2019-06

2019・5・31(金)川瀬賢太郎指揮東京シティ・フィル

      東京オペラシティ コンサートホール  7時

 近年快調の若手、川瀬賢太郎が、東京シティ・フィルハーモニック管弦楽団に客演、得意のショスタコーヴィチ・プロを指揮。
 交響詩「十月革命」、「ピアノ協奏曲第2番」(ソリストは田村響)、「交響曲第9番」という意欲的な選曲である。コンサートマスターは「特別客演コンマス」の荒井英治。

 川瀬は最近、ショスタコーヴィチを得意としているから、さぞかし良いだろうとは思っていたが、その予想よりもさらに良かった。
 何より、リズムの切れがいい。この作曲家独特のアイロニーや、才気煥発の曲想の面白さなどが、いっぱいに噴出して来る。ひた押しに押すエネルギー性なども、例えば協奏曲の第1楽章などでは見事なものであった。

 それは実にまっすぐな演奏であって、ひたむきに真正面から音楽にぶつかって行くという姿勢が感じられて好ましい。ショスタコーヴィチの場合、作品によってそれが成功する場合と、裏目に出る場合に分かれるだろうが、今日のような曲目の、特に前半の2曲などは、明らかに成功を収めたものに当たるだろう。

 前半の2曲を2階席正面で聴いたあと、試みに後半は「業務上の理由で」席を1階の後方下手側に移して聴いてみたが、こちらでは残響も増え、音の響きが増す半面、低音域が少し重くなり、それに従って演奏もやや重いイメージに変わって、そのアイロニー感もやや薄れて来るという印象になった。

 もちろんこれは、客の入りの多寡によっても変わって来るので、一概にどうこうということは言えないし、また川瀬とシティ・フィルも、この「9番」を、第1部とは異なるアプローチで演奏していたのかもしれない。
 CDで聴く演奏が再生装置のグレードにより大きく影響されるのと同じように、ナマで聴く演奏も、ホールのアコースティックや、聴く席の位置によって左右される。そこが難しいところだ。

 だがいずれにせよ、指揮者としての川瀬賢太郎の実力が際立って上昇線を示していることは間違いないところだろう。
 シティ・フィルも躍動的な好演だった。このオーケストラがこれだけ一所懸命に演奏していることを、もっと多くの人たちに知ってもらいたいと思うのだが━━。

 オーケストラのアンコールとして、川瀬とシティ・フィルは、芥川也寸志の「弦楽のための三章(トリプティーク)」の第2楽章を演奏した。アルメニア風というか、ハチャトゥリアン風の曲想も出て来るといったように、彼の当時の好みを反映した曲だ。これがなかなか美しかったし、アンコールにこのような作品を取り上げるという姿勢も好ましく感じられる。
 一方、コンチェルトでの田村響のソロもストレートな力に満ちていたが、そのショスタコーヴィチのあとのソロ・アンコールにショパンの「夜想曲第20番」を取り上げたのは、どうみてもアンバランスで、腑に落ちぬ。

2019・5・30(木)ネルソンス指揮ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団

      サントリーホール  7時

 今日はブルックナーの「交響曲第5番変ロ長調」。本拠地ライプツィヒでも、つい2週間ほど前の定期で3回演奏しているから、所謂「完成された演奏」であることは間違いないだろうと思う。

 名門ゲヴァントハウス間の演奏は流石に上手いし、アンドリス・ネルソンスのオーケストラ制御もまず万全のように感じられるのだが、━━そのわりに常よりは長い曲だと感じてしまったのは、こちらの体調の所為か、それともブルックナーが初期から中期にかけての交響曲で多用した、あの「総休止」の扱いに、ネルソンスが未だ歴代の「ブルックナー指揮者」のような巧みさを発揮できていなかった所為か。

 それでも、流石だと思った個所がいくつもある。例えば第3楽章トリオでの、木管群が織り成す綾の妙味。特に第62~64小節のクラリネットなど、瞬時の動きだったけれど、まろやかの極みだった。そして、第4楽章での、厚みある美しい弦楽器群によるフーガの処理もそう。

 しかしその一方で私は、この曲の最大の特徴ともいうべきコラール的な要素が意図的に抑制されていたことには、些かひっかかる。第1楽章からそうだったが、とりわけ第4楽章コーダの昂揚部分にかけては、その傾向がますます気になって来る。それはネルソンスが、このオケの強力な弦楽器群の響きに重点を置いて、金管群をさほど咆哮させずに構築しているためもあるだろう。
 そして最後のコーダでは、あの金管群の高貴で壮大なコラールはほとんど前面に姿を現わさぬまま、テンポを次第に上げつつ、狂瀾怒濤のクライマックスへ駆け上がって行く━━という感なのだ。

 こういう、宗教的な昂揚感と法悦感とは無縁なブルックナー解釈もあって不思議はない、とは思うものの、しかし私のように、金管群のコラールと、低音部に反復される8度の跳躍のリズムとが豪壮雄大に堂々と気品高く対比され、沸騰する弦楽器群がただ和声的効果としてのみ作用してそれらを包む━━といったタイプの演奏に未だあこがれを持っている聴き手としては、このコーダにおけるネルソンスの激烈なカオスのような構築には、やや辟易させられた、というのが正直なところなのである。

 だがそれにしても、最後のティンパニの揺るぎないトレモロには感じ入った。彼らのブルックナーの交響曲のCD(グラモフォン)でも、ティンパニの強靭ぶりは際立っているけれども、この「5番」の最後の5小節で、その本領を聴かされた思いであった。

2019・5・28(火)ネルソンス指揮ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団

      サントリーホール  7時

 余波を警戒し自重、日曜・月曜の演奏会は欠席連絡をして蟄居していたが、そうばかりもしていられないので、今日は痛み止めの薬を服用しつつ、午後からの東京芸術劇場外部評価委員会に出席、次いでサントリーホールに回る。未だ時々嫌な重苦しい脇腹の疼きに襲われるけれど、演奏を聴いているうちにいつの間にか治ってしまったようである。

 そこでライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団━━。
 2018年2月に第21代カペルマイスターに就任したのがアンドリス・ネルソンスだが、彼とのコンビではこれが最初の来日だ。

 最初に演奏されたのが、バイバ・スクリデとの協演による、ショスタコーヴィチの「ヴァイオリン協奏曲第1番」。5月18日に本拠地で1度演奏しているし、昨晩の公演(東京文化会館)でも演奏済みだから、今日は絶好調の協演というわけだろう。
 スクリデの清澄な音色と、ゲヴァントハウス管の重厚で陰翳の濃い響きとの対比が、絶妙な世界を創る。ショスタコーヴィチのこの曲がこれほど綺麗に聞こえたことはかつてなかったほどだ。
 彼女が弾いたアンコール曲は、ウェストホフの「鐘の模倣」だったが、これがまた美しい。太陽の光が波の上にきらめき、珠玉のような泡(=鐘の音)が現われては消える、といったイメージを想像させた。

 後半には、チャイコフスキーの「交響曲第5番」が演奏された。ドイツの老舗オーケストラも今やこんなに表情豊かにチャイコフスキーの交響曲を演奏する時代になったのか、と変なことに感心した次第だが、━━あまり所謂チャイコフスキーっぽくない雰囲気の演奏だったとはいえ、ひとつのシンフォニーとしての演奏という面では、極めて立派なものだったことは疑いない。

