2019-12

2019・11・30(土)ゲルギエフ&マリインスキー:「スペードの女王」

       東京文化会館大ホール  3時

 チャイコフスキーのオペラ「スペードの女王」━━全曲冒頭、あの「第5交響曲」第1楽章第1主題と全く同じリズム動機を持つ愁いを含んだ序奏を聴くと、初めて真冬にロシアに行った時に見た光景が美しく蘇って来る。
 深い雪に包まれた街路、訪れた音楽団体の事務所に暖かく置かれていた優美で豪華な姿のサモワール・・・・。
 その雰囲気を一番気持快く思い出させてくれるのが、ワレリー・ゲルギエフとマリインスキー劇場管弦楽団の演奏なのだ。

 そのゲルギエフとマリインスキー管、今回は練習不足だったのか、アンサンブルがずれたり、金管が時々飛び出したりすることはあったけれど、全体としてはきれいな音を出した(聴いた席は1階19列)。
 1992年暮に初めて現地で聴いた時のような暗い色合いの音は既に全く失われ、今や透明で澄んだ音色が主体のオーケストラになっている。それも時代の変遷を物語るものだろう。何より、ゲルギエフ自身の音楽そのものが昔とは変貌しているのである。

 ところでこの「スペードの女王」は、マリインスキーが日本に持って来たプロダクションとしては、3つ目のものだ。最初はテミルカーノフの演出版(1993年の来日公演)、次がアレクサンドル・ガリービンの演出版(2000年の来日公演)。
 今回のは、2015年に制作されたアレクセイ・ステパニュクの演出になる舞台である。衣装(イリーナ・チェレドニコワ)こそロシア皇朝時代の華麗なものだが、その他の写実的な要素は一切排除し、どちらかと言えば象徴的なスタイルを採る。

 細かい演技を見せるのは、極端に言えば士官ゲルマン(ミハイル・ヴェクワ)と恋人リーザ(イリーナ・チュリロワ)のみだ。老伯爵夫人(アンナ・キクナーゼ)も、ゲルマンの友人たちのトムスキー伯爵(ウラディスラフ・スリムスキー)やエレツキー公爵(ロマン・プルデンコ)らも、みんな影のように動く。まして街路を歩く群衆や、パーティの客人たちや、賭博場で騒ぐ連中などは、全て背景の舞台装置の一環のようにしか設定されていない。

 さらに注目すべきは舞台装置(アレクサンドル・オルローフ)の一つ、12本ほどの大きな円柱で、これは頻繁に舞台全体を移動し、巧みに場面を構築する。例えばリーザとゲルマンが初めて愛を交わし合う場面では、音楽の高まりとともに、邸宅の居間を構築していたこの円柱群が激しく移動して視界から消え、2人が広い空間に解放されたことが表わされる。良いアイディアであろう。

 もう一つのポイントは、冒頭の序奏の間に1人の少年がカードで組み立てた城のようなものを弄び、1人の女性から3枚のカード(3、7、エース)を与えられるというシーンがあり、そしてラストシーンでは賭けに敗れた後に舞台前方に蹲るゲルマンの目を少年が優しく閉じてやる━━もしくは執念から解き放ってやる━━というシーンが設定されていることである。
 これは、さながらこの物語が、少年の一場の夢か、あるいはゲルマンの果敢ない幻想に過ぎないものだったのか、と疑わせるような効果を生み出していたのではないか。

 ゲルマンがト書きのように「自殺」しなかった設定は、あるいはプーシキンの原作をイメージしたのかもしれない(原作では、ゲルマンは精神病院に入る)。そういえば、この演出ではリーザもト書きのように運河に身投げする設定ではなかった(原作では、リーザはのちに幸せな結婚をすることになる)。

 全体として、よくまとまったプロダクションということが出来よう。前回のガリービン演出版よりは、完成度が高いと思われる。

2019・11・29(金)トマーシュ・ネトピル指揮読売日本交響楽団

      サントリーホール 7時

 こちらは定期とあって、物凄い(?)プログラム━━モーツァルトの「皇帝ティートの慈悲」序曲、リゲティの「無伴奏チェロ・ソナタ」と「チェロ協奏曲」(チェロのソロはジャン=ギアン・ケラス)、第2部にスークの「アスラエル交響曲」。
 ゲスト・コンサートマスターは白井圭。

 オーケストラの定期演奏会のプログラムの中に無伴奏の作品と演奏を入れるというのは珍しいやり方だが、先頃ジョナサン・ノットと東響も似たようなことをやっていたから、最近の秘かな新手の流行アイディアなのかしらん。次の作品との有機的関連を示し、作曲家の肖像を多角的に描くという観点からすれば、そう悪いアイディアではない。もっとも、オケの側が、プログラムの足りぬ分はソリストにやってもらって━━ということであればチトずるいけれども。

 それにしても、ジャン=ギアン・ケラスのリゲティは、流石に聴きものだ。ソロでもコンチェルトでも、ピンと張りつめた凝縮力に富む演奏で、リゲティの陰翳を私たちに突きつけて来る。アンコールでの、バッハの「無伴奏チェロ組曲第1番」からの「サラバンド」が、これもまた圧巻だった。

 後半のスークの「アスラエル」は滅多に聴けぬ曲だが、ここではネトピルと読響が本領発揮の快演を繰り広げてくれた。
 この物々しい、長大な交響曲の裡に備わる雄弁な語り口、多彩な表情は、やはりナマで聴いた方が面白く味わえる。今日の演奏はいっそう物々しく剛直で、巌のような力強さに満ちていて、この曲をこれほどスリリングに聴けたのは私にとって初めての体験であった。

 ネトピル、今回の2つの演奏会では、その最も得意とする、絶対失敗しないレパートリーで日本の聴衆に己が存在を主張して見せた。あの「さまよえるオランダ人」からちょうど7年、かくて「救済は実現された」。

2019・11・25(月)マレク・ヤノフスキ指揮ケルン放送交響楽団

     東京文化会館大ホール  7時

 これは都民劇場サークルの公演。
 チョ・ソンジンをソリストにしたベートーヴェンの「ピアノ協奏曲第4番」と、シューベルトの「交響曲第8番《ザ・グレイト》」というプログラム。

 協奏曲では、冒頭のチョ・ソンジンの落ち着いたソロと、ケルン放響の弦の柔かな響きの拡がりが良かったが、その後の演奏には、どうも両者の呼吸に齟齬があったように━━特に第3楽章━━思われるので、触れるのはここまでにしておこう。

 シンフォニーの方は、ある意味で面白い演奏だったと言っていいが、とにかく恐ろしく攻撃的な「ザ・グレイト」だった。
 ティンパニの豪打はその象徴的なものだろう。ベートーヴェンの「5番」のような曲ならそれもいいが、ここではまるでボクシングをやっているシューベルトみたいに思えて、私は少々辟易した。

 いわば奔放な「ザ・グレイト」というか、アンサンブルも管のソロも、あちこち粗い。第1楽章冒頭のホルンのデュオは何とも自信無げだったし、第2楽章でのトランペットも何となく軍隊ラッパ的な、乱暴な吹き方だ━━特にあのホルンの天国的なエコーを通り過ぎて主題が戻って来たあと、フォルティッシモになる直前(第176~181小節、つまり【F]の前】)でのトランペットを、あんな風に荒っぽく吹かせ、「変なメロディ」(失礼)を前面に飛び出させた演奏は初めて聞いたし、驚いた。
 もっとも、乱暴でない個所では、時に浮かび上がる内声部の「本来は目立たぬ旋律」が、すこぶる新鮮な効果を生んでいて、そういった個所も少なからずあったのは事実なのである。

