2017-05

1・31(木)ゲルギエフ指揮マリインスキー・オペラ
ロッシーニ「ランスへの旅」 

  東京文化会館

 フランス国王シャルル10世の戴冠式をランスへ見に行くはずのツァーが、馬車の馬の都合がつかずキャンセルとなったため、パリで行なわれる大祝典行事の見物で穴埋めすることになるという、ただそれだけの筋書き。

 スペクタクルな場面など全くないし、TVのサスペンス・ドラマなんかと違って、そこで殺人事件が起こるわけでもない。考えようによっては、これほど舞台に乗せるのが難しいオペラもないだろう。結局、舞台に華やかな趣向を施し、歌手たちに妍を競わせるのがいちばん効果的ということになる。
 これまで日本で観たものでは、1989年のウィーン国立歌劇場来日公演でアバドが指揮、ライモンディやガスディアが歌い、舞台奥のビデオ・プロジェクターが「戴冠式の生中継」を刻々と映し出す趣向のロンコーニの演出による上演がすばらしかった。また2006年10月、藤原歌劇団がエミリオ・サージ演出で制作した上演も、舞台装置は簡素ながら、ゼッダの指揮、高橋薫子や佐藤美枝子(Aキャスト)がいい歌唱を聴かせて、なかなかに楽しいものだった。

 そして今回のマリインスキーのプロダクション。これはシャトレ座との共同制作で、DVDもすでに出ている。
 演出のアラン・マラトラは、先日の「三つのオレンジへの恋」と同じように、シンプルかつカラフルな舞台を作った。オーケストラの楽員には白い宮廷風の衣装を着せてステージ奥に配置し、歌手たちを舞台前面や張り出し花道、客席の各所などですこぶる賑やかに演技させる。観客はあちこちに忙しく目を動かすので、退屈するヒマはとりあえずないだろう。コミカルな舞台構成で、いっとき愉しむには絶好の演出ではある。ただし人間模様の描き方は非常に刹那的なものであり、それぞれのキャラクターの背景に思いを致させたり、ペーソスを感じさせたりするたぐいのものではない。ロッシーニのオペラにそんなものは不要なのだ、という意見もあろうが、そうばかりとも言えまい。

 ゲルギエフは、スポット・ライトと拍手を浴びつつ客席通路から登場し、帽子をかぶったまま舞台奥で指揮をする(帽子姿を後ろから見ると、なんだか阿部寛に似ている)。やや重いロッシーニだが、これはゲルギエフの個性だから、広い世界にはそういうスタイルもあると受け取って聴くしかあるまい。芝居に参加する楽員の中では、女性フルート奏者が結構な役者ぶりだった。日本人奏者であのような趣向の芝居をできる奏者がいるかしら?

 歌手たちは、このプロダクションでもみんな若い。リーベンスコフ伯爵役のダニール・シトーダが風邪でも引いたのか不調だったのは残念だが、その他はみんな頑張っていた。若手ばかりなので、勢いはいいが、味には少々不足する。いわゆる知名度のあるスター歌手が一人か二人いれば、また随分印象も違っただろう。
 とは思うのだが、最近の情勢では、いかにゲルギエフといえど、なかなか思うように行かぬらしい。マリインスキー出身の歌手たちも世界的なスターともなれば、みんなコロンビア・アーティスツのような大手エージェントと契約してしまう。育ての親たるゲルギエフから誘われた彼らが、そのツァーに参加することに同意しても、「強欲な」大手エージェントが割って入り、ギャランティやスケジュールについて遠慮のない要求を出すのだという話を聞いたことがある。どのくらい本当で、どのくらい誇張だかは知らない。が、せっかくいい歌手を育て上げても、ワールドワイドな場に送り出したのが仇となって、彼らを使うこともままならなくなるとは、ゲルギエフもマリインスキーも気の毒なものである。
 先年、ネトレプコがオーストリア国籍を取得しようとした時に、マリインスキー劇場の歌手やスタッフの一部、それにロシアのマスコミの一部から猛烈にバッシングされた事件があったが、前述のような問題と絡めて考えれば、地元の心情もわからぬではない。
 もっとも、それゆえマリインスキーとしては、あとに続く新しい若手を育てることに躍起となる。それがあのように、ひきも切らないほどの豊穣な歌手軍団を生み出す原動力にもなっているわけだから、災い転じて福となす、の好例ともいうべきであろうか。

 「ランスへの旅」は、今回の来日演目の中では唯一のイタリア喜劇もの。マリインスキーも幅広いレパートリーと意欲的な企画を持っているのだということを、ゲルギエフは是非とも示したかったのだろう。出来栄えは必ずしも十全とはいえぬかもしれないが、とにかく全員がひたむきに、一所懸命にやっていることを良しとしたい。
 

