2019-09

2019・1・31(木)サイトウ・キネン・オーケストラ ブラス・アンサンブル

     紀尾井ホール  7時

 名手ぞろいのサイトウ・キネン・オーケストラのメンバーによるアンサンブル。
 2年前(2017年1月18日)にもこの同じ紀尾井ホールで演奏会を行なったが、メンバーはその時と全く同じだ。

 トランペットがガボール・タルコヴィ(ベルリン・フィル)、カール・ゾードル(グラーツ・フィル)、高橋敦(都響)、服部孝也(新日本フィル)。ホルンがラデク・バボラーク(元ベルリン・フィル他)、阿部麿(フリー)、勝俣泰(N響)。トロンボーンはワルター・フォーグルマイヤー(ウィーン響)と呉信一(元大阪フィル)。バス・トロンボーンがヨハン・シュトレッカー(ウィーン・フィル)、テューバがピーター・リンク(仙台フィル)。打楽器が竹島悟史(N響)。

 プログラムは、第1部がデュカスの「ぺリ」からの「ファンファーレ」、バッハの「無伴奏ヴァイオリンのためのパルティータ」からの「シャコンヌ」、ラヴェルの「亡き王女のためのパヴァーヌ」、チャイコフスキーの「白鳥の湖」から4曲。
 第2部は、ヴェルナー・ビルヒナーの「ファイアーウォーター・ミュージック」からの「私は省みなかった」、ミュールバッヒャーの「ミニマル・ミュージック11&1」、「ビートルズ・メモリーズ」、バーンスタインの「ウェストサイド・ストーリー」より5曲。

 何しろみんな上手いし、それぞれが自分の存在を明確にしながら闊達にアンサンブルをつくるので、ステージはもちろん、満席の聴衆も含めてホール全体が明るい雰囲気になる。
 とはいえ、あくまでお行儀のいい、格調高い演奏なので、会場も真面目な空気ではあったが、クラシック系から離れた曲想も混じる第2部になると、流石に華やかになって来る。アンサンブルの演奏も尻上がりに活気を加え、「ウェストサイド・ストーリー」の最後の曲「アメリカ」などは締め括りに相応しいスウィングな盛り上がりを示した。

 そして、アンコールとして演奏された、アラン・メンケンの「ホール・ニューワールド」やジョー・ザビヌルの「バードランド」となると、これはもうブリリアント極まるサウンドだ。アメリカのバンドが演奏するのとは違ってシンフォニックなイメージになってしまうのは致し方ないけれど、それでも鮮やかなエンターテインメントである。立派なものだ。
 プログラム全体を通じて打楽器の竹島悟史が前回同様、ひとりステージ後方のいろいろな楽器の間を忙しく駆け回りながら演奏していた。お疲れさまでした(※お名前の表記に間違いがありました。失礼致しました!)。

 ちなみに本拠の「セイジ・オザワ 松本フェスティバル」の今年は、小澤征爾と内田光子の協演、チャイコフスキーのオペラ「エフゲニー・オネーギン」(ファビオ・ルイージ指揮、ロバート・カーセン演出のMETプロダクション)の上演などが予定されている由。日程は未発表。
   (別稿)モーストリー・クラシック4月号 公演Reviews

2019・1・30(水)バーメルト指揮札幌交響楽団の東京公演

      サントリーホール  7時

 首席指揮者マティアス・バーメルトとのコンビではこれが初めての東京公演。
 プログラムは、モーツァルトの「セレナータ・ノットゥルナ」、ベートーヴェンの「ピアノ協奏曲第4番」(ソリストは岡田奏)、ブラームスの「交響曲第2番」。コンサートマスターは田島高宏。

 エリシュカ、ポンマー、そしてこのバーメルト━━この10年ほど、札響のシェフまたはそれに準じる顔ぶれには、こういった高齢の指揮者たちが目立つ。だが、いずれも世に謂う「アナログ的な」━━あたたかい情感にあふれた、味わい深い円熟の演奏を聴かせる指揮者たちだから、それはそれで一つの方針だろうし、また国内に一つくらい、そのようなカラーを売り物にするオーケストラがあっても悪くはなかろう。

 ブラームスの「2番」は、実直そのものの演奏だったが、第4楽章コーダでの昂揚感は、さすがベテラン指揮者ならではの、「持って行き方の巧さ」というべきものであった。
 一方、プログラムの冒頭に置かれた「セレナータ・ノットゥルナ」は、少し重いながらも透明な美しさを備えた演奏であり、またアンコールで演奏されたモーツァルトの「ディヴェルティメントK.136」の第3楽章も、落ち着きと軽快さとを併せ持つ演奏だった━━つまりこれらモーツァルトの作品では、このオーケストラの弦楽器群の良さが浮き彫りにされていた、ということになるだろう。

 協奏曲では、バーメルトと札響がベートーヴェンの重厚で強固な構築性を堅持した、まっすぐな演奏を貫いていたのに対し、ソリストの岡田奏は些か神経質な、オーケストラに構わず自己の世界に没頭耽溺してしまうような感のある演奏を繰り広げていた。それゆえ、コンチェルトとしてはややアンバランスなものとなっていたようである。
 彼女のこういう演奏は、ソロ・リサイタルでは生きるだろうし、またレパートリーによっても良い結果を生むこともあろう。が、こういうベートーヴェンのコンチェルトで、重々しい情感豊かな音楽をつくる指揮者と協演した場合には、いわば水と油のようになる印象を免れぬ。

2019・1・29(火)紀尾井ホール室内管メンバーによる室内楽

      紀尾井ホール  7時

 「THAT’S KCO ENTERTAINMENT ハッピー☆MOKU5アワー」とも題されているコンサート。「MOKU5」とは「木管五重奏」の意の由。
 演奏は難波薫(Fl、日本フィル)、池田昭子(Hob、N響)、勝山大舗(Cl、都響)、岩佐雅美(Fg、読響)、日橋辰朗(Hr、読響)。紀尾井ホール室内管弦楽団は各オケやフリーの奏者を集めた団体なので、各管楽器奏者の本籍のオケは以上のようになる。今日はこれに鈴木慎崇(pf)が加わっていた。

