2020-01

2019・12・27(金)太田弦指揮大阪交響楽団の「第9」

       ザ・シンフォニーホール  7時

 最近注目されている新人指揮者の一人、太田弦(大阪響正指揮者)の指揮を初めて聴く。
 今年25歳、札幌出身で東京芸大に学び、2015年の東京国際音楽コンクールの指揮部門で2位になった人だ。彼は先日、東京で新日本フィルを指揮する演奏会を予定していたが、「原因不明の高熱」のため降板を余儀なくされていた。
 今回はベートーヴェンの「第9」を元気で指揮できたのは祝着。

 これは感動の第九」と題された特別演奏会。共演の合唱は「はばたけ堺!合唱団」と「大阪交響楽団 感動の第九 特別合唱団2019」、声楽ソリストは四方典子、糀谷栄里子、二塚直紀、萩原寛明。コンサートマスターは森下幸路。

 さて、その太田弦の指揮だが、第1楽章序奏の四度と五度の下行モティーフが、昔のワルターの指揮と同じように非常に鋭く奏され、続く第1主題もかなり鋭角的なアクセントを以って演奏されはじめたので、これはなかなか面白いことをやる指揮者だなと思い、この音型が全曲を統一する役目を持っているからには、それを巧く展開してくれるのかと期待したのだが━━。
 残念ながらそのあとは、その鋭いメリハリも薄らぎ、ごく普通のスタイルになって行ってしまったのはどういうわけか。

 少なくとも今日の「第9」を聴いた範囲で言うなら、彼の指揮はどうも譜面上の正確さだけを追い求めることに集中していたような印象がある。音楽が崩れないように、ただきちんと演奏することだけにこだわった指揮のように聞こえてしまったのである。

 経験の少ない若い指揮者が「第9」を指揮した時に、「未だ早い」とか、「深みが足りない」とか言って批判するような気は私にはないし、誰であろうと若いなりの感性による「第9」を演奏する権利があると思うのだが、それならもっと、傍若無人でも大暴れでもいいから、若者らしい気魄、思い切って冒険を試みる精神が欲しいのである。ただ生真面目に、常識的に演奏された「第9」では面白くない。
 魔性的な陰翳を表現するのは無理としても、せめて抑え難い感情の昂揚、熱狂といったものがなければ、「第9」という巨大な世界へのアプローチにはなり得まい。━━ただ、今日の演奏では、第3楽章が清らかな叙情を湛えて、これは良く出来た演奏と言えるものだったと思われる。

 なお「第9」のあとに、アンコールのような形で、声楽を加えた「蛍の光」が演奏された(このオーケストラ編曲はなかなか良かった)。
 合唱団は、かなりの人数ではあったものの、些か粗く、パワーも少々弱い。「第9」では、ほんの1度だけだが、2人か3人、女声で「飛び出し」た人がいたけれども、余程経験のない人たちだったのか。

 声楽ソリストでは、萩原が少し物々しく凝った歌い方だったものの、概して好演だった。
 この声楽ソリストたちはアンコールの「蛍の光」にも参加していたのだが、カーテンコールで指揮者がソリストたちに対して全く「讃え」ず、最後も自らとオーケストラのみの答礼だけで終らせてしまったのには、ステージマナーとして違和感が残った(普通は大トリでもう一度声楽ソリストたちをも呼び戻すものだろう)。

 なお今日は、「第9」の前に、池田洋子をソリストに、モーツァルトの「ピアノ協奏曲第23番」が演奏された。各楽章それぞれが、こんなにも一定のテンポ、一定のニュアンスのままで演奏されたのを聴いたのは、初めてである。
 9時20分頃終演。

2019・12・22(日)びわ湖ホール声楽アンサンブル
クリスマス・ロビー・コンサート

   びわ湖ホール・ロビー  11時

 午後2時半からの「神々の黄昏」のオペラ入門講座をホール向かい側の「コラボしが21」で担当するので、その前にこのコンサートを覗く。

 因みにこのオペラ講座は、びわ湖ホールで毎年3月に1作ずつ上演している4部作「ニーベルングの指環」に関連したもので、したがってこれで4年目になる。
 160人もの聴講参加者にお見えいただくとは恐縮の至りだ。が、このうち実際に「神々の黄昏」の公演を観る予定の方は4分の1か5分の1に過ぎない由。それゆえあとの方たちは「単なる勉強」として来られるわけなのだろう。見上げたものである。

