2020-05




2006・8・31(木)広上淳一指揮読売日本交響楽団

      サントリーホール  7時

 藤川真弓の演奏を久しぶりに聴く。モーツァルトの「ヴァイオリン協奏曲第5番」は、奇しくも彼女がチャイコフスキー国際コンクールで2位(1位はクレーメル)になってから間もない頃、インバルが指揮したこの読響と協演したコンチェルトだった。
 広上の指揮も久しぶりに聴くものだ。彼は「そのうち徐々に復活しますからね」と笑ってはいたが・・・・。

2006・8・30(水)サントリー音楽財団サマーフェスティバル

      サントリーホール 小ホール  7時

 今回のサマーフェスティバルで、唯一聴けたのがこのテーマ作曲家「マーク=アンドレ・ダルバヴィ」の日だ。ダルバヴィ自身の指揮と、アンサンブル・ノマドの演奏で、室内楽を4曲。「乱れた拍子の前に」「タクトゥス」「三重奏」「移ろいの進行」。
 最後の曲では柴山洋がベテランの味。アンサンブル・ノマドの演奏がすこぶる良い。リズムをずらせる手法が諸所に登場し、これが目くるめく効果を生む。

2006・8・27(日)バイロイト祝祭(終)「神々の黄昏」

     バイロイト祝祭劇場  4時

 前日の午後には、体調もほぼ復調した。だが今日、劇場で逢った何人かの日本人の知り合いたちが、何故かみんな私の「ラーメン事件」を知っていて、「大丈夫ですか」と冷ややかな笑いを浮かべながら話しかけて来るのには閉口した。
 若山弦藏さんなどは、遠くから手を挙げて近づきながら「なに、あそこのラーメン食って腹こわしたんだって? ワハハハハハ」という具合である。
 M氏のように「僕も昨夜、試しにそのラーメンを食べに行ってみたけど、何ともなかったよ」という剛の者もいた。やはり、私が食べたのは「試作品」だったとみえる。

 余談はともかく、今日は「指環」の最終日。
 オーケストラには、ホルンなどに少々の取りこぼし(これは「ジークフリート」でのホルンにもあった)が聴かれたものの、弦を中心に、その威力はやはり物凄い。
 特に感心させられたのは第2幕後半だ。特に「ホイホー・ハーゲン」や「グンターの帰還」の箇所などが予想外に抑制気味だったので、後半のブリュンヒルデの怒りを中心とするアンサンブルと三重唱の場面での轟々たるオーケストラが効果を発揮する。ティーレマンがここにクライマックスを持ってくるという構築を考えていたのは明らかで(勿論それはこの作品における必然的なコンセプトであったはずだが)それがまた見事に達成されていた。

 本プロダクションでは「間奏曲」としての性格を持たされた「葬送行進曲」でも、ティーレマンは、「死の動機」を含む箇所の長い4分音符をクレッシェンドさせて迫力を強調する。
 しかし更に圧倒的な感銘を受けたのは、「自己犠牲」の冒頭部分。限りない闇の空間に拡がっていくかのようなオーケストラの響きは、かつて耳にしたことがないほど壮大なものであった。ブリュンヒルデの声はオーケストラに埋没せず、同化もしていない。大波のごとき管弦楽の上に、すっくと立つ彼女の毅然とした姿が、まさしく音で表現された稀な瞬間である。

 それまでの3作では全くといっていいほど使わなかったあのG・Pを、ティーレマンはついに「黄昏」で多用した。特にヴァルトラウテの場面。ここではテンポも音量も落すことが多かったが、藤村実穂子がこれを堂々と持ち堪えたのも素晴らしい。クライマックスをつくる箇所と、その伏線となるべき箇所、そしてその両者間を移行する箇所、これらの設計におけるティーレマンの巧みさは、その表情が大きいだけに、レヴァインやバレンボイムよりも遥かに際立っている。

