サントリーホール  7時

 第2部ではラヴェルの作品がプログラムに組まれていたが、特に「ダフニスとクロエ」第2組曲の演奏は当夜の圧巻で、スダーンのフランスものも悪くないなと思わせた。じっくりと作品を構築していく手法は彼の古典派作品へのアプローチと同様だが、オーケストラから色彩的な音色を引き出す力量もすぐれたものだ。
 最後に演奏された「ボレロ」はまだ馴染んでいない出来で、小太鼓のソロと他の楽器の解け合いもしっくりせず、全体のアンサンブルにも少々チグハグなものが聞かれたが、しかしスダーンの作品構築という点でははっきりした意図が感じられたろう。

 第1部では、フレデリック・シャンピオンをソリストに迎え、藤家渓子の「フラ・アンジェリコの墓にて」と、プーランクの協奏曲とが演奏された。

2006・4・27(木)ルドルフ・バルシャイ指揮読売日本交響楽団

     サントリーホール  7時

 バルシャイ版によるマーラーの「交響曲第10番」が演奏された。以前、彼が都響と指揮した時の演奏よりも、オーケストラの威力という点で、こちらの読響の方が勝るだろう。
 実際には、オーケストラのアンサンブルは精密さに欠け、ヴィオラなど弦も粗く、金管の一部にもあまり一流プロ・オーケストラらしくない不安定なところがあったのは事実だが、そういう欠陥をも超越して、演奏にはバルシャイのえも言われぬ滋味が満ち溢れていたのだった。

 それは素朴で温かい、骨太の音楽である。モダンでクールな演奏で聴くこの交響曲ももちろん悪くはないが、このような豊満な音色となった「10番」も面白い。
 ウィーン新古典派への先鞭をつけたマーラーではなく、むしろショスタコーヴィチにその遺産を譲ろうとするマーラーの姿がここでは垣間見えるといっても間違いではあるまい。事実、第2楽章に入った途端に、音楽はまるでショスタコーヴィチのそれのようになっていく。このあたり、バルシャイの志向を示しているようで興味深い。

 第1楽章ではトランペットの鋭く長い叫びが他の金管も巻き込んでのコラール的な響きと化すのがバルシャイ独特の解釈だ。第2楽章からはいよいよバルシャイの解釈が前面に躍り出て、響きは分厚く、しかもタムタムをはじめ打楽器も多く加わってオーケストラは非常に色彩的になる。第5楽章での大太鼓は下手の楽屋から打ち出され、遠雷か、遠い彼方に余韻を残す運命の打撃の回想のような印象を与える。全曲最後の弦楽器の溶暗は見事であり、ここでは読響の力量が示されていた。

2006・4・26(水)エフゲニー・キーシン・ピアノ・リサイタル

     サントリーホール  7時

 ベートーヴェンのソナタの「3番」と「告別」、後半はショパンの4つのスケルツォ。
 緊密に構築された演奏のベートーヴェンは卓越している。若手の中でも今日これだけ衒いも小細工もなく正面から作品に取り組んで見事に楽譜を再現するピアニストはそう多くはないだろう。ショパンではこれに激情が加わり、作品は強烈な意志を以て再現される。その緊張感は時に息苦しくなるほど強靭だが、これを一貫して保てるのもキーシンならではの力量だ。
 夏のザルツブルク音楽祭で、この若さで、しかも大劇場でリサイタルを連続して開催できるのも、彼が如何に同世代で傑出した存在であるかということを証明しているだろう。

2006・4・20(木)東京二期会 モーツァルト「皇帝ティトの慈悲」

      新国立劇場  6時30分

 ペーター・コンヴィチュニー演出。音楽はセリア、舞台はコミック、という背反したアイディアによるプロダクション。
 観る側は怒るか、笑うか。その間に、白ける、というケースがあるかもしれない。白けるとすれば、演出の設定に問題があるのではなく、日本人歌手の芝居がクサイことに原因があるからだと思われる。照明のギャグなど、観ている方がもじもじするほど下手な御芝居だったし、客席から医者だの看護婦だのが呼ばれるあたりの演技もお粗末だ。

 ただ、歌手によっては、そうでない人もいる。ヴィッテリア役の林正子はなかなかいい悪女ぶりだったし、セスト役の林美智子も闊達な演技を見せてくれた。

 ともあれ基本的には━━好みは別として━━このような演出を創ったコンヴィチュニーのアイディアは、やはり卓越したものである。とはいえ、演出の最終仕上げとしての舞台という点では、コンヴィチュニーものとしては水準を下回る出来に感じられてしまうのだが。