 ネルソンスは、細部にまで神経を行き届かせた指揮をする。この曲は、5月半ばにライプツィヒで3回演奏していたようだから、演奏が完璧に仕上がっているのも当然だろう。内声部の管を丁寧に浮き出せるのも、この曲におけるネルソンスの手法だ。
 が、何といってもこのオケ、弦の厚みと瑞々しさが圧倒的である。第3楽章の中間部では、その弦の細やかな動きがきらきら光る音の粒をつくり出す。それが煌めいて躍動するさまは、「マンフレッド交響曲」の妖精の場面を連想させるほどである。一方、第4楽章のコーダは、スコア指定の「モルト・マエストーゾ」でなく、歓喜の行進のような趣になった。

 アンコールとしてネルソンス、おそろしく長いスピーチ(英語)のあとに指揮したのは、メンデルスゾーンの序曲「ルイ・ブラス」。弦の素晴らしさが、ここでも全開する。流石にゲヴァントハウス管、ゆかりのメンデルスゾーンの作品を演奏すると見事である。あたかも、メンデルスゾーンはおれたちの音楽家なのだ、どうだ━━と言わんばかりの、愛情と共感の溢れる、壮大な演奏であった。

2019・5・24(金)飯森範親指揮日本センチュリー響「ハイドン・マラソン」

    いずみホール  7時

 西宮での演奏会は5時少し前に終ったので、阪急とJRを乗り継ぎ、環状線の大阪城公園駅の近くにある「いずみホール」へ、日本センチュリー交響楽団の「いずみ定期演奏会」を聴きに行く。
 ハイドンの交響曲連続演奏シリーズ「ハイドン・マラソン」の一環で、今日は「第23番」「第20番」「第85番《王妃》」、および挿入プログラムとしてのジョリヴェの「リノスの歌」が演奏された。コンサートマスターは荒井英治。

 この10年来、とりわけ日本のオーケストラの成長が楽しみになり、各地のオケを聴き歩いている。それに、東京では聴けないようなユニークなプログラミングや、東京のオケとの演奏より面白い音楽を聴かせてくれる指揮者にも出会えることがある。いろいろ勉強になるのである。
 自分ではそれを「音楽巡礼」と謙虚に(?)称しているのだが、井上道義からは「旅がらす」と野次られ、芸術文化振興基金のI氏からは、何と「寅さん」「一番星桃次郎」などと、━━(巧いことを言うものですなあ)。

 その音楽の股旅が、しかし今回は、旅先で不慮のリタイアを演じることとなってしまった。
 この「ハイドン・マラソン」、これまでエクストンのCDで何枚か接して、なかなかいいと思い、初めてナマを聴きに来た次第だったが、1曲目の「第23番」を聴いている最中に、持病の尿管結石の発作に襲われ始め・・・・。2曲目はこっそり席を移し、ホール最後部席に座って聴いていたのだが、ついに休憩時間に、蹌踉として会場を抜け出し、ホテルに逃げ帰る羽目に陥った。

 そのあとの救急車のことだの、大阪回生病院で痛み止めの処置をしてもらったことなどは特にここで記す必要もないことだが、とにかくこの体調では、折角の飯森と日本センチュリー響の「23番」にも、正確なコメントを述べられる状態ではなかったことをお許し願いたい。
 ただ、後ろの席で少し姿勢を楽にして聴いた、永江真由子(同楽団首席フルート奏者)が3人の弦とともに演奏したジョリヴェの「リノスの歌」の清涼かつ透明な美しさには、痛みを和らげる美味しい冷たい水を与えられたような気持になったことを、礼とともに報告しておきたい。

 これで結局、土曜日に予定していた名古屋での名古屋フィル定期を聴く計画は残念ながら放棄して、早朝一番の新幹線で帰京せざるを得なくなった。この名古屋フィル定期は、シンガポール出身の注目の若手、カーチュン・ウォンがシベリウスとバルトークを指揮する、実に興味深い演奏会だったのだが、本当に惜しいことをした。

2019・5・24(金)井上道義指揮兵庫芸術文化センター管弦楽団

     兵庫県立芸術文化センター KOBELCO大ホール  3時

 前日から引き続き関西に滞在、阪急電車の西宮北口駅の南口に直結したこのホールで、兵庫芸術文化センター管弦楽団(所謂PAC)の5月定期を聴く。3回公演(すべてマチネー)の、今日は初日だ。

 この日の最大の売りものは、メキシコの人気作曲家アルトゥーロ・マルケス(1950年生)の新作「トランペットとオーケストラのための《秋のコンチェルト》」が、名手パーチョ・フローレスの協演で初演されることにあったろう。
 これはPACとメキシコ国立響、米国アリゾナ州のツーソン響、スペインのオビエド・フィルハルモニアの共同委嘱作で、演奏時間20分ほどの豪壮華麗なラテン・アメリカ系作風のトランペット協奏曲だ。

 フローレスは4種の楽器を使用し、鮮やかに吹きまくった。それは確かに見事なものだったが、YouTubeに出ているものほどには豪壮な、胸のすくような演奏には感じられなかったのは、もしかして初日の演奏ゆえだったのかもしれない。おそらく2日目、3日目の演奏ではもっと自由闊達に吹いたのではなかろうか。

 一方PACの演奏も、これに先立ち1曲目に取り上げられたマルケスの有名な「ダンソン第2番」を含めて、何となくぎこちない、生真面目な━━要するにラテン・アメリカ音楽的な解放感があまり吹き出ていないようなものだったようだ。
 ただ、改めて言うまでもないが、このオーケストラはプロの固定メンバーによる団体ではなく、所謂「アカデミー・オーケストラ」だから、それを承知で聴く要があろう。とはいえ「ゲスト・トップ・プレイヤー」と「スペシャル・プレイヤー」には、国内外のオケの首席奏者クラスの人たちが招かれており、たとえば今日のコンサートマスターには田野倉雅秋、ヴィオラには読響の柳瀬省太、トランペットには東京響の佐藤友紀・・・・といった人たちの名も見えていたのである。

 マルケスでの演奏が意外におとなしかったので、井上とPACの演奏はむしろ第2部でのコープランドの2作━━「ロデオ」からの「土曜の夜のワルツ」と「ホー・ダウン」および「ビリー・ザ・キッド」組曲の方に聴き応えがあった。
 まあ、これらの演奏にもまだちょっと硬さがあったといえば言えぬこともないが、流石コープランド、音楽の貫録という点では独特のものがあり、それに救われた感もあるだろう。 
 井上道義の指揮の身振りの視覚的な面白さも加わって、これは愉しめた。コープランドのこういった作品は、日本では滅多にナマでは聴けないので━━どうも昔から日本のお堅い愛好家たちの間には、この種の曲に対する偏見のようなものがあるのでないかと思うが━━いい機会でもあった。

 アンコール曲はルロイ・アンダーソンの「プリンク・プランク・プルンク」(プリンク・プレンク・プランク)。

2019・5・23(木)シャルル・デュトワ指揮大阪フィル

     フェスティバルホール(大阪) 7時

 久しぶりシャルル・デュトワ。今年10月には83歳になるはずで、歩く姿には少しばかり年齢を感じさせるものがあるものの、いざ指揮台に上れば、身のこなしと指揮の姿は以前と変わらない。
 この人の指揮する音楽には豪華さ、華麗さというイメージがあるが、特に今日のようなフランス・プロ━━ベルリオーズの「ローマの謝肉祭」と「幻想交響曲」、その間にラヴェルの「ダフニスとクロエ」第2組曲(合唱付きの版)を挟むというプログラムにおいては、彼の本領が十二分に発揮されるというものだ。