 公演の方はすでに完売しきっているそうだから、今更チケットを入手できるわけもない。ところが、びわ湖ホールはその救済策としてというのか、関連企画として、以前の「METライブビューイング」で紹介されたあのロバート・カーセン演出の「指環」4部作を、中ホールで上映してみせるそうな。松竹からの売り込みがあったからなのかどうかは知らないけれども、とにかく念の入った「親切な」企画ではある。
 しかも、そのうち「ジークフリート」までの3つの映画を先に上映(2月24日、29日、3月1日)しておき、「神々の黄昏」はオペラ公演の本番(3月7・8日)が終ってから、4月4日に上映するというのだから、これまた何とも凝りに凝った作戦といえよう。

 さて、今日のコンサートのほう。たった30分のコンサートだが、無料ということもあって、たくさんの聴衆を集めていた。大川修司(びわ湖ホール声楽アンサンブル指揮者)の指揮、左成洋子のピアノで、12人のびわ湖ホール声楽アンサンブルがクリスマス・ソング集や「こうもり」(J・シュトラウス)の「シャンパンの歌」などを歌い、最後に「きよしこの夜」を、お客さんと一緒に歌う。

 会場は、テレビでこの合唱団が歌う時にいつも映されるホワイエの臨時特設ステージだ。このホワイエは広いし、明るいし、ガラス戸越しに琵琶湖が広がっているのが見えるし、音もよく響くし、コンサートにも絶好だ。同一平面上にレストランもあり、資料室もあり、それらのどこにいても、程度の差こそあれ、演奏が聞こえるようになっているというわけで、━━全くこのホールは巧く設計されているものだと、足を踏み入れるたびに感心する。

2019・12・20(金)ロイヤル・オペラ・シネマ「ドン・パスクワーレ」

       東宝東和試写室  3時30分

 1月10~16日に東宝東和系映画館で公開される、ロイヤル・オペラ・ハウス(ROH)の10月24日の上演ライヴ映像、ドニゼッティの「ドン・パスクワーレ」を観る。上映時間は休憩1回を含め、約3時間。

 今回はダミアーノ・ミキエレットの演出で、全体としては洒落っ気のあるステージだ。 
 ただし大詰の場面は、先日(2019年11月13日)の新国立劇場での演出に輪をかけたエイジ・ハラスメントになっていて、こんなのに盛大な拍手を送る高齢者はどうかしているとしか言いようがないが、まあ人間の出来た寛容なご老人方は、気兼ねなくご覧になるがよろしかろう。

 とにかく、その舞台の美術(パオロ・ファンティン)が、簡素ながら洒落ているのだ。銀色に輝く骨組みだけの屋根、ドアはあっても壁のない部屋のつくりなども悪くないし、悪妻ノリーナの濫費の所為もあって家具や乗用車が━━おまけにメイド(黙役だが味あり)の服装まで━━グレードアップして行くという念の入れようなど、吹き出したくなるような趣向もあることは事実なのである。
 パスクワーレが、ノリーナの落して行った「手紙」を盗み見る場面が、彼女が忘れて行ったスマホを覗き見る設定に変えられているところなどは、当節流行りの手法だ。

 それに、演奏がいい。意外に好人物風に見える設定のドン・パスクワーレを歌い演じたブリン・ターフェルはこの役が初めてだという話だが、悪役ばかりがおれの持ち味ではないぞと言わんばかりの好演が印象に残る。狡猾なマラテスタ役のマルクス・ヴェルバと、豹変するノリーナ役のオリガ・ペレチャッコは、演技はさほどではないが歌唱で聴かせていた。ターフェルとヴェルバの早口の掛け合いの二重唱は見事である。
 エヴェリーノ・ピドの指揮も、いつぞやのROHでの「ホフマン物語」と同様、手慣れたものだ。

