2019-10

2019・8・30(金)第36回 日本管打楽器コンクール
特別大賞演奏会及び表彰式

     文京シビックホール 大ホール  6時

 日本音楽教育文化振興会主催のコンクール(☞8月24日の項)。
 今日は、今年実施された4部門各々における優勝者計4人が演奏し、その中から、特別審査委員(5名)と各部門審査委員長(4名)の合同審査により「特別大賞」(1名)が選ばれるという仕組。

 山下一史指揮東京シティ・フィルハーモニック管弦楽団のサポートにより、クラリネット部門第1位の佐藤拓馬がモーツァルトの「協奏曲イ長調」を、ファゴット部門第1位の大内秀介がジャン・フランセの「バス―ンと11の弦楽器のための協奏曲」を、トランペット部門の三村梨紗がアンリ・トマジの「協奏曲」を、テューバ部門の若林毅がジョン・ウィリアムズの「テューバと管弦楽のための協奏曲」を各々演奏した。

 私も特別審査委員の一人として1票を投じたが、実のところは全員が優秀なので、たった1人を選定するには大いに悩んだのが正直なところである。
 結局、「特別大賞」と「聴衆賞」はトランペットの三村梨紗が、「東京シティ・フィル賞」はファゴットの大内秀介が受賞、となった。賞の授与は、尾高忠明運営委員長。

 三村梨紗は、先日のトランペット部門本選で聴いた時と同じように、胸のすくような輝かしい音色で、闊達にトマジのコンチェルトを吹いていた。今日は大ホールということもあって、思い切りよく朗々と音を響かせることもできたのだろう。聴衆へのアピール度においても、極めて優れていたと思われる。
 なお彼女は昨年の「東京音楽コンクール」の金管部門でも優勝しているので、国内コンクールの連続制覇ということになる。

 もう一つ、今回のコンクールには、GVIDO(グイド)MUSICが協賛社として名を連ねていたが、同社からその製品、見開き2面電子楽譜━━これは重さ660g、4000曲分の楽譜が保存でき、価格は16万円あたりだとか━━が、今回の本選入賞者と入選者に無料贈呈される、という、大サプライズがあった。聴衆からは悲鳴とも歓声ともつかぬような、羨望の声が上がっていた。

2019・8・29(木)G・ベンジャミン「リトゥン・オン・スキン」

       サントリーホール  7時

 恒例の「サントリーホール サマーフェスティバル」、今年のプロデューサーは大野和士で、23日から31日までの開催。その一環として、英国の作曲家ジョージ・ベンジャミン(1960年生)が2012年7月にエクサン・プロヴァンス音楽祭で初演したオペラ「リトゥン・オン・スキン」が取り上げられた。
 2回公演の今日は2日目。奥舞台を設置したセミ・ステージ形式上演だ。

 大野和士が東京都交響楽団を指揮。歌手はアンドルー・シュレーダー(プロテクター)、スザンヌ・エルマーク(妻アニエス)、藤木大地(少年、第1の天使)、小林由佳(マリア、第2の天使)、村上公太(ヨハネ、第3の天使)。ダンスは遠藤康行と高瀬譜希子(天使)。

 「スキン」とは、羊皮紙の由。「少年」(写本彩飾師)が書き記した文字と絵に籠められた秘密━━少年とアニエスの秘密の関係、怒れる夫プロテクターの少年殺害と妻アニエスへの惨忍な復讐。それらが幻想的な構成の裡に美しく描かれて行く。
 ジョージ・ベンジャミンの音楽が、いかにも現代英国の作曲家らしく紳士的な雰囲気に満ちていて、またいかにも彼がメシアンの直弟子であることを想起させるような色彩感覚をも備えているので、耳当りもよく、90分の上演時間はあっという間に過ぎてしまう。

 歌手陣も優れた出来だし、大野の手際の良さも特筆すべきものだろう。
 だが、それら演奏の見事さもさることながら、今日最も印象に残ったのは━━そして終演後の話題になったのは、針生康が担当した舞台総合美術のうちの「映像」だった。真っ白な奥舞台の上に設置された、高さ約5メートル、幅20メートル以上もあろうかと思われる巨大なスクリーンに映し出される動画は、驚異的に鮮明で、しかもストーリー性を持ち、演奏との合致も完璧である。その存在の雄弁さ。
 終演後のロビーでは、もしあの映像が無かったら、今日のセミ・ステージ形式上演はどういう印象になったかな、ということまで話題になったほどだった。

2019・8・26(月)第17回 東京音楽コンクール 声楽部門本選

      東京文化会館大ホール  6時

 こちらは東京都歴史文化財団東京文化会館等が主宰するコンクール。今年は木管・ピアノ・声楽の部門に於いて開催された。応募総数は402名の由。

 すでに木管部門は22日に、ピアノ部門は24日に本選を終っている。今夜が締め括りというわけである。
 1階席のほぼ8割5分が聴衆で埋め尽くされるという賑やかさの裡に、現田茂夫指揮東京交響楽団のサポートにより、声楽部門応募者72名から第2次予選までを通過した5人の出場者が登場、オペラのアリアなどを各々3~4曲(各計20分ほど)歌い上げた。

 8時50分から壇上で行なわれた審査結果発表によれば、第1位該当者なし、第2位と聴衆賞が工藤和真(テノール)、第3位が井出壮志朗(バリトン)。以下「入選」が、小川栞奈(ソプラノ)、前川健生(テノール)および竹下裕美(ソプラノ)。

