2017-04

2・29(金)クリスティアン・アルミンク指揮新日本フィル

  サントリーホール

 冒頭に演奏されたヴォルフガング・リームの「変化」は2002年の作品。
 全曲(15分ほど)を緩やかで秘めやかな曲想を基本に織り成していく。オーケストレーションは彼らしく多彩で、1回聴いただけの印象では、それだけがこの曲を印象づけるといっていいかもしれない。
 現代作品をそれとなくプログラムに挿入して紹介するというのがアルミンク&新日本フィルの方針だ。この作品が紹介されたのはやはり、意義あることであった。

 2曲目はムソルグスキー~ショスタコーヴィチの「死の歌と踊り」。これが今夜最も感銘深い演奏だったといってよかろう。
 正直なところ、アルミンクと新日本フィルがこれほど暗く陰鬱な凄みを利かせた演奏をするとは予想外であった。オーケストラを抑制しながらも空間的な拡がりのある音を響かせ、陰翳豊かな不気味さを引き出す。しかも声楽パートを精妙に浮かび上がらせ、決して管弦楽の中に埋もれさせないのがアルミンクの巧みなところである。
 ソリストは、アニア・シリアの代役として来日したハノーファー生まれの若いメゾ・ソプラノ、カタリーナ・ピーツという人だが、これがすこぶるすばらしく、明晰な芯の強い声で悲劇的な迫力を表現してくれた。この歌曲集を実演でこれほど印象深く聴けたのは初めてである。

 最後はドヴォルジャークの第7交響曲。これはどうも、こちらの期待が大きすぎたか。演奏はきわめて念の入ったもので、柔らかい叙情感を強調するあまり策に溺れた感がなくもなく、それなりにまとまってはいたけれども、曲全体としてはこのアプローチは些か風変わりだ。しかし全曲最後の高揚の個所の和音は、神経の行き届いた演奏の総決算にふさわしく、美しく均整の取れたものであった。
   音楽の友5月号(4月18日発売)演奏会評

2・25(月)三國 洸ピアノ・リサイタル

 杉並公会堂小ホール

 三國 洸(みくに たける)は桐朋大3年在学中。今回のリサイタルは、モーツァルトの「ソナタK.576」、シューベルトの「ソナタ イ長調D.664」、ラヴェルの「水の戯れ」、ブラームスの「ラプソディ Op.79ー2」、リストの「愛の夢第3番」と「ハンガリー狂詩曲第2番」、そしてアンコールにモーツァルトの所謂「きらきら星の主題による変奏曲」という、きわめて意欲的なプログラムだった。
 この中で最も優れていた演奏は、2曲目のシューベルトのソナタ。瑞々しく溌溂とした「歌」があふれていて、旋律の美しさを充分に浮き彫りにしていた。最後の「変奏曲」でも同様。このカンタービレを大切にしていってほしい。問題点としては、音楽のつくりが几帳面に過ぎ、自由な感興に不足するところだろう。特にラヴェルの場合は。それと、指の動きにもっと注意を払うこと。意気満々の若者、精進を期待する。

2・24(日)東京二期会公演「ワルキューレ」最終日

  東京文化会館

 初日とは別の組(Bキャストという表現は最近使わないらしい)を聴く要に迫られ、他の演奏会に行く予定を変更して「ワルキューレ」(マチネー)に向かう。
 都合で第2幕までしか聴けなかったけれど、初日の歌手陣とは異なった演技なども観ることができて興味深いものがあった。第2幕大詰めで、初日の舞台ではジークムントが息を引き取る瞬間に父ヴェルゼ(ヴォータン)を認め、不幸な父子が互いに目を見交わすという感動的な場面があった(このテはたいていの演出で行なわれている)が、今日はその演技が皆無だったのが不思議。かように舞台というものは、同じ演出であっても日によって変わるものである。
 なお、初日(20日)の項で一つ訂正をしておきたい。第1幕の幕切れでフリッカがヴォータンに若者たちの不倫現場を指し示す、と書いたが、今日もう少し近い位置の席(1階L9列)で観たところ、あれはヴォータンでなく、槍を持ったフンディングだった。演技ではフリッカが先に現場を発見したように見えたが、それではストーリーとして理屈に合わないから、フンディングが早くも密告して彼らの道行きをフリッカに見せ、彼女が激怒した演技だった、と解釈せざるを得まい。

 今日の組では、第2幕まででいえば、フリッカの増田弥生が、ベテランの小山由美の風格には及ばずとも熱演の歌唱で好ましく、ジークリンデの増田のり子もひたむきな性格表現を出した。
 初日の横山恵子が「落ち着きすぎの感じのブリュンヒルデ」だと書いたが、今日の桑田葉子も同じような印象だったから、この演出では最初から「元気よく愛らしいブリュンヒルデ」は求められていなかったらしい。フンディングは今日の小鉄和広、先日の長谷川顕とも重量感のある声で成功している。
 ヴォータンの泉良平は、残念ながら馬力だけではこの難役は解決できぬ。声楽的にも役の掘り下げの点でも、時期尚早ではなかったろうか。先日の小森輝彦の、少し線は細いが安定した歌唱の方が好ましかったと今にして思う。

 結局、今回の上演では、一にも二にも飯守泰次郎の円熟の指揮、ということになろうか。「死の告知」の場面の演奏など、きわめて情感にあふれていた。
 もう一つ付記しておきたいが、今回の字幕には些か解らないところがある。特に第2幕には、訳語のニュアンスが異なっているためストーリーを混乱させる個所(ヴォータンの独白の一部)、明らかに意味が逆ではないかと思われる個所(フンディングの歌詞)が見受けられたのだが、どうなのだろう?

