2020-02

2020・1・31(金)プラシド・ドミンゴとサイオア・エルナンデス

     サントリーホール  7時

 プラシド・ドミンゴがサイオア・エルナンデスとともに来日、ユージン・コーン指揮の東京フィルハーモニー交響楽団と協演し、盛り沢山な内容のコンサートを行なった。

 ドミンゴがソロで歌ったのは、トマの「ハムレット」、ジョルダーノの「アンドレア・シェニエ」、ヴェルディの「マクベス」、レハールの「微笑みの国」と「メリー・ウィドウ」、コンスエロ・ベラスケスの「べサメ・ムーチョ」、ソロサーバルの「港の酒場女」など。

 エルナンデスがソロで歌ったのは、同じく「アンドレア・シェニエ」「マクベス」「メリー・ウィドウ」、プッチーニの「ジャンニ・スキッキ」などの中からの曲。

 そして2人の歌(二重唱を含む)としてはヴェルディの「ナブッコ」「イル・トロヴァトーレ」「マクベス」、レハールの「メリー・ウィドウ」、カルロス・ガルデルの「想いの届く日」、岡野貞一の「故郷(ふるさと)」。

 この他オーケストラだけの曲も、「ラコッツィ行進曲」「一日だけの王様」序曲、「シチリア島の夕べの祈り」序曲、「マクベス」のバレエ曲の一部、「トリッチ・トラッチ・ポルカ」などが挿入されていた。

 つい先頃79歳の誕生日を迎えたドミンゴ。声域はバリトンになったが、声質そのものは、やはりテノールのそれである。美しく力強く、清らかで澄んだ声はホールによく通り、未だ年齢を感じさせない。それとともに素晴らしいのは、今なお衰えぬ劇的な歌唱の表現力と、演技と動作に滲み出るあたたかい人間性である。
 やはりこの人は、不世出の名歌手であり、余人を以ってかえ難い存在なのだ。われわれは彼を大切にしなくてはならぬ。

 最後に二重唱で歌った「故郷」は、9年前の大震災の直後に彼がいち早く駆けつけてチャリティコンサート(→2011年4月13日の項)を開いてくれた時にアンコールで歌い、傷ついたふるさとへの悲しみを共有する聴衆を涙ぐませた歌曲でもあった━━。

 サイオア・エルナンデスというソプラノも、なかなかいい。コーンが指揮する東京フィルも今日は好演。

2020・1・29(水)サロネン指揮フィルハーモニア管弦楽団(終)

      東京芸術劇場 コンサートホール  7時

 サロネンの自作「ジェミニ」と、マーラーの「交響曲第9番」というプログラム。

 当初は「ポルックス」(2018年初演)を演奏すると予告されていたのが、新作「カストール」(2019年初演)を加えた「ジェミニ」として演奏されることに変更された。これでギリシャ神話の「カストールとポルックス」の物語との辻褄が合い、併せて「ジェミニ」(双子)としての形が整ったことになる。
 2曲は「ポルックス」「カストール」の順に、ほとんど切れ目なしに、全部で30分ほどにも及ぶ長大な作品として日本初演された。

 2曲とも大編成の、極めて手の混んだ精緻な管弦楽法による、かなり輝かしい響きを持った作品である。いくつかの個所でシベリウスの遠いエコーのようなものが見え隠れするあたりは、さすがフィンランド人のサロネンならではの作風だろう。彼の作品の中では、随分取り付きやすい感じがしたのは、それだけ曲が俗っぽい、ということになるのか? 
 私はしかし、大いに愉しんだ。隣にプログラム冊子の原稿を書いたほかならぬご本人の岡部真一郎さんが座っていて、それほど熱心に拍手をしていないので、「だめですかね?」と訊いたのだが、「いや、まあ」と言葉少なに答えたのみだったのには拍子抜け。

 プログラム冊子には、欄外に「注」として、「休憩はない」と書かれていたものの、ここで休憩が入ることになった。岡部さんが「なんだ、休憩を入れるのか」と、何となく責任を感じたように呟いたが、この濃密な30分の大曲のあとに、本当に続けてマーラーの「9番」をやられたら、終りまで気力も体力も保たなかっただろう。