 ユベール・スダーンと東京交響楽団が引き締まった演奏を聴かせてくれた。ある意味では「とっ散らかった」舞台でありながら、上演全体としてはまとまった印象を与えたその功績は、この指揮者とオーケストラに帰せられるだろう。スダーン自身も指揮台上から時折芝居に参加していたが、一番芝居がサマになっていたのは、彼かもしれなかった。やはり「外人」のカオの強みなのか?

2006・4・17(月)ザルツブルク日記(終)「ペレアスとメリザンド」

     ザルツブルク祝祭大劇場 6時30分

 薬のおかげで体調もかなり改善。昼間は寝る。とにかく今回は、これまでの取材旅行の中でもかつてない最悪最低の状態だった。

 今日はイースター・フェスとの最終日で、ラトルが指揮するドビュッシーの「ペレアスとメリザンド」である。演奏はもちろんベルリン・フィル。演出はスタニスラス・ノルデイ、舞台美術はエマニュエル・クロルス、照明はフィリップ・ベルソメイ。

 舞台装置は、前半では大きな角型の箱が多数、時に移動する。この箱が左右に開くと枕やドレスなどのデザインが均等に散りばめられ、それが背景になる場面もある。洞窟の場面では大きな3面の屏風のようなものに一人ずつ人物が描かれており、それが照明により浮き出すのが美しくも不気味である。窓辺の場面ではメリザンドの真紅のドレスが無数に並ぶ中に彼女が立つ。
 ゴローとイニョルドが前景で大騒ぎしている間、その背景ではペレアスとメリザンドが向き合って端然と椅子に座している。ここでは2人はまるではめこみ彫刻か絵画のように見える。
 この装置はなかなかセンスがいい。どの場面もそうというわけではないが。後半では吊りが多用される。真紅の、モダンな彩りを施した吊りが上げられると、その後からゴローが入ってくるという按配。

 ペレアスのサイモン・キーンリイサイド、メリザンドのアンゲリカ・キルヒシュラーガーは文句のない出来だし、ジェラルド・フィンレイから代わったローラン・ナウリのゴローは悲劇的なキャラクターを打ち出して出色の出来。
 アルケルのロバート・ロイドにはいつもながら重厚な風格と滋味がある。妻を罵倒する息子を制止する瞬間の「ゴロー!」と絞り出すような悲痛な声の歌唱の見事さは、永遠に忘れられないだろう。

 サイモン・ラトルとベルリン・フィルは、かなり硬質だ。この作品で(!)最強音を出すことがかなり多い上に、それが悉く鋭い響きなのである。昨年の「ピーター・グライムズ」ではその壮大な響きが作品からシンフォニックな面における個性を引き出したが、何しろ今年はドビュッシーである。少々うるさかったと言わねばならぬ。
 ドビュッシーだからこうあらねばならぬといった狭い受容をするつもりはないが、フォルテやフォルティッシモがあんなに鋭角的な響きでは、やはり度が過ぎるだろう。ただそれでも彼らは、第5幕冒頭のように、羽毛のようにやわらかい最弱音を出すことだってできるのだ・・・・。しかもその音は、彼が就任した頃の「海」などに比較すると、格段に美しくなっているのである。

 終演は10時頃。やや疲れたが、先生たちの薬のおかげで、体調は大方回復した模様。翌朝、フランクフルト経由で帰国。

2006・4・16(日)ザルツブルク日記(4)ラトル&ブレンデル

     ザルツブルク祝祭大劇場  6時30分

 薬のお陰で寒気などは薄らいだが、今度は猛烈な鼻炎に襲われ始めた。マチネーのアシュケナージ指揮EUROPEAN UNION YOUTH ORCHESTRAの演奏会のチケットは知人に100ユーロで売却、夕方までホテルで自粛。

 夜のみ大劇場へ行く。前日と同じラトルとベルリン・フィルの演奏会。
 ブレンデルがモーツァルトの「ピアノ協奏曲変ロ長調K.595」を弾く。オケは下手から第1vn、va、vc、第2vn、右手後方にコントラバス。しかもピアノの上手側(第2ヴァイオリン手前)に木管群というめずらしい配置。ラトルは時に客席を向いて指揮するという形。