 ヤノフスキのテンポは非常に速い。第1楽章と第3楽章の反復指定はすべて遵守(但し第4楽章提示部の反復は無かった)していたにもかかわらず演奏時間は55分を切っていたから、相当速い方だろう。弦の奏者たちが大きな音を立てて物凄い勢いで譜面をめくることが何度かあった━━いいことではない━━が、これもそのテンポのせいだろう。

 しかしエネルギー感は、特に第4楽章では強力だった。コーダのクライマックス、コンサートマスターはじめ弦の奏者たちが全身を大きく揺らせながら2分音符を繰り返し弾いて行くさまは、何か一種の魔性的な祭典の中で踊る人々のような凄味を感じさせたし、もちろんその演奏も並外れた力を噴出させていた。ともあれ、良くも悪くも騒々しい「ザ・グレイト」だったが、その分、ナマ演奏ならではの面白さもあったのである。

2019・11・24(日)トマーシュ・ネトピル指揮読売日本交響楽団

     東京芸術劇場 コンサートホール  2時

 チェコ出身のトマーシュ・ネトピル(1975年生れ、エッセン歌劇場音楽総監督)が読響に初客演した。

 私は2008年7月7日にバイエルン州立劇場で彼がブゾーニの「ファウスト博士」を指揮するのを聴き、これは素晴らしい若手だ、と喜んで触れ回ったのだが、2012年3月14日に新国立劇場で「さまよえるオランダ人」を指揮した時には、オケとの相性が余程悪かったと見え、意外にもガタガタの演奏になってしまい、こんな指揮者ではないはずなのに、とがっかりした覚えがある。

 今回はそれ以来の7年ぶりの来日ということになるようだ。プログラムは、モーツァルトの「ドン・ジョヴァンニ」序曲と、「交響曲第38番《プラハ》」、プーランクの「ピアノ協奏曲」(ソリストはアレクサンドル・タロー)、ヤナーチェクの「シンフォニエッタ」。コンサートマスターは長原幸太。

 「ドン・ジョヴァンニ」序曲が、轟くティンパニとともに猛烈なフォルティッシモで爆発した時には、ネトピル、やってくれたわ━━と溜飲を下げた思い。読響の鳴りもいい。この活気ある劇的な一撃で、前記7年前の不本意な演奏に対する充分な名誉挽回となったように思うのだが、如何であろうか。
 今回は読響との初顔合わせとあってか、その後はやや慎重な安全運転となっていたようだが、まずは意気込みのある演奏を聴かせてくれた。今週末にはもう一つ読響との演奏会があるので、更なる快演を期待したい。

 ただし今日のプーランクの協奏曲は、彼の指揮も読響も、いかにも素朴というか、洒落っ気の皆無の演奏で、苦笑させられたが━━。
 そのプーランクを弾いたアレクサンドル・タローも、オケに拮抗してか、いつもよりは力んだ演奏になっていたようだ。このコンチェルトは私の好きな曲なのだが、今日は何となく勝手が違ったという感。
 なお、そのタローはソロ・アンコールとして、ラモーの「優雅なインドの国々」の「未開人の踊り」を弾いた。このピアノ編曲版は初めて聴いたが、やはりオペラのオリジナルの方がリズミカルで、好い。

 もう一つ、「ドン・ジョヴァンニ」の序曲では、ふだんあまり聴き慣れぬ版が使われていた。あとで、もしかして昨年パーヴォ・ヤルヴィとドイツ・カンマーフィルが日本公演で演奏した(2018年12月12日の項)のと同じベーレンライターの演奏会用編曲版だったかな、と思い出し、読響事務局に問い合わせたところ、やはりそれだったとのこと。

2019・11・23(土)エリアフ・インバル指揮東京都交響楽団

     サントリーホール  2時

 これは定期ではなく、「プロムナードコンサート」。ショスタコーヴィチの「祝典序曲」、ラフマニノフの「パガニーニの主題による狂詩曲」(ソリストはサスキア・ジョルジーニ)、チャイコフスキーの「ロメオとジュリエット」および「1812年」。
 コンサートマスターは四方恭子。

 前2回の演奏会が硬派のプログラムだったのに対し、こちらは昔で言う「ポップス・コンサート」的な選曲だが、しかし指揮するのがインバルとなれば、シリアスな、手抜きの一切ない、がっちりとまとめられた演奏になる。
 特に堂々たる風格で聳え立っていたのは、「ロメオとジュリエット」だった。

 そして更に舌を巻いたのが、「1812年」の中で、「ラ・マルセイエーズ」を轟かせつつフランス軍が遠ざかり、音楽がロシア民謡に変わる(これは2個所ある)ところの各2小節の移行部分━━ホルンと木管群が順に音を重ねつつ転調して行く個所における、目くるめくような音色の変化の妙であった。この計4小節における都響の木管は、ずば抜けて素晴らしかった。

2019・11・22(金)ケンショウ・ワタナベ指揮東京フィル

     東京オペラシティ コンサートホール  7時

 一度聴いてみたいと思っていた指揮者だ。彼は昨年夏の「セイジ・オザワ松本フェスティバル」で指揮したことがある(私はその演奏会は聴けなかった)。
 日本では未だほとんど知られていないが、今春まで3シーズンにわたり、音楽監督ヤニク・ネゼ=セガンの下でフィラデルフィア管弦楽団のアシスタント指揮者を務めていた若手(32歳)だ。今年1月31日~2月2日の同楽団定期演奏会に起用され、チャイコフスキー・プロ(第1交響曲「冬の日の幻想」他)を指揮している。

 聞くところによれば、彼は日本人の両親を持つ人で、名前の日本語表記は渡辺健翔なる由。
 それがわざわざケンショウ・ワタナベとなっているのは、きざな芸名というわけではなく、マネージャーがアメリカの団体だからだとか、「セイジ・オザワ松本フェス」デビューの際にそういう表記だったから今回もそうなった、とか、子供の時から米国暮らしだったから、とか、いろいろな話を聞いたが、自分で確かめたわけではないから、真相は知らない。とにかく、今夜の演奏会が所謂「東京デビュー」になる、とのことである。

 指揮した曲は、ラヴェルの「左手のためのピアノ協奏曲」(ソリストは舘野泉)と、マーラーの「交響曲第1番《巨人》」。
 とにかく若手らしく勢いのいい指揮をする人であり、小気味よい運びの音楽をつくる。長身痩躯、指揮棒を持たずに全身を躍動させてオケをリードする。

 ただ、最初の「ピアノ協奏曲」では、少々面食らったのは確かだ。冒頭個所など、普通の演奏なら、低音が神秘的に蠢き、それが夜明けのように光を帯びはじめる━━とでも言ったイメージになるものだが、今日の演奏ではそこが何とも荒々しく武骨に響きはじめたのである。
 そしてオーケストラを轟くばかりに鳴らすのだが、これがピアノと全く異質である。舘野泉さんも、もう昔のような水際立った爽やかなピアノではなく、むしろ翳りのある音色で、落ち着いた音楽を聴かせるというタイプの演奏家になっているだろう。ピアノの音がオーケストラの怒号にかき消されることが多かった。
 コンチェルトではソリストを立てる指揮のテクニックは未だしだな、と、私も途中で諦めてしまった。

 なお舘野さんは、ソロ・アンコールでスクリャービンの「夜想曲 作品9の2」(左手のための)を弾いてくれたが、これが実にあたたかく、聴き手の心にしみじみと食い入って来る演奏だった。

 だが予想通り、第2部の「巨人」では、ケンショウ・ワタナベの指揮の長所が一気に花開く。
 まず、音楽の流れがいい。第1楽章で「さすらう若人の歌」にも出て来るあの歌謡主題を支えるチェロのピッツィカートが、何とまあ快く爽やかなリズムとテンポで進められること。第3楽章を除く3つの楽章で、頂点へ向けて盛り上げる個所では、躊躇うことなくテンポを速めて一気に持って行くあたりも、若者らしくて好ましい。