 そのマーラーの「第9交響曲」━━予想通り、感情の動きの極端に激しい演奏だ。と言っても、例えばバーンスタインのそれの如く、テンポもデュナミークも激烈に揺れ動く、といったタイプの演奏ではない。ただデュナミークの幅のみが極度に大きい演奏、ということになるだろうか。
 従って堅固な構築の「9番」という感が強くなり、両端楽章においても特に彼岸的とか、諦観とかのイメージは感じられない。むしろ若い活力が未だ残るマーラー、といった印象になるのである。

 それはそれで、悪いものではない。ただ私はあのマリス・ヤンソンスが最後の日本公演で指揮した「9番」の、あまりにも温かい別れを告げるような終結が不思議なほど脳中にこびりついているので、どうしても比較してしまうだけの話だ。

 フィルハーモニア管弦楽団が、今日も素晴らしかった。弦、管、打楽器とも、完璧ともいえるほどの演奏だった。とりわけ第4楽章では、弦楽器群の豊かな厚みのある音が全てを決める。第49小節以降、特に第56~57小節での弦の大波のような量感は見事だった。

2020・1・28(火)サロネン指揮フィルハーモニア管弦楽団(2)

      東京芸術劇場 コンサートホール  7時

 シベリウスの「大洋の女神」、ショスタコーヴィチの「ヴァイオリン協奏曲第1番」(ソリストは庄司紗矢香)、ストラヴィンスキーの「火の鳥」(1910年版全曲)。

 サロネンのもと、フィルハーモニア管弦楽団はベストの演奏水準にあると思われる。「大洋の女神」における果てしなく持続する大波のような起伏など、サロネンの祖国の作品という強みもあるだろうが、優秀なオーケストラでなければ表現できない凄絶感に満たされていた。

 「火の鳥」においても同様だ。いつだったか池辺晋一郎さんが評していた「いつまでたっても本題に入らない人の話のような曲」━━実に的を射た巧い表現だ━━という特徴をカバーするような演奏とは言い難かったものの、後半での劇的な昂揚部分では、オーケストラの卓越した力量がものを言っていたのである。

 ショスタコーヴィチの「ヴァイオリン協奏曲第1番」は、これはもう、庄司紗矢香の独壇場。ステージに並んでいるサロネンとオーケストラの存在をさえ霞ませるような、いや、忘れさせてしまうような、圧倒的な力を持った演奏だった。

2020・1・26(日)グランドオペラ共同制作「カルメン」

     札幌文化芸術劇場hitaru  2時

 午前9時羽田発のANA55便で札幌に入る。
 すでに横浜と名古屋で上演された田尾下哲演出によるプロダクション、「カルメン」の札幌上演。詳細は昨年の名古屋公演(☞2019年11月3日)の項で触れ、絶賛のコメントを捧げている(横浜公演は観ていない)。

 今日の歌手陣は、アグンダ・クラエワ(カルメン)、城宏憲(ドン・ホセ)、与那城敬(エスカミーリョ)、青木エマ(フラスキータ)をはじめ、名古屋公演と同一の顔ぶれだったが、今日の札幌公演の方が、概してみんな声の伸びがいい。
 二期会合唱団の、特に女声団員たちが歌とダンスを見事にこなすさまも、名古屋公演の時より更に練り上げられていたようである。

 また、ここ札幌のピットでは、エリアス・グランディが札幌交響楽団を指揮したが、これが実にいい演奏だったのだ。グランディという人はPMFにもアカデミー生として参加したことがあるそうで、従って今回は札幌への恩返しともいうべく、PMFの「札幌への還元」を実現したともいえよう。
 そして札響のオケ・ピットに入っての演奏の確実さ、緻密さ、音の良さは、嬉しい驚きでもあった。このオケ・ピットでの演奏の良さという点だけから言ったら、札響は、東京の読響、西の京響と並ぶ存在と敢えて称しても過ぎることはあるまい。

 もう一つ、合唱には「札幌文化芸術劇場カルメン合唱団」と「HBC少年少女合唱団」が参加したが、後者の歌いながら踊る可愛さは絶品であった。

 演出の面では、基本的には名古屋公演と共通ゆえ、詳しくは触れないが、いくつか変更されたり、手直しされたりした個所もある。変更された最大のものは、「アカデミー賞授賞式の劇場の外」と読み替え設定されている最終幕のラストシーンだ。