 2曲目はシベリウスの「トゥオネラの白鳥」で、イングリッシュ・ホルンは舞台後方最上段に仁王立ちという、ヘンな光景となった。
 後半はブラームスの「第2交響曲」。トランペットの最強奏音はかなり硬質である。ラトルの楽曲構築そのものはいいのだが、こう刺激的な強音では少々辟易させられる(2階で聴いていた知人たちは、「相当うるさかった」と言っていた)。

 JTBのツアーで当地に来ていたグループの中には、有難いことに、旧知の医師が数人加わっていた。私の風邪が鼻に来たことを知った先生たちは、終演後ただちに私をタクシーに押し込め、彼らのホテル「クラウンプラザ」に連れて行ってくれた。今夜は小児科医の山川和子先生から、鼻炎に効くという「アレギサール」と「ムコダイン」を拝領して服用。お医者さんたちというものは、たとえ観光旅行の際であろうと、常にあれこれ薬を用意しているものだと改めて感心、敬意。

2006・4・15(土)ザルツブルク日記(3)ラトル&ブレンデル

     ザルツブルク祝祭大劇場  6時30分

 サイモン・ラトル指揮ベルリン・フィルの演奏会。
 ベートーヴェンの「第4ピアノ協奏曲」を、アルフレッド・ブレンデルが多少フラつきながら弾き、ラトルはソフトに柔らかく応答する。コントラバス6本は舞台後方に拡翼、低音は量感たっぷり。オーケストラにはピリオド楽器的硬さは微塵もなく、以前のCDで聴く演奏とは全く異なった印象である。後半はマーラーで、「第4交響曲」。第3楽章は予想通り相当な遅いテンポの設計。

 昨日あたりから風邪の症状次第に強く、ベートーヴェンの終り頃から突然気分が悪くなり、休憩時間はなんとか乗り切ったものの、マーラーの第1楽章途中で貧血状態になり、冷汗がどっと吹き出し、ハンカチがぐっしょり濡れるほどになってしまった。途中退席を二度までも考えたが、日本人の名折れ(?)とばかり必死に堪え、ハンカチで鼻と口を抑えているうちにどうやら落ち着き、辛うじて最後まで我慢することができた。前代未聞の体験だ。
 それでも終演後には元気を回復し、知人たちと日本料理屋の「ナガノ」で騒いでいるうちに何とか復調。旧知の歯科医の阿部晴一先生から薬を貰い、ホテルに戻る。

2006・4・14(金)ザルツブルク日記(2)ラトル指揮「ヨハネ受難曲」

     ザルツブルク祝祭大劇場  6時30分

 恒例のザルツブルク・イースター・フェストは、今日から第2チクルスが始まる。
 サイモン・ラトルがベルリン・フィルを指揮するのは、バッハの「ヨハネ受難曲」だ。小さい編成で、コンマスは安永徹、もう一人のソロはトマス・ティム。

 トーマス・クヴァストホフが、イエスとピラト、およびバスのソロの3役を一人で歌った。イエスとピラトの応酬では多少トーンを変えたりしていたが、対比は充分ではない。全体に劇的な起伏に乏しい印象だったのはそのためもあろうか。
 マイケル・チャンスのアルト・ソロはファルセットの癖が強く魅力に欠ける。マーク・パドモアのエヴァンゲリストは格調高く、聴きものであった。肝心の、ラトルのバッハはどうだったかというと、さて━━。

2006・4・13(木)ザルツブルク日記(1)「コントラプンクテ」

     ザルツブルク・モーツァルテウム 7時

 9時20分のルフトハンザでベルリンを発ち、フランクフルト経由でザルツブルクに移動、2時半頃AUSTROTELに入る。
 「コントラプンクテ」は、ベルリン・フィルのメンバーによる現代音楽の演奏会。シュールホフ、クシェネク、ウェーベルン、ミヨー、プーランク、ハースなどの室内楽が演奏された。こういう見事な演奏で聴く20世紀作品は、すこぶる新鮮である。

2006・4・12(水)ベルリン日記(2)「トリスタンとイゾルデ」

      ベルリン州立歌劇場 5時

 平土間4-4と、これも随分前過ぎる席だが、オーケストラの音色を楽しむには絶好の場所。オーケストラは連夜の公演の疲れからか、管楽器にはミスが続出していたが、音楽そのものは完璧といってもいい水準に達している。ワーグナーの音楽の深さ、拡がり、奥行感、神秘性といったものを実に見事に備えた演奏で、この作品の偉大さを改めて印象づけるものであった。