 事実、工藤和真は声質こそ少し地味ながら表現力には傑出したものがあり、井出壮志朗も歌唱のニュアンスにおいて優れたものを出していたと思われる。
 それにしても、1位なしは残念。大島幾雄・審査委員長や小林研一郎・総合審査委員長の審査結果報告や講評は、今年は総体的に「本選に出す前にもっと絞り込んだ方がいいのではないか」のレベルだった、という、恐ろしく辛口のものだったが、なるほど歴戦の歌手たちによる審査委員陣から見れば、そういう厳しい見方になるのだろう。

 とはいえ、私などは、出場者5人ともになかなかスジのいい若者が揃っていたと思いたくなるのであって、小川栞奈は声が明るく美しいし、前川健生も若さに任せた勢いが微笑ましく、「ばらの騎士」のテノールの歌など結構いい雰囲気を出していたという気がする。また竹下裕美も「エフゲニー・オネーギン」の「手紙の場」などという「難しい」ものを取り上げ、あそこまで一所懸命歌った意欲を誉めてあげたいところであった。

 それにまた講評の中で、「オーケストラと溶け合わない」歌い方がかなり強く批評されていたけれども、私としては、むしろ指揮者とオケの方が、いくら何でももう少し歌に「合わせて」演奏してやれないものかね、という印象が、最初から最後まで抜け切れなかった、と言いたいところだ。今夜のオケの演奏は、いかにも機械的で、そこにはどう聴いても、若者たちの歌を盛り上げてやろうとする「温かさ」が感じられなかったのである━━。

2019・8・25(日)セイジ・オザワ松本フェスティバル
ふれあいコンサートⅡ(室内楽)

      ザ・ハーモニーホール(松本市音楽文化ホール) 4時

 3回の演奏会が組まれている室内楽演奏会「ふれあいコンサート」の今日は第2回、ベートーヴェン・プログラム。

 前半は「《ドン・ジョヴァンニ》の《お手をどうぞ》の主題による変奏曲」と、「オーボエ三重奏曲op.87」で、演奏はオーボエがフィリップ・トゥーンドル(シュトゥットガルトSWR響ソロ奏者)とマテュー・ペティジョン(モンテカルロ・フィル・ソロ首席)、イングリッシュ・ホルンがマックス・ヴェルナー(ベルリン・ドイツ響ソロ奏者)。アンコールはユーモラスな編曲の「エリーゼのために」。

 後半は「七重奏曲変ホ長調」。ヴァイオリンをジュリアン・ズルマン(トゥール管コンマス)、ヴィオラを叶澤尚子(名古屋フィル首席)、チェロを上村昇(アルティ四重奏団)、コントラバスを渡邉玲雄(愛知県立芸大教授)、クラリネットをリカルド・モラレス(フィラデルフィア管首席)、ファゴットをマーク・ゴールドバーグ(アメリカン・バレエ・シアター管他)、ホルンをニール・ディーラント(トロント響首席)。
 (以上、肩書はフェスティバル公式プログラム冊子に由る)。

 オーボエのトリオの、水際立った鮮やかさは改めて言うまでもない。
 だがそれ以上に今日の演奏で魅惑されたのは「七重奏曲」の面々だ。ズルマンの小気味よく切れのいいソロと、ディーラントの豪快なホルンとが特に目立ったが、さらにクラリネットとファゴットの柔らかい響きに日本勢の弦の中音域のアンサンブルがしっとりした音色で調和し、実に美しい演奏となった。
 速めのテンポで進みながらも、音楽は落ち着いた豊かな拡がりを感じさせる。特にmoll(短調)のハーモニーのふくよかな陰翳には、うっとりさせられるほどであった。このホールの音響の良さは格別なので、特に弦の響きには魅了させられる。久しぶりにこの「七重奏曲」の魅力を味わった思いだ。

 毎年のことながら、このフェスティバルにおけるいろいろなシリーズの中で、決して当たりはずれの無い演奏会がこの「ふれあいコンサート」である━━といっても言い過ぎではあるまい。

 この「ハーモニーホール」の音響の良さが抜群であることは確かだが、欠点は、会場へのアクセスが極端に悪いことだろう。松本からはJR大糸線でたった2駅、島内駅から徒歩数分の距離だが、この電車が1時間に1本か2本しかない。しかもシャトルバスもない。帰りのタクシーなど期待する方が間違いというほどの過疎状態。結局、最も確実なのは自家用車、ということになるのである。
 ただその分、静かな林の中にある雰囲気の良さは、格別ではあるが。
   (別稿 信濃毎日新聞)
   ☞(別稿)モーストリー・クラシック11月号「オーケストラ新聞」

2019・8・24(土)日本管打楽器コンクール・トランペット部門本選

     TCMホール  1時

 松本から早朝6:50発の「あずさ」で一度帰京し、午後の「2019年第36回日本管打楽器コンクール」(日本音楽教育文化振興会主催)の「トランペット部門」本選に顔を出す。

 今年の同コンクールは、クラリネット、ファゴット、トランペット、テューバの4部門でコンクールが行なわれている。
 私自身は、特別審査委員として名を連ねてはいるものの、この本選までの審査権限はなく、30日の「特別大賞演奏会及び表彰式」での審査が求められているだけなのだが、そうは言っても、本選の審査経過をある程度承知しておかなければならない。

 その本選はいずれも今日午後1時から各々異なる会場━━国立音大、尚美、東京音大、昭和音大━━で開催されるというシステムなので、とりあえずはこのトランペット部門に赴いた次第。
 今日の本選出場者は、平山あかり、浦井宏文、福永亜美、三村梨紗、河原史弥の6人。課題曲のアンリ・トマジの「トランペット協奏曲」をピアノ伴奏で演奏した。誰が優勝したかは、審査終了次第、ホールに掲示されるとアナウンスされていた。