 名古屋では、カルメンが殺されたあと、劇場内から颯爽と現れたエスカミーリョが既に別の女性に鞍替えしているのを見た女性テレビ・レポーターが唖然とするというオチで終る演出だったのが、今回は、フラスキータが新しいスターとして誕生する、という設定に変わっていたらしい。
 ━━らしい、というのは、その場面で舞台奥から強烈な照明が当てられたため、1階客席からは眩しくて、フラスキータが何をやっていたのかがほとんど判らず、ホセが取り押さえられている光景だけが辛うじて確認できたに過ぎなかったのである。
 私はこんな言葉は滅多に使わないのだが、ここ(照明)だけは明らかに演出の改悪であり、失敗だったと言わざるを得ない。

 所謂通常の「カルメン」演出と違い、思い切った読み替え演出だから、横浜や名古屋の時と同様、お客さんの反応を心配していた。だが劇場関係スタッフから聞いた話によれば━━もちろん「なんだあれは」という否定的な反応もあったとはいえ━━「ミュージカルみたいで面白い」などという反応もあったそうで、つまり肯定的な意見も予想外に多く寄せられた由。
 そしてまた前日の公演(ダブルキャスト)の口コミが好評だった所為か、今日の当日売りが予想以上に伸びたとのことである。事実、1階前方通路から見渡した限りでは、2300という客席が何とほぼぎっしりと埋まっていたのだった。その点、ガラガラ状態に近かった名古屋公演とは大きな差があったと思われる。

 その他、プログラム冊子に「今回の《カルメン》のあらすじ」として田尾下哲自身の解説が載っていたこと、またそれが拡大されてロビーの2カ所に張り出されていたことなど劇場側の配慮もあって、観客の「戸惑い」も減少した、といっていいかもしれない。
 別の面から見れば、札幌のお客さんの大半はこれまでナマのオペラを完全な形で観る機会が少なかったためもあり、余計な先入意識に捉われることなく、むしろピュアな感覚でこの舞台を享受することができた、とも言えるのではないか。

 5時20分頃終演。札幌は雪が少ない。今日は昼頃少し散らついたが、夕方からは快晴となっていた。

2020・1・25(土)飯森範親指揮東京交響楽団

    サントリーホール  6時

 横浜から首都高速を飛ばして都心へ戻り、正指揮者・飯森範親が指揮する東京交響楽団の定期演奏会を聴く。

 第1部ではすさまじく意欲的なプログラムが組まれていた━━最初はヘルムート・ラッヘンマン(1935~)の「マルシュ・ファタール」という名の、大編成のオーケストラによる小品。
 これはまあ、ストラヴィンスキーの「サーカス・ポルカ」を、大がかりに、物々しく騒々しくした曲と思えばいいだろうか。終り近くでは指揮者がステージを離れて客席に座ってしまうのだが、オーケストラは同じ個所を堂々巡りするばかりとあって、再び指揮台に上って締め括るという余興(?)も織り込まれる。

 続いてゲオルク・ビュヒナーの戯曲を基にした作品が2曲━━ゴットフリート・フォン・アイネム(1918~96)の「ダントンの死」組曲と、ヴォルフガング・リーム(1952~)の「道、リュシール」という作品が続けて演奏されたが、この選曲は面白い。もっとも、後者が初演された時にも前者が一緒にプログラミングされていたという話だ(プログラム冊子掲載解説による)。

 「ダントンの死」はもはや古典的存在だが、滅多に演奏会では聴けないので、これは貴重な体験であった。冊子には日本初演と書いてあったが━━1950年代のN響の「フィルハーモニー」誌で何か見たような気もするのだが、あれは定期のプログラムの解説だったろうか、それとも単なる記事だったろうか? 