1・30(水)ロジャー・ノリントン指揮シュトゥットガルト放送交響楽団

   サントリーホール

 聴きなれた名曲から、これまでほとんど気づかなかった「ウラの魅力」を引き出して示してくれるノリントンの解釈は、すこぶる刺激的である。彼がめまぐるしく繰り出すデュナミークの変化は、スコアには指定されていないものも多いのだが、しかし、そういう楽譜の読み方もあるだろうと納得させられてしまうほど自然で、面白いのである。

 特に2曲目のメンデルスゾーンのヴァイオリン協奏曲はユニークで、クレッシェンドを大振りな表情で強調したり、ティンパニを固い音で目立たせたり、第2楽章では弦楽器群の8分の6拍子の伴奏音型を波打たせて演奏させたりと、趣向に事欠かない。
 しかもそれに合わせるかのようにソリストのジャニーヌ・ヤンセンが、すこぶる鋭角的で戦闘的な音楽をつくる。ノリントンが指揮する時には、彼の流儀にソリストも協力するというのがいつものことだが、ふだんと違ったスタイルに挑戦し、新たな実験を試みるという悦びがソリストの方にもあるのかもしれない。とにかくスリリングなメンデルスゾーンであった。
 
 後半の「英雄交響曲」は、もうおなじみのノリントン節。千変万化、変幻自在のデュナミークとテンポで全曲を進める。あの時代としては革命的で先端を行く作曲技法だった交響曲が、まさにそれにふさわしい姿で軋むような荒々しさで演奏される。かつてガーディナーが小編成のピリオド楽器オーケストラでこの曲を演奏したのを聴いた時には、大胆な和音がぶつかり合う革命的なスコアを再現するにはまさにこのような小編成のオーケストラで無ければならないと思ったものだが、今日ではこのノリントンとシュトゥットガルト放送響のように、大編成でも難なくそれを実現することができるようになったというわけだ。

 1曲目にはヴォーン・ウィリアムズの不思議な面白さを持つ「すずめばち」序曲が、いかにもノリントンらしい才気あふれる演奏で披露されたが、それに呼応したのがアンコールでのブリテンの「マチネー・ミュージカル」の行進曲。打楽器群が派手にとどろき、そのあとに軽快で洒落た音楽が続く。そして最後には、シューベルトの「ロザムンデ」間奏曲が懐かしい思い出を甦らせるように、この上なく美しく流れて行ったのであった。
  音楽の友4月号演奏会評

1・28(月)ゲルギエフ指揮マリインスキー・オペラ
プロコフィエフ「三つのオレンジへの恋」 

    東京文化会館

 正直なところプロコフィエフの音楽は、以前には何度聴いても興味が湧かなかったのだが、最近になって突然好きになり出した。
 そのきっかけたるや、数年前にメトロポリタン・オペラでゲルギエフやノセダが指揮した「戦争と平和」に接したときだったのだから、われながらちょっと変わった趣味だと思う。余談ながら、今年秋には東京で、ゲルギエフとロンドン響によるプロコフィエフの交響曲全曲チクルスがある。その際には、どっぷりとまたプロコフィエフの世界に漬かってみたいものだ。

 ゲルギエフが指揮するプロコフィエフの作品は、これまでにもCDやナマでかなりたくさん聴いてきたが、いかにもロシア的な濃厚な色彩を備えていて、しかもラディカルなエネルギーを放射する演奏であるところに、私は興味を持っている。「三つのオレンジへの恋」でも同様。もともとこのオペラの音楽はかなり躁状態(?)なものだが、ゲルギエフの指揮もそれに即して、特に前半など、沸騰するような熱気があふれていた。

 歌手陣も、マリインスキーの若い世代が大活躍だ。この数年来、めきめきと実力を伸ばしてきた若手の旗手ダニール・シトーダは、今回は少しコミカルな鬱病の王子を歌い演じて光っていた。今日の主役たちの中でのベテラン格といえば、王様役のゲンナジー・ベズズベンコフくらいなものだろう。本当にマリインスキー・オペラというところは、あとからあとから若い優秀な歌手がひきも切らずに出てくるのに驚かされる。

