2019-01

2019・1・17(木)モンテヴェルディ:「ポッペアの戴冠」HP

      いずみホール  5時

 19日午後の本番上演も、18日午後のGPも残念ながら観られないので、せめて今日のHP(Haupt Probe)だけでもと思い、とんぼ返りで観に行く。帰りの新幹線に乗る時間のために、残念ながら第2幕までしか観られなかったのだが、これはなかなかの力作であった。

 このプロダクションは、昨年2月に急逝した礒山雅氏を中心にいずみホールで進められて来た「古楽最前線!躍動するバロック 中世・ルネサンスを経ての開花━━初期バロックまで」というシリーズの第5弾、モンテヴェルディのオペラ「ポッペアの戴冠」のセミステージ形式上演である。
 このホール得意の手法で、ステージ中央に渡邊順生指揮のオーケストラを配置、オルガン下の高所のスペースと、その手前に特別に設置したステージ等を演技空間に使い、必要最小限の演技を展開するといったやり方だ。今回の演出は高岸未朝。

 歌手陣はすこぶる多彩である。顔ぶれには、石橋栄実(運命の女神他)、鈴木美登里(美徳の女神)、守谷由香(愛の女神)、望月哲也(ローマ皇帝ネローネ)、加納悦子(追放される皇妃オッターヴィア)、阿部雅子(強引に皇妃に納まる女ポッペア)、藤木大地(ポッペアに想いを寄せる騎士長オットーネ)、山口清子(オットーネに想いを寄せるドゥルジッラ)、斉木健詞(ネローネを諫めたため自決に追いやられる哲学者セネカ)、岩森美里(ポッペアの乳母アルナルタ)、櫻田亮(オッターヴィアの乳母ヌトリーチェ)ほか多数が並ぶ。

 リハーサルの段階であれこれ云々するのはルール違反なので、詳細は控えるが、とにかく歌唱を含めた演奏は極めて充実しており、モンテヴェルディの円熟期のオペラがいかに劇的で、雄弁な表現力を持つかが充分に表されている(もしくは表されつつある)と言っていいであろう。
 第1幕の幕切れ近く、皇帝ネローネと哲学者セネカの激しい応酬では、斉木健詞の強靭なバスの威力もあって、息詰まるほどの迫真感を生み出していたし、またそのセネカを排除すべくポッペアが偽りの話を並べ、ネローネを煽る場面のオーケストラも、単純な手法ながら不気味な緊迫感を生み出していた。19日の本番までには更に練り上げられることだろう。

 字幕は正確で、実に懇切丁寧だが、極度に内容が詳しいため、読むだけで手いっぱい━━という感がなくもない。

 それにしても、ネローネ(ネロ)もネローネだが、ポッペアという女は━━言語道断にけしからぬ女だ。

2019・1・15(火)大野和士指揮東京都交響楽団

     東京文化会館大ホール  7時

 大野&都響、この日はA定期。ブゾーニの「喜劇序曲」、マーラーの「少年の魔法の角笛」 から5曲(ソリストはイアン・ボストリッジ)、プロコフィエフの「交響曲第6番」。コンサートマスターは矢部達哉。

 先日の定期と同様に一癖あるプログラムで、大野と都響の企画担当者たちの自信と意欲が窺われる。━━ただ、ブゾーニのこの小品は、かなり調子のいい(?)軽快なものだが、音楽としては、聴く機会を与えてもらったことだけは有難いと思えるような作品だ。

 プロコフィエフの「第6交響曲」も、シリアスさとユーモアと、それに粗暴さも加わった「おかしな」曲だ。大野と都響の演奏は真摯なものだったが、しかしこの曲はやはり、相応以上の多彩な音色の変化や、派手な演出を加味した演奏でないと、この長さ(40分以上)を持ち堪えるのは難しいのではないか。
 かつてラザレフが日本フィルを指揮して大見得切った演奏を披露した時には、聴衆も沸いたものだ。それに比べると今日のは、些か生真面目に過ぎようか。いや、真面目が悪いと言っているのではない。もしかしたらこの演奏は、残響の豊かなサントリーホールで聴いたら、もう少し異なる印象を得たかもしれない。