 何よりも、バレンボイムの腕の確かさは明らかだ。特に第2幕での恍惚の響きはすばらしい。彼の指揮には以前のようなフルトヴェングラーばりの大きなテンポの動きは影を潜めてきたが、しかしオーケストラをドラマティックに鳴らし、音楽を恍惚状態にさせたりする感情表現の豊かさはまたもや増したと思われる。その点でも彼は、今日屈指のワーグナー指揮者といって間違いないであろう。

 演出(シュテファン・バッハマン)が、あまりに視覚的効果が乏しいものであるため、ほとんどセミ・ステージ形式上演といってもいいくらいだ。舞台のやや高い位置にワイドスクリーン型に拡がっている回廊のような場が3幕共通のものである。人物たちは影のように動く。トリスタンは「もう一人」いて、イゾルデの愛はその歌わない存在の方に向けられている。つまり彼女の愛は、トリスタンの虚像に向けられていると思われる。
 ラストシーンでは、トリスタンのみが舞台に残される。第1幕で薬を飲んだ2人が口から血を流して倒れていたことからみると、それ以降はすべて2人の死後の出来事なのかもしれない。ともあれ、舞台がこういう有様なので、音楽を聴いていればそれで充分だという心理状態になった。

 ペーター・ザイフェルトのトリスタンがいい。イゾルデのカタリーナ・ダライマンが初日のあとで降りたので、デボラ・ポラスキが代役として登場したが、彼女の歌唱は相変わらずのダイナミックなスタイルだ。ザイフェルトのトリスタンならば、イゾルデはやはりもっとリリカルな歌唱の歌手が好ましいだろう。
 ルネ・パーペのマルケ王には文句の付けようがない。ロマン・トレケルのクルヴェナルもよく、この役は本当に影のように、無表情のままで舞台を行き来するように描かれている。

 ミシェル・デ・ヤングのブランゲーネも悪くない。彼女が最初にトリスタンに会いに行く場面でちょっとヘア・スタイルを気にする演技は、それ以降の「影のような」演技の連続とは少々相反する流れである。なおメーロトにライナー・ゴールドベルクが出ていて、歌はもうヨレヨレだが、トリスタンを威嚇する演技などには実に味があった。

2006・4・11(火)ベルリン日記(1)ベルリン・フィル

    ベルリン・フィルハーモニー 8時

 フランクフルト経由で4時半にベルリンの空港に到着。タクシーで5時半にベルリンの「NH MITTE」に投宿、新しいホテルだそうで、悪くない。短時間仮眠してからフィルハーモニーに向かう。
 ダニエル・バレンボイムがシュターツカペレ・ベルリンを指揮する演奏会で、シェーンベルクの「浄められた夜」に続き、ニコライ・ズナイダーが弾くメンデルスゾーンの協奏曲があり、後半にはマーラーの「巨人」が演奏された。終演は10時40分。

 そもそも今朝東京を発ち、夕方ベルリンに着いたばかりのスケジュールでは、この巨大な演奏会を受け止める体力も精神力も失われてしまっている。昔だったらこんなスケジュールでも平気だったが、やはりトシは争えぬ。もう二度とこんなことはするべきでない。しかも席が平土間席2-8とあっては、演奏の特徴もさっぱり解らない。しかし、カーテンコールにおけるバレンボイムと楽員の雰囲気から察すると、この両者の関係は引き続き好調のようである。
 終演後にロビーで顔見知りの若い元気な同業者たちから食事に誘われたが、体調を慮って残念ながら辞退した。だがそのまま帰って寝ればよかったものを、別の知り合いサンから誘われてヒルトン・ホテルの「ブランデンブルク」でヴィーナー・シュニッツェルなんかをモリモリ食べてしまい、就寝が2時頃に延びたのが、時差には極端に弱くなっている最近の私には些か響いた。