 因みにこのTCMホールは、東京音大の中目黒・代官山キャンパスの一隅に新しく出来たホールで、客席数およそ420、左右非対称の天井と壁は、濃茶の落ち着いた重厚な色彩で固められた造りである。アクセスの点でも、東横線の中目黒の駅から歩いて5~10分程度だし、小規模なリサイタルにはうってつけだろう。

2019・8・23(金)セイジ・オザワ松本フェスティバル
ファビオ・ルイージ指揮サイトウ・キネン・オーケストラ

     キッセイ文化ホール(長野県松本文化会館) 7時

 22日の「エフゲニー・オネーギン」(2日目)で題名役を歌ったバキルチは、体調不良のため、初日公演に続いて24日の3回目の上演をも降板するということが今日発表された(代役は初日と同じアンダー・キャストの大西宇宙)。
 クヴィエチェンの代わりにわざわざ来ながら、1回しか歌えなかったとはなさけない、という人もいるが、フェスティバル事務局に話を聞くと、彼は声楽ソリストの中では誰よりも早く(8月1日)日本に来て、一所懸命練習し、一所懸命準備するなど、彼なりに努力していたのだそうだ。それを聞くと、ちょっと可哀想にもなる。
 体調不良とあらば、人間だから致し方ない。次の機会には、元気で来てもらおう。

 さて今日は、ルイージが指揮するサイトウ・キネン・オーケストラ(SKO)の「オーケストラコンサートA」だ。シュミットの「交響曲第4番」と、マーラーの「交響曲第1番《巨人》」が演奏された。コンサートマスターは前者が矢部達哉、後者が豊嶋泰嗣。

 ルイージは予想通り、昨日の「オネーギン」とは打って変わった情熱的な指揮。劇的な起伏に富んだ演奏をSKOから引き出した。
 シュミットの交響曲では緻密で澄んだ音色の弦を中心にスケール感豊かな音楽を構築して、この渋い作品の美しさを浮き彫りにしてくれた。
 一方「巨人」では、テンポを巧みに調整して曲想に更なる変化を与え(第2楽章)、また劇的な頂点に向けて驀進する緊迫感といったもの〈第4楽章〉をもつくり出していた━━こういうドラマティックな表現のせめて半分でも昨夜の公演で出してくれていたら、あんなあっさり味の「オネーギン」にはならなかっただろうに。

 また、この「巨人」の演奏では、スコアの指定を上回るほどのメリハリの強さも印象的だった。特に第2楽章での低弦のリズムのアクセントの強烈さ、第3楽章で木管群から引き出した閃光のような鋭いリズム感も素晴らしい。なお第3楽章冒頭のコントラバスはトゥッティで弾かれていたが、これはソロで演奏されるより、よほど安定していて聴きやすい。
 ともあれルイージは、これまでのSKOとの演奏でも証明されているように、マーラーの交響曲ではとりわけ激烈なアプローチを行なう人である。

 「巨人」のあと、客席は総立ちの熱狂。SKOも相変わらず上手い。本気になった時のこのオーケストラは、並外れた力を発揮する。ルイージも、このフェスティバルでは既に結構な人気を集める存在のようだ。たとえ小澤征爾の指揮でなくても、SKOが良い指揮者のもとでこういう卓越した演奏を続けている限り、SOMも聴衆の支持を集めることができよう。
 ただしこのオケは、指揮者によって演奏に極端なムラを生じさせるのが欠陥で、そこにこのフェスティバルに及ぼしかねない危険性がある。

 9時20分頃終演。250円の切符を買って松本駅行きの直行シャトルバスに乗る。これは大型の観光バス仕様で、結構速い。
    ☞(別稿)信濃毎日新聞
    ☞(別稿)モーストリー・クラシック11月号「オーケストラ新聞」

2019・8・22(木)セイジ・オザワ松本フェスティバル
チャイコフスキー:「エフゲニー・オネーギン」

    まつもと市民芸術館・主ホール  3時

 メイン行事に相応しい規模のオペラ上演としては、2015年の「ベアトリスとベネディクト」以来、実に4年ぶりのものになる。思えば、往にし日々には、小澤征爾が毎年のように意欲的なレパートリーのオペラを繰り出し、われわれも胸を躍らせて松本に参集したものだった。あの時代のフェスティバルの沸き立つ熱気は、凄いものがあったが・・・・。

 この音楽祭でチャイコフスキーのオペラが取り上げられるのは、2007年の小澤征爾の指揮による「スペードの女王」以来である。もちろんこの「エフゲニー・オネーギン」の方も彼は日本で指揮したことがあったが、それはこの音楽祭でではなく、2008年の「東京のオペラの森」においてだった。

 さて、今回の上演の指揮は、ファビオ・ルイージ。
 徹底して抒情的な表現に重点を置いた演奏であった。この作品がもともと「オペラ」でなく「抒情劇」と題されていたことを思えば、ルイージは、まさに作曲者の意図に忠実だったことになる。とはいえ、やはりそれだけでは、作品の弱味をカバーできなくなるだろう。

 その意味で、今日のルイージの指揮は、劇的な迫力を些か欠いた。
 例えば、第2幕でのオネーギンとレンスキーの口論が激して緊張が高まって行く場面、全曲大詰めでの縋るオネーギンと拒否するタチヤーナの息詰まる場面などがそうだ。このような、ドラマティックな追い込みと昂揚が必要な個所では、ルイージの指揮はあまりにサラリとしていて、緊迫度の欠如が感じられ、ドラマティックな起伏の少なさに不満を残したのである。
 ゲルギエフが指揮したMET上演(DVDでも出ている)の演奏が、主人公たちの感情の高まりを見事に描いて迫力を生んでいたのに比べると、その違いはあまりにも大きい。