 歌手では、当初グートルーネに予定されていたガブリエーレ・フォンターナがエディト・ハラーという人に替わり、第1幕ではちょっと自信無げな歌唱に終始したが、第3幕では孤独感を表現する歌唱に力を増した。
 グールドも第2幕終り近くでは少し疲れ気味だったようで、例の「はしゃぎすぎ」の箇所では少々いい加減な歌い方になってしまったが、全体としては申し分ない。魔薬を飲まされた後の人格の変化を表現するにはまだとても無理な演技力のように見えるが、これは演出のせいでもなさそうだ(思えば、この場面でのルネ・コロの演技は絶品だった!)。いずれにせよこれからの課題だろう。
 彼がグンターに化けて岩山に押し入る場面では、ロボットのように言葉を一つ一つ区切って叩きつけるように歌うという手法を採った。おそらくティーレマンとの相談の上でだろうが、興味深い解釈である。それに彼は元バリトンだけあって、特に低音域の声が太いので効果的だ。

 リンダ・ワトソンは最後まで力を失わず、ブリュンヒルデとしての使命を完璧に果たした。ハーゲンのハンス・ペーター=ケーニヒはこの役にふさわしく豪力無双の趣きだが、独りになって悪の本性を剥出しにするはずのモノローグでは、意外に表現の幅が狭く、前プロダクションでのジョン・トムリンソンの底知れぬ凄味には遠く及ばない。
 総じて歌手の世代が若返っているためだろうが、そのパワフルな声にもかかわらず、歌にも演技にも陰影が乏しかったのは事実である。

 だがその中で、ヴァルトラウテを歌った藤村実穂子だけは暗いアルトの声を巧みに使って悲劇性を充分に表出していた。劇場の空気をびりびりと震わせる声━━という表現は誇張でも何でもない。彼女は本当に凄い歌手である。カーテンコールで素晴らしい称賛を浴びていたのも当然であろう。

 演出のドルスト━━神々の世界よりは人間を描く方が多少は上手いようだが、それでも散漫なイメージを拭えない。
 ギビフング家の階段に腰掛けて終始本を読んでいる男、ライン河(といってもこれは「ラインの黄金」で神々の世界だった「屋上」に「下水の排水溝」をしつらえた舞台で、乙女たちは今や下水道暮らしというわけだ)のコンクリートの堤防の上で涼んでいるカプル、走り回る子供━━こういう手合いがウロチョロしているので、大詰のカタストロフ場面で火事に慌てて荷物を抱え、子供を連れて館から逃げ出す連中の存在が、何となく曖昧になってしまうのである。

 このラストシーンはシェロー版をもっと乱雑にしたような光景で、せっかくの音楽から注意を逸らされてしまうほど原が立つものだ。それにまた、のべつ幕を下ろすのも気に食わない。なお岩山での炎の環は、「ヴァルキューレ」ではさほど気にならなかったものの、「黄昏」になると単に小さな魔法の円陣に見えてしまい、安物の演劇のイメージになってしまった。

 この演出、「神話」と「現代」が交錯するというアイディア自体は大いに結構である。「神々は今でもあらゆる場所を彷徨っている」というドルストの言葉を鍵として考えれば、現代のわれわれがいるこの場所で、現代人の目には見えぬ神話のドラマが繰り広げられており、ごく少数の感受性の鋭い、純粋な心を持った子どもたちだけがそれを視ることができるということになるのだろう。
 また、現代の日常に起こる様々な出来事が、今なお存在している神々の気まぐれや争いにより引き起こされる━━というギリシャ神話的発想が応用されているとすれば、この演出もいっそう面白く思われる。

 ただ、それにしては今回の舞台は、ただ神話と現代が何となく共存しているという印象もあって、それが甚だ雑然たるイメージを生んでいるのは事実だろう。今年がプレミエだから、まだ未整理の部分も多いかもしれない。来年以降、この面白いコンセプトがどう巧く練り上げられて行くか、それに期待をかけるしかなかろう。