 

2・23(土)新国立劇場制作 山田耕筰:「黒船」

  新国立劇場オペラ劇場

 これもまた、滅多に観られないオペラ。とはいえ、これまで上演されたことは何度かあるようで、私が観ていなかっただけのことだろう。
 いずれにせよ、われわれ日本のオペラ・ファンにとっては、大先達の名作(1940年初演)として、一度は観ておくべき作品だ。昔レコードで聴いた時には何か貧弱なイメージを感じたものだったが、今回、若杉弘指揮、栗山昌良演出による念入りなプロダクションに接し、これはやはり日本のオペラとしては大変な力作であったという感慨を抱かずにはいられなかった。

 3つの幕に先立つ「序景」は、過去の舞台上演ではカットされていたそうで、したがってこの部分は実に68年ぶりに舞台初演されたことになる。
 盆踊りの光景に始まる、たいした事件も起こらないわりには長い場面だ。たしかにこれまでカットされていた理由も解らなくはない。が、山田耕筰がこれを書いたからにはそれなりの狙いがあったはずなのであり、その意味でも復活演奏は作曲者に対する敬意として意義あることであろう。その他にも何ヶ所か復活蘇演の個所があると聞く。

 音楽は、どちらかといえば叙情的な部分が多く、オーケストレーションも歌詞がよく聞き取れるように作られている。
 このあたり、山田耕筰が、当時の日本人作曲家としては、オペラというものを驚異的なほど把握していたことを証明するものだろう。声量に不足する日本人歌手の問題を、きわめて巧く解決しているのである。
 もちろん今回は、オペラの指揮に熟達した若杉弘がオーケストラ(東京響)を巧みにドライブしていたことも忘れてはならない。また、譜面上では違和感もあった日本語の音程の跳躍が、実際に聴いてみるとさほど不自然に感じられなかったのも、オーケストラの表情が適切だったためであろう。
 とにかく、随所に現れる「耕筰節」はわれわれを愉しませる。「姐さん教えて下さいな」で始まるお吉の歌の旋律と管弦楽との和音構成など、こちらが照れてしまうくらいに歌謡調が繰り広げられる。これも、オペラにおけるシリアスな面と、親しみやすい娯楽面とを組み合わせるコツを、山田が会得していたからではなかろうか。
 なお上演には字幕が使われていたが、これは歌詞が聞き取れないからということではなく、旧い文語体が多く使用されていたため、言葉の理解を助けることが目的だと思われる。

 演出の栗山昌良は、このような日本ものを手がけると、実に味がある。新国立劇場での「天守物語」なども一種の耽美的な雰囲気があふれて印象的だったが、今回の舞台も日本の様式美を折り込んだ所作と構築が安定感を生んでいた。
 松井るみの舞台美術、緒方規矩子の衣装も美しい。第3幕でのイチョウと紅葉の色づきは華やかであり、観客の目を楽しませた。特に浪人・吉田の切腹場面でイチョウの葉がハラハラと散っていくあたり、いかにも「日本的」な雰囲気だ(ほんとは、もっと盛んに散ってもらいたかったのだけれど)。

 歌手では、腰越満美(お吉)と黒田博(浪人・吉田)が容姿・演技も含めて素晴らしい。いや、その他の歌手たちも、さすがに日本の武士、浪人、芸者、漁師などをやると、これ以上は無いくらいにサマになる。日本のオペラにもっと名作がたくさんあったなら、もっと世界に存在を主張できるのだが。
 ただし、その中でやはり領事や書記官のような外国人の役が出てくると、途端に無理が目立ってくるのが残念である。たとえば今回のようなアメリカ人役を、外国人歌手に日本語を勉強してもらって演じてもらう、というのは不可能なことなのだろうか? もしくは、彼らの歌詞の中には英語の個所も出てくるのだし、もともとの台本はパーシー・ノーエルによる英語版なのだし、「序景」は当初英語テキストに作曲されたくらいなのだから、米人役の部分だけ英語に戻して歌ってみても面白いのではなかろうか。
 

2・22(金)METライブビューイング ヴェルディ:「マクベス」

  めぐろパーシモンホール

 メトロポリタン・オペラ、去る1月12日上演のライヴ映像。「ロメオとジュリエット」、「ヘンゼルとグレーテル」に次ぐ今シーズンのラインナップの3つ目。

 今年のだしものは、昨年のシリーズに比較して音質があまり芳しくなく、特に今日のなどモノーラル録音のようになっているのには落胆したが、それでも映像と演奏から一種の沸き立つ熱気のようなものが感じられるのは、映画というメディアが持つパワーのなせる業か。
 もちろん、演奏がいいことはいうまでもない。ジェイムズ・レヴァインは、こういうヴェルディものをやると、特に生演奏では、実に「もって行き方」が巧いのである。
 それにマクベス夫人のマリア・グレギーナが文字通り「重量級」の熱演。マクベス役のジェリコ・ルチッチもなかなかのものだ。が、なんといってもさすがの凄みを発揮したのはバンクォー役のジョン・レリア。この人はフィガロのようなコミカルな役からカスパルのような悪役まで、本当に近年はすばらしいバスになった。
 演出はエイドリアン・ノーブル、現代に起こり得る物語としてのストレートな解釈を施した。たしかに彼の言うとおり、このドラマで描かれている権力闘争、暗殺、大量殺戮、国土の荒廃、難民(これはオペラでのみの登場)といったものは、今日世界の各所で繰り返されている出来事なのである。

2・20(水)二期会公演 ワーグナー:「ワルキューレ」初日

  東京文化会館

 二期会にとってはこれが4度目の「ワルキューレ」になる、と栗林義信理事長がプログラムの中に書いている。そういえば、私もそれらをすべて観てきた。いずれもそれぞれの時代の歌手やスタッフが全力を挙げたプロダクションだったし、愉しめるものであった。
 その第1回(1972年、日本人による日本初演)の時に指揮をして、われわれに大きな感銘を与えた飯守泰次郎が今回再び登場し、あの時をさえ遥かに凌ぐすばらしい演奏を聴かせてくれたのは、大いなる喜びである。