 ロバート・カーセンの演出は、そのMET上演のプロダクションと基本的に同じものだが、今回はピーター・マクリントックが再演演出を行なったもので、主役陣の演技の細やかさにおいては、あまり徹底されていないようなところも見られる。むしろ、合唱団の方が細かく演技していたようだ━━第2幕、トリケの気障で長たらしい歌にうんざりする男たち、といったように。
 なお今回は、全曲最後でオネーギンが椅子に沈み込み、タチヤーナにあてた手紙を読み返す様子が挿入され、ドラマの幕開きの「オネーギンの回想」場面に戻るという演出になっていた。これはMETの上演には無かった設定だ。だが、今回の手法の方が、ドラマのコンセプトに一貫したものを感じさせるだろう。

 声楽陣は、オネーギンをレヴァント・バキルチ、タチヤーナをアンナ・ネチャエーヴァ、レンスキーをパオロ・ファナーレ、オリガをリンゼイ・アンマン、グレーミン公爵をアレクサンドル・ヴィノグラドフ、ラーリナ夫人をドリス・ランブレヒト、乳母フィリーピエヴナをラリッサ・ジャジコワ(ディアドコーヴァ)、トリケをキース・ジェイムソン、隊長とザレツキーをデイヴィッド・ソアー。合唱が東京オペラシンガーズ━━といった面々。

 この中で、マリウシュ・クヴィエチェンの代役として急遽来日したオネーギン役のバキルチは、まあ、可もなく不可もなし、というところか。演技と歌唱に、もう少し皮肉めいたニヒルな表情が現れていないと、オネーギンという複雑な青年を本質的に描くのは難しいだろう。
 タチヤーナ役のネチャエーヴァは、歌唱、演技ともに手堅い出来。一方、声の豊かさと滋味から言えば、グレーミン公爵役のヴィノグラドフが傑出していたし、またディアドコーヴァが乳母役で出演していたのにも懐かしさを感じさせた。

 だが総じて、今回の顔ぶれは、地味という印象を免れず、中心にだれか1人でも核となる歌手がいれば、もう少し舞台も盛り上がっただろうが━━その点、クヴィエチェンの来日中止は、やはり痛かった。

 ダンサーは東京シティ・バレエ団のメンバー。
 ピットに入っていたのは、矢部達哉をコンサートマスターとするサイトウ・キネン・オーケストラ。演奏の立派さは昔ながらのものだ。小澤征爾が昔のように指揮してくれることが望めなくなった現在、このSKOこそが、フェスティバルの「かなめ」である。

 休憩は1回で、6時15分終演。
     ☞(別稿) 信濃毎日新聞
     ☞(別稿) モーストリー・クラシック11月号 公演Reviews

2019・8・18(日)愛知祝祭管弦楽団「神々の黄昏」

     愛知県芸術劇場 コンサートホール  2時30分

 アマチュア・オーケストラ「愛知祝祭管弦楽団」(団長 佐藤悦雄)が3年前から手掛けて来たワーグナーの4部作「ニーベルングの指環」全曲セミ・ステージ形式上演ツィクルスが、ついに今年の「神々の黄昏」で完成をみた。

 指揮は三澤洋史(同団音楽監督)、コンサートマスターは高橋広(副団長)。
 声楽陣は、大久保亮(ジークフリート)、基村昌代(ブリュンヒルデ)、初鹿野剛(グンター)、成田眞(ハーゲン)、大須賀園枝(グートルーネ)、三輪陽子(ヴァルトラウテ)、大森いちえい(アルベリヒ)、本田美香・船越亜弥・加藤愛(ノルン及びラインの乙女)、愛知祝祭合唱団(合唱指揮・神田豊壽)。
 スタッフは佐藤美晴(演出構成)、礒田有香(舞台監督)、渡辺瑞帆(美術)、吉田真(字幕制作)、その他の人たち。

 なによりも第一に、リーダーの佐藤悦雄団長以下、このオーケストラが一丸となって大プロジェクトに取り組んだ、その意欲と演奏とを讃えたい。これは、紛れもない「偉業」である。
 アマオケが「指環」ツィクルスに挑んだ例はこれが初めてではないが、オーケストラの演奏水準の高さや音楽の濃密さから言えば、この愛知祝祭管のそれは、絶賛に値する。今日はホルン・セクションなどにあれこれ不備があったといっても、その大半は「もし公演に2日目があれば、その時はうまく行くだろう」と思われる類のものに過ぎなかったのである。他の管楽器群も弦楽器群も立派な出来だった。

 特に弦の柔らかい響きは特筆すべきもので、美しい空間的な拡がりを生み出していた。
 ただ一方、その美しさゆえに、部分的には物足りないところもあったことは事実だ。たとえば第2幕後半、ハーゲンとブリュンヒルデとグンターの3人の間にどす黒い陰謀がめぐらされる場面では、そこの音楽に本来備わっているはずの、世界を揺り動かすような悪魔的な性格が充分に表出されていなかった、ということもある。
 第1幕の「ハーゲンの見張り」や、第2幕冒頭の「アルベリヒ父子の場」などのように、テンポの遅い個所では不気味さも充分出ていたのはたしかだが、テンポの速い個所においては、「魔性」を表出する前に、演奏の「勢い」だけが先行してしまった、ということだろうか。

 とはいっても、この楽団は、とにかく、アマオケなのである。ホルンのソロを吹きまくっていた奏者でさえ、プロではなく、スジャータの社員さんなのである。そうした人たちが、これだけの見事な「神々の黄昏」を演奏したのだ。全曲冒頭の重厚な演奏ひとつとってみても、それが下手なプロオケ顔負けの素晴らしさだったことを思えば、これ以上、あれこれ言うことはなかろう。
 三澤洋史の、やや速めのテンポによる、無駄な誇張の一切無い制御により鼓舞されたこのオーケストラは、この大曲の本来の美しさを浮き彫りにして余すところなかったのである。