 これで、今年のバイロイト旅行を終る。なお、9月23日の日本ワーグナー協会の例会(東京芸術劇場大会議室)では、私が舩木篤也さんおよび鈴木伸行さんとともにこの公演について詳細に報告した。

2006・8・25(金)バイロイト音楽祭(3)「ジークフリート」

     バイロイト祝祭劇場  4時

 前日、市内の某人気料理店で食べた「新製作」のラーメンに食あたりし、今日は惨憺たる体調。12時頃までホテルで呻吟し、ふらふらになりながら、とにかく着替えて劇場に向かう。しかも今日は猛烈に寒い。第1幕途中で貧血症状に陥りながらも、何とか長い全曲を持ち堪える。
 それにしても、こういう体調不良の状態で聴くには、ワーグナーのオペラの、何とまあ長いこと! 愛を歌い始める前に何故あんなに理屈をこねまわすのか、と腹立たしくさえなる・・・・。

 が、そんな状態でさえ、ティーレマンとオーケストラが編み出す、あふれんばかりの多彩で豊麗な第3幕の音楽には魅惑されて止まるところが無い。登場人物の心理の変化に即応して虹のごとくその色彩を変えていく鮮やかさたるや、ティーレマンの驚くべき牽引力を示すものだ。
 モティーフが裸の状態で羅列されるがごとき趣のある第1幕および第2幕の大部分でも、「ラインの黄金」で採られた手法同様、流れのいいバランスの完璧なオーケストラの響かせ方により、音楽をバラバラでない、全体を一つの関連のある構築に仕上げてくれる。もっともその解け合った、あまりに物分かりの良すぎるバランス構築には時として物足りなくなる時がないとも言えないのだが。

 歌手陣は全員が好調で、強力だ。シュトルックマンは、ジークフリートとの応酬のほんの一ヶ所で声がかすれたが(壁の蔭に引っ込んで水でも飲んだらしい)それ以外はビンビンと声を響かせて存在を全うした。
 リンダ・ワトソンも今日はいくつかの高音を無理なく乗り切った。アンドルー・ショアとゲルハルト・シーゲルはここでも巧者であり、藤村実穂子も暗黒の闇に響くエルダを悲劇的に聴かせた。イェリク・コルホネン(ファーフナー)とロビン・ヨハンセン(小鳥)は際立った歌唱力ではないが、悪くはない。

 昨年タンホイザーをノーカットで歌って気を吐いていたステファン・グールドが、今年はジークフリートを歌う。自由奔放な野性児といった雰囲気は多少乏しく、さりとて高貴な英雄というわけではなく、役の彫り下げには未だ発展途上の人のようだが、もっともこれは演出次第でまた解決できるだろう。声は充分にある。ロバート・ディーンス・スミスといい、グールドといい、新しいヘルデン・テノールの出現は喜ばしい。

 第1幕から第3幕まで、序奏は常に幕が指定どおりに下ろされている。ただ、第3幕でエルダが消えたあとに幕が下り、そこでヴァルキューレの岩山へ転換し、ジークフリートとヴォータンの場があって、更に幕が下りてブリュンヒルデの場に変わるというのは、些か煩わしい。全く、幕を下ろすのが好きな演出家だ。

 第1幕のミーメの仕事場は、ちゃんと掃除をすればさぞや立派な居間になるであろう大きなスペースである。あとで気がついたのだが、これは廃校の教室らしい。ジークフリートは例のごとく、いつ剣を溶かし、いつ鋳るのか、明確ではないが、とにかくノートゥングは完成する。最後に何も破壊的行為に出ないのが、思いのほか暴れん坊でないイメージを生む一因か。
 第2幕は、巨大な切り株がやたら沢山並ぶ。寺か神社の境内を連想させるが、上部に未完成の高速道路らしきものが横切っているのが面白い。自然破壊の象徴か。ただ、その道路の上では明かりがチラチラして工事関係者の姿さえ見えたり、最初のうち隅の方で子供が遊んでいたりするのが、少々煩雑ながら面白い。