2019・12・16(月)アラン・ギルバート指揮東京都交響楽団

      サントリーホール  7時

 首席客演指揮者アラン・ギルバートが登場。日本の聴衆にも大変な人気だ。
 今日はマーラーの「交響曲第6番《悲劇的》」を指揮したが、拍手も、特に演奏後に浴びせられた歓声もひときわ大きく、ソロ・カーテンコールも繰り返された。
 今日のコンサートマスターは矢部達哉。

 今回はアンダンテ・モデラートの楽章が第2楽章に、スケルツォが第3楽章に置かれ、また第4楽章では、マーラーが改訂の際に削除した「3度目のハンマー」が復活されるという形。
 都響もホルン群を筆頭に各パートが充実、アンサンブルのバランスも最良の部類に属し、熱演と呼んでもいい演奏になっていたと思う。

 それに対しては敬意を表するのだが、半面、あまりにエネルジコ(精力的に力強く)一本で押しまくった感も免れない。その所為もあって、この演奏には「悲劇的」というイメージはほとんど感じられなかった。
 そういった標題音楽的要素に敢えてこだわるつもりはないのだが、たとえば第4楽章などになると、それを無視するわけにも行くまい。

 つまり、何度か音塊が緊張度を高めつつ激しく寄り集まって行き、それらが頂点に達するたびに、ハンマーの強烈な一撃で崩壊する、というこの楽章の構造━━標題音楽的に言えば、「英雄」が力を振り絞って何度か闘いを試みつつも、その都度「運命」たるハンマーにより打撃を受けるという過程が繰り返され、「3度目の打撃」ではついに再起不能の絶望に陥る、というストーリーになるわけだが━━それを描き出すための音楽の大きな起伏と変化が、今回はどうも明確に感じられず、全体がただ力任せの演奏になり過ぎていたのではないか、ということなのである。

2019・12・14(土)ラモー:「ピグマリオン」

     いずみホール  2時

 大阪で、いずみホールの意欲的なシリーズ、故・礒山雅氏の企画・監修による「古楽最前線!」の一環、「いずみホール・オペラ2019」としてのラモーの「ピグマリオン」上演を観る。

 バロック・オペラの上演される機会のあまり多くない日本では、この種の企画は極めて貴重だ。また、中型ホールとしてのほどよい空間性や音響の良さなどの点でも、このいずみホールはバロック・オペラの上演にちょうど手頃な会場と言えるかもしれない。

 今日の第1部は、リュリの「アティス」「町人貴族」「アルミード」からのいくつかの音楽と、2番目にコレッリの「ラ・フォリア」を挟み込んだプログラムで構成され、これらでは演奏の他にバロック・ダンスが織り込まれる。そして第2部ではラモーの「ピグマリオン」全曲が演奏され、ここではコンテンポラリー・ダンスが織り込まれるという具合だ。

 中心となっているのは、寺神戸亮が率いるバロック・オーケストラ、レ・ボレアードだが、北とぴあでの「リナルド」上演からたった2週間ほどしか経っていないというのに、かくも充実した演奏を聴かせてくれるのだから立派なものである。
 また歌手陣には波多野睦美、鈴木美紀子、佐藤裕希恵が出演。バロック・ダンスは松本更紗、コンテンポラリー・ダンスは酒井はな、中川賢。合唱はコルス・ピグマリオーネス。演出が岩田達宗、振付が小尻健太。

 オーケストラは舞台奥の一段高い山台の上に配置され、演技とダンスは舞台前方のスペースをいっぱいに使って行われる。このダンスの挿入は今回の上演の目玉とでもいうべきもので、所謂「オペラ・バレ」のスタイルを応用した舞台の試みであった。
 特に第1部での松本更紗のバロック・ダンスは美しく、アルルカン(道化)の役でも才気ある表現で観客を楽しませた。