 プログラムは、第1部がJ・シュトラウスの「こうもり」序曲、ロッシーニの「木管四重奏曲第1番」、モーツァルトの「魔笛」からのアリアなど3曲、ビゼーの「カルメン」組曲。第2部ではルーセルの「ディヴェルティスマン作品6」、ミヨーの「ルネ王の暖炉」、ラヴェルの「マ・メール・ロワ」。

 みんな腕前は達者だから、演奏もまとまっていたし、インティメートな雰囲気のコンサートではあった。
 とはいうもののその音楽は、どれもこれもすこぶる生真面目で、アンサンブルを整えることにのみ重点を置き過ぎているような気がする。まとまってはいるが地味で単調で、色合いに不足しているのである。
 そこがいかにも日本的と言えるのかもしれないが━━フランスなど外国の奏者たちのように、オレがオレがという調子で名技を競い合いつつアンサンブルをつくり上げて行くといった演奏に倣って欲しいとまでは言わないけれども、もっと各奏者が自分の個性なり楽器の個性なりを色彩感豊かに打ち出して、愉しく躍動し合う、という演奏にならないだろうか。
 特に「マ・メール・ロワ」などではそれが痛感された。第2部で最も瑞々しかった演奏は、ルーセルの「ディヴェルティスマン」ではなかったかと思う。

2019・1・26(土)オペラ×ダンス 「ドン・ジョヴァンニ」

      東京芸術劇場 コンサートホール  2時

 早稲田大学オープンカレッジのオペラ講座(今日は「復讐と殺人の美学」という物騒なテーマ)を12時10分に終講。午後1時には東京芸術劇場に入る。
 早すぎたので、1階でお握りを2個買い、建物の外で行き交う人々や車を眺めながら立ち食い。この「吾ん田」という店のお握りは、種類も多彩で、ヒューマンな温かみがあり、味も壮麗で魅力的だが、単に球形に纏めただけという感のある柔らかい構築なので、片手のみによる立食形式には必ずしも適していない。

 お握り評論はともかく、今日は「東京芸術劇場シアターオペラVol,12」の、モーツァルトの「ドン・ジョヴァンニ」(セミステージ形式上演)の初日だ。
 総監督と指揮を井上道義、オケは読売日本交響楽団、演出と振付を森山開次、照明を櫛田晃代。歌手陣はヴィタリ・コシュマノフ(ドン・ジョヴァンニ)、三戸大久(レポレッロ)、高橋絵里(ドンナ・アンナ)、デニス・ビシュニャ(騎士長)、鷲尾麻衣(ドンナ・エルヴィーラ)、金山京介(ドン・オッターヴィオ)、近藤圭(マゼット)、小林沙羅(ツェルリーナ)、東響コーラス━━という顔ぶれ。

 今回は、ステージ中央に浅いオケ・ピットが設置され、演技空間は舞台前方および後方の階段を含めた特設舞台に設定されていた。この配置で演奏したオーケストラは、音がまとまってバランス良く響き、かなりの音量で鳴りわたっても歌手の声をマスクすることはない。
 また、舞台装置にも工夫を凝らしたのだろうか、これまでのこのホールでのオペラ上演におけるような、歌手の声がワンワン響き過ぎるという不具合(本来ここはコンサートホールなのだから、普通の場合はそれが長所になるわけだが)も消えていた。少なくとも、私が聴いた2階席正面最前列からは、そういう印象を得た。この巧みな吸音処理をついに実現させたことには、敬意を表したい。

 さて、本作の大きな特徴の一つは、森山開次によるダンスの挿入だった。ダンスは、近年の欧州のオペラ演出でも少なからず見られる手法である。そして、今回の舞台でも、音楽の視覚化という面において、これが大いに効果を発揮していたことは疑いの無い事実であろう。
 ドン・ジョヴァンニが闊達に己の信条を歌う「シャンパンのアリア」で、舞台が瞬時に明るく輝き、ダンサーたちが一斉に乱舞する手法は成功していたし、モーツァルトの音楽の明快なリズム感がいかにダンスとよく合うかをも実証していた。また第1幕フィナーレの中で、オッターヴィオ、アンナ、エルヴィラが重苦しい復讐の三重唱を繰り広げる時、背景で当のドン・ジョヴァンニが女性たち(ダンサー)にかしづかれている、といった「対比の光景」も面白いアイディアだった。

 ただ、それらのダンスは、もっと徹底的にドン・ジョヴァンニら登場人物の心理を視覚的に表現するのかと思っていたのだが、必ずしもそうでもないらしかった。実際にはあったのかもしれないが、私にはあまり明確には感じられなかったのである。
 「地獄落ち」のような超自然的な場面では、さらに強烈な、全曲のクライマックスに相応しいスペクタクルなダンスが展開されるのかと期待したが━━たしかにそこでは、悪鬼に扮したダンサーたちがジョヴァンニを赤いベルトで絡み、劫火に包む様子が描かれてはいたが、それはさほど目新しい趣向でもなかっただろう。
 とはいえ今回のダンスが、あのベルリンとスカラで上演された「指環」での、悪名高いギイ・カシアスの演出ほどにはしつこくなかったのは有難い。

 その一方、登場人物の演技という面では、演劇的要素には乏しく、さりとて様式的なものでもなく、やや中途半端なところもあった。ダンスの専門家が手がけた演出の、これが限界ともいうべきものだろうか。
 だがその中で、全曲の幕切れのシーンで「悪事の果てはかくの如し」とばかり、女性3人が男3人に引導を渡すかのような行動に出るというアイディアは、興味深かった。

 もう一つの特徴は、日本語上演である。敢えて日本語上演にしたのは井上道義の意向のようだが、相変わらず大半の歌手は、歌詞が聴き取れない。明確に聞こえたのはツェルリーナの小林沙羅、次いでマゼットの近藤圭くらいか。
 他の2人の女声歌手に至っては、字幕を見ない限り、歌詞が全く理解できぬ歌唱だったのである。これでは、わざわざ日本語歌詞にした意味は無いに等しいだろう。

 昔は日本語上演も多かったし、私たちもさほど違和感なく聴いていたものだが、字幕付き原語上演に親しむようになった現代では、やはり違和感がある。
 それは、歌詞と音楽とはもともと一体になったものであり、洋楽に日本語を無理に当てはめると、音楽そのものの流れがどうしても不自然になってしまうからだ。