 演出家へのインタビュー(モーストリー・クラシック)では、神々は現代でもあらゆるところを彷徨っているのだということだが、どうもこの演出では、むしろ現代人が神話ランド体験ツァーを楽しんでいるといった趣にも見える。
 「時代を交錯」させるならもっとマジックを使うなりして巧くやる方法だってあるだろう。ドルストにはいっそ、戦前の日本で言われていたような、八百万の神々が鎮守の森、川、山、すべての場所に鎮まる━━といった思想を参考にしてもらったほうがいいのではないかとさえ思ってしまう。

 そういう問題の前にはどうでもいい話だが、ヴォータンがジークフリートと最後の対決をする時、さあ折ってくれといわんばかりに槍を横にして若者の鼻先へ突き出すという行為はいかがなものか。

 終演後、誘われていた真峯紀一郎さんとの会食を諦め、ホテルのバスで一目散。医者の西尾博士の勧めに従い、血糖値を下げるために角砂糖を水に入れて飲み、糖分を摂る方法を講じたが、このおかげで元気が出て、実に爽やかな気分になった。

2006・8・23(水)バイロイト祝祭(2)「ヴァルキューレ」

     バイロイト祝祭劇場  4時

 ティーレマンの音楽づくりは更に魅力的になる。弦の瑞々しく豊麗な音色を軸に、実に叙情的で、流れの美しい音楽が全編を満たす。それは勿論ワーグナーの音楽の中に初めから存在する要素なのだが、それを見事に再現してみせる腕の冴えが彼には人並み以上に備わっているというわけだ。昔のような生気の無いG・Pは影を潜めた。もっともその一方で、大きな見得を切ることもなくなったのは、少々拍子抜けさせられることも無くはない。

 第1幕では、ジークリンデ役のアドリエンヌ・ピエチョンカがひたむきな意志を持った女性を演技でも描き出し、歌唱でもリズムの明確な、歯切れのいい表現を聴かせた。彼女は全幕にわたり素晴らしい。フンディングのクヮンチュル・ユンも底力のある声で、暴力的な夫を演じる(マルケ王も含めて連日の出演だ)。

 ジークムントのエントリク・ヴォトリッヒは、開演前から「体調不良」の掲示が各ドアの入口に出ていて、声は最初から荒れ気味ではあったものの一応大過なく進んでいたが、「ヴェルゼ!」をほとんど延ばさずに先へ急ぎ、指揮者とオケが後から慌てて追い掛けるあたりから不安が増した。
 「冬の嵐が過ぎ去りて」の直前ではついに危機的状況になり、その後はもう綱渡り状態で、第1幕終結の聴かせどころでもリズム感はいい加減なものと化してオケに乗らず、オケも彼をカバーするあまりに、どたばたと突進する。ティーレマンの大見得を楽しみにしていた私たちとしては残念至極。第1幕後のカーテンコールではヴォトリッヒに大きなブーイングが彼に浴びせられたが、少々酷な感もある。

 だが第2幕の前に、主催者側スタッフが現われ(姿を見せた瞬間からすでに拍手を始めた奴がいた)、ロバート・ディーン・スミスが歌うことを告げた時には、場内はこれ見よがしの大拍手と歓声。
 たしかにこれは、拾い物であったろう。特に6月に大植英次の日本公演で彼のジークムントを演奏会形式で聴いたわれわれとしては、願ったり叶ったりであった。実に若々しい、まだ少年の面影を残す、ひたむきな性格のジークムント像が第2幕では描かれ、非常な清潔感も与えた。カーテンコールでも絶賛の嵐で、これで彼のバイロイトでの存在感は更に増したのではないだろうか。