 彼のワーグナーは今日、疑いなく世界の第一級品である。音楽に深い感情がこもっていて、ワーグナーの精緻なスコアが持つ複雑な陰翳を見事に織り上げる点では、そんじょそこらのカタカナ文字指揮者なんかの演奏より、ずっと優れているだろう。「ヴォータンの告別」のあの感動的なクライマックスの個所などでも、彼は36年前と同様、ことさら作為的な大芝居をすることなく、自然で壮大な盛り上がりを創ってくれた。
 これで東京フィルがもっと強靭な、分厚い弦楽器の響きを出してくれれば鉄壁の演奏になったはずだが、惜しむべし。それでもまあ、いつもの(ピットに入った時の)東京フィルよりはマシな演奏といえたかもしれない。ともあれ、今回の上演の成功の第一に挙げるべきは、飯守泰次郎の円熟の指揮であった。

 ジョエル・ローウェルスの演出はやや小粒だが、かなり緻密に考えられていて、論理的にまとまっている。特に奇を衒ったものではないので、音楽から注意を逸らされることがないだろう。
 冒頭場面と大詰め場面にローゲがヴォータンに諂うがごとくへばりついて姿を現したり、第1幕幕切れでフリッカが背景でヴォータンに若者二人の「不倫」を指し示したり、第2幕冒頭にヴァルハラ城内の宴の場面が設けられてすでにフリッカが登場していたり、第3幕で娘ブリュンヒルデへの感情の揺れを表わすヴォータンをフリッカが威嚇したり、という新機軸は少々説明過剰で、しかも歌詞と全く矛盾する結果を招くような個所も多いが、それはまず措くとしよう。とにかく、フリッカがいたるところにしゃしゃり出てはヴォータンの意図を片っ端から打ち砕くというのは、着眼点としては面白い。
 ただし、幼女時代のブリュンヒルデや、妊婦姿で森を行くジークリンデをイメージ的に出して見せたりするのは、近年よく使われるテだが、今回のは少々野暮ったく、なくもがなの感。

 そうはいっても、私が最近観た「ワルキューレ」の中では、石井リーサ明理の照明を含めたこのローウェルスの演出と装置は、ステファーヌ・ブランシュヴァイク(エクサン・プロヴァンス音楽祭)やスヴェン=エリック・ベヒトルフ(ウィーン国立歌劇場)などのそれより、よほど丁寧に作ってある舞台に感じられた。これは、国内制作プロダクションへの欲目だけではないだろう。
 今回の演出で、どこか一つ印象的な場面をと言われれば、第2幕の「死の告知」の場面を挙げよう。ここは雪と、白々とした照明が絶妙な効果を上げていた。

 歌手陣では、やはり小山由美のフリッカが貫禄。ト書きに無い頻繁な登場だったが、この人のおかげで舞台は随分引き締まったであろう。
 小森輝彦のヴォータンは声質・演技ともに重みに不足しており、これでは妻に罵倒され娘に叛かれるのも仕方ない、という趣きになってしまったが、「ラインの黄金」時代のヴォータンであればまだ一理あったかもしれない。ブリュンヒルデの横山恵子は大健闘だが、声楽表現と演技に「落ち着きすぎ」のような感なきにしもあらず。ジークリンデを歌った橋爪ゆかは未だ荒削りながら勢いが良くて今後に期待が持てる。なお黙役だが、奇怪で醜悪な姿のローゲを演じていた桜観(さくみ)という人の見事なパントマイムが印象的だった。こういう個性的な助演者がいて、舞台は更に引き締まるのだ。
 

2・17(日)大植英次指揮大阪フィル東京公演

  サントリーホール

 大植英次の新境地、というよりは、彼と大阪フィルの新境地、と書くべきだろう。この日の演奏は、これまで聴いた彼らの演奏とは随分違っていた。

 その最大のものは、音色である。特にラヴェルの「道化師の朝の歌」とベルリオーズの「幻想交響曲」で彼らが披露した音色は明るく輝かしく、それも滑らかに彫琢された音というよりは、粒立ちの強い、全ての楽器があいまいに妥協せずに自らの存在を主張できるというオーケストラの好ましい姿を実現できるような演奏になっていたのである。
 これは、もしかしたらサントリーホールの2階席中央で聴く音の癖との相乗効果による印象かもしれない。が、いかにあの席とはいえ、すべてのオーケストラがそういう音で聞こえるわけではないから、これはやはり大植と大阪フィルが、このフランスの2つの作品で狙ったものが成功を収めたのだと考えてもいいだろう。
 
 音色以外にも、響きにふくらみが感じられ、それが空間的な壮大さを生み出していたのが印象的であった。「道化師の朝の歌」最初の部分での、最弱奏から最強奏への突然の変化にも、決してわざとらしい怒号はなく、きわめて自然な解放感があふれていた。全体に遅いテンポで構築された「幻想交響曲」でも、同様である。
 アンコールで演奏されたエルガーの「エニグマ変奏曲」の中の「ニムロッド」での軽やかで柔らかく、神秘的なほどの弱音の美しさは、それらを集大成した名演といってもよく、かつてテミルカーノフとサンクトペテルブルク・フィルがこのホールで聴かせた演奏をさえ凌ぐといっていいほどであった。
 
 大植英次と大阪フィルの演奏は、これまでにもしばしば聴いてきたが、何か彼らの個性が掴みきれない、もどかしいところが多々あった。指揮者がオーケストラを自分の楽器に仕立て上げるのには長い時間がかかるということは、いろいろな例を見れば明らかだが、大植と大阪フィルも、やっとそのような時代に入ってきたのかもしれない。もちろんこれは、他のレパートリーをも聴いた上でないと、軽々しく断定はできないものだけれども。だがとにかく今日の演奏には、このコンビの今後に対して胸の躍るような期待をもたせるものが感じられたのであった。