 たとえば外国人2人の日本語歌唱(それ自体は上手い日本語だったが)に聞かれたように、日本語特有のなだらかな発音が、音楽そのものをもメリハリのないものにしてしまっていた。それはドン・ジョヴァンニの性格をも、奔放な自由主義者とか、破天荒な反逆児とかいったものでなく、何かヌメッとした、単なる女たらしのような存在に変えてしまったという結果を招いたのではないか? コシュマノフの意外な音程の悪さ(「セレナーデ」の個所など、唖然とさせられるほどだったが)も、このなだらかなリズムに慣れなかったせいだったのではないか?
 むしろ、いちばん日本語を明確に歌っていた小林沙羅の方がはるかにメリハリのある音楽をつくっていたように思えたのである。

 井上と読響の演奏は極めて確信的で、序曲冒頭のニ短調のドラマティックな第一撃からして緊迫感にあふれていた。モーツァルトの音楽の精緻なニュアンスへの配慮とともに、その力と量感、明朗さや魔性的な性格なども併せ再現した、シンフォニックな快演だったといえよう。
 第1幕の終り近く、「3つの階級」の者たちによる3種の舞曲が同時に響く有名な個所では、オケ・ピットの中でそれぞれが際立つように演奏されていたのも印象的だった。アンサンブルなどの細部にはオヤと思わせる個所もないではなかったが、そんなものは2回目の上演の際には解決されているだろう。
 ともあれ今回の演奏は、声楽とのバランスを含め、以前のプロダクション「フィガロの結婚」の時の演奏を、格段に上回る出来だったと言っていい。

 ただし全曲大詰め、「地獄落ち」のあと、人々が出て来るアレグロ・アッサイの部分を全部カットし、いきなり最後のプレストに飛んだのは、いかがなものだろうか? 
 確かにあのアンサンブルの個所は、「家に帰って食事しよう」だの、「新しい主人を探そう」だのという歌詞に見られるように、妙に日常的な要素が突然加わって来るという点で、ドラマの上で違和感がなくはない。
 その一方、このオペラの所謂「ウィーン上演版」は、地獄落ちの場面で終ることになっているが、そうするとザルツブルクのクラウス・グート演出のように、何となくちょん切れの印象にもなってしまうのも事実だろう。となれば、今日の上演でのやり方は、いわばプラハ版とウィーン版との折衷版とでもいうことになるか? 
 まあ、私としては、これについては「何だかなあ」という気持を抱いたままでいるほかはないようである。

 5時半頃終演。明日のびわこホール「ジークフリート」入門講座第2回講演に備えるため、直ちに品川駅へ向かい、6時27分の新幹線に乗り、夜9時頃には琵琶湖ホテルに入る。こちらは雪が降り続いていて、凄まじく冷える。明日の聴講の申込人数は160人とのこと。熱心なお客さんが本当に多い。

2019・1・24(木)ヤン・パスカル・トルトゥリエ指揮新日本フィル

      サントリーホール  7時

 モーツァルトの「コジ・ファン・トゥッテ」序曲、ショパンの「ピアノ協奏曲第2番」(ソロはクシシュトフ・ヤブウォンスキ)、チャイコフスキーの「交響曲第1番《冬の日の幻想》」。

 最初の序曲、新日本フィルが綺麗な音を出している。中型の編成ながら、たっぷりと厚みのある響きで、澄んだ美しさが好ましい。

 続くショパンのコンチェルトでは、ヤブウォンスキが━━先日のリサイタルの時よりはかなり強いアクセントを持つ演奏だったが━━やはりオーソドックスなスタイルで、安定した穏健なソロを聴かせてくれた。この人の演奏、決して悪くはないのだが、もう少し刺激的な(?)要素が欲しい気もする。ソロ・アンコールでの「革命のエチュード」にも同様のことが言えようか。

 「冬の日の幻想」は━━非常に主観的な問題になるけれども、冬のロシアの思い出は私には強烈で、それはモスクワとサンクトペテルブルクだけのほんの2都市だけの思い出に過ぎぬとはいえ、チャイコフスキーのこの曲を聴くと、常にあの冬のロシアの光景がまざまざと脳裏に蘇って来るのである。だが、今日のこのトルトゥリエと新日本フィルの演奏を聴くと、どうもそういうイメージが全く浮かんで来ないのだ・・・・。

 だからこの演奏は悪いと言っているのではない。演奏には、それぞれ「お国柄」というものもあるだろう。

 ただ、第1楽章だけは思いのほか平板な演奏で、緊迫感を欠いた流れのため、かなりの不満を残した。幸いに第2楽章以降は、音楽のエネルギーも持ち直したようであり、特に第4楽章のコーダは、盛り上げという点では見事なものだった。

 今日のコンサートマスターは西江辰郎。

2019・1・22(火)尾高忠明指揮大阪フィル東京公演

    サントリーホール  7時

 武満徹の「トゥイル・バイ・トワイライト」、ブルッフの「ヴァイオリン協奏曲第1番」(ソロは神尾真由子)、エルガーの「交響曲第1番」というプログラムを引っ提げての東京公演。

 音楽監督・尾高の指揮による大阪フィルハーモニー交響楽団の演奏は、すでにフェスティバルホールでも3回ほど聴いてはいるが、ここサントリーホールで聴くのは初めてになる。それゆえ━━最近とみに緻密なアンサンブルとなり、落ち着きのある安定した音になって来たこのオケが、こちらではどんな音を響かせるかも、私には大いに興味のあるところだった。

 まず何よりも最初の「トゥイル・バイ・トワイライト」の演奏が、実に素晴らしかった。寄せては返す波のように黄昏の輝きを繰り返しつつ次第に溶暗へ向かって行く音楽の流れが、かくもふくよかで多彩な音色の響きに満たされて再現されたこういう演奏は、めったに聴いたことがない。
 昔は「野武士」的なイメージのあった大阪フィルが、今はこのような繊細な演奏を聴かせてくれる。今夜のプログラムが、かりにこれ1曲だったとしても、満足感を以ってホールをあとにしただろう。