 マーラーの歌曲集では、「ラインの伝説」「魚に説教するパドヴァの聖アントニオ」「死んだ鼓手」「少年鼓手」「美しいトランペットの鳴るところ」が歌われた。ボストリッジは綺麗な声で歌ってくれるし、それはそれでいいのだが、しかし「死んだ鼓手」のような曲では、マーラーが音楽に籠めた絶望、希望、憧れ、悲痛さといった感情の微細な変化を、さらに明確に歌い分けて欲しい気もする。ボストリッジの歌唱は、その辺がどうも淡彩になる傾向がある。
 ただ今回聴いた席が2階正面1列目で、ここは視覚的には理想的ながら、音が少々「遠い」。ボストリッジは叙情味の濃いテナーだし、本来はニュアンスの細かい歌い方をする人だから、この席の位置から歌唱がどうだとかを断定するには危険だろうと思われる。
 大野のオーケストラ制御は流石に巧い。「死んだ鼓手」におけるような大編成の管弦楽パートは、指揮者が巧く鳴らさないと、声をマスクしてしまうことが多いのだが、オペラ座で経験を積んだ大野は、そのあたりを実に見事に構築してくれていた。

2019・1・12(土)ロレンツォ・ヴィオッティ指揮東京交響楽団

      サントリーホール  6時

 池袋での読響の演奏を聴き終って、赤坂のサントリーホールへ向かう。こちらは正月早々の「レクイエム」だが━━これは東響の定期演奏会。故マルチェロ・ヴィオッティの子息で、まだ20代後半のロレンツォ・ヴィオッティが客演指揮。森谷真理、清水華澄、福井敬、ジョン・ハオ、東響コーラスが協演。コンサートマスターは水谷晃。

 ロレンツォ・ヴィオッティ、すでに欧州の歌劇場では実績を重ねている気鋭の指揮者だが、すこぶる凝った表現を採る人だ。総休止を極度に長く取り、デュナミークの対比を劇的に強調し、弱音で沈潜する個所ではテンポを大きく落して苦悩の感情を━━叩きつけるように激しく囁く発声なども含めて━━強調する、といったように、かなり表情の濃い演奏をつくり出す。

 それらはまあ、調理法の一つともいうべきものだが、それによる肝心の料理の味はどうだったかということになると、私にはどうも、いつものような「美味しさ」が感じられなかったのである。細部をあまりに念入りに強調する作りにしてしまうと、かえって作品全体における自然な流れや、壮大な構築のバランスを失わせることが多いものだ。策に溺る、ということか。聴き慣れたこの曲が、今日は異様に長く感じられてしまった。
 「怒りの日」のような個所で、合唱(凄まじい大人数だった)と管弦楽が全力で咆哮する時にも、音楽全体の響きが混濁してカオス(混沌)状態になってしまった感もある。これはもちろん、指揮者の責任だ。
 毒気に当てられたせいか、作曲者名を書くのを忘れ、コメントでご指摘を頂戴した。これはヴェルディの「レクイエム」である。

2019・1・12(土)山田和樹指揮読売日本交響楽団

    東京芸術劇場 コンサートホール  2時

 恒例の早稲田大学オープンカレッジのオペラ入門講座━━今回のシリーズは「オペラのクライマックスにおける手法」で、第1回の今日は「愛」というテーマ━━での講演を終って池袋に駆けつける。
 この日の読響は「土曜マチネーシリーズ」だ。首席客演指揮者・山田和樹の指揮により、ラヴェルの「高雅で感傷的なワルツ」と「ピアノ協奏曲ト長調」(ソロはホアキン・アチュカロ)、リムスキー=コルサコフの「シェエラザード」というプログラムが演奏された。コンサートマスターは小森谷巧。