 この2曲の間には、小曽根真がソロを弾くガーシュウィンの「ラプソディ・イン・ブルー」が聴衆の人気を集めた。この人の音色もまた、きらきらと輝くように美しい。これだけ爽やかな音色で、しかも一瞬の緩みも感じさせずにピアノを演奏する人は、クラシック系のピアニストの中にさえいないかもしれない。例のごとく自由な即興のソロを随所に含み、演奏時間も普通のものより格段に長くなっていたが、それもおそらく作曲者ガーシュウィンが心に描いていたものだろうと思わせるほどの説得力と、楽しさにあふれていた。
  産経新聞(2月24日)演奏会評

2・16(土)東京オペラ・プロデュース  ワーグナー「妖精」

  新国立劇場中劇場

 ワーグナーの最初の完成オペラ、21歳の作。
 それでも全3幕、上演時間は正味3時間近くもかかる。
 かように若い時から話の長い男だったのだ、ワーグナーという人は。

 一生に一度観られるかどうか、というめずらしい作品である。よくぞ取り上げてくれたものだ。指揮はマルコ・ティトット、管弦楽はユニバーサル・フィル、演出は松尾洋&八木清市、キャストは羽山晃生(アリンダル)、福田玲子(アーダ)他。
 常に客席を向いて歌わせる演出など、いろいろ不満もあるが、ここではレコード評論界の大先達あらえびすがわが国の黎明期を回顧した一文を借りておくにとどめよう。
 「(発売されているレコードが)たった一組しか無い時は、旧ビクター黒盤の『第五シンフォニー』も珠玉であった。それは褒められ尊敬されなければならなかった」(1939年刊「名曲決定盤」)。

これを観た3日後、このプロダクションの演出家であり、主宰の東京オペラ・プロデュースの代表である松尾洋氏の訃報に接して驚愕。公演終了の翌日(18日)に他界されたという。氏の功績を讃え、感謝し、心からご冥福をお祈りいたします。(19日)

2・13(水)ジョナサン・ビス・ピアノ・リサイタル

  東京オペラシティコンサートホール

 アメリカの若手、ジョナサン・ビスのリサイタルを聴く。
 先日出たベートーヴェンのソナタ集のCD(EMIクラシックス TOCE-56024)が鋭気颯爽として好感を呼ぶ演奏だったので、期待充分のものがあった。
 
 ベートーヴェンのソナタからは「悲愴」と「田園」が演奏される。ホールとピアノの関係もあってか、CDで聴くよりは響きが少し骨太に感じられたものの、「悲愴」第1楽章など実に快調に音階を駆け上がり、駆け下りるといった趣きの演奏になっていたのが、いかにも若いピアニストらしい勢いがあって微笑ましい。
 が、その2曲の間に置かれたヤナーチェクのソナタ「1905年10月1日、街頭にて」と、休憩後に置かれたシューベルトの第20番(D.959)のソナタでは、ビスの演奏は突然翳りを持つ音色に変わり、前者では悲劇感が、後者ではロマン的な曲想が浮き彫りにされて行く。作品ごとにこれだけ大きくアプローチを変化させることができるビスの実力は、なかなかのものである。作曲家の個性と正面から向き合い、それらを自己の中に率直に映し出そうとする真摯な姿勢が感じられて、ますます好感が持てる。

2・11(月)鮫島有美子の「夕鶴」

  サントリーホール

 サントリーホールでの、セミ・ステージ上演。
 鮫島有美子はこの「夕鶴」で各地を巡演しており、今年はすでに昭和女子大人見記念講堂、なら100年会館、兵庫県立芸術文化センター、神奈川県民ホールで公演している。今月はさらに大宮ソニックシティ、豊田市コンサートホール、福島市音楽堂で公演がある由。当たり役として「夕鶴」を極めようとする彼女にふさわしいライフワークといえようか。

 セミ・ステージといえど、演出が栗山民也、美術が堀尾幸男、照明が勝柴次朗というベスト・メンバー。これは、2000年12月の新国立劇場のプロダクション(猛烈に雪を降らせたあの舞台)と同一の顔ぶれである。
 今回は舞台上の下手寄りにオーケストラ、上手廻りで奥の下手方向および上手袖方向へ白い通路の舞台という設定で、簡にして要を得た演出が行なわれていた。栗山の演出はあの時と同様、詩的な美しさと精妙なニュアンスにあふれていて、なかなか好い。

 鮫島のつうをはじめ、持木弘(与ひょう)、牧野正人(運ず)、池田直樹(惣ど)は演技も歌唱も良く、現田茂夫指揮する神奈川フィルも十八番といった演奏を聴かせた。
 だが惜しいことに、この会場がコンサート用アコースティックのサントリーホール。オーケストラは豊かな音になるけれど、声があまりによく響きすぎて、発音明晰だった持木以外、歌詞がほとんど判別できなかったのが残念であった(私の席は2階センター6列目)。P席やLA、RA席の全部、LBとRB席の半分を空席にしてあったため、いっそうよく響いたのだろう。「ホールオペラ」の時にはいつもうまく吸音処理が行なわれていたから、それを参考にすればよかったのに、と思う。

 それにしても、この團伊玖磨のオペラ「夕鶴」、オーケストラ・パートがプッチーニやレスピーギのそれに似すぎるとか何とか、昔はさんざん非難されたものだが、初演されてから半世紀も経つと、そんなことはどうでもいいような気になってしまう。今ではつくづく、よくできた作品だと思う。音楽上の作劇法ともいうべきものが、日本のオペラとしては例外的に優れていて、「もって行き方」が実に上手いのである。
 これはもちろん台本が良いからということもあるが、それがもともとオペラの台本ではなく木下順二の有名な戯曲であることは周知のとおり。しかし未だにこれを凌ぐ台本が日本のオペラ界に出現していないというのは、なんとも皮肉なことではある。