 ところが、2階センター席最前列に座っていた私の背後周辺は何とも静かなのである。振り返ってみると、僅かの人たちを除いて、ほとんど誰も拍手をしていない。黙って身動きもせず座っているだけなのだ。拍手をしているように見えても、実はおざなりに音を立てずに手を軽く動かしているだけである(これでは演奏者に称賛の音が聞こえないではないか)。
 はるか昔、未だ気の荒かった(?)時代の尾高さんが、時に聴衆が積極的な反応を示さなかった場合、「あなた方、どういうつもりで演奏会に来ているんですか、映画でも観に来たつもりでいるんですか、って言いたくなることがありますよね」と憤慨していたのが今でも記憶に強く残っているのだが、私の方はこのトシになっても未だに憤慨してしまうという妙な血気が残っているらしい。それでも、他のブロックからは盛んな拍手は聞こえていたが・・・・。

 ブルッフのコンチェルトでは、神尾真由子が官能的なほど表情の濃い旋律の歌わせ方で盛り上げてくれたため、アンコールの「カプリース24番」(パガニーニ)を含め、こちらは2階席からも相応の拍手が起こった。そして、尾高のスペシャルたるエルガーの「第1交響曲」でもその入魂の熱演と、熱心なファンのブラヴォーの歓声に釣られたか、これもある程度の反応が生れていた。

 それにしてもこのエルガーの交響曲は、まさに全身全霊をこめて音楽に没入する尾高の気魄といったものが如実に伝わって来るような快演だった。オーケストラの演奏にも、冷たく機械的な雰囲気など、全く無い。コンサートマスターは崔文洙。
 大阪フィル、好調なようである。5月定期にはデュトワを迎えるなど、企画にも面白い姿勢が窺われる。

2019・1・21(月)クシシュトフ・ヤブウォンスキ ピアノ・リサイタル

    東京オペラシティ コンサートホール  7時

 日本・ポーランド国交樹立百年を記念する「ポーランド芸術祭2019 in Japan」のオープニングコンサートとして行なわれたのが、このヤブウォンスキのリサイタル。曲目は全ショパン・プログラム。当初発表のものと多少変更にはなってはいたが、所謂メインストリームの名曲ばかりによるものだ。

 ヤブウォンスキの演奏は、とにかく柔らかい。近年は、ポーランドの若手にしても、とかく攻撃的なショパンを弾く人が多いようだが、彼のそれには、全体にまろやかな響きがある。もちろん最強奏では充分な力感を発揮するが、それでも決して「ぶっ叩く」ような演奏はしない。それだけに心安んじて聴けるショパンということにもなろうが、ただ時には、それが物足りなく感じられることがないではない。

 たとえば、第2部で演奏された「スケルツォ第2番」では、いかにも音に丸みがあって、刺激的にならぬ温かい情感も聴かれ、澄んだ叙情味が顔を覗かせる個所では、一瞬ドビュッシーを連想させるような表情も現われるほどだ。しかし、低音の強いアクセントが、突き上げるように追い上げつつ和声構築を変えて行くような個所でも、ヤブウォンスキは全体を丸い響きにしたまま、流れるように移調を続けて行く、とでもいったような演奏を聴かせるのである。このあたりが、少々メリハリを欠くようにも感じられて、物足りない思いにさせられる、というわけだ。

 そんなわけで、第1部での「革命」や「アンダンテ・スピアナートと華麗なる大ポロネーズ」などでも、それなりの壮大なスケール感は充分ではあったものの、何か一つ刺激に乏しい感を拭えなかった、という印象がある。もっともこれはあくまで、私個人の好みの話である。

2019・1・20(日)METライブビューイング「マーニー」

   東劇  6時30分

 ウィンストン・グレアムの小説を基に、ニコラス・ライトが台本を、ニコ・ミューリーが音楽を書いた新作オペラ。マイケル・メイヤーが演出、ロバート・スパーノが指揮。
 美女の泥棒マーニーにイザベル・レナード、社長マーク・ラトランドにクリストファー・マルトマン、その弟テリー・ラトランドにイェスティン・デイヴィーズ、2人の母親ラトランド夫人にジャニス・ケリー、マーニーの性悪な母親にデニース・グレイヴス、他。

 この「マーニー」のストーリーは、かつてヒッチコック監督がショーン・コネリーらの主演で映画化しているが、すこぶる面白い。金庫破りの常習犯マーニーを主人公に、今回のオペラ版では、その盗癖の心理分析なども織り交ぜられている。ラストシーンは何となく日本のテレビの刑事ドラマのようなパターンになっているが、まあ救いはあるだろう。

 なにしろ、イザベル・レナードがグレース・ケリーさながらの上品な美貌と来ているし、相手役のマルトマンもカツラをつけてショーン・コネリーもかくやの紳士ぶりだし、オペラの舞台というよりは昔の佳き時代のハリウッド映画を観ているような雰囲気を感じさせる(従ってMETの巨大な舞台で観るよりも映像の方が面白さは倍加しているだろう)。
 15回だかに及ぶというマーニーの衣装替え(衣装はアリアンヌ・フィリップス、大変な人気らしい)も鮮やかで、またこれが見事な着こなし。マーニーの分身たる4人の女性も美女ぞろいであり、彼女に付きまとう男たちもカッコよく、「現実と非現実とが交錯する」メイヤーの演出もセンスがいい。

 ただその一方、肝心のニコ・ミューリーの音楽がどうだったかと言われると少々困るのだが・・・・。ミニマル・ミュージックの影響をも受けつつ、色彩的な楽器編成で登場人物たちの性格を描き分けようという狙いもあったとか。それは充分理解できるとはいえ、━━終ってみれば些か印象が薄いという感は拭い切れない。

 字幕は極めて読み易く、要を得ている。これは昨年11月10日上演のライヴ映像。共同制作のイングリッシュ・ナショナルオペラでは、既に2017年11月に初演されている由。休憩1回を含み、上映時間は2時間50分。

2019・1・20(日)飯守泰次郎指揮新交響楽団「トリスタンとイゾルデ」

     東京芸術劇場 コンサートホール  2時

 アマチュアオーケストラの新交響楽団が、飯守泰次郎を客演指揮に迎えて取り組んだワーグナーの「トリスタンとイゾルデ」。
 この日は、第1幕への前奏曲、第2幕全曲、第3幕の第3場(マルケ王たちが到着する個所から「愛の死」まで)が演奏されるというプログラムだった。