 公演初日のせいか、最初の序曲「ローマの謝肉祭」では、大阪フィルの演奏にもやや生硬なものが感じられたものの、「ダフニスとクロエ」ではその硬さも薄紙をはがすように溶けて行った。管のソロも良く、後半ではデュトワらしい鮮やかな押しの強さも存分に発揮されて、壮大な音の絵巻が繰り広げられた。大阪フィルハーモニー合唱団(200人近い大編成)も好演である。

 「幻想交響曲」も豪華で、スケールの大きな演奏ではあったが、しかしデュトワはこの曲の標題音楽性にはさほど捉われず、狂気の世界に陥ることなく、あくまでフォルムを崩さずに、むしろ古典派の交響曲とロマン派交響曲との微妙な均整を求めて構築していたようにも感じられる。全曲の終結部での豪壮なサウンドは目覚ましかったが、音楽そのものは決して狂乱状態になることはなかったのである。
 ただ、これはもしかしたら初日ゆえの演奏の特徴であって、2日目の演奏ではまた違った、もっと自由な、開放的な解釈と演奏になるのかもしれないが。

 いずれにせよ、この「幻想」といい、その前の「ダフニス」といい、大フィルからかくもブリリアントな音色を引き出したデュトワの力量と感性は相変わらず見事、と称して言い過ぎではないだろう。
 プライヴェートな面であれこれあったのは承知しているけれども、彼はやはり、かけがえのない指揮者だ。今後とも活躍してもらいたい。「慎重な東京」よりも、「自由な関西」で、いち早くメジャー・オケの定期に登場したシャルル・デュトワ。3階席の僅かな個所を除いてほぼ満席の状態になったこの巨大なフェスティバルホールで、彼は盛大な拍手とブラヴォーを浴びたのだった。

 今日のコンサートマスターは崔文洙。
       →(別稿)モーストリー・クラシック8月号

2019・5・22(水)第18回東京国際音楽コンクール〈指揮〉
入賞デビューコンサート

     東京オペラシティ コンサートホール  7時

 1967年以来の歴史を持つわが国唯一の大規模な指揮者コンクール。当初は「民音コンクール」という名で、1988年から現在の名称になったが、運営と主催は引き続き「民音」により行われている。
 今日は、昨秋開催された第18回東京国際音楽コンクールの指揮部門で上位入賞した3人━━沖澤のどか〈第1位〉、横山奏(第2位)、熊倉優(第3位)が登場、東京都交響楽団を指揮した。

 演奏前にこのコンクールの審査委員長を1987年(第11回)から務めている外山雄三氏がスピーチ、「いいと思ったら、スタンディング・オヴェーションでも何でも、盛大に拍手をしてやってほしいが、気に入らなかったら、靴音高く出て行っていいとまでは言わぬまでも、無理して(儀礼的な)拍手を送らなくてもいい。それが若い演奏家にとって何よりの勉強になるのだから」と、彼らしい言葉を述べた。

 振り方がどうだとかいう話は、指揮者や専門家にお任せして、私は昨夜の浜松国際ピアノコンクール入賞者の披露演奏会の時と同じく、一人の聴衆として、その演奏に感じたことだけを正直に書く。昨秋のコンクール本選の際の演奏は聴いていないので、あくまで今夜の演奏を聴いた範囲でのことだ。

 最初にチャイコフスキーの「ロメオとジュリエット」を指揮した熊倉優は、極めて丁寧に、念入りに作品を構築して行く。冒頭のアンダンテの個所だけでなく、「愛の主題」の部分をも、徹底して遅いテンポで進める。
 それはそれでいいとしても、その遅いテンポに緊張力が伴っているかどうかは別の問題だろう。この日の指揮では、そこにやや誇張めいたものを感じさせ、結果として全曲のバランスを崩し、聴き手に作品の流れを見失わせかねない危険性をはらんでいたように思う。
 何より、そのテンポから激しい曲想に変わる寸前の矯めの個所(例えば第272小節のヴィオラの全音符)までその緊張が持続できず、それまでの仕上げを瓦解させてしまったのでは何にもなるまい。今後の課題であろう。

 次いで、コダーイの「ハンガリー民謡《孔雀は飛んだ》による変奏曲」を指揮した横山奏(男性である)。強靭な音で野性的な力感を漲らせ、音色も多彩で、持って行き方にも工夫が感じ取れるところがいい。ここではオーケストラも、引き締まった響きを聴かせた。欲を言えば、この山あり谷ありの起伏を持った、終わりそうでいて終らないようなこの曲の構成の問題点をカバーするための一策として、もう少し形式感を巧く導入してくれるようになれば、と思う。

 そして最後に、沖澤のどかが、メンデルスゾーンの「交響曲第3番《スコットランド》」を指揮した。このコンクールで優勝した最初の女性指揮者である。良いとは聞いていたが、予想以上に素晴らしい指揮をするのに感心した。
 全曲冒頭、主題が奏され始めた瞬間、都響の管から引き出された音が絶妙の美しさ(アインザッツは悪かったけれど)を持っていたのには、ハッとさせられたものである。弦からも輝きのある音を引き出し、強いアクセントで豊かなメリハリを持たせ、演奏全体に毅然、凛然とした表情を漲らせていた。若手の割にはそれほど大きくない身振りの指揮でありながら、オーケストラの演奏をかくも躍動させ、燃え上がらせる力量は大したものである。

 終楽章での推進力も、なかなか見事であった。欲を言えば、それが見事だっただけに、全曲冒頭主題が変形して再現される大詰の歓呼の個所に「今一押し」が欲しかったところだが、それはこれからのことであろう。最後の最強奏の和音が終る前からすでに拍手が沸き起こり、演奏が終った時にはホール全体が大拍手とブラヴォーに包まれたのであった。

 ともあれ、今日の演奏を聴いた範囲では、コンクール本選の順位付けには全面的に納得したというところである。だが、本舞台はこれからだ。昨夜と同じく、今日の3人に対しても、「輝かしい未来があらんことを」と祈らずにはいられない。
      →(別稿)モーストリー・クラシック8月号 公演Reviews 

2019・5・21(火)第10回浜松国際ピアノコンクール入賞者披露演奏会

      紀尾井ホール  6時45分

 朝からの強風豪雨も、幸いにも夕方には上がって、東京公演は満席の盛況。昨年11月のコンクール入賞者6人の中、第2位の牛田智大を除く5人が出場した━━第6位の安並貴史、第5位の務川慧悟、第4位の今田篤、第3位のイ・ヒョク(韓国)、優勝者のジャン・チャクムル(トルコ)である。

 まず安並貴史がバルトークの「野外にて」と、ドホナーニの「4つの狂詩曲」から「第1番」を弾く。バルトークでは、コンクールの時に比して気魄にあふれた演奏を噴出させ、一方、後者では落ち着いた演奏で彼らしい特徴を聴かせた。
 次に務川慧悟がドビュッシーの「前奏曲集第2集」からの2曲とショパンの「バラード第4番」を弾いたが、このドビュッシーが、あたかも本選の時のプロコフィエフの「第3協奏曲」での烈しい演奏を再現した如く、特に「花火」など猛烈なヴィルトゥオーゾ的なアプローチになっていたのには度肝を抜かれた。これぞ若さの勢いというべきか、微笑ましい。