 ただ、欲を言えばだが、その折角のダンスも━━若干の照明が加えられていたとはいえ━━それが何も装飾のない裸の舞台上で行われていたため、視覚的に些か殺風景な雰囲気に取り巻かれていたという印象を免れない・・・・つまり、玲瓏たる雰囲気は、あまり感じられなかったのである。
 たとえば、簡単でいいから、カーテンか何か、清涼な背景装置のようなものがあって、それに照明演出が施されたりしていたら、その前で繰り広げられるダンスもさらに洒落たものになるのではないか、という気もするのだが。

 しかし、上演全体としてはすこぶる良かった。いい企画だった。そして何よりもまず、音楽そのものが素晴らしかったのである。

2019・12・13(金)L’espace String Quartet

     旧東京音楽学校奏楽堂  6時30分

 「レスパス」という名の、若手たちの弦楽四重奏団。活動開始は2011年の由。鍵冨弦太郎(第1ヴァイオリン)、小形響(第2ヴァイオリン)、福井萌(ヴィオラ)、湯原拓哉(チェロ)という現在のメンバーになったのは、2014年からだそうである。

 今日のプログラムは、第1部がハイドンの「騎士」とヤナーチェクの「クロイツェル・ソナタ」。第2部がクラリネットの西崎智子を迎えてのブラームスの「クラリネット五重奏曲」というものだった。

 私はこの弦楽四重奏団を、少なくともナマ演奏では初めて聴く。
 冒頭のハイドンは、緊張の所為だったのか、練習不足ででもあったのか、何とも不安定な出来に終始したが、プロの演奏家である以上、こういうことは困る。

 だが、幸いなことにヤナーチェクでは演奏にも陰翳が生じて持ち直し、ブラームスではこの曲に相応しいしっとりした表情が演奏に溢れて行った。
 ただし音楽が高潮する個所では、弦が鳴り過ぎてクラリネットをマスクしてしまうことがしばしばあったのだが、このあたりはゲストのソロ楽器とのバランス━━つまり室内楽のアンサンブルの構築にもっと研鑚を積んでもらいたいところのように思われる。

2019・12・11(水)秋元松代作 長塚圭史演出 「常陸坊海尊」

      KAAT神奈川芸術劇場 ホール  2時

  常陸坊海尊は、源義経の奥州での最後の戦いの前に「帰らずして失せにけり」となったということでさまざまに批判されてきた人物だが、その後何世紀にもわたっていろいろな場所に姿を現すという不思議な伝説の持主でもある由。

 この新作演劇では、その海尊が全ての迷える者たちの罪障を一身に引き受け、精神的な慰めを与える存在として結論づけられているらしい。
 らしい、と書いたのは、3時間以上(10分の休憩2回を含み、終演は5時を過ぎた)経ってからその結論が唐突に出るので、なるほどそうかと思うには多少考えを整理しなければならないからだ。

 とはいえ、それまでの物語には、「本州さいはての地」を舞台に、あふれる東北弁(みんな上手い!)の響きの裡に、イタコの魔力、太平洋戦争中の学童疎開、十数年後の学友の再会など、涙を催させる感動的な場面がいくつもある。
 時代を隔てた3つの幕が、いずれも「海尊さま!」という叫びをキーワードとしているところに、いつの世にも救済を渇望する人々の姿が象徴されているというわけであろう。

 主演は白石加代子(イタコのお婆)、中村ゆり(巫女)、平埜生成(啓太)他。
 白石加代子という人は、あの物々しい喋り方が私には昔から苦手だった。だが、いざ芝居となるとまさに圧倒的な存在感を示すのは、流石というほかはない。今回は魅了された。

2019・12・9(月)ベルリン・コンツェルトハウス室内オーケストラ

      東京文化会館小ホール  7時

 ヴァイオリンの日下紗矢子がリーダーを務めるベルリン・コンツェルトハウス室内オーケストラ。メンバーはもちろんあのベルリン・コンツェルトハウス管弦楽団(旧東独ベルリン響)に所属する人たちが中心だ。
 今年が結成10周年にあたるが、これが早くも4度目の日本公演になる由。弦12人にチェンバロを加えた計13人編成による来日である。