 一方、ソロ歌手陣はアマチュアでなく、れっきとしたプロ集団だ。
 アルベリヒを歌った大森いちえいは、出番は少ないものの、前作同様に凄みのある歌唱を聴かせてくれた。
 嬉しい驚きはハーゲン役の成田眞で、彼の歌唱はこれまでにもいくつかの脇役で聴いて来たが、今回はまさに彼の本領発揮だろう。底力のある声も魅力である。ドイツ語歌詞に更なるメリハリと鋭い表現力が加われば、個性的なワーグナー・バスとして君臨できること確実だ。

 同様に初鹿野剛も声が素晴らしく、今日は気の弱い領主役のグンター役とあって少々控えめな表現だったが、次はもっと「前へ出る役」で聴いてみたいものだ。
 大久保亮は健闘していたが、この人の声はもともと、ジークフリートのようなヘルデン・テナーのものとは違うのではないか?

 ブリュンヒルデの基村昌代は、最後の「ブリュンヒルデの自己犠牲」に自らの全てをぶつけた、といった感があった。「ヴァルキューレ」から歌って来た彼女の、同役の締め括りというにふさわしい歌唱だったのは間違いない。
 ただ、第2幕までは歌のパワーをセーブしていた感もあって━━特にその第2幕では、ただ旋律的に美しく歌うだけでなく、ドイツ語の歌詞にもっと強靭なメリハリと、言葉の意味を生かした強い表情が欲しいところだった。

 合唱団はオルガン下の席に位置していたが、演技も交えてなかなかの熱演であった。今日は、演技らしい演技をしていたのはその合唱団だけ、という舞台だったのだが・・・・。

 その演出構成は、私が日頃から注目している佐藤美晴。気鋭の若手である。昨年までは小道具も使ったりして、かなりいろいろ仕掛けのあるステージを繰り広げていたのに、今年は不思議なほどシンプルなスタイルの、「限りなく演奏会形式に近いセミ・ステージ形式」という感になっていた。
 そうなるとむしろ、いろいろ加えられる照明が諸刃の剣のようになって来る。今回の舞台は、作品の性格が悲劇であるのにもかかわらず、あまりに煌びやかな光のステージと化してしまっていたのではなかろうか? 全曲大詰の場、ヴァルハル炎上の場面で、きらきら輝く「光の束」が上方から下がって来た時には、なにか別のオペラでも観ているような錯覚に陥ったほどだ。
 彼女が「ワーグナーの夜と霧」の概念を打破し、「神々の黄昏」の物語に別の意味を付与させようとしたのならそれはそれで一つの考え方だろう。しかし、プログラム冊子掲載のコメントを読む限り、必ずしもそういう見解とは解釈できないのだが━━。

 30分の休憩2回を挟み、終演は8時15分頃。
 来年は、9月5日と6日に、「指環」4部作を2回に分けて抜粋演奏するそうである。

2019・8・15(水)ダ・ヴィンチ音楽祭in川口 「オルフェオ物語」

     川口総合文化センター・リリア 音楽ホール  6時30分

 レオナルド・ダ・ヴィンチ没後500年に因む、彼をテーマにした音楽祭(芸術監督・濱田芳通)の一環。これは8月14日から17日まで、リリアで開催されている。

 そのうちのメイン・プログラムともいうべき、このオペラ「オルフェオ物語」は、濱田芳通が代表を務める古楽アンサンブル「アントネッロ」が放った力作だ。
 拡大された編成のアントネッロを、濱田自身がコルネットやドゥセーヌ、クルムホルンなどを吹き分けながら指揮し、中村敬一が演出して、ほぼセミ・ステージに近い形式で上演。オルフェオを坂下忠弘、エウリディーチェとメルクーリオを阿部雅子、ダ・ヴィンチを黒田大介、プルートを弥勒忠史、その他多数の歌手たちが歌い演じていた。

 これは、ダ・ヴィンチが作曲したオペラというわけではない。現存するアンジェロ・ポリツィアーノの台本と、上演に際しダ・ヴィンチが書いた大道具に関するメモが残存すること、そしてダ・ヴィンチの弟子が主役オルフェオを演じた事実━━などから、多分ダ・ヴィンチが上演に関わったであろうことを想定し、この台本に基づき、濱田芳通が当時の多くの作曲家の作品から音楽を借り、編纂構成して当て嵌めた「オペラ」というわけ。
 したがって、ダ・ヴィンチはいわばダシのようなもので、音楽面では徹頭徹尾、濱田芳通が主役的存在である。彼の「作曲に近い編曲」の手腕が発揮された作品、と言っていいだろう。

 ストーリーは、は誰もが知っている有名な「オルフェオとエウリディーチェ」だが、これまでのオペラに多い所謂ハッピーエンド版でも、妻を冥界に奪い返されたオルフェオの悲嘆で結ばれる形とも違って、そのあとに、二度と女性を愛さなくなったオルフェオが「狂乱する女たち」(ここではバッカスの巫女たち)に八つ裂きにされるという、オルフェウス伝説にあるエピソードまで取り入れている。これは興味深い。
 但し、物語の中でダ・ヴィンチ自身が狂言回し役で登場し、オルフェオとホモ関係になるエピソードも織り込まれているけれども、その部分の台本が誰の手によるものかについては、プログラム冊子には載っていない。