2・10(日)マンフレッド・ホーネック指揮読売日本交響楽団「復活」

   サントリーホール

 オーケストラの鳴りっぷりのよさという点では、昨日の新日本フィルをはるかに凌ぐこの読売日響。その馬力の凄さは国内オケ随一かもしれぬ。

 今日もホーネックの精力的な指揮のもと、7本のトランペット(1本はアシスタント?)を先頭に、耳を聾するばかりの大音響を炸裂させた。この「復活」は、その激烈さにおいてはベルリオーズの「幻想」以来の破天荒な交響曲ではないかと常々思っているのだが、今日の演奏などもそれを如実に証明するタイプのものだろう。
 ホーネックはしかし単に大音響だけで押しまくるのではなく、聞こえるか聞こえないかの最弱音をも多用し、激烈なデュナミークの対比を作り出していた。特に第5楽章ではそれが目立った。おそらく彼は、極端から極端へという、いわば表現主義の先駆としてのマーラーを描き出すことを、この演奏で意図していたのではなかろうか。
 ただこの曲では、そういった音響的な迫力を超えたところにもっと何か、身の毛のよだつような精神的危機のようなものがあるはずだと思うのだが、今日の演奏からは、それがどうも掴みきれないのである。
 合唱は国立音大、ソロはソプラノが薗田真木子、アルトがマルティナ・グマインダー。

 良いところは別として、あえて細かいところでの疑問を言わせてもらえば、第5楽章での舞台外からのホルンなど金管による信号の個所や、合唱が最弱音で歌い続ける「神秘的に」と指定された部分のテンポは、いずれもあまりに遅すぎて、楽曲全体のバランスをやや失わせたように思われる。「遅く」と「きわめて遅く」の違いが、あまり感じられないのである。そしてこの辺から管楽器群に疲れが出てきたのか、細心の注意が払われるはずのピアニッシモの個所に限って管に妙な音が続発したのは惜しかった。またフィルハーモニア版スコア(旧くてすみません)でいえば[22]の個所の重要なバンダが2階客席からはほとんど聞こえなかったのは、多分作戦ミスだろう。
 もう一つ、これは照明装置かテレビカメラか原因は不明だが、どこからか高い音域の金属性のノイズが終始聞こえていた。モルト・ピアニッシモが非常に多い演奏だったこともあって、このノイズには少なからず神経を苛立たせられた。サントリーホールにしては珍しいことである。

2・9(土)マルク・アルブレヒト指揮 新日本フィル

  トリフォニーホール

 結構な人気のある指揮者、マルク・アルブレヒト。
 ところが私はどうも、この人の指揮を聴いて好いと思ったことがない。バイロイトで「さまよえるオランダ人」を聴いた時も、ドレスデンで「影のない女」を聴いた時も、日本でN響との「悲劇的」を聴いた時も、オーケストラはやたらガンガン鳴らすが味も素っ気もない音楽に終始していたという印象しかないのである。そういう人が、初めて新日本フィルに客演した。何か新しい発見があるかと思って聴きに行ったわけだが・・・・。

 とはいえ、こう鳴りっぷりのいい新日本フィルを聴くと、その音色の明るさのせいかもしれないが、妙にスポーツ的な快感を味わう結果になったことはたしかである。「さまよえるオランダ人」序曲や「英雄の生涯」でホルンが咆哮し(この辺がドイツ人指揮者らしい)、骨太で豪快な演奏が繰り広げられると、それはそれで悪くはないのかなとも思う。
 真ん中に演奏されたデュティユーのチェロ協奏曲「はるかなる遠い国へ」が、いかにもドイツ人指揮者が振るフランス音楽、という感じで、生真面目なこわもての表情になっていたのが面白かった。ソリストがベルリン・フィルの首席奏者ルートヴィヒ・クヴァントだったから、更にその印象が助長されたのかもしれない。交錯しあう音型や拡がりのある和声の響きなどには、フランスの音楽家による演奏と異なってカラフルなイメージは全然ない。しかしデュティユーの音楽が持つシリアスな面を浮き彫りにしてくれたという点では、これは大いなる収穫であった。この協奏曲、1960年代末の作品だが、いい曲だ。

2・8(金)ロジャー・ノリントン指揮シュトゥットガルト放送響

  ミューザ川崎シンフォニーホール

 最初のサリヴァンの「近衛騎兵隊」序曲は何だかつまらない曲だったが、小菅優がソリストをつとめたベートーヴェンの「ピアノ協奏曲第4番」が、一気に目と耳を惹きつける。
 ピアノの反響版をはずし、小菅は客席(といってもこのホールはワインヤード型だから、メインのセンター席とでも言おうか)に背を向けて弾き振りのような位置で座り、ノリントンはピアノの横の奥の木管の前で指揮をする。以前の来日でも、これと同じ配置でピアノ協奏曲を演奏したように思う。
 ピリオド楽器的奏法で鋭いアクセントを全曲に与え、特にティンパニとトランペットがだぶる瞬間には著しく刺激的な響きを要求するノリントン。かくしてこの曲はギザギザした鋭角的な様相を呈することになる。小菅優も冒頭をアドリブ的なアルペッジョで開始するという大ワザを示し、ふだんは行う機会がない新機軸をこの際ノリントンに合わせてやってしまおうという感じで、尖って生き生きした演奏を聴かせてくれた。これが今夜のハイライト。

 後半はブラームスの第1交響曲。先日(30日)の「英雄交響曲」と同様、デュナミークの変化に重点を置いた演奏。重要なフレーズに来ると第1拍に強烈なパンチのアクセントを置き、以降急激に弱めていくという作りが目立つ。
 全体に軽く明るく、ブラームス特有の音楽の精密な網の目を強引に押し広げてしまったような演奏だ。帰りがけに会った池田卓夫さん(日経記者)が「(分厚い)ステーキを食べに来たら、しゃぶしゃぶを食わされたような感じ」と笑っていたが、言いえて妙。
 アンコールは30日の2曲と同じ。