2006・4・9(日)シャルル・デュトワ指揮NHK交響楽団

     NHKホール 3時

 ベルリオーズの「ファウストの劫罰」演奏会形式上演、休憩なし。

 ジャン・ピエール・フルラン(ファウスト)が前半ひどくメリハリのない歌唱で眠気を催させたが、フォルテの多い後半になってやっと生色を感じさせた。ルクサンドラ・ドノーゼ(マルグリート)は可憐で悪くない。ウィラード・ホワイト(メフィストフェレス)が喉の不調とかでパワーを出し切れず、しかし身振りでカバーしてステージを成立させ、逆に聴衆の拍手を浴びていた。最後のソプラノ・ソロには天羽明恵が出たが、がっかりするほど不安定。

 デュトワはやや遅目のテンポで叙情的な要素を引き出しており、NHKホールの音響ではそれは必ずしも生きたとはいえないが、この作品の本来の性格を充分に発揮させていたと思う。特に大詰の部分は、これまで日本で上演されたものの中では最もバランスのいい美しさだった。児童合唱団をコーダに入る直前からそっと合唱団の最前列に入場させていったことも、聴衆の気を散らすことにならず、よかった。

2006・4・8(土)東京のオペラの森コンサート

    すみだトリフォニーホール 7時30分

 リッカルド・ムーティが「東京のオペラの森管弦楽団」を指揮。
 「オテロ」の時のオーギャンとは雲泥の差、小澤征爾の時とも雲泥の差、弦をはじめオーケストラの音色が驚異的にしっとりと美しい。あんな荒いオーケストラが、指揮者次第でこうも見事な力を発揮するのか。「悪いオーケストラなどない、悪い指揮者がいるのみ」という昔からの戯言の正しさが、またもや証明されたことになる。「東京の森オペラ合唱団」も密度が濃く、オーケストラとのテュッティでもバランスの良さを感じさせた。
 ソリストはバルバラ・フリットリ、エカテリーナ・グバノワ、ジュゼッペ・サッバティーニ、イルデブラント・ダルカンジェロ。

2006・4・6(木)ダニエル・ハーディング指揮東京フィル

     東京オペラシティ コンサートホール 7時

 最近とみに注目を集めている指揮者ダニエル・ハーディングが初めて日本のオーケストラに客演した演奏会。

 マーラーの「復活」はその編成の規模の大きさゆえにこのホールには厳しすぎるのではないかと予想されたが、たしかに冒頭から何かを頭の中で補正して聴かなくてはならないような心理状態におかれてしまった(評者の席は2階正面)。

 だがそれを別にすれば、ハーディングの楽譜の読み込みと、微に入り細におよぶ綿密な音符の扱いには、疑いなく非凡なものがある。特に第2楽章における各声部の浮き立たせ方や、第3楽章での各楽器の音色の対比の鮮やかさなどには強い印象を受けた。細部の仕上げに力が注がれた反面、遅めのテンポと長めのパウゼが楽曲全体の緊迫感を削ぐ趣も皆無ではなかったが、ともあれ彼の解釈は、ホールやオーケストラの状態(この日の金管には不満が多かった!)を含め、いっそう理想的な状態のもとにもう一度聴いてみたいと思わせるほど強い個性を備えている。

 合唱は東京オペラシンガーズ。ソリストはカミラ・ティリング(S)カタリーナ・カーネウス(Ms)で、特に後者の深々とした歌唱は見事。

2006・4・3(月)ホール・オペラ プッチーニ「トゥーランドット」

    サントリーホール 6時30分

 かなり大がかりな上演だが、それはやはり作品の規模が生み出す印象といえよう。神経の行き届いた照明(石井幹子)と、制限の中でよく工夫を凝らしたデニー・クリエフの演出(装置、衣装も含む)の功績も大きい。
 舞台上手側に白い大きな正方形の櫓のようなものがあり、これは一種の四阿のようにもなる。下手側には大きな赤いボール状のようなものがあり、トゥーランドットの隠れ家のようにもなる。中央には不等辺三角形の白い台が在る。
 演出は当然「ホールオペラ」としての規模の範囲だが、リューの死の後で暗転、字幕に「プッチーニはここまで作曲しました」と出し、「この後は弟子の・・・・」云々に続きカラフとトゥーランドットおよびP席の合唱団員を通常の服装とさせ、照明も演奏会のそれに戻すという方法を採った。これは適切な方法である。