 音を明確に響かせ、普通なら内声部に隠れて目立たぬモティーフをも、時にはっきりと浮き立たせるので、作品に新鮮感を生み出させる。エンディングの音をアクセント豊かに決然と叩きつけるところは昔のトスカニーニばりの強烈さだ。曲の前半ではオケの細部に粗さもあったが、次第にオケとの呼吸も合って来たようで、第4楽章では絶妙のピアニッシモをも聴かせていたのだった。
 いずれにせよこの人は、面白い指揮者だ。期待しよう。

 東京フィル(コンサートマスターは近藤薫)も、特に後半、よくこの若手を盛り立てていたようだ。

2019・11・21(木)東京二期会 オッフェンバック:「天国と地獄」

    日生劇場  6時30分

 東京二期会が「天国と地獄」を取り上げるのは、1981年の第1回(立川清登、島田祐子らが出演)以来、これが4度目になる。今回は大植英次の指揮、鵜山仁の演出、東京フィルの演奏だ。

 初日の今日の配役は、ジュピターを大川博、プルートを上原正敏、オルフェを又吉秀樹、ユリディスを愛もも胡、ジョン・スティクスを吉田連、ジュノーを醍醐園佳、他といった顔ぶれ。私がこれまであまり聴いたことの無かった人も多いが、しっかりした歌唱を聴かせる人もいるし、舞台映えする人もいるので、今後を楽しみにしたい。

 日本語字幕付日本語歌詞上演で、訳語には必ずしもいい趣味と思えぬところもあるものの、取って付けたように流行語を入れたりすることを「概して」避け、むしろ旧き芝居調の台詞を活用したりしていたことは、物語の内容とのバランスから言っても賢明だったろう。
 それに今回の台詞回しは、前回(2007年)の時の上演に比べ、格段に聞き取りやすい。ジュピターとプルートの台詞の応酬など、なかなかテンポが良かった。ただし、全員がそうだったとは言い難い。演出にはドタバタ調のところもあるが、これが本当のノリにつながっていたかどうかも、一口には言い難い。

 テンポの善し悪しということでは、むしろ大植の指揮に、僅かだが疑問をいだいたところがある。彼が一つ一つのナンバーをこの上なく丁寧につくっていたことは充分認めるのだが、ドラマが昂揚点に向かうべき場面で、時にテンポを不自然に落すのは、どうも納得が行かない。第1幕第2場(天国)で、神々がジュピターを囲んでいびるクープレの中ほどの部分とか、全曲のフィナーレにおけるカン・カンの出だしの部分などは、その例である。
 じっくりとやるのも結構だが、こういう賑やかなオペラなのだから、もう少し一気に押しまくって盛り上げて行ってくれたらなあ、と思う。そういうところが、何ヵ所かあった。

2019・11・20(水)METライブビューイング「トゥーランドット」

    東劇  3時

 新シーズンのMETライブビューイングが始まった。
 上映予定作品は10本で、ベルクの「ヴォツェック」、ガーシュウィンの「ポーギーとベス」、フィリップ・グラスの「アクナーテン」、ヘンデルの「アグリッピーナ」、ワーグナーの「さまよえるオランダ人」など、私好みの作品も含まれている。特に「オランダ人」(ゲルギエフ指揮)では藤村実穂子さんがマリー役でMETデビューすることになっているので━━脇役なのが残念だが━━とりあえずは楽しみだ。

 第1弾はプッチーニの「トゥーランドット」(アルファーノ補作版)。
 これはあのフランコ・ゼッフィレッリ演出&舞台装置による、プレミエ以来30年以上になる豪華絢爛たるプロダクションだ。日本でも1988年にスカラ座が持って来て上演したことがある(指揮はマゼールだった)が、今ではこんなカネのかかる舞台を制作できるのはMETくらいしかなかろう。それにやはりMETのような巨大な空間を持つ舞台でないと、本領を発揮し難い舞台だ。

 今回は指揮がヤニック・ネゼ=セガン、トゥーランドットをクリスティーン・ガーキー、カラフをユシフ・エイヴァゾフ、リューをエレオノーラ・ブラット、ティムールをジェイムズ・モリスといった顔ぶれ。
 ネゼ=セガンは、インタヴュ―でも話していたが、この音楽に含まれる優しさ、叙情的な美しさをも重視した解釈を採っているように感じられる。METのオーケストラの演奏も、それをよく反映したものになっていただろう。

 但し問題は、主役の2人である。
 ガーキーは可愛らしい雰囲気や柔らかい声質などから言って優しい感じのトゥーランドットだったが、しかしたとえ「脅えながらも愛に憧れる女性」(ネゼ=セガンのコメント)などと贔屓目に解釈してやるにしても、求婚者を「軽蔑しながら」30人近くも殺してしまった惨酷極まる業の咎を負うべき皇女の役柄表現としては、それが相応しいかどうか。

 一方エイヴァゾフは、カラフにしては声が細身だ。3年前だったか、ネトレプコと東京でデュオ・コンサートをやった時にも感じたことだったが、いわゆる英雄的テナーではないから、謎解きの場面などではどうしてもパワーが不足することになる。それに、芝居があまりにも下手だ。リューが自らを犠牲にして彼を救った場面での、彼の演技の無表情さと言ったら・・・・。

 惨酷で我儘な皇女、身勝手な異国の王子━━ストーリーは随分いい加減なものだが、プッチーニの音楽は、やはり素晴らしい。特に第1幕の音楽は、彼の最後の輝きだろう。
 ただその一方、ネゼ=セガンは、前記インタヴュ―の中で「・・・・しかし音楽には、ちょっと脆いところがある。おそらく彼は、自らの最期を意識していたのではないか」と語っている。第2幕中盤以降の音楽に関して言うなら、私も同意見だ。

2019・11・19(火)ズービン・メータ指揮ベルリン・フィル

     ミューザ川崎シンフォニーホール  7時

 こちらベルリン・フィルも、シェフのキリル・ペトレンコとではなく、客演のメータとの日本ツアー。

 メータは昨年のバイエルン放送響の日本公演でヤンソンスの助っ人として急遽来日した時には、介添人に支えられつつ歩いていたが、今回はステッキこそ使用していたものの、独りでゆっくりと歩みを進めてステージへ出入りしていた。
 そして、ステッキを指揮台の背後の手摺に無造作に引っ掛け、椅子に座るが早いか、そのステッキの揺れが未だ治まらぬうちに、断固たる勢いでオーケストラを率いて演奏に突き入る。その気魄は、相変わらず若々しい。

 8回公演の今日は5日目で、R・シュトラウスの「ドン・キホーテ」と、ベートーヴェンの「英雄交響曲」がプログラムだった。

 回ってきた席が2階正面2列目の最右翼という、初めて体験する位置だったので、音のバランスを判断するのには少々難しかったものの、ベルリン・フィルの巧さと力感を明確に受容することはできる。とはいえ「ドン・キホーテ」では、作品の性格から言って、各楽器のパートが室内楽的に絡み合う面白さは味わえたものの、ただそれだけにとどまったというのが正直なところだ。

 このオーケストラの実力を堪能できたのは、やはり「英雄交響曲」においてだった。
 ベルリン・フィルがベートーヴェンを演奏すると、一種の嵐のような激しさというか、巨濤が荒れ狂うような物凄さというか、そういったものが常に噴出して来る。第1楽章で弦楽器群が大きく波打ちながら主題を展開して行く個所など、まさに壮烈な趣だったし、第2楽章でミノーレに戻ってからの音楽が、ホルンのあの主題(スコア通りに3番奏者が独りで吹いていたが、結構なパワーだった)などを経て一段、また一段と力を強めて行くあたりも、いかにもベルリン・フィルらしい力感だったろう。