2・6(水)新国立劇場 R・シュトラウス:「サロメ」

  新国立劇場

 新国立劇場の、8年来の定番プロダクション。観るのもこれが3回目になる。
 巨大な天幕を中央に、前面に井戸を置いたヨルク・ツィンマーマンの舞台美術と衣装も、すでにおなじみだ。

 ヴォルフガング・シュミットのヘロデ王、小山由美のヘロディアス王妃、ジョン・ヴェーグナーの預言者ヨハナーン、いずれも堂に入った歌いぶりで、安心して聴いていられる。水口聡の衛兵隊長ナラボート、山下牧子の小姓も手堅い。王女サロメはサンクトペテルブルク出身のナターリャ・ウシャコワが歌った。やや硬質だが、神経質で偏執的な少女として性格を描き出す、という点では成功していたであろう。トーマス・レスナーが指揮する東京響は猛然と鳴り響いたが、打楽器などには少々荒っぽいところもある。

 ストレートで解りやすいこの演出は、アウグスト・エファーディングのものだ。脇役や黙役にいたるまで人物の演技が徹底しているのも特徴である。兵士たちや奴隷たち(配役表には「助演」として載っている)の動きは主役以上に細密で精妙であり、これが舞台を引き締めるのにどれだけ貢献しているかは測り知れない。このようなオーソドックスな演出では、それが何より重要なポイントになってくるのである。

 助演といえば、私が常々素晴らしい俳優として讃嘆している原純(はら・じゅん)が、今回も「儀典長」として出演しているのがうれしかった。この役はもちろん黙役だから、演出上で生み出された役柄に過ぎないが、ターバンを巻いて常にヘロデ王の傍に佇立、王の感情をいち早く読み取って奴隷たちに合図し酒を運ばせるなどの役割を持っている。これを実に派手な身振りで演じていたのが、彼なのである。
 彼の演技にはノヴォラツスキー前監督も注目していて、なにかにつけ「あのボーイにやらせよう」と言っていたそうだ。新国立劇場で私が観たものでは他に、「ラ・ボエーム」第2幕で図々しく出しゃばるカフェの給仕、「ばらの騎士」第1幕でテノール歌手の歌のうるささに顔をしかめながら元帥夫人の髪を整える髪結師の役などもあった。昨年の「タンホイザー」第2幕では、ビーテロルフの従者としてほんの数秒程度の見せ場だったが、一大事とばかり血相変えて主人のもとへ剣を届けに走って来る演技など、笑い出したくなるほどのコミカルな迫力を感じさせたものである。
 新国立劇場以外でも、アルミンクと新日本フィルの「火刑台上のジャンヌ・ダルク」で、ジャンヌにまといつく悪魔のようなキャラクターを演じていた(あれは少し浮いていたかも)。
 こういう、巧妙な脇役の演技を眺めるのも、オペラや芝居の醍醐味というものであろう。

2・4(月)木村かをりのメシアン

   紀尾井ホール

 1960年代にパリのメシアン国際現代音楽コンクールで第2位に入賞、メシアンに師事して以来、この作曲家の作品と深い関わりを持ち続けて来た木村かをりが、メシアン・プロを披露した。

 1950年代の名曲「鳥たちの目覚め」、60年代の「七つの俳諧」「天の都の色彩」、80年代の「ステンドグラスと鳥たち」「天より来たる都」(演奏順ではない)と、これだけまとめて彼のピアノとオーケストラのための作品を聴く機会は滅多になく、われわれにとっても貴重な一夜であった。
 さすが、師への共感と愛情があふれるような彼女の演奏である。単に「メシアン生誕100年記念」のコンサートというより、それに即して木村かをりというピアニストのライフワークを集大成した演奏会の一つ、と言ってもいいだろう。欧州のピアニストが時に聴かせるような肉感性のメシアンではなく、どちらかといえば淡彩で清涼で明晰なメシアンに聞こえたけれど、このあたりが日本人音楽家ならではの特徴かもしれない。でも、よかった。

 協演は野平一郎指揮の新日本フィル。ホールの空間的キャパシティのせいもあったろうが、どの楽器の音も非常に強烈に聞こえた。前半は2階、後半は1階(後方サイド)で聴いたのだが、ほぼ同じ印象だった。正直言うと、メシアンの鳥はどれもなぜこんなにも鋭くけたたましく鳴くのか、そしてなぜあんなに彼はのべつまくなしに打楽器を強音で使い続けるのか、とまで恨めしく思ったほどである。もうすこし柔らかい、豊麗なメシアンもあるだろうに。その点、録音バランスのいいCDで聴くメシアンは、気が楽である。

 今年は、オリヴィエ・メシアンがたくさん聴けるだろう。思えば1962年、小澤征爾がN響を指揮して日本初演した「トゥランガリラ交響曲」に震撼させられて以来、随分いろいろな体験を味わってきた(当時のわれわれ悪童どもは、「織部飯庵の虎狩交響曲」と呼んだりして夢中になったものだ)。その「虎狩り」を、今年は準・メルクルが4月にN響を、7月にPMFオーケストラを指揮して聴かせてくれるという楽しみがある。
 

2・3(日)びわ湖ホールプロデュースオペラ
 R・シュトラウス「ばらの騎士」

   (滋賀県立芸術劇場 びわ湖ホール)

 昨年6月以降、1シーズンに4種の「ばらの騎士」がかち合うというめずらしいケースになった、いわゆる「ばら戦争」。
 新国立劇場プロダクションは、オーケストラに難はあったがジョナサン・ミラーの演出に手堅さがあった。チューリヒ・オペラ(9月)とドレスデン・オペラ(11月)は、もちろん文句のつけようがなかった。さて、いよいよ第4次(?)が、このびわ湖ホールと神奈川県民ホールの共同制作、東京二期会共催によるプロダクションである。その2日目。