 この時代の古楽に関しては、私は不勉強にして全く詳しくないのだが、バッカスの巫女たちが馬鹿騒ぎする最終場面を除いては、編纂された音楽がどれもぴたりと嵌って快い。
 歌の部分は引用元の音楽に対して「替え歌」となるわけだろうが、よくもこれだけ巧く当て嵌めたものだと、ただもう感服するほかはない。シンフォニア的な器楽部分に関しても同様である。
 なお前述の、バッカスの巫女たちの馬鹿騒ぎの場の音楽が「結んで開いて」そっくりのフシだったのには笑った。その前後の音楽には、全然「古楽」のような雰囲気はないのだが、濱田の解説には、ちゃんと出典が明示されている。

 演奏に関しては、全て見事の一語に尽きる。アントネッロの演奏も、主役歌手陣も同様だ。冥界の王プルート役の弥勒忠史の、クラウス・キンスキーのドラキュラみたいなメイクの風貌から響き出すカウンターテナーも傑作だった。

 とはいっても、違和感を覚えた点も、無くはないのだが。
 たとえば、ダ・ヴィンチ━━こちらのメイクは、「のだめカンタービレ」に登場する怪人ミルヒ・ホルスタイン教授役の竹中直人そっくり━━の日本語の芝居部分は長いし、少々しつこい。
 オルフェオとダ・ヴィンチの「おっさんずラブ」場面も、それはそれでアリとしても、もう少し綺麗で、洗練された舞台にならなかったものだろうか。彼らが舞台前面で延々と絡み合っているシーンなど、むしろグロテスクなイメージさえ生んでいた。また、巫女たちの歌唱(発声)と演技も、まるで当節の安もののショウの如し。
 かように、気品のあるスタイルで進めて来た神話の世界を、最後に「今ふう」のくだけた世界に戻すという発想は、新国立劇場の杮落しで上演された團伊玖磨の「建・TAKERU」の、あの大ブーイングを浴びたラストシーンの演出を思い出させる。こういう手法は、概して巧く行ったためしがないのである。

 20分の休憩1回を含み、終演は9時20分頃。

2019・8・11(日)ダン・エッティンガー指揮東京フィル
フェスタサマーミューザKAWASAKI

      ミューザ川崎シンフォニーホール  3時

 東京フィル桂冠指揮者のダン・エッティンガーが、ワーグナーの「ニュルンベルクのマイスタージンガー」前奏曲、モーツァルトの「フルート協奏曲第1番」(ソリストは高木綾子)、チャイコフスキーの「悲愴交響曲」を指揮。高木綾子のソロ・アンコールはドビュッシーの「シランクス」。コンサートマスターは三浦章宏。完売、ほぼ満席。

 エッティンガーと東京フィルのコンサートを、ナマで聴くのは久しぶりである。彼もだいぶ貫録がついて来たようだ。オケから引き出す音楽にも、スケール感を増した。とりわけ「悲愴」には、エッティンガーの良さが現われていた。
 彼の指揮するチャイコフスキーの交響曲は、10年近く前に「4番」と「5番」を聴いたことがあるが、それらと同様に、今回の「悲愴」もテンポの動きが大きく、デュナミークの構築も劇的だ。弦もたっぷり鳴らすが、それ以上に管楽器群の動きを目立たせる。

 第1楽章提示部の舞曲調のくだり(モデラート・モッソ)の最後で、クラリネットのソロをまるでジャズのアドリブでもあるかのように極度に目立たせたのには驚いた━━そこでは奏者も実に派手な身振りを見せて、カーテンコールでもひときわ拍手を浴びていた(お客さんもよく見ているものである)。
 また第3楽章での1回目のクレッシェンド(第53小節から)では、各管楽器による主題のモティーフの受け渡しを際立たせ、小気味よいシャープな演奏をつくっていた。

 全曲を通じ、特にホルン群には随所で最強音を際立たせ、トロンボーンにも異様なほど豪快に咆哮させたが、このように金管群の内声部を前面に押し出した演奏は、これまで聴いたことのないほどのものである。晩年のチャイコフスキーの精妙な管弦楽法を浮き彫りにした演奏で、実に面白い。
 ただその代り、弦楽器群の多彩な動きの魅力が犠牲にされたきらいもあっただろう。また、トロンボーンは、ややリアルに過ぎる傾向もなくはなかった。━━といってもこれらは、2CB席ほぼ中央で聴いた印象だから、他の席ではまた異なるバランスが生じていたかもしれない。

 エッティンガーの細かい個所での巧さは枚挙に暇がない。
 たとえば第1楽章第153小節以降のティンパニの最弱音のトレモロの最後を、全てポンとアクセントをつけて結んでいたところなど、凝り過ぎの感じもしたが、スコアを見なおしてみると、それらのトレモロの最後はいずれも8分音符となっているのであって、エッティンガーはまさにスコア通りに、しかもそれを明確に再現させていたのだということが判るのである(これはティンパニをはっきりと叩かせていたから聴きとれたと言える)。

 その他、第1楽章終結部、ロ長調で弦のピッツィカートが下行して行く個所で、髙いロ音に少し強いアクセントを付し、漸弱で下がって行くといった丁寧なつくり、第2楽章中間部で漸強・漸弱の細かい指定を活用して音楽全体を揺れるように構築していたこと、あるいは第4楽章でファゴットが下行して行くその最後で弦に与えた表情豊かな響きなど、━━久しぶりに新鮮な「悲愴交響曲」に巡り合い、この曲の良さを再認識させてもらったように思う。

2019・8・6(火)藤岡幸夫指揮東京シティ・フィル&ソッリマ
フェスタサマーミューザKAWASAKI

      ミューザ川崎シンフォニーホール  7時

 今日の登場は、東京シティ・フィルハーモニック管弦楽団。指揮は、この4月から同楽団の首席客演指揮者となった藤岡幸夫である。シベリウスの「レンミンカイネンの帰郷」で開始したあと、ジョヴァンニ・ソッリマをソリストに迎えたドヴォルジャークの「チェロ協奏曲」を演奏した。