 更に感心させられたのは第4楽章後半で、ここがこれだけ堂々たる威容を以って演奏された例は決して多くは無いだろう。メータも、病を克服してからは、もう昔のメータとは違い、何か一種のカリスマ的な力を備えた指揮者になったような趣がある。

2019・11・18(月)パーヴォ・ヤルヴィ指揮
ロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団

   サントリーホール  7時

 5回公演の初日。「タンホイザー」序曲と、ベートーヴェンの「ピアノ協奏曲第2番」(ソリストはラン・ラン)、ブラームスの「交響曲第4番」が演奏された。

 ダニエレ・ガッティの辞任により、首席指揮者のポストが空席となっているRCO。今回はパーヴォ・ヤルヴィが客演指揮者として同行して来たが、この顔合わせは、なかなか面白かった。

 まず、RCOの音だ。しっとりした美音、瑞々しくて厚みのある弦を中心とした上品なサウンド━━ハイティンク時代に私を魅了したあの「コンセルトヘボウの音」は、その後のシェフたるマリス・ヤンソンスやガッティの下では、ほとんど失われていたのではなかったか? それが今回、客演のパーヴォの下では、それがかなりの程度まで蘇っていたのである。
 また彼の方でも、N響やドイツ・カンマーフィルなどを指揮する時とは異なり、老舗RCOの伝統を尊重し、その固有の気品ある音を再現させようとしていた様子がありありと感じられたのだった。

 たとえば、ブラームスの「4番」━━その冒頭、主題をゆっくりと奏しはじめた弦楽器群の、驚くほど柔らかい、羽毛のような響きの素晴らしさ。
 あるいは第2楽章で、弦があの幅広い主題をdolceで奏し始める個所(第41小節から)での、まるで空中を漂う雲のような、軽やかな美しさ。
 RCOの弦は、昔ながらのものだった。とかくガリガリと、攻撃的な強さで演奏する指揮者とオーケストラの多い当節、このRCOの弦の音色は、私には、久しぶりに巡り合ったオアシスのように感じられた。老舗オケからこういう音を引き出すことのできるパーヴォ・ヤルヴィは、やはり並みの指揮者ではない。

 また彼は、「タンホイザー」序曲では、RCO相手の他人行儀の挨拶の如く坦々とした指揮ぶりだったのに対し、ブラームスの「4番」では一転して、第1楽章終結部や第4楽章コーダなどで、テンポを速めて猛烈に追い上げる劇的な昂揚感を生み出した。そこではもう遠慮などをかなぐり捨て、オケに真剣勝負を挑んで行くといったような姿勢が感じられ、これも面白かった。
 しかも彼はRCOを壮大に響かせながらも、常にその音には明晰さを保たせ、決して汚れた絶叫にはしないのである。パーヴォの本領ここにあり、か。

 協奏曲を弾いたラン・ランは、もうすっかり「大人の演奏」をするピアニストになった。この曲の叙情的な特徴を前面に押し出し、第2楽章の最後などでは音楽が止まるかと思われるほどの沈潜した演奏を聴かせる。彼のソロに備わっている瑞々しさと爽やかさを認めるのに吝かではないが、それにしても随分「難しい曲」を選んだものである。ソロ・アンコールにはメンデルスゾーンの「紡ぎ歌」を弾いた。

 オケのアンコールは、またブラームスの「ハンガリー舞曲」(今日は「3番」と「1番」)だった。彼の交響曲のあとのアンコールというと、必ず出て来るこの舞曲集。何か他に新機軸はないものだろうか。

 なお一つ、このオケには、安藤智洋という人が首席ティンパニ奏者として活躍している。今日も見事な演奏を聴かせてくれたのは嬉しい。

2019・11・16(土)ジョナサン・ノット指揮東京交響楽団

      サントリーホール  6時

 音楽監督ジョナサン・ノットの指揮。ベルクの「管弦楽のための3つの小品」と、マーラーの「交響曲第7番《夜の歌》」が演奏された。コンサートマスターは水谷晃。

 統一の取れたコンセプトによる良いプログラムだ。私の(多分皆さんも同様だろうが)お目当てはもちろん「夜の歌」だったけれども、今日の印象では、緻密に演奏されたベルクの作品の方に大きな充実感があった。

 マーラーの方では、ノットの獅子奮迅の指揮により体当り的な熱演が生れていたものの、金管の一部に些か不安定なところがあったのと、アンサンブル全体に力任せのような粗さが聞かれたことなどで、全面的に賛辞を贈るまでには行かなかった、というのが正直なところである。

 この「夜の歌」におけるノットの解釈は、先立つ4つの楽章をも、すべて終楽章の躁的な熱狂に至る過程として位置づけ、それによりこの交響曲を「散漫な構成」という批判から救い、全曲を統一された流れに構築することを図っている━━という印象を得たのだが、それがうまく行ったかどうか。
 むしろ、先立つ4つの楽章の特徴である━━それがまた最大の魅力となっているはずなのだが━━怪奇でミステリアスな世界がどこかへ押しやられ、全てにおいてマーラーの「躁」の部分だけが強調される結果を生んでしまったのではないかという気もするのである。

2019・11・16(土)「音楽のある展覧会」

       ホテルオークラ東京別館

 サントリーホールでのノット=東響=マーラーを聴く前に、インバル=都響=ショスタコーヴィチの強烈な「毒気」(?)を冷やそうと思い、ホテルオークラ別館地下2階のアスコットホールで開かれている「ウィーン楽友協会アルヒーフ展《19世紀末ウィーンと日本》~日本・オーストリア友好150周年記念~」へ立ち寄る。これはサントリーホールの主催で、ウィーン・フィルの来日に合わせた行事だ。

 R・シュトラウスらの自筆楽譜、昔のウィーン帝室歌劇場や楽友協会大ホールの絵なども目を惹くが、「ウィーン万国博の日本庭園を行く皇帝フランツ・ヨーゼフと皇后エリーザベト」の木版画は、私の祖父が万国博覧会事務官兼伊墺国公使館在勤書記生として関与した関連もあって、個人的に感銘が深かった。
 ついでながら祖父はのち1880年代に墺国公使館書記官になり、年俸英貨580ポンドを下賜されたというが、これは現在の相場だと、いくらくらいになるのかしらん。

2019・11・16(土)エリアフ・インバル指揮東京都交響楽団

      東京芸術劇場 コンサートホール  2時

 今日はC定期。ショスタコーヴィチの「ヴァイオリン協奏曲第1番」(ソリストはヨゼフ・シュパチェク)と「交響曲第12番《1917年》」というプログラム。コンサートマスターは山本友重。

 これはもう何とも「濃い」プログラムで、演奏も峻烈を極めた。
 ただし、私がより面白いと感じたのは、チェコのヨゼフ・シュパチェク(33歳)を迎えたコンチェルトの方である。この演奏は見事な起伏感に富んでおり、特にアレグロ楽章での、止まる所を知らぬ、永遠に休みなく疾走を続けるかのような音楽を鮮やかに弾きまくったシュパチェクの若々しいエネルギーは素晴らしい。
 彼がソロ・アンコールで弾いたイザイの「第5ソナタ」の第2楽章も、これほど開放的なイザイもあるまい、と思わせるほどの小気味よい演奏だった。

 休憩後の「1917年」では、インバルは都響を文字通り怒号咆哮させた。それはまさに剛直かつ壮烈な演奏であった。しかしこれだけ、緩徐楽章も含めて終始戦闘的なイメージで構築されると、この「第12番」と、あのヒューマンな哀悼の祈りを織り込んで起伏感を豊かに持たせた「第11番」との作品としての差が、否応なしに目立って来るのではないか。