 今田篤も同様、コンクールの時よりも自由な瑞々しさを湛えた表情でショパンの「葬送ソナタ」を弾いた。誇張なしの自然体で弾かれたこのショパンは、しっかりした均衡を備えた演奏である。

 休憩後にまず登場したのは、イ・ヒョク。ストラヴィンスキーの「ペトルーシュカらの3章」を弾いた。よく言えば体当たり的な熱演というべきかもしれないが、しかし最初から最後までフォルティシモの一本調子で、高音をキンキンした音色で叩き続けるその「勢いのよさ」には少々辟易させられたのが正直なところだ。まあ、第3次予選の際に聴かせていた輝かしさが見事に復活していたのはいいことだろうし、自己主張の強烈な演奏という点で、今後が期待されるだろう。

 最後に登場したのが優勝者のジャン・チャクムルで、バッハの「イギリス組曲第6番」と、メンデルスゾーンの「スコットランド・ソナタ」を弾いた。バッハに対するアプローチが、厳格な構築というよりむしろ自由闊達な躍動という面に置かれていることに、若者らしい感性だなと、何となく嬉しくなってしまう。先頃のコンクールの際の演奏でも示されたとおり、この人の音楽の多彩さは、出場者の中でもずば抜けた存在だ。

 最後には5人そろってステージに現われ、手を繋いでそれを高く上げながら答礼するという微笑ましい光景が繰り広げられた。この若者たちに、輝かしい未来があらんことを。

2019・5・19(日)新国立劇場 モーツァルト:「ドン・ジョヴァンニ」

      新国立劇場オペラパレス  2時

 2008年12月にプレミエされたグリシャ・アサガロフ演出によるプロダクションで、今回は4度目の上演になる。2008年12月13日2012年4月19日2014年10月22日の日記にそれぞれ書いているので、詳細の重複は避ける。

 ルイジ・ペーレゴの舞台装置は落ち着きのある美しいもので、これは傑作の部類に入るだろう。ただ、アサガロフの演出は、単なる小奇麗なものというに止まり、良くも悪くも、それほど目立つ特徴はない。それだけにどの場面がどうのという強い印象は残っていないのだが、今回も再演演出担当の手を経ている所為か、何だか更に平凡で締まりのない舞台になっていた感がある。

 音楽面では━━。
 今回はカーステン・ヤヌシュケというドイツの若手指揮者が振った。真面目に、丁寧に、バランスのいい指揮をする。東京フィルから爽やかな音を引き出し、モーツァルトの美しい音色を損なわずに再現していたということだけでも一つの功績といえるかもしれぬ。
 歌手陣は、ニコラ・ウリヴィエーリ(ドン・ジョヴァンニ)、ジョヴァンニ・フルラネット(レポレッロ)、妻屋秀和(騎士長)、ファン・フランシスコ・ガテル(ドン・オッターヴィオ)、マリゴーナ・ケルナジ(ドンナ・アンナ)、脇園彩(ドンナ・エルヴィーラ)、九嶋香奈枝(ツェルリーナ)、久保和範(マゼット)、新国立劇場合唱団。

 脇園彩は、昨年のちょうど今頃、大阪のフェスティバルホールで上演された「ラ・チェネレントラ」の題名役に迎えられながら、体調が悪くて本調子でなく、私たちを残念がらせたことがあった。だが今日は、ドンナ・エルヴィーラ役でふくよかな、しかも風格のある歌唱の本領を聴かせてくれたのは嬉しい。

 一方、題名役のウリヴィエーリは安定した歌唱ながら、今ひとつ主人公としての迫力が感じられなかったのは、彼の責任というよりは、明確なコンセプトを欠いた再演演出の所為ではなかろうかと思う。
 しかし、役者だったのは、オッターヴィオを歌うガテルだ。ソット・ヴォーチェの見事さもさることながら、最後のアリアでは次第に異様な、不気味な目つきに変わり、独りよがりの英雄的陶酔に浸る表情に物凄さを増す。このオッターヴィオという男はやはりどこかヤバイ奴だ、ドンナ・アンナがもっともらしい理由をつけて結婚を先延ばしにしたのも、もしやそれに気がついたからではないのか、という解釈を浮き彫りにしてくれたのであった。

 5時20分頃終演。さすがモーツァルト、流石ドン・ジョヴァンニ、客席は盛況である。

2019・5・18(土)ジョナサン・ノット指揮東京交響楽団

      東京オペラシティ コンサートホール  2時

 ベートーヴェンの「交響曲第7番」をメインに置き、第1部にブーレーズ(1925~2016)の「メモリアル」と、ヤン・ロバン(1974~)の「クォーク」という作品を組み合わせた選曲。
 前半が現代音楽だけというプログラムであっても、客席はほぼ満員に近い。ノットと東響の人気を物語るものだろう。

 ブーレーズの「メモリアル」は、フルート・ソロ(相澤政宏)と8人の奏者のための作品で、短いけれども神経質な曲だ。ノットと東響は昨年12月の演奏会でも冒頭にフルート・ソロによるヴァレーズの作品(「密度21.5」)を取り上げていたことがあるが、こういうテが好きなのかしら? 
 次のロバンの「クォーク」は、チェロ(エリック=マリア・クテュリエ)と大管弦楽のための作品で、ソロ楽器もオーケストラも刺激的かつノイジーな音で30分近い時間を押しまくる。後半、さながらマーラーの「交響曲第10番」終楽章でのそれの如く、間を置いて叩きつけられる強大な打撃は、聴き手に強い衝撃を与える。

 一方、ベートーヴェンの「第7交響曲」では、アンサンブルも音色も━━特に木管の一部が━━「クォーク」の余波かと思われるくらい少々粗っぽかったものの、ノットと東京響の強靭なアクセントを伴った猛烈な推進力は、この曲の「リズムの饗宴」と呼ばれる特徴を浮き彫りにして、すこぶるエキサイティングな演奏を創り上げていた。
 第1楽章第300小節のオーボエのフェルマータのあとに付された短いカデンツァも━━この手法は久しぶりに聴いたが━━あとで聴衆の大きな拍手を呼ぶ基となったかもしれない。
 なおこのオーボエのあと、木管が主題のモティーフを順に受け渡して行く個所で、付点2分音符の弦のパートを普通よりも明晰に響かせ、リズムから一瞬解放された哀愁感ある世界を引き出したノットの解釈は印象的であった(ここの木管の一部が粗かったのが惜しい)。

 ノットはソロ・カーテンコール。人気はますます高い。コンサートマスターは客演の小林壱成。

※会場名訂正。失礼しました。

2019・5・17(金)ラザレフ指揮日本フィルのマスカーニ

      サントリーホール  7時

 ラザレフは、現在は日本フィルの桂冠指揮者兼芸術顧問。
 首席指揮者時代には、ファンから待望されながらついに一度もオペラの全曲を指揮しなかったラザレフだが、演奏会形式上演ながらやっと取り上げてくれた作品が、ロシア・オペラではなく、何とイタリアのヴェリズモもの━━マスカーニの「カヴァレリア・ルスティカーナ」であるとは意外だった。