 トゥーランドットは横柄な姫ではなく、愛に飢える感情を残酷な方法で隠蔽するという自閉症的な性格に描かれていた。多分珍しくはない手法だろうと思うが、これもアイディアではある。アンドレア・グルーバーの歌唱スタイルは、METのラジオ放送で聴くと大時代がかったものに思えるが、ナマでは演技の巧さと、美形の容姿のために欠点も気にならない。
 カラフはヴィンチェンツォ・ラ・スコーラ、リューにスヴェトラ・ヴァシーレヴァ(ブルガリア生れ、可憐で素晴らしい)、ティムールにジャコモ・プレスティア(非常に強力)他。

 ニコラ・ルイゾッティはオーケストラ・合唱ともども鳴らし過ぎだ。聴くこちらも難聴寸前に追い込まれた。サントリーホールにはあの音響は大きすぎる。かつてベルティーニが「千人の交響曲」を振った時にも似たような状況だったが。
 今回の公演は、荒川静香がトリノ・オリンピックで使用した「誰も寝てはならぬ」が聴けるということで、チケットが一挙に700枚だか売れたそうだ。普段オペラを観にこないような人々も結構来るということだから(今日はその荒川静香と小泉純一郎首相が来て大変な注目の的だった)、このくらい大きな音響でやった方が俗受けするのかもしれない。それにしてもうるさかった━━。

2006・4・2(日)東京のオペラの森 ヴェルディ「オテロ」

      東京文化会館大ホール  3時

 4回公演の最終日。指揮が小澤征爾からフィリップ・オーギャンに変ったのと、初日にはオテロのクリフトン・フォービスが開演直前にドタキャンしたことなど、少なからずドタバタもあった公演である。

 しかし、プロダクション自体は、悪いどころか、むしろ日本でのオペラ上演としては優秀な部類に属するだろう。クリスティーネ・ミーリッツの演出は予想外にストレートで、妙な読み替えも捻りも見られなかったのは、日本の観客向けということを意識したのだろうか。これはウィーンでも上演されるらしいが、その場合には極めておとなしく、新味がないと評されるかもしれない。

 ユニークなところといえば、冒頭と最終箇所にヴェネツィア元老院の議員連中を無言で登場させ、オペラでは触れられていないシェクスピアの原作戯曲のイメージを多少導入していたこととか、あるいは終場面でヤーゴは逮捕されず、それどころか悔悟の身振りさえしつつ独りで退場して行くことくらいであろうか。
 キプロス島などの光景を一切取り入れず、網状の紗幕か仕切り板のようなものを活用した抽象的な舞台(クリスチャン・フローレン)および変化の激しい強力なパワーも備えた照明(ルドルフ・フィッシャー)などは、現代のプロダクションとしてはとりわけ珍しいものではない。

 クリフトン・フォービスのオテロは、超人的なオペラ・スターの役柄というイメージはないが、しかし十分な力感を備えたものだった。
 クラッシミラ・ストヤノヴァのデズデーモナは演技も歌唱も立派である。ラード・アタネッリのヤーゴも、声量も充分で迫力に富んでいた。
 その他の内外混成歌手陣は特に傑出したものではない。「東京のオペラの森合唱団」は演技も歌唱も力演である。もっとも舞台はおしなべて暗く、合唱団員の姿が明るい光の中に晒されることはほとんどなかったが、それでも動きはよく統一されていた。

 フィリップ・オーギャンがオーケストラを極めてダイナミックに鳴らすのには少々驚いた。「オテロの死」の最後の箇所でも、コントラバスのトレモロはかなりの強奏で行なわれている。その他、フォルティシモはしばしば怒号になる。日本のオケ・ピットがこれだけ荒々しく咆哮した例はあまりないだろう。だが悪いことではない。メンバー表には錚々たる顔ぶれが並んでいるが、昨年同様に粗っぽいし音は汚いのは問題だが。

 にもかかわらず歌手の声がよく聞こえるのは、オーギャンがオペラに関してのベテランであり、オーケストラの慣らし方が巧いのだろうか。主役歌手は前方に出てきて歌うことが多いため、これだけオーケストラが咆哮しても、歌をちゃんと客席に響かせることができる。ヤーゴの信条の箇所など、普通でもオケに消されることが多いのに、今日は充分に聞こえたのだ。もし小澤征爾だったらこんなにオケを鳴らさないだろうから、その時には前方に出てきている歌手の声とのバランスはどのようなものになったのだろうか。

 ともあれ、今回のプロダクションは、あれこれ言われているにもかかわらず、昨年同様に、決して悪い出来ではなかった。

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