 ファルク・シュトルックマンは、前夜に続きフル・ヴォイスの大力演。声もよく伸びて爽快だが、そのあまりのパワフルな声のおかげで、「ラインの黄金」から年月が経ったはずのヴォータンの性格上の変化があまり出ていないのは善し悪しである。「魔の炎」の場面では槍を持たず、両手を高く拡げての大音声。最後の「nie!」も指定の2倍、2小節間一杯に(実際には3小節の最初の4分音符まで)フル・ヴォイスのまま延ばす大見得。これだけ威勢のいいヴォータンも近年稀であろう。
 ブリュンヒルデのリンダ・ワトソンも、それほど個性的なイメージではないけれど、まず安全圏内の出来。但し第2幕冒頭の「ホーヨー・ト・ホー」の最後の高いH音は何度やっても下がり気味。

 ドルストの演出は、素人芝居的で苛々させられる。第2幕最後の悲劇的場面は、スミスとの打ち合せ不十分の所もあったろうが、基本的に皮相的なものに止まっているのが問題だ。ヴォータンは、愛する息子を自ら殺すに際して何ら迷いはなかったというのか?(この場面は、クプファー演出もフリム演出はよかった)。
 ノートゥングが刺さっているトネリコは、ここでは戸外から壁を壊して倒れこみ、二つに折れている電柱。神話の世界と、現代のメカニックな文明との交錯を狙う点から見れば、トネリコが碍子のついている電柱であっても一向に構わないのだが、この壁が修理されずにそのままになっているのが奇怪しい。ヴォータンがノートゥングを差し込んだのが昨日今日の話ではあるまいに。もしやヴォータンは、剣を戸外の電柱に差し込んで帰っちゃったとでも? しかしこの電柱は、倒れこんで来るには天井まで破壊しなければならぬほどの長さなのに、天井はちゃんとしている。

 客席を向いて両手を拡げて歌うイタリア・オペラみたいな類型的な身振りは、この日もフリッカに見られた。ワーグナー上演にこんな身振りが許されるというのか。登場人物相互の間に緊迫感が不足しているのは、そんなことも原因しているのだろう。
 第2幕で後方に自転車を止めて座っている男がいたり、フンディングの家に自転車を携えた子供たちがいて、その一人がジークリンデを不思議そうに見ていたり、ヴァルキューレの岩山に現代人が一人舞台をうろついていたり、━━神話と現代の混合を表す様々な手法が使われており、それは非常に面白いアイディアだが、実際の出来栄えという点では、何かちぐはぐな雰囲気が残る。

2006・8・22(火)バイロイト祝祭(1)「ラインの黄金」

      バイロイト祝祭劇場  6時

 前日バイロイトに入る。昨年に続く訪問だが、今年は新演出の「ニーベルングの指環」が呼びものであり、それだけを観るためにやって来たというわけ。

 予約していた成田からのルフトハンザのミュンヘン便が3時間遅れと発表され、一時は頭を抱えたが、もともとビジネスクラス予約だったためか、あるいはルフトのゴールドカード・メンバーだったためか、先方でANAのフランクフルト便からルフトのニュルンベルク便を利用するよう変更してくれたのは有難い。
 21:50にニュルンベルク空港に着き、タクシーに飛び乗り行く先を告げたら、運転手氏は長距離に大喜びで「バイロイトだ!」と大声で周囲に触れ回った。ただその割に地理には詳しくないようで、バイロイト市内に入ったものの、ホテルのARVENA KONGRESSの場所が判らず大騒ぎ、駅前まで行って他のタクシーの運ちゃんに教えてもらうという始末。駅からはむしろ私の方が道を知っているという具合で、彼氏は平謝り、料金を少々だが値引きしてくれた。
 ホテルには夜の11時頃に着いたが、折しも今夜の「トリスタンとイゾルデ」を観た連中がぞろぞろ戻って来るところで、その光景を見たとたんに、もう1日早く来るべきだった、という、訳の解らぬ後悔に襲われたという次第。