 メトネルの「ピアノ協奏曲第2番」を提案したのは、日本フィル側だそうだが、それを聞いたラザレフが、「では後半に《カヴァレリア》をやろう。この二つはぴったり合う」と言い出してオケ側を面食らわせたのだとか。
 こういう作品同士を組み合わせるのはどこから見ても珍しく、何が「ぴったり」なのかは解らないが、とにかく2曲ともいい曲であり、演奏も見事だったので、それぞれの作品なりに楽しむことができた次第である。

 第1部で演奏されたのが、メトネルの「ピアノ協奏曲第2番」。曲が不思議に翳りのある美しさを持っているし、ラフマニノフを柔らかくしたような雰囲気を感じさせるし、ソリストのエフゲニー・スドビン(Sudbin)の音も澄んでいて綺麗だし、ラザレフと日本フィルの演奏もいつもながらの━━というわけで、40分近い長い曲ながら、快さに浸らせてくれた。
 スドビンというピアニストの演奏をナマで聴いたのは、私は実はこれが初めてなのだが、瑞々しい感覚の演奏で、好ましい。

 一方の「カヴァレリア・ルスティカーナ」は、ラザレフらしくダイナミックな力感に富みながらも、何か少々土臭い、南国シチリアを舞台にしたドラマにしては太陽の光の雰囲気の無い音楽という印象で━━いや、これは決して悪いと言っているのではない━━かつてボリショイ劇場で威勢を振るったラザレフの、猛烈なエネルギーに満ちたオペラ指揮を、久しぶりに堪能した思いである。

 声楽陣は、ニコライ・イェロヒン(トゥリッドゥ)、清水華澄(サントゥッツァ)、上江隼人(アルフィオ)、富岡明子(ローラ)、石井藍(ルチア)、日本フィルハーモニー協会合唱団という顔ぶれ。

 主役の青年トゥリッドゥを歌ったイェロヒンはロシアのテナーで、今回はラザレフに招かれて来たのだそうである。やや暗い音色の壮烈な声を持った、素晴らしく馬力のある人だ。
 サントゥッツァ役の清水華澄は、ちょっと物々しいヴィブラートが時に目立つけれども、2人の男とのそれぞれの二重唱で聴かせた可憐な表現は見事だった。ジークリンデ、マルチェリーナ、アムネリス、イェジババ、先頃の怪演「うつろ姫」、それにこの悩めるシチリアの女性役など━━清水華澄の幅広い表現力には舌を巻く。絶好調の歌手とは彼女のことだろう。
 その他の声楽陣も、みんないい。

 なお、全曲幕切れでの、「トゥリッドゥが殺された!」という舞台裏からの悲鳴は、オペラ歌手には怖くて出せぬような荒々しい不気味な声の絶叫で響いて来たが、これは配役表にも載っていない「謎の外人女性」によるもの。ラザレフが「この声は日本人ではだめ。シチリア訛りのある女性が必要だ」といきなり言い出したので、とにかく日本国内在住のイタリア人女性を見つけて、特別出演してもらったのだという話である。カーテンコールには出て来て、ラザレフから丁重な感謝を受けていた。

 コンサートマスターは田野倉雅秋(9月から日本フィルのコンマスに就任予定)。

2019・5・15(水)ロナルド・ブラウティハム・リサイタル

      トッパンホール 7時

 オランダの名フォルテピアノ奏者ロナルド・ブラウティハムが、トッパンホールに2年ぶり、3度目の登場。
 今回はハイドンとベートーヴェンを組み合わせ、前半にハイドンの「ソナタ第49番変ホ長調」とベートーヴェンの「第3番ハ長調」、後半にハイドンの「第52番変ホ長調」とベートーヴェンの「第21番ハ長調《ワルトシュタイン》」を演奏してくれた。

 このプログラム、実に巧みな構成だ。演奏者の発案か、それとも企画の巧さで定評のあるトッパンホールのプロデューサーのアイディアかは知らないけれども、先頃CDで話題になった「ブラウティハムのワルトシュタイン」を入れたこともその一つ。

 だがそれ以上に秀逸なのは、これらの作品の調性の上での関連性に加え、それぞれの作品の曲想に顕れているこの2人の大作曲家の性格を巧みに対照づけ、あるいは共通点を浮き彫りにしていた点であろう。
 ハイドンは、思いのほかベートーヴェンの近くにいた。そしてベートーヴェンも、そこからさらに師を超えて、広大無辺の世界に飛翔していった━━。

 それらが、ブラウティハムの明晰かつ強靭な集中力で有機的に組み上げられたフォルテピアノの演奏により、鮮やかに描き出される。まさに至福のコンサートであり、ハイドンとベートーヴェンの壮大さと美しさとを、心行くまで味わわせてくれたリサイタルだった。
 アンコールは、ベートーヴェンの「悲愴ソナタ」からの第2楽章。

2019・5・14(火)ヴァイグレの読響常任指揮者就任披露定期

     サントリーホール  7時

 1961年ベルリン生まれのセバスティアン・ヴァイグレがこの4月、読響の常任指揮者に就任。
 ハンス=ヴェルナー・ヘンツェの「7つのボレロ」(1998年)と、ブルックナーの「第9交響曲」というプログラムでスタートを切った。

 1曲目を現代作曲家の作品でぶちかましてみせるあたり、保守的な名曲路線には安住せぬぞ、と言わんばかりの意欲的な姿勢が窺われて好ましい。ただしそうはいっても━━この5月に彼が読響との演奏会で指揮する3種のプログラムの中には、現代曲はやはりこれ1曲しかなく、専ら18世紀末~19世紀の独墺の名曲ばかり、という状況ではあるのだが・・・・。

 そのヘンツェの「7つのボレロ」は、演奏時間20分強、大編成の管弦楽のための色彩的な組曲風の作品で、どの曲においてもリズミカルな躍動感が目立って面白い。中には、あのラヴェルの「ボレロ」のリズムが低く忍び寄って来るという個所もあり、微苦笑を呼ぶ。

 一方、ブルックナーの「9番」は、読響の持てる威力を十二分に発揮させた、豪壮雄大な演奏となった。最強奏で咆哮する時の音色には、あまり美しいとは言い難いところもあるが、第1楽章第2主題での弦のアンサンブルの瑞々しさや、第3楽章終結での4本のホルンの伸びやかな清々しさなど、ハッとさせられるような美しい個所も少なくなかった。全体にブルックナーの音楽に備わる筋肉質的な力感という面を浮き出させた演奏、とも言えようか。

 聴衆の反応もまずは上々。コンサートマスターは長原幸太。

2019・5・13(月)METライブビューイング 「ヴァルキューレ」

     東劇  5時

 3月30日のメトロポリタン・オペラ上演のライヴ映像。ロベール・ルパージュの演出、カール・フィリオンの舞台美術による、2011年にプレミエされたあのユニークな舞台装置によるプロダクションである。

 今回はフィリップ・ジョルダンの指揮で、歌手陣は、グリア・グリムスリー(ヴォータン)、クリスティーン・ガーキー(ブリュンヒルデ)、ステュアート・スケルトン(ジークムント)、エヴァ=マリア・ウェストブロック(ジークリンデ)、ギュンター・グロイスベック(フンディング)、ジェイミー・バートン(フリッカ)、他━━と粒が揃っている。