 このソッリマの演奏が、とにかく凄い。全身で音楽に没頭するような大きな身振り、時には指揮の身振りまで交えるステージ姿は━━「チェロ界のジミ・ヘンドリックス」と呼ばれるそうだが━━私にはむしろ、そのかみのロストロポーヴィチを思い出させる。
 演奏そのものは、ロストロポーヴィチのそれよりも開放的で明朗で、湧き上る情熱のままに弾いて行くといったタイプ。ドヴォルジャークらしい哀愁や郷愁などからは少し離れるが、その代り、この作曲家がふだん見せない激情や興奮を隠すことなくさらけ出す━━と言ったイメージを連想させる演奏にも喩えられようか。

 第3楽章でソロ・ヴァイオリンと応酬する個所では、コンサートマスターの青木高志(ゲスト)との丁々発止の対決が聴かれた。
 ここも昔N響の演奏会で、コンマスの海野義雄が身を乗り出して挑戦的に弾きまくるのを、「かかって来い」と言わんばかりの身振りで応戦したロストロポーヴィチを彷彿とさせるソロが繰り広げられた。青木の身振りは、海野とは違って端然としていたものの、演奏自体にはそうした気魄の火花が飛び交っていたように思われたのである。藤岡も、ここぞという山場を、がっしりと決めていた。

 ソッリマのソロ・アンコールは、「お知らせボード」によれば、自作の「ナチュラル・ソングブック」の第4・第6、とのこと。これまた超絶技巧で、足を踏み鳴らし、会場の手拍子まで誘うという陽気な作品。ソッリマは、楽器を高々と頭上にあげて拍手に応える。会場は沸いた。

 第2部で、藤岡とシティ・フィルが演奏した大曲は、芥川也寸志の「交響曲第1番」だった。1955年に上田仁指揮東京響により初演された由。
 第4楽章にはプロコフィエフの「第5交響曲」などの影響も聴かれるが、芥川得意のオスティナート手法よりは、むしろ息の長い強烈な咆哮が目立つ。そのあたりは、ショスタコーヴィチの影響とも言えるかもしれない。
 極めて緻密で分厚く、濃密な音づくりで、これでは当時のか細い薄っぺらな響きしか出せぬ日本のオーケストラの演奏では真価が伝わらなかったろう。

 当時の日本の作品の多くに言えることだが、その真の価値は、今日の向上した日本のオーケストラでこそ発揮されるだろう。その意味でも、私たちは、日本の古典作品をもう一度見直してみるべきだ。藤岡幸夫が今後ライフワークとして手がけたいと宣言している、日本の先人作曲家の作品を掘り起こす活動は、大いに意義のあることだと思う。

2019・8・4(日)フェスタサマーミューザ川崎 高関健指揮仙台フィル

      ミューザ川崎シンフォニーホール  3時

 ミューザ川崎を中心に開催されている真夏恒例の「フェスタサマーミューザKAWASAKI」,今年は7月27日に開幕、8月12日に閉幕する。

 出演のオーケストラは、例年は東京と神奈川のプロ・オケに、川崎市の昭和音大と洗足学園音大の各オケなどだったが、今年はゲストとして仙台フィルハーモニー管弦楽団が加わった。
 なおラインナップには、一昨日のゲルギエフとPMFオーケストラも入っているが、これはあくまで別格的存在という。同フェスタとしては、今後は毎年、地方都市オーケストラをも━━おそらく1団体ずつだが━━ゲストに招いて行こうという腹づもりのようだ。

 仙台フィルは、同団レジデント・コンダクターの高関健の指揮で登場した。プログラムは、ストラヴィンスキーの「サーカス・ポルカ」、チャイコフスキーの「ヴァイオリン協奏曲」(ソリストは郷古廉)および「交響曲第4番」。
 オーケストラは弦編成12-10-8-6-6の規模で、コントラバスを正面奥に並べた高関の好きな配置。ゲストコンサートマスターは三上亮。

 「サーカス・ポルカ」は、しかし何故か少々ユーモア感に乏しい演奏で、オーケストラの響き全体に仙台フィルらしい精密なトーンが不足し、ただ雑然とした音楽といった印象しか残らない。この巨大なホールのアコースティックに慣れないのか、練習不足なのか、それともサマーコンサートゆえに「寛いだ」のか? アンサンブルにはうるさい高関健の指揮にしては、予想外であった。

 そして実はその傾向は、メインのチャイコフスキーの「4番」の演奏にも聴かれたのである。確かに、部分的には、内声部の動きに面白い響きが生れていたり、いくつかの個所にふだんとは異なる音色やバランスのようなものが聞こえたり(これは彼に詳細を訊ねてみたいところだ)、楽曲全体の構築に高関健らしい「持って行き方の巧さ」が感じられたり、という良さがあったことは事実である。
 問題は、それにもかかわらず、音楽に、それぞれの音の間に、もしくは各パートの間に、何というか一種の不思議な「隙間」のようなものが感じられてならなかった、ということなのだ。

 だが、演奏の面白さ、というものはあった。特に「ヴァイオリン協奏曲」。
 これは、郷古廉の確信に満ちた、骨太で強靭な、しかも切れ味のいいソロによるところも多かっただろう。ハイフェッツやオイストラフが演奏したこの曲と同じく、甘美さよりも、むしろ堂々とした力と風格と押しの強さ━━それらはチャイコフスキーの音楽に本来は備わっている特徴なのだ━━が浮き彫りにされ、聴き慣れたこの協奏曲から新鮮なスリル感も引き出されていたのである。
 さらに郷古廉は、ソロ・アンコールにイザイの「無伴奏ソナタ第5番」の第1楽章を弾いたが、これも稀に聴くような強靭な力にあふれた演奏だった。