 いずれにせよしかし、音楽の面白さから言えば、圧倒的にリームの方だろう。ここではソプラノの角田祐子が協演し、フランス革命時に処刑された女性リュシールの、最後に「国王万歳!」と絶叫するまでの長大な狂気のモノローグを素晴らしい表現力で歌ってくれた。字幕があれば有難かったのだが━━。

 このスリリングな第1部に比べると、第2部で演奏されたR・シュトラウスの「家庭交響曲」が、何となく弛緩した雰囲気で聞こえてしまうのはやむを得まい。いや、そんなことを言ったら、入魂の熱演を行なった飯森範親と、それに応えた東響に失礼になろう。後半における、シュトラウスのオーケストラの秘術を尽した部分での演奏は、実に壮大で、立派だった。

2020・1・25(土)ボーダーレス室内オペラ「サイレンス」

      神奈川県立音楽堂  2時

 「サイレンス」というオペラ━━実に感動的な舞台作品を観せてもらったという感。

 作曲は映画音楽系のアレクサンドラ・デスプラ。
 原作は川端康成の「無言」で、これをデスプラと、演出のソルレイとが台本化し、演奏時間90分ほどの作品に仕上げた。昨年2月にルクセンブルクで世界初演され、次いで3月にパリ初演されている。今回が日本初演である。
 演奏は10人編成の「アンサンブル・ルシリン」で、指揮はデスプラ自身が執った。出演歌手はジュディス・ファー(S)、ロマン・ボックラー(Br)、ローラン・ストッカー(語り)。

 器楽アンサンブルは舞台の真ん中ほどの位置に横一列に並び、演技は舞台前面で行なわれる。
 逗子か葉山の近郊に住む、既に物言わぬ状態にある小説家の家という設定。彼が背をこちらに向けてソファに座り、その沈黙を破らんものと、訪れた男が努力を重ねるものの、ついにその沈黙の圧倒的な力の前に敗北を認めざるを得なくなるという物語だ。これに、タクシーの中に現われる無言の女の幽霊の話が絡む。

 音楽には日本音楽の手法が少し取り入れられているが、基本的には西洋音楽のスタイルを保ち、それがむしろ透明な美しさを生み出している。
 だが、本音を言えば私としては、音楽そのものの力にというよりは、題材と、台詞と、その音楽の「音」の中に満ち溢れる「沈黙」あるいは「静寂」の物凄さに打ちのめされた、と言った方がいいかもしれぬ。

 上演は3時30分頃に終る。不思議な余韻を感じて、何かホールを去りがたい思いだったが(こんなことは初めてである)次の予定もあるので失礼した。その後には作曲者を含めたトークが行われたはずである。

2020・1・24(金)アンドレア・バッティストーニ指揮東京フィル

      サントリーホール  7時

 阪田知樹をソリストに迎えてのラフマニノフの「ピアノ協奏曲第3番」と、ベルリオーズの「幻想交響曲」というプログラム。コンサートマスターは依田真宣。

 バッティストーニの指揮だから、さぞや猛烈大暴れの演奏になるかと思いきや、案に相違して、ラフマニノフは━━指揮者とソリストとのどちらが主導権を取っていたかは別として━━これほど端整な「3番」も珍しい、という演奏になっていた。

 阪田知樹は未だ26歳か27歳の若手注目株だが、「ネクタイをきちんと締めたような演奏」(コリン・デイヴィスの表現)でラフマニノフを再現する。とはいえ、味も素っ気もない演奏かというと、全くそうではなく、あたかも白色の透明な光を当てたラフマニノフというイメージであり、これもまた不思議に快い感覚を呼び覚ましてくれるのである。
 バッティストーニも全力でオケを鳴らしたのはせいぜい全曲の大詰めあたりだったか。何となく彼が独りで懸命にシンフォニーをつくり、ピアノをオブリガートのような存在に押しやっていた感がしないでもなかったが・・・・。

 その反動が「幻想交響曲」に現れるのかと思ったが、これも意外に━━特に前半の3つの楽章では、バランス重視の演奏になっていたという印象なのである。ライヴ・レコーディングをやっていたそうだから、そのために慎重になったか? しかし、そこでの東京フィルの演奏は実に整然とした、かつ厚みのある、緻密なものになっていたのは確かである。