 カラフルな性格を備えた作品を手がけては天下一品の山田和樹だし、今日の3曲でもそういう個性は多かれ少なかれ発揮されてはいたが━━。「高雅で感傷的なワルツ」での演奏は意外に地味で生真面目で、もう少し輝きと多彩な音色が欲しいところ。もっともこの曲には、もともと一筋縄では行かないという性格もあるだろう。

 続くコンチェルトでは、86歳の巨匠アチュカロの、何とも温かいヒューマンな味に富むソロがすべて。アンコールで弾いたスクリャービンの「ノクターン」とともに、こういう人間味あふれる演奏を聴かせてくれるピアニストは、今や稀有の存在である。

 「シェラザード」では、読響の音響的威力が効果を発揮したが、小森谷のヴァイオリン・ソロは、正確ではあるものの、千一夜の物語をシャリアール王に語るシェエラザード姫の口調としては、もっと色気というか、艶めかしさが必要なのではないか?

 アンコールは、アザラシヴィリの「ノクターン」という曲。私は初めて聴いたのだが、まるで20世紀中盤以前のミュージカルか何かのナンバーのように、極度に甘美なメロディに溢れた曲であった

2019・1・10(木)大野和士指揮東京都交響楽団

    サントリーホール  7時

 これは定期演奏会Bシリーズ。
 シェーンベルクの「ヴァイオリン協奏曲」(ソロはパトリツィア・コパチンスカヤ)と、ブルックナーの「交響曲第6番」。最近の日本のオケでよく試みられるようになった、意欲的なプログラムの一例と言えるだろう。コンサートマスターは山本友重。

 ブルックナーの「6番」では、大野と都響の最近の好調ぶりを如実に示す、揺るぎのない造型力にあふれた快演が聴けた。第1楽章で、主題のモティーフが2小節ごと、あるいは4小節ごとに1組になって移行して行く整然たる構築なども、実に明快に再現されていた。

 一方、前半のシェーンベルクの協奏曲では、ソリストのコパチンスカヤの演奏が凄い。これだけ強靭な集中性を示した演奏は、滅多に聴けるものではないだろう。
 作風において調性への回帰が見られると言っても所詮シェーンベルクはシェーンベルクなのだが、今日の彼女の演奏では、曲全体に、よい意味での瑞々しい旋律性を感じさせていたところも驚きだ(もちろん、「甘く」してしまったという意味ではない)。
 こういうプログラムの場合、ふつうなら熱狂的な拍手はブルックナーの方に起こるものだが、今日はそれよりもこのシェーンベルクでの、コパチンスカヤの演奏の方に爆発的なブラヴォーと拍手が集中するという、珍しいケースが見られた。

2019・1・8(火)山田和樹指揮読売日本交響楽団

    サントリーホール  7時

 山田和樹がこの2週の間に首席客演指揮者として読響を振る3つの演奏会、その最初のものがこれ。
 今回は、サン=サーンスの長く壮大な「交響曲第3番」(オルガンは室住素子)を冒頭に置き、第2部はラロの「チェロ協奏曲」(ソロはニコラ・アルトシュテット)で洒落た味を出し、最後を豪壮華麗なレスピーギの「ローマの祭」で締めるというプログラミング。コンサートマスターは長原幸太。

 「3番」では、綿密な造りの前半2楽章と、豪壮な後半2楽章の対比という、山田和樹の巧みな設計に基づいた指揮が効果を発揮した。もっとも、演奏会の前半でこのようなクライマックスが築かれてしまうと、こちらのペースがやや乱れてしまう向きがなくもないけれど。