 これはもう、うれしい驚きといっていい。第一に挙げるべきは、沼尻竜典(びわ湖ホール芸術監督)と、彼の率いる大阪センチュリー響の充実した演奏だろう。
 正直言って、このコンビがかくも豊麗なR・シュトラウスを創り出すとは予想もしていなかった。現代音楽の分野の方に切れを見せる沼尻の個性からみて、明晰で冷静で感傷の影のない「ばらの騎士」が演奏されるのではないかと聴く前には思いこみ、いささか構えた気持でいたのだが、始まってみればなんと、自分の耳を疑ったほどである。音には拡がりと厚みがあり、ピアニシモにも豊かな余韻があふれていた。あのワルツにも、紛れもないR.・シュトラウス節が聞き取れたし、第3幕の3重唱を支えるオーケストラの柔らかい旋律に満ちていた叙情美など、一流品の演奏といっても決して誇張にはならないだろう。
 これは、沼尻の芸域が目覚しく拡がって来ていることを示すものと思って間違いあるまい。3月には横浜公演があるから、ぜひ首都圏のファンにも聴いてほしいところだ。ただしオーケストラが違うので、今日と同じようになるかどうかは保証の限りでないが。

 演出はアンドレアス・ホモキ。舞台と衣装とかつらは、2006年4月にプレミエされたベルリン・コーミッシェ・オーパーのプロダクションによるものという。
 字幕を読んでいては見逃してしまうくらい、演技は細密で心理的ニュアンスに富み、人物は猛烈にめまぐるしく動き、時には極度に喜劇的にもなる。このあたり、いかにもベルリン・コーミッシェらしいセンスだ。同時に、ホモキがここまでやるかと思うような世俗的な雰囲気も横溢している。舞台装置が恐ろしく簡素なため、元帥夫人の寝室たる第1幕あたりは味も素っ気もない感じもあるが、第2幕と第3幕は少々煩わしいほど賑やかである。
 第1幕で髪結師が登場せず、かつテノール歌手が一種の心理的・象徴的な存在として扱われているのがユニークだ。第3幕の最後で、オクタヴィアンとゾフィーが先に退場して舞台の外で歌い(ここはシュトラウス節のファンにとっては音響的に不満が残るだろう)、元帥夫人が気落ちして倒れ伏し(ベヒトルフ演出でのアイディアとどちらが先?)衣装を脱ぎ捨て、ある複雑な演技を行なうところも、一捻りした演出で面白い。

 舞台装置は、横幅がびわ湖ホールの舞台のほぼ3分の1しかなく、天地も半分くらいか。これが中央に設置されている。客席の左右からは完全に「見切り」が生じるだろう。小さいコーミッシェの劇場では充分な大きさかもしれないが、このびわ湖ホールでは(でさえ、というべきか)、何か小さなところに押し込まれた舞台、といった感じがする。大きなリビング・ルームで小型テレビを見ているような感覚だ。巨大な神奈川県民ホールでは大丈夫なのだろうか?

 今日の主役女性歌手3人はいずれもすばらしい歌唱を聴かせ、音楽的にも充分な満足感を与えてくれた。特に元帥夫人マルシャリンの佐々木典子は、正装すると実に気品があって舞台栄えする。オクタヴィアンの林美智子は獅子奮迅の演技で、いかにも17歳の少年にふさわしく、ズボン役としても魅力的だ。ゾフィーの澤畑恵美は、オクタヴィアンよりずっと大人っぽい雰囲気なのが唯一の違和感だが、それは相対的な面での問題。
 オックス男爵の佐藤泰弘は馬力のある低音で聞かせたが、メイクもろとも、やや野卑に過ぎたのではないか(遠くから見ると、志村けんのバカ殿のよう)。彼ならもっと洒落たオックスも可能だったろうに。

 というわけで、雪の中を遠くびわ湖ホールまで出かけた甲斐のある「ばらの騎士」であった。「ばら戦争」は4戦全勝といっていいだろう。「タンホイザー戦争」の方は1勝3敗だったが。
 

2・2(土)「若いクァルテット、ベートーヴェンに挑戦する」

  紀尾井ホール (6時)

 最近は日本の弦楽四重奏団でも「カタカナ横文字」の名称を付けるのが普通になったらしい。うっかりすると外国の団体と間違える。それがテか? まあそれもいいでしょう。

 「プロジェクトQ実行委員会」(実行委員長・原田幸一郎)が主催する若手弦楽四重奏団育成のシリーズ演奏会で、この日は昼に3団体、夜に3団体が登場、ベートーヴェンの作品18の弦楽四重奏曲をそれぞれが順に1曲ずつ演奏した。
 そのうちの夜の部。桐朋学園のウェールズ弦楽四重奏団、東京音大のヒプノティック・クァルテット、東京芸大のステラ・クァルテットが、それぞれ第4番、第5番、第6番を聴かせてくれた。

 なんといっても桐朋4人の演奏の勢いのよさは抜群で、歯切れの良い明晰なリズム感、アンサンブルの緊密感と緊張度の高さもある。この上は演奏にふさわしく、ステージの出入りでもっと姿勢を良くし、颯爽と歩くようにした方がいいだろう。
 他の2団体は正反対に軽く柔らかい演奏だが、全体に若手らしい覇気が感じられないのが残念だ。また、フォルテの決めに入る直前に弱音でリタルダンドするのはベートーヴェンが多用した重要な手法であり、特にステラはここをもっと研究すべきであろう。この日の演奏では、譜面をなぞるだけにとどまっているように感じられたからである。
 そういえばヒプノディックの演奏のあとで、一緒に聴いていた音楽評論家の寺西さんが、「(演奏中にメンバー同士がなぜか全然)アイ・コンタクトしませんね」と指摘なさっていた。なるほど私にもそう見えた。演奏がおとなしいのは、もしかしてそのためだったのかどうか。
 さて、彼らの今後に期待したいが、果たしてどれだけ永続的な活動をするつもりだろうか。