 演出は、評判の演劇演出家アラン・マラトラ(今回の公式プログラムには何故か演出家の紹介が全然載っていない)。あまりにシンプルな舞台なので、記録ビデオで見たときにはその真価を測りかねたが、やはり実際の舞台を見てみないと本当のところはわからないものだ。なかなかに要を得た舞台である。装置(ダニエラ・ヴィラレ担当)も、せいぜい紗幕と、その他若干の道具ていどだが、なかなか洒落た味を感じさせる。それだけでも充分といえよう。
 劇中に絡んでくる喜劇支持派と悲劇支持派のグループは、客席から乱入して応酬しあう趣向。そのため、演奏開始前から客席には賑やかな雰囲気があふれる。このあたりの「クサくない」芝居は、残念ながらわれわれ日本人にはとても真似できない種のものだろう。

 ただ、以前からこの作品に関して疑問をもっていたことだが、その場外乱闘的なグループの存在と、ドラマ本体との関連が、音楽上でも作劇上でも、いま一つかみ合っていないように感じられてならないのだ。
 これはもちろん、演出にもよるだろう。しかし才人マラトラの手腕をもってしても、やはりそれが解決されていないように思われるのは、結局は作品自体の問題ではなかろうか。おそらくそれが最も巧妙に組み合わされている例は、ホフマンスタールとR・シュトラウスによる「ナクソス島のアリアドネ」ではないかと思うのだが如何。

 ともあれ、簡素だが明るくカラフルな舞台、ヴォルテージの高い演奏。このプロダクション、予想外に愉しい。
 

1・26(土)ゲルギエフ指揮マリインスキー・オペラ初日
ムソルグスキー「ホヴァーンシチナ」 

   東京文化会館

 ワレリー・ゲルギエフとマリインスキー劇場が日本で披露した、久しぶりの充実したプロダクション。前回来日公演での「指環」などと違って、さすがに自国ロシアの作品となると、有無を言わせぬ説得力が感じられる。

 オーケストラには、以前のような重厚で陰影の濃い音色が復活していた。ショスタコーヴィチのオーケストレーションによるこの重く暗く、悲劇性の強い響きをもつヴァージョンが、まさに迫真的に再現されていたのである。前奏曲「モスクワ河の夜明け」のあの美しい主題からしてたっぷりした情感をたたえたものであり、第2幕で分離派教徒の娘マルファが権力者ゴリーツィン公の運命を占う場面での管弦楽の弱奏も、恐怖感をそそるほど陰鬱であった。
 
 合唱も、今回は圧巻といってよかった。特に、第3幕終結での豊かな厚みのある弱音。拍手を浴びたのも当然だろう。
 ソリストは、脇役には若手もかなり起用されていたが、今日(初日)の主役陣はベテランと中堅で固められ、セルゲイ・アレクサーシキン(銃兵隊長官ホヴァーンスキー公)をはじめ、ミハイル・キート(分離派教徒指導者ドシフェイ)、アレクセイ・ステブリャンコ(ゴリーツィン公)、ヴィクトル・チェルノモルツェフ(大貴族シャクロヴィートゥイ)、オリガ・サヴォーワ(マルファ)らがそろって安定と貫禄の歌唱を示していた。

 総じて、丁寧で緻密な演奏になっていたのがうれしい。これは、1990年代の絶好調時のマリインスキーの水準を思わせる。もっとも、この種のロシアものは、彼らにとっては自家薬籠中のレパートリーであり、さほど練習しなくても、その気になりさえすれば完璧な演奏ができるらしい。以前にもサンクトペテルブルクの「白夜祭」で、慣れないワーグナーものではガタガタの演奏をしながらも、すぐ翌日にはグリンカのオペラで神わざ的な、見事な演奏をしていたのを聴いたことがある。

 演出と舞台装置は、もう何十年も前からこの劇場で使われているトラディショナルなものだが、それはそれで味があるだろう。
 それでも、1992年に録画されたLD(フィリップスから以前出ていた)や、数年前に「白夜祭」で観た舞台と比較すると、細部にかなり手が加えられているのは明らかだ。
 第2幕での主人公たちの激突場面などでも演技のニュアンスが細かくなっていて、すこぶる見ごたえがあった。第4幕の最後に若きピョートル帝が姿を現わすのは以前の演出と同様だが、今回は肖像画に見るピョートルそっくりの風貌の男を起用し、語り伝えられるように天衣無縫な奇人的ジェスチュアまで演じさせたのはユーモアというものであろう。大詰めの分離派教徒たちの自決の場での教会炎上も、昔の演出に比べればやや改善されたようだ(しかしここだけは最新の舞台機構技術でも使って、もう少しなんとかならぬものだろうかという思いは残る)。