 ラロのこの「チェロ協奏曲」をナマで聴いたのは、何十年ぶりかになる。第1楽章のあの物々しいモティーフを聴くと、何だか懐かしい気持に引き込まれる。第2楽章でチェロがフルートの「珠を転ばす」ような音型と交流する個所も、録音で聴くよりナマで聴いた方が、両者の楽器の距離感により面白い効果が味わえるのではなかろうか。
 アルトシュテットは、昨年ハイドン・フィルハーモニーと来日した時の指揮とソロで聴いたばかりだが、今回は何かマイペースで弾いているような闊達な雰囲気で、ややあっさりした演奏ではあったものの、愉しめた。
 演奏と同じようにきびきびしたステージでの身のこなしで、カーテンコールで出て来るたびに、トップサイドの奏者の頭越しに手を差し延べてコンマスの長原に握手を求めるという動作が、慌ただしくて、何となく可笑しい。
 アンコールでは、その長原との掛け合いで、ピッチカートで応答し合うシベリウスの「水滴」という不思議な小品を演奏してくれた。2人で顔を見合わせて何故かワハハと笑ったくだりも演奏の一部と考えれば、実にユーモアたっぷりのステージであった。

 「ローマの祭」は、山田和樹の念入りな演奏設計と構築の巧さ、オケを煽り立てる呼吸の見事さに加え、読響の上手さ(客演のホルン・ソロは別としてだが)と豊富な大音量と、その色合いの多彩さが印象的だった。4つの祭のそれぞれの特徴を際立たせた演奏は、幕切れは何となく勢い余った感もあったが、とにかく胸のすくような趣があったのである。
 バンダのトランペットは2階客席センター通路の下手側で咆哮していた。そして、アンコールの「ウィリアム・テル」の序曲からの「スイス軍隊の行進」でも、最初のトランペットをそのバンダに吹かせるという演出が面白い━━ティンパニとの絡みはズレズレの響きに聞こえたが、これは両者の距離ゆえで、仕方がない。
 それにしても山田和樹という人は、現時点では、やはりこういったラテン系のレパートリーに強みを発揮しているように思われる。

2019・1・7(月)ピエタリ・インキネン指揮プラハ交響楽団

      サントリーホール  7時

 このチェコの名門オケは、少なくともこの10年の間に、イルジー・コウト(2008年1月13日の項参照)、ズデニェク・マカル(2010年1月14日の項)、ピエタリ・インキネン(2016年1月18日の項)、ペトル・アルトリヒテル(2017年3月16日の項)ら、いろいろな指揮者と来日して、その都度異なる表情を聴かせてくれている。
 そのうち、2015年からこのプラハ響首席指揮者を務めているインキネンは、わが国では日本フィルの首席指揮者としておなじみだが、その他にも2017年秋からザールブリュッケン・カイザースラウテルン・ドイツ放送フィルの首席指揮者にもなっている。

 今日は、第1部では樫本大進をソリストにブラームスの「ヴァイオリン協奏曲」が、第2部ではチャイコフスキーの「第5交響曲」が演奏された。
 ただし前半のアンコールで、樫本とインキネンがヴァイオリンのデュオを披露、バッハの「2つのヴァイオリンのための協奏曲」の第2楽章をオケの数人のメンバーと一緒に演奏した上、チャイコフスキーのあとにもドヴォルジャークの「スラヴ舞曲」の「第10番」と「第8番」を演奏したので、終演は9時半近くになった。

 インキネンとプラハ響、あまり重くなく、引き締まった音で真摯に作品と取り組む演奏である。しっとりとして瑞々しい、端整な表情は、このコンビでの前回の来日の際に聴いたのと同じ特徴だ。
 ブラームスの協奏曲では樫本大進も伸びやかなカンタービレを効かせたが、彼もやはりベルリン・フィルのコンサートマスターらしく端整な傾向のソロなので、明るいが生真面目なブラームス像の再現とでもいう演奏になっていただろう。第2楽章のオーボエ・ソロ(女性奏者)は素朴な趣ながら、なかなか美しかった。