2・2(土)井上道義指揮日本フィル定期

  サントリーホール マチネー(2時)

 シベリウスの「第1交響曲」と「第7交響曲」、その2曲の間に吉松隆の「鳥たちの時代」。これらの曲の性格を心得ている聴き手にとっては、思わずニヤリとさせられる巧妙なプログラム構成だ。吉松の音楽の癒し系の豊麗な叙情と、シベリウスの音楽の陰影に富む厳しい叙情との対比は、感覚的な意味で考えれば興味深い。
  「音楽の友」4月号演奏会評

2・1(金)ゲルギエフ指揮マリインスキー・オペラ
ボロディン「イーゴリ公」

  NHKホール

 10の上演があれば10通りの版が生じる、とまで言われる「イーゴリ公」。
 なにしろ、ボロディンが部分的にしか作曲せず、幕構成案すらメモ程度しか作らないまま世を去ってしまったのだから仕方があるまい。
 
 したがって今日多く上演される「慣用版」は、もちろん作曲者本人の手によるものではない。それは、リムスキー=コルサコフとグラズノフが「友人のためを思って」編纂し完成した「プロローグ付4幕版」であって、しかもそのうち「序曲」の全部、および第3幕(イーゴリ脱走の場面)のほとんど98%はグラズノフが作曲したものなのである。
 したがって大抵の歌劇場では、この第3幕は省略してしまい、第4幕(イーゴリの帰還の場)を繰り上げ、「プロローグ付3幕版」として上演することが多い。が、稀にそのボロディン自身の作でない「第3幕」を復活抜粋して組み込んだり、あるいはリムスキー=コルサコフらがカットしたボロディンの原案からいくつか復活して挿入したりする上演やレコードもある。話は複雑怪奇だ。
 言い換えれば、このオペラには、いわゆる「原作」と呼べるものがないのである。

 ゲルギエフとマリインスキーも、これまで3種の版を持っていた。つまり、
①これまでふだんの上演に使用していた慣用的な「プロローグ付3幕版」
②ファリーク校訂による4幕構成「マリインスキー版」・・・・これは大雑把に言えば、慣用版の第1幕(イーゴリの留守宅プチーヴリ城の場)と第2幕(イーゴリが捕虜となっているポロヴェッツ軍陣営の場)をそっくり入れ替え、もちろん第3幕も生かし、さらにカット個所の多くを復活させた大掛かりな校訂版である(93年収録のCD)
③上記②の一部を省略した準「マリインスキー版」(98年収録のDVD)

 ところが、今回の日本公演で上演されたものは、これらのいずれでもなく、ゲルギエフが昨年暮れの北京公演に際し改編した「第4の版」ともいうべきものであった。
 それは、②を基本とした版からいくつか便宜的なカットを施した上、幕構成を大きく変更して、つぎのようにしたものである。
(1)「序曲」を「プロローグ」(イーゴリ出陣の場)のあとに置いた。これは、第1幕に移されている「ポロヴェッツ軍陣営の場」への場面転換を容易にするための方法でもあろう。これにより、「序曲」は「第1幕への間奏曲」としての役割に変わることになる。
(2)「プチーヴリ城内の場」をオペラの後半に移し、「第3幕」および「第4幕」とした。
(3)「イーゴリ帰還の場」をカットし、その場の冒頭で歌われる「ヤロースラヴナの悲しみの歌」のみを上記「第3幕」冒頭に移した。

 大体、この3点に絞られよう。
 好みはともかく、客観的に判断すればこの改編は、「ポロヴェッツ人の踊り」が終ると観客が帰ってしまうことが多い、という「慣用版」の欠点を救い、かつ音楽的に非常に弱点を持つ「イーゴリ帰還の場」に代わる見せ場として「プチーヴリ城内の場」が生かされた、という利点を生んでいるだろう。
 ただ、そのためにラストシーンでは、「敵軍迫る」の報に動揺しつつも迎戦を決意する城内の人々の中に突然イーゴリ公が飛び込んで来るという設定が、コンセプトの上でも視覚的にも非常にわかりにくい、という新たな欠点を生んだようだ。もしゲルギエフがこの「2007年版」を今後も使用するつもりなら、ここは演出の上で改善せねばなるまい。今回の形では、これはむしろ逆効果だ。
 とはいえ結局、どこをどうやってもどこかに漏れが出る、というのがこのオペラの宿命なのかもしれない。

 上演の中で最も観客を沸かせたのは、当然ながら「ポロヴェッツ人の踊り」(昔は「だったん人の踊り」と呼ばれていたが、これは歴史的に見て間違いである由)であった。あの野生的でダイナミックな跳躍は、たしかに迫力充分である。
 歌手陣はこの日も若手で固めていたが、その中ではイーゴリ公を歌ったセルゲイ・ムルツァーエフと、コンチャーク汗を歌ったアレクセイ・タノヴィツキーが出色であった。後者は明晰な最低音を聴かせたのがすばらしい。彼は「ランスへの旅」(31日)では医者を歌った青年である(私の見ていない日にも他の役を歌っていたかもしれない)。2人とも頼もしいバス・バリトンで、いずれスターになるだろうと思う。
 他には、イーゴリの息子ウラジーミル役のセルゲイ・セミーシクル、その恋人コンチャコーヴナ役のズラータ・ブルイチェワも伸びのある声と映える舞台姿で今後に期待を持たせる。

 ゲルギエフとマリインスキー劇場管弦楽団は、今回の一連の公演では、かつての水準を取り戻したという印象が強い。練習しなくても平気でこなせる、というロシアものが中心だったせいもあるかもしれないが、総じて充分に満足できる演奏であったといえよう。

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