 「ホヴァーンシチナ」がわが国で上演されたのは、1991年の「レニングラード国立歌劇場」来日公演以来のことである。ただ、あの時はリムスキー=コルサコフの華麗な、しかもカット個所も多いオーケストレーション版が使用されていた(彼の編曲は今ではすこぶる評判が悪いが、なにせヴォーカル・スコアまでしか書かれていなかった作品をとにもかくにもまとめて世に出した功績は認めなくてはなるまい)。したがってこちら「ショスタコーヴィチ版」に関しては、多分今回が日本初演なのではないかと思うが、どうなのだろう。
 もっとも、今回の上演が完璧なショスタコーヴィチ版かというと、そうでもないところが、また複雑だ。
 そもそも第2幕大詰場面と第5幕最終場面(分離派教徒自決の場)は、もともとムソルグスキー自身が書かないままに終っているので、リムスキー=コルサコフと同様、ショスタコーヴィチも独自の考えで新たに作曲したものを加えている(チャカロフ指揮のソニークラシカル盤で聴ける)ことは周知のとおり。
 が、ゲルギエフはそのいずれにも従っていない。その2ヶ所だけは、彼独自の考えによるヴァージョンで演奏しているのである。つまり、第2幕大詰では、管弦楽の弱音を長く引き伸ばすのみにとどめ、また最終場面では分離派教徒の合唱の旋律を管弦楽の最強奏がもう一度繰り返す、という方法を採っている。これは、きわめて単純な手法だが、実際に聴いてみると、かなりの説得力が感じられたであろう。
 ちなみに、最終場面のみには、ストラヴィンスキーが作曲した非常に悲劇的な版もある(アバド指揮ウィーン国立歌劇場のLD)。

 休憩時間にロビーで、「ストーリーが途中で何がなんだかわからなくなっちゃったよ、ロシアの歴史を知ってないとだめだねこりゃ」とぼやいておられる方に、3人ばかり出会った。さもありなん、だろう。私も昔、解説書を読んだ時にはあまりぴんと来なかった。が、いったんロシア史を少しかじってみると、歌詞の一つ一つに歴史上の出来事が反映されているのがわかって、なるほどなるほど、という面白さが沸いてくるのである。
 たとえば第2幕でホヴァーンスキーがゴリーツィンを揶揄する場面、
「まさかあの戦が輝かしい大勝利を収めたとは思っておるまい。
 我が軍に膨大な数の死者が出たのは、闘いのためではなく、
 そなたが飢え死にさせたからなのだぞ」(一柳富美子訳)
という歌詞があり、ゴリーツィンが
「貴公には所詮解らんことだ」
と猛り狂うくだりがある。
 これなどは唐突で、前後に関連した話もないので、せいぜい「何かあったのだな」と推測するしかないだろう。しかし、ロシア史を読んでみると、これは1687年にゴリーツィン率いるロシア軍がタタール軍の火炎戦術に会い、戦わずして大量の死者を出し撤退したにもかかわらず、愛人ソフィア皇妃により、国内には大勝利と喧伝された事件を指しているらしいと解る。
 また第4幕で「ピョートル帝陛下がクレムリンに行進される」と告げられ、群衆が喜ぶ場面も、われわれには特にどうということもない出来事のように思えるが、これもソフィア皇妃を失脚させて実権を握った17歳のピョートルが、モスクワを挙げての大歓迎のうちに凱旋した1689年10月6日の出来事を描いていることが解ってくる、というわけ。
 ムソルグスキーが「ボリス・ゴドゥノフ」と同様、オペラの中でロシアの歴史をこのように忠実に描いているというのは、面白い。
 

1・25(金)関西二期会 R・シュトラウス「ナクソス島のアリアドネ」

  新国立劇場中劇場

 地方のオペラ団体が頑張ってやっている、とか、体当たり的な熱演、といったお定まりの誉め言葉を書いておけば当たり障りなく済むかもしれないが、そんな簡単な話でもないだろう。そういう言い方は、地方の音楽活動をバカにして、対等に見ていないことを示すものだからだ。
 それゆえ歯に衣着せずに言えば、今回の上演、R・シュトラウスのあの跳躍の多い音程がこなしきれず、しかも最高音域では無理な絶叫になってしまう主役歌手たちの歌唱には、身の置き所もないような気持になってしまう。飯守泰次郎が指揮する関西フィルハーモニー管弦楽団も、少人数でピットに入ると、日頃のステージでの演奏には及びもつかぬ痩せた響きと化す。そして、松本重孝による写実的な演出は・・・・。