 それはともかく、今夜からは今年の「指環」の最終ツィクルスである。今年は、バイロイトとしては、指揮者の話題が演出家のそれよりも先行した珍しい例だろう。バイロイトの「指環」には初登場となったクリスティアン・ティーレマンは、今やドイツ音楽界の帝王的存在だが、その名声にふさわしく、われわれの期待にもたがわず、演奏は実に素晴らしいものになった。

 彼は音量をやや抑制して響きを柔らかくし、最強奏の個所でも殊更音楽を咆哮させたりはしない。もともとこの曲では、モティーフは極めてシンプルな形で提示されている。それが無闇に強調してダイナミックに演奏されると、むしろゴツゴツして流れの悪い、散漫な構成の作品というイメージになってしまう(ショルティの指揮などその代表だろう)。そこまで極端にはならずとも、この作品を流れよく構築した演奏は、そうたびたび実現されるものではない。

 だがティーレマンは、驚くべきセンスを以てこの全曲を流れよく纏めている。音量を抑えて叙情味を強調し、流れるような、調和のとれた美しい「ラインの黄金」を創り出しているのである。
 だがこれは、調琢されて滑らかなものと化している、という意味ではない。必要なモティーフはすべて聴き取れるし、それらが起伏を以て充分に劇的な表情で語られるのだ。「ローゲの物語」ではその内容にふさわしく、官能的なロマンティシズムが溢れるが、この厚みある豊麗な音色は、どんな演奏にも増して効果を上げている。

 ドラマの変化に応じて音楽が移行していく過程も見事だ。第2場の最初で、巨人たちがまもなくやってくるだろうという予感が神々の間に起こる瞬間に、低音部にかすかに予告される巨人の動機のリズムは他の演奏では例がなかったほど不気味に現われて消える。「剣の動機」が初めて劇的に出現する箇所では、その直前から不穏なものを感じさせる暗い音色がうごめき始めている。
 こうした「劇的な予感」は、もちろんワーグナーの音楽に内在するものなのだが、それをかくも鮮やかに浮き彫りにできるティーレマンの業は並みのものではないだろう。それに応じられるオーケストラもまたたいしたものだ。

 今回のオーケストラの響きは例年にも増して弦が前面に押し出されている。音楽は弦を主力にして語られるといった趣だ。その分、金管さえも少し遠い感じになっている。全曲最後のオーケストラの怒号など、これほど弦の和音が前面に出た演奏は、バイロイトと雖も珍しいかもしれない。一体、金管はどの位の強さで吹いているのだろう?

 これに対し、タンクレード・ドルストの演出の方は、問題だ。当初予定されていた映画監督トリーアが降板したため急きょ演出を引き受け、わずか1年半の準備期間でここまで仕上げた点は評価されるべきかもしれないが、基本的なコンセプトを表現するテクニックにおいては、些か問題があるのではなかろうか。

 フランク・フィリップ・シュレスマンの装置と絡めて見てみると、まず「ラインの河底」の場面では、奥の上方から手前に湾曲して設置されている大きな河底の石群、それに反射して流れを表す光の幻想的な効果、位置は動かないが身振りは大きい乙女たち、上方の水面に投影される泳ぐヘアヌードの女の映像(アルベリヒの妄想?)などには面白さもあるが、太古の自然の美しさはこれですべて終りといった感じで、そのあとには大きな対比が生じてくるというか、全く異質なものばかりになるというか。