 この団体の演奏を聴いていると、その音色には、彼らの母体たるオーケストラが、その本拠としている壮麗なベルリンのコンツェルトハウス(昔のシャウシュピールハウス)で響かせる特徴がそのまま映し込まれているような気がする。飾り気のない、剛直で、重厚さを備えた響きだ。イタリア・バロックを演奏する時でさえ、それは変わらない。
 月並みな表現になるけれども、所謂良き時代のドイツのローカル色を未だに残している貴重な個性といっていいかもしれない。こういう独自の個性を持ち、それを守り抜いているオーケストラは、当節では貴重である。

 前半にはコレッリ~ジェミニアーニの「ラ・フォリア」、ヴィヴァルディの「ムガール大帝」、コレッリの「クリスマス協奏曲」といった合奏協奏曲やヴァイオリン協奏曲が演奏され、日下紗矢子が全てのソロを鮮やかに、烈しい気魄を迸らせて弾いた。
 ベルリン・コンツェルトハウス管弦楽団の第1コンサートマスターとして長年活躍している彼女の実力が、今回も日本のファンにはっきりと示されたであろう。

 後半には弦楽合奏の形で、シベリウスの「アンダンテ・フェスティーヴォ」とグリーグの「弦楽四重奏曲ト短調」(日下紗矢子編)、アンコールとしてレスピーギの「《リュートのための古風な舞曲とアリア》第3組曲」からの「イタリアーナ」と、グリーグの「ホルベアの時代から」の「リゴードン」が、これまたいずれも極度に強靭な力感と鋭角的なニュアンスを以って演奏された。

 エネルギーには富んではいる。が、その硬質な響きが、しばしば過剰に攻撃的な色合いを帯びてしまうのは、必ずしもホールのアコースティックの所為だけとも思えないのだが━━。

2019・12・7(土)ゲルギエフ指揮マリインスキー劇場管と藤田真央

      東京文化会館大ホール   6時

 生誕180年を来年に控えての、ゲルギエフの「チャイコフスキー・フェスティヴァル」その最終公演は、「ピアノ協奏曲第2番」と「交響曲第5番」。

 協奏曲は、当初の予定ではセルゲイ・ババヤンがソロを弾くことになっていたが、如何なる事情か「本人の都合により」キャンセル、替わって藤田真央が登場した。
 まあ、ババヤンには悪いが、これはかえって歓迎すべき人選だった。今年のチャイコフスキー国際コンクールで第2位となり、人気の沸騰している藤田真央が━━しかも「1番」でなく「2番」を聴かせてくれるとなれば、これ以上のことはない。

 彼については以前からゲルギエフが絶賛していたので、まるで今回のフェスティヴァルに出演予定の無かった彼をゲルギエフが突然起用するべく秘かに手を回したのではないかとさえ思えたほどだが━━まあ、そんな憶測はともかく、この藤田真央の演奏は予想以上に素晴らしく、煽り立てるゲルギエフとマリインスキー響相手に一歩も退かず、鮮やかで瑞々しいソロを聴かせてくれた。スケール感という点では未だしのところもあるが、準備期間も短かったはずなのに、よくぞあそこまで仕上げたものだと、ただもう感嘆するのみである。

 彼がソロ・アンコールで弾いたグリーグの「愛の歌」も美しかった。このアンコールの間、ステージ下手側の袖近くにゲルギエフが立ったまま聴いていたのは、若手をソリストに起用した時のゲルギエフのいつもの癖である。

 休憩後は「第5交響曲」。弦とクラリネットが暗い音色で主題を演奏し始める冒頭個所を聴くと、ああロシアのオーケストラ!という懐かしさが湧いて来る。
 ただ、そのあとは最近のゲルギエフとマリインスキーの傾向で、あまりロシアの土俗的な香りのしない演奏になってしまっていた。音色に陰翳が希薄で、響きが異様に鋭いのも気にかかる。昔のゲルギエフとマリインスキーの音は、こうではなかった・・・・。