 こういう「洒落たオペラ」は、われわれ日本人が最も苦心するジャンルのものではなかろうか。そもそも日本人は、どちらかといえばシリアスな傾向のもの、悲劇性とか人情味のあるものの方を上手くこなしていることが多い。関西二期会の公演でも、かつてアルカイックホールで接した「パルジファル」や「タンホイザー」などは、きわめて優れた水準のものだった。その意味でも、もう少し身の丈に合ったプロダクションで完璧な水準を満たすことを考えてもいいのでは? なおこれは、新国立劇場の「地域招聘公演」の一つ。

1・24(木)ヘルベルト・ブロムシュテット指揮 NHK交響楽団

  サントリーホール

 前半にクリスティアン・ゲルハーヘルをソリストに迎えてのマーラーの「さすらう若人の歌」、後半にシューベルトの「ザ・グレイト」。

 若い指揮者や、気に入らない指揮者の時には露骨に気のない演奏をするN響も、ブロムシュテットのような高齢の指揮者に対しては流石に真面目にやるらしい。ただ、昨日の生中継を聴いた時には実に美しい演奏だという印象だったが、2日目の今日は少し「狎れ」が出たのか、あるいは勢いに乗りすぎたのか、「ザ・グレイト」第1楽章後半や第4楽章では粗さも感じられた。
 とはいえ、技術的には完璧でも表情のない演奏をするN響よりは、少し荒っぽくても「乗った」演奏をするN響の方が、なんぼいいかしれない。

 ブロムシュテットの指揮というのは、昔からそれほど深い味を感じさせるタイプのものではない。私などはそこが不満で、彼に対してある程度の距離を置いてきたものだった。
 だが、スコアに指定されたデュナミークの細かい変化への配慮や、クライマックスへのもって行き方の巧さなどには、時に魅力的なものもある。反復個所がすべて忠実に守られた今日の「ザ・グレイト」で、私はその長さに退屈させられるところは全くなかったし、特に第3楽章トリオでは、あの揺れ動く主題とハーモニーの美しさに、久しぶりに快さを味わうことができたのも事実であった。

 感心させられたのは、むしろ「さすらう若人の歌」の方。
 ゲルハーヘルの歌唱からして、師匠フィッシャー=ディースカウ譲りのきわめて精妙な心理描写力を備えていて、たとえば第1曲では「愛しいあのひとが嫁いでいくとき・・・・」を極度な憧れと慟哭とが入り混じった表現で歌い出したあと、「碧い花よ、萎れずにいてくれ」の一節にいたって現実から逃避するかのように表情を変えるあたりの巧さなど見事なものだが、そのあたりの感情の動きを描くブロムシュテットの指揮も、すこぶる雄弁であった。
 ただ一つの問題は、ゲルハーヘルが多用する魅力的なソット・ヴォーチェは、ここサントリーホールの大きな空間にはあまり向いていないのではないか、ということ。
 

1・20(日)チェコ国立ブルノ歌劇場「タンホイザー」

茅ヶ崎市民文化会館

 おそろしくレトロな舞台。いまどき珍しい。
 演出・演技など、あって無きが如しだし、ヴェーヌスブルクのことが語られる時には必ず背景にヴェーヌス配下(?)の踊り手が登場する、といったような陳腐な手法も見られる。これに比べれば、あれこれ言われた新国立劇場のプロダクションの方が、まだしも現代のオペラ・プロダクションとしての掘り下げを試みていたといっていいだろう。

 いくらレトロであっても、音楽的にしっかりしていれば、一向構わない。
 だが、中心的存在の3人の歌手がそろって頼りないのだから困る。エリーザベトは素人の水準だし、タンホイザーはブレスが短くて音楽に流れが無く、ヴォルフラムは音程が悪くて野放図な歌いぶりだ。とりわけこのヴォルフラム役のバリトンは、以前ドン・ジョヴァンニを聴いた時にはなかなかのものだったのに、今回はどうしたことだろう。
 それに指揮者ときたら、序曲の時からフレーズをぶつ切りにする癖が目立っていただけでなく、音楽に緊迫感が皆無である。「エリーザベトの祈り」のあとの木管のハーモニーの進行の個所での音楽の弛緩、ヴェーヌスとタンホイザーとヴォルフラムの3人が争う場面での演奏の単調さなど、もはや呆れるほどだ。
 チケットなどには、堂々と「パリ版」と印刷されているのに、実際に使用されたのはドレスデン版であった。しかも第2幕では、最後のアンサンブルの中で先日の新国立劇場での上演と全く同じ形の強引な大幅カットが行なわれていたのに加え、その少し前のエリーザベトの「待って下さい!」のあと、彼女と人々が激しく応酬する緊迫した部分もカットされていた(こんな変なカットには今まで出会ったことがない)。これらは、作品に対する冒涜の行為以外の何ものでもない。
 えらいオペラに来てしまった、という体験はこれまでにもなかったわけではないが、17,000円をチケット代に費やした今夜のオペラも、まさにそれであった。当初の予定通り、神奈川県立音楽堂の「オルフェオ」に行くべきだったと臍を噛んだ次第である。