 一方、チャイコフスキーの交響曲でも、フォルティッシモは力感豊かながら決して威嚇的にならず、どこかに温かい雰囲気を感じさせる。
 チェコのオケと北欧人インキネンの若々しい気魄とがどう調和して、どのような良さが生れるか、という点にも注目したが、チェコのオーケストラ特有の素朴な落ち着いた味や、郷土的な色彩感といったものは、この演奏からはほとんど失われていた。とすれば、その代りに何が生れているかが最大の問題なのだが、厳しい見方かもしれないけれども、この演奏を聴いた範囲では、その辺はどうも未だよく判然としない。
 一方のインキネンにしても、むしろ指揮者に従順な日本のオーケストラ━━この場合は日本フィルだが━━の方に、彼の特質をストレートに反映させ得ているのではないかという気もする。

 ホルンの首席はちょっと変わった楽器の持ち方をし、「第5交響曲」第2楽章のソロをいとも楽々とダイナミックに吹き上げ、ティンパニ奏者はすこぶる芝居気のある身振りで、じわりと楽器を叩く。2人とも、演奏し終るとリズムに合わせ首を大きく振るなどして音楽に乗り、気合充分の様子を見せていた。

2019・1・6(日)大植英次指揮日本フィルハーモニー交響楽団

      東京芸術劇場 コンサートホール  2時

 大植英次が客演指揮したこの正月の演奏会は、日本フィルの「第226回サンデーコンサート」。プログラムは、外山雄三の「管弦楽のためのラプソディ」、竹澤恭子をソリストにメンデルスゾーンの「ヴァイオリン協奏曲ホ短調」、ブラームスの「交響曲第1番」と。コンサートマスターは客演の田野倉雅秋。

 外山雄三の「ラプソディ」は、作曲されてから間もなく50年になろうという曲だが、相変わらず演奏頻度が高い。
 大植は、ソーラン節の個所をゆっくりしたテンポで演奏したり、拍子木の最後の音符と「八木節」との間に大きな掛け声を入れたり、以前からいろいろ指揮に趣向を凝らしている。とはいえ、演奏会の冒頭でのこの大騒ぎは、聴衆にしてみれば少々ノリにくかったような雰囲気が感じられた。

 竹澤恭子が弾くメンデルスゾーンの協奏曲では、所謂流麗さとか甘美とかいった趣きとは対極的な、例えばスラーの位置を判然と区別して弾いて行くようなアプローチで、音楽にある種の造型的な鋭さと厳しさを付加して行く演奏が印象的だ。こういうスタイルは、以前にも誰だったか女性奏者の演奏でも聴いたことがあるけれども、この作曲家の中の反ロマン的な要素を浮き彫りにするという点では、すこぶる興味深い手法に違いない。
 正直なところ、聴いていて少々落ち着かぬ気分にさせられる演奏ではあるが、聴き慣れた曲が新鮮な刺激を満載して響いて来る、という楽しさはある。

 ブラームス。第1楽章序奏の第80小節からのオーボエなどを大きくリタルダンドして引き延ばすなどといった「大植節」があちこちに現われ、それは私には、曲全体の大河のような壮大な流れを阻害するように感じられて、些か辟易させられるところがなくもなかったが、曲の中盤から後半にかけてはそれも気にならなくなった。特に終楽章の頂点では、日本フィルのどっしりした緻密な響きが見事な結果を生んでいたと思う。

 竹澤恭子が弾いたソロ・アンコールは、バッハの「無伴奏ヴァイオリンのためのパルティータ第3番」からの「ガヴォット」だった。
 一方、オーケストラのアンコールは、また「ラプソディ」の、幕切れの景気のいい「八木節」の部分。大植の合図を受け、今度は1階席の客が何と全員総立ちになり、手拍子でノリまくった。よくこれだけノッたものだ。おなじみの民謡で、年輩のお客さんが多かったためもあるのだろうか? 打楽器奏者たちが法被に着換えて威勢よく楽器を叩いていたのが、何となく日本フィルらしい。
 なお昨年の暮近く、日本フィルがやはり大植英次の指揮で韓国に演奏旅行した際、これをやってやはりお客が総立ちでノリまくったという話を聞いたが、当節の国際情勢の中で、興味深いことではある。

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