 後半の2つの楽章━━「断頭台への行進」と「ワルプルギスの夜の夢」になると、これはもう、さすがバッティストーニ、仁王の如く力感を漲らせて、重厚にして豪快、ダイナミックなベルリオーズを描き出した。幕切れ近くからはテンポを猛然と煽り立て、悪魔の狂乱を絶頂に導いて締め括った。
 オーケストラも部分的にはちょっと乱れ気味になったが、こういう曲の、しかもライヴなら、多少乱れてもいいから熱狂してもらった方が面白い。

2020・1・23(木)サロネン指揮フィルハーモニア管弦楽団

     東京芸術劇場 コンサートホール  7時

 エサ=ペッカ・サロネンは、間もなくサンフランシスコ響に転出する。従って、彼が「首席指揮者兼アーティスティック・アドヴァイザー」の肩書でこのフィルハーモニア管弦楽団と日本公演を行うのは、多分今回が最後になるのだろう(フィルハーモニア管の後任はサントゥ=マティアス・ロウヴァリの由)。

 今日は、ラヴェルの「クープランの墓」と、庄司紗矢香をソリストに迎えてのシベリウスの「ヴァイオリン協奏曲」、それにストラヴィンスキーの「春の祭典」というプログラム。 
 当初はトルルス・モルクがソリストとして来て、サロネンの「チェロ協奏曲」を日本初演すると予告されていたのだが、肺炎に罹ったとかいう噂で(定かではない)、曲目と演奏者がこのように変更となった。

 もっともこの変更には、お客さんの大多数はむしろ喜んだかもしれない。庄司紗矢香のソロはいつもながら素晴らしく、このコンチェルトを堅固かつ躍動感を以って、特に第2楽章では息詰まるような緊迫感を以って展開してくれたからだ。

 一方のサロネンの指揮は、最初の「クープランの墓」では、エレガントな馥郁たる香りのラヴェル像といったものは意識的に避け、むしろ明晰な構築とメリハリを前面に押し出す。うっとりさせられる演奏ではないにせよ、ラヴェルの管弦楽法の巧みさを堪能させてくれる、そういうタイプの演奏だったと言ってもいいだろう。

 だが、やはりこの日の白眉は、「春の祭典」であったろう。サロネンの指揮は、これまであまり聞いたことのないほど、強烈だった。一つ一つの和音を叩きつけるように激しく、しかも猛烈果敢な攻撃性を備えた構築でたたみかけ、追い上げる。そしてその音響の強大さたるや群を抜いた物凄さで、この作品の凶暴さをいやが上にも聴き手に印象づけたのである。

 フィルハーモニア管弦楽団の巧さも見事なものだ。曲冒頭のファゴットの不思議な艶めかしさを感じさせる濃厚なソロをはじめ、首席ティンパニの強力で歯切れのいい打撃、豪快に咆哮するホルン群など、変な言い方だが、何か楽々と演奏しまくっているような雰囲気を感じさせたものである。
 彼らの演奏会は来週にもある。聴きに行くのが楽しみになって来た。

2020・1・21(火)尾高忠明指揮大阪フィル 東京公演

      サントリーホール  7時

 音楽監督・尾高忠明の指揮で、第1部ではスティーヴン・イッサーリスをソリストに迎えてエルガーの「チェロ協奏曲」が、第2部ではブルックナーの「交響曲第3番」(ノヴァーク版第3稿)が演奏された。コンサートマスターは崔文洙。

 尾高忠明が音楽監督に就任して以来、大阪フィルはアンサンブルが目覚ましく整備され、精緻な音を響かせるオーケストラになった。昔の「野武士的」と呼ばれた豪快な音を出す個性もそれはそれで一つの魅力ではあったが、このしっとりした落ち着きのある音もまた快い。

 第1部では、イッサーリスが秘めやかな弱音の、しかしよく通る音で、この上なく美しいエルガーを弾き、尾高と大阪フィルも、これに静謐な表情で応答して行った。この曲の瞑想的な、しかも気品に満ちた叙情性を、これほどよく浮き彫りにした演奏もまたとないだろうとさえ感じられた。しかもイッサーリスは、アンコールでのカザルスの「鳥の歌」をさえ、囁くように語り続けて行ったのである━━。