1・19(土)パスカル・ヴェロ指揮仙台フィル フランス・プロ

  仙台市青年文化センターコンサートホール

 フランスの指揮者パスカル・ヴェロを常任に迎えて以来、目覚しい変貌を遂げつつある仙台フィル。

 この1月定期では、ルーセルの「異教徒の祭典のためのファンファーレ」と「バッカスとアリアーヌ」第1・第2組曲、オリヴィエ・シャルリエのソロでデュティユーのヴァイオリン協奏曲「夢の木」とラヴェルの「ツィガーヌ」、という具合に、東京のオーケストラでさえ滅多にやらないような意欲的なプログラムを押し出した。
 フランスものを大々的にレパートリーに投入し、仙台フィルに新しい個性を確立しはじめたヴェロが、ドビュッシーやラヴェルといったスタンダードなプログラムから更に20世紀後半の現代音楽まで手を拡げたということは、両者の共同作業において、すでに大いなる信頼が生まれてきていることを表わすものであろう。

 響きの不完全な、フォルティシモになると詰まったような音になってしまうこのホールは、ルーセルなどの壮麗な音楽には、いささか苦しい。
 だが、ある程度それを感覚的に補正しながら聴くと、今日のプログラムは、どれも見事な演奏だった。協奏曲でのシャルリエの鮮やかなソロを包む堅固な、しかもしなやかな表情など、わが国のオーケストラとしては出色の演奏だろう(曲中のチューニングを模した個所でシャルリエが結構それっぽい芝居を見せていたのも面白い)。
 そしてまた、ルーセルの組曲での、色彩感豊かな盛り上がりも痛快だった。第2組曲の終り近くの速い個所のリズムなどにもっとしゃれっ気があれば最上だったろうが、こういうところは指揮者とオーケストラが更に呼吸の合った関係になっていなければ無理というもの。しかし、それにしてもこれらは、かつてのこのオーケストラからは想像もつかなかったほどカラフルな、生き生きとした演奏である。

 仙台フィル、急上昇中。この勢いで日本のオーケストラ界を席巻してもらいたい。

1・18(金)沼尻竜典指揮 東京都交響楽団
 武満とベリオの作品

  東京文化会館大ホール

 前半に武満徹の「弦楽のためのレクイエム」「アステリズム」「系図」、後半にべリオの「シンフォニア」という、かなり意欲的なプログラムで固めた定期。それでも、お客さんが結構入っていたのはうれしい。

 武満の3曲は、作風の全く異なるものが集められていて、聴き手にとっては実に興味深い構成だ。
 沼尻の指揮する武満作品は、小澤征爾や尾高忠明ら、彼より上の世代の指揮者たちによるそれとは随分違って、直裁で明快で、隈取りのはっきりした表現になってきている。「アステリズム」など、武満のものの中では異様に強烈な音響を持つ曲だが、今夜の演奏ではそれが更に強調され、ヴァレーズもかくやとばかりの鋭角的な音楽になっていた。
 武満の作品が永く時代を超えて演奏されていく場合には、そのようなスタイルの変化も当然起こりうるだろう。外国人指揮者による武満が極めてメリハリの強いものになることは以前から承知していたが、日本人指揮者の手でそのようなスタイルが試みられるようになったということは面白い。沼尻が都響を振った武満作品のCDを聴きなおしてみたが、以前はやはりもう少しレガートな演奏だったから、彼の指揮自体も以前とは変わってきたのかもしれない。
 ただ、録音の場合は収録方法により演奏のニュアンスが変わって聞こえることがあるし、また今夜のように響きのドライな東京文化会館の、しかも1階後方で聴いた場合には、音が裸で聞こえることもある。そのあたりをうまく斟酌しないと、演奏の印象が実際とは異なってしまうこともあるから、即断は避けなければなるまい。

 「系図」は、水谷妃里の朗読。これも、今まで聴いた演奏では、「音楽とともに語られる詩」といったような、多少は夢見るような雰囲気のナレーションが多かったが、今回は完全に「セリフ」としてリアルに語られた。そういうメリハリのよさは、沼尻の音楽とある意味で合致していたかもしれない。もっとも、あの「波の盆」とも共通する、異様なほどに詠嘆的なオーケストラの響きの中にあっては、ナレーションにいま一つ感情の襞が欲しいな、と感じたのは私だけではないだろう。