 先日の「悲愴」でもそうだったが、譜面台を置かずに暗譜で指揮をする時のゲルギエフは、音楽のつくりがいっそう自由で、テンポや強弱の変化が大きくなる。
 それ自体は悪くないのだが、今日は、なぜこんな個所でいきなりテンポを落したり音を弱めたりするのかなと訝られるような━━敢えて言えば作為的にさえ感じられるところがいくつかあったのだ。昔のゲルギエフには、こんなことはなかった。変幻自在といえども、もっと自然に流れていた・・・・。

 とはいえ、ここぞという個所での盛り上げが強烈なところは、いつものゲルギエフである━━「第5交響曲」の第4楽章終結部は、その一例だ。
 アンコールは「くるみ割り人形」の「パ・ド・ドゥ」。この曲の演奏にも、これらのことが全て当てはまる。

2019・12・5(木)ゲルギエフ指揮マリインスキー劇場管「悲愴」他

      サントリーホール  7時

 ゲルギエフの「チャイコフスキー・フェスティヴァル」が「交響曲・協奏曲篇」(3日間・計4公演)に入った。
 今日はその初日で、「交響曲第1番《冬の日の幻想》」、「ロココの主題による変奏曲」(チェロのソロはアレクサンドル・ブズロフ)、「交響曲第6番《悲愴》」。

 ただでさえ長いプログラムの上に、ブズロフがソロ・アンコール(バッハの「無伴奏チェロ組曲第3番」からの「サラバンド」)まで弾くものだから、休憩後の「悲愴」に入ったのが何と8時50分。その演奏終了は9時37分頃になった。
 もっとも、そのブズロフ(モスクワ生れの36歳)のチェロの音色は極めて美しく、しかも芯のしっかりした表情を備えていて、「ロココの・・・・」を品のいい、形式感の明快な作品として再現してくれたのは確かである。

 交響曲の方は━━「冬の日の幻想」の演奏には、何かひとつ底の浅さと、力感に頼りすぎたような表現が感じられ、もどかしい思いにさせられたのが正直なところだ。
 だが、「悲愴交響曲」におけるゲルギエフの演奏構築には、いつもながら、実に綿密な設計が聴かれる。

 中間2楽章は極めて速いテンポに設定される。第2楽章は、一般にはしばしばアンダンテかアレグレットのテンポで演奏されることが多いのだが、ゲルギエフは作曲者の指定通り、アレグロのテンポで演奏していた。いっぽう、第3楽章でのスコアの指定はアレグロ・モルト・ヴィヴァーチェだが、今日のゲルギエフのテンポは、ほとんどプレストというイメージのものだった・・・・。

 今日の演奏で真に感動的だったのは、やはり両端楽章である。第1楽章では再現部に怒涛の如き頂点が置かれ、疲れと諦めのようなコーダへ沈静して行く。その流れがすこぶる見事だった。

 そしてこの曲の原標題「パテティーク」の本来の意味である「感情豊かに」が、最もリアルに表現されたのはやはり第4楽章においてであろう。特に楽章後半、荒れ狂った悲痛な激情がタムタムの一撃により堰き止められ━━ゲルギエフは、この一撃の余韻を、スコア指定よりも長く引き延ばしたが、その長い余韻は、タムタムを本当に運命の暗い一撃のように感じさせたのである。

 それゆえ、そのあとの「poco rallentando」から「quasi Adagio」に至る経過句は、衝撃に打ちのめされたように、間を置いてからゆっくり入って来る。
 そしてそれが消えると、ゲルギエフは、最後のアンダンテの前に、もう一度長い休止を置く。その沈黙は実に感動的な効果を生み、続くアンダンテ━━事実上のアダージョだが━━の個所を、どうしようもないほどの諦めと絶望感に満ちたものにしてしまう。止めどなく沈み込んで行くその音楽は、聴き手を救いようのない深淵に引きずり込んで行くのである。

 こうして闘いは終った・・・・。チャイコフスキーが「この曲にはプログラムがあるが、それはあくまで謎だ」と書き残していた「標題性」が意味するところはまさにそこにあったのだ━━と聴き手に確信させるゲルギエフの指揮であった。