 針の落ちる音さえ聞こえそうな静寂に満ちた第1部のあと、第2部のブルックナーでは、オーケストラは堰を切ったように大音響を轟かせはじめたが、その音の緻密な均衡は、もう昔の大阪フィルとは全く違う。これがあの同じオケかと思わせるほどの整然たる音の構築である。それゆえアダージョの第2楽章は、とりわけ絶品だった。

2020・1・19(日)ジョン・アクセルロッド指揮京都市交響楽団

      京都コンサートホール・大ホール 2時30分

 京都市交響楽団の第641回定期公演で、この4月から同響の首席客演指揮者に就任するジョン・アクセルロッドが指揮。

 ベートーヴェンの「アテネの廃墟」序曲、バーンスタインの「ハリル」、ショスタコーヴィチの「交響曲第7番《レニングラード》」が演奏された。
 「ハリル」でのフルート・ソロはアンドレアス・ブラウで、アンコールではドビュッシーの「シランクス」を吹いてくれた。コンサートマスターは泉原隆志。

 ジョン・アクセルロッドは、以前はルツェルン響の音楽監督・首席指揮者を務めたこともあり、今は王立セヴィリャ響の音楽監督のポストに在る1966年生まれの指揮者だが、私はもしかしたら今回がじっくり彼の指揮を聴く最初の機会だったかもしれない。

 とりあえず今日の演奏を聴いた印象では、オーケストラをバランスよく纏める術に極めて長けている人のようである。京響の響きは見事なほど均衡を豊かに保っていて美しく、特に「レニングラード」での、叙情的な個所で管楽器が個性的なハーモニーをつくり出すあたりでは、その音色が絶妙なバランスを響かせていた。もちろん、弦のしっとりした響きもいい。

 だが、この指揮者の音楽は、どちらかというと、やはり冷静である。この「レニングラード」の場合でも、デモーニッシュな狂乱はなく、大詰の恐るべき昂揚箇所においてさえ整然たる落ち着きを保ったままであり、忘我的な興奮といったものからは些か距離がある。
 こういった彼の「持って行き方」が、オーケストラの呼吸が合って来れば変わって行く類のものなのかどうか、今の段階では判じ難い。それに、レパートリーによっても異なるだろう。

 いずれにせよ、京響の上手さが強く印象づけられた演奏ではあった。それと、順序が逆になったが、元ベルリン・フィルの首席フルート、アンドレアス・ブラウの音色の美しさも━━。

 少々驚いたのは、この京響定期では、後方正面の上階席に随分熱狂的な人がいるものだな、ということ。まあ、噂に聞いていないわけではなかったが・・・・。

2020・1・15(水)下野竜也指揮 読売日本交響楽団

    サントリーホール  7時

 ショスタコーヴィチの「エレジー」、ジョン・アダムズの「サクソフォン協奏曲」、モートン・フェルドマンの「On Time and the Instrumental Factor」、グバイドゥーリナの「ペスト流行時の酒宴」。
 サクソフォン・ソロは上野耕平、コンサートマスターは日下紗矢子。

 物凄い曲ばかり集めたものだ。昔、読響のコンサートのトークで「ゲテモノ担当の下野です」と自己紹介して客を爆笑させた下野竜也の面目躍如のものがある。また、こういうプログラムを定期で組んだ読響にも、聴衆動員に自信たっぷりなものがあるのだろう。
 事実、客席は大体埋まっていた。上野耕平の人気もあったかもしれないが、グバイドゥーリナの作品が終ったあとの拍手の盛り上がりなどは、現代音楽だけのプログラムではあっても、いい演奏ならばそれなりの反応があることを証明していたといえよう。

 物凄い、などとは言ったものの、実際に聴いてみれば、耳あたりは好い。
 ショスタコーヴィチの「エレジー」(1931)は非常に美しい旋律的な小品で、ある個所ではシェーンベルクの「浄夜」の一節などを連想させる。
 上野耕平のスウィングするソロ(身振りも、だったが)で演奏されたジョン・アダムズの「サクソフォン協奏曲」(2013)はジャズの影響を強く受けた曲で、私はマンハッタンの夜の光景などをふと連想してしまったが、ゆっくりした個所ではオーケストラが意外なほどの官能的な表情を聴かせ、サックスがブルース的なモノローグを歌い続けるのが魅力的であった。