 「シンフォニア」も、私の席からはやや硬めの響きに聞こえたが、引用されて折り込まれるさまざまな曲の断片が明確に聴き取れたこともあって、たいへんおもしろかった。とはいえ、コーラスのパートとオーケストラのバランスは、どんな上演においてもなかなか難しいものである。
 今夜の演奏では男声ばかりが強く聞こえたのが気になったが、これはPA担当者のセンスによるものだろう。男声パートによって歌われ、語られるテキストが、あそこまではっきり聞こえることが必要だろうか? あまりにくどく「言葉」が聞こえすぎると、だんだん煩わしくなってきて、「るせえな、音楽が鳴ってんのに、いつまでベラベラ喋ってんだテメエ」と毒づきたくもなる。そして、聴いているうちに、40分に及ぶ作品全体をすべて同じ手法で作ってしまったのは、やはりベリオの失敗ではなかったろうか、などということまで考えてしまったのであった。

 先月の定期と打って変わって、本番中の会場の照明は、適度な半明かりになっていた。眩しくなくて助かる。

1・15(火)再びヒュー・ウルフ指揮 読売日本交響楽団
 ショスタコーヴィチ11番

  サントリーホール

 ショスタコーヴィチの交響曲第11番「1905年」。
 読売日響の、まあよく鳴ること、鳴ること。
 ホールを揺るがすばかりの怒号もなかなかのものだが、ただ馬力があって大きな音を出すから良いと言っているわけではない。それよりも最弱音の部分でもふっくらした音を出せるところが、このオーケストラの強みだろう。
 十数年前、ゲルト・アルブレヒトが常任指揮者になる前の読売日響のあの荒っぽい演奏に辟易した経験のある者にとっては、これはうれしいことと言わねばなるまい。

 ウルフは、先日のモーツァルトと同様、ここでも几帳面で律儀な演奏を引き出した。
 彼の頭の中ではもちろんこの「1905年」の標題的な内容が考えられているのだろうとは思うが、実際に演奏された音楽からは、むしろ画然と構築された、いわゆる「鳴り響く形式」といったものの方が印象づけられる。
 先年、ゲルギエフがPMFオーケストラを指揮して聴かせたときのような、夜明け前の緊張感、血の日曜日の惨劇、民衆の悲嘆と革命への予感、といったドラマが眼前に繰り広げられるような激動の演奏と比べると、こちらウルフの指揮は実に端正で、感傷の影のない音楽である。だが、それはそれで一つの解釈だろう。
 ただ、そういう演奏の場合、特に第1楽章などは、構築性で解決できないショスタコーヴィチの音楽の冗漫さが一種の欠点となって浮き彫りにされかねない。私はここを聴いていて、あのときゲルギエフが創っていた「悲劇の瞬間を前にした息詰まるような緊迫」を懐かしく思い出さないわけには行かなかった。

 プログラムの前半は、シーララが弾くバルトークの第3ピアノ協奏曲。
 彼がいかにもつまらなそうな顔で、つまらなそうな身振りで、実にクールに冒頭の音を弾き出すのを聴いて、思わず苦笑をもらさずにはいられなかった。これだけ冷静なバルトークの「3番」は、かつて聴いたことがない。だが、その澄んだ音色と醒めた叙情感が、またなんとも不思議な効果を生み出すのであって、まるで白夜の世界に立つバルトークといった印象を与えるのである。私の好みではないけれども、こういう感性も面白い。
 シーララとウルフ、この2人には何か共通したものがある。その意味では、今回の定期は興味深いものだった。

1・13(日)コウト指揮プラハ交響楽団「わが祖国」

  サントリーホール

 つい先日聴いたマカル&チェコ・フィルの情熱的な「わが祖国」に比べ、かなり几帳面で堅実な演奏だ。

 誇張や芝居気の全くない表現だが、このような手堅いしっかりした演奏で聴くと、これまであまり意識しなかったこの連作交響詩の性格がはっきりと浮かび上がってくる。
 たとえば、前半の3つの作品に比較すると、後半の3つには、明らかに管弦楽法に円熟の味が聴かれることだ。劇的な演出を排した場合には、作品の裸形が浮かび上がってくることがよくある。「ボヘミアの森と草原より」が開始された瞬間、それまでの3曲とは明らかに異なる、スメタナの進境を示すような堂々たるシンフォニックな響きに魅了される。とはいえ、それはもちろん、演奏の良さによるものであることはいうまでもない。前半の3曲においても、よき時代のチェコのオーケストラを蘇らせる音色があふれており、これはこれですばらしい。
 全曲を通じて、弦の音色には、しっとりした瑞々しい美しさがある。「ターボル」の終わり近くの弦のリズムなど、なんといい響きなのだろう。「ブラニーク」でのコーダへの盛り上がりもスムースで流れがよく、エンディングの和音のたたみかけでもオーケストラは正確にリズムを刻んでいった。きちんとした佇まいの、気品のある「わが祖国」だが、それでも取り澄ましたような冷たさは全くなく、温かさと懐かしさのある、民族色豊かな雰囲気が演奏にあふれていたのである。
  「音楽の友」3月号(2月18日発売)演奏会評