 第2場と第4場はすべて薄汚いビルの屋上の場面で、単調そのもの。彼方に見えるヴァルハルらしきものはレンガの真ん中に大きな「眼」みたいなものを持っている(2000年マリインスキーのシャーフの二番煎じという感だ)。ニーベルハイムでは工場の通路みたいな光景に、突然紗幕が揚がると割れた壁の内部に宝の魔窟が出現。現代の怪談というべきか、巨大産業とその内部に潜む魔境を対比させるアイディア自身は面白いが、それにしてはアルベリヒとミーメが終始「化物」スタイル(これもマリインスキー・リング的)のままであるのが理屈に合わない。
 しかし、「屋上」において、巨人やエルダがすべて下方から出現するにもかかわらず、神々がヴァルハルに入城する際に奥の階段を降りて行くというのはどういうわけか。神々が没落するのを暗示する手法にしては、もう少し何かやり様があるのではないかと思う。

 ラストシーンで、子供達が突然前面に出てきて「ファフナーとファゾルトごっこ」をやってみせるのも、意図は解るのだが、唐突で稚拙で煩わしい。
 そもそも神話と現代とが交錯するコンセプトを打ち出すのなら、その両者の存在がはっきりと明確にされていなければ成功しない。思い付きで舞台の上にチョコチョコと両方を出すのでは駄目だ。また、総じて演技はいろいろ手を尽くしてやっているようだが、それにしては客席を向いて手を拡げて歌うという類型的で陳腐な身振りも多いのはお粗末だ。

 ヴォータン役のファルク・シュトルックマンは全力投球。若々しい気迫と張りのある声は「ラインの黄金」でのこの役柄にこれ以上ないほど合っている。悪役的な声ではないがアルベリヒのアンドルー・ショアは、狡猾さが滲み出れば更によくなるであろう。
 その他、ローゲのアルノルト・ベズイエン、後半が楽しみなミーメのゲルハルト・ジーゲル、最近活躍目覚ましいファゾルトのクヮンチュル・ユンらが好調。期待のわれらの藤村実穂子はこの日は必ずしも本調子ではなかったかもしれない。

2006・8・16(水)バーンスタイン「ウェストサイド・ストーリー」

     Bunkamuraオーチャードホール  7時

 ジョーイ・マクニーリーの演出と振付、ポール・ガリスのセット・デザインということで、もちろんオリジナルのジェローム・ロビンズの舞台とは異なり、アパートを模した簡略な木製の装置を左右に、正面奥にニューヨークの摩天楼やスラム街の写真を投影している。

 45年前、映画化されたこのミュージカルを観た時には、その新鮮さと強烈さに震撼させられたものだが、その後刺激は薄れ、映画を見直しても妙に古さを感じてしまうことが多かった。ただ、改めてこの舞台上演を観てみると、装置が変わっただけでもある程度の新鮮さを味わうことができる。レナード・バーンスタインの存在は、今なおこの舞台を大きく蔽っている。

 出演者はすべて外国人。歌はまあまあの水準だろう。オーケストラは日本人。指揮のドナルド・ウィング・チャンの棒のせいかもしれないが、音楽全体が一本調子でさっぱり面白くない。
 PAは、最初はいい音量とバランスだったが、途中から修正したのか、ヴォーカルもヴァイオリンも高音域がキンキンするようになり、不愉快極まりないものになった。トニーやマリアの声には気の毒というほかはない。このPAの煩い音に耐え切れなくなり、第1幕だけで帰る。

2006・8・13(日)フェスタ・サマーミューザKAWASAKI

      ミューザ川崎シンフォニーホール  6時

 首都圏のオーケストラを総動員した大フェスティバルの最終日。ホスト・オーケストラの東京交響楽団が、音楽監督ユベール・スダーンの指揮で出演した。

 ただしプログラムは、このコンビにはめずらしいロシア音楽。グリンカの「ルスランとリュドミラ」序曲、リムスキー=コルサコフの「スペイン奇想曲」、ムソルグスキー~ラヴェルの「展覧会の絵」。
 予想通りスダーンらしい、きちんとまとまった演奏になった。そのアプローチは興味深いが、古典派作品のようなスタイルの演奏では、このあたりの曲は、やはり面白味に欠けてしまう。