 プログラムの後半の2曲はいずれも日本初演である。
 フェルドマンの「On Time and the Instrumental Factor」(1969)は、短い和音が楽器や和声を一つ一つ変えながら、短いパウゼを挟みつつ何度も繰り返されるだけの音楽で、いつ本題に入るかと思わせながら結局そのまま終ってしまう、といったような小品。

 そして最後の「ペスト流行時の酒宴」(2005)は、プーシキンの戯曲を題材にしたものだ。常に何かが起こりそうな予感のようなものを感じさせる音楽が進み、「それが起こった」頂点では、眩いばかりの多彩な音色が刺激的な高音を伴って執拗に続き、ヒステリックな狂乱の趣さえ生み出す。この部分でのいろいろな曲想の交錯が実に面白い。この作品は今夜の演奏会の圧巻ともいうべきものだったろう。さすがは下野、スリリングな演奏で、聴き手に強烈な衝撃を与えた。

 久しぶりに定期を振った下野竜也への、読響の楽員たちが示す親愛の表情が印象的だった。かつての「正指揮者」が、一回りも二回りも大きくなって里帰りして来たのである。

2020・1・13(月)東京音楽コンクール優勝者コンサート

      東京文化会館大ホール  3時

 正確に言うと、「第17回東京音楽コンクール優勝者&最高位入賞者コンサート」というタイトルで、昨年の東京音楽コンクールの覇者3名が出演し━━木管部門第1位となったフルートの瀧本実里がロドリーゴの「パストラル協奏曲」を吹き、声楽部門で1位なしの2位となったテノールの工藤和真がヴェルディの「仮面舞踏会」やプッチーニの「ラ・ボエーム」からのアリアなど4曲を歌い、最後にピアノ部門第1位の秋山紗穂がベートーヴェンの「ピアノ協奏曲第4番」を弾いた。
 サポートは三ツ橋敬子指揮の東京フィルハーモニー交響楽団。

 ソリストはみんな若々しく、その演奏に溢れる気魄と勢いが実に快い。
 瀧本は難曲の協奏曲をいとも闊達に、伸びのいい音色で楽々と吹き、工藤はイタリア・オペラ4曲を朗々と情熱的に歌い上げた。そして秋山は未だ東京芸大の4年生(師は伊藤恵)というが、第1楽章のカデンツァなどでは伸縮自在の柔軟な表現を聴かせ、この若さにしては楽譜の読み込みの深い演奏をつくり出していた。

 だが、何とも残念なのはオーケストラの演奏だ。何の感興もない、喜びも哀しみもない、ただ弾くだけ、吹くだけの演奏に終始しており、いかにも頼まれ仕事、やっつけ仕事という感じで━━そんなつもりはないと言われても、こちらにはそうとしか聞こえなかったのだから仕方がない━━ソリストたちの足を引っ張っていた。特にベートーヴェンの協奏曲では、無表情も極まれり、といった演奏だった。

 この次は、もっと真摯な演奏をするオーケストラとの協演で彼らを聴いてあげたいものだが・・・・。
 なお司会はいつもの朝岡聡。こちらは実に巧い。会場は満席。

2020・1・11(土)日本オペラ協会公演 歌劇「紅天女」

     Bunkamuraオーチャードホール  2時

 原作および脚本・美内すずえ、作曲・寺嶋民哉、指揮・園田隆一郎、演出・馬場紀雄、特別演出振付・梅若実玄祥、合唱・日本オペラ協会、管弦楽・東京フィルハーモニー交響楽団、出演・小林沙羅(阿古夜×紅天女)、山本康寛(仏師・一真)他。

 原作は「ガラスの仮面」とのこと。会場で顔を合わせた何人かの業界の女性たちに訊いたら、みんなこれを読んで詳しく知っているという。中には、概要を慌ただしく説明してくれた新聞記者や、ワタシたちにとっては「たしなみ」ですから、と艶然と微笑んだ音大教授もいたくらいだ。
 あいにく私は少女マンガについては全く知らないし、興味もない。ましてや「ガラスの仮面」などという大ベストセラーについては、どこかでその名を目にしたような・・・・程度の認識しかないのが正直なところだ。