 アマオケと雖も半世紀以上の歴史と、数々の名演の実績のある新交響楽団、そのレパートリーも非常に広いが、久しぶりに聴いたこのオーケストラのワーグナーものの演奏は、実に立派なものであった。飯守泰次郎の円熟の手腕による制御のもと、極めて情感の豊かな、あたたかみのある演奏を繰り広げてくれた。殊更に絶叫しない語り口が、低音に基盤を置いた厚みのある響きの中で、ヒューマンな「トリスタン」を聴かせてくれたのである。

 第2幕終結近く、イゾルデが「トリスタンの行く国に私もついて行きます」と歌う暗い美しさに満ちた個所で、ホルンが惜しくも音を外した。ここは「ブランゲーネの警告」の個所とともに私が全曲中でいちばん好きなところなのに、と落胆したのだが、実はその時になって初めて、「そう言えばこれはアマオケで、吹いているのはアマチュアの人だったのだ」ということを思い出したのであった。つまりそのくらい、このオケ全体の演奏は見事だったのである。

 ━━批判しているのか、褒めているのか解らないような書き方になってしまったが、もちろん褒めているのであり、そのホルンのミスなど、全曲の演奏の中ではわずかな瑕疵でしかない。事実、全曲の掉尾を飾る「愛の死」における演奏などは、そのやわらかさと情感の豊かさにおいて、いかなるプロオケをも凌ぐほどの、素晴らしいものだったのである。━━こういう演奏は、もちろん飯守泰次郎の指揮でこそ、可能となったはずだ。

 歌手陣はオーケストラの後方、舞台奥に位置し、「警告」シーンのブランゲーネのみはオルガン横の高所で歌った。1階席中央後方で聴いた範囲では、その舞台奥の配置が適切であったかどうかは一概に断じ難い。
 イゾルデの池田香織、トリスタンの二塚直紀、ブランゲーネの金子美香、クルヴェナルの友清崇が充実した歌唱を聴かせてくれた。

 池田香織のイゾルデはもはや定番というべきもの。二塚直紀のトリスタンは以前に飯守指揮関西フィルの演奏会(2016年7月15日)で聴いて以来だが、力と美しさを備えた声だ。
 ただ、マルケ王を歌った佐藤泰弘には、もっと正確な音程と、丁寧で細かいニュアンスをこめた歌唱表現を望みたい。今日のような歌唱では、野卑で投げやりなマルケになってしまう。
 その他、メーロトに今尾滋、牧童に宮之原良平、舵手に小林由樹が出演。それぞれ出番はわずかだったが手堅く責任を果たしてくれていた。

2019・1・18(金)山田和樹指揮読売日本交響楽団

     サントリーホール  7時

 今月、山田和樹が読響を指揮した3つ目の演奏会。
 今日は、首席客演指揮者たる彼の定期への初めての登場になるとか。演奏されたのは、諸井三郎の「交響的断章」、藤倉大の「ピアノ協奏曲第3番《インパルス》」の日本初演(ソロは小菅優)、ワーグナーの「パルジファル」第1幕前奏曲、スクリャービンの「交響曲第4番《法悦の詩》」という、これまた意欲的なプログラムであった。

 このプログラミングの巧さには感心した。つまり、1928年に作曲された諸井三郎の「交響的断章」では、ドイツ・ロマン派的な色彩を根底に置きつつ、冒頭にはスクリャービンの作品を思わせるトランペットなどの響きと、祈りの歌にも似たコラールが聴かれ、これらがワーグナーとスクリャービンの作品を予告し、また「パルジファル」の神秘的な音楽が次の「法悦の詩」の神秘主義の音楽を引き出す、といった設計が感じられるのである。
 そして前半では、藤倉大の新作と、日本のクラシック音楽作品の古典たる諸井三郎の作品が対になる━━。
 まあ、それらが意図されたものだったかどうかは別として、実に巧く並べられているな、と舌を巻いた次第なのである。

 山田和樹のワーグナーを聴いたのは、もしかしたらこれが初めてかもしれぬ。興味津々だったが、実に面白い━━というのは、彼がこの荘重な「パルジファル」の前奏曲を、いかにも彼らしく、開放的で明るい音楽に仕立てていたからである。これほど太陽の光をいっぱいに浴びたような「パルジファル」の音楽も稀だろう。音量も実に大きい。もしこれが全曲上演の前奏曲として演奏されていたとしたら、このあとの静寂な「舞台神聖祝典劇」をどう展開したらいいのかと思えるくらい、ダイナミックなつくりになっていて、微苦笑をも誘われたのだった。

 一方、流石に堂に入った演奏で圧巻だったのは、最後のスクリャービンの「法悦の詩」だったのではないか。作曲者が重視した色彩感を前面に押し出し、熱狂と法悦の昂揚へ息の長いクレッシェンドで華麗に盛り上げて行くその呼吸は、見事というほかはなかった。トランペット群も、この日の大活躍に加えて、更にその総仕上げを飾ったような形である。

 話題を集めていた藤倉大の新作の「インパルス」に関しては、そのオーケストラの色彩の美しさと、小菅優が演奏したピアノの眩いばかりの技巧の鮮やかさに舌を巻いたが、音楽の詳細について感想を述べるのは、もう一度細部を詳しく聴き直してからにしたい。
 彼の作品は、考えてみるとこれまでかなりたくさん聴いているのは事実だが、それらは概して小品ばかりであり、昨年の話題のオペラ「ソラリス」は、残念ながら都合で聞き逃している。ともあれ、いつだったか、現代作品ばかりを集めて演奏されたコンサートに関する日記の中で、「今日演奏された作品の中では、やはり藤倉大の作品が一歩も二歩も先んじているだろう」と書いたことがあったが、彼についてのそういう思いは、今も変わっていない。

 山田和樹の指揮、読響の演奏、その両者もやはり傑出したものである。

2019・1・17(木)モンテヴェルディ:「ポッペアの戴冠」HP

      いずみホール  5時

 19日午後の本番上演も、18日午後のGPも残念ながら観られないので、せめて今日のHP(Haupt Probe)だけでもと思い、とんぼ返りで観に行く。帰りの新幹線に乗る時間のために、残念ながら第2幕までしか観られなかったのだが、これはなかなかの力作であった。

 このプロダクションは、昨年2月に急逝した礒山雅氏を中心にいずみホールで進められて来た「古楽最前線!躍動するバロック 中世・ルネサンスを経ての開花━━初期バロックまで」というシリーズの第5弾、モンテヴェルディのオペラ「ポッペアの戴冠」のセミステージ形式上演である。
 このホール得意の手法で、ステージ中央に渡邊順生指揮のオーケストラを配置、オルガン下の高所のスペースと、その手前に特別に設置したステージ等を演技空間に使い、必要最小限の演技を展開するといったやり方だ。今回の演出は高岸未朝。