 アンコールにJ・シュトラウス1世の「ラデツキー行進曲」とスーザの「星条旗よ永遠なれ」を演奏したが、前者ではトリオ演奏中に、弦などがトリオの反復をしているのに、金管群が反復を無視してダ・カーポするという珍事が出来した。
 これはまさに、カルショウが伝えているクナッパーツブッシュの録音中の出来事そのままではないか。クナは「だれもわかりゃしねえよ」と笑ったというが、さて今回はどうだったろうか? 
 それにしても最近、このような珍事に巡り合うことが続く。

2006・8・7(月)ラ ヴォーチェ公演 ヴェルディ「椿姫」

      新国立劇場中劇場  6時30分

 この「椿姫」をつい先日、モンゴル国立劇場で観たばかりなので、今回の舞台がとてつもなく美しく豪華に見えた。川口直次の舞台装置はきわめてオーソドックスだが丁寧に作ってある。アントネッロ・マダウ・ディアツの演出も、イタリア・オペラの舞台にしてはニュアンス豊かで細かく施されている。

 ヴィオレッタ役のマリエッラ・デヴィーアもこれなら充分の出来、一方ジュゼッペ・フィリアノーティ(アルフレード)は役柄にふさわしく大根役者だ。
 その中でやはりレナート・ブルゾン(ジェルモン)が圧倒的な存在感を示し、尊大さと弱さとを併せ持った父親像を演技の上でも歌唱の上でも見事に表現して全体を引き締めた。ヴィオレッタとの二重唱の部分でも、音楽的な情感の濃さが実に素晴らしい。

 ブルーノ・カンパネッラの指揮はどこといって破綻はないのだが、やはり歌手に合わせたのんびりした音楽づくり。総じてこれは、いかにも五十嵐公演監督の好みのスタイルである。

2006・8・6(日)飯森範親指揮東京交響楽団

     サントリーホール  2時

 第1部はモーツァルトの「フィガロの結婚」からの二重唱やアリア、同じく「レクィエム」から「怒りの日」などがあって、休憩後はマーラーの「復活」。
 飯森にしては珍しく遅いテンポを採ったが、このテンポは持ち堪えられたとはいえず、しばしば緊張度を欠き、曲を冗長にさえ感じさせる(特に前半楽章)結果さえ招いた。
 これまでの飯森のマーラー路線とはかなり傾向を異にする。彼は何を考え始めているのだろう?

2006・8・3(水)PMF東京公演 ゲルギエフ指揮PMFオーケストラ

     サントリーホール  7時

 モーツァルトの「ファゴット協奏曲」での演奏は、マツカワのソロを含めてどうも心に迫るものがないが、ストラヴィンスキーの「ペトルーシュカ」と、チャイコフスキーの「交響曲第5番」は、もはや入魂の演奏だ。この見事な仕上がりは、大阪と名古屋で本番を重ねてきた成果である。
 これほど沸騰した迫真的な演奏の「ペトルーシュカ」は、ちょっと聴けないだろう。テンポもアゴーギグもエスプレッシーヴォも柔軟自在、響きも音色も豪華絢爛、「これは凄い」と息を呑ませられる瞬間さえ何度かあった。

 「5番」では、特に第2楽章が怒涛のように揺れ動く。たとえマリインスキーのオーケストラでも、ましてウィーン・フィルなら、これほどゲルギエフの思う通りには動くまい。その意味では、今回の演奏こそゲルギエフが真に主張したかったものであるに違いない。

 経験の少ない若者ばかりのオーケストラをかくも燃え上がらせ、物凄い演奏をさせてしまうゲルギエフは、やはり並み外れたカリスマ的指揮者である。楽屋へハローを言いに行った際に「信じられない演奏だ!」と口走ったら、「Thank You!」と嬉しそうに笑っていた。

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