 都響の演奏としては、11日の「11番」の時よりは、今日の方が良かったように思う。特に冒頭でのチェロとコントラバスの響きは美しい。

2019・11・15(金)ティーレマン指揮ウィーン・フィル

     サントリーホール  7時

 今回の来日ツアー最終日。第1部でR・シュトラウスの「ドン・ファン」「ティル・オイレンシュピーゲルの愉快ないたずら」、第2部でヨハン・シュトラウスⅡの「ジプシー男爵」序曲、ヨーゼフ・シュトラウスの「ディナミーデン」、そして最後に再びR・シュトラウスの「ばらの騎士」組曲が演奏された。
 「ばらの騎士」のワルツのモティーフを先取りしたような「ディナミーデン」をその前に置いたのは、良いアイディアと言えるだろう。アンコールはエドゥアルト・シュトラウスのポルカ「速達郵便」。

 R・シュトラウスの作品なら、あのティーレマン節を久しぶりに聴けるかなと期待して行ったのだが、意外にストレートで、芝居気の皆無な演奏に終始していたのには少々拍子抜け。
 まあ、彼がウィーン・フィル相手に「英雄の生涯」で大芝居の演奏を聴かせたのは、もう16年も前、彼も未だ若かった頃のことだから、致し方あるまい。ただ、その後シュターツカペレ・ドレスデンと日本で演奏した「アルプス交響曲」にしても、バイロイトで指揮していたワーグナーものにしても、もう少し細かい構築や、劇的な演出を聴かせていたものだが━━。

 そこで今日はむしろ、ヨハン・シュトラウス一家の作品での演奏の方が、より解放的な趣を出していたようである。
 ただそこではティーレマンは、コンサートマスター(ライナー・ホーネック)と緊密に呼吸を合わせながら、時には指揮をやめてしまったりしながら、練達のオーケストラに敬意を払って委細をお任せしていたような雰囲気も感じられたが。

 終演後に小ホールでフェアウェル・パーティが行なわれたが、そこで挨拶に立ったティーレマンは、指揮台での彼とは別人のような雰囲気。
 おそろしく神妙な顔つき、かしこまった姿勢で、「ウィーン・フィルと仕事をすると勉強になります、この1ヶ月間、自分は多くの素晴らしいことを学ばせていただきました」と、何とも殊勝なことを述べていた・・・・。

2019・11・13(水)河村尚子のベートーヴェン・プロジェクト第4回

       紀尾井ホール  7時

 正確なタイトルは「河村尚子 ベートーヴェン:ピアノ・ソナタ・プロジェクトVol.4(最終回)」。
 ベートーヴェンのソナタの(全集でなく)選集を4回の演奏会で取り上げて来たツィクルスの今日は最終回である。最後のソナタ3曲(第30番、第31番、第32番)が演奏された。

 デビューしてからまだ15年(初稿では「1」が脱落していました。失礼)くらいしか経っていないのにもかかわらず、彼女はすでに圧倒的な実力と人気を誇る存在である。今日の3曲でも、ベーゼンドルファーのピアノを駆使して彼女が描き出すベートーヴェンの姿は、率直で新鮮で、並外れてスケールが大きい。強靭で激烈な力が漲るが、それが鋭いアクセントを備えながらも全く神経質なものにも、乾いたものにもならず、むしろ清らかなふくよかさを湛えているように感じられるのである。
 注意深く聴いていると、随所に細かい設計と計算が施されていることに気づくが、それが鼻につくことは全くない。むしろ自然な流れの中に浸らされてしまうのだ。

 たとえば、休憩後に演奏された「第32番」。この曲での彼女の演奏には本当に驚嘆させられた。
 ほんの一例だが、第4変奏(第65小節から)に入った瞬間、まるでクライマックスへの準備かと思わせるような重々しい期待感に溢れた低音部の蠢きが開始されるが、そこで彼女が設計した起伏感の豊かさ、これから何かが始まるのではないかと思わせる強い緊張力は、実に見事だった。

 一方、その透明な明るさに富んだ音に、もう少し色彩感が加わってもいいかなと思わせるところがないでもない。しかしそんな中で、第106小節からのトリルが、これ見よがしにではなく、遠くから響く声のように、夢見るように鳴り始めるのを聴いた時には、この人の音色感覚はやはり並みのものではないな、と舌を巻かされるのである。

 彼女のピアニズムには、この先どこまで拡がるか判らないほどの無限の可能性があるだろう。彼女のリサイタルを、もう少し繁く聴きたいものである。

2019・11・13(水)新国立劇場「ドン・パスクワーレ」

     新国立劇場オペラパレス  2時

 ドニゼッティのオペラ「ドン・パスクワーレ」は、新国立劇場としてはこれが初、つまり「ハウス・プレミエ」になる。

 今回はコッラード・ロヴァーリスの指揮、ステファノ・ヴィツィオーリの演出、スザンナ・ロッシ・ヨストの舞台美術。東京フィルハーモニー交響楽団、新国立劇場合唱団(三澤洋史指揮)、ロベルト・スカンデウィッツィ(ドン・パスクワーレ)、ピアニジオ・ピツーティ(マラテスタ)、ハスミック・トロシャン(ノリーナ)、マキシム・ミロノフ(エルネスト)、千葉裕一(公証人)が出演した。
 5回公演の今日は3日目。

 舞台と舞台は極度にトラディショナルなものだが、演技も非常に微細にわたっていて、それなりにユーモアもあり、娯楽作品としてはよく纏まっていたと言っていいだろう。
 それに歌手陣が粒揃いで、滋味と貫録に富むスカンデウィッツィ、軽快な動きと美しい声が映えるトロシャンらをはじめ、歌唱面でも演技面でも、まず文句はない。またロヴァーリスの指揮が、ややおとなしい雰囲気ながらもテンポよく東京フィルをまとめていたこともあって、聴き易かった。

 まあ、細かいところでは、第3幕でのパスクワーレとマラテスタのコミカルな2重唱がもう少し「合って」いればとか、全曲大詰のオーケストラのエンディングが甚だ締まらなかったとか(観客の拍手も一瞬戸惑った)いうことはあるのだが、ナマなのだし、もののはずみということもあるから、気にしないでおこう。

 ただ、下世話な(?)話になりますが、このオペラの内容は、かなり酷いエイジ・ハラスメントじゃないでしょうか? 結婚詐欺女ノリーナが「老人の夫」パスクワーレを言いたい放題罵倒する歌詞と来たら、今だったらネットで「炎上」すること間違いない。
 ━━という話を何人かの知人たちにしたら、みんな口を揃えて「そうだそうだ」と。「ありや完全な爺ハラだよ」とか、「そういえば《ファルスタッフ》だってそうですよね」とか言う人もいた。
 今日はマチネーで、高齢者の観客も多かったから、皆さん、どうだったですかね。1階席の拍手が少なかったのはそのためだったりして? まさか。

2019・11・11(月)エリアフ・インバル指揮東京都交響楽団

      東京文化会館大ホール  7時

 桂冠指揮者エリアフ・インバルの指揮する今回の一連の演奏会は、全てロシアの作品でプログラムが組まれている。その第1弾たるこのA定期は、チャイコフスキーの「フランチェスカ・ダ・リミニ」と、ショスタコーヴィチの「交響曲第11番《1905年》」。都響のコンサートマスターは矢部達哉。

 先日のブロムシュテットと同様、インバルも指揮のエネルギーは相変わらず旺盛だ。インバルの方が9歳も若いのだから当然かもしれないが、それにしても83歳の高齢でこれだけオーケストラを厳しく構築して制御できるのは、やはり見事と言わなければならない。
 もっとも、先頃彼が日本で指揮したベルリン・コンツェルトハウス管と違い、高齢の名演奏家には絶対的な敬意を払う日本のオーケストラであるがゆえに、このようながっしりとした演奏を以って応えることができる、といった見方もあるだろう。