 特に注目されたのは、ブリュンヒルデを初めて歌ったというガーキーだ。
 ドラマティックな女戦士というよりは、茶目っ気もある陽気な女性騎士といった雰囲気で、歌唱にも屈託の無さが感じられるだろう。これが「神々の黄昏」で、「怒れるブリュンヒルデ」として世界を救済する女傑となった時にどのような歌唱と演技を繰り広げるのか、ちょっと興味が湧く。
 METでは特に近年、意図的か偶然か、ヴァルキューレたちを猛女でなく、愛らしい女性騎士として描く傾向があるようだから、この方が人気も出るのかもしれない。

 フィリップ・ジョルダンの指揮が、なかなか良い。物々しい重厚なワーグナーでなく、むしろサラリとした表情で押して行くタイプだが、極めて流れがいい。それでいながら「ヴォータンの告別」の頂点での壮大な昂揚感など、聴き手の感情を揺り動かす卓越した力感を示す指揮である。
 来年からウィーン国立歌劇場の音楽監督になる人だが、楽しみな存在だ。

 ロベール・ルパージュの演出は、父と娘の愛情を強く描くなどの特徴はあるものの、概してトラディショナルなスタイルで、それほど新しいものはない。むしろ例の━━並べればスノコみたいになる巨大な板が縦横無尽に動く、あの見事な舞台装置にすべてを託したような演出である。
 この大がかりな装置は、古エッダの発祥地アイスランドの噴火や地震などの地殻変動から発想されたものだということが、インタヴュ―の中で説明されていた。面白いアイディアだと思う。

 なお今回の音響は、録音が少しこもり気味で、特にヴォーカルのパートの響きの抜けの悪さが気になった。METのライヴでは、時々中継の音質にムラがある。
 案内役には、久しぶりにデボラ・ヴォイトが登場していた。プレミエの時にブリュンヒルデを歌っていた彼女である。以前のような元気の良さ、闊達さが何だか薄れたような雰囲気なのがちょっと気になるけれども、やはり巧い。ロイヤル・オペラ・ライヴの女性案内役と違い、無用に張り切って大声を出すこともないから、感じもいい。。

 上映時間は、休憩2回を含み、4時間51分。客席は結構な入りである。ワーグナーものの映像にこれだけ客が入るとは、まことに祝着である。

2019・5・12(日)飯森範親指揮東京交響楽団のロシアン・プロ

     カルッツかわさき  2時

 ミューザ川崎シンフォニーホールが改装工事中のため、東京響は川崎での演奏会をここ「カルッツ川崎」に、一時的に移している。

 これは川崎駅東口からバスで5分、徒歩なら20分くらいの場所にある「スポーツ・文化総合センター」のホールだ。座席数は2000ほど。
 クラシック音楽専用のホールではないが、2階席前方で聴く範囲では、音響は悪くないという印象を受けた。ただし2階と3階の多くの席は、椅子に腰を下ろすと、ステージが前の席の客の頭に隠れて中央が見えないという変な特徴がある。このホールの設計者は、席には客が座るものであり、その客は舞台を見るものである、という基本的なことも考えなかったのだろうか?

 それはともかく、今日は正指揮者・飯森範親の指揮で、第1部にボロディンの「イーゴリ公」から「ポロヴェッツの娘たちの踊り」と「ポロヴェッツ人の踊り」、ムソルグスキーの「禿山の一夜」(オペラ「ソローチンツィの市」の一場面)、チャイコフスキーの「1812年」。第2部にワシリー・カリンニコフの「交響曲第1番」というプログラムが演奏された。

 第1部の3曲では、東響コーラスおよび川崎市立坂戸小学校合唱団が協演。またボロディンとムソルグスキーの作品ではバリトンのヴィタリ・ユシュマノフのソロも加わるという大がかりな編成だった。コンサートマスターは水谷晃。
 東響コーラスはステージ奥のみでなく、両側袖にも配置された(ただこの袖の合唱は、ステージの指揮者の方を向いて歌われたせいもあって、2階席で聴いていた私にはあまり聞こえなかった)。

 東京響の演奏の方は、第1部では賑やかさと勢いが優先されていたようだが、何しろ曲が曲だけに、これは致し方ない。
 だが、「禿山の一夜」を、一般に演奏されるリムスキー=コルサコフの「まとまり過ぎた」編曲版ではなく、またムソルグスキーの雑然たる野性的な魅力に富んだオリジナルの管弦楽曲版でもなく、彼がのちにバリトン・ソロ(魔王チェルノボーグ)と合唱(悪魔たち)を入れて新たに書いたオペラ用の版で聴けたのは、まことに稀有な有難い体験であった。もしかしたら、これは日本初演か?

 一方、第2部でのカリンニコフの「第1交響曲」では、シリアスで瑞々しい、しっとりとした演奏で、指揮者・飯森が愛してやまないこの曲に相応しい快演が展開された。主題の展開の手法に関しては少々まだるっこしいものが感じられるこの曲だが、熱狂的なファンも多いようである。

2019・5・11(土)山形交響楽団 阪哲朗常任指揮者就任記念定期

      山形テルサホール  7時

 山形交響楽団を「明るい」オーケストラにし、かつ全国的に知名度を高めるという絶大な功績があった音楽監督・飯森範親は、このたび「芸術総監督」になった。

 替わって、以前、首席客演指揮者を務めていたこともある阪哲朗が、この4月から「常任指揮者」に迎えられた。アイゼナッハやレーゲンスブルクの歌劇場音楽総監督などを歴任し、ドイツでの活動が多かった阪哲朗にとっては、これが日本での最初の常任ポストになる。
 彼は京都生れのはずだが、御両親の故郷は山形なのだとか。なお彼には「阪・友の会」とかいうファンクラブが京都にあり、今日も少なからずの会員が聴きに来ていたとのことであった。

 さて、その就任記念の今月定期。プログラムは、第1部にメンデルスゾーンの序曲「美しいメルジーネの物語」と、シューマンの「交響曲第4番」。第2部にはブラームスの「ピアノ協奏曲第1番」(ソリストは横山幸雄)が置かれた。
 コンサートマスターは犬伏亜里。

 弦はいずれも基本8型編成(以前、私がよく聴きに来ていた頃には、たしか基本10型だった)。このホールはさほど残響が長くはないし、しかも阪哲朗は「縦の線」を厳密に合わせるタイプの指揮者ではないから、それらの要素を含めた上でこの弦の編成でドイツ・ロマン派の作品を演奏するのは━━必ずしも容易ではないかもしれない。
 今日は、それもあってか、あるいは2日公演の初日ということもあってか、メンデルスゾーンの序曲や、シューマンの交響曲の最初の部分では、以前に比べアンサンブルの緻密さが薄らいでしまったか、という印象を抑えきれなかった。だが、演奏の強い推進力という点では確固たるものが感じられたので、まずは安心。

 特にシューマンは、メンデルスゾーンとは全く異なる暗く重々しい響きで開始されたので、阪と山響の意図は明確に伝わって来る。そしてこのシューマンの「第4交響曲」の演奏は、アンサンブルは別として、第1楽章の展開部あたりからあとの陰影に富んだ情感は目覚ましいものがあった。特に第4楽章へのクレッシェンドのくだりでは、ミステリアスな雰囲気も満ち溢れて、すこぶる見事だったのである。