 歌手陣はすこぶる多彩である。顔ぶれには、石橋栄実(運命の女神他)、鈴木美登里(美徳の女神)、守谷由香(愛の女神)、望月哲也(ローマ皇帝ネローネ)、加納悦子(追放される皇妃オッターヴィア)、阿部雅子(強引に皇妃に納まる女ポッペア)、藤木大地(ポッペアに想いを寄せる騎士長オットーネ)、山口清子(オットーネに想いを寄せるドゥルジッラ)、斉木健詞(ネローネを諫めたため自決に追いやられる哲学者セネカ)、岩森美里(ポッペアの乳母アルナルタ)、櫻田亮(オッターヴィアの乳母ヌトリーチェ)ほか多数が並ぶ。

 リハーサルの段階であれこれ云々するのはルール違反なので、詳細は控えるが、とにかく歌唱を含めた演奏は極めて充実しており、モンテヴェルディの円熟期のオペラがいかに劇的で、雄弁な表現力を持つかが充分に表されている(もしくは表されつつある)と言っていいであろう。
 第1幕の幕切れ近く、皇帝ネローネと哲学者セネカの激しい応酬では、斉木健詞の強靭なバスの威力もあって、息詰まるほどの迫真感を生み出していたし、またそのセネカを排除すべくポッペアが偽りの話を並べ、ネローネを煽る場面のオーケストラも、単純な手法ながら不気味な緊迫感を生み出していた。19日の本番までには更に練り上げられることだろう。

 字幕は正確で、実に懇切丁寧だが、極度に内容が詳しいため、読むだけで手いっぱい━━という感がなくもない。

 それにしても、ネローネ(ネロ)もネローネだが、ポッペアという女は━━言語道断にけしからぬ女だ。

2019・1・15(火)大野和士指揮東京都交響楽団

     東京文化会館大ホール  7時

 大野&都響、この日はA定期。ブゾーニの「喜劇序曲」、マーラーの「少年の魔法の角笛」 から5曲(ソリストはイアン・ボストリッジ)、プロコフィエフの「交響曲第6番」。コンサートマスターは矢部達哉。

 先日の定期と同様に一癖あるプログラムで、大野と都響の企画担当者たちの自信と意欲が窺われる。━━ただ、ブゾーニのこの小品は、かなり調子のいい(?)軽快なものだが、音楽としては、聴く機会を与えてもらったことだけは有難いと思えるような作品だ。

 プロコフィエフの「第6交響曲」も、シリアスさとユーモアと、それに粗暴さも加わった「おかしな」曲だ。大野と都響の演奏は真摯なものだったが、しかしこの曲はやはり、相応以上の多彩な音色の変化や、派手な演出を加味した演奏でないと、この長さ(40分以上)を持ち堪えるのは難しいのではないか。
 かつてラザレフが日本フィルを指揮して大見得切った演奏を披露した時には、聴衆も沸いたものだ。それに比べると今日のは、些か生真面目に過ぎようか。いや、真面目が悪いと言っているのではない。もしかしたらこの演奏は、残響の豊かなサントリーホールで聴いたら、もう少し異なる印象を得たかもしれない。

 マーラーの歌曲集では、「ラインの伝説」「魚に説教するパドヴァの聖アントニオ」「死んだ鼓手」「少年鼓手」「美しいトランペットの鳴るところ」が歌われた。ボストリッジは綺麗な声で歌ってくれるし、それはそれでいいのだが、しかし「死んだ鼓手」のような曲では、マーラーが音楽に籠めた絶望、希望、憧れ、悲痛さといった感情の微細な変化を、さらに明確に歌い分けて欲しい気もする。ボストリッジの歌唱は、その辺がどうも淡彩になる傾向がある。
 ただ今回聴いた席が2階正面1列目で、ここは視覚的には理想的ながら、音が少々「遠い」。ボストリッジは叙情味の濃いテナーだし、本来はニュアンスの細かい歌い方をする人だから、この席の位置から歌唱がどうだとかを断定するには危険だろうと思われる。
 大野のオーケストラ制御は流石に巧い。「死んだ鼓手」におけるような大編成の管弦楽パートは、指揮者が巧く鳴らさないと、声をマスクしてしまうことが多いのだが、オペラ座で経験を積んだ大野は、そのあたりを実に見事に構築してくれていた。

2019・1・12(土)ロレンツォ・ヴィオッティ指揮東京交響楽団

      サントリーホール  6時

 池袋での読響の演奏を聴き終って、赤坂のサントリーホールへ向かう。こちらは正月早々の「レクイエム」だが━━これは東響の定期演奏会。故マルチェロ・ヴィオッティの子息で、まだ20代後半のロレンツォ・ヴィオッティが客演指揮。森谷真理、清水華澄、福井敬、ジョン・ハオ、東響コーラスが協演。コンサートマスターは水谷晃。

 ロレンツォ・ヴィオッティ、すでに欧州の歌劇場では実績を重ねている気鋭の指揮者だが、すこぶる凝った表現を採る人だ。総休止を極度に長く取り、デュナミークの対比を劇的に強調し、弱音で沈潜する個所ではテンポを大きく落して苦悩の感情を━━叩きつけるように激しく囁く発声なども含めて━━強調する、といったように、かなり表情の濃い演奏をつくり出す。

 それらはまあ、調理法の一つともいうべきものだが、それによる肝心の料理の味はどうだったかということになると、私にはどうも、いつものような「美味しさ」が感じられなかったのである。細部をあまりに念入りに強調する作りにしてしまうと、かえって作品全体における自然な流れや、壮大な構築のバランスを失わせることが多いものだ。策に溺る、ということか。聴き慣れたこの曲が、今日は異様に長く感じられてしまった。
 「怒りの日」のような個所で、合唱(凄まじい大人数だった)と管弦楽が全力で咆哮する時にも、音楽全体の響きが混濁してカオス(混沌)状態になってしまった感もある。これはもちろん、指揮者の責任だ。
 毒気に当てられたせいか、作曲者名を書くのを忘れ、コメントでご指摘を頂戴した。これはヴェルディの「レクイエム」である。