 「1905年」では、インバルは第1楽章冒頭から強いテンションに溢れた指揮で開始した。弦も最弱音というよりは、むしろ強めの「p」で非常に明確に奏される。
 従ってこの楽章は、多くの指揮者が採るような、悲劇の前の神秘的な静寂を描く、という表現でなく、既に一触即発の緊張感が宮殿前広場一帯に立ち込めている━━とでもいった雰囲気になって行くのだ。

 彼の指揮が持つこの勢いが交響曲全体を支配するため、銃撃の悲劇から哀悼の歌へ、未来への闘いへの昂揚━━と進む流れが、一つの緊迫に満ちたバランス感の中に統一される結果を生んだとも言えよう。インバルは極めて切れのいい、シャープなリズムで、曲をたたみ込んで行った。
 ただ、それはいいのだが、このホールのアコースティックの所為もあって、怒号絶叫の個所におけるオーケストラの音色は些か混濁気味になっていた、という印象も拭えまい。

 「フランチェスカ・ダ・リミニ」でも、インバルの指揮はほぼ同じ傾向を示していた。だが、チャイコフスキーの作品の中で、必ずしも優れた作品とは言い難いこの曲の場合には、それがインバルのような真正面から取り組んで厳しく構築するタイプの指揮に応えられるものかどうか、ちょっと難しいところがあろう。

2019・11・10(日)沼尻竜典指揮東京交響楽団

      ミューザ川崎シンフォニーホール  2時

 モーツァルトの「2(3)台のピアノのための協奏曲へ長調K.242《ロドロン》」と、ショスタコーヴィチの「交響曲第11番《1905年》」が、沼尻竜典の客演指揮で演奏された。コンサートマスターは水谷晃。

 協奏曲を弾いたのは、ユッセン兄弟という不思議な2人。兄のルーカスは26歳、弟のアルトゥールは23歳、一見双子かとも思えるようなよく似た青年同士。ステージでの動きも躍動的で、あまりクラシック系の音楽家のように見えぬところが面白いが、演奏そのものは、特に新しいスタイルを創り出すといった段階には未だ至っていないようだ。

 もう少し、はじけた何かが出て来ればユニークな個性が備わるのではないかと思うが━━ゆえに今日はアンコールで弾いたイゴール・ロマ(ピアニスト)の編曲になる「シンフォニア40」とかいう、モーツァルトの「交響曲第40番」の第1楽章をモティーフにした素っ頓狂なデュオ曲の方が余程面白く、こういうポップな音楽の方に彼らの良さが出て来るのかな、とも思いながら聴いていた。

 後半は、ショスタコーヴィチの交響曲「1905年」。
 とかく流れが曖昧になりかねない第1楽章で、沼尻が極めて明確な形式性を創り出していたのには感心。ただ、東響の金管に不安定な個所が2つばかりあったおかげで、気分的に水をさされたような感も否めなかったし、また終楽章のコール・アングレの歌の部分ももう少ししっとりした哀悼感が出せなかったかとも思う。

 しかし、そういう細かいところは別として、全体としては東響も壮大な響きを出していたのは確かだ。銃撃戦の場面は、あまり凄愴ではなかったものの、音響的な迫力は充分だった。「同志は倒れぬ」の歌も美しい。そして終楽章の大詰では、沼尻も東響も、凄まじいほどの圧倒的な頂点を築いて行った。
 最後の1小節では、全管弦楽を停止させた後にも、2階席のオルガンの横の上手側に配置された鐘(チューブラー・ベル)の余韻を長く長く響かせて曲を結んでいたが、これはスコアの指定にはないものの、極めて秀逸な手法であった。

2019・11・8(金)シフのベートーヴェン協奏曲ツィクルス

     東京オペラシティ コンサートホール  7時

 今年66歳になるアンドラーシュ・シフ、素晴らしい円熟ぶりだ。
 今回は、自ら編成した室内オーケストラ、カペラ・アンドレア・バルカとともに、ベートーヴェンのピアノ協奏曲全5曲のツィクルスを2日連続で開催。その2日目のプログラムは、「第1番ハ長調」と、「第5番変ホ長調《皇帝》」。

 特に緩徐楽章でのシフの演奏の表情の多彩ぶりは、本当に驚くべきものだった。そこではまるでベートーヴェンが寛ぎ、朗らかに笑い、瞑想し、振り返って私たちに微笑みかけるかのよう。
 たとえば「第1番」の第2楽章で、第67小節から音楽が活気づき、少しリズミカルな曲想になる個所だが、そこではシフの演奏は、突然、思ってもみなかったほど解放的になり、愉しげに飛び跳ねるような、陽気な表情に変わって行ったのだ。

 私はそこでほんの一瞬だが、ベートーヴェンの「第3ピアノ協奏曲」の初演の際にその譜めくりを頼まれたザイフリートが書き残している一文を思い出してしまった━━そこには、「ほとんどが空白か、わけの解らぬ象形文字ばかりが記された譜面を見て自分が慌てふためいていた様子を、公演後の夜食の時にベートーヴェンが面白がって皆に話し、腹をかかえて大笑いしていた」という光景が報告されているのである。

 こんなふうに、曲のあちこちにベートーヴェンの顔が見える、というような演奏に出合うことは、滅多にない体験ではなかろうか。

 至福の演奏が終ったあとで、シフとオーケストラは、前日のプログラムに含まれていた「第4ピアノ協奏曲」から、第2楽章と第3楽章を再び演奏した。更にそのあとにもシフは、オーケストラを板付きにしたまま、「ソナタ第24番」を2つの楽章とも全部演奏してくれた。私としては、聴き逃した前日の「4番」を一部ではあったが取り返したようなものだったから、大いに気を良くした次第である。しかもその「4番」の演奏の、何と深みがあって、しかも堂々たる風格を感じさせたこと! 
 協演のカペラ・アンドレア・バルカは小編成ながらも、重厚で剛直で揺るぎなく、大編成のオーケストラをさえ凌ぐ威容を示していた。

 ちなみに前日のアンコールには、「皇帝」の第2楽章と第3楽章、それに「葬送ソナタ」の第3・4楽章が演奏された由。翌日のメイン・プロたる「皇帝」を前日にアンコールで(抜粋ながら)演奏するという想定外の出来事には、皆びっくりしたそうだ。従って、今日は何をやってくれるかなということが、開演前からすでにロビーで話題になっていた。

2019・11・7(木)ヘルベルト・ブロムシュテット指揮NHK交響楽団

      サントリーホール  7時

 ベートーヴェンの「英雄交響曲」、R・シュトラウスの「死と変容」、ワーグナーの「タンホイザー」序曲━━という演奏順によるプログラム。

 昔はこのように大シンフォニーを冒頭に持って来るプログラミングが多かったようだが、近年ではまず稀なものだろう。伝え聞くところによれば、今日のプログラムは、昔アルトゥール・ニキシュがやったものの再現だとか。
 それはそれで面白い趣向だが、聴く側としては━━といっても私だけの問題なのかもしれないが━━最初の「英雄交響曲」があまりに偉大に感じられて、それに精神を集中し過ぎたせいか、不思議なことながら、最後の序曲あたりになると、何となくこちらの気持に疲れが出て来てしまい・・・・。

 しかし、指揮するブロムシュテットのほうは━━1927年生れで、92歳の誕生日を既に過ぎた人だというのに、相変わらず驚異的に元気だ。3曲とも立ったまま、暗譜で明快に指揮し、オーケストラから鋭い力感を引き出し続ける。
 全体にテンポは速めで、緊張度にも些かの緩みがない。「英雄」の第1楽章など、その「アレグロ・コン・ブリオ」という指定が、ただテンポのみを意味しているのではなく、闘争的で強靭な意志力を漲らせた音楽であることをも要求しているのだ━━ということを改めて認識させてくれる、そういう演奏なのだった。
 コンサートマスターは篠崎史紀。