 ブラームスの壮大なピアノ・コンチェルトをバランスよく響かせるには、オーケストラの規模とこのホールの音響との関係の上からも、更に難しいものがあったのではないか。横山幸雄も、かなり神経を使って弾いていたようにも感じられたが━━しかし、叙情的な第2楽章を経たあとの第3楽章では、見事なまとまりが聞き取れた。

 どの曲でも、尻上がりに均衡のとれた演奏になって行った。それゆえ、明日の2日目は、おそらく最初から良いだろう。そして指揮者とオーケストラの呼吸が更に合って行けば、いっそう素晴らしいものになるだろう。

 開演前のロビーコンサート、阪哲朗と西濱秀樹専務理事とのプレトーク、終演後のロビーでの指揮者とソリストと聴衆との交流会、楽員たちがロビーで客を見送る光景━━ありとあらゆる手を尽くして演奏者と聴衆との融合を図るというこの楽団の姿勢は健在だ。
 徹底した自助努力、発信力の強化、聴衆や支援者の拡大へのさまざまな活動などを通じ、東日本大震災の影響で悪化した経営状況も改善され、定期演奏会の平均入場者数と総入場者数も2014~2015年頃に比べ大幅に増加して来たというデータも出ている。
    別稿 モーストリー・クラシック8月号「オーケストラ新聞」

2019・5・10(金)上岡敏之指揮新日本フィルのワーグナー

      サントリーホール  7時

 ヴェルディの大作オペラに浸ったあとには、ワーグナーの「抜粋もの」。
 新日本フィルハーモニー交響楽団の演奏と、音楽監督・上岡敏之の指揮。

 プログラムは、「タンホイザー」の「序曲とバッカナール」、「トリスタンとイゾルデ」の「前奏曲と愛の死」、「神々の黄昏」からの「夜明けとジークフリートのラインへの旅」と「ジークフリートの死と葬送行進曲」、「パルジファル」から「第1幕前奏曲」および第3幕の終結部分。コンサートマスターは(上岡の指揮の時としては珍しく)豊嶋泰嗣。
 R・シュトラウスと同様、ワーグナーも、上岡の十八番のレパートリーである。今夜の演奏でも、全ての曲で、上岡らしく凝りに凝った、微細で緻密な音の構築が続く。新日本フィルが今や彼と一体になり、それを具現するようになっているのは流石というべきであろう。

 「タンホイザー」序曲の最初の「巡礼の合唱の主題」の個所からして、管楽器群がテヌート(音符の長さをいっぱいに保って)で歌う。各フレーズがレガート(繋がる)で演奏されることになり、そこからも粘った演奏というイメージが生まれるのだろう。聴き手の好みも分かれるかもしれない。

 「トリスタン」前奏曲最後のコントラバスを、ほとんど聞こえぬような弱音で演奏させるのも上岡の以前からのやり方だが、これは特にコントラバス群の背後、上手側の、しかも遠い位置の席にいると、頭の中で音を補って行くしかない。
 しかし、演奏において、たとえ最弱音と雖も、聴衆に「明確に」聞こえないような音がどんな意味を持つというのか、私には疑問に思えてならない。その意味では私は、故・朝比奈隆氏の「指揮者がいくらピアニッシモだと言ったって、お客さんにピアニッシモとしてはっきり聞こえる音でなけりゃ、ピアニッシモの意味が生きませんからな」という言葉に賛成なのである。

 「ラインへの旅」の最後は、フンパーディンクによる演奏会用終結版が使用されていた。この曲の途中の部分の長いカットは、私は嫌いな手法だが、これをやる指揮者は結構多いのでまあ仕方がないとしても━━「バッカナール」の後半における大幅なカットはぎょっとするほど繋がり方が不自然で、さすがの上岡ファンの私でさえ、いつものような拍手を贈る気が失せてしまったのだが・・・・。
 「葬送行進曲」で、「死の動機」が初めて最強奏で轟く個所への8分音符3つのクレッシェンドを行わず、これも極度の最弱奏のまま続けてしまうというのも、上岡ならではの解釈だろう。
 こうした解釈は、私も以前だったら面白くて興味深い、と書いたところだろうが、正直なところ、最近では少々煩わしく感じられるようになってしまった。

 このように全ての音符に神経を行き届かせ、念入りに構築するという上岡のその感性と手腕には敬意を払う。が、そのわりに感動が少なく、むしろ作為的なつくりが感じられてしまい、しかも疲労感が残るというのは、どういうわけか。
 「トリスタン」では、官能的な情感があまり感じられず、「葬送行進曲」でも、この曲に備わる身の毛のよだつような魔性的なもの、あるいは悲愴美が伝わって来ないのである。それゆえ、比較的ストレートに演奏された最後の「パルジファル」からの音楽が、ワーグナーの音楽が持つ本来の深みと魔力を感じさせてくれたのだった。

 ━━だが、個人的な好みは別として、マエストロ上岡敏之には、今後も彼の流儀を徹底的に押し進め、わが国で唯一のユニークな個性を備えるオーケストラを完成させてもらいたいという願いには、変わりはない。

2019・5・10(金)ロイヤル・オペラ シネマ「運命の力」試写会

      日本シネアーツ社試写室  1時

 「ロイヤル・オペラ・ハウス(ROH)シネマシーズン2018/19」の一つ、今年4月2日上演のヴェルディの「運命の力」。上映時間は休憩2回を含め4時間18分と長いが、素晴らしく見応えがある。

 指揮はアントニオ・パッパーノ、演出はクリストフ・ロイ。
 歌手陣はヨナス・カウフマン(ドン・アルヴァーロ)、アンナ・ネトレプコ(レオノーラ)、ルドヴィク・テジエ(ドン・カルロ)、フェルッチョ・フルラネット(グアルディーノ神父)、アレッサンドロ・コルベッリ(メリトーネ修道士)、ヴェロニカ・シミオーニ(プレツィオジッラ)他。

 改めて言うまでもないが、この配役はすこぶる豪華である。
 カウフマンは、ソット・ヴォーチェの個所での不安定さなど、必ずしも本調子で無かったかもしれないが、いざとなると舞台と音楽を自己に惹きつけてしまうのは流石だ。悲劇的な宿命を満身に負った感のあるこのドン・アルヴァーロ役を、知性的なニュアンスを失わずに表現できるという点でも、やはり彼は卓越した存在であろうと思う。

 そして、狂的なほど異常な執念深さを持ったドン・カルロを、ルドヴィク・テジエが見事に歌い演じる。彼はもともと少し愛嬌のある顔立ちだから、それが怨念に燃えた表情をすると、余計に凄味が出る。
 このオペラでは愛の二重唱がひとつもない代わりに、アルヴァーロとカルロのテノールとバリトンの対決が多く、これらはいずれも圧巻のシーンである。

 ネトレプコはいつもに変わらぬ素晴らしさで、ドラマの最初から最後まで切羽詰まった状態に追い込まれている悲劇的なレオノーラを見事に歌い演じていた。彼女の人気は圧倒的だが、ただ、観客の中には彼女に対してだけ異常な熱狂を示すシンパ(女?)がいるようで、この雰囲気は少々恐ろしい。
 その他、フルラネットの滋味にあふれた神父ぶりが、ドラマをうまく支えている。また、プレツィオジッラ役のシミオーニというメゾ・ソプラノは、華やかに歌って踊れるミュージカル的な器用さがあるようで━━。