2019・1・12(土)山田和樹指揮読売日本交響楽団

    東京芸術劇場 コンサートホール  2時

 恒例の早稲田大学オープンカレッジのオペラ入門講座━━今回のシリーズは「オペラのクライマックスにおける手法」で、第1回の今日は「愛」というテーマ━━での講演を終って池袋に駆けつける。
 この日の読響は「土曜マチネーシリーズ」だ。首席客演指揮者・山田和樹の指揮により、ラヴェルの「高雅で感傷的なワルツ」と「ピアノ協奏曲ト長調」(ソロはホアキン・アチュカロ)、リムスキー=コルサコフの「シェエラザード」というプログラムが演奏された。コンサートマスターは小森谷巧。

 カラフルな性格を備えた作品を手がけては天下一品の山田和樹だし、今日の3曲でもそういう個性は多かれ少なかれ発揮されてはいたが━━。「高雅で感傷的なワルツ」での演奏は意外に地味で生真面目で、もう少し輝きと多彩な音色が欲しいところ。もっともこの曲には、もともと一筋縄では行かないという性格もあるだろう。

 続くコンチェルトでは、86歳の巨匠アチュカロの、何とも温かいヒューマンな味に富むソロがすべて。アンコールで弾いたスクリャービンの「ノクターン」とともに、こういう人間味あふれる演奏を聴かせてくれるピアニストは、今や稀有の存在である。

 「シェラザード」では、読響の音響的威力が効果を発揮したが、小森谷のヴァイオリン・ソロは、正確ではあるものの、千一夜の物語をシャリアール王に語るシェエラザード姫の口調としては、もっと色気というか、艶めかしさが必要なのではないか?

 アンコールは、アザラシヴィリの「ノクターン」という曲。私は初めて聴いたのだが、まるで20世紀中盤以前のミュージカルか何かのナンバーのように、極度に甘美なメロディに溢れた曲であった

2019・1・10(木)大野和士指揮東京都交響楽団

    サントリーホール  7時

 これは定期演奏会Bシリーズ。
 シェーンベルクの「ヴァイオリン協奏曲」(ソロはパトリツィア・コパチンスカヤ)と、ブルックナーの「交響曲第6番」。最近の日本のオケでよく試みられるようになった、意欲的なプログラムの一例と言えるだろう。コンサートマスターは山本友重。

 ブルックナーの「6番」では、大野と都響の最近の好調ぶりを如実に示す、揺るぎのない造型力にあふれた快演が聴けた。第1楽章で、主題のモティーフが2小節ごと、あるいは4小節ごとに1組になって移行して行く整然たる構築なども、実に明快に再現されていた。

 一方、前半のシェーンベルクの協奏曲では、ソリストのコパチンスカヤの演奏が凄い。これだけ強靭な集中性を示した演奏は、滅多に聴けるものではないだろう。
 作風において調性への回帰が見られると言っても所詮シェーンベルクはシェーンベルクなのだが、今日の彼女の演奏では、曲全体に、よい意味での瑞々しい旋律性を感じさせていたところも驚きだ(もちろん、「甘く」してしまったという意味ではない)。
 こういうプログラムの場合、ふつうなら熱狂的な拍手はブルックナーの方に起こるものだが、今日はそれよりもこのシェーンベルクでの、コパチンスカヤの演奏の方に爆発的なブラヴォーと拍手が集中するという、珍しいケースが見られた。
  →(別稿) モーストリー・クラシック4月号 公演Reviews

2019・1・8(火)山田和樹指揮読売日本交響楽団

    サントリーホール  7時

 山田和樹がこの2週の間に首席客演指揮者として読響を振る3つの演奏会、その最初のものがこれ。
 今回は、サン=サーンスの長く壮大な「交響曲第3番」(オルガンは室住素子)を冒頭に置き、第2部はラロの「チェロ協奏曲」(ソロはニコラ・アルトシュテット)で洒落た味を出し、最後を豪壮華麗なレスピーギの「ローマの祭」で締めるというプログラミング。コンサートマスターは長原幸太。

 「3番」では、綿密な造りの前半2楽章と、豪壮な後半2楽章の対比という、山田和樹の巧みな設計に基づいた指揮が効果を発揮した。もっとも、演奏会の前半でこのようなクライマックスが築かれてしまうと、こちらのペースがやや乱れてしまう向きがなくもないけれど。

 ラロのこの「チェロ協奏曲」をナマで聴いたのは、何十年ぶりかになる。第1楽章のあの物々しいモティーフを聴くと、何だか懐かしい気持に引き込まれる。第2楽章でチェロがフルートの「珠を転ばす」ような音型と交流する個所も、録音で聴くよりナマで聴いた方が、両者の楽器の距離感により面白い効果が味わえるのではなかろうか。
 アルトシュテットは、昨年ハイドン・フィルハーモニーと来日した時の指揮とソロで聴いたばかりだが、今回は何かマイペースで弾いているような闊達な雰囲気で、ややあっさりした演奏ではあったものの、愉しめた。
 演奏と同じようにきびきびしたステージでの身のこなしで、カーテンコールで出て来るたびに、トップサイドの奏者の頭越しに手を差し延べてコンマスの長原に握手を求めるという動作が、慌ただしくて、何となく可笑しい。
 アンコールでは、その長原との掛け合いで、ピッチカートで応答し合うシベリウスの「水滴」という不思議な小品を演奏してくれた。2人で顔を見合わせて何故かワハハと笑ったくだりも演奏の一部と考えれば、実にユーモアたっぷりのステージであった。

 「ローマの祭」は、山田和樹の念入りな演奏設計と構築の巧さ、オケを煽り立てる呼吸の見事さに加え、読響の上手さ(客演のホルン・ソロは別としてだが)と豊富な大音量と、その色合いの多彩さが印象的だった。4つの祭のそれぞれの特徴を際立たせた演奏は、幕切れは何となく勢い余った感もあったが、とにかく胸のすくような趣があったのである。
 バンダのトランペットは2階客席センター通路の下手側で咆哮していた。そして、アンコールの「ウィリアム・テル」の序曲からの「スイス軍隊の行進」でも、最初のトランペットをそのバンダに吹かせるという演出が面白い━━ティンパニとの絡みはズレズレの響きに聞こえたが、これは両者の距離ゆえで、仕方がない。
 それにしても山田和樹という人は、現時点では、やはりこういったラテン系のレパートリーに強みを発揮しているように思われる。