2019・12・4(水)ミカラ・ペトリ リコーダー・リサイタル

      サントリーホール ブルーローズ(小ホール) 7時

 懐かしい。私が放送現場にいて、演奏会を録音した時は、まだ可愛らしい妖精のような美少女だった。

 久しぶりに彼女の演奏会に足を運ぶ。今でも上品で美しく、とろけるような優しい笑顔の素晴らしいひとである。
 今回はギターのラース・ハンニバルとハープの西山まりえとの協演で、バッハの「ソナタBWV1033」に始まり、コレッリの「ラ・フォリア」、ヘンデルの「ソナタHWV377」、グリーグの「スプリング・ダンス」や「つまづき踊り」、マルチェッロの「アダージョ」、作者不詳の「グラウンドによるグリーン・スリーヴス」などのプログラムが演奏されて行った。

 大小さまざまのリコーダーを頻繁に持ち替え、時にはユーモラスに多彩な音色を披露、この上なくあたたかい雰囲気で私たちを包んでくれた。

2019・12・2(月)ゲルギエフ&マリインスキー 「マゼッパ」(演奏会形式)

      サントリーホール  6時

 冒頭、11月30日に帰天したマリス・ヤンソンスを偲び、今日の演奏会を彼に捧げることと、全員で黙祷したいというゲルギエフの提案が場内アナウンスにより紹介された。

 チャイコフスキーのオペラ「マゼッパ」は、今回が日本初演か? ほとんど知られていないオペラなのに、しかも舞台上演でなく演奏会形式上演なのに、予想以上に客席が埋まっていた。お客さんの熱心さには、心を打たれる。

 幸いにして私はこれまで、MET、リヨン歌劇場、ベルリン・コーミッシェ・オーパーなどで計3回、舞台上演を観る機会を得た。ゲルギエフやキリル・ペトレンコが指揮していたそれらの公演はいずれも見事なものだったが、しかしチャイコフスキーの音楽そのものに心底から没頭できたのは、今回が初めてである。
 それは何よりも演奏会形式という、表現力豊かな大編成のオーケストラを舞台上に上げての、しかも妙な(?)演出に気を取られることなく音楽に集中できる形で上演されたことのおかげだろうと思う。

 今回の上演では、30分足らずの休憩を1回のみ、第2幕第1場(牢獄の場)の後に入れての演奏となった。これは作品全体のバランスを考えれば、賢明な方法だろう。
 弦14型編成のマリインスキー響は、ステージ上に大規模な山台を置いて配置され、ゲルギエフの劇的で緊迫感に富む指揮のもと、実にたっぷりと豪壮に、しかも切れのいいシャープな響きで鳴り渡る。
 かつてのこのオケが持っていたロシアの装飾品の色彩を思わせる翳りのある音色ではなく、明晰でインターナショナルな音色で響いて来るのは、「スペードの女王」の時と同じである。

 一方、歌手たちはオーケストラの前で非常に詳細な演技を行いつつ、暗譜で歌う。この演技が堂に入っているのは、歌手たちがほぼ全員、すでに最近マリインスキー劇場での舞台上演で演じていたからにほかならない。若い世代の人が多いが、だれもかれも、揃いも揃って声が力強い。

 その歌手陣は次の通り━━ウラディスラフ・スリムスキー(ウクライナの統領マゼッパ)、ミハイル・コレリシヴィリ(その配下オルリク)、スタニスラフ・トロフィモフ(ウクライナの大地主コチュベイ)、アンナ・キクナーゼ(その妻リュボフ)、マリヤ・バヤンキナ(その娘、マゼッパの妻となるマリヤ)、エフゲニー・アキーモフ(マリヤを愛する青年アンドレイ)、アレクサンドル・トロフィモフ(コチュベイの同志イスクラ)、アントン・ハランスキー(泥酔したコサックの男)。

 ゲルギエフはマリインスキー・カンパニーを引き連れて日本公演をやるたびに、あとからあとから、次々と新世代の優秀な歌手たちを連れて来ているが、その歌手の層の厚さにはいつもながら驚くばかりだ。
 もう一つ、合唱の凄さも忘れてはならない。P席中央に配置されたマリインスキー劇場の合唱団は、わずか60人の編成ながら、そのパワーはオーケストラを圧するほどの強靭なものであった。