 オーケストラが最後にアンコールとして演奏したチャイコフスキーの「悲愴交響曲」の第3楽章には、笑った。
 シンバル2対を炸裂させるなど、威勢のいい演奏だったが、それだけではない。楽譜にうるさい高関ならまさかやるまいと思われた方法━━「序」の部分のあと、第1部を見事にカットして第2部のクレッシェンドに飛び、そのまま最後のクライマックスへ、というのを、本当にやってしまったのである。
 満員御礼の客席は、暑さを吹き飛ばすようなこの曲に沸き返った。「フェスタサマー」はこれでいいのかもしれない。
 ロビーに張り出してあった「アンコール曲のお知らせ」に、「第3楽章」ではなく、几帳面にも「第3楽章より」と書かれていたのには敬意。

2019・8・2(金)ワレリー・ゲルギエフ指揮PMFオーケストラ川崎公演

       ミューザ川崎シンフォニーホール  7時

 昨夜と同一のプログラムによる、今年のPMF最終公演。

 あらゆる点で、この3回の公演の仕上げを示すに相応しい、最高の演奏だったと言えよう。
 特にショスタコーヴィチの「第4交響曲」の演奏では、前日に感じた不満のほとんどが解消されていた。トロンボーンやファゴットをはじめ、各パートのソロは昨日とは比較にならぬほど確信に満ちて力強く、音楽に強靭なアクセントを与えていたし、最強奏の際のアンサンブルにも一層の明晰さが生れていた。演奏の表情も、昨日よりはずっと濃かったのではないか? 

 10年以上前のチャイコフスキーの「第5交響曲」での演奏のような変幻自在の神業的なエスプレッシーヴォは望むべくもないが━━作品の性格からして異質なのだから当然ではあるが━━ゲルギエフのオーケストラ・アカデミーのプロジェクトとしては、今年も一定以上の成果を収めることができた、と評していいだろうと思う。

 なお、デョーミンのソロ・アンコールは、今日はドビュッシーの「シランクス」に変わっていた。今後の活躍を祈りたい。
     ☞(別稿)北海道新聞

2019・8・1(木)ワレリー・ゲルギエフ指揮PMFオーケストラ東京公演

     サントリーホール  7時

 朝9時のJAL502便で帰京。札幌も異常に暑かったが、東京の湿気の強さに比べれば未だマシだった。札幌滞在中に何故か再発した腰痛の影響もあって、すこぶる意気消沈。
 9年前の坐骨神経痛に悩んだ時もそうだったが、腰痛の身には、サントリーホール2階客席の段差の大きさは、結構こたえるものなのである。今日は第2部のみ、上皇夫妻が2階RB席に臨席されていたが、あの階段の段差はお辛いのではないかと、毎度のことながら、はらはらさせられるのだ。

 今日の東京公演、プログラムはもちろん昨夜と同一。「牧神の午後への前奏曲」は、演奏時間も11分ほどに達していたようだから、やはり相当テンポが遅い方だろう。音楽全体を抑制し、静謐な神秘性の表出に重点を置いているようなゲルギエフの指揮だ。悪くはないが、ちょっと凝り過ぎではないか、という感もなくはない。

 それとは逆に、ゲルギエフの指揮も含めて、昨夜の札幌での演奏とは別もののように伸び伸びとした、闊達な躍動にあふれた演奏になったのが、イベールの「フルート協奏曲」である。マトヴェイ・デョーミンの爽やかな音色のソロが、いっそう映える。
 チャイコフスキー国際コンクールの総帥(組織委員会委員長)となったゲルギエフが新設した部門で第1回の優勝者となったデョーミンとあれば、ゲルギエフが見出したようなもの。その若々しく溌剌とした奏者をカーテンコールで引き立てるゲルギエフの嬉しそうな顔も、ひときわ印象的だった。
 デョーミンのソロ・アンコールは、昨夜と同じ「サラバンド」。他に手持ちはないのかな?

 第2部、ショスタコーヴィチの「第4交響曲」では、昨夜は各パートのトップに座っていた名手ぞろいの「先生たち」の大半が、もういない。残っているのは、ティンパニのデイヴィッド・ハーバートとパーカッションのシンシア・イェ(いずれもシカゴ響)と、ハープの安楽真理子(METオーケストラ)のみである。従って、オーケストラの人数も、少し減っている。
 ゲルギエフも今日は「長い指揮棒」を使って、ほぼアカデミー生のみの若い集団を率いて行く。

 演奏には、首席たちがリードしてつくり出していた昨夜のような色彩感は失われていた━━それも淡彩に過ぎるほどの音色になっていたのが少々残念だ━━とはいえ、その一方、アカデミー生たちには「自分たちで頑張る」という意識が漲っていたのか、音楽のエネルギーは充分なものがあった。若手を鼓舞するゲルギエフの気力は、定評のあるところである。
 第1楽章の練習番号【63】の個所、弦楽器群が目まぐるしく嵐のように狂乱する個所では、昨夜のデイヴィッド・チャンがリードしていた時のような緊迫感と凝縮力は失われていたが、しかし今日コンサートマスターを務めていた村上祥子(NDRエルプフィル・アカデミー)も、実によく責任を果たしていたように思う。

 ただ、前夜に物足りなさを感じた終結部分は、今日の演奏でもやはり同じだった━━若いオケだからか、それともゲルギエフの指揮が昔より淡彩になったのか(それは事実かもしれぬ)、あるいは、その個所での悲劇的な情感は、歴史を背負ったロシア人のオケ以外には共感し難いものだからなのか?
    ☞(別稿) 北海道新聞

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