2019・1・7(月)ピエタリ・インキネン指揮プラハ交響楽団

      サントリーホール  7時

 このチェコの名門オケは、少なくともこの10年の間に、イルジー・コウト(2008年1月13日の項参照)、ズデニェク・マカル(2010年1月14日の項)、ピエタリ・インキネン(2016年1月18日の項)、ペトル・アルトリヒテル(2017年3月16日の項)ら、いろいろな指揮者と来日して、その都度異なる表情を聴かせてくれている。
 そのうち、2015年からこのプラハ響首席指揮者を務めているインキネンは、わが国では日本フィルの首席指揮者としておなじみだが、その他にも2017年秋からザールブリュッケン・カイザースラウテルン・ドイツ放送フィルの首席指揮者にもなっている。

 今日は、第1部では樫本大進をソリストにブラームスの「ヴァイオリン協奏曲」が、第2部ではチャイコフスキーの「第5交響曲」が演奏された。
 ただし前半のアンコールで、樫本とインキネンがヴァイオリンのデュオを披露、バッハの「2つのヴァイオリンのための協奏曲」の第2楽章をオケの数人のメンバーと一緒に演奏した上、チャイコフスキーのあとにもドヴォルジャークの「スラヴ舞曲」の「第10番」と「第8番」を演奏したので、終演は9時半近くになった。

 インキネンとプラハ響、あまり重くなく、引き締まった音で真摯に作品と取り組む演奏である。しっとりとして瑞々しい、端整な表情は、このコンビでの前回の来日の際に聴いたのと同じ特徴だ。
 ブラームスの協奏曲では樫本大進も伸びやかなカンタービレを効かせたが、彼もやはりベルリン・フィルのコンサートマスターらしく端整な傾向のソロなので、明るいが生真面目なブラームス像の再現とでもいう演奏になっていただろう。第2楽章のオーボエ・ソロ(女性奏者)は素朴な趣ながら、なかなか美しかった。

 一方、チャイコフスキーの交響曲でも、フォルティッシモは力感豊かながら決して威嚇的にならず、どこかに温かい雰囲気を感じさせる。
 チェコのオケと北欧人インキネンの若々しい気魄とがどう調和して、どのような良さが生れるか、という点にも注目したが、チェコのオーケストラ特有の素朴な落ち着いた味や、郷土的な色彩感といったものは、この演奏からはほとんど失われていた。とすれば、その代りに何が生れているかが最大の問題なのだが、厳しい見方かもしれないけれども、この演奏を聴いた範囲では、その辺はどうも未だよく判然としない。
 一方のインキネンにしても、むしろ指揮者に従順な日本のオーケストラ━━この場合は日本フィルだが━━の方に、彼の特質をストレートに反映させ得ているのではないかという気もする。

 ホルンの首席はちょっと変わった楽器の持ち方をし、「第5交響曲」第2楽章のソロをいとも楽々とダイナミックに吹き上げ、ティンパニ奏者はすこぶる芝居気のある身振りで、じわりと楽器を叩く。2人とも、演奏し終るとリズムに合わせ首を大きく振るなどして音楽に乗り、気合充分の様子を見せていた。

2019・1・6(日)大植英次指揮日本フィルハーモニー交響楽団

      東京芸術劇場 コンサートホール  2時

 大植英次が客演指揮したこの正月の演奏会は、日本フィルの「第226回サンデーコンサート」。プログラムは、外山雄三の「管弦楽のためのラプソディ」、竹澤恭子をソリストにメンデルスゾーンの「ヴァイオリン協奏曲ホ短調」、ブラームスの「交響曲第1番」と。コンサートマスターは客演の田野倉雅秋。

 外山雄三の「ラプソディ」は、作曲されてから間もなく50年になろうという曲だが、相変わらず演奏頻度が高い。
 大植は、ソーラン節の個所をゆっくりしたテンポで演奏したり、拍子木の最後の音符と「八木節」との間に大きな掛け声を入れたり、以前からいろいろ指揮に趣向を凝らしている。とはいえ、演奏会の冒頭でのこの大騒ぎは、聴衆にしてみれば少々ノリにくかったような雰囲気が感じられた。

 竹澤恭子が弾くメンデルスゾーンの協奏曲では、所謂流麗さとか甘美とかいった趣きとは対極的な、例えばスラーの位置を判然と区別して弾いて行くようなアプローチで、音楽にある種の造型的な鋭さと厳しさを付加して行く演奏が印象的だ。こういうスタイルは、以前にも誰だったか女性奏者の演奏でも聴いたことがあるけれども、この作曲家の中の反ロマン的な要素を浮き彫りにするという点では、すこぶる興味深い手法に違いない。
 正直なところ、聴いていて少々落ち着かぬ気分にさせられる演奏ではあるが、聴き慣れた曲が新鮮な刺激を満載して響いて来る、という楽しさはある。

 ブラームス。第1楽章序奏の第80小節からのオーボエなどを大きくリタルダンドして引き延ばすなどといった「大植節」があちこちに現われ、それは私には、曲全体の大河のような壮大な流れを阻害するように感じられて、些か辟易させられるところがなくもなかったが、曲の中盤から後半にかけてはそれも気にならなくなった。特に終楽章の頂点では、日本フィルのどっしりした緻密な響きが見事な結果を生んでいたと思う。

 竹澤恭子が弾いたソロ・アンコールは、バッハの「無伴奏ヴァイオリンのためのパルティータ第3番」からの「ガヴォット」だった。
 一方、オーケストラのアンコールは、また「ラプソディ」の、幕切れの景気のいい「八木節」の部分。大植の合図を受け、今度は1階席の客が何と全員総立ちになり、手拍子でノリまくった。よくこれだけノッたものだ。おなじみの民謡で、年輩のお客さんが多かったためもあるのだろうか? 打楽器奏者たちが法被に着換えて威勢よく楽器を叩いていたのが、何となく日本フィルらしい。
 なお昨年の暮近く、日本フィルがやはり大植英次の指揮で韓国に演奏旅行した際、これをやってやはりお客が総立ちでノリまくったという話を聞いたが、当節の国際情勢の中で、興味深いことではある。

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