 総帥ゲルギエフの、音楽上の演出力、持って行き方の巧さは格別だ。このオペラをこれほど纏まりよく、スリリングに、退屈させずに聴かせてくれる指揮者は、彼を措いてそうはいないだろう。
 ゲルギエフは、やはりロシア・オペラを指揮する時が最高だ。

 なおこれは━━批判として言うのではないが、今日は正面オルガンの下のやや下手側に配置されていた金管のバンダの音が、「ポルタワの戦い」で一緒に行進曲を演奏する時に、何分の1秒か遅れて響いて来るのが、えらく気になった。2階席最前列で聴いていてさえこうだから、さらに距離の遠い2階席最後方では、もっとずれて聞えるのではないかしらん。ファンファーレならともかく、細かいリズムでオケ本体と一緒に演奏する際には、この「音の伝達速度」は難しい問題だ。
 以前、東京文化会館でヴェルディの「レクイエム」を演奏した某オケの楽員さんが、5階席てっぺんで演奏している「トゥーバ・ミルム」のラッパがステージ上の自分たちの音とずれて聞えるのでやりにくくって・・・・とぼやいていたのを思い出す。

2019・12・1(日)ヘンデル:オペラ「リナルド」

      北とぴあ さくらホール  2時

 「北とぴあ国際音楽祭2019」の最終日、ヘンデルの「リナルド」の2日目を観る。有名なアリア「私を泣かせて下さい」を第2幕に含むオペラである。

 寺神戸亮のヴァイオリンと指揮、レ・ボレアードの演奏、佐藤美晴の演出。
 歌手陣は、布施奈緒子(キリスト教徒軍総司令官ゴッフレード)、フランチェスカ・ロンバルディ・マッズーリ(その娘アルミレーナ)、クリント・ファン・デア・リンデ(キリスト教徒軍の将軍リナルド)、フルヴィオ・ベッティーニ(エルサレムの王アルガンテ)、湯川亜矢子(ダマスカスの女王で魔法使のアルミーダ)ほか。
 オーケストラをステージに載せ、歌手たちはその前で演技を繰り広げる形で、ほぼセミステージ形式上演と言ってもいい。

 オペラは十字軍時代、キリスト教徒軍の英雄リナルドを主人公に、最後にキリスト教徒軍が大勝利を収め、敗れたエルサレム王アルガンテとダマスカス女王アルミーダが前非を悔いて改宗する━━という内容。当時のオペラによく見られる、いかにも西欧のキリスト教徒側に都合のいい物語だ。
 ただこちら「リナルド」には、ハイドンの「アルミーダ」などとは違い、異教徒の指導者たちを単に残虐な者たちとしては描いていないという特徴がある。いずれにせよ、キリスト教とイスラム教の対立がますます深刻な問題となりつつある今日からすれば、これまでとは異なった解釈が加えられても然るべきドラマではあろう。

 ただし今回の上演は、特にそういう政治的なところには的を置かずに、ストレートに取り扱い、登場人物の性格、男女の心理の機微などを浮き彫りにすることを狙ったようだ。アルミーダとアルミレーナを1人の女性の両面を表わす存在として解釈したのは、あの「タンホイザー」でのエリーザベトとヴェーヌスの解釈にも似て興味深い。
 ともあれ、この小さな演技空間では、ドラマとしてあれこれ解釈を織り込むのは、どだい無理と申すものであろう。

 歌手の中では、アルミーダ役の湯川亜矢子が発音の明晰さ、イタリア語歌唱のメリハリの良さ、妖艶な演技表現などで際立っていた。彼女は昨年の「ウリッセの帰還」でもペネローペを歌って素晴らしかったという記憶がある。

 1995年以来のほぼ毎年、時にはモーツァルトのオペラなども含みつつ、バロック・オペラを集中して取り上げて来たこの音楽祭━━特にレ・ボレアードを率いる寺神戸亮の努力と実績は、偉とするに足る。

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雑誌 モーストリー・クラシック に連載中
「東条碩夫の音楽巡礼記」