2019・11・6(水)オロスコ=エストラーダ指揮ウィーン・フィル

     ミューザ川崎シンフォニーホール  7時

 ラフマニノフの「ピアノ協奏曲第3番」(ソリストはイェフィム・ブロンフマン)と、ストラヴィンスキーの「春の祭典」。
 ウィーン・フィルのロシア・プログラムなど、日本ではなかなか聴けないだろう。2004年にゲルギエフが指揮した時には、チャイコフスキーの「5番」「悲愴」などが取り上げられたことがあるが━━ましてこのオケの「春の祭典」など、それこそナマでは滅多に・・・・。

 指揮はアンドレス・オロスコ=エストラーダ。コロンビア出身の42歳の若手で、現在フランクフルト放送響の首席指揮者。4年前に同響とともに来日したことがある。来年秋からはウィーン響の首席指揮者に迎えられる予定とか。

 彼とウィーン・フィルの組み合わせにも興味があったが、流石に相手がウィーン・フィルとなると、彼もそうそう思う通りにオケを振り回すわけにも行かぬようである。「春の祭典」ではほぼイン・テンポで演奏していたが、それ以外に方法はなかったのだろう。良く言えば、豊かな重低音を基盤として、滔々たる巨河の如き音楽を構築して行ったということになるか。
 豪壮雄大で激烈な「春の祭典」ではあったが、必ずしも凶暴で刺激的な音楽ではなく、それは20世紀初頭に音楽界を震撼させた作品というよりは、今や古典的名作となったというイメージを私たちに抱かせる類の演奏であったろう。

 もちろん、重戦車の如き進軍ではあったものの、リズム感は充分で、ティンパニの歯切れのいい響きもいい。「選ばれし乙女への賛美」での煽るようなリズムなどは久しぶりに聴く小気味よさだった。金管群は強烈で、しばしば弦楽器群を覆い尽くしたが、その弦がたまに表面に現れ出た時には、それがウィーン・フィルらしい一種の甘美な艶のようなものを感じさせるのが面白い。

 オーケストラのアンコールはヨゼフ・シュトラウスの「憂いもなく」━━弦楽器奏者たちが大声で「ハ、ハ、ハ」と笑うあれである━━で、今回はティンパニの一撃に合わせて指揮者が聴衆に手拍子を一発ずつやらせるテを使っていた。
 知人によれば、昨夜指揮したティーレマンもこの曲を取り上げたというが、彼はそういうことはしなかったそうな。もっとも、あのティーレマンが笑みを浮かべて客席に手拍子を求めたりしたら、それこそ不気味だろう。

 プログラムの前半は前述の通りラフマニノフ。この「3番」をブロンフマンが弾いたのを12年前にザルツブルク・イースター音楽祭で聴いたことがある(協演はラトルとベルリン・フィル)が、その時の怒涛の演奏に比べ、随分落ち着いた表現になってしまっていたのには驚いた。この人、どういうわけか私は演奏会で聴く機会が多いけれども、正直言って、あまり感動したことはないのである。
 なお彼はアンコールにショパンの「ノクターン 作品27の2」を弾いたが、これは骨太なマッチョが優しい声で語るような、実に不思議なショパンだった。

2019・11・4(月)ヤニック・ネゼ=セガン指揮フィラデルフィア管弦楽団

      サントリーホール  4時

 日本ツアーの2日目、チャイコフスキーの「ヴァイオリン協奏曲」とマーラーの「交響曲第5番」という組み合わせで、全4回の日本公演のうち、このプログラムは今日だけの由。

 音楽監督就任以来8シーズン目に入ったネゼ=セガンは、すでにこのオーケストラと一体化しているようだ。
 今日の、特にマーラーの「5番」では、奇を衒うことのないストレートな指揮の裡に、名門フィラデルフィア管弦楽団を自在に制御する━━というよりもむしろ、指揮者の考える音楽を充分に主張しながらも、オーケストラに伸び伸びと演奏させる、といった境地を実現しているように感じられるのである。

 フィラデルフィア管弦楽団のブリリアントな響きも健在だ。「5番」の第1楽章では、いくつかのソロ楽器の3連音符に少々無頓着な演奏も聞かれたものの、アンサンブルの音の均衡は前回来日の頃よりもずっと安定している。
 ともあれこれは、神経質な葛藤や自己矛盾などの複雑な心理表現といったものを一切排除した、いかにも屈託ない、壮麗無比な音の大洪水といった印象のマーラーであった。だが、豪華な音響的快感という点では、申し分ない演奏だったことは確かである。

 協奏曲を弾いたジョージア(グルジア)出身のリサ・バティアシュヴィリは、洗練された透明感と、率直な叙情と、若々しい躍動とを兼ね備えた演奏で、魅力的な人だ。一方のオーケストラの方は━━この曲になると、途端に昔のオーマンディ時代以来の「フィラデルフィア・サウンドによるチャイコフスキー」が蘇って来るから不思議である。その美音は全く見事なもので、良くも悪くも個性的だ。

2019・11・3(日)田尾下哲演出の「カルメン」

    愛知県芸術劇場 大ホール  2時

 「愛知芸文フェス」の一環、「グランドオペラ共同制作」として愛知県芸術劇場、神奈川県民ホール、札幌文化芸術劇場、東京二期会、名古屋フィル、神奈川フィル、札響が制作に名を連ねたビゼーの「カルメン」。既に10月の横浜での2回の上演を終り、今日が名古屋公演の2日目である(札幌は来年1月になる)。

 今日の指揮は、横浜公演と同じジャン・レイサム=ケーニック。オーケストラは名古屋フィル(コンサートマスターは後藤龍伸)、合唱は二期会合唱団と愛知県芸術劇場合唱団、名古屋少年少女合唱団。
 ダブルキャストの今日は、アグンダ・クラエワ(カルメン)、城宏憲(ドン・ホセ)、与那城敬(エスカミーリョ)、嘉目真木子(ミカエラ)、青木エマ(フラスキータ)、富岡明子(メルセデス)、桝貴志(モラレス)、大塚博章(スニガ)、加藤宏隆(ダンカイロ)、村上公太(レメンダード)という顔ぶれ。

 今回の「カルメン」の最大の特徴は、田尾下哲による、日本のオペラの演出には稀なほどの思い切った読み替え演出にあるだろう。
 読み替えとはいっても、ドイツ各地やロンドンあたりでよくやられているような、「何が何だか解らない」という「謎解きタイプ」の舞台ではない。METでマイケル・メイヤーが「リゴレット」をラスヴェガスでの事件として描き出したような、理解の容易なスタイルによるものだ。
 アルコア版楽譜が使用されていたが、台詞は大幅にカットされ、時には演出に合わせて変更されていた。歌詞は変更なしだが、字幕(田尾下自身による)表示に於いては多少の調整があったようである。

 今回作られたドラマは、ト書き上のスペインの煙草工場、リリアス・パスチャの酒場、山中、闘牛場の前━━という各設定を大幅に変更し、アメリカのショー・ビジネスの世界としている(と、演出家は書いている)。

 第1幕はクラブで、オーディション風景から開始されるという奇抜なアイディア。映画「コーラス・ライン」さながら、舞台上の「five,six,seven,eight!」の声に続いて「前奏曲」が始まり、それに合わせてダンスのオーディションが繰り広げられる冒頭にはニヤリとさせられるが、カルメンやミカエラが、オーディションを受けに来た「ミュージカル女優の卵」だという設定は、辻褄が合うだろう。

 第2幕「ブロードウェイ劇場」では、スターとなったカルメンが歌い踊る「ジプシーの踊り」や、人気の大スター、エスカミーリョが歌う「闘牛士の歌」が、観客を前にしてのショウ・ナンバーとして扱われ、以降は「客が帰ったあとの話」になるという設定には「やられた」という感。
 暗黒街と繋がる悪徳警官スニガを銃で脅して退散させたと思ったら、今度は警官隊が逆襲して来てカルメンたちが追い出されるというのは少々ややこしいが、それが第3幕の、一同が落ちぶれて、寂れたサーカス一座にいるという設定に繋がるようだ。
 そこでもオーディションが行なわれ、ミカエラがホセに会うため応募者に化けて一座に潜入し、見事なアリアで一同を感心させてしまう設定も気が利いているだろう。