 なお、最初にピストルの暴発により命を落としてしまうカストラーヴァ侯爵を演じていたのが懐かしの名バス、ロバート・ロイドだったことを、あとからサイトの配役表を見て知って、もっとよく観ておけばよかったと後悔した。確か今79歳のはずである。まだ元気で歌っていたのか、と嬉しくなった。
 「ラタプラン」の場などで、表情豊かな演技や長いダンスをこなすロイヤル・オペラ合唱団の上手さも圧巻だ。

 そうしたものすべてを統率制御する指揮者パッパーノの手腕には舌を巻いた。ヴェルディの音楽のニュアンスの細かさ、ドラマ全体を貫く「運命」の恐るべき力や、登場人物の性格などの描写における巧みさ、旋律と和声の美しさなどを、これほど鮮やかに表出できる指揮者は、古今決して多くはないだろう。このオペラがこれほど精緻微細に演奏されたのを聴いたのは初めてと言っていい。
 一方、クリストフ・ロイの原演出は、ところどころ腑に落ちぬ手法も見られるけれども、教会の腐敗ぶりを浮き彫りにしたりするなどかなりニュアンスの細かい解釈に富んでいる。例えば修道院にやって来た時のレオノーラの身に起こる出来事などのような、過激な手法も僅かながら観られる。

 使用された版はもちろん改訂現行版で、最後はアルヴァーロが、既に白髪を頂いたレオノーラの遺体を抱いて慟哭する場面で終る。ちなみに、アルヴァーロも投身自殺してしまう超悲劇的な「原典版」は、それが初演されたマリインスキー劇場で以前ゲルギエフが指揮したのを観たことがあるが(日本公演でもやったような記憶がある)、あれは現行版以上に気が滅入るオペラだ。

 かようにロイヤル・オペラの本領をたっぷりと堪能させてもらい、満足したので、PR記事みたいになるけれども━━これは5月24日~30日に東宝東和系TOHOシネマズ(日比谷、日本橋、横浜、流山、名古屋、大阪、西宮)で上映される。
※━━と、チラシに載っている通りに引用したのですが、東宝東和のサイトをあとから確認したら、どうもかなり変更になっているらしく、しかも1週間前になってもほとんどが詳細未発表。ごめんなさい。あそこはさっぱりわからない。

2019・5・9(木)ローザス/コルトレーン「至上の愛」

      東京芸術劇場プレイハウス  7時30分

 今年のGWは、珍しく「ラ・フォル・ジュルネ」にも全く顔を出さなかったが━━。久しぶりに足を運んだのは、ベルギーのダンスのカンパニー「ローザス」の来日公演。上演時間はほぼ50分。

 アンヌ・テレサ・ドゥ・ケースマイケルとサルヴァ・サンチスの振付により上演された今日のコンテンポラリー・ダンスは、ジョン・コルトレーンの「至上の愛 A Love Supreme」という音楽に基づくものだった。
 音源としては、1964年に録音されたジョン・コルトレーンのテナー・サックスとヴォーカル、マッコイ・タイナーのピアノ、ジミー・ギャリソンのベース、エルヴィン・ジョーンズのドラムス他━━どれも懐かしい名前だ━━の演奏による歴史的名盤が使われている由。

 私も、こう見えても、コルトレーンの1966年7月の彼の来日公演をナマで聴いており、これは一応自慢の種(?)なのだが、ただし彼の晩年のフリージャズのスタイルは、もともとジャズに関しては門外漢の私には、特に当時は理解と共感の域から甚だ遠かった、というのが正直なところだ。
 なにしろ、曲が「ムーン・リバー」と知らされながら、彼の絶叫型のサックスの長いソロの中に、あの曲のメロディが出て来たのはたった1回だけ、それも最初の2小節ほどがチラリと顔を見せただけ、という演奏なのだから、私のようなド素人にピンと来るはずがなかったのである。彼は、それからわずか1年後には他界してしまったのだが━━。

 それに比べると、この「至上の愛」は未だ穏健な、良い意味での甘美さもある時代の演奏だな、と、改めて懐かしく思う。どちらかというと落ち着いて静的で、━━このローザスによるダンスも、その静的な要素を浮き彫りにして反映させているのかなという気がする。
 その演奏もダンスも実に魅力的で、何とも形容し難い安堵感に誘いこまれた。
 が、私の隣に座っていたマニアックな感じの人は、いかにも不満そうな唸り声を発して、拍手もしなかった。

 このローザスの公演、この他にも18日と19日に、ジャン=ギアン・ケラスの生演奏によるバッハの「無伴奏チェロ組曲」(2時間公演だというから、全6曲やるのかしら?)との共演がある。残念ながらそれは観に行けない。

2019(令和元年)5月1日(水) 葵トリオ 

    トッパンホール  2時

 昨年のミュンヘン国際コンクールで優勝を飾った、小川響子、伊藤裕、秋元孝介の葵トリオの演奏会。これはトッパンホールが2002年10月に開始した「ランチタイム コンサート」の第100回記念として行なわれたものだ。
 気鋭のグループによる若々しい清新な息吹に富んだ演奏は、令和元年の初日を祝うに相応しいものであったろう。

 プログラムは、ベートーヴェンの「三重奏曲第5番《幽霊》」、マルティヌーの「三重奏曲第3番」。━━ここまでは先週土曜日にびわ湖ホールで演奏したプログラムと同じだが、今日はそのあとの第2部に、メンデルスゾーンの「三重奏曲第2番」が演奏された。
 アンコールはまたもハイドンの「三重奏曲第27番」の第3楽章だったが、これはピアノの秋元孝介が「何回も私たちの演奏を聴いて下さっている方は、またかと思われるでしょうが、これはいまロビーで売っている(私たちの)CDにも入っている曲なので」というスピーチをし、聴衆を笑わせていたので、商売上の戦略というわけだろう。

 マルティヌーでの演奏の切れの良さは、先週土曜日の演奏の際に感嘆させられたのと全く同様。
 だが、メンデルスゾーンでは、疾風迅雷というか、疾風怒濤というか、猛烈なエネルギーを噴出させた演奏となり、ベートーヴェンの精神をそのまま引き継いだかのようなメンデルスゾーン像が描き出された。この荒々しさは、所謂メンデルスゾーンのものではないように思われるが、この作曲家の精神の奥底に秘められていた━━もしそうであればの話だが━━強靭で荒々しい情熱を浮き彫りにするという点では、興味深い解釈かもしれぬ。
 とはいえ、ベートーヴェンとメンデルスゾーンの違いが、彼ら葵トリオのメンバーの中でどのように認識されていたかということになると・・・・。

 いずれにせよ、こういう演奏ができるのは、若さの特権であろう。

«  | HOME |  »

























Since
September 13, 2007

これまでの来訪者数

最近の記事

お知らせ

●2007年7月以前のArchivesを順次、アップロード中です。併せてご覧下さい。
2007年7月
2007年6月
2007年5月
2007年4月
2007年3月
2006年7月

Category

ブログ内検索

プロフィール

リンク

News   

雑誌 モーストリー・クラシック に連載中
「東条碩夫の音楽巡礼記」