1・11(金)水野修孝:オペラ「美女と野獣」

  新国立劇場中劇場

 久しぶりにミュージカルでも観に行ったような気分。

 いわゆるクラシックの手法だけでなく、ビッグバンド・ジャズ、ボサノバ、20世紀中盤のアメリカン・スタイルのハーモニーにも似たコーラスにいたるまで、いろいろな形を取り込んで平易明快に音楽を聴かせていくオペラだ。
 美女(紅屋のお絹)と野獣(月宮城主・月影雪之介。ラストシーンなど天草四郎ばりの扮装だ)の純愛を描く時には叙情的なクラシック・スタイルの音楽が使われ、いっぽう闇の王メフィストと小悪魔たちの悪逆な魔術の場面や、武器商人の紅屋とその欲深な娘たちの場面では、いわゆるジャズ・ポップ系のスタイルの音楽になる。こういう性格付けには、ニヤリとさせられる。
 いずれにせよこのようにさまざまなジャンルや手法をミックスする音楽的アイディアは、一つの考え方として面白い。特に日本語のセリフ(歌い語り)と洋楽的リズムを組み合わせた個所などは、成功しているといえるだろう。お絹のパートのごとく高音を多用した常套的なスタイルに比べれば、よほど新鮮なイメージがある。
 とはいえ、何かその上にもう一つ、要領のよさが欲しいところではあるのだが・・・・。
 管弦楽は三石精一指揮の東京ユニバーサル・フィル。時に騒々しかったが概して好演。

 演出は岩田達宗、舞台美術は増田寿子。苦しい制作費の中で精一杯やっているという印象だ。もっと金をかけて、ケレンを多用した幻想的な舞台にできれば、作品のエンターテインメント性は更に生きるだろうに。
 なおこれは、私は見ていないけれども1989年に初演、2003年に改訂再演されたことがある。今回の上演に際してもかなりの改訂が加えられているとのことだ。制作は日本オペラ振興会。

1・8(火)ヒュー・ウルフ指揮 読売日本交響楽団

  サントリーホール

 ウルフは、松葉杖をついてステージに現われた。なんでも自宅で足を骨折したとかいう話だ。よく日本に来られたものである。舞台の出入りの姿が痛々しいため、客席にはざわめきと緊張が拡がったが、響き始めたモーツァルトの「交響曲第28番」は、実に毅然として引き締まった音であった。

 がっしりと組み立てられて歯切れよく、時に剛直なほどの力強さを示し、しかも明晰な音色で満たされたスタイルのモーツァルトは、かつてのジェフリー・テイトのそれにも似ている。そのあたりは私も非常に好きなタイプだから、ウルフもいよいよ一皮向けてきたか、と最初の数小節はそう思って聴き始めたのだが、ただ、そのあとは必ずしも期待が満たされたわけでもない。

 ウルフの音楽は、昔も今も、良くも悪くも生真面目すぎるのである。細部まで神経を行き届かせた音楽づくりには優れたものもあるのだが、それが生き生きとしなやかに躍動するといった趣きに不足するのが難点だ。最後の「ジュピター交響曲」でも、遅いテンポの部分や、パウゼの多い箇所になると途端に緊迫度が希薄になるという癖がある。とはいえ、真ん中におかれた「ピアノ協奏曲第22番」では、オーケストラの緻密で厚いハーモニーの美しさが生きていて、聴きごたえがあった。
 15日の定期では、彼はショスタコーヴィチの「交響曲第11番」を振る。結論は、そちらの方を聴いてからにしよう。

 ピアノのソロは、フィンランドの出身のアンティ・シーララ。若いに似合わず淡々とした表情で、かなり自由なテンポでモノローグのように弾き続ける。不思議なピアニストだ。15日には彼もバルトークの協奏曲を弾くそうだから、異なる面を確かめてみよう。

 暮の「第9」以来2週間ぶりに聴くナマの演奏会。やはりいいものである。

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