 第4幕がいきなりアカデミー賞授賞式の劇場前になるのはあまりピンと来ないけれども、とにかくカルメンはエスカミーリョと共演する大スターとなっているらしい。テレビカメラ・クルーやレポーターを登場させる手法はペーター・コンヴィチュニーがウィーン国立歌劇場で演出した「ドン・カルロス」でもおなじみだが、このあたりの演技が実に細かく出来ていたのには感心した。
 そしてカルメンが殺されたあとに「劇場」から出て来たエスカミーリョが既に他の女性を同伴している様子に女性レポーターが唖然とする光景などがあって、ドラマが終る。

 ありとあらゆる要素を詰め込んだ芝居である。狙いはよく出来ているだろう。ただ、私の印象では、4つの幕の関連性は、必ずしも演出意図通りに理解できるとは言い難い。一種のオムニバス形式のドラマのように見えなくもないのだ。
 だが、メイヤーの「リゴレット」でさえも、第1幕以降はコンセプトが尻つぼみになっていた傾向なしとしなかったくらいだ。この「カルメン」も、未だ札幌上演が残っている。それまでにもう一工夫があれば。

 この演劇的な「カルメン」の舞台にあって、歌手陣も演技の面でも頑張っていた。カルメン役のクラエワは未だ真面目なオペラ歌手という雰囲気が残っていて、多少ぎこちないところも見られたようだ。
 なお、容姿抜群のダンサーがいきなり歌い出したのにはびっくりしたが、これはフラスキータ役の青木エマだった。この人は舞台映えする。

 しかし、最も感心させられたのは、合唱団である。歌唱もいいが、演技が素晴らしく上手く、主役たちの動きに対しても実に細かく反応する演技を見せてくれる。日本のオペラの合唱団は、近年目ざましいものがある。
 特に女声合唱団員は、演技もダンスも見事なものだ。ダンサーが大勢交じっているのかと思ったくらいだが、クレジットされている本職の踊り手は、たった6人だった。それに子供たちの演技も細かくて可愛い。配役表には「助演者」が載っていなかったので、そうするとレポーターもカメラクルーも野次馬も全て合唱団員がやっていたことになるのだろうが、それにしても巧かった。

 あえて不満を申し立てるとすれば、指揮者とオーケストラだ。この演劇調の「カルメン」なら、演奏には、もっと活気に富む、切れのいい、沸き立つような雰囲気が必要である。遺憾ながらケーニックの指揮は、どうも生真面目すぎる。
 また名古屋フィルも、何故か今日は、これまでステージ演奏で聴いていたのとは、まるで別のオケのようだった。響きは薄く、ソロにもまさかと驚かされるような頼りないところが二つ三つあったし。

 しかしともあれ、日本のオペラ上演におけるスタンダード・オペラへの新アプローチとしての試みとしては、これは非常に有意義なものがあったことは疑いない。
 残念だったのは、それほどの力作にもかかわらず観客の数があまりに寂しかったこと。入りは3分の1くらいだったか? 事前のPR活動をもっとやっておいたら、もう少し何とかなったのではないかと思うが━━横浜(神奈川県民ホール)では事前講座や入門用サンプル上演など、「関連企画」をかなり活発に開催していたし、札幌でも若干の開催予定があると聞くが、名古屋公演分に関しては、どうだったのか? 

 休憩2回を含め、終演は5時15分。

2019・11・2(土)ボレイコ指揮ワルシャワ国立フィルハーモニック

      東京芸術劇場 コンサートホール  2時

 日本・ポーランド国交樹立100周年記念行事の一環として、ワルシャワ国立フィルハーモニックが、芸術監督アンドレイ・ボレイコとともに来日して演奏━━というのが建前らしく、プログラム冊子の表紙やクレジットもオケが主役になっている。

 ところが実際の演奏会では、オーケストラの曲目はスタニスワフ・モニューシコ(1819~72)の歌劇「パリア」序曲という小品1曲だけしかなく、メインは人気のラファウ・ブレハッチ(2005年ショパン国際コンクール優勝)をソリストとしたショパンの「ピアノ協奏曲第2番」と「同第1番」(演奏順)というプログラムになっていて、しかもアンコールは彼の弾くショパンの「マズルカ 作品24の1」のみだった。これではどう見ても主役はブレハッチで、ワルシャワ国立フィルは単に「伴奏者として来日」のイメージと化してしまったようなものだ。

 ワルシャワ国立フィルだけでは地味過ぎて客が来ないと見て、客寄せにブレハッチを加えたというわけなのだろうが、結局オーケストラの方は「庇を貸して母屋を盗られる」の類で、今回も気の毒な役回りになってしまっていた。
 今回もというのは、日本ではこのワルシャワ国立フィルは、概してショパン・コンクール入賞者の演奏会の伴奏として来るオケだ━━というイメージで見られる傾向があるからである。

 従ってここでは、せめてこのワルシャワ国立フィルに、さすがポーランドの楽団らしく、たとえば「協奏曲第2番」の第3楽章においてもマズルカ風のリズムを明確にメリハリ豊かに響かせ、スコアの指定「アレグロ・ヴィヴァーチェ」に相応しい活力をあふれさせて、そのあたりが日本のオケが演奏するのとは天と地ほどの差があって面白い━━とでも賛辞を述べておこうか。

 もちろん、ブレハッチのソロも清楚で率直な良さを出していたことは言うまでもなく、特に彼がアンコールで弾いたマズルカの豊かな詩的な美しさは言葉に尽くし難いものがあった。

2019・11・1(金)アレクサンドル・ラザレフ指揮日本フィル

     サントリーホール  7時

 「ラザレフが刻むロシアの魂」シリーズの一環で、今月定期はグラズノフの「交響曲第6番」と、ストラヴィンスキーの「火の鳥」全曲。コンサートマスターは扇谷泰朋。

 グラズノフという作曲家は、私には以前からどうも相性が悪い。「四季」の「秋」の冒頭部分だけは、子供の頃にニュース映画だかニュース番組だかのテーマ音楽でよく聴いたから、何となくノスタルジー的な親しみがあるのだが、その他の曲については、仕事上の付き合いにのみ限られているのが正直なところだ。しかし、世の中にはやはりグラズノフを愛する人も多いようで、今日の爆演のあとでもブラヴォーの声が少なからず飛んでいた。

 後半は「火の鳥」。
 このオリジナル版には、リムスキー=コルサコフにも師事したことがあるストラヴィンスキーの「ロシア色」が色濃く如実に刻まれていて、格別の面白さがある。4管編成の大管弦楽だが、今日のラザレフは予想外に音量を抑制して、グラズノフの交響曲よりもむしろ控えめな表現を採っていたのが意外であった。しかし、日本フィルから多様な色彩に富む響きを引き出す点では、ラザレフの手腕は、相変わらず鮮やかだ。

 今回はステージに近い2階席下手側と上手側とオルガン下にトランペットを配置し、「夜明け」の個所でそれらを3方から呼応させるという手法が採られていたが、短い音型だし、華麗なフォルティッシモでもないので、折角の趣向もさほど効果が上がらなかったのではないか。またラザレフは、冒頭から驚くほど速いテンポで発進、「戯れる王女たち」の部分では軽やかな推進力で飛ばすなど魅力的な表情も見せつつ、演奏時間も40分ほどに納めてしまった。

 ただ、演奏全体の密度の濃さから言えば、今日はグラズノフの交響曲の方に分があったようにも感じられたのだが━━。

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