 だが、それはまあ、どうでもいい。ここではあくまで、ひとつの新しい創作オペラとして聴き、観るだけである。プログラム冊子に室田尚子さんが寄稿している「オペラと少女マンガの蜜月が始まる」という一文の趣旨も大いに結構であろう。もしかすると、少女マンガの世界は、オペラ化するには絶好の素材なのかもしれない━━。

 しかし今回、実際に第1幕だけを聴いた印象を正直に言わせてもらうなら、ストーリーは別として、失礼ながら音楽が━━美しいけれどもつまらないのだ。言葉にただフシを付けただけでは、民謡的な歌曲ならそれでいいけれども、大きな劇的起伏を必要とするオペラにまで達することはできないだろう。
 3幕構成で、進行表には演奏時間が各50分、60分、70分と発表されていた。

2020・1・8(水)ロイヤル・オペラ・ハウス・シネマ「ドン・ジョヴァンニ」

      TOHOシネマズ・シャンテ  6時15分

 昨年10月8日のロイヤル・オペラ・ハウス(ROH)上演ライヴ、カスパー・ホルテン演出、ハルトムート・ヘンヒェン指揮によるモーツァルトの「ドン・ジョヴァンニ」。

 アーウィン・シュロットが歯切れのいいタイトル・ロールを歌い演じ、その他、ロベルト・タリアヴィーニ(レポレッロ)、マリン・ビストローム(ドンナ・アンナ)、ミルト・パパタナシュ(ドンナ・エルヴィーラ)、ダニエル・ペーレ(ドン・オッターヴィオ)、ルイーズ・オールダー(ツェルリーナ)、レオン・コザヴィッチ(マゼット)、ペトルス・マゴウラス(騎士長)が共演している。

 音楽的な面では、指揮もオーケストラも、歌手陣に関しても異論はない。モーツァルトの音楽の、それも木管の使い方の素晴らしさに今日も堪能することができた。

 演出はカスパー・ホルテンだから、また何か面白い新解釈があるのだろうと期待していたが、案の定、面白い着眼点がいくつか見られた。
 最大のポイントは、ドン・ジョヴァンニが自ら手をつけた女性たち━━特にドンナ・エルヴィーラとドンナ・アンナが不幸な境遇に陥り、苦悩する姿を目の当たり見て深刻な後悔に苛まれるあたりだろう。彼はその2人の各々最後のアリアを聴き、大きな打撃を受ける(アンナのアリアがオッターヴィオ相手にでなく、ジョヴァンニに対して歌われるところも新解釈だ)。

 そして最後の宴会の場面は、騎士長の登場を含め、ドン・ジョヴァンニの幻想として描かれているのが新機軸だ。また、地獄落ちの音楽が終るか終らぬかのうちに、いきなり最後のアンサンブルの後半のプレストの部分「悪者の末路はこの通り」が、あたかも天から響く声のように背景から沸き起こり、それがドン・ジョヴァンニを包み込んで行くのも面白い━━モーツァルトがこのプレスト個所をまずドンナ・アンナとドンナ・エルヴィーラの2人で歌い出すように作曲しているのは、やはり意味があったのだろうと思わせる。

 なお、このフィナーレ・アンサンブルの前半(アレグロおよびラルゲットの部分)をカットする方法には、以前にもどこかの上演で出会ったような記憶がある。その時は腹を立てたのだが、今回のホルテン演出版でもそれが行われていたということは、これは案外「市民権」を得ている方法なのかもしれない。ただ、プラハ版やウィーン版の問題に比べ、明確な根拠を示す資料には、私は未だ接していないのだけれども。

 それともうひとつ、見事だったのは、プロジェクション・マッピングの活用だ。背景だけでなく、人物の衣装までを一瞬のうちに変えてしまい、生身の人間を亡霊のような姿にしてしまう。当節の演出は、全く便利な(?)ものだな、と感心させられる。

 上映時間は20分の休憩を含み3時間50分。ただし最初の15分は、延々と所謂CMばかりだ。時間がもったいないような気がして閉口した 試写室で試写を観る方が、よほど効率がいい。

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